▼重久篤太郎『日本近世英学史(増補版)』S57年
文献上の初見は、江戸末、蘭語重訳のロビンソンクルーソー。
蘭語の次に早くから研究されたのが仏語。18世紀末の革命以来の影響力による。
明治20年代頃までは軍隊では「止れ」の意に独語のハルト(halt)が用いられていた。 「○年計画」はロシア語よりの翻訳(p.74)。
軍隊ではズボンを袴、ボタンをコハゼと称した。
1816にシナからの帰りに沖縄に寄った Basil Hall 英海軍大佐は 1843に Loo Choo Naval Mission・海軍伝道会を派した。
Basil H. Chamberlain は沖縄近海を測量しあたとセントヘレナに寄りナポレオンと会っている。
▼『平成17年度学士会館定例講演会』
永江太郎「支那事変(いわゆる日中戦争)の真実を求めて」
※論者はもと防研戦史部。
戦史叢書のなかで、満州事変から昭和16年までの支那大陸の陸軍作戦について書かれているのは『支那事変陸軍作戦』の全3冊。
これに対してカウンターパートの人民解放軍軍事科学院軍事歴史研究部が編纂刊行したのが『中国抗日戦争史』の全3冊。
Sino-Japanese war といえば日清戦争のことになる。外国でも正確にいう場合は Sino-Japanese incident ・日支事変と書く。日本の教科書が「日中戦争」と教えているのはおかしい。互いに宣戦布告していない。だから「いわゆる」なのだ。いまの大陸では「抗日戦争(the war of resistance against Japanese aggression)」が正式呼称。
満州事変の結果として日本は国際連盟からS8年2月27日に脱退した、日支間の関係はこれとは独立で、事変から2カ月後にはタンクー協定が成立している。中共公刊戦史も「国民政府屈辱求和」と書いて認めているのだ。
事実、S10年には両国公使館は大使館に昇格した。
経済交流はそれよりも早く復活していた。S8年7月1日に北平と奉天の直通列車が運行再開。S9-11には郵便協定。S10-1には満支間の郵便業務再開。S10-2-5には電信が開運。S10-9には山海関に国境税関が設けられて、正規の国際交易が始まっている。
つまり満州事変にもかかわらず日支関係は<平時>だった。これがおかしくなるのは中共が苦境に陥ってからのことなのだ。
苦境に陥ったのは、蒋介石が昭和10年までに日本との関係を正常化した結果でもある。だから蒋は共匪討伐に注力できたのだ。
かくしてS9年11月に瑞金の中共本拠が陥落し、11年2月までかかって山西省に落ち延びた。
蒋と日本の関係を悪化させたい中共はS10年1月から5月まで50件以上のテロを引き起こした。天津の日本租界内での複数の暗殺を含む。
S10年7月にモスクワは世界中の共産党を第七回コミンテルン大会に招集した。世界の共産党はドイツと日本を当面の敵とすることが命じられた。中共代表は「8・1宣言」を10月1日のパリで発表した。内容は日本に対する戦争宣言で、詳細は中共の公刊戦史・上巻354~355頁に堂々と掲げてある。誰が戦争の計画者かは明白なのだ。
延安に中共が逃げ落ちたところを蒋介石はトドメをさそうとしたが、さしむけた張学良は消極的であった。蒋介石が督戦のため西安を訪れると、西安事件が起きた。
この事件の結果、昭和12年2月末に国民党の内戦中止と抗日の方針が決定された。
にもかかわらず蒋介石に具体的な動きはなかった。
そこで発生したのが北平駐屯の日本軍への挑発である。
盧溝橋事件の4日後、7月11日夜に支那駐屯軍と第二十九軍の間で停戦協定調印。
この協定も妨害するための中共の小規模テロが頻発した。
ついに中共が動かせる正規軍が出てきて、日本軍を銃撃し始めた。25日、廊坊事件。26日、広安門事件。
これをうけて参本は27日、北平・天津地区に限定した武力平定を許可。ここからが「北支事変」。
7月29日、通州事件。
上海には日本の海軍の陸戦隊が5000人、租界を守備していた。これを5万の国府軍が包囲していた。
戦争を熱望していたのは中共だが、最終的に決意し、上海で戦争を始めたのは蒋介石。まず8月6日に国防会議。※「勝てる」と判断させたのもコミンテルンの息のかかったドイツ人なのだろう。
8月13日午前10時半に、商務印書館付近で日本軍への攻撃開始。夕刻、八字橋付近の日本軍への砲撃開始。
14日、シナ陸軍が虹口の陸戦隊本部と日本租界の防衛線への本格攻撃開始。シナ空軍は停泊中の第三艦隊の帰還『出雲』および陸戦隊本部を爆撃。
15日、蒋介石は総動員を下令して大本営を設置。
17日、日本政府は閣議で、不拡大方針を放棄。
8月23日、邦人救援の第三師団が上海に上陸。しかし敵は優勢で膠着状態に。
9月23日、国民党は共産党と第二次国共合作に調印。
11月5日、第十軍が杭州湾に上陸。
17日、日本も大本営を設置。
蒋の側近・薫顕光の回想録にいわく「蒋介石は、自ら好む戦場を揚子江の線に選び、揚子江の線が破れた場合は奥地深くに抵抗線を築く計画であった」。
戦争では10年前からの周到な準備が必要である。日清、日露ではそれをしていた。支那事変と対米戦争ではそれがなかった。特に外国内の反日感情や反日政策、米国のシナへの梃入れ政策(イコール反日政策)を傍観し続けたのが最も反省されるべきだ。
M38、サンフランシスコ市は日本学童を隔離する命令。
M40、米議会はハワイからの本国移民を禁止。
M41、シアトルでも排日運動。
大8、カリフォルニア州議会は排日協会を設立。
大13、連邦議会は排日移民法を圧倒的多数で可決。
▼大島高精『米国と太平洋』大13
ハワイで1000ft×138ftのドック拡張完成が1919年。
それにつづいて1800および1000ftのドックを計画。
フィリピンのカビテ、オンロガポ、ポロックは大艦向きでないので、マニラに新軍港を建設せんとす。
米海軍参謀部は、距離の不均衡により比島防衛には巨費が必要で、むしろ無防備がよいと健策。
明治は欧化時代、大正は米化時代(p.554)。
▼中村秋秀『米国の太平洋戦備』S7年
シナはTK×3000も買っているが、ガソリンが漏れ発火すると遺棄してしまう(pp.277-8)。
飛行機は50以上あるが、古物。
▼勝守すみ『太田道灌』S41年
幼時、鎌倉五山にて学修。
当時の千代田区は、利根川と荒川の合流路の河口に膚接。
川越←→鎌倉の中間地であることが立地理由。
当時は石垣は少ない。土居をめぐらした。
『太田道灌兵書』は江戸期の偽書。『道灌自記』も江戸楠流の偽書。
鉄砲以前に足軽戦は重視されていた。
▼荒川銜次郎『太田道灌と江戸城』M42
隅田川右岸の川越=江戸を連接して北方に対する防御線を形成せんとした。
海岸でない、内地の城に石壁を用い出すのは、織田の二条城(永禄11)。
▼山口平四郎『海岸の地理』S44年
Oceanといえば太平洋、大西洋、印度洋の三つのみ。
他はメディタレニアンかマージナルか、どちらかのseaである。
太平洋とインド洋の区分は、タスマニア=マッカリー=バレーニー=南極アデーヤ岬の線。
港は風下側に造られる。日本では冬の北西季節風を考慮。よって日本海沿岸は天然の不利。
欧州には勾配の小さいエスチュアリー地形のラッパ状河口が多い。これは干満の良影響を受ける。浚渫が不要であり、大船が遡航できるのだ。
▼橋井真『工作機械と自動車統制』S15年
工作機械統制の初めはS13年3月の工作機械製造事業法。許可事業になった。
池貝鉄工所は日清役中の設立。
M44に快進社がダット号をつくる。ダットサンの起源。
▼原正幹『米国戦時造船』大10
米の職工教育の成果は、本邦一流熟練職工よりも勝る人材を急造。
特に製図と機械の理解は米国職工の方がはるかに勝る。
一人の教員は5~20名を教えた。
米でも戦中に給与が高くなると出勤率が数%落ちる。
Wコーストの方がEコーストより出勤率はるかに高い。その理由は、露天船台の作業は雨天が苦痛なので。
▼ウォルフ・シュナイダー『ウルからユートピアまで』S36年
ローマ都市住民のことを intramuranus 「城郭内の住人」と呼び、ドイツ市民の Burger も同じ意味である。
zitadelle は小堡塁。これが多数置かれる。
北アフリカや南アジアでは迷路式陸地によって防衛する。
ドイツでは家の高さは道路の幅員と等しい。
▼大河内正敏『尾崎行雄氏の反軍思想を匡正す』S10年、海軍有終会pub.
尾崎はM35-12の第17議会で、日露の歳入が2億5千万円 vs 20億円で、競争にならぬと発言。
▼佐藤栄一 ed.『政治と軍事』S53年
ヴァージニア憲法のコンセンサスである文民主義は英にて発展していたもの。海軍に大きく投資したので、本土防衛は地方軍民兵に依拠するしかなかった。
フィッシャー提督は、海軍による陸軍の統合を考えた。
17世紀のロンドン市の市民軍はよく訓練されており、別格に精強。
クロムウェルの手兵を率いての反乱が、常備軍 standing army への警戒感となる。
アダム・スミスだけが常備軍を肯定していた。
対インディアン戦争は、最も初期の全体戦争または絶対戦争。そのころまだヨーロッパは、儀礼戦争の時代。
「襲撃を受けたコミュニティ自体が自衛する以外には、防衛の方法は現実には存在しえなかったのである(p.11)。※ベトナムの戦略村の発想の背景。
独のヴェーラーいわく、クラウゼヴィッツの絶対戦争はマルクス純粋資本主義に匹敵する理念型だと。
※政治の目的は権力であるから、核手段は政治と何等矛盾しない。
ケネディはラ米に戦車を送っている。※たぶん低圧75ミリ砲の軽戦車のこと。
マクナマラの後任者の Laird は、「米ソ関係にはゲームの理論あるいは行動・反応・分析といったものは通用せず、ソ連はより攻撃的であるとみなした。したがって、アメリカは対ソ戦略的優位を確保すべきであるとの立場をとった」。
マクナマラの拒否したB-1、F-15/14、ABMをレアドは復活させた。
警察予備隊設置当初、日本側は内局の意義を認め得なかった。その過程で、シビリアンコントロールとは、内局が部隊の上に立つことだ、との解釈が定着してしまった。