旧資料備忘摘録 2020-10-20 Up

▼福地源一郎『幕府衰亡論』東洋文庫 S42
 大15-2に蘇峰が見直した版を底本とし、石塚裕道が解説。

 そもそも『国民之友』新聞に連載してもらおうと、M24に徳富蘇峰が福地桜痴に原稿を頼んだ。福地は、1枚(20字×10行)に1ドル=1円払うなら書く、と請け負った。
 単行本の初版はM25末。

 桜痴はギボンの『ローマ帝国衰亡史』を愛読していた。それの幕府版が書かれることを蘇峰は期待していた。期待は応えられた。

 以下本文。
 思えばペリーの来航から江戸城引渡しまで、15年だった。福地は外交掛の下っ端の幕吏として、その激動を見ていた。

 280年の泰平を保った徳川体制は、封建である。みんなわかってないが、この封建制度は、初代の家康が望んだ制度ではなかった。家康は、中央集権の郡県制にしたかったのだ。が、外様大名が強すぎて、ついにその理想は実現せず、封建制で妥協するしかなくなった。

 家康の長期構想としては、諸大名の力を徐々に弱めて、中央集権の郡県制を確立するつもりだったのだろう。しかしその大方針は徳川四代目にして早くも放棄された。

 六代家宣より以降は、譜代もほとんど他人と化した。自藩を犠牲にして幕府を守ろうなんて気持ちはぜんぜんなくなり、その心底、外様大名家とちっとも変わりがなくなった。これは封建制度が必ず辿るコースなのだ。譜代家が家康の直系の息子だったとしても同じ。封土を与えて独立の大名としてやった瞬間から、すでに対等の敵、潜在的なライバルとなってしまうのである。だから家康は、こんな制度は早く停止しようと苦心したのだが……。

 大名や旗本が朝廷から官位を叙任される制度は、家康としては、なんとかしたかっただろうが、鎌倉幕府からの慣例なので、どうにもできなかった。
 この点で見識のなかったやつが、新井白石。6代目の家宣に対して、武家の礼服を京都風にあらためましょうと建言したようなうつけ者だ。

 荻生徂徠はまともなことを考えた。8代目の吉宗に対してだが、幕府は独自の官位や礼服を制定して、もう京都に官位を乞うのは止めるべしという卓見を提案している。

 武士は「従五位下」より上の官位に叙せられるときに、朝廷から位記・口宣を賜る。どんな武士もそのときに気づく。日本国の主人は天皇なのだと。

 近松や竹田出雲の浄瑠璃本も、庶民に対し、日本の真の主人は誰なのかを自然に刷り込んだ。その影響力は馬鹿にできないのである。

 大名の家老が君主を諫言するとき、将軍家から何か言われたらどうするんですかと言った。幕府内部では、将軍を諌めるのに、《京への聞こえは如何》などと脅かした。将軍はこのようにして、天皇の名前で脅かされて育ったのである。「朝敵」認定されたら幕府権力もおしまいだと、じつはよく判っていた。

 福地は、儒学のことを「文学」と呼ぶ。
 シナ春秋五覇のなかで最も勢力が強かったのは斉の桓公と晋の文公。あわせて「斉桓晋文」。

 家光が貿易を禁じた理由のひとつは、物品を輸入するばかりで日本からは金銀が出て行くのみだったから。

 「豆州下田は東海の形勝たるを以て……」(p.19)。※太平洋を日本の立場からは「東海」と言う。

 嘉永6年6月3日にペリーがやってきた。13日、京都所司代の脇坂が転奏へ申達し、天皇の耳に入れる。15日、伊勢の神職どもへ朝廷からの御教書が。その中に「すみやかに夷類を退攘し、国体に拘わらしむるなかれ」とあり、これぞ「攘夷」という語の出始めであった。

 しかしどうしてわざわざ所司代が朝廷へ奏聞する必要があったのだろうか。これがそもそもの間違いではないか。福地が聞くところでは、12代目の家慶[いえよし]に尊王が刷り込まれていて、言いだしっぺであると。それに水戸の前中納言・斉昭が同意したんだと。

 斉昭が人物であることは家慶が知っていた。こういうクライシスの折には斉昭ぐらいしか相談できる大名がいないすと。それで、譴責隠居の身であった斉昭を再び登城させることにした。阿部正弘もこれには消極的に同意した。
 よくなかったのは、この斉昭を再度、窓際に退けてしまったこと。それによって、幕府は憎みを買った。
 人を任罷するにさいしては、微官・小吏といえども、軽々しく任じて軽々しく罷めさせるようなことをしたら、ボスの信用は全くなくなって、本人には大きな不満が溜まる。かえって、初めから任命などしないほうがよほどよかったということになるのである。

 徳川時代に儒学の世界では、将軍家を「大樹」「幕府」などと呼んだ。この呼称は、日本の権力を相対化させる呼び名なので、まことによくなかった。暗に、日本の正統な権威ではないとする響きがあった。

 黒船危機以前、文学者で真に高等政治に参画できたのは、白石と徂徠の2人のみである。250年で。

 嘉永・安政のころでも、荻野流の百目玉だとか、青銅製の石火矢〔臼砲のこと〕で、外国軍艦に敵し得るとは、誰も思ってなかった。

 幕府は、米艦隊には勝てないから、開戦は回避するしかないと内々に結論したのに、それを上で決めて布告すると世論が反発するだろうと心配し、まず諸大名や諸役人から書面で避戦論の意見を提出させようとした。幕府はほんとうは主戦論なのだが、みんながそういう意見ならしかたないので、戦争はやめる、という格好にしたかった。この卑怯が、世間からは、完全に見透かされた。そして、逆に、下から過激な主戦論を建言することで、武勇の美名を世間に博するチャンスだととらえられた。

 越前からの上申。上様はとうぶんのうち、甲府へ移るべきだ。
 肥前からの上申。夷狄がすきをうかがう=「御国体に関係」いたすので、断然、打ち払えと命令しなければならない。

 幕閣では、堀織部正が、さっさと御見切り→御手切 を決心しないと人心が撓むから手遅れになるぞと。

 水戸老公の考えは、米国が攻撃するというなら戦うべしとまずこちら一同の決心を定め、しかるのちに談判にかからなければいけない。われに戦うの決心あって和するは、和である。その決心なくして和するはすなわち、降である。

 福地いわく。われにも彼にも戦争と思わせておき、手短にすばやく談判をまとめるといった芸当は、将軍が真に英主で、閣老に外国談判の才能がないと無理。阿部は外国語はまったく理解できず、外国使節と直接談判ができなかった。だから、水戸式は言うべくして無理。

 幕府はペリーに返事は来春しますと答えた。ペリーは、それでは来年再訪しようと言い残して去った。幕府は、どうせ翌年すぐには来るまいと期待していたが、あにはからんや、正月早々、約束の如くペリー艦隊は浦賀に出現したので幕府はふたたび周章狼狽。

 ここにおいて日米和親条約が調印される。これは正式の条約なのであるから、国内に対してもその内容を広く公知させるのは当然だった。ところが幕府は、その条約締結の事実そのものを国内に対して隠蔽しようとした。あたかも米国には臨時的な許可を与えただけ、と粧おわんとした。
 徳川幕府も、慶長から嘉永に至るまで、これほど子供じみた対内詐術をたくらんだことはなかった。とうぜん事実はすぐ知れ渡る。人々は、幕府の内兜を見透かした。こいつらもうどうしようもなくなってるぞと。

 幕府は、親藩では徳川斉昭、外様では島津斉彬に、破格を以て国策を相談するしかなかった。この2人だけが、とりあえず話ができそうな大名だった。当時の大名は能力主義ではなかったので、「名君」など、まず、いない。日本じゅう探しても、そんなものだった。

 従来、江戸10里内では、誰であれ、発砲は禁じられていた。阿部は、この禁制を撤廃した。諸藩は、江戸の藩邸に鉄砲を大量に持ち込んで、調練をしなさいと、幕府から促した。輸送のための大型船舶も自由に建造せよと。
 幕府みずからは、大森に大砲の「町打ち」(ロングレンジライブファイア)ができる演習場を開いた。
 品川には、砲台を建築し始めた。

 阿部と島津斉彬の交際が親密であったことが、末期の幕府のためには幸いであった。薩摩はみずから建造した軍艦を幕府へ献上してくれた。不運にも、この阿部と斉彬はどちらも若死にする。それで、誰も水戸を制御できなくなって、幕府の滅亡は加速されるのである。

 将軍家定が世子だったとき、京都の公家の娘2人と婚姻していたが、あいついで薨去。そこで安政3年、薩摩から篤姫を娶ることとなった。もちろんこれも阿部のはからい。
 篤姫は斉彬の実の子ではない。末家の血筋を臨時の養女に仕立てたものである。そういうこともよくあった。33歳の家定は一種の精神病患者で、通常の夫婦生活も成り立たぬ相手であることは、全員さいしょから承知であった。

 人々が構想していたのは、この家定将軍をさっさと隠居させ、英明な養子をとらせて、その人に国政の指揮をとってもらわねば、今の国難は乗り切れるもんじゃないということだった。その候補が一橋慶喜であることも、だれもが考えたことであった。

 安政4年、ハリスとの新条約交渉のさなかに阿部が39歳で過労死。
 阿部より能力の低い老中の堀田が、ハリスとの衝にあたる。
 ハリスは堀田邸で6時間にわたり、阿片戦争について解説してやり、早く米国と条約を結んで開国しないと、強欲な英国から武力侵略されるぞと脅かした。

 堀田以下、その場に居並んだ永井玄蕃などのテクノクラートも、茫然として迷夢の醒める心地がした。
 ハリスは日本のために新条約で2割の輸入税を定めてくれた。酒や煙草は3割5分である。これが先例となって、英国その他もこのレートを呑むしかなくなったわけ。

 安政元年12月23日、朝廷からの太政官符。五畿内七道の梵鐘をもって、大砲、小銃を鋳造せよと。
 こんな命令が京都から出されることを追認したことで、幕府は日本の政府ではないと内外に宣言したようなものだった。

 藤田東湖が生きていたころは水戸老公も無謀な攘夷家ではなかった。

 なぜ慶喜ではなく、13歳の紀州慶福[よしとみ]=家茂が14代目に指名されたか。
 まず、家定本人が、優秀すぎる慶喜が養子になることを嫌った。暗愚の将軍だったが、それでも、じぶんのもっている巨大権力を奪われることが面白くないと思った。
 次に、大奥が反対した。これは、家定のとりまき全員 とイコールである。家定が隠居すれば、とりまきも権力を殺がれる。権力のうまい汁を吸えなくなる。ゆえに、有能すぎる養子を歓迎するわけはないのである。
 この結果、また幕府の滅亡は避けがたくなった。とりかえしのつかない数年間の迷走が続いたからである。

 大奥=紀州派が頼りにできた幕府の大物は、累代、京都守護の、井伊家の直弼、ひとりだけだった。井伊は、大老になるための条件を、あらかじめ、呑ませる。すなわち、大老になるからには自分が政治を独裁する。養君を誰にするかは自分が決める。内外の政策もすべて自分が決めると。

 「およそ人そのすでに得たる所を失うを欲せざるは、普通の性情なり」(p.82)。

 内訌と外患が同時に来ては往生するから、井伊といえども、いったん結んだ条約を反故にはし得なかった。開国条約に調印することにし、それを「宿次奉書」(今の書留郵便)で朝廷に報告した。
 使者による報告ではなかったことが、倒幕派には攻撃材料を与えた。

 幕府は、諸国大名が公卿と通ずることを禁じていたが、幕末にはそれがルーズになっていた。この公卿との連絡工作のことを「手入れ」と称した。

 老中が堀田だったときは京都にはしっかりと金銭を与えていたのに、老中が間部になるや、つけとどけを絞った。
 井伊が駒込に蟄居させていた水戸老公に、攘夷の密勅が下された。
 井伊がこれを糾弾する過程で網にかかり、死刑に処されたのが、橋本左内や吉田松陰。また、慶喜派だった幕吏の永井玄蕃、川路左衛門尉らは、隠居永蟄居に。

 永井はハリスから指名されて万延元年の幕府最初の対外使節に加わるはずだったのが、井伊のために外されている。軽輩だった勝林太郎や小栗上野介は問題なく加わった。

 安政6年に英国は新潟港を調査して、貿易港としては不適当であると結論し、代りに七尾か酒田はどうだという話があった。
 安政6年に「豆小判」が鋳造された。金銀レートを合理化するために。
 貿易は、兵器輸入を除けば、赤字ではなかった。金銀を使って外国製兵器を買ったので、国内の物価が上がった。

 桜田門外で首を切断された井伊はいったん帰邸してしばらく存命であった風を幕府は演出させようとした。そうすることで人心を落ち着かせようと考えたのだが、あまりにも庶民を馬鹿扱いした猿知恵と思われ、朝野上下、却って幕府をののしった。

 このケースのような不覚悟の横死を当主が遂げた場合、大名・旗本をとわず、禄は没収され、家名は断絶するのが幕府の憲法であった。しかるに井伊家は救済された。

 井伊が死んだので、幕府の実権は久世と安藤の2人の老中の手に帰した。
 水戸老公は8月に病死。これで慶喜の謹慎も免ぜられた。

 世の中の風潮は、一挙に、《攘夷を唱えない者は非国民》という有様になった。井伊の国許の彦根では、一藩連署して攘夷の先鋒たることを願い出たほど。
 攘夷論の震源地は、俄然、水戸から京都へ移った。

 長州藩では、はじめ、長井雅楽が京都公卿のあいだに公武合体を説いて成功しかかったが、藩論をまとめられず、自裁させられる。

 その後、過激倒幕論は長州がスポンサーとなり、京都の有栖川宮、三条を抱き込んだ。
 佐幕路線派は薩摩がスポンサーとなり、中川宮、岩倉がその仲間に。

 文久2年に大原勅使が江戸にやってきたとき、すぐに、将軍辞表&大政返上をしていたなら、幕府主導の立憲議会政治にうまく移行できたかもしれない。英邁な慶喜が将軍だったらそれができただろう。しかし子ども将軍(文久3年時点で17才)の家茂と権力亡者のそのとりまきたちでは、いかんともしようがなかった。

 小笠原長行は執政になった。大名火消しは解散。参勤交代を廃し、大名妻子は国許に帰させた。

 小栗忠順はかつてこう言った。「どう(に)かなろう」という言葉は、その一言で、国を亡ぼすようだと。

 今日(明治24年)、民党の連中は、政治意見を同じくしない者を、「吏党」「民敵党」と罵る。文久年間には、攘夷過激主義に賛同しない者は、ことごく「奸物」「国賊」とレッテル貼りされて、いつ暗殺されてもおかしくなかった。

 島津氏は生麦事件の余波の戦争が迫っているので京都でぐずぐずしていられなかった。結果、京都は完全に長州過激派に牛耳られた。

 文久3年に幕府が京都治安のために使える装置は、守護職代の会津兵だけ。
 この時点ではすでに江戸と大阪の間は外国汽船を雇えば高速移動可能だった。

 文久3年11月に江戸城の本丸と二の丸が火事で丸焼けになったことは人々を驚かせた。その前に西丸も焼けていたので。

 元治元年の朝廷と将軍のやりとり。これが、まったく政権が朝廷にあるような内容になった。この奉答書をまとめた幕閣は、維新後の靖國神社に祀られる資格がある。まさに倒幕の功労者だからだ。

 内治についても外交についても果断なく、「否」の一語を大声に言えない怯懦が、幕府をますます弱体化させた。

 水戸の藩主は定府。つまり常に江戸に居住と決まっている。いきおい、江戸邸と国許とで、議論が二つに分かれてしまう。これが天狗党暴走の背景。

 文久2年に幕府使節が渡欧し、兵庫と新潟の開港の約限を5年先送りしてくれと頼んだ代償として、ハリスがとりつけてくれた輸入税はチャラ同然の「5分」に引き下げられ、馬関の無料通航が認められていた。
 ※これは長州藩の財源に打撃を与えるという遠謀もあったのだろう。

 元治元年の在京の幕府機関は、外交の事情に暗かった。また江戸では、西日本の力のバランスが激変していることが、まるで伝わっていなかった。

 幕府は、日本の政府であるならば、四国連合艦隊の横浜出撃を止めるべきだったのに、ひそかに、長州をやっつけてくれと声援する気持ちでそれを送り出した。もう、おわっていた。

 第一次長州征伐のとき、長州藩は3家老を切腹させてその首を差し出した。今日からみると幕府を恐れすぎていたように見えるが、馬関で外国軍に大敗し、朝廷からは朝敵認定されて、さんざんな時だった。

 第二次長州征伐のときは、動員された幕府側部隊の誰も、実戦になると思ってなかった。第一次のときは、実戦する気であった。この差は大きい。

 江戸の幕府幹部は西国の強さを知らずに、楽勝だと思っていた。

 四境戦争で長州は逆寄せして占領地を増やした。関門海峡の対岸まで広く支配した結果、幕府の船は関門海峡を通航できなくなってしまい、大困り。

 慶応2年、家茂は21歳で病死。

 徳川将軍の血筋は、4代までは父子で続いたが、家綱に実子がなく、弟の綱吉に筋が移った。その綱吉にも実子がなく、6代は家宣[いえのぶ]に筋が移った。その子の7代・家継は8歳で没。8代は紀州家に筋が移った。10代の家治がまた子がなく、筋は一橋家の家斉に移った(11代)。13代の家定にやはり子がなく、家茂に血が移り(14代)、最後の15代は一橋慶喜。

 家茂の没から半年たたない慶応2年12月、こんどは孝明天皇の崩御。※天然痘。

 元治元年末から慶応元年にかけて、幕府の主導権は親仏派が握った。パリには幕府の事務所が常設された。
 幕末に幕府が頼りにできる諸藩は東北にばかりあり。いずれも小藩。

 幕府は情報収集ができておらず、薩長同盟にぜんぜん気づかなかった。
 大政返上ができたのは、まったく土佐の山内容堂のおかげ。

 討幕の密勅は、福地も、維新後数年後に初めて写しを目にし、愕然とした。当時は、誰も知らなかった。
 これは、二条城の慶喜が大政返上する動きをスパイによって察知して、その先手を取って大急ぎで製作されたものだろう。
 列藩議会の牛耳を幕府に取らせないために。
 ※注にいわく。この密勅には天皇の親筆部分がなく、中山・正親町三条・中御門の公卿の花王もない。贋物だろう。密勅は岩倉が起草させ、大久保に手渡した。

 密勅の存在が世間に広まり出したのに続いて、薩摩藩邸砲撃。市中強盗の聖域になっていたので。これで大坂方面でも、決戦のときが来たと両陣営が認識した。

 将軍は大坂にいてもしょうがないから開戦の前にさっさと江戸へ戻っているべきだった。
 幕府軍は、全部隊一丸となって山崎街道を京都へ進軍すれば、勝てたかもしれないのに、そうしなかった。わざと兵力を分散し、細道を進み、側面を敵にさらした。

 聞くところでは、幕府に対してスパイ工作があり、現地部隊では、京都で必ず内応者が出るという話を信じていたらしい。だから、会戦は予期せずに気楽に前進していたのだ。

 8代吉宗将軍は、日本の西洋学をスタートさせた偉人である。
 寛政の改革の背景には、11代家斉将軍がいた。若いときから豪邁だった。

 繰り言になるが、慶喜が将軍になったときに、ただちに大名を議員とする「国会」を開設してしまうべきだったのである。もちろん大政返上と同時にだ。そしてみずから復古の基礎を樹立しますよと宣言すればよかったのだ。

 以下、巻末解説。
 福地は天保12年に長崎に生れた。医師の末子だった。
 オランダ語を学び、18歳で長崎造船所にも勤務。
 ついで江戸で英語を学ぶ。
 文久元年、外国奉行の随員として、渡欧。

 フランスで万国公法の研究もした。そうした知識をひけらかして威張るので、共和主義者だと讒言されたことも。
 江戸開城のときは、主戦論を主張した。

 渋沢栄一の推挙で伊藤博文に接近。
 福地は四度も洋行した。グラント大統領にも会った。裁判制度も研究した。

 大久保とは馬が合わなかった。
 西南戦争中は新聞主筆として山縣有朋の側にいて活躍。14年までが得意の絶頂。
 軍人勅諭の文章にも、福地は関与している。

 外国奉行を勤め、慶応年間に遣仏使節の一員になっている栗本鋤雲は維新後、『郵便報知新聞』に招かれた。
 M15に泡沫団体の「立憲帝政党」を立ち上げた頃から福地は調子がおかしくなる。民心から乖離してしまう。
 幕府側から書かれた資料として、山川浩の『京都守護職始末』もある。
 『徳川慶喜公伝』は渋沢がさいしょ福地に執筆依頼した。だがその準備中に福地は病没した。
 福地の自叙伝は『懐往事談』。


アパッチの部品の規格検査に不正があったと発覚し、米軍はメーカーからの調達をまたしても一時停止中か。

 Eli Kravinsky 記者による2020-10-19記事「Below Threshold Options for China against the U.S.」。
   国務省のカネで中共に語学留学してきたハーバードの院生が7月に書いたリポートのさわり。

 中共の大方針は、対米本格開戦に至らぬレベルの諸作戦によって歩一歩と南シナ海を征服することにある。
 それには新たなオプションもあり得る。

 艦船を米海軍の軍艦にわざとぶつけてくるオプション。FONOPをやめさせるためのイヤガラセだ。
 場所はシナ沿岸が選ばれる。この海域では米側が応援を呼ぶのに半日以上かかる。だからシナ側は物証を米側に押収される心配がない。

 逆にシナ側は救助救難に名をかりて米国人を本土に拉致し人質にすることもできる。

 米国内で暴動を扇動するオプション。国内で騒乱があれば、元首は外交に集中できなくなる。それは中共のメリットである。

 台湾を海上封鎖するオプションは、海上保険料が爆上がりするので、自傷行為だろう。

 ※ユーラシア大陸内の覇権勢力が支配地を拡張して行く手口は常に、隣接した敵陣営の内部に「内通者」「寝返り」「奔敵者」「裏切り者」を獲得することによっている。ところが地理的な条件のため、西欧や島嶼に対しては、この手口が効きにくいのである――という機序については拙著『地政学は殺傷力のある武器である』で論述したところだ。

 ※明日21日の弁天町の「フォトスペース 一期一画」には駐車場がないのですが、路面電車道のすぐ向かい側に「弁天町会館」というところがありまして、その会館が面している道路(姿見坂の一部)は、夜間ほとんど人通りがなく、しかも、駐禁の道標がないところがありますので、20時までなら停められるんじゃないでしょうか。



「地政学」は殺傷力のある武器である。〈新装版〉 ニュー・クラシック・ライブラリー


日本史の謎は地政学で解ける (祥伝社黄金文庫)

番組そのものが「クラシック」として何年も残る名誉

 英語版のウィキペディアで「Edd China」さんについて読んでみた。
 1971年うまれの彼は「ロンドン南岸大学」でエンジニアリング製品デザインを専攻した。

 在学時代に「カジュアル・ロファ」という、自走するソファーを設計製作し、これがヒットして、ベリーズの投資銀行に資産を築くまでになった。

 卒後はテレビ業界に入る。初仕事は1994年の「ファーザー・テッド」というコメディ番組のために特殊効果ガジェットをいろいろ提供する技師であった。

 1998年に「トップ・ギア」に出演し、「カジュアル・ロファ」を運転してみせた。
 同年中に3回、エドは「チャンネル4」の「ビッグ・ブレクファスト」に出演した。それぞれ、「カジュアル・ロファ」「ボグ・スタンダード」「ストリート・スリーパー」という彼の作品を運転してみせた。

 また「スクラップヒープ・チャレンジ」(米国では「ジャンクヤード・ウォーズ」という番組名)にも2回、ゲスト出演。

 1999年、チャイナはBBCの「パニック・メカニック」の専属デザイナーに迎えられた。
 さらに「トップ・ギアー」の企画「しわい予算内でボンドカーを作れ」では、200ポンドで調達された中古の「ローヴァー800」に、費用100ポンドで、射出座席を組み付けてみせた。

 2005年、チャイナはBBCの、子供向け料理番組にゲスト出演(彼自身には子供はいない)。また同年、マイク・ブルワーと共演で「オート・トレーダー」という、短命におわるテレビシリーズのホストを勤めた。このシリーズは「ディスカヴァリー・チャネル」で放映された。

 2005年からディスカバリーチャネルが放映したミニシリーズの「クラシック・カー・クラブ」等にも彼は出演している。これは英国車だけが対象。

 2003年、チャイナはディスカヴァリーによって、マイク・ブルワーとともに雇用される。
 これが「ウィーラー・ディーラーズ」(日本のCSでは「名車再生! クラシックカー・ディーラーズ」という番組タイトル)の始まりであった。

 このコンビは13シーズン続いた。2003年から2017年。

 チャイナの脱退宣言は2017-3-21のユーチューブ・チャネル上であった。

 別サイトによると、このときのメッセージはこんな感じ。

 「ウィーラーディーラーズ」は世界の約220地域で放映されている。おそらく自動車番組としては世界最多の視聴者がいるだろう。
 この番組をスタートさせたのは、英国の小さなニッチ・チャンネルだった。当初の番組スタッフは、「アタボーイTV」という番組制作会社の幹部2名と、1人の番組制作指揮者、1人のカメラ、1人の音響、そしてディーラー役のマイク・ブルワーとメカニック役の私(エドワード・チャイナ)だけ。つまりぜんぶで7人でやっていた。

 番組が人気を得るにつれて、最終的にスタッフの数は45人以上に膨らんでいる。取り扱った自動車は135台だ。
 ※ここが重要。そこまで一人で分っているわけがないだろうというディープでワイドなノウハウが披瀝されるようになって行く。だが編集のテンポがよいので、それでも気持ちが好いのだが……。

 シーズン12以降は米国の「ヴェロシティ・チャンネル」が放映権を握り、撮影本拠地はカリフォルニア州の「ディスカヴァリー・ステュディオ」に移った。

 ヴェロシティの経営陣は、この番組で、いちばん手間時間=すなわち人件費が発生する部分、すなわち、ワークショップ内でエドが次々と修繕を加えて行く説明シーンを、削減しようと望んだ。私は、その方向で行くのなら、私(エド)抜きでやってもらえれば満足なので、チームから抜けることにした。

 思えば2002年から私は「ウィーラーディーラーズ」にフルに関与してきた。こんなことができるだろうかというチャレンジと達成の連続。ローラーコースターの気分だった。

 というわけでシーズン13をもって、私は消える。
 しかし「ウィーラーディーラーズ」の制作は続行される。マイクと組む新顔のメカニックは、アント・アンステッド君になるようだ。応援してやって欲しい。

 私はすでに別な番組で驥足をのばしている。ユーチューブでもいろいろ始めるよ。

 ――以上が、2017-3-21メッセージの抜粋。

 ブルワーは、いやワークショップシーンを1秒たりとも縮めることなどないという打ち消し発言を発信したが、ブルワーのところへは番組ファンからの脅迫メールが殺到したそうである。

 検証したファンがいる。「Was Edd China right? Have Wheeler Dealers reduced workshop time?」という記事が公開されているので抜粋しよう。

 シーズン14の番組制作方針について、マイクとエドの、どっちが正確な発言をしたのか?
 調べるため、まず、シーズン13までの、修理工場でエドが修理する様子を説明するシーンだけをストップウォッチで計測してみた。エピソード選択はランダムにした。

 シーズン4のエピソード7では、17分4秒。シーズン7のエピソード2では、19分51秒。シーズン8のエピソード5では19分40秒。シーズン13のエピソード13では、25分32秒だった。

 とうぜんこれしきのサンプルではラフな大づかみしかできないが、平均してエドの作業には番組のなかで19分から20分をあてていたのだとイメージできる(ただの会話シーンはカウントしていない)。

 次に、メカニックがアント・アンステッドに変わった「シーズン14」から4回分のエピソード(ランダム抽出)について、同様に、修理シーンの尺を計測してみる。
 エピソード1では、17分58秒、エピソード3では11分17秒、エピソード6では13分55秒、エピソード8では18分53秒、であった。

 2つのエピソードは、メカニックの解説に18分から19分を割り当てているが、あとの2つはガックリと減っている。
 平均して、「シーズン14」以降は、番組中のメカニック解説は5分くらい短縮されたと見ていい。
 エドが語った通りになっているじゃないか――。

 2018-5-1にユーチューブチャネルにて「エド・チャイナのガレージ・リヴァイヴァル」という新シリーズのパイロット回が公開された。これは、続いていないようである。

 しかし「ウィーラー・ディーラーズ」を視たファンからの質問にユーチューブで答える彼の活動は続いている。

 ※完結したがために、奇跡の面白番組となった。つまりエドさんは良い潮時に身を退いたのだ。象徴的だったのが、電動モーター化したマセラッティ。いずれはガソリン・エンジンそのものへの風当たりも強くなるだろうと予見させた。あと、たった14年間のことなのに、再放送で見比べると、エド氏がどんどん老けて行くのが、哀しいんだよね。若々しいが頼れるメカニック、という外見とキャラのギャップがセクシーだったのに……。そんなことが気になる年齢になってしまいました……。



地獄のX島で米軍と戦い、あくまで持久する方法―最強の米軍を相手に最悪のジャングルを生き残れ! (光人社NF文庫)

エンドレス禍

 CAITLIN M. KENNEY 記者による2020-10-16記事「USS Theodore Roosevelt faces coronavirus again after two sailors become sick」。
    空母『セオドアローズヴェルト』艦内にまたしても新規の新コロ発症者が2名、出た。
 カリフォルニア州沖を航行しているさなかに、2名が自主申告してきた。そして過去3日間、テスト陽性であった。この報道はNYTが10-16にさきがけた。

 すでに2名は艦外へ移送され、隔離されている。また、2名との濃厚接触者たちは、艦内隔離されている。

 『TR』は母港のサンディエゴに7-9に戻ってきていた。
 同艦は3-27にグァムに碇泊してから2ヵ月弱、計1273人の新コロ罹患者を数えたのだが、死者1名を出しただけで、その後、立ち直っていた。

 そして10-15に新任務のためにサンディエゴから出航したところで、この騒ぎとなった。

 次。
  Matthew Cox 記者による2020-10-15記事「The Army Is Paying $87 Million for An Upgraded Carl Gustaf」。
    米陸軍は、カールグスタフ「M3E1」の調達について、メーカーのサーブ社と8700万ドルの新契約。数量は非公開。納品は2021年から7年がかりだという。

 米陸軍の第75レンジャー連隊は1990年代前半に「M3」を採用。
 アフガン戦線では軽歩兵部隊が2011年から「M3」を使い始めた。「AT4」ではダメだというので。

 米陸軍は2017年に最新型の「M3E1」を、歩兵小隊の標準重火器として大々的に採用すると決めた。
 それは「M3」より28%も軽量な14.8ポンド。ちなみに使い捨ての対戦車ロケット弾AT4は15ポンド。歩兵が肩撃ちできる本格対戦車ミサイルの「ジャヴェリン」だと50ポンド。

 「M3E1」は弾薬の信管を発射前に射手が微調節できる。フォアグリップにコントローラーがついているのである。無誘導だが、たとえば遮蔽物の向こう側の敵に対して最適の爆発モードを選択できる。



技術戦としての第二次世界大戦 (PHP文庫)

米陸軍はカウアイ島のテストでハイパーソニック弾を誤差6インチで命中させた。

 Tanner Garrity 記者による2020-10-15記事「The Pandemic Killed the Bench Press. Here’s How to Replace It.」。
      新コロのおかげで、ジムでベンチプレスすることが難しくなってしまった米国。1950年代いらい米国人男子は女子よりもじぶんの「胸囲」増強に関心が高かった。だから彼らはベンチプレスが大好きなのに……。

 だが専門家いわく。スタンディングポジションからのリフティングにくらべて、ベンチプレスは動員する身体の部位が局限されていて健全じゃなかったので、このさいベンチプレス抜きの筋トレに転換する好いチャンスだろうと。

 たとえば平行棒の間で自分の体を持ち上げる運動。上体をまんべんなく鍛えたいのであれば、こっちの方がずっと合理的なのだという説あり。ベンチプレスと違い、傍らで事故が起きないか見張る係も、居る必要はない。
 腕立て伏せでベンチプレスの代わりをしたい場合は、「肩幅より広く両手をつく」「足を高い台に載せてする」「片手だけでする」の三種類を試すがよい。

 次。
 Rachel Lance 記者による『SMITHSONIAN MAGAZINE』3月号の記事「The New Explosive Theory About What Doomed the Crew of the ‘Hunley’」。

 1864年2月。
 南軍の人力潜航艇『ハンレー』は、湾の引き潮に乗って『ホサトニック』に近づいた。
 チャールストン港を封鎖中であった『ホサトニック』は船体中央部の底に爆発を感じた。急速に沈み始め、艦首部に位置した水兵すら、こりゃもうダメだと直感できたという。
 この爆発と沈没で北軍側には5人の死者が出た。
 寒かったはずだ。
 潜航艇も、二度と浮上しなかった。
 みずからの「スパー・トーピドー」の爆発に巻き込まれたのだ。
 沈んだところの深さは30フィートであった。
 ひとりの懐中時計は午後8時23分で壊れて止まっていた。

 この潜航艇は2000年に引き揚げられ、詳細に調査された。
 乗員が整然と着席したまま死んでいたので、謎が深まった。
 その謎を、記者はついに解明した。

 記者は水中爆傷の専門家である。海軍嘱託としてWWII中の症例を調べまくったことあり。

 長筒形の潜航艇『ハンリー』内部には7人の男が横向きに並んで腰掛け、目の前のクランクを両手で回していた。
 クランク軸はセンターより右に寄っていたので、男たちは左舷に腰掛け、釣り合いを保っていた。

 スパー・トーピドーは海面下8フィートに位置した。艦首から延びるスパー棒の、取り付け角は、マイナス45度であった。スパー棒の長さは16フィートであったことが、サルベージの結果、判明している。

 トーピドー本体は銅製の樽で、中味は135ポンドの黒色火薬。発火は、大砲用のニップルキャップ(外装雷管)を、ばね仕掛けのハンマーが叩くことによる。

 ハンリーの乗員たちは、艇外への脱出を試みた様子が無いと認められた。
 記者は『ハンレー』の艇内容積から、乗員が酸素不足(二酸化炭素過大)を感じて苦しみ出し、さらに酸素濃度が減って気絶するまでには、30分から60分の時間があったはずであることを算定した。
 したがって彼らの死因は窒息ではない。とすると、考えられる原因は、爆圧だ。

 クルト・ヴォネガットという人が、WWII中にドレスデン市で、防空壕の中で大量死した住民たちの死体が腐る前に移動させるという仕事をしていた。かれの証言によると、死者たちは皆、壕の中で、苦しんだ様子もなく、椅子に座った姿勢のままで死んでいたという。
 これは焼夷弾のせいではなく、HE爆弾のせいだという。

 ※この部分は非常におかしい。地下壕には爆圧は空気を伝わって到達するはずだからだ。もし防空壕の中で爆圧による大量死が起きるならば、同じ現象が、WWIのトレンチの中や、ベトナムのトンネルの中でも観察されるはずだろう。そんな話は聞かれないのである。

 音は水中を毎秒1540m進むが、空気中だと毎秒30mしか進めない。
 人体も水でできているようなものだが、肺胞には空気がある。そのため、もし人体にまで音が秒速1540mで伝わってきたとすれば、音波は、肺に於いて急減速するから、人体は打撃を受けるだろう。

 制動されて行き場を失った音速のエネルギーが柔軟な組織を破壊する。肺の中で「スポーリング」という現象が起き、肺胞の中を血液飛沫が飛び交い、ガス交換ができなくなってしまう。

 どのようにして『ハンレー』の艦内に衝撃波が伝わったのかは、よく分らない。しかしそれは伝わり、乗員は肺を破壊されて全員が急死したのである。

 ※この説明にも疑問がある。潜航艇の内部がすでに空気の空間なのだから、水中音速の旧減速・およびスポーリングは、人体内ではなくて、一重金属であったHullの内壁においてまさに起きるのではないのか? それに、WWIとWWIIとで、至近距離での爆雷爆発から生還した潜水艦の内部で、記者の主張する『ハンレー』のような現象が起きたという話を、潜水艦のどの部署(一重船殻部位を含む)であっても、聞かないではないか。

 記者は、大学内で爆発実験ができないので、農家の池を借りることにした。
 そして地域の、「アルコール・煙草・銃器取り締まり局」から正規の手続きにより黒色火薬20ポンドを調達。

 小型の模型潜航艇の内部に計測装置を仕掛け、283グラムの黒色火薬を何度も水中で爆発させて、圧の伝わり方を調べた。
 教訓。水中で音圧を測る計器は、どの方向から来る圧も拾えるタイプでなくてはならない。これ、重要。

 人間を宙に吹っ飛ばすような力はぜんぜんないレベルの、比較的に軽度の爆圧であっても、この、肺胞破壊を起こすポテンシャルは、あるのだ。
 ※それでパルス状のソナーにやられた海中哺乳類が苦しくなって岸に上がるのか?

 魚類は、この爆発性の水中音波に対して、耐性がある。というのも、体内に肺胞がないから。〔浮き袋があるが、それは呼吸とは無関係で、即死にはつながらないから。〕

 記者レイチェル・ランスの著作は2020年4月7日に出版されている。



ニュースではわからない戦争の論理

こんどはソマリアからの撤退か。

 Rachel S. Cohen 記者による2020-10-13記事「Hypersonic Attack Cruise Missile Becomes High-Priority USAF Project」。
       米空軍が2種類のハイパーソニック巡航ミサイルを密かに開発中であることは2019-7に『エヴィエーションウィーク』誌がスッパ抜いていた。
 これについて空軍の兵器開発担当のコリンズ准将が『エアフォースマガジン』誌のインタビューの中で認めた。

 HACMは大気をとりいれてエンジン燃焼を維持する。このため軌道は比較的低空であり比較的短距離。

 もうひとつのARRW=空中発射型迅速反応兵器 は グライダー。大気中で発射され、ロケットで加速され〔たあとはエンジンは止ま?〕る。
 ※記事では詳説されていないが、名前から推して、かつて提案されていた、非核のSLBMの代役になるような戦略射程の通常兵器なのか? ローグネーションの指揮所を直撃する首狩り用途の……。

 HACMは従来の戦闘機や爆撃機から運用される。
 発射直後の加速は固体ロケットを吹かす。

 もっと大きく、多用途な「メイヘム」も構想されている。攻撃のみならず、たとえば片道の偵察飛行もさせられるようなもの。吸気型のハイパーソニック巡航機体を使う。

 ARRWはブースターによる加速テストが2020末までに行われ、来年春には飛行テストへ進む予定。B-52に吊るして空中の様子を見るテストはもう了った。

 次。
 Patrick Tucker 記者による2020-10-13記事「Chief of Naval Operations Outlines Future for Drones, Minicarriers」。
       海軍作戦部長のマイケル・ギルデイ提督が、雑誌の『ディフェンスワン』のインタビューに答えていわく。
 大型正規空母の必要数は将来、減る。と同時に、航空機を離発着させられる軍艦の数は、むしろ増やされるだろう、と。

 どうなるかは、将来の無人機の性能にかかってくる。今、有人艦上機がやっている仕事を、それより小型の無人機でできるようになったら、大型正規空母は要らないわけである。その小型無人機を運用できる小さい排水量の軍艦が多数あればいい。

 それを「軽空母」と呼ぶべきではない。人々のイメージを限定させてしまうので、よくない。「(未来型)航空戦闘艦艇」と呼ぶべきだろう。

 先週、マーク・エスパー長官は、米海軍の2045年の姿として、いま11隻ある大型正規空母の数を8隻まで減らすかもしれないと構想していることを公言した。

 エスパーは、各種の「艦上/艦載型無人機」の開発が必要だとも注意喚起した。電子戦、早期警戒、空中給油、さらには空対空戦闘を担当させるモノである。

 2015年にDARPAと海軍はノースロップに9300万ドルを払って、全長40フィートの艦載無人機の開発を依頼している。固定翼機ながら、艦艇の上甲板から自力(多発プロペラ)で垂直に発進し、巡航はノーマルに水平飛行し、帰艦時にはまた自力で垂直に着艦する。これを偵察や通信の中継などに活用する。げんざい、同機の開発はフェイズ3だという。

 次。
 Dan Nosowitz 記者による2020-10-6記事「Grapefruit Is One of the Weirdest Fruits on the Planet」。
       グレープフルーツには、人体におよぼす薬剤の効果に著しく干渉する作用があること。これは、1989年に偶然に発見された。

 柑橘類の祖先は簡単に分類すると3つある。シトロン(ブシュカン)、ポメロ(ザボン)、マンダリン(黄色だいだいミカン)だ。いずれも南アジアにルーツがある。
 これが、いろいろに、かけあわされてきた。

 ポメロとマンダリンから、サワーオレンジ(だいだい)ができた。そのサワーオレンジとシトロンから、レモンができたのである。

 いま、米国人の好む商品になっている柑橘類のグレープフルーツは、1600年代なかばにカリブ海のバルバドス諸島で誕生した。
 ヨーロッパ人は南アジアから雑多な柑橘植物をもちこんで西インド諸島に移植していたのだが、その結果、偶然に、ハイブリッドができてしまったのだ。

 どのように創造されたのかは、記録上、まったくの謎である。
 グレープフルーツという名詞も1830年代にやっと登場するので、それ以前は、違う名前で知られていたのだろう。

 グレープフルーツは、カビから身を守るために防禦物質をつくりだしていた。それが人間の体内で、たとえば血圧を変化させる投薬の効果を、やたら長引かせたりするように作用するらしい。

 アンフェタミンや、コレステロールを減らす薬、バイアグラなどを含め、約100種類もの薬品が、ほんのわずかなグレープフルーツジュースのせいで、人の体内で、その所期効果を撹乱されてしまうことが分っている。



兵頭二十八の農業安保論

旧資料備忘摘録 2020-10-14 Up

▼仲小路彰『百年戦争史』S14-7
 黒太子 Prince Noir は仏人が付けた仇名。それを英人もよろこび、直訳して Black Prince と名乗った。
 ヘンリー4世の仇名は、ホット・スパー =熱拍車。

 当時は、捕虜はカネで買い戻すことが可能。
 ジャンヌ・ダルクが刑されたのは、フランス王がカネを出そうとしなかったため。

 この百年戦争と、オスマンの西漸が、同期進行していた。

▼長瀬鳳輔『土耳古廃頽史』大9-6
 チムールに敗れたオスマンのバエジッドは、イスラムのくせにいつも泥酔。
 チムールはバエジッドの妻妾らを裸にして酌せしめた。
 残虐王の次は必ず甘い奴が立つ。

 コンスタンチノプルを陥としたマホメッド2世は、それまでのサルタンと違って真の専制君主。じぶんひとりで何でも決め、重臣なし。アドリアノープルで大砲を造らせた。

 子のセリム1世は攻略したコンスタンチノプルのキリスト教会をすべて回教寺院にした。
 1516まで、周辺イスラム勢力は大砲を保有せず、トルコ軍あばれまわる。カイロまで征圧。

 その子スレイマン1世は1521にベルグラードを300門の大砲で攻略。だがこの際にはコンスタンチノプルのような乱取りは行われなかった。

 海上では、スペイン、ローマ、ヴェニスを敗り、海賊バルバロッサを提督に任命。クレタ島以外のほとんどをトルコ領に帰せしめた。

 このスレイマン1世は名君だというので、ハンガリーから農奴たちがトルコ領に逃げてきたほど。1566没。
 その子のセリム2世は暗君で酒浸り。
 キプロスに良酒を産すると聞いて攻略にかかり、1571大敗。
 けっきょく、酒で病死。

 1669、ヴェニス軍が守備するカンデイア市がトルコ軍に攻囲され、白旗を揚げて降伏(p.59)。

 1829-9-10、ロシアに攻められたカピタン・パシャ以下5000名が降伏。黒海沿岸。

▼ヱミル・レンギル著、荒井武雄tr.『土耳古 その民族と歴史』S18-7
 ハレムはペルシャやアラブの慣習。それがトルコに入った。
 イスラム教はアラビア人が始めたが、世界に普及させたのはトルコ人だ。

 トルコはアラブ人に占領されたことはない。しかしイスラム強が良いと思って受け取った。特に「神はただひとり、預言者もただ一人であるから、可汗[カカン]もただひとりである」という政治的な整合性が好まれた。

 ベースとして、トルコ人は無数の党派に分裂しやすい。それをまとめる道具が必要であった。
 キリスト教のビザンツ帝国も、腐敗が進むと、神は1人、皇帝も1人、と唱えて専制化した。ついにはギリシャ旧教では皇帝が神になった。

 はじめにビザンチン帝国があり、それに対して最初のイスラム帝国が立った。すなわち11世紀なかばのセルヂューク朝。
 そのサルタンの勝因は騎兵隊であった。

 イエルサレムはセルジュクの占領前からもうイスラミック・アラブたちの町だったが、トルコの支配下となったことで初めて西欧人は脅威を覚えた。→十字軍。

 当時、法王すら、領土や命の危険があった。
 野蛮な封建王どもを東へ向けてやれば、法王は安全になる。
 キリスト教圏が団結したクライマックスがこのときである。以後二度と、これほど群集がキリストに熱狂したことはない。

 ジンギスカン時代の降服は、市の門を開くこと。
 インドのムガール朝は、モンゴル人が遺した。

 モンゴルから逃げたトルコ人の一隊4000人が、オットマン。
 セルジュークはモンゴルに屈し、傀儡を立てたが、全土を軍政下に置かれてはいなかった。
 セルジュークの最後の破滅を救ったのが、オットマン部隊だった。ちょうどモンゴルの生命力も低くなっていた。

 しいたげられた者たちも、変化をおそれる。もっと悪くなるかもしれないから。

 チムール(帖子兒)は包囲攻撃の第一日目には部下に白い旗を揚げさせて、敵の住民に、すみやかに降服すれば命は助けると知らせた。二日目には、一般住民の命は助けるが指揮者たちは殺されるという意味の赤い旗。三日目には黒い旗が揚がった。すべての住民を容赦なく殺すという宣言だった。

 キリスト教の廃れた信仰の代りとしてナショナリズムが、オスマンに対抗できたかもしれなかったが、ちょうどその端境期だった。

 トルコの強さの秘密がイェニチェリだと言ったのは、ヴェネチア総領事としてコンスタンチノプルに駐在したフランセスコ・フィレルフォという学究。
 とうじのヨーロッパの兵は、半封建的で、指揮権の集中が不足していた。

 貴族クラスが無いトルコで、イェニチェリは特権を与えられた集団だった。
 怪我や病気の手当ては十分だった。勇猛さを保つため結婚は禁じられていた。しかし次第にその禁制が緩み、世襲階級化し、同時に世俗化し、ただの不平士族と堕した。彼らの隊旗は、黄金の飾り付きの白絹。

 ヴァルナの会戦のとき、敵軍はこの隊旗を見ただけで壊走した。
 これと別にSpahis(騎兵隊)があった。イェニチェリより小規模。由緒正しい将兵からなる正規軍。
 トルコの砲兵・工兵は、皆、キリスト教徒の外人部隊。
 トルコ歩兵はすべて不正規兵で、コジキと動物の中間的存在だった。

 「スタンブール」は「都」の意味である。
 バイロンは対トルコ戦に身を投じて死亡している。

▼小林善八『土耳古の盛衰』大15-3
 1424にオスマンの子、オルカンの弟のアレージンが、トルコの軍装を決めた。白服を最も尊いものとし、帝室に出入りする者やプロ軍人は、頭を白布で包む必要があった。
 イェニチェリを創ったのもアレージンである。

 1536時点のトルコの総督は、三條尾の旗を印とす。スレイマンがハンガリー首都のブダに入るとき、それを立てた。

 1606-11のオーストリーとトルコの条約は、画期的。初めて、トルコ帝とゲルマン帝は、対等となった。
 トルコの歩兵はぜんぜんダメだった。騎兵のみが優秀であった。

 16世紀にはイェニチェリも銃を手にした。
 イェニチェリの総数が、5000人から6000人だったときが、彼らの精強さのピークであった。
 16世紀末には10万人規模の部隊にまで膨張していたものの、すでに烏合の衆と替わりがなかった。

▼ミハイル・イグナチエウィッチ・イワニン著、参本tr.『鉄木眞帖木児用兵論』M22-8、原1875
 前編はチンギス、後編がチムール。
 著者は露軍の中将。

 アレクサンダーもシーザーも酷いことをしている。チンギスとチムールが特に異常なのではない。
 北京の宣教師によれば、18世紀後半のシナ軍は、黄、白、青、藍、赤、黒色の旌標を用いた。

 ロシア人もロケット弾のことを「コングレフ」と呼んでいたらしい(p.10)。
 ロシア人は孫子のことを「支那のマッキアウェリ」と称する。

 ジンギスカンは飲酒は月に3回以下にしろと言っている。それほど害があった。
 モンゴル軍には金属のアーマーは無い。獣皮のみであった。

 モンゴル人は獣の血を食用に利用したいのでその首を切ることなく、四肢を縛って腹を割き、手で心臓を握って停止させる。そうすれば血がこぼれて無駄になることがないわけ。
 しかしこの流儀はイスラミックと全く違うから、文化摩擦がある。

 ある部族では、豚の膀胱を骨パイプの先に詰め、肋骨の間に刺してから膨らませ、それで心臓を圧迫して止める。電気に打たれたように死ぬという。そして肉の味もよくなる、と。

 モンゴルでは、3月から10月までを禁猟期としていた。すなわち、遠征の直前に、獲物が増えている状態を作為していた。

 もし、食い物を人に分けてやる気がないのであれば、人は、他者からの目につかぬところで、一人で食わねばならぬ。

 戦争前には必ず、降伏・臣従しろという書簡を送る。
 攻城は、まず現地の捕虜に土工させる。モンゴル人は土工の労を嫌う。
 攻撃は夜も止めず、守備側を疲れさせる。
 火矢(弩)も使う。
 隊と隊の間の信号は「旗章」を以て号令す。

 攻城中でも、夏になると自主停戦する。馬を肥らせるため。もちろん休戦前に十分に囲りを荒らしておく。
 1220-4にトルコの部族を攻めた。白旗は使われず、城門を開いて降る。

 1221に頭蓋骨の山を築いた。死んだふりをして逃れようとする敵人が多かったので、確認のため首を切り離させたのである。

 チムールは1333生まれ。
 山岳出身の「よじのぼり歩兵」を攻城に使った。
 主力は重騎兵と軽騎兵だった。

 チムール軍は、サマルカンドから出撃したとき、隊別の色を決めた。赤旗を立てる部隊は、甲冑も武器もぜんぶ赤くする。同様に、黄色部隊と白色部隊あり。

 モンゴル軍もチムール軍も、「軍団の大旗」を有していて、退却の際はその大旗の場所を目指す。
 チムールがインドを攻めるとき、象対策として、野牛の頭と腹に、尖針ある樹枝、および、火を着けた木脂包を結束し、それを敵陣に向けて駆逐せしめた。※火牛計。実行できたわけがない。

 巴牙屠と書いてバグダッドと読ます。

▼『世界史講座 II』S34
 三橋冨治男「イェニ・チェリ」。

 スパヒは、ペルシャ語で「兵」。
 シィパヒーは、オスマントルコの騎兵。
 セポイは、西欧人が呼んだ。

 1522のシュレイマーン1世のロードス島攻略も、イェニチェリによる。
 イェニとは、アナトリア語で「新しい」。チェリとは「兵」。

 欧州ではこれが訛って「ジャニッサル」とか「ジャニセイル」とか言う。
 まず砲撃。ついでイェニチェリが突撃。このパターンを常套とす。スルタン直隷。

 スルタンの肉入りスープを相伴する特権から初期は白色フェルト帽に「匙子の飾り」がついていた。後に金刺繍の紅帽に。
 軍旗代りは巨大な金属鍋。
 イェニチェリアーシ(司令官)の天幕には、コーランの句を刺繍した白絹旗を翻した。

 マフムト2世は砲兵隊によりイエニチェリを全滅させた。叛乱源となって久しかったので。1826のこと。
 イェニチェリをエジプトで真似たのが「マルムーク」である。ひとつのカーストになった。

▼川崎淳之助『チムール』1977
 馬乳酒のクミスは度数が12から50もある。
 イスラミックであったが、わざとモンゴルのヘルメットを被っていた。

 クリストファー・マーロウの脚本の中では「タムバレイン大王」。
 天幕の色を白→赤→黒と攻城3日間で変えたというのは根拠のない伝説(p.126)。

▼日本狩猟協会pub. 月刊『猟友』
 創刊はM33-2-1発行号。
 所得税に応じ、銃猟税は一等から三等に分かれていた。それが最近の改正案で、一等と二等に整理される。
 また、猟区設定権を強める。そうなれば、外国人と貴族しかできなくなる。

 M33-3-1発行号。この時点で、33年度中に東部都督管内の歩兵に5連発を交付する予定で製作中である、と。※三十年式歩兵銃のこと。

 ニュース。高知の山の中で。モチが吊るされていたので、噛んだら爆発し、気絶。これは狸貂猟用のモチワナ。

 M34-4月号。十文字いわく。じぶんは8~9歳のときから射的。10歳で十匁銃の膝台射。12歳で60听砲の助手をして、鼓膜が破れて3年間、耳が聞こえず。
 8匁くらいの馬上銃に4匁玉を2つ入れて雉を射った。これが維新前の話。
 ※「二ツ玉」とはこのようなものだったのか。

 元来、日本政府は、筋入(すじいり)、すなわちライフル銃の製作を民間には許可しないこととし、明治初年いらい明治27年まで、ながいあいだ不理屈にもこの禁止を守っていた(p.64)。

 ライフル銃製造機を、射的銃に関して日本の民間で初めて作らせたのは十文字。ピストル銃では、岡本と桑原であった(p.65)。
 村田経芳の次の射的名人は、華族の青山、土井、大村、島津。非華族では、軍地勇二郎だ。

 大田黒惟信の証言。維新前は、ふつうの鉄砲は3匁~4匁だったが、細川藩だけは、6匁玉を使っていた。
 1貫目を撃つのを見たことがある。ちゃんと抱いて射つのだが、火薬はごく少なく、音はボスッと云うだけで、一貫目の大玉は15間ばかり先にズドーンと地響きして落ちた(pp.67-8)。
 ※この続きの回想が載る前に、大田黒は死去した。

 M34-9月号には、村田実包(紙薬筒)の発火金の不発問題とその改善法のアイディアが。

▼多田礼吉『國防技術』S17-4
 著者は陸軍中将、工博。
 英本国は、ブーア戦において、小銃による抵抗に逢い、手を焼いた。

 陣地戦とガソリン兵器。

 仏軍はWWI開戦当初、軍用自動車170両。
 そこでマルヌ戦では1万両を民間から徴発。
 WWI末には6万8000台となった。

 独フォン・ズーウェル将軍いわく。我々はフォッシュに破れず、戦車将軍に破れた、と。

 50kgから100kgの航空爆弾の破片の初速は、2000m/秒を超える。
 1片は10グラム前後が多い。


二回感染症例の報告は、来年の五輪などあり得ないことを教える。

Charlotte Jee 記者による2020-10-13記事「A man caught coronavirus twice?and it was worse the second time」。
     雑誌『ランセット 感染症』に掲載された、一米国男性患者の例。新コロが治ってから2ヶ月の後、また新コロに罹ってしまった。

 新コロに二度、罹患した症例として、この男性は、5番目となる。
 彼より前の4名とは、香港、ベルギー、エクアドル、オランダの患者それぞれ1名ずつだ。

 米国のこの最新患者の、特異所見。一度目の発症時より、二度目のときの方が、症状が重い。
 担当した医師が、ウィルスのゲノムを比較したところ、この患者を襲った一度目の新コロと二度目の新コロは、別タイプであった。

 類似の前例としては、エクアドルの患者も、そうであった。

 米国の患者は25歳である。初回の陽性判明が4月18日だった。喉の痛み、頭痛、吐き気、下痢などの自覚症状はその前のセベラル週間、あったという。しかし発熱は伴わぬものだった。

 4月27日には、すっかり治ったと本人は思った。5月9日と26日に2回テストして、陰性。
 ところがその2日後の5月28日、また症状が出てきた。こんどは発熱やめまいも伴うものだった。6月5日にテスト陽性の結果が出た。呼吸困難となり、入院。この人に基礎疾患は無かった。今は、快癒しているという。

 ※複数方面の環境変化が五輪を最終消滅へ向かわせている。どうやら新コロには永久免疫ができないらしいことがひとつ。ワクチンが年内に間に合っても、三密はその後も推奨され得ない。次に、商売を優先する結果、政治的に人類に大害を為しつつある中共やロシア、反日レイシズム集団である韓国人などの関与を排除することができない、没道徳性がひとつ。そして三番目は、女子競技において性転換者の身体能力が突出して来るために、いままでは主催者が説明を迫られなかった、女子競技と男子競技をそもそも分けていることにどんな正当な理由があるのかをあらためて問われてしまうに違いないこと。公平性の観点からは、馬術競技のように男女を分けないようにするのがスッキリする。が、それでは「五輪マーケット」がシュリンクするので主催者は賛成し得ず、けっきょくは、あらゆるレベルでのチートと政治宣伝まみれのイベントに堕して行くはずだ。わが政府はこのような不健全な世界とは早く公式に距離を置き、税金を投入せず、民間に任せてしまうのが、《日本の道》としてふさわしいだろう。



日本人のスポーツ戦略―各種競技におけるデカ/チビ問題

旧資料備忘摘録 2020-10-13 Up

▼『短歌』S56-11月号
 米田利昭「ミッドウェーの歌」。
 土屋文明という人がS17-10に紹介した、海軍機関大尉・佐藤完一の作:「二昼夜の後に迫りしその夜更け魚雷調整室に鎖[チェン]繰る音」。これはハワイ作戦時に作られたという。
 また同じく「全機無事帰還の報あり通風孔に耳をすませば爆音聞ゆ」というのも。
 電気分隊長だった佐藤の戦闘部署は『蒼龍』の配電室だった。水線下2.8m。そこから、飛行甲板上のできごとを音でモニターできたわけ。

 土屋いわく。事変短歌では、戦線と銃後とに、覚悟の隔たりがあった。が、大東亜戦以後、それはなくなった、と。

 佐藤の歌は11首が『アララギ』S17-2月号に載っている。
 佐藤が『水交社記事』S17-3月号に出した歌には、「攻撃は二十時間の後となり総員入浴の令かかりたり」「一次攻撃の総試運転初まりて微かなる振動はここに伝はる」なども。

 同号には「攻撃機還りたるらし通風筒に耳あてて聞く遠き爆音」もあり。こちらは脚色なしの事実に近いのだろう。

 佐藤はS12-8には水上機母艦の『神威』に乗組んでいる。兵からタタキ上げの機関将校。学科は全部、海軍の機関学校仕込み。

 『アララギ』S17-6月号に載った佐藤のインド洋での詠歌。「兵装成りて甲板に竝ぶ攻撃機十七夜の月に静かなるかも」。
 佐藤は艦上機に便乗したこともある。機種はとうぜん、分かっている。
 「一斉に風に立ちたる○○〔空母?〕群発艦指揮所に赤き旗見ゆ」
 「魚雷抱き艦橋下を過ぐるとき手を挙ぐる人と挙げぬ人とあり」
 「二次攻撃隊発艦用意の急令に整備兵の鋭[と]声は艦橋まで聞ゆ」
 「あわただしき雷撃用意に水雷兵の大かたはパンツ一つとなりぬ」

 佐藤はMIで『蒼龍』に在って戦死。だから、4月22日に柱島に戻って、5月27日にMIへ出撃する間に投稿したのではないか。

 山岸米吉は、『蒼龍』艦橋上のいわゆる「メガネ配置」――測距手だった。その山岸によると、山口多聞はMI攻撃に先立って十三試艦爆で索敵してはいかがと上申したが、南雲はそれを無視して第一次を出した。
 第一次攻撃隊を収容して、被弾するまでに、1時間あったが、山岸らは昼飯を食っていたという。

 山岸いわく。「直上急降下」というので上を見た。測距儀を上に向けて。傍らの射手の兵曹は味方機の増槽だと思っていた。被弾後、天蓋を開けて手と顔を出したら、爆風で火傷した。
 下の発令所=射撃盤にいた15人の兵士にむけて、非常を伝えるブザーを三度「ブブブ」と押したところ、下からも「ブブブ」(大丈夫)との応えあり。

 気がつくと、4人、塔の中にいたのが、皆、逃げてしまった。すでに降りる階段は赤熱。飛び降りて「旗[はた]甲板」に立つと、艦長はジャイロコンパスに腕をついて、燃えさかる飛行甲板を見下ろしていた。

 汽罐がやられ、蒸気を作れず、発電機が回らず、停電になった。
 吃水線より低いところにある配電盤の下には、ディーゼルエンジン室があった。
 一等兵曹長・清水武久によると、格納庫には二酸化炭素の瓶が積んであり、火災のときは鎧戸を閉めてそのガスを充満させることになっていた。
 待機所からは階段を4つ昇らないと外へは出られない。しかし長年乗っていたので、暗闇の中を脱出できた。
 甲板に出たら、操舵室からは「苦しい」という声が聞こえてきていた。
 配電盤=メイン管制盤は、最後まで抛棄できぬ部署。だから佐藤は、そこに残っていたのだろう。

▼『軍事史学』118号
 久保田正志「戦国期における日本での大砲使用」 
 馬の調教技術が低く、2頭曳き以上は不可能だった。それで牛にした。朝鮮でも17世紀以降、牛車輸送が発達した。

▼現代評論社『現代の眼』S56-9月号
 小島清文(元海軍中尉)「ミッドウェー・レイテ海戦と恥意識の思想」
 『赤城』ガンルームでは、和食2回、洋食1回のパターンが、沈没の日まで続いた。
 『赤城』配乗(ガンルーム前の中央応急指揮所にいた)の中学同期のS中尉に聞いたところでは、陸用爆弾から対艦用への兵装転換中、搭乗員の士官たちが「攻撃は飯を食ってからだ」と話しながらガンルームに入って行った。一刻をあらそうような切迫した空気は微塵もなかったと。

 青木大佐の処遇。商船運行監督にされた。※エリート艦長だったのに、終戦の日まで大佐なのだからおそろしい。

 北号作戦は、台風とともに北上するかたちになったので、成功した。

▼田中舘愛橘『航空機講話』大4
 空気の抵抗は速度の2乗に正比例す。

 先尾翼で、双発エンジンを胴の左右脇にとりつけ、主翼はエンジンとは無関係に、エンジン位置よりさらに後ろに高翼式配置。44馬力で109km/時を出したという、Letllier-Bruneau 飛行機。

 10年前にできたイタリアの「瓦斯タービン」エンジンの写真。

▼『東京土木建築工業組合沿革史 後篇』S18-8
 S12-10-11に、商工省令。工事に鉄筋や鉄骨を使うことを極度に制限。許可制に。

▼『物資動員』S14-4
 バルカナイズドファイバーで、機械のベルトまでつくっていた。
 石綿は朝・満から輸入。
 アルミの元の明礬石は朝鮮で採掘。
 魚の皮は、鯨と鮫のみが、使い物になる。

 英国の『マシナリー』誌の昨年7月号によると、ブレンの制式を決めてから2ヵ年にして、大量生産を確立したと。
 専用機械はすくなく、一般汎用機械に、各分業ごとの「取付具」を設備することで、単能&精密化を実現した。
 この方式なら、モデルチェンジにもマイナーチェンジにも対応できる。

 米はWWI中、スパニッシュモーゼルを、8時間で200梃製造。そのためには工作機械が499台、必要であったと。
 欧米では工員は三交代制である。
 世界の工作機械製造の三雄は、英米独。

▼松村剛『アルジェリア戦線従軍記』S37
 産経の臨時特派員として1962-2月から3月にかけて、アフリカ北岸から西岸を取材した。
 OAS(Organisation d’Armee Secrete)はウルトラ右翼からなり、アルジェリアではテロを実行。仏本国内にシンパ多し。
 仏政府は、OAS狩りにベトナム人を使った。「バルブーズ」という特務機関。
 ここをOASはバズーカで攻撃した。

 プラスティック爆弾の音は毎晩聞こえる。
 旅客機に20kgのプラスチック時限爆弾が仕掛けられるなど日常的。
 OASとFLNは殺しあっている。

 仏陸軍はOASと通じるおそれがあるため、海兵隊が警戒している。
 ヨーロッパ系住民の9割は、OASを支持。

 OASは数千人。元将軍が率いる。
 ドゴールはアルジェリアの右翼に推されて大統領になったが、初めからアルジェリアは独立させる肚であった。そこでOASが立った。
 彼らいわく、これは内戦ではない。半月旗クロワッサンに対する、十字旗クロワの、文明の戦いなのである。
 飛行場名のメゾンブランシュは直訳すると「白家」。
 1945-5-8にアルジェリア人がデモしていたところ、旗手が射殺されると、「ジハドだ」とばかり、セティフ市長以下180名の欧系住民が回教徒に殺された。その報復でアルジェリア人も1500人殺された。

 本格ゲリラ戦は1954-11以降。アバスが率いる。
 9時までに117発の爆弾が炸裂した。ケル・マチネー(なんという朝だったことか)。

 マンデス・フランスはユダヤ系政治家。
 腸チフス菌は摂氏60度のお茶で死ぬ(p.89)。

 日本の敗戦は「第二の開国」といわれた。

▼中原・佐川 共著『世界の奇病・感染症マップ』1996
 日本脳炎は、蚊→豚→蚊 のサイクル。
 1976-7にフィラデルフィアのホテルで200人が、肺炎症状。34人死亡。これがレジオネラ菌で、在郷軍人病と言われた。空調用の冷却塔内で繁殖し、飛沫が人の肺に入る。河川、湖にもいる。
 水温36度だと好適。
 二次感染は起きない。70度で死ぬ。

▼山内一也『エマージングウイルスの世紀』1997
 著者は1931生まれ。
 綱吉の時代に狂犬病の犬は観察されておらず。
 1700年代に長崎から入ってきたようだ。

 近代では明治39年の東京の7頭が最初(p.138)。※これは疑わしい。警察官がもっと早く死んでいたはず。

 コウモリも狂犬病をうつす。

▼21世紀感染症研究会『殺人病ファイル』1995
 コクシジオイデスは、吸い込んだ人のうち0.5%が重症となり、1年で死ぬ。
 峡谷熱、砂漠リウマチとも。
 砂漠のネズミの巣で増えているらしい。それが強風で飛ばされてくる。
 皮膚に付いても、なんでもない。
 肺に入ると、発疹が表れる。
 流行地は南米。
 牛、犬、猫、馬、羊、豚、鼠も罹る。白人は罹り難いともいう。

▼田口・長谷川 共著『細菌汚染』H11
 外科医たちのように、ブラシを使って洗うのでない限り、手は、洗わないほうがむしろきれいな状態。

 原虫のクリプトスポリジウムは、1993にミルウォーキーで。1996に埼玉県の越生町で。1998にロンドンで。コップ半分の水道水で下痢となる。
 水源に入ると、取り除けない。
 塩素に対しては、大腸菌の60万倍強い。
 上水の塩素濃度ぐらいではひとつも死なない。
 原虫1匹でも下痢が起きる。
 砂濾過や、凝集沈殿でもダメ。サイズが小さいから。
 5度の水中に100日間いても、10%の原虫は感染性を失わない。

 米国の自然界にハシカ(ウィルス)なし。ワクチン普及のおかげで。
 日本では接種が義務ではないので、誰も打たぬ。
 よって日本人旅行者が米人に麻疹をうつす。

 渡り鳥の鴨→アヒル→豚(アヒルと水を共有しているので)→人 ……という感染ルートあり。
 鳥の密集がよくない。
 そして、豚とヒトは内臓が近似しているから。

 ホタテは貝柱だけだから、ウイルス下痢なし。
 生牡蠣は、内臓ごと なので、危ない。
 筋肉にはインフルエンザ・ウィルスはかくれていないから、豚肉はOK。

 毒素から血清ができる。
 マムシ馬血清を打った者が、破傷風馬血清を打つと、抗体でショック死する。

 スクレイピー=かゆいかゆい病。羊が柵にすりつける。それで全身から出血。

 ニワトリに炭疽菌を注射しても死なないが、水で冷やしたニワトリは炭疽菌で死ぬ。
 光学顕微鏡は、0.1μまで見える。

 1ミクロンの万分の1=1オングストローム=0.1ナノメートル。
 細菌は0.1μ~20μ。

 霊菌。死体に付く。抗生物質が利かない。院内感染する。

 カテキンはツバキ科植物の葉にあり。ポリフェノール。タンニン。これはインフルエンザウイルスを失活させる。

▼(社)日本アイソトープ協会『放射性滅菌の現状と展望』1998
 放射線はDNAの生物活性を消失させる。
 電子の衝突より二重螺旋が破壊分断される。

 ただしフリーラジカルも生ずるので、食い物に使っていいのかは、疑問が残されている。

 ガンマ線や電子加速よりも、X線が自由に使えると、すばらしい。
 他に、過酸化水素を気体状態でプラズマ(100%電離イオン)にした、ガスプラズマによる殺菌術もある。

 漢方薬すらカビに汚染されている。

▼『消毒剤ハンドブック』H3
 炭疽菌やウェルシュ菌の芽胞は摂氏100度×10分間の煮沸で死滅する。
 破傷風菌の芽胞は、100度×60分。ボツリヌスの芽胞も。

 加熱滅菌の指標菌である B.stearothermophilus の芽胞は、100度で数時間煮沸されないと死なない。
 カメラはエタノールで消毒している。

▼古橋正吉『滅菌・消毒マニュアル』1999
 dry heat 法は、摂氏170度×4時間。
 油、粉末、ガラスなどを滅菌したくば、この方法。
 一種のオーブンで行なう。

 真菌胞子は、細菌芽胞(spore)よりは抵抗性は弱い(p.239)。

 D値。菌数90%を殺す時間。たとえば121度の蒸気のD値は2.5(分)……というように。
 2D値は、99%殺すのに要する時間。
 3D値は、99.9%殺すのに要する時間。
 6D値だと、99.9999%殺すのに要する時間。たとえば15(分)……とかになる。

▼『誰でもわかる抗菌の基礎知識』1999
 カビのほとんどは生育に酸素を必要とする。
 水分は、少ししか必要としない。細菌よりは。

 胞子は、培地のない乾燥状態でも生きる。
 培地なくして、細菌も真菌も生育はしない。

 レンズにつくカビは、コーティングの薄膜を運河状に溶かしてしまう。代謝のリンゴ酸による。それが曇りとなる。

▼『真核微生物の環境応答と遺伝子発現』1993
 カドミウムで「馴養」すると、耐性株が得られる。
 紫外線照射で得ようとしても、上記法より弱いものしかできぬ。

 イモチ病菌はミョウガにも寄生す。
 イモチ病菌は市販の醤油を培地にできる。

▼某百科事典のヘビの項目
 北極にはいる。南極にはいない。トカゲの足が退化したもの。
 振動に敏感。
 立体視力はないが、マムシ科のピットは、〔IRを?〕立体視する。
 舌が嗅覚器官で、舌でIRも感じる。
 ウミヘビは肺が尻尾まである。

▼David Malloch著、宇田川らtr.『カビの分離・培養と同定』S58、原1982
 同定は学生には難しい。
 子のう菌類と担子菌類(キノコ)が、胞子を空気中へ出す。
 子嚢は水鉄砲の仕組み。先端から数センチも射出する。105mm榴弾砲に等しいワザ。

 霧の水滴表面に付着して拡散する胞子もある。
 細いニクロム線の先をアルコールランプで赤熱させ、15秒冷やすと、火炎滅菌となる。
 試験管の口も炎で焼く。その蓋は決して机上に触れさせてはならぬ。

 寒天表面は、市販塩素漂白液に60分漬ければクリーンに。
 ダニが1匹入ったら、すべてパーにされる。パラジクロルベンゼンで予防的に殺せ。

▼『感染症学雑誌』1995-6月号
 山本善裕・他「長崎県における環境(鳩の糞)からの Cryptococcus neoformans の検出」。
 深在性真菌症である。
 土壌中に広く生息。鳥の糞で増殖し、大気中に飛散して、ヒトに経気道感染する。
 健康人も罹る。
 クリプトコックス髄膜脳炎で死ぬ例あり。

▼佐野弘毅『趣味と実益の食用鳩概要』S3
 ニワトリより75%安く肉を得られる?
 農林省は東京と大阪で飼育試験済み。全国普及を図っている。

 1800年頃、欧州(ベルギー)で食用として改良され、米国に普及した。
 1年に11つがいの産卵数。常に2卵を産むので「番[つがい]」とカウントする。

 米は1920年代に欧州からあらゆるハトを輸入して改良研究した。それが日本にもたらされている。
 鳩は原則、一夫一婦。
 好んで水浴し、水は多量に飲む。ニワトリの3倍必要。オスもメスも体内で離乳食をつくりだすため。
 寿命15年だが、よく生むのは5ヶ月から8年まで。

 オスは歩いて輪を描く。メスはけっして、一周しない。
 短い濁音はメスの声。長い単音はオスの声。

 大麦や小麦の柔らかい餌は、絶対不可。カラカラに乾燥したものに限る。
 病鳩の糞は軟便で悪臭を放つ。
 カビ穀物や汚水で、口内炎となる。雛鳩はジフテリアになる。眼病にもなる。すべて伝染するので、隔離する。

 鳩は肉食はしない。
 ヒナバトの肉の商品名を米国ではスクウォップという。

▼中村八郎『食用鳩の飼ひ方』S3-5
 伝書鳩のうち、途中で道草する個体があり、そういう役立たずをよりわけて、食用に転用したという。
 鳩舎へは、いつも同じ服装で入れ。
 つかまえるときは必ず脚を持つ。

 おどかされた鳩は、家禽から野生鳩への逆進化をたどり、あらあらしくなり、少産となる。
 放し飼いすると、野生化につながる。ニワトリと違って、飛ぶので。

 鳩がじぶんで巣をつくることを巣引という。


フェルミのパラドックスは、ディープフェイク技術が、その答えだったのかも。

 Sam Roggeveen 記者による2020-10-12記事「North Korea’s New Missile」。
      「火星15」は胴径が2m以下だった。こんどのICBMはそれより太い。
 ペイロードは謎だが、多数の囮弾頭(デコイ)を混載する余地があるだろう。とすると理論上、米本土のMDは瞞着されてしまう。

 ただし11軸の運搬発射台車はいただけない。こんなものが走り回れる道路が北鮮にはほとんど無いだろう。しかもこのミサイル、液燃である。
 強力なロケット用の液体燃料は化学的に不安定にして腐食性も強いため、注入しっ放しで長時間放置できない。それは発射の直前に注入しなければならない。その注入作業用の車両か施設は、別に必要となるわけだ。

 注入作業は半日かかる。燃料供給トラックは10台弱も必要だ。

 記者は2018年にこういう提案をしている。北鮮が長距離ミサイルをスクラップにすれば米軍は韓国から出て行こう――という交渉をすればいいと。
 酷い取引かもしれない。しかし、あらゆるオプションのなかで、いちばんマシではなかろうか?

 次。
Karen Hao 記者による2020-10-9記事「Inside the strange new world of being a deepfake actor」。
     ディープフェイク技術が発達すると、プロ役者の仕事のあり方も変わる。
 プロ役者は、1人で数役を演ずることになる。本人のオリジナルの顔は決して使われない。彼/彼女は、ただ、ディープフェイクの「ベース」を提供するだけである。

 ただし、演技力は一流でなくてはならない。ニクソンの演説を合成するのに、ニクソンとそっくりの顔や上半身の動きをしてみせねばならないからだ。

 旧来、役者は、自分の演技が「最終商品」になると知っており、それを自分でモニターして確認できた。
 ところが、ディープフェイク時代のプロ役者は、自分の演技が加工されて最終的にどんな商品になるのかを、知ることはできない。
 すなわち、性別、皮膚の色、見た目年齢も含めて、顔のつくりと、身体のつくり・衣装などを、自在にPC上でリクリエイトされてしまうからである。
 声色も、まったく簡単に変えられてしまう。

 ニクソンのリアル声色サンプルは、ごく短いものを、数百サンプル収集して、AIに覚えこませておく必要がある。

 沈鬱なテーマで話を創るときは、辞任演説の声の調子が軸とされる。

 この声の調子をそれらしくととのえる作業に、最も、手間隙が必要である。いまの技術の段階では。

 北鮮指導者のディープフェイクをつくる過程で面白い発見があった。金正恩にいちばん似ていないプロ役者が、金正恩の「ベース」として最も巧みな、ホンモノそっくりの顔演技ができたのである。この役者が、採用された。
 つまりこれからのプロ役者は、「地顔」はどうでもよくなり、真に物まね芸に達しているかどうかが問われる時代なのだ。

 無名人がSNS上で顔を晒しつつ安全に政治活動しようと思ったら、これからは、ディープフェイクが「顔シールド」として役立てられる。つまり、じぶんの顔を加工して別な民族性になりすましてしまえば、生活圏内にて、身バレしないので、直接の迫害を蒙ることもないだろうからである。

 ディープフェイク時代には、諧謔と偽情報との区別をつけにくくなるだろう。

 ※「本人の確認」が、誰にもできなくなる時代が到来したら、社会は成り立つだろうか? 社会どころか、家族すらも、成り立たなくなるかもしれない。このディープフェイク技術が発達して誰でも手軽に日常的に駆使するようになれば、その時点で、人類はおしまいかもしれない。先行した宇宙人文明も、結句、そのようにして、自滅したのではあるまいか?



日本の武器で滅びる中華人民共和国 (講談社+α新書)