摘録とコメント(※)

▼陸軍文庫『日本兵器沿革誌』M13
 ※本朝軍器考の出典全部にあたっているので内容充実。
 甲冑之部。日本は例外的に母衣で矢を防いだ。これを頭からかけ弓でつっぱって展張した。三代実録に、甲の扶けになるとある。平家物語にも見える。絹製なので前方を視ることができる。
 刀剣の部。大小2刀どころか中古は3、4刀も持っていた。たとえば『鎌田草子』。
 昔は両刃も片刃も「剣」といった。文官の儀刀は鉛か木製であった。
 左右巻→鞘巻。
 欄外書き込み。「八つか」の「八」は音声「パ」で、大なること。ひじょうに長い剣であることを強調したのであると。
▼偕行社記事 第389号附録 寺田武(陸軍輜重少佐)編述
 ※日露戦の後方の反省。
 速力の遅い船はどうしようもない。特に荒天下。上甲板が板でないと、寒暑耐え難い。
 舵取=クォーターマスター。 副機関の主任者=ドンキーマン。 便所掛=ドーバス。
▼広井勇『再訂 築港 前編』大2、原M40
 M31の実績で、日本の築港は人力に頼るため、欧米の20倍の費用と5倍の時間を要している(緒言 p.2)。
▼須川邦彦『戦力と船力』S19
 ダーダネルス作戦についてコーウェル少将は、8000人の上陸のためには大型端艇が250隻必要と。端艇は全長9.1m32人乗りと、10.4m42人乗りとあり。漕手6名は別。この作戦後期、ようやく自航上陸舟艇出来、小銃耐弾、5浬/時、着岸用斜歩板付、馬50頭あるいは人員500名を載せた。沖合いまでは曳航される(pp.16-7)。
 北清事変では日本は1コDのわたしのため、20隻(35000t)を反復使用しなければならなかった。
 ナルヴィク上陸では独は駆逐艦に山岳兵を分載、戦艦2、巡洋艦1の護衛の下、空襲を冒して運んだ。揚陸後、船団は全滅(pp.18-9)。
 S11頃、日本は1万tクラスで20ノットのタンカーをつくった。英ではこれを特設巡洋艦にするのではないかと怖れた。※なんとすばらしいアイディアだったろう。
 日清役では、元山丸、品川丸の2隻(各1000t)を工作船として徴用。日露役では3000t級の三池丸、江港丸を。これらは吃水線以上の応急修理を担当した。
 バルチック艦隊は7000t級1隻を随伴。
 米はS15にバルカン号9100tを進水させた。当時最大級。
 サンチャゴ艦隊全滅の因は、スペイン海相からF司令に送った電報が、国際海底電信を米が抑えて不着だったためによる(p.104)。
 VDソナーの原形はWWⅠ中。英海軍中尉が、対潜用の曳航式爆雷のためにパラベーンを創った。これがすぐに機雷切離具に転用された。
 Subが帆を張って漁船にみせかけるのはWWⅠより(p.162)。※ちなみにいまの漁船が帆を張っているのは、アンカリング/漂泊中に船首を常に風上に向けておくための垂直尾翼のようなもの。
 米は大7から対潜迷彩の科学的研究を始めた。
 ※ここに各国船舶の迷彩について網羅的に紹介されているのだが、これは江河勝郎 ed.『戦時に於ける商船の自衛』S13pub.からの無断転載だと思われる。
▼『倭城 I』1979
 文禄以後の半島での永久築城の経験が、慶長以後の城のスタイルに。
 初期平壌の戦いでは、平壌の邑城を改修したものは役立たず、高地に新規増設したものが防禦力を示したので、以後はその方針。明の人海攻城は日本では全く考えられないことであった。
 このころの水戦は人力漕なので、海戦場ちかくの港を敵に使わせなければ、逸を以て労を待てる。
 守城戦闘において鳥銃の威力は圧倒的であった。
 本格築城は補給港を瞰制する高地に、野戦築城は半永久式で内陸に。
 壁と櫓台の組み合わせが有効だった。堀は空堀。
▼ホースト・ドラクロワ『城壁にかこまれた都市』1983
 ルネサンスの人文学者は、都市を囲む城壁を人体の皮膚に好んでたとえた。
 バビロンの城壁は高さ25mで、それプラス5mの塔。
 大砲の水平射を活用すべく、要塞は低くなり、壁は外濠から立ち上がるようになった。つまり拒止障害地形としての段差は旧のままだが、レベルは敵地と大差ないので、こちらからの平射が有効であり、敵からの目標はなくなる。
 ヴォーバンの外濠は幅100m以上。
 19世紀のブリアルモンはベルギーのヴォーバンといわれる。
 注。仏による1494~1529のイタリア攻めではじめて鉄丸、および牛ではなく馬で引く砲架付大砲が大量使用された。
 ミケランジェロはこれに対し土でできた要塞を主張した。
 注。リェージュ、ナミュール、アントワープの永久要塞はWWⅠであっけなく陥ちたが、ヴェルダンがもちこたえてしまったために、マジノ&ジークフリートの愚行が実施されることになった。
▼楊泓『中国古兵器論叢』来村多加央 tr. S60
 楚辞に出る「犀甲」はおそらく車戦で使用される。3mもの戈、矛は、歩兵には適さず、やはり車戦用である。※戈はそうだろうが矛は長くしても良いだろう。
 殷から春秋に到るまでは奴隷制社会で、奴隷主階級が軍隊の主要な構成員であり、戦争の目的は奴隷の反抗を鎮圧し、征服および掠奪を行ない、以て新たな奴隷、土地、財富を獲得することであった(pp.8-9)。
 戦国期は、鉄器と、「かなり普遍的」な弩の装備により車すたれて歩騎とかわる(p.16)。
 秦はむしろ銅を主用したのではないか。鉄器は燕にのみ多し、と。
 前漢になって青銅武器が駆逐される。シナ語では火器でないものを「冷兵器」と呼ぶ。
 詩経・秦風には秦の軍容を戦車を以て特徴づける。
 戦車主体の軍とは奴隷制の産物で、奴隷主は軍装すべて整えて戦車上に立ち、奴隷たちは手に簡単な武器を持って後続する(p.96)。
 とうぜん奴隷は本気で闘わないので決着は奴隷主同志の決闘となる。御し難く、弓矢の射程が短い(たぶん竹製)のため、深い陣は無意味で、横一線の陣を採る。当然すれちがいざまのうちあいになる(p.97)。※だから戈が役立つ。
 楚辞に「左驂は殪れ、右は刃傷す」と出る。驂はNo.1&No.4の馬。服はNo.2&3。※戈で馬を狙っていたのか。
3人の乗員と装備だけでも250kgにもなろう。これプラス、車重。
 左伝に2箇所、植生により車がスタックする様が(p.100)。
 脱車制は早く進行されるべきであったが改革が遅れた跡が歴然。
 手で張り拡げる弩を「臂張弩」という。
 史記・張儀列伝に、「大船に粟を積み……一舫に五十人と三月の食とを載せ……一日行くこと三百余里」と出る。
 『釈名』に、「剣は検なり、非常に防検する所以なり」。
 この著者は漢書芸文志の斉孫子89巻を竹のつづりとは思っていないようだ(p.146)。
 弩はおそらくシナの南方あるいは西南方の古代民族中に最初に出現した。近代になっても南方と西南方の二、三の少数民族は弓を用いず弩を用いていた。部隊に大量に弩を装備すること、かつまた青銅の機括を使用することにいたっては、凡そ春秋時代に始まり、おそらくは最初に楚国に出現したものであろう(p.150)。
 文献。J.F.Rock著“The Ancient Na-Khi(納西) kingdom of South West China”,1947.
▼森浩一・他『古代の日本海諸地域』
 佐渡や壱岐が、大陸への逃亡を考慮しなくていい流刑地となった。※地中海とはぜんぜん違うこと。
 鎌倉時代に日本人僧が樺太から大陸に入った例がある(p.73)。
▼羅哲文『万里の長城』
 B.C.8~5世紀のシナ人口は希薄。すなわち春秋時代。B.C.6世紀ごろから鉄器による開墾で10%固定税が可能になる。これが、B.C.5世紀の初代の長城を建設する資力を生み出した。
 南方の呉・越は沼沢地だったから、戦車に頼らない歩兵隊はここで生まれた。山の多い晋(のちの韓、魏、趙)でも。
 大昔は車戦オンリーの時代で、溝が対戦車壕だった。趙の武霊王が北方民を真似て騎射隊を編成したのはB.C.307。
 川水に接しているところでは、長城は水門要塞になる。
 最初の長城は、黄河の最下流域の斉。ついで長江最下流の楚。ついで黄河中流の魏、さらに魏の上流の趙の順で。
 始皇帝は征服地の城壁をとりこぼち、武器を鋳潰した。クローン化。首都から四方にむかう道路を整備。厳罰主義。無宿人や罪人はどしどし築城工夫として僻地へ。
 季斯の提言により、技術や占卜に関する書籍以外は燃やす。ただし一セットは残し、最高の学者は閲覧できた。
 ※儒者を生き埋めにしたなどというのと同じく後朝の中傷宣伝で、役に立つ知識をもたずに屁理屈で行政に反抗し不遇をかこった腐儒が江戸の仇を討った。
 蒙恬は斉を討ったのち、西方で異民族対策、長城建設、輸送路建設を監督。史記によればその辺境建設隊は30万。
 漢王朝は西の辺境に18万の屯田兵を置き、小麦、黍、麻などを栽培させた。
 高句麗は隋唐軍を防ぐために500kmの防壁を築いたが用をなさず。
 唐代に馬の絵や彫刻が多くなる。大宗は騎兵隊を再建した。
 AD487の書に曰、北方のテイ族は……都市攻撃に慣れていない。
 チンギス・ハーンの総人口は250万、兵力わずか25万。
 明代、長城方面への穀物供給はやはり揚子江流域から山東まで海漕に頼らねばならなかったが、しばしば暴風と海賊に邪魔された(p.54)。
 明の武宗は、肖像からも、子がないことからも、宦官に頼ったことからも、不能者のように思われる(pp.54-5)。
 成祖は国都を北京へ北遷させる。揚子江と黄河をつなぐ大水路の修復により、北支へ海上輸送する危険がなくなったので。
 鄭和は雲南生まれのイスラム教徒。
 かつてのゴビ砂漠では農耕のできる地所も多かった。
 漢ははじめて中央アジアに進出した王朝。補給は1頭建て荷車。
 騎馬の軍隊なしには、漢のあれほどの版図は無理。唐も同様。
 煉瓦は明代から(p.131)。
 手押し一輪車はシナの紀元前発明。ラバ2頭曳きもある。
 烽火は秦代にはじまる。
▼石母田正『古代史講座5』
 アテナイの外交政策は穀物政策。
 漢代から義務兵役制。軽車、騎士、材官(歩兵)、楼船(水兵)などを訓練させておいて、有事に招集。
 軍屯田は武帝が始む。しかし完全自給はできなかった。
 ホメロス時代は、指揮官の迅速移動用に馬車を用う(p.186)。
 車鎌付きのペルシャ式戦車はアッシリアには見られない。
 アッシリア騎兵は車より遅れて発達。
 刀剣は実戦に使われず、槍、弓のみ(p.194)。
 工兵があり、軍道をつくり、攻城した。渡河は筏に戦車ごと乗せた。舟を並べた浮橋あり。歩兵は浮き袋も使用。
 海国(南バビロニア)の市を占領するとき。「かれの残軍は筏にのって湖上に逃亡した。私はかれらを追撃し、湖上の戦でかれら多数を殺し、……」(p.196)。※沼地だろう。
 ペルシャ対岸征伐は海陸併行進軍で。ニネヴェで船を造り、フェニキアで戦備をととのえてユーフラテスを下り、チグリスの艦隊はオピスで陸送、運河を通ってユーフラテス軍に合流せしめ、海を渡った。アッシリア2段櫓軍船は衝角付。
▼釘本久春『戦争と日本語』S19
 異民族に対する日本語教育の嚆矢はM28-6、於・台湾。
 朝鮮では日露戦中から準備し、併合の翌年M44に朝鮮教育令。
 関東州ではM37-12、陸軍部隊により小学校開設。
 南洋では大3、海軍占領と同時に。
 M42-7以降、満州では満鉄が教育担当。
 朝鮮教育令は、日本語普及進捗に合わせて徐々に朝鮮語授業を減ず(p.127)。
 「隣組」は戦前にない日本語(p.191)。
▼ナポレオン口述、マルシアン ed.『ナポレオン兵法書・ジュリアス・シイザア戦争論』外山卯三郎 tr. S17
 右のあばらが痛かった。※毒酒?
 架橋法について詳述。
 ローマ軍は、退路や負傷者収容施設が完成されぬうちは決して戦わなかった(p.99)。
 ローマは短剣で、アレクサンドロスはマケドニヤ式の槍でアジアを征服できた。というのは白兵防禦陣は同数の敵に囲まれても有利なのだ。
 現在の弾は500トアーズに届き、90トアーズのところまで人を殺す。ために、敵が少数でも、囲まれたが最後、味方陣内すみからすみまで敵の射程内となる。だから散開する必要がある。
 砲は500トアーズで殺傷。
 シルコンヴァラシオン(壘壁)←→コントラヴァラシオン(対壘線)
 古代の白兵戦闘では敗者の損害は勝者に対しケタ違いに大きくなる(p.181)。
 というのも、敗北して崩れ立った瞬間、大殺戮が始まるから(p.242)。
 ナポは他に中世のテュルヌ将軍とフリードリヒ大王に関する書を著わしている。
▼望月衛 tr.『ドイツ戦争心理学 第2巻 将校の資質と其の文化業績』S17、原1936
 独では1928以来、学科テストぬき、心理学的検査のみで将校を選抜する(p.9)。
 1617ジーゲンにドイツ最初の士官学校。当時は主に砲兵弾道学。
 1859から将校は必ず士官学校を出る要あり。1861~65の間、この反動として将校試験廃止運動(p.12)。
 WWⅠで尉官の40%戦死。
 クラウゼヴィッツ研究者の歩兵大将ヴァルテル・ラインハルトは言う。「戦争とは、権力手段を以て権力手段に対し闘争することである。……敵の権力に対する自己の権力の方向の中には、最も迅速なる結果をもたらし得るという見透しが存すべきであって、之は諸々の力の最大の経済を保證する」(p.60)。
 1937時点で士官候補生の適性検査は面接による(p.89)。
 1940時点で軍人家系は軍人家系同志で婚姻している(p.193)。