謎の多い文部省の「武士道」関与

 佐伯真一氏著『戦場の精神史 武士道という幻影』(04-5)は、『あたらしい武士道』を書くときに参照できなかった本のひとつです。NHKブックスなので書店で買えるだろうと思っていたのが甘かった。
 以下、おくればせながら例によって内容を兵頭が摘録し、※で私見を附していきたいと思います。
 著者は1953生まれ。平家物語の専門家。
 平曲諸本のなかで『延慶本』が最古の手掛かり。これ、今の定説。他本より詳しい部分は、源氏側の武士たちの勲功談がとりいれられたのが、比較的そのまま残ったのだろう。
 私戦にも軍使保護などの一定のルールがあったことは『今昔物語集』『奥州後三年記』等から分かる。
 文献上で堂々とだまし討ちや謀略を肯定するようになったのは、戦国時代から江戸初期。
 『常陸国風土記』によれば、ツチグモ=ヤツカハギ=山の佐伯・野の佐伯どもであった。※というところからインドネシアのサヤンではないかと昔思ったのである。
 p.44 佐原真が「現状では、縄文時代に戦争があったとみるには充分ではない」と述べているのが、現在の通説的な見解であろう。
 西嶋定生は指摘する。雄略天皇は書状をおくって、中華帝国のために夷や毛人を討つと表現していた。これが国内では、朝廷が華であり周辺民が夷であるとの構図に置き換わると。
 吉井厳によると、ヤマトタケルの物語は「相模〜甲斐」の線が東限であったと。その先には大和朝廷の支配は及んでいなかった。が、5世紀後半には雄略天皇の支配が関東平野に及んでいた。
 アテルイをとらえた田村麻呂の理想化は、清水寺にはじまり、謡曲「田村」で巨大化完成。
 『陸奥話記』は安倍貞任の敗死後の夷を同等の人間として観察している。つまり11世紀後半の東北住民は近畿の日本人とさして違和感はなかった。
 石井紫郎は考察する。暗殺によって敵を滅ぼせば、そこから無限の報復連鎖が始まる。そこで長期利益のために正々堂々とした合戦が選択されたのではないかと。
 富士川合戦のとき頼朝がつかわした軍使が平家に全員斬首されてしまった。これは『山槐記』に伝聞が載るので事実だろう。公戦すなわち叛乱征伐であるので敵とは取引しないという平家の考えであった。平曲では延慶本にだけ見える。
 『続日本紀』が伝える8世紀の内戦では、言葉争いに勝つことが敵味方の士気を決定的に変えた。のちの合戦の「名乗り」も、正義の陣営の正しい言葉の魔力がよこしまな敵に勝つという信仰ではないかと。
 後三年合戦絵詞では、斬首刑される武将は片肌を脱ぎ、髪をかきあげて前に垂らしている。
 読み本系の平曲にある有名なくだり。昔は敵将の馬など射るものではなかった。そのうち、馬の腹を射て敵をまず地面に立たせて戦うようになった。今は、いきなり馬ごとよせてすぐ組み、もろともに落下して腰刀で勝負を決めると。
 こうなった理由に諸説あり。※兵頭いわく。少数の弓の名手しか戦場に存在しないという状況ではなくなってきた。弓が高性能化して、誰が射ても遠くからよく刺さるようになった。反面、精密な狙いは超名人以外にはつけ難くなった。ただし遠くから人体を旨く射て殺してもその首は近くにいる味方に奪われてしまう。これでは損だ。そして多くの場合は、下手糞が遠くからやたらにたくさん射るので、人よりも馬に当たる。これは昔であれば腕の悪さの証明で「恥」だったが、近年誰もが下手糞であるのと、とにかく首をとれば名誉が獲得できるので、どうでもよくなった。かくして、数すくない大将首の手柄に執着する強兵は、射撃の手間などぜんぶスキップして組討ち(死体独占)を狙うようになった。
 観応の擾乱で、大見物人の中、1丈の樫棒と、4尺6寸の大太刀の、馬上一騎打ちがあった。互いの得物が折れて、引き分けになったと。※当時すでにシナ小説の影響があったか。まずガチではありえまいと思われる話。
 石山寺縁起絵巻には、なぎなたを水車のように振り回す僧徒が一人描き込まれている。
 山鹿素行以前の武士を「ごろつき」と見たのは折口信夫で昭和3年のこと。山伏など漂泊民の系譜だとした。
 p.122 シーボルトは学生時代の決闘で顔に2、3カ所の傷があった。※著者はドイツ学生の決闘遊び「メンズール」を知らぬ模様。なぜ顔だけなのかを考えたい。
 非武装のことを白装束ともいった。
 鎌倉〜室町時代、不意討ちや騙まし討ちを「スカシ」「すかす」と表現した。
 p.137 宇治川先陣の佐々木は「嘘」をついた。※然らず。本当に腹帯が弛んでいたから、梶原も締め直したわけである。この疑問は学習院院長時代の乃木大将も抱き、人に尋ねて、納得している。
 『理尽鈔』出て、智謀・謀略礼賛となる。同書は江戸初期の知識人に大きな影響を与えた。特にその秩序感覚に。ex:将がいつも約束を守るようにしているのは、いざという時に謀略を成功させるためであると。※ある武将がいつも虚言を吐かぬようにしているのは、一生に一度、敵に大嘘ついて騙してやるためであると、日本の何かの古い文典に出ていたが、いま思い出せない。
 『理尽鈔』いわく、孔子や釈迦も自分が尊敬されたいから教えを説いたのであると。利己的で愚かな民衆に秩序を守らせるために、神や仏を信じさせておけと。また寺院に次男・三男を出家させれば国の過剰人口を制御できると。※チベットのラマ教寺院の知見ではないか。
 酒井憲二いわく『甲陽軍鑑』の写本の本文は室町時代の言葉をよく残しているから、高坂彈正の口述をもともと多く含んでいただろうと。
 軍鑑のなかでは虚言は「計略」とされ、「謀臣」はシナでも悪いことではないと。腕は曲がらなくては役立たぬ。曲がったことも必要だ。
 相良亨は軍鑑を深く読み、他人に頼らず付和雷同せず身を飾ろうとせず事の真相をみきわめることができ計略にひっかからないのが真の武士で、その反対は女侍だと。
 越後流兵法は一つではなく、汎称である。
 北条氏長は「謀略」を適当な判断力のこととし、「計略」は用間のこととする。
 孫子の「兵は詭の道也」に氏長は悩まなかったが、素行は悩み迷った。室鳩巣は『駿台雑話』で素行の苦しい解説を笑って、「詭」は「詐偽」のようなBADな意味ではないとした。
 武士道の近世的継承である教訓書として力丸東山『武学啓蒙』(1802)がある。
 『葉隠』が、上方風のうわついた武道と難ずるのは、犬死にに価値を見ようとしない『理尽鈔』のことである。その中に「図に当たる」という表現が多用されている。『理尽鈔』こそ江戸初期のロングセラーで、「『葉隠』はそれに反発したつぶやきに過ぎない」p.212
 葉隠には「異端の書」という位置づけがふさわしい。その精神は伝統的潮流となって次の世代に継承されたわけではない。p.220
 ※長いコメント。S15年7月、ドイツ便乗軽薄内閣である第二次近衛内閣が、組閣するやいきなり大きな方針を打ち出しました。『葉隠』テクスト、特に「武士道とは死ぬことと…」のくだりを、戦前の三島由紀夫や小林秀雄が読むことになったのは、この大きな方針の小さな結果だったんです。まずS15-7-26の閣議で「基本国策要綱」の三の(1)として「我国内ノ本義ニ透徹スル教学ノ刷新ト相俟チ、自我功利ノ思想ヲ排シ、国家奉仕ノ観念ヲ第一義トスル国民道徳ヲ確立ス」等と決定されます。ついでS15-8-1の閣議で「基本国策要綱ニ基ク具体問題処理要綱」が決まった。そのイの一番の要目が「一、国民道徳ノ確立」で、起案庁は企画院と文部省です。ちなみに企画院というのは、近代日本をダメにした統制バカ官僚の巣窟でした。イの一番に掲げてはいますけど、もちろん教学事業なんか経済官僚にはよくわからないからすべて文部省に丸投げです。おそらく文部省はこれあるを期して早々と『葉隠』をチョイスして出版事業を進めさせていたのです。栗原荒野のフルテクスト校注の『葉隠』が刊行されたのが昭和15年2月。同じくフルテキストを和辻哲郎らが校訂する岩波文庫版の『葉隠』(上巻)が出たのも昭和15年の4月。どっちも第二次近衛内閣よりずっと早い。これは不思議なことですが想像は容易で、すでに各省の浮薄な官僚どもが1939年9月の欧州大戦勃発直後から松岡洋右らにそそのかされ、大車輪でこうした事業に先行着手していたのでしょう。この他、昭和15年には口語訳の三冊本も出ている。あのフレーズは、文部省とシナ事変以降の陸軍省が結託して人工的に「古典的名句」に仕立てたものです。
 「武士道」を嫌って「士道」を標榜した儒者も、中江藤樹以降、多い。徂徠も野蛮の武士道を難じた。
 松陰は中谷市左衛門という武士を紹介し、彼は寝首をかかれないように、熟寝中でも一呼かならず醒める、と。古川哲史は、松陰が特に『武道初心集』の影響を受けていると。
 鉄舟の『武士道』がすべてM20の口述であるかは疑問。出版年はM35である。
 新渡戸の意識では「武士道」は彼の造語。よって古来の武士道とは内容が違っていて当然。ただし米国刊行と同年に日本では三神礼次『日本武士道』が刊行されている。
 新渡戸がM4に東京に出てきたとき漢文や国語の学校はもうまったく廃れていた。だから新渡戸は和漢の古典には詳しくなれなかった。
 1898に植村正久が「基督教の武士道」を著わしている。
 「どうも新渡戸は、キリスト教文化に比べて、日本の武士の道徳は、正直という徳においてやや劣ると感じていたのではないだろうか。」p.267
 ※ただ「嘘をつかない」ことを学ぶだけで、日本人は近代に対応できた──と兵頭は思って『あたらしい武士道』を書き上げました。

ゴロリンピック

 総合格闘技で「小手返し」をきめた例はない、と昨年の小著『あたらしい武士道』に書いてしまったんですけど、04年末のPRIDEで、曙が「リストロック」をされてタップ負けしたらしいですね。わたくしはこれをウェブのニュースで読みました。
 どうやら、これまで「手首の関節攻め」は、お仲間である相手選手の身体破壊につながる危険行為であるために、総合格闘技のショーでは自粛されていたのだろうなと、推測ができるかと思います。ホイス選手としては、曙との体格差がありすぎるために、ふだんならば遠慮をする手首の破壊ワザを、敢えて仕掛けるしかなかったんでしょう。
 もちろん曙選手がたわいもなくこれにやられてしまったのは、単純にこのワザに無知だったからだろうと信じられます。柔術家だと分かっている敵が両手でわが手首や前腕を掴んできたなら、すぐ反応しなければ致命的でしょう。
 わたくしも4級で柔術をやめてしまったので偉そうな指導は誰にもできるわけもないのですが、道場で「あ、これは危険だ(そして実戦向きだ)」と思った手首と肘のキメ方があるので、ご紹介しておこうと思います。こういうのに無知だと本当にシャレでは済まないでしょう。
 まずとにかく、手首の骨の太そうなご友人に頼んで、仰向けに寝てもらってください。
 その、寝かせた敵の右脇に、じぶんは腰をかがめて立ちます。
 そして、敵の右前腕を上に伸ばしてもらいます。手先はグーにしてもらいます。
 それをわが両手で掴むのですが、このとき、わが右掌は敵の拳を真上から包み込むように掴みます。わが左手は敵の手首を素直に握ります。
 そのまま、敵の右手首を敵の右肩に押し付けていきます。わが右掌の包み込みと押し付けの力が十分にあれば、敵は手首が屈曲してしまうために存分の抵抗ができません。最後は、敵の右拳が敵の右肩を自分で殴るような感じで、くっつきます。
 この押し付けの動作と同時に、わが右足の爪先を、敵の首の右側面から首の下へこじ入れ、敵の首を、われから遠い方に脛で押しやるようにします。すなわちこれにより、敵はじぶんの首をじぶんの左肩の側へ曲げさせられます。(この所作に何の意味があるのかというと、次のキメの痛みがぜんぜん違ってくるんです。首が自由であれば、敵はあるていど我慢し続けてしまいます。なお実戦では、事情によっては、わが右足刀で敵の気管を圧する場合があり得ましょう。)
 次に、わが両手に力をこめて敵の右手首をわずかに握り直し、われから見て、徐々に9時の方向へ動かします。このとき、敵の右手首は敵の右肩からすこしづつ離れていく。と同時に、敵の手首の地面からの距離も、すこしづつ増すようにします。とうぜん、われによる「捻り」の力も全力で加えつつ、おこなうのです。
 すなわち、われの両手は、ゴルフクラブのスウィングをするように9時方向に動くのですが、そこに、自然な回転方向の捻りの力も全力で加える。
 動かし始めて1秒で、敵は「ギブ・アップ」の意思表示をするはずです。肘が伸びきるより、ずっと前にです。
 わたくしは無知ですが、おそらくそこから手加減せずに2秒進行させると、肘が伸びきり、敵の肘および手首は壊れてしまうのではないでしょうか。
 柔術では、仰向けに倒して伸ばしきった敵の右肘をわが左膝に押し当てて折るという荒ワザがあるんですが、それよりもこのキメ方の方が力もいらず、時間も短くて決着するに違いないと、素人なりに思いました。つまり、これは「一対多」にも向く瞬殺ワザです。
 ただしこのキメは総合格闘技の「ショー」にはまったく向かないでしょう。ギャラリーには、何でタップするのか分からないはずです。あまりに早く決着するので。そしてもし「勢い」がついたり、ショーのために「見得」の静止時間を設けてしまいますと、手加減が失敗し、相手選手の骨を壊してしまいかねないでしょう。
 リストロックもそうですが、相手が曙選手のような頑丈な大男であり、かける側がホイス・グレーシー選手のような熟達者であるからこそ、「ショー」としてハッキリ見ばえがして、しかも相手に永久負傷をさせずに済ますというコントロールが可能になるのだと、想像をしております。

新刊を勝手にご紹介します

 先日の上京で大盛堂で買ってきた本の中の一冊をようやく読み終わりました。松村昌廣氏著『軍事情報戦略と日米同盟』(04-12)。著者は1963生まれ。
 以下、内容摘録、および所感のメモです。※印がついているところは、まるっきり兵頭の思い込みです。他も、文責は兵頭です。
 米国の軍事情報通信システムは、core,tasking(収集情報の優先順位を決める),collection,processing,dessemination(利用者への供給)からなる。
 MASINT(Measuremant and Signature Intelligence)というのがある。※「どの通信機を使っているか」の追跡のことだろうか?
 インターネットを暗号付きで利用する方式が三軍にある。
 p.18 ペンタゴンと市ヶ谷のホームページの公開情報には雲泥の差がある。米国が公開している内容をなぜ隠すのか? ※ここに日本の「エリート」がアメリカに勝てていない原因および結果が存する。兵頭も初期の旧著でこの意味を考察せざるを得なかった。
 SSM発射炎を探知するDSPはいま静止軌道上に5基あるが、これを新型静止衛星×4と長楕円衛星×2に2006以降更新する。さらに低軌道周回のRV捜索追跡衛星を24基、回すつもり。※2007からのMDに間に合うか。
 AWACSとJSTARSの機能は将来、レーダー衛星によって代替できる。※鉄条網が風に揺れてドップラーになり強調されていた第一次湾岸戦争時のJSTARSの合成開口レーダー画像は高度200km以下をパスする衛星からなら得られるかもしれないが、衛星には赤道以外の特定上空にロイタリングできないという決定的な不利がある。これをどうするか。
 クリントンは2000-9にNMDの採用を見送ることにした。※財政健全化よりも大事だとは思えなかった。9.11以前で、抑止は十分と考えた。
 9.11後にロシアはABM条約の廃止を呑み、米国との対等の地位を公けに放棄した。
 情報RMAは「支配的機動」「精密交戦」「全次元防護」「効率的兵站」を眼目とする。ステルス技術は「精密交戦」に包含されている。
 WWI後、英の国際問題研究所と米の外交問題評議会が交流し、政策型知識人が同盟の下地を作っているような関係は、日米間には無い。
 NSAにおける、フランス、イタリア、タイの位置づけ(ドイツ、日本、韓国、トルコ、ノルウェーと同等なのかそれ以下なのか)は、不明である。
 インテルサットが701型から703型になり、南半球への電波ビームが細くなったので米英の傍受基地ではサイドロブをコレクションできなくなった。そこで80年代半ばから海外傍受基地が増やされた。
 NSAが日本に設けた衛星傍受拠点は三沢にあり、処理拠点は千歳、九州、東京にある。
 イリジウムは低軌道のため既存傍受施設ではコレクションしにくかった。※それで経営破綻させられた?
 93年と95年にNSAは日本の自動車に関して露骨な諜報を展開。※これがバレているのは、クリントン政権のやり方に反対の人がいたからだろう。
 米の衛星情報は、日本の外務省の北米局か、防衛庁防衛局の対米・安保政策責任者に渡される?
 イスラエル国内に、米軍基地および米軍のプレゼンスが無い。両国の軍隊は、共同作戦をしたことがない。
 「リンク16」のようなシステム統合技術を米国から暗号のブラックボックス付きで貰ってはいけない。まず自前のユニークなシステムで三自衛隊を統合してから、そののちに米軍と繋げるべきである。
 RMAはまだ起きていない。既成の如く報ずるのは情報操作である。
 「リンク11」は短波を使えるので電離層で反射させれば500kmの通信ができるが、単一回線を順番待ちで使っていくロールコール方式であるため、データ量が画像に対応できず、文字中心となる。「リンク16」はUHFなので水平線までの32kmの見通し交信しかできないが時分割多重接続方式なのでデータ量が画像に対応できる。しかも傍受や妨害にとても強い。
 KH-11の後継機「FIA」が2005に上がる?
 p.116 RMAの目指すところ、米国は陸戦(接近戦)を同盟国陸軍に分担させようとするだろう。米軍の近接戦闘能力は弱まるだろう。
 ※アフガン戡定作戦がイラク戦争でも再現されていたなら、そのようになっただろう。かつてパクス・ロマーナが崩れたのは、ローマ市民が、小刻みな戦争の反復と、短兵を揮っての白兵戦を厭うようになってからである。ガリアと近東の戦場を最後に制圧したのは、飛び道具ではなく、短い刀剣を手にして陣形を固く保持し抜いたローマ市民の重装歩兵の勇気および規律であった。大きな戦争を一回して勝ち、あとは平和の配当を楽しもうと市民が思うようになったら、辺境での小さな反乱は放置され、ついには破滅的な大戦争を招く。この教訓を英米指導者は知っている。イタリア人はチビなので、だんだんにこの気概を失ったが、幸か不幸か英米人はガタイが大きく、hand-to-hand の接近戦に生まれながらに自信を持っている。さらに第一次湾岸戦争以降、暗視技術の多用で、映画の「プレデター」の味もしめてきた。これに文明的優越と武芸鍛錬文化と軍隊の実戦的訓練とエリートの気迫が伴っている。
 p.119 RMAはビジネスにおける革命の軍事応用にすぎない。問題はむしろ既存の軍隊(三自衛隊)が組織としてそれを受け入れないことにある。
 ※「諸列強」と書いてあるが、列強は the great Powers の和訳でたぶん最初から複数概念だろう。
 米軍も通信の95%は民間衛星利用で、専用軍事衛星利用の通信は5%のみ。
 p.121 日本が打ち上げた偵察衛星のうちレーダー衛星は「夜間・悪天候の下でも移動物体が捕捉可能」。※これは米軍の計画中の衛星と混同した誤記か。
 p.125 「わが国憲法が集団的自衛権の行使を禁ずるとするかぎり、共同攻撃作戦を可能とする米国との高い水準のデータリンクは憲法の要請に反している。」
 ※加藤健二郎氏の名を「健二朗」と書いているのは元本の誤記なのか?
 米は仏の『シャルル・ドゴール』のために「リンク16」を供給している。E-2Cと母艦を結ぶ。
 「リンク22」は「リンク16」より劣った廉価バージョン。11と22はどちらもUHFでも使えるのだが16のような容量はない。
 UHFでグローバルに通信できるのは米軍だけ。他の国はまだ短波依存。「スーパーバード」が使えない遠洋では、海自はインマルサットなど外国の通信衛星と、リンク11の短波に依存するほかない。
 BADGEには空自独特の暗号が用いられてきた。そのためE-2Cはもともと米海軍の飛行機であるのに、海自や米海軍とは接続ができない。日本のE-2Cは空自のF-15ともデータリンクの相性が悪かった(元米海軍機と米空軍機なので)。また、空自のリンク11は海自のリンク11とのインターオペラティビティは無いだろう。
 自衛隊でリンク16が使えるのは空自のAWACSと海自のイージス艦だけ。
 海自はリンク11でもリンク16でも米海軍に完全に情報通信面でとりこまれつつあるが、空自は米空軍との情報通信共有を拒否してきたようだ。すなわち空自と米空軍は「リンク11」がつながらない。ただし近年の共同訓練に参加しているロットのF-15は謎。※AWACSだけが確実に米空軍とリンク16でつながるわけか。ということは浜松のE-767の行動に注目すると米軍の気にしていることも読めるわけか。
 巡航ミサイルやステルス対策で有効なレーダー情報の統合運用は、米英海軍間で実現している。弾道ミサイルの脅威にされされていず、イージス艦をもつ必要にない英国は、この選択にとびついたが、結果として、米軍情報なしでは行動できない海軍になるだろう。豪海軍がこれに続き、その次は海自になりそうだ。この投資が巨額と見積もられるので、海自は隻数削減を呑んだ。※米はマルチスタティックレーダーを艦隊のソフトウェア上で実現しようというのか。技本で研究中のバイスタティック/マルチスタティックレーダーは察するところ次期国産BADGEだから空自専用、本土防空専用ということか。
 p.160 自衛隊が低い水準のデータリンク能力しか持たないのであれば、自衛隊は高いレベルの対米協力活動はできず、米軍は単独で行動するだろう。
 リンク16を採用しつつ、同時に米国の暗号ブラックボックスに支配されない選択肢として、英国BAE社が今よびかけてきている日英共同開発案に乗るという手がある。
 2001から英潜水艦隊が導入したトマホークの地図情報は、軍精度GPSデータの鍵とともに、米軍が供給する。このアクセスは米はいつでも拒否できる。つまり英国は米国に相談なしではトマホークを発射できない。
 英はF-35の開発コストのうち4000億円を負担したが、米はアビオニクスを英に開示せぬ方針である。
 仏やイスラエルが米(NSA)と結んでいる暗号保全協定(GOSMIA)を日本も結んで、三自衛隊の独自データリンクをまず達成してからリンク16を導入しないと、米のリンク16の暗号ブラックボックスを日本は使うしかなくなり、その結果は日本のミサイル発射権をすっかり米に渡すに等しい。
 p.173 三自衛隊は暗号も共有していない。
 海自のMOF(基本的に文字データ)と空自のBADGEを早くリンク11で結んで共通戦術ピクチャー(陸自のオーバレイマップのCRT版のようなもの)をつくれ。
 海南島に01年に着陸したEP-3はリンク11で、その暗号の鍵はCD-ROM供給であった。※てことはCD-ROMを瞬時に破壊する保全装置が機内にあるのだろう。あるいは鋏で切って窓から投げ捨てか。あるいは「自動的に消滅するCD」か。
 リンク16の暗号鍵は48時間で切り替わる。周波数はランダムホッピングだし、元データにも暗号がかかっている。リンク11はホッピングしない。
 秘匿性が重視される軍用のデジタル交信では互いの装置をまず認識しなければならず、そのために互いの位置を正確に知っていないと通じない。リンク11で457m、リンク16では9.8mの誤差しか許されない場合がある。
 オランダ海軍はNATOのソースコードに依存している。つまりは、独自行動はしないと決めているのだ。
 C3I担当の国防次官補には三軍にああせよ、こうせよの権限がない。米三軍も相互データリンクを嫌う組織文化があった。
 2002時点で英国防省は将来常に米国の援兵として共同作戦をすると公表している。
 韓国はイージスシステムを輸入することにしたが、通信ソフトは暗号も含めてフランス製を選んだ。つまり米国と共同作戦しないことを決心している。
 最初にインド洋に派遣された日本のイージスはディエゴ・ガルシアの防空が任務だった。つまり海自として初めて米海軍の実戦の「ピクチャー」をリンク16経由で貰った。ただし第七艦隊と第二、第六艦隊とでは暗号が異なるので、当初はうまくいかなかった。
 二国以上の合同司令部の形態には三つある。WWIIの米英、あるいは戦後の米加の方式。朝鮮戦争の一国主導方式。そしてデザートストームの並立方式。日米同盟は現況ではデザートストーム型。
 空自には「単独防衛」の気概があったから、指揮通信システムはまったく自律的なものになった。海自は最初から米海軍との共同作戦しか念頭になく、ROE共有を急いできた。※おそらくF-35導入決定は海自の政治力が空自を上回ったということだろう。空自のホンネは国産がベスト、F-22が次善だがライセンスでないなら断る、というところか。外務省より防衛庁が、その防衛庁の中でも海自派が、さいきんノシてきた。その背景には米国との親密度の差があったというわけだ。
 イージスのレーダーは低空目標に対して72km有効。※どのくらいの「低空」かだが…。
 最大18目標と交戦できるが『こんごう』は終末誘導レーダーを3基しか有しないので同時に3目標にまでミサイルを発射できる。
 ミニ・イージスと呼ばれる『きりさめ』は大型航空機を200km先で捕らえるのみ。
 2004年度内に海自のイージスは全部リンク16対応となる。
 p.220-3 「悪魔は細部に宿る」ので日米同盟全体のべき論など無意味。自衛隊が指揮組織上の、また通信システム上の統合を自己実現しないうちに海自が米国製のリンク16を使い出してしまえば、もはや三自衛隊は分断され、米国の走狗となるばかりである。拙速に米軍とのシステム統合化を進めてはならない。「日本政府はインド洋へのイージス艦派遣を断念すべきであった。」
 p.229 イスラエルは米衛星から直接、早期警戒情報をダウンリンクできる体制を敷いている。
 98年時点で、米国から日本に早期警戒情報が届くまで8分かかる。北鮮のSSMは7分で落達するのだが。
 米海軍の原子力正規空母は調達コストだけで1兆円以上。ランニングコストは毎年260億円。米国はこれを12隻揃えて保持しつづける予定で、加えてハリアー空母になる海兵隊の強襲揚陸艦を12隻もつ。
 大型空母の寿命は50年。ニミッツ級は23年たったら炉心を分解して核燃料や内壁等を交換しなければならない。そのドック作業には2年半もかかる。
 正規空母はニューポートニューズのドライドックでしか作れない。同時に1艦しか船台に置けないのだ。
 2000年のジャパンハンドラーズによる「アーミテージ報告」とは何を要求したものであったか。米空母艦隊がインド洋に集まった場合、正規空母の空白となる西太平洋では、ハリアー軽空母(強襲揚陸艦)と海自の艦隊がその穴を埋めて欲しいというのだ。海自の16年計画型DDHはそれに呼応している。
 日本政府は集団的自衛権の行使が必要であることを自国民に説明せずに「事務方同盟」が続いてきた。
 わが国の輸出に占める米国市場の比率は25%あり、ドイツの8%より高い。東アジアからの迂回輸出を含めると米国市場依存はさらに高い。
 日本は経常黒字を出しながらその金融資産を自国内の金融市場でほとんど運用できぬため、米国財務省証券を購入した。
 日本が米国の走狗とならず、日米同盟を「共同体化」することもできなければ、「周辺地域に対する限定的抑止の目的で短・中距離弾道ミサイル搭載の核戦力や巡航ミサイル搭載の小型戦術核兵器などを保有する可能性は想定できよう」p.288
 ※シナ奥地に届く核ミサイルは米本土に届いてしまう。短射程の核兵器もヨコスカやカデナやハワイに届いてしまう。そしてシナ奥地に届かない核ミサイルは「抑止」になるのだろうか。抑止は1(抑止ができる)か0(抑止ができない)かしかなく、「限定」も「非限定」もなかろうと思うのだが。敵がもし核ミサイルを一発発射してきたら、その後は「抑止」の話ではなくて、「核戦争遂行」と「民間防衛」の話であろう。
 パトリオットのPAC-2はライセンス生産のため日本側ができるのは発射ボタンを押すことだけ。※そもそも空自の長射程SAMはBADGE連動だから、ナイキも有事には半自動発射のようなものであった。そして初期のBADGEは米国のシステムではなかったのか。
 横須賀に核燃料の処理施設がないので、2008以降の米空母は本国まで燃料交換に行かねばならない。
 海自の作戦艦艇54隻は英仏海軍の34隻と比べてかなり多い。予算が増えないとすれば、隻数を減らして軽空母中心に再編成し、英式の現代化をはかるしかない。本国防衛だけならその軽空母中心艦隊が計3つ、遠征艦隊も持つ気なら、つごう4つ必要だろう。※かくしてF-35というわけか。
 海自潜水艦隊は質量ともに増やす必要がある。艦齢を延長し、25隻体制にしてほしい。通常型なのに大型化しているのはおかしい。光学潜望鏡もおかしい。乗員は3割減らせるはずだ。射程110km、弾頭重量230kgのハープーンは対地攻撃用に改造できる。それに核弾頭をつけてAIP潜水艦から運用できるだろう。p.296
 ※以下、コメント。電気通信の見地から軍事・国際関係を語れる日本人が登場することを、長年待っていました。このような著作・著者が少しでも増えていくことを期待します。そして願わくは、東京の大きな書店でしか買えぬ書籍上ではなく、見易いHP上で毎日のように啓蒙を続けて欲しいと思わずにいられません。そうなれば、このような恣意的な摘録で内容紹介をするというご無礼も敢えてしなくて済むわけです。

バラけてよろしきものと、よろしからざるもの

 90年代に自民党が政権を一回、明け渡さざるを得なくなったのは、テレ朝とTBSの夜の報道番組が原因だと言われました。
 昼のワイドショーや、女性週刊誌や、タブロイド版夕刊紙を、これに加える人もいます。しかし庶民に対する「洗脳力」では、夜のプライムタイムの地上波TV放送に勝るものはなかったんでしょう。わたくしは、NHKの総合と教育も、かなり悪さをしたと思っていますが…。(「グラムシ戦術」につきましては04年の「武道通信かわら版」バックナンバーに縷述しましたので、未読の方はググってください。)
 ところが、その、敵に自分の首を絞めてもらうための「縄」を渡していたのは、他ならぬ自民党の郵政族(旧田中派)だったのでした。
 アメリカの半分の人口と経済規模がある国で、どうして首都圏の民放地上波TVチャンネルがたったの5局しかないんですか? 人気スポーツイベントでもない番組が10%以上の視聴率を取るなんてことが、そもそも日本が「メディア先進国」とは程遠い環境にある証拠なんです。
 つまり、自民党田中派が角栄いらい電波をメシの種の利権にしようとして、自由に参入が許されるべき民放局の数を極端に制限してきた。放送局と広告業界と電波行政と族議員と国会クラブの政治部記者どもは癒着結託をしてきた。
 その因果の小車がついにめぐりまして、たった一人の久米宏氏に、愚かな庶民の投票行動を左右させてしまっていたのです。庶民が愚かであり続けるのは、放送行政が近代的でないからです。日本国を実質指揮している5%の非庶民は日夜忙しくてTVなど視ていません。その反面で、95%の庶民はTVしか視ません。その庶民が国会議員の当落を左右するのが民主主義ですが、その庶民の投票行動をごく少数のTVスタッフが左右するのは、成熟した民主主義ではありません。
 いま、デジタル地上波TVの放送タワーを2007年、あるいは2011年までに首都圏のどこに建てるかという実に馬鹿な論議が進行中です。これは、日本国をどうやってメディア環境の上でも良き国にするか──とは何の関係もありません。日本国民をどうやってメディアが幸せにしていくか──とも何の関係もない、只の利権ビジネスなのです。
 TV受像機切り替えの泡沫需要を狙いたい家電業界と経産省、1つの番組に今まで通り10%以上の視聴率を維持させて広告収入を高く請求したい電博と番組制作プロダクション、観光客を集めたい巨大タワーの膝元商店街、500億円の受注をとりたい土建業界、そのキックバックを当てにする関連議員らが、己れらの全く一時的な金儲けのためだけに運動しているのに過ぎません。
 これは経済的にはミクロなバブルにしかなりません。然るにその結果、第二、第三の久米宏氏や「グラムシ戦士」たちが今後何十年もまた政局を壟断することになります。95%の庶民はますます愚かになり、日本は完全な知的階級制社会になります。これは正味では日本国民の損失でしょう。
 「新東京タワー」構想が国策上、間違っている理由として、それが近未来の核戦争をまったく想定していないこと、があります。(これを指摘する人がいないのも情け無い限りと言うしかありません。)
 ビンラディンがNYの貿易センタービルをターゲットに選んだのは、あのビルにあった通信設備が破壊されれば、米国の銀行決裁が全部止まる、……すなわち、ドルの世界支配を大混乱させてやれるだろうと考えたからです。しかしそうはならなかった。じっさいの通信は、核戦争を考えて分散されていたからです。あのアンテナは広告的象徴でしかなかったんです。
 通信や放送は、これからは分散的であるほど国民の福祉には適う筈です。ニューヨークやシカゴのように、摩天楼にデジタル地上波の送信設備を各局個別に設置するのが合理的でしょう。
 そして、大都市圏とそうでない地方とのデジタル・デバイドを解消する準天頂衛星は、前倒しで実用化すべきです。(そのための新ロケット射場の確保を含めた宇宙事業の見直しについては04年の『納税通信』紙上で提言しました。)
 政府は政府専用のチャンネルを短波ラジオとインターネットと衛星で複数確保し、NHKは分割してできるだけ多数の新民放の事業体に売却すべきです。
 バラける方がよりマシになるものとしては、放送の他に、金融機関があるでしょう。
 民主党西村議員が大蔵省に反発するのは分かるもののその余勢で「減税」政策まで唱えるのは軽忽です。日本経済の需要の不足は、日本経済が自由経済に未だなっていないことと、国がハイテク軍需を主導せず、単年度会計の土木建築や補助金バラ撒きで税金を文字通りドブ(=最下流)需要にただ流し捨ててしまっているのが主因です。
 不自由経済の元凶の西の横綱は「金融商品の不自由」です。もう米国のITバブル、「ニュー・エコノミー」の90年代から知られていたことです。残念ながらわたくしと同年齢の元エリートバンカー木村剛氏すら、いまだに「銀行は分割して小さくするほど自由経済に貢献できる」ことを認めることができないようです。
 『あたらしい武士道』にも論及したように、人間の最大の戦闘器官は頭の中にあります。その一点で日本の選ばれた人材が北鮮やシナや米国のカウンターパートに劣れば、軍事でも政治でも経済でも、日本はとめどなく後落していくしかないですね。

強者に対する卑屈さ

 あまり関心がなかった山下奉文将軍の伝記を、福田和也氏の新刊で読んだ。
 以下雑感。
 高知県の杉村の大杉とは、拙著『日本の高塔』p.87に紹介した長岡郡大豊町のものと同一のものだろう。あれを調べた99年当時、高さ68m、さしわたし7mで日本一の杉だったが、これが山下将軍とゆかりがあったとは知らなんだ。
 山下のキャリアで最も興味深いのは2.26関連ではなくて、1940年7月から航空総監となり、同年12月にドイツに調査に行って、何を感じてきたかだ。
 シナ事変での海軍航空の万能ぶりをその目で見ているはずの山下は、「海軍主導の統一日本空軍」を是としていたのだろうか? それともあくまでドイツ流に、陸軍の補助兵科としての対地直協空軍しか考えていなかったか。そこが知りたい。
 これは防研に生史料も多いはずで、しかも兵頭が『日本海軍の爆弾』や『パールハーバーの真実』を書いていた頃には防研の所員が頻繁に読んでいる痕跡があったから、きっと防研の中の若手研究家が決定版を出してくれるに違いないと思って長年待っていたが、一向にそれが出てこない。
 海軍もこの調査団にはつきあった。それは陸軍主導の空軍構想を邪魔するためであったと思える。その抵抗はあっさりと成功し、WWIIを通じて陸海競合で、あまたの駄作機が研究され量産され、戦争資源がムダ使いされた。
 後智恵では、2式戦があれば雷電は要らず、疾風があれば紫電改は要らぬ。同様、海軍の艦爆があれば陸軍の軽爆など無用で、海軍の陸攻と陸軍の双発重爆も機種統一ができた。「統一空軍」の可能性は大きかった。
 ちなみに大西瀧次郎は、海軍主導の「空軍」構想を戦前から持っていて、シナ事変の陸戦サポートで大いにその実力を見せつけてやったものの、陸海の政治力の圧倒的な差から、最上層部に一度もまじめに検討してもらえずじまいだった。
 敗北の少し前になってようやく戦争指導部が本気になり、「軍需省」を創った。これが要するに「空軍省」のプロトタイプである。そして同省のもとに陸海の航空戦力は生産が一本化されるはず……だったのであるが、陸海軍の双頭制という明治憲法の遺制はここでも合理化努力を押しつぶし、大西は軍需省のナンバー2に甘んぜねばならず(ナンバー1は陸軍人)、終に何の見るべき成果も上がらなかったのである。
 果たして統制派ではなく皇道派の山下がどんな「空軍」を考えていたのか? 残念ながら福田氏の新著でも、それは分からぬ。
 乃木の殉死と山下の刑死を対比しようとすると、話はまとまりづらくなる。
 山下は刑死必至の情勢でなぜ自決を選べなかったのか。「出世レースをかちぬいてここまできた選民中の選民が、どうして自殺などせにゃならんのか」という主役意識であろう。エリートの陸幼組にはそれがあった。大将の次は首相が狙えたのだ。まして他の主役、たとえばライバルの東條が生きている間に、意地でも死ねたものではなかった。「東條ではなくオレに仕切らせてくれていたらこの戦争は負けなかったんだ」と口には出さなくとも陸幼出身の大将はみんな確信していた。そういう病人どもである。
 その東條は一度は位人臣をきわめていたから、満足してピストルの引き金を引けた(外れたが)。参謀総長にも陸相にもなっていない山下は、とうてい人生に未だあきたらなかったと思われる。
 欧米流の古典教養はエリートに何を与えるかというと、「世界はお前を中心に回ってないよ」という諭しである。「俺は所詮ギリシャ人を超えられないのだ」と、自己および現代世間を相対化し、限界を自覚しつつ生きることができて、はじめて世界史的な大事は成るのである。
 乃木には、日露戦争勃発の段階で、死に所は「大将」「軍司令官」ぐらいしか無いと読めていた。生きながら得ても首相はおろか、陸相にも絶対になれないのだと読めていた。それが彼を、天皇だけ見つめる「忠臣」にした。安藤大尉も年は若いがこの境地であった。
 本書で面白かったエピソードの一つは、徴用員としてシンガポールにいた井伏鱒二が、山下に「欠礼」をやらかして、「…無礼者。のそのそして、その態度は何だ」等とさんざん怒鳴られ叱られた、とのくだりだ。
 「のそのそ」というところが要マークである。のそのそしている奴を、軍隊では誰も同情しない。この感覚は、創設当時のフォードやクライスラーの工場ラインでも職工同士に共有されていた。なかなか現代のヒキコモリどもには説明をしても伝わらないところである。
 もうひとつは、敗戦後に収容所で日本兵捕虜が英軍将校から虐められたという話だ。あらためてこんな話を読めば、二度の大戦でのドイツ兵捕虜との違いを、厭でも考えずにいられなくなる。
 マッカーサーが東京市民をつくづくうちながめ、「日本人は勝者におもねる12歳のこども」と評したように、日本兵捕虜たちも勝者に対しては卑屈であった。それが、収容所の看守としてその卑屈さにつきあわねばならなかった英人の側にサディズムを誘発したのである。
 これをむずかしい言葉で説明すれば、日本人に「近代的自我」が無かったからである。
 小林源文氏がさいきん劇画を描いているのかどうか知らないのだが、彼には「近代的自我」があった。彼の劇画のインパクトはそこから来たものだ。これは、ナチ物でない世界を扱った作品で、より明瞭に確かめられると信ずる。
 豪州映画の『マッド・マックス』に日本のマンガ家がインパクトを受けたのも、じゃっかん20歳そこそこのメル・ギブソンの「近代的自我」に触れたからである。
 欧米人は近代的自我を有しているから、これらを見て特にショックを受けたり、作品世界を模倣しようとも思わない。
 これらにショックを受けて模倣しようとする日本人アーティストに近代的自我がない場合は、やはりその模倣はオリジナルに迫るインパクトを与えることができないのである。
 将軍山下は交換可能な将棋の駒にすぎず、シンガポール陥落が世界史的な大事件だったとしても、それを成し遂げたのは山下のキャラクターとはほとんど因果関係が無かったであろう。

遺族年金と遺族票と国民国家

 小泉総理大臣はシナに配慮して2005年元旦の靖国参拝を欠かしました。
 靖国神社は、維新前後は長州藩の団結の霊場であり、日清戦争前後は国民国家が攘夷の勝利を祈る場となったのでしたが、日露戦争後から陸海軍の私物宣伝施設のようになり、敗戦後は近代日本懺悔の場に変質させられつつあります。
 わたくしは何年も前から、靖国神社は近代的寺院(哀悼の場)ではなく近代的神社(国家のための個人の死を誓う場)であること、日清・日露戦争中に果たしていたその「場」の意義を重視すべきであり、敗戦記念日でしかない8月15日の靖国参拝は近代自由主義国民精神として大間違いであることを数度、力説して参りました。むしろ首相は元旦にこそ参拝するのが最も正しいのであると、複数の雑誌で主張したのです。
 そして以前、小泉総理はまさにそれを実行してくれました。
 あの調子のままであったなら、去年のようにシナになめられることはなくなっていたはずですが、なぜか小泉氏はここ一、二年、フラフラしているのです。
 ところでわたくしが、古来の日本の政治権力と社寺の関係、そして靖国問題を最も長々と論じておりますのは、『武道通信』vol.19 に掲載した「武士道と宗教と靖国」という一文です。この号は2002年10月の刊行(通信販売開始)でした。そしてそれ以後、わたくしはあまり紙媒体上でこれに関連しての発言の機会がありません。本人はもう「靖国問題は語りつくした」と思っているわけです。
 しかしながら『武道通信』は何を書きましても残念なことにほとんど日本国民の目に触れることがない媒体ですので、プロの評論家の方々も含め、大半の人は、兵頭二十八の社寺論も靖国論もご存知ないのだろうと思います。
 そこで、この機会に、ごく簡略に語り直してみようと思います。なお、このお話の参考資料や、いろいろな「出典」等に興味のある方は、『武道通信』十九の巻をご覧になれば判明しましょう。
 お守りで有名な成田山「新勝寺」は、平将門の乱を平定したことを記念して造営された寺院で、したがって「神田明神」とは仇関係にあることは興味深いと思います。日本では神社もお寺も、特定の政治勢力の政治的=軍事的勝利を祈願する「場」でした。
 源頼朝が登場しますまでは、朝廷=国家でしたから、天皇および天皇派の貴族が祈る寺社が、国家勝利を祈願する場でした。
 そこに源将軍が登場します。源頼朝は天台宗の法華経の信者で、観音像と念珠を帯びて石橋山に出陣しました。そして幕府を開くや、それまでは天皇の仕事であった「鎮護国家」「敗死者の怨霊しずめ」の場の面倒を、幕府もまた対抗的に全面的に見るという先例が開かれたのです。さらに「味方の戦死者の遺族の慰め」にも大名は関心を払いました。
 南北朝時代の安国寺や利生塔、室町時代の相国寺は、不特定多数の戦死者を弔うことにより、「将軍家が日本の政治を担当して日本国の平和を実現する」との意志を広宣したものでしょう。
 幕末から明治末にかけ、攘夷と開国のどちらにも対応できる宗教として神道が注目されます。「廃仏」はすなわち倒幕運動でした。そして坊主がそれにほとんど抵抗しなかったことは、江戸時代の宗教がいかに世俗化し堕落していたかの証左です。
 明治神道は、近代天皇制の普及にも都合がよく、さらに未曾有の対外国戦争に全国民を団結させるためにも便利でした。
 東京招魂社の大祭日は、当初は勅祭日といい、伏見で戊辰戦争の第一弾が放たれた旧暦1月3日、上野の彰義隊が敗走した5月15日、会津が降伏した9月23日、函館戦争が終った5月18日と決められていました。明治2年の神祇官は、この1月3日を「御一新の基」をさだめた大祭日として特に勅使を立てるのがふさわしかろうと提言していますが、政府は年に1回では不満だったようで、同意しなかった。わたくしには、そこから靖国神社の意義上の混乱が始まったように思われます。
 明治6年2月に、太陰暦から太陽暦への切り換えがあります。このときどうやら例祭日の計算ミスをしたらしく、年内に再び「推歩改定」といって5〜12日の日程の小修正が発表されています。すなわち新暦カレンダー上では1月31日になるとしていた鳥羽伏見開戦記念日は1月27日に。6月9日としていた上野戦争勝利記念日は7月4日に。11月12日としていた会津降伏記念日(政府はこの日のみ例大祭として勅使を仰ぐことに)は11月6日に、それぞれ直されました。
 じつは、会津降伏の旧暦9月22日がちょうど明治帝の誕生日に一致していたため、神社では当初遠慮をして9月21日に例祭日をずらしたのですけれども、後に政府からの指示で旧暦9月23日にずらし直されていました。また、旧暦5月18日であった函館降伏記念祭は、明治5年の政府の達で、旧暦5月15日の彰義隊敗走の日に合併されてもいました。
 想像しますに、こういった経緯の複雑さのため、太陽暦変換するときに、いったい旧暦の何日を基準に計算するのかに関係者の間で思い違いが生じ、その計算違いが、3つの例祭日すべてに及んだのかもしれません。
 明治10年12月、大祭日がまたひとつ加わりました。西南役平定を記念する9月24日です。
 しかしこのようにして固有の戦役と大祭日を結び付けて増加していけば、おのずと1回ごとの行事はおろそかとなり、趣旨的にも混乱を呼ぶことになると予測されたため、明治12年に「東京招魂社」が靖国神社と改名されるのに合わせて、大祭は11月6日を重んじて、その他は大祭としては廃止し、さりながら、1年1回では物足りないので、ちょうど半年ずらした5月6日を新設し、年2回に整理したのです。
 ここには仏寺の「お彼岸」の発想があり、特に現行の例大祭はまるっきりそうです。わたくしは現行の例大祭は尊重しません。
 明治45年12月に、この大祭日がまたもや変更されました。ポーツマス講和の後に行なわれた、海軍凱旋観艦式(10月23日)と、陸軍凱旋観兵式(4月30日)を記念することになったのです。この決めごとが、昭和の終戦まで続きます。なお日露戦争を境に、戦死者は「英霊」と呼ばれます。
 幕末からのロシアの巨大な脅威を、武士ではなかった国民が将士となって退けた日露戦争は、「攘夷」のビッグイベントであることは疑いもありません。ですが、日本という国民国家には、未来にも大苦戦や大勝利があります。
 そう考えますれば、特定の戦役の勝利を記念した大祭日を当座に定めてしまったのは不見識でした。どうも靖国神社は、明治45年を以て、国民国家の神社から、帝国陸海軍の私物の神社に逆戻りしてしまったように、わたくしには疑われるのです。国家指導者層、特に官僚出身者の歴史観が浅薄になったのでしょう。
 わたくしには、靖国神社の大祭として永遠にふさわしくあり続けるのは、伏見開戦の日か、さもなくば正月元日だけだと思えます。
 さて、戦前は、靖国神社の「例大祭」と「臨時大祭」は、旗日でした。
 臨時大祭は、合祀の儀式です。合祀を正式にせぬ限り、戦死者の霊は遺骨のある菩提寺の墓地に居るばかりで分霊されたことにならず、招魂社(靖国神社)には顔は出せない状態に置かれている。
 明治12年に朝野に信じられたことは「もう内戦はあり得ない」でした。そこで東京招魂社は靖国神社と名が変わり、同時に「維新政府の装置」から「日本国の装置」になった。
 大正4年の第39回合祀以降は、青島戦に続きシベリア出兵が長引いたせいか、毎年4月の例大祭直前に必ず臨時大祭を行なうようになる。さらに第53回(昭和13年)合祀より以後は、4月と10月の毎年2度に増えます。これはシナ事変が泥沼化したのに対応していました。
 とはいえ戦前・戦中の合祀はあくまで招魂であって「慰霊」の意味合いは薄かったのです。昭和12年11月18日に、シナ事変に関する最初の戦没者慰霊祭が政府によって行なわれましたが、それは靖国神社が中心のイベントではありませんでした。
 靖国神社の戦後の性格をすっかりゆがめてしまったのは、軍人恩給問題です。
 1945年のGHQ覚書にもとづき、日本政府は46年、軍人恩給を停止しました。
 軍人恩給とは、旧軍人が俸給から1%づつを積み立てていた年金で、ある年数以上勤務した軍人は、退職時月給の1/3が、月々支給されたのです。
 この軍人恩給は、戦死した場合には遺族年金になりました。たとえば2等兵で戦死して、死後2階級特進して上等兵になった場合であれば、1等兵の月給を基準に、遺族に年金が支給されたのです。
 GHQは、さすがに傷夷軍人手当だけは残したのですが、この遺族年金と、退役軍人本人の年金を、軍国主義の温床であったとして、理不尽にも打ち切らせたのです。当然、多くの人が、たちまち家計に窮しました。
 ここから、現在まで続いている「8・15と靖国の一致的強調」が始まるのです。
 ポツダム宣言、無条件降伏、東京裁判、およびマッカーサー憲法に日本国民が誰も異議を唱えないとすれば、日本近代の戦死者は全員、悪人になります(本当は、シナとソ連に関しては、向こうから侵略してきたものですから、名誉ある国民としてポツダム宣言を受け入れることなどできないのですが、国体護持を最優先したのです)。
 さすれば、新憲法下の政府には、遺族年金も恩給も支払う筋はない。しかし、一家の稼ぎ手を失った遺族と、老齢の元軍人は、戦後の食糧難とインフレの混乱期を、それでは生きていけませんから、やむなく彼等は「自分達は戦前政府の犠牲者だ」というポーズをとり、軍人恩給の復活運動を進める外になかったんです。
 靖国神社では、昭和47年くらいまでは社頭での8・15の仰々しいイベントには抵抗した痕がある。しかし日本遺族会や旧帝国在郷軍人会/戦友会の何百万もの票をあてにした政治家のマスコミ・パフォーマンスのせいで、次第に靖国と8・15とは大衆の意識上に重ねられます。
 国民の団結と国家の勝利を祈念し士気を高揚させる場だったものが、あたかも国家の「歴史反省」の場のようになっていったんです。小泉首相も靖国に絡めてシナ人に対して反省的な言辞を弄していますが、とんでもない暴言でしょう。官僚も党人も、あまりに歴史に無知なのです。
 日本遺族会の規約には「本連盟は、……平和日本の建設に邁進すると共に、戦争の防止と、世界恒久の平和の確立を期し、以て全人類の福祉に貢献することを目的とする」と謳われています。マック憲法の枠組み内で「犠牲者」「被害者」のスタンスをとってるんですね。おそろしくもあわれなことです。
 昭和25年の参院選全国区で、遺族会は大票田ぶりを誇示しました。が、占領下であるため思うような恩給復活の法律はなかなかできなかった。
 そこで昭和26年2月には、皇居に近い一ツ橋の共立講堂で「第1回全国遺族代表者大会」を開くなどしてアピールを重ねた結果、やっと昭和27年に、遺族年金などを支給する通称“遺族援護法”が成立し、軍人恩給は7年ぶりに部分復活しました(金額が少ないため、すぐに増額運動も始まります)。しかしいくら占領下とはいえこの7年間の政府の無為は、国民感情を致命的に不健全化したのです。
 たとえば、政府主催の全国戦没者追悼式は、昭和27年5月に新宿御苑にて両陛下の御親臨を仰いだのが戦後初でしたが、遺族会は、そうしたイベントを靖国神社で開催するように希望しました(じっさい第2回の全国戦没者遺族大会は、渋る神社側を押し切って境内の大村銅像下で行なっています)。「靖国」「8・15」をマスコミを通じて国民に想起させることが、遺族への世論の同情を集め、恩給の増額や確実な生涯保障を要求する政治圧力を高める上でいちばん効果的だと学んだからです。
 昭和31年、遺族会は次のように要求しました。──靖国神社は「国事に殉じた人々」の「みたま」を祭神とし、「その遺徳を顕彰し慰霊するものであること」と。
 おそらく、昭和34年に完成予定の千鳥ガ淵墓苑(ここには無名戦没者の骨がある)を意識しているのでしょうが、このあたりから、本来、国民国家の神社であるものを、遺族が私物化しようとする意図が露骨化していきます。
 遺族会と利益を共にする「日本戦友団体連合会」(のち日本郷友連盟)も、昭和30年8月14日に、終戦時の自決烈士の顕彰慰霊祭を、また昭和31年8月14日には、殉国諸霊顕彰慰霊祭を、昭和32年8月15日には大東亞戦争殉国英霊顕彰慰霊祭を、それぞれ靖国神社内に執り行ない、昭和33年8月15日には同慰霊祭を九段会館で実施しています。(その前には、昭和27年8月16日に陸軍の終戦時自決者の慰霊祭が、また30年8月14日に陸海軍の終戦時自決者の慰霊祭が靖国神社で行なわれましたが、これは命日にちなんでの関係者だけのもの。)
 こうした運動にあおられる形で、遂に政府の全国戦没者追悼式も、昭和38年からは、日比谷公会堂や、靖国神社のすぐ隣りの武道館で、8月15日に開くことが恒例化していきました。
 けれども1975年に、遺族年金の根拠を磐石にする“靖国神社法案”が最終的に断念されたのは、軍人と遺族への国家の援護はもう十分な水準を回復したと国会議員の大方が判断したからでしょう。
 にもかかわらず遺族会とその票を頼む代議士が「8・15公式参拝」に力点を置きかえて運動を続けたのは、いったん獲得した政治家への影響力を保とうと図ったからです。三木、福田、鈴木と歴代総理はこれに乗りますが、中共が中曾根総理にそれを中止させるという「外交上の大勝利」を上げたことから、今日まで続く不毛な論争を生じています。
 日清戦争中、靖国神社では、月毎に「戦勝祈願祭」を催行していました。これが本来の靖国神社の存在意義であると兵頭は確信します。対米開戦直後の歌『進め一億火の玉だ』の二番の詞:「靖国神社のおん前に/柏手打ってぬかづけば/父子兄弟夫らが/今だ頼むと声がする」──これが靖国神社の存在意義のすべてです。

初春のおよろこびを申し上げます

 2005年からは年頭所感をこのコーナーで書けることになりました。
 いきなり年号表記のお話を致します。昭和35年生まれで記憶力が弱くなってきたわたくしには、「平成ナン年」がパッと出て来ないという悩みがございます。DATEで思わぬ間違いをすれば評論行為が成り立たぬおそれがありますので、さいきん昭和60年代以降の話は西暦で書くことが多くなって参りました。
 みずから「クリスマス」なんぞという耶蘇の土習に親しんでおられる方々が「西暦ハンタイ」を称えるのは滑稽ではないかとわたくしは思います。
 かつての「A.D.」には「基督神の支配後」の意味があり、露骨に西洋帝国主義だったでしょう。しかし、米国の歴史学系のウェブサイトをご覧になればお分かりになるかと存じますが、さいきんは毛唐の連中も、西暦を「広範普及共用暦」といった新時代的な意味に再定義して公用しているのですね。つまり基督教会とはもう無縁だと強調してるんです。それを使うのにわたくしは抵抗がないのであります。
 ただし平成生まれの若い方々には、是非「平成」の元号を使い続けられることをおすすめします。それは必ず世代の一体感を強化してくれることでしょう。そしてたぶんみなさまが44歳くらいにおなりになったとき、わたくしが「平成ナン年」が直ちに頭に浮かばないことがしばしばあると申していたこの辛さに、ご共感いただけるかもしれないと思います。
 さて今年は世界的な「近代的自由主義」と「反近代主義」の闘争から、前者のグループに属する日本国の改憲もしくは廃憲が迫られるに違いありません。
 「RMAパラドックス」によりまして、テロと反テロの「戦闘地域」は、もはや定義不能になりました。また、シナに「防空識別圏」が無いことがよく象徴していますが、反近代主義の連中には国境意識もございません。他者の権利を奪おうという欲求に、ほとんど際限がないのであります。
 他方、すでに基地や港を提供している以上、日本はアメリカのすべての軍事作戦に関して昭和27年いらいずっと後方支援国家であり、一体作戦の一翼を担っております。
 ではどうして日本列島の周辺の公海で米艦が攻撃されているというような場合にも「集団的自衛権」は行使しにくかったのか。
 これは、アメリカは選挙一発で「反近代主義」の連中(特にシナ)に軍事支援をし出すようなおそろしい民主主義国家ですのに、現行の日米安保は、日本側が友/敵を自由に選べる同盟ではなかったからです。
 要するに、アメリカが一方的に日本を保護する枠組みが戦後あり続けた。しかもそれは「5枚綴り証文」になっているので、ただ安保の内容を改定しようとしただけでは、どうにもならなかったのです。
 5枚綴り証文とは即ち、まず「ポツダム宣言」。そして同宣言に謳われたことの執行としての「東京裁判」。そして同裁判の判決を呑みますという署名としての「サンフランシスコ講和条約」。その講和条約を米ソ以外の連合国が承認する前提条件となっていた「日米安保条約」および「マック憲法」です。
 そもそも憲法とは国民と政府・君主の間の契約であって、国民が外国または世界に対して何か約束するものではあり得ません。ところが「マック憲法」の正体は、日本政府が世界に対して「軍隊も自衛の意志も持ちませんから」と約束した、「隠し条約」だったのです。これと日米安保条約が対になって、はじめて米国は旧連合国に対して「日本を米国がコントロールし、旧連合国に対する脅威には二度とさせないよ」と納得させることができたんです。旧連合国とは、現国連「P5」です。
 しかし冷戦を通じて、P5のうち2国はしょせんは「反近代主義」であって、近代的自由主義の米・英・仏とは根本から相容れそうもないのだということが米国指導者層にはだんだんと分かって参りました。この認識は、長期的に、時とともに強まるばかりだった。かたや日本は「真珠湾攻撃」という反近代的な腐れ外道な犯罪をやらかした国でしたが、占領をしてみてよく観察すると、どうもシナ人とはまるで指向が違う。契約を守れる、近代的自由主義を体現できる、ということが、その経済的復活から、否応なく理解されたのです。
 集団的自衛権を実用するためには、この「五枚綴り」全部の破棄が必要なんです。全部無効にしなければ日米同盟は機能せず、日本の安全はかなり危ういものであり続けます。このことは米国はすでに理解していて、いろいろと日本に水を向けてきてくれているんですが、逆に日本の町人政治家がこの構造を理解できないんです。いかがわしい国連などが頼りになると、まだ思ってるんですね。
 日本側がやらなきゃならないことがあります。そもそも「1937年のシナ事変は日本の侵略戦争ではなかった。蒋介石の侵略であった」と米国に認めさせる必要がある。つまり別宮暖朗説が米国に於いて普及しなければ、5枚綴り証文は破り難いでしょう。
 だから05年は、このテーマをめぐる、米国輿論をターゲットとした、日支の宣伝戦の年になります。
 そして日本国内に於いては、官僚出身にしろ党人にしろ、しょせんは町人政治家でしかない近代日本の国会議員に全員ご退場を願うため、「サラリーマン官僚ではない武士道」の探求が真剣に行なわれなくてはなりますまい。庶民から精神改造が必要なのです。
 あらためまして、そのような宣伝や探求の場を、わたくしに与えてくださっているすべての方々に、この場をお借りし、深く御礼の気持ちを申し上げ、また新たな一年のご支援をお願い申し上げ奉ります。

RMAパラドックス

 2004年を振り返りますと、年の後半になって、わたくしが95年に書いた核武装エッセイの内容が、ようやく世間に知られてきたらしいと気付かされた。これが、ひとつの驚きだったと申せましょうか。
 古手の慷慨家の方々に思い出して欲しいんですが、わたくしは95年に彗星の如く論壇デビューしたのではありません。80年代の大学学部生時代から月刊『自由』や『THIS IS』や『世界日報』に度々、核抑止のテーマで投稿をしておりました(本名でとは限らないことは「ファン・サイト」のインタビューで明らかにしてましたよね)。
 それら投稿文の内容は「95年エッセイ」とそんなに変わった話ではないわけです。さらに引き続きまして『戦車マガジン』時代にも、編集部内原稿として中欧核軍縮問題を何度か論じております。
 そして、これらをちゃんと読んだ人は沈黙しました(反論を寄せず)。反論できないけど持論もまげたくないっていう人々は、それらの文章の存在をスルーしました。文字通り、ひとつのレスポンドもなかったんです。
 95年の『諸君!』エッセイも、数年間は、岡田斗司夫さん以外は、誰もこれに論及した人はいなかったように思います。並み居る大先生方がほとんど沈黙をしておられた。その中に、このエッセイの記憶が早く世間から風化してなくなってくれればいい、とひたすら念じておられた方がいらっしゃったのかどうかは存じません。
 ですから、04年1月の『ニッポン核武装再論』(並木書房)すら手に取らずに、またもちろん99年の『「日本有事」って何だ?』、01年の『「新しい戦争」を日本はどう生き抜くか』、02年の『学校で教えない現代戦争学』…etc.もスルーして、04年になってとうとう無視できなくなったわたくしの95年エッセイを批判しておられる、学究的に怠惰もしくは怯懦な方々が目立つことには、いまさら格別の驚きを覚えないのです。
 信用される知識人は、軽々に人を批判しないでしょう。軽々に人を批判する方々が、まじめにその人の主著を読んでない、というのは昔から常態のことでした。それらの人々は日々、「信用力の無いこと」の自己証明を続けておられるのであります。
 さて、04年に世界が凝視したのは、「米国のイラク統治は、1945年の米軍の日本進駐のようにうまくいくわけがない」と、米国人を除いては誰もが予測したことのなりゆきについてです。
 かつて「IT革命」にもかかわらず生産性が向上しないことを「生産性パラドックス」と呼ぶ人がいました。では、RMAにもかかわらず反進駐軍のゲリラを少人数で効率的に根絶のできない、目下のイラクの状況はどのように解すべきでしょうか。
 おそらく米軍の効率的統治を非効率化するように、テロリズムの方も進化し革新されたのではないですか? たとえば「ハルツームのビンラディン・キャンプ」に実体はあったでしょうか?
 レーダーの世界で、敵に被探知を悟られないように、また、妨害を簡単に受けないように、マルチ・スペクトラムに発射側波長を分散する、あるいは波長を不規則にホップさせ続ける、という技法があります。
 イスラムのテロリストも、「拠点」を持たない営業形態に転換したんです。「目標」を敵に与えなくなった。そんな改革を成し遂げた者の名を一つ挙げるとしたら、ビンラディンでしょう。彼以後のイスラミック反米ゲリラ活動には、ストックがなくなり、フローとネットワークと全体意志だけがある。
 余談ですが、ドンキホーテの放火について、社長か誰かが「放火テロ」と言ったそうですね。放火がテロであることを、わたくしは今年、ドンキ事件のずっと前に、村松剛氏のご自宅の例を挙げ、紙媒体で書きました。「世界の貧乏人をなくせばテロもなくなる」などと語っているあきめくらの人々は自らの理性を疑うべきでしょう。
 ちなみに民主党のO代議士はかつてその著作の中で、「争いが起きるのはすべて貧困、貧しさがその根本にある。日本の役割の9割9分は、われわれがたまたま享受できた豊かさを、世界の他の諸国、つまり地球全体が少しでも安定した生活ができるように、一生懸命尽くすことです」とお書きになってましたっけ。
 次に半島です。03末にワシントン周辺から、「沖縄の海兵隊基地をグァムに移す」という噂が立ち上りました。兵頭は、これは当時の米政権がシナと取り引きをしようとしていた、その反映ではないかと疑っております。つまりシナは「北鮮の核武装は止めてみせるよ」と米国に対し安請け合いをし、「で、その代わりに何をしてくれますか?」とワシントンに迫ったんでしょう。
 この裏談合に金正日が猛然と抵抗したというのが04年であったと思います。その抵抗の結果、シナは何も出来ず、米国はすっかりシナに失望し、シナに対する評価を下げた。そして再び、あきらめかけていた日本の真の再武装に期待をかけ始めた年だったと、兵頭は思います。江沢民から胡錦濤への権力転移の背景、胡錦濤のランボーぶりの背景は、これでしょう。兎も角日本はこれについても「ラッキー!」と叫ぶべきかもしれません。
 たぶん、金正日に面子を潰された北京政権は、米国からの評価を再獲得するため、05年に北鮮に軍事的強圧をかける可能性がある。これまた日本には「ラッキー!」となるかもしれません。
 この運勢に乗じて日本は核武装できると思います。
 肝要なことは、近代人として譲れない一線を堅持することです。その一線を越えた働きかけを外国からモロに受けたとき、「事と場合によっちゃ、アメともやるぜ」というガッツも示せないヘタレが他方で露助やニー公と戦いますと言ったって、誰も信じやしません。「精神のクレディビリティ」がゼロでしょう。
 さいわい、米国人と日本人の基本的人権についての見解はほとんど一致します。しかし民主主義の恐ろしいところとして、選挙一発の偶然により、とんでもない政権が生まれ、とんでもない政策が発動されることがあるでしょう。かつて米国政権は侵略者の蒋介石に請われるまま、フライングタイガースへパイロットを供給しました。フライングタイガースは日本本土爆撃まで計画していたのです。また80年代のシナには、戦闘機用アビオニクスや長距離砲兵用のハイテク砲弾や、戦車、ヘリコプター、魚雷等の技術を売り渡そうとしました。さらにクリントン政権時代には衛星と大型ロケットの技術改善に関してコラボレイト関係をもっています。こうした事態よりももっと悪い事態が将来いつか起きないとは誰も言えないはずです。「ロシアの核弾頭はシナの核弾頭より多いから日本の主敵はロシアだ」と仰る先生がいるんですが、だったらFDRの再来みたいな大統領が将来ホワイトハウスに居付いたら、その日から主敵はアメリカ合衆国にならねばならないでしょう。
 その場合、日本はアメリカとは決して戦争しません、などとは決して宣誓しないことが、逆に米国の指導者層からは信用されることになるのです。これが分からぬのは、その人がまだ近代的自我を持ち得ていないからではないでしょうか。
 「精神のクレディビリティ」が希薄で脆弱であれば、どんな兵器で武装しようと、抑止力にも何にもなりません。
 さいわい、95年当時やそれ以前とは違って、これがすぐ分かる日本人も増えてきたと感じます。日本国の運勢は好転しています。

1915年のインド兵の反乱

 大川周明か誰かの戦前の著作中に、1915年にシンガポールでインド兵が叛乱を起こし、それを英国政府の要請によって日本海軍の第三艦隊が急行して鎮圧したのは、あたかも日本が英国の東洋の犬になったようではないかという短い批判が挿入されていて、わたくしはこれがずっと引っかかっていました。
 最近、急に思い立って、これに関連する資料は無いかとウェブで探したら、所在は簡単に分かるんですね。まず桑島昭という方が『大阪外国語大学学報・69・文化編』(1985-3-30)に「第一次世界大戦とアジア──シンガポールにおけるインド兵の反乱(1915)」という論文を収めておられる。その次に、軍事史論文の量産家で有名な平間洋一さんが『史学雑誌』(1991-6)上に「対華21ヶ条の要求と日英関係──シンガポール駐屯インド兵の反乱を軸として」を載せておられると知れました。
 これらの学会誌バックナンバーが函館にいて簡単に閲覧できれば良いのですが、年末で北海道教育大学の図書館も利用できないだろうし、出掛けたところでサーチ・コストの無駄になる虞れは大であると判断し、先日の上京のついでに、広尾の都立中央図書館で有り難く読んで参りました。
 で、いきなり余談なんですが、このインターネット時代に『学会誌』とか『紀要』って、どういう意味が残ってるんでしょうか? 何か工夫があっても良さそうに思います。たとえば今回拝読した平間論文には、それに6年先行する桑島論文を参照したというしるしがありません。つまり桑島さんは、論文をせっかく冊子に印刷してもらったが、それを同志の研究者にも読んでもらえてないわけです。こんな調子じゃ、日本の学問がのびのびと発展できませんよね。みなさん文部省公認の肩書きや所属研究機関名を名乗って対社会的な信用を強調されておられる以上は、アクセス容易な主要同テーマ文献に目ぐらい通し、役に立たなかったとしても「これは読んであります」と挨拶を書きのこして前に進んでいくのが「学問的誠実さ」ってやつじゃないんですか。いや、まったく自分のオリジナルの知見しか書いておりません、先行して存在する無名人のオリジナルの話にところどころ似ているのはすべて偶然です、と言い張っても許される超有名な大先生の方は別でしょうけどね。それは知らずに所論を採用された無名人にとってもたぶん嬉しいでしょう。
 さてこのご両所の論文から分かったところでは、1915年2月15日に発生したシンガポールのインド兵反乱とは概略、次のようなものだったらしいです。
 叛乱の主部隊は1914前半にシンガポールに移駐した「第五軽歩兵連隊」。これはほとんど回教インド人からなる部隊で、宗主国の英国に頤使されていたのは無論です。桑島氏によれば、WWI初めにインドには15万人の軍隊があった。それがWWI勃発後に80万のインド兵と40万のインド人軍属がインド内外に展開したんだそうです。青島作戦にも1個シーク中隊が参加してたんですね。
 ところが1914-11に英国とトルコが交戦状態に入った。これで多種多様なインド人部隊のうち、シークおよびムスリムからなる「コミュナル」編成部隊が不穏化しました。
 シークってのはパキスタンに近いところが本拠地で、イスラムの影響を強く受けた一神教徒集団です。『イングリッシュ・ペイシェント』という映画に出てきた、ターバンを巻いて髭を剃っていたインド人大尉(キャプテン)がシークという設定でしたよね。ただし、桑島論文によりますれば、当時のインド人の大尉は「スベダール」と称され、白人の「キャプテン」とは区別されていたようなのですね。この辺が英国流でしょう。
 英国にとって困ったことには、もともとシンガポールにいた部隊はすべて他方面に抽出してしまっていて、1915-2の時点では「5th歩Rn」が当地における主力守備隊であった。その主力に叛乱を起こされたので、英軍も自力では鎮圧できなかったのです。
 叛乱のきっかけは2月16日の香港転進命令だったようです。かのジェンキンズが脱走する気になったのもベトナム転進を嫌ったからでしたが、共通の心理があったんじゃないでしょうか。
 叛乱に先立つ2月14日から16日まではシナ歴の正月で休日。そして15日に弾薬を貨物列車に積み終わり、英人が午後3時から午睡をとるのを見計らった
 インド人たちには一つのあてがありました。それは、軽巡『エムデン』の捕虜など300人のドイツ人男子をシンガポールの収容所から解放して、そのドイツ軍人に叛乱の指揮をとってもらおうというものです。ちなみに後備役にもなりそうもないドイツ民間人は開戦直後にパロール(宣誓釈放)済みでした。
 このあてが外れます。解放されたドイツ軍人は叛乱インド兵とは組もうとはしなかったんですね。彼らは独自に収容所からトンネルを掘っていました。それで、自分たちだけで脱走する計画を邪魔されたと思ったんです。けっきょく十数人のドイツ捕虜が、中立オランダ領のスマトラまで逃げたそうです。
 平間論文によれば、叛乱兵は在シンガポールの英国白人男女をみさかいなく殺そうとしたので、民間人は商船に避難しました。
 16日、英国は現地の日本領事館に、民間の居留日本人からなる「義勇隊」の編成を要請し、これは実行されます。武器弾薬食糧は英軍から提供され、日本の会社支配人になっていた予備中尉が指揮をとり、市街の警備にあたりました。「からゆきさん」がらみの商売人を含む、かなり雑多な民間人集団であったようですが、英国民間人からなるやたらに無秩序な義勇隊とは異なり、終始規律正しく行動したとのことです。彼らは中央病院を襲った暴徒を撃退し、捕虜数十名を捕らえ、患者に感謝されました。
 なお、現地のすべてのインド人が叛乱したわけでもなく、英人警部の指揮するインド人巡査たちは銃剣を以て日本人の生命財産を守りました。
 当時から「物資の需給関係に於て支那人の天地」であった南洋において、シナ人たちがどう行動したかは、詳しく分からぬようです。
 17日、英国からの要請によって駆けつけてきたフランス巡洋艦『モンカルム』と日本の巡洋艦『音羽』が陸戦隊を上陸させます。日本の陸戦隊は18日には英軍とともに兵営を奪回し、なんとシンガポール島のどまんなかに日章旗をぶち立てた。18日にはロシア巡洋艦『オリヨール』、19日には巡洋艦『対馬』の陸戦隊も加わり、事態はすっかり掃蕩モードに入りました。
 ただし第三艦隊司令官の土屋光金少将は、日本がインド人から不必要な恨みを買うことがないよう、射殺ではなく、極力捕虜をとる方針を指達していました。
 平間論文によれば、戦闘で日本人が殺したインド人はいなかったが、英人は50名を射殺しました。桑島論文によれば、日本の陸戦隊はつごう22名の捕虜をとり、英軍に引き渡しました。英軍は2-23に叛乱将兵を軍法会議にかけ、2人のインド人将校を含む47人が死刑になります。うち1人が絞首刑、残り46人は銃殺ですが、なんと1890年以来の、監獄外での公開処刑であったので、回々教徒は怒ったそうです。
 1915-2-25に『音羽』と『対馬』の陸戦隊の任務は解かれました。
 この騒動以後、英人は「表面のみにても吾々に敬意を払ふやうになつた。支那人や、馬来人の態度も変わつた。総ての人種が日本人の前には道を譲つた」と土屋少将が報告しています。また平間論文によりますと、グレーに Buldozer Tactics だと評された加藤高明の強気の背景に、このシンガポール鎮圧があったろうということです。
 以下、兵頭のコメントです。この事件も、大川のようなレトリックで紹介されれば、「大アジア主義」の燃料になったわけです。しかし詳しく史実にあたってみれば、日英同盟の健全な発揮であり、且つその強化に役立っただけのできごとであったと知られる。そして昔から今までちっとも変わりばえのせぬことながら、こうした外交力の資産を、日本の役人あがりの首相も、はたまた党人である首相も、ぜんぜん活かすことができないのです。それは、誰が悪いのでしょうか?

フラッシュバックしますた

 数ヵ月ぶりに東京に出て、ギャラも出たついでに、バックパック一杯の本を渋谷のナントカ堂書店で買い込んで来ました。昔、地下1階に危ないミリタリーの本が一杯あったところですね。わたくしはあそこで兵器関係の洋雑誌を立ち読みするのも楽しみだったんですが、今はもう無いようです。5階の洋書屋もなくなってたなあ…。
 で、昨日、そのうちの一冊である、中川八洋先生の『日本核武装の選択』を読破させていただきました。これ、今年の10月31日に出てたんですね。しかも本文中にわたくしが登場しているではないですか。どうしてこの情報をいままで誰も教えてくれなかったんだ!
 なんで「チャンネル桜」は核武装討論番組に中川先生をお呼び立てしないのだろうと思っていましたが、あのはにかみ屋の先生がこうして名指し批判を公表しちゃった相手と敢えて同席されるわけないじゃないですか。納得しましたよ。しかし中川先生、こんどもしも機会があればですが、是非ひとつサシで対談ができることを希望しております。わたくし座談会は大の苦手ですが、先生との対談ならディープな話ができそうな気が致しますので。いや本当は今から数年前のたしか『発言者』の飲み会でしたか、お隣に座ってじかにお話を聞きたかったのですけど、当時まだわたくしは駆け出しでございまして、あまりに恐れ多かったもんですから、遠慮してしまいました。あのときこのご批判を頂戴できていたらなあと、残念に思います。
 以下は同書を拝読しての偶懐です。
 たいへん惜しいのは、中川氏はわたくしのように書店にお出かけになる元気をもうなくされていらっしゃるのか、なぜか95年の『諸君!』論文だけが取り沙汰されていることです。あれなんかはいまから十年近くも前、95年時点の平和ボケ庶民の精神状態にまず活を入れる目的で唐突に掲載してもらった文章ですから、えらく単純かつ理論的かつ極論になっているのはなりゆきです。それを好まない方もいらっしゃるのは予測できたことですけれども、どうしても一回あの「可能性」は出しておく必要があったんですね。じっさいインパクトはあったのです。
 中川氏がご新著の第三章後半でまとめておられる如く、NPT条約を1976年に批准した時点で日本人の精神は死んだも同然でしょう。それに95年になって活を入れようと思ったなら、少しは既存の大先生たちを不愉快にさせるくらいのパワーがなくては輿論は動きません。特に若い読者へのアピール力が出てこない。しかしそれでいったん読者の元気が上向いてきさえすれば、04年1月の拙著『ニッポン核武装再論』のような資料集的構成の方が、問題意識のある読者をより深く考えさせることができるかもしれません。
 その04年の拙著では、中川先生の雷名はあえて明記せずに、中川先生の間違っておられるところも、いろいろと指摘をしてあるんです。いや、その前の何冊かの単行本でも、いくつか批判めいたことを書いていたかもしれません。わたくしは中川先生が、それらの所論を受け入れたが故に黙っておられるのだ、と、いままで思っておりました。
 しかし中川氏はそもそも拙著を一冊もお読みいただいていないご様子であると巻末注を見てこのたび了解いたしましたから、細かくてくどくてたいへん恐縮ですけれども、たとえば以下の疑問を、この場でなげかけさせていただきます。
 米国は、これまで英国以外の国に「トマホーク」巡航ミサイルを売った実績はありません。それをどうして日本が買えると思われるんでしょうか。
 「パーシングII」ミサイルは、米ソのINF全廃条約の結果、全量が破壊処理されました。これをもし米国が、日本に売る目的で再び製造を再開などしたら、ロシアもそれなりの対抗措置を取るとはお考えにならないのでしょうか。
 英国の運用する「トライデント」SLBMは、核弾頭と潜水艦は英国製です。そして当然、SLBMは「二国二重キー」では運用などできません。そもそも米国は、すでに核弾頭を国産することができ、原潜も建艦できる英国だから、潜水艦用の弾道ミサイルを売ってやろうかという気になりましたもので、核弾頭をさいしょから国産できもしないヤル気の無い国に、機密中の機密、ハイテク中のハイテクであるSLBMの運用ノウハウを供与するはずがないと、思われないのでしょうか。
 「すべての核兵器は核弾頭を含め米国に発注し購入する」(ご高著p.142)そうですが、わたくしの知る限り、米国は過去、核弾頭を他国に売ったことは一度もありません。どうして米国は、英国にも売らない核弾頭を、日本には売ってくれるのでしょうか。
 スカッドのような幼稚なSSMならばともかく、長距離弾道弾は弾頭を途中で筒体から切り離せば良いのですから、スペックの最大射程より近いターゲットに随意に照準できるとわたくしは思いますが、如何でしょうか。
 北海道沖から米国西海岸に到達せぬような射程のミサイルを持っていても、それではシナの奥地まで届きませんが、シナ奥地の攻撃はまたしても米国任せでいいのですか?
 カウンター・フォース戦略に立っているロシアが保有する核弾頭は、価値の劣る目標のために消費できるのでしょうか。「いつでも一千個以上の水爆を日本全国に同時投下する」ような態勢をとっていたら、対米、対支のカウンター・フォースの核資源配分が手薄になり、それはモスクワにとって「安全・安価・有利」ではないと思いますが、ロシアにはそんなにも沢山の核戦争資源があり余っているのでしょうか。
 西欧に配備された「パーシングII」は、それがモスクワに届くからこそソ連は競争を投了したのではないのですか。
 ソ連の戦略爆撃機から発射される核弾頭付き巡航ミサイルは航空自衛隊のAMRAAMで迎撃できるようになるだろうと、兵頭は『日本の防衛力再考』(95年刊)で書いたんですが、いまでも「日本にはAS-15A/B巡航ミサイルそのものを撃ち落とす能力はまったくない」(ご高著p.120)でしょうか。
 70年代後半のSS-20とバックファイアの展開で「米国の核抑止は崩壊」した(p.129)そうですが、ソ連の核兵器がじっさいに一発も行使されなかった以上、抑止は成功裡に継続していたとみるべきではないのですか。
 「フランスの主力核兵器SLBMは米国に万が一にも到達しないよう配備されている」(p.149)そうですが、ポルトガル沖からモスクワやウラル山地まで届くほどのSLBMならば、同じ海域からニューヨークにも届いてしまうだろうと思うのですが、いったいフランスの誰がいつそのような約束をアメリカにしましたか?
 MADの米国流の実践で、都市を耐核化しなかったのは間違った政策であると兵頭も思います。わたくしが神奈川大学の1年生か2、3年生だった頃(すなわち1984〜86年)、わたくしは『世界日報』紙上や『自由』誌上に、決して少なくはない数量の核戦略エッセイを投稿し、掲載していただいておりました。いずれもそれらは短文ながら、MAD批判はあり、ソーとジュピターとフランスを関連づけたINF史論はあり、ソ連の核弾頭付き巡航ミサイルへの注意喚起はあり、日本核武装論はあり、ずいぶん中川先生も密かにご愛読してくださっていたのではないかな〜と、当時の先生の御論文などを書店で立ち読みしながら勝手に想像を致しておりましたが(残念なことに今回のご高著の巻末注にはそれら80年代の無名学徒の拙きエッセイの名など当然ながら一つも見当たりませんけど)、2004年末現在の最近の知見からお尋ねを致したいのは、MADは過去から現在まで、有効に機能しているのではないのですか?
 日本と違い世界に対する責任を持ちようもない小国の韓国などに核武装させ(p.229)て、そうした小国が反日国家になった暁にはどうなるのでしょうか?
 SALTは69年の交渉開始いらい、米国の対ソ核優位の放棄政策であった(p.208)そうですが、じっさいには69年時点から終始一貫、米国に全般的・質的な優位がずいぶんあったからこそ、ソ連も交渉に応じ続けたのではないのですか。それとも米軍筋の宣伝を真に受けていらっしゃるのですか。
 「日本の核には米国を標的にするものに転用できるものは存在させてはならない」(p.197)と書かれていますが、小さな弾頭をコンテナやフェデックスで米本土に送り届けたら、米国は標的となっちゃうんじゃないのですか。
 中川氏は「日本には、米国から独立して、国家として永続していくための地理的状況も国力もないのである。これは“日本の天命”といってよいだろう」(p.168)と書いておられますが、まったく同意できません。
 だいたい自分の運命の主人になろうとせぬ者がどうして同盟者から信頼されるのでしょう。根本に、一国で自衛戦争をし抜く気概がないなら、米国の尊敬もかちとれやしません。中川氏にはこの根本がないのでしょうか。そしてまた、米国人のメンタリティに不案内なのではないかと疑います。
 いま英国が米国から信頼されているのは、「小国的な甘え」がないからでしょう。これも中川氏にはわからないのだと思います。
 あるいは中川氏は、人生のいちばん良い時代を捧げた「敵ソ連」が昨今無視されていることに、深層心理で抵抗されているんじゃないでしょうか。米国とともに日本がソ連と対決していたあの時代、あの世界に氏はなじみすぎていて、そのため昨今の北鮮発やシナ発の騒動に接して、あたふたしちゃってるんじゃないでしょうか。
 そこまではなんとなく想像がつくのですが、どうも分からないのが中川氏一流の「甘え」です。小国意識、他人頼み、「パーツ(部品)」志願の発想、「下士官根性」とも言うべき諸性向が、いったい氏のどこから出てくるものなのか、わたくしごとき若輩には、永遠の謎なのです。
 1980年代の中川氏はわたくしのヒーローでしたから、その方から書籍上でこうしてノーブレーキの御高批を蒙るようになったとは夢のようです。ついに本書のおかげで、昨日までは数ならぬ身でありし兵頭二十八も急に大物になったように錯覚します。
 いや、珍しく夜更かしをしてしまった。誤記があればあとで訂正します。
 ありがとうございました。