秦郁彦さんが『新潮45』の4月号と5月号に、司馬遼太郎についての2回続き読物を寄稿していますね。
今号では、有名な「轢っ殺してゆけ」エピソードは創作だった――と、ほぼ結論が示されました。そうだったのか……。納得です。
戦中の国産戦車の戦略自走機動速度なんて子供の自転車よりも遅いだろうし、交通整理憲兵が経路を先行するはずだからおかしいと思ってました。
大本営参謀の少佐とやらのモデルが、寺本弘氏だと思われていた事実があったとは、今回の記事を読んで初めて承知しました。
戦車マガジンの社員だった時に、『帝国陸軍の戦闘用車両』という別冊をつくって、機甲会かなにかの名簿に載っていたOBのひとたちに配ったことがありました。そしたら寺本さんご本人から、158頁(初版)の写真(キャプションなし、トビラの挿絵)に写っているのは自分である、というご連絡を受けた。
掲載写真の95式軽戦車に「志20」とペイントしてあるのは、マレーの1TkRn.,3Co.で、バリカンを操作しているのが、松村上等兵、頭を刈られているのが寺本中尉、なんだそうです。この写真じたいは戦中の公刊物(古本)からの複写を使用したと記憶しております。
読者として、ヤスリ実験の真相についてもスッキリした解明を期待してましたが、そっちは秦さんにいまひとつご興味がなさそうです。つまりじつは1式砲戦車か何かの防盾を削ったんじゃないかという疑問をわたしはずっと持ってるんですが、「轢っ殺してゆけ」まで創作できる司馬さんなんだとあれば、もうその辺は詮索するだけ徒労ってことなのでしょうね。
司馬さんはじつは戦車が大好きだった、という話も納得できます。ひょっとして、司馬さんは生前に『戦車マガジン』やその別冊にも目を通してくれていたんでしょうか? そこがこんどは知りたくなってしまいました。
16日発売の『表現者』には、「保科善四郎」さんをとりあげて論じました。ご興味ある方はご一読ください。
『予言 日支宗教戦争』は、在庫があと300冊だそうです。ヤバげなタイトルなので、どこもビビッて書評してくれない本だった割には、捌けたな~、と感激しております。まだ入手されていない方は、完売前にお急ぎください!