今日の古本・摘録とコメント(※)

▼岸田五郎『張学良はなぜ西安事変に走ったか』1995
 蒋介石が南京に国民政府を樹立すると北京は北平・ペーピンと改められた。
 1935-1-22に議会で広田弘毅外相が「日華親善」演説。和協ムードに。蒋は2-22に排日言論の新聞掲載を禁止。
 関東軍とは別に、河北省天津にいたのが「支那駐屯軍」で、これが別名・天津軍である。1935で2000名。1936-5に5700名。
 なぜそこにいたか。清朝政府が義和団事件のオトシマエとして1901に8カ国連合軍と結んだ「最終議定書」に駐兵権と演習権が認められていたから。すぐに政府後援暴動が起きる無法な国柄だから、こうでもしないと外国人の生命と財産は保障され得なかったのだ。
 デモのことを游行という。
 蒋介石政府の不換紙幣による通貨統一を英国が1935に助けた。英ポンドと連結することで信用を確保。これで地方軍閥は蒋に逆らえなくなった。日本は英国から協力を求められたが冷淡にスルー。
 北支の中央ソビエト区を蒋軍はトーチカで包囲した。するとコミンテルンが派遣していたオットー・ブラウンは西遷を決めた。35-1に貴州で中共は会議を開き、ここで毛沢東が指揮権を握った。
 コミンテルンの政策は「逼蒋抗日」。毛は「反蒋抗日」。だが毛は36-5にはコミンテルンに従う。※軍資金がすべてである。それはモスクワからしか出なかった。
 日本の北シナ分離政策に米英が干渉してくれなかったので、蒋はソに接近した。
 満州事変で日本が国際連盟から制裁されなかったのを見て、ムッソリーニは35-10-3にエチオピアに侵攻。これがシナ人を恐怖させた。次はシナがやられる、と。
 ※日本はすぐにイタリア非難のコメントを発表すべきだった。イタリア人は満州の日本人のようにテロをしかけられてはいなかった。
 1935年にコミンテルンは大方針転換。社会民主主義者は、以後は敵ではない。味方にする、と。
 スターリンはスペインで共産党をフランコに売り渡したように、シナは蒋介石に任せるつもりだった。
 綏遠事変。関東軍参謀の田中隆吉が特務機関長として内蒙のモンゴル人軍を組織したが、それが国民党軍に敗けた。シナ人は、関東軍に初めて勝ったというので、大喜び。
 蒋の37-1の「西安半月記」によると、蒋は西安で「掃討戦はいまや最後の五分間ともいうべき大詰めにさしかかっている」と叱咤激励した。
 中共軍の背後は陝北の沙漠であるから三方向から攻め立てれば幹部は逃亡し、その軍隊は自分のものにできると考えた。その後、ソ連と連合できると。
 蒋は学良を「おまえは若くて無知であり、共産党に騙されている」と罵倒。王以哲には「おまえたちの軍の無線がひんぱんに共産党と連絡を取り合っているが、私が知らないとでも思っているのか」と。
 西安事件のとき、学良は、部下の工兵団長に、華県のある鉄道橋の爆破を命令。それにより華県・潼関からの中央軍の西進を阻止できるので。
 華清池は驪山に面していた。この驪山山頂には学良の衛兵1個中隊が十数張りのテントを設営し、テロリストが裏山を越えて侵入しないようにした。
 蒋発見の合図として銃3発。
 事変直後、西安市内は無法状態となり、十七路軍の兵士が市内を大掠奪した。スメドレーはその被害に遭っている。
 学良はスメドレーに西安から英語で宣伝放送をさせた。
 西安事変直前、日本は蒋に反ソの防共協定の締結をよびかけていた。ソ連も、国民党に相互不可侵条約をよびかけていた。
 学良は親中共である。その手で蒋が殺されれば、シナ人民はソ連嫌い、中共嫌いとなる。
 この時点でシナ人口は4億5000万とカウントされていた。
 蒋方震は、日本の陸士卒で、山縣有朋にすすめられてドイツにも留学。戦略論や日本論の著書がある。保定軍官学校の校長となった。そこが東北軍に人材を供給した。事変前までは、蒋介石の黄埔軍官学校と双璧勢力である。蒋介石のドイツ顧問団は、方震のつてで呼ばれたもの。
 延安の洞窟住居をヤオトンという。
 黄埔軍官学校校長時代の蒋介石は陳潔如(三番目の夫人)と同棲していたが、この陳はロシア・スクールで、ロシア人顧問の通訳であった。
 国民党要人の西安入りが周恩来より3日遅れた。このラグの間に事件解決のイニシアチブを中共に握られてしまった。
 事件に際してモスクワからの大事な至急指令電報が、暗号書の不整合で、中共の受信所で翻訳できないことがあったという(p.137)。
 蒋介石は南京に戻ったあと「張・楊に対する訓話」を捏造し、それを西安で語ったものであると偽って発表させた。真っ赤な事後偽作であってもこのように発表されたなら公式文書となって流行するから、発表の2日後、ただちに毛沢東は「蒋介石声明についての声明」を書いて反撃した。※これが宣伝戦の正しい反撃態度である。
 蒋介石は軍事と政治工作の連動が上手だった。軍事配備をすませると、たてつづけに政治攻勢をかけ、敵の内部を分裂させる(p.180)。
 「蒋はちょっとしたことにさえ報復をはかる性格だ」(p.187)。
 雑軍とは土匪出身者。
 逮捕された学良には、明史関係の歴史書の読書だけ許された。
 日本国民は武漢を占領したら国民政府は降伏するとマスコミに踊らされており38-10-27の占領の報で提灯行列した。
 重慶の歌楽山のふもとにはOSSの「中米合作所」が46~49年にも存在していた。
 満州の南に隣接するシナ5省の日本軍による分離工作に反発したのが、北平の学生による35-12-9運動。この熱気が張学良をつきうごかした。
 もし西安事件がなければ、中共が表舞台に出ることはなく、国民党に滅ぼされていた。だから中共にとって学良は「功臣」とされている。