摘録とコメント。

▼リチャード・マイニア『勝者の裁き』安藤仁介 tr. 1972
 シュレジンジャーいわく、ベトナム政策の立案者は、いずれもスチムソンの弟子たるバンディ兄弟とラスクだったと。
 最も侮蔑的な態度をとった(p.106)ウェブ裁判長も高柳を支持し、共同謀議を非法とした(p.62)。
 ケロッグの1928講演「自衛のために戦争に訴える必要があるかどうかは、その国のみがこれを決定し得る」(pp.71-2)。
 フィリピンに対する侵略は訴因から外された。独立国でなかったので。
 米とソのみ、軍人を裁判官に混ぜた。
 大陸法の方がコモンローより証拠基準が緩い。
 オランダが日本に宣戦したのは日本の蘭領攻撃よりも早い。日本はオランダに1942-1-11宣戦。
 チョムスキーは1930’sの対日政策を批判(pp.176-7)。
▼マシュー・F・スティール『米国陸戦史(上下巻)』1969第6版、T.K.訳、保安隊幹部学校pub.原1909
 カナダには道がなかったので侵入は常に水路による。
 フィリピン討伐中にフィリピン側を応援した米人もいた。
 ワシントンはしばしば小隊分散という基礎的過誤を犯した。
 独立戦争の資金は徴税ゼロで仏からの借金と紙幣刷りによった。ワシントンは私財で兵を養う。
 南部はサムター要塞さえ攻撃しなければ分離の既製事実化に成功しただろう。この先制攻撃が北部人を一致団結させ、熱狂をまきおこし、大統領の義勇兵応募に殺到せしめた。
 リンカーンは軍事経験皆無で、デービスはプロ軍人だった。
 デービスは欧州に小銃1万を発注している。
 追撃の重要性を解っていたのはジャクソンだけ。
 ジャクソンいわく「常に出来れば敵を迷わせ誤解させ且つ驚かせよ」。状況特に有利でない限り、決して優勢な敵と戦う勿れ(pp.270-1)。
 南北戦で不落だった陣地の共通要素。凹道によって囲まれている高地。ただの丘ではダメだった(p.335)。
 リーとジャクソンは、軍隊の行軍と同じ速度で野戦電線を架設する手段をもっていなかった(下巻p.24)。
 チャンセラーズビルが、両軍の歩兵隊が塹壕を利用した最初の大戦闘。
 南アフリカの戦訓。高地が防御に有利とは限らず、低地が不利とも限らない。
 ピッツバーグ、メッツ、パリ、プレブナ、サンチアゴ、旅順港の経験は、市街を砲撃するより飢えを待て、と教える。
 ミショナリーリッジの南軍。歴戦のプロだったのに、全連邦軍を見渡せる高地であったため、攻撃前2日間の敵の準備をみていてすっかり臆してしまい、守れる陣地を捨ててしまう。パニック。
 グラントの電報と書簡は、すべて、自軍よりも敵軍の方が損害が多いと言っている。
 シャーマンは、鉄道から100哩離れて作戦することはできないと(p.241)。
 米西戦時、海大はあったが陸大はなし(p.309)。
▼板倉卓造『国際紛争史考』S10年
 旅順口と通信していた露国側の無線電話局があった。これを発見し、凹ました(p.36)。
 バ艦隊は蘭人の無線技師クーイを同行していた(p.179)。
 1904-12-3、英国は独船がカーヂフ港で石炭を積み込むことを差し止めた。
 S5-9-29、スウェーデン公使フルトマンによる神奈川県金沢町轢殺事件(p.407)。
 FDRは資産家猟官公使制を、プロ外交官に代えた。
 ポーツマス条約は仏文を正文とす。日清講和条約は英文が正文。
▼平等通照 ed.『国語に入った梵語辞典』S53年
 nadi(河) →那智
 アバダは天然痘の隠語になった。
 右から左に書くセム文字がBC700頃メソポタミアから北西インドに入った。
 ばかも梵語由来。
▼渡辺銕蔵・抄訳『ソ連の石油飢饉』S17年12月pub.
 ※10月に上海の雑誌に載ったA・Riva「Oil for the Tanks of Russia」。
 1932の600万トンから1938の150万トンに石油輸出が減ったのは内需拡大のため。ソ新聞によれば1940の自動車用燃料の生産額のうち6割はトラクターによって消費された。また灯油はソ連国民の代表的な炊事用燃料である。
 カスピ沿岸のマハチ・カラ~グローズヌイ~マイコープ~黒海トゥアプセに至るパイプラインは170万トン/年。
 枝線にマイコープ~アーマヴィル~ロストフ~ドンバス~リシチャンスク。また、マイコープ~クラスノダールもある。
 バクー~バツーム(黒海)は2本のパイプラインで、ひとつは170万トン/年の原油を、もうひとつは100万トン/年のバクー精製油を送る。
 バクー~グローズヌイ間は1939着工。
 カスピから内水使ってタンカーを白海まで達せしむ。
 昨年、ドンバスおよびウクライナの多くの製油工場が既に枢軸軍の手に帰した。
 最近のイギリスからの報道によると、ソ連の鉄道網は、輸送能力50万トンにおよぶ油槽車をもっている。※だったらテヘラン→タブリッツティフリスと運べないか?
 ソ連の同盟国からは、彼等自身の油槽船の状態から見て何等の有力な援助をも期待できない(p.20)。
▼ヘロドトス『歴史』上中下巻
 タレスの河流二分工事&渡河(上巻p.62)。
 当時アジアにおいては武勇でリュディア人を凌ぐ民族なし。騎馬で長大な槍を揮う。
 キュロスの駱駝の計。
 スキュタイ人は、ヨーロッパからキンメリア人を駆逐して、コーカサスを右手に見ながらメディアに侵入。アゾフ海からリオン河まで、軽装徒歩なら30日。
 メディアのほかの地区はすべて平坦であるのに、黒海方面だけは山が多く、森林で蔽われている。
 世界中でペルシア人ほど外国の風習をとり入れる民族はいない。
 彼らが河を敬うことは非常なものである(p.110)。
 ペルシァの将ハルパゴスが盛り土戦術でイオニア諸都市のひとつテオスの城壁を占領すると、テオス人は全市民船に乗り込み、海路トラキアに向い、ここにアブデラの町を建てた。
 ペルシャ大王の出征時の飲料水は、河水を沸かして銀器に保つ。おびただしい数の四輪騾馬車で運ぶ(p.141)。
 バビロン(アッシリア)では、人工運河の最大の一本のみ、舟航可能(p.144)。
 河下し船の荷は、椰子材の酒樽と、帰り用のロバ。
 エジプトの、ヘリオポリスからテバイまでは遡行9日。
 ペルシャ人には王家の後裔を尊重する気風があって、叛旗を翻した者でもその子孫にはいつも主権を返す。
 ノモスこそ万象の王(p.307)。
 註、蛙はナイルには棲息しない。
 弓はエチオピア人、槍はエジプト人が愛用。
 ダレイオスはスキュタイをコーカサスを右手にしつつ追った(中巻p.14)。
 遠征より一世代前、「蛇の襲来」が北方からネウロイを南に逐った。
 スキュティアは寒いのでロバ、ラバはいない。
 ペルシャ人は弓と短槍、帽子を用いる。
 ペイシトラトス一族は樹木を伐り払い、騎兵行動を楽にしてスパルタを出撃。
 ダレイオスは召使に給仕のたびに「殿よ、アテナイ人を忘れるな」と三唱させた。※呉越。
 カリア軍はアイアンドロス河を渡り河を背にして戦うべし。こうすれば、もって生れた以上の勇気を出すに相違ない。
 註、ギリシャでは春秋に雷鳴多い。地中海は冬が雨季。夏が乾期。
 できるだけ平坦地で決戦しようとするギリシャ人をペルシャ人がわらう(下巻p.15)。
 「われら[ペルシャ]が行動を起さずとも、彼らの方では同じようにはせぬ。いや必ずやわが国に兵を進めてくる……」※これが真相だろう。
 穀類は粉末にして輸送した。
 「さればはかりごとを立てるには小心翼々、あらゆる不測の事態を考慮し、実行に当っては大胆不敵であるような者こそ、理想的な人物であると申せましょう」(p.44)。
 ペルシャ兵装。フェルト帽。鉄ヨロイ。柳編みの盾。盾の下にえびらをかける。短槍。大型の弓。矢は蘆。右腿に短剣を吊るす。
 十人隊長から万人隊長まであり。
 エジプトに「海戦用の槍」あり(p.61)。
 「人間を生き埋めにするのはペルシアの風習なのであろう」(p.74)。
 空壺を埋設して、テッサリア騎兵の馬脚を折る(p.167)。
 「戦闘中にはよくあるとおり、矢の当ったものの周りに大勢兵士が駈けよってきたが」(p.223)。
 「異国軍の兵士は相手の長槍の柄をつかんではこれをへし折ったのである」。ペルシャ兵の敗因は、身に装甲のなかったこと(p.278)。
 軍隊を女への贈り物にするのはペルシャ独特の風習。
 アメストリス(♀)はマシステスの妻の両乳房、鼻、耳、唇、舌を切って犬に投げ与え、変わり果てた姿をその家を送り届けた(p.309)。
 解説。ヘロドトスの没年は前430以降である。
▼池田博行『帝政ロシアの交通政策史』
 鉄道は運河より15倍速く、輸送費は1/4である。運河は春の増水期だけ利用すればよい。
 防衛上の見地から広軌を採用したが、1917の赤軍のワルシャワ攻撃は軌幅差のために手を焼いた。ポーランド軍はレールを換えながら簡単に前進した。
 ナポレオン撃退後に軍道整備。しかしクリミア遠征した32000の兵のうち、辿りついたのは12000だけ。
 通信線はクリミア戦争に間に合わず。セバストポリ包囲の報道はパリ経由でペテルブルクに届いた(p.94)。
 欧露の北部の河川は5~10月が航行可能。中部では4~11月。南部では3~11月。シベリア南部では5~10月。中部で5~9月。シベリア北部は6~8月だけ。
▼菅井・田代『アメリカ技術史』S24年5月pub.
 ※米国人によるモト本があるはずだが記されていない。占領軍も太っ腹だった。
 ※まえがきを見る限りでは、このジャンルの一般向けの啓蒙書は戦前は無かったようである。
 イロコイ族の長屋はカマボコ兵舎そっくりだった。
 初期米国には石炭がなく、ために石灰(漆喰)は得られなかった。かくして剥き出しの羽目板という米国風家屋が成立。ただし工作が悪いと隙間風が酷く、そこは泥土で塞がれた。
 丸木小屋はスカンジナビアで創造された。この工法のすぐれているところは、釘を使わずに、しかも、漆喰を塗らなくとも隙間風が入らないこと。
 灯火は鯨油ランプか、暖炉そのものであった。
 冬期の農閑期の副業が家内制工業の揺籃であった。仕事は暖炉の周りでした。
 靴屋は道具が軽いので渡り職人となった。村々の有力者の家に何日も泊まりながら註文をさばいた。
 米国最初の図書館はB.フランクリンが1729にフィラデルフィアに建てた。
 フランクリンのペンシルヴェニア型暖炉は、加熱気をN字状に煙突に導き、その最初の屈曲部および下降部の鋳鉄筒からの輻射熱で室内全体を暖め、かつ煙突からの隙間風の逆流を防ぐ発明。薪が少量で済み、しかも室内が煙くならない。
 フランクリンはこうした発明の特許をとらなかった。「われわれは他の人々の発明から非常な利益を受けている。自分の発明が他の人々に役立つ機会を喜ばねばならぬ」
 1752にフランクリンは雷雨の中、物置に雨を避けながら凧を揚げた。紐は麻紐だったが、そこに結び付けた絹糸が毛羽立った。また、手元に近いところに結びつけた鍵に指を近づけると、強い火花が出た。
 追試を重ねた結果、雷雲には陽電気と陰電気があると分かる。
 1752に避雷針を発明。大きな建物では数本使えばよい。避雷針は最も高い煙突上から壁沿いに地中まで届く長い金属棒で、接地部は地中で直角に曲げて壁から8フィートまで引き離したのち、ふたたび下方に4フィート潜らせておく。
 サミュエル・スレイターは少年紡績工を英国のように搾取せず、見苦しくない畏服をあたえ、教育を施した。スピニング・スクール。
 独立戦争で英国から梳綿機がこなくなったので、エヴァンスはこの機械をつくる機械を発明した。
 米では作業容易なシーアイランド綿は南カロライナとジョージアの海岸低地にしか育たない。他はすべてアプランド綿だが、これは繊維が短く、縁の種子に繊維が強く接着しているので、手工的に引き離すのが大苦労であった。奴隷が休まずに作業しても1人が3ポンドしか採れなかった。そこで綿花農場に寄宿していた青年ホイットニーがこれを機械化する単純な装置をこしらえた。それは1日に綿50ポンドを分離できた。ところがそれを農園で披露された地元の紳士たちは欲どおしくもたちどころにめいめい勝手にこの発明の類似品を特許申請したのでホイットニーは後には嫌気がさして銃器製作事業に転ずる。
 ホイットニーの綿梳機械の原理は最初から完成されたもので、その改良が各地で進められた結果、女工が1人で1日に100ポンドの綿を製造できるようになった。その結果、英国紡績工業に対する最大かつ独占的な原綿供給者として米国南部経済は急成長することになった。その結果、南部では非常に奴隷が増やされた(綿の栽培と収穫までは機械化できなかった)。それまでの奴隷は扱われ方が人道的だったが、「綿の増産すなわち大金持ち」という南部経済の構造ができてしまったので、以後は奴隷の酷使が進んだ。
 かくして南部は当然に、自由貿易マンセーとなった。北部はこれから工業を養成して英仏に対抗せねばならぬのだから、保護貿易が必要だ。こうして南北は対立コースに乗った。
 入植当時のニューイングランドの沼地には鉄が石ころのようにころがっていて、それを熊手で集めて製鉄の原料にした。
 当時、鉄鉱と不純物を液状化するまで加熱できる熱源は、木炭だけだった。それも窯の中にいっしょに入れて燃やさねばならない。必然的にそれらの窯は崖地に設置され、原材料は驢馬で崖上に運び、そこから窯に投入し、水車鞴で炉の底に空気を送り、銑鉄と鉱滓が別々の口から流下してくる。
 鉄は貴重なため、釘、蹄鉄、釜、銃、大工道具、鋤の刃部等にのみ使用された。多くの機械と歯車、馬車の車輪、車軸すら木材であった。鉄を採掘する機械までが木製だった。
 1898にフレデリック・テイラーが高速度鋼を実用化。タングステンクローム鋼を空気焼き入れした工具刃は、切削仕事を続けて700度まで熱をもっても軟化しない。これで作業効率が6割も上がった。
 これがWWⅠ中に世界に普及した。
 米国の資源上の欠点は、ただマンガンが国内で採掘されないことだけである。
 独立戦争で硝石の自給が確立した。古屋の下から1ブッシェルの土をとり、水に混ぜ、それを濾灰槽で漉し、透明になるまで煮詰め、冷やすと、1/4ポンドの硝石が採れた。
 シャンプレイン湖とニューヨーク港をハドソン河が結んでいる。ここを英国船に通航させないことが北部をバラバラに分断されないカギで、そのために北方タイコンデロガに先手をとって遠征した。つぎに河口から遡行されないように、総重量180トン、500ヤードの巨大鉄鎖を6週間で鋳造し、丸太に結び付けて北岸からウェストポイントまで流し、錨で固定した。
 18世紀はじめにスイス人とドイツ人が宗教的理由から渡米しペンシルヴェニアに定住した。その辺境ランカスターは鉄砲鍛冶のメッカだった。
 遠方を一人で行動する職業狩猟家にとって弾薬は浪費できない。その要請が小口径のライフル銃を発達させた。
 18世紀なかばのランカスターのRossers製の典型的なライフル猟銃は、.32口径、弾重49グレイン、黒色火薬22グレインで初速1483フィート/秒、100ヤードでは弾速は850フィート/秒であった。
 このペンシルヴェニア型ライフルは独立戦争のころにはヴァージニア、ニューヨーク、アレガニー山脈まで普及していた。しかしマサチューセッツ州には行き渡らず、そのためレキシントンとバンカーヒルの民兵はマスケット装備なのである。
 マスケットに照準器はなく、60ヤードでは当たらない(p.78)。
 ヴァージニア出身のワシントンは最初から千数百名のライフル銃隊を組織できた。
 英軍はこれに対抗するためドイツの狙撃兵を雇ったが、そのライフルはペンシルベニア型に劣り、不振に終わった。
 ライフルのマズルローディングの手順。角製容器から掌上に火薬を注ぐ。それを銃身に注ぐ。油を塗った丸い布パッチを銃口に置き、その上に弾丸を重ね、おやゆびで押し込む。先端の窪んだヒッコリー製の槊杖で突き固める。
 コルトは連発銃の木模型を早くから完成していたが、それを事業化するための資金が得られなかった。そこで染物工場で知った笑気ガス(亜酸化窒素)をつかった大道見世物でカネを貯めた。1946以前には電気発火式の水雷を試作した。テキサスvsメキシコ戦争でようやく連発銃の需要があり、ホイットニーの工場の近くにハートフォード兵器工場を開いた。
 トマス・ロッドマンは緩燃火薬を工夫した。燃焼が遅いほど、頑丈でなくても高い初速が得られる。大粒火薬は、燃えるにしたがって燃焼面積が小さくなるので逆効果。輪胴形の火薬粒に成型すれば、燃焼ガスは次第に増えるようになる。
 1786にラムゼーが完成した蒸気船は、水流を船尾からポンプ噴射するジェット・プロパルジョンであった。4マイル/時で遡上できた。
 アパラチア山脈以西の交通は自然河川を利用できない。ここから運河と鉄道が必要になった。
 最初の大事業がハドソン河上流とバッファローを結びつけるイリ大運河の開削。沼地の難所は厳冬期の凍結中に掘り進んだ。また生石灰モルタルではない、水硬セメントを開発し投入。
 この運河によってそれまで別々の地域であった東部と中西部(イリノイ、インディアナ、オハイオ)が一体化し、ニューヨーク港は大西洋最大規模に発達し、ミシシッピ河~ニューオリンズ経由の内国廻漕ルートは廃れ、これまた南北戦争の雰囲気を醸成した。
 トレビシックが蒸気鉄道を発明したのは1804だが、なんと1813まで、平坦な軌道に平滑な車輪を密着させれば機関車が列車を引いて走れるということが分からなかった。
 1831にジャービスがボギー台車を発明し、機関車を長くすることができた。
 英では機関車の燃料は最初から石炭だが、米では森林があり余っていたので薪だった。燃料がなくなれば、乗客が総出で斧をもって沿線の森林を伐採し、再び走行を続けた。
 米機関車独特の不恰好な煙突は、薪燃料に由来する火の粉の対策である。この火の粉は乗客の衣服にも、沿道の家屋にも、かなりの脅威だった。
 英国では鉄道は既存の地上利用を尊重して曲がりくねったルートが決められているが、米では鉄道はあらゆる地上物をまっすぐ貫いて敷設され、速度を殺さないようにした。
 このため、踏み切りと排障器が発達した。
 鉄道も南北でなく東西方向に発達した。
 スイスのトンネル掘削に圧搾空気が利用されているのにヒントを得てウェスティングハウスは列車の空気ブレーキを開発した。
 モールスは最初は紙に信号が印字されるものとして完成したのだが、やがて耳で聴いた方が分あたりの送信字数を増やせることがわかってきた。
 米では1820頃から石炭ガスのガス灯が普及した。それ以前の照明では細かい手元作業は不可能であったが、これ以後は夜なべ、夜更かしが可能になった。
 シンガーは月賦販売を発明した。また、彼の訴訟から、機械発明品の特許は先に完成・実用化されたものが優先されるという判例が出た。
 工業用ミシンがレディメイドを大量安価に提供したので、衣服の「手縫い」は廃された。この結果、家庭婦人の余暇時間が増えた。
 政府からマスケット銃の量産を請け負ったホイットニーは精密ジグを実用化し、互換性のある部品を連続量産することに初めて成功した。1818のフライス盤の発明はその延長。この小銃工作機械を1854にプラットが量産した。
 1868にブラウン・シャープ社は1万分の4インチを測定できるマイクロメーターを完成した。
 1864にセラーズは標準ネジ規格を制定。1899にはチューリヒでネジの国際規格が決まる。
 エジソンの母親は小学校教員だったが数学はダメで、エジソンは終生、計算を人に頼んでいた。12歳ころ、ギボン、ヒューム、ユーゴーなどを読んでいた。
 家は貧しくなかったが、12歳から列車の新聞売り子に志願し、終点駅の図書館で日中を過ごし、空いている喫煙室を化学実験場にしていた。ここで燐によるボヤを起し、車掌に殴打され、そのときに片耳の聴力を失った。
 電話の受話器の鉄片の震動の強さを知るために針をつけて錫箔の上に当ててみた。するとかなりの深さの溝が掘れた。ここから蓄音機を思いついた。多くのエジソンの発明は「組み合わせ」と「事業化」の努力なのだが、蓄音機だけはゼロからの発想であった。当時、かなり教養がある人でも、レコードの原理について容易に納得をし得ず、それはインチキだと疑っていた。
 WWⅠで独から円盤原料のフェノールが来なくなると、エジソンは自分でコールタール以外のものからフェノールを製造する方法を発見し、1日1トンも製造した。
 1915からは米海軍のためにASW関連の40近い提案をしている。
 初期の自動車は晴天時にだけ乗るもので、冬期は納屋に仕舞いこまれた。だから屋根は無い。
▼田岡良一『国際法上の自衛権・補訂版』1981
 日本の刑法は他人のための防衛を広く認める(p.3)。
 復仇は自衛ではないが奪還は自衛である。
 自衛権は現に行なわれつつある違法に対す。自力救済は既になされた違法に対す。
 sagesse politique 政治的賢明。
 多くの日本人学者は、国際法上の急迫とは未来のことだと、刑法とは異なる立場をとろうとしている(pp.24-5)。
 カロリン号事件における self-defence は相手国の不法を要件としない。つまり国内法とは別概念だった。
 緊急避難の場合、法益の釣合いの問題は起こらない。
 一般国際法上の自衛権は、国内法上の緊急避難と本質的に類似する観念であると見なさねばならない(p.125)。
 自力救済も相手側の違法行為を前提とする。
 自力救済は、従って自衛権ではない。
 戦争を厳密に表現せば、use of armed force, recourse to acts of force
 自衛権は second blow(なぐり返し)の権利のような消極的なものに非ず。
 国境外へ先制自衛してよい(p.217)。
 武力攻撃の発生と損害の発生を同一視するのはおかしい。
 意図の想像に基づく先制攻撃は不可。※よって電波盗聴衛星が必要になる。
 安保理事会や総会は政治機関であって、憲章の有権的解釈をする処ではない。(拘束力を持たない。)
 警備艇の銃撃も、武力行使である。
 国連憲章の第1章と第6章以下は全くの矛盾(p.354)。