UAVの応援を頼め!

 三陸で数百人の死体が並んでいるという報道から何十時間過ぎただろうか?
 政府はとうぜん、サーマル・センサーによる生存者偵察をするだろうと思っていたら、いまだにその情報がない。やっていないのか? これは防衛省と自衛隊OB議員の怠慢だよ。
 自衛隊にはUAVもないし航空機にサーマル・イメージ・センサーも搭載していない。そんなことは専門家には前からわかっていることだ。
 他方、米軍ならば、サーマル・センサー付きの固定翼UAV/有人固定翼機を各種、何百機も、もっている。日本の総理大臣がちょくせつ呼びかければ、地球の裏側からでももってきてくれる。固定翼UAVは地表ではほとんどプロペラ音がしないから地上での救難活動の邪魔にもならない。
 生きている人間には体温がある。今は冬だから、環境背景温度との差があるから、サーマル・センサーで夜間でも探知できる。そのGPS座標さえ連絡してもらったら、あとは日本の救難機関が直行できるじゃないか。早く手を打て。
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《真実》は最後には勝つが、すぐに勝つとは限らない

 世の中には、本当のことを書かれると、地位や所得を失なうかもしれない人が、ものすごく多いのでしょう。〈NHKが何十年も中継してきた大相撲本場所において八百長はじつは黙認状態の慣行であり続けていた〉ことなどは、まず卑近な例に属するのかもしれません。
 多くの有名スポーツ記者やスポーツ解説者たちは、この事実を知りながら人々には伝えないことによって利権の分け前にあずかり、〈誰もが儲かるビジネス・モデル〉だと思っていたからこそ、こんなに長く秘密が保たれたのかもしれませんね。しかし《真実》はずっと犠牲にされていた。人々は公的な嘘を吹き込まれるために受信料を支払い続けていたようなものです。そして一連の騒動では、〈大手マスメディアや業界人は、平気で嘘の共犯者になれるのか〉という新しい常識も、大衆は推知してしまった。「こうなった責任を感じたなら辞任せよ」等と部内・部外からつきあげられることは、関係する公的団体や官庁の高級幹部にとっては、さぞやおそろしい事態でしょうね。
 真実の流布は、人々による特定者への非難や批判を、にわかに喚起することがあり得ます。そこから、権力者たちの人事交替につながりかねません。それが心配される場合、「真実を隠したい」との動機を、一部の権力者は持つことになります。
 いまから170~150年ほど前には、〈現政府には国防担任能力がない〉ことが、天下にバレそうになりました。
 多大な国税の配分権力を揮っていた徳川幕府の中枢閣僚が、その無能・無責任を問われることになったなら、せっかく苦労して得た地位から彼は離れねばならなくなるやもしれませんでした。そんな転帰をひたすら厭うたあまり、有力幕閣は、「蛮社の獄」や「安政の大獄」を指揮し、非道な《行政テロ》を連発しました。
 かつて1260年にモンゴルの侵略を早々と予言した日蓮は、反政府的なインテリでしたけども、反国家主義者ではありませんでした。それどころか彼は熱烈な愛国者であり、すくなくとも外国に通牒して日本の安全を売るようなタマではないことが明かであったればこそ、江戸幕府よりもずっと人権を軽視していた鎌倉幕府でも、その才学と志操を重視して佐渡ヶ島へ3年ほど遠ざけるだけにしたものです。
 なのに鎌倉時代から560年後の為政者たちは、〈害意ある外国軍隊が、わが国の領域にもう迫ってきている〉という、いつまでも匿し通せるわけがない安全情報からして、すこしでも長くその周知を防遏しようと欲した。そのためには、最先端の知識人の抹殺すらも厭いませんでした。それでも外国艦隊は次々と沿岸に来航しますので、やがて人々は時の政府の器量の小ささを了知することとなり、重大課題を先送りするだけの頼りない江戸幕府そのものが退場させられたのでした。明治維新では《真実》が勝利したと申せましょう。
☆日本の「公務員」と「マスコミ」は親類か?
 わたしはこの1月に『大日本国防史』という通史をまとめまして、今は、次なる作――明治元年から2年まで続いた「箱館戦争」(幕末戊辰戦争の最終局面)を、日めくり式に再現し再検討する書籍(タイトル未定)――に、取り組んでいるさいちゅうです。
 古代から近代までの、あまたの日本の内戦につきまして、わたしが何度も考えさせられますのが、各陣営を動かしていたプレイヤーたちの、不思議なまでの《国家公務員マインド》です。
 「オレは無人島を探して開拓し、そこで中央政府とは関係なく、自由気儘に暮らすぜ!」――といった、リバータリアン的な選択は、日本史上のどんな冒険英雄たちにも、不可能だったように見える。
 いったい、何故なんでしょう?
 そんなすてきな土地がもし発見され、開発されたとしましょう。すぐに中央権力はそこに目をつけ、支配力を及ぼそうとし、さいごには、日本国の税源として取り込むことに成功するからです。
 コンパクトに程良くまとまった群島国家の、それが地理的な特質だった。ジェームズ・ミッチェナーの『南太平洋物語』に出てくるフランス人たちのような、逃避的・孤立的な活計の恒久維持は、日本列島内のどんな僻陬でも、不可能な夢でした。
 過去の冒険英雄たちには、そうなることが既往からも予見し得たんでしょう。なればこそ、彼らはむしろ、中央政府に食い込んで操縦し利用を図り、国家の確かな枠組みを後ろ盾にして、永代継続する合法的な特権を謳歌せんものと、狡智を傾けたのです。
 このマインドは、現代の日本のメジャー・マスコミや有力地方紙の、反日的――そもそも「反政府」と「反国家」とでは霄壤の差があるはずなんですけど、彼らの頭の中でのみ、これはしばしば一緒――なレトリックの謎を理解するときの、鍵にもなるのではなかろうかと、わたしは疑います。
 今より1000年以上むかしです。日本人は、ただ人々の平均よりも頭が良いというだけの資格では、国庫の分配を大きく左右できる権力者になることは望めませんでした。巨大な富・国税の支配者となるためには、天皇家につながる門閥が、エントリー資格として不可欠でした。
 中央の権門との血のつながりが稀薄でも、おのれの才覚を武器に、都から遠く離れた田舎で、住民等を手下に働かせて土地を開墾し、その収入で集団的に豪強になる道は、ありました。が、豊かになった土地と人民を狙ってくる周辺の開発地主たちとは、武力で抗争して自衛する必要がありますし、中央からは国税を上納せよという圧力がかかります。よほど有能な子孫が立て続けに生まれ育ってくれぬ限りは、せっかくの事業財産を地方で永代遺贈できるかどうかは危ぶまれたものです。
 門地・閨閥と無関係な生い立ちでも、庶民の平均より一寸頭がよくて、身体も頑健という、そんな在野の人材を、中央政府が、国税の受給者たる〈文官公務員〉として採用し、かなりの地位までは実力次第に昇進させ活躍させてやろうというコースの、最初に制度的に用意された機関こそ、東大寺ほかの、奈良の仏教寺院に他なりますまい。
 現代の日本の報道関係者や、ニュース解説・論説記事の作り手も、どこか、これら古代の中級国家公務員であった官僧や、その暮らしぶりにあこがれた後代の「私度僧」たちと、風貌が重なって見えます。
 彼らは、建て前の上で〈私益を忘れよ〉との本義の縛りがあるために、都から遠い地方豪族たちのように大々的に蓄財することこそ叶いませんでしたが、諸税を納めなくて可くて給与(現物)を貰うのですから、一人当たりの生涯フィナンシャルや生活の快適性の上で、じゅうぶん恵まれた特権を制度から引き出していたでしょう。
 〈みずから長者に成り上がろう〉との覇気は無いけれども、身体に苦役は負わず、庶民を上から見下しつつ、リスクの無い、健康で文化的な暮らしを、一代かぎりであれば、満喫できたわけです。そして、ちょっと元気のある僧兵は、近年の公務員労組のように、政府や首長たちを困らせ、じぶんたちの処遇の改悪にはあくまで抵抗する方法にも練達しました。また、〈聖徳太子の予言はこうだった〉などと、凝ったテキストを捏造して、社会が必要以上に仏僧を尊敬するよう世論工作を励んだ者たちもいました。
 ただ、いくら無学な雑民にも、「偽善」の匂いは、察することができました。そもそも偽善が工夫されるということは、裏を返せば「善」や「真」に常に世俗的な価値があるということです。イデアとしての善に縛られている僧徒たちが天下を奪い取ることは、このために、難しかったのでしょう。
 開発地主たる豪族や戦国大名には、偽善がありませんでした。もともと葦原しかなかった日本列島をここまで豊かにしてくれたのは、僧侶でも公務員でもない、この人たちでしょう。
 開発地主は、大勢の手下の面倒を見なければなりません。特定の関係者のために、自己の自由時間を捧げ、リスクも冒す……。その自発的拘束の蓄積が過去に十分長く、しかも今後も続くと見込まれれば、関係者は特段の恩義を感ずるでしょう。互いに「偽善」抜きならば、この感情は強烈です。「偽善」を纏わねばならぬマスコミ出身者には、なかなかこんなマネはできません。
 奈良時代の官僧の末裔たる近代日本のジャーナリストの中では、石橋湛山ただ一人が、位人臣を極めています。彼の直前、緒方竹虎(早大から東京朝日新聞へ入り、その主筆を経て、戦中の小磯内閣に初入閣。第五次吉田内閣で副総理格の国務大臣に就き、健康体だったならば吉田の次を狙えたかも、といわれた)が、道を啓いておいてくれました。石橋も、早大を出て新聞記者となり、雑誌の『東洋経済新報』に転じて戦中の自由言論の砦を保ち、さらに第一次吉田内閣での蔵相抜擢等を経てのちに内閣総理大臣になったのでしたが、組閣後2か月ほどにして脳血管症で倒れてしまいました。石橋は、反日主義でも売国主義でもなかったでしょうが、心情的(つまり勉強の足らぬ)自由主義者であり、朝鮮戦争後、ソ共・中共からの対日間接侵略の脅威を誰もが無視し得なかった時期に、反米的な姿勢を敢えて好んで示しました。そこを閣内の岸信介から論難されていて、ストレスが高じていたことは間違いないでしょう。
 その後、日本では、政治部記者が政党派閥の領袖の担当となり、いつしかその手下のような関係になって、大将の引きで陣笠議員へ転ずるというコースも世間から許認されてはいるのですけれども、石橋のように、あるいは戦前イタリアのムソリーニのように、国家指導部筆頭の地位を掴むにまで至った元新聞記者は、現われてはいません。
☆地方新聞はなぜ「反日」の論説を好むようになったか?
 ほどよくまとまった群島である日本では、内戦も〈分離独立〉闘争には向かわず、〈国税をオレによこせ〉闘争に、収斂しがちです。今も、むかしも、です。
 中央豪族も地方豪族も、平氏も源氏も、歴代幕府も歴代反幕府勢力も、めがけたところは、国税を、理念的な国税とはさせずに、己が勝手な支配下に囲い込みたいがための、できるだけ好都合な請求権もしくは請求拒否権の仕組みでした。
 この仕組みからマスコミなどが甘い汁を吸い上げることができる秘密は、わたしたちの人間社会が、あくまで「分業」で成り立っているところにあります。
 他の誰かに財を生[な]させたり、あるいは〈安居楽業〉の境涯を与えた人は、その受益者からみたら偉人・恩人であり、大切に思われて、そうした感謝の総体が大規模となれば、今日の世界でしたなら、ついには政党党首ですとか内閣総理大臣とか、さもなくばそうした看板を指名のできる「キングメーカー」になってくれと、周囲から担がれるに至るかもしれません。
 そこまで行かずとも、大きな見返りを半公然と受納できる、何か都合の良いポジションは与えられますでしょう。
 たとえば、現代の地方の企業や個人は、法人税や所得税・相続税を国税として徴集されています。その一方で、国は、道府県以下の地方公共団体に対して「地方交付税交付金」を分配していますよね。
 この交付金のパイの総体は有限(集められた国税の32%)であり、それを全国の自治体(東京都等を除く)で分け捕り競争しなければなりません。
 県でしたら沖縄が最も著しかろうと想像いたしますが、地元から集められた国税の額以上の交付金を国から補給してもらっているような自治体の幹部や職員や利権関係者の思いとしては、その数十億とか数千億とかの交付金について、頭の中で道義的に強力に正当化できていないと、やっていけないでしょう。
 また、その正当化が、じぶんたちの生涯所得の加増にもつながってくれる。民間よりも格別に恵まれた福利がすでに保証されているくせに、地方の公務員の労組などが堂々と胸を張って、おいしすぎる雑手当の廃止に反対を唱えたり、人事院からのボーナス削減勧告に反発したりもできます。地方が中央に対して居丈高に福利要求を主張するのにも、アンチ「中央政府」的な新聞論調(共同通信社からの配信論説が、あまねく利用されていますが)は、大いに手を貸してきたと言えます。これも、分業です。
 一方、メジャーなマスコミは、国税の徴収と配分を左右できる公人の地位をさらに強化してやったり、その逆に、高い地位にある特定の公人の評判を悪くして、彼と彼の郎党をごっそりと不遇の淵に沈淪せしめ、国税の流れに浴する人々を入れ替えてしまうほどの影響力も行使できるでしょう。
 そうなると新聞社は、何か記事を載せることによってではなく、逆に、肝腎のことは「直書」しないことによって、善悪を社会の中で朦朧化せしめ、政治家や役人や特権金満団体に貸しをつくることも可能になります。
☆表裏ある〈反体制メディア〉を見透かすウィキリークス
 海上保安庁の神戸保安部巡視艇主任航海士が、シナ漁船船長の犯意を立証できる保存動画を、内閣官房長官の意向には逆らって社会に公開しようと行動を起こしたとき、彼は遅ればせながら、日本の既存のメジャー・マスコミが、事件をニュースにすることによってではなく、事件の一部または全部をニュースにしないことによってむしろ商売しているのではないか、と、強く疑ったことでしょう。
 かの《ウィキリークス》の幹部たちも、日本の既存マスコミの体質……というかビジネス・モデルを、洞察できているような気がします。
 米国の在外公館からワシントンの国務省に宛てた膨大な数の外交電文のコピーという漏洩情報を、人々の前に公示してやろうと思った、ジュリアン・アサンジ氏率いる〈脱・国家〉志向の組織《ウィキリークス》は、英国の『ガーディアン』紙、ドイツの『シュピーゲル』誌、米国の『ニューヨークタイムズ』紙、フランスの『ルモンド』紙、スペインの『エルパイス』紙、ノルウェーの『アフテンポステン』紙など、各国で定評ある報道機関を選び、戦略的にそのコピーを渡しているようです。……が、部数(すなわち大衆性)の上ではそれらに負けぬ巨大メディアであると誇らしげな日本の各新聞社は、興味深いことに、一社も相手にされておりません。
 この違いのよってきたるところは、彼我のマスコミの「前史」にあろうかと思います。
 西欧では、近代思想が識字インテリの間にひろまったあとから、近代新聞が簇生しています。日本はその逆です。明治維新とほぼ同時に、近代的新聞が模倣的に導入され始めたのに続いて、その新聞によって西洋の近代思想が講授・広宣され、併行して、国内で議会制民主主義などが論議されたのです。この落差は、いまだに埋まっていません。だから日本でのみ、大新聞や「公共放送」が、近隣の反近代国家の間接侵略の手先になっていたり、特定の役人グループと組んで国民の自由を減らす統制政策を応援しながら、組織として恬然としていられるのです。地方新聞も、中央への提言力が乏しいことを無理してごまかそうとすれば、上滑りな国政非難で読者の前に格好をつけるだけでもよしとされるのです。
 現代および将来の人民の福祉について、過去の政治哲学の蓄積の上に考える訓練のできていた新聞記者や新聞編集者は、明治元年の日本には一人もいませんでした。おかげで日本の新聞執筆者たちは、横文字を解するというだけでいきなり先生面[づら]を提[さ]げて読者に説教ができる体裁を獲得しました。彼らは内心では、人民の幸福を考えるのではなくて、「誰の味方をしてじぶんが得をするか」という関心に集中することが、可能でした。それは、世襲公務員だった武士の処世道のそのままの延長だともいえます。じぶんの味方を盛り上げ、とりあえず敵を叩くために、西洋の政治術語が利用されました。それでは《真実》が犠牲になってしまいますけれども、その被害について、メディア関係者の誰も、怪しまなかった。この調子は敗戦後も改められるどころか「マック偽憲法」によって強化すらされています。たとえば1997年にもなって、〈防衛庁の防衛省への昇格はよくない〉などという売国論説を、少なからぬ新聞が堂々と印刷していることが、確かめられるでしょう。
 幕府通訳として渡欧し、英仏の新聞社説というものをつぶさに読んで感心し、戊辰戦争さなかの慶應4年には江戸で『江湖新聞』を発行して、日本の新聞人の第一号とも称される旧幕臣の福地源一郎は、みずから彰義隊などに加入しない代償行為のようにして、数ヶ月間、論筆で新政府を批難攻撃しました。その『江湖新聞』が発禁になると、福地は士籍を脱してしまって、しばらく英語塾講師で生計を営んでいましたが、何年かして、こんどは新政府が彼を《準公務員》格で厚遇してくれると分かると、『東京日日[にちにち]新聞』を舞台に、喜んで政府に全面協力するのです。この福地の中に、日本の新聞人のモデルが見えるのではないでしょうか。
 無意識裡の人民度外視主義に、さらに磨きがかけられましたのが、第二次大戦後の〈学習〉です。まず占領軍によって同盟通信社を含めてあらゆる事実の発信が禁圧され、「マック偽憲法」を占領軍から非理非法に押し付けられたあとに、メディア検閲が恩恵的に解除されるという段取りで、戦後日本では近代政治哲学の議論そのものがアンタッチャブルにされました。戦前の日本は「憲法精神の前に新聞が有った」珍しい国でしたが、戦後の日本は「偽憲法のあとから明治式の新聞の復活が許された」、ねじけた空間なのです。
☆大不況からの出口をマスコミが閉ざしてしまう
 公務員は、税金を使ったり分けたりすることは得意ですけど、その税収源をのびやかに育てることに関しては、概して智恵は廻りません。逆に商工業者の自由な創意を抑圧し、日本経済を牽引してくれているはずの人々の旺盛な活動を、余計な統制(規制や裁量行政)で邪魔をして、わざわざGDPを引き下げさせているとしか思えないところすらあります。そう、日本では、公務員が公務員のための政策を考え、実施するのです。明治いらい、また「マック偽憲法」いらい、近代政治哲学の根本からの討議はタブーであり続けているために、公務員の身内が幸せであるならば、行政が非効率で人民が不幸となっても、良心は傷まない――という公務員たちが、いつのまにか優勢になろうとします。
 現代日本のマスコミの論説も、税源論(増税論)や分配論は熱心に首を突っ込んで具体的ですが、いざ「成長戦略」「生産性向上ロードマップ」を拝聴しようかと思いますと、ガックリとトーンダウンするでしょう。政党よりもマシなのは、票の買収を狙った「補償バラマキ」を叫ばないことだけで、分業から成り立っているこの日本国内の抵抗勢力をいかにせば欲得ずくに納得させ、健全経済と安全保障を維持し得るのかのビジョンは、語られない。それでは、改革より増税を急ぎたい財務省の広報係と、大差がありますまい。
 人々の幸せはどうすれば増えるのかという近代政治哲学を根本から考えたことがなく、大正期以降の「社会主義」や米軍占領下の「民主主義」をてっとり早く吸収することで、その勉強は済ませたつもりになっているがために、徴税して分配(バラマキ)するだけでも、国家国民経済が成長(または効率化)するだろうと空想するのでしょう。畢竟は〈公務員の親戚〉です。なるほど、わが国では、官庁の公式発表が、『官報』ならぬ、商業メディアの見出しの筆頭に日々載ることが、少しも不自然なことではないのだとも察せられる。
 日本の目下の不況の原因は、公務員の専恣をチェックすべきマスコミが、輪をかけて公務員寄りの発想しかできぬことにあるでしょう。
 この根も歴史的に深いことを確認しましょう。幕末の「徳川脱走軍」、つまり、榎本武揚や大鳥圭介ら旧幕臣と、奥羽越の旧陪臣、その他よりなっていた、蝦夷上陸組の事蹟をふりかえっても、それは痛感できるはずです。
 彼ら徳川脱走軍は、蝦夷地(今の北海道)に「独立政権」を樹立しようとしたのだ、と言われます。
 彼らの幹部のうち幾人もが、欧文で日記が書き綴れたり、三角関数を計算できるほどの洋学通でした。体力もあり、戦場往来の闘争精神も盛んで、蒸気船による航海の最新知識も兼ね備えた、若々しい武士団の頭目たちが、文字通り、多士済々に揃っていたのでしたけれども、そんな彼らが、北海道住民のためには何一つ、善いことはしていません。
 フロンティア地方の行政権力をとつぜん与えられても、ただ税金を取り立てて自分たちの飲み食い代に使ってしまうことしか考えつけなかった、ありがたくもない〈寄生虫〉たちだったんです。
 明治維新によって、本土で公務員(仕官している武士は全員、公務員でした)の業務と安定収入を失なうことになった彼らは、北海道に乗り込み、みずからを勝手に〈世襲の公務員〉の地位に据えて、住民の上に君臨しようとしたのでした。「経済開発」も、できればしたいとは思っていましたけれども、方法をロクに研究しておらず、すぐに、それは諦められました。案件毎に、特定商人や特定外国人に丸投げするという伝統の手法が選ばれています。
 代わりに彼らが、手馴れた調子で着々と実行したのは、倉庫を差し押さえ、商人には上納金を命じ、通行人からは諸税を取り立て、外国船の入港税収入をあてにし、砲台の土工には付近住民を無闇に徴用し、農家や山小屋は夜間の照明代わりに次々と焼き立ててしまい、人々を私的な法度で統制して、その生活と経済活動を不自由にすることのみでした。
 一騒動が終わってみれば、人民には迷惑をかけたのみ、日本国にも損害を与えたのみ……という事実は、ちょっと調べれば歴然としているにもかかわらず、彼ら脱走軍は、歴史小説の上ではむしろヒーロー扱いが目立つでしょう。しかも、それを批評家の大半が怪しみません。
 古代以来、日本のインテリには、病的なほど公務員指向が強いのです。それがいともかんたんに公務員独善主義に直結する。共産主義も軍国主義も根は同じでした。人々が効率的に稼ぐことには無頓着な、「後は野となれ山となれ」式の国税バラマキ行政には、誰もがあこがれを感じてならないのでしょう。
 「満州国」は、そんな公務員たちの夢を地上に叶えた楽園だったようです。東京政府から歳入が補填されるので、現地の役人は税収について何も心配する必要がなく、毎年、使うことばかり考えていればよいという、まさしくこの世の官僚天国だったのです。関係した官吏たちが満州国を懐かしみ、敗戦後も夢に見るというのも尤もでしょう。
☆〈一石 三~四鳥〉の成長戦略に地方紙は智嚢を絞れ
 わが国の人口が、個人の自由の増進にともなって減少モードに転じ、その年齢構成は必然的に高齢層に厚くなっているために、政府によるイージーな景気刺激策(無駄なローテク事業へのバラ撒き)は、効くはずもなくなりました(各段階で役人とそのOBの家計に回収され、乗数作用は即死)。
 しかもまた、日本の道路交通システムが、自動車も法規も、まるっきり老人向けには考えられていませんために、人々は老後のフィナンシャル・プランについて不安でならず、〈籠城〉準備のため、いよいよもって「消費」など考えるわけにはいかなくなってしまっています。
 景気が悪く、その回復の見通しも予感されなければ、生きていても面白くない不幸な人が増え、防衛費の原資たるべき税収も減ります。すると、近隣の外敵が調子に乗ってきます。まぎれもない人民の不幸のスパイラルでしょう。
 他方で、日本の財政を健常化させようと思えば、老人向けの社会保障費が国税の三分の一を喰ってしまうような予算からは、できるだけ遠ざからねばなりません。けれども新聞を買ってくれているのは老人世帯が多いのです。新聞社と、新聞社から資本注入されているテレビ/ラジオは、口にガムテープを貼られた状態ではないでしょうか。
 若い有権者よりも老人の有権者が圧倒的に数の上で優勢ならば、選挙も財政も、世代間不平等の助長に向かうのはデモクラシーの勢いです。いまこそ、選挙で投票ができる日本国民の年齢を、満16歳に引き下げるべきときかもしれません。それによって世代間の「バランス・オブ・パワー」が、いくぶん回復され、カタストロフは回避されるでしょう。社会は分業によって維持されています。16歳にもなれば、社会を破壊することができるのです。ならば反対に、彼らは投票権を行使して、「国民総背番号制を導入し、消費税ではなく所得税と資産税をこそ強化しよう」と要求する資格も持つはずです。(余談ですが、日教組等による反日教育をやめさせるのにも、参政年齢の引き下げが有効です。高校でその地位を利用して生徒の投票行動を誘導しようとした教員は、選挙法違反で逮捕されるだろうからです。)
 国家も社会も分業で維持される以上は、国民の特定の層(たとえば老人)だけに損をさせる政策が、議会を通過したり役人や労組から協賛されることだってあり得ません。国民のどの層も損をしない、なかんずく大票田の老人層が納得できる、うまい財政健全化案を考えるしかないのです。しかもそれが同時に成長戦略・生産性向上インセンティヴでもなければならない。
 長い話を短く括れば、老人社会保障費を減らして景気も浮揚させ経済も効率化させて長期的に税収も増やす一石四鳥の手はいくつもあります。具体的なことは過去の拙著、たとえば『「自衛隊」無人化計画――あんしん・救国のミリタリー財政出動』『「グリーン・ミリテク」が日本を生き返らせる!』などをご覧下さい。中年が老後について、老人が人生の終末期について、金銭的な不安にかられなくても済むような社会法制は、持続的なものとして合理的に考案可能です。ところが、その採用の検討を、役人の無気力と新聞の反日主義がコラボして妨げているのです。いまの不況は、官製不況でありまたマスコミ世論製不況でもあるでしょう。
 わが国は、たとえば医療用ロボット分野でもいつのまにか世界の後進国になってしまっています。これもロクに報道されざるおそろしい事実のひとつでしょう。そうなっている理由につきましては、残念ですがわたしは業界のインサイダーじゃありませんので、あれこれ想像するしかありません。
 1980年代に、日本の製造工場のラインで使う組み立て加工用ロボットが、顕著に発展して普及しました。これは、旧通産省(いま経産省)の官僚が何かをしたからではなく、逆に、役人が何も邪魔をしなかったおかげが大でしょう。アセンブリー用腕形ロボットは、1950年代の米国SF小説が空想で描き、それをジェネラルモーターズ社で1961年に実現したのが嚆矢でした。日本のメーカーも最初は米国製ロボットの模倣からスタートしました。しかし米国では、自動車会社の組合が強かったり、その経営者に長期投資が許されなかったりと、工場用ロボットの改善や普及を遅らせる条件が多かった。日本にはそれが少なかったために、ロボット市場が急速に創成され、ロボットが雇用と税収を増やしてくれたのです。察するに、医療用ロボットや介護用ロボットでは、この逆の現象が起きているのです。
 オペレーターがつきっきりで操作する「手の延長の道具」としての医療用/介護用ロボットが、もっと洗練されてわが国の隅々まで普及すれば、国や自治体の医療関連負担は軽減され、税金や公的保険料の必要量も減じ、日本の経済成長にとっての限りない好循環が生まれるでしょう。これはホンの一端です(詳しくは過去の拙著をお読みください)。
 日清戦争の前まで、日本陸軍の歩兵銃の開発を担任していた村田経芳(つねよし/つねふさ)は、少将で退役した後の活躍が、また光り輝いています。村田は若いとき、外国語の学習が不得意でしたので薩摩人ながら公費留学をさせてもらえませんでした。つまり「準エリート」でしたが、他の外国通の秀才官僚や軍人幕僚たちのように、世の中を不自由にすることでじぶんの利益を増やそうと企むところがなく、純粋に人々の幸福を増やす事業を老後に続けたアイディア・マンだったのです。
 村田は、対清戦争を前にして、大量解雇を迫られていた古巣の陸軍工廠のために、〈廃品の軍用小銃の機関部を再利用した民間用猟銃を工廠で受注生産して、廉価に市販してはどうか〉と提案。みずから必要な設計を買って出て、それを実現しました。秋田のマタギがなんと1950年代までも愛用していた猟用散弾銃の「村田銃」は、退役少将である村田の創意工夫によって、このようにして市場に送り出されたものだったのです。国家もそれで得をし、工廠も熟練職工を抱え続けることができ、軍も悦び、民間のプロ/アマのハンターたちもその価格の安さを歓迎しました。村田は、関係するすべての人々を、幸せにしました。
 政治家や役人は、人々を不自由にする余計な規制ばかり考え出すのではなく、どうしたら村田のような有益な創意がもっと世の中に行なわれるようになるか、日々、三省すべきでしょう。地方新聞には、その着眼があるでしょうか? むしろ政治家や役人の選択の幅を狭める誘導ばかりしているのではないでしょうか。
 たとえば夕張市は、海水冷却を必要としない新型原発を誘致することで、おなじ北海道にある泊村のような「不交付団体」(地元での税収が巨額であるため国から地方交付税を受ける必要がない)として、一躍、蘇ることができるのではありませんか? これから中東動乱で原油が高騰すれば、いちばん生活に打撃を受けて苦しまねばならないのは、北海道の住民ですよね。地元の新聞が、ほんとうに地元の人々の幸せに貢献しているのかどうか、これから、人々が判定するでしょう。
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「読書余論」 2011年3月25日配信号 の 内容予告

▼竹村忠雄『戦争経済学入門』S18-1
▼沖中恒幸『インフレーションの常識』S15-10
 名著。戦前にも正確な情報は大衆に提供されていた。
▼熊平源蔵『積極的に消費せよ』S7-7
 米澤藩と同じ財政改善は日本国としては無理。その理由とは?
▼斎藤眞『アメリカ革命史研究 自由と統合』1992-6
 米軍と州兵の関係を知るためには必読の基礎資料。
▼椎川五郎ed.、参本tr.『クロパトキン回想録 其一~其三』M43-6偕行社pub.
 評価の低いクロパトが如何にインテリだったかが分かる。
▼相馬基『殊勲の荒鷲――少年飛行兵物語』S19-6
▼三省堂出版部ed.『祖国のために』S16-11
 9人の作家によるオムニバス。全部書き下ろしである。
▼防研史料 陸軍技術本部調査班『満州事変ニ於ケル兵器ニ関スル報告ノ概要』S7-6
 自軍の兵器の欠陥をあますところなく指摘しまくり。
▼乃木神社社務所ed.『乃木希典全集 上』H6
 H6-5末げんざい入手可能な日記と文書をぜんぶ収めてある。当時の肖像写真の意味が分かる。
 18年式村田銃の制定には相当の審査があり、外国銃に決まる可能性もあったことが推知できる。
▼和辻哲郎『日本の臣道 アメリカの国民性』S19
 ベンジャミン・フランクリンが創始した「新聞」ジャーナリズムが米国文化を造っている。
▼滝川政次郎『日本法制史の特色』S23
▼東京大学出版会pub.『日本歴史講座 第八巻 日本史学史』1957
▼大久保利謙『明治憲法の出来るまで』S31
 兵頭いわく。米国新聞の創始者ベンジャミン・フランクリンはすでに西洋的教養人。対して、福地源一郎の『東京日日新聞』と野党的新聞の論争時代は、近代憲法精神の何たるかを誰もしかと把握していない段階でなされていた。この顛倒が、日本のジャーナリズムを永遠の未熟児童にする。
▼『明治文学全集 14 田口鼎軒集』S52
▼八代国治『吾妻鏡の研究』S16、原大2
▼森本二泉『手技 錬成 防空戦と兵器の作り方』S17-1
▼福永恭助『僕の兵器學』S16-7
▼小川菊松ed.『最新化学工業大系 第6巻』S12-10
 激ヤバの内容。どのくらいヤバイかは、配信されてのお楽しみ……。
▼『銃砲正價報告書』年不明、金丸謙次郎pub.、非売品
 商品カタログである。かなまる氏は横浜市本町2-21の銃砲店主。
▼横浜市金丸銃砲店『銃砲正価報告書(明治30年10月改正)』M30-10
▼渡辺宗吉ed.、pub.『銃砲正價報告書』M32-10-15発行
 13年式歩兵銃の機関部を流用した村田式猟銃について知りたくば、この資料が重宝です。
▼グンテル・ブリッショー著、若林&広政tr.『青島から飛出して』大7-1
▼天野隆雄『アメリカ合衆国中立の研究』S40
 著者の関心は、潜水艦にあるようだ。
▼森武夫『米国戦時計画経済論』S17-8
 著者は陸軍二等主計。1925~27に在米した。
▼高石末吉『覚書終戦財政始末〈第3巻〉』S45
 S12-7以前と以後の物価は、もう別物なのだ。
▼田中鐵軒『薩藩戦史考証』大2、皆兵社pub.
 合伝流の始祖について。村田経芳は熱心にこれを学んでいた。
▼田中惣五郎『近代軍制の創始者 大村益次郎』S13
▼所荘吉「ナポレオン戦争の余波と幕末の日本」(年報『洋学 4』1996・所収)
 日本では砲術(タマを命中させること)と用兵術が分かれてしまい、軍制改革はちっとも進まなかった。
▼白柳秀湖『明治大正國民史』明治初編~第3巻 S11
 英国は外交難題のおかげで2回、大改革した。
 病根をあきらかにしつつ反体制と呼ばれぬ方法は、自国の昔を語るに限る。
▼マイクロ資料『新聞雑誌』第六十八号(明治五年壬申十一月)
 国際スポーツ競技会ではじめて日本人が優勝し日の丸を掲揚した事実。
▼十文字 信介『銃猟新書』M24~M25
 この本の前半の摘録メモが見つからぬ。とりあえず後半だけ転載。村田連発銃の開発経緯を知るための一級資料。
▼十文字 信介『銃猟新書 続篇』M25-11
 この本には村田は参与していない。
▼山本三生ed.『ゲーテ全集 第十九巻』S11-8
 小牧健夫訳の「マインツの攻囲」「滞仏陣中記録」を収める。この知識があれば、箱館戦争の防禦はより靭強であったろう。
▼陸大教官・歩兵中佐・金谷範三・口述『普墺戦史講義録』M44〔?〕
 金谷が特定の欧州戦史には通暁していたことが、遺憾なく分かる。
▼『元帥公爵大山巌』S10
 出てくる数字をよく読めば、大山の商才と、洋銃を横浜で安く調達できたこととは、じつは関係がないことが、逆に分かる。
▼深尾芳弘『私は騎兵だった』S50
 静粛夜襲では「シューッ」と言うこと。
▼平尾信子『黒船前夜の出会い――捕鯨船長クーパーの来航』1994
 当時の米国捕鯨船のシフトが具体的によくわかる。東海岸の母港に戻るまでに3年も太平洋でうろつくということもあった。帆船だから、可能だったのだ。
▼佐藤昌介・校注『崋山・長英論集』1978イワブン
 「戊戌[ぼじゅつ]夢物語 付 渡辺崋山朱注」を収載。
▼佐藤昌介『洋学史研究序説』S39
 徂徠の「けん録」の「けん」の字が特殊文字としてしかワープロ上で出せないのはじつに困ったものだ。
▼陸軍省『兵器沿革史 第一輯』大2
 vol.1は小銃と火砲である。大砲のすばらしい写真は、たいてい、この資料にあるのである。
▼防研史料 砲兵監部ed.『砲兵学講本 第二版 巻ノ一』
 発行年が不明だが、メチャ古い。
 13年式村田銃の撃針バネが図入りで分かる。
▼防研史料 小森田親玄『比島航空に関する一私見』S19-1-1
 クラークの滑走路は8箇所に散開造成して「基地群」とする構想があった。
▼兒島富雄『運動大講座 射撃』
 著者は、日本帝国小銃射的協会の者。
▼瀧本誠一ed.『日本経済叢書 巻十三』大4・所収「鐵炮格式僉議條目」
 強薬で発射したときに尻餅をつく射手があらわれる境い目が6匁だった。だからゲベール銃には台尻があるのだと理解ができる。
▼ジー・ローラン著、佐藤市郎tr.『戦略研究序論』S4、水交社、原1927
▼西田茂次ed.『言行彙鑒 第二編 第一套』M21-11
 成田仏教図書館蔵だが、第一編は無し。倶利伽羅峠以外のすべての東西の火牛計を転載紹介している。
▼大谷孝太郎『支那国民性と経済精神』S18-1
▼永尾幹三郎ed.『兵器技術教育百年史』S47、工華会pub.
 史料を提供した有坂純一は、成章の孫。
▼櫻井忠温ed.『国防大事典』S7原、S53repr.
▼濱部源二郎『農工用小型ヂーゼル機関』S12-11
 焼玉エンジンの長所と短所。なぜ漁船に好都合だったかが分かる。
▼内田秀雄『日本の宗教的風土と国土観』S46
▼船尾栄太郎『欧米新聞界の秘事』大11-10
▼堀河美哉『英国の経済的勢力』大5-12
 木造船時代には木材資源豊富な米国が英国を圧倒しそうであった。ところが鉄船時代になるや、鉄と石炭が隣接して採れた英国が米国を圧倒する。だから1860年代の米国は英国に追いつくべく必死だったのだ。
▼平木貫『朝鮮社会文化史研究』S62
 1886まで世襲の奴隷身分があったこと。
▼薩摩文化月刊誌『さんざし』10月号所収・池田兵右衛門「村田銃の発明者――村田経芳将軍と合伝流の兵法」
▼栗原隆一『幕末諸隊始末』S47
▼栗原隆一『幕末海戦物語』S46
▼(財)文明協会ed.、pub.『明治戊辰』S3
▼『横浜開港資料館紀要 第14号』H8-3pub.所収・中武香奈美「幕末の横浜駐屯フランス陸軍部隊」
 横浜駐留フランス軍の正体は、アフリカの犯罪者を集めた懲治隊だった。
▼農商務省『狩猟図説』M25
 槍で熊を狩る方法とか、とにかくネタの宝庫。
▼南日本新聞社ed.『郷土人 中』S44repr.、原M27-12pub.
 これも村田経芳についての資料。
▼『国乃礎 後編 上編』
 村田経芳についての基礎資料。
 ◆  ◆  ◆
 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)
 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。
 大きな図書館に毎日通えない人も、最低費用で、過去の軍事知識のマニアックな勘所に触れることが可能です。
 また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。
 「読書余論」は、毎月25日に「武道通信」から最新号が配信されます。1号分の購読料は500円です。
 バックナンバーも1号分が500円で、1号分のみでも講読ができます。
 過去のコンテンツは、配信元の「武道通信」のウェブサイト
http://www.budotusin.net/yoron.html
 で、タイトルが確認できます。
 ウェブサイトでわからない詳細なお問い合わせは、(有)杉山穎男事務所
sugiyama@budotusin.net
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NLCトークライブ(2/25)の二次会参加ご希望の方へ

 すいません。青木直人さんのウェブの申し込みコーナーがまだできてはいませんでした。2/5くらいに設けられる、とうかがっております。
 あらためて、それ以降に、揮ってお申し込みください。
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「読書余論」 2011年2月25日配信号 の 内容予告

▼防研史料 『松永壽雄 史料』
 『石見』実験の詳細など。
▼黒野耐『参謀本部と陸軍大学校』2004-3
 忠告。初学者の人は、本書は買って所持する価値があります。
▼松浦政泰ed.『英文独習 西洋故事物語』大1増補、英語研究社pub.
 ノストラダムスがここに出てくる。
▼ジョン・マククレイ著、堀秀彦tr.『近代精神』S15-5初版、S21再版
 脳内に高度の自由を与えてくれるのが教養である。
▼『乃木大将 今村均大将回想録 別冊 青春篇(下)』S36-5
 ※自由アジア社の今村均回想録は、本編が1巻~4巻と、別冊青春篇(上)(中)(下)の総計7冊から成る。本書はその最終巻にあたり、陸大の「乃木観=長州観」を知る手掛かりになる。
▼寿里[すさと]順平『中米=干渉と分断の軌跡』1991
 U.S.という名じたい、ラ米をも併合する意図を秘めているという。
▼『地域からの世界史 第16巻 ラテンアメリカ』1992
▼基地問題調査委員会『軍事基地の実態と分析』1954-8
▼矢崎 弾『近代自我の日本的形成』S18-7
▼火野葦平『小説 陸軍』原書房、S41
 小倉人であり、福岡弁を理解できる著者が、西南戦争の生き残りから直接取材した豆知識部分は、ウルトラ貴重という他ない。
▼唐木順三『日本の心』S48
▼猪瀬直樹『ミカドの肖像 上』新潮文庫、H4
 原宿の専用ホームの意味。
▼諸井耕二「石樵 乃木希典の漢詩(一)(二)(五)」(『宇部国文研究』所収)
 『乃木日記』はじつは全部揃っているのではないかとの合理的疑惑。
▼庄司武夫『火砲の発達』S18-12
▼アンデル・コッター著、今泉嘉一郎tr.『米国鉄鋼「コーポレーション」の組織及成立史』大9-10
▼金子甫[はじめ]『資本主義と共産主義』H1
▼伊東忠太『道教思想と支那建築芸術』S15-6
▼岸柳荘『相場とは何? 兜町物語』大3-12
▼鈴木宣義『水の力と機械』S18-2
▼奥泉欽次郎『自動自転車』原大5、repr.大10
▼高比良英雄『断食研究』S5-2岩波刊
 研究しすぎて餓死してしまった医博の原稿。もうアホかと。
▼張明澄『誤訳・愚訳』S42
 漢文の和訳についてです。
▼山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』原S10、S28repr.
▼日経・運動部ed.『敗因の研究』1999
▼大野誠法『旭化成の運動部』2000
 名門校の十番目の選手は、負け犬。のびる余地などなく、スカウトしてはならない。
▼チック・ヤング著『ブロンディ』朝日新聞社pub.
▼ヴィルフレード・パレート著、戸田武雄tr.『歴史と社会均衡』S14-4、原1916イタリア版
▼永田哲朗『殺陣』1974
▼水野秀雄『校正および送仮名の仕方』S16
▼長岡外史『帝国飛行事業発達ニ関スル意見』大9-7
▼佐佐木信綱・校訂『新訂 梁塵秘抄』1941
▼綱淵謙錠『刑』文春文庫1992
▼ロマン・ロラン著、片山俊彦tr.『ベートーヴェンの生涯』イワブン1938、原1903
▼竹内吉平『火との斗い(江戸時代編) ――消防戦術のルーツをたどる』H5
▼ダロルド・A・トレッファート著、高橋健次tr.『なぜかれらは天才的能力を示すのか』1990
▼佐藤堅司ed.『佐藤信淵武学集 中』S18-12
 「白旗」の意味は幕末には公知であったと兵頭が見る証拠の一つ。鉛の弾薬は、貯蔵しているうちに変敗してしまうこと。
▼矢野文雄『安田善次郎傳』大14-7
 借金を悪いことのようにいうのはおかしいと。
▼竹内洋『パブリック・スクール』1993
▼井村元道『英国パブリック・スクール物語』H5
▼秋島百合子『パブリック・スクールからイギリスが見える』1995
 ◆  ◆  ◆
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『大日本国防史』まちがい訂正 さっそく 其の一

 昨日、小生の手元に見本が届き、パラパラとめくっていたら、早速、間違いを発見してしまいました。サーセン。
○244ページ 11行目
 紀州徳川
  ↓
 尾州徳川
 ――――と謹んで修正させていただきます。
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「義務投票制」なしでは日本社会は亡ぶ。棄権者には罰金を適用しよう!

 「義務投票制」には先例もある。たとえば17世紀なかばのヴァージニアでは投票を怠った者に煙草200ポンドの現物納付が罰として科せられていた。
 このような罰金は政府の大きな税源になるだろうから大蔵省は喜ぶだろう。
 すなわち、財務官僚から歓迎される上に、現政権および現役衆議院議員にも、地位の安定という絶大なメリットがあるのだから、法案は速攻で書き上げられ、本議会で一発で可決成立するだろう。
 有権者は、投票場にて「白票」を投ずることもできるのであるから、「棄権」の権利はちゃんと保障される。
 この「投票率向上法(仮)」には、主旨として誰も文句をつけようがあるまい。成人国民としての参政の責任を果たす限り、誰も1銭の損にもならないのである。
 この「投票率向上法(仮)」が実現すればどうなるか?
 いわゆる「組織票」をたのみにする候補者は、選挙戦が従来よりも苦しくなるであろう。
 またこの「投票率向上法(仮)」は、近隣諸国の間接侵略勢力の国会浸透を防遏するであろう。自由な個人が尊重される日本社会が維持しやすくなるであろう。
 阿呆マスコミは「政局」を煽ると、面倒臭がりの大衆から憎まれてしまうので、政治部も少しは理性的な報道に気をつけるようになるかもしれない。
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正月のオマケ。

 英文のwikipediaウィキペディアの「Franklin D. Roosevelt」の項目を抄訳しときましょう。
 これを読めば、大不況時の政治的指導者とはどうあるべきか、簡単に学べるでしょう。
 FDRは第32代の合衆国大統領である。
 生誕は1882-1-30、NY州のハイドパーク。
 Roosevelt というのは英語化された表記で、もともとはVan Roseveltというオランダの姓だった。
 「薔薇の原」といった意味である。
 本人は「ローズヴェルト」と発音していた。
 なにしろNY州で最も古い一族のひとつである。
 母も、1621に米国にやってきた、Philippe de la Noyeの子孫だ。この仏系ユグノーの姓も、英語化されて変形され、Delanoとなった。
 どちらの家系も、裕福であった。
 フランクリンには兄弟姉妹はいない。一人っ子であった。0歳の彼の父は54歳であった。
 父方の祖母のMary Rebecca Aspinwallは、15代ジェームズ・モンロー大統領の夫人の従妹である。
 母方の祖父のWarren Delano IIは、メイフラワー号まで血統のたどれる名家で、20年間シナにいて、茶の交易で a million dollars以上を稼いで帰国した。
 だが1857(安政4年)の恐慌で彼は全財産を失っている。※ペリーは1853に来航。1858に修好通商条約で函館開港。
 そこで1860(万延元年)に彼はシナへ舞い戻り、阿片取引で巨億の富を稼ぎ、南北戦争中には阿片薬を U. S. War Department に納品している。
 フランクリンはほとんど母親のみによって育てられたので、人格形成の上で、この母親からは決定的な影響を受けた。
 一家は頻繁に欧州へ旅行した。フランクリンはドイツとフランスにはすっかり慣れ親しんだ。
 彼は、乗馬、射撃、漕艇、ポロ試合、芝テニスを学んだ。
 10代にしてゴルフにも熟達し、有望な素質を示した。
 ところが、小児麻痺に類似した奇病にかかって、ゴルフを諦めざるを得なかった。
 それにもかかわらず、ローズヴェルトは、歴代大統領としてただひとり、ゴルフ・コースを設計した。それはジョージア州ウォームスプリングスにあって、身体障碍者が観戦しやすいように考えられている。
 FDRはマサチューセッツ州のEpiscopal教会系のGroton Schoolに入学した。寄宿制である。
 その校長、Endicott PeabodyからFDRは多大の影響を蒙る。ピーボディは、キリスト教徒たるものは貧民を助けねばならず、そのためには公務員になるべきであると生徒を指導していた。
 ついでFDRは Harvard Collegeに進学した。居住したところは “Gold Coast” area で、そこは金持ちの子弟が豪奢に暮らす一画であった。FDRは Alpha Delta Phi fraternityの一員でもあった。
 そこで彼は『Harvard Crimson』日刊新聞の president にもなる。
 彼がハーヴァドにいたとき、彼のfifth cousin であるTheodore Roosevelt が米国大統領になった。もちろん、この親戚のスタイルはFDRの新たなヒーロー像となる。
 1902に彼は、未来の妻の Eleanor と、ホワイトハウスのレセプションで会う。同姓であった。というのは、エリノアはテディの姪なのだ。子供時代にも面識はあったという。
 Eleanor と Franklin は fifth cousins の血縁である。
 1640年代にオランダからニュー・アムステルダム(すなわちマンハッタン)にやってきたClaes Martensz van Rosenvelt が共通の先祖であった。
 1904にFDRはハーバードを卒業した。
 同年、彼は Columbia Law School に進学。そして1907に中退した。New York State Bar exam に合格していて、法曹実務に従事できたからだ。
 1908に彼は由緒ある Wall Street の法律事務所 Carter Ledyard & Milburnに就職した。
 企業法が、彼の主な担任であった。
 1911-10-11に彼はフリーメイソンの正式会員となっている。
 1905-3-17〔奉天会戦の大勝利直後〕に、FDRはEleanorと結婚した。FDRの母親はこの結婚には大反対だった。
 エリノアの実父が病気だったので、セオドア・ローズヴェルトその人が、式ではその代役に立ってくれたという。
 夫婦の新居は、FDR一族の土地であるSpringwoodだった。しかしそこには、頻繁にFDRの母サラが客として現われた。そのたびにEleanorは悔しい思いをさせられた。じつはこの家の所有権はFDRの母にあって、1941にその母が死去するまで、母はじぶんの家であるかのようにその家を利用し続けたのだ。
 妻エリノアは、社交や華やかな役割は嫌いな女であった。
 子は6人あった。
 長女 Anna Eleanor は1906うまれ、1975に 69歳で死んだ。
 長男 Jamesは1907うまれ、1991に 83歳で死んだ。
 次男のFranklin Delano, Jr. は1909-3-18生まれだが、1909-11-7に0歳で早世した。
 三男のElliott は1910生まれ、1990に 80歳で死んだ。
 四男の Franklin Delano, Jr. (またしても同名をつけた)は1914生まれ、1988に 74歳で死んだ。
 五男の John Aspinwall は1916生まれ、1981に 65歳で死んだ。
 FDRには複数の不倫暦もある。
 その一人はエリノアのsocial secretary のLucy Mercerで、1914に雇われるや、すぐに関係が始まった。1918-9にエリノアは、夫の不倫の決定的証拠となる手紙を発見し、WWIから帰って来たFDRに離婚を申し出た。ただしルーシーはカトリック教徒であり、離婚した5人の子持ち男と結婚する可能性などなかったともいう。
 母のSaraは、離婚となれば大きな家族スキャンダルだと考えた。それはFDRの政治的出世をありえなくすると、サラは恐れた。そこで、もし離婚したら、おまえにはもう1銭も援助しませんよ、と息子を脅し、ルーシーとは二度と会わぬことを誓わせた。
 にもかかわらずFDRは死ぬまでルーシーと関係を続けたようだ。大統領のシークレットサービスはルーシーに「Mrs. Johnson」というコードネームまで付与していたことが分かっている。こうしたFDRの情事は1960年代になって、世間に知られた。
 エレノアは「許すことはできても忘れることはできない」と親友に語ったという。
 エレノアは戦間期にハイドパークに家を建ててFDRと別居し始める一方で、公共奉仕活動や政治向きの活動に積極的に挺身するようになった。
 FDRは1942に、じぶんの健康の崩壊を自覚しはじめ、また同居してくれないかとエレノアに頼んだが、エレノアは拒絶している。
 息子の Elliott によるとFDRはまた、個人秘書であったMarguerite “Missy” LeHandとも、20年間の不倫を続けたという。
 FDRの子供たちも、波乱の人生を送っている。かれら5人は、合計して19回結婚し、15回離婚している。そしてFDRの孫は、29人生まれた。
 4人の息子は全員、WWIIで将校となっている。うち2人は下院議員になった。FDR, Jr. は3期(NY州から)、James は6期(加州から)当選している。が、どちらも、議会内の高い役職や閣僚級のポストとは無縁であった。
 FDRの犬は Falaといい、世界で最も多数の写真が撮影されメディアに掲載された犬になった。
 さてFDR本人の出世街道だが、まず1910にNY州議会の上院議員に立候補する。民主党は地滑り勝利を収め、1911-1-1に晴れて州都オルバニィの州議会議員となった。
 FDRは同州の民主党を牛耳っていた集票マシーンのタマニーに楯突くグループのリーダーとなった。
 1911-1-16に連邦上院議員選挙に向けたNY州の民主党大会が分裂して、それから74日間も進捗しなかった。
 3-31にFDRが推す、反タマニー派の男が、NY州の上院議員選挙に立てられることが決まる。タマニーを封じてみせたことでFDRの男は上がった。
 FDRは1912選挙にも当選してNY州議会の上院議員の2期目をかちとったが、1913-3-17に、ウィルソン内閣の海軍次官(Assistant U.S. Secretary of the Navy)に任命されたことから、この議席を辞した。
 ウィルソン内閣の海軍長官は、Josephus Danielsであった。
 1914にFDRは連邦上院議員にNY州から立候補すべく、民主党の予備選挙に討って出たものの、タマニー派のライバル候補のために敗れた。
 海軍次官としてFDRは、米海軍の拡張と、海軍予備役の拡充のために献身した。
 ウィルソンは、海軍と海兵隊を、中米カリブ諸国に派遣して数度の干渉戦争を行なった。
 1920年にFDRは、合衆国の副大統領候補として選挙演説しているが、その中で、彼は海軍次官時代の1915に、ハイチの憲法を書いて押し付けたのはこの自分であったと自慢をしている。
 彼は海軍予算を取るために議会要人や他省と熱心に折衝した。
 彼は熱烈な潜水艦の支持者であり、また、同盟国の船舶をドイツのUボートから護衛するための手段の開発を領道した。たとえば、〈北海を横切って、ノルウェー、さらにはスコットランドまで機雷堰を設けよう〉という提案をしている。
 1918に彼は英仏を訪れて、現地での米海軍施設を点検した。そのさい、初めてチャーチルに面会した。
 1918-11に、FDRは、復員担当に任命された。尤も、彼は、米海軍を完全に戦前状態に戻してしまうことには反対であった。
 1920-8にFDRは海軍次官を辞し(『Providence Journal』と『New York Times』にセックス・スキャンダルが報じられていたという。不詳)、副大統領候補として選挙戦に突入する準備を整えた。
 1920の民主党の全国大会で、FDRは同党の副大統領候補となることが決まった。大統領候補は、オハイオ州知事のJames M. Cox だった。
 しかしこのコンビは、共和党のWarren G. Harding 候補に大敗を喫してしまう。
 FDRはNYでの法曹実務も辞め、あらたに組織された New York Civitan Club に所属した。だが公務への野心は密かに燃やしていた。
 FDRが車椅子と一緒に撮影されている写真は、なんと、全部でたったの2枚しかない。報道が自発的に規制されていたのである。人々の口も固い時代であった。
 1921-8に、FDRはカナダのNew Brunswickにある Campobello Islandで夏期休暇中、ポリオだと診断された。これは、現在では、他の病気ではなかったかと疑われている。しかし当時は、そう信じられた。
 FDRは、以後、死ぬまで、下半身が麻痺したままであった。ただし、本人はその事実を決して認めようとはしなかった。
 彼はあらゆる治療法を試みた。そのひとつには hydrotherapyもある。彼は 1926にジョージア州の Warm Springsに hydrotherapy center を設立した。それは今も運営されている。
 彼は自分の症状がよくなっていると周囲に信じさせようとした。さもなければ政界で出世などできない。
 猛訓練により、腰から脚にかけて鉄枠を添えて固定し、杖にすがって短距離ならば移動ができるように鍛えた。
 公衆の目につかぬところでは、もちろん車椅子生活だった。
 彼は、公衆の目につくところでは、助手(しばしば彼の息子)に横から支えてもらって起立した姿勢を保った。
 また、足を一切使わずに操縦ができる自動車を特製させ、それを自分で運転して、どこにでもでかけた。
 今日なお、FDRは最も有名な小児麻痺患者かもしれない。しかし、39歳で発症していること、および、その主要な症状から判断して、彼の真の病名は、Guillain-Barre syndromeであったと考えられる。
 しかし、彼の脳脊髄液を精密検査しない限り、これは証明し得ないことである。
 1922にFDRは、Alfred E. Smith がNY州知事になるのを助けた。
 偶然にも、1924におけるスミスのライバルの共和党候補は、Theodore Roosevelt, Jr. であった。FDRはスミスを応援した。
 FDRは1928にもスミスを応援した。
 そして1928に、スミスは民主党の大統領候補になることになり、じぶんの後釜として、FDRにNY州知事になれとすすめた。
 スミスは大敗した。地元州ですら票はとれなかった。しかしFDRは、僅差で勝利し、NY州知事になることができた。
 この州知事時代に、彼は Frances Perkins と Harry Hopkins の手伝いをうけた。
 1930はFDRが州知事への再選を期す年であった。
 当時、共和党の州知事候補は、Charles H. Tuttle であり、彼はTammany Hall machineの腐敗っぷりを好んで攻撃材料にしていた。
 選挙が近づくや、FDRは汚職摘発の捜査を果敢に指揮した。
 結果、70万票の大差でFDRは再選された。
 この選挙で示された彼の人気が、彼を次の民主党の大統領候補にしても可いだろうという空気をつくった。
 FDRとしては、それにはまず、同じ州内の Al Smith を斥けねばならない。スミスは大勢の政治ボスたちに後援されていたが、FDRはNY州の民主党をとりまとめることに成功した。
 FDRは全米に味方のネットワークを構築した。有力な同盟者は、新聞王William Randolph Hearst、アイルランド系票の組織屋 Joseph P. Kennedy, Sr.、そして加州のボス William Gibbs McAdooらである。
 テキサスのボスのJohn Nance Garner も FDR支持に切り替えた。これによってガーナーが、副大統領候補の党内ノミネーションを得たのである。
 指名受諾のスピーチの中に、この一節があった。「…… I pledge you, I pledge myself to a new deal for the American people……。これは選挙戦ではない。軍事動員なのだ」。
 大統領選挙戦は1931~1932の長丁場であった。
 FDRは1932-11の選挙で、全投票の57%を獲得し、6州を除いて共和党のHerbert Hooverを破って勝利した。
 貧民層であるイタリア系アメリカ人、ポーランド系アメリカ人らが、投票で大貢献した。
 キャラとして、optimism と activism が、景気どん底の有権者たちにアッピールした。
 FDRは米国大統領としてこれまでただ一人、三選以上されることになるのだが、1933-3-4に、彼の大統領としての “First Hundred Days”が始まる。
 そこでいきなり、ニューディールをぶち上げた。
 これには 金融制度改革も 含まれていた。
 1933から1937までは劇的に景気がよくなった。が、そこから深刻なrecessionに陥ってしまう。
 また、民主党内の保守派と共和党とが結びついてニューディールに抵抗しはじめたのも1937から。
 失業はけっきょくWWII勃発でやっとゼロになる。
 1933-2に、暗殺未遂事件発生。下手人はGiuseppe Zangaraで、彼はFDRの隣に座っていたシカゴ市長の Anton Cermak を射殺した。
 FDRは政策立案をブレイン・トラストに任せた。筆頭はRaymond Moley である。有力な、ほとんど独立していた閣僚は、国務長官のCordell Hull であった。財務長官の William Hartman Woodin は、のちに、より強力な人物・Henry Morgenthau, Jr.に交代する。
 FDRの大統領としての第一任期は、1933~1937である。彼はそのまま1945まで大統領であり続けた。
 FDRがフーバーから大統領職をひきついだ就任式は1933-3-4である。この日よりも32日前には、ヒトラーがドイツの首相になっている。
 この時点で全米の労働者の4人に1人は失業していた。
 農産品の価格は不況前の4割に落ち込んでいた。
 工業生産は1929の半分であった。
 200万人がホームレスであった。
 史伝家にいわせると、FDRは、relief、recovery、reform を進めた。
 リリーフとは、失業救済である。
 FDRはラジオ番組に連続出演して、直接その肉声によって、彼のキャビネットが推進せんとする政策を説明した。fireside chatsと称された。
 就任して最初の100日間の大活躍は誰もが目をみはるほどであった。1933-3-9から6-16にかけ、記録的な数の法案が議会に提出されて、すべてが簡単に可決された。
 1933-3-4の就任時点で、多くの州で銀行業務がストップしていた。この原因は、人々の将来への恐怖であった。
 そこでFDRは、「The only thing we have to fear is fear itself」と語った。
 議会は翌日に「Emergency Banking Act」を可決した。そこでは「bank holiday」が定められ、銀行再開までのロードマップが示されていた。ほとんどの銀行は、そこで決められた最終期限前に業務再開できた。
 これが recovery 政策の第一歩であった。
 さらにFDRは Glass-Steagall Act にサインして、そこから Federal Deposit Insurance Corporation (FDIC)がスタートした。
 FDR本人が最も気に入っていた失業救済機構はCCC(Civilian Conservation Corps)である。全米で25万人の若者を雇用して、地元の事業に投入した。
 FDRは当初、一連の政策のために軍事費を削減しようとした。1932の国防費は$752 million だったのが、1934には $531 million に減っている。
 軍人恩給も40%カットした。
 500,000 人の退役軍人と未亡人の年金資格を剥奪し、残りの者にも支給額を削減した。
 また、公務員給与全般も削減し、研究開発や教育予算もカットした。
 尤も、退役軍人たちの組織は強力で、すぐにまきかえし、議会をして大統領拒否権をオバーライドさせて、1936の一時金支給法を可決させてしまった。
 FDRは禁酒法の撤廃を公約していた。1933-4に彼は、3.2%のアルコール飲料までは許すという大統領命令を出した。
 第二次ニューディールは1935~1936である。
 なぜか1930年代は、砂嵐が中西部~南部を吹き荒れていた。
 1934に米連邦議会議員選挙があり、両院で民主党が主導権を握った。
 これを背景にして上院議員 Robert Wagner は Wagner Actを提出。これが National Labor Relations Act となって成立し、労働者の組合組織権や集団交渉権やスト権が認められた。
 FDRの政策は反実業家的だとみられていた。民主党の中にも実業家に親近な勢力があり、Al Smithはその領袖だった。スミスはFDRを手酷く批判し、マルクスやレーニンと同じじゃないかとこきおろした。
 しかしスミスのレトリックは大衆を共感させることができないで、却ってスミスが単なる金持ち代表でしかないことを暴露し、FDRの1936の圧倒的得票数での大統領再選が結果される。※日本にも、〈所得税を上げれば金持ちが日本を脱出する〉と脅す御仁がいらっしゃるが、そんなことできるもんならやってみろと申し上げたい。是非とも、さっさと日本を脱出して見せてもらいたいものだ。見本と手本を示すが可いだろう。
 ワグナー法で組織化された労働者は、1936と1940と1944の大統領選挙でFDRを二選、三選、四選させる大きな基盤となった。
 戦前の統計については論争がある。ある研究者は、米国の負債(政府の赤字)は1936に40.9%になって、それがWWIIまで続いたとする。しかし別の研究者は、負債は1933に40.9%に達したのだとする。
 失業率は、FDRの一期め就任時点で25% だったが、二期目のスタートした1937には 14.3% になっていた。
 しかし1938にはまた19.0% に上がってしまう。この年は不況の中の不況だといわれている。
 1939には 17.2% だった。
 WWIIが勃発して徴兵が失業を一掃するまで、これよりは下がらなかったようである。
 ニューディール期間を通じた失業率の平均値は17.2%であった。
 これに戦争期間中も通産すると、FDRが大統領であったときの全米の失業率は13%であった。
 FDRはWWIIが始まるまでは所得税を上げなかった。
 1937には失業保険が導入された。
 FDRの新規軸は、企業の内部留保corporate savings に課税しようとしたことである。しかし1936~37のこの提案は議会に拒否された。
 戦争中にはFDRは個人所得の課税率上限を91%にしようとした。
 また1942-10には、個人で$25,000以上の俸給を受ける者には100%の税率で課税する(つまりそれ以上の給与所得は禁止する)命令を出した。
 米国は1919に国際連盟に入らないことを決定している。FDRもハルもウィルソニアンだが、ぜったいにこの大衆心理(孤立主義)には逆らわないように気をつけていた。
 ラ米に対してはGood Neighbor Policyを標榜した。
 1823のMonroe Doctrine いらい、ラ米は米国の影響圏だといわれてきた。
 米軍はハイチから撤収し、キューバとは新条約を結び、パナマは名目的に米国の保護領から脱した。1933-12、FDRは Montevideo Convention に署名し、ラ米への介入権が米国にあることを再確認させた。
 1936の大統領選では、対抗馬はカンザス州知事の Alf Landon であった。
 Roosevelt + Garner 組は総投票の 60.8% を得て、Maine と Vermont以外の全州で勝利した。連邦議会の民主党勢力も圧倒的となった。
 このとき民主党を支持した勢力はそっくり、1960年代まで民主党を支持し続けた。
 FDRの二期目は1937に始まった。
 彼の政策推進の最大の邪魔者に見えた最高裁判所の力を弱めようとした彼の試みは、失敗した。
 しかし、死亡や退職によって最高裁判事の椅子が空いた場合、大統領には好みの人物をそこに推挙する自由がある。これを利用して1937から1941まで8人の判事を送り込み、FDRは最高裁からあまり邪魔されなくなった。
 急速に増えた組合は民主党の集票の基盤だったが、AFLとCIOに大分裂してしまったのは痛かった。さしものFDRにもCIOのJohn L. Lewisを除去する手段はなかった。1938 から 1946まで、この分裂が民主党の勢いをいささか弱めている。
 1938-11の連邦議会選挙で、民主党は6つの上院議席と71の下院議席を失った。ほとんどが、ニューディール支持者であった。おまけに共和党のRobert Taft上院議員が1939に、南部の民主党選出議員を同盟者としてとりこんでしまった。
 これで、FDRの立法上の万能性は消滅した。最後に通ったのは、1938の最低賃金法である。
 1935にイタリアはエチオピアを侵略した。すると米議会は、中立法を成立させてしまった。
 これは、米国から武器を、戦争中の外国に送ることを禁ずる法律であった。FDRは、同法案は友好国を支援する大統領の権限を侵すものであるとして反対したものの、世論は圧倒的に中立支持だったので、しぶしぶ署名した。
 1937に議会は、さらに厳密な中立法を通した。すると、支那事変が勃発した。米国民はシナ人に同情したので、FDRは、さまざまな抜け道を探すことができた。
 1937-10にFDRは、侵略国に対する「検疫・防疫」が必要だとする演説をし、同時に、日本をblockadeするための長距離行動可能な潜水艦を建造せよとの秘密指令を出した。
 1938から日本のシナ侵略、ドイツの欧州侵略が座視できなくなった。
 1941-3にFDRはLend-Leaseを始めたが、これはナチから英国を守るためであった。民主主義の兵器廠になりたい、と。
 1938-3にブラジルでファシストのクーデター未遂事件が発生した。ブラジル政府は、ドイツ大使の Dr. Karl Ritter が黒幕であるとして、彼にpersona non grataを申し渡した。
 この一件でFDR政権は、ドイツをこれ以上放置できないと確信した。敵はヨーロッパにとどまらず、南米にまで手を出してくるのだ。それまでFDRは、ナチはアメリカの問題ではないと考えていた。
 英独ミュンヘン会談(9-15)を控え注目があつまっていた1938-9-4に、駐仏の米国大使でありFDRの友達であった William C. Bullittが、仏米両国は戦時も平時も一体だと発言したことが漏れ伝わり、米国内には、Czechoslovakiaをめぐって欧州で戦争が始まったら、米国がすぐにも参戦することになるのではないかとの懸念が広まった。
 FDRは9-9の記者会見で、それは 100% wrong だと断言せねばならなかった。米国は決して stop-Hitler bloc には加わらないのだとも明言した。ドイツがCzechoslovakiaを侵略しても米国は中立を守ると。
 1938-10にFDRはフランスと密かに話し合った。それは、米国から航空機の部品をフランスに輸出し、フランスはそれを自国内で組み立てれば、中立法をバイパスできるだろうというもの。
 これにさきだってFDRは、Bullitt大使から公電をうけとっていた。それはEdouard Daladier首相の1938-10発言を伝えたもので、ダラディエは「もしわたしが3000~4000機の軍用機を手にしていたなら、ミュンヘンの対独宥和などあり得なかった」と語ったのである。
 1938-11に、仏人Jean Monnet がひそかにワシントンに到着した。彼は1,000機の軍用機を調達するフランス政府の使命を帯びていた。
 問題は、いかにして代価を支払うかであった。
 1934にJohnson Act が成立していた。同法は、WWIの対米負債を踏み倒している国家(それにはフランスが含まれる。仏は1932に踏み倒し宣言をしていた)に対しては、ツケで物を売ることを禁じていた。
 1939-1-28に、ロサンゼルスで、ひとりのフランス空軍将校が、 DB-7 爆撃機のプロトタイプが関係する事故で負傷した。この事件が報道され、米仏密談が暴かれてしまう。
 1939の冬にFDRは議会人を説得しようとした。すなわち英仏こそは米国の防衛ラインの第一線なんだよと。
 1939-2に、フランスは提案した。カリブ海と太平洋でのいくつかの領土を米国に割譲し、それに加えて一括即金でten billion francsも添え、よって飛行機代金としたいと。
 1939春に交渉はまとまった。しかし発注された飛行機の多くは1940までに届かなかった。※多くが届く前にヒトラーは西方電撃戦に踏み切らせたのである。空軍力のバランスが戦争のタイミングを決めた。
 1940-6にFDRが英国に引き渡すことにしたのは、この、フランスから発注されていた分であった。
 1939にWWIIが勃発すると、FDRは9月から密使を、First Lord of the Admiralty のWinston Churchill のもとに送り、英国支援の方途を相談させた。
 チャーチルは1940-5に英首相となった。
 1940-4にドイツはデンマークとノルウェーに侵攻した。ついでオランダ、ベルギー、ルクセンブルグが陥落し、フランスは5月に降伏した。
 さすがにパリ陥落は米国世論にショックを与えていた。これをFDRは利用した。
 1940-7にFDRは、共和党内の有力な2人の介入論者、Henry L. Stimson とFrank Knoxに会った。そして、スチムソンには Secretaries of Warになってもらい、ノックスには海軍長官になってもらった。
 民主党も共和党も、米軍を急速に強化することでは大統領を支援した。しかし国内の孤立主義世論はもっと強大であった。彼らはドイツとの戦争など不要だと信じていた。
 ついにFDRは、平時における徴兵開始について議会を説得することができた。これは米国建国以来の壮挙であった。
 徴兵法は1941に延長された。投票わずか一回で可決された。
 1940-9-2のラジオ講演で彼は、アメリカはArsenal of Democracyになるべきだと語った。
 1940-9-2にFDRは、中立法に公然と違背することにした。それは英国との基地取引合意で、米国は旧型の駆逐艦×50隻を英軍に渡す。英国はカリブ海の島と、Newfoundlandを米国に譲渡するというものであった。
 これが1941-3の Lend-Lease agreement につながる。
 英国とシナが恩恵を受けた。のちにソ連も。
 Harry Hopkinsは戦時の大統領アドバイザーのナンバーワンに昇格した。ほとんどの政策は、ホプキンスの頭から出ている。
 Lend-Lease Act は 1941-3に可決成立した。
 議会は$50 billion を1941~45の軍事費に支出することも認めた。
 FDRの友好国援助は、戦後に返してもらわなくても可いという性質のものであり、WWI中の貸付とは対照的であった。
 FDRは終生、自由貿易主義者であり、欧州諸国の植民地を解消させることを願っていた。欧州諸国が援助を返さなくてよいかわりに、それら植民地の市場を開放させ、なし得れば独立国にしてやろうという狙いが彼にはあった。
 米大統領は連続2期しか勤めてはならぬというルールは、WWII前においては、不文律であった。
 ジョージ・ワシントンは1796に三期目をあきらめている。
 Ulysses S. Grant と Theodore Roosevelt は、非連続で大統領になって三期目をやってみたいと願ったのだが、果たせなかった。
 FDRは党内でライバルになりそうな者の野心を着々と摘み取っていた。コーデル・ハルと、James Farleyの2閣僚がそうである。Farleyは1932と1936の選挙マネジャーであり、郵便長官であり、民主党議長でもあった。
 Farleyはシカゴでの党大会で蹴落とされた。FDRは事前に同市のマシーンをすっかり味方につけていた。そして巧みな選挙参謀が、会場の音響設備を不公平に操作した。FDRが「みんなの指名がないならわたしは敢えて出馬せぬ」「みんなが誰に投票しようと自由だ」と殊勝なスピーチをした直後に、「われわれはローズヴェルトを望むぞ!」という大シュプレヒコールが、PA装置で増幅されて、会場内にこだました。この演出された興奮状態の中で投票が行なわれ、FDRは民主党の指名を確実にし、副大統領候補には、こんどは Henry A. Wallace が立つことになった。ウォレスはそれまで農業長官で、インテリの間で人気のある左派リベラリストだった。
 本選挙は、共和党の Wendell Willkie 候補が敵手だった。FDRは、じぶんはアメリカを戦争の局外に置くため、できることは何でもやる意志があり、かつ、それに必要な経験もあると有権者に強調した。
 1940の開票結果は、投票の55%を勝ち取り、48州のうち38州の選挙人を獲得した。
 保守的テキサス人のガーナーに代えて左翼のWallace を副大統領に据えたのは、この第三期FDR政権のキャラクターを象徴するものであった。
 ガーナーは1937以降、次第にFDRの政敵たる立場を鮮明にしていたのである。
 三期目の任期は、1941から1945である。
 FDRは1938から、徐々に再武装をくわだて、1940にはすっかり米国は反枢軸の兵器廠となっていた。
 この政策にたちはだかったのは、頑固な孤立主義者の、William Borah 上院議員や、Robert Taft 上院議員に率いられたグループであった。チャールズ・リンドバーグのような草の根の孤立主義を代表する有名人もいた。
 1940-12-29に、FDRは米国を民主主義の兵器廠にすると宣言し、1週間後の1941-1には、「四つの自由」を高唱した。
 ※「民主主義の兵器廠」という自称は明らかに滑稽である。なぜなら独裁者総統の蒋介石に率いられたシナは一度も選挙などやったことはないのだ。中共とて同様だ。
 1941-6からはソ連も武器援助の対象国に加えられた。※ソ連が民主主義国ではないことも米国東部インテリたちには自明であった。トゥハチェフスキーを死刑にした裁判で、ひとつとしてまともな証拠が示されなかったことは、法律家マインドを共有する米国インテリには許し難い暴政と映じ、その記憶も薄れてはいなかった。シナ人もロシア人も、王様を追放したことだけがプラスに評価されていたのである。
 大軍拡は1941までに米国の失業者を100万人以下に減らしていた。南部の農場地帯からは多数の黒人が、都市部や北部へ移動した。
 1941のうちにFDRは、米海軍が英国行きの輸送船団を直接に最後まで護衛することと、Uボートと交戦すべきことを命令した。
 FDRは1941-8-14にチャーチルと、NewfoundlandのArgentia沖の『HMS Prince of Wales』上で密会し、「大西洋憲章」で合意した。
 1941-6にFDRはスチムソンに対し、米国の全面的な戦争関与について計画を立てよと命じた。結果、Albert Wedemeyerが指揮して「Victory Program」が策定された。これは米国の潜在工業力の総動員計画であった。
 また、100万人の徴兵制軍隊をつくりあげて、そのうち半分は、1943年までに海外の戦場に投入できるようにもすることとした。
 1940に日本が北部インドシナの仏植民地を占領したことがきっかけとなり、FDRは蒋介石援助にも本腰を入れることになった。
 1941-7に日本は、残る南部インドシナの仏植民地も占領した。FDRは日本に対する石油の輸出を禁じた。日本はいきなり、石油供給の95%を失った。FDRは日本と交渉を続ける一方、比島防衛のためにB-17をハワイから送り届けさせ始めた。
 1941-12-4に、『Chicago Tribune』は、「Rainbow Five」の作戦計画の完全なテキストを掲載した。それは国防省の最高機密のひとつのはずだった。そこには、1000万人を兵力として動員することなどが明記されていた。
 米軍のすべての高級将校は、日本との戦争は切迫していると確信していたが、誰一人、それがハワイから始まろうとは思っていなかった。
 ハワイ空襲が実行された翌日、FDRは演説した。昨日、すなわち1941-12-7という日付は、「infamy」の中に記憶され続けるだろう、と。日本帝国によるハワイ空襲は計画的で意図的なものであったと。
 米国内部の孤立主義は一夜にして吹っ飛んだ。全国民は、FDRの下に一致団結した。しかしFDRは最初から、ナチをまず片づけようという決意であり、日本のことは後回しとさせていた。
 1941-12-11にドイツとイタリアが対米宣戦してくれたおかげで、この方針の推進はずいぶん容易になった。
 12月後半、FDRはまたチャーチルと面談し、米英蘇支の非公式同盟を結成することを企てた。特にドイツ軍のソ連奥地への進撃とアフリカ作戦を妨害することが重要であることで両者は合意した。※理由は、ドイツを最終的に打倒できるのは、無尽蔵の陸軍兵力を提供できるソ連だけだったからである。逆にロシアがナチの手に落ちれば、こんどはその無尽蔵の人的資源が、西半球支配のために動員されることになってしまうわけ。
 日本軍が西海岸におしよせるのではないか、そしてそれに呼応して、西海岸地域での日系米国人によるサボタージュその他の工作が行われるのではないかという懸念が広まった。
 1942-2-19にFDRは、米国市民権を持たぬ日本人移民の一世と、その子で米国市民権(と日本国籍の両方)を有する日系二世を、強制移住させる大統領命令にサインした。
 ドイツ人移民とイタリア人移民で、米国市民権を有せず、かつ公けにヒトラーやムソリーニを擁護していた者も、逮捕されたり、抑留されている。
 1941末以降、米国市民権を有しない約60万人のイタリア系移民が、FDRの命令により、旅行の自由を制限されている。この措置はしかし、1942-10に解除された。
 日系人のうち、西海岸やハワイに住んでいなかった者は、強制収用はされなかった。
 FDRは、米国人は伝統的に英帝国が嫌いであることを承知していた。彼は言った。
 ――独立戦争における英国、そして1812年の米英戦争における英国、英国によるインド支配、さらに英国によるボーア戦争を、米国人は嫌悪してきた。人民の総意として、われわれ米国人は帝国主義に反対する――。
 米国陸軍省は、最もスピーディにドイツを敗北させる道は、イギリス海峡を渡ってフランスに陸上部隊を進めることであることを確信していた。
 しかしチャーチルは、そのコースでは英国軍〔およびフランス国民の〕の人的損害が大きくなり過ぎるだろうと〔WWI のさんざんな経験の記憶から〕懸念し、地中海から北上する、間接的なアプローチを希求した。※東欧人なら戦争に巻き込まれて死んでもしょうがないという観測を、WWI中にチャーチルはしているのだ。しかし英仏人が死にすぎると、戦後の欧州の開明勢力の優越を維持できない。
 FDRはこのチャーチル案を拒否した。スターリンは一刻も早い西部戦線の構築を要求した。
 1942-11に米英軍は仏領モロッコとアルジェリアに上陸した。1943-7にはシシリー島に上陸した。
 1944には対独戦略爆撃が大規模化し、ほとんどのドイツの都市は灰になり、石油兵站は断たれた。この戦略爆撃に要した爆撃機乗員の人的損害は数万人に上ったが、それは米英で半々づつ均等であった。※このウィキペディアの項目には英国人による必死の加筆があると感ずる。
 FDRは、フランス西海岸上陸作戦の指揮を、ジョージ・マーシャルにではなく、Dwight D. Eisenhowerに委ねた。ノルマンディ上陸作戦は、1944-6-6に開始された。
 1944-12にはフランス北部のバルジの反撃で、米英軍のドイツ領内への進撃が停頓したが、1945-4-12にFDRが病死した時点で、連合軍のベルリン占領は目前であった。
 太平洋では1942-6のミッドウェイ海戦をもって日本の占領地拡大は停止し、そこから、island hopping または leapfrogging と呼ばれた、米軍による東京への肉迫が開始された。
 四発重爆が東京を爆撃できる基地を手に入れることが、太平洋での米軍の当面の戦略目標だった。
 議会や一般世論は、もっと対日戦に資源を割くべきだとFDRを突き上げた。しかしFDRは、「ドイツが先だ」との原則を決して譲らなかった。
 1943末には、枢軸の敗滅はもう決定的な運命だと看取された。そうなると、いかにして大戦を終わらせ、また、戦後の世界を設計するかが、大課題として意識された。
 FDRはチャーチルおよび蒋介石とカイロで1943-11に会談した。
 ついでFDRはテヘランへ赴き、チャーチルおよびスターリンと会談した。
 チャーチルは、スターリンは暴君であり、あんなやつに欧州の一部なりとも支配させることは許されませんぞ、とFDRに警告した。
 しかしFDRは答えた。「これはわたしの直感だが、スターリンはキミが言うような人物ではないよ。……わたしは彼にできるだけのものを援助する。そしてその見返りは要求しない。選ばれた人士には義務感があるものさ。スターリンは、世界のどこもロシアに併合したいなんて思っちゃいないよ。戦後世界を民主的で平和なものにするために、わたしと協働してくれるはずだ」。
 テヘラン会談では、1944に米英軍はフランスに進行することをスターリンに伝えた。
 さらに戦後についての話し合いで、スターリンはFDRの「国連」構想を支持するとともに、ロシアとポーランドの国境線を引きなおすべきことを要求した。またスターリンは、ドイツが敗北してから90日以内に、対日戦に加入することを約束した。
 1945になると米英軍はドイツ領内に進撃し、ソ連はポーランドを占領した。昨年にテヘランで呈示された問題が、いよいよ現実化してくる。そこで2月、FDRは、健康状態が非常に悪くなっていたけれども、無理をしてヤルタ(クリミア半島)へ出かけた。そこにはチャーチルもやってきた。
 スターリンはFDRに、東欧で自由選挙を実施すると語った。しかし、ヤルタ会談の一ヵ月後、駐露大使のAverill Harriman はワシントンへ打電した。「もうハッキリ認識しなくてはなりません。ソ連の計画は、全体主義体制を打ち立てることにあります。それは、個人の自由や民主主義をなくしてしまう計画です。」
 2日後、FDRは、彼のスターリン観があまりにも甘すぎたことを認めるようになった。「アヴェレルは正しい」と彼は語った。
 東欧系のアメリカ国民は、ヤルタ会談がソ連による東欧ブロック構築を阻止できなかったことを非難した。
 1944にFDRは62歳になった。彼は1940から徐々に健康を悪化させていた。FDRは終生、チェイン・スモーカーであった。
 世間には知られなかったが、FDRはメラノマ(黒色瞳)を左目の上部から摘出する手術も受けていたらしい。
 刻々のニュース映画でFDRの顔容の変化を観ていた、NY市のMount Sinai Hospitalに勤務する一病理学助手は、1944に、「FDR が今年の大統領選挙で四選されようとされまいと、彼は脳出血で半年以内に死ぬことは間違いない」と予言したという。
 FDRが四任期目中に死ぬのではないかという懸念は公然のものであった。そこで民主党の重鎮たちは、ソ連寄りすぎるという批判のあるHenry A. Wallaceを今回は副大統領候補にはさせなかった。何人か代わりの候補が挙がったが、FDR自身が、ほとんど全国区では無名だったミズーリ州選出上院議員、Harry S. Truman を相棒として選んだ。
 1944の本選では、FDRとトルーマンのコンビは総投票の53% を獲得し、36州で選挙人を確保した。ちなみに敗れた共和党の対抗馬は、NY州知事のThomas E. Deweyであった。
 1945-2-12にヤルタを離れたFDRは、すぐにエジプトへ飛び、スエズ運河に近いグレートビターレイクで『USS Quincy』に乗艦し、エジプト王のFarouk I世、ならびに、エチオピア皇帝の Haile Selassieと面談した。
 ついで2-14に同艦上で、サウジアラビア王家(サウド家)の始祖、King Abdulaziz と会った。
 さいごにFDRは同艦にチャーチルを迎えて会談した。
 『クィンシー』はそれからアルジェリアへ航海し、2-18に到着。そこでFDRは、駐英大使、駐仏大使、駐伊大使と打ち合わせた。
 ヤルタにおいて、チャーチルの侍医のMoranは語ったという。FDRは脳血管障害の進行した症状を見せており、たいへんな病人であって、あと数ヶ月の命しかないでしょう、と。
 帰米したFDRは議会に3-1にヤルタ会談について報告した。人々は、FDRがすっかりやせ衰え、急速に老けたのを見てショックを受けた。
 開口一番、彼はこう言った。ここに座ったままでプレゼンテーションすることを許していただきたい。両脚に10ポンドの鉄をまきつけて起立していることは、わたしにはもう無理なのだ。
 そしてFDRは、すべての平和愛好国家が加入できる真の国際機構をつくりたいと熱く語った。
 1945-3を通じ、FDRは、ヤルタの約束を守っていないスターリンに強い非難のメッセージを送り続ける。テーマは、ポーランド処理、東独処理、捕虜を労働力として使い続けていること、などであった。
 米英がドイツと単独媾和しようとしているのではないかというスターリンからの反論に対しては、FDRは公的な侮辱を感じて特に強く反発した。
 1945-3-29にFDRはWarm Springs での休養に入った。彼は「国際連合」の創設会議に臨むつもりであり、その準備のためだった。
 彼は、この国連の初代長官(Secretary General、事務総長)になると同時に、アメリカ大統領は辞任するつもりであった。
 4-12午後、FDRは、「後頭部がおそろしく痛い」と言い、前傾して車椅子から落ち、意識不明に陥り、寝室へ運び込まれた。
 待機していた医者は3:35 p.m. に死亡を診断した。63歳だった。
 『NYT』は社説で書いた。「いまから数百年後、人々はきっとひざまづいて神に感謝するはずだ。FDRがホワイトハウスにいてくれたことを」。
 晩年のホワイトハウスには、実の娘のAnna Roosevelt Boettiger がFDRの介助者として詰めていた。別居していたエリノアは、FDRが死んだとき、Lucy Mercer Rutherfurd 未亡人がFDRの側にいたことを知らされた。
 ホワイトハウスでの葬儀は4-14であった。遺骸をHyde Parkの私邸に汽車で戻すとき、Army, Navy, Marinesそして Coast Guardから4人の衛兵が付き添った。遺骸は、生前からの希望によって、スプリングウッド荘園内の〔一説にハイドパークの〕 Rose Garden に葬られた。1962-11に死去したエリノアもその隣に葬られた。
 FDRの名前がつけられたパリの地下鉄駅がある。もちろん空母の艦名にもなっている。
 2007にFDRの伝記を書いたJean Edward Smith いわく、彼は大不況時代の米国を立ち上がらせるために、みずから車椅子から立ち上がったのだ、と。
 国連および Bretton Woods 体制は、FDRの遺産である。
 FDRがつくった多くの規制は1975~1985に撤廃されたが、金融チェッカーのSecurities and Exchange Commissionは今も存続している。Federal Deposit Insurance Corporationは 1933にできた。Social Securityは 1935成立。いずれも生き残っている。
  ※原爆をつくらせたことへの言及が、この英文ウィキペディアの項目に全然ないのが興味深い。FDRが同意しなかったらマンハッタン計画などあり得ないのだが。
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◎読書余論 2011-1-25 配信分◎読書余論 2011-1-25 配信分 の 内容予告

▼シュワルツ著『アメリカの戦略思想 ――第一次大戦からニクソンまで』S47、原1965
 マハン理論のおかげで対日圧力はむしろ低かったこと。ハル長官は戦争指導会議から外れていたこと。アフリカ作戦は大統領選対策だったこと。チャーチル提案のバルカン支作戦も、選挙への悪影響から拒絶したこと。上院議員の水爆機密漏洩事件。
▼韓準石『文の文化と武の文化』1989-5
 日本のなかの、韓国そっくりな土地はどことどことどこか。
▼藤生安太郎『武道としての相撲と國策』S14、初S13-11
▼Hermann Schreiber『航海の世界史』
▼シンクレア・フッド『ギリシャ以前のエーゲ世界』
▼フィリプ・バグビー『文化と歴史』
▼Jacquetta Hawkes著『古代文明史 1・2』邦訳
▼梅棹忠夫『文明の生態史観』
 アジアはひとつではない。
▼ジェイムズ・アダムズ著、伊佐木 圭tr.『21世紀の戦争』1999-8
 シナ人は、こんどは日本を従属させようと狙っている。
 IEDはソマリアのアイディード派が最初に実用化してみせていた。
 ダミーUAVでも飛ばしておくと敵の動きをすっかり慎重にさせてしまう効果がある。
 空母1隻維持するには護衛艦と潜水艦が計20隻要る。
 ノンリーサルウェポンをまずはじめに使うのだと敵に思わせてはならないこと。ぜったいに部隊には殺傷兵器ももたるべきこと。
 三菱商事の軍事情報収集力がスパイ並に高いこと。
▼伊藤東作『幻の鉄道部隊』1991-5
▼和歌森太郎『日本史の虚像と実像』S49、角川文庫
 S15までは歴史研究は比較的に自由であった。紀元2600年から皇国史観でおかしくなった。
 6世紀末以前にはそもそも日本人に正確な暦の知識がなかった。
▼上村清二『歴史と文芸の間』S54、中公文庫
 歴史教科書が鎌倉武士を説明するのに佐野源左衛門の鉢の木をとりあげているのはおかしい。
▼田中彰『幕末の長州』1965、中公新書
▼武市銀治郎『富国強馬』1999-2
▼沼田多稼蔵『日露陸戦新史』1940-11
▼中野五郎tr.『歴史的決断』S61
 WWII中の米国からの対ソ援助について。
▼シャルル・ドゴール著、小野繁tr.『職業軍の建設を!』1997、原1934
▼菅原琢『世論の曲解――なぜ自民党は大敗したのか』2009-12
▼今井清一『新版 大空襲5月29日』H7、初S56
 じつは一酸化炭素で大量死したのではないかという仮説。
▼三橋文夫『自衛隊の実力』1999-9 別冊宝島
 レーダーの話など。
▼木山正義ed.『回想の兼田中将』非売品、S61-10pub.
 ここに出てくる榎本と澤は、たまたま姓が一致しているだけで、箱館戦争の榎本と澤とは何の係累でもない。
▼村田晃嗣『米国初代国防長官フォレスタル』1999-7
▼永井三明tr.『マキャヴェッリ全集 2』「ディスコルシ」1999-1
▼藤井宗哲『たいこもち(幇間)の生活』S57-3
 昭和17年、太り過ぎで即日帰郷になった男がいた。
▼悠玄亭玉介『幇間の遺言』1995-5
▼古畑種基『法医学ノート』S50中公文庫
 人間は、ある種の毒には慣れることができるという話。
▼水田洋・田中浩tr.『新装版・世界の大思想 9 ホッブズ リヴァイアサン(国家論)』S49
 自衛権を捨てるという誓約などはじめから無効であるという話。
▼鴨下示佳『戦闘機メカニズム図鑑』1996-3
 ◆  ◆  ◆
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 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。
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『表現者』通巻34号の兵頭記事の訂正です。

 すいません。今月発売号の連載記事「小川又次」中に以下の訂正があります。
○153頁 上段 14行目
 佐藤綱次郎
  ↓
 佐藤鋼次郎
○153頁 下段 6行目
 東海岸の汀線を
  ↓
 西海岸の汀線を
○153頁 下段 7行目
 前戦して
  ↓
 善戦して
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