摘録とコメント。

▼リチャード・マイニア『勝者の裁き』安藤仁介 tr. 1972
 シュレジンジャーいわく、ベトナム政策の立案者は、いずれもスチムソンの弟子たるバンディ兄弟とラスクだったと。
 最も侮蔑的な態度をとった(p.106)ウェブ裁判長も高柳を支持し、共同謀議を非法とした(p.62)。
 ケロッグの1928講演「自衛のために戦争に訴える必要があるかどうかは、その国のみがこれを決定し得る」(pp.71-2)。
 フィリピンに対する侵略は訴因から外された。独立国でなかったので。
 米とソのみ、軍人を裁判官に混ぜた。
 大陸法の方がコモンローより証拠基準が緩い。
 オランダが日本に宣戦したのは日本の蘭領攻撃よりも早い。日本はオランダに1942-1-11宣戦。
 チョムスキーは1930’sの対日政策を批判(pp.176-7)。
▼マシュー・F・スティール『米国陸戦史(上下巻)』1969第6版、T.K.訳、保安隊幹部学校pub.原1909
 カナダには道がなかったので侵入は常に水路による。
 フィリピン討伐中にフィリピン側を応援した米人もいた。
 ワシントンはしばしば小隊分散という基礎的過誤を犯した。
 独立戦争の資金は徴税ゼロで仏からの借金と紙幣刷りによった。ワシントンは私財で兵を養う。
 南部はサムター要塞さえ攻撃しなければ分離の既製事実化に成功しただろう。この先制攻撃が北部人を一致団結させ、熱狂をまきおこし、大統領の義勇兵応募に殺到せしめた。
 リンカーンは軍事経験皆無で、デービスはプロ軍人だった。
 デービスは欧州に小銃1万を発注している。
 追撃の重要性を解っていたのはジャクソンだけ。
 ジャクソンいわく「常に出来れば敵を迷わせ誤解させ且つ驚かせよ」。状況特に有利でない限り、決して優勢な敵と戦う勿れ(pp.270-1)。
 南北戦で不落だった陣地の共通要素。凹道によって囲まれている高地。ただの丘ではダメだった(p.335)。
 リーとジャクソンは、軍隊の行軍と同じ速度で野戦電線を架設する手段をもっていなかった(下巻p.24)。
 チャンセラーズビルが、両軍の歩兵隊が塹壕を利用した最初の大戦闘。
 南アフリカの戦訓。高地が防御に有利とは限らず、低地が不利とも限らない。
 ピッツバーグ、メッツ、パリ、プレブナ、サンチアゴ、旅順港の経験は、市街を砲撃するより飢えを待て、と教える。
 ミショナリーリッジの南軍。歴戦のプロだったのに、全連邦軍を見渡せる高地であったため、攻撃前2日間の敵の準備をみていてすっかり臆してしまい、守れる陣地を捨ててしまう。パニック。
 グラントの電報と書簡は、すべて、自軍よりも敵軍の方が損害が多いと言っている。
 シャーマンは、鉄道から100哩離れて作戦することはできないと(p.241)。
 米西戦時、海大はあったが陸大はなし(p.309)。
▼板倉卓造『国際紛争史考』S10年
 旅順口と通信していた露国側の無線電話局があった。これを発見し、凹ました(p.36)。
 バ艦隊は蘭人の無線技師クーイを同行していた(p.179)。
 1904-12-3、英国は独船がカーヂフ港で石炭を積み込むことを差し止めた。
 S5-9-29、スウェーデン公使フルトマンによる神奈川県金沢町轢殺事件(p.407)。
 FDRは資産家猟官公使制を、プロ外交官に代えた。
 ポーツマス条約は仏文を正文とす。日清講和条約は英文が正文。
▼平等通照 ed.『国語に入った梵語辞典』S53年
 nadi(河) →那智
 アバダは天然痘の隠語になった。
 右から左に書くセム文字がBC700頃メソポタミアから北西インドに入った。
 ばかも梵語由来。
▼渡辺銕蔵・抄訳『ソ連の石油飢饉』S17年12月pub.
 ※10月に上海の雑誌に載ったA・Riva「Oil for the Tanks of Russia」。
 1932の600万トンから1938の150万トンに石油輸出が減ったのは内需拡大のため。ソ新聞によれば1940の自動車用燃料の生産額のうち6割はトラクターによって消費された。また灯油はソ連国民の代表的な炊事用燃料である。
 カスピ沿岸のマハチ・カラ~グローズヌイ~マイコープ~黒海トゥアプセに至るパイプラインは170万トン/年。
 枝線にマイコープ~アーマヴィル~ロストフ~ドンバス~リシチャンスク。また、マイコープ~クラスノダールもある。
 バクー~バツーム(黒海)は2本のパイプラインで、ひとつは170万トン/年の原油を、もうひとつは100万トン/年のバクー精製油を送る。
 バクー~グローズヌイ間は1939着工。
 カスピから内水使ってタンカーを白海まで達せしむ。
 昨年、ドンバスおよびウクライナの多くの製油工場が既に枢軸軍の手に帰した。
 最近のイギリスからの報道によると、ソ連の鉄道網は、輸送能力50万トンにおよぶ油槽車をもっている。※だったらテヘラン→タブリッツティフリスと運べないか?
 ソ連の同盟国からは、彼等自身の油槽船の状態から見て何等の有力な援助をも期待できない(p.20)。
▼ヘロドトス『歴史』上中下巻
 タレスの河流二分工事&渡河(上巻p.62)。
 当時アジアにおいては武勇でリュディア人を凌ぐ民族なし。騎馬で長大な槍を揮う。
 キュロスの駱駝の計。
 スキュタイ人は、ヨーロッパからキンメリア人を駆逐して、コーカサスを右手に見ながらメディアに侵入。アゾフ海からリオン河まで、軽装徒歩なら30日。
 メディアのほかの地区はすべて平坦であるのに、黒海方面だけは山が多く、森林で蔽われている。
 世界中でペルシア人ほど外国の風習をとり入れる民族はいない。
 彼らが河を敬うことは非常なものである(p.110)。
 ペルシァの将ハルパゴスが盛り土戦術でイオニア諸都市のひとつテオスの城壁を占領すると、テオス人は全市民船に乗り込み、海路トラキアに向い、ここにアブデラの町を建てた。
 ペルシャ大王の出征時の飲料水は、河水を沸かして銀器に保つ。おびただしい数の四輪騾馬車で運ぶ(p.141)。
 バビロン(アッシリア)では、人工運河の最大の一本のみ、舟航可能(p.144)。
 河下し船の荷は、椰子材の酒樽と、帰り用のロバ。
 エジプトの、ヘリオポリスからテバイまでは遡行9日。
 ペルシャ人には王家の後裔を尊重する気風があって、叛旗を翻した者でもその子孫にはいつも主権を返す。
 ノモスこそ万象の王(p.307)。
 註、蛙はナイルには棲息しない。
 弓はエチオピア人、槍はエジプト人が愛用。
 ダレイオスはスキュタイをコーカサスを右手にしつつ追った(中巻p.14)。
 遠征より一世代前、「蛇の襲来」が北方からネウロイを南に逐った。
 スキュティアは寒いのでロバ、ラバはいない。
 ペルシャ人は弓と短槍、帽子を用いる。
 ペイシトラトス一族は樹木を伐り払い、騎兵行動を楽にしてスパルタを出撃。
 ダレイオスは召使に給仕のたびに「殿よ、アテナイ人を忘れるな」と三唱させた。※呉越。
 カリア軍はアイアンドロス河を渡り河を背にして戦うべし。こうすれば、もって生れた以上の勇気を出すに相違ない。
 註、ギリシャでは春秋に雷鳴多い。地中海は冬が雨季。夏が乾期。
 できるだけ平坦地で決戦しようとするギリシャ人をペルシャ人がわらう(下巻p.15)。
 「われら[ペルシャ]が行動を起さずとも、彼らの方では同じようにはせぬ。いや必ずやわが国に兵を進めてくる……」※これが真相だろう。
 穀類は粉末にして輸送した。
 「さればはかりごとを立てるには小心翼々、あらゆる不測の事態を考慮し、実行に当っては大胆不敵であるような者こそ、理想的な人物であると申せましょう」(p.44)。
 ペルシャ兵装。フェルト帽。鉄ヨロイ。柳編みの盾。盾の下にえびらをかける。短槍。大型の弓。矢は蘆。右腿に短剣を吊るす。
 十人隊長から万人隊長まであり。
 エジプトに「海戦用の槍」あり(p.61)。
 「人間を生き埋めにするのはペルシアの風習なのであろう」(p.74)。
 空壺を埋設して、テッサリア騎兵の馬脚を折る(p.167)。
 「戦闘中にはよくあるとおり、矢の当ったものの周りに大勢兵士が駈けよってきたが」(p.223)。
 「異国軍の兵士は相手の長槍の柄をつかんではこれをへし折ったのである」。ペルシャ兵の敗因は、身に装甲のなかったこと(p.278)。
 軍隊を女への贈り物にするのはペルシャ独特の風習。
 アメストリス(♀)はマシステスの妻の両乳房、鼻、耳、唇、舌を切って犬に投げ与え、変わり果てた姿をその家を送り届けた(p.309)。
 解説。ヘロドトスの没年は前430以降である。
▼池田博行『帝政ロシアの交通政策史』
 鉄道は運河より15倍速く、輸送費は1/4である。運河は春の増水期だけ利用すればよい。
 防衛上の見地から広軌を採用したが、1917の赤軍のワルシャワ攻撃は軌幅差のために手を焼いた。ポーランド軍はレールを換えながら簡単に前進した。
 ナポレオン撃退後に軍道整備。しかしクリミア遠征した32000の兵のうち、辿りついたのは12000だけ。
 通信線はクリミア戦争に間に合わず。セバストポリ包囲の報道はパリ経由でペテルブルクに届いた(p.94)。
 欧露の北部の河川は5~10月が航行可能。中部では4~11月。南部では3~11月。シベリア南部では5~10月。中部で5~9月。シベリア北部は6~8月だけ。
▼菅井・田代『アメリカ技術史』S24年5月pub.
 ※米国人によるモト本があるはずだが記されていない。占領軍も太っ腹だった。
 ※まえがきを見る限りでは、このジャンルの一般向けの啓蒙書は戦前は無かったようである。
 イロコイ族の長屋はカマボコ兵舎そっくりだった。
 初期米国には石炭がなく、ために石灰(漆喰)は得られなかった。かくして剥き出しの羽目板という米国風家屋が成立。ただし工作が悪いと隙間風が酷く、そこは泥土で塞がれた。
 丸木小屋はスカンジナビアで創造された。この工法のすぐれているところは、釘を使わずに、しかも、漆喰を塗らなくとも隙間風が入らないこと。
 灯火は鯨油ランプか、暖炉そのものであった。
 冬期の農閑期の副業が家内制工業の揺籃であった。仕事は暖炉の周りでした。
 靴屋は道具が軽いので渡り職人となった。村々の有力者の家に何日も泊まりながら註文をさばいた。
 米国最初の図書館はB.フランクリンが1729にフィラデルフィアに建てた。
 フランクリンのペンシルヴェニア型暖炉は、加熱気をN字状に煙突に導き、その最初の屈曲部および下降部の鋳鉄筒からの輻射熱で室内全体を暖め、かつ煙突からの隙間風の逆流を防ぐ発明。薪が少量で済み、しかも室内が煙くならない。
 フランクリンはこうした発明の特許をとらなかった。「われわれは他の人々の発明から非常な利益を受けている。自分の発明が他の人々に役立つ機会を喜ばねばならぬ」
 1752にフランクリンは雷雨の中、物置に雨を避けながら凧を揚げた。紐は麻紐だったが、そこに結び付けた絹糸が毛羽立った。また、手元に近いところに結びつけた鍵に指を近づけると、強い火花が出た。
 追試を重ねた結果、雷雲には陽電気と陰電気があると分かる。
 1752に避雷針を発明。大きな建物では数本使えばよい。避雷針は最も高い煙突上から壁沿いに地中まで届く長い金属棒で、接地部は地中で直角に曲げて壁から8フィートまで引き離したのち、ふたたび下方に4フィート潜らせておく。
 サミュエル・スレイターは少年紡績工を英国のように搾取せず、見苦しくない畏服をあたえ、教育を施した。スピニング・スクール。
 独立戦争で英国から梳綿機がこなくなったので、エヴァンスはこの機械をつくる機械を発明した。
 米では作業容易なシーアイランド綿は南カロライナとジョージアの海岸低地にしか育たない。他はすべてアプランド綿だが、これは繊維が短く、縁の種子に繊維が強く接着しているので、手工的に引き離すのが大苦労であった。奴隷が休まずに作業しても1人が3ポンドしか採れなかった。そこで綿花農場に寄宿していた青年ホイットニーがこれを機械化する単純な装置をこしらえた。それは1日に綿50ポンドを分離できた。ところがそれを農園で披露された地元の紳士たちは欲どおしくもたちどころにめいめい勝手にこの発明の類似品を特許申請したのでホイットニーは後には嫌気がさして銃器製作事業に転ずる。
 ホイットニーの綿梳機械の原理は最初から完成されたもので、その改良が各地で進められた結果、女工が1人で1日に100ポンドの綿を製造できるようになった。その結果、英国紡績工業に対する最大かつ独占的な原綿供給者として米国南部経済は急成長することになった。その結果、南部では非常に奴隷が増やされた(綿の栽培と収穫までは機械化できなかった)。それまでの奴隷は扱われ方が人道的だったが、「綿の増産すなわち大金持ち」という南部経済の構造ができてしまったので、以後は奴隷の酷使が進んだ。
 かくして南部は当然に、自由貿易マンセーとなった。北部はこれから工業を養成して英仏に対抗せねばならぬのだから、保護貿易が必要だ。こうして南北は対立コースに乗った。
 入植当時のニューイングランドの沼地には鉄が石ころのようにころがっていて、それを熊手で集めて製鉄の原料にした。
 当時、鉄鉱と不純物を液状化するまで加熱できる熱源は、木炭だけだった。それも窯の中にいっしょに入れて燃やさねばならない。必然的にそれらの窯は崖地に設置され、原材料は驢馬で崖上に運び、そこから窯に投入し、水車鞴で炉の底に空気を送り、銑鉄と鉱滓が別々の口から流下してくる。
 鉄は貴重なため、釘、蹄鉄、釜、銃、大工道具、鋤の刃部等にのみ使用された。多くの機械と歯車、馬車の車輪、車軸すら木材であった。鉄を採掘する機械までが木製だった。
 1898にフレデリック・テイラーが高速度鋼を実用化。タングステンクローム鋼を空気焼き入れした工具刃は、切削仕事を続けて700度まで熱をもっても軟化しない。これで作業効率が6割も上がった。
 これがWWⅠ中に世界に普及した。
 米国の資源上の欠点は、ただマンガンが国内で採掘されないことだけである。
 独立戦争で硝石の自給が確立した。古屋の下から1ブッシェルの土をとり、水に混ぜ、それを濾灰槽で漉し、透明になるまで煮詰め、冷やすと、1/4ポンドの硝石が採れた。
 シャンプレイン湖とニューヨーク港をハドソン河が結んでいる。ここを英国船に通航させないことが北部をバラバラに分断されないカギで、そのために北方タイコンデロガに先手をとって遠征した。つぎに河口から遡行されないように、総重量180トン、500ヤードの巨大鉄鎖を6週間で鋳造し、丸太に結び付けて北岸からウェストポイントまで流し、錨で固定した。
 18世紀はじめにスイス人とドイツ人が宗教的理由から渡米しペンシルヴェニアに定住した。その辺境ランカスターは鉄砲鍛冶のメッカだった。
 遠方を一人で行動する職業狩猟家にとって弾薬は浪費できない。その要請が小口径のライフル銃を発達させた。
 18世紀なかばのランカスターのRossers製の典型的なライフル猟銃は、.32口径、弾重49グレイン、黒色火薬22グレインで初速1483フィート/秒、100ヤードでは弾速は850フィート/秒であった。
 このペンシルヴェニア型ライフルは独立戦争のころにはヴァージニア、ニューヨーク、アレガニー山脈まで普及していた。しかしマサチューセッツ州には行き渡らず、そのためレキシントンとバンカーヒルの民兵はマスケット装備なのである。
 マスケットに照準器はなく、60ヤードでは当たらない(p.78)。
 ヴァージニア出身のワシントンは最初から千数百名のライフル銃隊を組織できた。
 英軍はこれに対抗するためドイツの狙撃兵を雇ったが、そのライフルはペンシルベニア型に劣り、不振に終わった。
 ライフルのマズルローディングの手順。角製容器から掌上に火薬を注ぐ。それを銃身に注ぐ。油を塗った丸い布パッチを銃口に置き、その上に弾丸を重ね、おやゆびで押し込む。先端の窪んだヒッコリー製の槊杖で突き固める。
 コルトは連発銃の木模型を早くから完成していたが、それを事業化するための資金が得られなかった。そこで染物工場で知った笑気ガス(亜酸化窒素)をつかった大道見世物でカネを貯めた。1946以前には電気発火式の水雷を試作した。テキサスvsメキシコ戦争でようやく連発銃の需要があり、ホイットニーの工場の近くにハートフォード兵器工場を開いた。
 トマス・ロッドマンは緩燃火薬を工夫した。燃焼が遅いほど、頑丈でなくても高い初速が得られる。大粒火薬は、燃えるにしたがって燃焼面積が小さくなるので逆効果。輪胴形の火薬粒に成型すれば、燃焼ガスは次第に増えるようになる。
 1786にラムゼーが完成した蒸気船は、水流を船尾からポンプ噴射するジェット・プロパルジョンであった。4マイル/時で遡上できた。
 アパラチア山脈以西の交通は自然河川を利用できない。ここから運河と鉄道が必要になった。
 最初の大事業がハドソン河上流とバッファローを結びつけるイリ大運河の開削。沼地の難所は厳冬期の凍結中に掘り進んだ。また生石灰モルタルではない、水硬セメントを開発し投入。
 この運河によってそれまで別々の地域であった東部と中西部(イリノイ、インディアナ、オハイオ)が一体化し、ニューヨーク港は大西洋最大規模に発達し、ミシシッピ河~ニューオリンズ経由の内国廻漕ルートは廃れ、これまた南北戦争の雰囲気を醸成した。
 トレビシックが蒸気鉄道を発明したのは1804だが、なんと1813まで、平坦な軌道に平滑な車輪を密着させれば機関車が列車を引いて走れるということが分からなかった。
 1831にジャービスがボギー台車を発明し、機関車を長くすることができた。
 英では機関車の燃料は最初から石炭だが、米では森林があり余っていたので薪だった。燃料がなくなれば、乗客が総出で斧をもって沿線の森林を伐採し、再び走行を続けた。
 米機関車独特の不恰好な煙突は、薪燃料に由来する火の粉の対策である。この火の粉は乗客の衣服にも、沿道の家屋にも、かなりの脅威だった。
 英国では鉄道は既存の地上利用を尊重して曲がりくねったルートが決められているが、米では鉄道はあらゆる地上物をまっすぐ貫いて敷設され、速度を殺さないようにした。
 このため、踏み切りと排障器が発達した。
 鉄道も南北でなく東西方向に発達した。
 スイスのトンネル掘削に圧搾空気が利用されているのにヒントを得てウェスティングハウスは列車の空気ブレーキを開発した。
 モールスは最初は紙に信号が印字されるものとして完成したのだが、やがて耳で聴いた方が分あたりの送信字数を増やせることがわかってきた。
 米では1820頃から石炭ガスのガス灯が普及した。それ以前の照明では細かい手元作業は不可能であったが、これ以後は夜なべ、夜更かしが可能になった。
 シンガーは月賦販売を発明した。また、彼の訴訟から、機械発明品の特許は先に完成・実用化されたものが優先されるという判例が出た。
 工業用ミシンがレディメイドを大量安価に提供したので、衣服の「手縫い」は廃された。この結果、家庭婦人の余暇時間が増えた。
 政府からマスケット銃の量産を請け負ったホイットニーは精密ジグを実用化し、互換性のある部品を連続量産することに初めて成功した。1818のフライス盤の発明はその延長。この小銃工作機械を1854にプラットが量産した。
 1868にブラウン・シャープ社は1万分の4インチを測定できるマイクロメーターを完成した。
 1864にセラーズは標準ネジ規格を制定。1899にはチューリヒでネジの国際規格が決まる。
 エジソンの母親は小学校教員だったが数学はダメで、エジソンは終生、計算を人に頼んでいた。12歳ころ、ギボン、ヒューム、ユーゴーなどを読んでいた。
 家は貧しくなかったが、12歳から列車の新聞売り子に志願し、終点駅の図書館で日中を過ごし、空いている喫煙室を化学実験場にしていた。ここで燐によるボヤを起し、車掌に殴打され、そのときに片耳の聴力を失った。
 電話の受話器の鉄片の震動の強さを知るために針をつけて錫箔の上に当ててみた。するとかなりの深さの溝が掘れた。ここから蓄音機を思いついた。多くのエジソンの発明は「組み合わせ」と「事業化」の努力なのだが、蓄音機だけはゼロからの発想であった。当時、かなり教養がある人でも、レコードの原理について容易に納得をし得ず、それはインチキだと疑っていた。
 WWⅠで独から円盤原料のフェノールが来なくなると、エジソンは自分でコールタール以外のものからフェノールを製造する方法を発見し、1日1トンも製造した。
 1915からは米海軍のためにASW関連の40近い提案をしている。
 初期の自動車は晴天時にだけ乗るもので、冬期は納屋に仕舞いこまれた。だから屋根は無い。
▼田岡良一『国際法上の自衛権・補訂版』1981
 日本の刑法は他人のための防衛を広く認める(p.3)。
 復仇は自衛ではないが奪還は自衛である。
 自衛権は現に行なわれつつある違法に対す。自力救済は既になされた違法に対す。
 sagesse politique 政治的賢明。
 多くの日本人学者は、国際法上の急迫とは未来のことだと、刑法とは異なる立場をとろうとしている(pp.24-5)。
 カロリン号事件における self-defence は相手国の不法を要件としない。つまり国内法とは別概念だった。
 緊急避難の場合、法益の釣合いの問題は起こらない。
 一般国際法上の自衛権は、国内法上の緊急避難と本質的に類似する観念であると見なさねばならない(p.125)。
 自力救済も相手側の違法行為を前提とする。
 自力救済は、従って自衛権ではない。
 戦争を厳密に表現せば、use of armed force, recourse to acts of force
 自衛権は second blow(なぐり返し)の権利のような消極的なものに非ず。
 国境外へ先制自衛してよい(p.217)。
 武力攻撃の発生と損害の発生を同一視するのはおかしい。
 意図の想像に基づく先制攻撃は不可。※よって電波盗聴衛星が必要になる。
 安保理事会や総会は政治機関であって、憲章の有権的解釈をする処ではない。(拘束力を持たない。)
 警備艇の銃撃も、武力行使である。
 国連憲章の第1章と第6章以下は全くの矛盾(p.354)。

摘録とコメント

▼塚本清著『あゝ皇軍最後の日──陸軍大将田中静壹伝』(昭和28年12月刊)
 ※『表現者』で紹介した部分は割愛。
 5月24~26日の空襲で、泉岳寺、乃木神社、増上寺、三笠宮、秩父宮、大宮御所、英大使館が焼ける。
 昭和14年に田中は師団長としてシナに派され、15年に宜昌(南京・漢口を経て揚子江をさらに重慶まで遡航する途中にある)を攻略する作戦の陣頭指揮をとる。未明から夜の12時まで32kmを行軍し続け、2カ月間は風呂に入れなかった。師団長は馬であるが、痔になった。
 大戦末期、本土を16コDで守るとすると引っ込むしかない。しかしもし50コDもあるなら、海岸でやれという元気がでてきた。
 本土は離島とちがって艦砲射撃も疎散となるはずだ。
 味方戦車も最初から水際に陣地つくれと。
 山で対戦車戦闘するのは消極的だと。
 かくしてS20年3月以降は、非合理的な水際決戦思想に逆戻り。
 20-3 東部軍管区司令官&第12方面軍司令官
 田中は関東平野の海岸線をすべて視察しようとした。
 S19年夏、サイパン失陥直後に、第一次の本土地区師団増設。約10コD
 関東地区では、千葉歩兵学校を中核に、第91師、第84師などを編成した。
 S20年初頭から、百単位師団が新設された。100番台である。これらはすべて「海岸拘束兵団」。別名を「はりつけ兵団」。
 斬り込み部隊が1個聯隊、機動性のない固着部隊が3個聯隊の4単位制。
 この師団はペリリューの戦訓から生れた。水戸聯隊の斬り込みの戦果を重視。19年末から教育総監部は斬り込みの浸透的潜入攻撃方法をもって火砲、飛行機の不足に代え、全縦深同時制圧までさせんと考えた。
 つぎに200番台の「二百単位師団」がつくられた。これは攻勢兵団で、俗には「突撃兵団」という。
 指揮官の年齢を思い切って若年化した。師団長は少将、連隊長は中佐か少佐である。
 100番と200番で合計30個師団、10個旅団ほど。
 20年春から、本土防衛は、東京の第一総軍と、広島の第二総軍でやることになった。
 第一総軍は東海道から北。杉山元帥が司令官。
 第二総軍は中部から西である。畑元帥が司令官。
 第一総軍は、北部、東北、東部、東海と分かれるが、そのうち東部(関東)を任されたのが田中静壹であった。米軍は九州と関東に上陸すると考えられていたから、九州には横山中将、関東には田中が任用された。
 東部軍の下には十数個の師団があった。九州は10個である。上陸後はそれぞれ倍増する予定であった。
 当時の本土軍は、方面軍としての作戦任務だけでなく、軍管区としての軍政任務も附課されていた。
 田中は東部軍(=第12方面軍)および東部軍管区司令官として、住民の防空、避難、国民軍の動員、編成、訓練も面倒をみなければならない。また帝都防空の最高責任者であった。
 12方面軍の下の第52軍は、佐倉に司令部をおき、九十九里から印旛沼で戦う。
 53軍は厚木に司令部をおき、相模湾の防禦。
 36軍は機動決戦兵団で、所沢や浦和に待機し、九十九里にも相模湾にも攻勢をかけられるようにしていた。戦車はぜんぶここに集めた。機動兵団の運用を知る上村利道中将。
 近衛師団は東京の防衛で、その司令官は飯村穣中将。
 (p.11) S19年以降の新編師団は火砲としては迫撃砲を主体にしたが、「多数の弾丸を必要とする迫撃砲に、弾薬の生産が追いつかぬという状態であつた」。
 田中配下の沿岸の3個軍は、築城におわれてほとんど訓練ができなかった。
 36軍だけ訓練をしていたが、駐留地の移動が頻繁で休宿地帯の宿営準備に忙殺されがちであり、しかもコメ不足のため、あまり過激な訓練を兵にはさせられないでいた。
 参本第一課は選択した。築城よりも訓練が大事だと。対米戦の成績を統計的に調査したところ。
 もし敵上陸が切迫しているなら訓練せよ。半年の余裕がある場合のみ築城せよと。
 田中は長野県まで視察した(p.15)。
 4-13、明治神宮が炎上。
 その前後に、各宮家もあいついで炎上。
 八丈島、大島も視察した(p.17)。
 おおいに苦労してつくった沿岸陣地が一本の命令で変更された
 中央部の意見がまったく不統一であった
 中央は、沖縄のあとは済州島にくるという可能性も、いちおうは考えた。
 20-8-24 自決。※ところが自決せねばならぬ理由がいまいちよくわからない。昭和20年の東京における憲兵運用に何か負い目があったのか(捕虜にした米機パイロットを住民がリンチで殺していることについて憲兵隊が責任があるといわれればそうかもしれない)。それとも天皇の松代動座を阻止するなどの陸軍中央に反する独断をしていたのか。それとももっとシンプルに、天皇に対する御詫びか。
 昭和20年に近衛兵が賢所に放火してボヤにする事件があった(p.223)。田中は東部軍司令官だった。
▼ニコライ・トルストイ『スターリン その謀略の内幕』新井康三郎 tr. S59年
 鉄道でいけないテヘランにバクーから行ったときのみ、スタは飛行機に乗った。モロトフも飛行機恐怖症だった。
 帝政ロシアでは拷問は長年禁止されていた(p.77)。
 1936にトハチェフスキーは、ソ連はドイツに対してチェコを援助できぬと告白。
 スタはヒトラーが何の反対もされずに反対派を粛清したのに倣った(p.96)。
 ポーランド侵攻が遅れていることについて、リッベントロップの催促をのらくらかわす。
 9月17日の午前2時という異例の時間にスターリンがフォン・シューレンベルク大使を接見し、赤軍は夜明けとともにポーランドを攻撃すると通告した。
 土地は時間に匹敵した(p.118)。
 ソは90万トンの石油を独に供給していた。ゴムはシベ鉄で極東より供給された。
 1939秋、チャーチルはFDRに「ヒトラーの石油の状態を考慮すると、彼は時間切れに直面しているとの感じを受ける」と伝えた(p.121)。
 ソからヘルシンキを攻めるのをリューディガー・フォン・ゴルツ伯のドイツ軍が援けた。
 1940にヘルシンキで五輪が開催されるはずだった。
 1940になって在フィンのソ軍に1939型ライフルとKVが行き渡った。
 英参本は中東からのカフカス連続爆撃と黒海封鎖で独石油入手を阻止しようとした(p.169)。
 ソ連もそれを怖れた。
 独のノルウェー侵攻直前、ソは1940-2-11協定に基づく石油を勝手に停止していたのに、侵攻開始後にすぐ再開。
 ソ連式の射殺法では、首のうしろからピストルを射って前額に達する。
 開戦後、まだ帰趨のはっきりしない5月、「事態がどちらに転ぶか不安定な状況にあった間は、スターリンは例の用心深さを発揮して、対独原料供給を遅らせていた」(p.208)。
 望む事の2倍を要求して、半分で満足するというソ連の戦術(p.218)。
 軍内の政治委員制は、元帝政下将校を監視するため、トロツキーが導入。
 一番信じられるソ連将兵の死数は750万。
 英国は白系ロシア人をいかに熱心にソ連に引渡したか。
 モンゴメリーがあと数時間遅れたら、デンマークも東側領になっていた(p.353)。
 1969にロバート・ジョーンズは米国の対ソ武器輸出の本をまとめた。未訳。
▼堀場一雄『支那事変戦争指導史』S37年
 ハンガリーは満州国を承認した(p.280)。
 カナダの対独宣戦は9月10日。
 WWII始まったので英仏は10~11月、シナから軍を引きあげた。
 日本軍は、政策、報道、軍需に有為の人材を回さなかった(p.758)。
 軍の庇掩下でないと日本人は大陸に進出できぬとの思想はあやまりだった。
 一戦場に同時に3コD集めたことなし(p.762)。
 「支那事変に在りては叡智ありて実行力乏しく、大東亜戦に在りては実行力ありて叡智乏しと謂ふべきか」
▼中原茂敏『大東亜補給戦』
 昭和12年にイタリアに重爆×72、小銃×10万、砲観測器若干を緊急発注。
 支那事変で、陸軍の各兵器費に対し、12年度は56パーセント、13年度には76パーセントが弾代に充てられた。
 ソ連の石油生産(百万トン)。昭和15は31、16は34、17は33、18は29、19は39、20は22で、だいたい日本の6倍。
 米は真珠湾の前の7月7日にアイスランド進駐。
 WWII前のルーマニア石油生産は600万キロリットル。ピークは800万だった。
 日本陸軍の火砲のRange値一覧(p.248)。31速野から99山まで。ロケットはなし。
 TNT生産は、昭和16~18は全火薬中の60~63%をしめたが、17年以降は割合が減り始め、19年は50%、20年は37%となり、多くはカーリットその他、代用新火薬に転換。
▼日石 ed.『石油便覧1982』
 WWⅠで「連合軍は石油の波に乗って勝利へと辿りついた」と評された。
 ダイムラーのガソリンエンジン1883
 ディーゼルの重油エンジン1893
 米海軍の石油切り替え1904
 英海軍の決定は1912
 カリフォルニア油田から蒸留するガソリンはオクタン価が高い。ボルネオ、台湾油も(p.121)。
 船用タービン用C重油は、粘度の高い低質でもようが、燃費悪く、経済性でディーゼルに劣る。
 1914、英、イラン石油を支配。
 1939、米はソと日本に航空揮発油の製造装置特許の輸出を禁止。モラルエンバーゴ。
 1939、英は石油局を設置。
 1941、米は対日石油輸出まったく停止。
 1942、英のガソリン不足深刻となり自動車輸送統制開始。
 1945、米英石油協定。於ロンドン。
 1951、英はイランの石油産業国有化を承認す。
 BPはもとはアングロ・イラニアン石油と称した。溯ればアングロ・ペルシアン石油。英人ウィリアム・K・D’Arcy がイランの最初の油田発見者。
 WWII前は精製は消費地ではやっていなかった。
▼『トューキュディデース』小西晴雄 tr.(筑摩書房『世界古典文学全集・第11巻』)
 内陸に当時残る帯剣の習慣は、盗・海賊時代の名残り。最初に廃剣したのがアテナイ人。
 初期の都市は、島でも大陸でも海岸線からひっひこんだ所に造り、海賊を避けた。
 トロイ戦争がペロポネソス戦争よりはるかに小人数で戦われたのは、現地調達可能な糧秣の水準まで絞り込んだから。
 イオニア、シケリアへの殖民は、トロイ戦の後。
 アイギーナvsアテナイの三段櫓船海戦時、甲板は全部に張られておらず。
 掠奪は主として海経由で、陸戦による侵略はなかった。
 アテナイの発達は海商というより海賊的支配によるものだったらしい。
 註、三段船に寝食する場はなかったので、航距離は局限。
 註、昔のギリシャ人は本を黙読しない。必ず音読。
 ケルキューラvsアテナイ海戦に船衝戦法なし。
 「諸君は他を傷つけない代りに自らも傷つけられないで守れると思っている」(pp.27-8)。
 一旦、与えられた支配圏を引き受けた以上は、体面と恐怖と利益の三大動機に把えられて我々は支配圏を手放せなくなったのだ。しかしこの例は我々をもって嚆矢とするのではない。弱肉強食は永遠不変の原則である(p.29)。
 常に我々は……敵の過ちに僥倖を恃むことなく、自らの用意に望みを託すべきである。人間にはそれほど大きな違いがあるとは思われず、限界状況で鍛えられた者こそ最も強いと考えられるべきである(p.31)。
 これを知ったアテーナイ軍は、重装兵を正面に押しだして攻撃を加え、さらに周囲を軽装兵で囲み、中にいた者に石を投げつけて全滅させた(p.39)。
 湿地の民はエジプト人の中でも最も剽悍な部族であった。
 註、エジプトでのアテナイの敗北は、陸戦化していった為。
 事実、アテーナイの国力は正規兵よりも外人傭兵に依存しているのだ(p.43)。
 戦いでは飽くまで冷静を保つ者ほど安全である。
 諸君が(侵略を受けて立ち)開戦を決定したとて条約破棄行為にはならない(p.44)。
 「ツキディデス症」は、市内に戦時体制のため人口急増したときに。
 飢饉はリモス。疫病はロイモス。
 註、密集海戦では、口頭命令だから、騒ぐことは許されなかった。
 註、最高司令官が戦場後方に位置するようになったのは、アレクサンダーの父フィリッポス以降。
 ……ひとたび戦いになるとどちらの側にも援軍が得られるような状態になり、敵より有利になること、自己の力を増すことのために他を呼び入れる機会は、反乱を起こそうとする者たちには簡単にあるものであった。
 これらすべての原因は物欲と名誉欲とを満足させようとする支配欲にある。これらの諸欲から闘争への渇望が生まれる(p.116)。
 また欲望に駆られた人でなくとも、闘争力が伯仲してくると人々は抑制しきれない強い感情に流され、残酷で無情な行為にでるようである。
 このような場合には、逆境にある人すべてにとって頼みの綱ともいうべき公律を他人に仕返しをする時に破ってしまうから、いつか誰かが危機に面して公律を適用しようとする時にはもはやその効力はまったく失われてしまっているのだ(p.117)。
 もっこがないので、後ろ手を組んだ、かがめた人の背中に、土砂を載せて運搬(p.129)。
 戦うことが利益になると考えればこそ、恐怖があっても戦いを避けない。……また他の者は目前の損失を我慢するより、戦争の危険を耐えるほうを選ぶ(p.145)。
 不測の未来は我々を一様に恐れさして、むやみに戦争を起させないというきわめて良い面も持っている。
 我々(シケリア諸都市)が賢明でさえあれば……今後は、島外から援軍や調停者を一切呼び入れることをしてはならない。
 シチリア原住民はイベリア半島を逐われて来た。
 註、当時の商船は平均9km/hの速さ。
 重装兵、騎兵には、糧秣を担う奴隷がついていた(p.272)。
 解説:彼がペロポネーソス戦争の体験を通して到達した考えの中では人の心理は基本的に重要な位置を占めていた。人の行動の動機とは、富の追求と名誉への欲望と恐怖から逃れようとする三つの動機に集約されると彼は考えた。そしてこの三つの願望を実現するために人間は力を得ようとする……(p.333)。
 兎も角彼は新しい考えを説明抜きで表現しようとしたのである。
▼石岡久夫 ed.『日本兵法全集・2 越後流』
 鎗は敵の顔面を突け。馬の載するは36貫(精米1斗)、人の担うは6貫可なり。
 首級は初太刀の者に与うべし。
 大軍なるときは夜明けて退き、小軍なるときは夜深くして退く。
 雪道は、まず人夫に踏み固めさせてから行進せぬと、泥るむ。
 縦ひ将吏を討捕るといへども、一番鎗の功を越えざるなり。
 飯の後に武具を著すると、緩む。槍をもって退去するときは、先端を後に寝かして左手に持つと、反向し易い。
 衆馬の中を駆けるときは、むしろますます狂馳させる。と、囲りの馬が避けるので、通り易い。
 血祭とは、首級を洗い、化粧して、串刺しにし、捨て置くこと。
▼石岡久夫 ed.『日本兵法全集・7 諸流兵法(下)』
 徳田の合伝流は西郷従道にも伝えられた。刀槍戦よりも鉄砲戦に重きをおく。
 兵学は実戦事実伝を肝要とす(p.56)。
 天正末~慶長初めまでは火縄銃は槍隊の露払いでしかなかった。
 が、慶長初め以降は、鉄砲の無い足軽や弓隊など全く用が無くなった。6~7間以遠では、弓は甲冑を射通せない。
 客戦に於て、服さゞる村里の井に、砒素、鴆毒を混ず(p.84)。
▼A・ボイド『中国の建築と都市』S54年、原1962
 インドは地震国だがシナよりも石とレンガを多用している。
 黄河域には良質の建材用石がない。代りに木材が余っていたのが理由か。
 中世英国では圧倒的に木造建築。
 木工は土着していたが、石工は渡り職人であった。※だからフリーメイスン。
 三角形トラスはアーチの代りになるが、剛性である。
 迫持石(アーチストーン)は同寸でなくてはならぬ。
 石材は漢代以降、主要な橋材となった。
 有名な某園のアーチ橋は大理石製。
▼小松茂美 ed.『続日本絵巻大系・17』S58年
 前九年の役絵詞では、長兵はなぎ刀のみ。したがって面頬も両側のみを被って正面は空く。
 結城合戦絵詞には平刃のヤリが見える。
 鎌倉時代の絵巻は京都に発注してとりよせていた。
 後三年合戦絵詞に、猪の目透しの鉞を肩にした軍卒の絵。
 中巻には半首[はっぶり]=面頬+アゴ被いの歩兵が出る。
 東北では、自分の手で首をとるを「てづくり」という。
▼小松茂美 ed.『平治物語絵詞』S52年
 あごひげのばし放題の男が目に付く。面頬はあるが半首は見えない。
 柄頭が急角に反り上がっているのは片手打ちを考えた馬上太刀。
▼機甲会 ed.『日本の機甲60年』S60年
 初期ドライバーは輜重兵だけだったのでTKもはじめは彼ら。
 大14の宇垣軍縮で自動車隊も廃止されることに。
 山下奉文中将団長のドイツ視察団はS15年5月グデリアンより直接コンバインドアームズの話を聞く。
 フラーの陸上海戦論の訳が大12-12月号の「騎兵教育の参考」に載る。
 対米戦初盤では95式LTKの37ミリがM3スチュアートLTK-I型の改すら貫通できず。
 鹵獲M3LTKの実験では後面も貫通しない。逆にこっちの正面は貫通される。
 重量25トンでは装甲を一般に云う戦車並みにすることは不可能(p.74)。
 米軍のマニュアルでは「弾薬の射表や弾丸効力、戦車各部の装甲板厚等は、隠すのでなく全軍一兵に至るまで知るべき知識とされてい」る(p.131)。
 ノモンハンのBTは半クラでも登坂した。
 74TKはAPDSも英国のものを使っている。
 TKが、前方1300mから400mまで30km/hで迫るとき、その見かけ上の面積は、歩兵が200→60mまで匍匐するに等しい。しかも前者は110秒、後者は700秒。よってTKがATKに暴露しているとはいい難い。
 イスラエルは四次戦争のゴラン高原では155Hのタマを400発/門発射する必要があった。
 74TKの年間ランニングコストは2千万円/台。乗員のコストは450万円/1人/1年。
 普通科が射撃しながら50m突撃したら30秒かかった(p.167)。
 同じ97MBTでも三菱製と日立製とは部品互換性がなかった(p.287)。
▼飯村穣『兵術随想』S41年
 編者の西内雅はS15内閣総力戦研究所いらいの部下。
 軍ははりきった馬であり、政治家はこれを御する良騎士でなければならない。
 軍部の秘密主義の責任は、機密をすぐ口外する政治家にあった(p.46)。
 イントリグの訳語が謀略。兵語「謀略」はロシア班小松原道太郎少佐による。
 「何某曰く式の兵術を排せよ」(p.116)。
 米がもし核を使わずベトナムから退いた場合は、日本は仏並の核武装をすべきだ(p.228)。
▼陸上自衛隊幹部学校 tr.『枢軸側の大戦略』S31年、原1952?
 ラディスラス・ファラゴが旧独軍人の論述をまとめた“The Axis Grand Stratety”という資料。
 クローゼウイツツはナポレオンの突破作戦よりもフレデリック大王の陣地戦をよしとした。その影響を継承してシュリーフェンは「包囲」にこだわり陣地戦に陥って決戦とならずにドイツは負けたのだ(p.57)。※と新時代の独参謀は言いたかったらしい。米軍はクラウゼヴィッツの影響を根掘り葉掘り訊ねているようだ。
 フレデリック「小人はすべてを防御せんことを望む……すべてを御るものは何物も救わぬ」「陸軍の強さは速力に依って増加した集団の力に等しい」※→フォッシュ?
 補充兵ほ多く保有せば数量は補うことができるが、失った兵の質は之を補うことができぬ。
 シュリーフェン「百万人を給養するには十億弗を要する時、消耗戦略を行うことは不可能である」
 1940年西部前進中のTKに対する飛行機または司令部よりの通信にはヒラ文を使用した。コードは陸上戦闘中不適と。
 グデリアン中心に代用潤滑油の研究すすめたがとうとう成功せず、東部冬期戦でTK凍結続出した。空軍用潤滑油もまた不足した(2巻p.143)。
 1934にナチのE・Hadamovskyは「力を用いることは宣伝の一部である」と。
 イタリアはアルバニアからの数十万トンを除くと全石油をドイツから食糧のバーターで得ている。

摘録とコメント。

▼ラルフ・タウンゼント『米国極東政策の真相』大江専一 tr.日本国際協会S12年pub.
 シナは一村内で既に自給が可能。またそれは、短距離間といえどもかかる高関税によって助長されてきた。※老子の世界。そして人民公社。
 シナ留学生は勤勉だが「自分自身の裁量に任されるとなると、恐ろしく下手」。
 アメリカインディアンは黒人と違い、宗教的にも肉体的にも奴隷化されなかたのは不思議だ。
▼ヴァルガ『戦争と世界経済』和泉仁 tr.S15年
 ※独がソから油脂を輸入している事実を伏字としている。60頁。
▼ヨハン・フォン・レールス(Leers、独人)『世界制覇の争点』高橋文雄 tr.電通出版部S18年
 1930~3にスタは「スターリン運河」を掘りバルトから北海ムルマンスクへ抜け出られるようにした。
 弩級艦は吃水深くスエズからは来られない。※つまり石炭罐の重油罐化にも関係なく、またシンガポールをどう整備しようが、弩級艦とともに英国はシナ沿岸において日本の敵ではなくなった。
▼大河原蔵之助『一水兵より海軍少佐になるまで』S6年
 日露戦前の石炭積みは人夫が主で、艦内では機関部員が加わるのみ。水兵は手を貸さなかった。が、開戦直前から、すべて乗員でやることに改めた(p.86)。
 13ノット出すと、マストやヤードが唸り始める。
 水兵の給与は平時の倍になる(p.108)。
 合戦中は耳に綿栓を詰める(p.141)。
▼エヌ・シュペクトロフ『軍需工業論』S10年、原1934
 戦闘艦の1門の発射最大数は19世紀後半は110回/日、WWⅠで987発/day
 戦艦1隻つくるのに6年かかる。改装も、1隻1年以上かかる。
 WWⅠの独ではTNTの結晶物は砲弾用に、屑物は、手榴弾や地雷用に回された。
 イペリットのつくり方に、マイヤー法とレヴェンシュタイン法がある。
 1913型3インチ騎兵砲を除けばすべてのロシアの陸軍砲は最初のものがクルップ、のこりのすべてはシュネデル製である。
▼参 ed.『日露戦争に於ける露軍の後方勤務』大4
 ユダヤ人多いオデッサで最も応召率が低かった(p.20)。
 1904-9にクルップに120mm臼砲を注文。1905初期より到着。
 1904-12に奉天に手榴弾工場をつくった。
 満州は5月下旬~8月下旬まで雨のためぬかるむ。
 馬車鉄道により雨季の糧秣補給を確保(p.304)。
 無線も使った(pp.366-7)。
▼松本伊之吉『海軍施設系技術官の記録』S47年
 米では施設作業部隊を平時には一般公共事業に用い温存したのに、日本では軍縮で潰してしまった。
 工作車には特に特殊鋼が必要だが、モリブデン、クロム、ニッケル、マンガンが足らないので、磨耗の早いものしか国産できなかった。
 鹵獲のブルでいちばんよかったのがアリスチャルマーだが、これは米では二流のもの。
▼有終会 ed.『米国海軍の真相』S7年
 飛行船の母船が10余隻もある。
 ワシントン会議以降、ハンプトンローズ、グァンタナモ、ボストン、セントトマス、パールハーバーの貯油槽を大増設。
 サラトガ級が入渠できるドックは、パナマ、シスコ、パールの3箇所しかなく、うち2つはレキシントン級には対応できない。
 陸軍長官出身のタフトは大統領になると、海主陸従主義を定めた。サンフランシスコにしか港湾防御要塞がなかったのを、パナマ、サンディエゴ、コロンビア河口のピューゼットサウンド、アラスカ、ハワイ、グアム、マニラ、スービックの8防御港に拡大した。
 ついで1916に太平洋軍港の拡大案が提出され、参戦にもかかわらず推進。
 シスコは油田からのパイプに直結していたので特に重要だった。
 アラスカには、キスカ&シトカの海軍貯炭所のみ。
 ブラッセー年鑑などの公表タンク容量はアテにならない。航続力は各国極秘。たとえば、何速に於て何マイル、とは示さない(p.298)。
 経済速度は8~12ノット。これは艦が大きいほど小さくなる。しかし戦中は対潜のため15ノット以下で走ることはありえない(p.301)。※しかし日本海軍では、あり得た。
 油の量だけでなく、それを急速に給油できる港湾装置が充実(p.305)。
 S6年の ala moana 事件。ハワイ人が米海軍中尉夫人を暴行し、裁判中リンチで殺された。
▼中根千枝『家族の構造』
 英では16世紀以来、どんな関係であれ、2組の夫婦が同居することは全土的になかった。
 「腹は借りもの」などという考え方は、インドやシナの血縁重視の思想からはけっして出てこない。
 遊牧民のテントには1核家族しか入れない。
 蒙古における一子相続の慣習は、大家族とは矛盾する。
▼中根『家族を中心とした人間関係』
 原始には氏族はなく、家族だけがある。古代と現代が小家族の時代。社会の富が不均衡で、超定着的な時代に大家族が現れる。
 原始基督教時代に一夫多妻があった(p.76)。
 アフリカでは弟に対する兄の命令権はない。シナ、インドでは、非血縁の親分・子分関係は生じない。
 東南アの家族制は世界で最も自由形態。結婚をしない自由がある。また女の社会進出はあたりまえ。
 インド人も距離の近い人と結婚しない。本家と分家もない。シナと同様。
 ハイパーガミーの行われるインドでは、上層に独身女、下層に独身男が増える。そのため下層女の持参金は莫大を要す。
 シナでは結納金が貯まらずに結婚できない男が多かった。
 シナでは父なるがゆえに父権がある。日本では家長なるがゆえに父権が附いてくる。シナでは父権は死ぬまで維持され、隠居制は無い。
 英人は10代に母親の世界から父親の世界に入る。
▼斉藤真 ed.『デモクラシーと日米関係』1973
 明治はじめのキリスト教入信者は、これを儒教の延長だとみた武士階級。
 南北戦争後の米事業家は、スペンサーの「ミリタントタイプオブソサエティからインダストリアルタイプオブソサエティへ」なる社会進化説に多大の影響を受けていた。ロックフェラー、カーネギーら。
 大正の日本人がアメリカ映画をいかに愛したか(pp.134-5)。
 ウィルソンは、自著『国家』(邦訳1896『政治汎論』)の中で、社会は進化によってのみ善くなり、革命は退化につながると。
 吉野作造は典型的なウィルソンかぶれ(p.147)。
 大正期に訪日したジョン・デューイは、反米論あることを報告。
 内村は米のWWⅠ参戦に絶望した。
 評判の悪い「写真花嫁」は1920に廃止。
 アメリカでの差別待遇を黙過すると、日本人は世界中から劣等人種とみなされて、いたるところで海外発展を阻まれることになる(p.184)。
 1900前後の日米開戦論は米側のみの一人相撲。
 1920’sを通じ、米海軍は、排日は戦争をしてでも貫くべき国益とみなした(pp.188-9)。
 日本政府は排日問題を重要なものとは考えず。よって大使の引き揚げもなし。
 大正デモクラットは人種差別をアマく見た。
 東部では100%アメリカニズムと19世紀末風人種主義がWWⅠを機に復興した。
 排日法が大陸進出を正当化した。
▼伊藤政之助『戦術史講和』大15
 オクスフォード大学は「戦争研究を度外視する大学は決して政治家養成の良学園にあらず」と、戦略・戦史の講座を置く。
 仏は1871~90は守勢作戦時代。独はこの間、先制を欲したが自制した。
 1890~1910は仏の攻勢防御時代。この間に独は力をつけた。
 1910~は仏の攻勢時代。ジョフル参謀長。
 英にはボーイスカウトの他、少年「チャーチ」旅団がある。本国のみで65万人。
 WWⅠで伊は総勢100万なのに50万の墺軍に防戦のみ。
 米の毒ガス生産は1日分で東京市民全滅に足る(p.22)。
 ベルギーではこの頃、強いアルコールを禁じていた。
 明治20年に至るや中隊を散兵と援隊とに改め、戦闘正面を150mに、散兵の間隔を3歩に縮め、おおいに攻撃精神を高唱せしも、「独断」の範囲は甚だ狭少であった(p.115)。
 ナポレオン下のアーゲローは黒人出身(p.309)。
 WWⅠの男子数に対する兵員。仏27%、独25%、英23%、伊20%だった。
 兵員100に対する馬の数は、普墺戦で15頭、普仏で17、日露で20、WWⅠで30である。
 WWⅠの陸兵1人あたりの毎日の純陸軍戦費は、英20円、仏5円、露・伊・独・墺が4円である。日露役の日本では2.3円だ。
▼川瀬一馬『日本文化史』
 7~8月の季節風は、日本の西南海地方(沖縄)から大陸に吹き、その後は逆に吹く。しかし、季節風にのっても、大陸からの戻りは困難。
 日本の西南地方は、風と海流が悪く、接岸が困難。
 揚子江は風道なので、上下行ともに「信風」を利用できる。
 日本海岸は夏のみ平穏で、秋の終わりから翌春まで交通できない。
 太平洋岸は一年中使えるが、午前は凪ぎ、午後に荒れる傾向がある。
 安倍仲麿は、おきなわ島まで到着しながら難波してまた大陸に吹き戻された。
 武家文化は文字でなく視聴覚に拠った。禅はテキストで教導せず、師との接触によったので、武家にウケた。
 足利学校は禅院の形式をとった。
 林羅山の宋学はまだ単なる紹介解説だが、素行が出て初めて宋儒を論難し、仁斎、徂徠が続く。
 神道の教義は全く儒仏に依存。あるのは祭式のみ。
▼北見俊夫『日本海上交通史の研究』
 柳田の『風位考』。日本海岸は陸路は往来し難いため航海が発達したと。
 山口県沖から海流と追い風にのった漁船はウラジオまで「二日走り」する。
 『元史瑠求伝』にいわく、「凡西岸漁舟到、澎湖己下、遇颶風発作」すると、漂流し、みぎわに落ち、百に一も戻って来ない。……つまり沖縄近海は低気圧が頻繁に発生するのでシナから交通するのは危険なのであると。
 順風でも急潮にかかると一歩も前に行かなくなった(p.122)。つまり黒潮が強いので。
 柳田『火縄銃から黒船まで』。江戸期のジャンクは、5~9月に揚子江岸を出、南西風に乗って来日。シナへの帰航は10~12月の北東季節風に乗る。片道3~6日だった。
 日本からシナをめざすのは目標が広いので容易だが、その反対が至難であった。
 日本海側の暴風日は11月~3月に集中。逆に夏はほとんどベタ凪ぎ。太平洋側の伊豆大島は周年荒れる。日本海の年間波浪は、1m以下が100日、2mまでが100日、2m以上が160日である。
 良材の多い熊野の山中で造船して川を下して難波に出た。
▼トライチケ『軍国主義政治学』上下巻、浮田和民 tr.大7、原1899~1900
 戦争とは自国が判事になる訴訟なのだ。
 国家が先であって、契約が先ではない。
 中世では貴族は外国の貴族と親密で、自国の市民とは疎。市民は市民同志親しく、自国の貴族とは疎。
 最初の成文「叛逆罪」は1352の英にて。
 英国のインド虐政は正当化される。ヨーロッパ人はアフリカと東洋ではヨーロッパと違う政策を採ってよい(上巻p.147)。
 フォン・ボイエンやクラウゼヴィッツのようにロシアに脱走して旧国旗に反抗したものは、残留組のヨルク、ブリュッヘル、ビューローより道徳少ない。
 英国においては、戦時状態にありとの布告が、ドイツにおけるよりも甚だ頻繁である(p.242)。
 ユダヤ人は名誉あるドイツ人に対して常に民俗瓦解の一要素たりき(p.392)。
 ロシアでは、国が認めないと貴族ではない。二世代続けて公務につけない家族は貴族の資格を失った。これは、成り上がり貴族を許す(p.417)。
 英国下院の議員の1/3は、鉄道管理者だ(下巻p.17)。
 スウェーデン人は社交的だが、ノルウェー人は無愛嬌だ(p.229)。
 著者の師のダールマンは言った。結婚の誓いのとき、離婚もあり得るなどとは言わない。それと同じで、理性を有する者は良心を犠牲にし得ず、軍旗に対しても良心の故に服従できない場合があり得る。だが宣誓のときにはそんな留保は言わないものなのだと。
 ドイツ青年の決闘の習慣は美風だ。英国士官は決闘を禁じられてから、公衆の前で喧嘩するようになった(p.311)。
 革命戦争以前、英仏だけが国債を起こせた。フレデリックは7年役のとき、ついに公債を起こせず、悪貨幣で切り抜けた。
 著者小伝。トライチケは初め自由貿易主義者だったが、年経るに従い、反動化したと。※つまり愛英→反英ということ。
▼『燃料史』
 昭和15年、米は航空燃料の他、鉄製ドラムの供給も禁止した(p.42)。
 南方油の運送実績。戦争第一年148.9万トン。二年246.6万トン。三年106万トン。四年(終戦迄)ゼロ。
 S18年末からの苦肉の策。台湾砂糖、満州雑穀、国内甘藷からアルコール。大豆、魚油、フィッシャー軽油を潤滑油に。航空ガソリンのための松根油、重油のための亜炭、ボタ乾溜、タンク底油液の処理。
 松根油はS19年に伝えられたドイツ技術で、針葉樹の8%がテルペン乾溜油になると。農林省は伐採に難色を示し、根だけ許した。陸海分担で、20万リットル製造したが、航空用にはならず、漁船用とされた。※大正時代から松根油の研究があることは兵頭旧記事を見よ。
 南方油田はタラカン油田とサンガサンガ油田(バリクパパン製油所)のみ。他には出なかった。
 兵站総監を作戦部長より上位にしている陸軍はパレンバン占領を素早く決心。海軍は作戦第一主義で伝統的に補給はどうにでもなると思っており、特に航空ガソリンに関してそうであった。こうして最大油田のスマトラは陸軍の製油分担区になった。海軍はボルネオを得た(p.94)。※トータルウォーを考えていたのが陸軍省であって海軍省ではなかったということ。
 S19年2月に海軍航空燃料が枯渇し、陸軍に融通を懇請する羽目に。陸軍は応諾したが、マリアナで空母が壊滅したのを見て、本土決戦に備えて海軍には渡さないことにした。
▼田辺義雄『世界の食糧情勢』
 1978~1982平均すると、綿など含めた農産物輸入はアメリカから42%だが、特に小麦シェア53%、トーモロコシ91%、大豆93%は一国依存状態。
 米国農地の2000万Acerが日本向けの作物をつくっている。これは日本の耕地より広い。
 83年の供給熱量は国民一人あたり2593kカロリーだった。うち1361%、つまり52%は国内産の勘定。
 人は寝ているだけで1日1450kcalを消費する。
 農水省は、最大限の自給努力をしても2000kcalの自給が限度と見ている。これは昭和20年代後半の水準。
▼クセノフォン『アナバシス』松平千秋 tr.
 エウプラテスの某地方は稗がきわめて豊富。
 ティグリスは舟航はできるが舟なしで渡河することは到底望めぬ。
 急退却をすれば、追撃は小勢では危険となり、さりとて大部隊ではスピードが出なくなる。
 ナツメ椰子の果汁は美味だが頭痛を起こす。
 規律のためには敵よりも指揮官を恐れさせねばならぬ、とクレアルコスは言ったとか。
 クセノポン「われわれ(ギリシャ人)は、寒暑や労苦に耐える点では敵(ペルシャ人)に勝る肉体を持っている……」
 クセノポン「さらに諸君よ、もう一つ私が確信していることがある、すなわち、戦いにおいて何としてでも生き永らえようと望むような者は、大抵は見苦しく悲惨な最期を遂げるものであること、それに反して死は万人に共通で逃れ難いものと悟り、ひたすら見事な最期を遂げんことを志す者は、何故かむしろ長寿に恵まれ、在世中も他の者より仕合せな生活を送るのを私は見てきているのだ」
 ただ一つ、騎兵はわれ\/に優る利点を持つが、それはわれわれよりも安全に逃走できるということだ。
 ペルシャ人の投石器は、掌に握れるほどの大きい石で、短射程。
 ロドス人の投石器は鉛丸で、ペルシャ人の石の倍、飛ぶ。
 それは弓よりも飛んだ(p.100)。
 ペルシャ人の夜営では馬は足も縛っておく。
 カルドゥコイ人の長弓は、下部を左足で踏みながら引く。
 ギリシャ人隊中には多数の娼婦がいた(p.120)。
 寝ている体に雪がつもると却って温かい。
 ギリシャでは猛犬は昼縛っておき、夜放す。
 テュノイ人は棍棒を、鉾の穂先を叩き落とすための武器だといっている。
 解説いわく、本書はアレクサンダーに影響を与えた。
▼『五国対照 兵語字書』明治14年2月 参謀本部
 ※山縣参謀本部長が西周らに編ませた、明治期の最初の外国語辞書の一つ。
 ※見出し語は仏語で引くようになっており、和語から引くことはできない。
 ※女性格に f.、男性格にm. と注記してある。(a)は古語の印。
 ※配列は仏、独、英、蘭、和の順か。
 巻末で室岡俊徳いわく、馬の毛色を言う語だけはどうにも比定がつかなかったと。
 Initiative,f.──Initiative,f.──Initiative.──Initia──先発
 Architecture militaire,f.──Kriegsbaukunst,f.──Military architecture,f.──Kriegsbaukunst,f.──築城術
 Arbalete,f.(a)──Armbrust,f.──Cross-bow,Arbalest──Armborst,f.──Kruisboog,m.──弩
 Cantiniere,f.──Marketenderin,f.──Sutler’s wife──Marketentster,Zoetelaarster,f.──従軍酒婦
 Guerre civile.f.──Burgerkrieg──Civil-war──Burgeroorlog──国乱
▼金子有鄰『日本の伝統馬術』
 ※先行する著者の主著と内容はほぼ同じ。
 「令義解」に、「具装」とは馬甲だとあるから、奈良時代に馬ヨロイがあったことが知られる。
 源平盛衰記の生田の戦いの箇所に「馬には冑を着すべし」とある。ただしそれはカブトなのかヨロイなのかはっきりしない。
 太平記の22巻にも馬の鎖冑が出る。その他の例、多数。
▼R.アーミテイジ『アメリカ海軍──その伝統と現実』古田保 tr.昭和16年
  ※巻頭写真が20ページほど破り取られていた本。
 艦隊派と本省派のあいだに意見の食い違いがある。
 スクリューのことを「暗車」という。
 「1948年には米国海軍が総トン数では日、独、伊三国の海軍の合計と同じになると言うことは別に隠す必要もあるまい」(p.30)。
 「水兵は複雑な仕事を憶え込むのに6年はかかり、除隊して一般人の仕事へ戻るのも困難だ」「我が海軍は……現役兵員の4割はハイスクール出身である」(p.31)。
 「我が戦艦はことさらにあまり速くないが、装甲を厚くし、備砲を大きくし、航続距離を伸ばすために、速力を犠牲にしてゐるのである」(p.32)。
 1925頃は商船とSubが衝突するとSubの方が沈んだ。S-51号と“シティ・オヴ・ローマ”のニューイングランド沖遭遇。
 「19世紀及び20世紀の攻撃戦理論の唱道者ともいうべきクラウゼヴィッツの諸概念は、第1次世界大戦中に疑惑にさらされるに至った。それは攻撃的作戦が成功するためには、殆ど三対一の数的優勢を要することが分ったからである」(p.182)。
 日本政府は圧迫を加えられると敏活だ(p.192)。
▼参謀本部・広田忠三郎『日本古戦法』大13
 太古の騎射は「半弓」を用いていた。さもなくば馬上で使えるものではない。
 甲越の戦いのころは槍は普及していなかった。信玄などは麾下の隊だけに長槍を持たせていた。信長はこれを多量に用いた。以後、武士は必ず手槍(短槍)を持つようになった。
 本邦の「魚鱗陣」はシナの「車輪陣」の誤りで、「鶴翼」もまた「虎翼」の誤り。
 孔明八陣とは実は64種あるのだが、越後流は知らない。
 本邦の陣備えは頭に重点を集中した攻撃型。後ろに脆い。シナ軍の陣は守るを主とする。
 答古智幾・タクチック と 士多剌的義・ストラテギー が明治12~13頃の当て字(p.30)。※『軍事史学』によると、フランス語にオランダ音をふった。
 折り敷いて石突を地に托す槍襖を「嵐」という。
 植株列がそろっていないのは、深田である。
▼モック&ラースン著『米国の言論指導と対外宣伝』坂部重義 tr.S18年
 ※序文ページ破れていて原タイトル不明。
 宣伝と政治・軍事は作戦上、同価であるとはWWⅠではじめて米人に気付かれた。
 1940ごろ米にフィンランド救援の気運をつくったのは、ロバート・シャーウッドの芝居「ゼア・シャル・ビー・ノー・ナイト」と、シベリウスの音楽。
 WWⅠ中の米国内宣伝は、米国人をして北米爆撃を覚悟させる迄に(p.28)。
 戦時防諜法で5~20年の禁錮判決を受けた何百人もが、ハーディング~クーリッジによってほとんど釈放された。
 ホームズ判事すらWWⅠ中は保守派の判決を下した。
 Four minuit man (四分間演説者)は、ラジオのないときのシンクロ放送網。
 開戦と同時に多数のロシア人が合衆国から帰国した。
 国内・同盟国向けには本局が、対敵宣伝は陸軍省が担当。
 国内無線局を全部接収したのは海軍。これを定期ニュースブロードキャストに(p.226)。
 1918年からはハルピンが米の対シベリア宣伝活動基地となる。
 ヴェラクルスを占領させたのはウィルスンだった。

摘録とコメント(※)

▼重久篤太郎『日本近世英学史(増補版)』S57年
 文献上の初見は、江戸末、蘭語重訳のロビンソンクルーソー。
 蘭語の次に早くから研究されたのが仏語。18世紀末の革命以来の影響力による。
 明治20年代頃までは軍隊では「止れ」の意に独語のハルト(halt)が用いられていた。 「○年計画」はロシア語よりの翻訳(p.74)。
 軍隊ではズボンを袴、ボタンをコハゼと称した。
 1816にシナからの帰りに沖縄に寄った Basil Hall 英海軍大佐は 1843に Loo Choo Naval Mission・海軍伝道会を派した。
 Basil H. Chamberlain は沖縄近海を測量しあたとセントヘレナに寄りナポレオンと会っている。
▼『平成17年度学士会館定例講演会』
 永江太郎「支那事変(いわゆる日中戦争)の真実を求めて」
  ※論者はもと防研戦史部。
 戦史叢書のなかで、満州事変から昭和16年までの支那大陸の陸軍作戦について書かれているのは『支那事変陸軍作戦』の全3冊。
 これに対してカウンターパートの人民解放軍軍事科学院軍事歴史研究部が編纂刊行したのが『中国抗日戦争史』の全3冊。
 Sino-Japanese war といえば日清戦争のことになる。外国でも正確にいう場合は Sino-Japanese incident ・日支事変と書く。日本の教科書が「日中戦争」と教えているのはおかしい。互いに宣戦布告していない。だから「いわゆる」なのだ。いまの大陸では「抗日戦争(the war of resistance against Japanese aggression)」が正式呼称。
 満州事変の結果として日本は国際連盟からS8年2月27日に脱退した、日支間の関係はこれとは独立で、事変から2カ月後にはタンクー協定が成立している。中共公刊戦史も「国民政府屈辱求和」と書いて認めているのだ。
 事実、S10年には両国公使館は大使館に昇格した。
 経済交流はそれよりも早く復活していた。S8年7月1日に北平と奉天の直通列車が運行再開。S9-11には郵便協定。S10-1には満支間の郵便業務再開。S10-2-5には電信が開運。S10-9には山海関に国境税関が設けられて、正規の国際交易が始まっている。
 つまり満州事変にもかかわらず日支関係は<平時>だった。これがおかしくなるのは中共が苦境に陥ってからのことなのだ。
 苦境に陥ったのは、蒋介石が昭和10年までに日本との関係を正常化した結果でもある。だから蒋は共匪討伐に注力できたのだ。
 かくしてS9年11月に瑞金の中共本拠が陥落し、11年2月までかかって山西省に落ち延びた。
 蒋と日本の関係を悪化させたい中共はS10年1月から5月まで50件以上のテロを引き起こした。天津の日本租界内での複数の暗殺を含む。
 S10年7月にモスクワは世界中の共産党を第七回コミンテルン大会に招集した。世界の共産党はドイツと日本を当面の敵とすることが命じられた。中共代表は「8・1宣言」を10月1日のパリで発表した。内容は日本に対する戦争宣言で、詳細は中共の公刊戦史・上巻354~355頁に堂々と掲げてある。誰が戦争の計画者かは明白なのだ。
 延安に中共が逃げ落ちたところを蒋介石はトドメをさそうとしたが、さしむけた張学良は消極的であった。蒋介石が督戦のため西安を訪れると、西安事件が起きた。
 この事件の結果、昭和12年2月末に国民党の内戦中止と抗日の方針が決定された。
 にもかかわらず蒋介石に具体的な動きはなかった。
 そこで発生したのが北平駐屯の日本軍への挑発である。
 盧溝橋事件の4日後、7月11日夜に支那駐屯軍と第二十九軍の間で停戦協定調印。
 この協定も妨害するための中共の小規模テロが頻発した。
 ついに中共が動かせる正規軍が出てきて、日本軍を銃撃し始めた。25日、廊坊事件。26日、広安門事件。
 これをうけて参本は27日、北平・天津地区に限定した武力平定を許可。ここからが「北支事変」。
 7月29日、通州事件。
 上海には日本の海軍の陸戦隊が5000人、租界を守備していた。これを5万の国府軍が包囲していた。
 戦争を熱望していたのは中共だが、最終的に決意し、上海で戦争を始めたのは蒋介石。まず8月6日に国防会議。※「勝てる」と判断させたのもコミンテルンの息のかかったドイツ人なのだろう。
 8月13日午前10時半に、商務印書館付近で日本軍への攻撃開始。夕刻、八字橋付近の日本軍への砲撃開始。
 14日、シナ陸軍が虹口の陸戦隊本部と日本租界の防衛線への本格攻撃開始。シナ空軍は停泊中の第三艦隊の帰還『出雲』および陸戦隊本部を爆撃。
 15日、蒋介石は総動員を下令して大本営を設置。
 17日、日本政府は閣議で、不拡大方針を放棄。
 8月23日、邦人救援の第三師団が上海に上陸。しかし敵は優勢で膠着状態に。
 9月23日、国民党は共産党と第二次国共合作に調印。
 11月5日、第十軍が杭州湾に上陸。
 17日、日本も大本営を設置。
 蒋の側近・薫顕光の回想録にいわく「蒋介石は、自ら好む戦場を揚子江の線に選び、揚子江の線が破れた場合は奥地深くに抵抗線を築く計画であった」。
 戦争では10年前からの周到な準備が必要である。日清、日露ではそれをしていた。支那事変と対米戦争ではそれがなかった。特に外国内の反日感情や反日政策、米国のシナへの梃入れ政策(イコール反日政策)を傍観し続けたのが最も反省されるべきだ。
 M38、サンフランシスコ市は日本学童を隔離する命令。
 M40、米議会はハワイからの本国移民を禁止。
 M41、シアトルでも排日運動。
 大8、カリフォルニア州議会は排日協会を設立。
 大13、連邦議会は排日移民法を圧倒的多数で可決。
▼大島高精『米国と太平洋』大13
 ハワイで1000ft×138ftのドック拡張完成が1919年。
 それにつづいて1800および1000ftのドックを計画。
 フィリピンのカビテ、オンロガポ、ポロックは大艦向きでないので、マニラに新軍港を建設せんとす。
 米海軍参謀部は、距離の不均衡により比島防衛には巨費が必要で、むしろ無防備がよいと健策。
 明治は欧化時代、大正は米化時代(p.554)。
▼中村秋秀『米国の太平洋戦備』S7年 
 シナはTK×3000も買っているが、ガソリンが漏れ発火すると遺棄してしまう(pp.277-8)。
 飛行機は50以上あるが、古物。
▼勝守すみ『太田道灌』S41年
 幼時、鎌倉五山にて学修。
 当時の千代田区は、利根川と荒川の合流路の河口に膚接。
 川越←→鎌倉の中間地であることが立地理由。
 当時は石垣は少ない。土居をめぐらした。
 『太田道灌兵書』は江戸期の偽書。『道灌自記』も江戸楠流の偽書。
 鉄砲以前に足軽戦は重視されていた。
▼荒川銜次郎『太田道灌と江戸城』M42
 隅田川右岸の川越=江戸を連接して北方に対する防御線を形成せんとした。
 海岸でない、内地の城に石壁を用い出すのは、織田の二条城(永禄11)。
▼山口平四郎『海岸の地理』S44年
 Oceanといえば太平洋、大西洋、印度洋の三つのみ。
  他はメディタレニアンかマージナルか、どちらかのseaである。
 太平洋とインド洋の区分は、タスマニア=マッカリー=バレーニー=南極アデーヤ岬の線。
 港は風下側に造られる。日本では冬の北西季節風を考慮。よって日本海沿岸は天然の不利。
 欧州には勾配の小さいエスチュアリー地形のラッパ状河口が多い。これは干満の良影響を受ける。浚渫が不要であり、大船が遡航できるのだ。
▼橋井真『工作機械と自動車統制』S15年
 工作機械統制の初めはS13年3月の工作機械製造事業法。許可事業になった。
 池貝鉄工所は日清役中の設立。
 M44に快進社がダット号をつくる。ダットサンの起源。
▼原正幹『米国戦時造船』大10
 米の職工教育の成果は、本邦一流熟練職工よりも勝る人材を急造。
 特に製図と機械の理解は米国職工の方がはるかに勝る。
 一人の教員は5~20名を教えた。
 米でも戦中に給与が高くなると出勤率が数%落ちる。
 Wコーストの方がEコーストより出勤率はるかに高い。その理由は、露天船台の作業は雨天が苦痛なので。
▼ウォルフ・シュナイダー『ウルからユートピアまで』S36年
 ローマ都市住民のことを intramuranus 「城郭内の住人」と呼び、ドイツ市民の Burger も同じ意味である。
 zitadelle は小堡塁。これが多数置かれる。
 北アフリカや南アジアでは迷路式陸地によって防衛する。
 ドイツでは家の高さは道路の幅員と等しい。
▼大河内正敏『尾崎行雄氏の反軍思想を匡正す』S10年、海軍有終会pub.
 尾崎はM35-12の第17議会で、日露の歳入が2億5千万円 vs 20億円で、競争にならぬと発言。
▼佐藤栄一 ed.『政治と軍事』S53年
 ヴァージニア憲法のコンセンサスである文民主義は英にて発展していたもの。海軍に大きく投資したので、本土防衛は地方軍民兵に依拠するしかなかった。
 フィッシャー提督は、海軍による陸軍の統合を考えた。
 17世紀のロンドン市の市民軍はよく訓練されており、別格に精強。
 クロムウェルの手兵を率いての反乱が、常備軍 standing army への警戒感となる。
 アダム・スミスだけが常備軍を肯定していた。
 対インディアン戦争は、最も初期の全体戦争または絶対戦争。そのころまだヨーロッパは、儀礼戦争の時代。
 「襲撃を受けたコミュニティ自体が自衛する以外には、防衛の方法は現実には存在しえなかったのである(p.11)。※ベトナムの戦略村の発想の背景。
 独のヴェーラーいわく、クラウゼヴィッツの絶対戦争はマルクス純粋資本主義に匹敵する理念型だと。
 ※政治の目的は権力であるから、核手段は政治と何等矛盾しない。
 ケネディはラ米に戦車を送っている。※たぶん低圧75ミリ砲の軽戦車のこと。
 マクナマラの後任者の Laird は、「米ソ関係にはゲームの理論あるいは行動・反応・分析といったものは通用せず、ソ連はより攻撃的であるとみなした。したがって、アメリカは対ソ戦略的優位を確保すべきであるとの立場をとった」。
 マクナマラの拒否したB-1、F-15/14、ABMをレアドは復活させた。
 警察予備隊設置当初、日本側は内局の意義を認め得なかった。その過程で、シビリアンコントロールとは、内局が部隊の上に立つことだ、との解釈が定着してしまった。

ポータブル神社

 神社の便利なところは、「分社」ができることです。これは本社のフルコピーなのですが、ファイルサイズは極小で済みます。
 靖国神社を首相公邸内の「ポータブル神棚」に分社しておいたらいかがでしょうか。毎日、居ながらにして参拝ができますね。
 「俺は靖国神社なんか嫌いだ」という新首相は、このポータブル神棚をどこかの倉庫に預けてしまう。あるいは無理してその公邸に住まない。
 維新政府は「神仏分離」を行政命令で強制しました。その過程で、ある神社は寺とされ、ある寺は神社とされた。日本ではこういうことができる政治的伝統がある。靖国神社も、危機感を持たねばいけません。
 「ポータブル神棚」をいまからたくさん準備することです。そして首相だけでなく、いろいろな人に持ってもらうことです。
 以下また、摘録とコメント。
▼徳永真一郎『幕末閣僚伝』S57年
 天保改革で倹約令を断行した老中首席・水野忠邦が罷免された。発表の夜、江戸の市民数百人が邸の前に押しかけ、石や瓦を投げこんで歓声をあげた。
 しかし1844に英船が宮古・八重山諸島を測量したり、外交問題が頻発するので、1845に再起用された。
 老中は月に一度は大奥を巡視する。
 オランダのウィリアム2世の国書には、天保11~13のアヘン戦争で清国は数千の兵を殺されたと(p.10)。
 ペリー来航前、松前海峡を通過する捕鯨船は年間100艘以上あった。※吉田松陰はなぜ関東で密航を試みる必要があったのか。
 井伊直弼の開国論は、海軍建設、商船隊建設を是とし、キリスト教の受け入れも認めるというもの。
 ロシアは日米戦になったとき日本に味方して恩を売ろうという肚で艦隊をうろつかせていた。
 ペリーの9隻の軍艦は、江戸湾を封鎖したのである。※時間が経てば経つほど、江戸市中は飢饉に陥る。
 メキシコは米海兵隊によってすでに城下の盟を強いられていた。そのようにして条約を結べば、もっとひどいことになる。
 江戸直下型地震で藤田東湖らが死んだ。これ以降、水戸藩主の言動は筋が通らなくなり、ただ横車を押すだけの老人になった。
 幕末、すでに牛乳とバターが病人食。
 1680に堀田正信はハサミで首を切って自殺した。
 貧乏すると、敷居を枕にして寝る。
 堀田正睦は西洋銃剣術を藩士に学ばせた。
 安政3年にハリスは正睦を威嚇した。清国は16年前、イギリスと戦争を起こし、「百万人の命を失な」ったと(p.41)。
 江戸時代の歴代天皇で政治になにかと発言があったのは孝明帝だけ。ただし一事について表裏二つのあいまいさ。
 家定は臣下に道理で責められるとただ泣きじゃくるのみで一刻でも二刻でも何の答えもない。死諫もムダだろう。
 井伊直弼は部屋住みの頃、新・新心流という居合いの一派を創立した?
 国学は現実論で、帰納法的。これに反し儒学は、最初から結論を定めて、それに適するようなデーターをあげる、(似非)演繹法。
 室町期に諸侯が勝手に上洛競争したことを見ている家康は、諸侯や家臣が勝手に朝廷と連絡することを厳禁した。
 家光が鎖国を決めたときに勅許など得ていない。政治を任されているのだから開国も勅許など必要ないのだ。
 水戸・薩摩・長州は天皇の取替えと幕府乗っ取りたくらんでいたので、それを潰したのが安政の大獄。ただし幕府としてはこれほど大きなクーデターの陰謀などを天下に公表はできなかった。
 長野主膳は早くから平田篤胤は唐心であって鈴廼舎の後継者ではないと言っていた。
 老中間部の要撃計画を自白した以上、幕法からいって松陰の極刑はあたりまえだった。 川路聖謨が23歳で勘定評所留役だったころ、剣術と槍術の道場に入門したが、同僚は「武術のために体を傷つけるようなことがあれば、出世の妨げになるぞ」と注告した。
 川路が佐渡奉行のとき稗飯を食ってみたがとても咽喉を通らなかった。
 勘定奉行は関八州の訴訟も裁く。
 川路が55歳のとき、江戸から木曽福島の本陣まで中仙道を15日で歩いた。1日7里半の計算になる。
 この頃の川路の日課。朝は丑の刻=午前2時起床。読書と執筆。空が白むころ、長槍のすごき2000回、大棒の素振り2000回。これは一日も欠かさなかった(p.95)。
 ロシアと交渉してエトロフ島を日本領と認めさせたのは川路だった。
 徳川斉昭が嘉永6年10月に対露交渉に赴く川路に贈ったうた:「わが国の千島のはてはえそしらぬ さりとて君はよそにとらすな」。
 「別して刀剣の楽しみ、大いに節すべきこと」を座右銘の一つにしていた。
 老中阿部正弘は37歳で胃癌で死んだ。
 川路の59歳・西の丸留守居役のときの日課。夜明け前から乗馬。午前8時に飯。読書。正午に飯。読書。午後4時に飯と酒一合。日暮れるや、重い鎗と軽い槍等、あわせて3500本のスゴキ。ついで、大棒を使うこと1000本、居合い刀(軽と重あり)を300回、さらに棒と居合刀を振り、曲尺をふむこと500、それより木馬に乗る。これで夜10時になる。
 体調がおもわしくなくなってからは、鎗刀をつかう代わりに、3貫目の荷物を背負い、1貫目余の太刀をさし、10匁鉄砲を携えて1里余、そこから鉄砲を持たずにまた1里余、そこから荷物も下ろして1里余、庭園を歩行した。
 それも医者から禁じられたので、邸内の精米機を踏む仕事をした。
 幕府は朝廷に恭順の意を示すため、旗本と御家人はしばらく鳴物停止、月代も剃らないようにしろとの達しが出た。
 川路は江戸城明け渡しの日、短刀で浅く腹を切った上をサラシで巻いて、咽喉を短銃で撃って自決した。旗本3000騎のうちこのようなマネをしたのは川路だけ。
 ある水戸藩士の申告によれば、斉昭は、クーデター&内戦を起し、米国に応援を求め、代償として琉球、佐渡、壱岐、対馬をアメリカにくれてやるつもりだったと(p.117)。
 文久元年の降嫁では浪士の襲撃を警戒して中仙道を選び、各宿場では2里四方を煙止めとて、炊事もさせず、10日前から近所で葬式もさせなかった。※火縄警戒?
 1862-12-22、伊藤博文は仲間一人とともに49歳の幕府の国史学者・塙次郎を自宅前に待ち伏せて斬殺し、その首を九段上の黒板塀の忍返しの上にさらした。
 廃帝の古例を調べていたというのである(pp.134-5)。
 松平春嶽の国事テロ犯人の赦免が暗殺を流行させた。
 天狗党の一件では392人を斬罪にした。安政の大獄ですら死刑は8人。
 当主が17歳以下だと国替えになるのが当時の幕府の制度。
 横浜駅に近い青木橋の前の丘陵にある本覚寺はアメリカ領事館のあったところで、その頃、日本で始めてペンキを塗ったという門が現存する。
 尾張は一度も将軍を出していないので幕府に不満あり。
 家茂の死因は脚気。
 小笠原長行は幕府の主戦論者だったが、意見は容れられず。その息子が、海軍中将・小笠原長生。
 無役の小普請組だった勝麟太郎は漢学熟を開いて生計としていた。それを蕃書翻訳所に抜擢したのは、大政奉還の発案者であった大久保一翁。一翁構想とは、朝廷がどうしても攘夷をしたいのなら徳川は遠駿三の旧領だけを支配する昔の一大名に戻ればいいというもの。
 安政3年の一翁のうた「ふたつなき三の宝のほかならば変わるもよしや民のためには」。これは三種の神器=国体のこと。
 一翁と改名したのは、49歳で断髪してから。
 一翁も日記をつけていたが焼却した。※日記には他見を憚るようなことも書くものだから、たいていの役人は晩年に焼却するのである。
▼S.J.Deitchman著『アメリカの限定戦略』S41年、上原和夫 tr.
 WWII中の6コDは、5000t/d、補給所は各10日分を貯う。
 マレーでの英軍は、「ゲリラをジャングル外に追い出す」を主眼として成功。
 ノルマンジーからラインに向かった第三軍の平均速度は24km/dで、最高はその倍に達す。
 北アフリカのクルセイダー作戦中は、32km/d ~ 64km/4hの間。
 1コDの補給に800台のトラック要る。そのうち、荷物を積んで前線に走っているのが400台(2日分)。空荷で後退中が400台(2日分)。
▼河田嗣郎 ed.『時局と農村(2)』S13年
 戦時は肥料工場が火薬工場となり、当然、農業減収が起きる。
 肥料はチリ硝石からつくっていた。
 1916の英ではイモの価格を抑えすぎ、生産低下した。その反動で値上げしたら1918は出来すぎた。英は小麦の逆ザヤ政策をとる。
 英では必要量以下の配給となったことはない。
 仏ではヤミ流行。
 軍や包囲市民への食糧割り当てをレイショニングという。
 英では1917-10から1918-2-25の割当制施行まで、queue(行列)がみられた。
 ベルリンでは1916からポロネーズ(舞踏・行列)を生じた。
 独でもWWⅠ中、ヤミ横行(pp.72-3)。
 1918の仏は農村より370万人動員した。蹂躙された農地は全国の6.31%だが、そこが最も豊饒地だった。
 ビスマルク以来の保護政策で、ドイツはWWⅠ初め、自給できると考えられていた。しかしそれは水増し勘定を前提にしていた。
 デンマーク、オランダ、スイスの酪農品、ノルウェーの魚は、輸入できた。一時はルーマニアから麦を輸入。
 英はノルウェーの鰊を買占め、これを遺棄してドイツに渡らぬようにした(p.157)。
 イモ5パーセント混ぜパンが1914末よりドイツで作られた。褐色。1915~17には、米国産のトウモロコシ、大豆、カブまで混入された。
 ドイツはイモで豚を飼うシステム。
 ドイツの1913の農業人口は1千万人。うち16~50歳男子は340万人。うち200万が徴兵されたのでは農業成り立つわけなし。
 そこで Freiherr Theodor von der Goltz は1890’sに工業化のいきすぎに反対。
 この頃から、漂泊労働者が国外より大量流入し、農業に従事。
 イモ、ダイコンなどの耨耕作物は、労力・農耕蓄・照明を必要とするので戦中に廃れ、穀物に転作することになった。これで総カロリーは減った。
▼堀毛一麿『ペレコープの戦』S9年
 スターリングラードはもともとツアリチンといい、スターリン、ウォロシロフが1918末に防衛にあたり、「赤いヴェルダン」といわれた。
 ペレコープはクリムの地名である。
 レーニンは、「党員はクラウゼヴィッツの兵書を読め」といってブレスト条約。
 英国は赤と白の永遠伯仲を望んだ。
 レーニンはパン列車を敗戦ドイツに送ろうとするも拒絶さる。日本の大震災のときも慰問品を宣伝文とともに送ろうとして断られる。
 東部戦線の独軍は休戦条約と同時にモラル崩壊した。
 マンネンハイムはコルチャックに、独立承認とひきかえに10万援兵を申し出るも、尊大な拒絶に会う。
 ロシアの赤白内戦で飛行機は殆んど用いられなかった。
▼吉田庚『軍馬の想い出』S54年
 東北から牝馬中心に徴用した。
 台湾Dを上海に投入した。
 重傷馬は薬殺。
 脚貫通、首盲貫でも馬は使える(p.46)。
 縦隊では前馬の尾に鼻をつけていこうとする。
 軍馬が斃死しても食べない。それが兵隊のプライド。総動員の10%以上が特務兵(輸卒)だった。
 家族は出征者には心配事をいっさい伝えないのが習慣だった。
▼マキシム・ホーソーン『戦車旅団全滅』S16年、富田邦彦 tr.
 筆者はウランバードルでT-37アンフィビアスで訓練受く。
 芽イモを食って下痢になり前線をのがれる方法がある。
 「肉弾戦は野暮な過去の戦いであって、廿世紀の戦斗法ではないと聞かされていた」(p.17)。
 日本軍と違いロシア側には十分な拳銃があった。
 水陸用T-38が並んでいた。
 独立TK旅団は各10両の11コ中隊から成る。
 筆者は「最新式」のS型軽戦車を指揮。
 この中隊は、火炎放射戦車×1、ATG×3を配属された。
 杉の葉をいぶして蚊よけとす。
 モスクワTK学校から送られてきた鉄条線は軽戦車を捕獲できるという話。3本で中戦車も。
 TK車内は騒音のため、クルーは手まねで話す。
 TK同士はKey無線でしたらしい。しかも走行中。
 1Coは3小隊。
 スターリン誕生日に前線で特別食出る。
 帝政下のロシア上級将校には命令軽視の風あり、上級指揮官同志の抗争で負けることもあったのでスターリンはこれを厳正に。
 ソ連ATGも実戦場では100m以上では有効ではなかった。
 親子戦車(p.232)?
 通信系。偵察機←→Bn長車←→Co長車←→Pt長車(ここまで無線)←→各車(手旗)。
 天蓋は、中からおさえていないと、外から開けられてしまう。
 パーカー両頭戦車(p.256)。
▼M.マクルーハン『メディア論』原1964、訳1987
 ※著者は1980死。
 ルイス・マンフォードは『歴史のなかの都市』で城壁都市を皮膚の拡張とした。
 歴史家のマコーレーいわく「それについて読むとわくわくするような時代に生きるのは楽しくない」。
 子供が一日のできごとをおしゃべりしたがるのは、再認識こそが生きるあかしだから。 電話が赤線地帯を廃止し、コールガールを生み出した。
 都市はそれ自体軍事兵器で装甲板である。
▼海野芳郎『国際連盟と日本』S47年
 英は多くの自治領の数だけの投票権を握った。
 従来、オランダ植民地は多量のアヘンを産した。
 日本の対支密輸が最も巨額。モルヒネを含んだ。
 台湾でもコカを栽培した。数千エーカー。
 1920頃の公娼制度下では、内地18、朝鮮17、台湾16から雇ってよく、23歳まで需要のピークであった。
 条約は就業最低を21にしようとした。
 内地公娼(私娼は除かれる)を調べたら5万人で、うち8000は文盲だった。
 1921に条約批准。21歳以下の(?)完全禁止は1927より。ただしザルだった。
 シナの技術顧問となったドイツ人「ライヒマンは実に日本側にとっては連盟保健部長の職務を逸脱して頗る排日的活動を行った不穏分子であったのである」(p.168)。
▼大場脩『江戸時代の日中秘話』1980
 台湾に逃げた鄭成功は1648から60年間、5度にわたって日本に反清援助を求めた。
 鄭が唐王であったことから、江戸人はシナ人を唐人と呼ぶようになった。
 吉宗は1720からシナの書籍を長崎に発注。
 江戸時代前半までは書籍の舶載はほとんどなし。
 シナでは銅の生産がなかった(p.37)。?
 日本が輸入した生糸は鎧のおどし糸など、ほとんど軍需。
▼小野武夫『日本兵農史論』S13年
 初期の鉄剣が直刀なのは、刺突を主としていたから。
 槍の初出は、倭健の東征にある「比比羅木之八尋矛」(古事記)
 火箭の初見は、欽明15年の新羅征伐に於いて。
 反り刀は馬上戦闘多くなるにつれ。
 山縣はM4に欧州をみてまわり、プロシヤが仏に勝ったのは予備兵が多かったからだとし、国民皆兵を12月に建議。
 柳田国男によると峠の俗称を味兵・あいひょう、とも言った。

摘録とコメント

▼本間順治『日本刀』S14年
 素戔鳴尊の剣、一名、蛇韓鋤・おろちのからさび。
 万葉。太刀ならば呉の真鋤/摩差比[まさび]
 当時、シナ大陸でも呉のみ鉄剣を産し、他は主として銅剣だったので。
 截断に際して刀自体の重い目方を、青龍刀は必要とし、日本刀は必要としない。
 東大寺献物帳に現存せぬ唐太刀あり、「偃尾」と註してあるので、鋒が反った湾刀がもうあったと思われる。
 玉葉には、平清盛が宋に日本刀を贈ったとあり。
 鎌倉末期の刀剣書中に、大和の國正なる刀工の作を述べて、「一とせ異国のもの〔=蒙古の捕虜〕の首を斬りけるに百人ばかりも斬るにこたへけり」とある(p.10)。
 洋鋼延べ鋼に焼入れし偽銘を加えて出征勇士に売る商人あり。
 明治以後、古来の日本刀をば文字通りの無用の長物扱ひとなし、外装の金具のみが僅かに珍重せられ、甚だしきは外装中の金のみが地金として用ひられるが如き態で、刀身のごときは二束三文の有様となり、……。
 事実先般の蘇満国境の戦に栗原中尉が軍刀を以て敵の機関銃身を切放した。※謙信の「鉄砲切助真」からの作り話か。
 国宝保存の最初の法は、明治21年に臨時全国宝物取調局(宮内省)が始め、明治30年の「古社保存法」(内務省)に結実。宝物は国宝に。建築は特別保護建造物に指定さる。
 M42に初めて日本刀が国宝に指定された。
 大2に内務省宗務局が文部省に。
 S4年3月、「国宝保存法」制定。建物も国宝に。
 村田刀は日本刀づくりではなく機械造り。満鉄刀、「金研刀」もまた然り。
 幕府のタメシ斬りは、山野加右衛門、山田浅右衛門、等。
 「二ツ胴截断」「三ツ胴切落」等と金象嵌を入れた。罪人や死体を切ることを大身武士の刀のケガレと考えていない事実が重要だと。
 近年、偕行社と軍人会館が、それぞれ別々に軍刀の斡旋に努めている。昨年(S13?)から水交社を加えて全国の刀工動員体制を内務省の協力を得てつくった。
▼ジョン・マクマリー著、アーサー・ウォルドロン編、衣川宏 tr.『平和はいかに失われたか』1997
 1935のマクマリーの未公刊メモランダムにウォルドロンが解説をつけて1992に出版し、それが邦訳された。
 オリジナルの1935文書は国務省内で回覧されていた。グルーやケナンが愛読。1992にそれが初めて公刊物になった。
 職業外交官のマクマリーは東洋語はできない。国際法の専門家で、ワシントン会議の米国主要メンバー。FDRは友人のひとり。
 アメリカ人の布教活動はシナでは成功したが日本ではそうではなかった。
 ワシントン体制は、貿易や政治上の小さな利益の追求の中に、崩壊していった。
 1920sはシナのナショナリズムの時代と回顧されるが、1935当時には「ナショナリズム」と「革命」は一般名詞ではなく、マクマリー文書にほとんど出てこない。
 ハル長官は、スチムソン長官の路線をただ踏襲した。軍事力こそ行使しないが、日本を違法な侵略者ときめつけ、日本に反対する世界の輿論を結集しようとした。
 ケナンは朝鮮戦争中の1951春にシカゴで有名な講演をしたが、そのときケナンはマクマリー文書を読んでおり、それを引用した。マクマリーは、日本が徹底的に敗北した場合、その真空はソ連が埋めると予言している。これは当たった。
 マクマリーは1925に北京公使に任命された。クーリッジ大統領。
 身長176センチで54キロしかなかった。
 21ヶ条要求のいくつかを袁世凱が撤回させた。日本人は怒って反袁運動に手を貸し出した。1916に孫文への支援開始。袁は皇帝になろうとして墓穴を掘る。
 この時点で南支に本拠を有する国民党がシナを統一するなどとは誰も思っていなかった。北京を支配している袁らの勢力(1916の袁の死後、段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派に分裂)が清朝をそのまま継ぐと世界は見ていた。
 広東人の孫文は外国で人生の半分を過ごし、シナには基盤がない。自分の権力を増やしてくれる外国なら、どことでも組む用意があった。あるときはドイツ、あるときは日本。
 けっきょくソ連の援助が国民党を強大にした。※ベトナムに援助して中共を挟撃したのと同じノリ。
 孫はコミンテルンを味方にすると、米国や日本から新たな支援を獲得する努力をしなくなり、反帝国主義と、不平等条約廃棄を基本教義とした(p.107)。
 1925の英国を狙い撃ちにしたシナ暴動はコミンテルンから国民党に派遣されていた顧問の助言による。ついで日本、ついで米国がターゲットにされた(p.108)。
 英人フランク・サットンは張作霖に迫撃砲の製法を教えた(p.25)。
 ウォルドロンによるとマクマリーはウィルソン流。
 ウィルソンにとっての国際連盟が、マクマリーにとってはワシントン条約体制であった。
 シナで近代国際法を最初にマスターしたのは、ワシントン会議に送り込まれた駐英公使の顧維均。彼は「事情変更の原則」を前面に出した。
 WWⅠ後のドイツ人、また革命後のロシア人は、シナでの治外法権を奪われた。
 クーリッジ政権の国務長官、フランク・ケロッグは、米世論に神経過敏で、東アジアの専門知識がなかった。
 こいつが1925-5のシナ人の暴動デモに狼狽し、ワシントン条約のフレームを壊し始めた。条約改正交渉によらない、一国単独の、一方的特権返上。
 これに反対するマクマリーを在支の宣教師団が批判し、マスコミに叩かせた。
 この暴動はコミンテルンの使嗾によるとマクマリーは見抜いている(p.73)。
 けっきょく英国は1926のクリスマスメッセージで対支宥和路線へ。
 1927-1に英の漢口、九江の租界は実力接収。揚子江に大型砲艦が遡航できない時期を狙って、国民党左派が蒋介石を困らせるために兵隊を突入させた。
 1927に米国はシナでの治外法権を一方的に放棄せよという決議案が下院に提出された。背後には駐米シナ公使と、国際伝道教会事務局長のウェーンシェイスが…。
 米国民のためよりもシナ人のために責任をとろうと考えるセンチメンタリストの要求には反対すべきだと、マクマリー。
 ケロッグの後任のスチムソン(フーバー政権)はケロッグ以上に国民党に宥和的。国民党はマクマリー公使の頭越しにワシントンと交渉するようになる。マクマリーは1929-10に公使を辞任した。
 プリンストンの学長にならないかと誘われたが、断る。外交官キャリア(たとえば初代の駐ソ大使)にまだ野心があった。
 ※米人はなぜ公職に興味があるか。誰も知らない秘密にアクセスできるから。
 リガはソ連未承認時代のアメリカのロシア情報の収集拠点。ケナンもいた。
 スチムソンは不承認主義の元祖。満州国は日本の国際条約違反であり承認しない。
 対日冷却関係だけが次期FDR政権に引き継がれた。
 FDRは海軍を拡張し、1933にソ連を承認した。これはどちらも対日政策。
 だが同時にハル国務長官は、日本の行動を9カ国条約に訴えて日米関係をさらに敵対的にもっていくことは控えた。
 9カ国条約には、シナの主権、独立ならびに領土的および行政的保全を尊重する、とある。
 1933のソ連政府も多くの国際法を廃棄または改変したがっていた。
 1926の米国国務省は、シナによる条約の一方的否認を支持する教会団体の圧力に影響されているとマクマリーは見た(p.52)。
 1926にシナはベルギーとの条約を一方的に廃棄した。これが世界から許されてはシナが他の国にした約束も簡単に踏みにじられることになる。またドイツがシナの真似をするかもしれなくなる。そこでマクマリーはベルギーの味方をせねばならないと思ったが、ケロッグ長官はシナ支持声明を出してしまった。
 ベルギーは国際常設法廷に提訴したが、シナは訴訟手続きを軽蔑して応じなかった。これは新しい先例となった。
 田中義一政権当時の1928にシナは対日条約を一方的に廃棄した(1896および1903の日清条約)。このときもワシントンはシナ支持。
 1927、米政府は日本に一言も相談せずに新しい米支関税協定を結んだ。日本は、多国間協調外交に見切りをつけた。
 1937にFDRはマクマリーをシナ大使にしようとしたが、当時トルコ大使だったマクマリーはそれを断った。
 1920s後半のシナの南北角逐では「双方いずれの側も、民族的な熱意で他方をしのごうと努めた。その結果は一方の側が満足できる立場もしくは思い切った立場をとると、他方がそれ以上の対策を講じなければならないので、いつまでも問題の解決に達しない始末であった。もちろん中国人プレイヤーにとってゲームで大事なのは、双方が解決に至ることではなく、むしろこの競争を利用して政治権力を握ることであった」(p.67)。
 北方派が条約否認派ならば、南方派も負けてはいられない。
 諸条約の一方的破棄について国民党のスポークスマンは、北方軍閥を崩壊させた1925後、国内では人気の高い非妥協的な態度をとった(p.69)。
 1982の細谷論文は、幣原外交は国際協調を旨とするワシントン体制の維持を強調してきたと書いている。※事実は、1927の英国の苦境を傍観し、出兵せず、体制を崩壊させた。ワシントン条約でシナの秩序維持を任された日本なのに、国際協調のために期待された責任は懈怠した。
 カーゾン卿は、支配と独立の間には中間的な方法があると。
 1934に米議会は10年後のフィリピン独立を決議した。
 1923に孫文が広東の海関を接収すると脅しをかけた。米英は共同で軍艦を広東に派遣したが、最大受益国である英国の努力は最小だった。英国はいつもそうなのだ。
 共同租界の警官は英国籍だった。
 シナ北方人は感情は鈍重。シナ南方人は感情は変動しやすい。
 原総理が暗殺されると政党の力が弱くなり、しばらく軍人内閣の時代になった。これらの政権は選挙での基盤が弱いためにアジアでの国防問題ではまったく譲歩ができなくなった。
 米国内のシナ愛はまずクリスチャンジェネラルの馮玉祥に。馮がソ連に走ったので、こんどは国民党が支持対象に。1927-3の国民党兵による南京列強領事館汚辱事件で評判がぐらついた蒋介石は、自身がキリスト教に改宗すると公言して米国人の支持をつなぎとめた(p.123)。
 愚かな米新聞は蒋をジョージ・ワシントンになぞらえた。
 さしもの米人宣教師も1927末にはシナ奥地にはいたたまれなくなる。
 1926の国民党の広東から揚子江への進軍には、政治宣伝部員が先行して大成功。コミンテルンが派遣したロシア/ドイツ人顧問がアドバイスしていた。
 脚注。田中メモランダムは、1929-10-23~11-9の京都~奈良の太平洋問題研究会で初めてシナ側によって持ち出された。
 1929-12に南京の雑誌「時事月報」にシナ文と英文が発表された。在南京の重光代理公使はただちに厳重抗議した。中日倶楽部が訳した日本語版は1930-6に内地で出た。
 この英語版が満州事変のさなかに上海の新聞で再掲載されて有名に。
 宇垣は戦後、この文書は民政党がでっちあげ、シナ人に売ったのだろうと。
 1927-6に参本の鈴木貞一が満洲の分離について森格らと議論し、斉藤博駐米大使がそれを無難なペーパーに修正したことはある。これが民政党員に知られたのだろう。
 米英は1943-1にようやくシナでの治外法権を正式に放棄した。
 マクマリーが理解できないのは、なぜ日本人が張作霖を爆殺したか。アホ息子の学良と、作霖のとき以上の関係が結べるわけがなかったのに。
 ※考えられる可能性。満洲の軍事力を一貫して弱めることに利益を見出すモスクワは、日本の若手の軍人に接触し、作霖を殺したら、ソ連から蒋介石への軍事支援を止める、等と、利益を示唆して誘導した。名声欲にとりつかれた一部若手軍人がこれに騙された。
 マクマリーが1935で予言できることは、日本はシナ領土を際限なく侵略しつづけ、満州国式の支配を拡げていくだろう(p.185)。
 「アメリカは、太平洋には真珠湾以遠に適切な基地を持たないので、地理的な条件からこの海域では、戦略、戦術、兵站すべての面で日本が優位に立つ」「ワシントンおよびロンドン海軍軍縮条約は、日米がお互いに、太平洋の広大な海域を渡洋作戦できないような比率を合意している」(p.187)。
 「中国貿易には対日戦争を賭けるほどの価値はない。実際問題としても近代において、対中貿易が対日貿易ほど利益をあげたことは一度もなかった」(p.192)。
 シナ市場は、日本の全輸出の1/4をしめている(p.199)。
 「日本人は、表面的には感情を表さないように見えるが、実は深い憤りをひそかに育て、不意に逆上して手のつけられなくなるような国民なのだ」「こんな国民は恐らく世界に例がないと思われる」(p.200)。
 米国は、北京公使館の警備隊、義和団議定書にもとづく天津の歩兵連隊、相当数の上海における海兵隊(最近は天津にも)を展開している(p.201)。
 いちど不承認と宣言した満州国を米国が承認することは日本人にみくびられ、ばかにされて増長させるだけである。
 訳者いわく、来日した孫文や蒋介石の「大アジア主義」は日本の意図とはしょせん同床異夢。
※「諸列強」なる訳語はおかしい。powersの訳が「列強」である。すでに複数概念である。
※シナ政府にとっては列強から「無視されないこと」がこの上なく大事で、核武装もそれが目的であった。戦って勝つためではない。

摘録とコメント。

▼『鉄の博物誌』
 隕鉄には4~40%のNiが含まれ、砂鉄にはチタンが含まれる。
 ※隕石でつくった「あめのぬぼこ」は錆びなかった?
▼田中重久『日本に遺る印度系文物の研究』S18年
 悉曇文字(Siddham Letters)を日本にもってきたのは空海。横書き本位なのだが、藤原時代末期に崩れて縦書きに。
 須彌山(sumeru)=妙高、善高
 「塔」は塔婆の下の婆を日本人が省略したもの。
 もともとパーリ語thupa(これが英語towerに変わる)、またはサンスクリット語stupaが漢訳されたのが「塔婆」。
▼長谷川熊彦『わが国古代製鉄と日本刀』S52年
 安田徳太郎によると、「タタラ」は印度語「タータラ(猛火)」から。「ズク」も印度語からだと。
 韃靼語でも猛火のことをタタトルという。
 戦国時代、農具の65%は鉄製、のこりは石器だった?
 漢代に焼き入れ加工法が開発された。
 硫化鉄鉱は日本に大量に賦存するが製鉄の目的には開発されていない。
 最も大量にあるのが砂鉄。少量のものは赤鉄鉱。
 全国いたるところに火成岩があるから、全国いたるところに砂鉄が出るわけ。赤城山では軽石中に砂鉄が含まれている。
 鹿島地方は利根川砂鉄で古代から製鉄していた。
 3世紀半頃、文武天皇は東辺と北辺に鍛冶を置くことを禁ず。
 大宝令でも砂鉄採取を許可制とし、東北の製剣を制限した。
 明治から大正まで、陸軍工廠で坩堝製鉄の原料として和鋼(慶長以後、高熱化したタタラでつくられた鉧・ケラ。それを餞別したのが玉刃金)を採用、海軍工廠でもM30頃まで酸性平炉に和錬鉄を用いた。
 包丁鉄は軟錬鉄。地金が包丁の形だった。
 蕨手刀の刀身は腕力で曲げることができる。
 大化改新で8省が置かれ、そのひとつの兵部省の下に造兵司がおかれ、国の武器製作を一手に引き受けた。
 701に造兵司の制度があらたまり、商売するようになり、銘も入れられるように。
 大宝年間に刀匠が地方に分散。豪族の直接註文をうけるようになって日本刀ができてゆく。
 蒙古は長大な青龍刀を使用し、それが南北朝の大ダンビラになった?
▼イワノフ&スミルノフ『英米建艦競争』訳S9年
 1597、エリザベス女王はポーランド使節に、中立商船貨物拿捕の合法性を主張。WWⅠでアスキス首相は、「この際どんな経済的圧迫も正義」と封鎖の非合法性を棄却。
 ドイツ外交の失敗のために、イギリスはアメリカの利益を損する海戦策続行の責任を容易にドイツに課すことができた。
 ドイツ封鎖に使われた機雷の82%はアメリカ製。
 英ではWWⅠ後、「国内艦隊」が艦列から取り除かれる。
 WWⅠでドイツは376隻のサブを参加させ、うち201隻が沈められた。しかもSUBによって撃沈された軍艦はあまり多くなかった。
 シーレーン防衛や軍隊輸送阻止にもSUBは向かない。唯一役立つのはエスコートされない商船攻撃のみ。
 英人ルドウエルは1920sに『我々は石油のために斗う』を著作。
 英提督ハーバート・リッチモンドは、将来の艦の最大限を1万トン以下とすることを提案。米は反対。
 ロンドン会議頃のサブの寿命は13年。トンあたり建造費は戦艦の3倍。
 著者いわく「将来においては艦隊を編成するあらゆる種類の艦船が恐らく潜水能力を持つであろう」
 ハーバート・ラッセル「我々がアメリカの要求に同意しない場合にアメリカが行わんとするものを極めて明瞭に暗示することによってその要求を表明しようとするやり方は、イギリス国民の脳裡に少しも好い印象を与えなかった」
 著者は航空機や水雷の優位を否定し、戦艦による「海面占領」は可能だとの立場。
 ロンドン会議当時ホノルルのドックは一度に1隻しか修理し得ず。
 地中海の平均視程は8哩。
▼レーモン・ルクーリー『フォッシュの回想』洪泰夫 tr.S6年、東京水交社pub.
 筆者は日露戦争でロシア側の連絡将校。
 WWⅠにはポルトガルも参戦している。
 Notus in fini velocior 運動は終わりほど加速する。戦争は末期がめまぐるしい。
 遊動部隊は敵予備隊の破壊というような最終段階に近づくほど増速する。
 フォッシュはルデンドルフの回想録を評して……決定的勝利は1回の攻撃成功で獲得できるものではないのにドイツ参本は第一幕のシナリオしか立案していなかった、と。
 Un Armee battue est une armee qui se croit battue! 敗軍とは自ら敗けたと想った側。
 ナポレオンの格言。 La guerre, un art simple et tout d’execution. 戦争は簡単、そして、すべて実行よりなる。
 フォッシュの兵学も深遠でなく単純。これ、褒め言葉。
 エルバ以降のナポレオンは勝てないことがわかっているが戦争せずにいられない気持ちの山師、とフォッシュは見る。
 ヨーロッパ人がアメリカ人を説得する唯一の方法は、「毫も彼等を説得しようとする風を見せない事である」。
 オランダ人は、スペイン~オーストリー領のフランドルに要塞を維持し、以て1715~1781の間、平和を達成した。だからフランスもラインの独領を手放すべきでなかった。
 フォッシュはゴルツ著『ガンベッタと共和国軍』を読んだ。
 プラハからブダペストを通って東部カルパシアに通ずる地方は戦時においてその防禦が困難。
▼伊東光晴監修、エコノミスト編『戦後産業史への証言 一』S52年
 明治20年に所得税が創設されたとき、法人は非課税。株主が配当をうけたとき、その所得に課税。
 富裕税はうまくいかない。宝石、現金は捕捉できない。
 アメには給与所得控除がなかった。これをモス~マーカットに認めさせた。
 シャウプが外圧かけてくれなかったら戦前の所得税取り過ぎは是正できなかった。
 大正12年まで定期預金の利子は非課税。これで明治の資本蓄積ができた。
 大正2年の重要物産免税制度。金銀鉄の採掘の所得を免税する。
 これを昭和6年以降、飛行機製造などにも拡大。
 これが敗戦ですべてなくなり、代わりに主税局長が特別償却を考案。投資奨励。インセンティヴ。弱きパイオニアを助ける。
 講和発効は27年からだが課税自主権は実質26年に取り戻していた。
 政治家はやはり自分が大きな減税をやりたい。だから総理になる前は反対で、総理になると急に乗り出す。
 ラジオの物品税は、真空管を用いざるものは除く、としていたので、ソニーが延びた。当時トランジスタは真空管より5割コスト高だったので、量産数が真空管に並ぶ前に課税していたら今のソニーはなかった(p.38)。※なんとも役人は恩着せがましい。一般消費税にしていたって、ソニーは伸びただろう。
 昭和27年に12インチの白黒テレビは18万円した。大蔵官僚の月給が3万円のとき。
 揮発油税は昭和18年に専売になって廃止。それが24年に復活。
 29年に角栄がこれを目的税にして道路にだけ使うこととさせた。これが時限立法でないところが異常。アメではガソリン税の2/3は一般財源に入れている。
 この石油の目的税化のアイディアそのものは鮎川義介が戦犯刑期を終えてから力説した。日本の道路は悪すぎ、これが経済効率を悪くし、拡大を阻むと。このときプレゼン受けた代議士たちは「みんなでやったんじゃ票にならねえ」。田中だけがこのアイディアを覚えていた。
 S31年時点で米国調査団いわく、日本の道路は先進国一悪い。国道舗装率が1割。
 軽油取引税を府県の地方税にしたのは失敗。バスとトラックしか使わないので軽油を上げるとバス運賃に連動するから上げられない。国鉄はこれでダメになった。
 また、卸売り課税なので徴税も困難。国税化して元売りで捕捉するべきである。
 田中の2兆円減税で日本の所得課税最低限は世界一になった。
 このくらいの巨大減税をやると、それをきっかけとして、税体系のオーバーホールができるので、主税局は嬉しい。
 社会保障を本格化させるには所得が完全に把握されておらねば不公平になる。国民総背番号制が必要なゆえん。
 ところが郵貯の非課税枠を通帳を複数作って悪用している国民が多すぎ、総背番号制を導入できない。
 保険会社は経済専門家でもよくわからない。
 通産省のエコノミストの先駆は林信太郎だ。
 戦前、国産ミシンのメーカーは蛇の目(東京)、三菱(和歌山工場で、大阪市場)、ブラザー(名古屋)。後の2社のは軍需工場用。シェアはほとんどシンガーの輸入品。
 国産ミシンは昭和23年から輸出はじまる。シンガーは軍需転換しており、それを民需に戻そうとしていたときに朝鮮戦争が起き、WWII後に抑制が解かれて爆発した米国内需要と世界需要に即座に対応できなかった。そこにユダヤ人が気がついて日本のミシンを入れた(p.66)。
 大阪のミシン生産は、かつての砲兵工廠の下請けの町工場。かつてのシンガーのセールスマンや修理工が長屋の土間で、精度の悪い汎用機を使って始めた。
 昭和12年で工作機械の輸入は止まり、100分の1ミリ、または1000分の5ミリの精度を熟練工に頼っていた。昭和30年まで工作機械は自動ではなく手動。
 ただし30年以前はジグザグミシンではないのでそこは楽。
 この工場で1000台単位の輸出オーダーに応えるのは、契約キャンセル時のリスクが大きすぎる。そこでブランド力のある大手がアッセンブルメーカーとなり、パーツを無数の長屋工場に外注して、ホリゾンタルにリスクを分散した。
 役所は戦中の生産第一主義で、このようなアッセンブラーの役割を評価できない。
 60~66万台の汎用工作機械とそれを動かしていた熟練工の失業者が、敗戦時に国内にあった。それをミシンが糾合した格好。
 これら工作機械の単能化は29年から。
 工場のメインのモーターからベルトで動力を分けるのではなく、それぞれの工作機械に1個づつ電気モーターが附属するようになるのが昭和30年以降。
 機械が汎用でなくなると、たとえばミシン部品から自転車部品への転換などはきかない。そのかわりに効率がよくなり、賃金も上がる。
 外国の優秀な工作機械を買った者には半額、国が補助することに。さらに、通産省が指定した高級マザーマシンを試作したら、その費用の半分~75%も補助。
 多軸ボールはミシン部品づくりで初めて採用され、それが自動車のエンジンブロック造りに発展した。
 艦砲メーカーだった日本製鋼の宇都宮工場もミシンに乗り出したが、大阪のような分業でないのでコスト高。
 関東の東京重機、富士精機(旧中島飛行機)などは、アセンブラーはブローカーだと馬鹿にして、註文を全部大阪にとられた。
 トヨタ系のアイシンはすばやく大阪方式を真似た。
 シンガーの部品を調査すると、熱処理管理が素晴らしい。中はやわらかく、表面は堅い。その層が均等である。だから摩擦も回転も均等。日本のは不均等だった。
 31年にスイスの時計工場を視察したらまさに大阪のミシン方式の社会的分業であった。
 次にカメラでも社会分業をさせた。シャッター、ボディ、レンズを分けてしまう。
 フォーカルプレーンだとボディと分離できないが、レンズシャッターは分離できる。そのプロンプタータイプは板橋の長屋工場のコパルにやらせた。コンパータイプは服部時計店に任す。
 コニカ、ミノルタ、マミヤはシャッターの自家生産をやめた。
 この結果、カメラの精度はよくなり、しかも安くなり、メーカーはデザインを簡単に変更して急速に量産もできるようになった。27年に国産シャッターは4800円した。それが35年には800円に値下がり。しかも性能は高い。
 もともとレンズの仕上げ用の測定機械は戦中に潜水艦でドイツから取り寄せた。海軍御用の日本光学と陸軍御用の東京光学はすでに戦中に高いレベルのレンズメーカーになっていた。あとはシャッターだけだった。
 朝鮮戦争ではライフの記者がニコンの1.4レンズをライカにつけて高い評価を得た。
 シャッターが弱点だったが社会分業で克服されたのでメーカーのエントリーがやさしくなった。
 日本の時計産業は系列支配で社会分業をしない。パーツメーカーは従属的である。しかしシャッターのように社会分業をすれば下請けはどこに部品を売っても良い。立場が強くなる。
 またスケールメリットで輸出の価格競争力もつくのである。
 昭和30年代の後半は、ECの日本ミシンに対する300%従量関税(禁止関税)をどう阻止するかの戦いだった。ECとは関税同盟に他ならない。
 そこで現地の新聞キャンペーンをやった。
 一流紙である『フランクフルターアルゲマイネ』にしても『ルモンド』にしても、欧州の新聞は「記事広告」の営業が堂々とある。
 これは、たとえばジェトロが、日本のミシンのためになる記事を書いてくれるように編集部に堂々と頼めるのである。するとその記事は、単発でなく、短い別々なものが、1ヵ月に何度か、載る。その記事面積を月ごとにトータルして、記事広告料は出来高として後から算定される。1ページ広告を打てば200万円だから、それを基準に算定する。その額をあとでジェトロは当該新聞社に払うわけだ。これは広告会社を噛ませる必要は全く無い。※欧州紙に載る反日親支記事はこういう背景でしょう。
 意見広告の場合は、向うの「電通」のようなところに頼めば、万事やってくれる。しかも、現地での「味方」を結集してくれる。
 ミシン関税を阻止するために日本に招待するならどの政党の誰が良いのか。こういう情報は現地の広告代理店はもっているが、日本の大使館と役所はまったく把握していなかった。
 外国の要人らも「招待は夫人なしにしてくれ」という。どこの国も同じ。ゲイシャと遊びたい。
 フィンランドではセールスマンは小型飛行機を自分で操縦して移動する。
 OEM輸出はリスキー。最初は良いが、しばらくするとわざと数ヵ月、輸入信用状を送って来ず、日本国内に滞貨させておいて、そこへバイヤーがやってきて、値切り交渉を始める。従わざるをえぬ。
 ライカのM3は落としても壊れない。こことミノルタが提携した。またツァイスとヤシカが提携した。以前には考えられない。
 ドイツはWWⅠ後に外国から経済機構をいじられた経験があるので、WWII後のアメリカの理想主義的独禁政策は半公然にサボタージュした。カルテル庁をつくるにはつくったが、それをわざと西ベルリンに置いた。国民が自由に行き来できない場所である。
 西ドイツで過剰投資が起きないのは、労働者が経営に口を出す「常任監査役会」があるから。
 日本では銀行が護送船団式のため、一社がある設備をつくると、フル稼働のメリットがないうちに他行系列の他社もまねして同じ設備をつくらされ、互いに操業率がガクンと落ちる。西ドイツでは都市銀行の頭取が数社の「監査役」を兼ねて毎日国内を飛びまわっているから、重複投資計画を発見すれば、バカなマネはやめろと止めさせる。その権限は各社の社長より強い。
 フランスではエコールポリテクニクを出た人間は人種が違うので、面会する前にエコポリ卒であるかどうかは調べておく必要がある。
 労働集約が強みの日本は、一品手作りのプラント輸出で先進諸国と競争できるのではないかと甘く考えたら、ノウハウがなさすぎて成果揮わず。
 豊崎稔は戦前から日本の工作機械の段階につき研究し、現状ではとてもアメリカと戦争できないと考えていた。
 伊東「戦争中、擲弾筒というのが、工作機械が悪いために爆発して、私たちの仲間が死んだ事故がずいぶんあった。そのくらい日本の工作機械はひどいものだった」(p.106)。※真相はそうではないことは兵頭既著参照。
 芝浦工作機械が直径5mの歯切機をつくり、ソ連に輸出した。
 大型容量の発電タービンについて電力会社は通産省の国産愛用指導に反発した。高温高圧下でのブレードの耐久力がぜんぜん違った。
 昭和24年のポンド危機のとき、ポンドスペンディングポリシー(ポンドが支払い手段になりそうな輸入はなんでもやれ)。
 そのとき本田宗一郎が17億くらいヨーロッパから工作機械を買いたいと申請を出した。
 日銀にはその意義がわからなかったので通産省は口添えして輸入させた。これで本田は伸びた。※とまことに恩着せがましいことをしゃあしゃあと言うのであります。
 アメリカからの資本の自由化要求に日本は応ずるべきか。通産省が35人くらいの職員に半年かけて欧州の米企業の悪行を調査させ、結論として、NO。
 商品の自由化(貿易の自由化)と、資本の自由化は違う。後者は、日本のレイバーを外人経営体が利用できることを意味する。見えない支配をされ、どんなに稼いでもアガリは全部国外へ吸い出される。
 アメリカは資本が強い(自社留保は巨大で、間接資本=銀行借金にも頼っておらず、ケンカの体力がある)。その強みだけを自由化せよと他国にいう。日本はレイバーが強いが、米国に自由に移民できるわけではない。それでは不平等条約だと。
 戦後米国留学組の近経の学者たちは、この問題ではまったく脳内お花畑であった。新日鉄のときもそう。
 貿易自由化は、コストカット努力でなんとかサバイブできる。資本自由化は、日本職人の努力=外人投資家の儲け、になる。
 石橋湛山は、ものつくりインダストリーが大事で、ファイナンスはそれに奉仕せよという信条。池田はOECDを先進国サロンと考えて自由化に熱中。
 とにかく時間をかせいでメーカーに最新設備を充実させた。技術面で日本が優勢になると、アメは屈服させるのをあきらめる。装備がいい相手には狙いをかけない。
 佐橋滋の師匠は河合栄治郎。河合は農商務省出身。河合いわく、昭和10年でもっとも理想的な職業は官吏だと。じぶんの良心にそむかずに、やりたいことがやれると。
 昭和12年の河合門下は、日本は将来、社会主義になる可能性があると考えていた。つまり金融(大蔵省)の将来は怪しい。そこで佐橋は、何主義になっても必要なはずの、生産・配給・消費をつかさどる商工省を選んだ。
 入省の年に支那事変。高等文官を受かった官僚のタマゴは兵隊にとらないという不文律がそれまであったのだが、甲種合格で13年1月入営。師団付き見習い士官として漢口へ。間一髪の16年10月に、中支那の主計将校全員が召集解除になったので役所に戻れた。
 衣料キップ制を担当して、統制経済の絵空事であることを痛感。
 まず原料ストックの総資材から数年分の国民ひとりあたりの用布量がnnメートルと算出される。そこから逆算してネクタイ1点、靴下1点、背広10点などとする。
 ところが必ず想定外の「特配」需要が判明する。相撲取りのフンドシ。これは練習用の他に本番用の絹マワシがある。絵描きは日本画は絵絹、洋画はキャンバスが要る。キリがない。
 佐橋は18年10月から鉄の担当になり、すぐに、翌19年初頭には鉄製造力がゼロになって継戦不能となると弾きだした。
 鉄鋼とは輸送業である。鉄鉱石も石炭も日本のは品位が悪く、鉄1トンつくるのに6トンの原料輸送が必要だった。船の稼動隻数のグラフの右下がりと、鉄鋼生産の右下がりは完全に連動していた。だから昭和19年初頭には、汽車で運ぶもの以外には何もなくなる。少なくとも鉄はつくれない。
 この報告をみた閣僚がびっくりしたというので、佐橋はまたびっくりした。そんなことさえ知らずに戦争をやっとるのかと。
 終戦後、熱血漢のキャリア官僚は多く労働組合に参加。
 佐橋は戦後、紙業課長。「生涯でも、こんな大きな権限をもったのはこれが初めにして最後だった」。子供の教科書からノートから新聞雑誌出版、切手、たばこの巻紙まで何でも割り当てをする。
 重工業局は自転車も範囲なので、競輪のスキャンダルがあると局長は国会にピンどめされる。おかげで次長が本来の重工業行政を任される。
 そこで、巡航見本市船を実現。
 大蔵省主計局は「そのアイデアはいいが、金は出せない」とは決していわん。アイデアが悪いから金を出さないという。
 日本のような馬鹿な予算算定方式は万邦無比。
 各省は5月ごろから次年度の新政策の立案にかかり、8月中に概算要求書を大蔵省の主計局に提出。
 9月から主計官に、各省の者が出向き、割り当てられた時間内で説明する。
 要求に応じて追加資料も出す。一省の資料を合わせれば天井に届く。
 12月に主計局から第一回の査定がでる。新政策はほとんどゼロ査定になる。
 各省はねじり鉢巻でみずからの要求を削減し、謹慎の意を表しながら第一次復活要求。
 数日して、目糞ほどの復活を認めた第二次査定。
 各省各局は悲憤慷慨しながら逐次削る。
 与党との連絡が頻繁になり、攻防ともに不眠不休。
 最後に、主計局と妥協するものと、政治ベースにあずけるものとに区分けして、大臣折衝の儀式へ。
 現行方式では一主計官の権限は各省大臣以上。この権力をじぶんから放棄する馬鹿はいない。
 昭和30年代前半は報道用と観光用だけに外車の輸入を認めていた。
 日本の綿製品は、エジプト、シナ、アメリカの綿花を適度に調合するところに秘密の技術があり、競争力があった。29年まではこの加工貿易が大宗。
 局長は行政機関の長だが、国会はあれやこれやの委員会で一年中局長をくぎづけにして、朝10時から夕方まで、本来の仕事をさせない。これは三権分立の侵犯だ。政府委員は局長でなく専門の次官補を置いて、ひとりが数局づつ担当すればよい。
 佐藤栄作通産相は経済に強くなかった。経済の説明をされたときに、ハダで分かる人と、わからん人がいる。池田はわかっていた。佐藤はわかっていなかった。
 公取委員長が歴代大蔵官僚とは七不思議だ。銀行の金利、重役のボーナス、支店の開設、ぜんぶ統制していた役人が、どうして自由主義や独禁法を守れるのか。
 戦時中に原料不足の紡績会社を整理した経験からいえること。残るものが廃止するものに餞別を出してケリをつけるしかない。
 法案は、与党内に3人くらい猛反対がいると、進まない。
 資本、物資、供給がすべて不足のときは統制計画も良い。しかし世の中が豊かになると、品質格差に公定価格をうまくつけることができず、統制は崩壊する。
 造船は電気熔接技術が他国を凌ぐようになってようやく一本立ち。
 鉄鋼屋いわく、日本の造船が世界一になったのは、合併した新日鉄が鉄を安く供給したからで、それが原因のすべて。
 銀行と政権中枢は口が堅い。他の政治家は秘密を守れない。
 昭和40年までは米政府のうちで国務省が見識と権限をあわせもっていた。ところがそれ以降、米国は経済がへばってきて、商務省が強くなり、米国の外交と商売が一緒になった。まさに「アメリカ株式会社」。
 日本の会社は借金経営で自己資本率が低いから、資本を自由化したら、わずかなカネでアメリカ資本に支配されるだけ。
 戦後日本には知識集約産業としての兵器産業・航空機産業が無い。とすれば、その代役として、コンピュータと自動車に活躍してもらわなければならない。この2業界は外資に対して保護する必要があった。
▼国立歴史民俗博物館『動物とのつきあい』1996
 日本の庶民がイヌとネコをペットとして飼育するのは明治時代から。西洋人の習慣が模倣された。※ポチは「spotty」。
 イエネコは縄文時代には飼われていない。遅くも古墳期には輸入された。
 サルは中世にかなり飼育された。
 中世のネコは首紐でつながれていた。
 縄文イヌは体高40センチ、前頭部に段(ストップ)がない。後の柴犬とは違う。東南アジア渡りであってシベリア渡りではない。シナの金属器時代に飼育されていたイヌと同じもの。
 縄文人はイヌが怪我をしても捨てずに飼い続け、死ねば埋葬した。弥生人はイヌを食い、埋葬はしなかった。イヌの埋葬は、江戸時代まで復活しなかった。
 細縄にトリモチをつけて沼に漂わせ、水鳥を捕るのがボタナ猟。
 ウナギ漁師は水鳥も捕った。だから魚屋ルートで鴨も売られた。
 房総のクジラ漁はツチクジラ対象。
▼『京都大学総合博物館春季企画展展示図録~王者の武装』1997
 5世紀なかばまで、よろいは鉄板に黒漆を塗っていた。それ以降、金色の武装が好まれる。装飾太刀、飾馬。※つまり国内が平定され文官が威張れる余裕が生じた。
 鉄の鋳造が難しかったので、環頭太刀は金銅。
 金銅は銅板に金メッキしたものだが、土中では銅イオンが表に染み出てきて緑青になる。
 水銀と金は容易に混ざり、そのとき金色は消えて水銀色になる。だから「滅金」と書くのだろう。このアマルガム・ペーストを銅板に塗り、銅板の裏から加熱すると、水銀が飛んで金色が定着する。
 朝鮮半島南部で出土の多い、蒙古鉢形のかぶとは日本ではほとんど出土していない。
▼小島和夫『法律ができるまで』S54年
 内閣提出法律案は、所轄省大臣が下僚に法律案の原案を作成させる。同大臣は関係各省と意見調整する。また内閣法制局に法律案原案の下審査をさせる。
 次に、閣議請議のため内閣官房に持ち込まれる。ここでも内閣法制局と相談。次に、事務次官等会議に回される。その後ようやく、閣議。
 そして国会提出。
 議員が所属する政党の政策を表明または実現するための法律案は、まず、政党の政務調査会が中心になって検討する。
 国会関係の法律案は、議員運営委員会の委員長が提出する。
 また、各党の合意が得られた他の分野の法案も、同委員長の提出とする。
 提出先は、先議の議院の議長である。
 両院で原案どおり可決されると、最後の議決のあった院の議長→内閣官房→閣議→奏上となる。奏上の日から30日以内に官報で公布される。

摘録とコメント

▼ルヰズ・フヰツシヤア『石油帝国主義』S2年、荒畑寒村 tr.
 WWⅠまでの国際政局は、鉄と石炭をめぐるものだった。独仏国境争いはまさにそれ。
 英はWWⅠ初めは3割の軍艦が石油焚きであったが、休戦までに95%に。
 今の国際政局は石油中心。メキシコがいい例。……ここまで訳者の序。
 世界最大の既発見油田のコーカサスに英が出兵したのも石油目的。
 ベルリン=バグダッド鉄道も石油目当て。予定終駅はモスウル油田だった。
 WWⅠ開戦時、英は世界産油額の2%しか支配していなかったが、今や5割だ。
 トルコの対露参戦もバクー目当て。
 独軍飛行隊の活動は、石油の消費を節約するために制限された(p.18)。
 ルデンドルフの回想録では、タンクの貨車でバクーから石油を運んでくるつもりだった。
 ルーマニア商務官の報告:「ソヴエットの会社はその灯油、石油等を改善する上に、有らゆる努力を払ってゐる」
 クラッキング(分離)と精製とに対する装置は、特にアゼルバイジャンのナフタ(石油)トラスト委員長、セロブロウスキーの米国訪問後、多量に合衆国から購入せられた。
 ロシアは米石油会社を北サハリンに招致して、日本に対し米政府が撤兵を働きかけるようにしむけた(p.209)。
 ソは米石油会社を通じて米国の国家承認をとった(p.212)。
 石油は日露の和解の動力であった(pp.286-7)。
 ※ソが満洲とオーストリーから撤兵したのは、油田が無いからだ。
▼O.J.Clinard著 “Japan’s influence on American Naval Power 1897-1917”(初版カリフォルニア大・1947、再販1974 in Germany)
 英は陸軍無力なので米の仮想敵から外されていた。また、カナダは米にとり英の人質のようにみえた。
 マッカーサーの父は、ドイツとアメリカがハワイで戦うと考えていた。
 カイザーはポーツマス会議中、米に接近。会議をまとめられるように支援し、さらに日露役後、日本を共同の敵に仕立て上げようとした。
 親日が親露になってしまったのは、日本がポーツマスで賠償要求を出した時から。※身の程を知れと。
▼『軍事史研究』S11年 vol.4-3号
 山内保次「軍馬物語」。前九年頃の馬は4尺8寸以下。稀に5尺を越す大馬あり。小馬は4尺以下。
 二毛の馬、位牌面(鼻梁の白線)、泪や矢負のようにみえる辻(旋毛)もゲンが悪いと嫌われた。
 武田の武将たちは、馬は大きい程よいという主義。
 馬格の差によって一騎討ちの有利不利は決定的になった。
 日清戦でシナ馬は場格ちいさくも耐久力あることがわかった。日本の馬は全然だめだった。
 日清戦で人夫が輜重になったのは、馬不足が原因。
 日本馬は、馴致調教みな不良で、北清事変では外国人より「猛獣の如し」と評された(pp.76-7)。
 秋山好古の旅団の馬格も4尺7寸が平均。重さは93~5貫。特に飛び越し、駈歩がまるでダメ。
 遂に明治38年に大量の馬輸入となる。
▽vol.6-2号
 島田貞一「槍の板に関する考察」。
 木柄は強度と軽さが両立せぬので、打柄といって、木芯に割り竹を膠着したものが必ず使われた。正倉院にもある。※とすればケラ首を切り落とせるものではない。
 あまり滑り易いのは雨の日によくないので多角形の「かんな目」とした。
 柄の曲がり防止に、2ヶ所で掛けず、4ヶ所の爪で安置した。 
▼星健之助『支那文化の源とバビロニア』S15年
 三皇の一人、大昊伏義は、魚形のイヤ神(ダゴン)だ。だから蛇身人首なのだ。
 神農「炎帝」は日の神マルヅク。
 黄帝はニニブ、エンリル(エホバ)。
 ローマの最後の人身御供は、アントニウスのとき。
 周礼の「連山」はニシールおよびマシュー山(ギルガメシュの)
 周礼の「帰藏」は肝臓の筋で卜したバビロニアの習慣。
 鹿骨卜はシナ書になく和書にある。なのにシナから出土する。
 龍はバビロニアに6千年以上前から拝まれている蛇。
 科斗之文字=治東→オタマジャクシ→楔形字
 スメル人は鬚が少ない。シナ人も鬚が少ない。
 ハムラビは自らを「羊飼」と大法典に。
 スメールの支配者は紅毛で、被支配者を黒頭と呼んだ。→黎民(周)や黔首(秦)も「黒い人民」を意味する。
 弩はバビロニア起源。ギリシャ人だけは使わなかった。
 家屋の材木部を塗装するのはバビロニアの技術。
 朝鮮人はシナ人と同様、全く風呂に入らないが、洗濯だけはする。支那人は洗濯も全くしない。
 朝鮮人は日露役のころまでは、シナ(人)と呼ばず、必ず「大国(人)」といった。しかし腰掛に座る習慣だけはシナから採り入れなかった。
 バビロニアでは油はゴマ油のみ。
 仏教はもと、無神論哲学。そのためアショカに政治利用されるまで流行らなかった。カニシカ王下で有神化・大乗となり、それがシナ後漢に伝わる。
 SIND(身毒)→ペルシャではSがHに、シナではSがTになって、天竺と。
 初期仏僧はインドからはよくシナに来たが、シナからはほとんど行かなかった。
 拝火教徒を「黄色い頭」という。黄巾賊はゾロアスター?
 Byzantin→ZANTIN→太秦
 孔子だけが無神論だったのではない。シナ人が無神論なのだ。
 シナ人中の回教徒に比較的、責任感が強い。
 オーガスタスは、ライン=ダニューブ=ユーフラテスを自然国境にせよと遺言している。
 古ペルシャにはLの音なくRのみ。このRはシナではNになり易い。
 朝鮮人はもともと苗字なし。沖縄人は三字苗字が多い。
 ヒッタイトをバビロニアではケタと呼ぶ。→キタイ・契丹→カセイ

摘録とコメント。

▼ロバート・B・テクスター著、下島連 tr.『日本における失敗』原1951-6、訳刊S27年3月
 著者は昭和21年春に来日し、23年7月に帰国した。ある程度、日本語を聞いたり話すことができた。軍属としての活動拠点は和歌山と大阪だった。文化人類学系社会学者としてディクタフォンを携帯していた。日本のあとはタイに向かったと。
 ラティモア序文にいわく、ドイツは「代用」品製造に加え、石炭と鉄をもっているので、米国が交渉するにあたっては他の西ヨーロッパ全体に対して必要なほどの大圧力が必要だ。ドイツが臍を曲げれば全ヨーロッパ工業が損害を受け、アメリカは困る。またドイツは西欧を捨ててソ連と結び、東部領土を回復することもできる。そのような強い立場。
 これに対して日本は必要な原料も食糧も支配しておらず、アメリカもしくはシナと不利な立場でその入手についてかけあわねばならない。※アメリカは日本に簡単に圧力をかけられるが、かつて鉄とコークスを供給していたシナもまた日本に影響力を行使し易い。日本人は「シナと組めばよい」ことを反米の理由にできる。しかしシナやソ連は日本に譲るべき広い土地をもたないという、誘惑の限界はある。
 またラティモアいわく、日本を合衆国のグルカ兵にすることを快く承認する日本人がある。
 日本から帰米した元占領軍のシビリアン職員たちはどうしてマッカーサー批判を憚っているのか。それは朝鮮戦争が始まった今、反マッカーサー言説は親コミーと疑われるからだ。
 「やっつけることができなかったら、手を握れ」……米国の地方の職業的政治ゴロの鉄則がある。
 「我々西洋人は、しば\/、民主主義を、その中で人間が活動する枠、もしくは骨格と考える。我々はその骨格の形をいためないために、非常な苦心を払う。アジア人は骨格の上にある肉により関心を持つ。骨と皮の民主主義に、彼等が惹きつけられるとは思えない」(pp.38-9)。
 ※民主党小沢新代表も民主主義の骨格は分かっていない。またおそらく今後、それを勉強する時間もなかろう。
 アジアでは、新しい指導者は、民衆に高い生活水準を約束することで追従者をあつめ、被剥奪者に対する正当な弁償にはなんらの注意も払わない。
 「所有権の不可侵性を強調するアメリカ人は」※だったらインディアンに土地返せ。
 北京大学で反米学生運動。1948の春、日本におけるアメリカの政策に抗議。
 大統領がソ連による原爆実験について確認した声明の数ヵ月後の1949-2-6、陸軍長官ローヤルは、東京の米国大使館内で新聞記者たちに、米国は日本を守る義務はないとの彼の信念を披瀝した。原爆を手にしたロシアが日本に攻めてきたら米国は日本を放棄することを考慮していると。ワシントンポストの1949-2-17報道。
 ハンソン・ボールドウィンは1950に、いまの米軍には台湾は守れないと。
 占領の最初の3年は農民はインフレのために裕福だった。しかしその後の占領軍のデフレ化政策で農民は怒った。土地私有農民こそ「旧勢力」だと。
 小作人ははなはだしくふくれあがった円で地主から土地を買うことができた。
 1949-1の選挙で共産党は300万票ちかく集めた。奈良県では1949-12現在で登録党員は157だが、県民は3万票も投じたのだ。
 共産主義者は大部分の病院管理理事会の支配力を握った。彼らが推薦する患者の入院料だけ安くできた。他には、学校と、アンチ税務署組織に勢力を扶植した。
 共産党とウルトラ・ライトに対する投票が増えたのは、占領軍がデモを禁ずるなどしているからだ。
 著者の希望の星は、日本最初のキリスト教徒の総理大臣、片山哲の社会党連立内閣だった。しかし連立の条件として左派を入閣させられず、閣僚の半分は他党員だった。
 片山は、社会民主主義だけが共産主義のアンチになるのだ、といってマックを納得させていた(p.132)。
 1949-1-23の選挙で片山は落選した。このとき共産党は4議席から35議席に増えた。
 日本人の再軍備論者は、大東亜共栄圏を復活させたりしないこと、絶対に赤とは取り引きしないことを米国人に納得させるべきであるのに、その努力をしていない。
 中道政党に投票した日本人を、命がけで抵抗するほどのたのもしい西欧の味方として当てにすることができるかどうかは疑問である。
 日本の動機は、余りにも、一貫性がないので、再軍備された日本は我々の信頼し得る同盟国にはなり得ない。
 西洋人官吏がよろこんで詳細に答える社会学的質問に、日本の管理は答えようとしない。これは「面目」を重視するためだ。
 1949-6-11のヘラルドトリビューンによれば、一部日本のビジネスマンは共産党の野坂参三に赤色シナとの貿易の斡旋を頼んだ。49-7-19タイムは、大阪の工業家がマルクス主義研究会をひらき、共産党に献金していると。50年2月の時点で日本の実業家は、米国からの援助よりもシナとの交易を望んでいる。
 七宝職人は40歳で目がいたむ(p.73)。
 米本国からVIPがやってくると、将官とその夫人が京都駅からつききりで観光させてやる。ただのIPなら佐官とその妻。金持ち用の女学校でバレーボールをしているのを見学させる。深刻な質問をし始めるころになると、漆器を買いにいく時間ですと。
 「稀には、民間教員官は日本の最も重大な教育問題になっている「エタ」、または、特殊部落の学校を来訪者に見せることに成功するかもしれない」(p.77)。
 故フラナガン神父が京都へ来たとき、社会救済事業を担当するガイドが、神父に向かって黒人の悪口を言い出した。
 マックは46-12-1に国防省に電報した。米マスコミの訪日許可は出版業者と編集者に限定し、記者は含めてはならない。クリスチャンサイエンスモニター、ヘラルドトリビューン、シカゴサン、サンフランシスコクロニクル、エムピー、デイリーワーカーは反占領軍的であるのでその関係者は除外したいと。
 ネーション誌の特派員も一年間申し込んだが入国拒絶された。マックの拒否理由はついに明らかにされなかった。※マックはプレゼン上手だが説明責任観念は無かった。
 朝鮮戦争の前、東京の英外交官がマックによびつけられ、ロンドンタイムズの東京特派員がよくない記事を書いていると警告された。
 そこで許可を得ている新聞記者は順応した。日本の女子野球チームについて、その他安全な記事だけ本国へ送るようになった。
 前シカゴ・サン特派員のマーク・ゲインの帰国後の著述は日本の民主化について悲観的だ。
 人類学者クルックホーン1949にいわく、戦中~戦後の日本人の道徳は Situational morality =情況的 でしかない、と。
 日本経済を調べるため派遣されたエドウィン・ポーレーは石油事業者で、1931~38に日本に86万537ドルの石油を輸出した。
 陸軍次官ドレーパーは1948に日本に滞在した。ディロン・リード投資金融会社の副総裁である。その総裁がフォレスタル国防長官だ。
 ドレーパーはドイツのカルテル解体を計画的に阻止させた。1949-4-30時点でドイツの独占事業体はひとつも破壊されていない。
 1937にアレンは、財閥は4つであり、それは三井、三菱、住友、安田だと書いている。E・B・シューペンターは1940に『日本と満州国の工業化』で財閥の役割を分析している。
 米国の商工人団体は、ある会社役員が他の会社役員にはなれないとするマックの命令を廃棄しろと1949に迫った。
 アメリカ鉛製造会社は日本化学の株の過半数を持った。日本石油および東亞燃料の支配権は米人に帰した。
 1917にグッドリッチゴムと古河合名が横浜ゴムを設立。前者の持分が半分だったが、開戦時には7.5%に減っていた。これが1950に35%になった。
 1949、嬰児殺しは彼等の伝統の一部になっている。GHQは、1970までに日本の人口は1億になるとみている。1949だけでも200万人増えた。
 1950、マーガレット・サンガーは講演継続をマックに禁じられた。カトリック教会からの抗議により。
 しかし米人のスペルマン枢機卿はカトリックでありながら産児制限について講演することをマックに許されている。
 1950の春、戦後はじめて人口制限についての出版物が刊行された。それまではGHQが禁じていた(p.169)。
 1947の日本人の一人あたり収入は100ドル以下。1946の米人は1269ドル。
 1949に英国の生産力は英史上最大に。マーシャル援助が有効に使われた。チャーチルは鉄道や電信の国有化に反対だったが、すでに国有化されているものをもとに戻す元気はなかった。
 1948-4に英労働者は1938より76%高い品物を買っていた。しかし、無料の社会施設という形で労働者が受け取る大きな利益を計算に入れずに、一般工業賃金は114%上昇していた。
 著者いわく1947になぜマックが炭坑国有化に反対したのか分からないと。
 小製造家はグループとして、多くの根本的な点において、大金融事業の、直接的間接的、支配を受けている。
 小製造業者は事実上傭われた労働者である。彼等は高い率の報酬を求めて交渉する立場にいない。小製造業者が切り詰めることができるものは、賃金だけである。照明の不十分さは戦前と変わらない。
 将来、小企業が大企業よりも活気づくとは思われない(p.122)。
 吉田が自由企業を支持するのは、アジア各地で宣教師からくいものを得るために宗旨変えを誓う「コメのためのクリスチャン」に似ている。
 1937において日本の中流階級は多くない。フレダ・アトレー『日本の粘土の脚』。
 タルコット・パーソンズは1946にいわく、日本の特徴は中産階級が蜃気楼だということ。文化的、政治的、経済的自主性がなく、上から支配された。
 NYT特派員は1949-12に報じた。インフレが中産階級を一掃した。大学では、新興成金、闇業者、新円階級の息子たちが遊んでいる。まじめな問題に興味をもち、学園を指導しているのは共産主義同調者だけだと。
 大闇師は、ガサ入れされたときには身代わりとなる男に表面上、商売をさせている。
 ごろつき新聞は、この闇業者をおどかして、新聞で攻撃をしない代わりのカネをまきあげた(p.158)。政治家もこれらの新聞をおそれて、名刺広告を出した。
 著者は和歌山県でごろつき新聞に対する名誉毀損訴訟を奨励したが、無駄だった。
 ある漁業権力者は漁船で沖縄、台湾と密貿易して巨富を築いていた(p.181)。
 ドイツと同じく、占領軍によるインフレ→デフレの切り替え政策の直前までに資本を支配した者の地位が、デフレでさらに強化された。
 戦時中米国は生産力を50%増やした。
 1950-1の日本の工業力は、1936の三分の二。
 1934に9ポンドの繊維を消費していた日本人は、1947では3.5ポンドだ。
 コーヘンによれば、1934に2245カロリー喰っていたが、いまは1955カロリーだ。
 1948には1700カロリーだった。
 正味賃金は1936の26%だ。
 日本が直面しているのは、悪い計画か良い計画かの選択ではなくて、むしろ、良い計画か破滅かの選択である(p.148)。※これぞ白面のLawyer宣教師のビヘイビア。
 シナの赤化で英米は上海のタバコ工場を失う。
 日本の国際収支のバランスを恢復させるためには国民収入の23%も資本を蓄積しなければならない。
 47~48年、米軍は令状なしで数百人の女子通行人をつかまえて強制梅毒検査。
 日本の警察は占領初期、卑屈で、誰にも尊敬されなかった。四辻の交通巡査以外、誰もかれらのいうことをきかなかった(p.161)。
 ※CICと結託してアカ狩りに励むようになって、日本警察の株が持ち直した。
 NYTによると、1948に日本の新聞は、共和党指名大統領候補マックに対する、多くのアメリカ人の反対意見を報ずるアメリカ通信社の記事の掲載を禁じられた(p.166)。そのため、共和党大会でなぜマックが指名されなかったのか、なぜ十分審議さえされなかったのかと、多くの日本人はあやしんだ。
 1950に訪米した日本人教授は、現地ではじめて、マッカーサーの日本統治に反発する米国の社会学者が七割も占めていることを知って衝撃をうけた。マックに媚びてさえいれば世界に対するミソギになると信じていたので。
 ただし米人は、マックが朝鮮戦争を東京から一歩も出ずに指揮していることについては不評は言ってはいない。
 著者いわく、マックの賞味期限は統治3年で終わっており、もう民政からは手を引くべきで、その場合は沖縄かフィリピンがグァムに引っ込むべきであると。
 1920年代の社会立法は、日本の労働者をなだめるためでなく、世界からほめられるために可決されている。日本人は欧米から賞讃されるためにはしばしば極端なことをやるのだ。
 1948-7-15に日本の大新聞に対する事前検閲が廃止されると、日本の記者たちは、どの記事がプレスコードに触れるかを自分たちで決定せざるをえなくなった。その結果、アカハタ以外の全紙はいちじるしく臆病に記事を書くようになった。この事実を占領軍御用英字紙であるニッポンタイムズもAPを引用して1948-8-12に伝えている。
 1948-12-19、一オランダ少佐は、9人のインドネシアの民間人を並ばせて自分のピストルで彼等を射殺した。その中に教育長官のサントソ博士もいた。
 マックは49-3-3の大毎で「今や太平洋はアングロ・サクソンの湖となった」と語った。
 米国が日本各地に用意した、米書ばかり揃えた図書室。それを利用に来る日本人は技術の本だけを貪り読み、社会科学や民主主義の本には興味は示さなかった。
 1949秋のリール著『山下大将裁判事件』。朝日、毎日、共同通信はその本に言及してはならず、法政大学はその本を出版してはならないと、非公式にマックから命じられる。
 日本人はよく投票する。棄権は不穏当だという意識がある。そして候補者の主義主張ではなく、名声と地位が選好される。
 マックは個別訪問を禁止した。
 1948に非共産の政治家いわく、いまや集会を開くことは東條時代より困難であると。
 共産主義者は恐るべき抜け目なさを有するが、その選挙での成功は、社会不安の原因というより、結果だ。アカは、民族主義、排外主義、超国家主義を利用する。社会がまずそれらの主義をつくりだし、アカはそれを国民的熱度を高めるために利用するのだ。
 1950-5-30のメモリアルデイに共産主義者はパトロール中の米兵5名をつき倒して石を投げつけた。6月、マックは日共中央委員24名を公職追放。
 米では共和党員すらこう言う。共産党を非合法化するのは利口ではない。地下にもぐらせるだけ。合衆国では、犯した行為ゆえに人は告発される。心に抱いている思想ゆえに人は告発されない。
 一つの党が非合法化されれば、第二、第三の適用があり得る。
 日本ではCICはチャールズ・A・ウィロビー少将が編成した。そして各県に分隊を置いて県政を支配した。※つまり落下傘内務省だった。
 CICが部下にしたエージェントには元特高が多い。特高警察のネットワークは県下に起こるすべてのことを知っていた。CICはたいへん重宝した。そして占領軍職員のシビリアンであるニューディーラーの左巻き活動をこれらエージェントが監視してCIC経由でマックに通報していた。
 ※この腐れ縁は今もある。公安は「監視力」を時の権力(それは官邸のこともあれば米国のどこかであることもある)に高く売ることだけ考えているから、北鮮人が日本人を拉致しても生暖かく見守っている。(ただしその責任は公安にはなく、自国民を拉致する北鮮を敵だと考えない堕落した有力政治家とマスコミにある。)この占領中の公安の真似をして米国向けに点数稼ぎをしようと張り切っているのが検察だろう。
 CICは最初は超国家主義者の活動を警戒する諜報機関であった。が、すぐにそれは日本国内のアカおよび占領軍シビリアンの中の親共分子の発展を阻止することに全力を傾けるようになった。
 マックは日本に来てから東京近郊を離れたことは一度もない。
 日本人の半数は土から離れている。この率はアジア一である。農村はすでに人口過剰だ。工業化をすすめる以外にこの過剰人口はどうしようもない。
 戦前の組合加入率のピークは1936で、420589人だった。
 日本に個人主義の伝統がなく、戦後は急激な発展をしたために、組合は独裁的に運営されている。
 米国でのみ、政治的なことと経済的なこととが組合活動の中で分離できている。
 ある撮影所の組合は疑いも無く共産主義者に指導されていた。共産主義者900人を会社が解雇しようとしたところ、スト。この1500人を会社敷地から立ち退かせるために、700人の日本の警官が出動し、米軍は、偵察機×1、装甲偵察車×4、シャーマン戦車×4で後詰めをした。
 日本の繊維品の安さは、輸出がされなくとも、間接的に米国に害をあたえる。というのは世界のバイヤーがその価格を根拠に米国製品を買い叩くからだ。
 日本人工員の賃金は米国の25%だ。
 いまやイギリスも日本同様に「輸出か死か」である。
 1949には30万の国家警察と95000の地方警察、そして200万の有志消防夫がいた。
 NYTは概してマック贔屓である(p.210)。
 キャンプファイアはGHQが1948に持ち込んだ。
 50万冊の米陸軍の文庫が横浜に死蔵されていた。これがさいきん、配布された。
 敗戦から1948までに日本に流入した英文書籍は125万冊以下だ。
 商業ベースの翻訳出版は占領開始から3年9カ月後に許可された。
 1947に農林省が土地改革のポスターをつくるための紙が公式ルートでは手に入らず、ヤミで調達した。
 1949にライシャワーの『日本・過去と未来』およびベネディクトの『菊と刀』が5500部づつ、翻訳刊行を許された。この2冊だけが真に価値がある。ジョゼフ・グルーの『滞日十年』は日本の社会問題をスルーしているつまらぬ本だが、こちらは7万部も許可され、しかも戦後外国書籍で唯一、点字版が刊行された。
 1950までに次の小説が翻訳出版された。『風と共に去りぬ』『仔鹿物語』、ダグラス著『ローブ』、ブラッドフォード・スミス著『武器は公平である』、ハーシー著『ヒロシマ』、シンクレア著『龍の牙』『勝利の世界』。
 また『テリーとバンキーの野球』『一ダースなら安くなる』『ポパーさんのペンギン』といったしょーもない本も翻訳されている。
 日本版リーダーズダイジェストは150万部のバケモノ媒体になった。
 1949時点で日本の映画館はタイトルの1/3がハリウッド製。
 著者は『オクラホマ・キッド』『アメリカ交響楽』『フランケンシュタインの息子』『ターザン』、そして西部劇などは米国人の税金を使って日本人に見せるようなものではないと嘆く。※潔癖症の疲れる奴。
 1300台のポータブルトーキー映写機がGHQから各県に貸与され、記録映画を上映させた。片山内閣の最後までにGHQが提供した記録映画はたった9篇だった。
 1950までにタイトルは173に増えた。
 「理解」は、外部世界との関係をつくるのに必要ではあるが、十分な基礎ではない(p.245)。
 1950夏までに国立大の外人教師は35人のみ。宣教師は1949春までに1000人も入国が許可されていた。やっとICUの1951開校がマックに許された。
 1949春時点で在米のシナ人留学生は3914名。ニップは75名。1949秋には230名に増えたが。
 井上勇は1950-1に占領軍御用新聞に英文で書いた。GHQが米文学の翻訳を認めないので、日本人はフランス文学とロシア文学に傾倒しつつあるのだと。※おめでてーな。
 占領軍の正規米将校の多くは、生れてから一度も投票したことがない。
 マックは1937以降、いちども米本土の土を踏んでいない。
 1949にウィロビーはスメドレーを文書攻撃した。彼女は告訴しようとしたがマックがウィロビーを防禦した。
 ウィロビーは1939の自著『戦争における作戦行動』で、ムッソリーニを褒め称えていた。またフランコや日本の行動にも肯定的だった。
 ドイツでは各州は文官に支配された。日本では軍政だった。
 日本がベトナムにコメではなくサトウキビや植物油をつくらせたために1944に60万人が餓死した(p.276)。
 日本占領の最初の4年に合衆国は13億ドル使った。7年間では21億7000万ドル。
 ロイベンズ1949論文によると、1930年代のなかごろ、日本は近隣国が輸出するうちの2~15%を買い、また、その地域の総輸入量の15~30%を供給した。日本にとっては、総輸入の1/3、総輸出の1/2が、アジア相手であった。
 日本の1949の対アジア貿易は、1934の15~20%である。1936にはアジアの食糧輸出の2割は日本が買ったが、1948ではたった3%だ。
 なぜ日本工業を復活させる必要があるか。購買力のないアジア人には、安い商品でないと買えないのだ。それを大量に作れるのは欧米では無理で、日本だけだ。日本工業がその役割を果たさないと、スターリンの商品がアジアを席捲する。
 明敏な国務省は、シナとロシアを引き離して、西欧の力を強くするために、あらゆる役に立つ機会をさぐることだろう(p.283)。
 GIのジープを日本人のトラックやタクシーが追い越すと、GIに止められ、怒鳴られる。これが1949の世相。
 日本の社交家のグループはユネスコで商売しようとしている。「ユネスコ万年筆」「ユネスコ・キャラメル」の製造販売願いが出された。
 1950-5のリーダイに引用されているところによれば、1950春、マックは「日本は『極東のスイス』になり、スイスが中立国であると同じ理由で、日本も中立国となるべきである──どちらの側につこうとも、日本は破壊を避けることはできない」と言った。※ニュークをシビリアンに支配されているので軍人マックはヤケを起こしていた。破壊とは原爆投下のことである。
 朝鮮戦争で日本人はこう考えている。民主主義は望ましい。原爆は恐ろしい。その中間のどこかに共産主義がある、と。
 北鮮が南侵をはじめるとアイケルバーガーは言った。「アメリカ人は8500万の日本人を味方に持つ。日本兵は司令官の理想の兵隊である。彼等は死ぬまで持場に頑張る連中である」。
 著者はいう。日本人の民主化なんて信じられないので、1953よりもっと先まで、米国の文民が日本を占領しつづけるべきであると。
 またいう。国連軍が日本人を利用するとすれば、その危険の無い方法は、大隊または聯隊単位の戦闘部隊として、それをもっと大きな米軍の中に混ぜて使うことであると。
 ※自分だけが正しくすべてを知っていると確信できるプロテスタント・ニューディーラーで民主主義宣教師。日本語を知らないベネディクトの足元に及ばないルナティックな高等痴人。この若者のその後はどうなったのだろうか?

摘録とコメント。

▼『別冊歴史読本 日本古代史[騒乱]の最前線』1998-2
 弥生時代の一般的な手持ちの武器である有柄式磨製石剣は紀元前5世紀から出土。北部九州で広まった。瀬戸内ではなお打製石刃が継続して発達した。
 北部九州に青銅剣が出土するのは紀元前3世紀から。
 弥生中期に北九州に銅製武器が現れたのは、航海民が大陸で手に入れてきたもの。
 それを紀元前1世紀には北九州で鋳造するようになる。
 弥生の剣は短いのが特徴で、鉄剣でも60センチ。多くは20センチ台。
 楯は表面に皮を貼ったものもあった。
 北部九州の有力者の副葬品の青銅武器には折れあとや研ぎ減りがあるので、有力者も体を張って戦争を先導していたと知られる。
 戦闘は敵対するムラに矢を射かけることから始まった。
 縄文人骨で集団戦の戦死者とみられる例はほとんどなし。
 大和朝廷の半島進出が始まる四世紀なかばまで、国内戦では鉄器はほとんど使われていない。
 高句麗の騎馬兵は弓ではなく槍がメインアームだった。弓は歩兵が扱った。
 隼人の反乱では、「斬首獲虜合千四百余人」。
 ヤマトタケル伝承は4世紀の史実ではなく、大和王権の発展史を後代に擬一代記的に総括したもの。そのキャラクターモデルの一人には聖徳太子も考えられている。
 ヤマトタケルのクマソ征討伝承の背景に、大和王権初期の南九州進出の記憶が。
 蘇我氏は大和政権の財政を管掌することによって6世紀以降台頭した官僚タイプの新興豪族。知識源は大陸だから、大陸で仏教が流行するなら日本でも採用すべしと考える。
 物部その他の伝統豪族は、朝鮮は属国だからその真似をする必要なしと。
 物部氏の神社が石上神社。
 物部一族は弓では誰にも負けないので、587年、蘇我は守屋の配下の迹見を引き抜いて味方のスナイパーとして雇い、守屋を射殺させた。
 645に蘇我父子をほろぼした加担勢力は、隋や唐からの帰国組。律令制をつくらないと、唐に日本がやられる。※守屋はある意味正しかった。だから徂徠は「物」氏を自慢する。
▼近藤好和『弓矢と刀剣』1997
 宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』によれば、李氏朝鮮(1392~1910)の軍兵は文禄の役の前には弓箭しか持たず、刀剣装備がそもそも皆無であった。主武器としても副武器としても刀剣類を有しなかったのである。こんな軍隊もあった。※それが「剣道」の宗家を騙るのか?
 打刀大小二本差しを身分統制令の一環として、武士身分だけのものとしたのが、豊臣秀吉の刀狩令。
 藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』によれば、刀狩の目的は、百姓の非武装化ではなく、あらゆる階層にまで普及していた打刀大小二本差しを、武士身分だけに限ってその標識・表徴とすることにあった。
 ただし初期江戸幕府がこれを確認するのは17世紀後半以降。「帯刀」とは打刀大小二本差しのことに。
 この帯刀権をあらためて軍・官・警が独占することにしたのが明治9年の廃刀令。
 古代の弓箭の遺品は、正倉院と春日大社に伝世する。しかし中世の遺品は数えるほどしかない。そのため博物館と美術全集に弓箭が露出せず、日本の武器=刀剣だと人々を錯覚させてきた。
 弓箭は「調度」とも呼ばれた。
 10世紀後半の摂関時代に儀杖と兵杖が分化した。後者は湾刀化した。
 革札よろいの鉄札交ぜは初期には胴の正面と左側面。
 780に鉄札から革札への転換が指導されているが、これは防矢力が革札の方がよかったらしい。※果たしてそうか?
 初期の大よろいは、弓をひきやすいように胸板が小さい。そこで鳩尾板と栴檀板を付加せねばならなかった。
 かぶとを含めると最重で40kgに達した。
 草摺の構造は乗馬専用で、これで歩くと前の草摺に足が当たって不便。
 弓の上端を末弭[うらはず]、下端を本弭[もとはず]という。丸木を弓にしていた頃、根元を本、梢を末といったので。
 鈴木敬三によると、最初の合わせ弓(伏竹弓)である外竹弓[とだけゆみ](木材の背側に苦竹を張ったもの)は、奈良時代に舶来していた大陸の角弓を12世紀の平安貴族が国産材料で真似たのだと。その競技は歩射だった。これが武士に採用されて、南北朝期には三枚打弓が全盛に。室町時代には四方打弓になり、近世には 弓胎弓[ひごゆみ]ができた。
 矢束[やつか]は、握り拳ひとつを「一束[そく]」、指一本を「一伏せ」と数える。古代の矢は鏃をふくめて長さ80センチ弱だが、中世では90センチ強であり、合わせ弓の弾力に対応していた。
 箆の端の彫[えり]が「矢筈」。
 野矢は二立羽を矧[は]ぐ。征矢と的矢は三立羽。三立羽の左旋回を甲矢[はや]、右旋回を乙矢[おとや]といい、二隻一手で諸矢とよぶ。
 鏑矢は征矢に2隻加えた。つまり1人で4本しか射てない。
 鏃の無い大型の鏑を「ひきめ」と称する。笠懸は「ひきめ」を使う。流鏑馬は鏑でする。
 西洋でもシナでも馬には左から乗るが、日本のみ右からだった。
 著者いわく、日本の舌長鐙は疾走用ではなく、騎馬が不得意だから落馬のさいにすぐ足が抜けるようなスタイルに発達したのだろう。
 日本の在来馬は体高4尺を基準として、1寸高くなるごとに「一寸[ひとき]の馬」「七寸の馬」などと呼び、8寸以上、つまり体高145センチ以上を「丈に余る馬」といった。
 材木座で昭和28年に大量に発掘された、新田の鎌倉攻めの際の人馬骨をしらべたところ、推定馬高は109~140センチであった。
 秦の兵馬俑は実物大だが、その馬の平均体高は132センチ。
 厨川柵の攻防で、鉄を撒くとあるのは、鉄菱のことだろう。
 弩の実戦使用を示す最後の記事が、厨川。
 南北朝以降の文献の「石弓」は、綱で吊った岩石を落とす装置のこと。
 平維茂の郎党の寝所の構えとして「布の大幕を二重ばかり引きめぐらしたれば、矢など通ふべくもなし」。
 今昔物語には組討で敵の首をとる記述がない。そのようなスタイルは治承・寿永以降である。
 戦闘で射る矢は、次々と矢継早に連射しなければ効果がない。※というより己が危険なのである。
 『吾妻鏡』で大場景能は保元合戦を証言する。為朝は鎮西育ちのために、騎馬の時は弓の扱いが思い通りにならないことがある。
 また佐々木高綱の証言。歩立のほうが弓が引き絞れるから、騎射の弓よりも短くてよいのだと。
 また1224に漂着した高麗人の弓は、皮を弦にしていた。
 著者いわく、中世の流鏑馬は的は正面にあったのではないか。現在の小笠原流(吉宗が再興)と肥後細川藩の武田流は、どちらも中世に直接つながっていない。
 ※馬の上から俯角射撃をするためには大弓の下三分の一を握らないことにはモトハズが馬体に当たってどうしようもなかったわけだ。
 馬上打物戦こそが南北朝の戦闘の特徴だと著者。
 源平盛衰記の宇治合戦で筒井浄妙は、敵のかぶとの鉢に当てた長刀が折れ、太刀では敵のかぶとも頭も破ったが、目貫き穴のもとから折れた。
 源平盛衰記の石橋合戦で佐奈田義貞は、一人の敵の首を掻いたが、その次の敵との組み討ちで刀が鞘から抜けず、後ろから来た別な敵兵にかぶとの項辺穴に指を入れて引っ張られて逆に首を掻かれた。最初の納刀で血をぬぐわなかったために、固まってしまって抜けなかったのだ。
 ※とすれば居合の納刀は「拭き取り」動作を必須とすべきである。
 『盛衰記』の飛騨景高と根井行親の対戦。根井がまず馬を射、飛騨は落馬。すると根井も馬を降りて、太刀でかかる。飛騨根井は「勝負はふたり」と叫び、両者、徒歩での斬り合いに。すると飛騨の刀が折れる。すると根井も「互いに組んで勝負」と太刀を捨てて組み討ちになり、根井が飛騨の首をとった。
 ※著者は無批判にこの記事を例示するが、これは典型的な「武功記録の美化」(この場合は根井家による)であろう。延慶本平家物語で敦盛の死体がどのように争奪されているかがリアルであろう。ひとかどの武士には複数の従者が運命共同体として形影相伴っており、「手を出すな」と言っても無駄である。
 盛衰記の巻29には、後続の味方、乗り換え馬、じぶんの郎党がついてこないシチュエーションでは組み討ちはするな、と戒められている。
 「柄も拳も通れ」という表現は、鍔のない腰刀だからリアル。
 鎌倉中期以前の短刀の現存遺品はごくごく少ない。