同じフレーズに異なった意味が与えられることの危うさ

 R・ベネディクトが日本文の「所を得」にどうして注目したかについて、考えてみましょう。
 彼女は、日本の国内的な秩序感覚がそのまま対外政治の場にもちだされたことが日本の外交のつまづきの因であり、それはヘタクソで逆効果でしかなかった戦前・戦中の日本の対外宣伝に最も端的に表れていた、と見ています。これはまったく鋭く正しい観察なのですが、それと東條演説に頻出していた「所を得」の常套句とは、本来は、無関係なのです。
 「所を得」という表現の由来を学習しますと、日本の明治維新が「リベラル革命・近代自由主義革命」であったことと、徳冨蘇峰以降、敗戦直後までの日本がその逆方向にブレていたことなどが、よく理解できるでしょう。
 古代シナの大衆歌謡を集めた『詩経』「唐風・鴇[ほう]羽」に、「曷[いづ]れのときか其の所を有せん」とありますのは、農奴である老父母の近未来の食糧自給生活が、息子である本人の労役軍務のあおりで、はたして成り立つかどうかが危ぶまれているのです。
 やはり古代の『書経』「舜典」に「民を治めその所を得さしめる」とありますのも、「庶民が生活できるようにする」の意味で、庶民に食と住の苦しみがないことが理想の統治だとしたわけです。
 つまり、がんらい「所をえる」とは、「生活ができる」という意味でした。
 前漢の司馬遷は『史記』「儒林列伝」の中で、よく参照されるテキストを残します。
 「孔子は王路が廃れて邪道の興るをあわれんで、詩経と書経を研究し、礼楽を修起した。斉にゆきて韶を聞き、三ヶ月間、肉の味を知らなかった。さらに衛から魯にかえってきていご、ようやく楽は正しくなって、雅と頌は各おの其の所を得」たというのです。
 「雅」も「頌」も節つきの祭文のようなものです。要するに孔子が宮廷の政治儀式に用いられる歌唱をできるだけ周盛代時の古態に戻そうとした。
 この有名なテキストのために、儒教以後の漢文通用圏では、「所を得」という言い回しに、「生活ができる」の意味の他、「オーソドクスなオーダー」の意味も与えられてしまいました。
 前者を重視強調すれば自由主義、後者を重視強調すれば権威主義となるはずです。
 くだって、三国志で有名な「出師表」には、以下の文が出ます。
 「愚〔孔明のこと〕、おもえらく、営中の事は、事大小となく、悉く以てこれ〔将軍向寵のこと〕に諮らば、必ずや能く行陣し和穆し、優劣をして所を得しめんと」。
 ここでの「所を得る」は、国家の将兵を適材適所に部署することでしょう。営中というのは宮中の対概念で、変事・有事のさいの戦争指揮所のことです。
 しょせん有能な第一人者の指図を受けるべき凡将たちが謙虚にこれを読めば、「自己実現の適宜性」に思いを致すことになるでしょう。
 唐代に書かれた『貞観政要』「論慎終第四十第七章」では、太宗が「或は恐る、蒼生を撫養すること其の所を得ざらんことを」と言っています。
 ここでの「所を得」は、「庶民が生活できる」という古い意味をふまえた上で、「統治の適宜性」にも及びます。
 これに対し一賢臣が太宗に「嗜欲喜怒の情は賢愚皆同じ。賢者は能[よ]く之を節して度に過ぎしめず。愚者は之を縦[ほしいまま]にして多く所を失ふに至る」と言っていますのは、「庶民が生活できる」の古意が洗滌されてしまっており、純粋に「適宜性」の意味でしょう。
 程・朱の学、別名、宋学/理学になりますと、「所を得」るべき主体が、ただ人だけではなく、物(「一物」「万物」「天下」)にまで及ぼされます。
 聖人が世を治めれば、万物がその所を得る、あるいは、一物もその所を得ないことはない、などとわけのわからないことを言い出すのです。日本の教育勅語はこの朱子学の延長です。
 朱熹の先輩であった程子は、「ただ上下恭敬において一致せば則ち天地自ら位し、萬物自ら育つ」と言っているそうです。北方の元の脅威に直面していた当時ですから、そこにリベラリズムは不可能だった。またここでは万物とは五穀のことなのでしょう。
 ただし程朱らの宋学の語録ダイジェストである『近思録』には「伊尹は其の君が堯舜と爲らないのを恥じた。一夫も其の所を得ざれば、市にて撻[うた]るるが若し」とあって、ここでは古い意味、つまり「庶民が生活できる」が活きています。
 もし、生活ができない庶民が一人でもいたら、統治者は、あたかも自分が広場で公開百敲きの刑に処せられているかのように恥ずかしく苦悩すべきだ──というのでしょう。これは『孟子』いらいの「下々の立場になって上に要求をつきつける」、放伐スローガンの系譜に連なるでしょう。
 江戸時代の『可観小説』には、戦国武将の前田慶次の言葉として「万戸侯の封といふとも心に叶わずば……。……去るも留るも其所を得るを楽しと思ふ也。所詮立ち退くべしと……」とありますそうで、これは軍人の自己実現の意味です。
 明治元年3月14日に五ヶ条のご誓文が三条実美によって読み上げられました。
 この第三番目の箇条が「官武一途 庶民に至る迄 各おの其の志を遂げ 人心をして倦[う]まざらしめん事を要す」です。
 ここは起草者の一人、福井藩士の由利公正が、儒学教養の「所を得」を念頭して書いたことは疑いありますまい。
 由利はこのご誓文の中に、西欧自然法と国際法を、これから天皇の命令によって日本に導入するのだという大方針を、巧みに盛り込みました。
 御誓文がよみあげられた同じ3月14日(新暦では4月6日)、「国威宣布の宸翰[しんかん]」が、居並ぶ諸侯に披見されています。
 このなかに「今般朝政一新の時膺りて天下億兆一人も其所を得ざるときは皆朕が罪なれば……」とありまして、これは『貞観政要』や『近思録』の類縁のレトリックですけれども、読む側は、ご誓文の中の「庶民に至る迄 各おの其の志を遂げ」とこれを重ねることもできたのです。つまり庶民の自己実現を可能にするのが明治維新なのだと、志士たちは早々と合意していました。
 人材抜擢をしなさいというご誓文の精神を諸藩がパラフレーズした「諭告」が、明治3年までにたくさんあります。
 高知藩の諭告には、「凡そ政府は民の為めに設くる所にして、政府の為めに民を役するにあらざるなり。唯だ人民、自主自由の権を有し、各々其の所を得、其の業を遂ぐるは、政府の保護と裁判とにあるのみ。然るに其の保護裁判の宜しきを得んとすれば、官民一致、上下合議の旨を執るにあらざれば……」と出てきます。
 このようなリベラル改革がフランスのような十万人単位の死者を生ずる深刻な内戦をパスして実現され得たのは、天皇(ベネディクトが見抜くところの「超俗的な酋長」)のいるおかげです。放伐のありえない「超俗酋長」制は革命を予防します。それが大陸や西洋からの間接侵略を不可能にしてきたのです。
 昭和期の日本の知識人には皆目このことは覚れず、単にスターリン・テーゼへの反撃として皇室中心主義を唱え、日本国の満州国化に手を貸すことになります。(余談ですが草柳大蔵氏の『実録満鉄調査部』によりますと、満洲のために日本のGDPの43%が持ち出されていた時期があったそうで、要は満州国とは、エリート官僚が財源に何の心配もせず好き勝手放題をしまくるというスキームなのです。ただし科挙官僚にはシナの王陽明など特例を除くと住民を外敵に対して結集させるカリスマはゼロ。しょせん、国民とは運命共同人ではないからです。だから日本内地という財源から切断された満州国に国防はまったく成立しませんでした。また日本本土が満州国化すれば、やはり日本の国防も成立しないのです。そして日本は現在、官僚のために満州国化の道を驀進中です。)
 話を戻しましょう。
 大久保利通が、日本は英国の真似をするべきだ、と主張した「殖産興業の建白」には、「……勧業殖産の事を興起し、一夫も其の業を怠る事無く、一民も其の所を得ざる憂いなからしめ……」と出てきます。もうこの時点では新政府が藩を廃止しており、草莽の自己実現などよりも庶民の生活の安定が、国としてゆるがせにできない課題だと思われました。
 徳富蘇峰は、親英米派でしかも江戸時代型のたいへんな教養人でしたが、日露戦争後に英人キプリングの詩「白人の重荷」を読んでブチキレます。
 ──そうか、同盟者と思っていたが、奴らはこんな風に有色人を見ていたのか、可愛さ余って憎さ百倍! ……という次第。
 キプリングに悪気はなかったでしょうが、この詩が蘇峰をして昭和期の日本の反英路線を導かせてしまったと見ることが可能ですから、宣伝に比較的に直感がよく働く英国政府としては、やはり小さくない不注意があったのです。
 蘇峰は明治39年に「黄人の重荷」を発表し、日露戦争後、白皙人種の仲間以外に属する各人種は、いずれも「大和民族を以て其の希望を繋ぐ標的」としている現実があり、黄人(=日本人)は、アジア・アフリカの代表として英国人と対決せねばならん、と鼓吹します。
 石原莞爾の「日米決勝戦」の妄想も、さかのぼればこの蘇峰の論にインスパイアされています。
 また、昭和期の政府が宣伝した「大東亜共栄圏」のアイディアも、このときの蘇峰の論を借用したものに他なりません。
 「黄人の重荷」の中で蘇峰は、「吾人の目的は、偏[ひと]へに極東に於ける平和の保障にありき。……即ち世界の総[すべ]ての人類と与[とも]に、世界の経営を事とするの規模ありて、始めて漸[ようや]く自覚し、且つ自覚しつつある同胞をして、遂ひに其所を得せしむるに至る可[べ]き也」と書いています。
 この「所を得」とは何を意味するのでしょうか? 土人が白閥に搾取されずに生活できるようにしてやる──という意味でなかったのは確かではないでしょうか。
 大正8年の朝鮮総督府官制改正にさいしての勅語では、「所を得」は、半島人に内地人と差別のない生計を可能にさせる、といった意味で使われているのがお分かりでしょう。
 昭和14年1月に組閣した平沼騏一郎は、1月21日の施政方針演説の中で「旧来の陋習を破り天地の公道に基くへし」との明治天皇のご誓文を引用し、「惟[おも]ふに天地の皇道は、即ち萬物をして其の所を得しめることに帰着するのでありまして、政治の要諦茲[ここ]にあらねばならぬと考へる次第であります」とまあ、良いことを言うんですが、すぐに「此の御精神の及ぶ所は、国内政治たると国際関係たるとは問はないのでありまして、東亞の新秩序建設も亦[また]此の根本精神を基礎として、其の上に工作が進められねばならぬと信ずる次第であります」と続けた。
 ここにおいて蘇峰の怒りが「東亜新秩序」というスローガンに結実しているのです。しかもご誓文でローマ法以来の西欧流自然法精神およびグロチウス以来の国際法精神の導入を謳っていた箇所と、<日本の伝統に支えられ、日本国内でしか通用はしない秩序感覚のアジアへの押し付け>を強引に結びつけてしまった。こんな荒業が可能であったのは、「所を得る」の定義力が弱いためで、平沼のスピーチライターの革新官僚はそれを悪用したわけです。
 もっと露骨な解説は、西田幾多郎が1943年に「世界新秩序の原理」という講演の中でしてくれている。
 西田は、ウィルソン式の「各民族平等」や共産主義も非現実的だとし、「各国家民族が各自の個性的な歴史的生命に生きると共に、それぞれの世界史的使命を以て一つの世界的世界に結合する」というのが「我国の八紘為宇の理念」であり、また「畏くも万邦をしてその所を得しめると宣らせられる聖旨も此にあるかと恐察し奉る次第である」と陳べています。
 さて、東條英機は1942-2-16の国会で「大東亞経綸に関する帝国国策闡明に就ての演説」を為しました。
 その後段で彼は「屡々申述べましたる通り、大東亞戦争の目標と致しまする所は、……大東亞の各国家、各民族をして各々其の所を得しめ、皇国を核心として道義に基く共存共栄の新秩序を確立せんとするにあるのでありまして、米英両国の東亞に対する態度とは、全く其の本質を異[こと]にするものであります」と語ります。
 この文だけ読めば、「所を得」は「生活ができる」のようでもありますが、東亜新秩序思想がもともと徳富蘇峰から来ているという<文脈>を考慮すれば、この「所を得」は、<土人は分際を知り、メリトクラシーの日本人官僚の指導に従え>の意味であると判断したベネディクトは間違っていません。
 ちなみに余談ですがこの演説の前段で東條は「畏[かしこ]くも宣戦の大詔渙発せられまするや、……僅[わず]か二旬にして香港を、三旬にしてマニラを、而[しか]して七旬を出ずしてシンガポールを攻略し、茲[ここ]に米英両国の多年に亙[わた]る東亞侵略の三大拠点は挙げて我が占領する所となったのであります」と自画自賛しているんです。
 日本の陸大教育が、明治十年代から一貫して規範としたドイツ参謀本部流の速戦速決戦争術とは、「敵首都を陥落させる」ことをもって、全戦争プログラムのゴールとしていました(その後のことは考えていない)。
 このときの東條にとって、香港、マニラ、シンガポールは、南京と同じ「敵首都」だったのでしょう。東條は、ドイツ人に向かって「わたしはあなたがたの参謀教育が昔から理想としていた首都攻略もなしとげた」「わたしは大モルトケに並んだ」「どうだい、偉いでしょ」と、同盟通信を通じて大いに自慢したわけです。
 東條は「大東亜戦争一周年を迎えて」の声明の中では、「而して、わが占領下に在る諸地域の原住民は、久しきに亘る米英蘭の暴政より救出せられ、普[あまね]く皇恩に浴すると共に、喜び勇んで皇軍に協力し、それぞれの地位に於いて、大東亜共栄圏の建設に現に貢献しつつありますることは、世紀の一大壮観でありまして、これ偏に八紘を宇とし、各国各民族をして、各々その所を得せしめ給ふ御聖徳の賜物と、唯々恐懼感激に耐えないところであります」と言っています。
 ルース・ベネディクトはこの声明の英訳文をちゃんと読んでいたはずです。そこから、「所を得る」とは「日本に都合の良いオーダー」の意味なのだな──との理解を最初にしたのではありますまいか。
 戦時中に北原白秋は「アジヤの青雲」という小学生向けの詩の中で「……誓へよ善隣、アジヤ、アジヤ、すなはち万邦、所を得しめて、共存共栄……」と歌った。「所を得」がスローガン化していたことが分かりますね。
 「大東亜共同宜言」(1943-11-6)には「抑々[そもそも]世界各国が各其の所を得相倚[よ]り相扶[たす]けて万邦共栄の楽を偕にするは世界平和確立の根本要議なり」とあります。
 ベネディクトもこれはいよいよキーワードだと察するのは自然でした。
 昭和20年6月の鈴木貫太郎首相の施政方針演説にも、キーワードは踏襲されますが、やや意味は変化をします。
 すなわち鈴木は、その演説が必ず米国政府に聞かれることを意識しながら、日本の天皇の昔からの本意は「万邦をして各々その所を得さしめ」ることだが、それは侵略と搾取をなくするという意味なんですよと強調をしています。
 「所を得」はフレーズとして戦後もよく使われました。たとえば昭和22年11月2日に国会に提出された質問主意書には、「政府は国民全体をしてその所を得せしめなければならぬ、一人にてもその所を得ざるあらば是れは政府の責任である」と見えます。
 儒学レトリックは知識層にはこのくらい共有されていたんです。
 ただし、昭和天皇は、あの人間宣言の折に五ヶ条のご誓文について特に強調し、西洋近代はすでにその時点で始まっていたと内外に分からせようと努めました。
 ですが、肝心の日本の知識人はすっかりそれを忘れている者が多く、よく思い出すことがないのです。そして彼らは、ご誓文ではなくて、バリバリ反近代朱子学の「教育勅語」に還ろうとするのですから、終わっていました。
 和辻哲郎などはまずその代表選手で、「教育勅語の本義」とは、家族、社会、国家の道徳を実践し、「万民が所を得る国家」をつくって、最後は「万邦がその所を得る」ようにすべきだと自著で説きました。
 いまだに教育勅語をもちあげる人がいますが、それでは日本は、世界から信用される国とはなれないでしょう。ご誓文の原点に立ち戻ることです。