名演技者揃いで真に羨ましく思った映画:『Ray』

 役者バカという言葉が日本にはありますけども、演技はバカに務まる職業ではありません。表現者としての素質がもともとあり、その上に頭脳と肉体を巧みに用い続けて、人に観てもらえる役者になる。その最も信任された演技者が、時の民主主義制度下の国政最高長官となっているんです。
 下手糞な芝居しかない国には、つまらない政治家しかいません。これは観客が二流なのですから、ごく自然なのです。
 さて有名な音楽家の半生をトーキー映画に仕立てたら、誰もが観て感心する映画となるでしょうか? まあ、世の中そこまで簡単なわけはないでしょう。
 音楽のドラマ性と人生のドラマ性はそもそもサイクルは合いません。というのは、一人の作曲家は一生に一曲しか作らないわけじゃないですよね。そこが、建築家や冒険家や戦争ヒーローとは違っているんです。どちらかというと、彼らは若いときに名曲をヒットさせてしまう。それも複数、立て続けに。
 それはしかし、人々が馴染んでおり期待もしているドラマの「盛り上がり曲線」には、あてはまりません。
 もし、脚本の雑駁なところをBGMで補うなら、たちまち「メロドラマ」と呼ばれる安物に仕上がってしまうでしょう。ミュージカル映画でない以上、音楽に重点を置いたら「負け」なのです。映画の作り手側としての野心が、それではほとんど満たされない。
 他方で観客の側とすれば、有名な音楽家の映画と聞いたら、やはりその音楽家のレコードを堪能したいと思うでしょう。脚本家も演出家もそれには応えてやる義務がある。もちろん役者は、本物の演奏家のように演技できなくては観客はすぐ幻滅します。要求されるものが高い。
 こうしたことから、有名な音楽家を主人公にした映画は、そうでない人が主人公の映画よりも、チャレンジングになるでしょう。博打です。そして、まず間違いなく、観客の全員をフルに満足させることはできないのです。なぜなら一人一人の聴取体験はユニークなものであり、異なっていますから。それが制作する前から分かっている勝負なのです。
 『Ray』はどういう解決法を採ったか。テレビの『ER』方式です。つまり複数のエピソードの波状連打で構成してきました。エピソード群の節目と、有名な持ち歌の1曲づつを、カプリングさせた。これはミュージシャン映画の王道ではないかと思いました。そしてこの王道には小細工が効かない。『ER』が病院のリアリズムを再現した以上に、ディテールに凝った映画になっています。しかしエンターテインメントへの凝りは、観ていて楽しいものですね。
 もし皆さんの中で、いまから1ヵ月間に映画のために投じられる予算が¥1800-しかないという人がいたら、『アレクサンダー』ではなく、『Ray』をご覧になることを兵頭は推奨します。わたくしが近年に観た、ティナ・ターナーの自伝映画(1993米公開)の1.5倍、それからエミネムの自伝映画『8 Mile』(2002米公開)の2倍ほどは堪能できる音楽映画でした。なによりも、賞嘆すべき演技者が集まっています。この多士済々の演技を脳みその隅っこに書き留めておくだけでも、一生の財産でしょう。演技ができるということは「人間が分かっている」のです。人間が分かっていなくてノー・ルールの競争に勝つことなどできません。
 わたくしは『アレクサンダー』はネットで予告編しか観ていませんが、これはイラク戦争とオーバーラップさせた、ただの国策映画だな、と感じました。こういう国策映画は少々不満足な出来でも権威あるナントカ賞はとらせてやるというしきたりに、あちらではなっていますけれども、日本人のわれわれがそれにお付き合いすることはないでしょう。『アヴィエイター』も、ブッシュ政権の「よいしょ映画」臭いですねぇ。
 ところで『Ray』の感想として「暗黒面を描いた」とか書いている批評家がいるみたいですけど、正気ですか? クインシー・ジョーンズの伝記を一冊読んだだけでも、「音楽ビジネスの現実に善人は一人も居ない」ってことは、もうオトナの常識として呑み込めなきゃいけないでしょう。
 そういう汚い、残酷で気疲れのする世界でミリオネアになった彼等が凡人たる我々より激しく快楽を求めるのは当然だとは思えないんですか? 『Ray』の描写ごとき、暗黒面でもなんでもありゃしません。
 公園の「花時計」があるでしょう。ミュージシャンから音楽をとったら、花を全部むしりとった花時計の針がぐるぐる回っている、それだけの現実です。そんなリアリズムを、誰が映画で観たいんですか? あれは、せいぜいが「青い芝生」も見せた、というレベルですよ。