荒地実験場2014年前半報告(2014-8-26 記す)

(2014年8月31日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 地球人口は、増えやすい条件が与えられれば、とめどなく、しかも急速に増える。じっさいに今、爆発的に増えているさいちゅうだ。
 人類のエネルギー消費量は、「人口×経済発展」に比例して増える。消費されるにともない、石油もガスも、掘り出しやすい鉱区から消えていく。
 かたや、石油やガスの採掘技術は、ゆっくりしか進歩しない。それゆえエネルギー需給は逼迫する。エネルギーの生産価格や取引価格は、高騰する。
 地球上の土地(可住地と可耕地)は有限であり所与である。そして今の食料生産は、石油・ガスに決定的に依存する。
 以上から、いつの日かわれわれの入手可能な食糧の売価も高騰してしまうことは必然である。

 では、わたしたち地方住まいの暇人は、近未来の「細民飢餓」を回避するため、何をすべきか?
 もしあなたが、放任で勝手に山野に増殖する有用植物を一つでも発見、もしくは改良することができたなら、あなたは人類全体を救えぬにしても、地域の人々、または家族や知人を、救えるかもしれない。
 すくなくとも世の中は、前よりも明るくなるだろう。

 このような課題意識から、わたしは自宅(借家)と続きの荒地(いつかは宅地開発されるのだろうが…)にて、細々とした「環境美化・兼・実験」をスタートした。それによって判ったことや判らないことを写真でリポートすることで、日本の各地域に居住している同憂の士を鼓舞できたなら、望外の幸せと思う。

 世の中、じつにイライラさせられるニュースが多い。「どいつもこいつも……」と、しじゅう、うめきたくなる。だが、植物の時間は人間のサイクルとはぜんぜん別に流れている。観察のためにそれと付き合っているうちに、人もまたマイペースの落ち着きをとりもどすことができる。

 以下、「4-10」等の数字は撮影月日を示す。すべて2014年である。一帯は函館市内の、標高50m前後のところに位置する。隣接して二級河川の谷があるので、低湿地ではない。

キバナセツブンソウ 4-10

 この荒地実験場で越冬したうえ春最初に咲くのは球根の黄花節分草である。北海道専用の園芸本で、早い早いと定評ある球根、たとえばチオノドクサやクロッカスやプスキニアよりもずっと早い。ただしフクジュソウには確実に負けるはずだ。写真奥の列はシラー。手前のロゼットが実生のヒゲナデシコだとは、ことし、咲いてみるまで分からなかった。

エゾエンゴサク 4-28

 エゾエンゴサクは昔から地下の球根を食べられる植物として知られていたようなのだが、通販で入手した球根はウサギの糞のように小さく、春に生えて来た茎も踏み圧にとても弱く(この荒地は人の出入り自由なため子供が踏むことあり)、こんなものを人が掘りはじめたら瞬時に根絶やしとなるだろうと思われた。自生地も山の南斜面に限られるようで(カタクリと並んで同じ時期に開花する、いわゆるスプリング・エフェメラル)、とても、山林豊饒化の切り札にはならないというのがわたしの見立てだ。

ノラボウナ 5-7

 アブラナ科の菜花が、なんのマルチング(藁とかビニール膜などをぴったりと被せて覆うこと)もしないのに北海道で越冬して多年草であることを証明し、しかも、基部が木化するなんて、信じられますかい? このノラボウナはオランダ人がジャワあたりから長崎に持ち込み、江戸時代の埼玉県で最初に普及し、「三倍体」のためまったく進化(性質変化)せずに今日まで細々と伝わっているという。なぜ南方の植物がこんなにも寒さに強いのか、不思議というほかはない。写真中央の長い根は、川土手に自然に生えている別な植物。その左右の2株が、2013年3月に種をじか播きした、のらぼうな。

ノラボウナ 7-2

 2年目のノラボウナが開花するとこんな感じ。ここはオニグルミの叢林端で、頭上が日蔭なのでこの程度だが、今年、ある人に種をお分けして本式の畑で栽培してもらったところ、初年にしてとてつもない巨大株になった。こいつは園芸植物としてもっと全国に普及させ、山林や荒野を豊饒化させ、近未来の飢饉に備えたらどうかと思う。なお、無農薬だとタイミングが悪ければ紋白蝶の幼虫に葉が食われまくる。が、一回越冬したあとなら、さんざんに食害されても枯れ死ぬことはない。イチオシの奇蹟の植物である。

ノラボウナ 7-16

 野外で自然越冬させたノラボウナは、7月にはタネ化してしまう。このサヤの中に大量の種が詰まっている。食用とするのは葉の部分。必要量だけ切って、短時間、煮る。味には何の癖も無い。

カマシア 5-25
カマシア 6-2

 球根のカマッシアは、北米インディアンが食用にしていたというから、当地での適性を見るために植えてみた。球根は、何年も植えっ放しにしておくと、相当に太るようだ。しかし調理法を工夫しないと毒だそうである。こいつは折鶴のような形状の葉が特徴的だ。そしてその占有面積がけっこうある。花色が薄いのでずいぶん近づかないと目立たない。また、子供はこの花茎を打ち倒したいという欲望を禁じ難いようである。打ち倒されると、二番手の茎は出てこず、その年はもうおしまいだ。4月くらいにさっさと咲いてしまえばいいのに、5月下旬まで開花しないからいけない。葉は8月になると枯れてしまう。
 「子供からの攻撃」という攪乱要因にもじゅうぶんに耐える高勢の耐寒多年草は、「ヘリオプシス・サマーナイト」だと思っている。人の背丈ほどにもなる黄色花だが、茎を10本ばかり途中からヘシ折られてもすぐ新枝を出してそこから再開花。植えて1年目から叢林状を成し、台風でも倒伏しないで、たちまち自力で元の姿を取り戻す。花期も長い。しかし、こぼれ種で増えないから、荒地には広まらない。
 「サマーナイト」に比べると、商品名「宿根ヒマワリ」の類は、花色は類似だがトップヘヴィーで、それほど高勢でもないのに強風一発で茎が折れるか倒れるかする。

シレネ 6-4

 2013年に苗を買って自宅の庭の方に定植したら、春からやたらに花盛りが長く、晩秋までタネを製造し続けたのがシレネ・ウニフロラである。そこからとれたタネをすぐに荒地に播いたらどうなるかと思ってやってみた結果が、コレ。ヒゲナデシコにさきがけて、一斉に開花した。もともと這性のはずなのに、二代目は立体ボリュームがある。野草のミミナグサの親類だけあって生命力は強そうだ。
 まだ越冬力は確かめ得ていないけれども早春に築山の頂上に苗を植えた「シレネ・ファイアフライ」という通販商品の方は、霜にも負けなかったしスタートダッシュが早い上に花期も長くて驚いた。1株で草叢を成す勢いである。

チャイブ 6-6

 2012年にタネを撒布した覚えのあるチャイブ。しかし発芽しなかったように見え、完全に忘れていた。それが、2014年にとつじょ、姿を見せた。葱らしい匂いが爽やかである。

サポナリア 6-10

 サポナリアとはソープワートのことで、これには比較的高勢のものと這性のものがある。写真のピンク花は這性。2013年に苗を買った株のタネをとってすぐ播いたら、それが荒地のあちこちで、この春、開花した。派手色の花は、咲き始めのヒゲナデシコ。
 立ち性のソープワートは、7-3にマレーシア機が東部ウクライナで撃墜されたときに現地で野草として開花していた模様。それは、墜落現場の村人が、満開状態のソープワート(もちろん一重)の花束を手向けていた写真にて、承知ができた。この荒地実験場だと立ち性の一重のサポナリアのいちばん早い開花が7-27であったから、ウクライナよりも函館は寒い(もしくは日照が悪い)ということが分かる。

イブキジャコウソウ 6-11

 イブキジャコウソウは、イチイの木の下に植えると、のびのびとは増えないように思われる。春に郊外でいろいろと観察すると、イチイの葉からしたたり落ちる雨水には、どうみても、スミレなどの野草を抑制する成分(アレロパシー)が含まれているとしか見えない。しかし、当地の気候で越冬することだけは、確かめられた。

Evening Primrose 6-15

 イヴニングプリムローズとは待宵草。ジョンソンズという英国のタネ会社の種(ファーストイヤー・ペレニアル・シリーズ)を2013年3月下旬に地面に直か播きしたところ、その年は無開花で冬となり、すべて無駄になったかと思っていたら、2014年にとつぜんコレですよ。場所は、荒地ではなく庭と私道の境目。「昼咲き月見草(オエノテラ)」は以前、通販の苗で買ったことがあるが、みるみる衰弱して消滅した。ところがこのジョンソンズの実生の方は、越冬した上、勝手にどんどん増殖し続けている。ひとつの花は2日でしぼむが、次から次と開花し続ける。脱帽の品種と思う。
 写真の黄色い花は「ダイコンソウ」で、越冬株。右の白いサルビアも越冬株で、こいつは花期が滅法長い。ちなみに青いサルビア類は、当実験地では一冬で全滅する。

ヤツシロソウ 6-16

 カンパニュラのグロメラータ(九州ではヤツシロソウという)。カタログスペック的には、地下茎でどんどん増えるというところが、いかにも頼もしそうなわけであった。しかし、昨年秋に苗を3株、互いに数十m離して植えて越冬させてみた結果は、しょぼいにも程があるじゃないか、という実感であった。
 だがこれよりもっと期待を外されたのは「ヤナギラン」だ。他の雑草に負けないように急速に高勢化し、地下茎で増えるだけでなく、シュウメイギクやコウリンタンポポのように綿毛の種で広範囲に子孫を増やすというカタログスペックなのだが、結果は、3株のうちひとつも1mにも届かず、花芽もつかなかった。来年は、より詳細にリポートできるだろう。

ジョチュウギク 6-22

 まんなかの赤い花は、越冬した除虫菊。ただ、この場所はオニグルミの葉が繁るにつれ急速に日蔭化するので、増殖ペースが遅い。隣のシャスターテイジーも、越冬して株が大きくなったのに、2014年につけた花芽は開花しないでそのまま夏にすべて枯れてしまった。

オオルリソウ 6-23

 ミックス種袋に入っていたのだと思われるのが、このオオルリソウ。一年草なのに、何もしなくったって、どんどん増え拡がる。こいつが枯死したときにできるタネは「ひっつき虫」の中でも、衣服からひきはがすのが最も手間である。背面通気性の除草用手袋の布部分などは、すぐボロボロにほつれてしまう。

アスチルベ 6-23

 越冬した上、ひなたではびこりだしたアスチルベを、半日蔭に移植した。これで来年どうなるか観察する。このアスチルベの隣に苗を植えたアガスターシェは、一冬でほぼ全滅してしまった。半日蔭でも越冬する上に、ずいぶん旺盛に増殖するとわかったのは、カクトラノオだが、これは食用にならない。
 写真奥の谷際の土手に生えているのはキクイモ。半日蔭でも巨大化する。地下に多数のイモが成り、春に出てくる芽は、一、二度毟ったぐらいでは、じきに復活してくるタフネス。寒冷地の原野山林にも向いた、文句なしの放任救荒植物だろう。右手の黄色いのはカンムリキンバイで、まだ越冬はしてない。

ヒゲナデシコ 6-25

 2013年の早春に、残雪の上から、いろいろな花種がミックスされている袋を、複数、ぶちまけた。このうち、多年草は、その年に開花したものはほとんどない。そして、一部は「謎のローゼット」として越冬した。このロゼットが2014年春からだんだん成長してヒゲ状の花芽が見え、さらに開花が始まって、そこでやっと「これはヒゲナデシコ/ビジョナデシコかもしれない」と見当がついた。
 この植物のすごいのは、冬季、雪の下でも青々とした状態を保っていることである。しかも、ロゼットが見当たらなかった場所からも、ぞくぞくと立ち上がって開花する。湧くが如き出芽現象は、夏になっても継続している。また、花後にできるタネが大粒で量が多い。この調子だと来年はこの多年草で荒地が埋め尽くされるかもしれない。たまたま、種の性質と、土や気象が、ベストマッチしたのであろうけれども……。

ダイヤーズカモマイル 6-25

 ダイヤーズカモマイルのダイヤーとは染物師のこと。この黄色が、かつては染料になったのだという。多年草なのに、こぼれダネでやたらに増える。そして幼葉の姿でも確実に越冬する。手前の黄色い花の草叢は、2013年夏に咲いたダイヤーズカモマイルの種を秋に無造作にバラ播いた結果だ。タンジーもこのようにして初冬に撒布すると実生で無造作に増えるけれども、ダイヤーズカモマイルほど急速に成長はしてくれない。
 これと近縁といわれる矮勢の植物にマトリカリア(フィーバーフュー)がある。2013年に苗を3株植えたが、冬の間に文字通り、消滅してしまった。

クロタネソウ 6-28

 1年草なのに、いちど播いたらあとは全自動で(ただしチシマザサの伐採や、ブタクサ、セイタカアワダチソウ、ダンドボロギクのような雑草の抜き取りは必要だろう)毎年春からはびこってくれて、範囲も逐次に拡がるのが、写真手前のクロタネソウだ。花がなければ一見、背の低いコスモスのようでもある。
 通常タイプのコスモスも、いっぺん生え始めたら、絶えることはまずない、強健そのものの1年草だが、まだこの時期には、出現しない。

マーシュマロウ 6-29

 「マシュマロ」の語源は、マーシュ(沼地)のマロウ。根が子供の喘息止めの薬の原料になったそうだ。その花がコレ。手前の鉄砲ユリと比べて、高勢なのがわかるだろう。こいつは実生なのである。豪雨でよく冠水する地点に2013年に播き、同年は矮小ながら少数の開花を見た。それが2014年にはこんなになった。ここまで、周辺の除草以外は、まるっきり放任である。このあと、2日ほど風雨が続いたら、倒伏してしまった。ひきつづき、放置で観察中。

ブッドレア 7-2

 花が咲いてないので分かりにくいが、やはり未開花のシャスターデイジーの株の奥にブッドレアのボサが立っている(エニシダのような感じで)。2013年春に定植したのに、この夏も開花の兆しがなかった。よほど日照をよくしないとダメなのだろう。函館は、海際であるためか、朝に晴れていても午前中に海霧で曇ることが多く、しかも、真夏になっても北海道の内陸部ほどには高温が立て続かない。だから、この地で「半日蔭」のロケーションにするということは、きわめて日照条件が悪いことになってしまうのかもしれない。

ガウラ 7-3

 2013年に苗を買って定植した白花のガウラの種を取り播きしたのが、この手前の叢。ヒョロヒョロの茎1~2本で越冬し、7月にはもうコレである。このあと一斉に開花して、親株をしのぐ規模となった。ガウラの右奥は、荒地への展開力ではアップルミントなど問題にしないほど旺盛な自然進出を誇る野草の「フランスギク」。自転車置き場(砂利地面)に宿根しているのが毎年邪魔なので、早春に掘り取って無造作に移植したのが、こうして開花している。しかし、わたしが伐開するまでは全面チシマザサに覆われていたこの実験場には、フランスギクはさすがに入り込めてはいなかった。

ベロニカブルーエンペラー 7-13

 2013年早春に種苗店の裏庭みたいなところに並んでいた、前年の売れ残りのベロニカブルーエンペラーとやらの古い休眠株を買ってきて、半日蔭へ定植したところが、少し葉が出ただけでその年は開花どころでなく終了。そこで2014年早春にこんどは場所を、西陽以外はすべて当たる「築山」の東斜面に移してやったら好調であった。手前の白花は、ジョンソンの実生のヒルザキツキミソウ。左手奥は、実生でしかも越冬したコケコッコー花(ホリホック)と、苗で越冬したベルガモット(前年は倒伏したが、今年は支柱なしで倒伏せず)。築山の内部には、荒地の各所で掘り出した石ころと、チシマザサの切断した根が堆積している。その上に、1袋198円のツルハドラッグの土をかけたのである。

バーベナボナリエンシス 7-14

 バーベナボナリエンシスは、別名「三尺バーベナ」。こいつが北海道で越冬しますと確約している園芸本は、1冊もないであろう。しかし、ものはためしで昨秋に苗を定植しておいたら、この通り、開花した。あとは、こいつから実生で拡がって行くかどうかが、注目点である。枯れた茎の上にタネができているのは、苗の位置の目印として輪状に植えておいたアリウムの地上部残骸だ。アリウムは球根だから早春にいちはやく開花して、その下に休眠苗があることを示してくれる。

ガウラのピンク 7-15

 ガウラについては某タネ会社の説明が、耐寒性に不安があるようなことを注記しているために、園芸書もことごとくそれを踏襲しているが、この荒地での実験の結果、ピンク花も白花も、ここでの越冬には何の工夫もいらないことがわかった。このピンク苗は2013年に定植し、接地部は冬までに木質化してずいぶん頑丈になり、難なく越冬した。その右隣は、野生の2年草のモウズイカが生えてきたので、刈らずに残して観察をしているもの。モウズイカの手前は、実生のルピナスである。その右の草叢は、天下無双のしぶといハーブではないかと思われる「アップルミント」。しかし除草を一切止め、チシマザサやススキを伸ばし放題にすれば、日照がなくなって、アップルミントも消える。

ブローディア/トリテレイア 7-15

 一般に北海道の花壇では、球根植物は、そうでない植物よりも早く、4月とか5月に開花してくれるので、いかにも珍重したくなる価値があり、人々は賞翫するわけである。ところがこのブローディア(別名トリテレイア)は、7月中旬に開花する。もうその頃には、どの庭も花だらけで、存在が埋もれる。
 左手のコンクリート塊は、冬の前に顔なじみのハシボソガラスのカラ吉夫婦のためにオニグルミの実をトンカチで割ってやる場所である。「駐車場のクルマに轢かせるなどという手間のかかる真似をするまでもねえ」と手助けをしてやったら、カラスもいろいろなことを教えてくれるようになった。慣れるにつれ、笹刈りなどをしているわたしのすぐ近くで、地中に半分埋もれているオニグルミを掘り出してみせる。「こいつを割ってくださいよ」というわけだ。しかし春は、人間の方が見つけるのが早い(発芽するので)。発芽直後のオニグルミは、地中からゆっくり引き抜いたあと(これはカラスの技能では絶対に無理)、殻に軽いショックを加えるだけで奇麗に二つに割れる。それを石の上に放置すると、カラスが飢えている場合は、ついばむのだけれども、秋の胡桃に比べて、さすがに人気は落ちるように見受ける。
 人にもカラスにも発見されなかったオニグルミは、最終的に野鼠が齧っていると思われるのだが、いまだに野鼠の死体も生体も、この荒地で目撃したことがない。余談だが、烏が上空から地上の人間に挨拶するときは、人間の目の周りに届いている太陽光線を一瞬影で遮るような、巧妙なフライ・パスを為す。

ゲラニウム・ジョンソンズ・ブルー 7-16

 通販で苗を2株買ったものだが、1年目の夏からすごい繁茂であったゲラニウム・ジョンソンズ・ブルー。2年目もたいしたものである。築山左麓のは、2013年に植えたアルストロメリア。これも融雪期冠水にめげず、快調。

コマチリンドウ 7-18

 マルチングなしでは越冬しない可能性が大なのが、小町リンドウ。しかし、非常に条件のわるい場所で、こいつはかろうじて越冬した。だから、築山に移植して、養生することにした。

ソリダスター 7-18

 左端の草叢がソリダスターで、この写真の1週間後に開花した。手前の黄色い花は、「中葉シュンギク」のタネ袋をバラ播いたもの。1年草だが、シュンギクほど安価に、且つ急速に「花畑」を構築できる市販のタネはないだろう。遠方の黄色いのは、ダイヤーズカモマイルである。

South side 7-19

 実験荒地はわが借家の北側に広がっているのだが、南側には狭い庭がある。そこでも植物越冬をいろいろ実験する。とはいえ、この写真に写っている多年草は、ローマンカモミール(白花)を除くと、まだ当地での越冬力は確認できていない。
 左端の「ヤグルマギク」(青花)は、一年草なのに、翌春になると勝手にこぼれ種で再生し、株数が減らない。
 それに比べると「アグロステンマ」「ペインテドセイジ」などは翌春はきれいに消滅してしまう。やはり一年草の「クリムソンクローバー」や「マリーゴールド」は翌春すこし再生はするものの、株数は播いた年よりもぐっと減ってしまうと分かってきた。
 左手中央のモサモサフワフワした絶妙な触感の多年草は「トードフラックス/リナリアブルガリス」。苗のくせにスタートダッシュが遅い気がするが、黄色の花も咲かないうちから周辺に増え始めるという、はかりしれない増殖ポテンシャルを秘めている。
 アキレア(ピンク)の左の株は、実が食べられるワイルドストロベリーなのだが、この苗は残念ながらランナーで野放図に増えていってくれるタイプではなかったようだ。アキレアの手前はカラマツソウの一種。

テウクリウム 7-19

 テウクリウムは、こじんまりしているため、広い荒地ではほとんど目立たない。爆発的に増えるという風でもない。これと相似形の草姿の、ベロニカ・ロンギフォリアの方がずっと高勢で、株も豊かなので、荒地では目立つ。しかしテウクリウムが土のかなり悪い環境で越冬したことは確かである。

シュッコンカスミソウ 7-20

 2013年に市内の苗店で安く買った宿根かすみ草が、越冬して今年は巨大化した。

エロディウムマネスカヴィ 7-20

 ピンク5弁花のこの苗は今年の春に通販で買ったものだから、まだ越冬の実績がない。したがってここでは紹介すべきでもないだろうが、霜の降りる早春にマルチングなしで荒地に定植できたタフさと、開花の早さと、花期の長さを好感した。その背後の叢はセンダイハギ(黄花)で、もう花は終わっている。センダイハギは知らぬ間に長い地下茎を伸ばす。翌年春に、もとの株から1m近くも離れたところから複数の芽が出てくるのである。

チョロギ 7-22

 朝鮮わたりのミニ芋であるチョロギは、種芋を植えたあと放置しておけばよいそうなので、救荒作物としてすぐれているのではないかと思う。こいつは春に種芋を植えたもので、まだ越冬の試練にはさらしていない。リヤトリスのように上下に延びる花穂にご注目。こいつは園芸品種として改造の余地があるんじゃないか? 放置なのに花期もかなり長い。
 園芸家から好まれることは、人為的な拡散につながってくれるので、現代の救荒作物としては、ひとしお高性能だと言えるのである。
 写真の奥は、春に苗を植えたのにとうとう花芽すら見せなかったフランネル草(リクニスの赤で、凝った品種ではない)。どこが「こぼれだねでも増え、強健」なのか。

イヌゴマ 7-31

 種を播いたおぼえのない植物がいつのまにか勝手に生えてくるのは、面白いものだ。ピンクの花を咲かせているのは、多年草のイヌゴマ。事典では雑草扱いなのだが、これは充分に園芸品種化する価値があるんじゃないか? 地下茎でたくましく増殖する。隣の黄色い花の方は、まだ同定できていないのだが、一年草のコウゾリナかもしれない。この黄色い花は、枯れると綿毛化して種を飛散させる。だから来年は、一面に広がっているかもしれない。

チコリ(1)
チコリ(2)
チコリア
チコリー 8-4

 古くからイタリアでサラダ菜とかにされているチコリアを英語でチコリーという。和名ではキクニガナとか呼ぶらしいが、葉を一枚、洗って食べてみれば納得する。この苦さのおかげで、無農薬でもぜんぜん虫に食害されることがない。今年、わたしは3種類のチコリの種を春に荒地にじか播きした。ひとつは「三笠園芸」のチコリーウィトロフ。もうひとつは、玉川園芸の「チコリウムインティビュス」。どちらも通販。もうひとつは地元のホーマックで早春から売っていた「ロッサ・ディ TV」(愛媛県の Life with Green 株式会社がイタリアから輸入している Cicoria Rossa di TV)だ。このうち、ロッサ・ディ・TVがすばやくトウ立ちして開花した。葉の葉脈が白く、その周りの葉表が、赤黒く汚れているかのように見えるタイプだ。
 チコリーの特徴として、同じ袋の中のタネなのに、生えてくるものに、さまざまな個性が発現する。葉の形、茎の出かた、じつに千差万別なのだ。ところが、花だけはどれも同じ形らしい。早朝に青く開き、夕方までには、白くなってしぼむ(宿根亜麻も似たような直径でほぼ同色の一日花を次々に咲かせ続けるのだが、白化はしないで落下する)。
 ただしチコリーには、播いて1年目には、開花しないで葉ばかり繁る、という、観賞を排除して食用専用に改良が進んだ2年草のタイプがあるらしい。どうもロッサディTV以外は、それかもしれないと疑われる。巨大化するのみで、いっこうにトウ立ちしない。つまりタネをつくろうとしない。
 日本の寒冷地の山林を豊饒化してくれるのは、たぶん、畑用に改良されたものよりは、多年草としての野生の特徴を濃く残しているものではないかと愚考する。ひきつづき、観察を続けたい。

バーベナハスタータ 8-5

 バーベナハスタータが北海道で越冬することは、道東の非常に厳しい気候の土地でこれを栽培している人のブログ・リポートがヒットするから、予期できたことであった。予期できなかったのは、いきなりこんなに高勢になるということ。おなじく昨秋にクガイソウの苗も定植したのだったが、そっちは人の背に迫るどころか50cmくらいで開花すらせずに今年は終了しそうである。
 写真の左下には宿根のセントレアが見えている。これは今年の春に苗を植えたものなのだが、まったく離れた場所に、播いた覚えがない実生の宿根セントレアがとつじょとして生えてきて、夏に開花までしたのには驚いた。

カラミンタネペタ 8-6

 2013年に苗を買ったカラミンタネペタの枯れ茎(種付き)を、その秋に離れた場所に投げておいたら、それが2014年にこんなになった。しかし、親の株が青白い花であったのに、こっちはピンク系である。花のつきかたもぜんぜん違って見えるので、カラミンタではないのかもしれない。

アピオス 8-13

 2013年は半日蔭に種芋を植えて、ついに開花しなかったアピオス。今年は西日以外は当たる場所に、別な種芋をあらためて植えて放任したところ、このように開花した。さてここからだ。こんどは同じマメ科の「葛」との交雑に挑む。葛は道南が自生北限なので、そっちを大きく育てるのにまた2年は必要みたいだ。半日蔭で開花しないのでは、おそらくアピオス単体では、山林の豊饒化は無理である。しかし一冬で地下部分までは死滅しないことは確認ができている。

オオマルバノホロシ 8-18

 とつぜん生えてきた野草。ナス科で、オオマルバノホロシという。ホロシとは皮膚病の名だそうで、秋に赤くなったときの実がそれに似るのだそうである。その実は人間には毒だという。おそらく野鳥が糞とともにこの地にもたらしてくれたのであろう。木の実や草の実のなかには、1羽の野鳥に全部をいっぺんに食べ尽くされてしまわぬ戦術として、適度に有毒となって、できるだけ多数の鳥にいろいろな方角へタネを運んでもよらうよう仕組んでいるモノがあるようだ。

クラリーセイジ 8-18

 このシソ科のクラリーセイジが2014年6月に花芽をつけたときは、なんという植物なのか分からずに悩んだ。開花した姿を事典と照合したら、「ジュウニヒトエ」に似ているようだが、こっちのは高さ64cmもあり、しかも野草のジュウニヒトエは北海道には生えていないことになっているではないか。
 全草から爽やかな芳香が立ち上っており、ハーブのクラリーセイジなのだと遂に分かった。そのタネを、2013年3月にこのあたりに4袋もブチまけていたのをすっかり忘れていたのである。1年草だから、来年は再生しないであろう。


(管理人 より)

 こんにちは。前回に引き続き草花である。
 福岡の実家から車で一時間くらいの距離に、古湯温泉という全国的には全く知名度の無い温泉がある。先日帰省した際に浸かっていた。

 本当に山奥にあるので、露天風呂からの景色が素晴らしいのである。山々の緑をじっと眺める事ができるのだ。
 にぎやかさでは別府に及ぶべくもなく、知名度では箱根にかなわず、風情では函館の温泉に比べるべくもないが、景色は本当に美しい。

 都会の喧騒や猥雑さも大好きなのだが、花を、草を、木々を眺めるのは楽しい事だ。私は東京に転居してより強くそう思うようになった。


新造成地に最初に生える謎めいた植物・ビロードモウズイカの野生の写真集

(2012年8月1日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 キミは、ビロードモウズイカ(びろうど毛蕊花)という雑草を、知っているか?
 おっと、昭和天皇いわく「雑草という草は無い」。

 謹んで訂正いたします。ビロードモウズイカという「身近な植物」をご存知ですかな?

 葉に細毛が生えていない、ただの「モウズイカ」というのもあるみたいで。
 内地では「アレチ(荒地)モウズイカ」とも呼ぶらしい。
 野生は、東北以北で多く見られるそうだ。
 原産はヨーロッパ。明治以降、誰かが園芸用に持ち込み、それが野生化したのだ。
 モウズイカの別名が北海道では「江差草」ともいうらしいので、港町から持ち込まれたんだろう。

 いったんサラ地にされた土地に最初に生えてくる、パイオニア・プランツ(先駆植物)のひとつである。てことはその種は、風に乗って、いつもあたり一帯に飛び散り続けているんだろうか?
 まだ観察開始してから日が浅いため、そこがよくわからん。
 辞典には「こぼれ種で増える」とは書いてある。
 すくなくとも2年草だ。それは写真を見てもらえれば分かる。

 多年草タイプのものもあるという。ただしその寿命は長くないという。
 多年草で、そうとうにでかくなってから立ち枯れすれば、枯れ姿は、不気味なはずだ。

 なにを隠そう、オレもこの植物は、北海道に来て初めて知った。

 川向こうの荒蕪地がみるみる宅地に造成されたのだが、それから1年以上して、サラ地に突如発生する。近寄ると、いかにも謎な草姿だ。

 開花期に遠くから眺めれば、黄色い花のつき具合が、野草の待宵草(マツヨイグサ、月見草)に似る。まあ、似ているか似ていないか、口で説明しても埒が開かんので、ズバリ、並んでいる写真でご紹介したかったが、うまく並んで咲いているのがみつからなかった。

 福島第一原発の近くでこの草が街中にも生えているというんで、あらためてネットで「ビロードモウズイカ」を画像検索してみたんだ。そしたら、ロクなものがない(市販の花辞典と同じ写真だったりする)。

 辞典も園芸種の Verbascum の方は写真を載せてあるが、野草の方は、これはというものがないんだよね。
 たとえば北海道新聞社刊の分厚い『北海道の野の花』は、あきらかにビロードではない葉っぱの方を「ビロードモウズイカ」と間違ったキャプションで紹介している。当てにできねぇ。

 そこで、オレが自分で撮影したホンモノの野生の毛蕊花の写真をUpすることにしましたわ。

 ちなみにウチの前の荒地駐車場には、モウズイカとマツヨイグサとタチアオイは生えていない。そういうのがあれば、残してよく観察したいところであるが、たぶん、草刈りをするとき、他の草と区別がつかないんで、うっかりと絶やしてしまうのだろうと思われる。

待宵草とビロウドモウズイカ

 右がビロウド毛蕊花。左がマツヨイグサ。待宵草も咲くシーズンなのだが、咲いた状態で写真比較できないのは無念。

左ビロードモウズイカ右待宵草

 これのどこが似てるのだとつっこまれると弱るのだが、一斉開花状態になると、似てるんですよ。

毛蕊花

 この黒い点々が何なのかが疑問なんだ。オレは雑草といえども他人の土地から黙って持ってくるようなことはしない。取るのは写真だけだ。

モウズイカのローゼット

 ローゼットというのは、冬越しのため、地面にへばりついた姿で次の春まで生き残っている葉っぱで、身近な例としては、寒冷地のタンポポを見るとよい。真の積雪期間中以外は、あくまで光合成のチャンスを逃がさず、地下の根にエネルギーをたくわえようという戦略だ。このローゼットから、春になると一斉に茎が再生するわけだ。地表の葉っぱのくされ具合から、このビロードモウズイカは1回冬を越していることは間違いねぇ。

毛蕊花のたぶん2年目

 ローゼットから高々と茎が伸びて花が咲く。このビロードモウズイカは2年目だろう。ただし個体によって小さいのと巨大なのがある。その差がどうして生じるのかはワカラン。こいつは小さい。周囲に競争相手はいないように見えるのだが……。

毛蕊花のたぶん一年目

 「ビロード」という名前は、波の表面に短い髭がびっしり生えているから。ラテン語名も「髭」を意味する。バルバロッサ作戦と同語源だろうね。1年目だと、このように、7月下旬でも花は咲かないようだ。

点々と

 こぼれ種で増える、とは、こういう広がりを言うのか。

手前はただのモウズイカ

 毛蕊花には、葉の表面がビロード状にはならないものもある。これがその例なのかどうかは断言ができない。というのは、成長にともなってビロード葉が出てくるものもあるようだからだ。さまざまな「ビロード具合」が、同じ造成地に混在している。

ビロードモウズイカの上部

 この花が出る部分の長さも、個体によってまちまちで、長いやつもいれば短いやつもいる。その差がどうして生ずるのかはワカラン。

基部まで写す

 おなじ個体の基部を見よう。ローゼットの葉っぱは、ビロード状ではないのが分かる。

参考の待宵草

 ご参考まで。この待宵草も園芸種が日本にやってきて、野生化したんだよね。やはり先駆植物に分類されるそうだ。

参考のタチアオイ

 タチアオイもこのような荒地に勝手に生えてくるのだが、その最初の種はどこから来るのだろう? こういう野生種を逆に園芸用に移植すれば、そこからこぼれ種で勝手に増え、庭がタチアオイだらけになりそうなもんであるが、そういう土地も見たことがない。タチアオイは、だいたい梅雨明けと同時に花は咲かなくなるそうだ。北海道には梅雨は無いが、雨ふりがちにはなる。


(管理人 より)

 こんにちは。お花の話です。
 高塔やソーラーパネルに先生がご興味をもたれるのは、なんとなくお仕事の延長かと推察するのだが、花である。兵頭ファン 黒帯の私にも、正直さっぱり理由がわからない。が、小説の伏線のように、いつか判明する意味が何かあるんだろうと想像し、ニヤニヤしながら画像やキャプションを眺めるのが兵頭ファンのたしなみである。
 因みにマーレイン(ビロードモウズイカ)はニワタバコという別名があるが、薬効のあるハーブとしての利用はできる、らしい。ただ、姿がタバコに似てるからこその別名のようです。
(まさか本当にタバコとして吸えるとは思えませんが。できたらすげえと思います)


『新解 函館戦争』をいっそう理解するための追加写真_解説

(2012年5月28日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

【ごあいさつ】
 いゃ~、やっと出ましたね『新解 函館戦争――幕末箱館の海陸戦を一日ごとに再現する』……。
 構想から何年もかけた、久々の長期企画となっちまいました(『大日本国防史』のすぐ次に出すつもりだったんですが……)。
 しかも写真取材付きですので、ふつうのテキストだけの書籍の数倍の手間がかかった。でも、それが面白いんですよね。これは文章と図版をセットで構成した人でないと分からない! 文化祭の展示みたいなモンか。
 例によって、本が仕上がる間際になって、挿絵向きの良い写真が撮れたりするんですよ。しかし編集がそうとうに進んでしまったところへ、またゲラを大幅に組みなおしてもらう註文なんか、出せるわけもないので……。昔だったら著者は「惜しい!」と悔しがっただけでしょうな。それが今どきは、インターネットにUpすることで、あとから「増補」もできる次第です。ありがたい世の中ですわ。

 それでは以下に、追加の写真をご紹介して参ります。

南大野の無縁集合墓

 「おほひ神社」からそう遠くない路傍にあります。旧地名は「鍛冶在所」。明治元年旧暦10月24日早朝、大鳥圭介らの部隊を迎撃して戦死した備後福山藩士の千賀猪三郎(20)と松本喜多治(17)は、この集合墓に合葬されています。〔(c)Hyodo〕

福島漁港

 冬季の避泊地によく利用された「福島」村の現況です。手前の海は津軽海峡。左手へ10km強行けば白神岬で、そこより外の海では、船舶は北西風にまともに叩かれます。〔(c)Hyodo〕

矢不来の内陸、向こうは茂辺地

 このあたりは中世の「モベツ(茂別)館[だて]」に近く、断崖を登ると意外にもフラットな農地になっていました。新政府軍には、浸透迂回のコースはいくらでもあったことでしょう。〔(c)Hyodo〕

戸切地解説板

 なぜかここのマトモな写真をストックしておかなかったので、挿絵を入れられませんでした。ぜんたいの「結構」がデカいので、超広角レンズじゃないと規模をお伝えできないんですよね。土手の一部だけアップで写しても悲しいし……。あらためて、平面図だけでもどうぞ。〔(c) Hiura Singo〕

干上がった稲倉石

 たまたまダム湖の水位が低い時節に通りかかると、このような写真も撮れます。ロックフィルダムの片翼を依托している、昔の岩盤質の崖面の一部が分かると思います。松前藩はそこを防塞に利用できると考えた。〔(c) Hiura Singo〕

謎のガトリング銃弾

 『開陽』はガトリング砲を積んでいなかったはずなのに、なぜか『開陽』をサルベージしたら、その実包も数発、出土したのだそうで、復元『開陽』内に摸造のガトリング砲ともども、展示されています。それにしても、よくガトリング砲のだと同定できたなぁ…というのが素人感想です。ガトリング砲の口径はいろいろあったんですよ。スネルが河井に2門売ったガトリング砲の口径だって、じつは分かってないのだ。ガトリングが最初に発明したときは実包は「無起縁」のごく特殊な銅管で、それをホッパーで給弾したことは確か。そして日本にはその初期型に近いものが売り込まれた可能性があるでしょう。他方、スナイドル系の「有起縁」15ミリにも、製造地別の薬莢長バリエーションがあったんじゃないですかね?〔(c) Hiura Singo〕

かもめ島テカエシ台場跡

 現状のご紹介のみですが……。鴎島のこちらと反対側にあるもうひとつの台場跡の方は、「快晴で無風で暑くも寒くもなく、次に行くところもないので時間はやたら余っているし、カラダは運動を欲しているな」という奇特なコンディションでもないと、「ついでに行ってみようぜ!」という気に、どうもならんところでして……。せっかくたまにはるばる江差まで来ても、いつも「あっちはやめとこう」となっちまう。スイマセン。〔(c) Hiura Singo〕

かもめ島の南端をみる

 その「反対側にあるもうひとつの台場跡」を望遠しますれば、こんな感じ。1年のほとんどは、荒涼たるものです。〔(c) Hiura Singo〕

鷲ノ木海岸_北から南を

 この写真が欲しかった! 撮影するためには、非電化の函館本線の線路をまたいで汀線まで歩いて出る……というだけのことなんですけど、どうも単独撮影行ですと「村人から不審人物と思われやしないか?」との危惧が先に立ち、足が止まっちまいます。この日は同好の士のカメラで撮ってもらいました。2人連れなら、わざとらしく高声で「説明的会話」をしながら歩き回れますから、怪しくはないですよね。〔(c) Hiura Singo〕

鷲ノ木海岸_南から北を

 同じ岸ですが、目を左に向けますと、こんな様子。釣り人の背後に、小さい河口があります。榎本はその河口を目印に上陸したはずです。この写真を撮ってからさらに後日、地元の歴史愛好家が、〈上陸したのは此処〉と示す木柱を植立したようです。以前にあった類似の木柱は、腐朽してしまったのです。〔(c) Hiura Singo〕

寒川地区を見下ろす

 函館山稜線道路を歩いていると一箇所だけ、このようにずっと下まで見下ろせる箇所があります。書籍には、類似アングルの別な写真が使用されています。〔(c)Hyodo〕

弁天台場跡の函館どっく

 拡大すると、海保の巡視船を乾ドック内でメンテナンス中なのが見えるかと……。〔(c)Hyodo〕

両入江と五稜郭タワーの位置関係

 タワーはずいぶん左寄りに見えると思いますが、真上からみますれば、五稜郭は、ちょうどふたつの海から等距離に位置しているのであります。〔(c)Hyodo〕

乙部町宮の森公園から上陸点を俯瞰

 画面下に見えています植生、これが「イタドリ」(または「オオイタドリ」)です。日本中に生えてるそうですが、特に北海道では競争相手が少ないのか、繁茂しまくり。春先に根もとを掘ってみれば、その生命力の秘密がわかります。何を言いたいかというと、北方防衛は、住民が厳冬も余裕で越せるような「一次産業」をまず考えてやらないと、成り立ちっこないのですよ。ロシアはもっと北方でそれに成功していた。イタドリのように「拡散して根付き、地下の根を木質化させて越冬し、春にダッシュで伸長する」というサバイバル&征服術をマスターしていたわけです。〔(c) Katagiri Yasuaki〕

元和台の崖と人工海浜プール

 写真は、熊石のある方向を望んでいるわけです。熊石まで行く途次には「柱状節理」が露出した海岸があります。〔(c)Hyodo〕

薬師山から木古内町俯瞰

 木古内の近くの道をとおりすがりますと、低地との堺をなす顕著なピークが目につきまして、それが薬師山(72.9m)。この山は戦場とはならなかったろうと思いますが、両軍ともに、見張りを置くのには格好の高所だったでしょう。合戦は、木古内高校とパークゴルフ場の中間あたりが激しかったそうです。この写真ですとフレームの右外になります。〔(c)Hyodo〕

新解 函館戦争 表1 再校

新解 函館戦争 表4 再校


新解 函館戦争―幕末箱館の海陸戦を一日ごとに再現する


(管理人 より)

 出た。『新解 函館戦争』。私は今回もamazonで注文しました。なんでかわかりませんが、今回は届くのが遅い。でも、良いのです。早く読みたいですが、前作の大傑作兵頭本『日本人が知らない 軍事学の常識』を再読すれば良いのです。


日本人が知らない軍事学の常識


2010-12-1 函館基地と掃海艇『ゆげしま』見学

(2010年12月11日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

ごあいさつ
 小生、2002末から函館市内に暮らしているが、いままで、地元の海上自衛隊の基地を見学したことが一度もなかった。なぜかこの基地は、一般公開のイベントをしないようだった(夏の花火大会のときに敷地公開しているのだけれども、あまりの人ごみなので、ためらってしまっていた)。
 いつも外から掃海艇を眺めるだけだった(掃海隊の埠頭は民間や水産庁などと共用なので艦尾のすぐ近くまで近寄れる)。が、このたび、大湊基地の広報の方々や井上公司先生のおとりはからいによって、2隻所在する同型の掃海艇のうちの1隻、『ゆげしま』の中を見学する機会を得た。
 函館基地隊司令の畑中1佐、第45掃海隊司令の山本2佐、艇長の関1尉、そのほか皆々様のご好意に、深謝もうしあげます。

 さて掃海艇の一般公開が難しい理由は単純であった。いつも訓練で出払っているため、港でゆっくりしている日は稀だからなのである。
 第45掃海隊の受け持ち海域は青森県以北、北方領土の境界までだ。そこを、たった2ハイだけでやりくりせねばならないのだ。(かつては6隻体制であった。朝鮮戦争の浮流機雷が減るとともに、隻数も減らされてきた次第。)

 訓練は年に4回ある。ホンモノの機雷を爆破処理する訓練は、片道1週間かかる硫黄島(同島には港がないので父島で給養。もちろん掃海母艦も同行しないと、艇には造水機が備わってないので3日で干上がってしまう)で年1回。
 その他に、九州近海で、模擬機雷を使った訓練が年に3回あるという。これも、長旅だ。

 写真が少ないことについて、お詫びしなければならない。いつもはこういう見学は複数人でするから、一人だけ「群」から離れ、アルバム構成に必要なあれやこれやの写真を気儘に撮り溜めることもできる。ところが今回は、わたし一人だけの訪問だったから、説明に耳を傾けるのと、写真を撮るのとが、両立すべくもなかったのだ。
 しっかりと送迎されてしまうから、埠頭を怪しくうろついて、艇の全景を収めるチャンスもありゃしなかった。スイマセン。

掃海艇 ゆげしま 乗艇  平成22年12月1日

 『ゆげしま』の武装は、両肩をつけて人力でコントロールする20ミリ・ガトリング×1(小生の背後に隠れてしまっている)と、あとは「機雷処分具」という名の有線水中ロボットが投下する小型爆雷(この諸元は秘密のようであった)だけである。
 昔の掃海艇には、単銃身の20ミリ機銃が載っていた。繋維索を切断して浮上させた機雷を爆破処分するのには、その20ミリの1弾が当たれば十分である(岩国のヘリ隊による掃海の場合は、索を切って浮かせたあとで、ダイバーが吊り降ろされて水面におもむき、機雷に爆薬を貼り付けて処分せねばならないという。掃海ヘリには機関砲がついていないからだ)。
 ではなぜ、単銃身の20ミリでは不足であり、6銃身のガトリング(サイクルレートは450発/分)とする必要があるのだろう?
 長年、不思議に思っていたが、今回、答えを知ることができた。艇が揺れるからなのである。
 490トン程度のコンパクトな木造艦は、けっこうグラグラ揺れる。かつまた機関砲には自動スタビライザもついていない。ために、狙って放ったタマが、思ったより散らばるらしいのだ。それでサイクルレートを大きくする必要があるとのことだった。
 とうぜん、甲板がそんなに揺れるとすれば、対空射撃だって、単銃身では満足に当てられないわけだね。

弁天台場の名の由来

 海自の函館基地の所在地を説明するためには、明治2年の箱館湾海戦の案内からせにゃならぬ。
 ここは市営路面電車の終点「どつく前」の目と鼻の先で、厳島神社という。
 だが、本来は「弁(財)天」社だ。江戸時代前半から続いているのだが、明治政府がとつぜんに神仏分離の命令を出したために、神仏習合時代に弁天さまとは近縁であった厳島の末社に、その名称を変更せざるを得なかったようだ。こういう例は全国にあるだろう。もちろん、明治2年の箱館湾海戦時点では、まだ弁天神社だ。
 箱館港(箱館湾内で最も風波をうけないところ)に出入りした江戸時代の船乗りは、皆、この弁天さまを拝んで通ったはずである。
 たとえばこの鳥居は、天保6年に加賀の廻船業者が寄進したもの。神社の場所は、江戸時代以降、埋め立て工事が逐次的に進んで波打ち際から遠くなってしまったことや、あるいは大火事が何度もあったために、幾度か変わっているようだが、現在地には慶應2年からあるという。すなわち箱館戦争時もここにあった。
 この弁天神社があるがゆえに、この一帯の土地を弁天町あるいは弁天岬といい、その沖に武田斐三郎が築造した近代大要塞を「弁天台場」と呼んだのである(文久3年完成)。

弁天神社の92式7.7ミリ機銃

九二式七粍七機銃

 なぜか境内の古い大きな碇の脇に、旧海軍の92式7・7mm機銃の残骸が……。このあたり、WWII中は函館山要塞の陸軍(重砲兵聯隊)とは別に、海軍が視発機雷などを管制して守備していたようなので、その遺物なのかもしれない。

弥生坂を下から見上げる

 正面に見えるのは函館山で、写真手前側が箱館港の旧「沖ノ口番所」跡である。沖ノ口番所では、箱館港から出港する船舶から税金をとった。そこが、港の外縁という位置付けだったのだ。

咬菜園跡から弥生坂を俯瞰

 弥生坂を登ったところに「咬菜園跡」がある。安政4年に豪商が庭園をひらき、武田斐三郎が「粗食」を意味した「咬菜」の名をつけたのだったが、箱館戦争中にはちょくちょくここで酒食の会が催されているから、名称とは逆に、こじゃれた和風レストランなどが併設されて、「経費族」や大商人たちが贔屓にし、賑わっていたのだろう。
 拡大すれば、海上保安庁の巡視船が見えるだろう。その左側に「函館どつく」がある。「弁天台場」を更地にして、埋め立て地を拡張したものである。海上自衛隊は、画面のフレーム外、ずっと右側にある。

元町公園から基坂を俯瞰

 手前の背中向きの銅像は、ここに上陸したこともある提督ペリー。一帯には、15世紀に松前氏の祖先が「ウスケシ河野館[だて]」を築き、19世紀に幕府直轄となるや箱館奉行所とされた。そこが港の一等地であった証明として、坂道の向かい側は旧英国領事館である(世界中どこへ行っても英国大使館は良い土地を確保している)。
 明治2年に徳川脱籍軍の幹部・永井玄蕃が弁天台場へ籠る直前には、この辺に陣していたと思しい。このすぐ下の土地には、安政3年に「諸術調所」ができて武田斐三郎が教えていた。
 そして坂の突き当りが海上自衛隊の隊舎。昭和40年代に、古い「函館税関(箱館運上所)」の木造ビルを取り壊し、最低予算で味も素っ気もない鉄筋ビルが建った。

旧運上所の遺跡
旧運上所の遺構

 函館税関は近代日本最古の税関の一つで、港の正面、大町の顔として、木造ながら凝った建物であった。壊すのが惜しまれた石製の遺構は、記念に残されている。たとえばこの外柵柱。自衛隊のブロック塀の裏側に、こんなふうに「保存」されているわけだ。またこの駐車場のアスファルトの下には、明治時代の石畳がそのまま埋まっているともいう。

明治天皇上陸地
函館基地から旧地蔵町を望む

 海自の敷地内に、明治天皇が函館行幸のさいに上陸あそばされた斜路が、そっくり保存されている。
 箱館戦争で『回天』が擱座して浮き砲台となったのは、このあたりから左寄りであったはずだ。最後に荒井郁之助と部下たちは、陸側から銃撃されるために大町へは上陸できず、端艇で画面左奥の海岸へ逃れた。その先は千代ヶ岱であり、五稜郭であった。
 画面の右側海面が「内澗」である。

朝鮮戦争時代の浮流機雷

 ソ連軍がウラジオストックから、羅津など北鮮の東海岸にやたらに敷設した機雷の一部は、繋維索が切れて漂流し、裏日本を中心に大量に漂着することになった。その機雷に海岸で子供が手を触れて爆死したという事例もあった。稀には、九州をぐるりと回って関東沖まで流れついた機雷もあった。津軽海峡は2~4ノットで常に太平洋への潮流があるから、青函連絡船も触雷をおそれて夜間は運休を余儀なくされたものだ。
 ところで、もう今日では「水圧」変化に感応する機雷センサーは使われていないのだという事実を、今回の見学で小生は承知した。ふつうの波の変化にも反応してしまうために、けっきょく実用的ではなかったんだそうである。なるほど、それならばヘリコプター掃海も、磁気と音響の再現に集中すれば可いわけだね。

機雷処分具と艇長関一尉
機雷処分具のビデオカメラ
機雷処分具のライト
機雷処分具の前半
機雷処分具の後半

 有線でビデオをモニターしながらリモコンし、ソナーで機雷を見分け、そこに小型爆雷を投下して処分までしてしまうという三菱重工製の水中ロボットである。正面中央下側の目玉がビデオカメラで、両側の2個は照明だ。黒い大きな窓はソナー。

 最新型のFRP製掃海艇(外側サイズは変わらないのだが、資源枯渇の見込まれるアメリカ松材をFRPに換えたことによって部材が薄くでき、内部空間が増え、それで排水量が増したという。じつは小生、2003年版『自衛隊装備年鑑』しかもっとらんため、それ以上は不詳)では機雷処分具は2個載せて行くという。『ゆげしま』が属する490トンの『うわじま』クラスでは1個である。
 掃海艇は、小回りが効かないとどうしようもないので、やたらにデカくはできない。
 機雷探知のためのソナーは、本艇の底にも大きいのが固定されている。本艇の吃水は2m台なのであるが、このソナーは水面下4m台までも突き出しているという。
 機雷探知用のこれらのソナーは、いま流行の低周波ソナーではない。低周波ソナーでは、小さなものの区別がつかないからだ。海底には金属のゴミもたくさん落ちているから、それでは困ってしまう。低周波ソナーは、あくまで浅海域での潜水艦探知用らしい。
 この他、海底地形を詳しく調べるため、水中を曳航できる深度可変式のサイド・スキャン・ソナーも、本艇は運用することができる。
 水中処分員の人にいわせると、水中ロボットがダイバーの仕事をなくしてしまうことは絶対にないそうだ。

 さて余談だ。510トンの『すがしま』級掃海艇にはバウスラスターが装備されている。騒音源や、帯磁スチール部品が増えてしまうという不利を忍んででもバウスラスターをつけた理由は、掃海作業ではピンポイントの精密操縦が必要になるからである。たとえば豪州海軍の掃海艇では、クルージング用には普通の1軸スクリューを使い、掃海作業中は、出し入れ式の首降りスクリューを3基、船底から突き出すことによって、艇のその場旋回すら可能にしているという。
 つまり小さい割にはハイテクと職人芸がてんこもりされているのが掃海艦艇なのだ。シナ海軍には、このような伝統資産や海軍文化は無い。つまりシナ軍の最大の弱点は、機雷戦なのである。彼らには、掃海はできない。ハイテクの沈底機雷少数と、ローテクの係維機雷多数を沿岸に撒かれたら、シナはおしまいなのだ。それは彼らの経済的チョークポイントであり、戦略的ボトルネックなのだ。このへんが「シナ通」の論筆家にはさっぱり分かっておらず、逆の言説すらよく目にする。機雷を撒かれたらお手上げなのはシナ軍の方である。

 ちなみに海自で機雷を撒けるのは潜水艦と、2隻の専用水上艦と、あとはP-3Cだけということになっている。が、じつは機雷を撒こうと思ったら、プラットフォームは何でも可い。国際条約により、機雷は撒いた国が、あとから処分しなければいけないので、撒いた場所の座標を精密に記録しておくためには、専用の艦が望ましいというだけなのだ。そんな手間はしかし、設定時間が過ぎれば自動的に無力化または自爆する機構を機雷にビルトインしておけば、不要である。
 こうしたピンポイント精密作業の大前提になるのは、精密な航法装置である。わたしは今回初めて知ったのだが、海自の掃海作業ではGPSの他に「デッカ」航法装置を使っているという。デッカで「5cm」の精度が得られるのだという。驚くべき話だ。デッカは長波なのに、本当だろうか?
 調べてみると、漁船や商船用に海保が運営していたデッカ・チェーンは日本では2001-3-1をもって廃止されているのだ。
 海自掃海隊のデッカは、そうした民間向けサービスとは別個のものらしい。なんでも、車両でアンテナを陸上運搬し、高さ数十mのアンテナを沿岸に立てて、その近くで掃海艇が掃海作業をするのだという。いや~、しりませんでした。(もちろん2003年度版自衛隊装備年鑑には、ひとっこともそんな紹介は載っとりゃせんw)

曳航して係維索を切断するカッター

 ごく小さいもの。まさに職人芸だと実感させられる。これを使う前には索の長さ(=機雷の浅さ)を正確に見極めねばならない。敵は、目標とするわが艦によって、敷設する機雷の深度を変えてくるのだ。つまり、小型舟艇はやりすごし、大型艦船だけ狙うという手が、よく使われるためだ。
 他にもいろいろな設備を見せていただいたが、説明を拝聴しながら写真を撮ることができなかった。スマソ。
 ちなみに、ブリッヂ内には、衝突防止の見張りをちゃんとやっているかどうかをさらに見張る天井監視ビデオの設備(ふつうの護衛艦には取り付けられている)は、ないようにお見受けした。

ゆげしまの士官食堂

 余市の200トン・ミサイル艇は、激動する艇内での調理をかんぜんに諦めており、すべて港から運び込んだ缶メシのようなもので済ませると聞き及ぶが、490トン掃海艇は、蒸気熱を利用するキッチンを有する。
 そこで敢えて「体験喫食」を申し込んだ次第であった。
 この日は水曜日であったが、わざわざ昼のメニューを変更し、海軍カレーを出してくだすった。しかも、普段とは逆に超甘口で……。かたじけなし。
 若い艇長さんのお子さんは幼稚園だという。恥ずかしながら、オレ50歳っすけど、子供、幼稚園っすから。

巳己役海軍戦死碑

 明治2年の旧暦4月から5月にかけて、箱館湾で、当時としてはスペクタキュラーな本格海戦が展開された。この碑は弥生坂を「咬菜園」よりももっと上の、標高80mくらいまでも登った見晴らしのすぐれたところに明治6年12月以前に建てられたようで、官軍の『甲鉄』『朝陽』『春日』『飛龍丸』の全戦死者の姓名が刻まれていると思しい。
 轟沈させられた『朝陽』を除けば、『甲鉄』の死者が『春日』より多いのが目に付く。これは宮古湾海戦での犠牲者もカウントされているからか?
 一層、意外なのは、この碑を信ずるならば、『丁卯』や『陽春』や『豊安丸』その他は、戦死者ゼロだった可能性があることだ。

官軍海軍墓地の墓
官軍海軍関係の墓碑
鹿児島士族の墓
ある鹿児島藩士の墓

 巨大な巳己役海軍戦死碑の脇に3基の小さい墓石も立っている。いずれも鹿児島士族のようで、この墓地の性格が想像できる。

箱館府在住隊の戦死碑

 同じ官軍海軍墓地内に立つこの碑は、明治元年に徳川脱籍軍が鷲ノ木に上陸してきたのを最初に迎え撃って、小銃の性能の悪さと指揮官(清水谷公考・箱館府知事。ただし薩人の参謀がついていた)の無能から惨敗した、幕末入植者の士族の戦死者名が彫られていると思しい。彼らの多くは「八王子同心」の二・三男の子孫で、もともとは幕臣だった。その緒戦をいっしょに戦っている松前藩士や津軽藩士等の他藩の戦死者は顕彰されていないところも興味深い。

市役所横水天宮の大砲
朝陽からサルベージした大砲

 榎本海軍の『蟠龍』のラッキー・ヒットは『朝陽』を轟沈させた。戊辰戦争を通じ、最初で最後の「撃沈」でもあった。水深は小さかったので『朝陽』は後年にサルベージされ、積まれていた古い大砲などは、広範囲に記念品として分配されたようである(大湊基地には『朝陽』の外板にめりこんでいた散弾や釘が記念品として保存されている)。寺社などに寄贈された『朝陽』の大砲のほとんどはWWII中の金属供出の犠牲となって消滅したというが、1門だけ供出をまぬがれたらしいのがコレ。地元の「銀ぎつね」さんのブログ・ページで紹介されていたおかげで、こうしてわたしも写真に収めることができた。


(管理人 より)

 函館は良いね。一度行ってみたい場所の一つである。
 2010年の12月。現在『兵頭二十八の放送形式』停止中である。
 複数の方々が再稼動、或いはまったく違うカタチでの起動に活動されている。
来年は、ネットでの更なる『兵頭二十八』を見れるよう、兵頭ファンとして祈るばかりである。そして、2011年は更に更にパワーアップした『兵頭二十八』を見れるだろう。
 やはりまだまだ兵頭二十八先生から我々は目が離せない。
※2020年現在、函館には既に行きました。当時なんで『停止中』と書いているのか、理由が思い出せません。10年前の話だもの……。


むつ科学技術館のアメイジングな展示の数々

(2010年10月11日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 2010-9に大湊基地を訪問したついでに是非立ち寄りたかったのですが、日程的に見送らざるを得なかったディープ・スポットが「むつ科学技術館」です。あの原子力船『むつ』の核心部分が移設され保存されているのです。

 ここに、兵頭の代わりに、井上公司さんが行ってくださいました。今回、ご紹介できるのは、すべて井上先生の撮影された写真です。
 非常に貴重な展示内容であることがお分かりかと思います。これが館側によってインターネットでじゅうぶんに広報されていないのは、遺憾だといわざるを得ません。
 そこで管理人さんに頼んで特設コーナーをつくってもらった次第です。関係各位のご協力に感謝します。

 むつ科学技術館は、青森県の下北半島の北端にあります。
 自動車で行かれる方へのご注意。過疎地だとおもって舐めていると、移動にかなり時間をとられます。「むつはまなすライン」は、急ぐ方にはむいていません。交通が比較的にすいているのは、太平洋側を走る国道338号線の方だそうです。

 以下、おまけ情報。
 むつ科学技術館と下風呂温泉の中間の大畑町、たぶん「塩釜神社」や「二枚橋」というところ辺りだと思うのですが、「大間鉄道の遺跡」(鉄橋とトンネル)が残っているそうです。この大間鉄道というのは、WWII中に函館の「戸井線」と同時に着工された戦略鉄道で、要するに青函連絡航路が長すぎていろいろ効率が悪いというので、津軽海峡の最短部で北海道の石炭を本州へピストン輸送しよう画策した新線です。戸井線も大間鉄道も、鉄橋やトンネルをつくったところで資材不足により計画が放棄されてしまいました。

 また、JR下北駅から、下水浄化センターの方向(南)へ、500mほど行った海岸地区には、「日本特殊鋼管大湊工場跡」が残っているそうです。これは昭和13年に、砂浜に大量にある「砂鉄」から製鉄をしようとしたものでしたが、操業5年で終わったそうです。よほど効率が悪かったのでしょう。ちなみに、太平洋無着陸横断のミスビードル号が淋代海岸から離陸できたのも、砂浜が砂鉄質で堅かったためです。

ケーブルはどうやって通すか
バビル二世の部屋
むつのレイアウト
むつの外鈑
むつの甲板
むつの上甲板
むつの操舵室
むつの二重船殻
鉛ガラス越しに
機関制御盤
原子炉ハッチカバー
原子炉室説明
原子炉制御盤
主蒸気元弁
重コンクリート入り遮蔽体
小型原子炉
昔のモニター奥が深い
船首側隔壁
電源制御盤
配置図面
舶用格納容器
舶用炉のカッタウェイ
非常給電指令装置
防振ハンガー

撮影/井上公司


(管理人 より)

 青森は良い所らしい。私は行った事がないが。青森の方言の女の子はとても可愛いらしい。と、青森から異動してきた同僚が行っていた。
 青森はとても良い所らしい。良い所らしい。良い所らしい……誰か私を連れて行ってください。


2010-9-23 男爵資料館/2010-9-24 大湊基地

(2010年9月28日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

じんつうと釜臥山

 護衛艦『じんつう』(DE230)の後藤艦長にご案内いただいた。『じんつう』は、ガスタービンとディーゼルの切り替え式で、両方同時に駆動させることはない。またSSMはハープーンである。新しい艦は国産SSMだけを使用し、ちょっと古い艦は国産SSMとハープーンを混用するという。

護衛艦じんつう

 網状の対空レーダーが時代を感じさせますね。主砲塔と艦橋の間のすきまは、RAMという米独合同開発の「対ミサイル・ミサイル」の調達を予期していたのに、その予算をとりそこなった結果らしい。後部甲板にはCIWSがあって、ヘリは着艦できないが、ワイヤーを緊張しつつホバリングさせて給油してやることはできる。

76mm砲のマズル

 オットーメララの76mm自動砲(無人)は、射撃開始前から海水を砲身外套筒中へ圧送し、このスリットからじゃあじゃあと滝が流れ落ちるようになっている。もちろんクーリングのため。マズルには、発射ガスを後ろへ反射させて反動衝撃を2割ほど緩和する機構があり、またエバキュエータで排煙もする。砲塔内は無人なので、薬室のブロアは不要なのだそうです。金属薬莢が砲身下から激しく蹴り出されると、甲板上のペンキがガリッと削られる。それをあとからリタッチするから、砲塔周りの床の塗装には微妙な色ムラがある。

すおう

 多用途支援艦の『すおう』。大湊基地にはFTGといって、ローテーションでドック入り中の軍艦の、艦長から水兵までに対して、プロ中のプロたる叩き上げ将校~下士官たちが、マンツーマンで基本動作を再教育するという部隊のひとつが所在する。陸奥湾内で、たいていの訓練ができてしまうそうで、冬はたいへんだけれども、めぐまれた環境だと思った。

除籍ミサイル艇

 ちょっと遠いんですが、余市にあった『ミサイル艇3号』が見えるでしょうか? すでに除籍されていて、これから解体されるんだそうです。ちなみに余市のフネは、冬になると全艦、この大湊へ「避泊」すると聞いたことがあります。あと、海幕は、どうしてすべての軍艦にバウスラスターをつけないのか、納税者に説明して欲しい。はるかに教育も人事も合理化されるはずじゃないか。

管制塔から

 大湊のヘリ滑走路は、海自でも最大の広さ。ところがその管制塔にはエレベーターがない。111段をいちいち昇り降りする職場なんて想像できやすかい? いちおう外壁には避難梯子あり。滑走路は、3センチ雪がつもったらただちに除雪。さもないと除雪車がスタックする。釜臥山の山頂では、現用レーダーの隣に、新しいガメラ・レーダーが据付け工事のまっさいちゅう。

チャフとフレア

 これはSH-60の対潜バージョンの機体左側についている、チャフ・ディスペンサーとフレア・ディスペンサーである。丸いのはボイスレコーダー。フレアは30連発で機体右側にもある。チャフ装置は機体右側にはない。

HFアンテナと折畳み尾部

 海自では短波(HF)の使用頻度がかなり多いようで、この棒も短波用とのこと。最新のSHのエンジンは前方エアインテイクに金網はない。吸い込んだ空気をまず激しく旋転させ、遠心力でゴミなどをはじき飛ばしてから、空気のみをタービン・エンジンのコンプレッサへ送り込むようになっている。最近流行りの掃除機って、この仕組みを家電品に転用しただけ? そして排気は、有害なタービュランスを殺して整流してから後方に吐き出す。

富士通製の赤外線探知装置

 たとえばこれで擬装漁船をみつけて、そこへヘルファイアを撃ち込む……のかどうかは分かりません。救難用のUH-60が7時間滞空できるのに比して、SH-60の滞空時間は3時間数十分。その代わり、ホバリング状態で護衛艦から給油ホースをホイストで吊り上げ、機内の給油口に結合し、艦側から航空燃料を圧送してもらうことができる。この方法によれば、滞空時間は無制限。ディッピングソナーは500mまで5分で下ろせるそうです。

ESMとミサイル警戒装置

 ESMは電波輻射をパッシヴに受信して怪しい船の存在を探知しようとするものです。大小のアンテナがあるのは、波長の長短と対応するらしい。小さいガラス窓は、艦対空ミサイルの赤外線に反応して、パイロットに回避動作を促すセンサーでしょう。白い円筒状のものは、データリンク用のアンテナです。

留式機銃残骸

 昔の水交社の建物が「北洋館」になっており、その中に、戦後に出土した留式機銃が2艇、展示してあった。外側のジャケットが錆びて失なわれているために、内部のアルミ製の空冷フィンがよく分かる。

ルイスMG復元

 ルイスの7.7ミリを日本海軍が無断でコピーしたのが92式だ。芦崎の周辺は常に浚渫していないと軍港への出入り口に泥が堆積してしまうそうで、そうした作業中にでも掘り出されたのかもしれない。ちなみに水深の関係で、大湊には空母は接岸できない。沖に碇を打つしかない。

空挺用スキー

 手前は、旧海軍の落下傘部隊が、寒冷地作戦用の装備として開発した、折畳みスキーだそうです。しかも軽合金のようだ。

海軍煉炭

 枕ぐらいサイズのある巨大煉炭です。そこで思ったのだが、コメ袋と同じサイズで煉炭をつくれば、精米輸送トラックで家庭まで配給できるんじゃないか? つまり流通インフラを別設計としなくても、米穀用の小改良で済むんじゃないか?

朝陽の散弾

 明治2年の箱館湾海戦で唯一、「轟沈」という目に逢ってしまった官軍の『朝陽』をサルベージしたら、こんな散弾が外板にめりこんでいたそうです。大阪湾でも宮古湾でも、とにかく艦砲の対艦決着率は悪かった。そんななか、『回天』は真後ろからの一弾で水線下の偏芯輪(エクセントリク)を壊された。『朝陽』も、あるいは真後ろからの『蟠龍』の砲弾が後部甲板ハッチ内に飛び込み、中央煙路で跳ね返って、船体後部の集積弾薬に点火させたのであったかもしれません。ちなみに当時の大湊は一漁村にすぎず、官軍艦隊の基地としては三厩と青森が多用されています。

ベルト駆動力の取り出し装置付き

 こちらは大湊の前日に立ち寄った、渡島当別の男爵資料館にあるクレトラック装軌式トラクターです。やっとシリアルを解明できました。Cletrac は Cleveland Tractor Company の略です。同社特許のディファレンシャルのおかげで、誰でも重いトラクターを自在に取り回すことができるようになりました。

エンジンシリアル30141

 WEIDELY MOTORS COMPANY 製で、SERIAL 30141 と読めます。MODEL M というのは多分エンジンの形式であって、車両の形式ではないですね。英文ネット検索情報によれば、ENGINE SERIALが30001~43068のものは、1917年から1919年の間に製造されたクレトラック「H」型だそうです。こりゃ間違いなく現存する日本最古の装軌車ですよ。

当時の履帯技術

 これってルノーFT戦車と同じ頃の履帯なのですよ。眼福、眼福……。

クレトラックの下部

 実物保存というのは貴重ですなぁ。

車体シリアル1015?

 中央部のエンボス刻印は近寄っても判読ができないんですが、左側のは「1015」(上下逆)です。英文ネットによると TRACTOR SERIAL NO. が1001~13755のものは、「H」型です。

ザ・クリーブランド

 The Cleveland とエンジンカバー上にエンボスされています。直列4気筒。始動だけがガソリンで、そのあとは灯油だったでしょうか。

車体後部から

 なお、男爵資料館は、冬季は閉館ですので、ご注意ください。JR渡島当別駅からすぐです。まったく余談ですが、函館と東室蘭の間の国鉄は電化されなかったために、今でも札幌~函館の特急はディーゼルなんだぜ! 早く新幹線をつなげてくれ。


(管理人 より)

 巷ではコントのような対中外交が展開されています。それはそれで、男爵資料館──そして、大湊基地。
 『兵頭二十八の放送形式』は、なぜか兵頭先生から投稿がうまくいかず無期限停止状態ですが、コンテンツのupはありますよ、時々。有難い事です。


2010/2/16 防衛省オピニオンリーダー・防衛政策懇談会 合同部隊見学

(2010年2月23日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

■平成21年度の「防衛省オピニオンリーダー」と「防衛政策懇談会」の合同部隊見学は、平成22年2月16日に行なわれ、場所は空自の浜松基地であった。引率は防衛省大臣官房広報課。

 今回のツアーも、函館→羽田→早朝に入間集合→浜松というコースではワタシ的にマジ厄介すぎるので、名古屋空港経由、浜松市内に前泊をして、当日朝に基地でみなさまご一行と合流をさせて貰うことにした。(帰路だけ入間へCH-47で。)
 セントレアでショックだったのは「スタディ・ルーム」という店舗が今月下旬に名古屋市内へ引っ越してしまうという話。田舎ではあのレベルの舶来教育用玩具をデパートで選ぶことができないため、貴重な店舗だったのに……。

 浜松市には、あの京野一郎先生がお住まいである。わたしは駿河湾名物だという白魚料理をご馳走になりつつ『なるほど、これが成長するとウナギになる。つまり、出世払いで可いというナゾか…!』と納得しながら、〈伝え聞く、さいとうプロの最近の苦境から察して、『ゴルゴ13』の連載の終わりがいよいよ迫っているのではないか? あるいは、御大なきあとも連載が続くような仕事モデルを構築中なのであろうか〉と、キワドすぎる質問をぶつけてみたが、京野先生はとつぜん口を濁され、それについて一切語られることはなかったのである。さらにわたしが深く追及しようとしたところ、「帰ってくれ! そんな話をするなら、もう帰ってけれですたい!」と、逃げるように一品料理屋を出て行かれたので、いそいでそのあとを追ってわたしも店外に駆け出そうとした刹那……!
 「お客さん、困るんですよね。この不況でしょ。最近、多いんで……」と、ガタイの良い板前氏がわれらをブロックして片手を差し出すではないか。
 そうなんだよね。ホンダがオートバイを作らなくなり、ヤマハもヤマハ発動機のとばっちりでピンチが来たとささやかれ、せっかくできたブラジル公使館もブラジル人労働者が帰ってしまって仕事がないとかいう、やはりここも、いろいろなことになっている気配の浜松市の夜は更けた。

F-2でサムアップ
F-2うしろアップ
F-2のバルカンの弾倉
F-2右主車輪
F-2脚根本・F-2点検パネル・F-2背・F-2脇前・F-2右横腹・F-2下腹

 さて航空自衛隊浜松基地は何をするところか。
 まず航空教育集団がある。
 別な基地(たとえばシズハマ)でT-7による初等操縦訓練をした生徒は、次に福岡の蘆屋でT-4に慣熟してからこっちに来るという。
 そして、エンジンまで純国産のT-4練習機で1年間、合計96時間の飛行をすると卒業だという。
 ※これを12で割ると月に8時間となる。そんなもんなのか?

 離着陸、緊急降下、ストールからの回復、地文[ちもん]航法によるナビゲーションの訓練などがカリキュラムに入っている。

 ちなみにシズハマは古い基地なので低地にあり、霧は出ない。しかし最近なにかと話題な「静岡空港」は台地に造成したため、霧でたいへんだという。

 基地の周辺はとうぜん市街地で、窓は全部二重サッシになのだと、京野先生が教えてくれた。T-4だから音のレベルも低い。

 航空教育集団の下には、第1術科学校がある。
 ここではF-15やF-2の整備員の教育をやっていた。整備訓練専用の機体が用意されているのだ。
 一連の写真は、その地上整備訓練専用のF-2だ。パネル類がぜんぶ開けられて、丸裸状態でわれわれのカメラの前にさらされているのであった。

 タイヤを撮影しておいたのは、このF-2のタイヤが1個30万円だという説明があったので、個人的に興味を惹かれたため。
 パンクなどぜったいにしないかと思えば、そうでもなく、毎年1回以上は、必ず発生するものなのだそうである。原因は、滑走路に小石のようなものが落ちていて、それを踏むことによるらしい。そうか、戦闘機の弱点は、足にあったのか。

 建設工事に詳しい加藤健二郎氏に訊いたら、タグボートが緩衝用に舷側に吊るしているタイヤも、あれもぜんぶ飛行機用のタイヤなのだという。自動車用タイヤでは、船舶のショックアブソーバーにはならぬらしい。(加藤氏もオピニオンリーダーのメンバーなのだが、16日はたまたま大場久美子のコンサートの前座演奏のリハが重なって不参加になってしまった。それにしても大場久美子氏がオレより1歳年上だったとは、なんだか信じられん。)

E-767模型

 やはり浜松といえばAWACSであろう。
 ところがあまりにも秘度が高すぎ、「格納庫内の撮影不可」「機内の見学もお断り」と知らされた。よって、写真が1枚もない。すいません。
 しょうがないので、「教材整備隊」(空自の教育用に材木などからジェット機のスケール・モデルを手作りしてしまうなんともヲタッキーなセクション)が製作した模型の写真(エアーパーク内にあり)で、かんべんしてもらいませう。
 実機の接写がダメだと事前にわかっていたら、京野先生のターボ付きジムニーで正門に乗り着ける前に外柵を一周してカメラ小僧たちといっしょに離着陸訓練中の実機を撮影しといたのにな~。

 このAWACS区画は、浜松基地の中でもさらに鉄条網の囲いがしてあって、基地の広報官も、これまで立ち入ったことがなかったので今日はうれしいとか話していた。どんだけ秘密なのよ。

 浜松の警戒航空隊は600人。三沢の警戒航空隊は360人ほど。
 機体だが、日本のAWACSは世界でも珍しいE-767(双発機)である。米軍とNATOはE-3(四発機)である。こっちが普通だ。
 浜松にはこのAWACSが全部で4機ある。うち1機は常にメーカーに預けて整備させている。だいたい半年間かけて整備するという。

 1機のE-767の中には、20~36名が乗り組める。胴体後方には、くつろぎのためのスペースもある。滞空10時間、往復4時間だから、広くないと生身の人間の肉体がもたない。
 操縦訓練は、民間の全日空(日航ではなく)に依頼している。

 日本のAWACSには、ESM能力がない。※つまり北鮮ミサイルのテレメトリーなどは聴きとれない。おそらくその仕事はEP-3相当機がしているのか。
 ※さらに邪推。海自はいまや空自よりも、米国からみて「ティーチャーズ・ペット」になっているのだろう。

 また日本のAWACSにはECM能力がない。つまり敵戦闘機やAAM/SAMに対する自衛能力はゼロなんである。チャフもフレアも無論なし。
 あと驚いたのは、日本のAWACSは船舶の大小を識別できないという。その能力に関してはむしろ三沢に13機あるE-2Cの方があるという。

 また、E-2Cは、離陸して1時間でシステムが立ち上がるが、AWACSはそれに数時間かかってしまうという。※ロイタリングの現場に着くのに2時間かかるようだから、2時間前後なのだろうと想像するが、もしそれ以上かかるのだとしたら、困っちゃうよね。

 日本のAWACSは、地上や海上や空中の友軍と見通し距離通信でのデータリンクはできるのだが、「リンク16」を衛星経由でつなぐことはできないという。※信じ難いが、対衛星アンテナそのものがないという。すなわち海自が米海軍と一体なのに比し、空自は米空軍とは通信面で分離しているのである。

 情報処理系のハードもソフトも、米軍/NATO軍のAWACS(E-3)に比べて2~3世代古いものであるという。しかしそれでもシナ軍のAWACSよりはマシなようだ。

 空自はこんどの予算要求で、AWACSの能力向上をしたいと要求を出している。具体的には、ウェイポイントを〔顕著なランドマークや地文とまったく関係なく〕GPS座標のみでバーチャルに設定し、リアルに空路を確定して管制するという能力が、是非とも欲しいようだ。これはもう世界の趨勢なんだそうで、日本だけできないでは済まされなくなるという。

 もうひとつ驚いたのは、日本のAWACSは、どこから飛んでくるかわからぬ巡航ミサイルは、まず探知などできない――とのご説明だった。北朝鮮のシルクワームは、いつどこから発射されるのかおおよそ分かっているので、日本のAWACSでも探知ができるのだという。
 本当か? そもそもE-2Cを導入した理由が、ベレンコ中尉のミグ25を奥尻のレーダーサイトが失探したことであったのだから、低空飛行物体を探知できませんでは済まされぬ話だろう。それじゃ、これまでずっと納税者を欺いてきたのかい?
 今じゃ、シナ軍、台湾軍、韓国軍も、みんな長射程の巡航ミサイルを装備しているんだぞ。どうすんの?
 むかし戦車マガジン社からF-117についての別冊を出したことがある。たしかそのネタ元の一つであった洋書によれば、レーダーの反射信号の強さは、標的物体のサイズとは無関係なのであって、ただその形状とのみ関係があると書いてあったと記憶する。それを信ずるなら、特にステルス設計ではない旧世代の巡航ミサイルがAWACSで探知できないというのはおかしな話だ。もしそうなら、旧ソ連時代の潜水艦発射式の巡航ミサイルだって、探知などできない相談でしたよ――ということになるじゃないか。
 この話を聞くにつけても、わたしは、空自はいまや米軍からは継子扱いされて放任されているのであり、海自だけが可愛がられているのではないかと疑わざるを得なかった。

PAC3キャニスタうしろ
PAC-3ディテール
パック3キャニスター

 浜松には空自の高射教導隊もある。
 珍しかったのは、ペトリオットPAC-2スタンダードの米国における実射動画だった。まずいったん、いちばん高いところまで上がってしまってから、落下をしつつ標的に命中した様が、ビデオでは克明に撮影されていた。
 ※つまりその時点ではミサイルはモーターを吹かしておらず、慣性飛行。だから、敵機がハイG機動すれば、ふりきられる可能性もあるだろう。

 PAC-3についての類似実射のビデオは、拝観することを得なかった。
 写真の「発射機」は、銘鈑によると、2008年9月の三菱重工製だ。
 PAC-3は、Fu(ファイアユニット)を構成する車両群が、従来の無線によるだけでなく、妨害等に強い光ファイバーででも接続できるようになっている。

 空自隊員によるスティンガーの実射動画(於・米国)も、珍しいと思った。というのは、標的が、なんと、「MQM-107」という大型ロケット弾なのだ。それの上昇中にスティンガーの狙いをつけて発射して撃墜してしまうのだ。ビデオが編集されていたのかもしれないが、あまりのクイック・レスポンスなので、唖然とさせられた。

ラインメタル20ミリ全景
ライメタ20ミリ座席

 浜松基地のもうひとつの名物が、民主党の「事業仕分け」で槍玉にあげられた、航空自衛隊浜松広報館(エアーパーク)だ。
 けっきょく、あの騒ぎのおかげで、いまでは入場料を¥400-とるようになっていた。

 展示品の中でわたし的に珍しいと思ったのは、ラインメタルの双連20ミリ対空機関砲の実物だ。1970年代に、数セットを輸入して、千歳基地で運用試験をしていたという。が、けっきょくM-55の後継アイテムとしては、米国製の20ミリ・ガトリングの方に決まったのである。

 あと、錆だらけの胴体とエンジンだけが回収されて、それに主翼などをつぎ足してレストアした零戦五二型も、吊るされていることは、みなさんがご承知の通りだ。

92式重爆をヨコ上から
92重爆正面
九二重爆ななめ後ろ
イ式重爆
初風エンジン
木製の増加燃料タンク
木製増槽の注意書
零戦五二型を横から
ユンカース双爆
91式飛行艇
92式重爆ヨコ

 わたし的にはエアーパークよりずっと濃厚な内容に思えたのが、外見「あばら家」の「基地資料館」。
 木造平屋で、目立たないことおびただしい。
 この中には、西村得之という人が材木でゼロからこしらえたという約190機の「1/50」スケール・モデル・プレーンが展示してある。はたしてそれは、どのくらいの精密さなのか。とりあえず「九二式重爆撃機」でご確認いただきたい。
 他にも、市販のプラモデルには過去に一度もなったためしのない激レアの旧陸海軍機がズラリと並んでいたのは圧巻なるも、ディスプレイのショボさが遺憾であった。
 都合により、ここにピックアップしたのは、いずれも1/50の「イ式重爆」と「91式飛行艇」と「ユンカースK-37 (愛国號塗装)」のみ。

 資料館には、他にも、「木製増槽」の実物(レプリカは札幌の開拓記念館にもあるが)や、初風エンジンの復元品などが保存展示されている。どうしてこれらをエアーパークの方に展示せぬのか、わたし的には理解不能であった。

 最後に「資料館」への不満を書いておこう。戦中にここにあった、旧陸軍の重爆聯隊や「飛龍」関係の史料が何も無いように見えるのはなぜ? せっかく基地内にスケールモデルの工作隊がいるんだから、1/1モデルをつくったら、呼び物になるじゃないか。浜松空襲や艦砲射撃の史料が充実していないように見えたのも、拍子抜けだ。「艦砲射撃体験館」をつくりましょうよ。ぜったい面白いから。


(管理人 より)

 結構、久しぶりの『資料庫』更新である。
 兵頭ラジオが始りそうだったり、JSEEOの兵頭講演会はもうないのかな、などと思ったり、兵頭ファンには激動のこの頃である。
 今年は兵頭先生、更なる飛躍の年になる筈である。どこまで高みを目指されるのか、兵頭ファンとして今年も『兵頭二十八』から目が離せない。


蟹工船のペーパークラフトが出来たよ

(2008年12月26日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 小樽に住んでいて、北大の講師などもなさっているわたしの友人の片桐保昭氏(ご専門はランドスケープデザインだがPCを使った製図なら何でもやってしまう)が、このたび「市立小樽文学館」の企画として、「小林多喜二の蟹工船 博光丸」を考証し、そのペーパークラフトを設計した。

 この面白模型がもうじき発売になるらしい。
 兵頭はその試製品を頂戴したから、そっくりそのままデジカメで撮影してご紹介する。

 どこにも縮尺が書いてないので困った。リアルの「博光丸」は全長95mであったという。このペーパークラフトの「甲板」を実測したところ、長さは18cmちょうどである。

 写真は、最終検討品らしく、赤ペン修正が一部入っており、実際に販売される商品とは微細なところで異同があろう。
 定価も不明なのだが、ご興味のある方は「市立小樽文学館」(これまた連絡先がどこにも書いてない)まで、問い合わせてみてください。

 ところで有能なる失業者諸君! 海上自衛隊の艦隊勤務ならば、まだまだ募集があるらしいぞ。きょうびは誰もフネになんか乗りたがらないらしいのでな。(潜水艦だとインターネットもできんだろうけど、情報弱者のキミには天国だ。)このさい、四の五の言わず、男らしくチャレンジしてみることを勧める。文字通り、大船に乗った気持ちになれるかも……ネ! 来たれ、イン・ザ・ネイヴィ!!

蟹工船Pクラフト

組立て図

博光丸せつめい


(管理人 より)

 蟹工船。今年(去年?)、えらく話題にのぼった作品でもある。後藤芳徳さんのblogに『蟹工船くらい働けば、人生開ける』と書いてあって、読んだ事もないのに、どんな話かわかった気がしたものだ。
 皆さんは蟹工船読んだ事、ありますか?
 読もうといま思ったアナタ。読まねばならぬのは、来春発売予定の兵頭本『予言 日支宗教戦争』ですよ。
※さすがに2020年現在『蟹工船』は読みました。ところで、後藤芳徳さんは今どうされているのだろう? 私はあの方の本に助けられたんだけども。


豚斬りの真実!

(2008年10月12日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(グロ注意! Caution ! Might be Too Visual for you, children)

(兵頭二十八先生 より)

 古い撮影(ネガ写真)だ。
 このたび、版元の並木書房さんが、本書を増刷してくださるというので、あらためてプロモーションの一環として、ここに掲載することにした。
 本書中の挿絵のモノクロ写真よりも、よりヴィヴィッドなイメージをお伝えできれば幸いである。

豚頭を前に……籏谷師

 肉屋さんから買ってきた豚の頭を前に……。籏谷師が手にしている真剣は、据え物切りをするときの専用のものだそうだ。幅広で、長く、そして重い。

斬!

 動物の骨も歯も基本的にカルシウムからできているのだろうが、歯の硬さは、骨の比ではない。おそらくほとんどの斬り手は、顎のかみ合わせの部分に切り込んだ場合、(上顎までは切断できても)下顎の歯のところで、刀身がガッキと阻止されてしまうのではないか? そのように、兵頭は観察した。
 三島由紀夫の斬首のときにも一刀目は奥歯に当たって止まった(そして刃こぼれした)と伝えられるし、野生の犬科の動物の共食いでも歯の部分だけはたいてい残されるものだと報告されているし(初期南極探検の極限事情下では、その歯も残らなかったというが)、また、古代メソポタミアでは猪の牙だけを寄せ集めて王様のヘルメットが作られていたというヘロドトスの記述が発掘で確認された例もある。つまり防刃素材として、動物の歯は、それほどすごいものなのだ。

豚の下顎部に注目

 犬や猫や豚が人間のように口を利くことはない。それは舌を容れる口腔の形が細長すぎて、舌を内部で自在に動かす余地がないためである。

めったにない機会なので、お弟子さんの全員が試みる

 この他に、じつは、わたしが後で思いついたために撮影ができなかった実験の一つとして、「押し切り」があった。わたしの関心は、柳生流の本に書いてあるように、ふりかぶっている敵の腕に我[われ]の刀身をピタリとつけて押し切った場合に、それでどのくらいの深い傷を負わすことができるのか――だった。
 この実験については、立会いもせず写真もいただいていないので、あくまで伝聞を「推測増幅」するのだが、どうも、居合いのプロたちががっかりするような薄手しか与えられないようである。(おそらく骨の部分で止まるのだろう。)
 しかし、これこそ真剣の真実ではないかとわたしは思った。だからこそ、敵の腕の内側、つまり動脈が走っている側を正確に狙う必要があるのだろう。それを修練するのが、柳生流なのだろう。

刃こぼれの真実

 本書114ページのモノクロ写真を、ここではカラーでお見せしよう(ネガ画質だが…)。豚の頭を切るだけでもこうなる。白い筋が見えるのは肉の脂。
 「実戦で『折れないし曲がらない』とコンバット・プルーフされた名刀が、初回納品時の形で後世まで残ることはない」という真実が、この一枚でご理解いただけるだろう。「刃こぼれしない」といわれる名刀は無いからだ。
 (すなわち、「初回納品時の形で伝存している名刀」は、どれもコンバット・プルーヴンではなく、実戦に持ち出したら、折れたり曲がったりする危険があるわけ。)
 そして、研ぎ師たちは、こうなったのをどうやって修繕していたのかについては、是非、本書をご講読くだされたい。
 刀は、それが実戦で「名刀」だと証明される都度、サイズがどんどん小さくなって行く宿命なのである。

さらに安全帽も試みんとす(これは試斬前の pause の写真)

 2005年製のFRP製の安全帽は、刀剣の斬撃に対してはかなり安全なのだな、という印象を兵頭はうけている。
 ということは、カブトで頭部を脳震盪から防護できている武士なら、(その手に槍や弓がないとすれば、)むしろ太刀などは投げ捨ててしまって、首をすくめて姿勢を低くして敵将にタックルし、短刀で「道具外れ」を狙った方が、手柄首を獲りやすかったのかもしれない。
 敵の刀剣の「物打ち」より内側でこちらの背中を割られる心配はなさそうだし、「押し斬り」も背中に関しては恐ろしくないとすれば……。
 あんがい、「組み打ち」には合理性もしくは必然性があったのではないか? すくなくとも、それは「蛮勇」とは違ったのではないか。

モノホンの戦争用の鏃(ヤジリ)と、鏑矢

 昔も狩猟中に誤って弓で同僚を射殺してしまうということがあったらしい。このようなやじりを大物猟にも使ったとすれば、それも得心ができる。

鉄扇(てっせん)

 ホネの部分だけが鉄で、そこに和紙が張ってある。

鉄扇の正しい持ち方

 なるほど、防ぐだけではなく、突くこともできるのかと分かる。

(管理人 より)

 世紀の快作『陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り/並木書房』。もちろんこのサイトをご覧頂いているような兵頭ファンならば、まさか一冊も買っていません等という事はあってはならないのだが、もしそうなら6冊買ってください。このページは、『陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り』の終わらないエピローグ、止まないアンコールの1つなのです。


2008年9月4日 函館7eゴンドラ 試し乗り

(2008年9月10日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)
 横津岳の北麓、住所でいうと亀田郡七飯町東大沼に、「函館七飯スノーパーク」(旧名・函館七飯スキー場)がある。わたしは、この地名の「ナナエ」は、沿海州の「ナナイ族」と関係があるんじゃないかと疑っているのだが、まぁ余談だ。
 このスキー場は、従来、せっかくの観光資源を、冬しか利用してこなかった。多くの地元労働者と同様、兵頭はアルペン・スキーやスノボを嗜まないから、用の無い場所であった。
 しかし、もはやゴルフ客やスキー客ばかりを相手にしてイージーにガッポリ稼げる時代は過ぎ去ったのではないか――とすばやく時勢を見通したらしいホテル&観光開発会社が、営業多角化の一貫として唐突に、2008年夏シーズンにロープウェイ(循環式ゴンドラ)を開業したらしいことを、わたしは大沼プリンス・ホテルのロビーに置いてあったチラシで偶然、把握したのである。
 これは、うれしい驚きであった。
 さっそく、好天の日を選び、現地を偵察してみた。なにせ、HPやパンフレットではちっとも実態が想像できやしないのだ。

はっきりしない道標

 まず交通アクセスからリポートしよう。無料送迎バスがあるということに、わたしは現地に至って気付かされたのだが、それがどこを回って走っているのかは不明。地方の一住民のわたしとしては、とうぜんにマイ・カーでアクセスする。例によって、近所の石黒氏の仕事用の車に便乗をさせてもらった。
 函館市街から向かうばあい、国道5号線の、大沼トンネルの北側出口から、右折して、「大沼公園鹿部線」を、鹿部方向へと走る。
 途中に、ご覧の、デカい看板が立っている(この写真は帰路に撮影したため、矢印が左を向いている)。まさに、この看板の交差点で、右折する。(流山温泉にアクセスする左折路がある交差点まで行ってしまったら、それは行き過ぎだ。小学校よりも手前である。)
 なお、この看板の表示だと、ドライバーはここより2キロ先で曲がればいいのか、それとも、ここで曲がってから2キロ走ればロープウェイ駅に着くと理解すれば良いのか、迷うことだろう。この矢印の矢柄は、直角に曲げておくべきなのではないか?
 日本人がマニュアルや開発契約仕様書を満足に書けないという欠点は、日本語の助詞(テニヲハ)の規定力のあいまいさ(しばしば複数通りの意味解釈が可能であり、聞いた者が常にそのうちの一つであろうと判断し続けなければならない)に、遠因するのかもしれない。
 たとえば「街道でイク!」とわたしが叫んだ場合に、それぞれ聞いた人が、合理的と思えるコンテクストにあてはめて、あり得る複数の文意の中から一つを選択して理解するだろう。「で」という助詞ひとつに、じつにいろいろな含意を乗せられるようになっているからだ。
 このような日本語による生活にすっかり適応し切ってしまうと、たとえば看板の表記(カギ状になっていない矢柄を含む)が、どれほど外来者に曖昧な解釈をゆるす表記であるかという自覚や心配も、できなくなってしまうのかもしれない。

夏はやってないレストラン
山麓駅脇の食堂

 駐車場のすぐ脇にロープウェイの山麓駅がある。その山麓駅のすぐ近くに「レストラン」と「フード&ドリンク」という2つの食堂施設があった。「レストラン」の方は、写真の階段を見れば見当がつくように、積雪季用に設計されている。夏場は営業をしてないようだった。「フード&ドリンク」の方は、入り口に階段がないので、たぶん夏~秋専用ではないかとお見受けした。もちろん、冬も除雪して営業することは可能だろうが……。

ゲレ食メニュー

 これは山麓駅の乗り場に貼ってあったメニュー。「フード&ドリンク」なる食堂で提供されている品々のようだった。今回われわれは、現場からやや遠いプリンス・ホテルの「パン工房」(カール・レイモン直営店)のテラス席で昼食にしたので、体験はできなかった。

山麓駅のりば

 写真を拡大してスペック掲示を読むべし。かつてわたしは『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』という、今日では企画としてまず不可能なマニア向けハードカバー書籍を作った覚えがあるので、写真のような説明板を見ると、懐かしく、つらつら眺めずにはいられない。なお、このロープウェイは「交走式」ではなく「循環式」だ。あの本をつくったときには、「循環式」には個性的な味も無く、取材のし甲斐が無いと思っていた。しかし今回の搭乗で価値観が変わった。「循環式」は、任意の時刻に待たずに飛び乗ることができ、搬器(ゴンドラ)の中でファミリーがいくら騒いでもよく、しかも窓を開けて手や頭を出して写真撮影することができる。ゴキゲンだ!

途中からの眺め

 北海道駒ヶ岳の東南麓に、蛇行した川筋のようなものがみえるが、これは将来の噴火に備えた土石流阻止の工事痕だと思う。その周辺は広く無人地帯だ。北海道駒ヶ岳は、地下で恵山や恐山ともつながっているであろう活火山で、地表面は鎮静しているのだけれども、地震計には微振動が捉えられている。そのため、入山そのものがずっと規制されたままで、山麓の大規模観光開発も不可能になった。

遠くに羊蹄山

 視野をやや右に転ずると、内浦湾(太平洋)越しに羊蹄山まで望める。羊蹄山/ニセコ一帯は、いまやオーストラリア人に占領されつつあるらしいが、蝦夷の松島と呼ばれる大沼周辺には、シナ人/台湾人のパック・ツアー以外はまだあまり外国人を見かけない。

山頂駅に着く

 ロープウェイ業界では、そこがじっさいは山頂ではなくとも、高い側の駅を「山頂駅」と呼んでおくのが、ならわしである。搬器を降りると、係員が熊避けのベルを渡してくれる。皆がそれをガラガラ鳴らしながら散策していた。山頂駅およびその周辺には、売店は無い。

標高920m地点の案内図

 この案内図によると、七飯ゴンドラの山頂駅は標高920mに位置するようだ。そこから遊歩道(冬はゲレンデになる)を歩けば、さらに984mまで標高を上げられる。

展望の丘984m

 しかし残念なことに、横津岳の北の稜線の延長上に位置すると思われるこの「展望の丘」からの、大沼方向の展望は、植生にさえぎられて、あまりパッとしない。むしろ、ゴンドラの中からの眺めのほうが、パノラミックである。なお、「展望の丘」は、夏は運行していないチェア・リフト(確認しなかったが3~4人が横並びに腰掛けられるものだろう)の山頂駅の脇にある。
 このさい、ひとつ提案をさせて貰いたい。ホテル&観光開発会社は、この「展望の丘」から、横津岳の頂上まで、尾根線づたいの登山道(兼・クロスカントリースキーのルート)を整備し、横津岳の向こう側斜面のスキー場とも連絡すべきだ。冬なら羆も出ない。このように、「横のつながりオプション」をつけておくことで、利用客の方が勝手に面白い遊び方(orイベント)を創意工夫する。横断的利用の余地が大きいことによって、観光地の集客力は強化されるのだ。こういうことに、そろそろ地方の観光開発業者は気付いて欲しいぜ。

駒ヶ岳演習場と鹿部飛行場

 写真に撮っている辺り(駒ヶ岳の裾野)に、いまはほとんど使われていないと聞く陸上自衛隊の演習場があるはずだ。鹿部飛行場は、行ってみたことはないが、たしか本田技研と関係あり?

横津岳山頂とのつながり

 横津岳の山頂周辺には、国交省の航空管制用レーダーと、気象庁の雨雲レーダー等がある。(詳しくは、函館に引っ越した直後に自転車で探訪した折りの写真アルバムを参照されたい。)このアングルは、その諸施設を、尾根の北側から見上げていることになろう。

山頂駅外観

 2本の避雷針に注目。近くには、落雷で枯れたと思われる樹木も複数、見られた。かつて、四国の剣山のチェア・リフトを取材したときも、避雷木だらけでゾ~ッとしたものだ。

山頂駅脇から駒ヶ岳

 このロープウェイはまちがいなく、紅葉シーズンの新名所となるだろう。

空母からの発進

 循環式ロープウェイは、搬機がワイヤーを掴んで動き出すときの加速感が面白い。なお、ドアは全自動で開閉する。冬季は、ドアの外側にスキー板を差し込んで運ぶのだ。

小沼湖の鳥瞰

 小沼は大沼と水路でつながっている。その向こうに見えるのは、太平洋(内浦湾=噴火湾)。撮影時刻は午前11時半。

違う角度から位置確認

 これは同日の12時20分、小沼の対岸の「日暮山(ひぐらしやま)」の展望点(303m)に登って、東南東方向に見える横津岳の北麓一帯を撮影したものだ。スキー場の全貌は、くっきりとは望めていないが、だいたいこの写真の中におさまっているはずだ。


(管理人 より)
 ゴンドラには私は1度か2度しか乗った事がない。それは、それで良いのである。しかし、近日発刊の兵頭[座談会]本『零戦と戦艦大和』そして──兵頭本『新訳 名将言行録』。これは、1度といわず2度でも3度でも読まねばならないのである。ここを閲覧するような兵頭ファンの皆さんも、勿論そうしますよね?


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