よい博奕だったミッドウェー海戦

 源田實は、「日本の空母は6隻まとめて運用することで、艦隊上空の戦闘機による直掩が成り立つ」と、真珠湾の前から結論を出していました。
 それにもかかわらずなぜ山本五十六はアリューシャン作戦(ダッチハーバー空襲)に軽空母の『龍驤』と『隼鷹』を分派してしまったのか? つまり、珊瑚海で損傷した5航戦(『翔鶴』『瑞鶴』)の穴埋めに『龍驤』『隼鷹』を同道させてやるのが「集中の原則」に最も適っていただろうに……というわけです。
 この疑問には海軍人も誰も答えておらず、戦後の評論家は「愚かな失策」だと決め付けます。
 しかしさいきん兵頭は、これは愚かではなく、考え抜かれた必然の選択だったと思うようになりました。山本はおそらく日本海軍の通信がぜんぶ解析されていることをMI海戦のずっと前から知っていたのでしょう。もし6隻まとめてMI方面に押し出していけば、数で劣勢の敵は勝てないと察知して逃げてしまい、またしても「決戦的海戦」には応じてはくれないことになるだろう、と山本は正しくも判断したのでしょう。
 1944年になれば『エセックス』級が続々と就役してくることは、1941年末時点の日本のオタク少年たちですら月刊『航空朝日』などを読んでよく知っていたことです。また、珊瑚海海戦は「日本の戦術的勝利」などといわれますが、もともとパイロット数の分母が米国に比べて桁違いに少なく(だいたい自動車の運転をできる奴がいない)、しかも日本の参謀本部と軍令部は第一次大戦後も「日本の戦争=短期戦勝利」と考えてきましたから、たった数十人のベテランパイロットの損害は、それだけで日本海軍全体にびっこをひかせるに十分だったのです。つまり、もし珊瑚海式の「戦術的勝利」をあと1、2回も繰り返したら、日本海軍は1944年を待たずして、ベテランパイロットをリカバー不能なまでに減らされ、「決戦」の能力を喪失していたはずなのでした。
 海軍に対米戦勝利の可能性がなくなるということは、日本の戦争指導は爾後は陸軍だけがとりしきるということになります。それは昭和天皇が皇室の滅亡につながるとして最も怖れた「対ソ戦」の開始を意味していました。海軍と天皇は「陸軍に対ソ戦を始めさせない」という一点では終始「共闘」していたと思います。
 だから山本には急ぐ理由がありました。
 『龍驤』と『隼鷹』を北方に送り出したのは、米軍の信号分析チームに対して「日本は『赤城』『加賀』『蒼龍』『飛龍』の4空母だけでMI海面まで出て行く。おまえたちには2隻か3隻の空母でわれわれを阻止できるチャンスがあるだろう。もし邀撃をしないで退避すれば、ミッドウェー島はいただく」と知らせたのです。
 ですから、MI上陸部隊を連れて行ったこと、MI島爆撃をしたことが間違いだという後世の評論家の方が間違いです。このスキームでなければ、敵はわざわざ不利で不必要な決戦に応ずる必要はないわけです。彼らは1942年2月〜3月の、ウォッゼ、クェゼリン、マキン、ヤルート、ウェーク、南鳥島、ラエ、サラモア空襲のようなヒットエンドランを続けながら1944年を待てばよかったからです。このヒットエンドランでは、いずれも日本軍は米空母を捕捉できませんでした。会戦するかしないかのイニシアチブは、米軍にあったのです。
 しかしハワイに近いミッドウェー島を占領されることは、彼らは座視できません。
 こうして3隻の敵空母が決戦海域に誘い出されたのです。山本の博奕は大成功しましたが、南雲の魚雷主義は失敗しました。
 以上は、現在書店に並んでいる兵頭二十八著『パールハーバーの真実』(PHP文庫)を御買い求めになりますれば、より一層理解が進むでしょう。
 ところで18世紀にできた合衆国憲法案には「遡及処罰法 ex post facto law は制定してはならない」(1条第9節3項)と明記されていました。200年以上前から近代市民法の常識であることが、朱子学的世界、すなわちシナや韓国の政府および議会には、永久に分かるつもりもないということが推知されます。
 合衆国憲法案には反逆罪も規定されています。すなわち合衆国に対する反逆罪を攻勢するのは「敵に援助および助言を与えてこれ(合衆国に対する戦い)に加担する行為」だとしてありました。これを犯した者に対する罰が、古い英国の刑罰である「血統汚損 corruption of blood」です。具体的には、その人一代の財産が没収 forfeiture され、その人には相続権も被相続もなくなり、すべての地位が奪われます。この規定は英国では1870年に廃止されましたが、多くの国の不文の掟として、反逆罪を犯した者の子孫は「将校」にはなれません。