強者に対する卑屈さ

 あまり関心がなかった山下奉文将軍の伝記を、福田和也氏の新刊で読んだ。
 以下雑感。
 高知県の杉村の大杉とは、拙著『日本の高塔』p.87に紹介した長岡郡大豊町のものと同一のものだろう。あれを調べた99年当時、高さ68m、さしわたし7mで日本一の杉だったが、これが山下将軍とゆかりがあったとは知らなんだ。
 山下のキャリアで最も興味深いのは2.26関連ではなくて、1940年7月から航空総監となり、同年12月にドイツに調査に行って、何を感じてきたかだ。
 シナ事変での海軍航空の万能ぶりをその目で見ているはずの山下は、「海軍主導の統一日本空軍」を是としていたのだろうか? それともあくまでドイツ流に、陸軍の補助兵科としての対地直協空軍しか考えていなかったか。そこが知りたい。
 これは防研に生史料も多いはずで、しかも兵頭が『日本海軍の爆弾』や『パールハーバーの真実』を書いていた頃には防研の所員が頻繁に読んでいる痕跡があったから、きっと防研の中の若手研究家が決定版を出してくれるに違いないと思って長年待っていたが、一向にそれが出てこない。
 海軍もこの調査団にはつきあった。それは陸軍主導の空軍構想を邪魔するためであったと思える。その抵抗はあっさりと成功し、WWIIを通じて陸海競合で、あまたの駄作機が研究され量産され、戦争資源がムダ使いされた。
 後智恵では、2式戦があれば雷電は要らず、疾風があれば紫電改は要らぬ。同様、海軍の艦爆があれば陸軍の軽爆など無用で、海軍の陸攻と陸軍の双発重爆も機種統一ができた。「統一空軍」の可能性は大きかった。
 ちなみに大西瀧次郎は、海軍主導の「空軍」構想を戦前から持っていて、シナ事変の陸戦サポートで大いにその実力を見せつけてやったものの、陸海の政治力の圧倒的な差から、最上層部に一度もまじめに検討してもらえずじまいだった。
 敗北の少し前になってようやく戦争指導部が本気になり、「軍需省」を創った。これが要するに「空軍省」のプロトタイプである。そして同省のもとに陸海の航空戦力は生産が一本化されるはず……だったのであるが、陸海軍の双頭制という明治憲法の遺制はここでも合理化努力を押しつぶし、大西は軍需省のナンバー2に甘んぜねばならず(ナンバー1は陸軍人)、終に何の見るべき成果も上がらなかったのである。
 果たして統制派ではなく皇道派の山下がどんな「空軍」を考えていたのか? 残念ながら福田氏の新著でも、それは分からぬ。
 乃木の殉死と山下の刑死を対比しようとすると、話はまとまりづらくなる。
 山下は刑死必至の情勢でなぜ自決を選べなかったのか。「出世レースをかちぬいてここまできた選民中の選民が、どうして自殺などせにゃならんのか」という主役意識であろう。エリートの陸幼組にはそれがあった。大将の次は首相が狙えたのだ。まして他の主役、たとえばライバルの東條が生きている間に、意地でも死ねたものではなかった。「東條ではなくオレに仕切らせてくれていたらこの戦争は負けなかったんだ」と口には出さなくとも陸幼出身の大将はみんな確信していた。そういう病人どもである。
 その東條は一度は位人臣をきわめていたから、満足してピストルの引き金を引けた(外れたが)。参謀総長にも陸相にもなっていない山下は、とうてい人生に未だあきたらなかったと思われる。
 欧米流の古典教養はエリートに何を与えるかというと、「世界はお前を中心に回ってないよ」という諭しである。「俺は所詮ギリシャ人を超えられないのだ」と、自己および現代世間を相対化し、限界を自覚しつつ生きることができて、はじめて世界史的な大事は成るのである。
 乃木には、日露戦争勃発の段階で、死に所は「大将」「軍司令官」ぐらいしか無いと読めていた。生きながら得ても首相はおろか、陸相にも絶対になれないのだと読めていた。それが彼を、天皇だけ見つめる「忠臣」にした。安藤大尉も年は若いがこの境地であった。
 本書で面白かったエピソードの一つは、徴用員としてシンガポールにいた井伏鱒二が、山下に「欠礼」をやらかして、「…無礼者。のそのそして、その態度は何だ」等とさんざん怒鳴られ叱られた、とのくだりだ。
 「のそのそ」というところが要マークである。のそのそしている奴を、軍隊では誰も同情しない。この感覚は、創設当時のフォードやクライスラーの工場ラインでも職工同士に共有されていた。なかなか現代のヒキコモリどもには説明をしても伝わらないところである。
 もうひとつは、敗戦後に収容所で日本兵捕虜が英軍将校から虐められたという話だ。あらためてこんな話を読めば、二度の大戦でのドイツ兵捕虜との違いを、厭でも考えずにいられなくなる。
 マッカーサーが東京市民をつくづくうちながめ、「日本人は勝者におもねる12歳のこども」と評したように、日本兵捕虜たちも勝者に対しては卑屈であった。それが、収容所の看守としてその卑屈さにつきあわねばならなかった英人の側にサディズムを誘発したのである。
 これをむずかしい言葉で説明すれば、日本人に「近代的自我」が無かったからである。
 小林源文氏がさいきん劇画を描いているのかどうか知らないのだが、彼には「近代的自我」があった。彼の劇画のインパクトはそこから来たものだ。これは、ナチ物でない世界を扱った作品で、より明瞭に確かめられると信ずる。
 豪州映画の『マッド・マックス』に日本のマンガ家がインパクトを受けたのも、じゃっかん20歳そこそこのメル・ギブソンの「近代的自我」に触れたからである。
 欧米人は近代的自我を有しているから、これらを見て特にショックを受けたり、作品世界を模倣しようとも思わない。
 これらにショックを受けて模倣しようとする日本人アーティストに近代的自我がない場合は、やはりその模倣はオリジナルに迫るインパクトを与えることができないのである。
 将軍山下は交換可能な将棋の駒にすぎず、シンガポール陥落が世界史的な大事件だったとしても、それを成し遂げたのは山下のキャラクターとはほとんど因果関係が無かったであろう。

遺族年金と遺族票と国民国家

 小泉総理大臣はシナに配慮して2005年元旦の靖国参拝を欠かしました。
 靖国神社は、維新前後は長州藩の団結の霊場であり、日清戦争前後は国民国家が攘夷の勝利を祈る場となったのでしたが、日露戦争後から陸海軍の私物宣伝施設のようになり、敗戦後は近代日本懺悔の場に変質させられつつあります。
 わたくしは何年も前から、靖国神社は近代的寺院(哀悼の場)ではなく近代的神社(国家のための個人の死を誓う場)であること、日清・日露戦争中に果たしていたその「場」の意義を重視すべきであり、敗戦記念日でしかない8月15日の靖国参拝は近代自由主義国民精神として大間違いであることを数度、力説して参りました。むしろ首相は元旦にこそ参拝するのが最も正しいのであると、複数の雑誌で主張したのです。
 そして以前、小泉総理はまさにそれを実行してくれました。
 あの調子のままであったなら、去年のようにシナになめられることはなくなっていたはずですが、なぜか小泉氏はここ一、二年、フラフラしているのです。
 ところでわたくしが、古来の日本の政治権力と社寺の関係、そして靖国問題を最も長々と論じておりますのは、『武道通信』vol.19 に掲載した「武士道と宗教と靖国」という一文です。この号は2002年10月の刊行(通信販売開始)でした。そしてそれ以後、わたくしはあまり紙媒体上でこれに関連しての発言の機会がありません。本人はもう「靖国問題は語りつくした」と思っているわけです。
 しかしながら『武道通信』は何を書きましても残念なことにほとんど日本国民の目に触れることがない媒体ですので、プロの評論家の方々も含め、大半の人は、兵頭二十八の社寺論も靖国論もご存知ないのだろうと思います。
 そこで、この機会に、ごく簡略に語り直してみようと思います。なお、このお話の参考資料や、いろいろな「出典」等に興味のある方は、『武道通信』十九の巻をご覧になれば判明しましょう。
 お守りで有名な成田山「新勝寺」は、平将門の乱を平定したことを記念して造営された寺院で、したがって「神田明神」とは仇関係にあることは興味深いと思います。日本では神社もお寺も、特定の政治勢力の政治的=軍事的勝利を祈願する「場」でした。
 源頼朝が登場しますまでは、朝廷=国家でしたから、天皇および天皇派の貴族が祈る寺社が、国家勝利を祈願する場でした。
 そこに源将軍が登場します。源頼朝は天台宗の法華経の信者で、観音像と念珠を帯びて石橋山に出陣しました。そして幕府を開くや、それまでは天皇の仕事であった「鎮護国家」「敗死者の怨霊しずめ」の場の面倒を、幕府もまた対抗的に全面的に見るという先例が開かれたのです。さらに「味方の戦死者の遺族の慰め」にも大名は関心を払いました。
 南北朝時代の安国寺や利生塔、室町時代の相国寺は、不特定多数の戦死者を弔うことにより、「将軍家が日本の政治を担当して日本国の平和を実現する」との意志を広宣したものでしょう。
 幕末から明治末にかけ、攘夷と開国のどちらにも対応できる宗教として神道が注目されます。「廃仏」はすなわち倒幕運動でした。そして坊主がそれにほとんど抵抗しなかったことは、江戸時代の宗教がいかに世俗化し堕落していたかの証左です。
 明治神道は、近代天皇制の普及にも都合がよく、さらに未曾有の対外国戦争に全国民を団結させるためにも便利でした。
 東京招魂社の大祭日は、当初は勅祭日といい、伏見で戊辰戦争の第一弾が放たれた旧暦1月3日、上野の彰義隊が敗走した5月15日、会津が降伏した9月23日、函館戦争が終った5月18日と決められていました。明治2年の神祇官は、この1月3日を「御一新の基」をさだめた大祭日として特に勅使を立てるのがふさわしかろうと提言していますが、政府は年に1回では不満だったようで、同意しなかった。わたくしには、そこから靖国神社の意義上の混乱が始まったように思われます。
 明治6年2月に、太陰暦から太陽暦への切り換えがあります。このときどうやら例祭日の計算ミスをしたらしく、年内に再び「推歩改定」といって5〜12日の日程の小修正が発表されています。すなわち新暦カレンダー上では1月31日になるとしていた鳥羽伏見開戦記念日は1月27日に。6月9日としていた上野戦争勝利記念日は7月4日に。11月12日としていた会津降伏記念日(政府はこの日のみ例大祭として勅使を仰ぐことに)は11月6日に、それぞれ直されました。
 じつは、会津降伏の旧暦9月22日がちょうど明治帝の誕生日に一致していたため、神社では当初遠慮をして9月21日に例祭日をずらしたのですけれども、後に政府からの指示で旧暦9月23日にずらし直されていました。また、旧暦5月18日であった函館降伏記念祭は、明治5年の政府の達で、旧暦5月15日の彰義隊敗走の日に合併されてもいました。
 想像しますに、こういった経緯の複雑さのため、太陽暦変換するときに、いったい旧暦の何日を基準に計算するのかに関係者の間で思い違いが生じ、その計算違いが、3つの例祭日すべてに及んだのかもしれません。
 明治10年12月、大祭日がまたひとつ加わりました。西南役平定を記念する9月24日です。
 しかしこのようにして固有の戦役と大祭日を結び付けて増加していけば、おのずと1回ごとの行事はおろそかとなり、趣旨的にも混乱を呼ぶことになると予測されたため、明治12年に「東京招魂社」が靖国神社と改名されるのに合わせて、大祭は11月6日を重んじて、その他は大祭としては廃止し、さりながら、1年1回では物足りないので、ちょうど半年ずらした5月6日を新設し、年2回に整理したのです。
 ここには仏寺の「お彼岸」の発想があり、特に現行の例大祭はまるっきりそうです。わたくしは現行の例大祭は尊重しません。
 明治45年12月に、この大祭日がまたもや変更されました。ポーツマス講和の後に行なわれた、海軍凱旋観艦式(10月23日)と、陸軍凱旋観兵式(4月30日)を記念することになったのです。この決めごとが、昭和の終戦まで続きます。なお日露戦争を境に、戦死者は「英霊」と呼ばれます。
 幕末からのロシアの巨大な脅威を、武士ではなかった国民が将士となって退けた日露戦争は、「攘夷」のビッグイベントであることは疑いもありません。ですが、日本という国民国家には、未来にも大苦戦や大勝利があります。
 そう考えますれば、特定の戦役の勝利を記念した大祭日を当座に定めてしまったのは不見識でした。どうも靖国神社は、明治45年を以て、国民国家の神社から、帝国陸海軍の私物の神社に逆戻りしてしまったように、わたくしには疑われるのです。国家指導者層、特に官僚出身者の歴史観が浅薄になったのでしょう。
 わたくしには、靖国神社の大祭として永遠にふさわしくあり続けるのは、伏見開戦の日か、さもなくば正月元日だけだと思えます。
 さて、戦前は、靖国神社の「例大祭」と「臨時大祭」は、旗日でした。
 臨時大祭は、合祀の儀式です。合祀を正式にせぬ限り、戦死者の霊は遺骨のある菩提寺の墓地に居るばかりで分霊されたことにならず、招魂社(靖国神社)には顔は出せない状態に置かれている。
 明治12年に朝野に信じられたことは「もう内戦はあり得ない」でした。そこで東京招魂社は靖国神社と名が変わり、同時に「維新政府の装置」から「日本国の装置」になった。
 大正4年の第39回合祀以降は、青島戦に続きシベリア出兵が長引いたせいか、毎年4月の例大祭直前に必ず臨時大祭を行なうようになる。さらに第53回(昭和13年)合祀より以後は、4月と10月の毎年2度に増えます。これはシナ事変が泥沼化したのに対応していました。
 とはいえ戦前・戦中の合祀はあくまで招魂であって「慰霊」の意味合いは薄かったのです。昭和12年11月18日に、シナ事変に関する最初の戦没者慰霊祭が政府によって行なわれましたが、それは靖国神社が中心のイベントではありませんでした。
 靖国神社の戦後の性格をすっかりゆがめてしまったのは、軍人恩給問題です。
 1945年のGHQ覚書にもとづき、日本政府は46年、軍人恩給を停止しました。
 軍人恩給とは、旧軍人が俸給から1%づつを積み立てていた年金で、ある年数以上勤務した軍人は、退職時月給の1/3が、月々支給されたのです。
 この軍人恩給は、戦死した場合には遺族年金になりました。たとえば2等兵で戦死して、死後2階級特進して上等兵になった場合であれば、1等兵の月給を基準に、遺族に年金が支給されたのです。
 GHQは、さすがに傷夷軍人手当だけは残したのですが、この遺族年金と、退役軍人本人の年金を、軍国主義の温床であったとして、理不尽にも打ち切らせたのです。当然、多くの人が、たちまち家計に窮しました。
 ここから、現在まで続いている「8・15と靖国の一致的強調」が始まるのです。
 ポツダム宣言、無条件降伏、東京裁判、およびマッカーサー憲法に日本国民が誰も異議を唱えないとすれば、日本近代の戦死者は全員、悪人になります(本当は、シナとソ連に関しては、向こうから侵略してきたものですから、名誉ある国民としてポツダム宣言を受け入れることなどできないのですが、国体護持を最優先したのです)。
 さすれば、新憲法下の政府には、遺族年金も恩給も支払う筋はない。しかし、一家の稼ぎ手を失った遺族と、老齢の元軍人は、戦後の食糧難とインフレの混乱期を、それでは生きていけませんから、やむなく彼等は「自分達は戦前政府の犠牲者だ」というポーズをとり、軍人恩給の復活運動を進める外になかったんです。
 靖国神社では、昭和47年くらいまでは社頭での8・15の仰々しいイベントには抵抗した痕がある。しかし日本遺族会や旧帝国在郷軍人会/戦友会の何百万もの票をあてにした政治家のマスコミ・パフォーマンスのせいで、次第に靖国と8・15とは大衆の意識上に重ねられます。
 国民の団結と国家の勝利を祈念し士気を高揚させる場だったものが、あたかも国家の「歴史反省」の場のようになっていったんです。小泉首相も靖国に絡めてシナ人に対して反省的な言辞を弄していますが、とんでもない暴言でしょう。官僚も党人も、あまりに歴史に無知なのです。
 日本遺族会の規約には「本連盟は、……平和日本の建設に邁進すると共に、戦争の防止と、世界恒久の平和の確立を期し、以て全人類の福祉に貢献することを目的とする」と謳われています。マック憲法の枠組み内で「犠牲者」「被害者」のスタンスをとってるんですね。おそろしくもあわれなことです。
 昭和25年の参院選全国区で、遺族会は大票田ぶりを誇示しました。が、占領下であるため思うような恩給復活の法律はなかなかできなかった。
 そこで昭和26年2月には、皇居に近い一ツ橋の共立講堂で「第1回全国遺族代表者大会」を開くなどしてアピールを重ねた結果、やっと昭和27年に、遺族年金などを支給する通称“遺族援護法”が成立し、軍人恩給は7年ぶりに部分復活しました(金額が少ないため、すぐに増額運動も始まります)。しかしいくら占領下とはいえこの7年間の政府の無為は、国民感情を致命的に不健全化したのです。
 たとえば、政府主催の全国戦没者追悼式は、昭和27年5月に新宿御苑にて両陛下の御親臨を仰いだのが戦後初でしたが、遺族会は、そうしたイベントを靖国神社で開催するように希望しました(じっさい第2回の全国戦没者遺族大会は、渋る神社側を押し切って境内の大村銅像下で行なっています)。「靖国」「8・15」をマスコミを通じて国民に想起させることが、遺族への世論の同情を集め、恩給の増額や確実な生涯保障を要求する政治圧力を高める上でいちばん効果的だと学んだからです。
 昭和31年、遺族会は次のように要求しました。──靖国神社は「国事に殉じた人々」の「みたま」を祭神とし、「その遺徳を顕彰し慰霊するものであること」と。
 おそらく、昭和34年に完成予定の千鳥ガ淵墓苑(ここには無名戦没者の骨がある)を意識しているのでしょうが、このあたりから、本来、国民国家の神社であるものを、遺族が私物化しようとする意図が露骨化していきます。
 遺族会と利益を共にする「日本戦友団体連合会」(のち日本郷友連盟)も、昭和30年8月14日に、終戦時の自決烈士の顕彰慰霊祭を、また昭和31年8月14日には、殉国諸霊顕彰慰霊祭を、昭和32年8月15日には大東亞戦争殉国英霊顕彰慰霊祭を、それぞれ靖国神社内に執り行ない、昭和33年8月15日には同慰霊祭を九段会館で実施しています。(その前には、昭和27年8月16日に陸軍の終戦時自決者の慰霊祭が、また30年8月14日に陸海軍の終戦時自決者の慰霊祭が靖国神社で行なわれましたが、これは命日にちなんでの関係者だけのもの。)
 こうした運動にあおられる形で、遂に政府の全国戦没者追悼式も、昭和38年からは、日比谷公会堂や、靖国神社のすぐ隣りの武道館で、8月15日に開くことが恒例化していきました。
 けれども1975年に、遺族年金の根拠を磐石にする“靖国神社法案”が最終的に断念されたのは、軍人と遺族への国家の援護はもう十分な水準を回復したと国会議員の大方が判断したからでしょう。
 にもかかわらず遺族会とその票を頼む代議士が「8・15公式参拝」に力点を置きかえて運動を続けたのは、いったん獲得した政治家への影響力を保とうと図ったからです。三木、福田、鈴木と歴代総理はこれに乗りますが、中共が中曾根総理にそれを中止させるという「外交上の大勝利」を上げたことから、今日まで続く不毛な論争を生じています。
 日清戦争中、靖国神社では、月毎に「戦勝祈願祭」を催行していました。これが本来の靖国神社の存在意義であると兵頭は確信します。対米開戦直後の歌『進め一億火の玉だ』の二番の詞:「靖国神社のおん前に/柏手打ってぬかづけば/父子兄弟夫らが/今だ頼むと声がする」──これが靖国神社の存在意義のすべてです。

初春のおよろこびを申し上げます

 2005年からは年頭所感をこのコーナーで書けることになりました。
 いきなり年号表記のお話を致します。昭和35年生まれで記憶力が弱くなってきたわたくしには、「平成ナン年」がパッと出て来ないという悩みがございます。DATEで思わぬ間違いをすれば評論行為が成り立たぬおそれがありますので、さいきん昭和60年代以降の話は西暦で書くことが多くなって参りました。
 みずから「クリスマス」なんぞという耶蘇の土習に親しんでおられる方々が「西暦ハンタイ」を称えるのは滑稽ではないかとわたくしは思います。
 かつての「A.D.」には「基督神の支配後」の意味があり、露骨に西洋帝国主義だったでしょう。しかし、米国の歴史学系のウェブサイトをご覧になればお分かりになるかと存じますが、さいきんは毛唐の連中も、西暦を「広範普及共用暦」といった新時代的な意味に再定義して公用しているのですね。つまり基督教会とはもう無縁だと強調してるんです。それを使うのにわたくしは抵抗がないのであります。
 ただし平成生まれの若い方々には、是非「平成」の元号を使い続けられることをおすすめします。それは必ず世代の一体感を強化してくれることでしょう。そしてたぶんみなさまが44歳くらいにおなりになったとき、わたくしが「平成ナン年」が直ちに頭に浮かばないことがしばしばあると申していたこの辛さに、ご共感いただけるかもしれないと思います。
 さて今年は世界的な「近代的自由主義」と「反近代主義」の闘争から、前者のグループに属する日本国の改憲もしくは廃憲が迫られるに違いありません。
 「RMAパラドックス」によりまして、テロと反テロの「戦闘地域」は、もはや定義不能になりました。また、シナに「防空識別圏」が無いことがよく象徴していますが、反近代主義の連中には国境意識もございません。他者の権利を奪おうという欲求に、ほとんど際限がないのであります。
 他方、すでに基地や港を提供している以上、日本はアメリカのすべての軍事作戦に関して昭和27年いらいずっと後方支援国家であり、一体作戦の一翼を担っております。
 ではどうして日本列島の周辺の公海で米艦が攻撃されているというような場合にも「集団的自衛権」は行使しにくかったのか。
 これは、アメリカは選挙一発で「反近代主義」の連中(特にシナ)に軍事支援をし出すようなおそろしい民主主義国家ですのに、現行の日米安保は、日本側が友/敵を自由に選べる同盟ではなかったからです。
 要するに、アメリカが一方的に日本を保護する枠組みが戦後あり続けた。しかもそれは「5枚綴り証文」になっているので、ただ安保の内容を改定しようとしただけでは、どうにもならなかったのです。
 5枚綴り証文とは即ち、まず「ポツダム宣言」。そして同宣言に謳われたことの執行としての「東京裁判」。そして同裁判の判決を呑みますという署名としての「サンフランシスコ講和条約」。その講和条約を米ソ以外の連合国が承認する前提条件となっていた「日米安保条約」および「マック憲法」です。
 そもそも憲法とは国民と政府・君主の間の契約であって、国民が外国または世界に対して何か約束するものではあり得ません。ところが「マック憲法」の正体は、日本政府が世界に対して「軍隊も自衛の意志も持ちませんから」と約束した、「隠し条約」だったのです。これと日米安保条約が対になって、はじめて米国は旧連合国に対して「日本を米国がコントロールし、旧連合国に対する脅威には二度とさせないよ」と納得させることができたんです。旧連合国とは、現国連「P5」です。
 しかし冷戦を通じて、P5のうち2国はしょせんは「反近代主義」であって、近代的自由主義の米・英・仏とは根本から相容れそうもないのだということが米国指導者層にはだんだんと分かって参りました。この認識は、長期的に、時とともに強まるばかりだった。かたや日本は「真珠湾攻撃」という反近代的な腐れ外道な犯罪をやらかした国でしたが、占領をしてみてよく観察すると、どうもシナ人とはまるで指向が違う。契約を守れる、近代的自由主義を体現できる、ということが、その経済的復活から、否応なく理解されたのです。
 集団的自衛権を実用するためには、この「五枚綴り」全部の破棄が必要なんです。全部無効にしなければ日米同盟は機能せず、日本の安全はかなり危ういものであり続けます。このことは米国はすでに理解していて、いろいろと日本に水を向けてきてくれているんですが、逆に日本の町人政治家がこの構造を理解できないんです。いかがわしい国連などが頼りになると、まだ思ってるんですね。
 日本側がやらなきゃならないことがあります。そもそも「1937年のシナ事変は日本の侵略戦争ではなかった。蒋介石の侵略であった」と米国に認めさせる必要がある。つまり別宮暖朗説が米国に於いて普及しなければ、5枚綴り証文は破り難いでしょう。
 だから05年は、このテーマをめぐる、米国輿論をターゲットとした、日支の宣伝戦の年になります。
 そして日本国内に於いては、官僚出身にしろ党人にしろ、しょせんは町人政治家でしかない近代日本の国会議員に全員ご退場を願うため、「サラリーマン官僚ではない武士道」の探求が真剣に行なわれなくてはなりますまい。庶民から精神改造が必要なのです。
 あらためまして、そのような宣伝や探求の場を、わたくしに与えてくださっているすべての方々に、この場をお借りし、深く御礼の気持ちを申し上げ、また新たな一年のご支援をお願い申し上げ奉ります。

RMAパラドックス

 2004年を振り返りますと、年の後半になって、わたくしが95年に書いた核武装エッセイの内容が、ようやく世間に知られてきたらしいと気付かされた。これが、ひとつの驚きだったと申せましょうか。
 古手の慷慨家の方々に思い出して欲しいんですが、わたくしは95年に彗星の如く論壇デビューしたのではありません。80年代の大学学部生時代から月刊『自由』や『THIS IS』や『世界日報』に度々、核抑止のテーマで投稿をしておりました(本名でとは限らないことは「ファン・サイト」のインタビューで明らかにしてましたよね)。
 それら投稿文の内容は「95年エッセイ」とそんなに変わった話ではないわけです。さらに引き続きまして『戦車マガジン』時代にも、編集部内原稿として中欧核軍縮問題を何度か論じております。
 そして、これらをちゃんと読んだ人は沈黙しました(反論を寄せず)。反論できないけど持論もまげたくないっていう人々は、それらの文章の存在をスルーしました。文字通り、ひとつのレスポンドもなかったんです。
 95年の『諸君!』エッセイも、数年間は、岡田斗司夫さん以外は、誰もこれに論及した人はいなかったように思います。並み居る大先生方がほとんど沈黙をしておられた。その中に、このエッセイの記憶が早く世間から風化してなくなってくれればいい、とひたすら念じておられた方がいらっしゃったのかどうかは存じません。
 ですから、04年1月の『ニッポン核武装再論』(並木書房)すら手に取らずに、またもちろん99年の『「日本有事」って何だ?』、01年の『「新しい戦争」を日本はどう生き抜くか』、02年の『学校で教えない現代戦争学』…etc.もスルーして、04年になってとうとう無視できなくなったわたくしの95年エッセイを批判しておられる、学究的に怠惰もしくは怯懦な方々が目立つことには、いまさら格別の驚きを覚えないのです。
 信用される知識人は、軽々に人を批判しないでしょう。軽々に人を批判する方々が、まじめにその人の主著を読んでない、というのは昔から常態のことでした。それらの人々は日々、「信用力の無いこと」の自己証明を続けておられるのであります。
 さて、04年に世界が凝視したのは、「米国のイラク統治は、1945年の米軍の日本進駐のようにうまくいくわけがない」と、米国人を除いては誰もが予測したことのなりゆきについてです。
 かつて「IT革命」にもかかわらず生産性が向上しないことを「生産性パラドックス」と呼ぶ人がいました。では、RMAにもかかわらず反進駐軍のゲリラを少人数で効率的に根絶のできない、目下のイラクの状況はどのように解すべきでしょうか。
 おそらく米軍の効率的統治を非効率化するように、テロリズムの方も進化し革新されたのではないですか? たとえば「ハルツームのビンラディン・キャンプ」に実体はあったでしょうか?
 レーダーの世界で、敵に被探知を悟られないように、また、妨害を簡単に受けないように、マルチ・スペクトラムに発射側波長を分散する、あるいは波長を不規則にホップさせ続ける、という技法があります。
 イスラムのテロリストも、「拠点」を持たない営業形態に転換したんです。「目標」を敵に与えなくなった。そんな改革を成し遂げた者の名を一つ挙げるとしたら、ビンラディンでしょう。彼以後のイスラミック反米ゲリラ活動には、ストックがなくなり、フローとネットワークと全体意志だけがある。
 余談ですが、ドンキホーテの放火について、社長か誰かが「放火テロ」と言ったそうですね。放火がテロであることを、わたくしは今年、ドンキ事件のずっと前に、村松剛氏のご自宅の例を挙げ、紙媒体で書きました。「世界の貧乏人をなくせばテロもなくなる」などと語っているあきめくらの人々は自らの理性を疑うべきでしょう。
 ちなみに民主党のO代議士はかつてその著作の中で、「争いが起きるのはすべて貧困、貧しさがその根本にある。日本の役割の9割9分は、われわれがたまたま享受できた豊かさを、世界の他の諸国、つまり地球全体が少しでも安定した生活ができるように、一生懸命尽くすことです」とお書きになってましたっけ。
 次に半島です。03末にワシントン周辺から、「沖縄の海兵隊基地をグァムに移す」という噂が立ち上りました。兵頭は、これは当時の米政権がシナと取り引きをしようとしていた、その反映ではないかと疑っております。つまりシナは「北鮮の核武装は止めてみせるよ」と米国に対し安請け合いをし、「で、その代わりに何をしてくれますか?」とワシントンに迫ったんでしょう。
 この裏談合に金正日が猛然と抵抗したというのが04年であったと思います。その抵抗の結果、シナは何も出来ず、米国はすっかりシナに失望し、シナに対する評価を下げた。そして再び、あきらめかけていた日本の真の再武装に期待をかけ始めた年だったと、兵頭は思います。江沢民から胡錦濤への権力転移の背景、胡錦濤のランボーぶりの背景は、これでしょう。兎も角日本はこれについても「ラッキー!」と叫ぶべきかもしれません。
 たぶん、金正日に面子を潰された北京政権は、米国からの評価を再獲得するため、05年に北鮮に軍事的強圧をかける可能性がある。これまた日本には「ラッキー!」となるかもしれません。
 この運勢に乗じて日本は核武装できると思います。
 肝要なことは、近代人として譲れない一線を堅持することです。その一線を越えた働きかけを外国からモロに受けたとき、「事と場合によっちゃ、アメともやるぜ」というガッツも示せないヘタレが他方で露助やニー公と戦いますと言ったって、誰も信じやしません。「精神のクレディビリティ」がゼロでしょう。
 さいわい、米国人と日本人の基本的人権についての見解はほとんど一致します。しかし民主主義の恐ろしいところとして、選挙一発の偶然により、とんでもない政権が生まれ、とんでもない政策が発動されることがあるでしょう。かつて米国政権は侵略者の蒋介石に請われるまま、フライングタイガースへパイロットを供給しました。フライングタイガースは日本本土爆撃まで計画していたのです。また80年代のシナには、戦闘機用アビオニクスや長距離砲兵用のハイテク砲弾や、戦車、ヘリコプター、魚雷等の技術を売り渡そうとしました。さらにクリントン政権時代には衛星と大型ロケットの技術改善に関してコラボレイト関係をもっています。こうした事態よりももっと悪い事態が将来いつか起きないとは誰も言えないはずです。「ロシアの核弾頭はシナの核弾頭より多いから日本の主敵はロシアだ」と仰る先生がいるんですが、だったらFDRの再来みたいな大統領が将来ホワイトハウスに居付いたら、その日から主敵はアメリカ合衆国にならねばならないでしょう。
 その場合、日本はアメリカとは決して戦争しません、などとは決して宣誓しないことが、逆に米国の指導者層からは信用されることになるのです。これが分からぬのは、その人がまだ近代的自我を持ち得ていないからではないでしょうか。
 「精神のクレディビリティ」が希薄で脆弱であれば、どんな兵器で武装しようと、抑止力にも何にもなりません。
 さいわい、95年当時やそれ以前とは違って、これがすぐ分かる日本人も増えてきたと感じます。日本国の運勢は好転しています。

1915年のインド兵の反乱

 大川周明か誰かの戦前の著作中に、1915年にシンガポールでインド兵が叛乱を起こし、それを英国政府の要請によって日本海軍の第三艦隊が急行して鎮圧したのは、あたかも日本が英国の東洋の犬になったようではないかという短い批判が挿入されていて、わたくしはこれがずっと引っかかっていました。
 最近、急に思い立って、これに関連する資料は無いかとウェブで探したら、所在は簡単に分かるんですね。まず桑島昭という方が『大阪外国語大学学報・69・文化編』(1985-3-30)に「第一次世界大戦とアジア──シンガポールにおけるインド兵の反乱(1915)」という論文を収めておられる。その次に、軍事史論文の量産家で有名な平間洋一さんが『史学雑誌』(1991-6)上に「対華21ヶ条の要求と日英関係──シンガポール駐屯インド兵の反乱を軸として」を載せておられると知れました。
 これらの学会誌バックナンバーが函館にいて簡単に閲覧できれば良いのですが、年末で北海道教育大学の図書館も利用できないだろうし、出掛けたところでサーチ・コストの無駄になる虞れは大であると判断し、先日の上京のついでに、広尾の都立中央図書館で有り難く読んで参りました。
 で、いきなり余談なんですが、このインターネット時代に『学会誌』とか『紀要』って、どういう意味が残ってるんでしょうか? 何か工夫があっても良さそうに思います。たとえば今回拝読した平間論文には、それに6年先行する桑島論文を参照したというしるしがありません。つまり桑島さんは、論文をせっかく冊子に印刷してもらったが、それを同志の研究者にも読んでもらえてないわけです。こんな調子じゃ、日本の学問がのびのびと発展できませんよね。みなさん文部省公認の肩書きや所属研究機関名を名乗って対社会的な信用を強調されておられる以上は、アクセス容易な主要同テーマ文献に目ぐらい通し、役に立たなかったとしても「これは読んであります」と挨拶を書きのこして前に進んでいくのが「学問的誠実さ」ってやつじゃないんですか。いや、まったく自分のオリジナルの知見しか書いておりません、先行して存在する無名人のオリジナルの話にところどころ似ているのはすべて偶然です、と言い張っても許される超有名な大先生の方は別でしょうけどね。それは知らずに所論を採用された無名人にとってもたぶん嬉しいでしょう。
 さてこのご両所の論文から分かったところでは、1915年2月15日に発生したシンガポールのインド兵反乱とは概略、次のようなものだったらしいです。
 叛乱の主部隊は1914前半にシンガポールに移駐した「第五軽歩兵連隊」。これはほとんど回教インド人からなる部隊で、宗主国の英国に頤使されていたのは無論です。桑島氏によれば、WWI初めにインドには15万人の軍隊があった。それがWWI勃発後に80万のインド兵と40万のインド人軍属がインド内外に展開したんだそうです。青島作戦にも1個シーク中隊が参加してたんですね。
 ところが1914-11に英国とトルコが交戦状態に入った。これで多種多様なインド人部隊のうち、シークおよびムスリムからなる「コミュナル」編成部隊が不穏化しました。
 シークってのはパキスタンに近いところが本拠地で、イスラムの影響を強く受けた一神教徒集団です。『イングリッシュ・ペイシェント』という映画に出てきた、ターバンを巻いて髭を剃っていたインド人大尉(キャプテン)がシークという設定でしたよね。ただし、桑島論文によりますれば、当時のインド人の大尉は「スベダール」と称され、白人の「キャプテン」とは区別されていたようなのですね。この辺が英国流でしょう。
 英国にとって困ったことには、もともとシンガポールにいた部隊はすべて他方面に抽出してしまっていて、1915-2の時点では「5th歩Rn」が当地における主力守備隊であった。その主力に叛乱を起こされたので、英軍も自力では鎮圧できなかったのです。
 叛乱のきっかけは2月16日の香港転進命令だったようです。かのジェンキンズが脱走する気になったのもベトナム転進を嫌ったからでしたが、共通の心理があったんじゃないでしょうか。
 叛乱に先立つ2月14日から16日まではシナ歴の正月で休日。そして15日に弾薬を貨物列車に積み終わり、英人が午後3時から午睡をとるのを見計らった
 インド人たちには一つのあてがありました。それは、軽巡『エムデン』の捕虜など300人のドイツ人男子をシンガポールの収容所から解放して、そのドイツ軍人に叛乱の指揮をとってもらおうというものです。ちなみに後備役にもなりそうもないドイツ民間人は開戦直後にパロール(宣誓釈放)済みでした。
 このあてが外れます。解放されたドイツ軍人は叛乱インド兵とは組もうとはしなかったんですね。彼らは独自に収容所からトンネルを掘っていました。それで、自分たちだけで脱走する計画を邪魔されたと思ったんです。けっきょく十数人のドイツ捕虜が、中立オランダ領のスマトラまで逃げたそうです。
 平間論文によれば、叛乱兵は在シンガポールの英国白人男女をみさかいなく殺そうとしたので、民間人は商船に避難しました。
 16日、英国は現地の日本領事館に、民間の居留日本人からなる「義勇隊」の編成を要請し、これは実行されます。武器弾薬食糧は英軍から提供され、日本の会社支配人になっていた予備中尉が指揮をとり、市街の警備にあたりました。「からゆきさん」がらみの商売人を含む、かなり雑多な民間人集団であったようですが、英国民間人からなるやたらに無秩序な義勇隊とは異なり、終始規律正しく行動したとのことです。彼らは中央病院を襲った暴徒を撃退し、捕虜数十名を捕らえ、患者に感謝されました。
 なお、現地のすべてのインド人が叛乱したわけでもなく、英人警部の指揮するインド人巡査たちは銃剣を以て日本人の生命財産を守りました。
 当時から「物資の需給関係に於て支那人の天地」であった南洋において、シナ人たちがどう行動したかは、詳しく分からぬようです。
 17日、英国からの要請によって駆けつけてきたフランス巡洋艦『モンカルム』と日本の巡洋艦『音羽』が陸戦隊を上陸させます。日本の陸戦隊は18日には英軍とともに兵営を奪回し、なんとシンガポール島のどまんなかに日章旗をぶち立てた。18日にはロシア巡洋艦『オリヨール』、19日には巡洋艦『対馬』の陸戦隊も加わり、事態はすっかり掃蕩モードに入りました。
 ただし第三艦隊司令官の土屋光金少将は、日本がインド人から不必要な恨みを買うことがないよう、射殺ではなく、極力捕虜をとる方針を指達していました。
 平間論文によれば、戦闘で日本人が殺したインド人はいなかったが、英人は50名を射殺しました。桑島論文によれば、日本の陸戦隊はつごう22名の捕虜をとり、英軍に引き渡しました。英軍は2-23に叛乱将兵を軍法会議にかけ、2人のインド人将校を含む47人が死刑になります。うち1人が絞首刑、残り46人は銃殺ですが、なんと1890年以来の、監獄外での公開処刑であったので、回々教徒は怒ったそうです。
 1915-2-25に『音羽』と『対馬』の陸戦隊の任務は解かれました。
 この騒動以後、英人は「表面のみにても吾々に敬意を払ふやうになつた。支那人や、馬来人の態度も変わつた。総ての人種が日本人の前には道を譲つた」と土屋少将が報告しています。また平間論文によりますと、グレーに Buldozer Tactics だと評された加藤高明の強気の背景に、このシンガポール鎮圧があったろうということです。
 以下、兵頭のコメントです。この事件も、大川のようなレトリックで紹介されれば、「大アジア主義」の燃料になったわけです。しかし詳しく史実にあたってみれば、日英同盟の健全な発揮であり、且つその強化に役立っただけのできごとであったと知られる。そして昔から今までちっとも変わりばえのせぬことながら、こうした外交力の資産を、日本の役人あがりの首相も、はたまた党人である首相も、ぜんぜん活かすことができないのです。それは、誰が悪いのでしょうか?

フラッシュバックしますた

 数ヵ月ぶりに東京に出て、ギャラも出たついでに、バックパック一杯の本を渋谷のナントカ堂書店で買い込んで来ました。昔、地下1階に危ないミリタリーの本が一杯あったところですね。わたくしはあそこで兵器関係の洋雑誌を立ち読みするのも楽しみだったんですが、今はもう無いようです。5階の洋書屋もなくなってたなあ…。
 で、昨日、そのうちの一冊である、中川八洋先生の『日本核武装の選択』を読破させていただきました。これ、今年の10月31日に出てたんですね。しかも本文中にわたくしが登場しているではないですか。どうしてこの情報をいままで誰も教えてくれなかったんだ!
 なんで「チャンネル桜」は核武装討論番組に中川先生をお呼び立てしないのだろうと思っていましたが、あのはにかみ屋の先生がこうして名指し批判を公表しちゃった相手と敢えて同席されるわけないじゃないですか。納得しましたよ。しかし中川先生、こんどもしも機会があればですが、是非ひとつサシで対談ができることを希望しております。わたくし座談会は大の苦手ですが、先生との対談ならディープな話ができそうな気が致しますので。いや本当は今から数年前のたしか『発言者』の飲み会でしたか、お隣に座ってじかにお話を聞きたかったのですけど、当時まだわたくしは駆け出しでございまして、あまりに恐れ多かったもんですから、遠慮してしまいました。あのときこのご批判を頂戴できていたらなあと、残念に思います。
 以下は同書を拝読しての偶懐です。
 たいへん惜しいのは、中川氏はわたくしのように書店にお出かけになる元気をもうなくされていらっしゃるのか、なぜか95年の『諸君!』論文だけが取り沙汰されていることです。あれなんかはいまから十年近くも前、95年時点の平和ボケ庶民の精神状態にまず活を入れる目的で唐突に掲載してもらった文章ですから、えらく単純かつ理論的かつ極論になっているのはなりゆきです。それを好まない方もいらっしゃるのは予測できたことですけれども、どうしても一回あの「可能性」は出しておく必要があったんですね。じっさいインパクトはあったのです。
 中川氏がご新著の第三章後半でまとめておられる如く、NPT条約を1976年に批准した時点で日本人の精神は死んだも同然でしょう。それに95年になって活を入れようと思ったなら、少しは既存の大先生たちを不愉快にさせるくらいのパワーがなくては輿論は動きません。特に若い読者へのアピール力が出てこない。しかしそれでいったん読者の元気が上向いてきさえすれば、04年1月の拙著『ニッポン核武装再論』のような資料集的構成の方が、問題意識のある読者をより深く考えさせることができるかもしれません。
 その04年の拙著では、中川先生の雷名はあえて明記せずに、中川先生の間違っておられるところも、いろいろと指摘をしてあるんです。いや、その前の何冊かの単行本でも、いくつか批判めいたことを書いていたかもしれません。わたくしは中川先生が、それらの所論を受け入れたが故に黙っておられるのだ、と、いままで思っておりました。
 しかし中川氏はそもそも拙著を一冊もお読みいただいていないご様子であると巻末注を見てこのたび了解いたしましたから、細かくてくどくてたいへん恐縮ですけれども、たとえば以下の疑問を、この場でなげかけさせていただきます。
 米国は、これまで英国以外の国に「トマホーク」巡航ミサイルを売った実績はありません。それをどうして日本が買えると思われるんでしょうか。
 「パーシングII」ミサイルは、米ソのINF全廃条約の結果、全量が破壊処理されました。これをもし米国が、日本に売る目的で再び製造を再開などしたら、ロシアもそれなりの対抗措置を取るとはお考えにならないのでしょうか。
 英国の運用する「トライデント」SLBMは、核弾頭と潜水艦は英国製です。そして当然、SLBMは「二国二重キー」では運用などできません。そもそも米国は、すでに核弾頭を国産することができ、原潜も建艦できる英国だから、潜水艦用の弾道ミサイルを売ってやろうかという気になりましたもので、核弾頭をさいしょから国産できもしないヤル気の無い国に、機密中の機密、ハイテク中のハイテクであるSLBMの運用ノウハウを供与するはずがないと、思われないのでしょうか。
 「すべての核兵器は核弾頭を含め米国に発注し購入する」(ご高著p.142)そうですが、わたくしの知る限り、米国は過去、核弾頭を他国に売ったことは一度もありません。どうして米国は、英国にも売らない核弾頭を、日本には売ってくれるのでしょうか。
 スカッドのような幼稚なSSMならばともかく、長距離弾道弾は弾頭を途中で筒体から切り離せば良いのですから、スペックの最大射程より近いターゲットに随意に照準できるとわたくしは思いますが、如何でしょうか。
 北海道沖から米国西海岸に到達せぬような射程のミサイルを持っていても、それではシナの奥地まで届きませんが、シナ奥地の攻撃はまたしても米国任せでいいのですか?
 カウンター・フォース戦略に立っているロシアが保有する核弾頭は、価値の劣る目標のために消費できるのでしょうか。「いつでも一千個以上の水爆を日本全国に同時投下する」ような態勢をとっていたら、対米、対支のカウンター・フォースの核資源配分が手薄になり、それはモスクワにとって「安全・安価・有利」ではないと思いますが、ロシアにはそんなにも沢山の核戦争資源があり余っているのでしょうか。
 西欧に配備された「パーシングII」は、それがモスクワに届くからこそソ連は競争を投了したのではないのですか。
 ソ連の戦略爆撃機から発射される核弾頭付き巡航ミサイルは航空自衛隊のAMRAAMで迎撃できるようになるだろうと、兵頭は『日本の防衛力再考』(95年刊)で書いたんですが、いまでも「日本にはAS-15A/B巡航ミサイルそのものを撃ち落とす能力はまったくない」(ご高著p.120)でしょうか。
 70年代後半のSS-20とバックファイアの展開で「米国の核抑止は崩壊」した(p.129)そうですが、ソ連の核兵器がじっさいに一発も行使されなかった以上、抑止は成功裡に継続していたとみるべきではないのですか。
 「フランスの主力核兵器SLBMは米国に万が一にも到達しないよう配備されている」(p.149)そうですが、ポルトガル沖からモスクワやウラル山地まで届くほどのSLBMならば、同じ海域からニューヨークにも届いてしまうだろうと思うのですが、いったいフランスの誰がいつそのような約束をアメリカにしましたか?
 MADの米国流の実践で、都市を耐核化しなかったのは間違った政策であると兵頭も思います。わたくしが神奈川大学の1年生か2、3年生だった頃(すなわち1984〜86年)、わたくしは『世界日報』紙上や『自由』誌上に、決して少なくはない数量の核戦略エッセイを投稿し、掲載していただいておりました。いずれもそれらは短文ながら、MAD批判はあり、ソーとジュピターとフランスを関連づけたINF史論はあり、ソ連の核弾頭付き巡航ミサイルへの注意喚起はあり、日本核武装論はあり、ずいぶん中川先生も密かにご愛読してくださっていたのではないかな〜と、当時の先生の御論文などを書店で立ち読みしながら勝手に想像を致しておりましたが(残念なことに今回のご高著の巻末注にはそれら80年代の無名学徒の拙きエッセイの名など当然ながら一つも見当たりませんけど)、2004年末現在の最近の知見からお尋ねを致したいのは、MADは過去から現在まで、有効に機能しているのではないのですか?
 日本と違い世界に対する責任を持ちようもない小国の韓国などに核武装させ(p.229)て、そうした小国が反日国家になった暁にはどうなるのでしょうか?
 SALTは69年の交渉開始いらい、米国の対ソ核優位の放棄政策であった(p.208)そうですが、じっさいには69年時点から終始一貫、米国に全般的・質的な優位がずいぶんあったからこそ、ソ連も交渉に応じ続けたのではないのですか。それとも米軍筋の宣伝を真に受けていらっしゃるのですか。
 「日本の核には米国を標的にするものに転用できるものは存在させてはならない」(p.197)と書かれていますが、小さな弾頭をコンテナやフェデックスで米本土に送り届けたら、米国は標的となっちゃうんじゃないのですか。
 中川氏は「日本には、米国から独立して、国家として永続していくための地理的状況も国力もないのである。これは“日本の天命”といってよいだろう」(p.168)と書いておられますが、まったく同意できません。
 だいたい自分の運命の主人になろうとせぬ者がどうして同盟者から信頼されるのでしょう。根本に、一国で自衛戦争をし抜く気概がないなら、米国の尊敬もかちとれやしません。中川氏にはこの根本がないのでしょうか。そしてまた、米国人のメンタリティに不案内なのではないかと疑います。
 いま英国が米国から信頼されているのは、「小国的な甘え」がないからでしょう。これも中川氏にはわからないのだと思います。
 あるいは中川氏は、人生のいちばん良い時代を捧げた「敵ソ連」が昨今無視されていることに、深層心理で抵抗されているんじゃないでしょうか。米国とともに日本がソ連と対決していたあの時代、あの世界に氏はなじみすぎていて、そのため昨今の北鮮発やシナ発の騒動に接して、あたふたしちゃってるんじゃないでしょうか。
 そこまではなんとなく想像がつくのですが、どうも分からないのが中川氏一流の「甘え」です。小国意識、他人頼み、「パーツ(部品)」志願の発想、「下士官根性」とも言うべき諸性向が、いったい氏のどこから出てくるものなのか、わたくしごとき若輩には、永遠の謎なのです。
 1980年代の中川氏はわたくしのヒーローでしたから、その方から書籍上でこうしてノーブレーキの御高批を蒙るようになったとは夢のようです。ついに本書のおかげで、昨日までは数ならぬ身でありし兵頭二十八も急に大物になったように錯覚します。
 いや、珍しく夜更かしをしてしまった。誤記があればあとで訂正します。
 ありがとうございました。

クローズド媒体は今の世の役に立っているか

 学生時代に日比谷の都立図書館へ行ったときです。雑誌コーナーの棚の上の方に『選択』という月刊誌が、箱にどっさり、という感じで置かれていました。
 「活字雑誌立ち読み王」であったわたくしもその表紙は見たことがありませんでした。しかし、日経(当時わたくしは図書館の只読みコーナーで大新聞の全紙に目を通していた。同じ外電をデスクによってどう加工してしまうか、その取捨の恣意的なこと、軍事についての「主情報要素」の選択眼を持っていないデスクが多いことを理解できたのもその頃だ)には、広告が載っていたかもしれません。
 すぐにブラウジングしましたら、軍事記事がソ連軍に詳しくてユニークでしたので、バックナンバーを溯って、そこにあるだけ読み尽くした覚えがあります。
 思えばこの雑誌、年間予約購読者以外には読ませない、中間マージンがかかる書店を通さない、したがって書店では誰も立ち読みができぬというクローズドな総合誌の嚆矢だったかもしれません。
 その後、大手出版社でもクローズドな専門雑誌を売るようになってきました。兵頭は家計に余裕無きためそういうのは未だひとつも契約ができませんが、たとえば新潮社では『フォーサイト』という、外国情報に特化した月刊誌を出している模様です。
 この05年1月号(たぶん04-12-15頃の発売か?)の読み古しを、“年末兵頭たすけあい運動”の一環としてたまたま食糧とともに恵んでくれた御方がおられまして、今朝、有りがたくそいつを読ませて戴きましたところ、これがなかなか感慨深いものがありました。
 たとえば11月のシナ潜のわが領海侵犯事件についての記事。なんと、江沢民の配下の暴走であると示唆し、急な針路変更も領海侵犯も海自のP-3Cのアクティヴ・ソノブイでおどかされた結果だと示唆してある。
 同趣旨の記事は、いま確認できませんけど、他の新聞や雑誌でも書かれてはおりませんか? むしろ3日後に発売された『新潮45』の方がエクスクルージブな価値はありませんか? いや、これ勿論自慢であって非難じゃないのです。と同時に申し上げたいのは、「いつでも誰によっても自分の書いたものがチェックされてしまう」という書店売り媒体の緊張感は、公共善にとって悪くないぜ、ってことなんですね。
 そうであってこそ、間違ったことを書いちまったときには、記者は後から恥ずかしくてたまらないわけです。いてもたってもいられなくなるんです。そこで「よしこれはもう一度、勉強し直しだ」とか発奮するわけじゃないですか。
 ところがクローズドな媒体であれば、かりに間違ったことを書いても、本人はそれほどコタエないと思うのですよ。これが「感慨其の一」。
 其の二はですね、な、なんと「三島返還」というオトシドコロを外務省が探っているというんですね。そんな話が『イズベスチヤ』の04-2-4に載ってたっていうんです。
 これがどうして感慨かと申せば、じつは兵頭は「三島返還論」を過去、二度ほど書店売りの紙媒体で書いているからであります。例によっていつどこに書いたかは忘れちまいましたが、熱心な読者の人は探してみてください。わたくしはそれを書いたあとでどんな批判が飛び出してくるだろうかと待ち構えておったんですけれども、まったく何の反応も無かったもんですから、すっかり拍子抜けした記憶はあります。なぜか忘れた頃になって上坂冬子先生が「千島全島を返しなさい」というキャンペーンをお打ち始めになりましたけどね。
 で、『フォーサイト』は、これがモスクワの情報操作だと書いてるんですけど、記者さん、そうではなく、兵頭の記事が収集されて、それが元ネタになってると思いますよ。
 感慨の其の三は、90年代半ばの「ミャンマー〜雲南パイプライン」構想をシナが復活させたっていう記事です。自慢話を三連発で続けさせて貰います。これについてはわたくしは80年代の学生時代に勝共連合の新聞に投稿した記憶がある。ただしパイプラインの起点はパキスタンのカラチ港でした。当時は「シーレーン防衛」をどうするかという中曽根内閣の頃で、わたくしは学部学生ながら「マラッカ海峡だけに頼るから脆弱なので、パイプラインを日本の援助でカラチから上海までつなげちまえば代替ルートになるでしょう」と提案してみたんです。すごい名案だと思っていました。けど、誰も反応はなかった。いちおう、渋谷の道端で売られていた新聞で、元気のいい旧軍人の寄稿も多かったんですけどね。同趣旨の話を、その後どこか別な媒体でまたしたかもしれません。
 しかし皆さん、考えてみてください。ミャンマーまで中東からタンカーで原油を運んでいくとすれば、ベンガル湾を横切らなきゃならないですよね。それだと、シナの仇敵のインド海軍に随時に制扼され兼ねないのですよ。だからビルマ・ルートは根本的に脆弱である。さりながら、今はもう米国がパキスタンににらみをきかせてますから、シナとしては他にオプションは考えにくいのでしょう。
 お話を「感慨其の一」にまた戻しますが、テレビってのはちょっと困った媒体で、後から「校正」ができず、編集は他人にお任せです。もし討論番組に出てスタジオで間違ったことを口走ればそのまま電波に乗るし、間違ったことを言わなくたって、編集の結果、意図せぬメッセージが送り出されるのかもしれない。
 ものすごく記憶力が良くて決して言い間違えをしない人か、さもなくば正確性のクレディットなどは抛棄してイメージ演出だけに徹するつもりの人じゃないと、出演じたいが公共善に反することになりはしないか? そう悩みつつ、以下に他人批判。
 防衛その他の専門家が、保守を標榜するテレビの討論会で、何人も続けて「核武装できない論」を滔々と語ったら、それは外国にどういうメッセージを与えるか、みなさん、考えておられますでしょうか。侮られるだけじゃないんですか? 敵国にも、また同盟国にも。
 テレビ討論にたとえ4時間以上の枠が割かれたとしても、視聴者に理屈などは伝わらず、イメージだけが伝わるのだと、わたくしは理解をしました。

年内2度露出

 ボケかましまくりの「チャンネル桜」収録であった。km/hが、「ノット」の二倍強…なワケないだろ、俺。
 それにしても潮先生が、与えられた発言タイムに必要な情報を手際よく伝えておられるのには感心した。やっぱり向いた奴と向かぬ奴が居るのだなあ。でも生活費があるからなあ………。

文民統制の形式と実態

 迎撃ミサイルの発射をすると「迎撃した時点で交戦状態になる可能性があ」るので、MDの指揮官にその判断を任せたりすれば文民統制が確保できない「との意見が大勢となった」──とかいう本日のK通信のニュース配信があるんですが、すべて匿名では、例によってホントかウソか人々は判断できないですね。
 これって、誰がそう言っているのか名前を挙げなくて良いほど些細な問題ですかね。少なくとも記者の署名が無いんであれば、この種の記事は「誰かが為にする低級なディスインフォメーションじゃないのか? 事実は、何の責任も持っていない記者の知人の小者による妄想・妄言に過ぎぬのではないか?」等と大いに疑って良いでしょう。
 現行慣習では、領土・領海の上空は、大気圏内であれば「領空」と看做されます。PAC-3は最大射高が1万5000mで大気圏内。しかし水平射距離が対ミサイルで最大4万5000mに達するそうですので、これは領海12浬(22.2km)を超える場合がありえます。さらにMS-3になりますと、公海上から発射して大気圏外で撃ち落とすというのですから、ひょっとしたら韓国空軍機やアメリカのスペースシャトルをMDが間違って撃墜することもポテンシャル上は可能です。ではその場合、日本と韓国、日本と米国は「交戦状態」になるのか?
 ──なるわけがない。相手が誰か分かっていて撃つ者があり、その撃つ者に対して撃ち返す者があって、交戦が生起するのです。北鮮の弾道弾はブースター&サスティナーが切れた段階でフリー・フライトに入り、あとは重力に引かれて落下するだけですから、レーダーでフリー・フライト中の2点または3点を捉えれば、弾着点は即座に算定される。それが日本領内であると分かったら、明白な危害が切迫してるんですから、これを迎撃するのは軍人の任務であるのは勿論、その任務を予め付与しておくのが最高指揮官たる首相の責任でしょう。
 こういうのはROE以前の問題ですが、あとで混乱しないように、ROEはあった方が良いですね。MDも、要はROEをさっさと統幕が作って、それを首相が承認すれば、誰がミサイル発射権を持とうが、誰が核のボタンを押そうが、問題はありません。
 公海を走っている軍艦がいきなり何者かから発砲されたら、司令官または艦長の指揮でその何者かに撃ち返して破壊殺傷して構いません。日本の警察官や海上保安官が外国軍ゲリラから急に発砲されたら、敵の正体がハッキリしない状況でそれに撃ち返して殺して構いません。それで「交戦」が生起しても誰も「文民統制違反」とは言いません。
 日本の「文民統制」の真の問題は、官僚が名目手続き上は合法的に、しかし世間常識的には勝手に始めてしまった「施策」を、政治家が、後から止められないことにあります。止められない理由は、公務員の身分が法律で必要以上に保障されていることにあります。国家公務員の課長補佐(軍隊なら省部の中佐?)以上の身分は保障されるべきではないというのが日本現代史の教訓でしょう。
 外務省や文科省の小役人が衆知の国家叛逆的な暴走をして日本を衰亡させようと企てているのに、選挙で全国民から選ばれている内閣がその首謀者を免職できない。これでは戦前の関東軍と同じです。この法律の一大欠陥に目をつけた反日諸勢力は、まず役所に細胞を送り込み、役所によって日本の国権を減殺しようと画策し、ほぼ成功しつつあるのです。
 軍隊の中佐以上の者をいつでも何の理由がなくとも首相の意向だけで免職できるとしたら、文民統制違反なんて起きるはずがないでしょう。逆に、この人事権が首相にないとすれば、内閣は必ず役所に支配される。外国との交渉もできないし、起きた紛争は永遠に終わらず、国庫がムダにどこへともなく消え、競争力と国力は低下します。
 役人は選挙で国民の支持を受ける必要がありませんから、合法的な反国家活動を最も効率的に遂行できる立場に居るのです。その害悪はK通信社の比ではないでしょう。
 「文民統制」というときに忘れてはならないことは、「宗教家も文民じゃない」ってことです。これは自由主義先進国では常識ですが、日本でのみ、なぜかスルーされています。
 いま、日本の内閣には宗教家の代弁人が混じっています。もし日本の国防国策にこの閣僚が口を出すとしたら、それは文民統制に反する事態です。つまりは憲法違反ですね。
 野暮ですがテクニカルな話に戻して突っ込みを入れましょう。「ミサイルへの燃料注入など発射の兆候が確認できた段階で安保会議、閣議を開いて警告を発し、その上で指揮官に発射権限を委譲す」ることは可能でしょうか? これは前提が間違っております。
 北鮮のミサイルは、ふだんは山岳地帯の横穴トンネル内に、発射車両(TEL/MEL)ごと引き込まれています。それを偵察衛星では確認はできません。そして、横穴トンネルの中で燃料を注入し、それからトンネルから車両が走り出てきます。
 車両は、座標が精密に既知の、上空から遮蔽措置のとられた場所のどこかに占位し、そこでエレクターを仰起させ、発射します。トンネルを出てから数十分です。その数十分の間に日米の偵察衛星が上空を通る可能性は少ない。というのも、敵はその衛星の通過時刻を外して発射するに決まっているからです。
 つまり「発射の兆候」など見えるわけがありません。
 もうひとつ。来年はシナが核弾頭付きの巡航ミサイルの量産に入るでしょう。これが近海の原潜から発射されたら、どうやって「発射の兆候」を偵知できますか?
 ついでにお尋ねしましょう。政府は07年に「民間防衛」パンフレットを配るという。MD配備が07年からなので、それに合わせるわけです。そこで素人質問! もし05〜06年のうちに核ミサイルが飛んできたら、国民はどうしたら良いのですか?
 役人の無責任は今に始まったことじゃないので驚きませんが、国民から負託をうけている政治家がこんなニュースに黙っていちゃいかんでしょう。
 さらにつけたし。アーミテイジ氏が「シナは一つ」と発言しているそうですが、これは彼が閣外に去るのに早速目をつけたシナ・ロビーがいつもの手で「仕事」を与えることを約束しているからでしょう。パウエルと同じパターンです。
 閣内に残る人が何と言っているかに注目していくべきだろうと思います。

同胞不信が核武装を躊躇させる

 クリントン政権時代の米国の対日政策が「敵対的だ」と思わなかった日本人は阿呆ですよ。江藤淳は最悪の時代に死んだのです。
 では当時のクリントン政権からの要求を日本の大蔵省がピシャリと撥ねつけ、ドルは買い支えないよ」と表明し、米国債を常識的な水準まで放出していたら、どうなったでしょうか。別に核ミサイルが飛んでくるわけでもないし、相模湾に海兵隊が上陸してくるわけでもなかったでしょう。
 貿易上のイヤガラセを受けて日本の景気は悪くなったかもしれません。いや、確実にそうなったでしょう。為替相場も混乱したでしょう。しかし為替が変わって損する者もいれば、得する者もいる。損得があわないのは、日本側が官僚統制経済=不自由経済だからです。
 そしてどうです、クリントン政権の言うなりになっても、やはりバブルははじけて、いまだに毎年何万人も自殺しているわけです。
 おそらく日本にピシャリとたしなめられた米国は、自力で双子の赤字を克服できたはずです。彼等にもそのくらいの危機意識と指導力くらいありますよ。
 当時、米国の票めあての無体な要求は聞くべきではない、と考えた日本の役人や政治家はいたんでしょうが、パワー・エリートがキャリアの初期においてあまりにも深く米国にとりこまれておりますために、こういうときに日本側は「一枚岩」になれないのです。「義」を通せない。同僚に足をひっぱられるかなと思って黙ってしまう。すなわち彼等には「勇」が無い。
 これで米国も腐敗をすることになります。悪友がカネを出してくれるから、真人間に戻り難いのです。そして世界第一と第二の大国がこういう不健全経済を領導していくと、世界経済にも良いことなどありません。日本のパワー・エリートに義や勇が無ければ、日本は世界を悪くするのです。それは、日本が大国だからです。
 ところで、日本が輸入している原油の1日分は、大型タンカー2隻分だといいます。
 このうち農林水産業のためだけに使われるのは6%強らしいですが、じつは、ただでさえ低い日本の食糧自給率も、この内外の石油流通がストップしないことが、大前提条件になっているんですね。したがいまして有事には一瞬ですがほぼゼロになるでしょう。
 農水省は、原油が確保できていたとしても、日本の今の農地面積だけで収穫できる食糧は、国民1人あたり2000カロリーにしかならない、と10年くらい前に試算しています。餓死者は出ないが、重労働も無理で、肥満者は一人もいなくなるという感じでしょうか。人口が半分になれば4000カロリーですから、肥満者復活ですね。そうなる時代は遠くなさそうです。
 ある先生がどこかでこんなことをお書きになっていました。──自由貿易の建前ありと雖も、どこの国でも有事を考慮して自給レベルを遥かに上回る農産物を自国農民に補助金を出して生産させているのだ。そして平時はそれを補助金をつけて他国に売りさばかせることによって「バッファー」にしているのだ──と。これをやっていない日本や韓国のような国は、自分で自分の立場、交渉力を弱くしているわけです。円がドルよりも脆いのも、パワー・エリートがこんな基本にも気付かないというところが他国のエリートからはマイナス評価されているのです。
 最近まだこんなことを言う人がいるので驚きました。「マラッカ海峡や台湾海峡でテロや戦争があったら日本は石油を輸入できない。だから、それらの地域で紛争を起させてはならない」と。
 ……オイオイ、おまえがどう頑張ったって戦争が起きるときには起きるんじゃねえの? 中東や旧ソ連邦の騒ぎをアンタが止められるのかよ。
 航空機にとって距離の長短は依然シビアですが、タンカーは地球の裏側を廻ったって日本に来ようと思えばどこからでも来られます(パナマ運河の幅の規制はある)。「高う買いまっさ。船員さんにもこのとおり成功報酬を用意しとりますけん」と札束を積んでアナウンスすれば、日本がシナと核戦争のただなかにあったって、勝手に向こうからお届けしてくれますよ。そんなときのためにドルをしこたま溜め込んでるんじゃないのですか。
 日本が外国に対して「一枚岩」で総合安全保障にかかわるイシューの交渉ができるようになるためには、役人の不義、役人の怯懦、役人の対外国通牒行為、役人同士の足の引っ張り合いを、許してはなりません。
 そのためにはどうすれば良いかというと、これは簡単で、首相が、何の理由もなくともいつでも即座に高級官僚どもを好きなだけクビにできるように、公務員法を改めることしかない。
 戦後も60年になり、高級公務員の皆さんは ちゃんと手前たちの組織で再就職利権を創出し、確保をしております。55歳で肩たたきですからね。いまや彼ら高級役人に身分や地位の保護の必要などないのです。
 腐れ役人や役人出身の政治家が、誰にも足を引っ張られないよう八方美人をしようとしてシナに擦り寄ったりするから、IAEA(即ち米国)が、日本の「主義」を疑うことにもなるのです。