橋Run。

  WILL MORRIS 記者による2018-10-3記事「Robotic wheelchair promises vets a better ride」。
    ピッツバーグ大の研究者が、ロボティック車椅子を開発した。MEBotと称する。
 車輪を前に伸ばしたり後ろに伸ばしたりできる。これはカーブを曲がりやすくするという。
 椅子の傾斜角も前後左右に自在に変化させられる。
 これは椅子からの転落事故を予防するためにとても役立つ。車椅子生活者が救急車を呼ぶ羽目になる原因の筆頭は、転落なのだ。
 この開発は、退役軍人庁、ウォルター・リード国立軍医学センターとのJVである。
 単価3万ドルで、5年以内に買えるようにしたい。
 これとは別に、圧搾空気で駆動する車椅子も開発が続けられている。電気を用いなければ、プールの中に入っても安全だから。
 現在、脊椎損傷等のため車椅子生活している元米兵は10万人いる。
 ※この技術が進歩すると、ずぼらな健常者たちが日常生活で自走車椅子を使って何が悪いという話になってくる。マイカーならぬ、マイクルマの時代が来る。さらにその先にはもっとすごいことがある。しかしその話は小説仕立てにしないと書けない。書かせてくれる出版社があれば、書く。
 Will Knight 記者による2018-10-2記事「The US is hastening its own decline in AI, says a top Chinese investor」。
       カーネギーメロンで80年代にマシンラーニングを学び、90年代に中共内でマイクロソフトの研究所を仕切り、2000年代にはグーグルの中共進出を手助けした男、カイフー・リ。
 今は富豪となり、北京にシノヴェイションというAI系に特化したインキュベイター会社を運営する。
 近著に『AIスーパーパワーズ』あり。米支のAIブームを解説している。
 リにいわせれば、アメリカが心配した方がいいのは、中共に追い抜かれることなんかじゃない。AIの基礎分野への投資がどんどん減っていることだ。
 これは巨人企業たちが悪い。最優秀の人材をぜんぶ引き抜いてしまった上で、彼らに基礎分野でのブレークスルーは狙わせない。
 大学研究機関は基礎分野を攻めている。しかし財力は乏しいので、良い人材は高給で以って民間企業に奪われてしまう。安月給で研究所内に残る研究者は、有能ではない。
 米国は、既存の技法では解決できない新にデカい挑戦に本腰を入れなきゃダメだ。
 「ディープラーニングを超えてくれ」ってことなんだ。
 既存のディープラーニング/ニューラルネットワークは、やたらでかいデータを必要とし、且つ、狭い分野にしか役立てられない。
 しかし、ディープラーニングじゃないアプローチを考えるなんてことは、商売を度外視した研究だから、既存の大企業には期待ができないのだ。
 一般に、企業がでかくなるほど、チャレンジは難しくなるね。
 米国が中共に負けたくない? だったら、米国内の大学でAIを開発している教授たちの年俸を連邦政府として助成するだけでいい。給料を2倍にしてやれば、企業に引き抜かれることがなくなる。彼らが、基礎分野でのブレークスルーをなしとげてくれる。ディープラーニングを超えてくれる。それには大した税金はかからない。
 他方で、米政府は、グーグルやフェイスブックが持っているのと互角以上のデータセンターを建てて、それを大学の研究者たちに使わせてやるようにしなければダメだ。超高性能のグラフィック・チップが巨大建物をぎっしり満たしているような、そういうGPUファーム。現状では巨人企業だけがそんな施設を持っている。
 ディープラーニングのモデルは、そういう装置で実験しないと、先へ進められん。
 AIに関して中共と米国(および西側諸国)は、パラレル宇宙になっている。
 2系統のAI技術によって、両陣営は世界を2分割するであろう。新しい世界新秩序だ。
 両陣営で後進国市場を狙っている。グーグル、アマゾン、マイクロソフト、フェイスブックに匹敵する中共の代表格企業は、アリババ、テンセント、百度。それに新興のセンスタイム。
 たとえば顔認証技術。中共系と米国系の2つの商品群があり、第三世界に売り込まれている。世界は、中共系AI商品を使うか、米国系AI商品を使うかの、どちらかを選ぶ。「技術的殖民地」を世界規模で分割する競争が、米支間で闘われることになるのだ。
 ※ロボット運転自動車技術も同じことになる。とうぜん、米国メーカーがシナ領土内で製造するなんてことは将来はもう許されなくなる。だからトランプ政権は早めに手を打ち、今から関税をやたらに引上げて、米国メーカーが早く中共領内から撤退して来るように仕向けているのだ。
 次。
 Ben Werner 記者による2018-10-2記事「Declining Commercial Nuclear Industry Creates Risk for Navy Carriers, Subs」。
        今日、米海軍は、全米の商業原発よりも多数の原子炉を運転中である。
 空母と原潜、あわせて101ものリアクターが、稼動中なのだ。
 大問題がある。北米で採掘される天然ガスが値下がりしているため、全米の電力会社は、原発よりコストがかからない、火力発電所にシフトしつつある。このため、原子炉や周辺機材を製造しているメーカーの陣容もどんどん手薄になっているのだ。
 いま、米国内で運転中の商用炉は98基。これが漸減する。
 ある専門家の試算では、もう15年後には、米国内で稼動している商用原発がゼロになっているかも……という。
 かたやロシアと中共は、トルコやパキスタン向けを手始めに、商用原発を世界中に輸出して行くつもりだ。
 ※北海道の家庭で一般的な石油ストーブは、ファンヒーター式ではなくとも、外部100V電灯線が停電すると、ホームタンクから灯油を吸入できなくなる。この問題の対策として「ぜんまい式バイパス・ポンプ」をストーブの基部に最初からビルトインしておく方法を提案したい。もちろんそのバイパス路と、電動モーターポンプを通る主管路とは、完全に切り替えられなければまずいだろう。


首相官邸等の政府庁舎の郵便仕分け室は、本館からは離して建てられているか?

 COREY DICKSTEIN 記者による2018-10-2記事「Envelopes suspected of containing ricin addressed to Mattis, CNO and sent to Pentagon」。
   マティス長官とジョン・リチャードソン提督(海軍作戦部長、つまり軍令部総長)宛てに届いた封筒にリシンが入っているのではないかとしてFBIが捜査中。
 ペンタゴン内の手紙仕分けセンターが発見した。10-1に。
 マティスはパリにいる。
 2001のアンスラックス騒ぎのあと、ペンタの手紙仕分けセンターは、五角形ビル外の隔離棟に移設されている。
 同日に配達されたすべての郵便物は隔離されて検査されているところだ。
 リシンは、トウゴマ(ヒマ)の実の中に含まれる。吸入したり嚥下すれば致死的たり得る。
 次。
 Pierre Tran 記者による記事「Naval Group: Talks with Australia still underway for sub buy」
    豪海軍が国内で組み立てる予定の仏製の『ショートフィン・バラクーダ』型潜水艦の知的財産の保護をめぐり、仏軍事企業「ネイヴァル・グループ」と豪州側とが揉めている。
 このままだと来年の豪州総選挙までに契約が確定しない。予定では2018末までに締結されるはずだったが。
 いまの豪州国防相は、クリストファー・パイン。
  ※まだ煮詰めてなかったんですね。こんな厄介なビジネスに日本が乗り出すなんて、最初から無謀なこと。
 次。
 James Temple 記者による2018-10-2記事「Forget fertilizer――this startup aims to slash greenhouse gases with plant probiotics」。
   ベンチャーのピヴォットバイオ社は、ビル・ゲイツその他から7000万ドルの事業立ち上げ資金を注入してもらうことができたので、来年から量産品を市販する。
 この会社は、根粒菌のように窒素を作り出す潜在力を有する細菌を発見した。
 その潜在力を解き放ってやり、種子に塗布したり苗の根元に与えたりすることにより、マメ科ではない植物に、マメ科と同じような「無肥料成長」をさせることが可能になる。まずはトウモロコシで実用化する。
 これのおかげで追肥の必要がなくなれば、農業経営者は莫大なコスト削減が可能になる。地球環境にとっても、朗報だと。


眠いときは寝ろ

 脳と身体、どちらかが休息したいときに、相互を常時神経が連接して刺戟確認に務めていることが余計な負担になってしまい、疲労回復が遅れる。
 だから睡眠することで相互の神経連絡水準をじゅうぶんに緩和し、でき得れば、半ば遮断する必要があるのだ。
 確か『西遊記』にこんな名言が挿入されていた。《悩み深ければ眠り多し》と。
 問題を整理するためにも、まず昼寝せよ。それで有害な疲れから早く恢復できる。
 以上、「ベルクソンは正しかった」という所感を敷衍した。
 次。
 TONY CAPACCIO 記者による2018-10-1記事「Blame a spark plug-like component for US-Japan missile failure, Pentagon says」。
     2018-1-31に実験失敗したSM-3のブロック2A。米ミサイル防衛庁は、原因は第三段目の小部品にあったと結論づけた。
 第三段(最終段=キルビークル)のモーターに着火しなかった。


テーザー給電式マルチコプターだけが、日本メーカーにとり、僅かな逆転勝利のチャンスである。

 David Grossman 記者による2018-9-29記事「A Regulatory Overhaul Could Drastically Change Who Can Fly Drones in the U.S.」
  DJI社の法務担当重役は、ブレンダン・シュルマンという。2017時点でDJIはなお世界のドローン市場の四分の三をおさえていた、と。
 FAAのあたらしいドローン規制法令。操縦者に航空法等の試験を課す。高度制限は地上から400フィート未満。速度上限は40ノット。操縦者から機体を視認できる範囲で飛ばさなければならない。日没から日の出までは飛行禁止。
 操縦者が15歳以下の場合、教育目的ならば、レギュレーションが緩和される。
 個人用のドローンの売り上げは2018年は370万ドル規模になるだろう。これは昨年を2割上回っている。
 また、牧場経営業界や、消防活動機関等は、ドローン技術とその普及によって、激変を余儀なくされつつあり。
 ※28日夜のニコ生「国際政治」の有料時間中に提案したテーザー式偵察ドローン。なぜいまや陸自はこの分野でのみ微[かす]かに希望が残っているのかというと、わがUAVの運用を電波によってさまざまに妨害しようという敵軍のテクニックが長足の進歩を遂げているためだ。とてもじゃないが後進的な国産ドローンが、将来の実戦のECM環境をクリアできるとは考えられぬ。陸幕は頭が古すぎてピンと来ないだろうが、要するに彼らは甘すぎる。しかし、テーザー(有線)の給電&通信式なら、ECMは最初からまったく関係なし。しかも、日本の総務省の面倒な電波法などを気にかける必要もなし。演習場や駐屯地内でいつでも自由にのびのびと開発や試験飛行ができるのだ。ここが大事なんや!
 次。
 ストラテジーペイジの2018-9-30記事。
   ウクライナでのロシア占領区でロシアが放送しているテレビとラジオ(FM)の電波を、ウクライナ軍が妨害している。
 その妨害システムを「セルパノク」と呼ぶが、なんと、ウクライナの正規テレビ放送局施設やラジオ放送局施設を活用して妨害電波を発射するのだ。
 1991以前の旧ソ連軍内のEW(電子戦)将校の少なからぬ割合はウクライナ人だった。ゆえにポスト冷戦期の露軍のEWの発達動向にいちばん詳しいのはウクライナの軍人。このウクライナ軍から米軍は露軍の最新電子戦テクニックについて教えてもらえる立場にある。
 2015年以降に登場した露軍の顕著なEW新装備は、ミル8輸送ヘリコプターに搭載した「Rychag-AV」という妨害装置。半径400km以内の敵軍のレーダーや通信機の機能を妨害できる。
 電波の性質上、トラックに車載するよりも、ヘリコプターにアンテナを載せた方が、威力が遠くにまで及ぶのだ。
 米軍はただちにこれに対抗できるEWシステムを3年がかりで完成し、今年からシリア方面に持ち込んでいるところ。
 次。
 Roy Berendsohn 記者による2018-9-29記事「The Right Way to Stack Firewood」。
   切り株の上で薪を割るときは、古タイヤで囲うようにしておくと、割った薪の取り集めが楽になる。
 薪は、長軸が14インチ、横幅は3~6インチに割るのが諸事都合よい。
 ハンモックスパン方式。自宅の庭の2本の立木の間に薪を積み並べて置く。
 だがこの方式は、何年かするうちに立木の幹を傷めてしまう。
 薪の水分は、木口から抜けていく。よって、木口に風がよくあたるように積んどけ。
 薪はどのくらい乾燥させるのがよいか。科学的につきとめられているところでは、水分が全重量の2割ならば、乾燥はもう十分で、それ以上、無理に乾かす必要はない。
 木の匂いがしなくなったら、その薪はじゅうぶんに乾燥している。
 ちなみに切りたての材木の全重のうち、三分の一は水である。
 野営で、立木の低いところにある枝を折って焚き木にしようとするとき、すぐに折れる枝ならそれはよく燃えてくれるが、なかなか折れない枝は燃えにくいものなので、最初の焚きつけ用としては不適当だ。
 米国の多くの州では、公有林から薪を得ようとする者に、名目的なライセンス料金を支払わせている。私有地でない場合は、州法を確認せよ。


ニコ生 所感

 みなさまありがとうございました。
 ニコ生の画面に流れる視聴者からの打ち込み文字、あれを出演者がモニターできるようになっているのだとは、初めて承知しました。(わたしは今回はそれを見ている余裕がありませんでしたが、慣れればそれに即反応して話題を変えるという芸当ができるそうです。)
 それと、オンラインで放送される絵・音はリアルタイムではなくて、数秒(かなり長く感じる)のディレイがある、ニア・リアルタイム放送なのだということも承知できました。
 ともあれ、2週間前まですこしも存じ上げなかった方といきなりスタジオで深い話を延々展開するというショービジネス。人生はすばらしいじゃないかと実感しました。
 「このスタイルの企画ならば、いつでもどこへでも出張しよう!」という気にもなったわけでございます。
 2点、ここで補足します。
 江藤淳先生は、日米戦争の開戦の流儀が国際公法上の「侵略」に該当するとはお認めにはならなかったろうと思うのです。となると、もし小生が江藤先生の生前にそんなことを主張しようと思ったなら、かなりの用意が必要になったはずでしょう。ところがたまたま小生がその考えをまとめ始める前のタイミングで先生は長逝され、小生に準備不十分なうちから日本の開戦流儀論や戦後憲法論を展開する自由を与えてくだすった形となった。放映前の打ち合わせのとき、この事実を篠田先生に対してごく一般化して説明しようとしたために、話がわかりにくくなってしまいました。お詫びします。
 OCRについて。AIシンギュラリティ論の唱道者たるカーツワイル氏はもともと、OCR(光学文字読み取りシステム)の初期の開発者です。つまりOCRはAIのハシリのひとつだったといえます。ところが同じOCRといっても、横書きしかない欧文と、縦書き混在でしかも文字のバリエーションの多い和文とでは、AIのハードルもかなり違ってきそうですよね。殊に、戦前の仮名使いや旧漢字の活字、さらに江戸時代以前の印刷文献や草書の資料となったら、もう……。しかし、そんな特殊なOCR用の高機能AIの需要は、おそらくわが国にしかないのですから、日本政府がカネを出してどんどん先へすすめなかったらどうするんだ――という訴えをしたかったのです。
 ホントに世界から取り残されますぜ。
 たとえば米国司法は判例主義ですから、過去の全判例は連邦のも州のもとっくにOCRでデジタル文字化されてますでしょう。同じコモンロー体系を奉ずる英国の大昔の裁判記録にまで遡って関係判例を瞬時に網羅的に呼び出して確認することも(想像ですが)できるはずです。
 ケミカルの世界でも、AIが古今東西の英文論文を総ざらいしてヒントを博捜できるおかげで、新薬の開発が随分加速されてきました。
 日本語の古い文献の中には(たとい戦前の大衆向けの雑誌であっても)、今の人々からはとっくに忘れ去られた、研究者たちとすれば「未知なる金鉱」が、おびただしく眠っているんです。しかしAIがそれを博捜するためには、OCR(と、ロボットのページめくり撮影マシーン)で全部、デジタル文字化されている必要があるのです。
 いったん、その手間さえクリアしてしまえば、日本の過去の文献類は、現代の各分野の研究者たちにとって、無尽蔵の金鉱脈になってくれるはずです。サーチ用のAIがアクセスできる、すこぶる価値のあるビッグデータに化けてくれる。
 日本人研究者にとっては、これまでの日本語のディスアドバンテージが、特権的アドバンテージになってくれるでしょう。
 超高性能のAI=日本語OCRを、官でも民(パナソニックがイイ線行っていそうです)でも可いから、もっと発達させなきゃダメだということがおわかりでしょう。その先には、「知識のマイニング(金鉱掘り)」が、誰にでもできる環境が待っています。わたしが図書館の古資料の話などをしますのは、すべてこの主張の前フリなのです。
 官がこの分野にカネを突っ込みたくない気持ちは、少し分かる。たとえば仮に法務省がカネを出して超高性能OCRが概成したとしましょうか。おそらく日本の法曹界は、大量失業の事態に直面するのではないですか? 企業法務も、どれほど省力化されることでしょうか。そんなふうに天下り先を減らしてしまうような政策投資は、官にはチトできかねるかもしれません。


皆さん、ニコ生 国際政治ch 33 で会いましょう。本日20時スタート。

 Michael Carr 記者による2018-9記事「Save the Army’s ‘Navy’」。
   米陸軍も船舶を運用している。現状で、300隻くらいある。
 「アーミー・ウォータークラフト」(陸軍水上機材)と称する。
 そのための人員は2000人。MOS番号(軍人特技区分)は、880番と881番だ。
 大きい船だとLSV(兵站支援船)。これは315フィートもある。いちばん小さいのは75フィートの「ST」(スモール・タグボート)。
 これらの船舶には陸軍の将校は1人も乗り組まない。いちばん偉い階級でも「准尉」であり、あとは全員、下士官/兵が操船しているのだ。 ※この記者も准尉。元・コーストガードの士官だった。
 LSVだと1隻に8人の准尉と27人の下士官/兵が乗務する。
 STは、主に港湾とか錨地内だけを走り回る。
 LSVと、128フィートのLT(ラージ・タグ)は航洋性能があり、世界中に展開している。
 これら、米陸軍の海上戦力の維持費は、年間予算にして1億2000万ドル。
 いま、この陸軍船舶部隊が苦境に立たされている。機材は酷使により傷んでいる。乗員はフル充足していない。要求される仕事がますます増え、それに陣容が追いつかない。報道されないまずい事故も複数起きている。
 昨年のハリケーン「マリア」に際しては、サンフアン港とそこに連絡する陸上道路が大被害を受けて使えなくなったので、われわれがプエルトリコへ出動する機会であった。
 われわれは、プエルトリコのあちこちの海岸に、水、食糧、天幕、医療品、発電機、車両、技師らを送り届けることができたのだ。しかし、われわれは、呼ばれなかった。
 FEMAは、サンフアン港を通じて物資を届けることにこだわった。だったらわれわれは必要ないわけだ。
 数十隻の米陸軍所属のLSVとLCU(汎用揚陸艇)は、タンパ基地、ムアヘッドシティ基地、フォート・ユースティスで待機したままだった。何ヶ月も。
 LSVなら5000トン、LCUなら500トンの物資等を満載して、米本土からプエルトリコまで、1週間以内に到達できるのだが……。
 じっさい、記者もLSVやLCUの艇長として、訓練で何度もプエルトリコのローズヴェルトローズ港やポンセ港まで米本土から往復している。
 陸軍水上部隊はデザートストーム以降、中東(クウェート)にも常駐している。しかし、活用されているとは言いがたい。
 上級司令部は、その使い方を知らないのである。
 米陸軍もまた、陸上の戦車や装甲車を整備する指針であるAMSAを一概に船舶にまで適用しているため、この船舶装備のメンテナンスは理想的な状態にはなっていない。
 同部隊は、真珠湾、タコマ、ポートフエネム、フォートベルヴォア、ボルチモアにも所在する。
 提言する。わが部隊は、現状では、陸軍輸送隊の麾下だが、これを独立させ、「アーミー・マリタイム・コマンド」とすべきである。
 ※逆だな。むしろ海岸地の基地に分属させた方がよい。初動に手間がかかるから、使われないのだ。関東軍の東條参謀が機甲を嫌ったのと同じ。駐屯地司令の一存で動かせるようになれば、機動的に大活躍する。
 次。
 Loren Thompson 記者による2018-9-26記事「Five Ways U.S. Nuclear Strategy Might Fail — Maybe Soon」。
    ロシアは現在、静止軌道上に、米国の弾道弾発射を赤外線で察知する早期警戒衛星を、1機も保持していない。
 陸上に展開したレーダーだけが、恃みなのだ。
 そして一説によれば、この地上レーダーからの報告が沈黙したとき、モスクワは自動的に全面核戦争を決意するのだという。
 次。
 Anna Ahronheim 記者による2018-9-26記事「Pentagon to remove Patriot missile defense systems from the Middle East」。
    米陸軍は、ヨルダン、クウェート、バーレーンに展開していたペトリオット部隊を引き上げる。
 ロシアおよび中共との対決に備えるために転用すると。
 イスラエルはペトリ大隊を3個、もっている。7月にはシリアのスホイ機をこれで撃墜した。
 次。
 COREY DICKSTEIN 記者による2018-9-7記事「F-35 makes American combat debut, strikes Taliban target in Afghanistan」。
    公海上の強襲揚陸艦『エセックス』から発進したマリンコのF-35Bが実戦で爆弾初投下。アフガニスタン。
 詳しい投弾地点や機数は未公表。
 F-35の実戦初投入はしかし、イスラエル軍機である。5月。


中共のIT大手は何時「軍閥」化するのか?

 Patrick Tucker 記者による2018-9-25記事「The Pentagon’s New Ambassador to Silicon Valley Is Hawkish on China」。
   2015年にペンタゴンは、DIU(防衛発明実験隊)を創設した。これは、情報技術に関する米四軍のリクエストと、その技術を提供できる新進企業群を媒介する機関である。現在までに、84件の契約が成っている。
 ※儒教圏人は西洋近代空間に「パラサイト」したときだけ、個人の自己実現が可能になり、大発展できる。なぜならその空間には「法の下の平等」があって、弱小個人の発明や利潤も法的に守ってもらえるからだ。しかしパラサイトが成功してますます多数の留学や出稼ぎや移住を誘い、ついに数的マジョリティとなりおおせ、慣習ドミナンスが現出するや、宿主たる西洋近代空間は一転、儒教空間に変じてしまう。そのとたんに、儒教圏人は昔ながらの儒教圏人に引き戻される。その空間にはもはや「法の下の平等」はなく、弱小個人は強者のしもべとなって生きる他にない。中共のIT大手は、巨大化したあとは中共を完全に飛び出して無国籍企業になるか、さもなくば「軍閥」化しないと、けっきょく中共党のライバルと看做されて、頭を抑えつけられるだろう。
 次。
 ストラテジーペイジの2018-9-26記事。
   中共の潜水艦〔キロ級改/39B型〕のAIPがやっとスウェーデン並の性能に近づいた。連続2週間、潜航できたと発表された。つまり、いままでは1週間ぐらいだったのだ。
 2016年後半から、39B型のうち3隻が大改装された。米海軍はその音紋が変わったことを把握している。
 ※儒教圏人が西洋近代空間を溶解・破壊して行く流儀は、まず、「法的に正当な根拠が無いが些細である」ような要求から始める。これに近代圏人が応じてしまうと、その些細な不当要求を過去に受け入れさせたことを「債権」化して、さらに不当な要求をグラジュアル且つ無制限にエスカレートさせるのである。したがって対儒教圏の外交では、最初の第一歩から些細な問題で理を枉げた譲歩を絶対にしないことを鉄則として銘肝するのでなくてはならない。軍艦旗および連隊旗の旭日旗は軍隊の徽章であって政党の旗(たとえばハーケンクロイツ)とは同列に括られない。ドイツ軍隊は第一次大戦でも第二次大戦でも、戦後でも、「鉄十字マーク」を軍隊の徽章として用い続けている。誰かがそれに文句をつけても、「政党とは無関係」と、相手にしないであろう。
 次。
 Mike Orcutt 記者による2018-9-25記事「With Walmart’s veggie tracker, blockchain for supply chains will finally get real」。
    ウォルマートは、IBMに開発してもらった特別なブロックチェーンにより、食品を農場から売り場まで管理することになった。
 ついこの前も、大腸菌系のバクテリアに汚染されたロメインレタスが流通したために5人死んだ。アウトブレイク騒ぎだ。そのためウォルマートは、汚染源の農場はどこなのかが確定されるまでの間、とりあえず袋詰めのカット済みレタスの在庫全部を廃棄するしかなかった。
 汚染源農場をつきとめるためには、これまでだと7日くらいかかった。
 ところがブロックチェーンで生鮮食品を管理していれば、わずか数秒にして、どこから汚染したのかを把握ができるという。
 ※「読書余論」には集成版があります。わが国の古書には過去の智恵が凝縮されているのに、現代人はその万分の一も活用ができていない。これが日本の未来への前進力を低迷させているひとつの原因です。集成版(合本)にご関心のある方は、「武道通信」を覗いてみてください。


おしらせ。 

「読書余論」の無料公開版を「武道通信」の「無銘刀」に毎月掲載して参りましたが、長文になりますと「無銘刀」にかかる負荷が相当に大きくて運用管理の作業も大変のようです。それでいろいろと考えました結果、「読書余論」は今回の九月分をもちまして、勝手乍ら終了致すことに決めました。爾後はブログ等の場を借り、不定期的に資料備忘録の形で掲載することになろうかと思います。あらためまして読者諸兄ならびに杉山穎男様のこれまでの御厚情に、深く御礼を申し上げるものであります。


旧式機雷は水蓄火薬庫に収める必要があり、弾薬庫の増築に難あり。クイックストライクならそのハードルなし。

 Ben Werner 記者による2018-9-24記事「Navy, Air Force Test Deploys 2,000-Pound Mine at Stand-off Range」。
       ヴァリアント・シールド2018演習にて、グァム所属のB-52が快挙。
 2000ポンド投下爆弾に、滑翔翼+JDAMキット、さらに対艦船センサーをとりつけた「クイックストライクER」機雷を、北マリアナの浅海に遠隔投入してみせた。
 高度と射程と機速は非公表だが、中共軍のSAMが届かない遠くの空から敵地近海に敷設できることが誇示された。
 この模様はP-8Aによって撮像記録された。また、沈底機雷として正常に機能開始したかどうかを、ダイバーが爆弾を回収して確かめた。
 500ポンド爆弾改造のクイックストライクERの遠隔敷設実験は、ヴァリアントシールド2016において、すでに海兵隊のF/A-18 ホーネット等が成功させている。
 ※日本が機雷戦と米軍のブロケイド戦への協力を実行するためにはますます政治家の国際法理解が不可欠だろう。ところでE.W.Osborne氏著『Britain’s Economic Blockade of Germany 1914-1919』という洋書は、1856パリ宣言(The 1856 Declaration of Paris)の解説から始まるのだが、篠田英朗教授のご著作のおかげで私はようやくその意義を理解したと思った。このパリ宣言(クリミア戦争講和条約のパリ条約とは別物。中立船(荷)の拿捕等につき規定した。日本語版ウィキペディアがないことから、日本人の関心の低さは察せられる)に署名したときに英本国内から、これは「Britain’s belligerent rights」を不必要に放棄したものだという批判の声が起こった――というのである(p.9)。つまりそれまでは英国は交戦権をさんざん行使してきたけれども(たとえばデンマーク艦隊が敵方については困るなというだけの理由からとつぜん1807-9にコペンハーゲンに押しかけて街を焼夷ロケットで焼き討ちしたのもそうだろう)、ナポレオン戦争後には合衆国がどんどん強勢化したので、さしもの英帝国もとうとう中立国の中立権は大いに尊重をせざるを得なくなった次第。そしてWWIの緒戦に至り、英国は痛感する。欧大陸と交易している米国に中立をされただけでも、英国は欧大陸強国に対抗が不能になってしまうのだ(対独ブロケイドがザルになるので)。けっきょく米国が英国側に立って参戦するまで、対独ブロケイドは不完全であり続けた。同じことを日本もさっさと覚るべきだった。シナ大陸と交易している米国が中立しているだけでも、日本はもう蒋介石には対抗不能に陥るのだと(ならば在支の民間工業資産は手早く米資本に売り払えというオプションもあった)。英国はWWI爾来、米とは絶対反目しないことに決めた。日本はその構造を1941までも把握できずに、ノンベリジェレントにして援蒋国たる米国に挑戦してしまった。コペンハーゲンをやってしまった(ベリジェレント権をフル行使)。ところで篠田さんは察してないと思うが、英国は2003年にイラクに大量破壊兵器など無いと知っていたはずだ。だが米国による2003侵攻にはつきあった。なぜか? 英国の将来の危機にさいし、米国に中立されてしまうことが最も困るからである。米国が中立ではなく開戦を選ぶなら、英国はそれに必ずつきあうという心理工作を平生から続けておくことが、甚だ有意義だったのだ。そういう高等判断だ。今日、米国が中立をきめこんだら、日本はもちろん大陸勢力から叩かれっ放しになり、やがて大陸の属国になるだろう。しかし幸いにもアメリカは中立していない。それが在韓米軍。在韓米軍の意味は、米国は対支に関しては「中立」はしないという意思表示だ。だから在韓米軍だけは日本からカネを出してでも維持させる価値があるのだ。トランプと交渉する日本の大臣が、ここを理解しているとよいのだが……。


読書余論 臨時バックアップ

 武道通信の無銘刀の調子が悪く、九月分の全文が載らない事態になっておりますので、ここに全文を掲載しておきます。
 今後の措置につきましては、またお知らせいたします。
◎読書余論 2018-9-25 配信号 / 兵頭 二十八
▼『ベルツの日記 第一部 下』つゞき
 M33-8-4。
 パウエル氏の天津の事務所は、ロシア兵による略奪でこなごな。ブーフハイスター氏の事務所はフランス兵にやられた。しかし世間で非難されているのは清国兵だ。
 8-15。
 伊藤公の懐旧談。36年前、英国船に平水夫としてもぐりこんだとき、ハンモックで寝ぼけているところを、綱の切れ端で手荒く、背中をどやしつけられて起こされた。その動作まで再現してくれた。
 ※英国映画の『戦艦デファイアント号の反乱』を見ると、それがどういうものなのかは端的に分かる。太い麻ロープを1m弱の長さに切断し、その一端を瘤結びにしたもので打擲することが、兵曹による水兵に対する公認の体罰となっていた。
 8-22~23。
 天津で腕に2発くったビーティ艦長は、スーダンで回教をすっかり見直して敬服していた。
 欧米各国は、みずからすすんで朝貢国の地位を受け入れていたから清国人に舐められたのである、という事情は、シッドモーア著『ロングリヴド・エンパイア』を読むと知られる。
 北進事変の結果、ドイツ公使を殺害したことに対する謝罪使として清国から親王が派遣された。
 9-8。
 大磯で伊藤の話を聞く。井上の婿にあたる都築も来ていた。伊藤はさすがに老けてきたが、また欧米へ出かけようとしている。
 9-9。
 マッキンレー大統領が昨日、刺客に襲われたとの報道。
 9-15。
 伊藤は酒をなかなか控えなかった。
 9-16。
 東宮のもとで午餐。未来の参謀総長と目されている田村将軍も同席。
 東宮〔大正天皇〕は、気遣わしいほどたくさん紙巻煙草をおふかしになる。
 幼ない皇子、廸[みち]の宮〔昭和天皇〕は元気で、本当に美しい赤ちゃんだ。
 9-20。
 北進事変に志願して従軍したクラウゼ医師が尋ねてきた。欧州各国軍の派遣部隊は、志願した予備・後備兵が多く、いかがわしい連中で、兇暴性を発揮したと。
 学生はますますドイツ語がよくわからなくなるばかりだから、授業は以前ほどはもう楽しくない。
 10-4。
 東宮は、幼時のご病気いらい、おちついて一つのことに専念するのを好まれない性質。ちかごろはこれが旅行好きの形をとる。特に東京を嫌われる。いまが東京のいちばん好適な気候なのに、葉山で過ごしたいのだと。
 10-28。
 キルヒホーフ提督のための公使館晩餐会で、山本海相と大いに快談。
 11-22。
 小石川植物園にて、滞日25周年を紀念する祝典を催してくれたので、演説。
 西洋の科学について日本人にはまだ誤解がある。その本質は「機械」「道具」のようなものではないということがまだ分かってないようだ。幾多の傑出した人々が数千年にわたって努力した結果が西洋科学なのだ。西洋人教師は、科学の樹を育ててやろうと思って来日した。しかし教師たちは、果実を切り売りする人として扱われた。
 日本の国民経済の分析は、ラートゲン、フェスカ、ラインという三人の独人が書いた3冊の本がいちばんすぐれているとアーネスト・サトーも認めているのに、日本人は注目しようとしない。
 M35-2-1。
 日本人は東京の街路を非舗装で排水良好に改修する方法を知らない。透水性の悪い粘土を砂利と混ぜているので、一雨で泥田。阿呆かと。
 2-13。
 昨日の議会で桂が日英同盟を発表。震撼。
 2-14。
 慶応義塾の学生が盛大なたいまつ行列。英国公使館前で萬歳。
 2-17。
 伊藤はつねに親露派だった。だから日英同盟は伊藤の案ではないだろう。
 3-1。
 九月の地震のあとで房州の勝山の魚屋「石井」の井戸から突然、石油が出た。この石油利権を欲する外国人の折衝に一枚噛むことにする。
 4-2。
 日本医学大会で演説。多くの専門研究家は、ほとんど効果を予期しなかったような方面から、しばしば最大の成果を得ている。
 結核治療で肝要なこと。有害なことを一切阻止せよ。身体を強壮にせよ。
 解剖学の授業は骨で始まる。生理学の授業は血で始まる。
 なりたて医師は、臨床では、老練な看護婦に劣ると知れ。
 註。井上馨はM30-12からM45-3まで、毛利家一門の子弟を教育する塾として「時習舎」を監督した。場所は、麻布・内田山。資金は毛利家が出した。
 4-12。
 結氷。42年前の桜田門外の変のときも異例の寒い春で積雪があった。それ以来の異常気象だと専らの噂。
 4-18。
 浦賀にドック入りしている『ヘルタ』号の士官らとの午餐会で、山本海相のために独語通訳する。海相は26年前、候補生として『フィネタ』号に乗り組んでいた。インゲノール艦長とは、したがって、知り合いである。
 6-1。
 胃癌で最近めっきり衰弱した西郷従道元帥を見舞う。元帥は農場から本日、帰京した。あまりにも弱り方が酷く、車が自宅に着く前に死ぬかと心配された。
 6-2。
 ふたたび西郷家へ。容態はおもわしくない。たえず黒いものを吐いている。
 M35-12-12。
 ハノイで原稿を見ずにフランス語で講演。このやり方はどこでも聴衆にウケがいい。原稿を読み上げるようなスピーチは、つまらないのだ。
 ※今回はここまで。つゞきはまた次号以降。
▼マーチン・マンed.『船の話』つゞき
 ハンレイ号は、鉄製ボイラーを改造し、長さを9mに延長。照明は蝋燭とし、酸素警報機を兼ねさせた。8人がかりでクランクを回し、艦尾スクリューを動かす。7.4km/時を出せた。
 41kgの火薬を詰めた銅製の浮遊機雷を、60mの綱で引っ張り、目標艦にぶつける。※艦首の長いパイプの先にくくりつけたのではないか?
 実戦前に3度水没し、そのたびに複数の死者を出した。余裕浮力がなく、波をかぶるとオープンハッチから浸水しただけで、たちどころに沈没に至る。また、バラスト注水が速過ぎても、海底に艦首を突っ込んで動けなくなる。
 ハンレイ大尉は三度目の事故で水死。
 1864-2、夜半、ディクソン中尉が指揮し、チャールストン港外に停泊中の北軍軍艦ハウザトニック号の右舷に水雷をぶつけ、撃沈に成功。
 自艦も沈み、5人以外死亡。
 電動モーター式の潜航艇は、1886に英民間人が試製。航続距離が148kmもあった。
 スペインも高性能な潜水艦と魚雷を完成したが、普及せず、みすみす米西戦争戦争に大敗した。
 自力で発電できないのではいちいち帰港しなければならず、作戦半径が小さすぎた。そこで米人ホーランドとレイクが、それぞれ独立に、ガソリンエンジンで洋上で発電し充電する方法を思いついた。
 ホーランド式は1900完成。日本に輸出。
 レイク式はロシアやオーストリーに輸出された。実用潜望鏡もレイクが発明した。
 ワルター・エンジンはWWII中の1944に完成した。触媒で、過酸化水素水を、水と酸素に分解する。この酸素をディーゼル燃料とともにボイラーで燃焼させる。その熱で水を蒸気にし、排気とともに、タービンにふきつけて回す。
 しかし空襲被害のため量産はできなかった。
 WWII型の船形では水中で20ノット以上は出せないことが1949につきとめられる。→涙滴形のアルバコア。1963年。
 ポラリスは5年の歳月と1兆2600億円で完成した。実用化にはさらに5年かかった。
 水中発射成功は1960-7-20。ケープケネディの40km沖。
 地中海は凪が多く、軍艦は櫂が頼り。
 三段櫂船は倉庫もベッドのスペースもない。だから夜間は岸辺に引上げる。
 サラミス海戦から2000年でようやく一段櫂船に新化。1本の櫂に5人がとりつく。
 1571のレパント海戦がガレー船の最後の舞台。これ以後は火薬が海戦の主要素に。
 帆船は貿易船としてまず発達。それをフェリペ2世が軍艦化してできたのが、無敵艦隊。
 トラファルガーの主力艦は五段甲板に100門以上の大砲。乗員は900人必要という化け物だった。
 ビクトリー号は2200トン。全長68m。
 最大のカロネード砲は、31kgの球丸を発射できた。
 19世紀の帆走捕鯨船は、全長32mというところ。
 モニター号の備砲は、11インチ=279ミリの滑腔砲×2。25ミリの鉄板を8枚重ねた円柱砲塔。補助蒸気機関によって360度旋回した。
 紀元前4世紀にヘロドトス記す。深さが11尋になり、鉛の先にやわらかい泥がついたら、アレキサンドリアはあと1日の距離だ、と。鉛には獣脂が塗ってあった。
 陸地の樹木の匂いは、沖合い80kmまで漂うことあり。
 南洋航海民族は、遠くの島がつくりだす波の形を読んで、位置と方角を判別できた。
 古代の天測航法。まず、北極星が水平線上のある角度に見えるところまで帆走。そこで針路を真西か真東に転じ、北極星の見える仰角を一定に保てば、既知の緯度の島に、辿り着ける。
 鋼製の船の中のコンパスは、両側に大きな鉄の玉を置いて、影響を防いだ。
 クロノメーターの使い方。船上から、太陽が南中した瞬間を観測。その時のクロノメーターが2時30分をさしていたなら、船はグリニッジ天文台から西へ2時30分の経度にあるとわかる。なぜならグリニッヂでは太陽は0時00分に南中するからだ。
 1761に家具屋のジョン・ハリソンがこしらえたクロノメーターは、6週間にわずか5秒しか狂わなかった。
 ノットの数え方。定間隔で結び目がついた紐にとりつけた木片を舷側に落とす。船乗りは、30秒の砂時計を見ながら、指の間をすりぬけた結び目の数をカウントする。結び目=ノットである。
 この方法が普及するまでは、マイルで呼ばれていた。
 海図に無数に表記されている小さな数字は、引き潮時の平均深度(フィート)。そして、13フィート以下の海面にはアミをかける。
 本書(原1967)の時点で、ペリーという民間人が『カブマリン』号という、2人乗りの遊覧用潜航艇を製造している。30mまで潜れる。それも数時間も(p.239)。
 カブマリン号は68.6mの深度を時速14.4kmで64km航続できる。乗員用の酸素は圧力容器に入っている(p.251)。
 水中翼船でもキャビテーションが問題になる。50ノット以上になると、翼上面に沸騰泡が生じてしまう。
 しかし、飛行機翼形断面ではなくて、斧形断面とすれば、あぶくがつぶれるところには何も存在しないので、破壊されない。
 水中翼船は大型化できない。重量に幾何級数的に比例して馬力が必要となるため。
 ホバークラフトは、船体を大きくすればするほど、馬力をムダにせずに積載能力を向上させられる。
 サルベージや海底油田地質調査用の小型潜航艇。180m潜れるものがある(p.250)。
 小型であると、船体が受ける総圧力も小さいので、鈑金を薄くでき、ますます軽快にできる。
 現在、遊覧用の小型潜航艇は、ほとんどのものがウェット式。潜水服をつけた上で乗り込む方式。
 日本の『読売号』は1964進水。6名を乗せて305mまで潜行できる。時速3.2kmにて6時間航続可能(p.252)。電池の節約のため、母船式。
 ※最新情報が『學士會会報』No.931 に載っていたので補足したい。世界初の潜水調査船は1929に実業家の西村一松が製作した。豆潜水艇と称した。1935に二号機を造った。350mも潜れた。ディーゼルエンジン、水中送話器あり。深海とは、海面下200mより深い海を言う。『しんかい』シリーズは潜水艦とは違い、必ず浮くように設計されている。径0.1ミリ以下の中空のガラス製のマイクロバルーンをエポキシ樹脂で固めたものがFRP外皮の内側に充填されていて、それが浮力材になっている。潜るときは鉄板バラストを抱かせ、戻り際に投棄させる。コクピット内は常に1気圧。深さ10mですでに海面の揺れは感じなくなる。したがって船酔いもせず。
 クストーは、潜水病を予防するため窒素をヘリウムに置換した空気を試し、ダッキーボイスを体験した。
 1829mまで潜れるアルビン号は、直径2m強の耐圧殻の鋼鈑の厚さ42ミリ。
 リバティー型貨物船は、全長125.4m。
 同じく大量生産されたLSTは、全長137m。
▼福本日南『元禄快擧録』イワブン上・中・下 S15
 初出はM45の『九日』の連載。著者入朱本をもとにした。
 勅旨東下は毎年の行事だった。正月に幕府から天朝に金幣を献上。これに対して勅旨が差遣される。
 もてなしとして四座の能役者を悉く招集して観能。
 「幕府は斯くも天朝を尊敬し奉るといふ事を天下に示し、且つは京都の公卿の心を収攬するのである」。
 足利いらいの名家の子孫にして封国を失った者は旗本に収録し、その官位だけを貴くして優遇し、もっぱら典礼のことを掌らしめた。これを高家衆と称する。
 浅野家の三太夫どもがケチで、まさに「庸人國を誤る」となった。
 一夜のうちに宿坊普光院の青畳二百余畳を取易へさせた。
 新井白石は、幕府から朝鮮へ送る公書に、将軍を日本國王と称させた。
 室鳩巣は『義人録』の中で「朝廷、天使を饗す」と書いているが、この朝廷とは江戸幕府のことなのだ。
 さすがに、長裃か、烏帽子大紋かで騙す、なんてことはありえない。年中行事だから、調べればわかることなのだ。
 白書院は血に汚れてしまったので、式場は黒書院に改められた。
 烏帽子には鉄の輪がある。そこに太刀先が当たった(p.49)。
 今日御預、直ちに切腹とは、余りにお手軽いお仕置き。
 赤垣源蔵ではなく、赤埴[あかばね]源蔵だ(p.67)。
 城中備え付けの武具一式そのままに差し出さねばならんが、其の家に属する武具家財は、構いなし。
 士分以上の早籠は制度化されていた。宿場に準備があり、次々にリレーする。乗る者は胴に固く晒布を巻き、吊り紐にしがみつく。維新の頃までまったく同じであった。
 3月14日の午前11時に江戸をスタート。18日の午後10時に赤穂城に到着した。
 道程155里あり、ふつうは1日に40kmくらい。したがって15日か16日は要するところだ。
 塩硝蔵は、赤穂から1里余のところにあった。
 理義に明らかなる者に、明快な決断がある。平生の作法に拘って緩急に応じ得なかったならば、千悔すとも甲斐なし。
 夫れ緩急命を辱めざるは、唯大節ある者にして之を能くするのみ。
 曾國藩は呉子を墨守し、「【ちょう】斗」を鳴らした。これは近世の銅鑼のこと。
 浄瑠璃で「お石」というのは、香林院の姓「石束」にちなむ。力彌は、主税をちからと読むところから考え付いたのだろう。
 近藤三郎左衛門は、小幡勘兵衛に兵法を学び、浅野侯から1000石の重禄で招かれ、赤穂城を縄張りした。その子が源八(p.158)。大野と進退をともにす。
 吉良には、9月に屋敷がえを申し渡し、同月2日に本所へ。前邸は丸の内なので、討ち入れば城内に乱入したことになる。本所の屋敷はきわめて粗末で、防備は隙だらけだった。
 小野寺十内が内室におくった手紙に、主税は15歳で5尺7寸、と証言されている。※満14歳で172cmはあり得ないような気がする。
 首級をあげた者も警備に身を委ねた者もその功に厚薄はないとあらかじめ約した。
 前日の夜から三拠点に集中すること。
 敵吉良の首(しるし)をあげた者は、屍骸の上着で首を包め。
 吉良の息子の首は持参する必要がないので、打ち捨てる。
 吉良父子を討ち取ったときは、合図の笛を吹く。その笛を逓伝すること。
 総人数が引き取る合図には、鉦[どら]を打つ。
 もし追っ手が来た場合には、総人数で踏みとどまって、勝負する。
 味方の負傷者は扶けて去れ。それができぬときは、首を斬って出よ。
 退くのは、後門から。
 吉良の首を獲らぬうちにもし幕府の使いが来たら、門を開けないで待たせる。
 口上書は文箱に入れて、退くときに竹に挿んで立てておく。
 以下、中巻。
 矢頭[やたう]右衛門七[えもしち]の父は、長助。
 吉田忠左衛門は200石取りの世臣。足軽頭・郡奉行というところ。とても町人に化けられる風体ではなかったので、浪人の兵学師範を標榜して裏店に落ち着いた。この看板ならば、浪人多数が出入りし止宿しても、住民の物議にはのぼらない。
 吉田は人数を手配して夜間に上野介が米沢に逃亡しないように見張らせてもいた。
 白須賀と浜松のあいだにある「赤坂」。この近く、夜、太鼓のような音が一定リズムで響く。これは山の小川に水車をしかけ、それが土中に埋めた瓶の上を連打して音を出す、鹿や猿を驚かす装置だという(p.67)。
 千鈞の弩は鼠のためには発しない。
 維新のとき、有名になり中央で立身した人は、もとの藩では二流三流だった場合が多い。もとの藩ですでに仕事を任せられていた一流人は、維新では縁の下の力持ちに終わるしかなかった。これは運・不運である。
 文禄の役で得た明軍の捕虜の中に、孟二寛あり。浙江省の杭州府の武林の人。医者だったので帰化して武林治庵を名乗った。その子が渡辺と改姓して浅野家へ仕官。その子が武林唯七。じぶんで姓を旧に戻した。
 高田馬場では安兵衛は、倒した敵の全員に念のため止めを刺してまわった。
 あかばね という地名は大和の初瀬越にある。赤土を赤埴と言っていたのが転じたのだろう。東京の赤羽も同じ。
 赤埴を御家流でくずして書くと、赤垣に見える。
 本所の吉良邸は総平屋づくりで、竹の腰板を打ち、壁は中塗り。そのため屋内の火が透いて見える。
 槍は短い方がいいだろうと、9尺ばかりに切り縮めた。
 5万3500石の小藩・赤穂では、100石以上の士といえば、大藩の500石以上に匹敵。47人のうち29人までが、100石以上。
 一党の三分の二までは、歴々の上士だったのだ(p.205)。
 ※そこから一挙にホームレスの失業者となるのが忍び得たはずがない。やるしかなかったのだ。さすれば息子はどこかに再就職できるかもしれないので。
 維新ではこの逆。上士はわずかであった。西郷吉之助は茶坊主よりおこり、大村益次郎は藪医者からふるひ、半島帝國の副王殿下も、もとをただせば、桂小五郎家来の者ではおはさぬ歟(p.206)。
 「昔から他人に切腹の相談をする奴に限り、腹切つた例が無い」(p.223)。
 大野九郎兵衛父子は、さいごは青森の蟹田に隠れて寺子屋をしていたとの説もある(p.244)。
 以下、下巻。
 3拠点への参集刻限は、深夜の2時。
 山&川の合言葉は、突入後の室内で互いに相手がロクに見えないときの同士討ちを避けるために決められた。
 用意したものの一部。
 槍×12。弓×4張(うち2張は半弓)。竹梯子×2(大小)。カスガイ×60本。鉞×2。大鋸×2。鉄梃子×2。大槌[かけや]×6。げんのう×2。鉄槌×2。がんどう×1。小笳[こぶえ]×数十個。ドラ×1。玉火たいまつ×数十。
 ガンドウは、首級をあげたあとの吉良の面相を改めるために用意した。
 陣太鼓は用意していない。攻めるときに太鼓を叩くのがシナ兵法だが、このたびは奇襲なので、敵に音を聞かせることはないのだ。
 堀部彌兵衛は76歳で参加した。最年長。
 鎖は、股引にも包んだ。つまり下半身まで装甲していた。
 帯の上にも鎖入りの上帯。
 襷の中にも鎖が入っている。それを縮緬で包む。
 兜頭巾と頭頂の間には、香を焚き込んだ袋を入れる。
 白布にひらがな一文字を書いて胸に付け、同グループ同士を識別しやすくした。
 大小両刀の柄は、平打ちの木綿糸で巻きかえ、巻ききり柄とし、絶対に手の内がすべらないようにした。
 知らざるを知らずとなす。これ、知る也。
 矢田五郎右衛門は新刀の太刀を火鉢にまで当ててまんなかから折ってしまったので、倒した敵の脇差を貰って持ち替えた。
 不破数右衛門は四五人と切り結んで、小手も着物もズタズタに裂かれたが、着込み(鎖)のために傷は負わず。しかし刀身の刃はボロボロに。これは原惣右衛門の証言。
 十内秀和は、不破の次に多い、ひとりで3人を斬り殺した。そのうちの1人は倒れるときに「南無阿弥陀仏」と叫んだという。
 刃向かう者がいなくなったので、捜索の方法を変えた。全員で声を殺し、足音もさせないようにした。すると、物置部屋から声が聞こえた。
 額上の傷痕は、浅すぎて、見分けることはできなかった。
 肩を調べたところ、疵がある。
 ここで早くも味方に慟哭する者がおり、その声は隣の土屋邸にまで聞こえた。
 大石が、喉元から大地にかけて太刀を串刺しにしてとどめを刺し、首を掻き切る役は、初槍をつけた間十次郎に譲った。
 撤収前に、蝋燭をすべて除去し、囲炉裏や火鉢には水をかけた。失火させないため。
 戦闘は、午前四時から六時までかかったことになる。
 首をあげた部隊はさいしょ、回向院(旧国技館近く)に入ろうとしたのだが、拒絶されたので、泉岳寺へ向かった。
 行進途中で駕籠を雇い、負傷者と老人を乗せた。
 コースはことさらに浅野家旧邸の前を通過。
 泉岳寺も俗和尚が主管していて、いったんは断ろうとした。またこの和尚は、切腹後に四大名家から納められた義徒の異物を、おおむね売り飛ばした(pp.84-5)。
 不虞に備えずば、以て軍[いくさ]すべからず。上杉家の襲撃に備えて、一党は、ねた刃を合わせた。
 寺坂が内蔵助から受けた使命は、瑤泉院への会計報告と残金始末であったことを筆写は疑わない。
 吉良邸では、何の反撃もしなかったと思われると聞こえが悪いので、ニ尺三寸の無名の刀に血を塗り、柄に一箇所の切り込みを入れて、十分に反撃したという証拠を捏造して、首なし遺骸の傍らに転がしておいた。ただし、脇差はどこにもないのである。
 表長屋は、2箇所に梯子をかけて乗り越えた。
 裏門は、かけやで打ち破った。その程度の門だということは事前偵察で分かっていた。
 吉良側の兵隊の戦死者は16人だった。重傷者は10人。
 軽傷者は12人。ただしその中に家老が3人いるのは、ただの言い訳。「かすり疵」だと自分でも申告しており、事実上、防戦に加わっていない。下水溝から這い出し、静まってから邸内に戻った。
 闘わず逃亡した兵隊が4人。名前が記録されてしまった。
 この他、邸内におりながら、終始、出合わなかった兵隊たちが104人もいた。
 婦女子以外で148人も兵隊を飼っていたのだからすごい。ふつうの旗本にはそんな資力はない。実の息子の入り婿先が上杉家であったからこそ、可能だった。
 見逃した隣の土屋家の処置は正しかったのだろうか? 新井白石はそこを問われて、一党が引き上げる際に6人ほどは、現場へ留め置くべきであったろう、と評した。
 禮、恭しうして、色、厲[はげ]し。
 細川家では、随意に書信を発するにまかせ、膳部はいつも2汁5菜の盛饌をきわめ、昼餐と晩餐とには御酒(薬酒と称す)さへ添え、お八ツには結構なお菓子。日々、水風呂を沸かす。
 怪我人を乗せる駕籠を雇ったのは、御船蔵の先。
 毛利家では、預かりの10人を運ぶ駕籠に鍵をかけ、青網までかけた。長屋の往来に向いた窓は板を打ち付けた。
 待遇は、細川家>久松家>水野家>毛利家 の順であった。
 生きながらえては、万一晩節を誤るかもしれず、あたら英名に傷がついてしまうから、と言ったのは、日光の法親王・公弁。
 四家とも首実検は最初の1人だけ。1回ごとに畳等をとりかえた。
 細川家は17人の介錯に17人の斬り手をすぐに揃えられた。
 久松家では10人を介錯するのに5人をかろうじて集めた。しかも唯の足軽からも腕の立つのを抜擢しなければならず、臨時に徒歩目付格ということにしてやった。
 毛利邸でも10人の介錯に5人のみ。そして武林唯七の首を一太刀では落とせなかった。斬り手は榊正右衛門――と室鳩巣の『義人録』が書いたものだから幕末までそれが信じられていた。ところが筆者が毛利資料を得て確認したところ、武林の介錯人は鵜飼宗右衛門であると判明した。
 間新六だけが、リアルに腹をかききった。肌脱ぎになってから三方を押し戴くのが順番だったが、その順番を逆にして急に切った。介錯人を出し抜いたのである。
 この間の遺骸のみは、脱藩いらい世話になっていた秋元但馬守の家臣・中堂又助がひきとり、築地本願寺の塔中に葬った。だから、泉岳寺の彼の墓石の下には何もない。
 まっさきに義人と書いたのが室鳩巣。義士と書いたのは浅見【糸冏】斎、烈士と書いたのは三宅観瀾。
 事件を扱った刊本は、享保4年、つまり一党切腹の17年後に最初のものが出た。『赤穂義臣伝』。書いたのは片島深淵で、綿密に取材したもの。幕府から絶版命令が出るのは必至なので、たくさん刷り溜めておき、江戸、京都、大坂、諸州に配っておいて、同じ日に一斉発売した。書林はおおいに儲けた。
 以後の諸本はことごとくこの刊本に勝手な書き加えを施したようなものである。
▼アンドレ・ジイド著、河守好蔵tr.『コンゴ紀行』イワブンS13-9
 原1927。
 献呈辞は、ジョゼフ・コンラッドの思ひ出に。
 1925年=56歳の夏、でかけた。念願したのは19歳のときだった。
 ダカールに向かう船。船長が海豚をブリッヂから射撃する。
 7-27、黒人の若者が輓く人力車に乗った。
 コンラッドは1890に旅したのだ。
 昆虫採集のため、シアン加里の入った小瓶を携行。
 コンラッドは『颱風』のクライマックスを読者の想像に委ねた。これは上手である。
 土人は例外なく、皮膚病に犯されている。
 この地方の命取りの睡眠病。
 白人用には蚊帳がある。
 しかしズボンの上から足を攻撃する蚊には悩まされる。
 産婆は木のナイフでへその緒を切る。頭の上まで伸ばし、さらに首までもっていき、それより短くは切らない。
 9-25。午後一時から四時までの暑さがこたえる。しかしパリでも7月末に36度を記録したという。
 この地方にきわめて多い生殖器の象皮病。結帯組織を切除すると平均30kg以上ある。稀に80kgを超えたものもあったと。切除が成功すれば、生殖機能はもとどおり。
 この地方の綿の繊維は、米国産より短い。
 10-8。
 皮膚にもぐりこむ「すなのみ」に足をやられ、辛い手術を受ける。
 一部落の統計。66人の出産婦が99人産んだが、うち63人は乳児のうちに死んだ。
 馬はいない。ツェツェ蝿に殺されるため。
 戦争のあと、戦士は、敵兵の耳か陰部を、指揮官のもとへ持参して、証明とする(p.113)。
 なぜ、という問いが通じない。因果で物事を説明できないのだ。いかにして? という問いには答えられる。
 熱狂的に踊るのは、どこでも、老婆。
 大ゴリラは、目の粗い丈夫な網で捕える。
 複数の死人が出た部落は放棄され、別な場所で再建される。場所が呪われていると彼らは考える。
 中世のフランスで信じられた怪物カトブレパス。首のやたら細長い馬で、それに出会うと死ぬ、と。
 白人はアフリカの鉄道敷設のために人夫の強制徴用をやってきた(p.185)。
 某部落。ここには何ひとつきまった値段がついていない。有難うに当たる言葉も存在しない(p.198)。
 中央コンゴでは、病人が恢復すると、病気であった過去の自分を厄落としするために、名前を変える。それを知らない白人が、昔の名前で呼びかけると、「恐怖と衝撃とのために、半ば癲癇的なひどい神経發作見舞はれて、死んだやうになって倒れてしま」う(pp.200-201)。
 現地の小猿は白い顔が恐ろしいらしい。誰でも土人の腕に飛びついて逃げようとする。
 土人の不健康はヴィタミン不足によるものが過半(p.220)。
 道は、自動車に乗っているために、却って長く感じられる。単調さに飽きるために。
 ある土人の町。納屋は、山羊の食害を回避するために、木の柱から吊り下げられている(p.227)。
 河畔のおびただしい小鳥が、少しも人を恐れない。
 ワニを船上から銃殺すると、いったん泥の中に潜るので、数時間の後でなければ、浮かんでこない。
 赤道のある無人島。乾燥した芝原。ところが上陸するや、脛に、小さな種子が一面にくっつき、ひどく肌を刺す。抜こうとすると、その刺が指に刺さって痛くてたまらず、しかも棘は折れて残ってしまい、そこが膿瘍になる(p.250)。
 土人たちは、管理している家畜の数を他人によって数えられることをひどく嫌がる。また、特定の一頭を指示されることも嫌がる。そのようにされた家畜には、皆、悪いことが起こると信じている(p.258)。
 ホランド&ホランド銃を暗闇に向けて1発射ったら、鴨1羽、小鳥3羽がその場に落ちていた。
 雑誌の小話。ある兵隊に中隊長が、お前は酒さえ飲まなければすぐ伍長になれるのだぞ。兵隊の返事。ですがわたしは酒を呑むと聯隊長になった気がするのです。
▼篤胤平田半兵衛『日本先哲叢書 六 出定笑語』S11-10
 長井眞琴の解説。パーリの南伝によると、釈尊の滅後400年間は、仏教は口伝によった。
 波羅蜜のことを平田は波羅密と書くが、これは富永中基の『出定後語』に倣っている。間違いである。
 以下、本文。
 鼠をつらまえるに、足や尻っぽをこはごはにつらまへては、振返って喰附きもする所を、胴腹か首筋の所をぎゅっと強くひしぎつけると、喰附くことも、ひっかくことも出来ず、其中に目玉が飛出すやうなものでござる。
 註。今のインダス河を昔はシンドゥ(身毒)といい、それがインドの地名になった。インドゥには「月」の意味がある。それゆえ漢土では月氏國とも表記した。
 セイロンの今の風俗。『釆覧異言』によれば、人々は飯を喫はんとすれば、すなわち闇において密かに食ふ。人をして見せしめず。
 ヒマーラヤには雪の蔵の意味がある。
 麻耶夫人のマヤは「幻」と訳せる。
 シャカは19歳で出家したという説と29歳だったとする説あり。南伝では29歳。
 パンダカ=黄色。ここから黄門とも訳すが、これは去勢せる男なり。
 註。釈尊やその弟子たちは、数珠を手にせず。
 パーラーナシー。今のペレナス市。昔はカーシーといい、釈迦族の首都。波羅奈國。
 儒者は儒道の外を異端という。仏教では外道という。
 人の門に立って物貰って歩くことは古には無かったこと。仏法が渡ってから僧が物を貰ってあるくを、よるべなき者共がまねた。乞食の本家は坊主(p.146)。
 袈裟はカーザーヴァ、カーサーヤの音訳。その色は樺色に近い。
 末羅はマッラー。力士の部落だった。
 曹は、ともがら と読ませる。
 津の國の難波に、富永仲基という人。俗名は、道明寺吉右衛門。町人学者。三十代のとき(延享元年)に『出定後語』を著した。これを後代に宣長が再発見し、『玉勝間』で絶賛した。平田はそれを読んであわてて江戸中の書林をたずねまわったが、書名をさへに知った者がない。ついに京都の同門の本屋が見つけ出し、早飛脚でよこしてくれた。その後、版元が大坂にあったと知れた。
 小乗は、阿含部。その経の十のなかに三、四は、実に釈迦の口から出たままの文言がある。信ずるべし。
 大乗は、凡て全く後人が釈迦に託して偽り作ったもの。
 80歳で菌の毒にあたって死んだと、ありのままに記してあるのは小乗経典。
 小乗部に、四諦という。苦すなわち煩悩が集まったものを滅して菩提の道に入る。すなおに説いてある。これをもとに大乗ではさまざま捻り、なにか高妙なる由ありげに仕立ててある跡が明瞭である。
 小乗では四元〔素〕を言うだけだったのに、大乗ではそれに「空」その他を加えた。
 小乗では眼耳鼻舌身意の六識を言うだけだったのに、大乗部では7~10識に水増しした。
 仲基はこれを、阿含部に漸々に「加上」して説を立てたものと見抜いた。
 阿含部を信ずる方でみずから陋しめて「小乗」と言うはずもない。あとから商売を始めた大乗が、先行権威をおとしめて名付けたのである。
 阿含経でさえ、弟子の迦葉・阿難よりもずっと後の人が記したもの。
 たとえば阿輪迦王(アソーカ王)は、釈迦入滅から100年あまりあとの人。この王のことが記してあるということは、そのアショカ王よりもさらに100年は後の成立だと知られる。
 大乗の諸経には、釈迦の語とて、「後五百歳」といふ語がたんと出る。まさに捏造者たちが、釈迦よりも500年後に位置していて、作りたてほやほやの法華経などを世間に売り込まんというので、「後五百歳弘宣流布」などと釈迦に託して挿入しているのだ。
 仏滅後、迦葉・阿難の輩が石室の内で結集。上座部。これが正統の阿含部。
 このメンツから漏れた曹数百人が、石室の外で結集したのが大衆部。
 その大衆部の徒の中から、仏滅の百年ばかり後、大天という者が異見を起こし、新義を別に立てる。すなわち、生死涅槃、皆是假名と。それが般若経の空假の旨である。大乗はここから後世に派生した。
 釈迦の入滅から400年ばかり後、上座部正統の大法師脇尊者が、正統阿含部を越えるものはないと、裁定を下している。空假の旨は釈迦の本義ではない、と。
 ここから、大乗部の中では般若経がいちばん古いということは確実である。
 般若の次に法華経が成った。般若の空も方便じゃとした。
 権(ごん)と実とに分類して、これまでのすべての経を併呑したのも法華経がはじまり。
 いらい、多くの人が、法華経がいちばん正しいのかと思い込まされていた。仲基は、初めてそのインチキを見破った。
 三蔵の目(名目)は、仏滅後に迦葉らが結集したときに起こったもの。ところが法華の経文中に三蔵学者とある。釈迦が説いた真経に、そんな単語が入るわけがないだろう。
 法華経の次に、華厳経が創作された。法華経までも方便じゃ、とした。
 無量義経は、法華経の一派が、華厳に遅れて製作した。
 大集経・涅槃経も、華厳の後から起こった。龍樹の大論にこの経のことが出てこない。つまり龍樹よりも後。
 続いて、頓部の契経。なかんずく楞迦経。それをヒントに達磨が説をなし、文字一切を排して禅家の鼻祖となる。
 そのきわまりにいたっては、乾屎【木へんに厥】[かんしけつ]=尻を拭く箆 を以て仏性を語る。
 釈迦は秘密の真理を南天竺の銕塔に蔵めていたのを竜樹菩薩が取り出したと吹聴したものが、大日経・金剛経・楞厳経の三部密教。もちろん龍樹より後の偽作。
 法華経は大部だが、かなめとするところは、方便品。
 ところがその方便品にも読者を説得する何の中味もない。薬のかわりに能書ばかりがある。かんじんの丸薬が法華経のどこにもない。
 法華経の第25を普門品といい、世間では観音経という。
 のろひごとや毒薬で害されようとしたなら、観音を念ずれば、その禍いは、逆に敵の身を損なうという。こんなのがどこが仏教じゃと、漢國の蘇東坡が批判したが尤もじゃ。
 観音経を念じたので首を斬られずに済んだという話は、仏祖統記が初出で、それをもとに唐代で説かれ、それを日本の謡曲が主馬判官盛久の話とし、それを日蓮宗徒が日蓮の話にした。日蓮自身はそんなことを書いてはいない(p.253)。
 左伝に、禍福は門なし、ただ人の招く所という。
 易に、積善の家には余慶あり、積不善の家には余殃ありと。つまり因果応報の思想がもともとあるのに、漢人はあとからやってきた仏教をありがたがったのである。
 わが國でむかし、臣の姓[かばね]の人を大臣に、連の姓の人を大連にした。ちょうど今の世の左右の大臣。
 俗に、釈迦に提婆、太子に守屋などという。「神道者、守屋重々理だといひ」という川柳あり。
 達磨が死んだのは、漢國の梁の武帝の大同元年。御国では、安閑天皇の2年。
 日本に渡った天台宗。漢國で、法華経の権実ということを宗旨とし、その説を龍樹の大智度論で補強したのを、桓武天皇の延暦24年に最澄が輸入した。だから伝教大師という。拠点は延暦寺。
 その前の東大寺は、華厳宗。
 唐招提寺はそれよりも早い。律宗。
 延暦寺に遅れて、真言密教の高野山。弘法大師。
 その次に禅宗が渡ってきた。じつは伝教大師が最初にもたらしているが、廃れてしまった。そこで栄西が輸入しなおした。
 ここから、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗など24派に分かれる。
 その次に流行したのが念仏宗=浄土宗。諡号は法然上人。
 これに次いだ親鸞は、夢の中で観世音に勧められて女犯の道に進んだと。一向宗。
 その次に日蓮宗が出た。今生には貧窮下賎の者と生れ、旃陀羅(チャンダーラ)の家より出でたりとも記す。吉田家の神道を習合した。
 わきまえた人は、日蓮宗は天台宗の虫食い、一向宗は浄土宗の虫食い、山伏は真言宗の虫食いじゃと申す(p.344)。
 真言がなぜ密教なのかというと、唱える陀羅尼が天竺語のままで、漢訳も和訳もされていない。だから唱える人にも意味がわからない。それで悟りが開けるのだという。
 ほとけ という日本語。これはブッダがフトとなり、それにケの字を添えた。ブダからホトケになった。ブッダとは、さとりである。さらに、さとった人の意味。
 今を去ること十二三年以前に、江戸遊所で、坊主をたんとお捕へなされて、ほうづきをからげたやうに、日本橋へ晒されたことがあったが(p.370)。
 今日、人が死ぬと僧が来て改める。これは行政として変死を吟味する必要があるため。
▼『武田泰淳全集 第十二巻』S47
 ユーモアの中国語は幽黙。
 天の概念は殷代に無く周代に始まる。
 辰野隆によれば谷崎は東大の国文学科を半途で退き、文名をかちえるまで、貧乏生活を送っていたが、苦労から生じた卑しさが微塵も無かったと。
 南方伝来の仏典である『本生経』には、仏が出現するための三つの予告が記されている。
 中学の先生いわく。水滸伝は人物の欠点まで描いているから八犬伝より面白いのだと。
 私は学生時代、数回留置場に入りましたが……(p.121)。
 東条は「たしかに戦時中、あたかも自己が最強者であるとともに最善者であるが如くふるまい得た」「東条的支配力より、更に強力な民主国家の支配が出現して、彼を打ち負かさなかったならば、その当時の狂心的国民心理にとって、彼は依然として善そのものの如く存在し得た」(p.130)。
 人間の幽霊が無力だから、日本の庶民は、猫の化け物を発明して、猫に復讐を託した(p.131)。
 魏晋から唐末にかけての民話を集めた『太平広記』。人が豚や犬や牛に変身する。インドからこのような思想が伝来したのだ。
 社会が善悪を審判することを諦めたために、宇宙的動力によって何とかそれを解決しようとした。
 弱者が動物に生まれ変わったという説を流行らせることで、権力者を怯えさせようとした。
 S21春に鹿児島まで引き揚げてきた。
 S22に北大の文学部に就職が決まった。
 青森から連絡船にのり、函館で上陸すると、DDTの白粉を頭髪や服にふきかけられる。済むと、右手甲に紫インキでゴム印を捺される。
 戦中は、点呼のさいに在郷軍人の徽章をつけ忘れているとひどい目にあった。
 火力発電所に供給するための北海道炭の増産が、優先されていた。
 燃料不足で11月に入ると教室では指がかじかんだ。
 炭坑ではコメは十分だが副食が何もない。脂肪分を得るために、カラス、ネズミを狩猟することも。
 古い親分制度が活きている。
 軍需工場の入り口には、白鉄かぶとの日本人MP。1人は自動銃。1人は女性。
 死なう団は、宮城前広場や増上寺門前で割腹して生命を絶った(p.215)。
 酒田に入ったら本間を呼びすてにしない方がいい。余目[あまるめ]は反本間派の中心地であるから、そこに立ち寄ったことは口に出さぬ方がよろしい(p.229)。
 ある庄内人。1町2反を作って、収入が5万円。その四分の一は税金その他でなくなる。これでは縮小再生産になる。標準反収は3石7斗で、それ以下だと上等の百姓とは言われない。それでも苦しいが。
 この辺から警察予備隊に入った者は、だいぶ、逃げ帰ってきた。
 農地解放で土地をもらった百姓が、それをそろそろ売りに出しはじめている。
 雌豚はいちどに12匹を産めるものの、全部に授乳すれば母豚は痩せ細る。
 硫安肥料だけでは土が酸性化してしまう。中和するために石灰窒素の需要が高い。
 熔成燐肥は雨で流出しない。毛根が分泌する酸で溶け、吸収される。
 酒田市の商工会議所の楼上に、戦犯裁判の法廷が、名所としてそのまま保存されている。石原莞爾は数十分、証人としてそこにいた。大川周明はそこで講演したという。
 郭沫若は、蒋政権の圧迫をのがれて日本へ亡命し、抗日統一戦線が結成されるや日本から脱出した。
 耳が悪い。古代社会の話はする。
 占領期間中のラジオ・プレス。二世が多い。海外放送をディクタフォンに録音してタイプ起こしする。記事は、米軍司令部、領事館、外務省、内務省、民間に渡す。筒は、外側を削り落として再使用。
 「自由日本放送」の発信源は、華北らしいと。
 戦後も、返還されたばかりの羽田から福岡に飛ぶのに、途中で2回も着陸の必要がある。安全のため最短コースを飛べない。着陸のたびに機体が傷む。
 造船所の進水用ヘットは、牛脂や木蝋でこしらえる。
 「腹うけはし木」を取り外す。
 小磯国昭は朝鮮総督だったとき、朝鮮民族は天照の弟であるすさのをのみことがつくったので、道祖同根だと言った(p.339)。
 アイヌのことを調べに8月の北海道に行った。ひと月調べたがそれは作品に書けないでとってある。その書けない間に、人肉を食べた船長の話を書いた。『ひかりごけ』(p.387)。
 茅盾の『腐蝕』は、重慶側の秘密警察の内情をあばいている。よほど腹にすえかねる怒りがあったにちがいない(p.396)。
 宋慶齢は1914=民国三年に、孫文と日本で結婚した。倍以上年齢に差があった。
 宋の父は海南島出身のアメリカ華僑で、結婚後に渡米。三姉妹はウェスレイ大学に進学した。
 孫文には17歳のとき結婚した正妻の盧氏があった。これは因習。郭沫若や魯迅も、都市若くしてわけもわからず婚姻させられた嫁が故郷にいたが、成人すると離婚するのである。蒋介石も同様。だが、離婚する前に蒋経国と緯国ができていた。宋美齢には実子はいない。
 孫文は肝臓癌で死亡。慶齢にも実子はいない。
 宋家と姻戚になるために、仏教徒だった蒋介石はいやいやながらキリスト教の信者になったふりをした。洗礼を受けたとは一言も述べていない。
 ヘミングウェイは15歳のボクシングで左目を悪くし、1917に18歳で陸軍に志願入隊できなかった。
 そこで翌年、仏軍の野戦病院輸送車の運転手になった。
 『武器よさらば』には現地の慰安所の娼婦との関係が書かれている。将校用と下士官用は別であった。
 巻末解説。
 武田は1937-10に応召し、輜重補充兵として中支に赴任。『史記』を持参し、余白にメモを書き込んだ。1939-10に上等兵で除隊した。
 敗戦日には上海の旧フランス疎開で暮らしていた。
 『月報』への斎藤秋男の寄稿。「作戦の一段落したときなど、兵隊は、捕虜の刺殺をやらされることが多いが、わたしはそれをうまく逃れおうせた」。
 泰淳が専業作家になるべく北大を辞めたのと入れ違いに斎藤が北大に就職した。
▼丹羽文雄『海戦(伏字復元版)』2000-8 中公文庫
 伏字の初出S17、復元版初出1997。
 重巡『鳥海』に乗って、S17-8-8夜のツラギ沖海戦を報道班員として体験する。もちろん艦名などは戦前は書けなかった。
 赤道を南へ4度の島でも、8月は「冬」であり、夜明けの冷気は内地の5月並。
 陸戦隊の艦上体操。内地ではみかけたことがない。
 基地の空襲警報は、空砲3連発による。
 艦内生活は、暑いのを除けば、陸上に比べて天国。とにかく清潔なので。
 軍艦内では佐官クラスでも食欲が私の2倍。
 吊り床は通路の天上から吊るが、部外者には寝られたものではない。
 通路のあちこちには下っ端水兵が寝ていた。枕元にいちいち「三直 ○○三水 四時起し」などと註がしてある。当番が起こしてまわる。
 居室のある士官の室内には煽風機がある。
 日の出になると、燈火戦闘管制もとへ となり、総員体操。
 魚雷を抱いた大編隊の中攻隊が戦闘機に護衛されて飛んでいくのが双眼鏡で見える。無声映画のように音がしない。
 ロッキード・ハドソンが1機、艦隊の前方にぴたりとついて輪を描きながら触接していた(p.59)。※なぜか活字は「接触」である。元からこうなのか?
 陸軍のラッパと違い、いかにも艦内だけに聞かせる戦闘ラッパは、細くて、よく通った。私は耳に綿をこめながら艦橋をかけ上った。
 夕食時、士官室で司令部つきの軍医大尉が、「視力恢復錠」を配る。ビタミンA。
 「除倦覚醒剤も、希望の方にはお分けします」(p.75)。
 戦闘前は燃えるものはできるだけ捨てる。機関長は、ライター用のガソリンの小壜まで海へ捨ててしまった。
 艦橋では、実戦の配置についてしまうと、もはや便所にも行けなくなる。立ったまま、任務のまま、やるしかない(p.83)。
 航海長。「百ノット出んかな」「そうしたら、しゅっとかわるからな」。※海軍ではやりすごすことを「かわる」という。しかし活字は「変わる」となっている。
 荒海で高速航行すると、重巡でもどこかにひびが入る(p.88)。
 砲術長のいるところは、測的所のもうひとつ上。
 士官用の浴室も、バスはふたつに分かれ、偉い将校用と、それほど偉くない者用を区別。戦闘モード下では、浴室内の鏡は撤去する(p.94)。
 夜間は信号旗の掲揚がないので、旗甲板は暇。
 丹羽は、S13に漢口攻略戦に従軍したことがある。
 雷跡は夜光虫が光って白くなって見えるという。
 青白い吊光弾は次から次に新しいのが光った。
 艦がぐいと左に曲がったとき、右舷から、シュッ、パチャンという音が続けて四回。魚雷発射だ。没入したあたりは夜光虫で白銀を撒いたよう。
 初弾命中、と司令塔でたれかが呶鳴った。
 旗甲板で砲戦中の重巡の主砲発射音を聞かされ続ける苦行。皮膚の感覚がひとつひとつ死んでいく。音圧が臓腑をかきみだす。寸時と間がない。
 僚艦からの高角砲弾は点線になって続いて、敵艦に届いていた。※25ミリMGと思われる。
 「機銃も加わった」(p.116)。※これは13ミリか。
 一時間もこの音響の汎濫の中に立っていたならば、私は狂人になるだろう。
 主砲が火をふくと、そのたびに艦橋はぐらりと揺れ、私はよろめいてしまう。
 上膊部の肉にめりこんだ弾片を、肉を指先でこじあけてつまみ出した。まだ熱かった。
 士官室は左舷になっていた。軍医大尉がアルコールを含ませたガーゼをくれた。頬を拭うと、赤みをおびた、どろどろした黄色だ。敵の着色弾だ。他に、緑色もある。
 敵の20サンチ砲弾の1発は作戦室の窓から窓へ素通り。1つは艦橋の隅で炸裂した。ちょうど自分はその間に立っていた。私は運命論者になった。
 ツラギからかなりはなれたところで、主砲に装填したままの1発を、射ってしまうことに。艦内拡声器で予告される。
 治療室では消毒する熱湯がたぎっているので、どこよりも熱い。軍医は上体裸。下帯ひとつの衛生士官たちもいた。
 衛生兵が、破傷風とガス壊疽の予防注射を、左右の腕にしてくれた。
 勝因のひとつ。敵の港口を哨戒していた艦が、探照灯をてらしもせず、味方の艦隊に砲声で警告するでもなく、そのまま180度転回して戻っていったこと。
 今夜の夜襲について、いい名前を考えようではないか、と砲術参謀が言った。ツラギ海峡夜戦、という案が出た。
 けっきょく大本営は、ソロモン沖海戦と命名した。
 「最後まで動かない砲があったが、電気装置をまっ先に叩かれてしまったのだろうね」(p.157)。
 煙突には、1尺大の穴がぽかんと空いていた。軍艦旗はずたずたに裂けて風になびいていた。
 重傷者が、帰港するまでに三人死んだ。出血多量のため。
 ある一室をのぞくと、線香が燃えていた。
 戦後の後日談。軍艦8隻がラバウルに戻ったとき、港の入り口で敵潜が雷撃し、いちばんうしろの駆逐艦が被雷していた。
 この海戦の頃は敵にレーダーがなかったので、助かった。
 以下、ラバウルの話。
 ラバウルの火山がS12に噴火して灰ほこりがひどいので、雨がありがたい。8月のラバウルは、内地の5月くらいに冷えることあり。
 ラバウル市街には、戦前からの支那町がある。満州・上海事変のときは、在住日本人の店頭や住宅に石を投げたり、追い出しをしたりして騒いだ。支那事変いらい、国民党クラブが何事か画策していたが、何もできなかった。
 椰子の水は、茶碗に二杯はある。このありがたさは、熱帯でないとわからない。
 茶色くなった椰子の実には、コプラだけがあり、水はない。青い実には、水が入っている。
 ここの島民の色の黒さは、南洋でも一番ではないか。しかも椰子のあぶらで磨いている。ガタイは大きい。
 S17-1-23に、当地の日本人は、シドニーへ連行された。二十何名かいた。
 ラバウルでは洗濯物は強く絞る必要はない。2時間で乾くから。
▼石川淳ed.『日本文學全集 5森鴎外集』S38
 鴎外は役所からへとへとになって帰宅したあと、ランプを細くしていったん仮眠。12時に起きて2時まで執筆する(p.23)。
 しかし、夜の思想にはすこし当てにならぬところがある。
 バルザックは深夜1時から朝7時まで、口述筆記させていた。彼は午前8時から午後4時まで役所勤務する必要がないからそんなことができたのだ。
 鴎外の役所は16時にひける。取扱中の書類は非常持出の箪笥にしまって鍵をかける。
 これを書いているとき50歳前。しかし女への関心は薄く、ただ、未知の世界だけが自分を刺戟する。※真理に興味がなく、泰西新奇を解することを同胞文士にみせびらかせるのが快。
 葉巻を出して尻尾を噛み切り、頭の方を火鉢の佐倉に押し付けて燃やす。
 ニーチェは芸術の夕映え、と言った。老年になり、死が近づくと初めて、芸術が、若き日の記念のように親しく思えてくる。
 日本の豆打ちは、鎌倉より後のことだろう。※これを書いたのはM42。
 ローマにも似た風習があった。五月の真夜中に、黒豆を背後へ投げ、それによわって死霊を追い退ける祭。
 日本の自然主義文学が性欲のことばかり書いているのが自分にはどうにも解せない。
 ※ヰタ・セクスアリスはルソーの懺悔録の真似。
 子供の頃、田舎の城下には辻便所はなかった。だから誰でも道端でした。
 旧暦盂蘭盆のさかんな故郷であった。全員が頭巾で顔を隠すので武士の子も加わり得た。
 とうじ、少年ということばは、男色の受身役を意味していた。
 寄宿舎では小倉の袖を肩までたくしあげていないと惰弱だといわれる。鴎外は体力弱く、いじめられっこだった。クラウゼヴィッツが、弱国は受動的抵抗をせよと言っているように、陰で反抗した。
 大学予備門には鹿児島が少ない。佐賀と熊本。これが硬派。あとはことごとく軟派。
 「盲汁」(p.54)。※闇鍋のこと。
 炭に石油をぶっかけて火をおこす。
 西洋の寄宿舎では、自慰をさせないように両手は掛け布団の上に出して寝なければならない。
 欧語の術語を覚えるためには、じぶんでギリシャ語、ラテン語の語源を調べて注記すると楽である(p.64)。
 童貞のことを「生息子」という(p.72)。
 護身用の短刀のかわりに、2尺ばかりの鉄の烟管を拵えさせた。※この話は全体がフィクション仕立てなので注意。
 自動車は、安いもので5000円。
 鬚は、四十代で赤みがかり、それから白くなる。
 自己の道を開く。自己の倫理を立てる(p.131)。※漱石の「自分本位」。
 新人とは、漢語で、花嫁のことだ。
 縹[はなだ]色=pale blue.
 未亡人[びばうじん]。
 「いくら親しくしても、気が置かれて、帰ったあとでほっと息を衝く」。※気が置けない、の意味が分かる。
 九州の大演習で、師団長が「将校集まれ」のラッパを吹かせたのを見たことがある。
 子供を二人しか生まないことにして、そろそろ人口の耗って来るフランス。
 仏文の評論表現で 大いなる coup というのは賽を投げて賭けに出て成功したという意味。
 屋内の電線の被覆は絹(p.185)。
 ドイツとアメリカは交換大学教授の制度をすでに持っている。
 日本の女子の学校では英語と仏語の外は教えない。
 ガス灯を走って点燈して廻る人足が雇われていた。片手には踏み台。
 フランスでも不審な一人旅人を宿屋は泊めさせない。
 人形喰い=メンクイのこと。
 日露戦争のあと、日本でロシアパンが定着した。
 歯ブラシというものがなく、楊枝だけ。
 ※M44の作。つくづく selfish love しかなかった男と察する。
 阿部一族。
 彌一右衛門は子供等の面前で切腹して、自分で首筋を左から右へ刺し貫いて死んだ(p.292)。
 落城のあと、忠利は数馬に関兼光の脇差をやった。1尺8寸、銀の九曜の三つ並びの目貫。目貫の穴は二つあって、ひとつは鉛で填めてあつた。
 草鞋の緒を男結びにして、あまった緒を小刀で切って捨てる。
 雁。大正2年作。
 上野広小路に自転車の競走場があった(p.325)。
 錬歯磨を売っていた「たしがらや」。さかさによむと「やらかした」。
 下手の乗っている馬はなまけて道草を食う(p.356)。※その通り! 手綱が緩いことを察している。
 水戸の屋敷は、上屋敷が小石川門外、中屋敷が本郷追分、目白の二箇所、下屋敷が永代新田、小梅村の二箇所。これらはひとつも火事に逢っていない。
 漢学者は甥のことを姪と書く。根拠は公羊伝にある(p.514)。
 元禄7年11月23日、隠居の身である義公光圀(西山公)が、藤井紋太夫を手討。
 明治以降、寺は、改葬という名のもとに、墓石を次々に処分してしまう。過去の偉い人物の墓でも容赦なし(p.527)。
 風月堂は維新前からあるが、幕末の番付では西の幕内の末の方である。
 巻末年賦。
 M29-1、陸大の教官を兼任。すでに軍医学校長。
 M31-10、近衛師団軍医部長を兼任。
 M32-6、陸軍軍医監(これはランク)。12師団軍医部長(これはポスト)とされて小倉に赴任。
 M32-9、師団の将校たちにクラウゼヴィッツを講義した。37歳。
 M35-3、第一師団軍医部長となり、東京に戻る。
 M36-11、クラウゼヴィッツ『大戦学理』(2巻)を軍事教育会より刊行。
▼高橋昭夫『証言・北海道戦後史――田中道政とその時代』S57-4
 S20-8-27に万国赤十字代表らが小樽港に入り、札幌のホテルで捕虜引渡しの予備交渉。
 S20-9-4に米第八軍のサッター少佐以下が輸送機で飛来。
 連合軍捕虜470人は炭坑地帯で使役していた。
 9-12に捕虜の第一陣が千歳から空路で出発した。
 10-5に小樽港外に50隻の米艦隊が沖がかり。空母なし。
 敗戦前、北部軍は、米軍が上陸するのは道東だと考えて、帯広に100機を集めていた。これらは丘珠に移して石油をかけて焼いた。
 陸自の東千歳駐屯地には2500m×80mの「連山」専用滑走路が残っている。
 77Dから、第306RCT(連隊戦闘団)がS20-10-4に函館に上陸した。
 米海軍では料理をつくるのは黒人兵で、ルームサービスは全員フィリピン兵にさせていた。
 松竹の『そよかぜ』はGHQ検閲第一号。その主題歌が「リンゴの歌」。
 終戦直後に創立された社会党道連。のちに航空評論家となる青木日出雄も入党した(p.45)。青木写真館スタジオが社会党道連書記局。
 江別には王子航空機の工場があった。王子製紙工場。
 77Dは、NY州出身者が多く、事故も少なかった。同師団の復員はS20-10-20からスタート。
 S21-5に真駒内の種畜場が接収され、キャンプ・クロフォードとなった。明治13年に札樽鉄道を敷設した技師の名にちなむ。
 土地柄で戦後もタコ部屋があった。北海道には。
 タコは京浜地帯の戦災者が集められていた。
 セレベス島から復員したポツダム大尉の証言。リバティー型船で名古屋まで13日かかったと(p.75)。
 日本のスチームローラーは石炭焚きなのですぐに圧が下がる。米国製のローラーは重油を燃やすので性能が数十倍あった。
 いかに石炭が必要だったか。汽車が不意にストップし、石炭の手当てがつくまで何時間も発車しない、そんなことがザラにあった。もちろん工場も休業が多い。すべては石炭なのだ。
 S22に、地方首長が初めて公選される。北海道、長野、徳島、福岡に社会党の知事が誕生した。
 山口県知事になった田中龍夫は無所属で37歳。田中義一の息子。
 本州では地元の名望家が市町村長になる。しかし北海道では、役人出身が多い。経済が官依存なのだ。
 道議会はS27春まで、米軍将校とその通訳により監視傍聴された。
 戦後、北海道でとれたニシンとイモの6割を本州へ送らされた。
 北海道CICはG2の下部組織で少佐が率いていた。エリート揃い。反ソの諜報網を構築した。
 米国機関は朝は8時スタート。
 1949-1から、第十一空挺師団が北海道から米本国へ。かわりに朝鮮から第八軍の第七歩兵師団がやってきた。八戸にも。翌年5月に朝鮮に展開し、師団長のディーン少将が休戦まで捕虜になる。
 ベニーはベンジャミンの略。
 ビアホールはS24夏に解禁された。
 S18から函館の造船所で木帆船が量産された。300トン級。道産のナラ材の長いものが枯渇したため、ほんらい3本をつなぐ竜骨が4本つなぎになり、強度計算に苦心した。
 鷹泊ダムはTVAだと考えられていた。
 1950、戦争が勃発し、真駒内でも米兵たちがタコツボを掘った。
 群馬県の旧中島工場あとのキャンプ・ベンダー。韓国から避難してきた韓国人たちをそこで速成訓練して、米軍に繰り入れた。階級章は、米軍のを逆にしていた(p.257)。
 中共兵の死体を見た人の証言。防寒服は着ていたが、素足で、ズック靴なのに驚いた。
 手が凍傷にかかると、死んだニワトリの足のように黄色く見える。
 警察予備隊の火器は、払い下げのM1カー瓶だけ。
 S26に、オクラホマ州兵(第45州兵師団)が北海道に。主力1万2000人は千歳に駐留。
▼高橋昭夫『続 証言・北海道戦後史』S58-6
 もと陸軍大佐の田中忠勝は久住忠男(海軍中佐。戦後、軍事評論家)とともにS28まで道庁嘱託だった。山口県出身で、杉山元の拳銃自殺の発射音を隣室で聞いたエリート。陸大で教えていたこともあり、ソ連軍の北海道侵攻はまずありえないと判断できた。やるなら10個師団で上陸する必要があろう。終戦直後、浅間山麓を開拓して酪農に挑戦したこともあった。
 日高海岸の門別地方は朝鮮海岸を想定した上陸演習ができるというのでオクラホマ師団は接収を望んだ。しかし反対され、十勝海岸大津(今の豊頃町)に白羽の矢が立ったが、休戦で話は立ち消え。
 S27-1、白鳥事件。日共が武装蜂起を決めた五全協の軍事方針がなければ、あの事件も起こり得ぬはずでした(p.90)。
 S30-11-29、米陸軍が恵庭演習場でオネストジョンの試射訓練。弾頭はコンクリート充填。
 径76.2センチ、全重3トン、全長8.7m。音速の1.5倍。30kmくらい飛ぶ。
 その前に御殿場の滝ヶ原でS30-11-7に試射されている。
 S32のチトセ・エアベースにはFENホッカイドーがあり、周波数は1570~1590キロサイクル。
 S33には、米第12野戦通信部隊(エリントか?)。S46にはOTHの部隊も来た。米国旗が降りたのは、S50。
 戦前の内務省で人事課長までやった町村金五がS34の選挙で知事に当選し、革新知事の時代が終わる。
 札幌の人口が函館を抜いたのがS15。S35にはじめて人口50万人を越えた。
▼上田智之『[ラーメン屋]の始め方・儲け方』2004-5
 開業資金は1000万円以上かかる(p.22)。
 無駄な従業員1人=380杯分の粗利(p.28)。
 6000万円以下なら環境衛生金融公庫で借りられることも。あるていどラーメン店で働いていた経験があると審査に通りやすい。
 居抜きの場合、立地がよくても、前の店の評判が最悪だったなら、やめておく。その評判も引き継がれるから。
 施工業者は、三社から相見積もりをとれ。
 小麦粉にかん水を入れると小麦粉の中のフラボノイド色素と反応して黄色になる。今はビタミンB2 で着色を強調する。
 卵白粉をまぜると、歯切れがよくなる。
 丼の文字は「双喜文」という。
▼正宗白鳥『生まざりしならば』イワブンS13-1
 昔の自炊。土鍋と七輪だけでOK。
 行李の上に鞄を載せれば、机代わりになる。
 身延の深敬病院は○病患者の通うところ。その昔は馬で草津へも通った(p.13)。
▼ルイス・フイッシャー著、兼井連tr.『偉大なる挑戦』S26-11
 原1946。“The Great Challenge”
  ※著者はあきらかにスターリン擁護者。
 フランスは1939-9-3の午後5時に戦争に入った。イギリスがその朝11時に宣戦したから。
 しかし英空軍は、紙片を撒布しているだけ。
 1939-11-30にロシアがフィンランド侵略。夜にヘルシンキも爆撃。FDRは48時間内に対ソの道義的禁輸。
 リトヴィノフは1937以前に「集団安全保障論」を公表している。
 ダンケルクの英兵32万5000人は鉄帽だけは捨てないで撤退した。仏兵も1万1000人。
 6-4のチャーチル演説。英本土を逐われたらカナダで継戦することを示唆した。
 1940-6-16にチャーチルは、仏国民に英国市民権をただちに享受させると言った。しかし1944には否定した。
 ドイツはイタリアを中立させておいた方が益があった。物資調達ができただろうし、反面、重荷にはならぬ(p.19)。
 戦間期にフランスは米国から軍用機をいくらでも仕入れられたのに、大蔵大臣は拒絶した。
 1945-5-14のチャーチル演説。われわれは1940-6から1941春にかけて、銃100万、砲1000を米国から搬入したと。航空機も船で届けられた。
 1941-4-5に合衆国はデンマーク領グリーンランドを保障占領した。1941-7-7には、英軍とともにアイスランドを占領。
 アメリカの家の戸口に金色の星の旗が出ていたら、その家から出征した者は戦死したことを示す。
 1941の世論調査。米国人は対スペインの禁輸を望んでいる。1935-11いらい、米国民は航空戦力の増強に賛成である。
 ジョゼフ・デイヴィスの証言。FDRは1939-7-18時点で、ヒトラーがフランスを征服したらその次はソ連だという確信を有し、その話は帰国するソ連大使のオウマンスキーにもしていたと(p.32)。
 ヒトラーは、ロシアの方が米英の連合体よりも潰し易いと判断した。
 莫大な量の飼料、穀物、亜麻、原油(1941年には石油70万トン分)、其他の生産物がロシアからドイツへ、そして日本からロシアを通じてドイツへ、流出した(p.38)。
 アメリカ共産党はドイツ製品のボイコットを中止すると宣言した。イギリスの共産主義者たちは、独軍機の空襲中にも、戦争努力をサボタージュした(p.39)。
 リトヴィノフは1938-11-27に駐モスクワのポーランド大使に、露波不侵条約を再確認した。
 ヒトラーはモスクワに対し、リトアニア以外のバルト諸国、そしてフィンランドとベッサラビアはすべてドイツ政治圏外であり、ソ連にくれてやるという意思表示をしていた。
 じっさい、数十万人の在バルトのドイツ人をドイツ本国へ引っ越させた。
 ロシアのルーマニア侵略は1940-6-27開始。ヒトラーは対英仏戦で対応できず。
 東ガリシヤと北部プゴヴィナは、かつてロシア帝国領だったことはない。そこをスターリンは1940夏までに占領支配した。
 1941ベルグラードのクーデターは英国製であると米政府は認めた。しかしドイツは、これはソ連の仕業だとした。
 ドイツはギリシャを制圧したら、さらに、クレタ島、エジプト、シリヤ、イラク、インドへ向かおうとするだろう。それはロシアにとっては朗報だ。
 1941-4、イラクでラシド・アリが英国に抗して立ち上がった。翌月、ヴィシー政権は、シリアのアレッポにある仏軍基地をドイツに提供した。ドイツはそこからラシド・アリに物資を空輸した。
 ついでドイツは意表をついてフィンランドに軍を集めた。62歳のスターリンは、5-6にモロトフをしりぞけてみずから人民委員会議の議長になった。これは首相と同義語である。国家元首だ。
 スターリンはとつじょ、ドイツに屈譲した。5-9に、亡国政権の大使(ノルウェーおよびベルギー)の外交特権を剥奪した。さらに、1ヵ月前に友好協約を結んだばかりのユーゴ承認を撤回。そしてラシド・アリを承認した。
 5-10、ルドルフ・ヘスがスコットランドのハミルトン公爵の領地近くへ落下傘で降りた。
 著者の見解。ヘスは6-22の対ソ開戦を知っていて憂慮し、あの決断をしたのだ。ただし、対ソ戦に反対だったのではなく、その前に英国と手打ちをするべきだと考えて。
 マインカムプはヘスも手伝って書かれた。反英色はなく、英国の同意の上でウクライナを獲るという論調だった。
 ヘスの勘違いは、戦間期の宥和主義の大物たちが英国でまだ勢力があると信じたこと。
 チャーチルはスターリンに通知した。
 4-21から6-21の間、ドイツ機は180回もソ連領内に侵入して写真偵察を反復した。在モスクワの記者たちは、その話を6-28に聞かされている。
 リトヴィノフが駐米大使として赴任したコースは、ハワイ経由。それは真珠湾攻撃の2日前だった。
 ホプキンズの得た感触。スタはさいごまでヒトラーがソ連ではなく英国を打倒しようとしているのだと信じていた。
 FDRは1939-12-2に、ソ連に対する道義的禁輸を課した。1941-1-21、国務次官サムナー・ウェルズは、ソ連の使節のオウマンスキーに対し、禁輸は解除されたと告げた。
 しかし14年間ソ連に詰めた記者として筆者はそれは間違っていると思い、未知のウェルズに手紙を書いた。米国がソ連に親善的態度を示すと、日本は米ソ協定ができるのではないかと考え、ソ連に対して挑発を控える。しかし日本軍の対ソ圧力は残ってしまう。最善の策は、日本が暹羅や蘭領東インドへ攻め込むようにしむけることだ。そうすればソ連も極東から兵力を西へ転用してドイツに対抗できるようになる。
 筆写の当時の見解。極東におけるソ連の目的とは、日本を弱体化させることを通じて支那を共産化することである。日本を弱体化させる最善の方法は、日米戦争を起こさせることである。
 ウェルズいわく。ロシアはこの2ヵ月(1940末から1941の2月まで)に、過去2年間にもなかったような大量の武器を蒋介石に提供した(p.60)。
 ウェルズいわく。日本海軍の提督たちは陸軍の連中よりも国際情勢がよくわかっている。だから南方に出たいと思ってはいるものの、ソ連との条約を急ぐべきだとは思っていない。
 筆者いわく。もし日本が米英と開戦したばあい、ネールは反日的になるだろう。しかし英保守党が馬鹿なことをすればどうなるかわからない。英国はインドでは少しも民主主義を実践してないから。
 筆者いわく。ドイツがブルガリアを押さえたとき、ソ連は本気ではブルガリアを防衛しなかった。ロシアとドイツはトルコを分割するかもしれない。
 ウェルズいわく。ドイツは昨年10月にそれをモスクワへ申し入れた。イスタンブールをどっちが取るのかは不明。
 筆者は、ソ連外交官のラコフスキーから資料をもらった。それによると、スターリンはトルコを敵視している。1919いらい、ボルシェビキは、ケマルパシャを反帝国主義・反イスラム主義という点でプラスに評価してきた。しかしジョージア生まれの者だけは違う。ジョージアの港だったバツームを1921-3にトルコが奪ったことを、彼らは許せない。そしてまた、ジョージアの国境である北イランに特別の関心も有す。
 対ソ禁輸解除は、当面、物質的には、何の意味もない。これはロシア人も知っている。政治的に、意味があるのだ。
 サムナー・ウェルズは、英国がイタリーから上陸してドイツを攻められることを了解していた。フィッシャーはそんなことは考えてもみなかったので、話を聞かされて驚いた。
 フィッシャーいわく。日ソ中立条約を結ぶように日本政府をけしかけたのはドイツなのだ。ヒトラーは、その結果ロシアの地位が補強されることを意に介しなかった。ヒトラーはドイツが独力でソ連に勝てると考えていた。それよりも、日本が南方の英領を攻撃して、英米の防衛資源が分散されることが大事だった(p.65)。
 「スターリンは、対米関係の好転に乗じ、日本の南方進出のあせりにつけこみ、日本を南下せしめたいというドイツの希望を利用して、まんまと日本相手に中立条約を締結したのであつた」(p.65)。
 日ソ条約に付属する国境議定書により、モスクワは日本の満洲領有を承認した。日本は、モンゴルがロシアの保護国であることを承認した。
 スタが松岡を駅で見送ったことは、その場にいたAPの記者により世界へ報じられた。すべてスターリンの計算ずくの演出だった。
 リトヴィノフは反独だったから、独ソ不可侵条約のときはスタによって棚の上に載せられたが、ヒトラーがロシアを攻撃するや、スタは2年間無職のリトヴィノフを棚から下ろしてブラシで塵を払い、英国向けのラジオ演説を1941-7-8にさせた。リトヴィノフの英語は上手であった。そののち、大使となりワシントンへ旅立った。
 このラジオ演説はリトヴィノフが原稿をまとめたとおぼしい。そこにリトヴィノフの対独観が出ている。いわく、ヒトラーのやり口は、狙った獲物が共同の抵抗線をつくることを妨害する。そうして一国、また一国と、敏速に片付けて行く。
 放送原稿は、7-3のスターリンによるロシア語(ジョージア訛)の放送に対する批判的な内容を含んでいた。過去のロシアの外交政策を憤っていた。こんなことがゆるされるのはリトヴィノフだけだった。
 戦争が進展し、ソ連の、米英に対する依存度が減ずれば、またリトヴィノフは棚に上がる運命だった。FDRは、スタが終始一貫リトヴィノフを嫌っていると気づいていた。
 理由は、スターリンがリトヴィノフをどうしても必要としたからだ。スターリンは他人に依存したくない性質なので。
 クレムリンは、左翼的知性人よりも、むしろジョゼフ・デイヴィス駐モスクワ大使のような、資本主義者であることを自信しているビジネスマンの方を好む。
 デイヴィスの国務省宛報告。いかにみすぼらしい家であっても、秘密警察の深夜臨検に襲われる。それは午前1時から3時までの間になされる。連れ去られると、数ヶ月も、その人物の消息は途絶えてしまう。
 1936~37のモスクワ粛清裁判。検事局は何の証拠も提出せず、判決は被告の自白だけに依拠していた。数ヶ月以上拘禁して、自白調書に署名させた。被告の子供たちのうちには、助かっている者がある。これは証拠がある。それが取引材料なのだろう。
 公判に付せられるのは、自白した者だけである。50名強。その他数千名の、自白を拒んだ者は、公開裁判なしで、処刑されたのだ。
 トハチェフスキー元帥ら7人の元帥大将の軍法会議は1937-6-11。秘密裁判。9人のうち8人だけが公判にかけられた。うち、ユダヤ人は2人。一切、何の報道もなかった。そして1年以内に、裁判官の大多数も処刑された。
 その後、数千人の赤軍将校が粛清された。
 それから数年、モスクワは、自白(ドイツや日本に国を売った)を裏づける何らの事実をも明らかにしていない。
 自白内容。レオン・トロツキーが、ルドルフ・ヘスと共謀してソ連を転覆させようとしたのだと。ところがニュールンベルク裁判のヘスに対する告訴内容にはこのことは含まれていない。ニュルンベルクに所在したソ連の検事はなぜ、ヘスに、トロツキーとの会談のことを訊かなかったのだろう?
 モスクワは、フィンランドに革命が起ればソ連軍を受け入れると錯覚していた。おそらくトゥハチェフスキーはそれに異を唱えた。
 フィンランドで、粛清後のソ連軍がボロボロだったことから、ヒトラーは
ロシアに楽勝できると錯覚した。ブラウチッチ元帥は大反対だったのだが。
 1941に英国に飛ぶには、クリッパー機(飛行艇)でNYCからバミューダまで5時間。そこからアゾレス諸島のホルタ飛行場まで14時間。そこからリスボンまで7時間。高度は8000フィートである。
 ポルトガルは各国スパイの巣窟。リスボン郊外のエストリルは上流避暑地で、ルーレットのカジノがあった。日本人は、いちばん神経質な賭博者だった。アメリカ人は、2~3ドルしか賭けない。
 リスボンから非武装のオランダ旅客機で6時間で英国のブリストルへ。
 英独ともに、非武装の旅客機には干渉しないことにしていた。それは定期航空であり、旅客は互いにチェックできていた。
 記者は1818に志願して英軍に入ったことがある。その当時との光景の違いは、女も軍服を着ていたこと。
 WWI従軍リボンをつけた年配の少佐と、25歳くらいの空軍の息子がプラットフォームにいた。
 英国人は、ハーモニーは大切にするが、ユニティは拒否する。
 1941時点で、英国の炭坑オーナーはあまり愛国的だとはいえなかった。良い炭層は、戦後の儲けのために残し、悪い炭層を採掘させていた(p.85)。
 英国指導層は、戦争の戦い方は知っている。だが彼らも、戦争の発生を防ぐ方法は知らない。
 チャーチルのアドリブ演説は、聴いていて安心でき、準備原稿のように古典的に洗練されており、快感だった。だから閣議でも彼が一人で、他の全員分以上に喋った。
 チャーチルは経済に関心がないが、陸海軍の将校たちと地球儀を覗き込んで作戦を考え、化学者たちと新しい爆発物について雑談した。他方で、彼は19世紀を愛しすぎていたので、もはや未来については考えたくもない様子だった。
 英国の遺産維持のために彼は全力を尽くした。だからインド人の不自由など無視したし、ムソリーニを戦前は大いに持ち上げた。
 輿論が熟してから指導するというタイプでは、彼はない。まずみずからが飛び込み、後から国民がついてくるのを期する。
 独ソ戦が始まったとき、ラジオで即座に演説してロシアを救援すると約束した。これに米国も追従した。
 戦時の挙国内閣で労働党幹部も5年間も行政と国防に参画した。だから「未熟」「売国」とは呼ばれず、1945-7の総選挙で大勝した。
 英内務大臣の署名は、H・S・=ホームセクレタリーに続けて姓のイニシャルを記す。三文字のみ。それが内務省の伝統なのである。
 アンソニー・イーデンの兄ジョンは、WWIの1年目に戦死。次兄は英海軍だがその2年後に戦死。彼自身も出征している。
 ニヨン協定。1937-9、スペイン王党へ武器を届ける船がイタリー潜水艦に沈められるので、英仏が地中海を封鎖した。
 某人いわく。ソ連の参謀は慨して無能だが、レニングラードのフォン・レーブだけは傑物だった。
 またいわく。ヒトラーがロシアに攻め入ったのは、1年以内にロシアを潰せば、対英交渉の立場は圧倒的になるので、そこで英国と手打ちをする肚だった。もし1年以上経過すれば、米国の武器供給が洪水となって、英国の立場が強化されてしまうことを、ヒトラーはよくわかっていた。
 もし英国がドイツと手打ちするかもしれないとスタが考えたら、スタは先にドイツと手を打ってしまう。だから英国は、絶対にヒトラーとはもう宥和しないんだというサインを発し続ける必要があった。
 駐米の英国大使ハリファックスとFDRは親友。というのも、ふたりとも極端なエピスコパリアンなのだ。しょっちゅう宗教の話をしている(p.104)。
 スターリンは、ヒトラーが攻めてくることは知っていた。しかし、やがて独ソ戦がはじまるという希望を英国に持たせるのは厭だったので、英国人の使節の前では、そのような「情報」を受け付けぬそぶりをしてみせた。
 英国軍が掴んでいた数値。独ソ戦の最初の10週間で、露兵は300万人、独兵は200万人死傷した。戦死者の割合は、WWIのときより遥かに多く、捕虜は遥かに少ない。アメリカの将軍たちは中西部出身が多いので、ドイツ人を尊敬しており、ドイツ軍はソ連に勝つと信じ、且つ、口にも出している。これは英国としては、はなはだ困る。どうせ敗れる国には支援をしなくていいという世論が米国内にできてしまうから。
 スターリンは英国に、第二戦線をつくらないことについて文句を言っていた。英国は、ドイツ軍はフランスとオランダに予備をもっているので、東部戦線から戦力を引き抜いて西部に回す必要がないのだと説明し、スタを納得させた。
 ロンドンに亡命していたベネシュから1941-9-23に聞いた話。
 スロヴァキアからロシアまで通じる鉄道がルーマニア内を走っている。じつはこの鉄道は、チェコスロバキアがクレジットを供与して敷設してやったもので、ドイツから侵略されたときにチェコ軍を後退機動させるつもりだった。じっさい、そのように後退した。カロル皇帝は、対独国防のためにロシア兵をチェコスロヴァキア領内に入れてもよいとまで考えていた。しかし、ポーランド人を入れるつもりはなかった。
 ロイド・ジョージの話。
 なぜWWIのときのようにすぐにフランスに歩兵を送って第二戦線をつくらないのかと。チャーチルに大不満の様子。チャーチルはWWIのガリポリで凝りすぎているのだと。記者は、今の軍隊は重装備が必要だから海送が簡単ではないだろうと言った。また、プジョンヌイはミュラー気取りだが、じつは元帥杖をもった特務曹長だと。
 記者の滞英中、バトルオブブリテンはもう終わっていて、1回の小規模空襲しか、ロンドンには無かった。警戒だけは続いていた。阻塞気球は、重量の大なトラックに強い鋼索でつないであった。気球の数はとても多く、独機は1機も、その高度より低く飛ぼうとはとはしなかった。鋼索に接触するのを恐れて。水平爆撃中心にするしかないので、高射砲が有効になる。
 投下爆弾は威力があった。1940のある日、3発が落下し、地下40フィートの地下鉄(防空壕)まで侵徹した。ヴィクトリヤ地区に落ちた1弾は、多数の電話線を切った。1941-1時点でロンドンの8000本のガス本管が破裂させられていた。
 しかし1941夏、つまりV-1が登場する前の静かなときでも、老婦人だけは毎晩、地下鉄で寝ていた。
 ロンドンの地下壕には水洗便所があり、売店やラジオ設備もあった。寝床は三段だった。しかしさすがに地下空間には悪臭がこもっていて、平時だったらそれは堪えられないレベルだった(p.115)。
 リスボンには数千人のユダヤ人が亡命先の受け入れを待って滞留していた。
 ポルトガルの闘牛は、牛を殺さないで、引き倒すだけ。複数の闘牛士が、投げ倒すのである。
 1942の春、米西部諸州の住民は、日本軍の空襲にひどく怯えていた。
 サンフランシスコ、シアトルなどの大都市の富裕層は、アリゾナやネバダの奥地に疎開したほどであった。
 実情を知る記者は、日本軍の空襲なんてありえないから、なんならここで、5セントくれれば、私的に空襲保険を請合いましょう、と講演した。
 シアトルのボーイング工場。対日開戦でてんてこまい。特にペーパーワークが殺人的だった。連邦、州、郡の三者が次々と、同じデータを要求する。キリがなかった。
 ボ社は、役所対策の文書業務のためだけに、ビル1棟を建てたほど。
 米国も女子労働力が銃後軍需工場にたくさんいたが、欠勤率が高かった。
 州外からの移住者で、病気の子供を任せられる親戚が近所にいない。だから頻繁に欠勤するしかないのだ。
 休日出勤は「ダブルペイ」だった。
 記者は新聞への寄稿で、インドの独立に米政府が力を貸せと力説した(p.127)。
 東部戦線でソ連が巻き返しに出ると、はやくも合衆国内では対ソ恐怖が増大した。
 記者は、この戦争後にソ連は隣国領土を併合するであろうことも1942のうちに予言し警告した。しかしNYCの新聞の編集部はそういうところは削除して掲載しなかった。
 米国は技師をインドに派遣して雲母(マイカ)を採掘した。
 ポーランドの外交官が支那へ飛ぶためには、クリッパー機は、エジプトとロシアを経由する必要があった(p.132)。
 FDRはブレーントラストのひとりのタグウェルをプエルトリコ長官にし、アラスカ長官には『ザ・ネーション』編集長を据え、ヴァージン諸島の長官には、『ザ・ニュー・リパブリック』誌の主筆のロヴェットを任命していた。
 南米スリナムはオランダ殖民地で、アメリカ軍が防衛した。
 クリッパー機は四発で、1発故障したので飛んだこともある。2発が回る限り、飛べるそうだ。
 ブラジルのベレム。赤道から100マイルなのに、5月でも夜は涼しい。蚊がいない。蟻もいない。雨期は1月からスタート。
 ベレムからナタルに飛び、そこから14時間でニジェールのラゴスへ到達する。英殖民地で、人口が2100万人もあり、三部族が異なる言語を話す。
 ニジェールからインドまで、点々と、米軍の輸送機の基地がある。軍の輸送機の座席は、アルミニウムの浅い鍋のような凹みに腰をかけ、飛行機胴体のぶるぶる震動する側壁に背をもたせかける。
 機内にはロシアへ供与される航空機用のゴムタイヤの箱がぎっしりと積まれていた。
 エジプトのファルークは、英国がドイツに敗れればエジプトは自由になると考えていた。そのため1942-2時点で英国とエジプトの関係は悪かった。
 ヴィシーの公使に電信や郵便の便宜を与えるなという英国の命令にファルーク国王が背こうとしたので、英軍は戦車で王宮を囲み、従わなければ国外へ拉致すると脅した。英政府は最強の報道管制を、この事件にかんして敷いた。
 バスラの近くに、武器貸与法によるロシアの飛行場があった(p.142)。
 ゴムタイヤはそこで引き渡された。
 インド婦人の額のまんなかの赤丸は、寡婦ではない印。
 テラスの外壁に厚い藁製の仕切りがあり、そこにざあざあと水をかける。気化熱が奪われ、屋内が涼しくなる。埃も侵入しない。
 ガンジーの戦いは、言論の自由が与えられているから、可能なのだ。
 1942に逢った。73歳のガンジーいわく。他へのディペンダンスによって得た独立は、インディペンダンスではない。独立闘争では、目的達成の過程のひとつひとつが、目的達成の一部なのである。
 ガンジーいわく。英国はインドを支配している限り、道義的な弱点を抱える。自己弁護ができなくなる。
 ガンジーはネールのような辛辣さがないので、英国としては、ガンジーを相手にしたい。ネールは英国で教育を受けた上層階級なのに英国に敵対的なので、英国人は怒る。
 ハイデラバードの藩王は世界一の富豪と噂される。回教徒のインド空軍将校と汽車で同室になった。彼はジョン・ガンサーの『アジアの内幕』を読んで、すっかり英国を憎むようになった。それまで、英国からインドが搾取されているとは気付かなかった。
 その時点で、英本国人の平均寿命は60歳。米国人は63歳。
 インド都市部では、最良の雇用主は政府自治体。しかし1857の大反乱で、英国は回教徒をおそれるようになり、公務員として雇われなくなった。さらにコーランが金融業を禁じているので、銀行、工場、商店はヒンヅー教徒が独占。
 大地主か小作人にしか、なれなくなった。回教徒は。都市部中産階級には、回教徒はいない。
 インドは人種的にはかなりホモジーニアスで、ヒンヅー教徒のベンガル人と回教徒のベンガル人は外観も言語も区別不可能。
 農村部では、両宗教間の軋轢はない。都市では、ある。
 回教徒のいうシオンとは天国のこと。1940にジンナーが、シンド、パンジャブ、ベルチスタン、西北国境州、ベンガル、そして回教徒は少ないがアッサムを、まとめてパキスタンにしようと構想した。
 ジンナーは、モロッコから支那へひろがる「回教徒帝国」を計画している。パンイスラミズム。ユダヤ人のパレスチナ復帰運動がこの計画の邪魔になるだろう、とも。
 ジンナーの週刊誌が『ドーン(曙)』。
 記者の印象。ガンジーにインタビューすれば常に新しい話が引き出されるが、ジンナーの受け答えは蓄音機と同じで、常に同じ結論しか語らない。
 英国はジンナーの機嫌をとった。ジンナーは全アジアの脅威になる。さすれば世界はインド殖民地のことは忘れてくれる。
 インドにはまだ義務教育すらない。
 インドの共産党はモスクワの指令により、インド唯一の戦争支持派。おかげで英国からも支援が受けられた(p.194)。
 1941からインド総司令官のアーチボールド・ウェーヴェルいわく。英国は何世紀も錫の採掘とゴムの栽培しかせず、東南アジアで怠けていたので、日本にやられた。彼は左目が見えない。
 英国は多額の宣伝費を投じて米国内で、インドの自治不能を宣伝していた(p.203)。
 1943のベンガル飢饉はインド人を怒らせた。300万人もが餓死した。マラリアでは毎年1千万人が死んでいる。
 1941の国政調査で、わずかでも読み書きができるインド人は13.6%であった。
 アラビヤ人はロムメル将軍がイギリス軍をやっつけたことで溜飲をさげていた(p.215)。
 記者は若いときにシオニストだった。フィラデルフィアにいたとき、英軍のユダヤ人部隊に応募して、1918~1920にパレスチナで勤務した(p.217)。
 1921から1939までは欧州暮らし。
 だがシオニズムは、イギリス帝国主義の肯定とむすびついてしまった。だから記者は、醒めた。
 合衆国は、他の大きな人口稀薄国――豪州、カナダ、ソ連、アルゼンチン、ブラジル――とともに、ユダヤ人の移民を許していない(p.219)。
 WWII後の欧州ではソ連だけが、アンチ・セミティズムを罰している。
 アメリカには、「キリスト教徒のお客様に限る」というホテルがある。
 キリスト教徒はユダヤ人から分離しようとして、自分たちの名前まで聖書からつけないようにしている(p.220)。
 1942の北アフリカ戦線の英軍の中にポーランド部隊もいた。緒戦でロンメルにやられたのでマーシャル参謀総長はただちにM3中戦車を米国内の訓練部隊から取り上げて北阿の英軍のために海路輸送した。それはとても的確な判断だった。この話はスティムソンが、1945-9-19の辞任演説で明かした。
 訳者・兼井連のあとがき。ルイス・フィッシャーは1896生まれ。1922にソ連旅行。ソ連とスペインに最も長く滞在。ソ連には延べ14年も。
 1926には『石油帝国主義』を著した。
 1933には『ロシアにおける機械と人物』。
 1941には『スターリンとヒトラー』。
 この訳書は、じつは原著(1946)の前半部分でしかない。前半部分は、1946のうちに訳し終えたが、出版の機会が1951までなかった。やっと月曜書房が出してくれた。後半部分はソ連問題と中国問題。その下巻は、まだ訳されていない。
▼岩永胖『自然主義文学における虚構の可能性』S43
 明治文豪のうち花袋だけが、学校教育を受けていない。武士の子だが。
 M42の啄木の花袋評。作を読む語ごとに、真面目な心持を要求されるが、しかしいまだかつてそれ以上を要求されたことがない。
 花袋の祖父は、館林=秋元藩で、17俵2人扶持。父は、22俵。
 実弥登は史料編纂所で『埋れ木』をまとめた。館林藩の岡谷勝益に関する史書。題言は繁実が書いている。
 おかね(横田まさ)と旦那(岡谷繁実)の奥方(美津――通称光子)の死とは同年であり、それは事実通りである。岡谷美津はM44-6-4に死亡。
 切腹した勤皇党は2人だが、墓碑に「無二三足の墓」とあったので小説『時は過ぎ行く』では3人にした。
 繁実は久米邦武と編纂所の路線をめぐり抗争した。その余波で山田実弥登は馘になった。
 ※じぶんがまとめた未公刊の稿本より、他人がまとめた公刊物の編纂人に史学上の優先権が生じてしまうことを、繁実は憂慮したのか。
 ※『蒲団』はモーパッサンの「死よりも強し」の模倣じゃないのか。
 小説『かた帆』の芳雄のモデルは柳田国男。燃ゆるが如き狂熱をみて、幾度、われ及ばずの嘆を発したか。
 柳田は書簡の中で、めしよりも好きな詩集 と書いている。
 短編「赤い夕日」は、退却する日本軍隊が機宜の処置をなし得ない、非近代性を皮肉る。「大隊長の帽子」は、2人の兵卒の脱営、妓買い、そして不時点呼での露見と、全く軍隊を馬鹿にした作品。
 「重右衛門の最後」の取材地は、長野県上水内郡三水村大字赤塩。実名は、藤田重右衛門。M26-8-30死。公式記録にはただ溺死とある。それから10年後に花袋がフィクションに仕立てた。
 三水村では池を「ためけ」という。田池とは呼ばない。
 リンチの下手人の名は昭和20年代にも村民の口碑に残っている。リンチは半ば公然の裁判だったと考えるしかない。
 赤塩村を流れるのは斑尾川。しかし小説では尾谷川とす。
 リアルでは放火は、物置にはしたが、現住家屋に対してはしていなかった。
 長野地方検察庁の次席検事による調査報告。M35からS19までこの村では灼30回の放火あり。放火村だと。
 県警本部の刑事部長らの証言。この村では人を怨むとすぐ火をつけたり、リンゴの立木の皮を剥いで枯らすなどする文化があるのだと。
 筆者は藤村こそ花袋の諸作品を模倣して成功したのだという(p.226)。
 「田舎教師」のモデルの小林秀三は中学を卒業したのが18歳で、代用教員として単身で遊郭通いをするほどの経験はあったはずがない。しかし小僧上がりの花袋には、理解できなかったに違いない(p.267)。
 リアルの小林は乙種合格している。
 繁実は水戸の青山延光に入門した。そして寒香園叢書の中に「浮世能夢」と「繁実日記」を残した。じぶんで「寒香園四狂」と称し、人からは「山稜狂」と呼ばれた。花袋はこれらの叢書も読んだに違いない(p.293)。
 繁実は「岡谷繁実永之暇記」も書き残している。
 東京帝国大学は、裁判一件では明らかな悪役。繁実と、花袋の兄は被害者である。しかるになぜ花袋はこの大不正事件を自然主義小説に仕立てなかったのか?(p.313)。
 ※高級役人以外は公憤は抱かなくてよいのだという情けないセルフィッシュ路線が文人によっても肯定されたのが日本の自然主義だろう。花袋個人には葛藤がない。その描く人物にも葛藤がないのは道理。
 「一兵卒の銃殺」。仙台第四連隊の東の練兵場で執行された。親戚知人の面前で。
 罪刑は、放火罪。
▼クリス・アンダーソン著、高橋則明tr.『フリー』2009、原2009
 膠の主成分はゼラチン。
 米国では、戸別訪問販売のセールスマンに、ライセンスがある。町ごとに。
 アトム経済 vs. ビット経済。
 ラテン語系言語では 自由 と 無料 はまったく違う単語になる。
 ゲルマン語系では、奴隷ではない自由 がプラスの意味が強く、それが、費用からの自由 にも適用された。
 典型的オンラインサイト。5%の有料ユーザーが、残りの無料ユーザーを支えている。
 デンマークのあるスポーツジム。週に一度以上利用すれば会費無料。一度も来店しなければ、その月の会費を全額納めなければならない。
 バビロニア人は「ゼロ」の記号を作っていた。それは傾いた楔を二個並べたものだった。ギリシャ人とローマ人は、ゼロを拒絶した。
 ピタゴラスの定理はピタゴラスが生まれる前から知られている。
 インド人は現実の物質と切り離された数字を構想することができた。インドのゼロがアラビアを経由してラテン語のゼフィルスになった。
 16世紀に貨幣流通量が増え、銀行制度が発達し、金利は三分の一近くに下がった。
 英国の人類学者ロビン・ダンパーは、集団の人数が150人を越えると相互扶助と相互監視の社会的絆が緩んでしまうと発見した。
 フリーランチは19世紀末の米国の酒場で創始された。酒を1杯でも注文すれば、食事は無料になる。じっさいに酒場で酒1杯だけという客は少ないので、これでもペイした。そして真の貧乏人にとっては、慈善団体よりもありがたい救済のチャンネルだった。
 1940に米最高裁は、ラジオ局がレコードを買えば、それをオンエアしてよいと判決した。
 フリッツ・ハーバーは空気と天然ガスを高温高圧にさらして空中窒素をアンモニアの形でとりだした。
 安価な窒素肥料は1910にカール・ボッシュが商品化。
 現在、世界の天然ガスの5%は、アンモニア製造に使われており、それは世界のエネルギー消費の2%にあたる。
 窒素肥料と殺虫剤、除草剤のおかげで、世界の食糧生産は100倍に増えた。
 1955の米家庭は収入の三分の一を食費に使っていたが、いまでは15%以下だ。
 セルロースを分解する魔法の酵素の発見が、待たれている。
 合成樹脂は1907にベークランドがつくり、商品名をベークライトとした。
 慈善目的で配るものであっても、タダにしてしまうと、それをなくさないようにしようというモラルがユーザーの脳内に励起されない。だから、やたらなくされると困るものは、ごく僅かな名目的な意義の値段をつけて、徴収すること。こうするだけで誰もなくさなくなる。
 宣伝目的で世間に拡散させたいものは、名目的な僅かな代価でも、徴収してはならない。無料と1円との間には心理的な懸崖が立ちはだかると考えるべし。
 著者は「DIYドローンズ」という会社を始めた。飛行ロボット技術一式を開発してそれをオープンソースにした上で、ハードウェウの販売もする。
 操縦システムは、アルドゥイーノというオープンソースのマイクロプロセッサ。客はこれをじぶんで組み立ててもいいし、会社から完成品を買ってもいい。
 アルドゥイーノ設計チームは、そのプリント基盤をつくって売る者から、特許権使用料を得る。
 まず人々を集めて群がらせ、消費者コミュニティを成立させ、その中のリッチ層を狙って、拡張機能を有料で売る。
 クロード・シャノンは1939には「インテリジェンス」という語を用いていたが、1948には「インフォメーション」を使った。
 リーナス・トーヴァルズがユニックスのOSを簡素化したのでリナックスという。
 リナックスのライセンスはGPL=ジェネラル・パブリック・ライセンス。オープンソースにもとづく派生物もすべてオープンソースにすることを求めている。
 グーグル社のデータセンターは、電気料金の安い大西洋岸の北西部の水力発電所のそばなどが選ばれる(p.162)。
 マイクロソフトやヤフーも、水力発電所の近くにデータセンターを建てることを余儀なくされた。二酸化炭素排出抑制問題を意識せざるを得ないので(p.302)。
 雑誌業界では、定期購読をすすめるダイレクトメールの返事が2%以下なら失敗だと考えている。
 グーグルのネットワーク効果。市場シェア1位の企業が、2位の企業にますます差をつける(p.176)。
 ゲームの売り上げは、発売から6週間がすべて。映画のように、二毛作、三毛作を展開できないので。
 第二週末効果。映画の出来が予告編のイメージよりも悪いと、怒った観客が悪い評価を口コミで広げる。
 大衆音楽分野では、CDや著作権収入よりも、ライブ収入が数倍多い。人々は、思い出に残る経験のために、カネを出そうとする。イーベイは2007年、最大級のチケット転売業者である StubHub を買収した。
 ティム・オライリーいわく。作家の敵は、著作権侵害ではなく、世に知られないでいること。
 ある製品が他のものよりも圧倒的にすぐれていると消費者がみなすとき、価格を決定するのは、限界費用ではなく、限界効用。
 ウェブのリンク機能は1989年に開発された。
 グーグルは検索結果の相関性をライバルの検索エンジンより高く維持することで、選ばれる価値を維持する(p.244)。
 米国ライター業の相場。1語書けば1ドル。売れっ子ならば、3ドル。
 アダム・スミスは正しかった。人の最強の動機に、啓発された利己主義は、なり得る。なぜネットには、メーカーの発行するものよりも詳しく親切な、投稿されたマニュアル類が溢れているのか。コミュニティの一員としてその繁栄に貢献したいという動機が強い。注目を集めたいという動機も。
 機械が人間の一生のめんどうをすべて見てくれるというSFは1909年にE・M・フォースターによって書かれている。小池滋訳「機械が止まる」。みすず書房の、フォースター著作集の5に所収。そこでは人間はマシーンを崇拝するようになる。
 イスラム教の聖典によると、天国の住人は男は皆32歳で、身長も同じだ(p.281)。
 経済において起こることは、かならずしも起こるべきことではない。
 マイクロソフトは、創業まもない中小企業に対して、ビジネスソフトのオンライン版を無料で提供するサービスを始めた(p.318)。
 ユーザー全体に対する有料ユーザーの割合は、5%を損益分岐点にする。望ましい割合は10%で、もしそれ以上の有料ユーザーがいるときは、最大数の潜在顧客を無料版ユーザーとしてとりこめていないのだと思え。逆に割合が10%未満のときは、利益が足らず、あなたのビジネスの持続が苦しい(p.330)。
 企業が創業まもないときの買い手は、数年後の書い手よりも価値が高い。
▼平・阿部 校注『近世神道論 前期国学』(日本思想体系39)1972-7
 両部習合。天照大神は大日如来だとする。日吉は薬師だとする。
 中臣が卜部に改姓し、卜部は吉田氏と平野氏に分かれた。
 墓所の前に立てる門を華表という。
 ホロに母衣という字を当てたのは、胎児を包む ヱナ にかたどったのである。
 万の災は虚言より起こる(p.45)。
 以上、林羅山の「神道伝授」。
 異国の「しんちう」をこがねといはば同じからず(p.98)。
 ノビルのことをアララギという。とうがたつ、ことにかけて、伊勢神宮では塔をあららぎと称する。
 以下、山崎闇斎。
 田の区画が町。
 経津主神=香取はカンドリと呼ばれた。※楫取り、つまり水夫・漕運の神だったのか。
 野茂とは野面であり野外の意味である。
 茶店は「さてん」と言った。
 以下、増穂残口。
 拍手[かしはで]は日本だけの風俗。天竺は合掌。「支那[から]」は拱手[こうしゅ]。
 伊勢神宮や住吉神社では、平人が拍手を打つと、とがめられる。それは神職の技だからである。平人は、神前では、ただ両手をつき、頭[かうべ]を地につけて、礼[らい]し奉るべし。
 ゑびす神の総本社は、兵庫県の西宮神社。
 享和4年刊本の「神路手引草」では「支那」と書いて「から」と読ませる(p.213)。
 日本では男女は一双にして高下尊卑なし。女は男の奴[やっこ]の如くなにごとも男に従うとするのは支那の礼格であり、我国の道ではない(p.214)。
 今も熊野の浦人は、死骸を海へ捨てる。鯛になっておじゃれ、と呼びながら。これは往古の遺風なのだ(p.215)。
 神社の中には出家が境内に入ることを禁じているところもある(p.225)。
 支那儒教では来世があるとは言わない(p.226)。
 頭註。三種神器のうち、真の草薙剣は熱田神宮にあり、宮中には代用品が奉安されていた。平家とともに壇ノ浦に沈んだのは代用品の方だとされる(p.230)。
 神道では黄色を忌む。そして五色のなかに紫を用いる(p.233)。
 以下、「恭軒先生初会記」/藤塚知直。
 頭注。「神道」の初出は日本書紀の用明天皇の即位前紀。
 神道を「行ふ」のはあくまで天皇のみ。百官は、ただ命を承りて勤めるだけである。臣下が神道を行なうなどと言ってはならない(p.237)。
 陽成天皇は、陸奥から鹿の乾し肉を御膳に奉られている。しかしその後の天皇からは獣肉が禁ぜられた。
 頭注。九字護身法とは「臨兵闘者皆陣列在前」。道教で創始し、密教に伝えられた。神社はこのようなものには関与しない。
 以下、「戸田茂睡」。
 寛文5年頃、「中[ちう]がへり」というのは、途中でこころざしを変えて後戻りすることを言った。
 武士は、名を第一にし、理をつぎにする。
 頭注。伊南芳通の『甲陽軍鑑評判』を別名「鉈の記」とよぶ。
 歩[かち]若党、中間、小者は、小袖を着用し、かつ、その裾を帯に挟んで、尻を出しているのが礼である(p.305)。
 以下、契沖。
 万葉集を見るときには古代人の心になりきらなければいけない。今の心を忘れよ。
 智者の千慮にかならず一失あり。愚者の千慮にかならず一得あり。
 以下、荷田春満。
 頭注。燕石とは、玉に似ているが、宝石の価値は無いもの。
 以下、賀茂真淵。
 後のあやは、中つ世のにしきにしかず、中つ世のにしきは、かみつ代のしづはたにしかざる也。
 天の下には事多かれど、心とことばの外なし。
 古今集は、ことばがおもしろく、短くて、しかも、理[ことわり]が聞こえる。
 仏教は罪の報いを教えている。だがそれが嘘であることはあきらかだ。いまの平民は、過去の戦で一人も殺さなかった者の子孫である。いまの旗本は、乱世に少々殺した者の子孫である。もうちょっと多数を殺した者の後裔は大名家になっている。最も限りなく人を殺した者の子孫こそ「いたりてやむごとなき御方」(将軍家)として、世々さかえているではないか(pp.388-9)。
 以下、巻末解説。
 羅山いわく。人あってこそ神をあがむれ。もし人なくば誰か神をあがむる。
 鏡は智、玉は仁、剣は勇に対応するので、神道と儒教は通ずるとした。
 中庸に、智仁勇は三達徳だとしてある。
 吉田神道は、室町後期から神道界の実権を掌握した。
 吉田神道の最高奥秘は、君臣道。
 1615生まれの度会延佳は、伊勢神宮の外宮の権禰宜だが、古い神書がどんどん湮滅してしまうのを問題視し、古事記をみずから校訂し刊行した。それが『鼈頭旧事記・古事記』。他にも多数の資料を救い、慶安元年に「豊宮崎文庫」を設立し、その側には学舎を建て、講習と討議の場とした。
 闇斎は京都の浪人の子。
 玉木正英は神軍伝を中心に兵家神道を確立し、武家社会にすりよった。橘家神道。
 真淵の「にひまなび」。歌はいささかでも違うと歌にならない。だからよく考えながらこれを幾度も唱えるうちに、古言を理解できるようになる。
 契沖の弟子に有名人はいなかった。真淵も独立していた。
 高野山に失望した契沖は「住む人はいかにあふがん出でてこそ高野の山を高しとは見め」と読んでそこから脱した。
 水戸の光圀からも招かれたが断っている。
 国学は規範性と抽象化が不足。そのため儒仏には匹敵し難かった。
▼ローゼンバッハ&シュタルク著、赤坂・他tr.『全貌ウィキリークス』2011-2 原2011
 ブラットリー・マニングをFBIに密告したのは、元ハッカーのエイドリアン・ラモ(p.15)。
 欧米のリベラル学生運動ピークは1968。
 米国公務員はウィキリークスIPアドレスへのアクセス禁止。議会図書館もアクセス遮断(p.27)。
 米サイバーコマンドは2010-5に設立された。
 FBIがアサンジを起訴したさい、根拠にしたのは、1917防諜法。米軍の軍事行動を妨害する情報の流布を罰する。
 ウィルソン時代だけで、900人以上が、最長20年の禁固刑を言い渡された。
 1989の木製探査機ガリレオは、各11kgの二酸化プルトニウムを積んだ発電装置×2基を搭載していた。
 アサンジの髪が白くなりはじめたのは15歳(p.61)。
 メルボルン大学の数学統計クラブの副部長だったことあり。
 メルボルン大の数学科は米陸軍からの受託研究として、砂の挙動を数値化しようとしていた。
 送信者が情報提供の事実を否認できるようにアサンジは、暗号化したCDを普通郵便で送付し、その後、オンラインでパスワードを届ける方法を考えた。
 エルズバーグのペンタゴンペーパーズは7000枚もあった。それを自分の子供たちにも手伝わせてコピーし、新聞各社に送りつけた。
 北京近郊と広州付近で、中共政府のハッキングが行なわれている(p.87)。
 フォレンジックな真贋みきわめ。素材のメタデータを調べる。たとえばマイクロソフト社のアプリケーションの多くは、文書からしばしば作成者が判明する。誰がいつ、内容を編集したかもわかってしまうのだ。
 ケイマン諸島にハリケーン接近の警報が出されると、所在の金融機関はサーバーのバックアップコピーを島外へ持ち出す。
 ドイツの財団法。寄付者の氏名の秘密が保たれる。
 アサンジは、国家に共感せず、政党政治も否定し、労組だけが頼りになると考える、サンディカリストに近い(p.131)。
 イースターの月曜日は、ニュースが少なく落ち着いた日なので、センセーショナルな特種を流すには適している。
 オクラホマ州はバイブルベルトに属し、白人率が高い。そのようなコミュニティは、オバマよりマケインに投票した。
 マニングは13歳で同性愛者であることをカミングアウト。
 オクラホマシティのソフトウェア会社に就職。
 2007に軍隊に志願。4年勤めて大学に行こうと考えた。
 ドント・アスク、ドント・テルは本人には苦痛だったという。
 Noforn とは、外国に転送してはいけないと分類された、軍の秘密文書類。
 ウォーターゲートのディープスロートはFBI副長官のマーク・フェルト。
 米国では私企業が、FBIと契約し、怪しいインターネットユーザーを当局に通報している(p.185)。
 米国法の「重要参考人」。ある人物に対する進行中の捜査に重要な証言をなし得る目撃者が、その意思に反して拘束され、訊問される。米国に旅行する者は知っているべきだろう(p.194)。
 WIAは、戦闘負傷。
 捕殺の優先順位を記したNATOの名簿をJPELという。公式名ではない。
 米軍は、アフガニスタンの独立系メディアにポジティヴな報道がいっぱい詰まった番組を作って渡し、その放映のために何千ドルも出していた(p.232)。心理作戦の公文書から。
 ロシアは公人の顔をつぶす目的で性絡みの告訴をする。それをコンプロマート(妥協の材料)と呼ぶ。ウズベキスタンに駐在した英国大使もやられた。
 米国でおそらく一番重要な祝日は11月の感謝祭(p.280)。
 ロシアとの天然ガス取引で、ベルルスコーニが巨額を手にしたという疑惑。
 アブダビの皇太子。「イランに核兵器を開発させない唯一の道は、国を内部分裂させることだ」。大使館電。
 イスラエルでは新聞検閲が実施されている。同国内の各新聞社に報道の自由はない(p.300)。
 2008夏のグルジア侵攻を見てバルト三国はただちに米国と相談を開始している。
 2009-7-31に米国務長官は、国連と国連の要人たちについて正体を洗い出せとスパイ指令を発した。ナショナル・ヒュミント・コレクション・ディレクティヴの一環。
 国連内部で盗聴をしてはいけないことになっているが、米国はやっている。
 2009-2に米国はリストをつくった。米国にとって重要で、守らねばならないインフラの全世界版。アフリカの鉱山、豪州近海の海底ケーブル、中共の水力発電所、日本の複数の港、オーストリーの製薬会社、ドイツのジーメンスとBASF社、大西洋のジュルト島近海の海底ケーブルなど(p.309)。
 カダフィは、航空機で海上に出ないように気をつけていた。
 クァンティコはポトマック川沿いにある。FBIやDEAも同居。
 ここにある海兵隊の刑務所の独房は、本と雑誌をそれぞれ1冊だけ持ち込むことが許されるが消灯前に返さねばならない。体操禁止。朝5時から夜8時まで、眠ってはならない。※寝だめをして夜間に脱走準備に精出すことをおそれるのか。
 WWII中、米国内で破壊工作したとして、特別軍事法廷でナチス党員6名が死刑に決まり、執行された。
 タンゴ・ダウン は、テロリストを斃した、という意味。
 2007にエストニア政府がソ連軍の記念銅像をタリン市外に移した直後、エストニアの政府・銀行・新聞がDos攻撃を受け、それは2週間続いた。
 FAS=米国科学者連盟は、原子力科学者が中心のNGO。
 1991-4-3にNYTがすっぱぬいた「ティンバー・ウィンドー」計画。原子力エンジンでロケットを打ち上げようというものだった。1年個、この計画は正式にとりやめになった。
 ※そしてロシアが今、巡航ミサイルに応用せんとしているのか。
 オバマはシカゴの弁護士時代、内部告発者の弁護もした。大統領選挙中は「政府による浪費、嘘、権利の濫用についての適切な情報源となるのは、多くの場合、自分の意思を表明する覚悟のある政府の職員だ」とHPに書き込んだ。それで人命が救われることもあると(p.386)。
 バーブラ・ストライザンドは2003に自宅を無断で撮影した写真家と掲載したウェブサイトを訴えた。そのため却って自宅住所は広範に知れ渡ってしまった。
▼柳宗悦『民藝四十年』イワブン1984、原S33
 沖縄には、鎌倉から足利にかけての和語が数多く保留されている。『おもろ双紙』のおかげで、万葉の不明歌詞の語義が闡明せられてきた(p.206)。
 この双紙には12世紀から17世紀の古歌謡が集められている。
 八重山では誰もが唄い手。一人が唱えれば、他が和する(p.215)。※台湾とひとつづきの歌垣の原型。
 柳はS13に初めて沖縄へ渡った。
 この方言をぜったいに消滅させてはいかんと論陣を張ったら検事局で訊問され、留守宅は刑事に調べられた。
 巻末注。
 朝鮮の光化門は柳が保存してやったが、朝鮮動乱で消失した。
 ルカ伝はイエスの生地をナザレとする。マタイ伝では、ベツレヘムを生誕地とする。
 M22うまれの柳の父は、柳楢悦[ならよし]海軍少将。初任がM4-2で少佐。つまり海軍黎明期。水路関係ひとすじのキャリア。退役後、貴族院。M24に60歳で没。本貫は三重県。
▼マイケル・ルイス著、東江[あがりえ]一紀tr.『世紀の空売り』2010-9、原2010
 ※南西諸島地方では、東はアガリ、西はイリというそうだ。
 クイーンズで育つと、カネのありかには敏感になる。それはマンハッタンにある。
 サブプライムの自動車ローンはまだ良心的だった。手数料は高いが、金利は固定。ところがサブプライムの住宅ローンは、中流と下位中流の人たちを騙して破産させる仕組みになっていた。
 最初の2年はティーザー(釣り)金利。たとえば6%固定。ところが3年目から変動金利となり、11%になったりする。
 釣り金利の時期が終わると、人々は、借り換えをせざるをえなくなる。そこで手数料がまた入る。
 NBAの有名選手は、非有名選手とくらべて、トラベリングの反則を見逃される確率が遥かに高い。正義感の強い観客は、NBAは観ない。
 米軍でよく言われること。われわれは一般人が1日にすることより多くのことを、朝9時前にやってしまう。
 株を空売りする際のリスクには、理論的に上限がない。
 1930年代、住宅価格は、全国規模で80%下落した。
 ウォール街には就職できない人間が、格付け機関に就職している。
 サプフライム以前、平均住宅価格と年収は3:1だった。これが10:1にまで膨れ上がった。
 サブプライムの借り手の多くは、冷蔵庫が故障したぐらいのことで債務を滞らせてしまう。
▼朱熹著、和田武司tr.『宋名臣言行録』1976
 通行本は合計97人を挙げている。そのうち16人をえらんだ。
 科挙は、男しか受けられない。出身階層は、地主の子弟におのずと限られていた。
 宋の太祖は、五代の周の世宗につかえた節度使(一種の軍閥)だったが、近衛兵の推戴によって、天子の位を譲り受けた。シナ史最後の、禅譲による革命。
 科挙は太祖の前からあるが、試験官の同郷贔屓等、不正がまかりとおっていた。そこで太祖が、最終試験の殿試に臨場し、みずから試験することにした。
 これによって官僚の成績順位が決まる。エリート官僚組織が天子の意向を何よりも尊重し、且つ、天子に絶対の恩義を感ずる仕組みが確立した。
 宋の中央政府は、民政、軍政、財政を、それぞれ、中書門下省、枢密院、三司に担任させた。
 中門下省の長官たる宰相は複数名。しかもその下の参知政事の権限が宰相とあまり違わない。集団指導制にして同僚同士を牽制させた。
 ※江戸幕府の老中制度と似る。
 人の言と行に注目する言行録のスタイルの嚆矢は、「論語」と「史記」。
 黄巣の乱の当時、文官出身の節度使の無能ぶりが露呈した。唐朝への忠誠心のうすい土豪から成りあがった武人節度使がしぜん台頭した。
 曹彬[そうひん]。1歳の誕生日に、親がおもちゃを多種ならべて選ばせてみたところ、左手にほこを取り、右手に祭祀の器具をとり、さらに宰相の印をとり、他の玩具には見向きもしなかった。
 ※子連れ狼。
 呂蒙正は、地方の下僚に面談したときは得意分野について訊ね、相手が退出したあとに手帳に控えた。また、ある役人について数人の者が褒めたならば、その役人は有能の者なのだと考えた。こうして平時から人材のデータベースを整備しておいたので、突発事態に適材抜擢が必要になったとき、すぐに選び出すことができた。
 役所が毎日政務を天子に報告し、天子がいちいち裁可を与えるという慣行が宋朝で確立して以後、シナの天子にはあまり愚かな者は出なくなった。
 公事はすなわち公言す。宰相が天子に対して1対1の密談などはしかけないものだ。
 杜衍が門生をさとす。かけだしの役人は、上司に迎合して、「良二千石」の与えられる地位を目指せ。高い地位まで上ったあとなら、自分流にしてもいいだろう。
 ※徳富蘇峰が中曽根康弘に説教したというのはこういう話か。
 一網打尽という成語は、杜衍がパージされたときに政敵がうそぶいた。
 「大軍ひとたび動くは、万命の懸かるところなり」「このときにあたりて、勝敗を度外に置き難し」(范仲淹)vs.「事の是非いかんを顧みるのみ。成敗に至りては天也。」(韓琦)
 かつて韓非子は、君主は賞罰の権を重臣に委ねては危険だと警告した。宋代では、この君主が宰相になった。官僚制度が整ったので。
 太原は宋代でも貧しい地方で、住民は角弓ではなく木弓を使っていた。
 宋代、契丹は南宋のことを外交文書で「南朝」と呼んだ。対して宋朝は自国のことを「中國」と呼び、契丹のことは「北朝」と呼んだ。
 欧陽修は『新唐書』や『新五代史』を編み、国家意識をつよく打ち出した。
 君子は道を同じくするをもって朋となし、小人は利を同じくするをもって朋となす。
 寛なる政治とは、苛急をしないことであって、甘やかすことではない。
 簡なる政治とは、繁砕を求めないことであって、制度を弛廃させることではない。
 宋朝の○○軍というのは、部隊ではなく、州や府とならぶ地方の行政区画。
 王安石が登場したとき、宋朝の軍事費は国家総予算の8割に達していた。ほとんどが余計な人件費。そこで、専任のプロ軍隊ではなく、辺境の農民を民兵に組織せんとした。保甲法。
 「祖宗之法は、変えるべからず」と言ったのは司馬光。
▼高木惣吉『日本の運命――軍事地理学的に見た東亞』港出版合作社 S25-12pub.
 これを書いた家は茅ヶ崎。擱筆した日付は1950-10-20。
 セント・ジョーヂいわく。人間最高の仕事は、おのれ自ら生み出した妖龍怪獣を屠るにあり。
 1947の本でJ・Burnhamいわく。第三次世界大戦は、1944にギリシャ共産党が扇動して水兵が、英国地中海艦隊司令官に叛乱したとき、もう始まっている、と。
 ソ連はWWII後に平時体制にもどさず、ひきつづき第四次五ヵ年計画を進め、民生品を製造させずに武器弾薬を製造させ、徴兵を復員させずに世界制覇に乗り出している。
 極東海域の島をぜんぶ数えれば1億6000余万もある。
 コムソモリスクでは潜水艦も建造している。
 カムチャツカ半島のアヴァチンスカヤ湾にあるペトロパウロウスク港は、厳寒の年を除いて結氷しない。
 水深10m~24mの泊地は17平方マイル。重巡でも60隻以上、収容できる。
 同湾内のタリンスカヤ泊地は、風が吹き込まないので、潜水艦が1~2隻、利用する。
 この地方は5~8月は南風。9月から北風となる。10~4月は暴風。しかし南東海岸のため、湾内には風が来ない。
 霧は5~8月。南風にともなって生ずる。したがって冬は生じない。
 千島の松輪島にかつて陸上飛行基地があった。
 宗谷岬とノシャップ岬のあいだの沿岸は、上陸作戦向き。ロシアからみれば、美幌は無理でもオホーツク沿岸は北見ぐらいまで制圧したい。
 1806~07年、ロシアは、樺太、択捉、国後、利尻島に相次いで侵入した。利尻島はロシア海軍により一時占領された。
 日本にとり運がよかったのは、ロシアからみて、衰微した清国の辺境の方が、はるかに好餌だと映った。
 日本海の最広部は、能登半島東岸の七尾→ウラジオで、410カイリ。日露戦争中の巡洋艦はこの距離を走るのに1昼夜を要した。
 ウラジオは1月~3月、凍結。砕氷船を使えば不自由はない。
 1861、ロシア軍艦は対馬に6ヶ月居座った。
 1884、ロシアは永興湾(元山)を海軍根拠地にしようと狙った。英国極東艦隊の示威により退散。
 1886、露軍艦はしばしば対馬近海を測量して占領計画をほのめかした。
 1889、ロシア公使ウェーベルは、元山と絶影島(釜山港外にある。牧の島)に貯炭場を置くことを要求した。イギリスが威圧し、撤回。
 日露戦争前、露極東艦隊は、冬営泊地として南鮮の鎮海湾を利用したことがあった。
 横須賀が佐世保より軍港としてすぐれているのは、広さ、水面防禦の容易さ、訓練地域が近くに得られること。
 間宮海峡のいちばん狭いところは可航幅が2海里弱しかない。しかも直線ではない。霧、風、雪に悩まされる。
 対馬の東水道の可航幅も、狭いところは25海里。
 東海とは、東シナ海のことである(p.20)。
 東海には、黄海や渤海を含めることもある(p.27)。
 釜山は、大船の横付繋留ができる。
 対馬の浅海[あそう]湾は幕末いらいたびたび英露が注目した。
 しかし対馬には飛行場の適地がない。それは済州島にあり、そのため沖縄の次に米軍が上陸してくるのではないかと懸念した。
 1885-4に英海軍が巨文島を占領した。ロシアが反対して失敗。
 1890に英海軍大佐が私見を公表。英国が極東でロシアと開戦した場合、日本は局外中立するので英軍艦は石炭を香港やルーバン島から補給しなければならず、修理もまたそこでするしかない。これでは大不便だから、日本政府に交渉して対馬を貰い、そこに修船ドックと貯炭場を整備すべきである、と。
 北鮮の飛行場としては、咸興、永興、元山、平壌、温井里。
 今日、航続距離の短いF-80/84/86 等の「噴射式戦闘機」でも、北九州から740kmの平壌まで往復できる。だから飛行場を造成できない対馬は軍港の候補地としても価値が下がった。
 半島勢力が日本の助けなしに大陸に勢力を広げた唯一のケースが、高句麗の200年間。
 露帝ニコライ2世は、世界平和会議をM31に提唱しつつ、極東シベリア狙撃大隊を輸送船サラトワから3-29に旅順に上陸させ、要塞根拠地化工事を始めた。
 S19-5に大本営は、沖縄本島に4、宮古島に3、伊江島に3ヵ所の陸上飛行場建設を計画した。
 勝連半島北側の金武[チム]湾は、険礁が散在し、錨地として狭い。
 沖縄の梅雨は5月下旬から6月下旬。
 馬琴の『弓張月』には南西諸島の台風がヤケに詳しく書かれている。おそらく、清国の気象学書を参考にしたのだろう(p.35)。
 米軍から見ると、1、2発の原爆で機能を喪失する孤島は、今日もはや真の基地と銘打つ資格はない。沖縄やグァムでもだめ。結論は、日本列島と比島を基地化すること(p.38)。
 ブルネイから100海里離れたところにミリ油田がある。
 ブルネイの乾季は2~5月と、8~10月。乾季には暑熱が特にきびしい。
 米軍として日本に反攻するには、ハワイ、サモア、フィジーから豪州に連絡する輸送路が合理的な主軸なので、その中間(ニューヘブリディスと豪州のあいだ)に楔入しているソロモン方面の日本軍拠点から片付けようとかかってくるであろうことは、海図とコムパスだけによっても察することができた。
 すべては輸送力。インドの英軍も、蒋軍も、この米軍の輸送力に依存して作戦するしかなかった。
 B-29の巡航速力を500km/時とした場合、横須賀、沖縄、レイテには4時間半、門司、マニラには5時間強で達する。
 台湾海峡は、9月下旬から北東信風が始まり、10月から1月にかけて強風化する。天候は曇りか雨。
 3月に風が和らぐ。だから秋から3月までは侵略しにくい。
 南西信風は4月下旬から9月初旬。強さのピークは7月。天候は天または曇りが多い。
 結論。大陸側から台湾を侵略するなら9月が適する。
 台湾の西海岸は遠浅が多い。上陸適地は、北岸の三貂角~富貴角。および、安平港より南側。
 宮崎市定いわく、シナでは安邑に近い解州に鹽池があった。この産塩と黄河屈曲部が貿易を栄えさせた。
 北陸海岸に多数の浮流機雷が漂着した。これはウラジオ付近にソ連海軍が敷設した繋維機雷の索が切れたもの(p.75)。
 大和族が隠岐、対馬、壱岐を占領してしまうと、出雲族は、半島との海上連絡を遮断され、弱まった(pp.75-6)。
 神功皇后が日本海沿岸ルートで北九州に前進したのは、その海岸には新羅と交通していた地方勢力があり、それらを背かせないため(p.81)。
 白村江は、錦江河口の群山沖にあり。敵指揮官は、唐将の劉仁軌。
 文永、弘安の役で元軍+高麗軍が出帆したのは、南鮮の馬山浦。江南軍は、杭州湾から無帰港で志賀島まで押し寄せた。
 文永の役は11月。なので大陸性の旋風。弘安の役は6~7月。なので熱帯性低気圧。
 秀吉の征韓軍は、釜山と安骨浦(熊川)に上陸した。
 日清戦争では、日本軍の本隊が仁川、支隊が釜山と永興湾内の元山に上陸した。半島戦局が進捗するや、第二軍は仁川を中継地として遼東の花園口へ海路運ばれた。
 日露戦争では黒木第一軍が大同江口の鎮南浦、奧第二軍は遼東の塩大澳、乃木第三軍主力は大連、川村独立第十師団(のち野津第四軍)は大孤山にそれぞれ上陸。
 カルタゴは本国面積は狭い。が、地中海いたるところに海港を確保。それを通商の基地としたネットワーク国家であった。海港を拠点に、その後背地を経済的に支配せんとした。セム系人種=フェニキア人。
 カルタゴ時代のシチリアはすでに人口100万。島の西半分で栽培される穀物の十分の一を収税していた。島の東半分にはギリシャ人が暮らしていた。
 カルタゴと違い、ローマは征服した相手に献金を命じない。そのかわり、兵力を提供させた。その義務の代償として、自治政府を許した。
 つまりローマの支配は軍事的には酷なのだが、政治的には明るい。
 シチリア島の東北端がメッシナ海峡。ここをカルタゴに支配させたままではローマの海上の自由はなくなる。
 そこでB.C.264に、三段橈船と小舟艇で夜間機動して上陸。メッシナを占領した。これがポエニ戦争の始まり。
 シチリア全島の制圧は手間取った。カルタゴとの海上交通を完全に遮断するまでは実現しなかった。
 イスパニアには銀が出た。それを使えば蛮族を傭兵化できる。
 ローマはシチリア征服以後、支配方針を転換。直轄のプロヴァンチア(属州)からは税金を集めることにした。
 1885にフランス艦隊は、清国の条約違反を理由として台湾と福建を攻撃。揚子江を封鎖した。しかしイギリスが妨害。99年に、広州湾を租借して矛をおさめた。
 日清戦争の当初プラン。清国軍を半島北部に圧迫。それをエサとして清国艦隊を誘致して、海上決戦。それに買ったら渤海湾に第五師団を直航上陸させて直隷平野で陸上決戦。
 清国側プラン。大同江口に増援を海送し、平壌を陸軍の主基地として、日本軍を南方へ逐次に圧迫する。海軍の主基地は威海衛。
 丁汝昌は騎兵出身。しかも上官の李鴻章から細事まで干渉された。
 黄海海戦まで、日本艦隊の基地は、巨文島の北30海里の長直路と、木浦の西20海里の八口浦。
 文禄・慶長の役では、日本艦隊は、半島南岸よりも上には廻らず。
 対露開戦時の日本のプラン。ロシアより早く韓国を占領する。制海権に不安が残った場合は1コDをとにかく渡して京城[ソウル]だけは占領する。
 満州では遼陽に向かって攻め上る。
 支作戦として、羅津に上陸させた1個師団(独立第八師団)をウスリー方面へ機動させ、敵を牽制す。
 朝鮮を占領するのが第一軍(近衛、第2、第12D)。
 満州で作戦するのが第二軍(第9、第10、第11D)。大孤山から上陸。
 連合艦隊の通信基地は、八口浦に設置された。
 ロシア側のプラン。南ウスリー支隊をラズドーリノエとポジェットの間に配置する。
 ウスリー支隊は、南ウスリー沿岸に上陸する日本軍に対して沿海州を掩護し、ウラジオ要塞の機動予備軍となる。
 対露戦では、陸軍は広島(宇品)を「策源地」とし、海軍は佐世保を策源地とした(p.137)。※陸軍は「策源」という。策源「地」と呼ぶのは海軍流。
 満州の交通結節点はハルビン。
 1935にイタリアがエチオピアを支配せんとしたとき、英海軍は干渉できなかった。イタリア空軍が軍艦の脅威だったので。
 支那事変の初盤、日本海軍の航空隊はまず済州島に前進し、戦場が武漢に移ると、その支援のために台北に展開した。96陸攻でも、台北から長沙や広東まで往復爆撃できた。
 対米戦では、わが陸軍は、南方の最重要基地を、シンガポール→マニラ→サイゴンと移した。
 海軍のほうは、トラック諸島→パラオ→瀬戸内海と後退させた。
 日本海軍は、1942~43に、ソロモン諸島の島々に秘密裡にレーダー監視哨を設けた。おかげで、ガ島の米軍機によってラバウル基地が奇襲されることはなかった。
 しかしその監視哨を置いた島が次々と占領されてしまった。
 ラバウルにはトータル15万mの地下坑道が掘られていた。最後は陸海10万人がそこで空しく遊兵化した。
 トラック、パラオ、サイパンが米機動艦隊から奇襲されたのは、レーダー哨戒網を設ける時間と場所がなかったせいである(p.173)。だから通信解析だけを敵情洞察の頼りとしていた。
 香港、シンガポール、ラングーン、マニラ、サイゴン、バタヴィア、スラバヤを占領した陸軍は、それらをネットワーク化するつもりが毛頭なかった。それらは旧宗主国が違うために、もともと孤立経済系である。それをそのまま別個独立の指揮系統に委ね、相互になにひとつ融通しようとしなかった。
 海軍は、ボルネオ、セレベス、モルッカ、ニューギニアの基地を分担占領した。
 大本営は、同時に4方向に作戦させ、資源を遠心的に消尽させた。すなわちシナ大陸、インドシナからビルマ、マレーとスマトラ、フィリピンからジャヴァ。この陸軍の4軸と、ビスマルク諸島~ソロモン諸島の海軍の軸。
 対する米海軍はハワイを起点にしてマーシャル、カロリン、ニューヘブリディスに出てきた。
 米陸軍は、豪州東岸を起点にして、ニューギニアから比島へ。
 この2軸は、進むにつれて共闘的となる。レイテで集中合撃。
 1944-10にレイテ決戦を呼号したとき、ビルマ~シンガポールの第七方面軍や、セレベスの第二方面軍は、遊兵でしかなかった。マニラの第十四方面軍が、単独で米軍に対した。
 ナポレオンは1800イタリア戦役と、1805ウルム会戦では、敵軍の右に機動した。
 隋の煬帝が612年に半島を攻めたとき、遼西から進んだ陸軍は補給が尽きて自滅したが、水軍は【サンズイに貝】水=大同江から遡航して平壌近くまで迫るを得た。
 唐の太宗は645年にまたも陸から攻めて失敗。
 高宗は660年に水軍を送って成功。陸戦は新羅軍に負担させて、海上で日本軍を排除して、ついに百済を滅ぼした。
 1189に頼朝が泰衡を討ったとき、支隊(比企&宇佐美)は、高崎→信濃→越後→羽前のコースで北上。
 上野[こうづけ]国府は前橋市の西郊にあった。
 進駐軍が東京湾地区に進駐するに先立ち、日本軍を所在させてはならない地域が指定された。それは、時計回りに、千葉市-天津-野島崎-新島-石室崎-大月-八王子-川崎 を包摂するエリア。
 シャーウッド著『ルーズヴェルトとホプキンス』によれば、もし独軍がジブラルタルを占領したときは、英軍はカナリア諸島を占領し、アメリカ軍はアゾレス諸島を基地化しようと相談していた。
 地理と陸戦の関係を論じた古典としては、仏人Sironiの1876本、De Marga の1880本、英人Maguireの1899本、MacDonnellの1911本がある(p.161)。
 クラウゼヴィッツの論文中にでてくる Operationbasis を高木は「策源地」と訳す。Verbindungslinienは交通路、Gegend und Boden は地形、Uberhohenは瞰制、Schlusselは鎖鑰。
 横須賀~釜山の航路は640海里。輸送船だと2昼夜かかる。輸送機で直行すれば3時間かからぬ。
 サンディエゴ~釜山の航路は6200海里。船団速力14ノットなら、積載卸下に2週間かかるので、現役師団を即時乗船出発させたとしても、33日後でないと増援できない。
 じっさいにはどうしたか。開戦6日後の7月1日に、九州駐屯の第24師団から歩兵1個大隊が空輸された。6日間は準備や集結に費やされたわけだ。
 14日後の7-9に第二次増援。
 24日後の7-19に第一騎兵師団の浦賀上陸。
 36日後の8-2に、米本国からの海兵第一師団と陸軍第五戦闘団が来着。
 38度線から釜山までは540kmなので、北鮮軍は1日に14km南下できれば、40日で到達できると、敵は計算したのだろう。
 近年の新聞報道の「軍事基地」は、ミリタリー・ベースの訳語だろう。
 「古くは策源地(策源)、根據地(作戦根據)、戦略要點(戦略點)などの術語が區別して用いられた時代もあつた」(p.166)。
 メッケルの『基本戦術』には、鎖鑰點という術語が出る。
 策源地とは、かつての横須賀や宇品である。
 根拠地とは、策源地と作戦目標との中間にある陣地や港湾。日露戦争当時の旅順、ウラジオ、鴨緑江はそれに当たる。
 西欧では、ライン川、ムーズ河、モゼル河は、作戦根拠地によくなる。
 インド海岸のポルトガル領としては、ヂウ、ダマン、ゴア。フランス領としては、マエ、カリカル、ポンヂシエリ、ヤナオン基地群。
 英国の基地群(アデン、バーレーン、ツリンコマリー、マドラス、カルカッタ、ペナン)はそれらを包囲している。
 マジノ線は確かに線だった。しかしジークフリート線は、幅60km以上の帯。
 日本軍は、比島に47ヵ所あったゲリラ地区を、最後まで戡定し得なかった。そのため比島は最後まで、日本にとっての安全な「基地」にはならなかった。
 スイスとスウェーデンの大きな違い。
 スイスは、いくら中立を標榜していても、欧州全域戦争になったとき、国境を接する独・仏・伊・墺より以外の外国と経済的に交通することがほとんど難い。
 スウェーデンは海を持っているから、理論上は、世界中と交易し続けられる。
 ネルソンは、コルシカ島の陸戦で仏軍の炸裂砲弾のために右目を失い、カナリア諸島のテネリフ島攻めでは上陸作戦中にやはりスペイン軍砲兵の榴弾のために右腕(肘から下)を失った。
 18世紀末、コルシカのパオリ一家は、フランス革命政府に叛旗をひるがえし、英国地中海艦隊長官のフードに救援を求めた。そこでネルソンが派遣された。
 1794、ネルソンは艦砲16門を山頂まで運んで在島の仏軍を砲撃させた。
 1797、英艦隊長官ヂァーヴィスは、ネルソンに9艦をあずけてテネリフを攻略させた。それまで延々とカヂス港を封鎖していたため乗員が倦み疲れ、叛乱を起こす気色だったので、気分転換をさせたもの。
 右腕は艦上で手術切断され、それから本国へ。トラファルガーでの戦死は1805である。
 タラワでは米海兵隊は戦没762名、行方不明169。
 1866年、イタリアは、普墺戦争に乗じてオーストリーを南から挟撃し、ヴェニスを回復しようと図った。
 アドリア海からオーストリー艦隊を駆逐せよとの命をこうむったベルサノ提督は愚将で、攻撃精神に欠け、オーストリー艦隊を撃滅する前に、リッサ島の陸上砲台と緩慢な砲戦を続けた。しかも麾下艦隊を3ヵ所へ分散した。
 そのため攻撃精神を有するテゲトフ提督の墺艦隊のために簡単に撃破された。墺政府はむしろ攻撃を控制していたのだが。
 今の日本の鉄道の「トキ15000」型貨車。30トン荷重の新貨車である。これを120両編成とすれば、一列車で900トン積載できる。
 ところが貨物船は、航洋中型の5000トン級であっても、その9倍量を1隻で運搬してしまうのだ。
 今、ソ連軍が満州と東部シベリアに4900機の軍用機を展開したとしよう。それで朝鮮を守る米空軍の1500機に勝てるかといえば、難しいのだ。
 理由は、消耗した飛行機の穴埋め補給、そして燃料の輸送が、ソ連側にはネックになるから(p.190)。
 ソ連は1日に30列車を半島へ送り込むことはできない。30列車を、ぜんぶ貨車編成として送り出しても、月額輸送量は120万トンを越えぬ。
 これに対して米本土西海岸から半島に1ヵ月に120万トンを送り届けるためには、船腹90万トンで足りる。稼働率90%として。
 もし200万トンの船腹を稼働率80%で運用すれば、月に230万トンを補給できる。つまり陸上最大輸送力の2倍。
 この仮定値は、WWII中の米軍の実行値に基づいているので、現実的。
 米軍が仁川と大田に上陸したのは83日後。しかしそれより早く、日本海側の浦項に、24日後に上陸している。
 釜山には、14日後と36日後に増援を送り込んでいる。
 テヘラン会談のとき、マーシャル参謀総長は、カウンターパートのウォロシーロフ元帥に語った。渡河作戦は、失敗したらやり直せる。しかし上陸作戦は、一度失敗したらそれが最後である。
 マーシャルがWWIで学んだことは、道路、河川、鉄道の実際。ところがWWIIでは、海上輸送について一から学ぶ必要があった、と(p.193)。出典は『ルーズヴェルトとホプキンス』。
 1914年8月、ドイツはラーテナウの提唱によって陸軍省内に戦時原料課を設け、国内生産のあらゆる原料と占領地にある物資の管理、外国からの原料輸入、軍需工業と平和産業への配給、価格の統制当にあたらしめた。
 日本はこのドイツに倣って1937-1から輸入為替を管理し、その8月には事業資金を統制し、9月には軍需工業動員法を制定した。
 ※貴重な外貨(ドルやポンドやgold)はすべて工作機械や石油、航空機サンプル等の輸入に優先的に回され、不要不急で内製も可能なモノ、たとえば応召将校用の外国製拳銃などには、外貨を使うことが許されなくなった次第である。これが「統制経済」。
 日本の石炭生産は、昭和17年を100とすると、昭和20年には39に落ち込んだ。
 高木は、大阪経済圏の方が、戦後の日本の貿易物流では首位を占めるだろうと予想した(p.200)。理由は、東京湾にはソ連の潜水艦が北方から簡単に接近できるから。
 「戦略の前駆として地方選挙あり」(pp.201-2)。共産軍は、なんの下地もできていない土地にいきなり着上陸することはない。
 舞鶴も佐世保も鉄道運輸が不便でよくない。しかし鉄道アクセスが劇的に改善されれば、大陸・半島から取り寄せる物資のうち、名古屋伊東への物資は敦賀から、近畿地方向けは舞鶴から、搬入することが合理的だ。
 1913年に帝政ロシア内には200万人のドイツ人がいた。
 釜山から油谷湾または博多湾までは213km、対馬の浅海湾までなら93kmである。14ノットの船団を日没後に釜山から発航させれば、敵部隊は、8時間後のまだ暗いうちに、福岡あるいは阿川に上陸開始できる。
 浅海までなら4時間航程。
 対馬海峡では、おおむね4月から10月まで、北ないし北東からの風が多い。
 6月、7月、8月には、南西風が吹くこともあるが、その平均風速は2m余で弱い。
 9月、10月には、北ないし北東の風に変わり、雨量は減るが風力は強まる。
 11月から翌年3月まで、北北西の強風が連日、吹き荒れる。北九州陸岸の波浪は、上陸作業には不便となる。
 霧は、3月~7月、北寄りの風とともに発生する。
 宗谷海峡および手塩沿岸は、比較的、霧は少ない。
 樺太の南岸は、6~8月、ほとんど間断なく霧が生じては消える。
 北海道の西岸では、利尻水道、奥尻海峡付近に霧は多く発生する。
 北海道近海の季節風は、9月、10月頃から北寄りの風に変わり、翌年2月までは北風が連吹する。暴風は11月から翌春にかけて多い。雨雪量は、11月~3月が著しく多い。
 結論として、ソ連軍が北海道に上陸するなら6月から8月の間。第五列に対する武器弾薬補給も、この期間にこっそり実行するのが楽である。
 1940-4、7個師団の独軍は大挙してデンマークを占領し、スカゲラック海峡を跳り越えてノルウェーに対する電撃的上陸作戦を敢行。
 これは無理だと思われていた。優勢な英海軍が監視していたから。
 じっさい、独軍の支援重巡1隻、軽巡2隻、駆逐艦10隻、潜水艦8隻が沈められている。
 だが、バルト海の出口を完全に押さえることで、将来、ソ連海軍が何もすることはできなくなる。この意味はとても大きい。
 かつまた、英国の対独海上封鎖が事実上、破綻した。
 だから、英政府は、アメリカによびかけて、グリーンランドとアイスランドに進駐し、封鎖の穴を埋めなくてはならなくなった。
 勝敗の決め手は、スカゲラック海峡上空までの、戦闘機の往復距離の差だった。独軍の単発単座戦闘機はデンマーク基地から発進し、悠々とその上空を制圧することができた。が、英本土基地の単発単座戦闘機は、航続距離が足りず、同海峡にはエアカバーをさしかけられなかった。これを解説してくれたのは、1942年A・セヴァスキー著の『Victory Through Air Power』である。
 中共の成立にはじつは西欧が関係している。西欧諸国は、WWII後の米国の支援資源が、できるだけ欧州だけに注がれるように外交した。そのためアジアには隙が出来、共産勢力が拡張したのである。
 高木が参考にした資料に、シー・デー・ヨング著、海軍教育本部tr.『英国海軍史』水交社pub.あり。また、カスパリー著、陸軍経理学校研究部tr.『経済戦略と戦争指導』あり。
▼田原総一郎『ドキュメント東京電力』文春文庫新装版2011
 ※1986の文春文庫『ドキュメント東京電力企画室』の改題。
 東電の創業経営者の木川田一隆は、通産官僚に主導権を奪われぬために原発導入に踏み切った。
 1953-2のアイク発言に、35歳の国会議員・中曽根康弘が最初に反応し、原子力開発予算2億3500万円を引き出した。
 アメリカに完成型軽水炉があった。日本人はそれ(GE型とウェスティングハウス型)をひたすら学ぶだけだった。米国製の完成品なのだから、最初からもう安全であり安心であると思い込んだ。米原子力委員会の「10年以内に石油よりも安くなる」も鵜呑みにした。
 西ドイツはそうではなかった。自前の原子炉方式を考究し、ついに「ビブリス型」を完成している。
 著者による新装版まえがき。すくなからぬ原発専門家たちには、フクイチの建屋内の気圧が8倍に高まったということは、格納容器か、その内側の圧力容器に異常が起きたのであると理解できていた。だが政府も東電もそれに全く触れなかった。隠蔽したと非難されても抗弁はできないはずである(p.9)。
 電源開発とは、戦前の統制会社であり、戦後は通産省の資産となって、民間電力陣営内に砦をキープしている。
 明治生まれの産業人や知事経験者は、戦前から変わらぬ戦後の無責任官僚どもに原発などを仕切らせたらとても危険であると直感できた。
 1979に通産省は、1989時点で成長率5%を維持しているためには、逆算して日本国にエネルギーはどれだけ必要か、を試算し、「暫定見通し」と称した。
 1980年度の電力会社全体の設備投資額は3兆7155億円。比較して、自動車産業は、8770億円。ケタ違い。
 1980年の私企業の資本金のナンバー1が東電、二番が新日鐵、三番が関西電力、四番が中部電力、五番が東北電力。八番が中国電力、九番が九州電力。
 これでは、官僚も含めて、誰も電力様には逆らえない。
 電力を国家の支配下におく電力国管法は、1935ナチスのエネルギー事業法のコピー。逓信省の革新官僚だった奥村喜和男と大和田悌二が旗をふった。
 豊富で低廉な電力を円滑に供給するには国家統制しかない――というレトリックもナチスの宣伝文句をそのまま輸入したもの。
 電燈会社は、M14には738社もあった。
 大14当時、法令で、他社の電柱が立っている地域には、別の電燈会社は割り込めないことにされていた。
 大正8年にブラッセルの国際商事委員会に出席した松永安左エ門は、WWI講和会議の全権西園寺の随員、近衛文麿と意気投合。帰国前に2人でロンドンに滞在してそれぞれ高級娼婦を買った。ところが近衛は何度目かに、しらじらしい嘘をついて相手の女をすっぽかし、他の娼宅へ行った。これは欧州では貴族がしてはいけないことの一つだった。このときから松永は近衛を信用せず、近づかぬように気をつけたと。
 S13成立の電力国管法によって、電力会社は配電だけを担任。発電所と主要な送電網は、すべてひとつの国策会社「日本発送電」(S14発足。略して日発)が吸収。
 ところが役人は石炭を事前に確保しておくという心得もなかった。結果、各地で停電騒ぎが頻発したが、役人側には国家総動員法があるから、電力が足りないと騒ぐ事業者には、逆に電力消費量規制を割り当てて黙らせた。
 敗戦後のUSSBS調査報告の指摘。日本は戦時中、なぜか水力電源をほとんど開発していない、と。役人は、民営時代の半分のペースでしか、電源を開発できなかった。
 GHQの「ポツダム政令」により、日発は解体された。そこから、9つの電力会社が新生。S26-5-1のこと。
 江別の火力発電所などは、再軍備を防ぐ意味で賠償施設に指定され、撤去されるはずであった。S21-11来日のボーレー調査団。
 しかしS23-6にソ連がベルリンを封鎖した頃から風向きが変わった。
 財閥こそ解体されたが、その次の金融解体はうやむやに。
 火力発電所も結局ひとつも撤去されずに済んだ。
 松永と、その腹心の木川田が熱心にGHQに運動して、官僚・政府・野党を黙らせた。有力GHQ顧問を動かし、一年生議員の池田勇人を通産大臣に就任させ、一挙に9電力体制を実現。
 政治家たちが皆、電力の民営に反対していたのは、日発から袖の下接待をされていたためだろう。
 炭労とならんで強力であった労組「電産」を弱めることもGHQの課題であった。日発を解体すれば、電産の生命力もなくなるのだ。1952に事実上、消滅。
 しかし日発も、大野伴睦を動かして1952-9に「電源開発株式会社」を再生させた。逆襲だ。
 木川田は戦中、小林一三の秘書だった。元商工大臣ながら電力国管に反対する小林に、政府は憲兵を使って嫌がらせを続けた。それを見ていた。一、二年でポストが変わる無責任な役人が、統制指導と暴力装置とで産業経済人の精神活動を思うままに縛り上げようとするビヘイビアを、木川田は憎悪した。
 1962年には石炭に対する石油のコスト上の優位性が疑いもなくなっていた。しかも石油は無尽蔵にあると信じられた。
 9電力は、1957に「日本原子力発電」を設立し、そこがイギリスからコールダーホール型原発を導入せんとした。
 米国は降伏直後のドイツにも日本にも、核武装研究関連の実態を調べて資材を接収または破壊する専任のチームを即座に送り込んでいる。「オペレーション・ハーバレッジ」と称した。
 アイクが米国独占だった核情報の部分開放を決意したのは、ソ連が1953-8-12に水爆実験したから。だったら西側友邦も巻き込んでソ連に対抗しよう、と舵を切った。
 ほとんど同時に日本の政権党である自由党内から、核兵器と原発を研究開発する科学技術庁を創設せよという声が上がった。
 東電の社長室に原子力発電課が新設されたのは、1955-11-1。
 9電力は、正力とタッグを組んだ。
 河野一郎は、売り先に悩んでいた鮭・鱒の缶詰をイギリスに買わせ、資金源である漁業界をよろこばせ、代わりに、コールダーホールを買うと決めた。
 コールダーホールの受け皿が、日本原子力発電。そこには電源開発も20%出資する。それで河野の顔も立つ。
 木川田一隆は、福島県梁川町の医師の息子。
 東電は明治30年代からGE製の火力発電機材を導入していた。そのGEが軽水炉を完成したというので、木川田も前向きになった。
 通産省は、日本原子力発電を特殊法人化して、官僚の牙城に変え、そこで米国製の軽水炉を仕切れるように仕向けたかった。
 関西電力の芦原義重社長は、ウエスティングハウス社製の軽水炉導入で話をつけた。こうした素早い決定によって民間電力は、通産役人の非望を封じ込めた。
 1975年度、通産官僚は石油会社には43人もが役員として天下ったが、電力会社には合計8人、しかも、社長になったのは、北海道電力の岡松成太郎(元次官)のみ(p.104)。
 1966から1974にかけて、公開されている政治献金額をくらべると、一位が銀行、二位が鉄鋼、三位が電力。
 柏崎原発は、当初、自衛隊の施設科を誘致するという風聞を流しておいて、刈羽村の村長(越山会に所属)が土地を買占め、そののち原発用地に供された。土地は何度か転がされ、生じた巨利は田中角栄に貢がれたのだと人々は想像した。
 まず関西電力の美浜の電気が、1970-8-8の大阪万博会場へ給電された。東電の福島原発の運開よりも7ヶ月早かった。
 西ドイツはウエスティングハウスの軽水炉で学んだあと、独自技術の加圧水型原発を完成し、オランダ、スイス、オーストリア、イランへの売り込みに成功した。
 役人側の言い分。民間電力が、政府資金の投入を嫌ったのだ。そして米国型原発は完成品の輸入であり、研究も開発も必要ないと言い張ったのだ。ならば西ドイツ並に国費を投ずる名分もなかったわけである。
 もちろん民間も研究や開発をしたかったのは山々。だがそこに国費を導入したが最後、かならずや役人に電力を支配されて、戦前の暗黒の統制経済に逆戻りしてしまうはずだ。それは共産主義と同じなのだ。
 田中角栄が通産大臣だったとき、大臣室に冷房はなかった。だから扇子。
 フランス留学四年の両角良彦が次官として「資源エネルギー庁」の構想をつくり、角栄が実現した。両角は、角栄のエネルギー政策のアドバイザーになった。
 1973にニクソンがやっと気付いた。中東のナショナリズムは、米国経済の危機をもたらすと。
 そこで通産省も試算した。マルコフ過程式を用いると、中東原油が半年、輸入できなくなれば、日本人の半数の5000万人は死線をさまようだろう、と。
 内務大臣も務めた大物官僚・後藤文夫は巣鴨プリズン内で原発について知った。1948-12-24に出所。出迎えた橋本清之助に、いきなりその話をした。
 丸の内三菱村とよばれていた赤煉瓦ビル街にある「昭和研究会」は後藤文夫が中心だった。
 橋本は、エネルギー大政翼賛会をつくろうと考えた。
 しかし木川田は醒めていた。たとえば和製の石油メジャーという官側の思いつきにも反対した。メジャーのエクソンには1000人以上の地質探査エンジニアが雇われている。1社でだ。それに対して日本は僅々数十人の地質探査エンジニアで「和製メジャー」をこねあげるという。役人は夢想するばかりで現場感覚がゼロなのだ。
 両角と、資源エネルギー庁の官僚たちは、欧州各国と合弁で核燃料サイクルを構築することで米国依存を減じようと目論んだ。それがエネルギーの自立なのだという。
 が、1974-11-26に角栄が失脚して、チョン。
 『むつ』漂流は、責任の所在がはっきりしないお役所仕事の欠陥が露呈したもの。
 ウランを軽水炉の燃料として使用するには……。
 濃縮したウランは、ガス状の6弗化ウランである。それを燃料に加工する前に、二酸化ウランという粉末に転換する工程がある。これが「再転換」。
 三菱原子燃料だけが、濃縮ウランの再転換をしていた。
 しかし三菱は関電系(PWR)のメーカー。
 だから、東電=BWR系のメーカーの東芝と日立は、アメリカの業者に再転換を委託していた。(西日本では中国電力に1基のBWRがあったのみ。)
 そこで、日本ニユクリア・フユエル社を創るつもりだった。
 エイモリー・ロビンスは、1976に『フォーリン・アフェアーズ』誌にソフトパスの論文を発表。通産省はそれをパクって「ローカル・エネルギー・システム」と呼号した。再生可能のソフトエネルギーを総エネルギー消費の三分の一にまで増やす。
 岡本和人の試算。出力100万キロワットの石炭火力発電所は、稼働率が70%だとすれば、年間に200万トンの石炭を燃やす。そこから大気中へ放出される放射性物質は、ウラン238が13ミリキュリー、トリウム232が6ミリキュリー、ウラン235が0.6ミリキュリー。原発の約10倍だろう(pp.206-7)。
 1979時点でイランは世界の石油消費量の1割を生産していた。
 イラン革命直後の8月、通産省の御里が知れた。「石油多消費設備計画には政府が計画の変更を勧告できる権限を持ちたい。そして、電力、鉄鋼、紙パルプ、セメントなど各業界の新増設設備や既存設備の更新についても、これを適用したいと考えています」(志村嘉一郎『通産省エネルギー官僚の大陰謀』潮出版社)。まさしく戦中の産業統制と同じことを夢見だした。
 フランスでは原発所在地の住民の電気料金は、消費地よりも安くされている。
 第一次オイルショックのときは、OPECの生産量はちっとも落ちていなかった。西側先進国は、彼らの値上げ戦略にひっかかった。
 第二次オイルショックは、じっさいにイランの石油生産がストップしている。にもかかわらず、ホメイニ革命以後の5ヶ月弱の日本の原油輸入量は、前年同期より11.6%増えていた。
 オイル・ショックなど存在しなかった(p.233)。
 ショックの敗者は、実はメジャーズだけなのだ。第一次では大幅な値上げを呑まされた。第二次では、メジャーを通さない国際原油取引ルートが開拓されてしまった。日本も、産油国と直接取引するようになった。
 メジャーズにはそれがわかっており、意図的に、石油ショック、石油危機というデマを煽った。
 通産省は二度ともそれに便乗して、省の権力を拡張しようと図った。
 参考文献として、大谷健の『興亡』(産業能率大学出版部)が特に貴重だったという。■