問い。なぜ西欧はブチキレているか?

問い。なぜロシアはイランの核開発への協力を凍結したか。
──テヘランからモスクワまでの距離=2466km
問い。なぜドイツの元国防相は核武装を検討汁と発言してシラクの尻を叩いたか。
──イラン東部のタブリーズからベルリンまでの距離=2994km
──タブリーズからフランクフルトまで=3246km
問い。なぜデンマークの新聞は、イラン指導者はマッドマンだと風刺したのか。
──タブリーズとコペンハーゲンの距離=3175km
問い。なぜシラクはミサイル原潜基地で演説してイランを核攻撃すると示唆したか。
──タブリーズからパリまで=3689km
問い。なぜスイスの新聞も風刺画を転載したか。
──テヘランからチューリヒまで=3751km
問い。なぜ英国の新聞は比較的に冷静か。
──タブリーズからロンドンまで=3883km
──朝満国境のやや北東寄りからグァム島まで=3650km
──平壌からグァム島の距離=3400km
■古書摘録
▼奥田二朗『北海道戦後秘史』S40年4月 ※『北の発言』で引用した箇所は割愛。
 著者は戦中派のブンヤ。「北海道米軍太平記」の改訂版。
 1945-7-24の北海道空襲で10センチ高射砲が火をふいたのは、室蘭と外にわずかだけ。
 北海道地方総監府長官の熊谷(内務省?)が大政翼賛会にいたとき国民服を発案した?(pp.15-6)。
 第七師団は、支那事変いらい終戦まで、北海道内から29万人を動員した。遺族家庭は7万世帯にのぼる。
 沖縄にも北海道人の部隊が15000人。134名が生き残った。
 広島の原爆は8月22日に国内に報道された。当時の発表では死者6万。(p.23)。
 9-23にアイケルバーガーは、日本占領は20万で十分だと。
 10-7朝に札幌の苗穂刑務所から思想犯、つまり共産党員が38人解放された。やがて道内に1万人の党員を獲得した。
 室蘭で有名な「おかわいそうに」報道事件。
 平出・海軍報道部長は、道南の今金の寺に世間を避けていた(p.33)。
 8-30に第八軍のゼームス中尉が炭坑を視察。気候がアラスカに似ている、石炭も同質だと。
 市民の印象。日本軍とちがって米軍にはこれと目立つ偉い者が分からない。
 札幌の三越も接収されたが、真駒内の突貫工事のおかげで半年で返還された。
 樋口季一郎中将は日蓮宗。北部軍解散後、朝里の山の中で耕作。のち九州小倉に転居。※やはりソ連は来ると思っていた?
 樋口は江別の紙会社に木製飛行機を3機つくらせた。20年5月に試験飛行。敗戦で2機は燃やし、1機は米軍が本国に送った。
 ライダー少将はイタリア戦線からやってきた。麾下に日系第100部隊がいたので、人種的偏見は無かった。
 横路代議士の義兄・野呂栄太郎は昭和8年に獄死。
 CICが共産党員を集めて北海道内の戦犯リストをつくった。
 朝鮮人たちは7月末あたりから敗戦を察知していた
 11月、苫小牧飛行場の塩田化の許可がおりる
 農家は供出命令に抵抗し、村の橋を落としてトラック進入を防いだ。
 道では若い復員兵たちが自発的に団体をつくって共産党に対抗した。
 11-1の道人口は352万人 それでも当時は養えず。
 藻岩山原生林には最初、進駐軍がスキー場をひらいた。そこをあとからロープウェイにした。これは大いに黒字となった。
 12-10にNHK放送劇「いまだからいえる」開始。日曜の30分。
 新聞社員の事前自己検閲はS28年から第二の天性と化してしまった。(p.70)。以後は事前に占領軍に企画のお伺いをたてる必要もなくなる。
 12月から、天孫降臨はウソだという歴史学者が登場。
 S21年2月に米国務長官は、樺太、千島のソ連領有を公認。
 二世のCICが小樽のキャバレーで身分証明書を示さなかったため巡察のMPに射殺された。
 S22年6月5日、沖縄返還に蒋介石が反対。
 S22年7月25日、武徳会関係追放基準決定。
 77Dは16000人。古参兵から帰国開始。本隊はS21年2月に帰米。
 交替で第10空挺師団10000人が来た。これが犯罪者集団。
 30年春から千歳にジェット機。
 真駒内はキャンプクロフォード。牧草地につくった。日本一の規模。最初から水洗便所。
 朝鮮戦争中の在道米軍がピークで25000人。
 千歳の女は黄色い便器とよばれた。
 千歳から朝鮮までジェットで2時間。29年の撤退で基地ブームは終わる。
 江戸時代の中間社会団体などの文化蓄積がない土地柄なので非日本的な共産党が大暴れできた。それが社会党知事を続けさせた土壌環境である。
 占領軍の脅し文句は常に、沖縄で重労働させるぞというものだった。
 21年秋からラジオ自由販売。加州米が北海道に送られてきた。
 メチルは飲んで36時間以内に発作。
 タコ部屋は北海道の名物で、21年でも全道に50ヶ所以上あり、1000名が労働中。その労働者をタコという。
 マックは21年の半ばから労働政策の転換を強いられた。本国の対ソ認識が変わったので。※これと『菊と刀』出版は同期。。
 22年10月から新聞の横見出しが左から、新仮名遣いとなる。
 22-10に札幌で鮮人と香具師の集団乱闘寸前。38式歩兵銃ももちだされた。日本で第三国人に対しヤクザが立ち上がった最初という。
 昭和新山は戦時中、検閲で報道が許可されなかった。
 帝銀事件の平澤は小樽出身。
 ゴヨウマイ水道の潮の早さは磯船ではふつう、のりきれないが、1959頃は密出国が散発。
 27年から北海道上空で米ソ航空機の銃撃戦が生じ、本州人は北海道への投資を危険視するようになった。
 1943カイロ宣言は領土不拡大と。そしてポツダム宣言にはカイロ宣言が履行されるとあった。にもかかわらずサンフランシスコ条約では千島が放棄された。
 鳩山が訪ソしたので米国は牽制イヤガラセを開始。「四島」のソ連領有を認めるな、認めるなら小笠原と沖縄も還さんぞ、と言い始めた。
 6・3制の真の狙いは、旧制高校の破壊にあった。占領軍は、東大閥官僚の特権意識(反抗心?)を取り除こうとした。その根幹が旧制高校で形成されていると見た。※確かに6・3制世代の高級官僚はもはや米国にもシナにも反抗はしない。
▼中村獏『風流交番日記』S30年11月
 現職の警察官による、何かの連載エッセイをまとめたもの。
 「銀座の方向から、服部の時計の音がはつきり聞えてくる深更」(p.195)とあるので新橋あたりの交番勤務者か?
 書かれた当時の街頭娼婦のショートタイムの相場は千~二千円。場所は旅館で。
 街歩きの狂人のことは「非檻置精神病者」という。
 当時まだ警邏車はジープ。一斉検挙は幌付きの大型トラックの荷台に収容。MPのジープは普通乗用車のスピード違反も取り締まっていた。
 占領中は女装したオカマが人通りの少ない屋敷街に立って米兵を誘っていた。護身用にナイフで武装しており、トラブルとなって刺された米兵もいる。
 制帽の顎紐は私費で購入する。
 口ひげのある老巡査もいた(p.129)。
 当時の留置場。警察署の事務所を通り抜けた一番ドンづまり。コンクリートの廊下が一間幅ばかりのガラス戸につきあたる。ガラス戸には鉄格子と大きな鍵。その前に立って呼ぶと、内部から看守係巡査が戸を開けてくれる。
 一間幅のコンクリートの廊下が続いており、両側にずらりと房。一房、二房……と番号があり、女子房、病房もある。ひとつの房には鍵は二つ。廊下にボロ椅子があって、看守はそこに座る。看守は煙草を吸えるが視線が気になる。在房者は昼間は横になれない。起床は6時。用便はいちどに二人ずつ出す。
 まえもの(前科者)が入るときは、とばれないように身体検査を厳重にする。
 したたか者であればあるだけ、看守に世話をやかせない。皮肉を言っても腹を立てないし、騒いだり泣いたりもしない。「ある種の諦めに徹してゆく速度を、過去の経験がスピーディーにしているらしい」(p.69)。
 くら=食糧。 かつ=恐喝罪。 「長い」は仲間内では禁句。
 「けんじばい」=検事が調べて釈放と決める
 雑役。公然と認められていない制度で、軽犯罪者でしかも留置場内の事情に通じている者を廊下に出して掃除や配膳をさせる。
 慣れない者も夜1時頃には寝付く。
 当時は警官も距離を里で呼ぶ。メシはコメ76匁、焼パン46匁、すいとん64匁、蒸パン51匁、生乾麺86匁、馬鈴薯140匁、乾麺90匁。これが主食。他に、煮付、味噌汁、漬物など若干。一食15円と格安。留置者は無料だが、保護人(家出人、行路病人、泥酔保護)は請求される。食後は白湯が出る。茶は無い。
 戦前は留置人の入浴はなかったが、この時点では週に1回以上、電気風呂に入ることができる。
 一房に5人くらいいるが、そのうち4人は体のどこかに刺青していることが入浴日に分かる。小桜の白粉彫りというのは一風呂浴びると浮き出してくる。
 婦女子の身体検査、入浴には医師または青年婦女子の立会いが必要。
 検察庁や裁判所からの逆送のさいにマッチや煙草などを持ち込もうとする者には、運動禁止、入浴禁止、両手錠、接見禁止などの処罰を与える。
 賭博は現行犯でつかまえるしかないので現金が出てくるまで踏み込めない。
 「犬殺し」(p.165)が街を巡回して鑑札の無い野良犬をどんどんつかまえていた。
 財布が届けられたときは、拾い主にまず中身を確認させる。警察官が一枚くすねた、と後でいわれない用心。