いよいよ明日18日、発売です。

 岡谷繁実(おかのやしげざね)の『名将言行録』は、明治29年完結の増補まで入れるとオリジナルは全部で71巻にもなり、それを全部収めた(ただし伏字あり)の人物往来社版でも、7分冊もあります。
 このたび兵頭は、その計71巻におさめられた192人のただの一名も省略せずに、エピソードを摘記した『[新訳]名将言行録』をPHPから刊行します(ISBN978-4-569-70266-7)。書店搬入が9月18日予定です。(ちなみに過去の岩波文庫版にも192人は載せていないようです。)
 そもそもわたしが『名将言行録』の存在を知ったのは、学生時代に、明治44年2月刊(文成社)の袖珍版の1冊(第六編、バラ)を神田の古書店で捨て値で買ったときでした。その1冊は今も手元にありますが、奥付には全10冊とある。今にして分かるのですが、これは全冊揃えておく価値があった。
 この文成社版は総ルビ付きである上、伏字がありません。(人物往来社版で□□□となっているところは、被差別地名であったことが、文成社版との対照で確認できます。)ルビというやつは著者のチェックが入らないので、いいかげんな間違いもままあるんですが、明治人の読み方で普通なら何と読むのか、たとえば「御」の字をどう読み分けていたかなど、そういうことが推察できますので、現代人には非常に有り難いんです。
 今回の訳編作業開始にあたり、わたしは菊池寛が戦時中に出した3冊版の『評註 名将言行録』(S17-12~S18-11)を期待して取り寄せてみたところ、大衆小説的に人気のある著名人しか載せていないと分かったので、ガッカリしてすっぽかしていました。これは上巻のみが総ルビ付きで、中巻と下巻はルビがありません。いうまでもなく、対米戦中の出版事情の悪化が反映されているわけです。
 それで、仕事の端境期の今、ようやくその菊池の「評註」の部分を拾い読みしているところです。落ち着いて読めば、さすがに捨て難いものがあります。次の「読書余論」で紹介できれば、と思っております。
 拙著が出ましたら、皆様に注意して読んでいただきたいところが何箇所かあります。
 たとえば井伊直政のところ。火縄銃の二重装填で銃身が破裂したという稀有な事故リポートです。(いわゆる「二ツ玉の強薬」じゃありません。誤装填です。)
 これは出典は忘れましたが、南北戦争かどこかの西洋の古戦場から回収されたマズルローダーに、10発以上の多重装填をしたままのものがあったとか……。つまり、戦場の間断無い轟音のため、自分の銃が不発になっているのにも気が付かずに、次々に装填しては発砲動作だけをひたすら繰り返していた兵隊がいた。それほど、激しい射撃戦の応酬は将兵の精神を動転させたわけです。
 天正時代に、日本人は近代火力戦を初体験していました。だから明治維新=攘夷の人である岡谷繁実は、天正時代の武将の経験に強い関心を抱いたのです。
 次に、大崎長行。最後に女が一人で舟を漕いで去り、行く方知れずになります。すこぶる印象的なエピソードです。わたしは『松本清張全集 26』(火の縄、小説日本芸譚、私説・日本合戦譚)をたまたま古本で買って眺めていまして、松本氏が『名将言行録』を、反発しながらも一通り読み込んでいたことを確信しました。松本さんの有名な推理小説(タイトル忘失)で、女が最後に日本海へ舟を漕ぎ出して自殺同然に姿を消すという作品があったでしょう。あのエンディングのヒントは、きっと、大崎長行なのでしょう。
 石田三成のところで、彼が法華宗であったことを、『名将言行録』は一切、紹介していません。キリシタン大名との関係で、当時は重大な問題だったはずなのですが……。たとえば加藤清正が法華信徒であったために小西行長とはまったくソリが合わなかったということは書いてあるのです。岡谷繁実には何か意図があったのでしょうか。妙に気になりました。
 多くの小説家が「合戦では足軽の槍は突くものではなく、上から叩くものだ」と現代の読者に説教を垂れます。しかし、これは集団が最初に激突するときの、ひとつの脅かしのテクニックなので、三間(5.5m)~三間半(6.3m)の柄の三角穂槍を叩くように振り下ろしても、それで敵兵は殺し難いでしょう。
 足軽の槍全般についての誤解を誘導しかねない非合理的な解説が流行する根拠になっているのかもしれないと思われる記述も『名将言行録』には二、三あります。わたしはそのうちのひとつを、斎藤利政の項で「翻訳」しておきました。
 振り回せば切れそうな平刃の長い穂が附いた、武将用の槍ならば、右前構えにして薙刀のように敵を脅かすこともできるのは勿論ですけどね。
 信長・秀吉・家康の三人がホトトギスについて歌を詠んだというエピソードは『名将言行録』には出てきません。ではその作り話に何か元種はあったのでしょうか? 豊臣秀吉の項目をお読みください。
 徳川家康は、気が長くて慎重なキャラクターだったのでしょうか? あらゆる証言が、彼が短気なキャンペーン・マニアであったことを示唆しています。また豊臣秀吉はスターリンやヒトラー級のおそろしい男かもしれません。(ところで『ざっくばらん』の最新号に、伊藤博文は自身を豊臣秀吉と比べられて悦んでいたという話が出ていて、なるほどなと思いました。)
 西郷隆盛の政治参考書は『春秋左氏伝』しかありませんでした。もし『名将言行録』が明治9年以前に印行されていたなら、征韓論はどうなっただろうか、西南戦争はどうなっただろうか、と思わされます。
追伸:昨日、光人社の『属国の防衛革命』の見本が出来上がったという連絡を頂戴しました。腐り果てた日本の政局に、どうやらギリギリのタイミングで刺激剤を投下することができそうです。いつも拙著の新刊紹介をしていただいている方々には、版元から直接に見本が1冊、郵送されますので、お待ち下さい。活発な議論が起きることを祈願いたしております。