網戸を簡単に固着できる補助錠を開発して!

 至れり尽くせりの「泥棒よけ虎の巻」が載っております『予言 日支宗教戦争』。皆様、もう既にご活用をしていただいておりますでしょうか?
 このテーマに関しまして、またメーカーさんに提案があります。
 げんざい、引き違い式に開閉するガラス窓用には、窓枠に両面テープで貼り付けるか螺止めをし、ワンタッチで尺取虫式に突起を立てることによって補助錠の機能を持たせる、そういう安い金具が、ホームセンターにて、何種類も市販されております。
 ところがこういう金具で、「網戸」に取り付けられるものが、まだありません。
 網戸の強度は小さなものです。子供でも破ってしまうことができるんですが、これが指一本でスルリと横に開いてしまうのと、引き裂かない限りはビクとも動かないくらい強力に固定されているのとでは、侵入盗犯に与える心理的な障壁度が、段違いでしょう。
 瞬間接着剤とか、荷造り用透明テープとか、網戸をスライドできなくする方法はいくつか考えられますけれども、なにか補助錠によってそれができるなら、より優れた解決法ですよね。
 ついでに、網戸を内側から子供がいくら押しても外れたり倒れない、そのような安全機構をどこかのメーカーで考案してくれたら嬉しいです。貸家に素人がうまく防護柵を取り付けるのは不可能に近いので……。
 前回の司馬遼太郎の続きです。
 やっぱり司馬さんは、WWII中の戦車を扱ったマニアの雑誌や別冊を、覗いていたんじゃないかな?
 そして、ミリヲタク世界の深淵を、察してしまった。
 こんな世界でリサーチするのは厭だ、と思っただろうと思うのです。
 神保町の古本屋に頼んでも、ダメなんだ。旧軍メカ関係だと、これはマニアが自分で資料を一点一点捜索するしかない。それも、単行本よりも雑誌にディープな情報が載っている。マニア向けの雑誌のバックナンバーを全部見るのはとても疲れますよ。そもそも、図書館に行かないと揃って無いし。投入労力と、実入りが、見合いそうにはない。さまざまなジャンルで調査経験のある司馬さんには、そんな予測ができた。だから逃亡した。
 漱石の明治32年の「古別離」という題の漢詩中に「前路白雲堆」(堆は「うずたかし」と読む)という1行があります。別離の対象は子規らしい。
 兵頭おもえらく、松山人についていろいろ調べたときに、この1行に行き当たって、そこから司馬さんは『坂の上の雲』というタイトルを思い付いたんじゃないか。
 そういうジャンルの古本捜索ならば、司馬さんは寝食を削るのも敢えていといはしなかっただろう、と思うのです。
 でもね、ゲペックカステンがどうだとか、チェリャビンスク工場製の何年型だとか、「とくとごらんいただきたい」だとか、その世界には入っていけなかったんだ。
 1997年の雑誌『アーマー・モデリング』6月号に、「戦車兵司馬遼太郎」という記事がありました。それを読んだとき、「司馬遼太郎が満州で砲塔を削ってみたのは、少なくとも3式中戦車ではないな」と思いました。
 だいたい3式中戦車は満州には1両もいっていないだろうし。北満試験もしてないでしょう。
 で、内地に戻った戦車第1連隊への3式中戦車の部隊配備は、昭和20年春以降でしょう。
したがって内地では司馬氏は3式を実際に見たかもしれないが、満州では見たことはなかった。
では司馬氏が満州で削ってみたのはいったい何の砲塔であったのか。(秦さんの記事を読んだあとでは、そもそも満州でというのも、3式をというのも、また削ったという話も、すべて「創作」だったんじゃないかとも思えちゃうのですが……。)
それはひょっとして、北満試験用に運ばれ、四平学校で教材になっていた可能性がある、1式砲戦車ではないか? フィリピンにも海送されようとした1式砲戦車は、北満試験はきっと済ませていたでしょう。
 1式砲戦車は、もともと砲兵の自走砲。当初から砲戦車(自走対戦車砲)として開発されていたならば、その防盾は戦車と同じ防弾装甲鋼板があてられるでしょうから、なかなかヤスリでは削り難かろうと思います(もっとも、鈑厚25~50ミリにもなると、戦車用防弾装甲板でも表面硬化処理はしない可能性もあったでしょうが)。
 しかし、1式砲戦車は最初は砲兵の自走砲として開発されたので、防盾にはヤスリで削りやすい素材が使われていた可能性もあるんじゃないか。
 北満試験でボロボロになったあとに、四平の教材用に譲渡されたとすれば、ロクに整備努力もされておらず、一度も動かなかったというのも辻褄が合います。
 ではその1式砲戦車をどうして司馬氏は3式中戦車と間違えたか。
 それは、やはり作家になって戦車の話を書くまでの間に、いくぶん記憶の混同が生じているのでしょう。その自覚もあって、ノモンハンの作品化は自分で諦めざるを得なかったのではないでしょうか。あるいは半分意図的な、記憶の合成……oops。
 3式中戦車は昭和19年から本格量産が始まっていたので、その名称と存在だけは、外地の戦車兵も知っていて、司馬氏も、戦車聯隊の上長から聞かされたかもしれません。
 それで、砲戦車中隊に配属されて、1式砲戦車を「これがお前達が乗ることになる新型砲戦車だ」などと説明をされたら、「では、これがあの3式中戦車?」と混乱をしたかもしれない。
 また、その新型車両が全周密閉砲塔でないことに不安を感じ、つい、砲塔前面にヤスリを当ててみたくなるのは、司馬氏でなくとも、自然な人情じゃないか。
 では、AM6月号p.30の写真キャプションにある、「…モーターでの旋回は微妙な調整が困難だったようである」という指摘はどこから来たか。1式砲戦車の砲塔は旋回はしません。
 これは、四平にもあったチハ改に関する記憶ではないのか。四平で、そのチハ改が「1式中戦車(チヘ)」と間違えられていたらしいことは、AM6月号p.33の写真キャプションから十分推定できること。
 ちなみに加須には、1式中戦車があったことが、終戦後の解散式の写真で分かる。内地での記憶を混ぜることも、小説家の司馬さんならできますよね。
 あと、そもそもM4や97式や95式や3式はそれぞれヤスリで削れるのかどうか、誰も確かめてないんでしょ? 現物が日本国内外にあるんだから、どこかに「オレは試したぜ」というリポートがあるような気がするのですが……、まだ見たことはありません。