旧軍の未解決の諸問題は比島にこそ存在する

 先の戦争は日本によるアジアの解放戦争だったと60年も経ってまだ歴史を学ばず脳内自慰している総てのバカ右翼に問いたい。
 米軍指揮下のフィリピン軍が4万人も死んでいるのは、白人の帝国主義者に強制されたものだと思うんですか、と。
 旧厚生省その他によりますと、1941年から45年まで、フィリピンで日本兵は51万8000人死んでいるそうです。うち47万人はゲリラに殺されたと言う人もいます。いや8割は餓死だった、という人もいます。とにかく51万という数字は、シナで戦死している日本兵46万人を上回る。
 そう、比島防衛戦こそは、日本陸軍史上、最低最悪の戦いだったんです。それがどういうわけか戦後日本人の意識の中ではスルーされています。
 しかも面妖にも、3万520人しか死んでいないインパール作戦などが「拙戦」「悪戦」の代表格として取り沙汰されているんです。(ビルマ全体で昭和20年8月までにトータル14万6000人死んでいるが、牟田口が第15軍司令官だったのは昭和18年3月18日から19年8月29日の間だけ。)
 それには特殊な事情があります。勅任官の師団長を3人も馘にした牟田口は、ビルマの仇を東京で、かつての部下たちにとられ、復讐されてしまったんです。つまり、牟田口に左遷された高級軍人たちは、ノモンハンの前線部隊長たちとは異なり、決して黙って泣き寝入りはしませんでした。彼らの恨みのエネルギーは敗戦を挟んで反牟田口の大宣伝となり、おかげでちっぽけなインパール作戦が、比島作戦全体よりもむしろ悪名が高くなってしまったのです。
 19世紀はじめ、ナポレオンは、スモレンスク以東に49万1000人の味方の死体を置き去りにして帰ってきています。これと同規模の体験を20世紀の日本陸軍が舐めたのは比島戦であって、ビルマ作戦ではありません。もちろん13万人が死んだニューギニア戦でもなく、94000人が死んだ沖縄戦でもない。
 ビルマでは、敵方のウィンゲートの第一回東征でも、出発時の1/3の英兵&グルカ兵はジャングルの肥やしとなっています。10万人出して7万人が戻ってきた牟田口のインパール作戦と、死亡率は同じでした。ビルマでは日英お互いにシンプルに死闘を繰り広げたのです。
 比島戦は、道義的にも最も問題の多い、日本史の汚点です。
 支那事変は、シナ人が官民合同の国家的テロ作戦を日本に仕掛けた結果始まったものでした。その結果、シナ人がたとい何十万人死のうと、それは自業自得だと言えるでしょう。
 しかるに比島戦はそうではない。現地政府の教唆に基づく反日テロなどは戦前の比島には起きてはいませんでした。そういうところに日本軍が乗り込んでいった結果、フィリピン人民はなんと111万人も殺されることになってしまったのです。
 シナ人に理由もなく土下座するのが趣味の日本人が多いようですが、そういう方たちはまずその前にフィリピンに向かって頭を垂れるのが人の道というものであろうと思います。
 こうした大掴みな戦史の理解が日本ではまだ不十分なようですので、別宮暖朗先生と先の大戦に関する評論本を一冊つくることにしました。現在、某P社の担当の人に原稿は渡っていますが、既製の解説に大いに逆らう内容ですので、審査に通るかどうかは分かりません。
 ところで、フィリピンではほとんどの日本兵が「住民」と交戦した経験があるでしょう。このため、終戦後、ジャングルから出てこられない日本兵はとてもたくさん居たと考えられます。投降すれば死刑になると自覚したのです。
 小野田少尉もおそらくは住民を射殺したことがあるために出てこられなかった。そこで厚生省では「残置諜者であった」という物語を用意しました。その物語を、当時のフィリピン人も受け入れてくれましたので、晴れて帰還が可能になったのです。
 今度の日本兵にはどんな物語が用意されるのか知りませんけれども、大事なことは、住民との交戦を水に流し、今日まで山奥で生かしておいてくれたフィリピン人すべてに感ずる心でしょう。
 外務省と法務省は、フィリピン人に認めないビザ無し日本観光の特権を、どうして生まれつきの暴徒であるシナ人などに認められるのでしょうね。これほど恩知らずで無礼な態度は、ありますまい。