実に良いことを書いていたゴトー氏

 「もうちょっとPRが洗練されていれば、万人にうけいれられるに違いないのだがなあ……」と思わされる才能が、日本のあちこちで、まだまだわだかまっているように観察しております。
 後藤芳徳氏著『ダメな奴でも「たたいて」使え!』(2005年、フォレスト出版)を偶々読む機会がありました。後藤氏の著作を繙いたのは初めてです。
 あらゆる知識のうちで最も有用でありながら、最も進んでいないもの──とルソー氏が見抜いた「人間に関する知識」が、小学校五年生くらいの読者にも分かるように書いてあることに、感心しました。
 「小5でも分かるようにな!」というのは、600万部を売っていた黄金期の『週刊少年ジャンプ』のポリシーでもあったと記憶します。わたくし自身も昔、出版社の社長からそのように記事は書けよと厳命されたものですが、簡単にできることじゃありません。
 後藤氏はそれを楽々と実行しています。たとえばこんな具合です。
 ──「今まで勝負の世界で競ってこなかった人間は、自分の特性を活かせる仕事について、本人がまったく気がついていないケースの方が多い」「『向いているか、向いていないか』は、やらせてみるまで誰にもわかりません」「トラブルが起きた時のメンタリティなどは、特に読み違えることの多いポイントです」……云々。
 そうなんですよね。だからわたくしも自衛隊のトランスフォーメーションに関してこう言ってるんです。古今東西の戦史に照らせば、優れた軍人であるか、劣った軍人であるかは、平時には絶対に知れることはなく、それは初陣の緒戦でやっと判明するものだ、と。そこで判明した資質に応じ、即座に、抜擢人事か左遷人事が行なえるように、有事には首相に人事の全権を持たせる制度にしておくことが、RMAなどよりもずっと大事なのだと。
 古代ローマは少数の政治エリートの集団支配政体でした。そのために、この「実戦の成績で防衛司令官の人事を選考する」というあたりまえのビジネスライクな方法を避けてしまい、滅亡に向かうのです。実戦で失敗した人間に二度目のチャンスを与えようとしてはいけない。失敗した者に二度目のチャンスを与えるのが良いことであると評価をしているらしい塩野七生さんはどうかしているのじゃないですか。わたくしには後藤さんの評価の方が信じられます。
 ──「一般の社員との深い付き合いは、社長自身が直接深く付き合うと決めた中心的な幹部に託す」。
 これは女工の管理において特にそうであると、もう戦前から掴んでいた人がいました。クライスラーです。彼いわく、新しい職場のマネジャーになったら、まず女工の個性を時間をかけて観察しろと。すると、だれがいちばんまめな者かが分かってきます。そしたら、その一人の女工を「苦情伝達係」として指名する。あとは、すべてその者を通して苦情を汲み上げるようにすればうまくいく、と(京谷大助『機械の英雄クライスラー』昭和12年)。
 後藤氏は、現代の事例を、現代の言葉で分かりやすく分析し、対策を処方してくれています。
 ──「どんな些細なことでも構いませんから、その社員の能力と行動力なら『結果が出そうだ』と思った仕事で、どんな強制をしてでも結果を出させましょう」。
 これは19世紀のペスタロッチの教育理論に合致しますね。ペスタロッチは下層階級の子女を教育するときは、授業で「集中」を強いる時間を長くしても無駄であると主張しました。集中を強制する時間は無理のない長さとし、その代わり、その短い時間の間に必ず「課題」が解ける体験ができるようなハードルを毎回与えなさい、と言ったんです。
 この体験ができない子供は落ちこぼれるのがあたりまえですよね。後輩社員も同じです。
 ──男にとってのモチベーションの燃料は「リスペクト」である。
 これはプラトン〜ヘーゲルですね。
 プラトンは、人間の魂の中には、合理主義では割り切れない「自尊的な気概」とでもいうものがあって、他者から価値のない奴だと思われることには不快を感じ、自己実現できないことを嘆くのだ、と分析しました。
 アンチ・マルクスのヘーゲリアンであるフランシス・フクヤマ(……これじゃ小5には分かりません罠。ヽ(`Д´)ノウワァァァァァン←これ、うちの子そっくり)は、その「他者から認められたいという欲求」にも二つあるのだと言っています。ひとつは「他者と対等だと認められたい」という願望。もうひとつは「他者より優っていることを認められたい」という願望であると。
 しかるにニーチェが戦間期の民主主義ドイツを見てガックリきたように、リベラル民主主義が達成されてしまうと、庶民は対等性確保だけで満足をし、「他者より優っている自分を認められたい」という気概をなくしてしまうと。殊に20世紀、キリスト教が唯一の価値ではなくなってしまい、あまりに価値多様化したために、人はどんな価値についても鼻で哂うニヒリズムにはまり、自己犠牲など馬鹿々々しいと、気概が示されなくなり、それは市民が人間の尊厳をなくした奴隷に志願する道に他ならないと。
 またそんな世の中に退屈し、画一的人生への反発から、大した必要もなく死を賭けるゲームや、正しい社会に対するテロリズムでもいいから優越願望を満たそうとするやからが出てくるだろうと、フクヤマは1992年以降、予言しています。
 つまり、「ユー・アー・スペシャル」とおだてれば、大衆の中の一人を自爆テロリストやオウムの毒ガス特攻隊に仕立てることも簡単に可能になるわけです。
 こうした「大衆論」が、大衆に分かる言葉で語られることがなかったというのは、考えてみれば滑稽ですね。
 後藤氏は、今まででしたら東大や京大のサークル内部でしか語り合われていなかった、大事な「人間に関する知識」を、大衆に分かる言葉で、著述してくれています。
 こういう人が、もっと世の中に知られて欲しいと思うので、さらに別な著作のご紹介もしておきましょう。
 後藤芳徳著『間違いだらけのオトコ選び』(2003年、成甲書房)。
 ──ホストクラブのカモがホストに感ずる魅力とは「ポジティブな感情とネガティブな感情の波の振幅の大きさ」なので、ある店で100万むしられた客は、別な店では200万むしらないと、客も喜びはしない。
 どうです、これは真実でしょう。ある古い幇間[たいこもち]の人が、明治初期かそれ以前の話として、吉原ではヤクザは登楼させなかった、と書いています。もしうっかり登楼させてしまった場合には主人がでてきて両手をつき「手前どもには親分さんにふさわしい花魁はいません」と、丁寧にお引取りを願う。なぜか。男心を操縦するのが得意な御女郎衆であるが、ヤクザの親分には逆に心を操縦されてしまうから、なんだそうですが、その話を思い出しました。
 ──揺さぶりをかけて「感情の振幅」を大きくする。
 初回で官僚を呼びつけ怒鳴ったり殴ったりしておき、次回では少し物分りのよい一面をみせ、浪花節で人たらしをする、鈴○○男氏流の極意なのかもしれません。
 もう一冊。『間違いだらけのオンナ選び』(2003年、成甲書房)から。
 ──もてない男は絶対に地味な色の服を買うべきではない。
 これは至言ですね。
 ──「無邪気な子供の自我状態で接して喜んでいる」というスタンスの表現が大切だ。
 互いにノー・リクエストの状態で、なんとかやれという意味らしいです。
 ──団塊世代が家庭をもつと「ニューファミリー」といわれた。しかし「家事は分担し、休日はどこかに家族で出かける」というのは、じつは交換条件付きの贋物の家族愛ではなかったか。「この頃から、すでに家族の崩壊が始まっていたのではないでしょうか」。
 仰るとおりです! だから『巨人の星』のほんとうの主人公は星一徹なんです。あのマンガが小学生から圧倒的な支持をうけたのは、無報酬の鬼コーチ・一徹の存在がすべてでしょう。そしてもうひとりの無報酬の愛の体現者・星明子は、中学校に通っているシーンがありませんでしたから、どうやら最終学歴は小卒なのでしょう。その明子が、最後はいちばん幸せになりました。梶原先生はすごいなあ。
 ──親が許せないという女には、新たな戦い方を教えるな。それより許し方を教えた方が、救われる。
 こんなことまでアドバイスできる後藤氏はもっと世間に知られる価値があると、皆さんは思いませんか?