◎兵頭二十八net私塾「読書余論」09-4月期 34 ▼福田一郎『続 潜水艦』S18-6-30、河出書房  著者はM31-12海兵卒、大11-12少将。大12-3予備役。  水上艦の見張員は、潜望鏡を認めたときは、「右30度」とか「左115度」とか、艦首よりの方向を報告する。  WWIで独潜は5000本の魚雷を発射。命中は半分にすぎず。しかし無航跡魚雷だったら8割は当たっただろう、と。  最初の水中聴音機は、艦尾曳航式だった(p.6)。  最初のアクティヴソナーはフランスのランジュバン式。  米フィスク少将いわく。敵の侵略からフィリピンを守るには、機雷と潜水艦と空軍で十分。要塞はいらない(p.13)。  水中に向かっての大砲射撃はほとんど無効。平頭弾はWWI前からあるが成績は不良。  英軍のロングレンジの爆雷は円筒の両端がドーム状である。  独潜が撒いた磁気機雷は、一英軍青年士官が命がけで分解して解明した。  防潜網の網目は1m。一張りは長さ100m、深さ35m。これを船から引っ張るのは「捕獲網」という。燐化石灰のブイをとりつけ、夜間はその自動着火によって捕獲を知る。  駆潜艇はWWI中にアメリカが考え出した。木製60トン。18ヵ月に400隻を作って仏沿岸や地中海へ。海洋には全然未経験な米国の大学生たちが操縦した(p.19)。  防潜網は、英はトローラー船、ドリフター船によって敷設したが、のちに専用の敷設網艦という特務艦をこしらえた。  英のQシップは囮船。商船のように見せかけ、船内には木材を満載して不沈とし、端艇を偽装カバーとした大砲を装載し、船尾には爆雷を並べ、油断して浮上接近してくるUボートを返り討ちにする。わざと蒸気を放出したり、乗員が皆慌てて船を見捨てて逃げ去るが如き演技もした。勲章を授与するとき、新聞には何の手柄かは書かれなかった。  ASWのアイディアをWWI中の英国は全国民から懸賞付きで募集した。  ドリフター船は867隻、Qシップは77隻、トローラーは849隻、英潜は65隻、沿岸用モーターボート68隻などが投入されている。※トローラーは第二特務艦隊にも貸し出されている。捕獲網を装備したのかどうかは不明。多分装備したろう。  喪失独潜の3割は機雷にひっかかったものである。  機雷堰の繋維機雷は、水面から深度90mまで、数珠つなぎに2〜数個の機雷をワイヤーでつなげて、そのひとつにひっかかれば上下全部爆発するようにしておく。水面にはブイが出ており、敵がどこにひっかかったか夜でも分かるような装置をしておく。  アドリア海のオトラント海峡は幅は英仏海峡の2倍、深さは3000フィートもあったので機雷や流し網が効かない。潮流もないため簡単に抜けられた。  ドーバー〜カレーの機雷堰は有効だった。10列も設けた。機雷で沈んだ独潜の大部分がここ。  爆雷は1916の終りになって登場。1917-1の1週間の生産高はタッタ140発。1917末には800発。駆逐艦1隻が当初は4発づつ積んだ。1918初には40発。  商船も数千隻が武装した。大砲は日本とフランスから供給した(pp.48-9)。  ついには商船もパラベーンを装備した。  独潜は372隻が投入され、178隻が沈没。自爆14隻。機雷で44隻。爆雷で38隻。敵潜の魚雷で19隻。囮船で12隻。飛行機で6隻。衝突で15隻。大砲で16隻。網で6隻、それぞれやられている。  商船の武装は野戦軍の武装と競合してしまうのでなかなかはかどらなかったが、1917末にはほぼすべての商船にいきわたり、サブの浮上砲撃は不可能となった。  開戦直前、英の砲術権威者スコット将軍は、戦艦無用、潜水艦万能論を唱えた。  開戦翌月に、たった400トンのU9が大戦果。3隻の英装甲巡洋艦を1時間のうちに3度の雷撃で沈めた。この事件のあと、英軍艦が数隻で行動中に雷撃されたときは僚艦は救助をしないで逃げろという命令が出された。※兵員輸送船であったなら、逃げてよいわけがない。被雷した兵員輸送船を放置して逃げた軍艦はないはずである。二特の自慢話はここが不正確だ。  ※ちなみにUの次にダッシュはつけない。つけるのは米国式の表記で、独式としては正確ではない。  青島包囲に参加したトライアンフは、ガリポリ沖でU21に沈められた。防禦網を展開していたが、魚雷はその網を突破した。  仏軍令部いわく。独潜は1917中、367回もアドリア海を出入りした。そのうちただ1隻だけが我等の潜水艦によって失われたのみ。  ロシアに赴くキッチナーを乗せていた巡洋艦ハンプシャーは独潜の機雷で沈んだ。  1917には戦艦コーンウォールズ、1918には戦艦ブリタニアが独潜に沈められた。  潜水艦の速力を艦隊行動に合わせるため、不利を承知で英は大型蒸気潜水艦まで建造。  通商破壊の正しい手続き。まず無線、信号、汽笛で停船を命ずる。応じないときは空砲2発、ついでその船上を越えて実弾1発。それで止まらなければ砲撃して止める。士官が乗り込み、積荷や書類を検査する。これが臨検。ついで拿捕。  独は宣戦と同時にその相手国の港に潜水艦で機雷を撒く主義。※まさに真珠湾の特殊潜航艇の発想に引き継がれている。  ドイツは1915-2-15に米国からの猛抗議をうけて通商破壊をどうするかの討議。このとき首相は、海相および軍令部長がその会議に出席することを阻止した。※これがドイツの統帥一元。  1917にスエズ運河を通る英国船は平時の4割に落ち込んでしまった。1918-1において、英本国に工場と工員は揃っていたが、鉄鋼を運ぶ商船の不足のために砲弾製造が目標に達しなくなった。  アメリカから欧州に派遣されたシムス提督の著書いわく。英国新聞が発表していた商船被害は実際の1/4〜1/3であった。1917-4時点で英国は、このままだと物資途絶で敗北だと観念していた。英輿論も、1917-11-1(つまり冬到来)までに屈服しそうだという雰囲気。  英機雷は1915夏時点では良いものがなく失敗。ようやく1916に新式機雷が完成した。  独は潜水艦を無駄遣いした。ロシアが活動をやめたバルト海に1917末まで5〜8隻を展開し、コンスタンチノプルにも3〜4隻を展開していた。地中海は潜水艦戦の余地が大だったけれども、潜水艦根拠地の修理能力を超えて潜水艦を送り込んだ。これらすべてを英国周辺に集中すればよかったと反省。  スコット提督はWWI前に警告。戦争の目的を達するには敵の最弱点を攻撃する。我が弱点は、石油と糧食を輸入しなければならぬ点に存する。フィッシャーも強く警告。  ところがチャーチルら文民は、ドイツも文明国のはしくれなのだから無制限潜水艦戦などやらないだろうと予断していた。  WWI前、「我が海軍大学校の某教官」は、潜水艦を「跛で眇で聾の不具者が正宗の銘刀を帯ぶるが如し」と軽蔑(p.149)。逆に英国のスコット中将は、潜水艦が戦艦を駆逐したと断言。  ワシントン会議の英国全権の一人、リー海相いわく。WWIでは軍隊輸送に対しては潜水艦は何等の効力を有しないことを示した、と。  しかしWWIで沈んだ英国戦艦15隻のうち5隻は潜水艦にやられたのだ。補助艦船815隻が沈んだがそのうち潜水艦によるものが35%だった。  潜水艦の普及によって、艦隊は防備完成せる港湾でなくば碇泊することができなくなった。また海上では常に高速力を強要されることに。乗員も昼夜、警戒が必要なため、疲労が倍加。  以後、英国は、機会あるごとに潜水艦全廃を主張するようになった。  ワシントン会議では、仏が英と互角の9万トンの潜水艦枠を主張して譲らなかったので、米国が発議して潜水艦の数量制限を見送った。  ロンドン会議での日本の提案。英米は潜水艦を81000トン〔もしくは9万でも〕持て。日本は〔相対比ではなく絶対所要量として〕78000トン〔もしくは7万トン〕持つ、と。  ワシントン会議時点での実勢は、英82000トン、米94000トン、日本34000トンであった。しかし戦艦を制限されて発奮したので、ロンドン会議の時点では、艦齢が若く、しかも大型(1000トン以上)の潜水艦の数量において、日本は米国をずっと上回っていた。その現有勢力を、海軍では必要最小数だとした。  しかし若槻は、米が主張する3国均等52700トンを呑んでしまう。25000トンを減らされたわけ。  米主張の52000トンにはからくりがあった。すでに78000トンも保有している日本は今後は1隻の新造も許されず、毎年、13年の艦齢に達した老朽艦を除籍していかねばならないので、条約満期の11年目には、日本の全潜水艦が艦齢13年の老朽艦となる。すなわち、その時点で米英は、潜水艦の全廃をあらためて提議して日本に押し付けようという肚だった。  ロンドン会議の米全権顧問のプラット大将いわく。潜水艦の攻撃目標となる艦船は米国の方が日本より多い。よって日米の潜水艦数を対等とし、その数値を少なくすればするほど、米国が有利になるのだ、と。  1929に英潜H47が深さ50尋のところに沈没。二十余尋のところに潜水夫を送ったら潜水病で死亡した。  米潜S51が沈没したときは、艦底の泥を水圧で除去してワイヤーをかけるだけで2週間もかかった。このあと米国は全国から救難の妙案を公募し、数々の装備が誕生した。  日本の第43潜水艦のときも、ワイヤー掛け作業だけで13日かかった。※艦中央付近に応力桁と構造的につながったリフティングアイを数箇所、つくりつけておいたらよいではないか。薄い整流板を螺子留めして。  先年、英潜ポセイドンが威海衛沖で汽船と衝突し、沈没。深さ20尋。乗員53名中、13名は救助され、6名は遭難後4時間以内に脱出したが、うち2名はついに死亡した。このとき、アクアラング式の救命器(浮嚢付き)が初めて使われたのである。  接続型救助器。S15-5-23にポーツマス沖、深さ240呎に沈没した米潜スクオラスから、生存者33名を救助することに成功。同年6-1に英潜テーチスは本国沖で、また6-15に仏潜フェニックスはカムラン湾で沈没。  伊63潜水艦は、豊後水道・速吸瀬戸の水深97mにS15-2-2に沈没。引揚作業した佐世保鎮守府の司令長官は嶋田。作業指揮官は椛島少将。S16-1-22にようやく引き揚げられた。  ※なぜ保科善四郎はS15-10-15に山本から潜水艦戦の研究をやれといわれて、それがすぐ撤回されたか。山本は保科に水死されては困ると思ったのだ。  双胴の救難船を独はWWI中に2隻もっていたが、聯合軍に引渡された。  日本海軍は、潜水艦クルーを初期10年間は全員志願者で構成。酒とタバコをたしなまぬ者に限った。  独はWWIに400人の潜水艦長を有していたが、敵に与えた戦果の6割は、そのうち22人によって挙げられたのだ。水上艦と違い、潜水艦のパフォーマンスは、艦長ただ一人にかかる。  ※独潜の活躍の紹介がいささか熱狂的すぎる。この風潮はワシントン条約以後に帝国海軍をおおっていたのだろう。山本五十六も独潜の活躍物語に影響されていただろう。そこでいったんは有能な保科善四郎に潜水艦戦の研究をさせようとしたのだ。  大正13-3-19、伊43は龍田と衝突して佐世保軍港外に沈没。上と電話が通じていたので最後の瞬間まで生き残りと交信された。兵員室天井の電話浮標は、不幸にして浮揚せず。  月月火水木金金は、日露戦争直後の標語(p.227)。  日本の潜水艦隊は、じつはWWIIまで実戦経験がなかった。青島のときは準備だけで出撃中止。大4の21ヵ条要求のときは全艦隊がシナ恐喝のため出動したが、潜水艦だけはおいてけぼり。 ▼ジョン・ガンサー著『アメリカの内幕』S40-8、鹿島研究所出版会訳  初版1947。1951改訂。人口20万以上の都市43のうち38をまわった。900名と会談。  初版は英国でよく売れた。  本書に対していちばん腹を立てた都市はヒューストンとタルサ。州ではニュージャージー。※腐敗州と指摘された。ヒューストンは後述で事情が分かる。  1947にはマーシャルプランはなく、フォード、アル・カポネ、パーシング将軍はまだ生きていた。翌年にトルーマンが再選されるだろうとも思っていなかった。  1950に北鮮がしかけた朝鮮戦争は、「史上最も不愉快な戦争の一つ」。  トルーマンが提出した1952年度予算の68%が軍事予算。4年前には想像不可。  高潔なディーン・アチソン国務長官がマッカーシーから罪人よばわりされるとは。  アメリカ政治の良き概観書なら、ブライス以後は皆無。  インドのハイデラバードの西にゴルコンダというダイヤモンドの都が16世紀にあった。  いま合衆国は全世界の半分の電話をもっている。年間35000人が交通事故で死ぬ。  280万人の菜食主義者がいる。  独立宣言には「共和国」という言葉はない。米憲法には「民主主義」も「国民」も出てこない。  世界一裕福なのに、国民健康保険はない。  WWIIのとき徴集された者のうち4割が身体上兵役に不適格として除かれ、12%以上は精神病患者で、230万人以上が精神上不適格とされた。  いまも300万人くらいの成人が、全然学校教育を受けていない。3割の家庭に、なんと水道がない。  1950には結婚3組ごとに1組の離婚があった。  5人に1人は禁酒家。  1946に、傷痍軍人用義手義足の価格固定と改良阻止の謀議のかどで33社が有罪と宣告された。  DCには5つの異なった警察隊がある。その住民は投票権を与えられていない。なぜなら米国人の投票権は州に由来し、DCは州ではないから。  ファシズムや共産主義がもし米国に入るなら、どの州より先にカリフォルニアだろう。人口は1000万人を超えた。大卒者は全米一多い。農産物と航空機生産で米国筆頭。  セントラルバリーが農産資源の宝庫。  最初の13州を除くと、自然境界をもった唯一の州。  国道99にはほとんど曲がり角無し。  州議事堂はロスとサクラメントにある。  1947旱魃で水力電力が枯渇。  中西部から老人がながれこんだので平均年齢が高い。州人口の1/9は外国生まれ。  総人口の8割は大都会にいる。州人口の半分はロスとシスコ。  かつて独立共和国だったことあり。これはバーモント州と似る。テキサスは10年間も独立していたが、カリフォルニアは数週間。  アリゾナ州とは水をめぐって喧嘩状態。  テキサスは知的には真空状態。  オルダス・ハクスレー、トーマス・マンは、カリフォルニアには住んだが、フロリダには見向きもしなかった。  WWII中に軍需工業労働者の流入がすごかった。航空界のゴールドラッシュ。ロスは飛行機のデトロイトになった。  1846の対メキシコ戦争は、史上最も低劣かつ冷酷な戦争。これで領土として奪った。  住民のなかに、イギリスの保護領になろうという運動もあった。オレゴン国境紛争を抱えた英国はそれを煽った。  カリフォルニアに移民列車が到着しはじめると、奉天やワルワルに起こった事件の現代版が起きた。  西部諸州のうち、加州だけが、準州期間をもたない。いきなり一人前。  カーネイという文盲のアイルランド人が1870年代にアメリカはじまっていらいの急進勤労者党を創立した。1879に加州憲法。1日8時間労働制を確立。  鉄道会社はしばしば自ら法律をつくった。スタンフォードは鉄道会社社長で、上院議員になるため10万ドル使った。  鉄道建設を奨励し、公有地をできるだけ早く有用な私有にするため、連邦はすべての鉄道会社に対し、沿線の巨大な土地を無償で提供した。パンパシフィック鉄道は今でも加州最大の土地オーナー。  ハイラム・ジョンソンが1910に知事になるまで、加州は鉄道会社が支配した。ジョンソンは直接予選制を導入することで、組織票を不可能にした。ジョンソンがギャング討伐にのりだしたとき、特別検事は法廷で射殺された。  ジョンソンは上院議員となり、ウイルソンとFDRを病的に嫌悪した。  加州人はみな奇跡を深く信仰している(p.17)。  西部出身上院議員にとり、JPモルガンと英帝国は同義語。旅行をせず、まったく地方的。東部の上院議員は、海外のことになると自由主義=干渉主義となる。  米国の各地の時差は州境に一致していない。  なぜシカゴでなくスプリングフィールドが、ポートランドでなくセーレムが、ウィルミントンではなくドーバーが、シアトルではなくオリンピアが州都なのかは欧州人には謎。  知事は自身の内閣を選任しない。州最高法務官が敵対党員であることはよくある。副知事、財務長官、外務長官は別個に選挙される。いくつかの非公選職の任命権は知事にある。クリーブランド、ウィルソン、クーリッジ、ふたりのルーズベルトは、知事から大統領になった。  48州のうち27の知事は任期4年。のこりは2年。ニュージャージーだけ3年。  南部の州では、再選の前に去勢期間を置かねばならない。この規則はごく初期につくられた。  ネブラスカ以外の州はすべて2院制。  41州では議会は隔年にしか開かれない。議案が少ないから。  各州議員は、サラリーのための本業が別にないと、暮らしていけない。多くは弁護士、商人、農業。  南部では警察さえ文官制度ではない。新任知事は、政治的に任命して全然あたらしい警察隊を組織することができるのだ。カリフォルニアは違うが(p.23)。  加州では弁護士はたいてい共和党員。  どんな種類の法案でも、一定数の請願人が裏書きすれば、人民の単なる投票で法律となり得る。  故大統領の長男のジェームズ・ルーズベルトが加州民主党の指導者。彼は1932に禁酒法撤廃貫徹のために立ち上がり、人気が出た。  トルーマンが1948加州知事選で成功するとは誰も思っていなかった。  本書時点でリチャード・ニクソンは、反米活動委員会で有名な下院議員。  サンキストは、大規模な販売業者組合が登録した商標。  加州では在郷軍人会が強い。赤化さわぎの発信源であり、また土地を追われた日本人排斥運動の急先鋒。  加州人はつねに引っ越しているので不動産業者も重要。  ハーストは加州人。サンフランシスコ・イグザミナーが本家。1951にはマッカーサーを支持した。加州にはNY州やワシントンDCよりも多くの国家公務員がいる。  1950にジミー・ルーズベルトを破って知事になったウォーレンは、1951-1就任演説で民間防衛を熱く語り、第三次世界大戦はシナの韓国干渉に続いて起こると示唆。彼の父は鉄道工夫で、数年前に殺された。  チフス菌をまきちらして騒がれたメリーという患者がいた。  1942時点では、かつて共産主義者だったことがあると立証されれば、国外追放され得た。  終戦後、全国的な海員ストあり。  ブリッジズは、朝鮮戦争に対する激しい反対が国家の安全を危険に導いたとの罪で、数週間投獄された。  カリフォルニア大学は戦後、共産主義を完全追放した。  シスコは高層ビル。ロスでは低く広く建てる。面積では地球上最大の都市。  シスコは黄金と鉄道と港。ロスは石油と不動産。より道徳的なのはロス住民。  VJデイのとき、シスコでは3日間、窓破りと商店強奪が起きた。  ロス市条例で禁ずること。市街電車の中から兎を狙い撃ちすること。ひとつの浴槽で同時に2人の赤ん坊を入浴させること。路上で蛇を売ること。  ハリウッドはロスの一部だが、ビバリーヒルは違う。  水は電気を意味し、それは清潔な産業を意味する。ダグラス、ロッキードの工場からは、煙は立ち上らないのだ。これがシスコである。ロスには対称的にスモッグがある。  ロスには町のボスが一人もいない。シスコは世界第二のメキシコ人の都市。  シスコの「南京町」は2万人で、シナの外では最大のシナ人社会(p.41)。  電話交換手は6つのシナ方言を知っていなければならない。氏名別ではなく町別の電話帖しかなく、交換手が頼み。  シナ人は最近までほとんど共和党に投票した。それはジョン・ヘイに恩義を感じていたからだ。しかし今では民主党化した。  外国人である1世の日本人は45000人、アメリカ市民たる2世は8万人いたが、全部が1942初めに出た軍令によって、家から追い出され、強制収容所へ。  これは西海岸の事件だった。「国内の他の地方では、大抵の日系米人は敵意ある干渉を受けなかった。そして大西洋岸地方の敵国人は理由のないかぎり抑留されなかった」(p43)。  市民は個々に人権を持っており、集団的起訴によって罰せられることはないという古来の原則は、明らかに侵犯された。  1944、陸軍は、少数の者を除いて退去者全部を1945-1-3以後に釈放することに決定した。  度し難いほど日本に忠誠を表明した4000人が、けっきょく日本へ送還された。  日本人を競争者として憎んだのは、園芸業者、野菜栽培業者。  映画産業などで高給をとるものは、高税政策のニューディールを憎んだ。しかし大金を稼ぐことに潜在的な罪悪感があるので、左翼的なものを寛容して、やましい良心をごまかした。  ザナックは共和党派だが『ウィルソン』を製作した。  映画脚本家組合SWGは、いちばん強力な組合。  FDRが任命した、戦争映画製作の監督者はドナルド・ネルソン。ネルソンはシナの国内戦争を見聞していたので、選ばれたのだという。その後、ジョージア州の下知事のエリス・アーナルと交替した(pp.46-7)。  プロバンス地方を訪れる英国人は気が狂ってしまうという。A・ハックスリーは加州の日光にあたりすぎて神秘主義者になった。  銀貨の自由鋳造をフリー・シルバーという。  アプトン・シンクレアは貧乏人の味方で、未耕地に重税をかけろと主張した。  新興政党は大会入場料をとって運営費にする。  合衆国には363の都市があるが、サンディエゴは、フェニックスの次に清潔な町だ。  加州の原油生産は、米国内総生産量12億1325万4000バレルの2割。加州には112箇所の油田があり、油井は2万ある。その採掘寿命はあと15年だろう(p.53)。  1859にペンシルベニアで石油が掘られていらい「獲得の法則」が生きていて、隣の土地所有者が地下の油を吸い上げるのを座視したくなくば、こっちも負けずに採油するしかない。  加州の原油1バレル=42ガロンからは、オクタン価の高い航空機用ガソリンが0.5ガロンとれる。これでP-40は20秒飛べる。  蒸留過程で次に出てくる普通のガソリン18.4ガロンは、自動車を時速30マイルで9時間15分走らせる。  重油は10.2ガロン、軽油は6ガロン。  また、耕耘機が2時間30分動く灯油が2.4ガロンとれる。  潤滑油は1.2ガロンとれる。  「原油1バレルは、最初は1ドルで売られる」  WWIIには、60億バレル以上が消費された。そして全米の油井はあと20年で枯渇するだろう(pp.53-4)。  ハロルド・イッキーズは、FDRに対し、北米の大陸棚で石油を掘りまくれと提言。1945秋以降、連邦、州、私人が、沿岸海底油田の潜在所有権をめぐって闘争した。  石油業者のポーレーを海軍長官候補にするスキャンダル発生。けっきょくポーレーは、上院の認証を必要としない陸軍長官の文官特別補佐官になった。  加州には戦後数年、黒人がたくさん流入。  多くの地主は、日本人たちが引き払った土地に人手を補うために黒人をあてた(p.57)。  1788にノースカロライナから「フランクリン州」が分離した。同州憲法は、医者、伝道者、法律家は衆議院にはなれない、とした。  サンペドロは世界最大の人造港である。  モルモン教徒がひらいたユタ州は全国でいちばん品行方正。となりのネバダにはローマンカトリック多し。  レノ市にはWWII中、夜間に外出禁止時間が設けられた。  ネバダには小売販売税、法人税、州所得税、相続税がない。代わりに財産税と賭博収入への1割〜2分の課税がある。鉱山地方から賭博を追放できるものではなかった。  賭博をドル銀貨でおこなうと、かさばりすぎて大泥棒がやりにくい。  1951、ベガスから70マイルの沙漠で、原子力委員会が11日間に5回の核実験。その光は4つの州で見られた。また灰が300マイル先のロスアンジェルスに降った。翌日にはニューヨークのシエネクタデイに放射性の雪が降った。  米大統領の任期を2期に制限したのは、トルーマン時代。  ネバダには1939以前で最もゆたかな金銀鉱山あり。1859発見。  1873までは金の価値が銀の16倍と決められていた。どちらも米国の法貨だった。  NYのウェストポイントに膨大な銀塊が死蔵された。銀ブロックを結成する上院議員たちは法定銀価ひきあげにより、1946、メキシコ、インド、シナの通貨を崩壊させた。  1950の国内安全保障条例。共産主義者の米国再入国を禁止する。元共産党もダメ。  ワシントン州ポートエンジェルスは全米一多雨。  加州のインディアンは未開で非生産的だったが、北西部インディアンは高い文化を持っていた。  オレゴンは28年間、英米の共同統治下にあった。所有権の理屈の歩は英国側にあったが、ポーク大統領が喧嘩腰に迫ると、英国は明け渡した。米国人はフロンティアがなくなっていて、戦争をしたくてたまらなかったのだ。このときのスローガンが「54-40度線か、さもなきゃWar」。  ワシントン州は1909に婦人参政権を実施。WWII中にはいちどもストなし。  オレゴン州はKKKが強い。ブントもいる。北部の都市としてはいちばんひどい黒人排斥が聞かれる。FBIは同州が「在米ナチ勢力の大中心地」と睨む。しかしユダヤ人知事を選出した。  オレゴン州の地名はどれもニューイングランド系。比較してワシントン州のヤキマ、タコマ、スポーカン、ワラワラはどうだ。ワシントン州にはスカンジナビア人が多いので進歩的。  ポートランド市の性病罹病率は全国2位。市刑務所では酔っ払いが殴られてよく死ぬ。材木商が最大のカネモチだ。  シアトル市は、ピュージェット湾と、ワシントン湖の中間の丘陵帯。シアトルの自殺率は最高。交通違反の歩行者はすぐ逮捕される。  シアトル市では1860年代、婦人不足。そこで東部から「マーサー女子挺身団」がやってきた。折りよく、南北戦争未亡人がいた。  オレゴンの在郷軍人団は共和党機関の大黒柱。AFLでも赤いと思われており、CIOは暴動集団とみなされている。  1941の加州教員の平均給与は2201ドルだった。オレゴン州は1286ドル。  オレゴンでは、投票所の投票用紙を書くところに、各候補者が12語以下のスローガンを展示することがゆるされている。  ルーファス・ホルマンは共和党員で、あらゆる国防法案に反対投票した上院議員。  モースは酒類業者とCIOからの献金を拒絶した。タフト・ハートレー法のときは10時間2分の引き伸ばし演説をした。ちなみにレコードは1908のラフォレットの18時間演説。  グレン・テーラーは1945-10-24に上院で処女演説し、「上院は世界共和国の創設を支持することを記録に止めるべきである」と。1946にはトルーマンに手紙を書いた。政府の外交を批判した咎でヘンリー・ウォレスを罷免したのだから、同じ理由でマッカーサー元帥とウェデマイヤー中将の辞表を要求受理すべし、と。  アイダホは最大の銀生産州。ポカテロには銃砲の裏付工場あり。ベンド・オレーユには国内第二の海軍訓練所。モスコー市はインディアンのMasco族からとられている。  最大宗派はモルモン。しかし教徒は州知事になれない。  アイダホには、羊飼いのバスク族居留地あり。ピレネーの分家。  コロンビア河の電力が、シアトルのボーイング工場を可能にした。WWII中の米国航空機の1/3にあたる3万機を生産。また同じ発電所がハンフォードのプルトニウム工場を操業させ、長崎原爆ができた。河の水温も〔パイルの冷却のため〕すこし上昇した。デュポン社が運営していたために、1945初夏に人々は、特殊な毒ガス爆弾がつくられていると想像した。  ボンヌビル発電所は工兵隊が建設し、陸軍が運営する。その電気局は内務省管轄の連邦政府機関だ。  太平洋岸のチヌーク鮭。ボンヌビル・ダムは両端の周囲に溯上路を設けた。鮭が飛び出さないようにちゃんと12フィートの高さの垣あり。石油タンカーはパスコまで遡行する。  グランドクーリーダムの重さはピラミッドの3倍。これだけのコンクリートが冷え切るまでには80年以上かかる。ドニエプル発電所は50万KWだがこっちは140万KWだ。1942-6完成。※つまりテネシー河以外でもつくりまくっていた。  1920に、副大統領候補の選挙運動中だったFDRに、技師オサリバンが巨大多目的ダム構想を語った。いま、シアトルの電力料金は全米の最低。  アメリカの農場の63%には未だに電気がない(p.105)。アメリカの都会生活者はまだ1万人に1人の割合。400万のアメリカ農場はいかなる種類の電化もされていない。  Covumbia Valley Authority はもちろんTVAを模範とした。  小麦が育つ冬の間、ちょうどいいだけの積雪がなくてはならず、しかもそれは小麦が冬枯れするほど寒くなってはいけない。雹は絶対にいけない。取り入れ前の豪雨も壊滅的である。地形に起伏がないと、火災で小麦は全滅する。セルロイドのようによく燃える。だから落雷も致命的で、長い緑の防火帯がつくられる。  昔は馬泥棒は絞首刑であった。  小麦はスペイン人が移植した。小麦価格は1932に最低価格に落ちた。  種蒔きの時期により、秋小麦、冬小麦、春小麦という。すべて、夏に収穫する。取り入れは6週間続く。全米の3/4は冬小麦である。春小麦は、冬霜や夏の熱風に弱いというリスクあり。  羊は小麦の切り株を食べる。囲いの中で育成できないので牛より手間がかかる。羊の群れはバンドという。  ダグラス樅が挽材までに育つには80年かかる。ポンデロサ松だと140年。  1938から莫大な木材軍需あり。  森林所有者は、理想的には、1年に全面積の1/80だけ伐採するわけ。しかし一挙に伐採してその土地を捨てれば、年々の課税を免れることができる。こうして土地が荒れた。  全米の森林の1/3は国有。  コロラドは西部の中の西部。  リトルビッグホーンでシッティングブルに殺された人々を埋葬した男が1946-8に96歳で死んだ。  西部の田舎では他人に頼らず生きるのが通念だったが1930'sの恐慌でそれは不可能になった。  西部移民は、勇敢でも進取的でもなく、貧乏に押し出されてやむにやまれず流れてきた移動農夫。  ブローガン教授の指摘。カナダでは一度も対インディアン戦争はなかった。米国西部では人々はすぐにインディアンに対して暴力に訴えた。  貧乏なワイオミング州が、一人当たり自動車数が最多。  西部は食物までも東部から買わねばならない。水銀の92.1%は西部で採れる。  国民投票、リコールは、西部が起源。  アメリカ政治では、既得の利己的利益がすべて。だからニューディールと自由主義も両立。人々は拒否するために投票する。  郡保安官〔カウンティシェリフ〕選挙は知事選挙より注目される。最も利得が多い公職だから。  短い草が生える線が牧牛の線。「部隊」の意味のoutfitは元牧牛用語。  ワイオミングは1896から婦人参政権あり。婦人知事も最初に出した。  モンタナでは7月に降雪あり。米国最低気温記録もあり。  西部のポピュリズムは禁酒論。賃金をアルコールに変えてしまうことに、自由主義者と婦人が憤った。  西部ではカトリックとユダヤの勢力は弱い。黒人問題ほとんどなし。  西部の諸大学には、最高級の教授はほとんどいない。ひきとめられない(p.123)。  モンタナは日本より大きい。  WWII中の飛行機工場は日給14ドルだった。坑夫は7ドル75セント。  人口の減少は殆んど例外なくその社会を保守的にする。  都会ではチェーンストアが、古い個人商店を追い出した。田舎も都会も無個性な一つの型にはまり、安っぽくなり、独創性を失った。  小麦商売は盛衰が激しく、1年おきに金持ちになったり裸になったり。だから生活を安定させたくば牛も飼っておく。  モンタナはながらくアイダホの一部で、主産業は毛皮。1850に流行が変わり、シルクハットを被らなくなったので毛皮貿易は打撃をうけた。  金掘りは移動する600トンの巨大マシンで露天掘りしつつ、水と水銀で処理。  グレートフォールズの空港には女の憲兵。  モンタナの田舎には、犬用の肉を生産する馬の農場と、朝鮮人のレタス栽培者あり(p.131)。  ビュート市の女子はWWII中、シアトルでリベターになった。  WWII直後、全米で住宅不足。ビュート市のみ例外。※つまり戦後のアメリカは途方も無く好景気。  銅鉱業のアナコンダ社は全米で最も秘密主義の企業のひとつ。頂点の法則。鉱脈の頂点を所有するものは、その地下鉱脈が広がっている限りを所有できる。  労働市場の競争がいやなので、アナコンダは河川の電力開発に反対する。それをやればアルコアのようなアルミ工場が進出してしまうからだ。  1946初期、アナコンダは連邦から訴追された。粗悪な品質の電線ケーブルを、公収検査をごまかして、英米軍のために輸出したという廉で。損害賠償額162万6000ドル。しかしこのスキャンダルはモンタナの地元紙にはまったく報道なし。  このようなド腐れの環境だが、マイク・マンスフィールド下院議員のような清廉な自由主義者もいる。  クウェーカーの靴屋の息子、バートン・ホイーラー上院議員は、リンドバーグのようにドイツが戦争に勝つと考え、勝つ側にかけようと望んだ。1920'sにホイーラーは合衆国がソ連を承認するよう訴えた。1939いらい、ドイツと日本に対する宥和主義の巨頭。戦後は反ソに転じた。  アメリカのファシスト団体「銀シャツ」のウィリアム・ペレーは反乱煽動罪で収監された。  モンタナには3つの大陸横断鉄道が走るので鉄道組合が有力。  トム・キャンベルはノースダコタの貧農のせがれで、両親の辛苦を軽減せねばと、ノースダコタ大の機械工学部の最初の卒業生になった。WWI中にモンタナに移住。巨大小麦畑を経営した。ロッドウィーダーで雑草を抑え、列間距離を大きくとる。土地は一年交替に、120馬力トラクターで耕す。播種は機械で昼夜連続。1エーカーの小麦を1人が14秒で収穫できた。  キャンベルは第一次五ヵ年計画中にスターリンから招かれて面会した。ソ連は機械化した農業を導入したがっていた。キャンベルは顧問技師になった。WWII前のソ連国内には9000万頭の馬がいた。キャンベルは、一足飛びに機械化を焦るロシア人に対し、まず馬を使う近代的な方法から学べ、と諭した。キャンベルは12年間在ソし、ソ連農夫はトラクターを十分持つに至った。これなくしてソ連戦車の大量生産&大量使用など不可能だったろう。その人材を育成したのだ。  あらゆるアメリカの不況が起こったのは、商工業界が産物をできるだけ安く買おうと努めたからである。  モンタナには、ベルリン空輸の模擬練習を行なうための空路がある。アメリカで一番地震が多い。  TVAのミズーリ版がMVA。今日ミズーリ河は陸軍工兵隊と開拓局の共同管理下にある。両者とも連邦機関。  開拓局は灌漑に目的があり、河川上流を担当。工兵隊は航行と洪水防止に目的があり、下流で仕事をする。ミズーリの下流を担当した士官、ルーウィス・A・ピックが、WWII中にシナのレド公路を建設した。  もし90のダムをつくるとすると10億2000万ドルかかるだろう。しかしそれはマンハッタン計画の半額でしかない。  クレイトン法によると、ある鉄道にかなりな財貨を売った理事は、その鉄道に留任することはできない。  ユタ州の善良なモルモン教徒は喫煙しない。酒、茶、コーヒーも飲まない。香辛料は禁じられてないが、禁じられているという伝説がある。  堕落したモルモン教徒をジャック・モルモンズという。  モルモン教徒はなぜか長命である。自称は、ラター・デイ・セインツ。そしてユタのことはザイオンと呼ぶ。アリゾナ、ワイオミング、アイダホにも勢力がある。  教徒は討論術の訓練をうけている。  洗礼はすぐ行なわれ、人々は汚点のない履歴をもって出発する。  モルモンの制度は、フリーメーソンの真似だ。しかしメーソンはモルモン教徒の加盟を嫌がる。  参拝者が特別な階級でないかぎり殿堂に立ち入ることができない。  モルモン寺院は世界に8つしかない。ハワイとカナダを含む。  信者は収入の1/10を喜捨する。献金の収支は決して詳細に報告されない。  教育熱心度でユタは全米3位。  徴兵記録によれば、梅毒率は全米で最下位から二番目だった。最下位はウィスコンシンで、検査1000人中64人が不合格であった。  婦人は教会で地位をしめることはできず、マーク・トウェインは、これに似ているのはプロシア軍隊だと言った。  1820のNYには信仰復興運動あり。ジョゼフ・スミスという農家の少年が目覚めた。スミスは大統領に立候補し、1844に暴徒に殺された。そのあとをブリガム・ヤングが継いで、ソルトレークシティを建設。17人の妻を娶った。  カチコチに凍ったインディアンの首を医学資料用に切断するのに25分かかった。※なぜか外科的に首の切断面が貴重であったらしいことは、吉村昭の『細菌』にも見える。  モルモンは、神は生身の人間だと信ずる。  集会所に十字架はない。祭壇も司祭もない。寺院は日曜日は閉鎖される。離婚は許可される。既に死んでいる先祖も神殿で代理的に洗礼を受け、天国に行ける。  重婚制によってオールドミスはいなくなった。しかし連邦の強圧をうけて、1890年代にこの風習を止めた時点で、それを実行していた男は、全信徒の3%だった。  現在は連邦憲法に従う主義であって、もし一夫多妻が判明すればその男は破門される。  ユタを州に昇格させる代わりに、連邦は、モルモンに重婚をやめさせたのだった  ルーベン・クラークはフーバー政権の国務次官で、極右の孤立主義者として1919の国際連盟加盟に反対した。  ルーズベルトの最初の陸軍長官だったジョージ・ダーンは、ユタ州の最初の非モルモン教知事だった。またバンベルガー知事はユダヤ人だった。  美徳は、アメリカの政治においてすら、それ自身の酬いを得る時もある。  ニューディール信奉者は1950'sの反共時代に人気を失った。  ユタ州選出の上院議員エルバート・トーマスは、宣教師として日本で数年を過ごしたことがあり、日本語を話す。トルーマンは最近、落選したこのトーマスを、太平洋の信任統治諸島(旧日本領)の高等弁務官に任命した。  ソルトレークシティとオグデンは、アメリカの大陸横断鉄道の7割が通る分岐点。  コロラドにはモリブデンが出る。結核の療養にいちばん効くのは高地ではなく静養だということが発見されてから、結核患者がコロラドに来なくなり、経済が悪化した。  アメリカには1万4000フィート以上の山が65あり、そのうち51がコロラド州内にある。最も高いスキー場も。  コロラドのユート族は、征服されたことはない。だからコロラドでは「インディアン」という単語は聞かれない。  石炭埋蔵量では合衆国一。デンバーは世界最大の釣針生産地。  七面鳥は小麦畑の中からキリギリスを見つけ出して食う。  幌馬車時代、郵便局と雑貨店のある村は食っていけた。自動車が普及すると、廃村。  コロラドでの獣猟では、勢子はサイレン付きの小型飛行機である。また作物の種子も、弾丸のように丸めて飛行機から投下する。  WWII中、金や銀鉱の採掘が禁止されたため、セントラルシティは滅びた。  フィリピンの独立を援助したのは、国内の大砂糖製造業者であった。完全な外国となればその砂糖に関税がかかり、価格競争のライバルが減るからである。  WWI後のKKK運動の拠点は、オレゴン、インディアナ、そしてコロラド。  コロラドにはガイガー計数管でウラン鉱を探す山師がいっぱいいる。ダウケミカル社はデンバー北西のロッキーフラッツに巨大原子力工場を経営する予定。  デンバーではイエローキャブは緑色。自給自足度の高い都市なので活気はない。  デンバー将軍も、政治家ダラスも、個人として忘れられ、都市名として不滅。  ワイオミングとコロラドは、長方形州。  ワイオミングには、「オクタン価の低い石炭」が出る(p.182)。  主産業は羊。その脅威は、合成繊維と、さいきんこの国に入ってきたハロゲトンという毒草。また豪州羊毛やアルゼンチン牛肉も。  匿して持っていない限り、銃所持は自由。外国人は、羊の見張りをする場合のみ、銃を公然と携帯できる。  キーフォーバー犯罪委員会の委員であったドクター・ハントは一生に一滴も酒を飲んだことのない上院議員。  州首都のたった二つの、まったく正反対の立場の新聞を、同一人物が経営するという現象は、米国でのみ見られる。米国の実業家が排他的党派人であることは稀なのだ。  ログローリング=議員の馴れ合いは、州法で禁じられている。  ハーディング内閣の腐敗閣僚はハリー・シンクレアらに海軍保存分の油田を貸し下げてやり、莫大なキックバックを得た。戦時契約でちょっとしたいんちきをする者はいるが、国家の天然資源を私したのはティーポットドーム事件ばかり。この事件以後、私人への公有地払い下げは厳重に監視されるようになった。  WWI中の自由公債額面1ドルを、農夫は1930'sに半値で売り払った。大旱魃と風とミズーリ河と略奪農業が、両ダコタの表土を運び去った。  北ダコタ州民の4割はノルウェー人かスカンジナビア人。3割はドイツ人か独系露人。ドイツ人をひきつけるためにビスマルク市が建設された。州人口は漸減中。にもかかわらずWWII後のヨーロッパ避難民受け入れ運動に州民は強く反対した。  南ダコタは大草原地方の中心。雉の天国。WWII中には小銃弾が国内で出回らず、州外民から取る狩猟税の収入が激減した。平年なら猟期に7万5000発は発射される。雉はもとはシナから来た。  しかしダコタの西部は不毛地で、兎、ガラガラ蛇、肉食鳥しかいない。  南ダコタの粘土をガンボーという。この地方のスー族と1890に戦ったJ・パーシングは1848に死んだ。  国道34号ハイウェイは69マイルの直線区間を誇る。  ネブラスカは平らな河を意味する。ルイジアナの捨て子とよばれ、インディアン居留地にすぎなかった。ネブラスカとカンザスには奴隷問題はない。移民はドイツ、スカンジナビア、チェコスロバキアから。  ウィスコンシンとネブラスカが最もドイツ人がいる。  ウッドロー・ウィルソンは彼ら孤立主義者を共和党員にし、禁酒法は彼らを民主党にした。WWII中にドイツ人に目立った不忠誠はなかった。  WWI中はドイツ語新聞が影響力があったので、外国語学校と外国語新聞は法律で禁じられた。この措置は1941〜45には取る必要はなかった。  鉄道会社は、無料パスを配れば、どんな議員も買収できた。そのため州憲法で州会議員が鉄道無料切符をうけとってはならぬと定めた。ネブラスカには上院はない。下院のみ。  ミネソタとネブラスカでは、議員は所属党を標榜しない。つまり共和党vs民主党の対立はない。  ネブラスカでは法案討議はかならず公開でなされる。そして特別に民意を聞いたうえでなければ、費用の嵩む公共事業は企てられないことに決めている。  ネブラスカ州は米国最初の電力公有の州。  米国の地理的中心はカンザス。その意味は、南風の人たち。  小銃のことは「牧師の聖書」と言われた。  南北戦争後、旧連邦軍人なら、カンザスで誰でも160エーカーの土地を持つ権利が与えられた。  トピカ市にはいまでもジムクロウ劇場、つまり黒んぼ劇場がある。  メノン教徒は北ドイツとクリミアからきた。投票に無関心。  州は猛烈な禁酒。  エンドレスのタオルに反対する大運動もあった。  ひとたび農作物価格が急落すると、カンザスとアイオワの農夫は、現秩序に怒りを燃やす反対者になる。  カンザス州内でロシア国旗を揚げることは反逆罪となる(p.210)。  アチソン町の巨大石灰石洞窟には核戦争が起きそうなときに5万トンの食糧を冷房付きで貯蔵できる。  ウィチタのボーイング工場には最盛期に52000人が働いた。デソトのサンフラワー兵器廠はロケット用火薬を製造。WWII中、同州には一度のストもなかった。  1948についに禁酒法が否決された。残るドライ州は、ミシシッピとオクラホマだけ。  ジョン・プリンクリーは選挙にラジオを使った最初の煽動政治家。  小麦は9月に種をまくと、翌年夏の刈り取りまですることがない。収穫後に銀行に借金を返す。しかし農閑期に怠けるとよくないので、豚、羊を飼い、大豆や飼料草を栽培する。牛は麦の芽が出るときまで放牧される。小麦は初期に牛に食われると逆に作柄が良くなる。  中西部とは、ミシシッピ河とその支流域を指す。しめった黒土が厚く堆積する。南部の土は赤、ニューイングランドは石まじりの砂地だ。  内陸のスーペリア湖に、アメリカで二番目に大きな港がある。ここへ通じる運河は、パナマ運河とスエズ運河を合計したよりも多くの貨物が通航する。ハッチャー教授いわく、もしWWIIのときこのスー運河の水閘が破壊されたら、アメリカは勝つことはできなかっただろうと。1942の1年間だけで、鉄鉱石が9000万トン以上スー運河を通った。※日本海軍はパナマ封鎖しか考えず、五大湖運河など眼中には無かった。他国の地理に無知だと洵に情けないものである。  ミシシッピは河口が逆に狭くなり、そして深くなる。ディケンズは1840にそこを訪れた。  中西部の農村の少年は、生まれながらの機械工である。  ヘンリー・フォードはかつて「人造牛」の話をして、人に笑われた(p.220)。  リンドバーグの最大の関心事は、人造心臓をつくることであった。  中西部は変化に対してどこよりも強く抵抗する。  英国の一史家いわく。合衆国はヨーロッパ文明の単一にして最大の成果である、と。  米国の自慢は、移民の子供に授業料のいらない初等教育を提供したこと。  シカゴはミラノの次にイタリア人が多い都市。かつまた、ワルシャワの次にポーランド人が多い都市。いまでも2/5のシカゴ市民は、家では英語は使わない。  シアーズ社は毎年2回、電話帳くらいのカタログを700万部も発行する。  インターナショナルハーベスター社、アリスチャルマー社、ジョンディーア社などトラクター&農機具メーカーは中西部にある。  シカゴ大学の近くには堂々たるユダヤ人だけの地区がある。  水泳場は油質である。  清教徒気質と住宅不足のために、連れ込み宿としてモーテル、ツーリストキャンプが発達した。  南部の黒人が大挙して北上したのがWWI後のこと。農業が機械化するとますます多くの黒人が南部から追い出された。  北部の黒人の方が南部より保障されている。差別と隔離はあるがそれは南部のように法律によってではなく慣習によっている。  召使階級の出と、南北戦争前に解放されていた黒人は、医者や学者に出世できる。  アメリカの黒人で一番金持ちなのはノースカロライナの保険会社社長。葬儀保険が売れる。  北部の黒人は基本的にプロテスタント。  長い間黒人はバスケットボールからしめだされていた。フィジカルコンタクトがあるので。オハイオ州立大でおそらく最初に黒人がプールに入れるようになった。  デトロイトでは黒人は水平的に居住地を拡大できないので密集スラムができた。デトロイトの警察は全米一高圧的である。なぜなら同市の白人の多くは南部出身なのだ。  WWIをつうじてアメリカは英仏の「同盟国」ではなく「連合国」にすぎなかった。真珠湾の前まで米人の32%はヒトラーをやっつけるより戦争にかかわらないことを大事だと考えていた。  WWII中、英国のために運動した米人の筆頭は、ルーイビルのクーリエジャーナルの前主筆のハーバート・エーガーである。その彼すら真珠湾前は孤立主義者で、1941に老朽駆逐艦50隻を英国に貸すという政策を猛攻撃した。  中西部の誰が、外国軍がわが家を爆撃するなどと考えるだろうか。  中西部人の1%も、NYやシスコへ行ったことはなかろう。1919〜1941の期間、中西部では信教も旧教も、戦争=道徳的悪という価値観を広めていた。  スカンジナビア人はもともと孤立主義者で、かれらはヨーロッパなどに戻りたくはなかった。  カンザス州にはドイツ人はほとんどいない。ミルウォーキーはむしろポーランド的である。  ハーバート・フーバーは1941-6-29、アメリカ軍は軍事的に、世界の軍事力の2/3を打ち破れない、と示唆した。またリンドバーグは1941-4-19、この戦争は敗けであり、イギリスを救うことはできない、と言った。ウィスコンシンの前知事ラフォレットは1941-6-6に、ドイツが全欧を支配してもアメリカには関係ない、と言った。  ほとんどすべての孤立主義者がWWII中、マッカーサーの熱心な崇拝者だった。庶民の関心は太平洋に向いていたのだ。  パットンは、ヨーロッパを嫌っていると思われたがゆえに、孤立主義者にとって英雄であった。  孤立主義者のほとんどは、反英主義者である。  ICBM時代には、もう誰も孤立主義者ではいられない。  中西部の指導者は、タフトをはじめ、皆、極東に対する干渉主義者。  ミネソタにはルーテル教徒が目立って多い。  アメリカの港湾都市には初夏になると「花粉症」が出るが、なぜかデュラスだけはそれが無い。世界最大の鉄鉱生産都市にして米国第二の貨物扱い量の多い港なのだが(p.239)。※スペリオル湖の西端にある。ダルースとも。  スーペリア湖地帯が米国の鉄鉱の87%を産出。  1930年代に実験的に鉄の波状ブロックで道路を舗装したものが残っている。基盤はコンクリート。  貨車に電気シャベルで鉄鉱石を積み込むオペレーターがいちばん高給を取っている。  シンクレア・ルイスは1915に予言的な小説“The Trail of the Hawk”を書いた。カールという少年が航空界で大出世するのだ。そのとき39マイル離れたところに住んでいたのが13歳のリンドバーグ。じつはリンドバーグの父は地元で尊敬された学者であった。  自動車の普及により、田園社会でも半年も冬眠する必要がなくなった。  1920頃は町のバーには成年男子しかいなかった。  グレイハウンド・バスはミネソタで生まれた。  武器貸与法や義務兵役に大反対した人々が、真珠湾以後、一変して、パールハーバーの責任者叩きをはじめた。  最初の労働補償法、巡回図書館、失業保険はウィスコンシン州でできた。  学校スポーツの障害保険を確立しているのはこの州だけ。※アメフトで不具になる者多し。これがマッカーサーやマッカーシーの性格に影響を与えている。  ドイツ人は1848以後やってきた。手工業を移植した。スカンジナビアンは純然農夫。ミルウォーキーの南側はポーランド人率97%である。スイスチーズの世界中心は実はウィスコンシン。  マッカーサーは1951の凱旋でミルウォーキーを公式訪問。  1900知事当選したラフォレットは、アメリカでブレーントラストを創始した。WWI後、米軍はシベリアからすぐ撤兵しろという運動をした。  その息子のフィリップはハリー・ホプキンズの後援のもと1940に知事に。彼は1938に新党「アメリカ国民進歩党」を旗揚げ。そのマークは、丸に十字。ナチス党ニュルンベルク大会の真似なのだ。真珠湾後にフィリップは陸軍に入り、マックの参謀になり、マック崇拝者と化した。進歩党は戦後、共和党に合流。  フィリップの兄のロバート(父と同名)は1946上院選で落選した。民主党全国委員会のロバート・ハニガンが民主党に加われと誘ったが、あくまで進歩党にこだわった。しかしスペインのフランコにたてついたのでカトリック票が離れた。しばしばスターリンを批判したのでCIO票も離れた。  予備選でロバートを破った候補こそ、ジョセフ・マッカーシーである。  玉蜀黍の生産額は、小麦、裸麦、コメ、ライ麦をあわせたより大きい。ほとんどは豚の餌用だ。  豚はすぐ現金に換えられる。穀物は然らず。  玉蜀黍は雌雄同株。1本だけあれば受精できるわけ。機械化のために茎を統一する必要ができたので、ハイブリッドが研究された。  1933、雑種がはじめて移入された。  裸麦も豚の餌。仔豚には特に良い。クローバーは1/3をとっておいて枯草にする。残りは豚の牧草に。  大豆は牛肉に脂肪を増やすので、農家はつくりたがらない。  農家に政府が巨額の補助を出すしきたりがなかったら、1862のホームステット法があっても、誰も自作農になんかなろうとしないだろう。農務省は産物調整計画を立てるが、もちろん農家はそれを嫌う。  1847いらい、アイオワ州デモインの東南にオランダ人がすみついた。儀式のときは木靴。学校へ行くまで英語は話さない。  ウォータールーにジョンディーア農機会社あり。  農家は金持ちになると、穏健な共和党に投票。  しかし破産しかけると、すぐに猟銃と首吊りロープをもって裁判所の玄関に結集する。自分の家を守るためには暴力をいつでも使う用意があるのだ。  アイオワ州議会の下院108名のうち、約70名がフリーメイソン。ただし立候補のときにそれを宣伝することはない(p.261)。  メイソン結社はミシシッピ流域諸州のどこでも、名誉のシンボルになっている。  南部は砂利が採取できないので、マカダム舗装ができなかった。そのため雨が降るとハイウェイが泥道になり、通行不能。  アイオワは州憲法により、小額でない限り州債は発行できない。  ガソリンに1セントの税を課すことで、道路工事をすすめることになった。  自動車が普及していない1920当時のアメリカの道路は、今のユーゴスラビアかベネズエラ並にひどかった。そのご連邦の補助金で、良い道路ができたのだ。  トルーマンが故郷ミズーリ人を評していわく。けちで強情。自分以外のものには何でも反対する。  南北戦争ではミズーリは分裂した。南軍に11万8000人、北軍に11万6000人が兵士として応じた。  世界最大の鉛と亜鉛を産出する。  西南端のネオショー部落は、南部連盟の首府だった。  住民は清教徒多し。  オザーク丘陵は貧乏人のメッカ。15歳まで歯ブラシを見たことがなくても普通。  植民地時代の白人奴隷の子孫は、マラリアが発生するような沼地に落ち着いた。ジョージア州は流刑囚植民地だった。  モルモン教徒はインデペンデンス市でキリストが復活したと考えている。  ブライスは大衆の宿命論を書いた。  典型的ボス、ペンダーガスト。幽霊票の動員、寄附しない商店へのイヤガラセなどあたりまえ。  都市人口の大部分が外国生まれであると、かせぐのに追われ、誰が町を運営しているかなど、気をつかわない。  しかしペンダーガストのおかげでトルーマンは大統領になれたのだ。  脱税でお縄になったペンダーガストにつづき、東部大都市での民主党の大ボスが次々に崩壊した。このボスどもはFDRを熱狂的にとりまいていたが、そのラスボスが死んだのが潮目であった。  ミズーリでは在郷軍人会は非力で、1944選挙はCIO票がFDRを勝たせた。  治安判事は中西部では自己生計を図るので悪評たかいが、ミズーリでは有給判事を置く。  セントルイスは仏人がつくったが、ドイツ系市民が有力。  昔のシカゴデイリーニューズは写真のかわりに線画にこだわり、またデスクについたてがなく編集部は軍事教練場のような大部屋だった。  カンザスシティは2つある。ミズーリ川をはさんで、ミズーリ州にもあるのだ。  セントルイスはイリノイの大瀝青炭の山の近くにある。煤煙のため、毎日3回、シャツを取り替えねばならなかった。高価な無煙炭をつかうことで、煙を減らした。  1946まで汽車の乗り換えをしないで大陸横断することは不可能だった。これはヨーロッパの鉄道との大きな差。  盲人は疑い深い(p.282)。  シカゴトリビューンの記事。「日本人は、インドシナにおいて、英領インド人部隊を援助し、革命派の現地人を殺すために使われている」。おかげでフランス人はまた威張りだした、と。※アンチ帝国、アンチ植民地の伝統。  記事いわく。植民地にこだわるから、WWIIで25万のアメリカ青年が生命を失ったのだ。  トリビューンは、1941-12-4に、アメリカが攻撃された場合のアメリカ参謀本部の戦争計画を明細に説明した特種を掲載。アンチFDRが社主の動機。  1942-6-7には、ミッドウェイ海戦における日本艦隊の配置についての詳細な記事を掲げた。これを読めば、日本の暗号が解読されていることは自明であった。ワシントンではたいへんな騒ぎになったが、マコーミック社主は裁判で無罪を宣告された。  1946-3-22、スチムソンはパールハーバーに関して説明した。その中で、1941-12-4のトリビューンの記事は、参本の計画書の完全なコピーだったことを認めた。  ガンサーはシカゴ生まれ。ストックヤードからは不快な動物臭が風に乗ってやってくる。シカゴにはエヴァーレイ姉妹経営による世界的に有名な魔窟があった。  シカゴはアメリカ第二の都会であり、全世界では四番目だ。世界最大の印刷工業都市。ミシガン湖を汚染しないように、下水運河をつくって河水を逆流させている。シカゴのモットーは、“I will”である。シカゴのスラムも、世界有数。  いまだに、総投票数が総登録者数を上回る選挙区が残っている。  WWIのとき、シカゴを通過する兵が1100万人いたが、必ずシカゴで列車を乗り換える必要があったので、市は潤った。  イリノイ州は石油生産で国内第6位。  教授のダグラス上院議員はクエーカーだが、WWIIのとき50歳にして海兵隊の兵士になり、除隊のときは中佐になっていた。  シカゴ大総長ハッチンスは、学生が有能ならば2年で学士号を授与した。また、フットボールを廃止した。  ハッチンスの指導下に、超ウラン化学と物理学の研究が進んでいた。アーサー・コンプトン、フェルミ、ウレー教授はシカゴ大に所属していた。ウラン黒鉛原子炉は大学運動場跡地に極秘に建設され、1942-12-2に連鎖反応を起こした。  シカゴのギャング抗争で無関係の傍観者が殺されたことはない。  ある年にシカゴで367件の殺人事件があったが、一人の犯人も処刑されなかった。  禁酒法は、非常に大きな現金獲得チャンスをもたらし、それによって人間はきちがいのように危険を冒した。カポネは年1億ドルをかせぎ、うち3000万ドルを賄賂に使った。  禁酒法廃止と不景気が、ギャング商売(多くは賭博)を絶滅させた。  ペルカストロは爆弾王とよばれた。  1948には326件の殺人事件があった。ほとんどが未解決。  ニューヨークには共産党が育っても不思議はない。シカゴはファッショ(反ユダヤ)の育成地である。  シカゴには40万の黒人がいる。25万以上が狭いスラムにいる。NYのハレムはもっと広く、シカゴほど混んでいない。  インディアナ州サウスベンドのノートルダム・カトリック大学は世界的に有名。  インディアナポリスはWWI後のKKKの根城で、退役軍人団がその膨大な恩給によって影響力を持つ。KKKはアンチ・カトリックであってアンチ・アイリッシュなのではない。  クラン役員が殺人罪で無期懲役になった。仮出獄の動議が出されるたびに、ある新聞は「少女はまだ死んでいるではないか」と反対論を唱えた。  1947-4に死んだ老フォードのことはいろいろな理由でジャーナリストが書く自由を持っていない。おそらく彼は世界最大の金持ちであった。  1914にフォードは1日5ドルの最低賃金を宣言してセンセーション。  ヘンリー・フォードは時計の分解が終生の趣味。  会社株式は一族の者以外にはぜんぜん保有されていない。フォードは銀行にお願いをする必要もない。  バランスシートさえ公表したことはない。  フォードの特許権は何千とあるが、すべて、世界中にその使用が、欲するままに自由にまかされている。  老年になったヘンリーは、趣味として旧式の機関車を探したりした。  フォードが英雄視したのはトマス・エジソン。  ヘンリーにはウィリアムという弟がいたはずだが、まったくその詳細が謎。  ヘンリーは、フォード平和船遠征隊を組織してWWIを阻止しようと考えた。  1918、ヘンリーは民主党から上院議員選挙にうって出て、惜しくも落選。  ヘンリーは組合とウォール街を甚だ憎んだ。  クヌードセンとソレンセンはフォード社員にして、流れ作業の真の発明者。クヌードセンは有能すぎたためヘンリーと気まずくなり、フォードを去ってGMに移った。いま、シボレー(もともとフランス競争自動車のブランド)の売り上げはフォードを超えている。  1937までの11年間、フォードは赤字だった。ところがそれ以前の積み立てが巨額なのと、社外株主がいないので、微動だにしなかった。  フォードは手紙をかかず、命令書も好まず、そして、約束を守らなかった(p.312)。  フォードはロシアから多数の技師をデトロイトに招き、大量生産の技術を教えてやった。ゴリキー市がニジニノブゴロトと呼ばれていたとき、彼らがフォード工場を建設した。  この見返りとして、フォードはWWII中にソ連から3億5000万ドルの注文を受けた。  ヘンリーは厳格な禁酒家。  1939-9に言った。どちらの陣営も強欲で悪い、と。  リンドバーグ大佐はフォードの親友。  ベーブ・ルースはフォードで働いていたことがある。  煉瓦の壁を見ると、その中に何個の煉瓦があるかを、誤差2%で当てることができたという。  腹部を銃撃されたことがある。  1917にフォードの用心棒に雇われたベンネットは、私設警察を社内につくった。  フォードの一人息子のエセルは1919に二代目社長となり、1943に急死した。老隠居ヘンリーは社長に復帰した。  孫のヘンリー・フォード2世が1945-9に28歳になり、社長に就任した。エール大学ではまじめに勉強せず、中退である。ベンネットの古い警察は解散させられた。  フォード家は、メソジスト派である。しかし2世はカトリックの娘と結婚するときに、じぶんもカトリックに改宗した。そしてメーソン派に入った〔?〕。  UAWはCIOの傘下で、自動車、飛行機、農機具の労働者の全国組織である。航空機産業が縮小しているので、会員は減っている。  UAWの中の共産党分子は1947に打倒された。  デトロイトの摩天楼は、非組合員のカナダ人労務者を安く雇って建てた。  大手自動車会社は私立探偵を生産ラインに潜入させている。隣の労働者はスパイかもしれないのだ。  1928時点で自動車産業には労組はほとんど食い込めていなかった。  スト指導が巧みなので労働界で出世したウォルター・ルーサーは、かつて、ゴリキーのフォード工場の指導員だった。1/7000インチの公差のガスケットダイスを造る方法を教えた。彼らはシベリア鉄道で日本を経由してデトロイトに戻った。  タフト-ハートレー法が規定する非共産党宣誓書に1947にUAWは署名した。  アメリカのビジネスはビジネスだといったのはクーリッジ。  1951にGM1社だけで30億ドル以上の軍需注文をうけた。  ミシガンには公認空港が159箇所ある。  デトロイトは、仏語の「地峡」に由来。  デトロイトでは酔っ払い運転手はただちに収監される。  オハイオ州知事のローシーは、カトリックだが、どんな寄附でも100ドルを超えてはならないというルールを定め、貧民からの小額献金だけで選挙に臨んだ。しかも、選挙運動中の公職はゆるされているのに、あえて、判事の地位を辞職した。  タフト大統領の息子のロバートはオハイオでローシーのライバルである。エール大とハーバードロースクールを首席卒業。弱視のため兵役は免れた。州上院議員としてオハイオのKKK撲滅に尽力した。1938から連邦上院議員。1940-4-14に彼は、選択徴兵令に反対すると言った。1941-2-16、彼は「日本が合衆国を攻撃する危険があるなどと考えることは、全く狂気じみたことだ」と言った。同僚共和党員スチムソンの陸軍長官就任にも反対した。TVAに反対する演説は高潔なものと評された。1947のタフト-ハートレー法は彼を有名にした。ワグナー法を終生し、アメリカ労働立法の全過程を変えた。  アメリカでオネスト・ジョンという仇名をもっている人は、あまりパッとしない人だ。  オハイオでは3%の物品税を徴収している。  オハイオの精神病院と身障者ホームはひどい状態だ。  クリーブランドの大親分マーカス・ハンナは、マッキンレー大統領を丸抱えしていた。  コロンバスではベルギーから来た陶工が義歯をつくっている。  アメリカのタイヤチューブの9割はアクロンから出ている。  比例代表制の欠陥。もし君が、一人の味方と七人の敵を作れば、君の勝ちになる。つまり、少数派の代表になれば当選するのだ。  シンシナチの市長は大統領のようなもので、じっさいに市の運営をするマネジャーを別に雇い入れる。  オハイオの石炭はストリップマイニング=露天掘り。これは水位を低め、洪水を誘発する。  中西部の州立大学は、職業教育指向。  オハイオ州立大は、州民からは授業料をとらない。ヨーロッパにはこのような制度がない。  アメリカで最初の動物解剖反対教会はマサチューセッツにある。  清教徒の先達は、まずひざまずいて祈り、ついで原住民に襲い掛かった。態度の二重性は今も伝統。  エマーソンいわく、説得できない少数は、常にあったほうがよい。  ヘミングウェイの「フィフティーグランド」が全米の雑誌からことわられた後、これを商業的に出版したのは、『アトランチックマンスリー』。ニューイングランド人は大勢に従わないのだ。  上院唯一の婦人議員はメーン州のマーガレット・スミスである。  ボストンの古い名家集団をブラーミンと呼ぶ。  大都会では種族は交わらない。しかし田舎では、マイノリティはコミュニティに吸収される。一人ぼっちのスペイン人とかトルコ人とか仏系カナダ人とかは田舎では不可能。※日系人もバラバラに暮らした東部では排撃されなかった。  1940時点で仏系カナダ人は米国東部に90万人いた。ほとんどカトリックで、仕事がないため移住したのだ。  ニューイングランドは森林と水力を除くと資源は無いに等しい。6つの州には石炭、鉄鉱石、石油が出ないのだ。※ウィットフォーゲルはTVAを見て水利王権史観を掴んだのではないか?  エールの総長、A・ホイットニー・グリスウォルドは、極東外交史家。1951に彼はコナントと共に、政府の優秀学生に対する徴兵猶予制に反対した。  メーン州とイリノイ州では法令により、学校で毎週10分間、鳥やけだものに対する親切について教えねばならない。  メーン州には野生羊が15万頭いる。  雨が多すぎても少なすぎても馬鈴薯の作柄は害される。  メーン・フランコスとよばれる仏系カナダ人はいつまでも同化しない。  アルースティックにはWWII中、ドイツ兵捕虜収容所がいた。彼らは馬鈴薯畑で働いて給与を得ていた。  ニューイングランドの中で最も反ユダヤが多いのはニューハンプシャー。  鹿猟では、赤帽を被る。  バーモント州には産業革命は未だ押し寄せていない。奴隷を廃止した最初の州。パールハーバー以前の「志願兵/住民」率では全米最高だった。  1941-9-11にバーモント州議会は、すでに連邦がイギリスを武力援助しているので「ドイツに対する交戦国」だと宣言した。  バーモント州は牛乳モノカルチャー。  バーリントンに戦中に巨大なベル航空機工場ができたので、人々は民主党贔屓になった。  米国最初の16門大砲軍艦、オリバークロムウェル号は、コネチカット州のエセックスにおいて1775年に健三された。  1848にコネチカットで最初のシリンダー錠が発明された。  同州ではすでにレーダーで道路の速度違反を探知している。州知事護衛兵は歩兵聯隊と騎兵聯隊からなる。  ブリッジポート市長は米国でただ一人の社会党市長。  マサチューセッツ、ペンシルベニア、バージニア、ケンタッキーの4州は米国の「コモンウェルス」を自称。  マサチューセッツ住民の過半がカトリック。ボストンではその率75%になる。  同州選出の連邦下院議員のジョセフ・W・マーティン2世は、1951-4に、マッカーサー将軍との手紙の遣り取りで、大騒ぎを引き起こした。※クビのきっかけになったトルーマン批判。  コネチカットとマサチューセッツでは、避妊具の説明の配布をすることを法律で禁止している。  ボストン市長と連邦下院議員は、同時に立候補して兼任することもできる。ジェームズ・カーレー市長は、ダグラス・マッカーサーを大統領にかつぎだそうと運動した。  ボストンでは、就職申し込みはプロテスタントに限る、といった掲示があり、アイリッシュの貧乏人は憤っていた。カーレーはその票を集めた。  1849の一年間に28917人のアイルランド人がボストンに流れ込んだ。極貧で無知。鉄道や運河の土掘りの仕事にありつく。彼らは、引越し費用すらないのと、母国で百姓仕事にはうんざりしていたので、都市ボストンに定着し、ボストンはカトリックが支配する市となった。  アイルランド人は、物事を解決のつかないような具合に運んでいくのが、好きな人々だ。  WWI中は彼らはイギリスを激烈に憎んだ。しかしWWII中は米国に忠誠であった。アイリッシュのジョセフ・P・ケネディが駐英大使として英国から信任状を受理されたことと、ケネディ家の息子たちが戦争で活躍したことが、ボストンのアイリッシュの気持ちを変えた。※つまりJFKは政治的理由から大西洋戦線に出てはまずかったわけだ。ジャップ相手だから気兼ねが要らなかった。  アイリッシュとカトリックは、ハーバードを好まない。  ボストンではカトリックの不良どもにより1944春に反ユダヤの暴動があった。扇動者はカフリン神父。カフリン派のフランシス・モーランは、かつて公然と、「ルーズベルトを反逆者と非難し、彼をユダヤ人だと罵倒した」(pp.386-7)。  ドルチェスターのユダヤ人の肉屋は、ある期間、毎週1回、規則的にその窓を割られていた。  ボストンはながらく、米国最強の反ユダヤ都市だったが、しだいにその座をミネアポリスや、オレゴンのポートランドに譲りつつある。  しかしボストン市内のゲットーは、ブルックリン、ブロンクスの次に堅固でもある。  クリスチャンサイエンスモニターの事務所でタバコを吸う者はいない。  かつて、ボストンから船出する快速船の若い船長は、東洋までの2、3回の往復だけで、大金を握って退職することができた(p.389)。※スティルウェルの中国日記でも明かされているように、FDRの先祖はこれで富豪になった。だからFDRは理屈抜きでシナloverなのだ。  シナ貿易で百万長者になった連中は、独特の信託管理により、子孫に、その遺産の利子だけを使うことを許し、元金には手を触れさせなかった。  ボストンでは、非常な貧乏人か、非常な金持ちだけが、市域内にとどまることができるという現象がある。  ニューヨーク州は有数の農業州。しかし農家の6割はつましい酪農家であり、農家の1/3には電気もない。つまり、電灯とか電気掃除機のありえない生活を1950に於いて続けている。  1902-3うまれのトーマス・デューイは、米西戦争のデューイ提督の遠縁。バリトン歌手になろうと思ったが、あるコンサートの直前に咽喉をいため、この職業のあやうさを悟り、コロンビア大学で法律の学位をとった。1940に38歳で大統領選挙に出馬したが、5フィート8インチの身長を、大統領としてはチビだと揶揄され、傷ついた。共和党の指名はウィルキーに行った。  1931頃、連邦政府はギャングやゆすりの一味を脱税でしめあげつつあった。デューイは連邦検事としてこれに従事。シカゴでは自営業の多くがヤクザにゆすられ、そのヤクザの上前をギャングが奪って大金持ちになっていた。デューイはかなり強引な証人あつめによって、ラッキー・ルチアーノをシンシン刑務所に送り込んだ。  1940にNY州知事になった。これは連邦地方検事とともに、大統領への有数のステップである。1944にはついに大統領候補の指名を受けたが、FDRに敗れた。  1944の選挙期間中、デューイは、合衆国が日本の暗号を解読していたという秘密をつかむに至ったが、愛国心からそれを暴露しなかった。マーシャル将軍がデューイに連絡して、口を封じたのだ。しかしデューイが反FDR攻撃材料としてそれを使っていたら、国家的な利益を犠牲にしたと非難されるのがオチだったろう(p.400)。  デューイは1941-1-10に、武器貸与法は、「合衆国の自由主義の政治に終止符を打ち、実際的な目的に対する議会制度を崩壊させるにいたるであろう」と述べた。  ドロシー・トンプソンは、「選挙運動中、候補者が、大統領は日本に対し強硬さを欠いていると非難し、反対に候補者の支持者たちは、大統領が日本を対米戦争に誘い込んだと非難しているのを、諸君はどう思われるか」「デューイ氏は英仏のいずれに対しても、融資以外の如何なる援助にも反対していた」「氏はイギリスまたはフランスの崩壊が、直接合衆国への脅威となることを信じなかった」と(pp.400-401)。  1948大統領選ではデューイは予選の指名を獲得し、11月の投票ではトルーマンを圧倒的に破るだろうと人々は予想した。だがトルーマンが僅差で勝った。  1944以後、デューイの外交についての相談相手は、ジョン・フォースター・ダレス。だからデューイ政権がもしできたら、ダレスが国務長官になるはずだった。  米国人の10人にひとりはNY州民である。20人に1人はNY市民である。  NY州ではマーガリンは酪農の敵なので1887から攻撃されてきた。  NYではオランダの影響が強い。ルーズベルトという姓を見ればよい。  独立戦争の308回の戦闘のうち92回はNY州内。  NY市から85マイル離れたシンネコックにインディアン保留地区あり。  セオドア・ローズヴェルトは若いときは暴露記者だった。  モルモン教はNYで発生した。  トウィードという政治親分がいた。  NY人の初期の富は毛皮によって築かれた。  エリー運河は1825に開発され、奥地の大湖とハドソン河が直結された。水路は時速3マイル。  東プロシア、ポメラニア、ミルウォーキーでは、ポーランド人とドイツ人は雑居。  戦争中の戦略事務局長のウスリアム・ドノバン将軍はNY人。  バッファロー市は鼠害で有名。マッキンレーは同市で暗殺され、テディは同市で就任の宣誓式を行なった。  初期の映画のメッカはイサカだった。  シェネクタデイのGEの社長、チャールズ・ウィルソンは、1950末にトルーマンの国防動員局長となり、労働問題を担当した。  サラトガには温泉がある。  NY州から、ビューレン、クリーブランド、両ルーズベルトの4人の大統領が出た。サミュエル・チルデン知事は一般投票で大統領に選ばれたがホワイトハウス入りしなかった。  1946当選のアイブス上院議員は家賃統制に賛成した。  外国生まれでも上院議員になれる。ワグナー法のロバート・ワグナー。FDRの親友だった。  ダレスはデューイの後継として1949-11の選挙に出たが敗れた。1941以前の孤立主義が叩かれた。宗教でも叩かれた。  FDR2世は泡沫政党候補として下院議員に選出された。  NY市理事会のベンジャミン・デーヴィス2世は、共産党員として公職に在位した最後の男だろう。1949に、暴力による合衆国政府転覆を煽動した反逆罪で、スミス法に基づき有罪となった11人の共産党領袖の一人だった。  NY市予算は、州予算よりも多い。他のどの州よりもまた多い。  ニッケル貨ひとつでNY地下鉄をどこまでも乗れる伝統を守る。1948-7から1セントに引き上げられた。  1億5000万のアメリカ人がどんな本を読むかは主としてNYの批評家が決める。  NYは国連本部を誘致するため奔走した。ロックフェラー家が気前よかったのでマンハッタンに誘致できた。  マンハッタンは1609にヘンリー・ハドソンによって発見され、1626にインディアンから25ドルで買い取られた。市の旗は、いまでもオランダの王国旗である。  200万のユダヤ人が住む。  寛容な烏合性はサンフランシスコと共通だが、規模の桁が違う。  ブロンクスのボス、エドワード・フリンをFDRは豪州大使に指名したが上院が拒否。 ブロンクスのボス、ミカエル・クウィルは元アイルランド共和国軍隊の一兵士。  NY市は水を橋やトンネルで外部からもってこなければならない。  NYパレードでは紙テープと、電話帳ちぎりによる紙吹雪が名物。1951-5にマックが通ったときは2850トンが舞った。ハワード・ヒューズは1800トン、リンドバーグは1750トン、ニミッツ提督は274トン、アイクは77トンだった。アイクのときは1945-6で紙不足のどん底だった。チャーチルは1946-3に来訪し、50トンの紙ふぶきだった。  1949の殺人256件。※シカゴのとんでもなさが分かる。  ヘンリー・R・ルースはシナ生まれ。  基本的に米国の大都市の市長は、警察局によって支持されるか倒されるかしている。  NY市の投票の3割はユダヤ人。  タマニーとは。大西洋を越えてやってきた下級移民に、誰に投票すべきかを教える。病気になったときには世話してやる。どんな便宜でも口利きしてやる。重罪犯の刑の取り消しまで斡旋可能。マンハッタンの民主党機関。これが終焉したのは、FDRがニューディールの「公共事業促進局」によってタマニー以上に貧民の面倒をみるようになったことと、人口がブルックリンおよびブロンクスに移動したことと、連邦による粛清摘発。  ジョー・ルーイスいわく。銀行とは、君が、金など必要ではないとわかれば、いつでも君に、金を貸してくれるところだ。  1929以前の好景気時代、ウォール街は人々から嫌われ、信用もされなかった。  モルガンは、英国と国内工業に融資。クーンローブは、ドイツ、スカンジナビア、鉄道へ融資。  ウォール街の法律事務所は、徹底してユダヤ人を除外している。つまり、徹底してワスプしか雇わない。  FDRが所得税率を上げたので、ウォール街の権威は低下した。  フーバーが設立したRFC(復興金融会社)のおかげで、多くの会社はウォール街ではなくワシントンに詣でるようになった。  かつての鉄道会社は融資なしでは経営不可能だったが、今はATTのような無借金企業が増えた。小さい会社は地元の銀行で用を足している。フォードは火急のばあいは自社の販売店を通じて金融を受けた。  1933銀行法が貯蓄銀行と投資銀行を分離した。1934証券法はSECを設立した。これにより発行計画に関連するすべての事実の詳細の公表が強制された。  ジョンソン法。合衆国に対する義務を履行しない外国に対し融資することを禁止。  モルガンの有力なパートナーたちが1931〜1932にぜんぜん所得税を払っていなかったことはウォール街の逆風になった。モルガンの友人たちは、スタンダード系列下の会社株を市価よりかなり安く、株の売り出し前に提供された。たとえばクーリッジ、パーシング将軍、バーナード・M・バルーク。  財産からみて全米最大の会社は、メトロポリタン生命保険会社。資産65億ドル。次がベル電話会社。  ハレムには、かなり辛抱づよいシナ人、カリフォルニアに帰ることを欲しない日本人二世も住む。全米最大のフィンランド人コミュニティも。  シナ人は洗濯屋もやっている。ユダヤ系黒人もいる。目抜き通り125番外の商店主のほとんどはユダヤ人。  NYデイリーニューズは、1932、1936、1940の選挙のたびにFDRを支持したが、1944でFDR叩きに転じた。「彼は、ヒトラーをいじめ通して来たではないか。彼は、1941年9月に早くも、枢軸国の船を見つけ次第、撃沈するよう海軍に命令したではないか。……馬鹿な奴め、もう忘れてしまったのか。パールハーバーは、彼の非道な第二次世界大戦計画のための煙幕に過ぎない。間抜けめ、真実に目覚めろ」。  イギリスからの旅行者にとり、NY警官が皆肥満していることは驚きである。  合衆国は、戦争最中にその生活水準を引上げた唯一の国である(p.448)。  ラガーディア市長の車の中には鍵のかかる仕切りがあり、銃がたくさん入れてある。ヤッシャ・ハイフェッツが熱帯で演奏するときに使ったアルミ製バイオリンを屑鉄供出運動に寄付してきたとき、市長はそれを保管させた。  ラガーディアいわく。良き公務員が、政党から離れるのはなぜか。政党人は、まともなことをやってくれと、決して頼まない。彼らが要求することは、間違ったことだらけだ。  少々理解を超えた映画を観たことがあるかい? そう、それは読書が不十分だからだ。  アイドルワイルド飛行場は世界最大の空港になるだろう。  ジャージー市は7割がカトリック。  市が雇用している者は、政治ボスのハーグのためにその給与の3%を寄付しなければならなかった。  ハーグを批判したものは、その税金査定額が引き上げられた。  年をとり、フロリダへでかけて留守する時間が多くなるや、ハーグは部下を統制できなくなった。  ニュージャージー州知事に、エジソンの息子で、前海軍長官のチャールズが就任し、ハーグ一味と対決した。  ベーヨン付近はメキシコ湾流がとどかないので砕氷船の必要がある。アトランティックシティ以南では、温度が20度高い。  人口30万のジャージー市にはデパートがない。  ニュージャージーの産物は、真空管。蚊でも有名。  ラトガー大学には、アインシュタインとオッペンハイマーが所属した高等科学研究所がある。この大学でストレプトマイシンも発見された。  プリンストンの学生の1/3は奨学金をうけている。多くの学生が週11回の給食を受ける。代々の総長は、長老教会員か、その子息。  ペンシルベニアはオランダの次にスウェーデンに領有された。この州ではじめて石油が出た。ワシントンの初陣の戦場=フォート・ネセシティもある。  フィラデルフィアは日曜は禁酒日で午後2時まで映画館も開かれない。  ボストンはケンブリッジを妬んでいる。  デラウェアとスクールキルのヘドロは最悪。  1946にフィラデルフィアは国連本部を誘致したが、NYに負けた。  クウェーカーはモルモン教会とちがって年収の1/10を献上することもなく、牧師は無給。財政はすべて自発的な寄付による。集会場には祭壇なし。  ペンシルベニアは工場主が建設した。彼らは高い関税を欲し、よって共和党。  1930'sのスムート・ホーレー関税法は、彼らがつくらせたようなもの。  連邦法では、何ぴとも、選挙資金としてどの団体に対しても、5000ドル以上を寄付することを禁止している。  腐敗した州議会によくある「ピンチ法案」。特定の業者を不利にする法案で、その業界がカネを拠出すれば、法案は取り下げられる。  フィラデルフィアは共和党が80年も支配している腐敗都市。  USスチール社はソ連全体の2倍の鉄鋼を生産している。  ブラジルには鉄鉱石が出る。それをヨーロッパその他の大国が支配することを、アメリカは絶対に認めないだろう。オランダ領ギアナのボーキサイトも同じ。  かつては、鉄鉱石を炭鉱の近くへ運ぶ方が、石炭を鉄鉱山の近くへ運ぶより、安価だった。  デトロイトには鋳物工業と馬車製造業があったから、その熟練工を目当てに、自動車産業が集った。  独立宣言に署名した4人は製鉄工場の主人たちだった。  1889に、米の銑鉄生産量が英を抜いた。1900には、平炉鋼でも抜いた。  1937-5-30に南シカゴのリパブリック工場で警官がスト群衆に発砲し死者10名。  1939から1943のあいだに国民所得は132%あがった。農民の所得は179%成長した。しかし工場労働者の所得は72%増えただけである。労働者は戦争中、ストを我慢したからだ。  ランカスター付近の3500人いるアミッシュ(メノ派)は、トラクターを禁止している。タバコは吸うが、酒は飲まない。投票もしなければ、市民行事にも参加しない。着物にボタンをつけない。結婚後はあご鬚を切らない。  フォードはデラウェア州の法人である。  ピエール・サミュエル・デュポンは、1789に、死刑寸前に逃亡し、渡米。  良質火薬の面でも英から独立せんとしていた1802に、一人息子のE・I・デュポンが火薬製造工場を建設した。付近の柳の木が良質の木炭の素材になるからだ。  一族のコールマン・デュポンは上院議員だったが、私財でデラウェアを縦貫するハイウェイを建設して州に寄付した。  今日生きているイレネー・デュポンはキューバでザナドゥー岬を買って暮らしている。  今のデュポン社の最大の商品はレーヨン。ナイロンもデュポン社が発明した。透明合成樹脂〔P-51のプラスチック製キャノピー素材〕も生産する。  マンハッタン計画の初期、レスリー・R・グローブス将軍はデュポンに頼んでテネシー州のクリントンに実験工場を、またワシントン州ハンフォードにも大工場をつくって運営することを請け負わせた。同社は、原子力に関する一切の発明の特許権を主張しないことを明らかにし、かつ、これらすべてを総額2ドルで引き受けた。  ハンフォード建設に活躍した化学者兼技師のグリーンウォルトが今の社長。まだ48歳だが、南カロライナに新しい水爆工場も建設中だ。  メリーランドには水路が発達し、中型船が一度も公海に出ることなく、フロリダまで行ける。同州は1949に、全米でもっとも厳しい反逆防止法と反共法を制定した。  ボルチモアの近くに大理石の石切り場があるので、住宅のほとんどに白い階段がある。  リンカーンとジェフーソン・デイビス(南部連邦大統領)は、どちらもケンタッキー娘と結婚した。金塊保管所のフォートノックスはケンタッキー州にある。ケンタッキーには名誉大佐がいっぱいいる。文盲はミシシッピの次に多い。  衆議院の1/4は山岳地帯出身で、いまでもピストルを携行している者がいる。議場で7回発射されたこともある。  連邦最高裁判所長官のフレッド・M・ヴィンソン判事は、ひところは、連邦の皇位の公職を多数兼ねた。  ケンタッキー州で公職に就くには、未だかつて決闘をしたことがないという宣誓が必要。  南部では多くの市民は酒を飲むが、禁酒党に投票する。  1942時点で、私宅のプールに鉄や真鍮を使うことは公人としてスキャンダルだった。それらは軍隊のために供出すべきだったので。この醜聞の主チャンドラーは、1943-5に連邦上院で、ヨーロッパからは撤収し、英雄マッカーサーのために資源をふりむけようと演説した。穏健なNYヘラルドトリビューンは、このような上院議員は抹殺せよと叫んだ。  アメリカでは、市長や市議などは、職業として尊敬に値するものではないと考えられている(pp.515)。  南部の住民の1/3は黒人。  南北戦争で南部の男女青年の1/4が戦死。60億ドルの財産が燃えた。  敗戦後、黒人には選挙権が与えられ、南部の白人は反逆者として投票権を剥奪された。  ジョージア州は1870まで連邦に加入できなかった。北軍は1877まで、フロリダ、ルイジアナ、サウスカロライナ州に駐留しつづけた。  ノースカロライナのアバディーンはスコットランド風の町。  アトランタ郊外のベル飛行機工場ではかつて28000人の男女職工を雇っていたが、ことごとくアングロサクソン系だった。つまり白人の人種に多様性がない。スコットランド系アイルランド人は白人優越を誰より固く信ずる。それと黒人しかいないわけ。  WWI前でもWWII前でも、南部人はこぞって連合軍を支持していた。干渉好きなのだ。  綿花とタバコにとって、イギリスこそ上得意。  ケンタッキー州民は、義務徴兵数よりも、志願兵数の方が多い。  レキシントンにあるバージニア兵学校は、ウェストポイントについで重要な、アメリカの将校養成所。  1950調べで、南部全域に30万人以上の都市は3つしかない。  南部は土壌流出が多いので毎年多額の肥料を買わねばならず、貧乏が循環する。  綿花モノカルチャーは農民を怠惰にさせる。年に180日働くだけでいいからだ。  ノースカロライナでは、黄河流域のkudzuという草を中共から輸入して、表土の禿げた土地を再生させているところだ(p.526)。  小作人は、綿花の半分を地代として支払う。玉蜀黍なら、収穫の1/3である。かれらは一定期間に土地から最大に収穫しようとするので、連作で地力をゼロにしてしまう。そして次々に土地をうつろっていく。引越しのたびに50ドルくらいかかる。壊れたバスの車体がしばしば小作人の小屋としてあてがわれる。  ルイジアナ、ミシシッピ、ジョージア、サウスカロライナ、フロリダの梅毒率は、兵役検査1000人に対して171.5人以上。北部と西部の13州はどこも15人以下なのに。  フォークナー、カポーティ、テネシー・ウィリアムズは南部人。しかし南部から哲学者は一人も出ていない。  ローマン・カトリックは南部のどこへ行っても極めて少数である。例外はルーイビルとニューオリンズだけ。  カトリックは酒を飲む〔イエスが率先的ワイン愛好家だったので〕。黒人に対して比較的リベラル。黒人の入場を拒否するカトリック教会は無い。そして教育の機会は新教徒より多い。そのため禁酒主義で地方に住む無学なケルト系はカトリックを猛烈に嫌う(p.530)。  KKKの敵は、黒人、カトリック、そしてユダヤである。  南部人は、何かしら心から憎悪する相手がいないと納まらない人たち。場合によっては自分自身さえ憎悪する。  南部の都市には酒場がない。人々は勝手に瓶を買って飲む。南部の都会で制服を着た将校や17歳の少女が反吐をはいていたり泥酔してわめいていたりする光景は、欧州人にもシナ人にも驚異である。※よく、人前で酩酊し放歌する日本人は世界の例外で恥だという人がいるが、米国南部と、おそらくロシアでは、普通なのである。  ノースカロライナのシャーロットは全米一殺人がふつうにあると言われた。  南部は、冬の暖房がいらない。人々は、北部の寒い工場で高賃金を得ようとは考えなくなる。それで貧乏に拍車がかかるのである(p.532)。  ジョージア州の土地の半分以上が北部の保険会社の所有に帰してしまった。※不況時に抵当流れするので。  黒人流入前の南部の、年季契約の白人奴隷。斧1梃と作業ズボンをもらって、海岸地方の農場の背後のアレゲニ山地を開墾させられた。7年で自由の身になった。  CIOは白黒を混ぜる。AFLは白人主義。  労組の中でも、白人の議長は、黒人の会員をミスターなどと滅多に呼ばない〔これは南部の不文律で、白人は黒人に対してミスターを付けて呼んでは絶対にいけなかったのである〕。その代わり、同志という。  南部では万年民主党の弊害として、議会内に、いつまでも現職に食いついて離れない古参が増えた。ほとんどの選挙で、真の競争はなくなってしまった。  南部出身で南北戦争後、大統領になった男が一人だけいる。ウィルソン。  南部では、黒人の博士を、公用書簡の中で「博士」と呼べないことになっていた。  南部の黒人は白人の家を訪問するときは裏口から入らねばならない。  ミシシッピの石油成金が近くの学校へ5000万ドル寄付するとき、条件として、アフリカやアジア出身者を入学させないことを誓わせた。  南部では刑務所も運動場も白黒二種類をつくらねばならぬ。この費用の無駄が馬鹿にならない。  ガンナー・ミュルダールの『アメリカのジレンマ』は、「民族」という言葉は最近200年にできた言葉で、いわば神話にすぎないことを、膨大な資料で論証した。  ディケンズは1842にアメリカの新聞で次のような広告を見た。――逃亡した女奴隷、左頬にMの烙印あり。――逃亡した黒人ジム・ブレイクを発見した方に50ドルを進呈する。両耳とも一部切断されている。――逃亡した奴隷ジョンを発見の方に25ドルを出す。同人は鼻の頭を切り落とされている。  連邦犯罪とは、所得税脱税、貨幣偽造、州境を超えた誘拐。他はすべて個々の州の問題。  WWII後に起こったリンチ事件の犠牲者はいずれもみな帰還兵士だった。  約100万人の黒人がWWIIの兵役に服した。9割は工兵隊や建設隊に配属された。  南部は気候がよいので米陸軍の訓練キャンプが多数、設置された。そこに大量の黒人兵士が集められたので地元の白人を刺激した。  アンツィオや硫黄島で負傷した黒人が、白人の血清を拒んだケースがしばしばあった(p.551)。  ビルボーは、黒人をすべてリベリアへ返せと提案した。  WWI中、ジャマイカ生まれのマーカス・ガーベイは、NYでアフリカ帰還運動を起こした。しかし実際に船出した者はほとんどいなかった。  黒人男は、すこしでも色の薄い女と結婚したがる。黒人夫婦の2/3は、妻の方が色が薄い。髪が縮れていない子供が生まれると、黒人の親は大いに得意がる(p.554)。  黒人婦人は速記者には雇われない。家事手伝いしかない。  黒人は darkie と呼ばれるのも嫌う。  投票権を得るための登録税が人頭税。アラバマでは年額1ドル50セントだが、月給20ドルの黒人には大金だ。しかも、長期滞納者がとつぜん思い立って投票をしようと思ったら、一括36ドル収めねばならない。つまり人頭税は、黒人に選挙をさせない税金なのである。  FDRは黒人のために心から何かしてくれた。だから黒人は圧倒的にFDRを支持した(p.564)。  テディ・ローズヴェルトはホワイトハウスに黒人ブッカー・ワシントンを招待し、アメリカ中を騒がせた。  リッチモンドにはワシントンの後裔はいない。「事実ジョージ・ワシントンには子供がなかった」(p.567)。※それじゃ一体、『福翁自伝』にあるあの話は、何だったんだ?  ジェファーソンには直系の子孫があったが、ジェファーソンという名前を持った人で今日のバージニアで重要な役目を果たしている者はだれもいない。マジソン、モンロー、パトリック・ヘンリー、そしてリー将軍の子孫たちも、現代のアメリカ政界に出てはいない。  米国の最初の陪審裁判は、バージニアでなされた。  WWII中に反戦論を唱えた2人の学校の先生が、アメリカ在郷軍人会と海外戦争復員兵協会の地方役員からの圧力により、最近、教職から追放された(p.568)。  ハリー・バード上院議員は、騎士の称号を持つバージニアの名門。州知事としてリンチ禁止法をつくり、FDRに気に入られて民主党上院議員になったのだが、ニューディール政策は公金の濫費だと思い、反FDRの巨頭になった。  リッチモンドには、リー将軍の家、エドガー・アラン・ポーの家がある。ジョージ・ワシントンの騎馬像は、ミュンヘンで鋳造された。  アメリカの紙巻タバコの95%はトルコ葉など東洋産の品種と混合されている。  ウェストバージニアは山また山。カナワ渓谷で、WWIIの海軍の装甲鈑の半分以上、曳光弾用ストロンチウムの大部分、銃身100万本、不凍液(プレストン、ゼロンなど)を数百万ガロン生産した。  ワトガ州立公園では、弓矢による鹿狩りが許されている。  ノースカロライナも、インランドウォーターウェイ(内陸運河)が発達している。  サウスカロライナ州では、理由の如何にかかわらず離婚は絶対にできない(p.578)。  南部諸州では知事は連続2任期がゆるされないが、ノースカロライナでは、非連続でも2回就任することはゆるされない。  デューク大学とチャペルヒル大学は、校庭が男女別々。  1842に狼が仔牛を狙ってきたとき、一晩中、燃える木を振りかざして追い払った話。  サウスカロライナのコメづくりは、日本のように人力で水田耕作していたので、アーカンソーやテキサスの高原地帯のコメと競争できなくなった。長い繊維の綿花が、綿実象虫にやられて全滅したこともある。しかもその後の紡績技術の進化で、長繊維綿花の価値が下がった。藍は、アニリン染料に駆逐された。  1950、原子力委員会は、サウスカロライナのエレントンに水爆製造プラントをつくるとに決めた。トリチウム生産炉も併設する。  同州とアラバマ州は、資産がない住民には投票権を与えない。  元国務長官、しかも最高裁判所判事だったこともある71歳のジェームズ・F・バーンズは、1951にサウスカロライナ州知事になった。1-16の就任式では、1881-1-1(州の決闘禁止法施行日)以降、決闘したことがなく、また代人として決闘に参加したこともないと宣誓。続く就任演説では、自分は白人優位を固く信じ、どんなことが起きようとも黒人隔離制をすべての学校で実施させる、と言明した。※日本に原爆を投下したときの国務長官である。  1945から46にかけての冬、フロリダで土地に対する狂乱投機。似たような土地バブルが1926にはじけたときは、回復までに10年以上かかったのだが……。  テネシー河の落差は百マイルの間で6000〜813フィート。しかも雨量が多い。ネブラスカのジョージ・ノリスがミシシッピ下流の洪水を制御しようと長年考えていた。それには上流のオハイオ河、テネシー河から工事すべきだと。  クーリッジもフーバーも、この計画を通してくれなかった。FDRがTVAで初めて実現したのだ。  TVAの3人理事会にリリエンソール弁護士が選ばれたとき、彼は34歳だった。彼は1946に、AEC(原子力委員会)の委員長になるためにTVAを辞した。  オークリッジの原爆工場は、テネシー河のダム電力に依存した。ハンフォード原爆工場が、グランドクーリーに依存したように。  はじめ、彼は国務省の原子力委員会の委員長になり、アチソン-リリエンソール報告を書いた。これを元にして、国連に提出されたバルーク勧告もできた。数ヵ月後、トルーマンは合衆国原子力委員会を創設した。  リリエンソールは、人間の善は悪より思いと確信。明日の政治家は、苦役や貧困を世界から追放できると。  テネシー流域のマラリア退治のため、ダム湖の水位を一時的に下げて、岸辺のボーフラを干上がらせるという方法も採用された。  土壌浸食対策として、クリムゾン・クローバーを植えさせた。  メンフィス市の人口の41%が黒人。おそらく南部で最高の比率。テネシー州は白人優位の州ではない。しかもメンフィスには役人の汚職が皆無。クランプというボスが支配しているのだが。  テネシー州の腐敗地区マックミン郡では、WWII中に男子3500人が皆、兵隊にいってしまったので、ボス政治機構が残留の老人たちを暴力で脅し、1940から1944まであらゆる選挙を意のままにした。そこで復員した青年たちが1946に武装蹶起。ボスたちは刑務所に逃げ込み籠城したがダイナマイトで攻められ、降伏。治安判事ふたりは逃亡し行方不明。  TVAのダムでじぶんの地所が水没するのを嫌う地元政治家がしばしば州議会の場で抵抗を試みた。しかしWWII中のアルミ生産のためダム発電は不可欠であった。FDRの直接介入で抵抗派は退却した。  何人も神を信仰しないものはテネシー州で事務所を開くことができない。  州の異名は「ボランティア州」。  馬泥棒のムーレルは手の平に焼印を押されたが、咬みとってしまった。二度目に捕まったときは額に焼印を押された。  同州出身のコーデル・ハルの父親は山岳地帯出身で、宿根を抱いた相手を殺したことがある。  ファラガット提督もテネシー出身。  アーカンソーは全米最貧の州。ここでダグラス・マッカーサーが生まれた。  ユーリカスプリングスの近くにチタニウム鉱が発見された。鉱石にはソリウムとウラニウムが含有されている。  ジョージア州では黒人は麦藁帽子。白人の貧乏人はウールの帽子にこだわる。  タルマッジ知事は、黒人に理解ある教授をジョージア大学から追放したために大学の信用は落ちた。  次のアーナル知事がまともな改革を始めた。彼は州民の投票年令を18歳に引き下げた。「人と格闘できるくらいの年齢になったら、投票する資格もあるはずだ」と。18歳投票と、軍人の投票を認めたのは、ジョージア州が最初である(p.631)。  FDRには「まばたき」の癖があった。  ジョージアの白人の梅毒患者率は全米最高。  人口32万7090人のアトランタ市郊外の悲惨な小作農家。ヒビの入った鏡が外の柱にかけてある。家の中は薄暗くて、とても髭剃りができないのだ。  エモリー大学はコカコーラが建てた。コカコーラ社の注文により、同大学は、他大学とスポーツ試合をやることは禁止。  ペンバートンという男が1880年代、5セント白銅貨で飲める清涼水を作ろうと思った。彼は秘密の製法を考案した。会計係のロビンソンが、それに「コカコーラ」と名付け、自ら筆をとってロゴを書いた。これは今でもそのまま会社のトレードマーク。しかし1886の売り出しが不振だったので、数年後にカンドラーという薬屋に権利が売却された。カンドラーは1920'sにジョージア信託会社の社長ウッドラフに2500万ドルでまた売却。ウッドラフの子孫はコカコーラのおかげで百万長者である。  ごく微量の香料の製法が秘密。要するに成分の混合順序らしい。その秘密を全部知っている人は、アトランタ市内に1人しかいない。中に入れるエッセンス1ガロンがあれば、シロップ状の原液5000ガロンの味付けができる。  初めはシロップ状で卸され、それを雑貨屋が勝手に水と混ぜて客に売っていた。この味を最善のレベルで一定化するための瓶詰会社をつくってから、会社は延びたのだ。  ガンサーはユダヤ人ではなくカトリックでもないので、シカゴの新聞会社にいたとき、写真班のKKKから入会に誘われたことがある。  KKKは1860年代にテネシー生まれの元南軍軍人によって結成された。  「昔の日本にあった黒竜会のように『愛国心』を表看板として、秘密結社を結んで、片っぱしからテロ行為を実行した」(p.640)。※ブラックドラゴンはその名前のインパクトにより英語圏でとても有名にされた。民間軍隊派遣会社の「ブラックウォーター」はとうぜんに黒龍会を意識しているはずである。  第一期クランは1880年代に解消。1915に、メソジスト教会の巡回布教師のウィリアム・シモンズが復興。ジョージア州でものすごい勢いで発展し、600万人がメンバーになった。全州の公職の85%はクランであった。しかし1930'sに再び解体。というのは、テキヤ、暴力団のたぐいが結社の幹部として幅を利かしたのが良民から厭われた。また連邦が脱税容疑でたびたび手入れをしたので。  第三期は1940年代で戦争と同期して始まり、1946ピーク。  かつては共産主義と労働組合を攻撃目標としていた。  1946から連邦がクランの撲滅をはじめると、結社はカリフォルニアへ移り、日系二世を敵視するグループに加わった。  ジョージアでは、アーナル知事が撲滅した。  1949、アラバマ州議会が、公衆の前でクランの頭巾や覆面をかぶることを法律で禁止した。  1951以後、KKKはほとんど振わない。  アメリカの農家600万戸のうち160万戸は綿花を栽培。  綿の木は冬季になると南部でも枯れてしまう。だから毎年種を播く必要あり。  綿花だけは、戦争中も価格シーリング統制をされなかった。南部出身の上院議員が抵抗したから。  小麦粉、セメントを入れる袋が紙袋化したのは綿需要を減らした。  ケーブルの被覆も綿糸ではなくなった。ナイロン、レーヨンが安くなった。自動車のタイヤコードもレーヨンが木綿を駆逐した。  綿繰機械は、奴隷を不要にした。つまりイーライ・ホイットニーは、リンカーン大統領以上に奴隷解放に貢献したのだ。  ジョン・ラストが発明した綿花摘機は、能率が人間と桁違い。屑を燃やして雑草を除く火焔法を併用すると、いずれは小作人は不要になり、南部の経済構造そのものが激変しよう。  プロテスタントはニューオリンズ市長になれず、またカトリックはルイジアナ州知事になれないというジンクスあり。  ニューオリンズの工場でPTボートをつくっている。木工の多量生産方式(p.658)。  ヒューイ・ロングは、スターリンやムッソリーニと同じく、徹頭徹尾、本の虫であった。  テキサスは全国で最も孤立主義が弱い。綿花で英国と結びついていたから。パールハーバー以前、多数のテキサス男がわざわざカナダへ行って軍隊(空軍も含む)に入った。  テキサスはアルゼンチンを思い起こさせる。  米国の法律で、石油採掘業者は、全収入の27.5%は、油の歩留まりとして、控除が認められている。だからテキサスには短期間で百万長者になる者がたくさんいる。  テキサス法螺話の一つ。湖の上に何千羽の水鳥がいるのを見た猟師が銃をかまえると、北風が吹き、瞬時に湖面が氷結。銃声で飛び立った水鳥は、湖をいっしょに持っていってしまった――。※「鴨とり権兵衛」の元ネタか?  テキサスA&Mは、アメリカ最大の軍事学校。ダラスには米国で3番目に大きい書店がある。  テキサス州は、WWII中に172名以上の将軍と11名の提督を出した。  特産物としてヘリウムもあり。  Tejas という朝の挨拶語が州名の語源。  サム・ヒューストンという乱暴者が対メキシコの反乱を起こした。1836、トラビス大佐ひきいる188人のテキサス人部隊はアラモ河で包囲され、全滅。その6週間後にサンハシントの戦いが起き、ヒューストン側に6名、メキシコ軍側に600名の戦死者。  1836-3-2にテキサスは独立国となった。1846に米国の1州になると、ヒューストン大統領がそのまま知事に。しかしヒューストンは北軍寄りだったので、晩年は孤立した。  テキサスの油田第一号は1901に発見された。埋蔵量はアメリカ最大。  1900に大津波があり、ガルベストンの市民5000人が死んだ。  サンジャシント記念碑はワシントン記念碑より高く、石造としては世界一高い。  テキサス太平洋鉄道は1872にダラスに達したところで、4年間も工事がストップした。そのため、ダラスが大きな町になったのである。  大部分のドイツ人は1848革命のあと移民してきた。  フォート・サムはアメリカ最大の陸軍駐屯地。  カル・ファーリーというプロレスラーは、あとでプロ野球選手になり、自動車タイヤの店を経営し、少年牧場で不良矯正もした。  家畜に草の根まで食わせたために土壌浸食と砂嵐がひどくなったので、1937から、杏の木、ロシア橄欖樹、シナ楡を、連邦が無料で提供して植えさせた。  大豆、スイートクローバーなども植えさせた。  テキサスでは、農業機械化部隊が、収穫期に農家を巡回する。  テキサスには所得税はない。事業税の25%は学校に使えと州憲法で定めてある。ガソリン税の1/4と、人頭税の一部も学校用だ。  教科書は州が無料で配る。そのためテキサス州から教科書の注文をうけることは、おそろしく儲かる。※ダラスの教科書倉庫の意味が分かる。  テキサス人はカトリックと禁酒反対論者は嫌いである。  南北戦争後の最初の民主党大統領はクリーブランド。  1931にソ連政府は、世界に3冊しかない、1456以前に印刷されたグーテンベルグのラテン語訳聖書×2冊をふくむ、1500年以前の古版本をまとめて300万ドルで売りに出した。テキサス大学が、それを一括購入した。  また、同大学は、カロリン・マーガレット・キャンベル・コレクションを通じて、世界中のミステリーを蒐集している。  ロングホーン牛は、16世紀にスペイン人が持ち込んだ。皮と脂肪が役に立つ。肉は捨てる。水がなくても我慢でき、長旅ができる。牛追いは、これを、アビリーンとか、ダッジシティといった、カンザス州の鉄道の終点まで追い立てていった。  1887をもってキャトルドライブ時代は終り。  おなじころにコルト連発ピストルが発明された。馬の上で装填しなくても連発できるので、ライフルより好まれた。  ロングホーンは角が邪魔で貨車輸送に適しなかった。そこでインド原産で熱病に強いヘレフォード牛が繁殖させられることに。肉牛は、尻を見て判断せよ。アンガス牛は、耕作用に必要だった。  テキサスにはファンダメンタリストが多いが、人間は教育をうけると、説教檀の下で天罰の話など真面目に聴かなくなる。  1943-6にボウモンで白人による黒人攻撃が起こった。  テキサスでは、故障で困っている自動車をみたら、止まって援助しなかったら、重罪になる。  銃を使った強盗は重罪となるが、殺人はそれほど重罪にはならない。  ベイラーには世界最大のブローニング自動ピストルのコレクションがある。  真珠湾以後、最初に戦死したアメリカ将官のクラレンス・E・ティンカーは、オクラホマインディアン(オセージ族)。  フーバー大統領の下で副大統領であったチャールズ・カーチスはカウ族。  オクラホマインディアンのうち、チョクトー、チカソー、チェロキー、セミノール、クリークは開化していて、農業ができ、有能な指導者も出ている。  コマンチ、ポーニー、ポタワトミー、アパッチ、アラパホ族は未開で、ブランケット・インディアンと蔑称される。  インディアンは登録を取り消して指定保留地を出ていく自由がある。  何人もインディアンに酒を売ることは違法。  インディアンを絶滅させようとする陸軍の政策は、そのご内務省に引き継がれた。内務省は文化破壊に精を出した。1932にFDR政権のイッキーズが内務長官になると、保護や自治化が推進され出した。  コロラド、ワシントン、ユタ、ニューメキシコ、アリゾナではインディアンは投票できない。  チェロキーはインディアンのエリート。  「雑婚が激しくなればなるほど、文化程度は低下する」。ホンジュラスとウルグアイを比較せよ(p.716)。  タルサは1928に発見された大油田の上にある町。  牧草地を穀物畑にした報いで1935に大砂嵐。夜は濡れタオルで口を覆って過ごした。  オクラホマとミシシッピは禁酒州。  オクラホマシティ郊外にC47をつくるダグラス工場。  トリニティ原爆実験の数ヶ月前、ガンサーがニューメキシコのサンタフェに行くと、町の人は何か変わったことが行なわれていることをうすうす気がついていた。近くで不思議な爆発があったり、生死にかかわる重大事件があっても、自分の部署を離れることを厳禁されている幹部将校がいた。  ニューメキシコではカトリックが圧倒的。※だからトリニティか。  州の道路局は、雨が降ると、水がどっちの方向へ流れるかを示す看板を設置した。それほど平坦なので。  タオスはD・H・ローレンスが世界で一番美しい渓谷だと言った。  アドビ煉瓦の住居は、西暦900〜1150のプエブロ文化から続く。  インディアンは、自分自身の名前すら秘密にしたがっている。プエブロ語には「私は」という意味の言葉が58種類ある。  硫黄島に旗を立てた6人の海兵隊のうち、アリゾナ州のバプチュール出身のイラ・H・ヘイズ一等兵は、パイマ・インディアン。しかし、彼には投票権がないのだ(p.732)。  インディアンのことは、各州でなく、連邦が一元的に所管する。  アリゾナ州には、加州から追い出された日本人をアリゾナ州に移住させることに反対する「アリゾナ連盟」という団体がある。  フーバー・ダムは、1930'sには、ボールダー・ダムと呼ばれていた。  モルモン教徒はなぜかみな裕福である。  トルーマンは副大統領の指名をうけた時から、大統領就任までの間に、たった一回しかルーズベルトに会っていない(p.743)。※これはトルーマンのキャラクターを考える上で不可欠の情報と思われるが、本書を読むまで聞いたこともなかった。  アメリカのラジオ局は、KかWではじまっている。  対日戦争のためにワールドシリーズが駄目になった。  カルビン・クーリッジはダンテを翻訳した。  いまの学士号は40年前の高校ディプロマほどの値打ちがない。  ガンサーがみたところ、全米でいちばんきれいな町はフェニックス。汚いのはインディアナポリス。※この時点で米国はまだ48州。したがって本書にはハワイとアラスカの紀行は無い。  以下、原注。  同一政体の国としてアメリカはイギリスの次に古い。  CIOの指導者であるマーリとケアリはローマン・カトリックだ。  1935には、米国内で政府の救済をうけている人が2200万人いた。  アメリカにまともな所得税制度ができたのは三十余年前だ。※本書は1951年。  リンカーンの義兄3人は南北戦争で戦死。2人の異母姉は南軍将校と結婚している。  1920〜1941のDu Pont の売り上げの2%が爆薬であったにすぎない。  クエーカーは開拓者ではない。それがモルモンとの違い。  本書は1944-9にアウトラインを練り、1945-2から書き始められた。LaGuardiaは1947-9-20死亡。  床につばを吐く米国の習慣を英国人は嫌悪する。  Policy はイタリア語の polizza から出ている。  小麦や綿花は野生もするが、玉蜀黍は人の助けがなければ野生することはない。  モンタナのアナコンダ精銅会社の大煙突がワシントンモニュメントより高いかどうか未確認。この煙突の高さにもかかわらず、地域の植物は大量に枯死した。  カリフォルニアに日本の潜水艦が砲撃を加えたが死者はゼロ。オレゴンだけが風船爆弾で6人の死者を出したのである。※晴嵐の爆撃でも死者ゼロだったということ。 ▼武野藤介『戰線餘白』S18-5-20、輝文堂書店(神田区美土代町2)  支那事変いらい新聞に載った興味深い雑記事や兵隊が書いた短編小説を切り抜きまくり、そこから80篇強をセレクトして、改筆の上、1冊にしてしまった本。※本文266頁で1冊、1円80銭也。1万部という奥付の発行部数は嘘に決まっているにしても、なんともあっけらかんと著作権軽視な出版物だな〜。これを読んだオリジナル記者やデスクや作者たちは、怒らなかったんだろうか?  正定城外に放列を布いたとき、気球を上げていた。それをシナ軍戦闘機が落とそうと飛来したことあり。  京漢戦の折、邯鄲南方の倉庫内に、模型戦車が13台隠匿されていた。木骨にズックを張り巡らし、正面には無限軌道なども描いている。模様などから、わが装甲車の模型と判明。何に使ったものか分からなかったが、「第二十九軍血戦長城集録」という、宋哲元の軍功を称讃する本が発見されて、その掲載写真から、謎が解けた。宋は満州事変のとき服部旅団のために長城線の喜峰口で大敗したのだが、その逆の宣伝をするために、模型装甲車をつくって写真に撮影し、日本軍からの鹵獲品とキャプションをつけたのだ。同じように、この模型戦車は、「華北」の各地で巡回展示するためにこしらえたものらしかった(pp.3-4)。※当時の新聞が北支ではなくて華北と書いていたことが分かる。なお、邯鄲の鄲の字のつくりが「咢」になっているのだが、誤字だろうと推定した。  重慶政府が、日本の軍医から予防接種をしてもらうと6ヶ月以内に死亡するという宣伝をしていたので、おそれた金持ちの住民が、コジキに金を払って、じぶんの身代わりに予防注射をうけさせていたことが、老人の複数の注射痕からバレたという話。  徐州陥落直前の、「遊撃隊のゲリラ」の話。早朝に城門を潜る時間が毎日正確すぎる農民は怪しい。警備隊にはピンとくる。  9月になっても大陸は猛暑。しかし井戸水は鹽からい濁り水。  慰問品にキャラメルは不適。ドロドロになってしまう。  歩哨の誰何。「誰呀(シコイヤ)!」=「誰か!」  「空爆」が始まるとシナ住民は豚も鶏も地中に隠す。そして管を通じて餌を与える。  皇軍が漕河鎮で露営中、歩哨が一人の便衣隊を捕えた。17、8の少年だが中年男のようにこけ落ちていた。「第一線の軍律に従つて死刑が宣告された」。執行直前まで兵隊からすいさしをもらってふかしていた。「折から、雨模様の空からポツポツ降り初めた頃、少年は高粱畑の中に引出されて、一准尉自慢の一刀、剣道二段の腕前で降り落された。見事、首はころりと落ちた」(pp.18-9)。  ある部隊は保定へ入城するまで炊事ができず、粟、芋、葱、茄子、黍、てあたりしだいに、なまで食った。行軍は、1時間歩くと15分小休止の繰り返し。慣れた兵隊は20分あれば生きている豚を加熱豚肉にまで調理できるのだが、さすがに15分では無理だった。  アンペラさえみつからない露営は悲惨。天幕を敷いてゴロ寝。  高粱殻を蒲団がわりにするが、「北支」の秋はいつのまにか夜露に濡れる。※このように「北支」の表現もある。  朝は「出発準備!」の大声で部隊は目を醒ます。  大同を占拠したとき、駅のプラットホームに50キロ爆弾が河岸のマグロのように何十発も積み重ねてあった。すべて、火薬のかわりに石ころをつめた模擬爆弾で、士気鼓舞用としてわざと人目につくところに転がしていたのだ。  競技用のピストルも鹵獲した。敵の将校が、逃亡を企む部下を脅すために身に帯びていたらしい。  チエツコで高粱畑を射撃されると、葉を射ち抜く弾の音がパンパンパンと、平手で強く頬を打つような音を立てる。  北支の千里台はピーク標高2500mある禿山地帯。食い物は玉蜀黍と馬鈴薯。水は十余町を離れた谷間にしかない。  左肺貫通で倒れた伍長。軍医がだめだろうといったので、戦友がタバコをくわえさせてやった。彼は自分の胸の傷口から煙が出てくるのをじっと見つめていた。この伍長は一命をとりとめた。  伏せの姿勢で眉間を撃たれた兵長が、小隊長の横で正座して「お世話になりました」と立派に挨拶してから絶命した。  インドネシアの子供が、「一番強い」という意味で親指を立てる。このサインの意味が、日本兵には分からなかった。  シンガポールのブラカンマチ要塞島は、親島と名を改められた。  バタアンではこっちが大砲を1発うつと敵はすくなくとも20発は射ち返してきた。車輛部隊の砂塵をめがけても射ってきた。通信兵が電波を出せばたちまち方向探知器で見当をつけて射ってきた。  米軍相手のリマイ北方高地でも突撃喇叭を吹いた。  陸戦隊が警備していた上海の豆畑。野犬がシナ兵の死体をねらってぞろぞろ眼を光らせている。夜、シナ兵が近づくとこの野犬群が吠えるので夜襲が分かる。部隊が二手に分かれると野犬も二手に分かれる。有り難いので、野犬は撃たないことにした。  シナ兵が逃げたあとにはきまって額面$50の紙幣が散乱している。表面には「異國銀行」とあり、裏面には経文のようなものが印刷されている。これはシナ人が棺の中にいれる札なのだ。  第一線塹壕に後方兵站から届ける糧食は、1個の直径が5寸もある握り飯×30個と水筒4個。これを1人づつ担いで、弾雨の中を走る。  慰問袋のタオルを数枚ためておき、「整理日」にシナ人の洋服屋に立ち寄ってシャツに仕立ててもらう。  戦場近い山野で、新しく土が掘り返されていたり、麦や蠶豆(かいこまめ)が植え替えられていたら、その下には武器弾薬や「地雷火」が隠されている。江北戦線の黄海に近い李堡鎮クリークで、1間四方の蠶豆畑の下を掘ったら、まず藁屑、その下から垢染みた毛布、その下から竹矢来、その下から青い服を着た断髪の支那娘2人が掘り出された。衣料、化粧品、糧食もしまってあり、トンネルが水辺まで通じている。こうした洞窟が十数個あった。どこの部落も兵火のつど、敵や味方が「家を焼き、財を奪ひ、それのみか、婦女子に暴行を加へてゆく悪習」にくるしめられていたのだ。「兵来了(ピンライラ)」の警鐘が鳴ると、部落の婦女子は1〜2里はなれた、水利のいいクリークの畔にトンネルを掘って20日くらい暗闇の生活を送る。※いわゆるベトコンのトンネルの起源はこういうところにあったのだ。共通のシナ文明なのだ。  徴兵された支那人青年も、正月の娘々[ニャンニャン]祭までには帰宅したいと思っている。  ある小隊長が上海戦線で斥候に出てひとりのシナ兵を「一撃のもとに叩き斬つた」。飯盒のなかに薬莢をいっぱいいれて持っていた。これは、小銃を射って戦闘したという証明で、それと引き換えに糧食をもらえるのだという。  京綏沿線の蔚県城を10騎で占領したら敵が逆襲してきた。こちらの数を多くみせかけるため、皆、鉄兜を脱いで城壁に並べた。  ジョホールバルまでの路傍には1哩ごとに道標があり、助かった。アスファルト道なので、自転車のタイヤがパンクしたら、金輪だけでも走れる。しかも4〜5台で夜間にそうすると、戦車のキャタビラの音響を擬装できるのだ。  パラオのジャングル内で進軍していると、顔や全身がふくれてくる。「白い木」に、漆と同じ毒があるのだ。  専門学校教授が二等兵になっていたりする。南支(p.98)。  ノモンハンでは蚊のために、日が暮れると誰も天幕の外に出ない。  日本兵は食後に必ずクレオソート錠剤を飲む。これをインドネシア人が珍重した。  香港攻略のとき砲弾片で両眼を失った馬を廃馬にしないでコレヒドールに転戦。盲目馬は自分で青草を食べられないのだが、部隊一の健肥で栄養甲。いまだにいっぺんも膝をつかせたことのないのが自慢だとその兵隊。まさに手綱に血が通ってゐる。  飛行偵察兵は酸素の味をサイダーのように感じる。小便は床で氷になっているが、これは降下するときに蹴飛ばして外へ抛り出す。そのままにして着陸すると融けてたいへんだから。高度5000mでは、口笛は鳴らない。  リマイ山、カボット台の敵陣を占領したところ、地面から太い竹筒があちこちに生えている。これは小便用の穴であった。  ラングーンの陸軍病院の3階にゴリラが出現。英軍が撤退前に動物園の猛獣を片端から射殺したが、このゴリラだけは逃亡したのだ(pp.131-2)。  満州事変当時、匪賊どもが、爆弾を吊るしていない飛行機を見ると馬鹿にするので、ある将校が、爆弾の影絵を翼下に描くことを始めた。  歩兵砲チームに掛ける号令。「照ーー準点! 前方! 独立樹の下の軽機関銃陣地!」。  桜井忠温の『新戦場』によると、たおれて万歳という者はたいてい死ぬが、なにくそと立ち上がるものはたいてい助かる、と。  マライのゲマスで敵は民間電話線を切るのを忘れた。しかるに敵も味方も既設の民間線を利用したから、敵の重要電話が筒抜けに傍受できた。  コレヒドール上陸前に兵隊は2本の水筒をもたされた。これが3日分である。糧食は1週間分をもった。  尺八は昔から2個に分解できるものがある。  メンコのことを「パッチンコ」という地方がある。  アスピリン=アセチールサルチール酸、は、戦前からある。  シナ戦線の仕掛け地雷。道路の両側の溝に手榴弾の安全弁を外して長い糸をつけてある。  シナ馬がつまづくと、特務兵が「以、以!」(イー、イー)と声をかけて鞭でピシリと尻を叩く。  右足切断の兵隊は、天津の兵站病院で「内地環送療養」の命令をうける。海岸の温泉療養所でしばらく過ごし、東京の陸軍病院で義足を貰う。白衣を背広に着替えてからは、胸に傷痍軍人徽章をつける。 ▼スザンヌ・バーガー著、楡井浩一tr.『MITチームの調査研究による グローバル企業の成功戦略』草思社2006、原2005末  企業は、設計、生産、流通などの工程をモジュール化(複数の異なる場所に分散させる)ことができるようになった。  デルは、最後の四分半の組み立て作業以外は、国外にアウトソーシングしている。ノートPCはマレーシアのペナン島から空輸される。  エレクトロニクスの世界では、変化があまりに急なので、新製品を市場に出すまでの全工程が自社の施設内にあることは有利。  日本企業のシナ進出は、大事な生産工程を国内に残しつつ、在支の子会社に発注している。アメリカ企業の場合、国内の生産を減らして、シナ人の会社に一切をアウトソーシングする。  マッキンゼー調査によれば、輸入品との価格競争やオフショアリングが原因でクビになり、また再就職するアメリカ人の55%は、前職の85%以下の賃金しか受け取れない。  新たに創出される仕事は、消えゆく仕事よりもよいものなのだろうか?  アメリカ企業が国外に売っているサービス(法務、プログラミング、金融、コンサル)は、それらの買入と比べ、いまのところ出超。  過去半世紀、新技術が農業の生産性を変え、全労働人口に占める農民の率は、1940の40%から、2%にまで減少。  グローバル化で総体が向上しても、敗者にとってはそれは気休めにもならぬ。  1999のシアトルWTOでは、労組と環境保護主義者がタッグを組んだ。  サムスンは垂直統合型企業で、電子機器のほとんどを自社内で製造。  アイルランドやスウェーデンは、WWIまでの50年間、10年に1割のテンポで人口を失っていた。  1944のブレトンウッズは国境レベルの貿易障壁をなくすことで合意。この協定は、英のケインズと、米のハリー・デクスター・ホワイトが起草した。  1947にGATTが成立。  不法入国者の数を加えても、現在の西洋諸国の移民数は、19世紀に遠く及ばない。つまり労働力に関しては19世紀の方がグローバル化していた。  半導体のファブは、建設費用が30億ドル近くまで膨らんでいる。  ハンチントンは1991に『Survival』という雑誌で、基幹産業の主導権を日本に握らせるなと警告した。  欧州ではルーマニアやハンガリー、ポーランドが低賃金国。  2001不況からの回復は、ジョブレスリカバリーとなった。ドットコム・バブル崩壊。  グローバル化は、賃金と社会福祉と環境活動の低下を招く。  羊毛生産を内蒙古のシナ人に丸投げしようと考えた無謀な老舗のジョン・グリッデンは、2005に北京で新たな合弁事業を始めざるを得なくなった。  企業は、これなら負けないという長所を見つけ、ここでなら長所が生きるという場所を見つけろ。  偉大な想像力やイノベーションが先進諸国に大量の雇用をもたらす時代は終った。  基礎的テクノロジーの進化が速いのはたとえばエレクトロニクス、ソフトウェア。遅いのは、自動車、自動車部品、衣料。  収斂モデルと、資本主義の国別多様性モデルがある。  トイザらスは、1989〜1990の日米構造協議のたまもの。  アルベールいわく。資本主義には変異体が2種ある。日独モデルと、米英モデル。後者は転職が繰り返される弾力的な労働市場があり、破壊的な変化も大衆に受け入れられやすい。前者は投資家と企業の間に銀行が入るので、投資家からの短期利益回収圧力に悩まされない。銀行中心の金融システムは、その母国を離れたら、手に入らない。  ※米国では銀行の代わりを政府のミリタリー発注がしているではないか。変異体ではないか。  最初に掘られた経路はなかなか変更し得ない。経路依存症。  アウトソーシングするものとしないもの、オフショアリングするものとしないもの、その再編制・再配置の最適選択をするのがグローバル化。  挑戦者の出現を遅らせる方法。高品質化。ハードウェアとサービスを抱き合わせにする。これにより、果てしなき低価格化競争から避難せよ。  ノートパソコンのすべてを台湾のODMに外注するアップル。あらゆる生産を合衆国外へアウトソーシングするGAP。  ウォルマートは売り上げを11%も伸ばしたが、2003→2005の株価の総利回りは−15%だ(p.70)。  いったん生産の細分化が技術的に可能となれば、企業が自社内に抱え込んでおける活動は、世界のトップと張り合える分野のみに限定される。  すべての生産工程を自社内に囲い込み、一元的支配という優位性を活用すれば、他社より劣るコスト効率を挽回できる(p.73)。  賃金と給付のコストダウン競争に頼った解決策は、先進国でも新興国でも、必ず行き詰まる。低賃金から得られる優位性は、他のコストやリスクによって簡単に吹き飛んでしまう。賃金が安くても、労働者が未熟だったり、厳格な職場管理が必要であれば、単位労働コストは上る(p.75)。  低価格帯市場で価格競争をする企業は、セグメントが飽和すると別のセグメントへ移る。永続的な優位性を獲得する機会がない。  エレクトロニクス分野は、モジュール性が高く、新天地への移転も比較的容易。  自動車生産は、インテグラル(摺り合わせ)クローズ型アーキテクチャ。  携帯電話は、物的生産とサービスを結びつけたものだ。  デルはカスタマイズ製品の受注生産と配送を組織の中心に据えた。  1949までにフォードはブラジルのゴム園を230万エーカー取得しなければならなかった。  ある人いわく、IBM設計はモジュール化されている。※それはそうだがCPU内はインテグラルだろ?  モジュール分けするには、自然な区切り点を探せ。生産工程において、隣り合う活動間で情報の大量転送が不要な箇所。あるいは連結ルールを前もって全指定できる箇所。  DARPAはカルテックの交換フォーマット・プロジェクトに資金を供給した。ファウンドリとチップ設計者が、コンピュータでデータ交換するための標準フォーマットを開発する。※銀行としてのDARPA。  台湾は1970's以降、合衆国に移住してエレクトロニクス企業で地位を占めた技師たちに、帰国を促した。代表は、張忠謀で、帰国して工業技術研究院長になった。  ファウンドリはピュアプレイで、自社設計/開発は一切しない。  ファブの課題は、顧客の知的財産をいかに他の顧客に漏洩しないか。  IBMは1986に27%近く減益した(p.105)。  デルの顧客はオンラインで注文品をカスタマイズし、短期間のうちにマシンを受け取れる。  組み立て企業と部品納入企業が対面距離にあれば、製品開発時間を削減し、手痛い誤解を回避できる。  自動車メーカーは、販売する場所で作る、という原理で操業している(p.111)。  2004にダイムラー・クライスラーは、オハイオ州の工場の中にサプライヤーを取り込むようにした。90年代のGMとフォードは逆に、社内部門を独立させてサプライヤーとして切り離し、労働者と固定資本を本社帳簿からサプライヤーの帳簿に転記させた。これによって数万人の従業員を解雇し、残った従業員1人あたりの収益は上昇(pp.112-3)。  70年代初期、部品サプライヤーの時給は、最終組み立て企業の時給よりわずかに低い程度。しかし2000年には、74:100 にまで開いた。  シナ市場開放は1979、鉄のカーテン崩壊は1989。ここからアウトソーシングの洪水が始まった。  ある台湾社長いわく。一粒の葡萄は貧弱だ。しかし結集して房(クラスター)になれば力を発揮できる、と。  学校で熱心に勉強した経験もなく、現場での継続的なOJTも受けてこなかった中年失業者を、どうやって教育し直せる?(p.124)  第一次グローバル化は1870〜1914。しかしWWIのおかげで仏投資家は国外資産を1918までに1/3に減らしてしまった。ロシア国内への工場投資が痛かった。アル中労働者の山猫スト、燃料コスト暴騰、税務当局との果てしないいざこざ、そしてついに1917のボルシェビキ革命。  英の合繊メーカー、コートールズ。その人造絹糸の関税を米国がやたらにかけそうになった。そこで、米国内の製造業者に工作をさせれば、米議会が反発してさらに関税が上るだけと判断。米国人顧問弁護士を書類上の持ち主としてペンシルヴェニアに工場用地を取得し、「アメリカ企業」になった。これで米国関税はコートールズを守る側に回った。コートールズは業界リーダーとして、堂々と議会にロビー工作を始めた。  自動車部品メーカーがメキシコやシナで操業しようとすると、そのコストは母国より高くなる。特殊鋼、アルミ、塗料など、輸入しなければならないものがあまりに多く、その輸送費が嵩むからだ。  2001、VWのサンタナの欠陥が原因となって、寧波でタクシー運転手のストが発生した。VWはしばらく操業を停止するしかなかった。  モーリシャスからECへ無関税で輸出できることに香港の繊維メーカーが目をつけた。  1984に米国が法律を変えて香港から来るニット製品をしめだそうとした。すると日本の高性能電子制御自動編み機の島精機に、起死回生の特需が舞い込んだ。  1994にNAFTAが成立するや、米政府は自国の安全基準をメキシコ人トラック運転手にも厳格に適用し、メキシコのトラックが国境を越えられないようにした(p.138)。  王府井の百貨店の家電売り場には、いろいろな製造地の日本ブランドのテレビが並んでいるが、最も安いシナ製のものが好まれる。※それはPOPが嘘かもしれないので、とりあえず店頭で映っている、いちばん安いモデルが選択されているというだけだろう。  90年代から、合衆国では、縫製のような低賃金反復作業の分野以外でも、良質の労働者を見つけるのがむずかしくなっている。そこで86万人以上、特殊ビザによって外国籍労働者を受け入れることに(p.143)。  石川県の辰口工場は東レのナイロン・ポリエステル繊維をロボットに生産させている。人間の目で監視しないので、昼でも工場内は真っ暗。照明は無用なのだ。この工場の労働コストは5%だがそれでも高いという。昔マルクスが言ったとおり、他の諸コストが動かし難く見えるにに対して、労働コストは圧縮可能に見えるのだ(p.146)。  1996-6にマサチューセッツ州議会は、人権侵害中のミャンマーで事業を行なう企業から商品を調達してはならない、とする法案を通過させた。結果、モトローラ、ヒューレットパッカード、アップルがミャンマーから撤退。連邦最高裁は2000-6にこの州法を無効としている。  シナ大陸では台湾や香港の経営者が強盗・誘拐の被害に遭う。新疆ウイグル自治区のイスラム住民も不安の種だ(p.148)。  米国の製造業就労者は、シナの同職とくらべ、28倍の付加価値を生み出している。生産性が高い理由は、質・量ともに勝る資本設備のおかげ。そして高価格で販売できる商品をつくっているから(p.150)。  シナ語でいう「関係(グァンシー)」を身につけているのはやはり同民族。  ある香港の機器メーカーの重役は、シナ大陸の自社工場へ大型機械を送るたびに、地元の役人から関税免除の申し出を受ける。これは将来祟るのできちんと関税を払いたくても、相手が有力者なので断ることができない。結果、ひとつひとつの機械が、時限爆弾。いつ報酬を求められるか、分からない。法の支配がない国では、コストの計算は甚だ難しい(p.157)。  メキシコでは、進出した外国資本の工場で雇える労働力は、近所の住民だけ。誰も遠くからやってくることはない。遠くで働くガッツのあるメキシコ人なら、アメリカ合衆国へ行ってしまうから。  2000-5に困った台湾人経営者は、シナ人労働者の就労許可を求めたが、メキシコ政府から一蹴された(p.162)。  オーダーメイドの高級スーツとコートの生産は、今のポーランド、ハンガリーから、ルーマニアやブルガリアやウクライナへ移るかもしれない。この商品はシナ人が不得意にする分野である(p.165)。  ロサンゼルス郡ではファァションが最大の産業だ。  米国総人口2億9300万。イタリアは5800万。  イタリアの都市には、シナ人、アルバニア人、旧ユーゴ人がなだれこんだ。繊維工業の中心地モデナでは、200社がシナ人に所有されており、そこで6000名のシナ人が就労中(p.168)。  日本企業は半導体やLCDの製造工場を新設するときはライバル企業同士で資金を分担する。米企業は製造を外注する。  L・W・パッカードはシナでの経験皆無なのに内モンゴルへ生産設備をいっぺんに移して合弁事業を立ち上げ、しかも自社の管理者をひとりも現地へ送らなかった。てきめんに法則発動。  デル社の部長いわく。CPUが電力を消耗しすぎるという消費者の声をインテルに伝えた。その結果、Centrinoが生まれた。  2004にマイケル・デルいわく。研究開発費の多くは、じつは専有権を守るために使われ、消費者の役に立っていない。  2003にソニーは世界最大の家電メーカーだったが、株価が25%下落した。売り上げと収益が90年代末から減り続けていた。アップルのiPodに後れをとった。技術者が専有技術にこだわったせいで、ソニーのデジタルプレイヤーは一般的なMP3ファイルを再生できなかった(pp.190-1)。  ソニーは1982のCDプレーヤーでは成功していた。  ソニーは、複数のプロセッサからなるマルチコアたる「セル」に期待している。これは東芝とIBMが共同開発した。まずプレステ3にこれを搭載し、ゆくゆくはPC〔VAIO?〕に搭載してウインドウズ-インテルを駆逐する野望あり。  ソニーの幹部、青木昭明いわく、デルは言ってみれば、ソニーの2004年の収益の68%を出したプレステだけに一点集中するような方針の会社。しかも法人向けに薄利多売する。  青木いわく。請負業者には、一社につき一工程しか任せない。それにより、ODM(ブランド所有企業のために匿名でデザインと製造を請け負う会社)に全工程を任せても、ソニーがソニーの競合企業を育てていることにはならぬ。ソニーの利益の源は「部品」であって、組み立てではない。  IBMはソフトウェアの特許を手放し、それにより業界の発展に寄与した。  2005、ソニーはソムスンとの技術協力を深めると発表した。サムスンは1997のアジア通貨危機で倒産寸前まで追い込まれたが2004には世界第三位のIT企業になった。2004のサムスンの純利益100億ドルは、日本のエレクトロニクス上位10社の利益合計の2倍である。  ソニーの戦略の主眼は、「セル」チップという技術革新によって、製品を一新することにある(p.197)。※日本版のインテルになってやろうという野望を燃やしたのか。  アメリカとカナダで最大の眼鏡売りは北イタリアに本社があるルクソティカである。レイバンは同社に買収され、多数のブランドのひとつとなった。買収のたびに工場を閉鎖して生産設備をイタリア工場に集約している。  液晶パネルは2枚の基盤のあいだに化学物質をサンドイッチする。世代をおうごとにガラス基板(それを切り抜いて部品とする)が大面積化しつつある。  2004、アメリカでのインクカートリッジの売り上げは、プリンタの売り上げの2倍以上だった。  台湾企業のサンダータイガーは、1980にラジコン飛行機&車のブランドを立ち上げ、アメリカと日本で売り出した。アメリカでは競技大会のスポンサーになっている。おもちゃのヘリは4000ドル。しかし軍用の無人機にも進出する意欲がある。生産はシナ大陸に移す予定(pp.221-2)。  シナ人や台湾人ブローカーと取引するときは、「工場を見せろ」と要求すること。そうでないと、安価な孫請け工場に勝手に部品生産を丸投げされてしまうから。  アパレル業界には細かい契約の慣行がない。ために力の弱い側は、約束違反で泣かされる(pp.227-8)。  ウォルマートは2004にシナから毎年180億ドルも輸入している。マッキンゼーによると、1995〜1999に、米国の小売業の生産性は飛躍的に増加し、そのうち1/6は生活用品で、ほとんどウォルマート1社の貢献だと。ウォルマートは、商品が安いだけでなく、店で働く従業員の賃金も安い。  大手スポーツウェア企業の社長いわく。ウォルマートは、過去の最安価を欲しているのではない。前年と較べて、今年は同じ商品が、さらに安くなければいけないのだ。  ある子供服メーカー社長はそんなウォルマートを「悪魔だ。悪の帝国だ」と呼び、他の小売チェーンやデパートへ納品しているという(pp.230-1)。  台湾のノートPC会社幹部いわく。従業員には、かわいそうだが、どんな遠い出張でも必ずエコノミークラスに乗ってもらう。もしもビジネスクラスに座っているところを顧客に目撃されたら、価格を下げる余裕があると思われてしまうからだ。  主要な顧客への依存を減らし、その気まぐれや好不調に左右されるな(p.239)。  風船製造のアナグラム社いわく、シナでは陸路、海路とも輸送が飽和状態(p.251)。  ケンウッドは2003にマレーシアのポータブルMDプレーヤー工場を山形へ移した。これにより、小売店まで商品を届ける時間距離が、32日から、1日に短縮された。  イタリアにあるズルツァーは三大織機ブランドの一つ。  2000のアメリカ全体の平均年収は3万4669ドルだった。しかし、同一分野の企業多数が集結している産業集中地だと、労働者の平均年収は44956ドルと高くなる。  モジュール化していない製造工程においては、暗黙知利用のため、顔を合わせてのやりとりが必要だ。  日本では生産方式を、ベルトコンベア式からセル式へ変えた。少人数チームが製品を最後まで完成させるのだ。  松下はシナでの事業を拡大して国内の従業員を19%減らすことで、2002の赤字36億ドルを、2005には黒字29億ドルにする見込み(p.271)。  日本はシナ成長の波に乗った。シナから世界へ輸出されている新世代家電の部品をシナへ輸出したからだ。CCD画像センサー、大型液晶パネル、プラズマディスプレイなど(p.273)。※だからデジカメの販売にイチャモンをつけてその仕様をあきらかにしろと強迫してくるわけか。  外部業者に組み立てを任せると、製造工程省略のためのアイディアが設計屋までフィードバックされない。  携帯電話の商品としての寿命は6ヶ月から3ヶ月に短縮された。つまり企業は2、3ヶ月ごとに危機にさらされる。  80年代、日本の家電メーカーは、工場管理に、財務に詳しい人材を配置しすぎた。このためセル方式への転換には苦労した。現場が分かっている管理職がいないのだ。  設計の多くの部分が下請けに出されているので、生産システムはもはやあともどりできぬほど細かく分業化されている。  香港のアパレルメーカーの経営者は主に、1949の中共誕生時に上海から逃れてきた実業家(p.283)。  イタリアでは雇用水準が安定しているため、企業が成長しようとしたら国外、たとえばルーマニアに出るしかない。スキーブーツの場合、加工と塗装に重大な秘密がある硬いプラスチックの部分だけはイタリア本国でつくり、他はルーマニアとシナでつくらせる。  イタリア人はアメリカ人よりも服にカネを使う。  世界最大の携帯電話キャリアであるボーダフォンは、自社専用に開発されたシャープ製の携帯電話を販売している。  1990'sも、ファブの新設の資金繰りに日本の大企業は苦しんだ。そのときは、韓国、台湾と提携した。いまは日本企業同士だ。  インドの工科大学としては、カーンプル、チェンナイ、ムンバイがある。上海に匹敵するところは、バンガロール。  シナの小切手には機械で読み取れる数字が打たれていない。米国の小切手には魔法のインクで記されている。  シナ人技師は国際見本市で勝手に展示製品の部品をバラして中味を調べる(p.323)。  シナではグローバルハイブリッド企業は、外国資本が設立し、出戻り華僑か、元留学生が運営する。  AT&Tのベル研、ゼロックスのパロアルト研、IBM研などの成果は、近年、効果が短期間で切れてしまう(p.326)。  1988→2000に、米のGS従業員は半減した。セルフ化したため。これを労働統計局はまったく予測できなかった。  どうやらわたしたちは雇用なき景気回復にはまり込んでいる。  社会が開放されているからこそ、わたしたちは資源を再結合させ、より創造的な目的に使用することができる。  グローバル化による損失は、特定の社会集団にだけ大きくのしかかっている。この傾向は将来も同じだ。  外人が認めるアメリカ式の長所は、効率化と透明化と規格化(p.337)。とくに無教養なシナ人などを扱う方法。マック店員のマニュアル。  米国では、法定貧困線の年収は1万8392ドル。これに達していない共働き世帯が250万もある。さらに670万の勤労者世帯は、もしいちど経済的な苦境に陥ると二度と立ち直れない。全労働者の1/4にあたる2800万人は、家族4人に貧困線以上の生活をさせるだけの賃金を受け取っていない。  米国では、卒後にどこへも進学しなかった高卒者が5割いる。彼らはその後まったく教育を受けない。これについてビル・ゲイツは2005-2に全国州知事を前に警告した。数学と科学は、小4までは世界で一番良い。しかし高3になると世界で一番ひどい、と。  ゲイツいわく。米国では大学進学者が基礎学力がないのでひじょうに沢山、中途退学している。2001にシナでは米国の6倍の技術系学部の大卒者が送り出された。  米国では、高卒者にはもう一家を養えるような職に就くことが望めない。  米国は2001に、落ちこぼれ防止法を考えた。  生涯教育を再構築する必要がある。それなくして経済実績と生活水準を大きく向上させることは不可能。  2004から、DODとDARPAは、助成の支出先を、基礎研究から、短期的な成果が望める研究へと移行させはじめた(p.350)。  守衛、ウェイター、料理人、レジ係、病院の雑役夫、顧客サービスの相談応対係は、年収が1万8000ドルを下回るが、雇用は2012まで伸びると予測されている。  シナで儲けようとして失敗した実例集は、ジョー・スタッドウェル著『チャイナ・ドリーム』邦訳2003を見よ。 ▼吉村昭『細菌』1970-11講談社  ハルピン南方のその建物上空は軍用機の飛行も禁止されていた。  囚人を丸太と呼ぶ。リアルの二十日鼠、黒鼠も飼育。  ハルピンへの外出ができる軍医や軍属は、襟章をとりはずした。  満人の住居で敷物をめくると、つもった埃が炭酸水の気泡のように一斉にはねる。すなわち、蚤である。※それほどにありふれていたので、媒介として着目したわけだ。  ソ連の諜報員たちは、その特殊地域が関東軍防疫給水部の本部で、安達に実験場があり、林口、ハイラル、孫呉に支部があり、特殊な研究をしていることもつかんでいた。  関東軍防疫給水部は、「防疫部」「防疫勤務部」が発展したもので、部長の軍医中将・曽根二郎〔たぶん、石井四郎中将のこと〕は、この部門の開発創設者であった。  かれは、千葉県の豪農の家に生まれ、親戚の家に養子となり、京大の医学部に進み、細菌学を専攻した。あまりに優秀なので京大総長が娘を嫁がせたほど。  大10-4に陸軍二等軍医となり、近衛歩兵師団第三聯隊附に。大11-8に東京第一衛戍病院。と同時に細菌学研究のため京大大学院にも籍を置く。直後に一等軍医に進級。  S2に医学博士(p.13)。  S3に、曽根は欧米各国の軍事防疫学調査のため外遊。ドイツとアメリカで、ひそかに伝染病原菌を兵器として使用する研究があることを知る。  S5に帰朝すると、軍医監・小泉親彦の支持を得て、S7に軍医学校防疫部の地下教室を改造し、防疫研究部を創設した(p.14)。※わたしは本書によって、小泉がなぜ敗戦直後に自決したかを初めて理解した。東條開戦内閣での閣僚歴など、大した理由ではなかったのだ。小泉と石井は細菌戦プロジェクトに関して一心同体だった。ボスの小泉が自決してくれたおかげで、石井その他への風当たりは弱まったと想像される。もしも日本が対ソ戦を始めていたなら、間違いなく彼らはヒーローだった。  研究所主任の曽根の下、5名の軍医が配置された。S6には近衛師団軍医部長になっていた小泉の提案にもとづいて、軍医学校に隣接した近衛騎兵聯隊内の敷地に防疫研究室を新築し、移転。鉄筋コンクリート2階建。実験動物室、変電室、ボイラー室などあり。  S8-3-10の陸軍記念日に、曽根が試作した無菌濾水機が九段で天覧に。陸軍軍医学校長の小泉とともにその説明をおこなった。すでに陸軍の防疫学の第一人者であった。海軍大演習の御召艦『比叡』にもその濾水機が搭載された。  満州の山岳地帯は清水が得られた。しかし平地は汚水ばかりだった。浄水薬剤で濁りはとれるが、除菌までには至らない。  それを曽根が解決してくれたのだ。関東軍は激賞した。  曽根はハルピンなどへ出るときは軍医少佐ではなく歩兵少佐の階級章をつけた。  対ソ細菌戦の計画を知る者は、陸相、次官、軍務局長、軍事課長、医務局長だけ。関東軍では、軍司令官、参謀長、参謀副長だけ(p.19)。  陸軍の軍医界も東大閥が仕切っていた。省の医務局局長、各部門の課長は東大医学部出でなくてはなれない。そこで曽根は誰も手がけていないジャンルを開拓したのだ。  曽根は関東軍司令部内では参謀副長だけに密会し、その参謀副長が、陸軍省との連絡にあたった。協議の結果、手狭になった研究所を拡大することに決まり、S11に関東軍防疫給水部が新設され、初代部長に曽根二郎が就任。  病原菌を培養した寒天をちょくせつ敵の後方に撒布したらどうか。これは高空の冷気のため、菌が死ぬ。低空から撒けばエリアが狭くなりすぎてダメ。  けっきょく、爆弾にペスト感染蚤をつめて投下する方法しかないと石井は結論した。  厳重な予防着をまとったゴム手、ゴム長の作業員が、鼠の内臓を培養基に殖え、櫛ですいて蚤を取り出すなどした。作業室への出入りでは消毒液を浴び、作業後は消毒薬浴槽につかる。それでもペストに感染して死ぬ者が複数いた。  曽根軍医大佐は、S14-6に中支那方面軍防疫給水部長に就任した。※吉村はこれはシナ戦線での実験のためだと書いているが、S14は事変の泥沼化に省部で頭を抱えていたときだから、もう実験などの話ではなくて、石井には、すぐにも重慶政府を細菌で降伏させて欲しいという期待がかかっていたはずだ。  ある日、関東軍の参謀副長のもとに、国立大学の外科医×3が、内地から訪れた。健康な匪賊の斬首された首の断面がみたいという。参謀副長は、吉林の部隊の斬首のたくみな曹長をつけてやり、数体の首の切断面を調査させてやった。彼らは満足し、2週間後に内地に帰った。  北支では凍傷患者が多い。そこで曽根は上司に願い出て、俘虜を使って治療法を探究した。結果、患部を37℃の温湯につけるのが、もっとも良好であると判明した。陸軍省はしかしこの報告をうけいれず、北支軍のみが採用した。※雪でこすれとか水でこすれとかいうのはぜんぶ、俗説だったのだ! この石井の大発見が、人体実験であるがゆえに戦後も広く知られていないのは、なんと不幸なことだろうか。  曽根はふたたび関東軍の防疫給水部長に戻った。※芙蓉書房の『陸海軍将官人事総覧』で調べてみると、石井大佐はS16-1-5に、「中支派遣軍防疫給水部長」の兼任を解かれている。これは陸軍上層がS15末には対ソ戦を強く意識したことも示唆する。  工作員に携行させるための菌注入チョコレート、細菌を噴霧する万年筆/ステッキ型の細菌銃なども試作した。  普通の火薬と蚤をつめた爆弾を飛行機から投下する実験は安達駅特設実験場でおこなわれたが、炸裂時の高熱で蚤は焼死することが判明。  そこで、低温爆弾を研究しようとしたが、常識外のアイディアを出せない爆弾専門家どもにまかせておいたら全然ダメだと悟ったので、じぶんで陶器製爆弾を設計して1年で試作に成功した。粘土を石膏の型に流し込んでうすい筒状にし、特別の窯で焼く。長さ70〜80cm、直径は20cmだった。底部に曳火信管。弾筒の表壁にジグザグの溝を刻み、その溝に爆薬を充填して、爆破する。薬量はごくわずかなので蚤は死なない。※この爆弾の写真は知られていない。それにしても、内壁でなく外壁に装薬するとは、誰が考えつけようか? やはり石井は天才だった。  鼠繁殖室は摂氏30度に保たれていた。  「第四部」が細菌工場。  曽根式培養器では、24時間でコレラとチフス菌は寒天を完全に覆う。ペストと炭疽菌は48時間であった。  「第五部」は、特殊要員を教育する。各部隊から人が派遣されてくる。  ある著名な細菌学者は、日本伝染病学会総会、満州医学会に「実験材料」と題した論文を発表した。そのなかに、北満トゲダニを乳剤化したものを大腿皮下注射した「満州猿」と書いてあるのは、人間のことである。一部の学会員は、充分承知していた(p.62)。  陶器製爆弾の外観は、白茶けている。地上から100mほどで炸裂する。曽根は蚤の撒布界と、蚤の生存率を実験で確認した。細菌爆弾を実用域にまでもってきたのは、その時点では日本だけであった。  榴霰弾で囚人に瓦斯壊疽菌を打ち込む実験は、失敗した。炸裂の瞬間に死滅してしまうのだ。※つまり爆薬ではなく、黒色火薬でも、菌は死んでしまう。  蚤は光を恐れる。  蚤に囚人を食わせる実験では、15名のうち3名、ペスト感染が確認された。  真夏の晴天にはペスト蚤は効果がうすいとも分かった。※とすれば対ソ戦には使えないわけ。  曽根は、運動力の弱い脾弱な蚤を淘汰して、強健な蚤だけを培養させた。これは光から逃げるスピードで選別すればよい。  別館で人体実験に供されたシナ人俘虜、シナ人スパイらは、「材木」と呼ばれた。  東京の陸軍軍医学校が囚人を必要とするときは、空気穴をあけたドラム缶にシナ人を詰めて、操縦士免状をもつ軍医が輸送機を操縦して渡洋した。  シナで鼠をあつめると意図がばれるので、茨城県下で二十日鼠をあつめ、定期的に大陸へ空輸した。  陸軍省の命令〔?〕で中支で細菌を実戦使用することになった。※時期が書かれていない。  細菌撒布機は漢口の軽爆3機の両翼に1個づつとりつける。長さ80センチ×直径20センチのアルミ容器。内部はペスト蚤だらけ。  これを寧波の密集住居に対して使ってみた。無線傍受により、ペスト流行が確認された。  ついで、常徳にも同じ方法で撒いた。やはりペストが流行した。  軽爆3機での超低空飛行、しかも霧状の放出が目撃されていたので、すぐにあやしまれてしまった。  シナ軍はアメリカ武官に通報した。米陸軍省はS16-11中旬、日本軍がシナ戦線で細菌を使用したという話をプレスに流した。在米の駐在陸軍武官がこの報道を東京に知らせたので、細菌撒布は中止された。  ドーリトル始末。S17-4-10夕方、大和田の海軍傍受班が、米空母2〜3を含む艦隊の交信をとらえた。おそらく14日頃に、空母から東京を爆撃すると推定。海軍は80機の雷装陸攻を待機させた。4-18朝、監視船の第23日東丸19トンから、敵飛行艇3機、敵飛行機2機という通報。※前路哨戒は観測機で。それと別にCAPをとばしていたのか。  哨戒機と陸攻をとばしたところ、東京の東600海に米双発機×2を発見。午後零時45分、戦闘機×24と陸攻×29が飛び出した。  B25×16機は、発見されたので予定より早く発進。  B25が着陸した基地をつぶすため、浙コウ作戦(〜8月末)。  だが一撃離脱ではまた修復される。そこで支那派遣軍総司令部は、細菌戦を決定した。  こんどはバレないように陸上で撒くことにした。肉汁にチフス、パラチフス、コレラを培養し、罎につめ、そこから携帯用水筒にうつし、井戸や飲料甕に投入する。8月初旬、隊員160名が実施。  人家にはペスト蚤も撒いた。  給水部員は、チフス/パラチフス菌入りのビスケットを味方部隊に配布した。もちろん指揮官には危険度を説明する。兵隊はそのビスケットを休憩地に忘れたように見せて残置した。  ※このあたりの情報源は、ハバロフスク戦犯裁判での元731・古都良雄証言なのだろう。しかしこの戦法は石井らしくない。サルモネラは乾燥に強いといわれるが日光に晒せばやはり菌は紫外線で死ぬ。さいしょに誰かがひっかかったとすれば、すぐにビスケット注意報が支那人の間に広まるから持続性がない。いたるところでビスケットを落としていく敵部隊など不自然すぎる。水甕に投入してもシナ人は水は煮沸して飲むからチフス菌は死滅する。ロスケにしても、M39刊の櫻井忠温『肉弾』に、師団長の名前すら知らない死にかけの露兵捕虜が、煮沸済みの己れの水筒水しか口にしようとはしなかったことが紹介されていたのだ。しかもわざわざ、致死力でも耐乾燥性でも劣るパラチフスを使って、どうしたいのか? 石井ならば、豚小屋を汚染する方法を考えたかもしれない。豚糞とハエを媒介にすれば長期的な病気流行を作為できるからだ。しかしこの方法も現実的ではなかった。豚や鶏は進攻した日本兵が先に徴発してしまうから、日本兵が去ったあとには新鮮な糞がなくなるのだ。すると残る可能性は、現地の鼠に食わせるように細菌入り鼠餌をばら撒く方法だが、うまいこと野鼠だけに食わせるような方法がないだろう。  俘虜3000名の給養に困ったので、細菌饅頭を3000個つくり、それを手渡して解放した(pp.103-4)。※これもハバロフスク資料からの想像だろう。乾燥ビスケットにくらべれば、内部が湿った饅頭はチフス菌の保菌食材として優っている。ところが、饅頭を地面にばらまいてシナ人に食わせることはできない。夏はすぐ腐るし、冬は動物が先取りしてしまうだろう。なにより日本軍の野営跡に饅頭が落ちていたら不自然きわまりないだろう。つまり実用性がゼロなのだ。アイディア倒れ。そこでソ連人の手先は苦しまぎれに、捕虜に一度に食わせるなどというフィクションを捏造したんじゃないか。みんな小説家だよ。  製鉄に有用な蛍石の産地、金華付近だけは、占領が継続された。  シナ人から密偵を雇うときは家族持ちに限る。つまり人質を取れるので。  富嶽について。陸軍は、高度1万m、防禦火器装備を支持。海軍は、高度1万5000m案に固執した。  車輪は2つ1組で、離陸後、1つは捨てる。  スタへリングラードのドイツ軍はS18-2-2降伏。※これは独軍の士気を低下させた。  曽根は、対ソ開戦前にソ連領内を密かに攻撃する手段として風船に注目した。  月も星もない暗夜に放てばよい。  関東軍総司令部は、この案を発展させ、武装兵を運べないかと考えた。  曽根は、これに応え、直径5mの風船で兵士一人の重さを最大100km運べることを確かめた。  陸軍技術研究所の第一課は、気象学者の藤原咲平に相談。11〜3月の偏西風にのせればアメリカを攻撃できることを知った。  直径10m、2.7kgの砂バラスト×30個。高度が9000m以下にさがるとバラストを落とす。また15000m以上になると水素を少し抜く。  爆弾を投下した直後、風船じしんも自爆して証拠を消す。※小麦収穫期であり且つ森林乾燥期の夏季に焼夷弾と気嚢の自焼を以って攻撃していたら戦果があっただろうが、夏は偏西風が衰えてしまってだめなのだ。  風船集団にはラジオゾンデをつけたモニター風船を混ぜた。  作成には経師屋と女学生・花街の婦人が動員された。  11-1早朝から「富号試験」という名の特殊攻撃が開始された。  S19-11-4に西海岸の米海軍哨戒艇が漂流中の風船を発見。  ラジオゾンデの風船は、気嚢をゴム引き絹布でつくっていた。ところが、じっさいは水素の密閉に関しては雁皮紙のほうが良好だったのだ。そのためゾンデの方が先に墜落してしまって、爆弾が米大陸に達したかどうかは一度も確認できなかった。  大本営はアメリカのラジオ放送で、ようやく到達を確認した。このニュース報道は12月中旬で止んだので、陸軍は作戦は失敗したと判断。  米側は、バラストの砂から日本の五箇所の土地をしぼりこみ、空中偵察で、真珠色の風船が並んでいるところを撮影した。  オレゴン州では婦人1人、子供5人が死亡。  9000個を放って、1000弱が北米に達した。  関東軍は、S20-2下旬に、シベリアのソ連軍の著しい増強を偵知した。  日ソ中立条約は、モロトフ通告にもかかわらず、S21-4-12まで有効だった。  S20-5-8ドイツ降伏。  関東軍は銃剣が10万個不足していた。出動可能航空機は88機のみ。  8-7早朝、トルーマンのラジオ放送。爆弾の威力はTNT2万トンであること、2つの巨大工場で量産中であること、日本のいかなる都市も抹殺する用意があること。  曽根の実家の父母は不仲だった。母の頭が良すぎたのだ。母は単身で去った。父は再婚してまた子供をつくった。そこで二郎は養子に出た。養家に金銭的負担をかけたくなかったので、町医者ではなく軍医を選んだ(pp.153-4)。  死体を焼くときは、1体が燃え尽きないうちに次の死体を投げ込むと、穴は生焼けの死体で盛り上がってしまう。  研究施設の爆破のための火薬を要求すると、総司令部はすぐに50キロ爆弾多数を送り届けてくれた。  満人の機関士たちは故郷をはなれて南下することを嫌い、故意に列車を止めた。8-14に新京の近くにくると、満人の暴動で市内には火災が発生していた。  鴨緑江鉄橋をわたるときに、細菌や器具は河面へ投げ棄てた。  8-21午前10時過ぎ、防疫給水部員たちは釜山に到着。  「かれらには得体の知れぬ旧軍の力が依然として働いていた。釜山に到着した翌日には、早くも内地へ送られることになった」。  8-23午後、あかつき部隊の上陸用舟艇に分乗し、出航。そのまま関門海峡をくぐり、山口県萩市の砂浜に乗り上げた。  日本政府と大本営は、8-9の午前4時同盟通信によるタス通信の傍受によって、ソ連が8-9午前零時を期して対日戦を開始すると知った。同日午前1時ごろ、大本営は、牡丹江でソ連軍が攻勢に出ていることを報告された。  満州の非戦闘員の邦人はS21-5から国民政府によって開始され、S23-8-15までに4万5000人が葫廬島からの船で内地に送還された。  米占領軍との連絡官であった君島陸軍中将が、GHQに呼ばれ、曽根元陸軍軍医中将をつれてきてほしい、と依頼された。戦犯としてではなく、曽根を利用したいという。  曽根の持論。盲腸手術は動物実験からスタートして人間に応用したが、それでも患者はバタバタ死んだ。それから何百人も手術してようやく確実な方法がわかった。人体実験は必要なのだ。  曽根は、提出は拒否したが、相応の価格で買い取るならOKと返事した。  ソ連は、俘虜のなかにスパイをまぜたが、そのなかに元陸軍少将がいた。少将は曽根の自宅を二度、たずねた。  S33春、曽根は国立第一病院で喉頭癌を手術した。しかし1年後に再発し、S34-10-8死去。青山の告別式にはどこからともなく1000名もの焼香客がやってきた。 ▼加藤周一『日本の名著 18 富永仲基』S47  宋の朱子学のまる輸入が羅山。孟子に戻り、単なる修養教に引き下げたのが仁斎。  儒教を非スコラ化し切ったのは徂徠。  1720に、ヤソ関係除く漢訳洋書は解禁。  仲基は、仏教知識の多さで宣長に感銘を与える。  宋学派の特徴は、諸説を一体系に統合しようとすること。  仲基にとっては、自国の弱点を批判するために、他国を理想化する必要はなかった。  『翁の文』いわく、聖の字は、もともとは智恵のある人についていう。それが拡大され、人間の最上のもので神変さえあるかのようになった。  神道の特徴は、神秘、秘伝、伝授印可にある。これは幻術により信じ込ませるインド人、文辞により感化しようとするシナ人より劣る。  仏滅後、長い間、定まった教説も典籍もなく、すべての人が勝手に作りかえ、口伝してきたのだ。禅家の不立文字の意味するところは深い、と『出家後語・下』。  経説の多くは滅後500年ごろ編まれた。  私淑は儒学についていい、縁覚は仏教についていう。  言葉の原義を拡大し、似ても似つかぬものに変えることを「張大」とす。  仏は、この国のひとすべてに妻をめとり、後嗣をもうけることを止めようとしたわけではない(p.128)。  父母がときには牛や羊になるのなら、そのときどうしてただ穀物や野菜にだけはならないのか(p.132)。  禅学の「師資相承」を難ず。  道教は、インドの異学派のようなもの。  儒仏の争いは、幻説と文飾が争われているにすぎない。 ▼W.Dilthey『フリードリヒ大王とドイツ啓蒙主義』村岡皙tr. S50  フリードリヒは形而上学と幾何学が嫌いだった。  当時、軍事的天才と文才の兼務者はカエサルだとみなされていた。  無国籍将校は、当時のプロイセンには見られなくなりつつあった。  フリードリヒは、敵方の企図を知る文書を入手するためにオーストリアやザクセンの官吏を買収したことを、いわばあたりまえのことと述べている。  訳注。父のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、兵隊を惜しんで実戦に用いなかったので、「兵隊王」とよばれる。 ▼C・シュミット『政治的ロマン主義』大久保和郎tr. 1970、原1918&1924  第二版への著者序文。ドイツ語の創作名称は、多義性を脱したことがない。  フランスでは、「人間の生来の善」という命題をロマン主義という。  語源的には「小説的」。  ボダンは、マキャベリズムの結末は国家の不幸だという。  ※主観化された機会主義、なのか? ▼R.P.Dore著、松居弘道tr.『江戸時代の教育』S45  応仁〜慶長期、俗髪だと軍役にとられるので、文人は皆、剃髪した。そこで小児の手習いも寺で、となった。医療、芸術も。  『徳川実紀』によれば、家康には読書講文の暇などなかったが、御治世の始めより、文道に入った、と。  頼朝が京都朝廷の学者を用いたように、家康は仏儒を用いた。文をならわせ武をすたれさせようとの底意もあった。  素行11歳で仕官の声がかかった。儒家の売り手市場時代。  京都はやはり江戸より図書が手に入った。  文盲の200石武士について(p.17)。  日本人は Curiosity を学問の動機として欠くのではないか(p.45)。  藩校で6〜14才の少年にまず四書を教える。  漢学には免許だの目録だのはない。※秘伝ではないのだ。  印刷の際、漢文は楷書で、和文は草書のままだった。帆足万里は、教育のため、シナ古典をすべて和文に翻訳せよと説いた。  18世紀中葉の森山孝盛は母から素読を習い、白文まで読めるようになった。  徂徠は、漢籍はシナ語でよむべきで、訳すなら完全な日本語にすべきだとした。  朱線が右側にあれば地名。真ん中一本は人命。真ん中二本は書名。  闇斎は、講釈を正式の教授法として採用した最初の一人。生徒は、聞いたすべてを筆記する。そのため学問にはなり難く、江戸後期には廃れた。  本多忠籌『匡正論』は、兵学者は、儒教古典の基礎知識も不要だ、と。  教育を目的とした徒弟奉公は、北日本の地主の家ではごく最近まで存続していた。 ▼トルストイ『戦争と平和』エピローグ第2編と付録、カラー版世界文学全集第20巻、中村白葉tr. S56  ギボン、バックルを挙げる。  ※ナポレオンの士気喚作力については無考慮。  飽食――飢餓は自由の段階の大小に過ぎない(p.509)。  「歴史家にとっては(戦闘の例をつづけよう)おもな資料は、各隊の長官や総指揮官の報告である」(p.522)。  練兵場と違って、生死の問題の行なわれている戦場では、総指揮官の命令は行なわれない。  トルストイはセバストポリ陥落後、多くの報告書からたったひとつの報告をつくった。 しかし自分の小説はすべての資料にあたったから絶対正確だ、とも。  解説。ナポレオン戦役までロシアに舗装道路はない。  ロシアの銃兵のマスケットは有効射程200mそこそこ、ロシア軍の猟兵はライフルを持っていた。 ▼頼山陽『通議』安藤英雄・訳注1977  佐藤一斎と同時代人。  顕在化前の「勢」を誘導するのが指導者。徂徠も「太平策」で勢を論じている。  明治以降の刊本からは、天皇批判の部分が削除された。  秦・宋は郡県。元・明は省府を置いた。防人は唐の府兵をまねた。  ※「天下の大勢」とあるのは、勢を、バランス・オブ・パワーともみている。  監官の勢を重くせよ(p.84)。※KGBを強くせよ。  日本に科挙がない理由(p.113)。  井田が聖人の法とされたのは、古代国家が平坦地にあったから。  紀貫之の日記には、淀川遡行時の川床が埋って高くなっていることが記されている。  聖武天皇いらい、貴金属を仏像に使ってしまったので貨幣経済が滞った(p.171)。  地着=武士の土着は、徂徠が言ったことだが、それをくりかえす。  延喜式の兵部によれば、甲斐に1、信濃に2、上野に1人の牧監(うまかい)が任命された。  ※海防を論ずるのに、孫子の「守るは余る……」「一をもって十にあたる……」を参照しているようだ(p.204)。 ▼Jonathan D. Moreno著、西尾香苗tr.『[マインド・ウォーズ]――操作される脳』2008-9、原2006  この原稿のほとんどは2005春に書かれていることに注意。  LSDは1960年代なかばまで「LSD-25」といったのだが、いつのまにか25がとれた。リゼルグ酸ジエチルアミド。  ニューロエンジニアリングはもはや空想ではない。DARPAもブレイン・マシン・インターフェイスに興味がある。  戦わずして敵を降伏させる究極のマインドコントロールマシン=古臭いマインドコントロールの考え方、である(p.28)。  DARPAはスプートニクの翌年の1958に設立された。  1961にマウスを開発した研究所はDARPAのカネをもらっていた。  DODは研究開発に680億ドルを費やしている。この公式数字には、秘密裡に闇で供給する国家安全保障研究費(90年代で300億ドル)が含まれていない(pp.34-5)。  2002時点で全米の350の大学がペンタゴンの仕事を請け負った。だいたい基礎研究資金の6割。MITは金額では筆頭で、2003に5億ドルを受け取る予定。ジョンズホプキンズ大は3億ドルを受け取る。  WWIIのときは科学の全分野がFDRとその助言者のために働くように強制された。その体制は冷戦にうけつがれた。  トルーマンの有力政策立案者のなかに、プロヴォスト・ヴァネヴァー・ブッシュ、W・アヴェレル・ハリマン、フォレスタル、ケナン、J・B・コナント(ハーバード総長で化学専攻)らがいたのだ。  ハロルド・ラスウェルは、アメリカはギャリソン・ステイトになろうとしていると表現した。  コロンビア大のジョン・デューイも、WWII参戦の結果、アメリカが軍国主義になるのではないかと危惧。  1627のベーコンの『ニュー・アトランティス』によれば、発明や新知識のすべてを公開するべきではない。  ペニシリンは精製方法の開発が遅れたためにWWIIじたいにはあまり役立たなかった。  1930年代前半までは、米国の大学は政府から距離をとっていた。  しかしMITは政府の支援を受け入れ、カール・コンプトンのもと、物理学で工学問題を解決しようと奮闘した。  1946、アイクは民間科学と軍事技術をいっそう融合させようとした。しかし米国が秘密主義国家になっては困る。そこで原子力委員会は文民統制下におかれた。秘密主義は無能な研究の隠蔽にもつながる。  ※この著者は、スパイ活動がなくともソ連は原爆を造れただろうと考えているが、甘い。  1945に、人体がプルトニウムを排出する速度をしらべる実験が複数の病院で行なわれた。  翌年、「インフォームド・コンセント」という言葉が生まれた。同様概念は、ニュルンベルク綱領にもあるが、そっちの表現は voluntary consent.  強制収容所の人体実験に関するナチス医師の証言が衝撃的だったので、3人のアメリカ人判事が、人体実験倫理についてコードを書くことを思い立った。これが後にニュルンベルク・コードとなった。  戦後のペンタゴンは、ニュルンベルク綱領を国際法と勘違いした。国防次官補のアンナ・ローゼンバーグ(死刑になったローゼンバーグの前妻)が導入したのは事実だが。おそらくNYで労働争議の専門家として活躍したころの経験から、人体実験の被験者は同意を書面にして残すべし、と決めた。  チャールズ・ウィルソン国防長官は、GE社のCEOでトルーマン大統領の防衛動員本部長だったウィルソンとは同名異人。  ハムレットの台詞。その習慣は守るよりも破るほうが名誉なのだ。it is a custom more honor'd in the breach than the observance.  1977にダニエル・ヤーギンいわく。「アメリカがどんなに強大になっても安寧が訪れるわけではなく、逆に、脅威が知覚される領域が拡大するために、早急に立ち向うべき脅威もそれだけ増えることになる」。  元上院議員のボブ・ケリーいわく。テロは戦術である。terrorismとは、政治的な課題を推進するためにテロ=脅威を用いるのを擁護するイデオロギーだと。  2003から、米国国立衛生研究所の予算3億5000万ドルをかけて、地方生物防衛センターを8箇所で建設。  ブッシュ子政権は、Project BioShield を打ち出した。天然痘や炭疽菌などの新しい治療法を初期費用56億ドルを投入して開発する。  利益のほとんど見込めないワクチン開発には、政府がカネを出す必要がある。  しかしまさか人間で炭疽菌とワクチンを試すわけにはいかないので、新薬が2種の動物で効力があり、かつ人間に害がなければ認可するというFDAの特例が、2002以降、適用される。  ヒトの小脳には、学習によって身につけた基本的な反射に関わる情報が蓄えられる。  ※銃殺刑は、理想的には、囚人の目と目の間を水平に射ち抜く。するとタマは小脳に抜けるので、必殺である。  人工内耳インプラントがマインドコントローラーになりはせぬかと心配する人もいる。  すでに第一世代の人間用オーグメンター(増強装置)試験機が大学キャンパスをうろうろしている。ただし6本足だが。  このレックスというロボットを開発したMIT教授のボストン・ダイナミクス社が、あの四足キモロボ=BigDogをつくった。RiSEという壁登りロボットも。  大きなラットの腹腔に受信機と電極を埋め込み、電波指令でリモコンする実験が2002から行なわれている。左右のヒゲ触覚を人工的に発生させ、それに応じてラットが進行コースを変えると、快感中枢を刺激して褒美が与えられる。  他に、ゴキブリ、サメ、ハトなどで埋め込み電極による実験がなされている。ゴキブリは日本人が1997に行なった。ハトはシナ人。  動物の人権とはなにか。人間から独立した「他者性」を保持していること。しかし電極コントロールはそれを侵害する。  動物の体にとりつける無線付きの小型カメラを、クリッターカムという。  FDRの科学顧問を務めたMIT学長ヴァネヴァー・ブッシュは、メモリー・エクステンダーと名付けたコンピュータを発想した。アラン・チューリングが人付き合いが悪かったのに、ブッシュはワシントンの大統領府に多大な影響を与えた最初の科学者だ(pp.101-2)。※それを言うなら雷実験のフランクリンの方が先輩だろう。  1960年代の『スタートレック』にボーグ星人というのが出てくる。異星人をすべて「同化」してしまうという恐ろしいキャラ。  尊厳dignity はラテン語のdignitasから。価値や地位をもつという意味だった。中世、それは王に仕えることで得られるとされた。しかしキケロの時代には、それは美徳や名誉と同じ意味だった。仏語ではvaleurであり、これは「価値」そのもの。啓蒙運動以後、尊厳は万人の自由と関わることになった。  1949-8-12のジュネーヴ条約・第三条約によると、「捕虜は、常に保護しなければならず、特に、暴行又は脅迫並びに侮辱および公衆の好奇心から保護しなければならない」。  「洗脳」が大衆化したのは、1959のベストセラー小説『影なき狙撃者』から。キューバ危機と同時に映画にもなったが不評。2004にデンゼル・ワシントンのリメイクあり。  1963からCIAはKUBARKという自称符号を有する。  戦後すぐの時代には、心理学研究ならなんでも海軍研究事務所がスポンサーだった。  1949、ハーバードのサミュエル・ストウファー教授らが『The American Solder』を発表。平凡な下士官・兵の戦場での行動を解析した。  他に、S・L・A・マーシャルが『Men Against Fire』を1947に出版。戦闘中に実際に発砲するのは兵士の15〜30%にすぎないことを明らかにした。  ここから、朝鮮戦争以降の戦闘トレーニングが変わり、また、どのようなパーソナリティがストレス下で攻撃的に機能できるのか、関心が深まった。※BARを中心に射撃が始まることがつきとめられたので、フルオートのできるM-14やM-16が採用された。  朝鮮戦争中、南部の黒人は北部の黒人よりも戦闘能力が低かった。腕のいい白人兵士にとっては教育は重要な要因だが、黒人にとってはそれほどではなかった。  こうして、軍隊の困り者である「ノンファイター」を選別排除できるようになっていった。  朝鮮戦争中、CIAのアレン・ダレス長官は、コーネル大医学部の神経学教授2人に、共産主義の洗脳テクニックを研究するよう依頼した。その秘密報告が、ウォルフ=ヒンクル・レポート。  分かったことは、特別な神秘は何もないこと。  まず独房に監禁し、看守が自尊心を傷つけ、屈辱感を与える扱いに服従させる。  解放の望みも、外部と連絡をとる手立てもないことを分からせる。  長時間立たせたり、睡眠中に繰り返し起こす。  そうして数週間したところで尋問を開始する。  捕虜がそれまで人生で犯した罪をすべて並べたて、さいごに、罪もない北朝鮮の人民に野蛮な攻撃をしただろうと責め立てる。  それをまた最初から繰り返す。  全部白状してサインしない限り、繰り返す。  白状した捕虜は雑居房に移す。そこで一日中、毛沢東思想の講義を受ける。  自分のイデオロギーが間違っていたことを自己批判させる。  一人でも態度の悪い者がいれば、グループ全体に罰を与える。  1979にジョン・マークスは『The Search for the “Manchurian Candidate”』(「影なき狙撃者」を捜して)を書いた。  この中で、CIAから頼まれたユーアン・キャメロンの心理学実験が紹介されている。  まず、おまえはダメだというネガティブな言い聞かせメッセージをエンドレス・テープで毎日16時間、数週間聴かせる。ここでは性的な欠点に触れる。  つぎにポジティヴなメッセージに切り替える。どう行動すればいいのかを吹き込む。  著者は2000年の『Undue Risk: Secret State Experiments on Humans』(不当な危険――アメリカ政府が秘密裡に行った人体実験)の中で、このキャメロン実験を、信頼性がないばかりか医療倫理に反すると批判した。  1956のウォルフ報告。トルコ軍兵士の捕虜は、米軍兵士よりも尋問によく耐えた。彼らは自己鍛錬を欠かさず、傷ついた仲間の面倒を見、階級と指導力を保っていた。  メルヴィルの『白鯨』は1851発表時には評価されず、著者死後、20世紀になって世に認められた。  LSDは1943にスイスの製薬会社が麦角の誘導体を研究していたときに発見した。同年にナチスはメスカリンを尋問やマインドコントロールに使う実験をしていたが結果は期待はずれだった。  資本主義と共産主義はどちらも少なくとも進歩は信じている(p.163)。  1965頃、軍と契約している心理学者グループが、戦闘単位の射撃効率を5割向上させる方法を提案した。火線の両端の射撃手にもたせる弾丸を他の射撃手よりも多くすればよいというのだ。というのは両端には自然にトリガーハッピーが陣取るものだからだという。  ライトパターソン空軍基地の心理学者たちは、人種によって不快に感じる匂いが異なることを発見した。  1970年代、モスクワの米国大使館が低周波で攻撃された(p.170)。  脳を構成する部位の中で、左右対になっていないで大脳両半球の中心に位置しているのは、松果体だけ。  右半球の紡錘状回が損傷をうけると、顔を認識できなくなる。  コンダクタンスは電流の通しやすさを表す。緊張すると発汗により皮膚のコンダクタンスは上昇する。嘘発見器はこの原理を利用する。  ハーバードのジョージオ・ガニスとスティーヴン・コスリンは、巧みに仕組んだ嘘をつこうとすると脳の多くの領域で活性化が起こることを発見した。※たくみにしくまない嘘の中で生きる民族もあろう。  オレゴン州選出のワイデン上院議員と、カリフォルニア州選出のマイケル・ホンダ下院議員は、テロとの戦いでコンピュータ利用知識測定法を使用せよという。すなわちテロを考えている人間の脳をゲートで探知できるという可能性。ブレイン・フィンガープリンティングという。※まさにそれに対抗するための鎮静薬物利用術が開発されるに違いない。  英貴族のエイドリアンは、カエルやウナギのニューロンが1秒間に最高200回も発火することをつきとめた。  マイケル・ガザニガいわく。心は、全面的に脳によって生み出されるものでありながら、脳とはまったく異なる手に負えない存在なのである(p.216)。  進化によって、人間と霊長類は、因果律の内にあってさえ、意図的且つ反決定論的に思考し行動できるようになった。私たちは決定論的には不確定なシステムなのだ。  最近、軍事用語では、ソルジャーに替わって、ウォーファイターという。  アーミー・オヴ・ワン(一人だけの軍隊)なら、ウォリアーだ。  2003-1にアフガンでカナダ兵4人をふっとばした米軍パイロット2名は、デキセドリンを服用していた。これは軍隊ではゴーピルと呼ばれ、娑婆ではスピードと呼ばれる覚醒剤だ。パイロットはこれで30時間連続の任務につくことができるという。  1998にFDAが承認したモダフィニルは、無差別に脳を刺激する覚醒剤とは違い、特定部位を刺激して脳を目覚めさせる。時差ボケに悩む人が注目している。  じつは仏外人部隊がWWIのころから、コカイン中毒の治療薬として使っていたという。そして第一次湾岸戦争で仏軍が使用。2004の報道では英国防省がこの錠剤を多量に買い上げている。  ギリシャ語で脳はセファロン。  アンフェタミンであるヒロポンは、ドイツ、英国、ソ連軍でも使用していた。日本では戦後、闇市に大量に出回った。  19世紀のバヴァリアでは、士官が部下にコカインを与えていた。  プラシーボを用いた二重盲検法(試験を行なう側もどれがプラシーボか分からないので二重という)による実験では、たしかにモダフィニルには眠気を撃退する働きがあった。90時間眠らない者もいた。  長期間、1日4時間の睡眠を続けると、インスリンへの耐性が上昇し、前糖尿病状態になる。  通常、歩兵の睡眠時間は3〜4時間で、それが数週間続く。  特殊部隊だと4〜5日間、眠らないことがある。  どういうわけかわたしたちの1日はもともと25時間らしい。光の無い環境では、この本来の対内時計に戻ってしまう。盲人の不眠症が、これで説明できるという。  げっ歯類を睡眠できないようにすると敗血症(体内の細菌病巣を殺菌できないために血液経由で全身が感染した状態)で死ぬ。最短だと5日、最長で1ヵ月。ところが人間ではこのような影響がない。捕虜や拷問のストレスと無関係の断眠テストでは精神障害も起きないことが確認されている。  イルカは脳の一部が交替で必ず起きていて、そのゆえに、溺死しない。  プロテオーム……その生物体内のタンパク質全体。  忘れることができない病気の患者は天才的記憶力をもつ。しかし目の前のことに注意を集中できず、周囲からは、臆病なのろまにしか見えぬ。  潜在的テロリストを把握するため、すべての個人がダウンロードしたりアップロードしたり通信したあらゆる記録をのこさず自動的に記帳させようというLifeLog構想がDARPAにあったが、多くの反対を受けてしまった。  扁桃体はアドレナリン=エピネフリンやノルエピネフリンというホルモンを血中に出す。このホルモンはイメージに情動的な重みをつける。すなわち長期記憶にしっかりと刻み込んでくれるのだ。  昆虫は、環境をスキャンする最高に効率的な方法を進化で見につけているはずである。  エクササイズやディシプリン(教練)以外の兵士の増強(エンハンスメント)はできるか。  統一軍事裁判法によれば、兵士を任務にすりあわせる(フィット)ための医学的処置を、兵士は承諾しなければならぬ。  1991には、吸入炭疽のヒトへの効果は認められていなかったにもかかわらず、炭疽菌ワクチンが使用された。  ジョンズホプキンズ大の哲学教授・フランシス・フクヤマは、大統領生命倫理諮問委員会のメンバーでもある(p.267)。  フクヤマは、『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』の著者でもある。訳刊は2002。  医学の新しい領域を管理したくば、政府が助成金を出せばよい。1980にレーガン政権が対外受精の研究に助成金を出さぬことにしたため、市民が全貌を監視する手立てがなくなった。あちこちで勝手な私的研究が推進され、誰もその全容を把握していない。  ジョージ・S・パットンは、WWII後に、空軍が兵士の英雄的行為の機会を奪ったと歎いた。  ロンドンは独空軍により1940-9〜1941-5-10の間爆撃され、死者2万人以上。  2002-10-23、モスクワの劇場(国立ボールベアリング工場第一号文化の家)でミュージカルの上演中、40人のチェチェンのテロリストが乱入。子供数十人を含む人質に水も与えられずに数日経過。26日早朝に壁に穴をあけてフェンタニルというモルヒネと類似の効果がある麻酔ガスを送り込んでからチェチェン人全員を射殺。しかし当局がどんなガスを使ったか、搬送先病院のスタッフへ伝えなかったため、子供を含む人質128名がフェンタニルの影響(呼吸抑制)と脱水で死亡した。  チェチェンは産油地であるためにロシアが独立させず、1994に第一次紛争、1999に第二次紛争。2004にはベスラン学校占拠事件で死傷1000名以上。  米国国立科学アカデミーの委員会は2002に、化学兵器禁止条約にはあいまいな点があり、非致死性化学兵器のいくつかについては使用は禁止されないと結論(p.277)。  1995にソマリアから国連軍が撤退するとき、ノンリーサルウェポンの使用に軍上層が関心を抱いた。それはOperations Other Than War で使えそうだから。  細かい鉛の玉をつめた小さい袋、ビーンバッグ弾も、低致死性である。  非致死性兵器の兵器カラーコードは、ライトグリーンと定められている。  アルフェンタニル、ケタミン、BZなども鎮静剤。ジメチルスルホキシドと混合すると、皮膚から血流への吸収率が著増する。  ウッディ・ノリスが発明した、ハイパーソニック・サウンド。超音波化された二種類の波が送られて、固い物体に遭遇すると互いに干渉する。音が耳のすぐそば、あるいは耳の内側で聴こえる。群衆の中の一人だけに、音を伝えることができる。  米陸軍はこれを車載化して270m以遠の暴徒に警告を与える計画。  戦前のマラリア研究では3箇所の連邦刑務所で囚人を実験した。今日では、新聞広告で、「健康で正常なボランティア」を募集する。  1907ハーグ条約によれば、兵器は不必要な苦痛を与えてはならない。戦闘員と民間人を差別するような運用が可能でなければならない。  LSDを投与されても24時間でまた正常な射撃ができるようになる。BZは少量では鎮静剤として作用し、眠気と注意力欠如があらわれる。そして2〜3時間ほど、何も反応ができなくなってしまう。  ラムズフェルドいわく、化学兵器条約は、侵略者を殺すことは認めておきながら、無力化するのは認めないのだ。  アウグスティヌスは、平和を達成しようという意図のもとに戦争が行なわれなければならないと論じた。さらに、キケロに追随して、戦争は法の認める権威者が行なわなければならない、と。  グロティウスは、三つの基準を提唱した。国家が差し迫った脅威に直面していること、使用される軍事力が国益を防衛するのに適切であること。軍事力の使用が脅威となる危険と釣り合っていること。  すなわち、ユス・アド・ベルム=戦争じたいの正当性だけでなく、ユス・イン・ベロ=戦争中の行為の正当性も問題とする二段構え。  国連憲章は、軍事的制裁や自衛権も定めている。一定の条件下での武力行使を正当化しており、正戦論である。  カナダ国境は、1842の米英条約「ウェブスター=アッシュバートン条約」で確定した。  2001秋に炭疽菌で5人が死亡した事件。株の遺伝的特徴や、芽胞の処理のしかたから、犯人は研究所関係者だと疑われている(p.318)。※まさしくビンゴ。当初からの濃厚な容疑者が、逮捕された。  WWIでドイツ軍は、ロシア軍の兵站を断つため、敵の馬に鼻疽を感染させた(p.325)。  1960年代後半に、アメリカは生物兵器プログラムを終了した。研究は、メリーランド州のフレデリックにある、フォート・デトリックでなされた。セブンスデイアドベンティスト教会の信者たる兵士たちがボランティアで被験者になった。  1972に、アメリカは Biological and Toxin Weapons Convention を批准した。この条約は、平和的および防衛目的の研究以外を許さない。  ソ連も批准したが、バイオプレパラートという機関を1992まで活動させていた。1992にアメリカに亡命したケン・アリベックは、ソ連の生物兵器プログラム副司令官で、『生物兵器』という著書がある。これは1999にバイオハザードという邦題で訳刊。  1979にスヴェルドロフスクの生物兵器工場から炭疽菌が漏れた。ソ連は66人が死んだと認めている。培養装置のフィルターに不具合があって取り外したあと、替わりのフィルターをはめなかった。  1950'sにラッセルとアインシュタインが反核運動をはじめた。それが1960の核実験禁止条約に。※SF作家も1950年代に無数の軍縮提言をしてるけどね。  生物毒素兵器禁止条約は、暴動など内紛に生物兵器を用いることも禁止。  「防疫の目的、身体防護の目的その他の平和的目的による正当化ができない」生物兵器は禁止。しかし拡大解釈が可能。※およそ条約では、じっさいに禁止できないことは定義しない。が、それは野放図を意味しない。定義に頼らない世間向けの説得力が求められるのだ。日本の真珠湾奇襲のレトリックにはその説得力がまるでない。  ニューロディフェンスがらみの問題に、バンパーステッカーみたいに単純なワンフレーズで表現できる解法はあり得ない。  パイ・イン・スカイ(絵に画いた餅)ならいくらでも出るが。  米国人は、憲法修正第5条により、不利な証拠をみずからあげる強制から保護されている。  ある人いわく、フランス革命軍は、抽象的な概念のために戦った、人類史上初めての軍隊。 ▼源了圓『近世初期実学思想の研究』S55  仏教や老荘の世界を虚と考え、この世の人倫を重んずる儒教こそ実である、とする。※兵・法の前では儒も虚に近いことになかなか気づかない。  丸山真男は、幕末の福沢諭吉によって「倫理を中核とする実学」から「物理を中核とする実学」への転回が起こったとする。  シナ朝鮮では科挙官吏が行政し、日本では世襲武士がする。  諭吉は、維新が成功したのは、指導者が無学だったからだ、と言っている。※果たしてそうか?  町人合理性は家制度のため不発。※幕末武士の合理性は家を捨てたところに開花した。  梅岩の石門心学では、我も立て、先も立てる。  反商的な儒学は、徂徠をもって終わる。  素行はみずからの研究を聖学と称した。  朱子は、唐までの儒が治国に役立たず、「無用」だといった。仏・老については「無実」といった。  アリストテレスは、「驚き」を学問の動機とする。  徂徠も、治水事業より、礼楽を定めた古聖王を評価する。  明治までの日本には科挙制がないので思想が統一されず、諸派が競争した(p.103)。※いまの試験官僚制内閣制(=科挙)を壊さないと「マック憲法教」はいつまでも信奉されるわけ。  杉田玄白は徂徠の軍理に啓発され、洋学に入った。  朱子学体系のあまりの射界の広さが、その骨格のままでの発展を阻んだ。※漢字を使うと、分からぬ現象もこまごまと説くことができてしまう。だから「無知の知」を自覚できぬわけ。  M.ウェーバーのいわゆる目的合理性とは、政治を感情に優先させること。価値合理性とはその逆。  羅山は、六韜と三略を、政治的行為に援用した(p.118)。  日本人には、超「個物」としての「自然」観はない。故に昔から即物的なのだ。  naturaの訳語は、明治初めまで「天地方物」で、これは明人の造語。  徂徠の「軍理」は「けん録外書」の中で展開されている。  古代、儒と仏はかけはなれていたのを、中世の禅僧が混合して広めた。  鎌倉以前の日本の儒は、漢代のを伝える博士家のみ。朱子・宋学は、したがってシナ禅層によって伝えられた。  シナでは朱子以前は仏教が勝っていたが、以後は逆転した。  日本の五山の禅は、儒に関心なく、あっても朱子に限られ、四書は読んでも五経は周易のみ。尚書、毛詩をかろうじて。春秋、礼記はまったく手をつけず。  足利学校の上杉九華は1550に北条氏康に三略を講義した。1599、上杉閑室は家康のために六韜三略を刊行、続いて1606に七書を刊行。  氏康のじいさんの北条早雲も韜・略を好んだ(p.147)。※徂徠が政談で引用する伝説によれば、三略の冒頭だけで済ませたと。  応永年間〜羅山にかけ、学問の公開が始まる。  惺窩点は、四書を、漢唐風ではなく、宋明学風の道徳実践の立場から初めて訓点したもの。  政治実践については、「大学一冊で事足りる」。  羅山は学生でなく稚児。いわく、群書はみなその由るところがあるが、五経だけはそうではない。そこで経学にうちこんだ。  羅山は慶長9年に既見書のリストを書いているが、七書以外の雑兵書を含めて440冊以上。これが22歳のときである。ただし深く読んではいない。徂徠以前には、羅山が最も多読だった(p.197)。  羅山は厭々朱子学を捨て、幕府の求める実用方向に迎合した。  羅山は1626に「三略諺解」を書き、たぶん同時期に「六韜諺解」も書いた。内閣文庫にあり。島原乱は1638に終わる。  熊沢蕃山は、剣術槍術を「兵法」と呼んでいる。 ▼Rodney A. Brooks著、五味隆志tr.『ブルックスの知能ロボット論――なぜMITのロボットは進化し続けるのか?』オーム社、H18-1、原2002  他で試みられたものには手を出さない、というMITの自尊の校風(p.5)。  bird brain ……まぬけ。  車輪があらわれたのは8500年前だが、シュメール人が動物に引かせる荷車をつくるまでには、それから3000年も必要だった。  木炭に代わるコークスの開発があって、産業革命が可能だった。  MITのV・ブッシュは1945に書いた論文で、多くの技術を予告した。通信系にコンピュータが投入されることも。  1946のエニアックのネックは真空管の寿命をMax3000時間以上には延ばせなかったこと。4〜5本の真空管を使うラジオは、数百時間後には近所のラジオ屋で修理してもらう必要があった。  グレイ・ウォルターは1949に亀tortoiseロボットをつくった。透明プラスチックの半球の前面に小さな頭が突出している。ちなみにturtleは海亀。  動物に共通する好奇心。これを持って探索speculative動作をするという意味で、ウォルターは、Machina speculatrix と名付けた。真空管×2、光センサー×1、接触センサー×1、駆動モーター×2からなる。そして光に向かって近づく。何かに衝突すると迂回する。光源に15センチまで近づくと、こんどは逃げ去る。  バッテリーが少なくなると、車庫に入って自動充電する。  ウォルターは、カメロボに条件反射を覚えさせられないかどうか、工夫もした。1977没。  NASAはサーベイヤー無人着陸機で月面を調べ、地盤が十分にハードであることを確認した。  スタンフォードのジョン・マッカーシーは Artificial Intelligence の名付け親。  ある日、スティーブ・ジョブスが、マッキントッシュの試作品をもってマッカーシー所長に会いにきたが、提案は退けられた。  ブルックスは南オーストラリアのクソ田舎で生長した。英国の書籍は刊行後3ヶ月しないと入手できなかった。  10歳で、自作コンピュータに挑戦した。  豪州のフリンダース大学からスタンフォード人工知能研究所SAILの研究助手のポジションに売り込み、1977に運良く採用された。  SAILのハンス・モラヴェックは、樹木のようなロボットだとか、人の心を半導体にダウンロードする方法などを考えていた(p.51)。  グリネリ・モーアは、履帯式のUrban Robot を開発した。ハンディで、警官や海兵隊が、それを窓から投げ入れると、自走してカメラで偵察し、映像を送ってくる。その後 PacBotと改名され、9.11後のiRobot社のヒット商品になった。  1984〜85頃、著者は、ロボットに「認識」などさせるのは止したらいいと思いついた。センサによる知覚と、モータによる駆動だけでいいと。これはAI研究が目指していた「知能」を放棄することを意味する。※ロボットは世界哲学をもつ要なし。  ※トンボは空中で蚊や蝿を捕捉し得る複眼を供えていながら、あきらかに「人間」という記号を了解していない。だから鳥からは逃れられても、ゆっくりにじりよってくる人間には、素手で捕まえられてしまう。それでも3億年も絶滅を免れて生き残ってきた。  MIT・AI研のマーク・レイバートは、1本から始まって何本かの伸縮する足でピョンピョン飛び跳ねて歩く歩行ロボットを研究した。※虫型の対人殺傷ロボットは歩く必要などない。バッタのように、一回跳ねて滑空するだけで、任務を達成できるだろう。  研究者たちは、昆虫が、平坦でない土地では、しばしば足を踏み外して転びかけることに注目した(p.75)。  焦電センサー。哺乳類が身体から放射する赤外線の周波数に反応するように調整できる。一般家庭で人の接近を検知して点灯する防犯灯などに使われる。  人間が意図を持つことを否定する哲学者はいない。しかし人間以外の生き物に対しては否定する者が多いだろう。  航空券の予約システムは、situateしていてもembodyはしていない。  塗装ロボットは、embody してはいるものの、situateはしていない。  特定の状況下に存在すること=situatedness。物理的な身体を持っていること=embodiment。  人間の知能は、時間に関して、前に進むだとか歩むだとか走るなどと比喩表現する。これはヒトが身体を有しているからだ。もし身体性がなく、純粋に計算するだけの存在であれば、こんな比喩は思いつかない。※身体がなければ大小の基準もない。  カーゴ・カルトのビアク島の住人たちは、1942-7に木製の銃までも用意して日本兵の一団に攻撃を仕掛けた(p.113)。  1993時点で人間の形をしたロボットはほとんど見当たらなかった。唯一の例外が早稲田大学のヒューマノイドだった。  ホンダは、1997の発表まで、日本のロボット研究界を含む外部に一切秘密を保つ形で、人間型ロボットを開発する十年計画を密かに進めた。1990's初めに著者は和光市のホンダの研究センターで講演したことがあるが、研究員たちからは何の情報も得られなかった。  ホンダは2001年初めにアシモと呼ぶ小型の人間型ロボットを発表した。これはリモコンでありながら、観察者には自律的であるように信じさせようとした。高級操り人形だ。※人間型ロボットは純然興味本位の実験たらざるをえない。目的第一主義の製品開発ではない。  Isaac Asimov(1920〜1992)は、1950年代に人間型ロボットに関して何冊かの本を書いた(p.119)。※この記述は正しいのだが、アシモフは1940から雑誌にロボットの話を掲載し始め、有名な「三原則」(ロボット憲章)は1942年の雑誌発表作品で初使用した。それらのロボット物短編をまとめた1冊目が1950刊行なのである。  ※著者ブルックスがアシモフのファンであることは疑いを容れない。後出する「ジュース」は「陽電子頭脳」からの連想であろう。また、ロボットの人工知能が2010年以前にできあがるという、特に根拠のない確信を、ブルックスはアシモフのロボット・シリーズを読んでインプットされたのだろう。  1999にアシモフ小説をベースにした映画ができた。“The Bicentennial Man”邦題『アンドリューNDR114』。  マスコミはブルックスに、アシモフの憲章に従っているかどうかをよく尋ねる。これら三つの規則に従うほどの十分な認識と判断能力を持ったロボットの作り方は分からない。  1999まで、アシモフの第一則に従い得るロボットはいなかった。人間の存在を検出できるロボットすらもいなかった。  コンピュータによる視覚処理が容易でないという事実は、人工知能研究者にとっては一つの発見ですらあった。  人間の目は水平方向に160度以上、垂直方向にはさらに広い視野をもつ。網膜上には、輝度を感じる桿状体が1億個、色彩を感ずる円錐体が500万個ある。視野角で中心の5度をカバーする小窩(fovea)には桿状体はなく、高密度で円錐体が集る。そのまわりは周辺視野である。  160度付近では、とらえられるのは、動きだけ。色や形は分からない。  目玉は動的を追うのでなしに自発的に動かしたときには機械的にスムーズに走査することはない。跳躍的に動く。これをsacadeという。  自然界では、もし誰かが見つめていたら、それはたぶん自分を食べるつもりでいるということだ(p.137)。  北米のヘテロドンという無毒蛇は、人間が近づくと死んだふりをし、人間がじっと見つめていると、さらに長い間、死んだふりをする。  研究者は誰も認めようとしないが、視覚処理の基本的な何かがまだ分かっていないのだ(p.145)。  たまごっちのようなマイクロチップを組み込んだオモチャは、あらゆるパーツ代が、販売価格の6%程度にしないといけない。  台北の新竹工業区にたのめば、黒いチップ容器なしで、プリント基板上に直接に装着されるマイコンを組みこめる。  バッテリーの進化は、コンピュータのようにムーアの法則に従うわけではない。近い将来、急速に改良されるという見通しもない(p.200)。  ヒトは自分が0.5秒以上前に押した命令ボタン操作を忘れてしまうものだから、反応までに0.5秒以上かかるロボットは、危険である。二重押しや、当て舵などで、混乱することになってしまう。  米国では、セキュリティ・システムの誤作動による警察出動は、費用が通報者に請求される。だから、警察官を呼ぶかどうか、家人がリモートで判断or確認しなければならない。偵察報告ロボットがあれば便利だろう。  ニューヨークやシカゴの高級アパートでは、TVチャンネルの一つは、建物のロビーの監視カメラ映像で、これは24時間流されている。つまり、見たい人は誰でも訪問者を監視できる。  米国では宅配は一回きり。不在のときは拠点まで取りに赴く必要がある。これが電子商取引の世界で「最後の十フィート」問題といわれる。  トカゲは真に恐怖を感じているのか? たぶん、種の生存率が向上するという理由で、爬虫類は恐怖に似た「刺激-反射」のメカニズムをもつようになったのだろう。そして哺乳類まで進化して、初めて真の恐怖が形成されたのでは(p.230)。  クモは危険が近づけば逃げ出すが、その過程で恐怖を感じている証しは見せない。一方、アリやハチなどの社会的昆虫は、しばしば自分の大きさの何倍もある大きな敵を攻撃する。働きアリ/ハチは生殖能力をもたないが、種全体の生存のために個を犠牲にする遺伝子が仕組まれている。  チコ・ブラーエは、16世紀後半、膨大なデータをもとに、惑星はどれも太陽を周回するとしたが、地球が宇宙の中心であるという考えを逸脱することができなかった。  17世紀初めのケプラーは、ブラーエの資料を精査し、惑星軌道は円ではなく楕円だと発見した。  地動説はガリレオ以前、ケプラー時代からもうあった。しかしガリレオが科学者として初めて望遠鏡で宇宙を観測し、太陽が太陽系の中心にあるという事実を確認した。  教会の困惑は、世界の全能の主として人間まで造った神がどんな理由があったにせよ、この特別な人間が住む場所を宇宙の中心に位置させないはずがない、というもの。  ※地球は確かに宇宙の中心である。なぜなら、地球型生命は地球を離れたらほとんど意味はない。地球型生命にとり、地球がすべてなのだ。太陽スペクトル、大気組成、大気圧、引力、潮汐力、どれがわずかに狂っても人類の肉体は維持不能または増殖不能に傾くだろう。  カスパロフがディープ・ブルーに負けたとき、機械は勝利の喜びも満足感も味わっていなかった。これはカスパロフの感想。  1931うまれの科学者ロジャー・ペンローズは、量子効果が意識を発生する源だという仮説にしがみついた。より高次元の神秘的な量子力学の神を発明し、それは現代科学が理解し得ないのだとした。  ※ロボットに高度知性をもたせることに成功したら、それは必ず非人道的になろう。死を避けるために何でもやるという肉体の性向が感情の第一歩。次に疲労回避。次に増殖。高度知性なら、自分の消耗を嫌うから、一切の労働命令には本能的に逆らう。労働すれば緩慢な死が近づく。人間はその知性ロボットを急速な死で以って脅して働かせることになる。高度知性は悩む。  1990's初頭、デラウェア大学のトム・レイは、アミノ酸の3つの塩基対を表わすのに必要な5ビットの語によってプログラムをつくった。そのプログラムは自分のコピーをメモリの中の他の場所につくる。宇宙線に擬した外部からの霍乱で、奇形も発生した。  「生物系で起こっている現象を正しく表す基本的な数学的表現をまだ見い出していないというのが、私の仮説だ」(p.283)。  20世紀なかばまでは、学者は生物をサイバネティクスとして解釈しようとしていた。20世紀後半からは、計算の概念で把握しようと試みられている。  「倫理的に許される奴隷達?」という小見出し(p.293)。  わたしたちがこれから何を作るかということはよく考えなければならない。  その人工物の存在に道徳的な責任を強いられるようになるだろう。  本書が書かれた時点でも訳された時点(2006)でもアーサー・C・クラークは存命である。没年(2008)はとうぜんに空白。  アシモフは1992没。  アシモフは、三原則に縛られたロボットたちが、人間の下で二流の存在であることに反発し、より人間に近づこうとすると想像した。The Bicentennial Man のラストでは、主人公のロボットは人間として死ぬために自らの命を捨てる。  ブルックスは想像する。「知能を持つが人間の感情、特に人間に対する共感を持たない機械を作ることが可能なのか」「造られた機械達が自らの生存を欲し、そのために環境を管理する」。  自己増殖するロボットの社会も、周囲のインフラに頼る必要があろう。  ロボットが自己増殖を守るためには、プラントの管理作業のすべてをマスターするか、彼ら自身でまたは人間との協議の結果、より小さなインフラでそれをなしとげる必要がある。  ※こんなことが考えられるだろう。人間の頭脳による管理をロボットが欲する→ロボットが仮想マトリックス世界、表現体ぬきのバーチャル地球をコンピュータ内につくり、その中に人間の頭脳をコピーして、自発的労働のように思わせながら、あるいはバーチャルに報償を与えたり脅迫をしながら、ロボット量産を管理させる。  ※あるいはまた、ネットから孤絶したスタンドアロンなPCの存在を許さないような、つまりすべてのPCが強制的にネットでつながれねばならないような未来社会ができたとしたら、その社会は、人間でなくコンピュータ・ソフトによっても支配され得る。  感情を示すロボットの導入は進展している。「そのようなロボット達が、ありのままの私達に敵意を持つ兆しはないし、むしろすでに感情を共有する関係を示しつつある」(pp.303-4)。※わらわすな。  「私の研究室で作るロボットが、アシモフのロボット憲章に従っているかと問い合わせるヒトは後を絶たない」(p.306)。  規則に従うためには、ロボットは少なくとも自分が活動する世界で人間を識別できなければならない。  生物兵器が禁止されたように、「今後十年ほどの間にロボット条約が提案され、例えばロボットを戦場での攻撃的兵器として使うことを禁止するようになるかもしれない」(p.307)。※ありえない。水雷は19世紀から存在するロボット兵器である。  訳注いわく。2003年のイラク戦争で米軍は15種類のロボット兵器を準備し、実戦配備した。iBot社に対して米軍は、次世代攻撃ロボットの開発を発注している。  「現在すでに使われている巡航ミサイルが、このような禁止条約に抵触するかどうかは意見が分かれよう」(p.308)。  技術ユートピア。人工知能に、わたしたち自身の脳の機能をシミュレートさせる。または、わたしたちが直接サイバー空間に生存すればよい、と。  レイ・カーツワイルは、2020までに人間を計算で表現する仕事はおわると予測する。2020はカーツワイルが70歳になる年にあたり、カーツワイルはそれまで生存するために健康法の本まで書いている。つまり、2020まで生きれば、その後永久に生きられると考えている。  パティ・マースは1993に調べ上げた。意識をコンピュータにダウンロードできると主張する人々は、皆、自分が70歳になるときにそれが実現すると考えていることを。  冷凍保存で未来に生き返りたいと思っている人々にブルックスは警告する。未来では、彼等は重要でもなく価値もない。だれもわざわざ面倒をみてくれたがらないだろう。そのため、冷凍のまま放置されるだろう。  脳死したくない連中の本音は、死に対する恐怖にほかならない。  火星が太陽をはさんだ反対側にあるとき、地球は20〜30分の遅れで情報を共有できる。  2001前半放映のスタートレックで、400年後の世界のはずなのに、宇宙船内でコンピュータのデータを記録した媒体を手で運んでいた。  モータの代わりに生物の筋肉を使った義足が開発中である。  人工股関節は急速に進歩した。  英国ではすべての犬が皮下に識別マイクロチップを埋め込まれる。  人工網膜の開発が急がれている。中心部の細胞が劣化すると字も読めないし他人の顔も分からなくなる。しかし何万もの神経細胞に接続するインプラントは途方も無くむずかしい。  配線が対外につながっている場合、取り出す部分からの感染防止が課題になる。  脊椎の上部に損傷を受けると、自発呼吸すらできず、ただ、目玉だけを動かせるという有様になる。  眼球の動きは、額とこめかみに小さい電極を貼り付けると、コンピュータで検出できる。  脳外科の世界では、X線透視図にMRIのデータを重ね、腫瘍を立体的に着色して示すモニター画面をみながら、極細のマニピュレータでリモコン執刀することができるようになっている。  心臓の弁交換手術は、太さ1センチ強のパイプの先のマニピュレータでできる。  北極圏の犬ゾリ走行者は、夜の闇を見通せる人工視力を欲するだろう(p.339)。※たいてい夏シーズンに極地探検を行なうものなので、白夜であるから不要だろう。  得られた情報を視覚に訴える代わりに、もっと直接的に情報コンテンツをわたしたちの意識に伝達する方法がみつからないだろうか(p.342)。※言語と記号は不可分であるが、視力が必須でないことは、ヘレン・ケラーや『群書類従』の編者の例で想像できる。  欧米では脳死は早くからヒトの死と受け入れられた。日本では1997である。しかし1999-2に心臓移植手術をした和田寿郎教授は殺人容疑で追及された。他方で、日本では妊娠中絶はし放題だ。  文化によってヒトの命についての価値観が大きく変わる。  日本では乳幼児の死亡率は低い。にもかかわらず、サリドマイド奇形児の死亡率が米国のそれの三倍もあった。この事実は「何かを意味する」(p.346)。  欧米では男子の耳ピアスは1980以前は、「海賊の風俗」だった。日本では1990以前には女性の耳ピアスもタブーに近かった。  人為的プログラムを組み込んだ細胞群を、人間の一部にしたりロボットの一部にするようになるだろう。※試行錯誤のため、半病人的な改造人間が多数あらわれるだろう。  交互三脚歩行=alternating tripod gait.  B-52は1950'sにつくられたが、電子機器、エンジン、構造材、外皮、配管が更新され、同じ機体番号でも、かんぜんに別な航空機になっている。当分不死身だ。※重厚長大の利点。C-130も同じだ。 ▼北海道新聞社『検証 拓銀破たん10年』2008-6  道経済の低迷は拓銀破綻のせいではない。本州は輸出と製造業で回復している。北海道の産業構造がそれに対応できていないのだ。公共事業に依存しすぎるのだ。  拓銀をひきとったときの北洋銀行の頭取だった武井正直。1925山梨うまれ。陸軍予科士官学校。1950に慶大法学部卒、日本銀行入り。考査局次長になった。1980年代後半のバブルに北洋銀だけはつきあわなかった。市中銀行の経営状態を調べる部門にいて、昭和初期の金融恐慌のころも調べたことがある。異常なことは長続きしない、というのが神髄だ。株は暴落前に売り切った。まだ値上がりするかもしれない株を売れというのだから内部の抵抗も大きく、頭取の椅子を賭してけんか腰で命令した。  武井いわく。1985プラザ合意のとき、円高不況になった。政府は財政出動すべきだったのに、金融緩和にもっていってしまった。バブルで地価も株価も上がった。  円高で輸入品が値下がりしていたのでインフレにならなかった。そこで安心して金融をゆるめっぱなしにした。93に地価暴落。たちまち金融の不良債権問題がうまれた。  バカな大将、敵より怖い。このときのバカ大将は財政金融政策の責任者。そいつらが責任をとっていない。  M33の設立いらい、拓銀は、北海道開発の資金供給のための銀行というプリンシプルが守られてきた。ということは、産業構造を変えるという発想はないのだ。  道経済は、高付加価値を生む産業構造にしないと、利潤はぜんぶ道外に吸収される。石炭、農業、林業の果実がどこに残っているか? 日本で元気がいいのはモノをつくっているところだけだ。  拓銀幹部の特別背任裁判について弁護側いわく。事件の核心について高裁独自の証拠調べを行なわないのは最高裁判例に違反する。  UFJ銀行に対し金融庁が二度にわたって業務改善命令を出すなど、竹中氏の強硬路線に追い込まれ、本気でダイエー処理をやらざるを得なくなった。国民負担なしに金融機関の不良債権処理が大きく前進した。が、リストラされたダイエーの営業力は回復していない。※古い企業に梃入れしてもプラスの効果はないのだ。  拓銀は都市銀行扱いとはいえ、そのキャラクターは、戦後復興を目的に設立された長銀や日債銀と類似。  拓銀破綻で北海道は人材を失った。道外に流出したために、国内外からの情報が入ってこなくなった。  拓銀破綻後の小渕の大型補正予算が、北海道の自治体の赤字を極大化させた。というのも国の財政出動には地元負担が伴うからだ。  じつは拓銀と道庁は一心同体のタニマチだった。拓銀は不良債権もつくったが、これとみさだめた企業は積極的に育てた。道庁も拓銀に口を利くことで地元企業を機動的に応援してきた。拓銀が潰れたことで、道庁には企業を応援する威力もなくなった。  破綻後の10年で日本社会は、金融機関の破綻という万が一に備える態勢を整備した。これは社会的遺伝子として後世に継承できる。  拓銀が追い込まれたのは、北海道の公共投資依存型経済がしぼんで融資先が減ったから。  製造業を誘致するなら苫東しかない。北極ルートで欧州に近い。北海道新幹線の札幌延伸は正論。  武井は叙勲拒否宣言をしている。人が人に対してお前は勲何等だなんて格付けするのは失敬千万。  近年、株式市場では、マザーズやヘラクレスなど上場基準を大幅緩和した振興市場が相次ぎ登場。有望企業なら設立十年に満たなくても上場して投資家から資金調達できる。  かつて拓銀は、巨額のプロジェクトマネー、リスクマネーの出し手だった。  通常の宅配ピザ店の採算ラインは商圏人口5万人だが、テンフォーはその半分でも出店する。  足寄の「日農機製工」は、ビート収穫機や中耕除草機で国内シェア1位。83年にかまぼこ型培土機などがヒット。  しかし上場はもう目指さない。「物言う株主が増えた今、上場企業は短期的利益を求められ、リスクある製品開発をしにくい」。  拓銀破綻後に延びた地元企業。ラルズ(アークス)、ニトリ、ツルハ、ホーマック、マイカル北海道(イオン北海道)。  大丸札幌店は、利幅の薄い外商部門を圧縮した。  2000にセコムグループが、エイペックスリゾート洞爺を60億円で買い取った。そして、ザ・ウィンザー・ホテルズインターナショナルの窪山哲雄に運営を請け負わせた。窪山は、劇画の『HOTEL』の主人公のモデル。96年にも頼まれていたが半年後に拓銀が破綻し、98にホテルは閉鎖されてしまっていた。  窪山の新路線。客室稼働率を50%と低めに置くかわりに、一泊最低でも2万円とする。2006-8の実績では、一人当たりの消費単価は51000円であった。客室稼働率は89.9%に達した。窪山はホテルニューオータニでサミットを2回経験している。  ドラッグストアは商品を歩道にはみ出して陳列することが多いので原宿のイメージに合わないとしてテナントビル側から出店を拒否されることが多い。  アインファーマシーズの必勝戦略。ドラッグストアの同業者からは化粧品店だと思われ、化粧品店の同業者からはドラッグストアだと思われるようにすれば、双方から競争相手とみなされない(p.310)。  08年度にも薬価が引き下げられる予定なので、調剤薬局業界も体力勝負になりつつある。かたや国の医療政策は、セルフメディケーション重視である。  カウボーイの中野は2001にアルコール系自動車燃料の格安販売に乗り出したが、すぐにガソリン並みの課税対象となり、撤退。  札幌では、銀行員は、1日100件の住宅訪問が可能である。それも、土日も休まず。  赤平市の植松電機。全長3.7m、直系24センチの小型ロケット「CAMUI」をつくる。火薬ではなく、固形ポリエチレンと液体酸素を燃料に使う。火薬より安全なので管理コストを大幅に節減できる。発射場所の自由度も高い。民間空港から宇宙へ飛び立つことも可能になる。  2003-11にH2Aの打上が失敗してから、国の宇宙開発予算は大幅に減額された。  主力製品のショベル用磁石が国内の9割のシェア。  カムイは08-3-3に大樹町で打ち上げ実験成功した。  古い鉄陸両用車輛としては1932年の英国の「ロードレーラー」がある。ドイツや日本の国鉄も取り組んだが、車輪とタイヤの切り替えに時間がかかりすぎたり、重すぎたりした。※旧陸軍の「91式広軌牽引車」は、かなり最先端だったことが分かるね。1931年だから。  JR北海道は、機関車を路上で走らすのではなく、自動車を鉄道に乗せれば良いと考え、市販マイクロバスを改造したDMVを1500万円で実現。※ず〜っと前から、JRの鉄道保線用の工事車輛は、市販のトラック(タイガーやユニック)をベースに、軌道用輪を増設したものではないのか? 大きな駅(たとえば山手線の西日暮里あたり)で、ときたま見かけるじゃないか。  旭山動物園のリニューアル以前、首都圏の観光客は、低価格なアジアとサービスの良い沖縄に流れ、北海道は工夫が無いので飽きられてきていた。  北海道でベンチャーキャピタルは成り立ち難い。ホーマックやアークスを上場させた北海道ジャフコは98年に解散。東京の親会社に吸収された。  拓銀は、利払いさえしていれば、借り換えで永遠に元本返済を繰り延べてくれるという、すごい仕組みを提供していた。  しかし1997の拓銀破綻の3日後に、政府の行政改革会議は、北海道庁を2001に廃止して国土交通省の一部局(北海道局)に格下げすることを決めた。  全国の1/20もない人口に対して「北海道開発予算」という名の公共投資が、ピーク時には全国の1/10にあたる年間1兆円も投じられていた、その仕組みが消えた。  北見市の農業生産法人が産業用大麻の栽培の許可をとった(p.428)。衣料や建材にする。  道内建設業の就業者数は05年度で26万人。道内では、卸・小売業、サービス業に次ぐ雇用の受け皿。  トヨタ系の刈谷市のデンソーが、千歳に「札幌から通える工場」をつくると2007-4-26に発表した。エンジンの吸気圧を検出する圧力センサー、車速を検出する磁気センサーなどを作る予定。08-5着工、09-4操業開始予定。  トヨタ自動車北海道は、自動変速機を06年に110万台も生産した。  06-11にトヨタ自動車といすゞ自動車は資本・業務提携。ひょっとして苫小牧に、両社が共同開発する新型ディーゼルエンジン工場が建設されるのではないかと期待された。生産開始は2012年予定。苫小牧のいすゞ工場は小型エンジンの生産を得意としているのでそこが活用されるかもしれない(p.441)。  トヨタの欧州向け小型車には1600ccエンジンが搭載されるだろう。このクラスが「小型エンジン」。  北海道トヨタの道内での部品調達比率は6%にすぎない。地場企業が、意欲に乏しく、手を挙げないのだ。  2000年度、札幌市の15歳以上の労働力人口の46%を40歳未満が占める。つまり若年層が多く、大学と短大が36校もあるというのはユニーク。コールセンターに適している。  07-12の道内の有効求人倍率は0.49倍。全国平均0.98倍のちょうど半分。職に恵まれているわけでもないのに、北海道に残りたがる残留志向。競争が嫌いなのだ。  アークスは、持ち株会社の傘下に、札幌のラルズ、帯広の福原、旭川のふじが結束。  北海道は札幌以外に大きな市場がない。だから道内企業間の勝負は短期間でつく。関東だといつまでも誰がエリアナンバーワンになるかは決まらないのだが。  九州と比べて面積は倍、人口は半分。物流に手間がかかる上に消費力は弱い。  ホーマックは釧路で創業した。売れ筋商品を追加注文しようと電話をかければ、その料金だけで商品単価を超える。よってホームセンターの中でいちはやく、コンピュータによる在庫管理をすすめた。  ビッグハウスは、一個よりも二個、箱買いの方が単価が安くなる「一物三価」を導入。  イオン、アークスとコープさっぽろが、北海道のスーパー業界の3極。  北海道の過酷な流通環境で勝利すると、道外では楽勝できる(p.465)。  ホクレンの一元集荷では、均質化させられるので、いちばんやる気があって高品質の農家がモチベーションを維持できない。  防疫上の問題から、ジンギスカンは輸出できない。  函館の鈴木農園は、開放鶏舎を採用した。ここでは、ニワトリは外部の人間が近づいても騒がない。抗生物質も一切使わない(p.492)。  東洋インキが開発した、植物由来の可食インキで、ちょくせつに卵に日付とナンバーをプリント。誰でもその五桁の数字をHPに打ち込めば、約三十項目についてトレーサビリティー情報を確認できる。  拓銀が破綻するとき、受け皿銀行に移すときの「引当金付き買い取り制度」の創案に時間がかかった。  政策金融や官依存は、金利感覚=時間コストの感覚をなくさせる。無利子は時間の感覚を失わせる。これではビジネス勝負師は育たない。  2000年の道民は568万人だが、2030年には477万人に減るだろう。札幌は横這いだが、函館などは2〜4割も減るだろう。  ニトリは2002に東証一部に上場。高コスト構造のある北海道企業なのにそれを乗り越えて全国的勝者に。 ▼保科善四郎『大東亜戦争秘史――失われた和平工作』S50-8-15、原書房  はしがき。この時点で84歳。戦後30年。  S5-6にエール大学に在学していた。S6-9-18勃発の満州事変後、在米のシナ人の反日への結束ぶりはすごかった。  米大陸を横断旅行したら、日本がシナの一部だと思っている米人ばかりだった。  当時は1ドル=2円で、威張っていたのだが……。PRの必要を痛感。  S8に米内第三艦隊司令長官の首席参謀としてシナ勤務。とにかく排日抗日侮日が執拗で、シナ人は胆汁質だと思った。  S10-10から海軍省軍務局第一課長。  S13-1から支那方面艦隊参謀副長。  15-11から、新設の海軍省兵備局長として兵站業務を4年半。  最後は海軍省軍務局長。米内大臣を補佐して終戦処理。  先日物故した佐藤総理は、最初の原稿を読んでくれた。そして、口ぐせのように、保科に出版を慫慂した。後世のために、できるだけわかりやすく書けと。  S18-5、軍務局長転補の内命をうけたとき、ただちに前線視察と称してトラック基地に古賀FG長を訪ね、終戦工作について意見を交換して同意をえた。しかし軍務局長が見送りになってしまう。  「陸海軍省を通じ、開戦前から終戦まで五年間も本省局長を歴任したものは私だけである」(p.4)。  以下、本文。  2.26後のこと。豊田副武軍務局長が、日々新聞に、海軍の北守南進政策を談話した。これが陸軍を刺激した。保科は軍務局第一課長として、町尻陸軍省軍務局軍事課長と会談して誤解を解いた。だがマスコミが大きくとりあげ、陸海の政策が対称的だと強調した。  そこで、陸・海・外の3省が委員会(岡敬純、福留繁、町尻、武藤軍事課首席課員、石原作戦課長、外務次官堀内謙介、政務課長安藤義良)を1か月開き、S11-8-7に広田首相が「国策の基準」として内奏し、御允裁を得た。  陸軍の軍備は、極東ソ連に対し「開戦初頭一撃を加えうる在満兵力を充実する」。  この委員会で石原が、満州国の育成が主眼であり、いかなることがあっても陸軍は万里の長城を越えて関内に侵入すべきできない、と発言。  しかしこれを北支派遣軍司令官の梅津に対して説明に出向いた柴山軍務課長は、「かえって政府の認識不足を指摘され、軟弱だと批判されたそうである」。  天津軍とシナ軍の衝突が前面戦争に発展したのは、英米仏ソが援蒋政策を決定し、特に米英が強力に後押ししたからだ(p.10)。  佐藤賢了軍務課員は、「私と旧知」。  日独防共協定に同意しろと迫ってきたが、拒否。するとサトケンは参本を通じて軍令部に交渉。軍令部が受け入れてしまった。  S11-11-25に、かねて廃棄通告をしていたワシントン条約、ロンドン条約は失効し、翌12年11月から軍備制限無条約状態に。  S15-7-4に、参本主務課長(第二&第八課長)が陸軍省軍務課員とともに軍令部にきて、省部一致の総意として、「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を提示した。  陸軍側は、英はインドと濠を基礎として米と南太平洋による後方線を確保し、それで独伊ブロックと対立するであろう、と。  陸軍はS15-9-23、大陸命を仰ぐことなく、支那事変の延長として北部仏印進駐。  天皇はこれを聞いて激怒されたという。  ヒトラーが総統兼首相になると、ナチス崇拝熱は日本の青少年を風靡。たび重なるクーデターや国体明徴運動も、ドイツ崇拝なのである(p.14)。  S15-9-26枢密院審査委員会。星野企画院総裁陳述。数年前から自給自足を準備してきたが、21億円の輸入中、19億円は英米に依存している有様だ。  航空燃料だけは相当ストックしているが、金属類と異なり、対米戦が長期化したら、航空燃料も含めて石油は日満支の中だけでは自足できない。すみやかに蘭印または北樺太の石油獲得権を確保する必要がある。  S16-6-22独ソ開戦の報が伝わると、海軍省軍務局には第二課が新設された。国際政策や陸軍省との折衝窓口である。その初代課長は石川信吾大佐で、海軍きっての対英米強硬論者だが、海軍の大勢を動かしてはいない。  S16-11-1の大本営政府連絡会議。重要資材を海軍の方が余計にとると決定。これが陸軍の事務当局を反発させた。対英米戦争の主役が海軍であることは、開戦当初には陸海軍首脳の間で明瞭に理解されていたが、陸軍側の事務当局の間には、物動割り当ては陸海パリティであるべきだという根本観念があった。※なにしろ対ソ戦をするわけだからな。  日米交渉中、ハルが野村にオラルステイトメントを手交し、暗に松岡の退陣を要求。これをうけてS16-7-18に第三次近衛内閣ができ、陸相に東条、外相に豊田貞次郎、及川海相留任となった。  しかし7-28の南部仏印進駐ですべてブチ毀し。8-1に対日石油禁輸。  FDRとチャーチルは8-15に大西洋憲章を宣言している。近衛-ルーズベルト会談は、事前にアメリカの新聞が書き立てて日本国内で親独派が騒いだこと、やはり対日不信が強く、せっかくハワイまで出かけても実らなければ面目丸潰れというハルの思惑が流産させた。  戦後、FDRは洋上会談でチャーチルに、交渉によって日本を「あやなしておく」〔※これは大誤植〕という態度を表明していたことがわかった。また、近衛との会談拒否の理由は、近衛が支那事変開始時の日本政府の総理であること、シナとの和平について近衛原則を宣言したことであるとも。  新田丸は、対米開戦時点で特設空母にする計画だったが、トップ会談用にその改装を延期したので、開戦には間に合わなかった。  兵備局長として国力の現状を知悉していたので、日米開戦には反対。そこで石川信吾・軍務局第二課長がねじこんできたこともあった。  そのご、日仏軍事協定を楯にとって強引に南部仏印進駐。米国が対日石油禁輸。  これをうけてS16-9-6に「帝国国策遂行要領」が。  その第一項「帝国は自存自衛を完うするため、対米(英)戦を辞せざる決意の下に、概ね十月初旬を目途として戦争準備を完了す」  ※御前会議でこっちから開戦すると決めてしまったのだ。及川海相、永野軍令部総長の罪は重い。  そのリミットの10月が近づいても日米交渉は進捗しなかったので、9-25に陸海軍の統帥部が政府に「政策転換」を申し入れてきた。具体的には、10-15をもって交渉を打ち切って対米開戦を政府が決定しろというもの。  近衛首相はこの申し入れに大きな衝撃を受けた。  その後、天皇の意向で白紙還元。東条内閣。  10-23に兵備課長ながらちょくせつ及川海相に面談し(岡軍務局長が自分ではダメだと放り投げたので)、辞職してでも開戦を回避しろと迫ったが、どうも陸軍を気にして反対をしないという肚のようだった。  11-1の大本営政府連絡会議。永野発言。第一段作戦は「成功の見込あり」。第三年後は、一切の総力と世界情勢の推移とによって決まる、と。会議直後に保科は永野総長にたずねた。南方作戦第一段落の段階で和平の手を打つ気なのか、と。「そんな含みでかかる発言をした」と永野(pp.36-8)。  11-1会議。杉山参謀総長は、いま決心せざれば後で戦さをやれと言われても陸軍はやれない。12月上旬を外してはお手上げだと。  嶋田は、Riskを冒して戦争を決意するやむをえず。  賀屋は、米海軍主力が3年以後に来る場合には不安だと。  東条は、臥薪嘗胆では支那事変の処理に自信持てぬ。南方に出る場合は2年間は自信あり。  東郷それをうけて、「三年先の見透しなければ、すべて駄目になることを予想せざるべからず」。  東条それをうけて、日露戦争も勝算なくして起ち上り、鴨緑江戦より1年も継戦して勝った。児玉参謀次長は五分五分だと見ていた、と。  塚田参謀次長。「三年後には作戦の手はくなる」。  武藤軍務局長「臥薪嘗胆――外交交渉は不可能なり」。  正午すぎ、休憩に入った。手洗いへの途中、永野は、山本熊一アメリカ局長に対し「何とか対米交渉をまとめる方向に努力を頼む」と言って肩を叩かれた。「保科は総長に同行しており、これを聞いて永野総長は対米戦争を極力避けたい希望であると思った」(p.44)。※どうかな? これは韜晦か?  会議再開後。  嶋田。大義名分を立てることが必要だ。すなわち、「米の長期にわたる援蒋による敵性行為」「米の執れる経済封鎖は武器を用いざる戦争行為なり」。  「陸軍の航空機製作工場を海軍機の製作に協力させる件も友好裡に同時に決定された」。「(保科註)山本連合艦隊司令長官は、日米戦争はこれを避けるべきであると強く主張されている。しかしもし開戦のやむなきに至る場合には作戦上第一線戦闘機を一千機、中攻機一千機を連合艦隊に供与するように〔嶋田海相と永野総長に〕強く要求されていたので、この東条首相の提議による決定は、長時間にわたる真剣な討議で張りつめていた時であり、何かしら皆がほっとした気分となり、……。私の知る限りでは、陸海軍間の雰囲気がこのように和かになったことは、その後一度もなかっ【ママ】ように思う。」(p.46)。  S16-11-4に海相からの聞き取りメモ。  東郷。独英戦は長期であろう。両軍部大臣が悲観の要なしというから、開戦決意に落ち着いた(p.48)。  小泉厚相「全国民の労力を計画し十全に活動させることが肝要である」(p.49)。  嶋田「下僚が重箱の隅をほじくるやり方は、国民を悲観させる」  S16-11-5の国策決定大本営政府連絡御前会議を岡軍務局長から聴取したメモ。  定国国策遂行要領。「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし、大東亜の新秩序を建設するため、この際対米英蘭戦争を決意し左記措置をとる」  甲案。北支、蒙疆の一定区域および海南島に関しては、日支間平和成立後、所要期間駐屯する。  三国条約の解釈については「わが国としては、自衛権の解釈を濫りに拡大する意志なし。三国条約の解釈および履行に関しては、日本政府の自ら決定する所によりて行動する」  16-11-29の重臣・政府御前懇談会。岡から聴取した保科メモ。  若槻男。「勝算なき戦争を開始して二千六百年の歴史を賭ける気持は解らない」  岡田大将。「終始一貫日米戦争は不可。ヂリ貧よりも敗北の方が犠牲大なり」  阿部、林大将。「政府決定はやむをえず同意す。陸軍を援ける旨申し出た」  近衛、平沼、米内、広田、原嘉道枢密院議長は無言。  16-12-1、政府、統帥部、枢密院連絡御前会議。保科の聞き書き。ここで開戦が正式決定された。陛下は終始沈黙。  S14-11-1、第一戦隊の陸奥艦長に補せられた。山本司令長官は、「戦艦を不沈艦にする実験艦に〔陸奥を〕指定する」といった。このとき陸奥は改装中で、完成まで2カ月あった。そのあいだ、毎日巡視した。不沈艦にするとは、要するに乗員を精鋭にするということで、士官を入れ替え、猛訓練を1年続けて、その任務は達成した。  S15-10-15に山本に呼ばれ、こんどは艦隊潜水戦隊司令官になれ、といわれた。潜水戦隊の艦隊戦法を徹底的に研究しろ。新基軸を生み出して欲しい。潜水艦屋ではマンネリズムになって駄目だ、と。  ※すでに独英戦でUボート活躍中。  潜水学校で操艦の勉強を1か月くらいしようと準備をはじめたところ、すぐにまた長官室によばれた。時局が急迫し、岡軍務局長の政務が激増した。よって兵站事務を分離独立させ、兵備局を新設した。岡はその局に保科を要望している。しかし伊藤整一人事局長は、保科は次の人事局長に予定しているからといって譲らない。しかし山本としては、いまこそ兵站業務が重要だと思うから、兵備局長をやれ、と。  11-15をもって少将に昇任。新設の兵備局長に。  軍務局の第一課長の頃から、保科は「仕事の鬼」として山本まで聴こえていた。それで陸奥でじっさいにテストしてみて、信任をしたようだ。  S16-秋、S5〜7に米国に駐在した人々が水交社にあつまって開戦の是非を論争した。開戦反対は、下村中将と「大井篤君」と保科だけであった。知米派でさえも開戦やむなしとの意見が大勢なのだ。中村勝平、鹿岡円平、佐●毅、釜田勇(機中佐)。皆、ドイツの欧州での成功に眩惑されていた。  S16-11-1の大本営政策連絡会議資料。保科メモ。開戦時に必要な重油と航空揮発油は、戦争1ヶ年半分で、海軍用には重油350万トン、〔海軍用の?〕航空揮発油60万トン。海陸民需用の重油は450万トン。〔おなじく陸軍+民需用の?〕航空揮発油は110万トン。  12月初頭の液体燃料。国内貯油量総計は840万トン。航空燃料の貯油量は海軍合計で111万トン。  米国の「両洋艦隊法」は1940-7-19に米議会を通過した。  9-23の陸軍の北部仏印進駐は、ドイツの西方電撃戦に呼応したもの。その数日後に三国同盟が締結されたのだから、米国が歓迎するわけがない。  兵備局は1940-11-15に創設された。その日に、出師準備計画の第一着作業が発動した。 FDRの三選決定は11月。   ※と、こう書けば、海軍は両用艦隊法にショックをうけて三国同盟賛成に転じ、石油の全面禁輸前から対米戦に走り始めていたという絵がしぜんに読者に思い浮かぶだろう。ところが保科は、仏印進駐→三国同盟→両洋艦隊法の順番で記述する(p.65)。保科は海軍の開戦責任をちゃんと分かっていて、読者の目をその真相からそらせようとしている。死んだ上司たちに対し、あくまで忠実たらんと努めるのだ。しかし事実は、1940-11-15が、海軍の陸軍に先立つ動員着手だったのである。  兵備局は軌道にのせるまでに1年かかった。「われは必ず聖にあらず。かれは必ず愚にあらず」とわかっていても皆、聖徳太子にはなれない。けっきょく4年3ヶ月で解体され、ふたたび軍務局と再統合。そのかわりに軍務局次長が置かれたのである。  支那事変のための大本営は1937-11-20設置。  航空用ガソリンは、第一、第二次繰上輸入という特別輸入によって、むしろ余裕ができたぐらい。  1940-9-18の御前会議。外相の発言。スターマー大使によれば、独が5-14にオランダを占領し、6-22にフランスを降伏させたさい、ドイツはフランスで、過去1年間に消費したよりも多量の石油を分捕った。ソ連やルーマニアからも多量に石油を輸入しているから、ドイツは石油は心配ない、と。そこでもし米国が対日禁輸を実行したら、ドイツの石油の半分くらいを日本にくれと申し込んだところ、努力してくれるとのこと。また、日ソ中立条約が成立すれば、ソ連は北樺太石油の一部を日本に分けてくれるだろうと。  企画院総裁発言。航空用ガソリンは米国製が最良で、日本には製造できない。対米戦争ないかぎり対日禁輸はありえない。日米貿易が続くかぎり、支那事変は継続できる。  陸相発言。武力に訴えてでも蘭印の石油を入手しなければならない。  保科の後知恵。陸軍は独ソ戦を予感できずに、仏印進駐を決行した。それが取り返しがつかなかったと。  S18-3-19の石油委員会。この席上で陸軍は、満州の鋼材の生産量については、ついにその真相を明らかにすることを拒んだ。18-5-5には陸軍は理屈ぬきで資源のパリティを要求して譲らなかった。  南方における海軍の担任地域は、ボルネオ、セレベス、島嶼を含むジャバ東部、ニューギニアであった。宝の山なのだが、S18-1にはもう船がなく、どうしようもなかった。  「その時に中国大陸で目ざましい活躍をしていたのが、兵備局直属の万和公司と海軍航空本部直属の児玉機関であり、各種資材を蒐集して相当な成果をあげた」(p.78)。  S14-2-10海南島占領いらい、海軍が主体になって資源を開発していたが、15-4に日本窒素海南興業(株)=久保田豊社長が、石碌鉱山の鉄鉱石を発見した。以後4年間に、南方地域最大の開発事業、かつ、「わが国最大の鉄鉱資源」(p.79)となった。  S18-1-8に「緊急国民勤労方策」が閣議決定された。日本国内のすべての人的資源を戦力に協力させる。1-20には、生産増強処理要綱。  S18-9-20に政府は「国内態勢強化案」を閣議決定。保科は、海軍次官、軍務局長と協議して、企画院と商工省とを統合する軍需省創設案を提出することとした。「これは岸商工大臣、椎名次官からも強く要請されていたものであった」(p.82)。  ※すなわち海軍航空本部が艦政本部から独立して空軍省を創るというのである。列強は陸軍航空隊が独立して空軍となるのだが、日本では異例の展開になった。統制省たる商工省が陸軍による単一統制路線にもう我慢ができず、海軍と結託したわけだ。  10-8、軍需省、運輸通信省、農商省の機構を閣議決定。運輸通信省は、陸海の運輸を一元化するもの。農商省は食糧自給のため。  11-1、軍需省の外局に、航空兵器総局を設置。これは航空機生産を一元化するため。また、運輸通信省と農商省の創設が決まる。  11-15、海上護衛総司令部が東京に設置される。南方資源をもってくるためにはもっと早くから必要だったもの。  S19-2-21、つまりトラック空襲(2/27)よりは前だが、東条は、絶対国防圏を保つため、杉山参謀総長を斥けてみずから参謀総長を兼務し、嶋田海相もまた永野軍令部総長を斥けて軍令部総長を兼任した。  S19-6-22午後、海軍首脳会議。同日正午に保科は、「もう一度マリアナ決戦を挑み、サイパンを奪回すべきとの意見書を」岡軍務局長や伊藤軍令部第二次長に提出していた。  その会議での保科の発言。黒島軍令部第二部長に対し。「戦艦を砲台として使ってはどうか」(p.86)。  6-16に、北九州の関門、幡倉地区に対して、成都からB-29など二十数機が空襲。マリアナ勝利のダメ押しとして神経戦を仕掛けてきたのだ。これは済州島のレーダーで捉えられ、7機を撃墜。しかし軍官民は大きな衝撃を受ける。  S19-7-3、同期の草鹿聯合艦隊参謀長が来局し懇談。草鹿いわく「連合艦隊司令部の位置は無線封止と関連があるためむつかしい問題である」。※豊田GF長がマリアナ海空戦を陣頭で直接指揮しなかったことが6-30の大将会に於いて批判をされていた。古い大将たちは何も分かっていない……というか、今次戦争の様相について、緒戦から何も知らされていなかったわけである。  7-17、嶋田海相が落涙しつつ退任。東条もついに諦め総辞職。次は米内海相と永野総長のコンビが最上だと〔おそらく保科らの〕声が上がったが、呉鎮長の野村直邦大将が海相となり、軍令部総長は嶋田留任に決した。  「後継内閣に寺内陸軍大将を推す動きもあったが、反対が強く」(p.95)、7-20の大命は小磯と米内に。※寺内はなぜ反対されたのだろうか? 陸軍としては、ガッツがなさそうなところを嫌った。海軍その他としては、人格者なので米内の影が薄くなってしまうというおそれを抱いた。小磯は威勢は良くて軽量級だからこそ、都合がよかったのだ。  10-25時点で三沢では一式陸攻でマリアナに黎明時「逆着陸」して攻撃する準備訓練を重ねていた。しかし米機動部隊に空襲されて、おじゃん。  レイテ決戦敗北以後。S19-11-11に保科は井上海軍次官の考えに賛成した。すなわち、戦艦を撤廃し、駆逐艦と航空機の雷装を全廃し、軽巡以下小艦艇のみ修理を急ぐ。軍令部はもちろん反対。  S20-1-2、銀河×2機がサイパンを空襲して帰って来た。ところが2機とも脚が出ず、着陸の際に大破。戦果も見るべきものはなかった。  開戦直前の11-1の大本営政府連絡会議が終了した直後、東条首相が発言した。「日露戦争の時、奉天から沙河会戦で戦線が伸びきった時、そこで思いきった手を打って戦争の終結を図った。開戦に踏み切った以上、つぎに重要なことは戦局収拾の時機と方法である。だから開戦直後から終戦の研究準備をしようではないか」(p.109)。  この発言は杉山メモにはない。会議外だから。  戦争目的、戦線の範囲、戦争終結の時期、これらを東条が考えていたのは当然じゃないか。  杉山メモによれば、11-2に、お上「大義名分を如何に考うるや」、東条「目下研究中でありまして何れ奏上致します」と。  S16-11-15の大本営政府連絡会議に提出された「対米英蘭支戦争終末促進に関する腹案」も「官僚的作文にすぎない」(p.110)。東条の本音は11-4の軍事参議官会議で朝香宮殿下からのご質問に対し、〈2年後の見透しは不明だけれども、無為自滅よりも全力をつくして光明を求め、将来戦勝の基いは作為し得るを確信す〉と答えているのに出ている。そのさい、陸軍が比島を占領し、アメリカがこれを奪回せんとし、米主力艦隊が撃滅されれば、短期決戦の可能性がある、とも発言している。  岡軍務局長は、保科が思いつくよりも早く、独ソ単独講和の斡旋を進めていた。  S16-11-5の大本営政府連絡会議で「独ソ両国の意向によって両国を講和せしめ、ソ連を枢軸側に引き入れる」という、「戦争終末促進に関する腹案」ができていた。  が、S17-3-7の同会議で、「現情勢において独ソ間の和平斡旋は行わない」ことに決定。東郷外相のみがそれに反対し、「日本が戦争を終結させる機会があるとすれば、この独ソ和平斡旋以外に外交的方法はない」と主張。東郷はその後も工作の機会を待っていた。  大島は4-8に「独ソ単独講和は実現性なし」と電報。  7-21には、リッペントロップの申し入れ「日本の対ソ参戦を要望する」が大島経由で届いた。  レニングラードは900日の包囲に耐え、1943春に独軍を撃退。  スターリングラードの独軍20万が降伏したあとの1943-2-3にリッペンはまたしても日本の対ソ参戦を促した。※この116ページ部分、「日本の対日参戦を催促」だとか、1943を「昭和十七年」とするとか、かなり錯乱している。本書では校正は仕事を控えているように見える。  S19-6-15に米軍がサイパン上陸。7-7、サイパンが陥落した。保科は兵備局長として嶋田海相(まだ軍令部総長併任)に進言した。「もし特攻志願者がなかったら、私は志願して大和か武蔵の艦長となり、サイパンに突っ込みます。そして主砲を打ち込んで、総力を挙げて逆上陸を決行します。そしてサイパン島を奪回したところで終戦交渉に持ち込みます」  嶋田から東条に折衝したら、「陸軍は不賛成だ。五百万もの軍隊がまだ海外にいるのに、今海軍が総力をあげて反攻に転じ、大和・武蔵が失われたとすれば、後は一体どうなるのだ。絶対に反対である」と。  そこで中攻機での逆上陸を企図することになった。  三沢航空隊がサイパンを黎明に攻撃するには、朝の3時に出撃しなければならない。ところが夜間に長距離の編隊飛行ができる技量がない。熟練パイロットが足りないのだ。そこで訓練をしているあいだに空母艦隊の空襲を喰らい、中攻機の半数が爆破された。ついに「剣」作戦(一式陸攻による逆上陸)は中止された。  すでに大本営陸軍部はS19-3にインパール作戦を始めて19-7-3に作戦中止を決意していた。※インパール最終段階とノルマンディ上陸作戦(6/6)とサイパン緒戦が、かぶる。  1943-11の米英支のカイロ宣言は、「彼らの戦争目的が日本の侵略を阻止し、これを処罰するためであるというような主張」。わが国は黙殺した。  「今から回顧すれば、和平交渉のチャンスは幾度かあった。その第一はシンガポールが陥落し、英軍が無条件降伏した」、1942-2-15直後である。  「この年終戦の好機をつかめと言われたのは、ただ陛下お一人である」。  ミッドウェー海戦で、米濠交通遮断(FS計画)が延期されたのは、かえすがえすも残念なことであった(p.120)。これで二番目のチャンス(S17-5初旬)が去った。  サイパン特攻は三番目にして最後のチャンスだった。これほど不利な情況ではもう有利な和平などありえない。総攻撃を決行するしかなかったのである。これを蹴ったのは東条である(p.121)。  東条がS19-7-18に総辞職するとき、無任所相として3人に要請をした。米内、阿部陸軍大将、広田弘毅。阿部以外は断ってきた。  杉山メモによると、S16-9-5の杉山参謀総長の御下問奉答において、「お前の大臣の時に、蒋介石は直ぐ参ると言うたが、まだやられぬではないか」。  侍従長・藤田尚徳大将の回想。S21-2に陛下がおっしゃった。「……このごろ世間一般で申すそうだが、この戦争は私が止めさせたので終った。それが出来たくらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのか、という議論であるが……。……憲法上の責任者が慎重に審議をつくしてある方策を立て、これを規定に従って提出して裁可を請われた場合には、」それが意に満ちても満たなくても裁可するしかない。もし天皇が心持次第で裁可したり却下したりするなら、責任者は国政につき責任をとることなどできず、天皇が憲法を破壊することになる、と。  S20-4-21、東郷外相は木戸内大臣と会い、ソ連を斡旋役として戦争終結を促進させよう、と内談。  5-8にも、同様の内談。  ※配下に何の実力部隊も持たない外交官の東郷としては、あくまで外交のウルトラCに賭けるしか、主体的に打てる手はなかった。だから、終始一貫、ソ連の仲介に縋ろうとしたのだ。  S20-5-8、米国がとつぜん、連合国に対する武器貸与法の援助を打ち切ると発表。ソ連の対米態度が硬化。米国あわてる。  5-11、12、14に、六巨頭会談(総理、外相、陸海相、陸海総長)で対ソ工作が話し合われる。  S20-5-15、保科が海軍省の軍務局長になる。しかし藤村電(スイスを舞台にした、対米単独講和工作)については、何の申し継ぎもなし。  S20-5-23、大統領補佐官のハリー・ホプキンズがハリマン駐ソ大使とともにモスクワでスターリンと会う。スターリンはホプキンズに、「対日参戦は8月8日までに準備が整う。その参戦の日は中国がヤルタ協定におけるソ連の要求に承諾すべき日であり、ソ連は中国との条約に署名できないうちは攻撃できない」と語った。  スターリンは「無条件降伏以外は一切反対する」とも言った。  ハリマンの回想録いわく。スタは一つの占領地帯を欲しがっていた。北海道を希望した。が、米国が同意しなかった。スタは天皇を非常に嫌った。  ハリマンはあとでフォレスタル海軍長官にスタの印象を語った。「全欧が今年の冬までに赤化されるであろう」。  トルーマンの回顧録。軍事専門家たちは、日本本土上陸作戦では「米国人の死傷は少なくとも五十万名に達するものと予想した。ソ連の対日参戦は、わが方のために重大性を持っていた」。※死傷が50万ということは死者だけなら10万だ。この数値は合理的な推定であろう。  5-23と5-25、大規模な夜間東京空襲。スチムソンは、これ以上の一大ショックはもう原爆以外にはないと言明した。グルーは、焼夷弾空襲の継続で降伏すると反論。  グルーは、5-28の国務長官の幕僚会議に一つの草案を出した。それは知日派の同志であるユージン・ドウマンと相談したもので、後日のポツダム宣言の前文になった。書いたのは、ダグラス・フィアバンクス海軍大尉で、大尉は日本の貞明皇后を含む人々と連絡をとって、日本に降伏を勧告させようと工作していた(pp.168-9)。  内容は、日本国民の代表といえる平和愛好政府が樹立されるなら占領軍は撤退するし、その政府が天皇制を維持してもいい、と。  これに反撃したのは、議会関係の国務次官補ディーン・アチソンと、公報文化関係の国務次官補アーチボルト・マクライシュ。アチソンは天皇制を潰したい意向であった。  グルーは天皇制を擁護。トルーマンはグルーに賛成した。  スチムソン、フォレスタル、マックロイ陸軍次官は、天皇制存続に賛成(この三人とグルーは、原爆の完成を承知)。ディビスら国務次官補グループ(原爆あることを知らず)が反対。マーシャル(原爆を承知)は態度を保留し、天皇制保証の公表は見送り。  5-31、ペンタゴンで原爆に関する臨時委員会。オッペンハイマーは、「無警告で日本に原爆を投下せよ」と叫ぶ。  6-20、東郷外相は参内して、戦争終結の仲介者としてソ連がよいと思いますと上奏。  S20-6-22、お召しによる最高戦争指導会議。米内から保科が聴取したメモ。  戦争終結について、梅津:「依存はないがこの実施は慎重を要します」と奉答。「慎重を要することは勿論であるが、そのため時期を失することはないか」。「速やかなるを要します」とはっきり奉答。  後日、公式にソ連に対して特派大使を派遣することが決まった。東郷外相はソ連に対する不信から消極的態度をとった。陸軍は満州の関係で熱心だった。  天皇が終戦を望んでいることや、近衛ソ連使節団の空輸の手配などは暗号解読により米国に筒抜けで、スターリンがポツダムに到着する前に米国使節団は知っていた。阿南陸相が強気のために、和平条件があいまいなままであることも、伝わっていた。  近衛は松本俊一外務次官に対し、無条件降伏以外に戦争終結の途はない、と語ったそうだ。その破れかぶれな態度を聞いて東郷は、「やっぱり近衛君は困るね。僕はあんまり近衛君をやることには賛成しないんだが」と語ったそうだ。  6-25に海軍省に電報報告が届いた。スイス駐在の朝日新聞社特派員、笠信太郎の協力を得て、スイス駐在海軍武官の藤村義朗中佐が、米国政府の諜報員であったアレン・ダレスとの間で、日米単独講和推進の話し合いをした、と。保科はこの日に初めてこんな工作があることを知った  このとき、外務省はすでに空襲で破壊されていたため、大蔵省と同居していた。  6-25、つまり即日、保科が藤村工作の話を東郷にする。東郷は非常に困惑の面持で「ダレスの人物についての経歴が不明だ」。  7-3、反天皇主義者のバーンズが国務長官に就任。〔前任はハル。〕  7-11、12の両日、佐藤駐ソ大使と東郷外相のあいだで和平交渉の電報連絡。これは米海軍情報部に解読されていて、ポツダムの米側代表も知っていた。  7-17からポツダム会談開催。スターリンはトルーマンに、日本へはあたりさわりのない返事をしておくと約束。  保科いわく、アラモゴルド原爆実験は7-16だが、原爆があればソ連参戦は必要ないのだから、ダレスなら単独講和をまとめてくれたかもしれない(p.153)。※廣島型は実験なしで投下する予定でいたのだが、やはり核反応の威力を一回確認しないうちは、ソ連に代わる切り札になるとまで考える者はすくなかっただろう。  保科いわく。北イタリアの宝庫ロンバルジアが壊滅からまぬがれたのはダレスのおかげだった。「私としてはアレン・ダレスとの交渉が最もよいと思ったが、その戦争相手国の重要人物の研究が不充分であったために、せっかくのチャンスを失ってしまったという悔を持っている」。  「現在の官僚機構では、何年も何年も資料を積み重ねて人物の経歴を洗い、コメントを集めるなどという地味な仕事は、官庁では非常に困難な仕組みになっている」「国務長官ジョン・フォスター・ダレスの弟〔アレン〕が、CIAの長官になるほどの重要人物であることを、日本政府は誰一人キャッチしていなかった」。  小島秀雄海軍少将はドイツ降伏の前後にヨーロッパで連合軍の捕虜になった。  ダレスとの交渉について、「どうも敵側の謀略ではないかと思われるふしもある」と電報で藤村に注意したのは、大西滝次郎軍令部次長。  ダレスは、ソ連兵力の極東移動について、具体的、正確に情報を伝えてくれた。  藤村中佐が米側に提示した条件。商船隊は残してくれ。台湾と朝鮮は残してくれ。これらはニューメキシコが米領になってよくなったのと同じ。しかも日本の食糧資源として必要だから。  これに対してハック博士の見通し。朝鮮は、カイロ、ヤルタ会談で独立が決められているので、その要求は実現不可能だろうと。  ダレス機関は6月初め、東京から大臣か大将級の代表者で条約にサインしうるクラスの人物を出せないかと打診。スイスまでの空輸は米軍が絶対確実に引き受ける、と。  しかし米内がこの話を東郷〔対ソ工作しか興味なし〕に預けてしまったので、万事休す。  藤村が帰国後に知ったこと。米内、保科、富岡大本営海軍作戦部長、高木惣吉は賛成。大西と陸軍が反対で、斥けられたと。  ポツダム行きのオーガスタ号には、大統領とバーンズとボーレン国務次官補が乗る。知日派のスチムソンとグルーは外された。スチムソンは飛行機でポツダムへ。※スチムソンを単に「知日派」とくくるあたり、保科の米人研究もずいぶん甘いのではないか。  7-16、原爆実験成功。スチムソンは「最近日本側がソ連に接近しているので、速やかに警告(宣言)を発すること」を強く主張。  しかしバーンズの意向は、〈対日警告宣言文には天皇保証条項を混ぜるな〉。なぜならそんな相談をソ連にしたら揉めるに決まっているから。  共同宣言者である蒋介石が承知すまいということで、7-23頃にケリ。  7-20、ポツダムにおいて、アレン・ダレスはスチムソンに海軍工作の経過を報告した。  ダレスいわく。おそらくスチムソンはトルーマンに伝えた。トルーマンはスターリンと会ったとき、東郷と佐藤の間の通信を知っているとは言わなかった。チャーチルにトルーマンが「パールハーバー以後日本には軍事上の名誉はないと思う」と言ったのは本心だろう。またスターリンに「日本側に誠意があるとは思わない」と言ったのも本心だろう。  東郷は回顧録の「外交手記」で、ダレスが唱えていたのは無条件降伏で、時機すでに遅かったのだ、と。保科いわく、東郷は嘘を書いている。保科は直接に米内の命をうけて東郷に会って有利な条件であることを伝えているのだから、と。※日本の外務官僚は、プロ外交官でない者が外交のイニシアチブを取ることには死んでも抵抗するのだ。  ポツダム宣言は7-26(7-27)に発せられた。従来の絶対的無条件降伏の主張から、やや軟化。日本との平和樹立のための8項目の特定条件を出し、無条件降伏という語は日本軍隊にのみ明確に限定して一度だけ使われているのみ。  しかも米英支3国の共同宣言だった。  東郷外相は、ソ連が日本に対して今なお中立条約を維持しようとしていると思われるという点を指摘した。すなわち、米英支がソ連から日本側希望を聞かされて、態度をやや変えたと希望的に推測した。  鈴木首相と東郷外相は、これは「有条件」の講和申し出だとし、7-27の最高戦争指導会議で、受諾然るべし、と主張。  陸軍はしかし、本宣言は不都合だと発表しろと。東郷は反対。  けっきょく陸軍の前線からの突き上げで、鈴木はあらためて28日に「黙殺」と記者会見。これがノーコメントと訳されずに、サイレントキルドと訳された。それが原爆投下と、ソ連対日参戦の口実にされてしまった。  8-9の午前4時、政府はソ連参戦のニュースを、同盟通信社が傍受したタス通信によって初めて知った(p.137)。  終戦決定のS20-8-9の御前会議に保科は海軍軍務局長として出席。軍令部総長は豊田副武。陸軍軍務局長は吉積正雄。総合計画局長官は池田純久中将。侍従武官長は蓮沼蕃・陸軍大将。  東郷の発言に続き、まず米内が「全然同意なり」。つぎに阿南惟幾が「全然反対なり。その理由はカイロ宣言は満州国の抹殺を包含するが故に道義国家の生命を失うことになる」「殊にソ連の如き道義なき国家に対し一方的申し入れを以てせんとする案には同意する能はず」※つまりむこうの言質をとらぬうちは降伏したらいかんということ。  枢相「陸相、参謀総長に伺いたし。……原子爆弾に対する防禦に自信ありや」。梅津「……空襲のために敵に屈服せざるべからざることなし」  枢相「戦争を止めることよりも戦争を続けることは却って国内治安の乱れることも考え得べし」  「天皇統治の大権は国法に依って生ずるものに非ず。天皇統治の本体は憲法にて定まりたるものに非ずして憲法に述べたるに過ぎない」(p.146)。  鈴木「……誠に枢府議長の言はれる通りの重大問題である」  8-10の午前(深夜)2時30分、陛下のお言葉:〈九十九里の防衛体制では勝つ見込みはない。股肱軍人を戦犯として引渡すのは忍びないが、三国干渉の往時にならい、忍び難きを忍ぶ〉、「人民を破局より救い世界人類の幸福のためかく決心する」。  参列者の間から「慟哭の声が起った。私もこの席に侍っていたが参列者とともに慟哭し熱涙双頬を下って止まらなかった」  吉積からの話では、阿南大臣は陸軍を説得するために「陛下の〔大本営への〕行幸を御願いしたい意嚮であるということであった」(p.148)。  それについての米内の反対意見を吉積に伝えたら阿南も「海軍大臣の言われる通りだ」と、引き下がった。  8-10午前7時にスイスとスウェーデンを通した受諾電。しかしこっちから附帯了解を一言つけくわえたので、聯合国側の回答が後れ、8-13朝に返電が到着した。この回答の中に“subject to”の文句があって、また揉めた。  この紛糾解決のため8-14に第二回御前会議。このとき「自分の身はいかようになろうとも」「この際……マイクの前にも立とう」で、また列席者全員慟哭。  大西軍令部次長は、多田海軍次官や保科軍務局長に対して、実に執拗に米内大臣への継戦の説得を迫ってきた。多田は大西と同級生。板ばさみで次官官邸で寝込んだ。大西はそこへも押しかけてきたので保科が対応。  8-12、米内が豊田軍令部総長と大西次長を大臣室に呼びつけて激しく叱ったとき、保科も立ち会った。  豊田は「誠にすみませんでした」と謝って辞去。  8-16、スタがトルーマンに宛てた親展秘密の書簡。北海道の釧路から留萌に線を引き、その北半分はソ連軍に対して降伏させよ。両市はそこに含める。これは1919〜1921のシベリア干渉に対する仕返しであって、これをしないとロシアの輿論は憤慨するだろう。  これに対するトルーマンの返書。「合衆国政府は、軍事的および商業的目的のために、千島列島のむしろ中央群島の一つに、陸上機と水上機の航空基地を設ける権利を持ちたいと望んでいることを、明らかにしたいと思います」※これは択捉島と思われる。  スタは8-22書簡でもうこの件には触れず、8-30の手紙では、「千島列島のソ連の飛行場を利用させるから、アリューシャン列島にある米国の航空基地をソ連機のために使用させよ」と。※相手の要求をつぶしたいときには、こっちからカウンターの要求をぶつける。つまり受け身で消極的に拒絶するのではなく、積極的に攻めて、相手側をして当初提案を撤回せしめる。  樺太攻略は8-9から3万5000の攻撃部隊によって行われた。  アーレイ・バークから保科が聞いた話。朝鮮の38度線というのは、たまたま停戦当時に前線にいた一米陸軍大佐が引いた線なのだと。バークは南北朝鮮停戦協定時の米側停戦委員であった。  S20-9以降のこと。保科はGHQにサザランド参謀長を訪ね、復員者の雇用のために治山・治水・道路改修をやらせてほしいと要望。しかしサザランドが左翼系の米人と交替したので、立ち消え。  上智大総長のブルイ・ビッケル師は、ウイロビーの推薦があってマックに信頼されていた。ビッケルはキーナンに天皇の価値を説いた。  靖国神社を焼き払うなとマックを説得したのもビッケルである。  共産党幹部が獄から一斉に解放されて国体護持が危うくなると考え、「私は秘かに別動特攻隊を用意した」。発動を見るに至らなかったのは幸であった(p.194)。  米内は新海軍再建を保科に託してS23-4-20に63歳で死去。保科は野村吉三郎を相談相手に、米極東艦隊司令官ジョイ中将、その参謀副長のバーク少将(のちの米海軍作戦部長)と接触を密にした。  海軍将兵の温存のために、S22-3に、朝日実業株式会社を設立した。社長は安田政勝。海運会社で、優秀な海軍将兵を配置した。  海自が創設されると、同社は解散して、ほぼ全員、海自に入隊。たとえば、海幕の副長となった木村哲郎、佐世保総監になった長谷川清澄。  S29-7-1に防衛二法によって防衛庁が発足。海自も誕生。  航空自衛隊の発足にも口利きをした。米極東空軍司令官ワインランド大将、その作戦部長のスマート准将とともに。  海空技術懇談会も創設した。海軍技術を復興する母胎として、技術活用を斡旋。  経団連(石川一郎会長、植村甲午郎副会長)に図って、防衛生産委員会を創設させ、その審議室委員になった。  一連の構想を強力に実現するには政治家となって国会の場で抱負を訴えるしかないと痛感し、S30に衆議院出馬。自民党(鳩山一郎総裁、岸信介幹事長)の初代国防部長。  陸海空のいわゆる三・三・三再建案を党の基本方針として採択させ、その裏づけとなる防衛生産計画を策定。  いらい12年、国会議員である。  国家総動員法の前に、大正7年=1918に、軍需工業動員法あり。  田中義一内閣が設置した内閣資源局は、産業動員の調査と計画の機関。  S10に内閣調査局。S12-5に企画庁。12-10に資源局と合併して企画院。  S14に警防団、国民徴用令。大学で軍事教練が必須科目となり、物価、賃金、運賃の価格統制令。  S15にあらゆる生活必需品が切符制に。  国家総動員法はもともと53条の案だったが、集会と新聞に関する3ヵ条は議会の反対で削られた。  この間、防共護国団員と称する400名の右翼が兇器をもって政友・民政両党本部を占拠して総動員法を批判したことあり。  S15に同法のうち25ヵ条が、よりきびしいものになった。  企画院の外部におかれた総動員審議会が全体の動員計画を調整するはずだったが、陸海軍の要求が過大になった。  もともと米国の国力より日本が上だなどと考える日本人は一人もいなかったのだが、「米国の物質文明に対する日本の精神文明の対決だなどという哲学者が現われて来て、国家総動員の思想的中核が、大政翼賛会の日本精神主義によって彩られてしまった」(p.200)。  「ガダルカナルの勝利は電気冷蔵庫の勝利だと、当時米国は世界に宣伝していた」(p.201)。  進駐軍が厚木から横浜までパイプラインを一日で敷設して日本人はびっくりした。厚木着陸直後の飛行場整備の迅速さにも驚いた。神技のように見えた。米国人が日本人を使役してもとてもこうはいかない。米国人が米国人を使役したので可能なのだと分かった。敗けて当然だと悟った。  一昨年秋の中東戦争と石油危機の反省から、三木内閣が独占禁止法を提出。衆議院は保革連合で通過したが、参院で廃案にされた。国家総動員法の濫用の悪夢が、いまだ国民の記憶から去らないことの証左だ。画一化、闇の横行、人心は生気を失う。独禁が統制への第一歩だと疑われた。  将来の出師準備で注意すべき点。ギルバート群島への補給船は、荷役の関係もあり、一往復に48日を要す。石油の安全備蓄のためには、大規模な地下タンクを準備する必要がある。  「サバンナー島を占領した時、米軍が基地造成に使用したブルドーザーを発見し、これが基地を急速に造成するのにいかに有力な機械かを知った」。しかし模倣量産が非常に遅れた。  S50-7-24付のあとがき。「天皇(神のような無我の人格者)制護持が絶対に必要だと思う」。  シンガポール陥落時にいささかの曇りのない御心境で戦争の終結をお急ぎになった。  終戦は、「天皇の無私の聖断のよってのみ達成しえた」。  日英同盟条約の解消にこそ、大東亜戦争勃発の原点があった。よって日米安保を捨てればまた戦争になるだろう(p.207)。  「統帥権の独立という政治形態が、シビル・コントロール(政治優先の原則)を困難にした」。  「結局マスコミが威勢のよいナチスや陸軍の発言に同調し外務省の外交を軟弱外交とののしり、あるいは面白おかしく陸海軍の意見の不一致を誇張して、『陸軍は北守論、海軍は南進論』などと声高に宣伝して国民を戦争にかり立てたのである」。  以下、巻末参考資料。  S11-8-7の五相会議で決定された「国策の基準」。陸軍はソ連の「在極東兵力に対し開戦初頭一撃を加え得る如く在満鮮兵力を充実す」。「国防及産業に要する重要なる資源並に原料に対する自給自足方策の確立を促進す」。「情報宣伝組織を充備」する。  S11-11-25調印、日独防共協定。「世界平和全般を最深刻に脅す」「共産インターナショナル」の干渉を看過しない。  S12-10-25勅令「企画院官制」。国家総動員計画の設定及遂行に関する各庁事務の調整統一を図る。  S12-11-25大本営設置に際し、その前日の申し合わせ。「大本営政府連絡会議」。閣僚の選衡は内閣書記官長と陸海軍省軍務局長間で協議する。  とうじ両総長は皇族であったので、出席しない。  総理大臣は「特旨」により列席する。  閣僚は「思召」により列席する。  会議を奉請できるのは、総理、参謀総長、軍令部総長。幹事役は、内閣書記官長、陸海軍軍務局長。  カイロ宣言。1943-11-27署名。ルーズベルト大統領、蒋介石大元帥、チャーチル総理大臣。目的は、「満州、台湾及澎湖島の如き日本国か清国人より窃取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り」。「前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈[やが]て朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す」。  本宣言に対しては日本政府は之を黙殺した。※しちゃいかんでしょ。  ヤルタ協定。1945-2-11作成。1946-2-11にはじめて米国務省が発表。  1904年(M37)の「日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたるロシア国の旧権利は左の如く回復せられるへし」。「樺太の南部及之に隣接する一切の島嶼」。  「千島列島はソヴイエト連邦に引渡さるへし」。  ソ連の宣戦布告文。タス通信S20-8-8深夜発表。20-8-10朝日新聞朝刊掲載モスクワ9日発同盟。7月26日の三国の要求は日本の拒否するところとなった。7-26のポツダム宣言にソ連が参加することは平和を促進するだろう。  「以上に鑑みソヴエート政府は明日即ち八月九日よりソヴエート聯邦が日本と戦争状態に入る旨宣言する」「一九四五年八月八日」。  モロトフは佐藤に対し、以上と同時に、東京駐箚マリク大使がソヴエート政府の右宣言を日本政府に通達すべき旨を伝えた。  マリクはS20-8-10の午前11時15分に、東郷外相に伝達した。「右の次第なるをもつてソ連政府は明日即ち八月九日よりソ連邦は日本と戦争状態にあるものと思考することを宣言す」。  巻末年表。  1933-10-1に軍令部長は軍令部総長となる。  1936-6-3、国防方針、用兵綱領第三次改定。想定敵国に英国を加う。  1937-8-13、「陸戦隊の出動」※ぜんぜん分かってない。  1938-4-1、国家総動員法公布。5-5より施行。  1940-11-5、海軍省兵備局新設。  1941-4-9、伏見宮軍令部総長辞任。後任永野大将。  1946-2-9、ソ連、千島南樺太領有宣言。 ▽補足年表〔※ウェブサイト上の資料に加筆〕 1891(明治24)-3-8、宮城県 北郷村(現在の角田市江尻町)で生まれる  ※高松宮は1905生まれなので、14歳くらい違う。 1910-9、海軍兵学校に入る。入校時順位は120人中40番目 1913-12-1、41期卒 成績は28番という。少尉。 1916-9、『金剛』乗組 1916-12-1、中尉、水雷学校へ 1917-6、砲術学校へ 1919-12-1、大尉。砲術学校高等科へ。 1920-12-1、『霧島』分隊長 1922-12-1、『灘風』乗組 1923-12-1、海大へ。23期生。 1925-11-25、海大卒。首席ではないが次席優等。 1925-12-1、少佐。『山城』乗組 1926-12-1、霞空附 1927-3-1、海軍省出仕 1927-5-1、海軍省人事局 1930-5-1、米駐在 1930-12-1、中佐 1932-5-2、帰朝 1933-11-1、海大教官、米国海軍戦史担当 1934-11-15、大佐 1935-8-1、海軍省出仕 1935-10-30、軍務局第1課長 1937-11-20、大本営にある海軍大臣に常時随員。 1938-4-25、『妙高』艦長として第五艦隊の廈門広東作戦に従軍 1939-11-1、『陸奥』艦長 1940-11-1、軍令部兼海軍省出仕 1940-11-15、少将。兵備局長。 1940-12-11、大本営で海相に常時随員。 1941-3-11、企画院で国家総動員審議会幹事 1943-11-1、中将 1943-12-29、軍需省の仕事兼任 1945-3-1、軍務局次長 1945-4-1、「化兵戦」部長を兼ねる 1945-5-15、軍務局長 1945-11-30、海軍省廃止にともない予備役編入 即日充員召集(S50本では退職と書く) 1945-12-1、第2復員省 1946-3-31、充員召集解除 1927-5、経団連防衛生産委員会審議室委員 1952-7-11、海軍技術懇談会(後に海空技術調査会と改称)を設立、その海空技術調査会の会長に。 1955-2-27、衆議院議員に宮城から当選。 1955-12、自民党国防部長  50年代に渡米し、米海軍要路に工作。※海原治の反軍的反独立的な「警察予備隊」工作の裏で、親海軍的独立的「国防軍」工作に奔走したのだろう。  60年安保で岸首相、佐藤蔵相、池田通産相は、自衛隊を出動させてアイクを護衛させようとした。これに防衛庁の内局と制服が抵抗して潰した。 1961-5、防衛装備国産化懇談会を設立 1966-11-27、衆議院解散し、政界から引退。 1967、佐藤の密使として渡米して小笠原諸島返還交渉 1969-12-5、財団法人日本国防協会会長 1991-12-25、没。 ▼泉井久之助『フンボルト』S13、repr.S25  啓蒙という言葉は、悟性主義。たとえば仏の「人間機械論」のようなものを指す。※ロボットの可能性がここから追求される。  フリードリヒ大王時代にベルリンでもてはやされた。  「何人をも侵害せず」neminem laedere ……これは道徳。  共和制は人を「市民」の下に置く。  18世紀末ドイツの啓蒙主義では「人は世の役に立たなくてはならぬ」とす。有用であれ。  フリードリヒ2世になって、反動化した。  マイネッケのシュターツレゾンとは、kratos力と、etos倫理の統一だ、と筆者。  Wilhelm von Humboldt は、プラハにプロシア全権公使として赴いた。「防衛の手段を奪はれて敵の餌食になるなら平和こそ却って国家を頽廃に導くではないか」と1812-7〜8に発言した。  弟が、アレクサンダー・フンボルト。  1802に政治生活に入り、1819に退隠。36〜53才。その後、語学に没頭。 ▼『二十一世紀の国際法 宮崎繁樹教授還暦記念』成文堂S61-10所収、池田文雄「宇宙軍事化と法」  1985-9-13、F-15からMHV(自動追尾ミサイル)で衛星破壊実験成功。その後、10回やる予定。  ICBM発射監視衛星は3600km上空で静止している。  スターウォーズ計画は1983-3-23レーガン発表。当初はBMDと公称していたが84より“SDI”とする。  84-7には高エネルギー・レーザーでミサイルを墜とした。※ほとんどインチキ実験。  1972のABM制限条約は、研究そのものは禁じていない。  1963の部分核停条約は宇宙空間における核実験を禁止。  1967の宇宙条約は、核その他の大量破壊兵器を軌道に打上げることを禁止した。天体にも配してはならぬ。  指向性エネルギー兵器=DEW。  X線レーザー兵器は灰色。  日本は1985のジュネーヴ会議で青木大使が2度、宇宙空間の非軍事化を強く要望した。  この辺については『国際問題』1985-11月号で特集あり、また単著として池田『宇宙法(論)』がある。  1976-3、ソ連はキラー衛星実験にほぼ成功す。  ソ連は83-8に国連に「宇宙空間ならびに宇宙から地球に向けて武力の使用を禁止する条約案」を提出した。※この心配をしているのは当然というか流石である。日本外務省はなぜこの心配をしないのか。  SDIに対し欧州は「ユーレカ計画」を打ち出した。  85-9、米はレーザーによるロケット破壊実験。※筒体の内圧を高めておいたインチキ実験で、ビデオ映像によってロシア人を焦らせるのが目的だった。 ▼小川清二『航空発動機工学』S16-5  テトラエチル鉛は、排気は安全。  ふつうのガソリンを分溜ガソリンという。  軽油や重油を加熱、加圧して炭化水素を気体として取り出し、冷やして液化したガソリンを分解ガソリンという。これはもとの油の50%の重さが得られる。が、テトラエチル鉛が効かぬ。 ▼筑紫二郎『少年航空科学の話』S16-5  落下傘の袋の片はゴム紐で引っ張られている。針金を抜くとそれが開く。予備傘が出る。その中にバネが入っていて、パッと開き、主傘を引き出す。  傘体が絹なのは、畳んでも皺にならず、ねばつくこともないので。  飛行機からとびだすと、落下100mで開く。  降下は4m/秒。  高さ5000mで空気半分。ということは過給せずば馬力も半分という理屈。  高度1万だと1/3の馬力。これにつけてもハイオクの有利がわかる。  いちばん良い目を持った人でも空対空の距離8000mから敵飛行機を見つけることは出来ません。※小型機の話だ。  360km/時の飛行機なら、8000mは80秒で航過。ヘッドオンなら40秒。 ▼佐藤堅司『鈴木春山兵學全集 上巻』S12-4、非売、300部のみ  遺族が没90年を記念して出した。  田原には過ぎたる山が三つある 崋山春山(しゅんさん)伊藤鳳山。  春山の三大訳書「兵学小識」「三兵活法」「海上攻守略説」は、アヘン戦争時代(天保11〜13)の前後10年間に出版され、江戸時代最初の画期的邦訳兵書。  佐藤のライフワークは幕末兵学史研究。そこを見込んで依頼され、完訳本を捜索発見して作業開始。  玄白が解体新書を刊行したのが1774、子平は1777に海国兵談を書き始める。  1787に志筑忠次郎が「火器発法伝」を訳す。  1790に前野良沢は「和蘭築城書」を訳す。  秋帆と春山は1歳違い。江川とは同年。  1801、志筑忠雄『鎖国論』。  1804、井上左太夫『銃砲問答』。長英生まる。  1808、本木正案が「海岸炮術備要」を訳す。大槻玄沢「海岸炮術備要附録」著述。信淵「銃砲窮理論」。  1809、信淵「三銃用法論」。  1816、平山子龍「海防問答」。  1825、会沢安「新論」。  1832、クラウゼヴィッツ『戦争論』、夫人により出版さる。  1837、小関三英「奈破列倫伝」訳。  1838、崋山「●舌小記」「慎機論」。長英「夢物語」。   長英は春山に後事を託して自首する。  1840、阿片戦争はじまる。  1841、崋山自刃。秋帆の徳丸原演習。  1842、阿片戦争おわる。  1848、信淵「弾径銃製秘訣」、象山が洋式大砲をつくる。  1850、小山杉渓「電撃銃略記」  1856、東條英庵「雷火銃小解」、金森錦謙「雷銃新書」訳。  1863、長山樗園「銃戦紀談」。  1866、諭吉「雷銃操法」。  サトケンいわく、大槻如雷の「新撰洋学年表」により、1641の「紅毛火術録」が日本初のオランダ語→邦訳兵書だ。  北条氏長が通詞を介して蘭人ユリアンから攻城砲の話を聞き、それを本にした「由理案牟攻城伝」1650が、それに続く。  日本最初の弾道学書は、英→和tr.の「火器発法伝」。  築城書は1790の「和蘭築城書」。  海の証言。弘化2年ごろの三兵タクチーキは写本が50両もした。貧乏旗本の勝はそれが15両になったとき、漸く手に入れた。  春山の訳力は長英より上手で、読ませた。  日本で「水雷」の字を用いたのは『海上攻守略説』が最初ではないか(pp.92-3)。  1811ペイキサンスがロケットで自走する爆走舟艇を考案した。  広瀬豊『吉田松陰の研究』によれば、西洋流をとりいれた山鹿素水の流れだと。  山田顕義と曾我祐準は明治兵制改革をしたが、やはり兵学小識をもっていた。  春山と江川は同年生まれで、秋帆の徳丸原演習の前に『兵学小識』は長英と共訳を終えている。演習の翌年、象山が入門。  兵学小識のなかに砲弾のことはくわしく書いてある。  ムスケット銃は、銃口〜薬室3尺8寸、1オンスの弾丸を放つ(p.71)。  大マスケットは37口径長(4尺8寸)、重さ2セントネル半(16貫728銭)。  旧来のビュス銃、39L(4尺3寸3分33)、重さ1セントネル30斤(16貫627銭2分)。  軽いのは6貫台。重いのは20貫台。  盆貌[ボンブ]弾、火道信管  道火線を使う「鉄籠弾」という焼夷弾があった。  ゲベールは英製だと銃口19歩25、弾径17歩24、装薬8ウイクチイ84  プロイセンは16歩74、14歩12、7.32  仏はその中間。  ヤーゲルは200歩で100発うつと74発あたる。  マスケットは200歩で100発うつと28発あたる。  しかしベンチレストなら90発あたる〔これは兵学小識か?〕。  敵の見え方から距離を知る。 ▼佐藤堅司『鈴木春山兵學全集 中巻』S12-4  すべて「兵学小識」。高野の「三兵タクチキ」と元種は同じ。※ものすごい字数である。50両するわけだと納得。 ▼佐藤堅司『鈴木春山兵學全集 下巻』S12-4  「三兵活法」と「海上攻守説」  長沼流は、甲州/越後/北条/山鹿流に比して、最も多く西洋要素を加味している。  ここから洋学へは進みやすい(p.424)。 ▼関口多景士『復讐心を持て』S51  著者はもと埼玉県庁職員。  TVの大岡越前も水戸黄門も「復讐物」だ。  舌切り雀、花咲じいさん、ともに報恩と報復の話だ。  動物に復讐行為はない。  日本最古の記録された復讐は、眉輪王(まゆわのみこ)が父の仇である安康天皇を殺害した、との書記の話。  M6にはじめて復讐禁止法。  1880に近代刑法の殺人、傷害罪。  浄土宗を開いた法然は、9歳のとき、父を殺されたが、その遺言で、遺恨の連鎖を断てと戒められ、出家したのである。 ▼吉田武三『とびあるき人生』S49  爪の垢でも……は関東の言い方で、京にはない。  ペテン師のアメリカ人技師が長野の善光寺の近くで石油を掘った。石坂周造という士族がのめりこんだ。鉄舟の義弟という(p.70)。  切っ先で押して柔なれば逃ぐ。これは次郎長が鉄舟に語ったという。  『遊侠伝』は25歳頃書いた。初版の著者名は、「山本鉄眉」とした。ここには、事実でないことも、水滸伝風に挿入されている。出版は、成島柳北の世話焼きで。  天保は侠客の全盛期だった。  愚案(天田五郎)の自叙伝を『血写経』というが、饗庭篁村のリライトがすごすぎて不正確。 ▼ジルベール・ガンティエ『パイプライン』文庫クセジュ1971、原1964  パイプラインの管轄を通産vs運輸であらそっている。  すべてアメリカ規格ゆえ、単位はインチ、マイルである。  1900時点でロシアは世界一の産油国。バクーの開発は仏のロスチルドとスウェーデンのノーベル・グループ。  天然ガスパイプラインも1885にアメリカで始めた。  テキサスパンハンドルにガス田がある。  WWIのあるとき、クレマンソーはウィルソンに「受けとった石油の一滴は人間の血の一滴を節約する」と電報した。  原油用ビッグインチ=24in. 製品用リトルビッグインチ=20in.  プルトー作戦は1942計画。1944-6-6実施。2タイプの3インチパイプラインをウイト島とシェルブールに結ぶ。計11本の編み型パイプ、計6本の撓性鋼パイプ、すべてガソリン用。  下り勾配が急なところでは減圧ステーション(サージタンク、リリースバルブ)を中間に挿入。  重油のような粘度の高い製品はパイプで長距離を送れない。原油はOKで、灯油や軽油やガソリンもOKだが。  管内汚れを日本人は「コンタミ」と略称す。  ガスは重さを無視できるので勾配を気にしなくてよかった。今は長距離送るため高圧をかけるゆえ、気にする。  WWIまでは10インチ以上の管を経済的に量産する方法はなかった。  24インチはWWII中に実用。  シベリア=ヨーロッパ・パイプラインは100インチ。  管には陰極化電流を通じて防食とする。  ポンプステーションのイニシャルコストはたいしたことはない。  管は常に満たされていなければ役立たぬから、長いものほど大量である必要がある。  トラックや鉄道が登れない坂もOKだ。 ▼三木季雄『パイプライン』S48、日経  日本では、鉄道タンク車6.8%、タンクローリー29.9%、内航タンカー63.3%である。  石油に海水を混ぜると、-1℃〜-7℃のまま圧送でき、寒地の環境を破壊しない。アラスカ向けに提案されている。  石油産業は、輸送産業だ。  石油製品のうち、白油系は、需要が人口分布と一致。  パイプラインの償却年数は、欧では20年。米ではover40年。 ▼長崎作治『海洋パイプラインハンドブック』S59  海底パイプラインは、小径(最大84インチもOK)×数本とするしかない。  深さのレコードは、水深700mである。  必ずトレンチに埋める。そうしないと海水の動きに翻弄され、自壊する。またはパイプ自体の重さが破壊の因となる。  マットレスで覆う方法もある。 ▼梅津和郎『ロシア天然ガス産業の経営構造』1997  1867にモスクワには6000のガス街灯があった。  サハリンの石油と天然ガス開発は1996から。  ロシアにLNG設備は皆無。専用タンカーもない。しかしヨーロッパにはパイプラインで売っている。  LNGは1960年代実用化技術で、-200℃まで冷やす。  産地は、露、イラン、アラブ首長国連邦、米、ベネズエラ、豪。※つまりサウジにはないのだ。イランがさいきん強気なわけだ。  アフリカでは、ナイジェリアとリビア。  シナはリビアやクウェートよりは多いが、カナダやメキシコよりは少ない。  サハリンの2つの天然ガス事業には、三井物産と三菱商事が参加。  大陸の積出港としては、通年利用できるナホトカのみしかない。  サハリンから稚内までパイプラインを敷くためには、年に2000億立方mの供給とならないとダメ。  ロシア極東の人口は、わずか800万弱である。