世人の眼識は日に日に高し

 ルソー並の天才級の知識人の自己弁護はそれじたいが芸術です。本人が生きている間は周囲に迷惑をかけようが、当人が死んで百年たてば人類の財産になっている。
 またこういう天才は、長すぎる文章は書かないんですよ。
 そうでない一級の知識人で「ナンチャッテ文学」の志好がある先生方。このタイプは日本には多いんだが、自己弁護をする前によっぽど気をつけるべきです。
 といいますのは、文章力になまじいな自信があるため、リラックスして闊達に自己弁護の創作力を大発揮しちまうのです。スイスイと。しかも、長いんだ。
 文人が、自分の弱さ・醜さ──西洋人ならば「罪」と称するところの側面を、自分で研究してオープンにする作業にわれわれ接しますと、付き合わされる読み手の好悪は分かれるところですが、まず凡庸でない心掛け、さすが文人、とくらいは評価しておきますでしょう。
 ところが、そうでない一級知識人でナンチャッテ文学の志好がある先生方ときた日には、自分の凡庸な弱点や欠点を世間の認知から守るためにせっかくの文才を浪費しようとなさる。そのセコい自己史修文の営みが、無駄に長ければ長いほど、けっきょく世間様の批評眼にセコい自我が見切られ易くなるのに、それはご当人には弁えの附かぬことですので、近代の図書館には、慎重に煙幕を張りポスターカラーでリタッチしたつまらん履歴書がうずたかく積まれて、後世の誰も愉快にしないのでしょう。
 ある一人が言うことを全部信じようなんていう読者は今の日本にはいない。誰もが「差分ファイル」を聚めようと目を凝らしています。一本調子の長すぎる宣伝からは、その目は逸れてしまいます。