笠懸(騎射)を実見する

 先週は北海道でもいちばん僻地じゃないかといわれる日本最大の某弾薬庫に取材に行ったのですが(記事は数ヵ月後の『北の発言』に載ります)、今日はまた趣向の変わった世界を堪能しました。
 各地の神社で行なわれている流鏑馬、あれをアンフォーマルなスポーツにしたのが笠懸です。もうひとつ、「犬追物」というのがあるんですが、アイボでも使わないと「動物虐待」になってしまいます。
 なかなか拝見する機会がなかったこの笠懸の騎射行事が、なんと今年は函館市で開かれる。この情報を事前に「鎖帷子剣士」様からもたらされていたわたくしは、早速本日、出かけて参りました。
 (なぜこの話を事前に武通掲示板にUPしなかったかというと、道南ではウェブサイトを見て行動を決めるような奴は一人も居ないからに他ならない。当日のギャラリーはすべて地元TVを視て催しを知った人々であろう。)
 競技に使用されていた馬は在来種である道産子か、それに馬格の近い観光牧場用の米国種であるように見えました。関東から来ていたチームの乗用馬は函館近郊の牧場から借り出していたようです。
 ホンモノの在来馬の特徴は「側対歩・そくたいほ」だということです。これはラクダの走りと同じ。すなわち右側もしくは左側の前後の脚が「ムカデ競走」のように常に平行の関係を保って動くのです。この走り方は、馬の背において左右のローリングを生じますけれども、上下動はほとんどありません。
 観察しましたところでは、騎射の本番のギャロップで側対歩(それも完全なものと不完全なものがある)になっている馬は、四分の一以下だとお見受けしました。
 側対歩でない馬に乗って射手が安定を得るためには、尻を浮かせ、膝の屈伸で馬体の上下動をキャンセルしなければなりません。これが既に無意識にできてしまうくらい熟練している乗り手でない限りは、弓で的を正確に射ようとする以前に、疾走中に矢筈をきっちりと弦につがえる作業だけでも一苦労だという様子が窺われました。
 本日拝見した騎射の馬の速度は、50m間隔で置かれた3つの的の横を合計11秒〜15秒で通過していました。
 側対歩の馬の場合、射手は、膝ではなく、股関節で自身の腰のセンタリングを保たねばなりません。つまり左右の足を交互に外側に突っ張ります。日本式の鐙は、鐙ごと爪先を完全に90度外側に開くことができます。俯瞰射のとき、この鐙は有利です。
 騎射競技の走路は幅がごく狭いものです。これは、終始両手放しで走り抜くため、馬が蛇行したりしない用心であるそうです。
 さて本日の大目的は、実はこれも鎖帷子剣士さまより前触れのあった、籏谷嘉辰先生にお目にかかることでした。町田市の「はたや」といえば刀剣が御趣味の向きには有名でしょうが、カケダシ者のわたくしは今年になって知ったのですから恥ずかしいったらありゃしない。学生時代に読んだ『蕨手刀』という超シブい資料の中に掲載されていた写真は、この籏谷先生が研がれたものであったそうで、今更ながら驚くばかりです。つまり考古学的刀剣の研ぎ出しを任せられる方なのです。
 さらにまたトーシローのかなしさ、わたくしは籏谷先生が「全日本戸山流居合道連盟」の現在の会長だとも存じあげず、名刺を見て仰天しました。「戸山流」については過去に武道通信の「かわら版」にも言及してきました。しかし、中村泰三郎氏が現役であったウン十年前の居合の古本の知識で止まっていたのです。
 籏谷先生の右手を見せて貰いましたら、テニスプレイヤーともまた違った指のふくれた形状が、もうタダ者ではないのです。真の剣術家ならば、その人がただ立っている姿のバランスを見ただけで、二腰に馴染んでいるレベルの剣士か否か、分かるのでしょうが、凡愚は手首から先を見せてもらったりして即物的に納得する次第です(泣)。
 籏谷先生は、戸山流らしいストッパー・ボタンをつけた本身の太刀を佩用され、リアルに古式を再現したいでたちで騎射をされていました。さすがに鎧はナシでしたが和鞍です。「戦用の和鞍だと肩や腰にかかる鎧の重量を馬が分担してくれるのです」とのことで、要するに昔どおりの装束を決めてみて、はじめて昔の剣術や弓術について理解し得ることが多いのだとのお話。まことにご尤もでした。
 こういう方でもないと訊けぬ質問を小生はこの機会にぶつけてみますた(構成と文責/兵頭)。
Q:一人の刀匠が刀をひと月に何本くらい鍛造できるのでしょうか?
A:お弟子さん方が大勢いらっしゃる所ならば5本くらいいけるかもしれませんが、現在は月に2本(脇差なら3本)までしか国から許可が出ません。それより多くなったらもう粗製となり、美術品として認め難いからでしょう。「丁寧に打てよ」と求められているわけです。
Q:人を一人斬ると刀身に膏がべっとりと付いて、二人目からは斬り難くなるという話がありますが、本当でしょうか?
A:以前、肉屋から豚の頭をそっくり買って来まして、真正面から頭蓋骨ごと(ただし牙だけは避けて)スパリ、スパリと何度も斬撃を試みたことがありますが、スライス・ハム状になるまで、何回でも抵抗感なく骨ごと断ち斬ることができました。どうも、膏のせいで日本刀が切れなくなることはないのではないか、というのが、現在の心証です。
Q:「七人胴」というのは、ありえたのでしょうか?
A:昔の日本人は今の小学5年生の体格ではないでしょうか。しかも「試しもの」では、屍体の腹部の骨の無いところを斬ったのかもしれません。その場合は7人重ねたものを一度に斬ったと言っても嘘にはならなかったのでしょう。
Q:さいきん、三十三間堂の通し矢の記録など、現代人の力量では考えられない過去の大記録について、「あれは嘘だ」と断言する人がいらっしゃるようですね。大衆は決して「天才」の実在を認めたがらないものだ、とトックヴィルも書いているんですが……。
A:私はじつは西暦1940年代末の仙台の生まれですが、東北の戦後の経済成長は関東にだいたい10年遅れていましたから、戦前の日本の農家の少年の鍛えられ方について証言することができると思います。少年時代から「水汲み」をさせられ、成人してさらに力仕事を続ければ、背筋力などがどのくらいつくか、です。戦時中でしたら、水を満たしたドラム缶を抱えて持ち上げられる兵隊が、中隊に必ず一人はいた。200kg以上のはずです。
Q:すると畠山重忠が300kgの在来馬を担いだなどという話もリアルだった可能性があるのですね?
A:中身入りのドラム缶を持ち上げる、数百人に一人いる程度の力持ちだったら、時代を超えた語り草にはならない。やはりそのレベルにとどまらない異常な力を見せ付けたので、目撃者はそれを他人に語り伝えずにはいられず、伝説ができたのだと思うべきなのではないでしょうか。それから三十三間堂の出場者は、皆「選手」でした。幼少から弓の特訓を積んだ選手候補が一藩に何十人もいて、その中からふるい落とされて残った、筋力も持久力も最高成績のスペシャリストたちが、命がけで競った記録なのです。
Q:柄の半分くらいしか「なかご」の無い日本刀が多い理由がよく分かりません。あれでは、合理的な構造とは言えないのではありませんか?
A:もともと平安時代の刀は片手で握るものでしたので、柄は短かく、しかも馬上で使う都合から、柄の先が曲がっていたのです。「なかご」は、その当時の柄にとっては合理的な長さがあったのです。後代に柄が両手で握るものに進化し、長くなりました。ところが、刀鍛冶はすぐに「なかご」の長さを変えなかった。それで、柄は長いのに「なかご」は短いという、組み合わせも生じたのです。けれども、実戦的な刀は、長い柄の端まで「なかご」がちゃんと伸びています。
Q:刀の鍔に透かしがありますよね。あの隙間から敵の刃先が入ってきたりしないかと、素人はとても不安になっちゃうのですが。
A:何の問題もないと思います。ちなみに鍔の材質は、粘る鉄です。無闇に硬くないので、強く打撃されても割れません。敵の刀の刃が少し食い込むくらいの軟らかさです。もし割れてしまいますと、手拳の保護になりませんから。
 ……このように、現に道を極めていらっしゃる方への直問くらい蒙を啓かれるものはありません。わたくしはいつか上京の折に籏谷先生にもっと長時間のインタビューを試み、それを一冊の本にして日本武道の恒久財産にしたいと願っております。