堂々巡り

 ……「日本人に自主防衛の気概が無い」→「アメリカ政府にとってはシナが頼もしく見え、シナに秋波を送る」→「シナは対米協力の見返りとして日本の永久非核をアメリカに誓わせる。また、日本は核をもったら何をするか知れない危ない国だと対外宣伝する」→「日本政府は先の大戦についてお詫びをし、防衛力を制限し、国民にますます自主防衛の気概がなくなる」→ …………。
 このようなエンドレス・ループに決定的に陥ったのが1970年代でしょう。
 1976年に日本は「核兵器の不拡散に関する条約」(NPT)を批准します。同年、三木首相は、防衛費は必ずGNPの1%以内にすると閣議決定しました。その理論的な合理化は、外国からの核攻撃をまったく想定しない「(旧)防衛大綱」に拠っていました。
 開き直ったと言えば格好がつきそうですが、国民の生命を守る義務のある政治家と安保関連官僚は、道徳的にはこれ以下にはなれないくらい、堕落したのです。
 安全保障の危機には、「外患」「内乱」そして「社会が共同体のモラルとモラールを破壊することによる自殺的弱体化」がありますが、当時の政治家と官僚はその三番目を演出していました。立派な国家叛逆と言って可です。
 1976年くらいまでは、米ソの核戦力の大宗はICBMで、米ソの核武力は拮抗しているので、したがって米ソ全面戦争は起こるまいと広く信じられていました。
 しかも石油ショック以来、石油の大輸出国であったソ連が軍拡の原資を潤沢に得、元気満々になってしまった。石油自給国だったシナもソ連陸軍の圧力にさらされ、石油輸入国で参っていた米国はソ連海軍のSLOC攻撃(中東からの石油搬出を遮断する)の意志を知り、いっそうシナと強く手を結ぶ気になります。
 ところがこの構図は永続はしませんでした。米国のあるテクノロジーが、何もかもガラリと変えたのです。
 そのテクノロジーとは、70年代後半から登場したナヴスター衛星群、GPSです。
 「GPSは巡航ミサイルの誘導用に開発された」と読める解説をときどき目にしますが不正確です。GPSはもともとSLBMのトライデント、およびその発射原潜のために考えられたシステムでした。
 GPSは米ソの核の均衡を覆しました。GPS利用により、米国のSLBMは、やがてソ連のICBM並の精度を持つことになるだろうと、ソ連側には予測ができました。つまり米国は海中からソ連の地上の核を丸裸にできるようにもなってしまう。ソ連にはその対抗手段が持てません。ソ連は海中での技術競争でも遅れをとっていました。
 ICBMという比較的シンプルなシステムに一点張り投資していれば、それだけで強大な米国と戦略的に拮抗できたという、ソ連にとってのとても幸せな時代は永遠に去ったのです。
 ソ連は覆えらんとするバランスを元に戻そうと、択捉島に基地を新設したり、気違いじみた軍拡を試みましたが、ついに力(財源)は尽きました。
 こうなって、米国には、中共の助けも要らなくなったのです。
 シナが、ソ連に代わる気違いアクターとして、テロ国家・北鮮を育て始めたのは合理的でしょう。
 北鮮がテロ用の核兵器を研究し続け、日本が腑抜けであり続ける限り、米国は半島問題でシナを頼りたくなるかもしれません。
 米国の「GPS+SLBMによる平和」の達成は、米国以外の国(ソ連)が米国と対等の核大国でいようとする野望の芽を摘んだのでしたが、米国本土がそれによって外国からの一発の核攻撃も被らずに済むようになったのではありませんでした。
 むしろ逆に、80年代のように一千発を越えるRV(再突入体)の落下を覚悟する必要がなくなったがため、今や、わずか数発の核爆発も米国は怖がる、厭うという、新情況が生まれたのです。
 お蔭で、米国に届く核手段をタッタ20発しか持っていないシナも、米国に対してかつてのソ連と同等の立場になろうという野望を抱くことすら可能になりました。
 また、非核の同盟国である日本は、かつて以上にシナからの核脅迫を恐れねばならないことにもなっているのです。
 「GPS+SLBMによる平和」は、米国のMAD発動をなかなか有り得なくし、日本上空の米国の核の傘を消滅させてしまったんです。日本が単独でシナからの核攻撃を被った場合、米国はシナに反撃すべきかどうか悩む筈です。
 この新たな不満足情況もテクノロジーでなんとかできるのではないかと思い付かれたのがMDです。
 が、残念ながら、MDはGPSほどは世界の核情況を変えないでしょう。日本は自力で核武装する以外に、シナの核から身を守る術はないでしょう。
 ロシアやシナなどの反近代勢力を弱めるために、日本が同じ価値観を共有する近代国家として米国を支援するのは、世界人類のためになり、道徳的に正しく、当然のことです。
 しかし独自の核武装そっちのけでMDなどに協力するのは、不健全な対米貢献となるでしょう。あたかもそれで日本国民の安全が買えるかのように政治家と官僚らが宣伝するとすれば、それは為政者として不道徳的でもあります。
 弾道弾は真上から落ちてくるという誤解がありますが、シナや北鮮から発射されたRVは、かなり斜め横から飛んで来ます。曲射砲ではなく加農。つまり野球のライナー性の当たりのような軌跡をこそ想像すべきでしょう。
 もし完全な迎撃ミサイルを配備できるとすれば、その発射機よりも東側に位置する長細い土地が、守られることになります。つまり迎撃ミサイルの射程が短くとも、それによって守られる地表面積は、やや広い。……のですけれども、肝心のMDがRVに命中する確率が、とても低いんです。
 東京都の西部の横田基地にMDの日米共同司令部を置く構想が報道されています。こうした観測気球によって、世論の反応をいろいろと見極めながら、新しい基地が決まることでしょう。
 意味するところは二つあります。一つ。独自核武装を渋る腑抜けの日本人、特に東京都民を守ってやっているというポーズをアメリカ側が示すこと。二つ。MDが当たらぬものだという見通しを知悉する日本の防衛官僚は、米空軍とMDの司令部をあくまで「東京都」内に置かせ、象徴的に両者を混然一体化させておきたい──ということです。
 すなわちシナもしくは北鮮が関東の米軍基地を攻撃すればそれはそのまま日本の首都東京を狙った攻撃と看做されるようにしておく。また、東京都を攻撃すれば、それは自動的に米軍の司令部所在地も攻撃したことになるようにしておく。こうしておいたならば、米国大統領としても、対支/対北鮮の核報復攻撃の命令が下し易いでしょう。
 ただし、その暁に米国大統領が必ずそうしてくれるという保証は、ぜんぜん無いんです。
 ここでお話は冒頭に還ります。いかにして日本国民は自主防衛の気概を持つんでしょうか? その光明は、まがいものでない武士道の研究の中にのみ、見出せることでしょう。