三度び蕪辞を弄す

 首相が一般国民に向かっては責任を負わない(自己説明力を公開的に発揮せよと要請されない)ために、却って首相の権限が弱い──。
 一人の総理大臣に全官僚の任免権を与えることを決して予期しない、明治憲法からして改めぬ限りは、日本は20世紀の現代戦には対処できませんでした。
 陸相、内相、参謀総長を兼任し、陸相の手兵たる憲兵隊によって政党と議会と海軍も黙らせた東条英機首相が、このような山縣体制の構造欠陥を、身を以て実験証明したのです。
 敗戦後、陸海軍に加えて内務省も解体され、棚からぼた餅のようにSCAP命令という百官黜陟自侭の権を把握した吉田茂は、時限的に昔の山縣に近い権力を持てたことから慢心し、首相の責任と権限に関する山縣体制の構造欠陥を温存してしまいました。
 その吉田による不作為の実験の結果、旧陸軍に代わって戦後は大蔵省の権力が絶大化します。じつは、戦前に大蔵省が暴走しなかったのも、陸軍省や内務省がカウンター勢力として拮抗をしていたからなのだなぁ、ということがやっと分かったのではないでしょうか。
 戦後、この大蔵省の「官僚ファッショ」を阻止できる唯一の勢力は、米国です。そこで、旧陸海軍省の生き残りや旧内務省の生き残りは、敗戦直後の外務官僚に倣って米国要路と直接に連繋することで、大蔵省を抑えるしかなくなりました。閣僚級の代議士も同様です。目立って活躍しているのは、検察でしょう。彼らの国策捜査は、同時に大蔵省(財務省)に対する米国経由の牽制球になっているのでしょう。
 同様にして、田中派の対支売国外交も牽制されてきました。
 しかし、日本の富を挙げて米国経済に奉仕せしめる財政や、外務省はじめ中堅官僚や小物政治家がシナの間接侵略の手先になることや、財務省を枢軸とする官庁同士の腐った取り引きにまでは、米国経由のチェックは及びません。当然のことです。
 次の内閣の優先すべき課題はハッキリしています。代議士の互選で選ばれる戦後の内閣総理大臣には、全官僚の随意即効任免権が与えられなければなりません。
 ところで、自己説明力(アカウンタビリティ)を要請されない男は、概況が好いときに不善を為します。ワールドカップ日本代表チームも、先に1点リードすると「なぜ自分がここにいるのか」が分からなくなり、試合後の自分のことしか考えられなくなるのではないでしょうか。「今」に集中できるかできないかの分かれ目も、アカウンタビリティーなのではありますまいか。