時評および雑記録

 月刊『中央公論』はタダで(しかも正確に引越し後の住所宛てに)送られてきますので、毎月はやばやと目を通させて貰っている媒体です。いつもは「こんなんで売れるのかよ」と他人事ながら首を傾げるコンテンツばかりなんですが、どうしたわけか今月号の橋本五郎氏の岡田克也党首に対するインタビューは傑作でした。
 なんと、聞き手の台詞であるゴチック体の部分だけを拾い読みすると、「いや御尤も」と首肯できる社説になってるんです。明朝体部分は読む価値はほとんどない。国益を損ねているのはこういう腰抜けたちのせいなんだなと再認識されるのみです。
 こんなインタビュー記事、初めて見ました。読売の編集委員さんは違うなと感服仕った。
 朝日新聞の言うとおりにすればとても不利なことになるんだとシナ政府にわからせる「ゲームのルール」((c)佐藤優)を、日本政府は機械的に実施しなくちゃダメでしょうね。それには同時に橋本氏のような才能をヘッドハンティングして専属のスピーチライターに雇って、シナのスパイどもが何か発表する度に、間髪を入れずに反撃のコメントをしていくことが肝要でしょう。
 今月の中公は、秦郁彦氏に全国新聞の社説を批評させていて、これも読ませました。
 月刊『voice』は今月号は送られてきませんでしたが、なかなか面白いという噂があります。
 唯一自腹で購読している月刊『軍事研究』。7月号では志方さんが例のシナ原潜の日本領海侵犯が「軍部または原潜艦長の独断であったのだろう」と書いています。大丈夫かよ? また黒井文太郎氏の『国家の罠』寸評がパンチが効いていました。(前に黒井さんってどういう人なんですかと加藤健二郎氏に訊いたことがありますがエラく謎のようでした。)
 すでに旧聞ですが今月の初めに、オーストラリアの南西部のパースに近い砂浜に、またも鯨が85頭打ち上げられたと、ネットのニュースで知りました。
 これは東シナ海と「浅さ」が似ていて、しかもシナのスパイの潜伏をしっかりと監視し易い同海域を使って、米海軍が「低周波ソナー」のテストをしているからだろうと想像されるところです。4月にもこのようなことがありました。
 以下は、靖国関係と遺族会に関するいくつかの資料の摘録です。
 なお靖国問題に関する兵頭二十八の見解は『武道通信』vol.19 (H-14-10)に掲載された拙稿「武士道と宗教と靖国」をご参照ください。
▼『近代真言史の研究』S62、所収・藤原正信「『靖国』問題と日本遺族会」
 ※これは日本遺族会についてよく調べてある感じです。
 S24時点で、遺族年金も、弔慰金もゼロであった。
 これでは困ると、800万遺族の「犠牲者」自覚がつのる。→利権団体化。
1950年から、「運動」の柱に。
 1952−4−30「戦傷病者戦没者遺族等援護法」公布。これで遺族年金が実現。
 しかし小額のため、すぐに増額運動が。
 1956−5−1、遺族会は要求した。すなわち靖国神社は「国事に殉じた人々」の「みたま」を祭神とし、「その遺徳を顕彰し慰霊するものであること」と。
※このへんから「寺院化」が始まった。
 1965の全国戦没者追悼式は、遺族会の願いには反して、武道館で行なわれた。
 靖国法案第一条(1967−3の案)
 「靖国神社は、日本憲法の精神にのっとり、戦没者及び国事に殉じた者に対する国民の感謝と尊敬の念を表わすため、その用に供される施設を維持管理し、これらの人々の遺徳をしのび、これを慰めその功績をたたえる等の行事を行ない、もって社会の福祉に寄与することを目的とする」
 1969−3の修正案の第一条
 「靖国神社は、戦没者及び国事に殉じた人々の英霊に対する国民の尊崇の念を表わすため、その遺徳をしのび、これを慰め、その事績[蹟カ?]をたたえる儀式行事等を行ない、もってその偉業を永遠に伝えることを目的とする」
 法案が廃案となって、S51−6に議員が中心の「英霊にこたえる会」ができた。
▼靖国顕彰会『靖国』S41
 昭和27年5月2日。これが戦後最初の政府主催の全国戦没者追悼式。新宿御苑。両陛下が御親臨。
 昭和28年3月、(財)日本遺族会、発足。
 昭和34年3−28に、千鳥ガ淵墓苑ができるとき、遺族会は、そこを国家的権威に支えられた「合掌の場」とせぬこと、また、全戦没者の遺骨を象徴・代表するものでないことを政府に確認させた。
  ※追悼施設だと定義されれば、そこは遺族会が絶対の場になってしまう。もはや戦後遺族会は戦前戦中の遺族とは異なったいびつな存在である。
 竣工日には両陛下が親拝。
 昭和37年8月15日に、郷友連盟(日本遺族会と並ぶ圧力団体 ※昔の在郷軍人会)が、殉国者顕彰慰霊祭をやっている。
 戦後最初の全国戦没者追悼は、S38に、日比谷公会堂で。
 第2回は、遺族の強い要望で靖国神社で。
▼(財)日本郷友連盟『日本郷友連盟十年史』S42−2
 S29−11   全国33都道府県の戦友団体の代表があつまる。
 S30−6−6  「日本戦友団体連合会」結成。植田謙吉が会長。S31から岡村寧次が理事長。
 S30−8−14 終戦時の自決烈士顕彰慰霊祭を靖国神社内で。
 S31−5−12 会名を日本郷友連盟に改む。
 S31−8−14 殉国諸霊顕彰慰霊祭を靖国神社で執行。
 S31−10−10 社団法人の許可。
 S32−8−15 大東亞戦争殉国英霊顕彰慰霊祭。神社内にて。
 S33−8−15 大東亞戦争殉国者顕彰慰霊祭。これは九段会館にて。
 S38−6−1  全国在郷軍人会を合併。
 S38−8−15 運動が実り、この年から、国家行事として政府主催の全国戦没者追悼式が行なわれる。この年は日比谷公演にて。
 S39−8−15 政府主催の第2回全国戦没者追悼式。
▼田中伸尚・他『遺族と戦後』1995(岩波新書)
 地方の遺族会に入ると、年1〜2回、バスで靖国に行ける。会費は年に¥1,000-だ。
 九段会館は国有財産なのだが、1953の特例法により、(財)日本遺族会に無償貸付され、同会が運用している。
 そもそも1934の即位大礼にあわせて帝国在郷軍人会が建設したもの。終戦後は1957−1まで、米空軍の将校クラブなどとして接収されていた。貸付としたのは、無償払い下げだとその後の固定資産税の負担が生ずるため。貸付実施後に「九段会館」と改名し、日遺連の事務所も置かれた。
 軍人援護は、支那事変で拡充された。
 1938に、いろいろな援護団体が「恩賜財団軍人援護会」に統合される。
  →1946−4「恩賜財団同胞援護会」に。
 1939に「軍人保護院」という役所もできる。
  →1945−12廃止。
  ※兵頭いわく、これは警察、消防、海保などといっしょにして復活させるべきだ。
 支那事変中に、例大祭に遺族が招待されるようになったが、招魂式では、「わが子を返せ」などのヤジも飛んだという。いかに事変が不人気であったか。入江侍従も日記で、肝心の事変が未解決なままでは2600年をちっとも祝う気分になれない、と書いている。 1945−11−24、GHQ覚書にもとづき政府が1946−2−1に公布した「勅令第68号」は、軍人恩給を事実上、停止した。
  ※傷夷軍人手当ては残された。しかし、遺族の年金と、退役軍人本人の年金が、なくなってしまったのだ。これは理不尽だった。というのも、旧軍人はサラリーの1%を恩給の原資として天引きされ、強制積み立てさせられていたからだ。
 GHQいわく、軍人恩給が日本の軍国主義を助長したからである、と。
  ※兵頭余談。官僚の天下り退職金制度が誰もが官僚になりたがる日本の仕組みを助長していると言えよう。
 戦前の軍人恩給は、最終サラリーの1/3以上が貰えた。しかも、資格が生ずるまでの年限が、やたらに短い。外地加算などがあるため。短い者は3年で有資格者となれた。
 1945−12−15、GHQは「国教分離指令」いわゆる“神道指令”を出す。
  特定神社の国による優遇を禁ずるもの。
   ※これ以前には、幣原喜重郎首相がS20に参拝している。
 1946−2−8にNHKラジオで「戦争犠牲者遺家族同盟」の結成をよびかける「私達の声」が読み上げられ、大反響。
  ※はやくも「犠牲者」「被害者」のスタンスに切り換えていることに注意!!!
 1947−11−17、各地遺族会の全国組織「日本遺族厚生連盟」設立。
  その規約の第4条はなんと「本連盟は、……平和日本の建設に邁進すると共に、戦争の防止と、世界恒久の平和の確立を期し、以て全人類の福祉に貢献することを目的とする」
 1948当時は「遺族800万」と呼号され、選挙の圧力に使われた。
 1949−5−14、衆議院は「遺族援護に関する決議」を採択。ただし、なんらの新法を実現したものではない。
 1950−6の参院全国区で、遺族厚生連盟会長の長島銀蔵(もと貴族院議員)が10位という高位で当選。票田としての遺族会の力を示す。
 しかし具体的な法律はなかなかできなかった。占領下なので。
 1951−2−23、一ツ橋の共立講堂で、「第1回全国遺族代表者大会」。(第2回から、全国戦没者遺族大会、となる。)
 1951−10−18、靖国神社が宗教法人になって初めて挙行された秋季例大祭に、吉田首相らが公式参拝。
 (これ以降、首相の公式参拝は、昭和60年まで56回あるが、昭和61年に中曾根が、8.15参拝を停止するのである。)
 1952−1−16、閣議で遺族年金と弔慰金(十年国債)を支給することなどを旨とする「戦傷病者戦没者遺族等援護法」案が決定。通称“遺族援護法”。
 戦没者一人について年に5万円。これでは少ない、10万にしろという運動が、すぐに始まる。(1−20の第3回全国戦没者遺族大会で決議。)
 が、ともかく1952−4−30から遺族年金がやっと復活した。
  ※7年間もコジキ同然に放置されれば「8.15」被害者意識が充満するには十分かも。
 1953−3−11、(財)日本遺族会が設立さる。
 1953−6、日本遺族厚生連盟は解散。
 1953−8、恩給改正法が施行される。これで「勅令第68号」は事実上消滅し、公務扶助料が復活する。
 1963〜65、中公に、林房雄の『大東亞戦争肯定論』。
 1963に、初めて8.15に政府主催の全国戦没者追悼式が日比谷公会堂で開かれ、その後、8.15追悼は恒例化している。
 1969−6、靖国神社法案が上程される。
 1975、これを最終断念。
 1976−6、「公式参拝運動」へ転換。
 1978時点で、遺族世帯は185万ある。組織されているのは104万世帯。
 S59−8から、中曾根の下で「靖国懇」が1年間、20回以上開かれる。江藤淳、中村元、曾野綾子ら。
 平13現在、武道館で毎年8.15に行なわれる「全国戦没者追悼式」には天皇参席。
▼畑中市蔵『恩給──文官・旧軍人恩給の解説と手続』S32−2
 そもそも明治8年に海軍が英国を真似て「海軍退隠令」、翌年に陸軍が仏国を真似て「陸軍恩給令」を公布したのが始まり。
 明治16年に「陸軍/海軍恩給令」となる。
▼『靖国神社百年史 事歴年表』S62
 S27−8−16、陸軍の終戦時自決者の慰霊祭。
 S30−8−14、陸海軍の終戦時の自決者の慰霊祭。
 S30−8−15に、拝殿前に署名簿を置いたら、一般人の3割の1280人が記帳した。
 S38−8−15、法務大臣の賀屋興宣が日比谷公会堂における政府主催の第1回全国戦没者追悼式に参列し、日本遺族会会長として神前奉告参拝。前日の14日には、国務大臣の佐藤栄作が。また15日には小林武治厚相が、「特別参拝」。
 S39−8−15、両陛下ご臨席にて、第2回の全国戦没者追悼式が、大村銅像の前で。
 S50−8−15、三木武夫総理が乗り込む。
 S51−8−15、「英霊にこたえる会」主催の第1回全国戦没者慰霊大祭。石田和外会長。以後、恒例行事に。
 S53−8−15、福田総理、特参。
  ※安倍晋三氏いわく、昭和54年に「A級戦犯」が合祀をされたあと大平が公式参拝したときシナは何の文句も言わなかったと。
 S56−8−15、鈴木善幸総理、特参。
 S57−8−15、おなじく。※鈴木にもトウ小平は何の文句もつけず。
 S58−8−15、中曾根総理、特参。
 S59−8−15、おなじく。
 S60−8−15、おなじく。※ここでトウ小平が文句をつけた。トウ小平は97-2に死んだ。
  ※佐藤優氏が『世界』2005-1に寄せていた文章によれば、1997-11の橋本-エリツィンによるクラスノヤルスク合意の効果として「…その直前まで中国は、歴史認識の問題で日本にがんがんいっていたのです。あのクラスノヤルスクの直後からその話が消える。中国は日ロ関係の発展をよく見ていました」──とのこと。じゃあS54〜59年までの日ソ間にはどんな蜜月があったと仰るのでしょうか? 牽強付会の「地政学」的な説明が聞きたいものです。
 神社で祈るのに資格はいりません。また、偉い人が自宅に神棚を儲け、神主を呼びつけたって構いません。ではなぜ日本人がわざわざ靖国の社頭まで出向くことに価値があるのか。それは、そこが対外国の戦勝祈念に関しては最も意義の重い「祝詞」の公的空間であるからです。何事かを誓うのにもそれなりの空間が必要なのです。選挙カーの上での誓いは誰も誓いだと思って聴いてはいません。
 靖国は近代神社です。そこで表と奥を分ける必要は無い。参拝は社頭で十分です。否、国会議員であるなら、国民の目から見えない奥に招じ入れられてコソコソと秘密の儀式をやっていてはいけないのです。皇族ならば庶民の目にお晒し申し上げては不敬ですからそれで宜しいのですけれども、代議士に関してはあれがイメージを悪くしています。ほんらい「記帳」をする必要もないのです。