いいかげんにしてほしい「軍部とアイツは別」説

 シナの原潜事件のときも「これは軍部の暴走。コータクミンは悪くない」という、シナのプロパガンダの片棒担ぎにすらなってない、戦後日本人の自己弁護・自家発電(オナニー)だけが目的の「パブロフの犬」発言が、複数のプロの解説者の中から飛び出しました。(シナとすれば、すべてある一人の指導者の命令によるのだ、と世界が思ってくれた方が、以後の外交かけひきで、その男の発言が重視される度合いが増していくわけです。)
 そんな「オナニー解説」を聴いて無意識に安心しているあなた。あなたは「似非保守」「似非右翼」です。もうあきらめなさい。無意識の改造はできっこない。あなたは一生サヨク戦後民主主義の日本人のままで、暮らしていくことになるはずです。あなたは目の前につきつけられた物でも正確に認知することはできず、「男の決断」は、常にこれを回避しようとするでしょう。親切に予言します。
 今回のミサイル騒ぎにもまた、「軍が<首領>の意向を押し切って強行した」とか吹かして、それで何かを解説したことになると思っているパブロフの犬畜生様が続々、ご登場しておられるご様子ですね。ちょっと取材で留守にしてたんで、テレビも新聞も見てないですけども……。いや、サッカーだけホテルで実はしっかりBS視てたんですけども(あのニュース・テロップははっきりいって邪魔だった)。
 だ・か・ら、、、それじゃ、北鮮のためにする工作にも、ならないんだって!
 こんな珍説がマジに罷り通ってしまうのは日本の<一流>マスコミだけですよ。
 古今東西のあらゆる政体は、「共謀」で運営されています。独裁者と、ナンバー2、ナンバー3、……の少数幹部たちとの間には、常に「合意」があるのです。そうでない独裁者はとっくに排除されているか、政体そのものがとっくに外国のパワーの前に潰されているのですよ。
 しかしチビ軍団のポルトガルが敗けたのは残念でしたなー。もし決勝でチビ・イタリアが良いところなくフランス(アフリカ)に負けたら、Jリーグは「アフリカ人選手枠」を無制限にすべきじゃないですか。身長190センチ以上のアフリカ人サッカー選手は無審査で帰化させちゃっていいでしょう。それだけ目立てば犯罪もできないよ。南アフリカに、アフリカ人選手ばかりの日本チームが乗り込んで行く。すばらしいプロパガンダだ。

全方位いやがらせ外交

 大塚英志さんらとの座談会の収録をしてきました。
 今回のミサイル発射の目的はもちろん3発目のロングレンジの新製品のプロモーションでしょう。米軍に注目してもらうためにわざわざ前座を2発放って満を持したのですが、メインイベントがコケてしまった。
 「照れ隠し」に、あと数発、スターマインをやってごまかそうとしたと思います。意味はそれだけでしょう。
 米軍が今熱中しているのは、海中に落ちた二段目、三段目を特種潜水艦で回収することでしょう。

御礼。

 谷口さま、情報ありがとうございます。
 すごい蔵書量の方のようにお見受けしますが、いつかその整理法についてもお話しくださると幸甚に存じます。

三度び蕪辞を弄す

 首相が一般国民に向かっては責任を負わない(自己説明力を公開的に発揮せよと要請されない)ために、却って首相の権限が弱い──。
 一人の総理大臣に全官僚の任免権を与えることを決して予期しない、明治憲法からして改めぬ限りは、日本は20世紀の現代戦には対処できませんでした。
 陸相、内相、参謀総長を兼任し、陸相の手兵たる憲兵隊によって政党と議会と海軍も黙らせた東条英機首相が、このような山縣体制の構造欠陥を、身を以て実験証明したのです。
 敗戦後、陸海軍に加えて内務省も解体され、棚からぼた餅のようにSCAP命令という百官黜陟自侭の権を把握した吉田茂は、時限的に昔の山縣に近い権力を持てたことから慢心し、首相の責任と権限に関する山縣体制の構造欠陥を温存してしまいました。
 その吉田による不作為の実験の結果、旧陸軍に代わって戦後は大蔵省の権力が絶大化します。じつは、戦前に大蔵省が暴走しなかったのも、陸軍省や内務省がカウンター勢力として拮抗をしていたからなのだなぁ、ということがやっと分かったのではないでしょうか。
 戦後、この大蔵省の「官僚ファッショ」を阻止できる唯一の勢力は、米国です。そこで、旧陸海軍省の生き残りや旧内務省の生き残りは、敗戦直後の外務官僚に倣って米国要路と直接に連繋することで、大蔵省を抑えるしかなくなりました。閣僚級の代議士も同様です。目立って活躍しているのは、検察でしょう。彼らの国策捜査は、同時に大蔵省(財務省)に対する米国経由の牽制球になっているのでしょう。
 同様にして、田中派の対支売国外交も牽制されてきました。
 しかし、日本の富を挙げて米国経済に奉仕せしめる財政や、外務省はじめ中堅官僚や小物政治家がシナの間接侵略の手先になることや、財務省を枢軸とする官庁同士の腐った取り引きにまでは、米国経由のチェックは及びません。当然のことです。
 次の内閣の優先すべき課題はハッキリしています。代議士の互選で選ばれる戦後の内閣総理大臣には、全官僚の随意即効任免権が与えられなければなりません。
 ところで、自己説明力(アカウンタビリティ)を要請されない男は、概況が好いときに不善を為します。ワールドカップ日本代表チームも、先に1点リードすると「なぜ自分がここにいるのか」が分からなくなり、試合後の自分のことしか考えられなくなるのではないでしょうか。「今」に集中できるかできないかの分かれ目も、アカウンタビリティーなのではありますまいか。

昭和天皇は日本人が自己説明力を持つ日を待った

 東京裁判の進行中に南原繁が天皇退位論を口にして新聞に書かせ、木戸幸一はそれにシンパシーを持って情報操作に加担したかもしれません。
 こうした退位論に反対し抜いた吉田茂には、南原を「曲学阿世」と罵る根拠があったでしょう。
 終戦後の昭和天皇退位論は、自己説明力(アカウンタビリティー)の皆無な日本指導者層の無教養を少しも改めないで、天皇個人に日本国家全体を代表してレスポンシビリティー(処罰引き受け)だけを安易に求め、それが戦中の側近らの公式免罪になると信じたものだと疑われます。昭和天皇は、張作霖事件の時以上に、深い困惑を覚えたかもしれません。
 戦前の日本の内閣総理大臣が、必ずしも国政選挙で選ばれた代議士であることを要件としていませんでしたために、却って逆に、首相の一存での閣僚任免権、官僚任免権を決して持たせてはもらえぬ──という大きな弱点が、明治憲法にはありました。
 民本的でないがゆえに、選ばれた行政の長に、部下人事の独裁が不可能なのです。
 この中ぶらりんな制度欠陥を東条英機は、陸相直属の憲兵隊を最大限に駆使することで、乗り越えようと図りました。けれども、明治憲法をいじらない限り、そんな江戸時代式な統治では、国内の頭脳と活力は総動員され得ず、現代の戦争に勝てないのだという証明が、事実によってなされました。
 敗戦後に登板した吉田茂は、SCAPを宝刀にできました。GHQの超憲法的権力に頼み込んで、政治的な反対者を「戦犯追及」させ「公職追放」してもらうことで、日本の首相として初めて彼は、閣僚と下僚の一存任免権を、擬似的にですが、手にします。
 もちろん、東條がつくった、首相の天皇に対するアカウンタビリティーの慣行は、吉田は尊重しました。その関係があるからこそ、天皇退位論は、現内閣を倒そうとする運動にもなり得たのでしょう。
 ウォルフレン的状況から唯一抜け出られた吉田が目指すべき次のステップは、国政選挙で信任されることになる未来の首相に、閣僚と下僚の自由任免権力を確実に保証してやる制度改革(改憲)だったでしょう。
 が、吉田にも限定的な自己説明力しかありません。旧陸海軍というアンタッチャブル省庁さえ消せば、他の官庁などは随意に操縦できるものと、彼は高をくくっていたでしょう。じしん官僚出身でありながら、文民官僚の自己目的的な活動力をナメていたのです。「宝刀」が使えなくなり、吉田も死んだ後の日本の内閣の未来を、彼が構想できていたようには思えません。
 ライブドアの元社長がマスコミに対して語っていたTV局買収の自己説明、これがぜんぶ「欽ちゃん」に用意してもらった科白だったとは。そして一時は官僚だった欽ちゃんも自己説明力が無いことをあのように天下に晒すとは。
 小学生に英語を教えるより、古代ギリシャ語を教えた方が、付け焼刃にはならず、生涯の全局面に亘る自己説明力が涵養されるのかもしれません。
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 左右対称、先端まるまり、テーパー無し、血流し樋が中央に彫られた、トカレフSVT-40セミオートマチックライフル用の銃剣の、ブレードの幅はそのままに剣身を少し長くし(283ミリ)、鍔の下側端を「J」字状とし、長さ93ミリの木柄は「逆さ凹」状に鍔元と柄頭に段差があり、銃身リングの内径は16ミリだがその部分の鍔板の厚さは一枚鉄板のツライチ。柄のロック・ボタンは横に飛び出ている──。
 戦前のロシア/ソ連軍でこのような銃剣を装着できる小火器についてご存知の方はご教示ください。SVT-1938でしょうか? 画像検索したのですが、SVT-1940用の戦時量産型(?)銃剣しかヒットせず、それは剣身が短く、柄木の形がストレートで段差がなく、鍔にJ字部分もなく、リング部分の鍔は鉄板ツライチではなくチューブ状になっております。

自己説明力( accountablitiy )

 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、1989年の最初の本格著作物の中で、日本の官僚はレスポンシブルだがアカウンタブルではない、と指摘し、かつまた、それは日本に「市民」がいない(=リアルな民主主義ではない)ことと、裏表の関係にあるのだと示唆しました。
 (市民でないとは、統治に関与せぬただの「被治者」であることで、ひらたくいうと「町人」ばかりが多い状態でしょう。)
 以後のウォルフレン氏の一連の著述の中では「アカウンタビリティ」は暫定的に「説明責任」と訳され続けました。同語は1994年末までに日本の一般書講読市場の reading vocabulary の中に入りました。
 ウォルフレン氏は政治的には、小泉政権は初期から支持する、米国(特に共和党政権)には反対する、親欧・親中共・親韓と、気儘でした。大蔵省がバブルの責任を問われ、管直人氏が厚相に就いた頃に、ウォルフレン氏の声価はピークに達したように記憶されます。が、その後「反ブッシュ父子」をしつこく日本人に焚きつけるようになってからは、彼は次第に引用されなくなったように見えます。
 氏の学究的功績は、氏の党派的好悪とは独立に尊重される価値があるでしょう。「差分」を抽出・摂取する源泉として、氏の著述は半永久に生きるはずです。
 たぶん「アカウンタビリティ」をぴったり訳し伝えることになる日本語は、まだ生まれていません。
 ぴったりくる訳語がすぐできなかったということは、やはりそのような概念は、有史いらい日本人と無縁であったためです。
 また、福沢諭吉級のうまい訳語がまだ思いつかれないということは、その未知であった泰西概念の神髄に、いぜん、日本の最高級の知識人の理解が及ばないということです。明治初期いらい「イニシアチブ」の訳語候補は無数にあったのですけれども、日露戦争後の陸軍が「独断専行」を最終的に択んだ結果は、ご存知の通りです。
 親分だった山県有朋が死んだ以上、誰にも自己説明をする必要はないと思っていた田中義一は、27歳の昭和天皇に対してアカウンタブルではないことを咎められ、キャリアを喪いました。(田中義一は、レスポンシビリティ=処罰引き受けの自律 は、あったわけです。)
 あのときもし昭和天皇が怒りを爆発させていなかったら、日本の軍官僚は新天皇に対してすら自己説明の義務がないと早々に確信することになり、日本は昭和のある時期で「満州国」になっていたでしょう。
 この田中義一を反面教師として、東条英機は、直属する昭和天皇に対してはアカウンタブルたらんと努め、それが昭和天皇には嘉納されたのはあたりまえです。
 ところでアダム・スミスが『道徳感情論』の中で引用していますが、プラトンは、徳は科学であると見ました。
 つまり、何が正しいかは演繹的にわかるはずであり、それが分かるということは、そのように行動もできるのだと考えた。
 これが「自己説明力」の神髄でしょう。
 自己説明ができない人間は、何が正しいのかを掴んでいませんと社会に告げているも同然なのです。
 そしてこれもまたスミスの引用によりますれば、アリストテレスは、知性は慣行に負けると言った。善良な風俗は、知識からではなく行為から生じたと。
 こちらは、近代社会では、なぜ官僚の自己説明力は、君主に対すると同時にまた、市民権ある国民に対して発揮されなければならぬか、そしてその行為がまた「律」でもなければならないのか、の解義の神髄でしょう。
 その律を官僚に迫る主体が市民だとウォルフレン氏は教えようとしました。しかし日本に市民は少ないので理解されませんでした。
 公表的な答責が行政官の律となっていれば、日本国内の誰かがもっている、最高の助言も得られやすい。これを痛感できるのがインターネットの世界でしょう。
 各種のブログを読んでいくと、書き手の自己説明力の高さを比べ見ることができることに、最近わたくしは驚いています。好個のサンプルが「つくる会」の内紛についてインサイダーの人たちが主張し合っているブログ(と雑誌記事)です。いずれも尊敬すべき人たちだが、手短かに自己説明のできる人とできなさそうな人がいる。他を批判する能力と、自己説明力とは相互に独立だと、いまさらながらに気づきつつあります。
 東京裁判に関する本の仕事が入っておりますため、延々と他人様のブログを眺めている時間も無いのが残念です。それと劇画『日中開戦!!』の刊行が遅れそうです。どこかに、倉橋先生の作画のアシスタントを短期間だけやってくれる人は、いませんかね?

摘録とコメント(※)

▼陸軍文庫『日本兵器沿革誌』M13
 ※本朝軍器考の出典全部にあたっているので内容充実。
 甲冑之部。日本は例外的に母衣で矢を防いだ。これを頭からかけ弓でつっぱって展張した。三代実録に、甲の扶けになるとある。平家物語にも見える。絹製なので前方を視ることができる。
 刀剣の部。大小2刀どころか中古は3、4刀も持っていた。たとえば『鎌田草子』。
 昔は両刃も片刃も「剣」といった。文官の儀刀は鉛か木製であった。
 左右巻→鞘巻。
 欄外書き込み。「八つか」の「八」は音声「パ」で、大なること。ひじょうに長い剣であることを強調したのであると。
▼偕行社記事 第389号附録 寺田武(陸軍輜重少佐)編述
 ※日露戦の後方の反省。
 速力の遅い船はどうしようもない。特に荒天下。上甲板が板でないと、寒暑耐え難い。
 舵取=クォーターマスター。 副機関の主任者=ドンキーマン。 便所掛=ドーバス。
▼広井勇『再訂 築港 前編』大2、原M40
 M31の実績で、日本の築港は人力に頼るため、欧米の20倍の費用と5倍の時間を要している(緒言 p.2)。
▼須川邦彦『戦力と船力』S19
 ダーダネルス作戦についてコーウェル少将は、8000人の上陸のためには大型端艇が250隻必要と。端艇は全長9.1m32人乗りと、10.4m42人乗りとあり。漕手6名は別。この作戦後期、ようやく自航上陸舟艇出来、小銃耐弾、5浬/時、着岸用斜歩板付、馬50頭あるいは人員500名を載せた。沖合いまでは曳航される(pp.16-7)。
 北清事変では日本は1コDのわたしのため、20隻(35000t)を反復使用しなければならなかった。
 ナルヴィク上陸では独は駆逐艦に山岳兵を分載、戦艦2、巡洋艦1の護衛の下、空襲を冒して運んだ。揚陸後、船団は全滅(pp.18-9)。
 S11頃、日本は1万tクラスで20ノットのタンカーをつくった。英ではこれを特設巡洋艦にするのではないかと怖れた。※なんとすばらしいアイディアだったろう。
 日清役では、元山丸、品川丸の2隻(各1000t)を工作船として徴用。日露役では3000t級の三池丸、江港丸を。これらは吃水線以上の応急修理を担当した。
 バルチック艦隊は7000t級1隻を随伴。
 米はS15にバルカン号9100tを進水させた。当時最大級。
 サンチャゴ艦隊全滅の因は、スペイン海相からF司令に送った電報が、国際海底電信を米が抑えて不着だったためによる(p.104)。
 VDソナーの原形はWWⅠ中。英海軍中尉が、対潜用の曳航式爆雷のためにパラベーンを創った。これがすぐに機雷切離具に転用された。
 Subが帆を張って漁船にみせかけるのはWWⅠより(p.162)。※ちなみにいまの漁船が帆を張っているのは、アンカリング/漂泊中に船首を常に風上に向けておくための垂直尾翼のようなもの。
 米は大7から対潜迷彩の科学的研究を始めた。
 ※ここに各国船舶の迷彩について網羅的に紹介されているのだが、これは江河勝郎 ed.『戦時に於ける商船の自衛』S13pub.からの無断転載だと思われる。
▼『倭城 I』1979
 文禄以後の半島での永久築城の経験が、慶長以後の城のスタイルに。
 初期平壌の戦いでは、平壌の邑城を改修したものは役立たず、高地に新規増設したものが防禦力を示したので、以後はその方針。明の人海攻城は日本では全く考えられないことであった。
 このころの水戦は人力漕なので、海戦場ちかくの港を敵に使わせなければ、逸を以て労を待てる。
 守城戦闘において鳥銃の威力は圧倒的であった。
 本格築城は補給港を瞰制する高地に、野戦築城は半永久式で内陸に。
 壁と櫓台の組み合わせが有効だった。堀は空堀。
▼ホースト・ドラクロワ『城壁にかこまれた都市』1983
 ルネサンスの人文学者は、都市を囲む城壁を人体の皮膚に好んでたとえた。
 バビロンの城壁は高さ25mで、それプラス5mの塔。
 大砲の水平射を活用すべく、要塞は低くなり、壁は外濠から立ち上がるようになった。つまり拒止障害地形としての段差は旧のままだが、レベルは敵地と大差ないので、こちらからの平射が有効であり、敵からの目標はなくなる。
 ヴォーバンの外濠は幅100m以上。
 19世紀のブリアルモンはベルギーのヴォーバンといわれる。
 注。仏による1494~1529のイタリア攻めではじめて鉄丸、および牛ではなく馬で引く砲架付大砲が大量使用された。
 ミケランジェロはこれに対し土でできた要塞を主張した。
 注。リェージュ、ナミュール、アントワープの永久要塞はWWⅠであっけなく陥ちたが、ヴェルダンがもちこたえてしまったために、マジノ&ジークフリートの愚行が実施されることになった。
▼楊泓『中国古兵器論叢』来村多加央 tr. S60
 楚辞に出る「犀甲」はおそらく車戦で使用される。3mもの戈、矛は、歩兵には適さず、やはり車戦用である。※戈はそうだろうが矛は長くしても良いだろう。
 殷から春秋に到るまでは奴隷制社会で、奴隷主階級が軍隊の主要な構成員であり、戦争の目的は奴隷の反抗を鎮圧し、征服および掠奪を行ない、以て新たな奴隷、土地、財富を獲得することであった(pp.8-9)。
 戦国期は、鉄器と、「かなり普遍的」な弩の装備により車すたれて歩騎とかわる(p.16)。
 秦はむしろ銅を主用したのではないか。鉄器は燕にのみ多し、と。
 前漢になって青銅武器が駆逐される。シナ語では火器でないものを「冷兵器」と呼ぶ。
 詩経・秦風には秦の軍容を戦車を以て特徴づける。
 戦車主体の軍とは奴隷制の産物で、奴隷主は軍装すべて整えて戦車上に立ち、奴隷たちは手に簡単な武器を持って後続する(p.96)。
 とうぜん奴隷は本気で闘わないので決着は奴隷主同志の決闘となる。御し難く、弓矢の射程が短い(たぶん竹製)のため、深い陣は無意味で、横一線の陣を採る。当然すれちがいざまのうちあいになる(p.97)。※だから戈が役立つ。
 楚辞に「左驂は殪れ、右は刃傷す」と出る。驂はNo.1&No.4の馬。服はNo.2&3。※戈で馬を狙っていたのか。
3人の乗員と装備だけでも250kgにもなろう。これプラス、車重。
 左伝に2箇所、植生により車がスタックする様が(p.100)。
 脱車制は早く進行されるべきであったが改革が遅れた跡が歴然。
 手で張り拡げる弩を「臂張弩」という。
 史記・張儀列伝に、「大船に粟を積み……一舫に五十人と三月の食とを載せ……一日行くこと三百余里」と出る。
 『釈名』に、「剣は検なり、非常に防検する所以なり」。
 この著者は漢書芸文志の斉孫子89巻を竹のつづりとは思っていないようだ(p.146)。
 弩はおそらくシナの南方あるいは西南方の古代民族中に最初に出現した。近代になっても南方と西南方の二、三の少数民族は弓を用いず弩を用いていた。部隊に大量に弩を装備すること、かつまた青銅の機括を使用することにいたっては、凡そ春秋時代に始まり、おそらくは最初に楚国に出現したものであろう(p.150)。
 文献。J.F.Rock著“The Ancient Na-Khi(納西) kingdom of South West China”,1947.
▼森浩一・他『古代の日本海諸地域』
 佐渡や壱岐が、大陸への逃亡を考慮しなくていい流刑地となった。※地中海とはぜんぜん違うこと。
 鎌倉時代に日本人僧が樺太から大陸に入った例がある(p.73)。
▼羅哲文『万里の長城』
 B.C.8~5世紀のシナ人口は希薄。すなわち春秋時代。B.C.6世紀ごろから鉄器による開墾で10%固定税が可能になる。これが、B.C.5世紀の初代の長城を建設する資力を生み出した。
 南方の呉・越は沼沢地だったから、戦車に頼らない歩兵隊はここで生まれた。山の多い晋(のちの韓、魏、趙)でも。
 大昔は車戦オンリーの時代で、溝が対戦車壕だった。趙の武霊王が北方民を真似て騎射隊を編成したのはB.C.307。
 川水に接しているところでは、長城は水門要塞になる。
 最初の長城は、黄河の最下流域の斉。ついで長江最下流の楚。ついで黄河中流の魏、さらに魏の上流の趙の順で。
 始皇帝は征服地の城壁をとりこぼち、武器を鋳潰した。クローン化。首都から四方にむかう道路を整備。厳罰主義。無宿人や罪人はどしどし築城工夫として僻地へ。
 季斯の提言により、技術や占卜に関する書籍以外は燃やす。ただし一セットは残し、最高の学者は閲覧できた。
 ※儒者を生き埋めにしたなどというのと同じく後朝の中傷宣伝で、役に立つ知識をもたずに屁理屈で行政に反抗し不遇をかこった腐儒が江戸の仇を討った。
 蒙恬は斉を討ったのち、西方で異民族対策、長城建設、輸送路建設を監督。史記によればその辺境建設隊は30万。
 漢王朝は西の辺境に18万の屯田兵を置き、小麦、黍、麻などを栽培させた。
 高句麗は隋唐軍を防ぐために500kmの防壁を築いたが用をなさず。
 唐代に馬の絵や彫刻が多くなる。大宗は騎兵隊を再建した。
 AD487の書に曰、北方のテイ族は……都市攻撃に慣れていない。
 チンギス・ハーンの総人口は250万、兵力わずか25万。
 明代、長城方面への穀物供給はやはり揚子江流域から山東まで海漕に頼らねばならなかったが、しばしば暴風と海賊に邪魔された(p.54)。
 明の武宗は、肖像からも、子がないことからも、宦官に頼ったことからも、不能者のように思われる(pp.54-5)。
 成祖は国都を北京へ北遷させる。揚子江と黄河をつなぐ大水路の修復により、北支へ海上輸送する危険がなくなったので。
 鄭和は雲南生まれのイスラム教徒。
 かつてのゴビ砂漠では農耕のできる地所も多かった。
 漢ははじめて中央アジアに進出した王朝。補給は1頭建て荷車。
 騎馬の軍隊なしには、漢のあれほどの版図は無理。唐も同様。
 煉瓦は明代から(p.131)。
 手押し一輪車はシナの紀元前発明。ラバ2頭曳きもある。
 烽火は秦代にはじまる。
▼石母田正『古代史講座5』
 アテナイの外交政策は穀物政策。
 漢代から義務兵役制。軽車、騎士、材官(歩兵)、楼船(水兵)などを訓練させておいて、有事に招集。
 軍屯田は武帝が始む。しかし完全自給はできなかった。
 ホメロス時代は、指揮官の迅速移動用に馬車を用う(p.186)。
 車鎌付きのペルシャ式戦車はアッシリアには見られない。
 アッシリア騎兵は車より遅れて発達。
 刀剣は実戦に使われず、槍、弓のみ(p.194)。
 工兵があり、軍道をつくり、攻城した。渡河は筏に戦車ごと乗せた。舟を並べた浮橋あり。歩兵は浮き袋も使用。
 海国(南バビロニア)の市を占領するとき。「かれの残軍は筏にのって湖上に逃亡した。私はかれらを追撃し、湖上の戦でかれら多数を殺し、……」(p.196)。※沼地だろう。
 ペルシャ対岸征伐は海陸併行進軍で。ニネヴェで船を造り、フェニキアで戦備をととのえてユーフラテスを下り、チグリスの艦隊はオピスで陸送、運河を通ってユーフラテス軍に合流せしめ、海を渡った。アッシリア2段櫓軍船は衝角付。
▼釘本久春『戦争と日本語』S19
 異民族に対する日本語教育の嚆矢はM28-6、於・台湾。
 朝鮮では日露戦中から準備し、併合の翌年M44に朝鮮教育令。
 関東州ではM37-12、陸軍部隊により小学校開設。
 南洋では大3、海軍占領と同時に。
 M42-7以降、満州では満鉄が教育担当。
 朝鮮教育令は、日本語普及進捗に合わせて徐々に朝鮮語授業を減ず(p.127)。
 「隣組」は戦前にない日本語(p.191)。
▼ナポレオン口述、マルシアン ed.『ナポレオン兵法書・ジュリアス・シイザア戦争論』外山卯三郎 tr. S17
 右のあばらが痛かった。※毒酒?
 架橋法について詳述。
 ローマ軍は、退路や負傷者収容施設が完成されぬうちは決して戦わなかった(p.99)。
 ローマは短剣で、アレクサンドロスはマケドニヤ式の槍でアジアを征服できた。というのは白兵防禦陣は同数の敵に囲まれても有利なのだ。
 現在の弾は500トアーズに届き、90トアーズのところまで人を殺す。ために、敵が少数でも、囲まれたが最後、味方陣内すみからすみまで敵の射程内となる。だから散開する必要がある。
 砲は500トアーズで殺傷。
 シルコンヴァラシオン(壘壁)←→コントラヴァラシオン(対壘線)
 古代の白兵戦闘では敗者の損害は勝者に対しケタ違いに大きくなる(p.181)。
 というのも、敗北して崩れ立った瞬間、大殺戮が始まるから(p.242)。
 ナポは他に中世のテュルヌ将軍とフリードリヒ大王に関する書を著わしている。
▼望月衛 tr.『ドイツ戦争心理学 第2巻 将校の資質と其の文化業績』S17、原1936
 独では1928以来、学科テストぬき、心理学的検査のみで将校を選抜する(p.9)。
 1617ジーゲンにドイツ最初の士官学校。当時は主に砲兵弾道学。
 1859から将校は必ず士官学校を出る要あり。1861~65の間、この反動として将校試験廃止運動(p.12)。
 WWⅠで尉官の40%戦死。
 クラウゼヴィッツ研究者の歩兵大将ヴァルテル・ラインハルトは言う。「戦争とは、権力手段を以て権力手段に対し闘争することである。……敵の権力に対する自己の権力の方向の中には、最も迅速なる結果をもたらし得るという見透しが存すべきであって、之は諸々の力の最大の経済を保證する」(p.60)。
 1937時点で士官候補生の適性検査は面接による(p.89)。
 1940時点で軍人家系は軍人家系同志で婚姻している(p.193)。

世人の眼識は日に日に高し

 ルソー並の天才級の知識人の自己弁護はそれじたいが芸術です。本人が生きている間は周囲に迷惑をかけようが、当人が死んで百年たてば人類の財産になっている。
 またこういう天才は、長すぎる文章は書かないんですよ。
 そうでない一級の知識人で「ナンチャッテ文学」の志好がある先生方。このタイプは日本には多いんだが、自己弁護をする前によっぽど気をつけるべきです。
 といいますのは、文章力になまじいな自信があるため、リラックスして闊達に自己弁護の創作力を大発揮しちまうのです。スイスイと。しかも、長いんだ。
 文人が、自分の弱さ・醜さ──西洋人ならば「罪」と称するところの側面を、自分で研究してオープンにする作業にわれわれ接しますと、付き合わされる読み手の好悪は分かれるところですが、まず凡庸でない心掛け、さすが文人、とくらいは評価しておきますでしょう。
 ところが、そうでない一級知識人でナンチャッテ文学の志好がある先生方ときた日には、自分の凡庸な弱点や欠点を世間の認知から守るためにせっかくの文才を浪費しようとなさる。そのセコい自己史修文の営みが、無駄に長ければ長いほど、けっきょく世間様の批評眼にセコい自我が見切られ易くなるのに、それはご当人には弁えの附かぬことですので、近代の図書館には、慎重に煙幕を張りポスターカラーでリタッチしたつまらん履歴書がうずたかく積まれて、後世の誰も愉快にしないのでしょう。
 ある一人が言うことを全部信じようなんていう読者は今の日本にはいない。誰もが「差分ファイル」を聚めようと目を凝らしています。一本調子の長すぎる宣伝からは、その目は逸れてしまいます。

摘録とコメント

▼Z. Brezezinski著“Game Plan”鈴木康雄 tr.1988、原1986
 ※ソ連がイランに攻め込むのではないかと心配されていた時の本。ソ連は西欧を攻撃しても東欧というバッファーゾーンがあるが、イランを攻めれば自国境が乱れる。当時としては、するわけはなかった。
 ※同じ著者の“Power and Principle”は未訳? それはつまらないから?
 リチャード・パイプスは1984の著で、侵略され続けた国が世界最大の面積を持つに至るなどありえぬ、と。
 スターリンはアメリカを怖れて、フィンランド全域占領をしなかった(p.54)。
 ほとんどのアメリカ人は、メキシコ人が歴史的に感じている不満について何も知らないのが一般的だ。
 メキシコとキューバの関係は良好(p.120)。
 キューバとベトナム、東独の間には’80’sに軍事条約あるが、ソ玖間には何の安保条約もない。
 ブレジンスキは、中米全体が戦場になっても第二のベトナムにはなり得ないと見る。
 ソ要人シェルターの数は800~1500ヶ所(p.147)。
 その入居予定者は175000人。
 自然国境なき辺縁での内部分立騒動に対する恐怖がロシア人の独裁を維持するエナジーだ(p.171)。
 軍縮は、第一撃能力にマトを絞った質的なものでなくんばあらず。
 飛行実験全面禁止以外のモニターでは「単にあざむきのインセンティブをソ連に与えるだけのことである」(p.213)。
 1985-7ウォールstジャーナル紙上の宇宙のすみわけ協定案を支持。
 MXを敵の第2撃部署に照準し、一方SDIはMXを守れ(p.222)。※オプションを自縄自縛してどうする? ポ人ブレジンスキはひらめきはあるが、軽い。独人キッシンジャーは重いがねじけた思い込みがある。どちらが日本の脅威だったか。
 旧ABM条約とMADを廃棄して新ABM交渉を始めろ(pp.226-7)。
 エアランドバトルは1960’sトリップワイヤの非核版。近似の戦闘地域観がある(p.240図)。
 ’60’sトリップワイヤのNATOの反撃はあくまで戦術核だった。
 シナ=パキスタン間のシルクロードを復活させろ(p.300)。※その結果、パキは核武装した。
 アフガンにアルジェリア、シリア兵を駐留させてソ連を撤退せしむ(p.304)。
 ミロバン・ジラスは、ソ連はオスマントルコと同じで、崩壊し始めてもなお拡張がやめられない、と(pp.311-2)。
 NATOはこう宣言すべし。中立宣言すれば有事に攻撃せず、と。今日のポーランドは戦前より少数民族すくなく、均質化した(p.316)。
 「上兵は謀を伐つ」を引用(pp.323&337)。※米指導階級にとって『孫子』は珍しいテキストではない。それをわざわざ持参した胡錦濤には特別な意味があるわけ。
 1977のカーター提案のように、米ソサミットを連年行なえば、より中味に芝居気がなくなり、よい。
 歴史健忘症は、アメリカが治療することができない高価な病である(p.337)。
▼R・マクナマラ『世界核戦略論』藤本直 tr.1988、原1986
 第三次中東戦争がはじまるまでホットラインの米端末はペンタゴンにしかなかった。
 ケネディは『8月の砲声』の愛読者。
 1985の在欧の米戦術核。投下爆弾(F-111などから)1075発、203ミリ+155ミリが1660発、パーシングIa用が72発、ランス+オネストジョン用が895発、パーシングII用が108発、LCMが128発、SAM+地雷が870発。=計4808発。※旧来からのF-111の水爆の数と新しいINFの数を比較せよ。段違いに前者が多い。それなのにソ連がINFに猛反対運動した理由は何か。合理的な答えは、この時点までソ連は先制戦術核攻撃から始まる欧州限定の電撃戦争勝利を真剣にプランニングしていたのである。モスクワに届かない戦術核や、特定飛行場に依存する戦域核が何千発あっても、ソ連からの奇襲開戦のインセンティブはなくせなかったのだ。
 核地雷(破壊用核資材=ADM)は山岳などの隘路で使う(p.52)。※これがスーツケース核爆弾。ソ連が崩壊してこれがアングラに流れた場合にあまりにヤバイので米国は155/203mm砲弾用と一緒に率先して廃止し、そのよびかけに、ロシア政府も従った。
 NATO先制核使用反対の先鋒はイギリスの古株軍人たち。マクナマラは1961~2年にこの結論を得た、と(p.58)。
 1985までの統合参謀議長ジョン・ヴェセイ陸軍大将いわく、オガルコフと立場を代わりたいとは思わない。
 1962のときも、米ソは均衡していた。なぜなら生き残った10基のソ連ミサイルでも「数百万のアメリカ国民を死にいたらしめることになるわけです」(pp.72-3)。
 マクナマラは1960’sのモスクワABMはソ連全土に拡大すると判断した。それで議会は米もABM網をつくるべきだと考えた(p.91)。※この議会の判断はなんと正しかったのだろうか。
 1967、ABM制限の話にソが応じぬため、MIRVを始める(p.95)。※対抗不能性を考えなかったので、かくして最悪の米ソ不安定対等に向かったのは歴史が記すとおり。米はMIRVではなく全米ABM網を選択した上でソ連と交渉に臨むべきであったが、コストカットしか頭にないマクナマラが大きく途を誤らせた。そしてその誤りを認めたくないものだからマクナマラは成功したレーガン以降の共和党政権の軍事外交すべてにイチャモンをつけ続けるしかない。最近は老耄度が増し、ルメイが広島原爆に関与していたなどと「フォッグ・オブ・ウォー」(未見)に関連して語っているらしい。
 1970のSALT-I交渉時点ではすでにMIRV化の流れは止め処がなかった(p.108)。
 むかしの原爆は6回実験すればよかったが、今日は100~200回必要(pp.130-1)。
 ルメイSAC司令長官は1954の文書で、米は第一撃を躊躇すな、と。※初期の秀逸な核戦争SF小説の多くがルメイ長官時代に書かれた。
 1960~70’s、モスクワABMに対抗するため多数の弾頭がモスクワに向けられた。
 米海軍は1950’s末、戦略核は464発で十分と計算している(p.200)。
 ターミナルでレーザーを感ずると自爆する信管の可能性(p.253)。※このへん、SDI批判。
 ソ連ミサイルは1弾頭につき10個のダミーを伴ってくる(p.255)。
 自由電子ビームは真贋判定にも使える。
 本物の弾頭が大気圏内を落ち行くと、空気の乱れの航跡が残る。
▼打村広三『アメリカの戦争力』S16
 著者は外務省通商局。
 米は航空機燃料としての高オクタン価ガソリンを1939-10~1940-8の間、10057千バレル生産。
 天然ガスと精製ガスは81オクタンのガソリン8345万ガロン、92オクタンのもの3275百ガロンに潜在的に転化し得る。四エチル鉛などを加えれば100オクタンのハイオクガソリンを60億ガロン生産できよう。
 製鋼力は現時、粗鋼で8415万ネット・トン/年で、1942以降やがて9000万tに達しよう。
 アメリカも近年は平炉による屑鉄からの製鋼法による率が高まりつゝある。1929は78%が銑鉄だったが、’40年には66%になってしまった。
 目下発注の船用には4年間で350万トンの完成鋼(鋼塊換算500万t)が必要で、航空機と戦車用には各々最大50万tを使うとみられている。だが米鉄鋼協会長W.S.タウワーは粗鋼800万N.tが毎年国防用に必要という。
 上に加え、民需用6000万ネットt+輸出1200万tが要るが、屑鉄がストックゼロなので、禁輸したのだ(p.48)。※対日屑鉄禁輸は自分使用=対独戦準備の為であった。
 軍需用高級鋼のみでは1939に3212千ネット・トン。米では平炉が90%なのだが高級鋼や航空機用ステンレスは電気炉が必要である。
 ※ニッケル含有鋼の高級屑鉄を材料にして電気炉で製品にすると最高の機関銃部品がつくれるわけ。
 米語で Strategic Materials といえば、「海外依存の国防資材」のこと。
 生ゴムは、タイヤの他には、防毒面、軌条用裏張り〔キャタピラに張るゴムのこと〕、気球に需要がある。
 87価以上をハイオクとみなし、禁輸中(p.163)。
 透明プラスチックも禁輸リストに載る(p.179)。
▼今里勝雄『軍備と税制の歴史』新紀元社S29
 徳川討伐費は京阪の商人からの強制徴税。
 西南役の赤字は酒税増で賄う。→初の減税運動に。
 海軍拡張のためM20に所得税。世界では英、スイス、イタリアに次ぐ四番目の導入国。それまでは地租のみ。
 M32以降、税収の首位は酒税に。
 M37にタバコを専売化、ならびに税率UP。
 M38塩専売。
 シベリア出兵でまた増税に迫られた。※それで不景気じゃ、政府が不評なわけだ。
 S28-7の河野一郎の追及で、ガリオア、イロア資金のうち10億ドルの使途不明金がある、と。
 マックの「東洋のスイス」とは、米ソどちらにも属さぬ中立国たれとの意味でS24年までこの考えだった(p.262)。※スイスは武装国家だがマック構想は完全非武装だから要はマックはスイスのことも日本の地理歴史も何も知らなかったわけ。
 S26までの駐留費支払いは、5075億9200万円。
▼山口平四郎『港湾の地理』S55
 開通当時のスエズは水深8m。当時はそれでよかった。WWⅠ直前に、各主要港は11m標準となる(p.8)。
 熱帯では風上海岸は全く住むに耐えないので発達しない。
▼岩尾久彌『海運より見たる太平洋諸島』S18
 英は、香港、昭南、ポートモレスビーを前哨三角形としていた。※ポートモレスビーと沖縄間の距離は、昭南←→沖縄間に等しい。
 豪州系のW.R.カーペンター商会はラバウルに、近海航路船を修理する船渠を設立、運営してゐる(p.34)。
 WWⅠ初からWWⅠ後の約7年間に、米は1230万総トン、英は900万総トン、日は230万総トンの船を各々新造した。また1927~30は、第二の建造ラッシュである。
▼綾川武治『我が大陸経営失敗の真相』S10
 青島では三国干渉発起人への怨みがあったが、シベリア出兵には何もなかった(p.655)。※戦略行動自己基準がないために常に外国の言動に振り回される。
 大9の4~5月頃、ハイラルではチェコ兵と日本軍が衝突した。ハイラル事件(pp.678-80)。
▼A・ヒトラー『完訳・わが闘争』平野一郎 tr.S36
 人を説得しうるのは、書かれたことばによるよりも、話されたことばによるもの(pp.116-7)。
 偉大な文筆家より偉大な演説家が世界運動を進める。
 父の蔵書の、普仏戦争の挿絵入り普及書に熱中した。11歳前。
 地理と歴史は優、他は不可、だった。
 15歳でオーストリー風「王朝愛国主義」を捨て、民族的国家主義に。
 歴史は暗記ではなく原因の発見であるべし。本質的ならざるものを忘れること(p.26)。
 12歳からワグネリアン。
 13歳で父卒す。
 結核となる。2年後、母没す。
 ウィーンの美術学校に落ち、建築家を目指す。しかし中学課程欠くので資格なし。
 5年間は、はじめ補助工員、ついで画家となり、空腹の代償にオペラの切符と本を買った。※不遇時代の多読はナポレオンも同じ。
 下vs中層の階級間の断絶がいかに起こるかをスルドく見抜く。今までは下層の実態をしらざりしが、今やその世界を見た。
 オーストリーは極度にウィーンに集約された(p.35)。※だから普墺戦争は簡単にカタがついた。おなじことは普仏戦にもいえる。そこからドイツ参本流の速戦速決戦争哲学が生ずるが、これは初期電撃戦にのみ適用が利き、イギリスやロシアに対しては通用しない。ましていわんや日本がシナやソ連極東領に適用することができようか。唯一適用できたのが、フィリピン(首都をマニラと看做せば)とマレー(首都をシンガポールと看做せば)だと気付き、陸軍は南進にとびついたのだという鳥居民氏説には説得力があろう。
 広い住居にいるなら、少し離れていることによって、とっくに仲なおりすることができるごく小さい対立も、ここでは果しない、いやな争いにまで導くのだ(p.43)。
 1910頃、画家に。
 わたしは若いときからずっと、正しく読むことに努力してきた。それと同時にさいわいにも記憶力や理解力がよかった。
 ついには現実を理論的に基礎づけ、理論を実際で試そうという姿勢をとった(p.49)。
 ユダヤ人は「水好きでな」く、臭かったことが嫌悪を増した(p.68)。
 淫売業への関与に最も憤慨する(pp.70-1)。
 ユダヤ人を憎むことで、非国民労働者を許す気になる(p.74)。
 オーストリア議会現実への絶望(pp.87-8)。
 一体全体、多数の優柔不断の人間にいつか責任を負わすことができるだろうか(p.90)。
 無能官僚の弊害を見抜く(pp.93-4)。※このへんは教育の階級別が希薄な日本ではまずなかったことか。
 大衆はまさしくすべてのすぐれた天才に対して、嫌悪を本能的に感じている(p.98)。※トクヴィルと意見が一致するとは。
 民衆には1人の敵だけを示せ(p.127)。
 ドイツ芸術のメッカたるミュンヘンに往く。1912春。※このバイエルン賛美。ヒトラーはまったくプロイセン型ではない。
 種の劣化を招くので、自主的出産制限には反対(pp.141-2)。※まず多産させ、適者のみが生き残るようにせよとの考え。
 文化的に劣った人種が人口を増やさないようにするため、彼等の耕地を奪わなければならない。生産性向上には限界あり。
 民主主義に従えば、数の多い民族が有利であり、自然暴力に従えば、より野蛮な方が有利だ(p.145)。
 商工貿易より農業自給が健全だ(p.147)。
 WWⅠのヘマは反イギリス政策にあった(p.150)。
 WWⅠ中に、宣伝について考察始める。
 シラーを引用。「汝が生命を賭せざれば、生を得る事なかるべし」。
 国家を形成する内面的な強さは経済とは無縁(p.161)。
 国民は経済のためには死なない。だからイギリスは「小国の自由の為に」といって開戦する。
 経済的国家建設とはユダヤ的寄生者国家だ(p.162)。
 南ア戦争は新聞でむさぼり読み、日露戦争では反スラブから日本を応援(p.167)。
 サラエボ事件おこるやオーストリーを見捨ててバイエルン聯隊に志願。6年間軍服を着る(p.172)。
 感激は一度くだけたら二度とめざめないから、陶酔状態を持続させるための手をうたなければならない。それは美的なものでは無意味(p.176)。
 農民は、知らないものは食べない(p.177)。※馬鈴薯の全欧普及に何百年もかかっている理由のひとつ。
 ある「理念」は、その担い手の最後の一人まで、自国のすぐれた人材を滅損するにもおかまいなく根絶する他ない(p.179)。※???
 社会民主党は、民主主義政党によっては駆逐できない(p.183)。
 戦時宣伝を敵から学んだ(p.184)。
 宣伝はインテリにすべきでなく大衆に対して耳(p.187)。
 全民衆にするときは最低レベルに合わせる。※日本の対米宣伝はこの言葉を学んでいない。
 敵については過大視した宣伝をしないと兵士は上を信じなくなろう(p.189)。
 「戦争責任はドイツにはない」では駄目で、「責任は他国にある」と言わなければならない(p.190)。※よってシナ政府は永久に「責任は日本にある」といい続ける。
 兵士への「啓蒙」工作は現地軍の手によってでなく、本国から来なければならない。反宣伝も。
 バイエルン師団に対する反プロイセン宣伝(p.197)。
 1918に英軍の黄十字ガスに目をやられる。於・イーペルン(pp.208-9)。
 「永久に盲目になりはしないかという恐怖で一瞬絶望しそうになった」(p.211)。
 演説しはじめのヒトラーは早起きで、ねずみにパンを与えて観察していた(p.226)。
 はじめたからにはやめない人間(p.229)。
 梅毒への言及。売笑制反対。早婚をすすめればなくなる、と。不治者は断種する。自己の健康のために闘争せよ(2巻 pp.32-45)。
 WWⅠの海軍は、優秀な小型艦で大型英艦に対抗し得ると考えた。これは防禦主義だ。「最後の勝利は永遠に攻撃の中にのみあり、またありうるはずだからである」(p.68)。※だからMe262は爆撃機にしなければならないのだ。
 北米と南米の差は現地混血の有無にありとする(p.76)。
 日本人は文化創造者でなく支持者にすぎない。西洋との交渉なくなれば、独りでは伸びは止まるだろう(pp.80-1)。※戦中の邦訳版ではカットされていた部分。
 ユダヤ人のどこが嫌いか。滅私奉公の反極的性質だから(p.91)。
 「かれらはフランス語で話しながらも、ユダヤ的に考えており、ドイツ語の話に技巧をこらしていても自分の民族性の本質だけを享楽して生きている」(p.98)。
 女子のユダヤ人は基督教徒とも結婚したが男子はユダヤ教徒としか結婚しない(p.107)。
 ヒトラーにとっての暴力は、演説・宣伝の強制(p.156)。※強制的宣伝としての戦争へ。
 宣伝の「普及には最大の堅忍さをもち、影響の期待には忍耐を持つこと」。色は共産主義者を挑発する赤が基調となる(p.159)。
 民族性は言語の中にはなく、非ゲルマンにドイツ語教える要なし(p.183)。
 ヒトラーの「血」の理論(p.191)。※世界理論ではない。分裂的国家を統一するための内政手段。
 不健康者はこどもを生むな(p.198)。※軍隊に入って鍛えられた者にして理解できる言葉。ただしF1が確率論的に両親より優秀になることに無知。
 米の禁酒法の試みに共感を示す(p.201)。
 「肉体的に丈夫だという確信があると、いかに自己の勇気が助長され、攻撃精神がわいてくるかは、軍隊をみればいちばんよくわかる」(p.206)。
 歴史教育は「偉大な明白な筋がまったく忘れられているのに、若干の日付、生年月日、人名などが記憶に残っているのがふつうである」(p.215)。
 「ローマ史を全体に大きな流れにおいて正しくつかむことは、今日のためばかりでなく、あらゆる時代にとって最良の教師である」(p.217)。→国籍と市民権に差別を設ける構想(p.236)。
 世襲制をとらないカトリックは、それだから民衆と一体である(p.227)。
 エリートによる大衆指揮制を共産主義に学ぶ(p.252)。
 カトリックが非科学的なドグマに固執している強みに学ぶ(p.254)。※アンタがアウグスティヌスを読んでいないことだけはわかった。つまりプラトンもわかってない。
 綱領を、時代精神に同調させるな(p.255)。
 大衆に迎合せず、世論の命令者になる必要(3巻 p.11)。
 おきまりの反論には、すべて準備したレトリックで完全撃破する(p.13)。
 大衆は、ブレストリトウスクがヴェルサイユをもたらしたのだ、と考えさせられていた。ヒトラーはそれを論破しようとした(p.14)。
 著作物では、下層大衆への感化力ゼロだと確信(p.18)。※この摘録だけ読み、オリジナルの邦訳は一生参照しない日本人が千倍以上いるだろうと確信。
 その先例にマルクス主義の集会を挙げる(p.19)。
 政治演説は人間の理性のタガがゆるむ夜8時開始に限る。昼にやるのは阿呆。カトリック教会は夜を演出している(pp.20-1)。
 ロイドジョージは大衆演説を知っていると評価(pp.22-3)。※ドイツ人はアジ演説が得意でなく、そこに共産党とヒトラーの乗ずる余地があった?
 ヒトラーの演説は3hに及ぶ(p.31)。
 赤地白丸黒ハーケンクロイツを制定す(p.43)。
 巨大な会場の方が、妨害者を鎮圧し易い(p.46)。
 突撃隊の前身は、集会場整理隊。ルドルフ・ヘスも一人(pp.52-3)。
 ボクシングと柔道の方が射撃訓練より重要。スポーツをやれ(p.91)。
 10人のパッシブな「支持者」に対して1~2人のポジティブな「党員」がいる(p.125)。
 英の、勇ましくはないが、目的に適った外交政策を讃える。「外交は、一民族が勇ましく滅亡することにではなく、実際に維持されてゆくことに尽力しなければならない。後者に到達する道はしたがってすべて目的に適わしいものであり、それらの道を歩まぬ場合は、義務を忘れた犯罪といわなければならない」(p.160)。
 仏は英に対し、長距離砲、空軍、Subで脅威できる(p.162)。
 仏の欧州覇権政策は根本的に英と対立する(p.163)。
 独の同盟国としては英以外にない。
 だがイタリアもある(p.165)。※どっちなんだー。
 誰が支配しようと仏は独の敵だ。イギリスがドイツの世界強国化を望まないとすれば、フランスはドイツと呼ばれる強国そのものを望まないのである(p.164)。
 英国内にも反ユダヤ派がいる。日英同盟は英の対米カードだ。その同盟を攻撃するのがユダヤ人。ユダヤ人は世界制覇のため日本の滅亡を望む(pp.184-6)。※誰に向けて語った宣伝なのか。
 「それゆえクラウゼヴィッツもかれの『三つの信条』の中で、……」「卑怯な屈服の汚名はけっして消し去ることはできぬ。一民族の血液内のこの毒薬のしずくは子孫に伝えられ、その後の種族の力を奪い、害するだろう」。またこれに反して「血みどろの、名誉ある闘争の結果であれば、この自由の滅亡でさえも民族の再生を保証し、そして、いつか新しい樹木となってしっかりと根を下すような生命の種子である(p.219)。
 「これこそがクラウゼヴィッツの語った『毒薬のしずく』のことである」(p.220)。
 「…クレマンソーの、わたしにとっては平和もまた戦争の継続に過ぎない、という金言は意味を一層深めたのである」(p.224)。
 ドイツ人兵士が前線で蒙ったと同様の目にユダヤ人の民族破壊者を遭わせろ(p.231)。※だからガスですかい。

摘録とコメント。

▼アルヴァ・ミュルダール『正気への道 I II』
 1955以降、スウェーデンの核武装の是非をめぐり論議が頂点に達す。※これはスイスと同じで隣国西ドイツの核武装→独ソ再戦を考えたもの。西独のNPT加盟によって沙汰止みとなった経緯もスイスと一緒。
 1959、スウェーデンの核兵器製造研究費は削減され、1968正式に政策放棄。
 国連は短年月に慣習法を確立できると考えている。cf.1925にBC兵器を禁じようとしたジュネーブ議定書。
 SIPRIが1975に計算したところでは、米の1901~1930’sの軍事費/GNPは1%だった。WWⅠの期間は除く。
 1970に合衆国での鉄とマンガンの使用量中7.5%が軍用だった。
 LAタイムス1974-3-24によれば、ブラウン米空軍参謀長は、米空軍は全員ベトナム・キャリアだがソ連はWWII以後の実戦経験者がいないので、米空軍はソ連空軍より全面的に強いと語る。
 エンサイクロペディア・ブリタニカの1964版23巻は、WWⅠでは死人の50%は民間人だったと。
 銃砲取締りの厳しいスウェーデンで、軍から盗んだ火器による犯罪が多い(p.21)。
 1973の中東戦争で米はNATOに謀ることなく10-24~25の夜中、在欧核戦力をアラートに置いた。このとき米の対イ輸送に給油用基地を提供したのはポルトガルのみ。
 カナダはOAS・米州機構参加をはっきり断った。
 軍縮会議の準備委員会初期、英セシル卿は、Sub、空母、1万トン以上の水上艦の禁止を提案。この三つは「攻撃兵器」だから、と。
 マキシマリスト=最大限要求主義者。
 1974の仏製手榴弾は1発1.8ドル。
 1973のスウェーデンの兵器政策は、あまり高度でないシステムを多数持つこと。
 1975現在スウェーデン政府は、1工場が防衛生産に20%以上没頭しないように契約を分散している。
 1975-12時点で米の在欧核弾頭は7200個。ソの全戦車は1700台(?)、68000人。by NATO外相理事会。
 1946にアトリー内閣はPu分離工場とU235ガス拡散工場建設へ始動。
 ハーグの戦争法規は「ルールズ・オブ・ウォー」。
 AD600頃サラセンの戦争規定は、井戸への毒物混入や森林破壊を禁止(2巻p.91)。
 ワシントン海軍条約に秘密に違反した日本の手口は、Barnet & Falk編“Security in Disarmament”1965の21頁あたりを見よ。
 P.ノエルベーカー“Science and Disarmament”の214頁によると、1945-5当時世界最高速の航空機は640km/時、爆撃機の最長航続距離は1600kmである。
 1971頃のある学者いわく「原子炉からとりだしたどんな純度のプルトニウムからでも核爆発(最低TNTの3乗倍)を起こせる」。
▼五十嵐武士『対日講話と冷戦』
 1947-4-29統合参謀本部は、次の大戦をイデオロギー戦争と見、日本を「極東で唯一イデオロギー上の敵を封じ込め得る国」と位置づけた。
 極東局長代理のペンフィールドらは対日平和条約案を練り、なかには、アメリカへの占領費の支払いのために、個人消費を制限して輸出振興させる、という措置も入っていた(p.73)。
 1945前後の駐ソ・米国大使館員は、ソ連高官へのアクセス権なく、外交はかれらの頭越しに行なわれた。ケナンの、歴史のみに根拠をおくリポートはこうしてできた。
 海軍省は対ソASWから沿海州打撃への任務変換期にあり、横須賀と付帯エアベースを強く欲した。※このとき三宅島にストリップつくっておけばね…。
 政策企画室(国務省の参本)は、少なくとも一世代の政治安定なくば日本に民主化定着せず、と。
 1947の国務省はソ連の直接対日侵略を想定せず(p.89)。
 グルーやバレンタインら日本通は戦前の議会政治の発展を評価していた。つまり総司令部に反対し、民主化は徹底的でなくても十分、とした。
 陸軍省は財閥解体反対したが、マックは急いだ。
 マックは1948-3、ケナンに、日本人は民主主義とキリスト教をうけいれているので赤化の危険なし、と断じた。また、ソ連軍の直接攻撃を可能性低し、とした(p.103)。
 マックは沖縄主基地論を唱えた。その場合、日本本土とフィリピンには基地は不要で、政治的中立すら許すつもりだった(pp.106-7)。
 芦田外相は、米軍撤退の場合、警察力増を要すと主張。
 1947の日本の占領費負担は予算の1/3、税収の半分。
 1936に米に留学した日本人学生は60人前後(p.144)。
 1949にはじまり、フルブライト計画にひきつがれる、ガリオラ留学生計画は、学生のみか官僚も応募でき、親米高級官僚を大量生産した(pp.144-5)。
 マックは極東ソ連軍は限定されており、対日侵攻能力なしと1948判断。
 ケナンはFBI式日本警察を提案、マックは国家地方警察に固執。
 吉田は英式に没入し、社会党の成長による二大政党制を願った(p.153)。
 ウラル以東に増強なく、また物資供給さえできぬ極東ではソ連軍は日本を攻撃できず、又、日本を目標にしていない。逆に日本本土の基地を怖れている……というのがマックの見解。
 日米外交は次第に秘密化し、日本国内に対してはマジック・ミラー化した(p.164)。
 1949-2-6ロイヤル陸軍長官の東京演説。ソ連がアメリカを攻撃するうえで、日本は戦略上重要とはいえない……。これを英ベヴィンは、米の対亜コミットメントの無さを印象させるとして猛攻撃。
 太平洋のスイスたれ、はマックの言い草(p.183)。
 1950-11-30トルーマンは、原爆と日本人義勇兵の使用を示唆、公言。
 朝鮮戦争時、統合参謀本部は、日本に対するソ連の奇襲攻撃を考えた。現実にはスターリンは北鮮の戦況に参っていた。
 吉田、幣原は英の「外交の継続性」や米の「超党派外交」に倣うことにした(p.212)。
▼ハワード、ケナン、ゲイツケル『ヨーロッパの苦悩』
 1945-4-30チャーチルは米軍にプラハ占領を説くが、マーシャル陸軍参謀総長は「私は単なる政治的な目的のために、アメリカ国民の生命の危険を冒すことを最もきらう」と。詳しくはエルマン著『第二次世界大戦のイギリスの歴史』軍事篇・大戦略・第6巻、161頁を見よ。
 駐留地からソ連が撤兵した例はアゼルバイジャンとオーストリーのみである(p.91)。※満州は?
 ソ連は西欧国境から550マイルdisengagementしたところで、12~18時間あればふたたび通り抜けられる。byディーン・アチソン。
▼Maxwell D. Taylor著“Responsibility and Response”入江通雅 tr.S42
 米の任務は、ベトナムでの解放戦争を「高くつき、危険で、しかも失敗に終わる運命にあることを実証する」ことだ、という。
 著者はアイク1959声明ドミノ理論を信じない。
 ポリビウスはB.C.125に「戦争挑発者を絶滅することが戦争の目的ではなく、彼らに彼らのやり方を改めさせるのが戦争の目的である」と書いた。※ポリビウスの邦訳は未だ出ないのか? サボってるなよ、京大グループ!
 テイラーは、北ベトナム軍は日本やドイツと違い退却の自由選択権があるのだから、空爆は有効だと考える(pp.55-6)。
 ハノイを吹っ飛ばすのに反対。なぜならハノイをしてベトコンを抑制せしめるのが上策だからだと(pp.72-4)。
 一拠点にのみ後退して「飛領土」として確保する案にも反対。なんとなくアメリカ的でないから(pp.74-6)。
 訳者いわく、ニクソンがハイフォン封鎖強化を求めているとき、リーガンは「ベトナム戦争は勝つに値する戦争である」と主張。
▼G.H.Hudson“The Far East in World Politcs”木村不二彦 tr.S15、原1939(二版)
 英人による、18世紀から満州事変までの満州史の概括。
 クリミア戦争のとき「海上の支配権を有しなかったロシアは、海路による極東との交通を断たれ、当時太平洋に於けるロシア船舶並びに海軍力の主なる根拠地であったカムチャッカのペトロパウロフスクは、英仏両国の攻撃に脅やかされた」(p.50)。
▼Paul Reynaud著“Le probleme militaire francais”吉松隆一 tr.S17、原1937
 3月7日事件直後にヒトラー語る。余は決意する度毎に、十中の九まで失敗の可能性があったにも拘らず、成功をかち得ることが出来た!
 レイノーいわく、敗戦の原因として歴史に記録されたる失敗は、技術の領域に於けるよりも、政治の領域に於ける方が、遥かに多かったといえる。
 この頃、英の小麦備蓄はようやく17日分(p.9)。
 スターリンは農民に「スターリン牛」の私有を許した。
 この頃、ソ連は世界第二の産金国。
 1870以前、Frossart将軍は速射兵器が攻撃軍に与えた損害を強調、仏は防御主義一色。
 ソンムとヴェルダンでの仏側攻撃に際しては、重砲の事前射により防御側の方が多く死んだ。レイノー「戦争はあらゆる手段を以て行われる限り攻撃に利があると言わなければならぬ」。
 Jemnapes, Wattignies, Fleurus の会戦の頃、仏人口優勢で、2:1で戦ったものだ。
 前大戦当時、アメリカ軍にはフランス製でない飛行機や大砲は一台もなかった。
 1914、ジョフルのいう総動員をまたずに、ランルザックに従いムーズに防御線をつくらせていたら……とレイノーは惜しむ。
 砲火と要塞の力に関しては、日露戦とバルカン戦に学ぶべきだったのに、重砲をつくらなかった(p.50)。
 スペインでは戦車はATの餌食ではないか、との政府筋に駁して、「戦車は、個々に用いるか、集団的に用いるかによって、その効果が無であるか、絶大であるかが決まるのである」。
 スペインの露戦車はT-26、T-28だが、フィアットLTKに圧勝した。
▼金久保通雄『国境』S15
 今では満ソ、満蒙国境5000kmの何処かに毎日平均1件づゝ国境紛争が惹き起こされてゐる。※じっさいには3700km?
 ウスリー江岸のゲペウ監視哨や、砲艇から写した黒竜江岸のソ連兵舎の写真。
 アムールは濁流だが、ウスリーは青味を帯びて美しい。
 ソ連から塩、石油、マッチ、綿布、菓子が、満州から三江省産阿片やコメ、蜂蜜が密貿易されていた(p.4)。
 ソ連の警備網道路は相当発達している。
 綏芬河駅からウスリー鉄道へ通ずる連絡線は軍機の漏洩を恐れて先年ブリュッヘルが国境閉鎖をして以来一度も列車が通ったことがない(p.15)。
 司令トーチカを中心にトーチカは三線陣をなす。土饅頭形のみ。トーチカ間は2~30mで、5~6条のバーブドワイアで結ぶ。
 一世を震駭したリュシコフ大将の脱出してきたところは長嶺子。
 黒龍江にくらべ、松花絵の水は黄褐色に濁っている。
 サザケヴィッチ水道中州に、水上機施設まである(p.31)。
 アルグン沿岸に旅行者がくると対岸ソ連軍はデモ演習をやってみせる(p.38)。
 ツァガンオーラのソ連戦車演習示威で、数両故障直らなかった(pp.49-50)。
 ボイル湖では漁労可能。
 一昨年いらい外蒙は国境地帯での一般人居住を禁じている。
 パオのフェルトが黒いのは取り替えのできぬ貧乏人を示す。
 ソ連は、一定期、無連絡のスパイからの呼び出しには、もう応じない(p.157)。
 沿海州ブリュッヘル町はユダヤ人地区によりレニンスキーと改称。
 ブリュッヘルは政治の立場悪化していたので張鼓峯で狂戦した(p.161)。
 ブリュッヘル失脚後、極東軍は叛乱できぬよう二分され、中央直属になった。
 リュシコフ大将は洋服で脱出してきた(pp.177~)。
 所持品一覧の中に暗号書は挙げられていない。夫人はユダヤ人で、同時にポーランドへ脱出させる手筈とる。
 ※リュシコフはその後、どうなった?
 自白を強制する拷問に、酸素拷問、セルロイド拷問あり、いずれも高熱を与えるものという。なぜ自白させてから処刑するかについては『1984』みたいな理由が書いてある(pp.188-9)。
 ボイル西方ハルハイト山地の蔭だけ冬季の積雪が浅いので唯一の放牧地となり、越境を誘う。→オラホドガ事件。
▼L・ハート『軍拡下のヨーロッパ』
 戦間期の2年間にタイムズ、NYTなどに寄稿したもののよせあつめ。
 第一章の訳が欠。
 執筆時点で3号戦車の存在は未知。
 クラウゼヴィッツ=ナポレオンの時代は機械化が始まったばかりということを無視して後世の人まで「量」を絶対視した(p.22)。
 旧式ドイツ将校は、大部隊を信条として養成されてきたので、数的増大を渇望していた。
 ドイツ師団の操法は敏速と奇襲の要求をむしろ見捨てている(p.28)。
 既にこの頃からソ連最大の軍需根拠地はウラルにあり(p.31)。
 サクス、シャーマンは、機動性を損なわぬために軍隊には大きさの限界があることを発見した。
 18世紀をピークに仏軍事思想は貧困化の一途。思想としても「服従」が要求されたのが19世紀以降の仏。
 英は1935にルイスLMGをチェコ製ブレンに替えた。国内生産開始。
 1936に第一線の馬車をモリス・トラックに代える。
 ロレンスはルイスMGを駱駝に載せ、一人で操作した。
 「…しかし敵軍を撃破する途は、その陣地を突破する方法以外にもある。それは恰も戦争に勝つ途が、戦闘に勝つという方法以外にもあるのと同様である。」 その方法としては「敵軍がその陣地につくのを妨げるとか、策略によって陣地から誘い出すとか、敵陣地からは防御の効かない部分に圧迫を加えて敵軍の全般的戦局を悪化せしめ陣地を孤立せしめる……」(p.90)。
 「「一定地点に真先に到達した百人の機関銃部隊は、少くとも日中においては、遅れて到着した五百人乃至時としては千人もの部隊よりも強力である」ということが近代戦争の公理である、と私は提唱したい。」(p.91)。
 「急速な前進と敏活な機動とによって、脅威に敏感な敵軍が我を忘れて攻めかけて来るような地点を占拠することができるであろう。そうすれば、此の地点を敵軍に反撃させ、更にこれを逆襲するという手で撃破することが可能となる」。
 ハートはこれを「誘導式攻撃」と名づける。
 霧、または人工的な煙幕は、MG防御力を一時的に落とした非常に重要な要素であった(p.132)。1918の独の数度の成功例→289頁。
 ハートは装甲による夜襲を提案(p.134)。
 1903フォッシュ、1883フォンデァゴルツは共に防御力を馬鹿にしていた。
 1914仏は専らその騎兵に偵察の任務を与えたのであるが、この騎兵の大軍は敵軍の出現を少しも発見できなかった。
 軍人の意見は、一度退役すれば直ちに無視されるようになってしまうのだ(p.210)。
 ブルガリア、トルコ、オーストリア戦線では、MGによる阻止は有効でなかった(p.213)。
 「アメリカの内乱の結果、塹壕に入って防禦する一人の歩兵は、三人乃至四人の攻撃者に匹敵する、という計算が標準となるに至った」(p.231)。
 ジョミニは、ナポ戦中、狭い村の中を除き、白兵戦を決して見なかった、といっている(p.234)。
 ハートは、敵の軍隊と全く非接触的に資源や心理を攻撃する「超ゲリラ戦」なるものを予測(p.243)。※シナ人はじつによく学んでいるね。
 欧州大戦に際してもイペリットによる戦死者は比較的少数であった(p.260)。
 過ぐる欧州大戦においては、イペリットはあらゆる毒ガスのうち最も致死率の少かったものであった。犠牲者の死亡率は4%にも満たなかったのだ(p.275)。
 ※こういう論評を真に受けて、シナ戦線で試してみたのか?