世人の眼識は日に日に高し

 ルソー並の天才級の知識人の自己弁護はそれじたいが芸術です。本人が生きている間は周囲に迷惑をかけようが、当人が死んで百年たてば人類の財産になっている。
 またこういう天才は、長すぎる文章は書かないんですよ。
 そうでない一級の知識人で「ナンチャッテ文学」の志好がある先生方。このタイプは日本には多いんだが、自己弁護をする前によっぽど気をつけるべきです。
 といいますのは、文章力になまじいな自信があるため、リラックスして闊達に自己弁護の創作力を大発揮しちまうのです。スイスイと。しかも、長いんだ。
 文人が、自分の弱さ・醜さ──西洋人ならば「罪」と称するところの側面を、自分で研究してオープンにする作業にわれわれ接しますと、付き合わされる読み手の好悪は分かれるところですが、まず凡庸でない心掛け、さすが文人、とくらいは評価しておきますでしょう。
 ところが、そうでない一級知識人でナンチャッテ文学の志好がある先生方ときた日には、自分の凡庸な弱点や欠点を世間の認知から守るためにせっかくの文才を浪費しようとなさる。そのセコい自己史修文の営みが、無駄に長ければ長いほど、けっきょく世間様の批評眼にセコい自我が見切られ易くなるのに、それはご当人には弁えの附かぬことですので、近代の図書館には、慎重に煙幕を張りポスターカラーでリタッチしたつまらん履歴書がうずたかく積まれて、後世の誰も愉快にしないのでしょう。
 ある一人が言うことを全部信じようなんていう読者は今の日本にはいない。誰もが「差分ファイル」を聚めようと目を凝らしています。一本調子の長すぎる宣伝からは、その目は逸れてしまいます。

摘録とコメント

▼Z. Brezezinski著“Game Plan”鈴木康雄 tr.1988、原1986
 ※ソ連がイランに攻め込むのではないかと心配されていた時の本。ソ連は西欧を攻撃しても東欧というバッファーゾーンがあるが、イランを攻めれば自国境が乱れる。当時としては、するわけはなかった。
 ※同じ著者の“Power and Principle”は未訳? それはつまらないから?
 リチャード・パイプスは1984の著で、侵略され続けた国が世界最大の面積を持つに至るなどありえぬ、と。
 スターリンはアメリカを怖れて、フィンランド全域占領をしなかった(p.54)。
 ほとんどのアメリカ人は、メキシコ人が歴史的に感じている不満について何も知らないのが一般的だ。
 メキシコとキューバの関係は良好(p.120)。
 キューバとベトナム、東独の間には’80’sに軍事条約あるが、ソ玖間には何の安保条約もない。
 ブレジンスキは、中米全体が戦場になっても第二のベトナムにはなり得ないと見る。
 ソ要人シェルターの数は800~1500ヶ所(p.147)。
 その入居予定者は175000人。
 自然国境なき辺縁での内部分立騒動に対する恐怖がロシア人の独裁を維持するエナジーだ(p.171)。
 軍縮は、第一撃能力にマトを絞った質的なものでなくんばあらず。
 飛行実験全面禁止以外のモニターでは「単にあざむきのインセンティブをソ連に与えるだけのことである」(p.213)。
 1985-7ウォールstジャーナル紙上の宇宙のすみわけ協定案を支持。
 MXを敵の第2撃部署に照準し、一方SDIはMXを守れ(p.222)。※オプションを自縄自縛してどうする? ポ人ブレジンスキはひらめきはあるが、軽い。独人キッシンジャーは重いがねじけた思い込みがある。どちらが日本の脅威だったか。
 旧ABM条約とMADを廃棄して新ABM交渉を始めろ(pp.226-7)。
 エアランドバトルは1960’sトリップワイヤの非核版。近似の戦闘地域観がある(p.240図)。
 ’60’sトリップワイヤのNATOの反撃はあくまで戦術核だった。
 シナ=パキスタン間のシルクロードを復活させろ(p.300)。※その結果、パキは核武装した。
 アフガンにアルジェリア、シリア兵を駐留させてソ連を撤退せしむ(p.304)。
 ミロバン・ジラスは、ソ連はオスマントルコと同じで、崩壊し始めてもなお拡張がやめられない、と(pp.311-2)。
 NATOはこう宣言すべし。中立宣言すれば有事に攻撃せず、と。今日のポーランドは戦前より少数民族すくなく、均質化した(p.316)。
 「上兵は謀を伐つ」を引用(pp.323&337)。※米指導階級にとって『孫子』は珍しいテキストではない。それをわざわざ持参した胡錦濤には特別な意味があるわけ。
 1977のカーター提案のように、米ソサミットを連年行なえば、より中味に芝居気がなくなり、よい。
 歴史健忘症は、アメリカが治療することができない高価な病である(p.337)。
▼R・マクナマラ『世界核戦略論』藤本直 tr.1988、原1986
 第三次中東戦争がはじまるまでホットラインの米端末はペンタゴンにしかなかった。
 ケネディは『8月の砲声』の愛読者。
 1985の在欧の米戦術核。投下爆弾(F-111などから)1075発、203ミリ+155ミリが1660発、パーシングIa用が72発、ランス+オネストジョン用が895発、パーシングII用が108発、LCMが128発、SAM+地雷が870発。=計4808発。※旧来からのF-111の水爆の数と新しいINFの数を比較せよ。段違いに前者が多い。それなのにソ連がINFに猛反対運動した理由は何か。合理的な答えは、この時点までソ連は先制戦術核攻撃から始まる欧州限定の電撃戦争勝利を真剣にプランニングしていたのである。モスクワに届かない戦術核や、特定飛行場に依存する戦域核が何千発あっても、ソ連からの奇襲開戦のインセンティブはなくせなかったのだ。
 核地雷(破壊用核資材=ADM)は山岳などの隘路で使う(p.52)。※これがスーツケース核爆弾。ソ連が崩壊してこれがアングラに流れた場合にあまりにヤバイので米国は155/203mm砲弾用と一緒に率先して廃止し、そのよびかけに、ロシア政府も従った。
 NATO先制核使用反対の先鋒はイギリスの古株軍人たち。マクナマラは1961~2年にこの結論を得た、と(p.58)。
 1985までの統合参謀議長ジョン・ヴェセイ陸軍大将いわく、オガルコフと立場を代わりたいとは思わない。
 1962のときも、米ソは均衡していた。なぜなら生き残った10基のソ連ミサイルでも「数百万のアメリカ国民を死にいたらしめることになるわけです」(pp.72-3)。
 マクナマラは1960’sのモスクワABMはソ連全土に拡大すると判断した。それで議会は米もABM網をつくるべきだと考えた(p.91)。※この議会の判断はなんと正しかったのだろうか。
 1967、ABM制限の話にソが応じぬため、MIRVを始める(p.95)。※対抗不能性を考えなかったので、かくして最悪の米ソ不安定対等に向かったのは歴史が記すとおり。米はMIRVではなく全米ABM網を選択した上でソ連と交渉に臨むべきであったが、コストカットしか頭にないマクナマラが大きく途を誤らせた。そしてその誤りを認めたくないものだからマクナマラは成功したレーガン以降の共和党政権の軍事外交すべてにイチャモンをつけ続けるしかない。最近は老耄度が増し、ルメイが広島原爆に関与していたなどと「フォッグ・オブ・ウォー」(未見)に関連して語っているらしい。
 1970のSALT-I交渉時点ではすでにMIRV化の流れは止め処がなかった(p.108)。
 むかしの原爆は6回実験すればよかったが、今日は100~200回必要(pp.130-1)。
 ルメイSAC司令長官は1954の文書で、米は第一撃を躊躇すな、と。※初期の秀逸な核戦争SF小説の多くがルメイ長官時代に書かれた。
 1960~70’s、モスクワABMに対抗するため多数の弾頭がモスクワに向けられた。
 米海軍は1950’s末、戦略核は464発で十分と計算している(p.200)。
 ターミナルでレーザーを感ずると自爆する信管の可能性(p.253)。※このへん、SDI批判。
 ソ連ミサイルは1弾頭につき10個のダミーを伴ってくる(p.255)。
 自由電子ビームは真贋判定にも使える。
 本物の弾頭が大気圏内を落ち行くと、空気の乱れの航跡が残る。
▼打村広三『アメリカの戦争力』S16
 著者は外務省通商局。
 米は航空機燃料としての高オクタン価ガソリンを1939-10~1940-8の間、10057千バレル生産。
 天然ガスと精製ガスは81オクタンのガソリン8345万ガロン、92オクタンのもの3275百ガロンに潜在的に転化し得る。四エチル鉛などを加えれば100オクタンのハイオクガソリンを60億ガロン生産できよう。
 製鋼力は現時、粗鋼で8415万ネット・トン/年で、1942以降やがて9000万tに達しよう。
 アメリカも近年は平炉による屑鉄からの製鋼法による率が高まりつゝある。1929は78%が銑鉄だったが、’40年には66%になってしまった。
 目下発注の船用には4年間で350万トンの完成鋼(鋼塊換算500万t)が必要で、航空機と戦車用には各々最大50万tを使うとみられている。だが米鉄鋼協会長W.S.タウワーは粗鋼800万N.tが毎年国防用に必要という。
 上に加え、民需用6000万ネットt+輸出1200万tが要るが、屑鉄がストックゼロなので、禁輸したのだ(p.48)。※対日屑鉄禁輸は自分使用=対独戦準備の為であった。
 軍需用高級鋼のみでは1939に3212千ネット・トン。米では平炉が90%なのだが高級鋼や航空機用ステンレスは電気炉が必要である。
 ※ニッケル含有鋼の高級屑鉄を材料にして電気炉で製品にすると最高の機関銃部品がつくれるわけ。
 米語で Strategic Materials といえば、「海外依存の国防資材」のこと。
 生ゴムは、タイヤの他には、防毒面、軌条用裏張り〔キャタピラに張るゴムのこと〕、気球に需要がある。
 87価以上をハイオクとみなし、禁輸中(p.163)。
 透明プラスチックも禁輸リストに載る(p.179)。
▼今里勝雄『軍備と税制の歴史』新紀元社S29
 徳川討伐費は京阪の商人からの強制徴税。
 西南役の赤字は酒税増で賄う。→初の減税運動に。
 海軍拡張のためM20に所得税。世界では英、スイス、イタリアに次ぐ四番目の導入国。それまでは地租のみ。
 M32以降、税収の首位は酒税に。
 M37にタバコを専売化、ならびに税率UP。
 M38塩専売。
 シベリア出兵でまた増税に迫られた。※それで不景気じゃ、政府が不評なわけだ。
 S28-7の河野一郎の追及で、ガリオア、イロア資金のうち10億ドルの使途不明金がある、と。
 マックの「東洋のスイス」とは、米ソどちらにも属さぬ中立国たれとの意味でS24年までこの考えだった(p.262)。※スイスは武装国家だがマック構想は完全非武装だから要はマックはスイスのことも日本の地理歴史も何も知らなかったわけ。
 S26までの駐留費支払いは、5075億9200万円。
▼山口平四郎『港湾の地理』S55
 開通当時のスエズは水深8m。当時はそれでよかった。WWⅠ直前に、各主要港は11m標準となる(p.8)。
 熱帯では風上海岸は全く住むに耐えないので発達しない。
▼岩尾久彌『海運より見たる太平洋諸島』S18
 英は、香港、昭南、ポートモレスビーを前哨三角形としていた。※ポートモレスビーと沖縄間の距離は、昭南←→沖縄間に等しい。
 豪州系のW.R.カーペンター商会はラバウルに、近海航路船を修理する船渠を設立、運営してゐる(p.34)。
 WWⅠ初からWWⅠ後の約7年間に、米は1230万総トン、英は900万総トン、日は230万総トンの船を各々新造した。また1927~30は、第二の建造ラッシュである。
▼綾川武治『我が大陸経営失敗の真相』S10
 青島では三国干渉発起人への怨みがあったが、シベリア出兵には何もなかった(p.655)。※戦略行動自己基準がないために常に外国の言動に振り回される。
 大9の4~5月頃、ハイラルではチェコ兵と日本軍が衝突した。ハイラル事件(pp.678-80)。
▼A・ヒトラー『完訳・わが闘争』平野一郎 tr.S36
 人を説得しうるのは、書かれたことばによるよりも、話されたことばによるもの(pp.116-7)。
 偉大な文筆家より偉大な演説家が世界運動を進める。
 父の蔵書の、普仏戦争の挿絵入り普及書に熱中した。11歳前。
 地理と歴史は優、他は不可、だった。
 15歳でオーストリー風「王朝愛国主義」を捨て、民族的国家主義に。
 歴史は暗記ではなく原因の発見であるべし。本質的ならざるものを忘れること(p.26)。
 12歳からワグネリアン。
 13歳で父卒す。
 結核となる。2年後、母没す。
 ウィーンの美術学校に落ち、建築家を目指す。しかし中学課程欠くので資格なし。
 5年間は、はじめ補助工員、ついで画家となり、空腹の代償にオペラの切符と本を買った。※不遇時代の多読はナポレオンも同じ。
 下vs中層の階級間の断絶がいかに起こるかをスルドく見抜く。今までは下層の実態をしらざりしが、今やその世界を見た。
 オーストリーは極度にウィーンに集約された(p.35)。※だから普墺戦争は簡単にカタがついた。おなじことは普仏戦にもいえる。そこからドイツ参本流の速戦速決戦争哲学が生ずるが、これは初期電撃戦にのみ適用が利き、イギリスやロシアに対しては通用しない。ましていわんや日本がシナやソ連極東領に適用することができようか。唯一適用できたのが、フィリピン(首都をマニラと看做せば)とマレー(首都をシンガポールと看做せば)だと気付き、陸軍は南進にとびついたのだという鳥居民氏説には説得力があろう。
 広い住居にいるなら、少し離れていることによって、とっくに仲なおりすることができるごく小さい対立も、ここでは果しない、いやな争いにまで導くのだ(p.43)。
 1910頃、画家に。
 わたしは若いときからずっと、正しく読むことに努力してきた。それと同時にさいわいにも記憶力や理解力がよかった。
 ついには現実を理論的に基礎づけ、理論を実際で試そうという姿勢をとった(p.49)。
 ユダヤ人は「水好きでな」く、臭かったことが嫌悪を増した(p.68)。
 淫売業への関与に最も憤慨する(pp.70-1)。
 ユダヤ人を憎むことで、非国民労働者を許す気になる(p.74)。
 オーストリア議会現実への絶望(pp.87-8)。
 一体全体、多数の優柔不断の人間にいつか責任を負わすことができるだろうか(p.90)。
 無能官僚の弊害を見抜く(pp.93-4)。※このへんは教育の階級別が希薄な日本ではまずなかったことか。
 大衆はまさしくすべてのすぐれた天才に対して、嫌悪を本能的に感じている(p.98)。※トクヴィルと意見が一致するとは。
 民衆には1人の敵だけを示せ(p.127)。
 ドイツ芸術のメッカたるミュンヘンに往く。1912春。※このバイエルン賛美。ヒトラーはまったくプロイセン型ではない。
 種の劣化を招くので、自主的出産制限には反対(pp.141-2)。※まず多産させ、適者のみが生き残るようにせよとの考え。
 文化的に劣った人種が人口を増やさないようにするため、彼等の耕地を奪わなければならない。生産性向上には限界あり。
 民主主義に従えば、数の多い民族が有利であり、自然暴力に従えば、より野蛮な方が有利だ(p.145)。
 商工貿易より農業自給が健全だ(p.147)。
 WWⅠのヘマは反イギリス政策にあった(p.150)。
 WWⅠ中に、宣伝について考察始める。
 シラーを引用。「汝が生命を賭せざれば、生を得る事なかるべし」。
 国家を形成する内面的な強さは経済とは無縁(p.161)。
 国民は経済のためには死なない。だからイギリスは「小国の自由の為に」といって開戦する。
 経済的国家建設とはユダヤ的寄生者国家だ(p.162)。
 南ア戦争は新聞でむさぼり読み、日露戦争では反スラブから日本を応援(p.167)。
 サラエボ事件おこるやオーストリーを見捨ててバイエルン聯隊に志願。6年間軍服を着る(p.172)。
 感激は一度くだけたら二度とめざめないから、陶酔状態を持続させるための手をうたなければならない。それは美的なものでは無意味(p.176)。
 農民は、知らないものは食べない(p.177)。※馬鈴薯の全欧普及に何百年もかかっている理由のひとつ。
 ある「理念」は、その担い手の最後の一人まで、自国のすぐれた人材を滅損するにもおかまいなく根絶する他ない(p.179)。※???
 社会民主党は、民主主義政党によっては駆逐できない(p.183)。
 戦時宣伝を敵から学んだ(p.184)。
 宣伝はインテリにすべきでなく大衆に対して耳(p.187)。
 全民衆にするときは最低レベルに合わせる。※日本の対米宣伝はこの言葉を学んでいない。
 敵については過大視した宣伝をしないと兵士は上を信じなくなろう(p.189)。
 「戦争責任はドイツにはない」では駄目で、「責任は他国にある」と言わなければならない(p.190)。※よってシナ政府は永久に「責任は日本にある」といい続ける。
 兵士への「啓蒙」工作は現地軍の手によってでなく、本国から来なければならない。反宣伝も。
 バイエルン師団に対する反プロイセン宣伝(p.197)。
 1918に英軍の黄十字ガスに目をやられる。於・イーペルン(pp.208-9)。
 「永久に盲目になりはしないかという恐怖で一瞬絶望しそうになった」(p.211)。
 演説しはじめのヒトラーは早起きで、ねずみにパンを与えて観察していた(p.226)。
 はじめたからにはやめない人間(p.229)。
 梅毒への言及。売笑制反対。早婚をすすめればなくなる、と。不治者は断種する。自己の健康のために闘争せよ(2巻 pp.32-45)。
 WWⅠの海軍は、優秀な小型艦で大型英艦に対抗し得ると考えた。これは防禦主義だ。「最後の勝利は永遠に攻撃の中にのみあり、またありうるはずだからである」(p.68)。※だからMe262は爆撃機にしなければならないのだ。
 北米と南米の差は現地混血の有無にありとする(p.76)。
 日本人は文化創造者でなく支持者にすぎない。西洋との交渉なくなれば、独りでは伸びは止まるだろう(pp.80-1)。※戦中の邦訳版ではカットされていた部分。
 ユダヤ人のどこが嫌いか。滅私奉公の反極的性質だから(p.91)。
 「かれらはフランス語で話しながらも、ユダヤ的に考えており、ドイツ語の話に技巧をこらしていても自分の民族性の本質だけを享楽して生きている」(p.98)。
 女子のユダヤ人は基督教徒とも結婚したが男子はユダヤ教徒としか結婚しない(p.107)。
 ヒトラーにとっての暴力は、演説・宣伝の強制(p.156)。※強制的宣伝としての戦争へ。
 宣伝の「普及には最大の堅忍さをもち、影響の期待には忍耐を持つこと」。色は共産主義者を挑発する赤が基調となる(p.159)。
 民族性は言語の中にはなく、非ゲルマンにドイツ語教える要なし(p.183)。
 ヒトラーの「血」の理論(p.191)。※世界理論ではない。分裂的国家を統一するための内政手段。
 不健康者はこどもを生むな(p.198)。※軍隊に入って鍛えられた者にして理解できる言葉。ただしF1が確率論的に両親より優秀になることに無知。
 米の禁酒法の試みに共感を示す(p.201)。
 「肉体的に丈夫だという確信があると、いかに自己の勇気が助長され、攻撃精神がわいてくるかは、軍隊をみればいちばんよくわかる」(p.206)。
 歴史教育は「偉大な明白な筋がまったく忘れられているのに、若干の日付、生年月日、人名などが記憶に残っているのがふつうである」(p.215)。
 「ローマ史を全体に大きな流れにおいて正しくつかむことは、今日のためばかりでなく、あらゆる時代にとって最良の教師である」(p.217)。→国籍と市民権に差別を設ける構想(p.236)。
 世襲制をとらないカトリックは、それだから民衆と一体である(p.227)。
 エリートによる大衆指揮制を共産主義に学ぶ(p.252)。
 カトリックが非科学的なドグマに固執している強みに学ぶ(p.254)。※アンタがアウグスティヌスを読んでいないことだけはわかった。つまりプラトンもわかってない。
 綱領を、時代精神に同調させるな(p.255)。
 大衆に迎合せず、世論の命令者になる必要(3巻 p.11)。
 おきまりの反論には、すべて準備したレトリックで完全撃破する(p.13)。
 大衆は、ブレストリトウスクがヴェルサイユをもたらしたのだ、と考えさせられていた。ヒトラーはそれを論破しようとした(p.14)。
 著作物では、下層大衆への感化力ゼロだと確信(p.18)。※この摘録だけ読み、オリジナルの邦訳は一生参照しない日本人が千倍以上いるだろうと確信。
 その先例にマルクス主義の集会を挙げる(p.19)。
 政治演説は人間の理性のタガがゆるむ夜8時開始に限る。昼にやるのは阿呆。カトリック教会は夜を演出している(pp.20-1)。
 ロイドジョージは大衆演説を知っていると評価(pp.22-3)。※ドイツ人はアジ演説が得意でなく、そこに共産党とヒトラーの乗ずる余地があった?
 ヒトラーの演説は3hに及ぶ(p.31)。
 赤地白丸黒ハーケンクロイツを制定す(p.43)。
 巨大な会場の方が、妨害者を鎮圧し易い(p.46)。
 突撃隊の前身は、集会場整理隊。ルドルフ・ヘスも一人(pp.52-3)。
 ボクシングと柔道の方が射撃訓練より重要。スポーツをやれ(p.91)。
 10人のパッシブな「支持者」に対して1~2人のポジティブな「党員」がいる(p.125)。
 英の、勇ましくはないが、目的に適った外交政策を讃える。「外交は、一民族が勇ましく滅亡することにではなく、実際に維持されてゆくことに尽力しなければならない。後者に到達する道はしたがってすべて目的に適わしいものであり、それらの道を歩まぬ場合は、義務を忘れた犯罪といわなければならない」(p.160)。
 仏は英に対し、長距離砲、空軍、Subで脅威できる(p.162)。
 仏の欧州覇権政策は根本的に英と対立する(p.163)。
 独の同盟国としては英以外にない。
 だがイタリアもある(p.165)。※どっちなんだー。
 誰が支配しようと仏は独の敵だ。イギリスがドイツの世界強国化を望まないとすれば、フランスはドイツと呼ばれる強国そのものを望まないのである(p.164)。
 英国内にも反ユダヤ派がいる。日英同盟は英の対米カードだ。その同盟を攻撃するのがユダヤ人。ユダヤ人は世界制覇のため日本の滅亡を望む(pp.184-6)。※誰に向けて語った宣伝なのか。
 「それゆえクラウゼヴィッツもかれの『三つの信条』の中で、……」「卑怯な屈服の汚名はけっして消し去ることはできぬ。一民族の血液内のこの毒薬のしずくは子孫に伝えられ、その後の種族の力を奪い、害するだろう」。またこれに反して「血みどろの、名誉ある闘争の結果であれば、この自由の滅亡でさえも民族の再生を保証し、そして、いつか新しい樹木となってしっかりと根を下すような生命の種子である(p.219)。
 「これこそがクラウゼヴィッツの語った『毒薬のしずく』のことである」(p.220)。
 「…クレマンソーの、わたしにとっては平和もまた戦争の継続に過ぎない、という金言は意味を一層深めたのである」(p.224)。
 ドイツ人兵士が前線で蒙ったと同様の目にユダヤ人の民族破壊者を遭わせろ(p.231)。※だからガスですかい。

摘録とコメント。

▼アルヴァ・ミュルダール『正気への道 I II』
 1955以降、スウェーデンの核武装の是非をめぐり論議が頂点に達す。※これはスイスと同じで隣国西ドイツの核武装→独ソ再戦を考えたもの。西独のNPT加盟によって沙汰止みとなった経緯もスイスと一緒。
 1959、スウェーデンの核兵器製造研究費は削減され、1968正式に政策放棄。
 国連は短年月に慣習法を確立できると考えている。cf.1925にBC兵器を禁じようとしたジュネーブ議定書。
 SIPRIが1975に計算したところでは、米の1901~1930’sの軍事費/GNPは1%だった。WWⅠの期間は除く。
 1970に合衆国での鉄とマンガンの使用量中7.5%が軍用だった。
 LAタイムス1974-3-24によれば、ブラウン米空軍参謀長は、米空軍は全員ベトナム・キャリアだがソ連はWWII以後の実戦経験者がいないので、米空軍はソ連空軍より全面的に強いと語る。
 エンサイクロペディア・ブリタニカの1964版23巻は、WWⅠでは死人の50%は民間人だったと。
 銃砲取締りの厳しいスウェーデンで、軍から盗んだ火器による犯罪が多い(p.21)。
 1973の中東戦争で米はNATOに謀ることなく10-24~25の夜中、在欧核戦力をアラートに置いた。このとき米の対イ輸送に給油用基地を提供したのはポルトガルのみ。
 カナダはOAS・米州機構参加をはっきり断った。
 軍縮会議の準備委員会初期、英セシル卿は、Sub、空母、1万トン以上の水上艦の禁止を提案。この三つは「攻撃兵器」だから、と。
 マキシマリスト=最大限要求主義者。
 1974の仏製手榴弾は1発1.8ドル。
 1973のスウェーデンの兵器政策は、あまり高度でないシステムを多数持つこと。
 1975現在スウェーデン政府は、1工場が防衛生産に20%以上没頭しないように契約を分散している。
 1975-12時点で米の在欧核弾頭は7200個。ソの全戦車は1700台(?)、68000人。by NATO外相理事会。
 1946にアトリー内閣はPu分離工場とU235ガス拡散工場建設へ始動。
 ハーグの戦争法規は「ルールズ・オブ・ウォー」。
 AD600頃サラセンの戦争規定は、井戸への毒物混入や森林破壊を禁止(2巻p.91)。
 ワシントン海軍条約に秘密に違反した日本の手口は、Barnet & Falk編“Security in Disarmament”1965の21頁あたりを見よ。
 P.ノエルベーカー“Science and Disarmament”の214頁によると、1945-5当時世界最高速の航空機は640km/時、爆撃機の最長航続距離は1600kmである。
 1971頃のある学者いわく「原子炉からとりだしたどんな純度のプルトニウムからでも核爆発(最低TNTの3乗倍)を起こせる」。
▼五十嵐武士『対日講話と冷戦』
 1947-4-29統合参謀本部は、次の大戦をイデオロギー戦争と見、日本を「極東で唯一イデオロギー上の敵を封じ込め得る国」と位置づけた。
 極東局長代理のペンフィールドらは対日平和条約案を練り、なかには、アメリカへの占領費の支払いのために、個人消費を制限して輸出振興させる、という措置も入っていた(p.73)。
 1945前後の駐ソ・米国大使館員は、ソ連高官へのアクセス権なく、外交はかれらの頭越しに行なわれた。ケナンの、歴史のみに根拠をおくリポートはこうしてできた。
 海軍省は対ソASWから沿海州打撃への任務変換期にあり、横須賀と付帯エアベースを強く欲した。※このとき三宅島にストリップつくっておけばね…。
 政策企画室(国務省の参本)は、少なくとも一世代の政治安定なくば日本に民主化定着せず、と。
 1947の国務省はソ連の直接対日侵略を想定せず(p.89)。
 グルーやバレンタインら日本通は戦前の議会政治の発展を評価していた。つまり総司令部に反対し、民主化は徹底的でなくても十分、とした。
 陸軍省は財閥解体反対したが、マックは急いだ。
 マックは1948-3、ケナンに、日本人は民主主義とキリスト教をうけいれているので赤化の危険なし、と断じた。また、ソ連軍の直接攻撃を可能性低し、とした(p.103)。
 マックは沖縄主基地論を唱えた。その場合、日本本土とフィリピンには基地は不要で、政治的中立すら許すつもりだった(pp.106-7)。
 芦田外相は、米軍撤退の場合、警察力増を要すと主張。
 1947の日本の占領費負担は予算の1/3、税収の半分。
 1936に米に留学した日本人学生は60人前後(p.144)。
 1949にはじまり、フルブライト計画にひきつがれる、ガリオラ留学生計画は、学生のみか官僚も応募でき、親米高級官僚を大量生産した(pp.144-5)。
 マックは極東ソ連軍は限定されており、対日侵攻能力なしと1948判断。
 ケナンはFBI式日本警察を提案、マックは国家地方警察に固執。
 吉田は英式に没入し、社会党の成長による二大政党制を願った(p.153)。
 ウラル以東に増強なく、また物資供給さえできぬ極東ではソ連軍は日本を攻撃できず、又、日本を目標にしていない。逆に日本本土の基地を怖れている……というのがマックの見解。
 日米外交は次第に秘密化し、日本国内に対してはマジック・ミラー化した(p.164)。
 1949-2-6ロイヤル陸軍長官の東京演説。ソ連がアメリカを攻撃するうえで、日本は戦略上重要とはいえない……。これを英ベヴィンは、米の対亜コミットメントの無さを印象させるとして猛攻撃。
 太平洋のスイスたれ、はマックの言い草(p.183)。
 1950-11-30トルーマンは、原爆と日本人義勇兵の使用を示唆、公言。
 朝鮮戦争時、統合参謀本部は、日本に対するソ連の奇襲攻撃を考えた。現実にはスターリンは北鮮の戦況に参っていた。
 吉田、幣原は英の「外交の継続性」や米の「超党派外交」に倣うことにした(p.212)。
▼ハワード、ケナン、ゲイツケル『ヨーロッパの苦悩』
 1945-4-30チャーチルは米軍にプラハ占領を説くが、マーシャル陸軍参謀総長は「私は単なる政治的な目的のために、アメリカ国民の生命の危険を冒すことを最もきらう」と。詳しくはエルマン著『第二次世界大戦のイギリスの歴史』軍事篇・大戦略・第6巻、161頁を見よ。
 駐留地からソ連が撤兵した例はアゼルバイジャンとオーストリーのみである(p.91)。※満州は?
 ソ連は西欧国境から550マイルdisengagementしたところで、12~18時間あればふたたび通り抜けられる。byディーン・アチソン。
▼Maxwell D. Taylor著“Responsibility and Response”入江通雅 tr.S42
 米の任務は、ベトナムでの解放戦争を「高くつき、危険で、しかも失敗に終わる運命にあることを実証する」ことだ、という。
 著者はアイク1959声明ドミノ理論を信じない。
 ポリビウスはB.C.125に「戦争挑発者を絶滅することが戦争の目的ではなく、彼らに彼らのやり方を改めさせるのが戦争の目的である」と書いた。※ポリビウスの邦訳は未だ出ないのか? サボってるなよ、京大グループ!
 テイラーは、北ベトナム軍は日本やドイツと違い退却の自由選択権があるのだから、空爆は有効だと考える(pp.55-6)。
 ハノイを吹っ飛ばすのに反対。なぜならハノイをしてベトコンを抑制せしめるのが上策だからだと(pp.72-4)。
 一拠点にのみ後退して「飛領土」として確保する案にも反対。なんとなくアメリカ的でないから(pp.74-6)。
 訳者いわく、ニクソンがハイフォン封鎖強化を求めているとき、リーガンは「ベトナム戦争は勝つに値する戦争である」と主張。
▼G.H.Hudson“The Far East in World Politcs”木村不二彦 tr.S15、原1939(二版)
 英人による、18世紀から満州事変までの満州史の概括。
 クリミア戦争のとき「海上の支配権を有しなかったロシアは、海路による極東との交通を断たれ、当時太平洋に於けるロシア船舶並びに海軍力の主なる根拠地であったカムチャッカのペトロパウロフスクは、英仏両国の攻撃に脅やかされた」(p.50)。
▼Paul Reynaud著“Le probleme militaire francais”吉松隆一 tr.S17、原1937
 3月7日事件直後にヒトラー語る。余は決意する度毎に、十中の九まで失敗の可能性があったにも拘らず、成功をかち得ることが出来た!
 レイノーいわく、敗戦の原因として歴史に記録されたる失敗は、技術の領域に於けるよりも、政治の領域に於ける方が、遥かに多かったといえる。
 この頃、英の小麦備蓄はようやく17日分(p.9)。
 スターリンは農民に「スターリン牛」の私有を許した。
 この頃、ソ連は世界第二の産金国。
 1870以前、Frossart将軍は速射兵器が攻撃軍に与えた損害を強調、仏は防御主義一色。
 ソンムとヴェルダンでの仏側攻撃に際しては、重砲の事前射により防御側の方が多く死んだ。レイノー「戦争はあらゆる手段を以て行われる限り攻撃に利があると言わなければならぬ」。
 Jemnapes, Wattignies, Fleurus の会戦の頃、仏人口優勢で、2:1で戦ったものだ。
 前大戦当時、アメリカ軍にはフランス製でない飛行機や大砲は一台もなかった。
 1914、ジョフルのいう総動員をまたずに、ランルザックに従いムーズに防御線をつくらせていたら……とレイノーは惜しむ。
 砲火と要塞の力に関しては、日露戦とバルカン戦に学ぶべきだったのに、重砲をつくらなかった(p.50)。
 スペインでは戦車はATの餌食ではないか、との政府筋に駁して、「戦車は、個々に用いるか、集団的に用いるかによって、その効果が無であるか、絶大であるかが決まるのである」。
 スペインの露戦車はT-26、T-28だが、フィアットLTKに圧勝した。
▼金久保通雄『国境』S15
 今では満ソ、満蒙国境5000kmの何処かに毎日平均1件づゝ国境紛争が惹き起こされてゐる。※じっさいには3700km?
 ウスリー江岸のゲペウ監視哨や、砲艇から写した黒竜江岸のソ連兵舎の写真。
 アムールは濁流だが、ウスリーは青味を帯びて美しい。
 ソ連から塩、石油、マッチ、綿布、菓子が、満州から三江省産阿片やコメ、蜂蜜が密貿易されていた(p.4)。
 ソ連の警備網道路は相当発達している。
 綏芬河駅からウスリー鉄道へ通ずる連絡線は軍機の漏洩を恐れて先年ブリュッヘルが国境閉鎖をして以来一度も列車が通ったことがない(p.15)。
 司令トーチカを中心にトーチカは三線陣をなす。土饅頭形のみ。トーチカ間は2~30mで、5~6条のバーブドワイアで結ぶ。
 一世を震駭したリュシコフ大将の脱出してきたところは長嶺子。
 黒龍江にくらべ、松花絵の水は黄褐色に濁っている。
 サザケヴィッチ水道中州に、水上機施設まである(p.31)。
 アルグン沿岸に旅行者がくると対岸ソ連軍はデモ演習をやってみせる(p.38)。
 ツァガンオーラのソ連戦車演習示威で、数両故障直らなかった(pp.49-50)。
 ボイル湖では漁労可能。
 一昨年いらい外蒙は国境地帯での一般人居住を禁じている。
 パオのフェルトが黒いのは取り替えのできぬ貧乏人を示す。
 ソ連は、一定期、無連絡のスパイからの呼び出しには、もう応じない(p.157)。
 沿海州ブリュッヘル町はユダヤ人地区によりレニンスキーと改称。
 ブリュッヘルは政治の立場悪化していたので張鼓峯で狂戦した(p.161)。
 ブリュッヘル失脚後、極東軍は叛乱できぬよう二分され、中央直属になった。
 リュシコフ大将は洋服で脱出してきた(pp.177~)。
 所持品一覧の中に暗号書は挙げられていない。夫人はユダヤ人で、同時にポーランドへ脱出させる手筈とる。
 ※リュシコフはその後、どうなった?
 自白を強制する拷問に、酸素拷問、セルロイド拷問あり、いずれも高熱を与えるものという。なぜ自白させてから処刑するかについては『1984』みたいな理由が書いてある(pp.188-9)。
 ボイル西方ハルハイト山地の蔭だけ冬季の積雪が浅いので唯一の放牧地となり、越境を誘う。→オラホドガ事件。
▼L・ハート『軍拡下のヨーロッパ』
 戦間期の2年間にタイムズ、NYTなどに寄稿したもののよせあつめ。
 第一章の訳が欠。
 執筆時点で3号戦車の存在は未知。
 クラウゼヴィッツ=ナポレオンの時代は機械化が始まったばかりということを無視して後世の人まで「量」を絶対視した(p.22)。
 旧式ドイツ将校は、大部隊を信条として養成されてきたので、数的増大を渇望していた。
 ドイツ師団の操法は敏速と奇襲の要求をむしろ見捨てている(p.28)。
 既にこの頃からソ連最大の軍需根拠地はウラルにあり(p.31)。
 サクス、シャーマンは、機動性を損なわぬために軍隊には大きさの限界があることを発見した。
 18世紀をピークに仏軍事思想は貧困化の一途。思想としても「服従」が要求されたのが19世紀以降の仏。
 英は1935にルイスLMGをチェコ製ブレンに替えた。国内生産開始。
 1936に第一線の馬車をモリス・トラックに代える。
 ロレンスはルイスMGを駱駝に載せ、一人で操作した。
 「…しかし敵軍を撃破する途は、その陣地を突破する方法以外にもある。それは恰も戦争に勝つ途が、戦闘に勝つという方法以外にもあるのと同様である。」 その方法としては「敵軍がその陣地につくのを妨げるとか、策略によって陣地から誘い出すとか、敵陣地からは防御の効かない部分に圧迫を加えて敵軍の全般的戦局を悪化せしめ陣地を孤立せしめる……」(p.90)。
 「「一定地点に真先に到達した百人の機関銃部隊は、少くとも日中においては、遅れて到着した五百人乃至時としては千人もの部隊よりも強力である」ということが近代戦争の公理である、と私は提唱したい。」(p.91)。
 「急速な前進と敏活な機動とによって、脅威に敏感な敵軍が我を忘れて攻めかけて来るような地点を占拠することができるであろう。そうすれば、此の地点を敵軍に反撃させ、更にこれを逆襲するという手で撃破することが可能となる」。
 ハートはこれを「誘導式攻撃」と名づける。
 霧、または人工的な煙幕は、MG防御力を一時的に落とした非常に重要な要素であった(p.132)。1918の独の数度の成功例→289頁。
 ハートは装甲による夜襲を提案(p.134)。
 1903フォッシュ、1883フォンデァゴルツは共に防御力を馬鹿にしていた。
 1914仏は専らその騎兵に偵察の任務を与えたのであるが、この騎兵の大軍は敵軍の出現を少しも発見できなかった。
 軍人の意見は、一度退役すれば直ちに無視されるようになってしまうのだ(p.210)。
 ブルガリア、トルコ、オーストリア戦線では、MGによる阻止は有効でなかった(p.213)。
 「アメリカの内乱の結果、塹壕に入って防禦する一人の歩兵は、三人乃至四人の攻撃者に匹敵する、という計算が標準となるに至った」(p.231)。
 ジョミニは、ナポ戦中、狭い村の中を除き、白兵戦を決して見なかった、といっている(p.234)。
 ハートは、敵の軍隊と全く非接触的に資源や心理を攻撃する「超ゲリラ戦」なるものを予測(p.243)。※シナ人はじつによく学んでいるね。
 欧州大戦に際してもイペリットによる戦死者は比較的少数であった(p.260)。
 過ぐる欧州大戦においては、イペリットはあらゆる毒ガスのうち最も致死率の少かったものであった。犠牲者の死亡率は4%にも満たなかったのだ(p.275)。
 ※こういう論評を真に受けて、シナ戦線で試してみたのか?

摘録とコメント(※)。

▼小磯国昭・武者金吉『航空の現状と将来』S13
 長距離機に弱いエンジンはマッチしない。燃料満載で離昇ができないから。
 関東大震災は150箇所から発火したと仮定すれば、この頃の黄燐焼夷弾は1発5kgくらいなので、将来10トン積みの航空機ができれば1機で東京は丸焼けとなる計算だ(p.40)。※ところで黄燐は毒物なのにこの不発弾は「残置毒ガス」扱いにならない。実害もないためだ。つまり化学剤の長期持続力を分別しないで一括して扱うのは合理的でないのだ。
 武者:「借問す、大和魂を有する者は毒ガスを吸うて斃れざるか、焼夷弾を受けても焼けざるか? ……旅順の攻囲と雖も肉弾のみでは之を陥る事は出来なかったではないか」(p.74)。
▼オットー・レーマン・ルスブェルト『国際軍需工業論』杉田一夫 tr. S10
 独の社会主義者ルーズベルトによる兵器コンツェルン批判の書で、複数国で訳されたと。
 軍需資材の輸出禁止と軍需資材よりの利潤排止を初めて原理化したのは Hugo Grotius(1583-1645)。
 日露戦争中、英の会社は露に対しても武器を供給した。Basil Zaharoffはギリシャ系英人だ。
 仏は石油にアルコールを混ぜている。石油なきヨーロッパ大陸部は無防備である(p.106)。
▼H・J・マッキンダー『デモクラシーの理想と現実』
 ※昔読んだときは感心したが、今メモを見るとほとんど先人のアイディアの「再編集」だ。まあ、それすらロクにできんのが日本人のメモリーだ。
 近代以前の古い時代においては、世界全体がまだ貧困だったために、欲望を捨ててしまうことだけが、一般的に幸福にいたるための唯一の途と考えられていた。
 ビスマルクの1864対デンマーク戦に、バルトと北海を結ぶキール運河開削の意図があった。
 プロイセン人は、ビスマルクを除き、他国民の心を洞察しない。
 ラインラントとバイエルンはカトリック圏。
 フリードリヒ大王の単頭制が1806イエナの敗北と仏によるベルリン占領を結果し、フィヒテは1806~13に独の国家主義・官僚制を促進させる。
 創立されたベルリン大学は、事実上、参謀本部の姉妹校だ。学問の国家手段化だ。
 地図と地理学もベルリン大学で開花したのだ。
 マケドニアによるペロポネソス支配。これがランドパワー勝利の嚆矢だ(p.46)。
 ローマの陸上覇権は、海上パトロールを不要にした。
 北アフリカのローマ領は、沙漠限界に接していたので、間合いが充分とれた。
 英は内陸から攻撃されるおそれのあるペルシャ湾両岸には港湾基地をつくらなかった。駐印陸兵は北西国境に配した。
 1898、マニラで米艦隊に討ち漏らされたスペイン艦隊がドイツ艦隊に頼ろうとしたとき、英艦隊が米側に立って止めさせた。
 紅海には岩礁多く、常に北風あり、航海にはよくない。
 ダーダネルスをランドパワーが制すれば黒海沿岸はランドパワーにとりこまれる(p.123)。※チャーチルがこだわった理由。またスターリンが海軍に予算つけた理由。
 英の対ソ干渉。アルハンゲリスクからドビナ川を溯上、コトラスから鉄道でシベ鉄のヴィヤートカへ。
 プロイセンは北の土地から東へ出た。オーストリア人は、南ドイツから行った人々。
 ボルガ中流にドイツ人大集落あり、そのへんがドイツ語圏の東端(p.149の地図)。
 18~19世紀、ロシア政府は沿バルト・ドイツ系貴族の次・三男を官僚に大量採用。
 1878年は英国の鋼鉄船が大西洋でバラ積み輸送をはじめた頃。輸送革命→国際穀物価格革命。同時期、米大陸でも鉄道建設開始。
 英国の繁栄は、ただ競争者のいない時代に事業をはじめたというだけで、目下のところは企業の採算が成り立っているにすぎぬ。
 人間と称する動物の政治的属性の最初のものは、すなわち飢えである(p.168)。
 マニラで米艦隊を支援したのは南アの市場を守るため。南ア戦争でドイツ海軍の動きを抑えたのはインド市場を守るため。日本を支持してロシアに当たらせたのはシナ市場を得るため。
 ビスマルク後のたったひとりのまともな独宰相は1900~09のフォン・ビューロー。
 イエナで勝ったナポレオンはプロイセン常備軍を42000に制限したが、プロイセンは短期現役の国民軍制を創り出し、爾後世界趨勢に。※米人エマソンはナポレオンを「偉大なビジネスマン」と呼ぶ。
 敗北の思い出は、やがて時とともに消えてゆくものだ。が、何百万という誇り高い人びとの日々の苛立ちはけっしてそういうわけにはいかない(p.187)。
 マッキンダーいわく、18世紀以前の都市間移動の利便が万人に機会の均等を与えていたからヨーロッパはおもしろく発展したのだ。つまり有能な者はそれぞれ牛口となり自己実現できた。※文明も都市も大脳の灰白なのか。リム以外はクローン化する。
 自由放任ではなく、国家は「庭師」でなくばならぬ(p.234)。
 都市や地域や諸国家の個性がなくなり広域が均質化するのは文化の「近親交配」で、文明は衰弱する。※これはシュペングラーからのインスパイア?
 「われわれは戦時中の官僚の横暴な態度を知れば知るほど、彼らがこの国の永久的な主人公になることを望まないだろう」(p.241)。
 ローマの道路網はやっと18世紀になって代替復旧した。
 揚子江、ガンジス、ユーフラテス、ナイルの共通点は、海からの溯航可能性。※ルーマニアとユーゴ国境のダニューブ谷はIRON GATESと呼ばれた。
 辺縁に無数の橋頭堡を持ち、ランドパワーの地上兵力増強努力を強いれば、彼等は艦隊建設に専念できない。※本書がソ連で発禁本だった理由が分かる。
 「その上さらに、復讐心に燃えるドイツの旧世代が若い世代に向かって歴史を歪曲して教える心配がないように、その他もろもろの外科手術を施すことも、また考えられる。しかし……外国人の教師を派遣することは、百害あって一利がない」(1943の稿)。※…って、ロボトミー手術かよ。
 大西洋は“The Midland Ocean”だ。
 インド人やシナ人の生活水準が欧米と均衡すれば自由はやってくる(p.304)。
▼月刊『地理』1987-2月号
 秦→至那→斯那→脂那→支那(仏典漢訳から)。
 北朝鮮は黄海を「朝鮮西海」と呼ぶ。
▼Ferdinand Friedensburg『戦争と地下資源』児玉美雄 tr. S18年
 古代ヨーロッパでは、東アルプスの鉄、北欧の岩塩、スペインの金属鉱が争奪された。
 300年前は宝石と塩、19世紀初頭でも現在利用されるミネラルの大多数は未知だった。
 セメントのように、加工により価値ができるが元来普遍のものは、世界政策の対象にならない。
 ただし水だけは別。イタリーはエチオピアに数千トン分の給水船を出さねばならなかった。また少し前には北欧から氷が輸出されていたものだ。
 1929の世界で、全鉱物生産の価格にして三分の二は燃料であった。また採鉱力の90%は石炭と石油に投じられている。
 ドイツの鉄鉱石には硅酸が多すぎ、輸入が常に必要。仏は良質ボーキサイトで世界支配中。ザールのコークスは粗悪で、ルールのコークスは良質だった。日本炭の悪さは、大陸進出を促した(p.22)。
 コークスつくる際に出るガスは家庭用に普及中。ベンゾールも合成できる。
 石炭→コールタール。タール油はディーゼル燃料になる。副産物のトルオールは火薬に化ける。TNT。
 石炭ピッチ(さいごのカス)はアルミニウム工業に役立つ。※どうして?
 産炭国は米英仏で、世界の四分の三。米だけのシェアは40%なり。ソは1934で世界の8%に達す。※近代化は遅れたが、現代化は早かった。
 米のクラック法はベンジン回収率を上げるもの。
 パイプ輸送は鉄道より安価である(p.38)。
 米、ヴェネズエラ、ソだけで世界の六分の五(約84%)の産油。
 国防経済上の独立のためスウェーデンは機関車を電気化した。※水力豊富なので。
 蒸気タービンは17%の変換効率、ディーゼルのレシプロだと30%、石油の発熱量は石炭の4/3倍だから複合して石油機関は石炭焚きの半分の燃費になる。これは石炭の方が原料として安いにもかかわらず、である。※高速を出さなくても良いならね。
 1929世界全生産額ソは米加に次ぎ3位。日本の2倍以上。
 白金とその仲間、イリジウム、パラジウム、ロデジウム、オスミウムは精錬不要の鉱物で、世界の半分はウラルで出る。
 銀はほとんど他物質の副産物として出るので生産コントロールできず、銀本位制は必ず破綻した(pp.48-9)。
 ドイツはWWⅠ後、マンガンを他の先進国より多く自領に持っていることを発見。※ラインメタルの砲身の秘密……なんてことはない。
 WWⅠ中、銅飢饉の独はアルミを以て代えた。
 マグネシウムはカリ工業廃液から最近とられるようになり、独に豊富。
 前大戦前、現在の1/4だけを数えるに過ぎなかった全世界石油生産の寿命は、数十年と見積もられた。又1920年の新計算に依れば、米国地質学者は全国の石油埋蔵量を約10億tと発表しているが、此の数量は旧式掘削では殆んど16年で尽きる。
 旧ポーランド領ガリシア油田は衰微中である(p.124)。
 1tの鉄は9tの石炭でつくられるので、石炭の輸送問題の方が重視されねばならぬ。輸送費が高すぎるため石炭は自国内で消費されることが多い。
 石油は石炭の平均6倍の価値を有すのみでなく、この輸送が楽なのである。
 米のヘリウムはテキサスのアリロ鉱山から30万t/年出る。費用は水素の10倍。
 独はWWⅠ最後の年に、野2000、重砲400、山砲4300、銃250000、MG1500、砲弾1100万発、火薬類12000t以上製造した。
 連合国側はWWⅠ最後の月に、ベルギー=フランス方面にて50万t消費。
 米人E・C・エッケルは、原料ボイコットによる戦争防止を研究(p.262)。
 この大石油消費の計算から前独司令官ゼークトは、将来戦は少数精鋭でなくばあらずと結論した。
 ドイツ=オーストリーはポのガリシア油田に全面依拠していたが1914秋ロシアにまっさきに占領された。1915夏ロシアは返却に際し全リグ&精油施設を焼き払った。
 1916末、独がルーマニアに入ろうとすると英は技師と軍隊を送ってカルパチア油田を徹底破壊した。いずれも数ヵ月で復旧。
▼正岡猶一『米国膨張論』大3
 著者はM38に小村に随って渡米した。
 昔は鉄道運賃は汽船の3倍だったが、いまもなお2倍以上である。
 排日タカ派海軍少将にローマンというやつがいた。
 日本は日露役で、旅順を距る60哩のイリオト島に貯炭場および修繕所を設けた。
 米西海岸はよい石炭ないので東から運ばねばならない。
 1898露は租借地の遼東半島にダルニー港を開いたが時勢は牛莊を貿易の中心にした。
 日露war後、満州のロシア灯油は米国灯油に駆逐された(p.615)。※海経由の輸出はコスト安。
▼庵崎貞俊『帝国の興亡と石油問題』大9
 序。近時石油問題を論ずるの声漸く高く、既に立法部の議に上り、頗る世の耳目を聳動す。
 国家の存立上石油の重要なる事は既に十余年前より唱えられたる問題。
 WWⅠの結果Subより遅い水上艦は生き残れぬ。BBは25ノット、Cは30ノット以上要する。
 重油1tは石炭の2t以上に相当。容積は石炭の90%で二重底にも貯蔵し得る。
 石炭のように自爆しない。石炭より積み込みは比較にならず楽。
 1919ロイド船名簿によれば重油燃料装置を有する汽船は、米、英、ノルウェー、オランダ、日本の順に多い。
 英駆逐艦スヰフトは一回の重油積載200tで1500~1700浬を航走した。
 米海軍は1867に石油船実験。
 1907以降建造の米駆逐艦×29は石油専焼。
 BBデラウェア、ノースダコタ、フロリダ、ユタ、ワイオミング(1906これに最初に油焼装置)、アーカンソー、テキサス、ニューヨークは、補助燃料として約400tの石油を搭載し全速航走用に当てる。最新BBネヴァダとオクラホマは石油専焼。罐室の長さが減じ、1本の煙突に集中できた。
 英はWWⅠ初めルーマニア、ロシア油に頼っていたがダーダネルス封鎖されてしまい以後米油に頼った。
 WWⅠ中に給油、工作等の特務艦が著増し艦隊は基地を離れた。戦後も米は給油艦を増やし続けている。
 またキーウェスト、グァンタナモ、パールハーバー、サンディエゴ、メーヤーアイランド、ビューゼットサウンド、セントトマス、マニラ、ボルトン、メルビール、ノーフォーク他に貯油タンクあり。
 英に倣い、また対抗するため、英所有貯油場に頼らず周航できるよう各地タンクを増す計画。
 WWⅠで英破壊隊は毒のルーマニア進駐直前、油田を徹底使用不能にした。
 ラングーンに製油所あり。
 「信濃に於ける油田地は下水内郡浅川村と上水内郡富倉村の地域内にあり」(p.124)。※この長野市郊外の浅川上流の油田跡とやらを無職青年時代にホンダN360(軽で四ドア、しかもオートマチック)で探検してみたことがあるのだが、どうしても発見できなかった。誰か「ここが善光寺裏山の油井跡だ」という地点をご存知の方、周辺地形の分かる写真をご投稿くだされば幸いです。
 北樺太に石油の存在を知ったのは1886ロシア人が自噴を発見したとき(p.128)。※だからテディは早く占領せよと勧告し、ロシアはポーツマスであくまで割譲を拒んだのである。そして日本海軍はまったくその価値に気付かず、山縣が提案した占領作戦への協力を渋っている。
 露は北樺太で1904には大油井にヒットしていた(p.130)。
 日本政府は北樺太の石油の重要性に大3(大隈内閣)頃まで気付かず(pp.132-3)。
 大6、海軍省は台湾油田の試掘を日本石油などに委托した。大9の現在、海軍は台湾油田の試掘に最も期待している。
 政友会は燃料問題調査会を有し、大9、政府に建議するところあり。
 平時日本海軍は年23万トンの重油を使用し、戦時八八フリートを動かすとすれば200万tは要る。また陸軍は平時6万バレルの揮発油を使っているが、戦時は340万バレル要るだろう。ところが国内では200万バレルの原油しか出ないのだ。そのうち1割5分が揮発油に精製されている(pp.179-80)。
 現下、日本の給油船はたった5ハイ(最大は『知床』8000トン)にすぎず、2隻が就役直前。他3隻計画あり。
▼国民対米会 ed.『対米国策論集』大13、読売新聞社
 ネルソン「国防の第一線は敵の海岸に在り」。
 米ではいきなり日本海軍がパナマを攻撃するとの想定演習さかん。南米沿岸を北上してくるアプローチを仮定。
 パナマには複数の島上に12インチ、14インチ砲台がある。16インチも計画中。
 今日の一等BBは1万カイリの航続力をもつ。だから戦闘半径は3000くらいだ。よってグァムか比島の根拠地まで出てくる必要がある。
 ハワイからグァムまで10日かかり、ハワイからマニラまで15日かかる。しかし横須賀からならグァムもフィリピンも4日ですむ。
 ワシントン会議でのグァムの「現状」は6インチ砲台少数。但しマニラには14インチ砲以下、相当あった。
 グァムのアプラにはBB4~6隻しか入れない。それで浚渫工事の予定もあった。
 ニブラック提督がグァム根拠地論者である。
 米は1917より太平洋海軍軍港の設備ならびに築城に4億3000万ドル、1917以前の分(パナマ工事含む)も加えると10億ドル以上かけた。しかも計画では更に1億1800万ドルを太平洋沿岸設備につぎこむ。これは大西洋側の2倍以上。その更に三分の一はハワイに投じられる。
 米の四大軍港とはブゼットサウンド(シスコ)、ブレマートン、ニューヨーク、チェサピーク。
 2大前進根拠地は、パナマ運河、ハワイ。
 他に6つの副小根拠地。サンチァゴ、アラスカ、大西洋側4箇所。
 これまでBB用ドックはプゼットサウンドに2つ、パナマにひとつ、ハワイにひとつしかなかった。この脆弱性を克服するためにパールハーハーバーにドック×3造ろうとしている。工場、貯蔵所各種も加え、浚渫も。パール以外のカネオエ、ヒロ港の副港化も考えている。by川島清治郎。
▼N.Golovin『今日の太平洋問題』大12
 版元の大日本文明協会は大隈の手下下僕の集まりか。
 大12-5-1にシンガポール軍港案が英下院を通過した。
 大軍が遠洋渡海した例は、ボーアの英軍とWWⅠの米のみ。
 軍港が軍艦の扶けになるのは500カイリまで。それ以上だと損傷艦は辿りつけない。
 ドライドックは、佐世保2(浮ドック1建造中)、呉2、舞鶴1、横須賀2のみ。
 要港(陸上砲台なく艦隊が自衛しなければならぬ軍港)は、旅順に2、大連、台湾、澎湖、青島に各1あり。
 台湾および澎湖島の防備は既に尽して至らざる所ないから、五国協約の防備制限は戦略上大なる重要味を有しない(pp.181-2)。
 台湾および澎湖島(馬公島?)は駆逐艦とSub用港のみ。
 日本は小笠原、サイパン、ペルー群島アンガー湾の3ヶ所に要港化工事中。2箇所はドイツの手で工事が進められていた。
▼山村喜晴『食糧とエネルギーと軍事』1986
 「総合安全保障」の造語者は野村総研。1977-12のペーパー「国際環境の変化と日本の対応」で。
 このペーバーは、原子力によるエネルギー安保のため、核拡散防止条約にイニシアチヴとれ、と言っていた(p.81)。※佐藤~田中のNPT路線肯定のヨイショ作文か。
 またこのペーパーは、総合安保を、常に有利なものにのりかえてゆく、かけすて保険に見立てた。
 ※自国内陸部に石油の出る国と出ない国との間では対等の相互依存関係は生じ得ない。ヒトラーにはよく分かっていたことだ。
 「日本記者クラブ会報」のS55-5-10~56-4-10のシリーズ「総合安全保障」I~VIIは中味が濃い。
 桃井は、日本人は弘安の役以来陸上で敵兵と戦ったことがないといっている(p.103)。※下関はどうなる。
 通産省鉱山局の1971定義。資源とは、「再生産が不可能な地下資源」。
 経企庁の1982『2000年の日本』の第一章第一節では、危機発生の予知および防止、危機に対する脆弱性の克服、危機管理の三つを載せる。※「危機への便乗」は抜け落ちている。
 野口雄一郎は『世界』’80-1のマトリックスで、武器援助のオプションを外す。
 山村いわく、石油業界の再編成を行い、産油国精製・輸出時代に備えた産業構造にすることが、中期的なエネルギーの安全保障の上で、もっとも急がれることなのだ(pp.158-9)。
 食糧輸入が完全に途絶えた時の予測自給率は82%である。’80年度の農林水産による石油消費は全需要の6.4%だった。
▼A. Ressin著“Une Campagne sur les cotes du Japon”安藤徳器 tr.S5、原1866
 仏はシナにアフリカ歩兵を投入。
 日本の「馬は装蹄していない。遠乗りなどをする場合には藁の靴をはかせて、その紐を蹄の上端に結び付ける」(p.56)。
 生麦の賠償はメキシコのピアストル貨で行なわれた。11万リーブル。
 仏艦は着発弾を発射。
 群衆は好奇心以外に敵意を有せず(p.92)。
 伝統的破壊消防法はまったく効果がない(pp.199-200)。
 伊藤祐亨談:当時の日本の先込め砲は、5~7min毎に1発。
 毛利家老女より土浦老女へあてた書状:「下の関の道へ何か\/鉄砲にてなく魔法にて音なく火を廻し前田と申す村、……焼打に致し申候。」※コングリーヴ焼夷ロケット弾の発射は鹿児島だけでなかったという証言。
 山縣の書:数時間の後には、我が野戦砲の砲身及び車輪等、悉く破損し復た用を為さゞるに至れり。是れは余りに烈しく速射を為したるが故なり。余は陣営の側に屯せる槍隊をして、急進突貫せしめんと欲し命令を下したるも、隊長林半七は已に重傷を負て退き、其他にも傷者頗る多くして遂に行ふを得ず(於・壇之浦~前田)。

摘録とコメント(※)

▼馮承釣『支那南洋交通史』S15
 明代からさかんに「南洋」と言われる。これはマレー半島、スマトラ以西を称した。そしてインド洋のことを明の初期から「西洋」と言った。
 ビルマまでの交通は、元代にいたるまで、陸路。
 漢代以前の南洋交通の史料は無い。漢書地理志で初見する。
 後漢書天竺伝が、インドへの道の最古史料。陸路が2系統あった。
 AD1世紀に雲南~ビルマ道がひらかれた。仏教はこの前後に入る。
 康秦の書に「七つの帆を張った大船」とみえる。
 夏秋には西南の貿易風、冬春には東北の貿易風が吹く。
 唐代の海上交通は、それ以前に比較すれば盛ん。
 兵員の輸送にしきりに船を使ったのは元代。
 世祖が史弼らに南洋を攻めさせたとき、沿岸住民2万人を兵とし千隻に分乗させ、糧1年分を積んだ。島につくと、木を伐って小舟をつくり、河陸並行進撃で占領地を増やした。
 鄭和の遠征は貢服を求めるもの。服すれば位と金を与えた。服さざれば攻伐した。※マダガスカルまでシナの領土というわけか。
▼『支那水利史』
 1597の朝鮮出兵で、登州から兵糧を船で送り、軍庫に貯蔵した。
 海塘……海のつつみ。干拓すること。
▼G・チャイルド『歴史のあけぼの』
 欧州の新石器時代の村。濠、木柵、塀で囲んでいた。
 肥沃な三日月地帯と命名したのはアメリカの近東学者のブレステッド。
 最古の駄獣は東アフリカ原産のロバで、前3000にエジプトで家畜化。
 AD1000頃、水車が発明されるまで、帆が唯一の動力。
 シュメルは両河による新しい洪積沼地だったので、大収穫が可能だった。また、そのような泥からは、フリント、木、銅などは得られない。だから輸入の要があった。
 ジグラトには穀物倉、仕事場が付設されていた。神殿は、荷車、舟を装備した。
 メソポタミアの都市革命は、ほぼその発端からたどれる。ナイル河谷のは、それが頂点に達したのち、はじめて研究が可能に。
 かわいた砂によく死体が保存された。そこでエジプトに不死信仰が生ずる(p.126)。※まわりまわって、キリスト教とイスラム教の「死者そっくり蘇り」説となる。モーゼはそんなもの信じたか?
 ゲルゼ期の終わりになると、あきらかにペルシャ湾から来たと思われる帆船が、上エジプトまで到達している。ナイルにはパピルス舟しかなかった。
▼西嶋定生『東アジア史における国家と農民』
 中江丑吉が、殷周時代は「邑土国家」だと。必ず丘に建てられたから。
 宮崎市定いわく、春秋時代は古代ギリシャと変わらない城郭国家の対立時代。個々の都市国家間の敵意は激しい。これが戦国期に領土国家になり、秦漢で大帝国に。日本は青銅器時代がほとんどなく、いきなり鉄器技術が入ったために、氏族制からいきなり単一王朝に飛躍し、都市国家段階は生じなかったのだと。※これが唯物史観ってやつですかい?
 松本光雄いわく、諸侯の住む邑が國、その分邑が都で、國・都に支配された現住民の邑が鄙と呼ばれた。國・都に住む支配層が「人」、鄙に住む農奴が「民」。この人民関係はB.C.7世紀の春秋中期から崩壊した。
 ※奴隷獲得→開墾収益最大となる時期の戦争を前提とすれば、『孫子』の「全うする」が上策となるわけ。
 宇都宮清吉は、國、都、鄙が邑と総称されていたから「邑制国家」だと。
 『管子』度地篇:「内は之を城となし、城外は之を郭となす」。構造物そのものには、「城墻」の語を用いた。
 或(コク)をかこむ城壁だから「國」と書くのである。
 戦国時代は、城内を攻撃して「城郭を堕つ」ことが主戦術であったことが『墨子』から分かる。
 北魏軍主力は鮮卑系族人を中核とする騎兵。太祖・大宗期には「歩騎○万」との表現多く、騎兵が多い軍制だった。後、しだいに歩兵の比率が高くなる。
▼田名網宏『古代の交通』
 朝鮮の東沿岸の海流に乗ると山陰に達する。
 日本人が集団で遠方に渡航し得るようになったのは弥生以降。
 負嚢者。ふくろかつぎ。古代の貢納物は布ぶくろに入れて運搬されたのである。運脚とも書いた。
 日本の地形から、道は地勢に規定されており、古い道は後世まで永く不変であった。
 律令を可能にしたものは、駅馬、伝馬、幹線交通路である。
 七道のうち、京←→大宰府間は「大路」。あとの東海や東山は中路、北陸、南海は小路。
 971年の記から、東海道の交通事情が、水路や橋の整備に伴って容易となった、とみられる。
 シナでは唐代に、水駅がおおいに発達し、河(黄河)・江(揚子江)・余水(その他の川)の三系を通じて全国旅行できるようになった(p.78)。
 大化2=646の改心詔によって、関塞・せきそこ が置かる。
 706頃、駅(陸路)が廃れ出し、山陽では海路に重点が移る。
 軽貨物の貢はできるだけ陸路。コメなど重貨物はできるかぎり海路。※繊維製品は海水をかぶるとやたら重くなり難破のおそれがあった。
 雑物租の陸送が一般に駄載化されるのは、寛平ごろ。
 人が担ぐばあい、一人の輸送力は、コメ2斗、30kgである。駄載は、雑物60kg、コメなら90kg可能。つまりコメ100石なら馬は160疋の勘定。これは天平11年の記録でも変わらない。
 894の太政官符。官米は船でもってこい。
 東山道は、征夷の道。これのおかげで陸奥や出羽を結ぶ道も通じた。
 宝亀11年の陸奥遠征は、歩兵騎兵あわせて数万で、農民を漸次北方に移民させて、補給Baseを漸進させるという長期大作戦。延暦の遠征規模は実に数十万。
 馬子は最低でも1疋に1人必要で、できれば2名が望ましかった。
▼『井上光貞著作集 第5巻』
 598に高句麗は万余騎で遼西を寇し、隋文帝は、水陸30万を以て高句麗を攻めた。
 太宗は皇極3~4年、騎士6万を陸路遼東へ、呉艘500、募兵4万人を、海路平壌にむかわせ、高句麗に攻め入る。
 高宗は660年、水陸10万の兵を百済に出兵。
 663、錦江を下った水軍と陸軍が白村江で合流し、倭船1000艘とにらみあう。しかし百済は救われなかった。
▼毛沢東『軍事六篇』上下巻、浅川謙次 tr.1968
 人類の大多数と中国人の大多数がおこなう戦争は、疑いもなく正義の戦争であり、人類を救い、中国を救うこのうえもなく光栄な事業であり、全世界の歴史を新しい時代にうつらせるかけ橋である。
 戦略的勝利が戦術的勝利によって決定されるという意見はあやまっている。
 戦争指揮の要は、溺れないことだ(pp.29-30)。※だから水泳するってか?
 遊撃主義には陥らない。戦略では持久しても戦役は速決する。撃破戦ではなく、殲滅戦にもちこむ。戦略方向は常に一方向だけにする。
 既に持っている陣地を守るに徹すること=保守。
 長勺、昆陽、官渡、赤壁……など多くの古戦で、弱者は先に一歩をゆずり、あとからうって出て勝ったではないか。
 エチオピアも、一歩もひかない作戦を採るべきではなかったのだ。
 防御のときも、陣地戦には拠らない(p.105)。
 孤立していず、しかも十分堅固な陣地をもっている敵はみな戦いにくい。※ディエンビエンフーは孤立していた。
 毛のいう殲滅とは、全体は相手にしない。一ブランチを圧倒多数でとりかこみ、その囲んだ敵だけはひとりのこらず消滅させ捕獲するという意味。※囲軍は必ず欠く、を脱却。
 平綏、平漢、津浦、同蒲、正太、滬杭の各線路沿いに遊撃が行なわれていた。
 各遊撃軍はかならず無線装備せよ。
 根拠地をとろうとしない遊撃は、海賊主義的農民戦争だ(p.161)。
 抗日遊撃戦争の根拠地は、だいたい、山岳地帯、平原地帯および河川・湖沼・港湾・河又地帯(水網地帯)の3つの型を出ない。
 ベルギーくらいの小国には広大な地区がないので、遊撃戦争の可能性は皆無。
 日本の戦争機構は鈍重で、行動は緩慢で、その効果は知れています(下 p.16)。
 抗戦を堅持しさえすれば、かならず、ふるい日本を新しい日本に変え、ふるい中国を新しい中国にかえるであろう。
 レーニンは、戦争とは政治の継続だと言った(p.71)。
 政治綱領を暗唱して民衆に聞かせても、そんな暗唱はだれも聴きはしない。
 「消滅」とは肉体的にではなく、武装や抵抗力のこと(pp.76-7)。
 速決戦をおこなうには、一般には駐止中の敵を打つべきではなくて、運動中の敵を打つべきである。なぜなら運動中の敵は無準備だから。待ち伏せが有利だ。
 絶対的な優勢は、戦争の終局にしか生じない。
 優勢であるが準備がないならば、真の優勢ではなく、また「主動性」もない(1938年「持久戦について」)。※日本の独断専行よりもはるかにマシな訳語だ。
 運用の「妙」を毛は「弾力性」とよぶ。反語は「盲動」。
 「形勢」には、「敵の形勢」「わが方の形勢」「地勢」などが含まれる。
 後退するだけで前進しないのは逃走主義。前進するだけで後退しないのは、体当たり主義。
 日本軍の捕虜はきわめてすくなかった(p.111)。
 「日本軍の士気は動揺をおこしはじめ……突撃の勇気は中国兵よりもはるかにおとってきている」(pp.111-2)。
 世の中には、猫と猫が仲よしになることはあっても、猫とねずみが仲よしになることはない。
 河北省東部、チャハル省北部の占領は戦略偵察で、それに十数個Dを出したが、だめなので30個Dまでつぎつぎと小出しに増兵した。
 徐州作戦だけが集中の成功例。あとは集中もなく協同もない作戦ばかり。
 南京占領後の停頓は、兵力が限界を下回ったため(p.115)。
 「兵隊狩り」が行なわれていた(p.126)。
 「中国は、戦争の後期には陣地戦をおこない、日本の占領地にたいして陣地攻撃をおこなうことができます」(1936、スノウに拡声させた宣伝)→実現せず。
 「国民党が正面の正規戦をうけもち、共産党が敵後方の遊撃戦をうけもつ」(1938、「戦争と戦略の問題」)。
 1946に、すくなくとも3倍、できれば6倍の兵力で、まず敵軍の1個旅団あるいは連隊を包囲殲滅せよ、と言っている。※Korean Warでやったこと。
▼焦敏之 ed.『(レーニン)戦争論』大橋国太郎 tr.1951、原1940
 「社会民主党は、……戦争は不可避であることを知っている。しかしこの搾取を絶滅するためには、われわれは戦争なしにはすまされない」「人民民兵は、防衛戦においても攻撃戦においても、高度の軍事的任務をはたすことができるのである」(1905発言)
 アメリカのWWⅠ参戦は太平洋併合のための対日戦準備で、日米戦は不可避だと1929に言った?(p.163)。
 「これではまるで、本質は誰が最初に開始したかということにあり、戦争の原因は何か、戦争の目的は何か、戦争をしている階級は何かということにはないかのようである」「わが党はトルストイ学説や平和主義を拒否して、社会主義者はこの戦争においてこれをブルジョアジーに反対し社会主義をめざすプロレタリアートの国内戦に転化するよう努力すべきであると回答した」(1916執筆)
▼G・ゴーラー“The Americans ── A study in National Character”星新蔵 tr.1977、原1948ロンドン
 WWII中、米兵は日本兵より自軍将校を憎んだ。
 J・P・モルガンが小びとを膝にのせられ、写真にとられた。尊敬や畏敬を剥奪するために米人がよくやる手。※訪米した昭和天皇もコレに近い奇襲をくらった。
 ニューイングランド風清教主義倫理を全米に広めたのは女教師。男の教師なんて陸軍幼年学校にしかいなかった。
 米人は死に親しめない。映画や小説では一人が死ねばすぐ代役が登場させられる。※「大草原の小さな家」は子役が成長するとその同じキャラクターの子役がすぐに登場した。『魁!! 男塾』で雷電や伊達が何度でも死んで生き返るのはもっと凄いが。
 ひじょうに幼い時から子供は、注意深く敏感な大人の聞き手を前におしゃべりすることになれる(p.89)。
 米の学校ではヨーロッパ史は実際にはまったく教えられていない。
 アメリカがまだ大戦に参加していなかった時、海外へ若者を派兵することに反対の意見が述べられて、軍事上の勝利を得た後はできるだけ短時間に若者を復員させることに賛成の意見が述べられた主な理由の一つは、そうでもしなければ二度と来ない彼らの青春の日々がつまらぬことに少しずつ浪費されてしまうだろうということであった(p.126)。
 WWII参加国で米軍だけがホモを軍隊からしめだした。
 「アメリカの知識人が集った場合、たがいに自分はまったく正常な人間なのだということを騒騒しく証明し合うので、ばくだいな時間が浪費されてしまう」(p.134)。※ERの第一クールの第一回で、グリーン医師がホモではないことを視聴者にできるだけ素早く説明するために、どのような無理なシーンが挿入されていたか、想い起こすこと。
 われわれ外国人は、アメリカ人がまったく無意識のうちで行う関連性のないいろいろな発言や行為を関連性があるかのように考えようとする。
 米人は政治の種々の面が相関関係にあるとは考えていない。
 この国では、材料のあるなしよりも、製作する物の理想像や計画が重要である。
 「アメリカの道徳観に従えば、自分よりも力の弱い者に襲いかかるのはまちがっているが、もし弱者の方から襲いかかってくるとか、挑発にのって攻撃してくるなら、全力をあげてその弱者の攻撃に立ち向うのは悪いこととはされていない」(p.177)。
 Poor という形容詞は嫌われ、Underprivileged(めぐまれないひと)に置換される。
 パール・バックの『大地』が、経済的にのし上がるシナ人を書いたことが、米の対支親近感をつよめた(p.239)。
 米人は自国政府を「彼等」といい、「我々の」とは言わない(p.241)。
 南部には新移民が少ない。それで父親はずっと「模範」であり続けられた。さらにテキサスはCivil Warで北軍が入らず、戦前がそっくり残った。
▼黄昭堂「台湾の民族と国家」(『アジアの民族と国家』所収)
 いわゆる高砂族はマレー・ポリネシア系人。
 オランダが台湾本島の一部を支配し、大陸から漢族系移民を招来するまでは、台湾本島には漢人はおらず、澎湖諸島に数千人いただけだった。
 しかも、華南からの新移民も、風浪の高い台湾海峡による制約の結果として男性が多く、そのため原住民との雑婚が起こった。17世紀頃。
 オランダ、スペイン、鄭氏王朝、清国(1683-1895、オランダからだと270年)、日本(50年間)、中華民国が次々と支配した。
 政治的移民は、1661の鄭成功軍(反清復明)と、1940’sの蒋介石軍関係者の2回のみ。
▼山路一善『禅の応用──日露海戦秘録』S16
 著者は秋山真之と同期の元海軍中将。
 海軍では「イノシエチーブ」と言っていた(序p.2)。
 公案をいろいろ紹介。まさに唐人の寝言。
 筆者はM34~35に英国駐在。
 日露戦に先立って海底ケーブル(釜山~京間の陸線含む)切断し、艦隊動静の通報を遅らせた(p.70)。
 東郷の参謀に水雷科がいなかったので、対策遅れ、初瀬、八島を失った、と(p.91)。
 海軍重砲を陸に用いるヒントは、ボーア戦中のレヂースミスの包囲を破った英海軍重砲隊の記事。12珊、12斤、および15珊。
 秋山真之は、兄のドイツ流の陸戦書をよく読んだ。それで海軍用語にもドイツ語が混入した。特に、海大教官となったために(pp.126-7)。
 舷々相摩す、は、秋山が流行らせた。この秋山の作文は、日清役の島村参謀の報告に対比すると、まったく冗長であった。
 著者はワシントン条約で予備となった。

クッキーoffで書き込めなかったぜ!

 ライターの溝口さんの家族がヤクザに後ろから太腿刺されたって?
 狙った箇所といい、全治2週間の深さといい、最初から「とりあえず襲って、おどかしてやりました」というアリバイ犯行ですね。誰に命じられて気の進まぬ実行にまで追い込まれたのかは知りませんが。
 歌舞伎町でナイフを出して喧嘩する外国人が、よく相手の下半身(尻とか太腿)を横から刺すのだと聞いたことがあります。暗黙のルールというか慣習というか、胴を正面から突いたり腹を横から突いたら、それだけで殺人未遂になっちまいますからね。まあこんな流儀が日本のヤクザに真似られるのも時間の問題だったかしれん。
 ところで全国の護身術関係道場のうち、横から尻を狙ってくるナイフにどう対処するのか、考えているところはどのくらいあるんでしょうか? ほとんどないでしょう。
 攻撃方法も防御方法も、日本人より外国人たちの方が、はるかに真剣に研究を進め、先を行っているという気がします。
 犯罪と社会防衛の関係も、情けないが、また同様です。

テスト。

 とうとうFujiのデジカメ買っただよ。 買っただよ!
 シャッター優先にもできるなんて、凄いだよ。 すごいだよ!
 動画が29分も撮れる。ダブルエイト/シングルエイト時代の3分間を想い出して、泣けるだよ。 泣けるだよ!
 POWERスイッチ投入後、思わずOLDカメラのファインダー覗きの習性で、背面液晶モニター画面に目ん玉くっつけたら何も見えず、恥ずかしいだよ。 恥ずかしいだよ!

訂正。

 「七飯山」ではなくて、地元の方は「七飯岳・ななえだけ」と呼ぶことがあるそうです。聞き間違えました。
 しかし28日のUPかなと思っていたら、20日にUPされていたとは……。素早すぎるぜ!

摘録とコメント(※)

▼ハーバード核研究グループ『核兵器との共存』
 1974フォード大統領がSALT-IIをあきらめたのは、もしソ連と合意が成立すると共和党の大統領候補に指名されないおそれがあったから。
 ダレスは、ソ連の西欧電撃戦だけでなく、他の方角に対する小規模侵略に対しても米国は核兵器を使うかもしれないことを暗にほのめかした。
 1957から62年にかけ、米の戦略兵力の拡張は緩慢。弾頭総計は、55年が2000発、62年で4000発である。
 1960にペンタゴンは初めて、SIOP(統合戦略計画)をつくる。すなわち、ICBM、SLBM、爆撃機の調整攻撃マニュアル。
 インストラクションとストラテジーの違いは、後者は、使わないことも含まれる。
 62年マクナマラのアンアーバー/ミシガン演説でカウンターバリュー(対工業力)の伝統が大転換、以後、米の核攻撃戦略はカウンターフォース(対軍隊)に。※カウンターパワー(対権力)の発想が甘ちゃん夢想家の米人には無かったのが共産主義との戦いでは致命的に不利となった。戦争が政治だと理解していないから、無生物を相手にしようとする。
 1960’s初期、flexible response 戦略が米政府により採用され、67にNATO正式ドクトリンとして承認される。
 1961に米は、政府の意見とは独立の「軍備管理・軍縮局」をつくる。
 ピークの年だった1958には、4日に1回の大気圏内核実験があった。63年、部分核停条約。そこで63にもピーク。爾後、核兵器開発は3年間、停滞する。
 60’s後半、B-47の全部とB-52の半分を退役さす。
 1970’sはランチャーもメガトン数も60’sより減り、命中率指向が明確に。
 キューバ後、ソ連は年率3~4%で国防費を増し、60’s後半に劇的に強化。1966のICBM292基が70年には1300基となり、米を抜いた。SLBMは1974まで抜けず。
 ※質的、つまり核ミサイルの信頼性や確実性や即応力の面ではソ連は米国を抜いたことはなく、じつはベトナム戦争末期でも米国がソ連に核戦争で敗北するおそれはまったくなかった。問題は、MADによる抑止を現実として受け入れるか否かの、精神衛生上の価値判断に尽きていた。これを受け入れない、すなわち、万一抑止が破れたときの米国都市民の被害を限りなくゼロにしようと動いたのが、トライデント+GPSという先制カウンターフォース能力の革命と、レーガン大統領のSDI構想の組み合わせだった。
 60’s後半、ソ連ABM、地下壕、SAMは劇的強化。B-52対策も。国家の「耐核性」を獲得す(p.148)。
 1960’s中頃、マクナマラは、軍事予算シーリングの正当化のため、「確証破壊」なる説明を用いるようになるも、SIOPはカウンヌーフォースのまま。つまり、予算上、十全なるカウンターフォース(第一撃のみによる勝利)を実現できなくなっただけ。
 1930に米が、62にソがスパイ衛星を飛ばす。1969SALT開始、72に妥結。衛星で監視できない戦術核は、交渉対象にならず。
 1970から米によるMIRV化はじまる。ABM突破が目的。70年の4000発が、77年の8500発に著増。60’sは全く数が固定だったのに。
 ソは1970’s中頃からMIRV付き新世代ICBM(SS-17~19)をつくり、弾頭数で77に米を抜く。ただしSLBMのMIRV化は70’s後半までできず、ポセイドンによる米優位をゆるす。※けっきょくSLBMでソ連が米国を脅威することはその後もなかった。
 70’s中頃、バックファイア展開。以後の交渉の争点に。
 1970’s初め、シュレジンジャー国防長官は「限定核オプション」を強調。弱さゆえのエスカレーション理論だった。
 SALT-Iの特徴。ABM、中共の核装備を背景に、ソ連は競争を休む必要を感じた。米は爆撃機を対象外とすることに成功。
 米市民はABMを嫌った(p.155)。
 70’s後半、500基のミニットマンIIのうち300基が、出力2倍、精度向上型に更新。
 1980カーターの「リターゲティング」「相殺戦略」「CキューヴドI」「長期核戦争」ドクトリン。シュレジンジャー案に手を加えたもの。
 B-52は、1956~62年にかけ、対ソ大編隊の戦列に並べ終える。
 1977、SS-20の欧州配備。
 デタントのおわり。1970にソ連はアンゴラへキューバ兵を送り込む。フォードはSALT-IIを一年凍結。78、ソ連はエチオピアへキューバ兵を送り込み、カーターの足をすくう。79-9、キューバ駐留ソ連旅団が問題化、SALT-II調印遅れ、3ヶ月後、アフガン侵攻を見る。
 包括的核実験禁止条約交渉は、1982-7にレーガン政権により正式打ち切り(レーガン戦略は81に示された)。
 1962が米核兵器の出力総計のピークだった。
 ソ連のブラックボックス性は、Bomber、ICBMで劣勢の60’s前半には、幻のギャップを信じさせ、大増強しているさなかの60’s後半は、逆に過小評価をさせた(p.172)。
 1962のICBMの平均出力は、米が1Mt、ソ2Mt。1982ではその四分の一。
 WPの戦術核は、危機の際、ソ連から空輸される(p.208)。
 米は1982には6000の核弾頭を欧州の70箇所に貯蔵しており、危機の際には、それを300箇所に分散する計画(p.258)。
 1960’sのソ連ICBMは、目標の1マイル以内には命中できず、5Mt×4発を以てやっと米サイロ1基を破壊できた(pp.267-8)。
 ※つまり7割以上の確実性で敵目標を攻撃したければ同時に4発を集中せねばならない。数千発の弾頭があっても、じっさいに破壊しつくせる目標数はその四分の一以下でしかない。核大国といえども、カウンターフォースを採用する以上は、核弾頭は決してあり余ってはいないのだ。核兵器はいささかも絶対兵器ではない。石原慎太郎世代にはなかなかこれが分からない。
 1960’s後半、米巡航ミサイルがBMに代替さる。
 ICBMサイロの電源は数日間しかもたない。
 米は交渉を通じてソ連のSLBMに対する依存度を高めさせようとした(p.301)。※GPSとコミでないソ連のSLBMはまったく信頼性がなく、かつ西側の圧倒的な対潜作戦力の前に脆弱。だから米としては都合がよいわけ。げんざいロシアはSLBMを事実上、捨てている。
▼倉田英世『核兵器』
 1956-9仏の原発運開。
 1960-2-13仏の初の原爆はプルトニウム型。
 1963、実用原爆の量産態勢。
 1968-8-24水爆実験成功。
 U-238は高速中性子で核分裂を起こし、U-235は低速中性子で核分裂を起こす。高速中性子の数はたくさん得にくいから、U-235がたくさん必要。
 U-238が低速中性子を吸収するとPu-239に化ける。だから、低濃縮ウラン235を核燃料に、ありふれたU-238を壁材に用いた幼稚な原発→最初のプルトニウム原爆、というのが最も楽なコースになる。
 Pu-239も低速中性子で核分裂する。
 核融合は、DやTなど軽い元素の原子をクーロン斥力に逆らってくっつけるために高熱を必要とすることから「熱核反応」とも呼ばれるわけ。
 Dの生産単価はU-235の三百分の一で、出力は1000倍。
 融合反応で飛び出す中性子は、分裂反応から出る中性子よりも3倍も速い。よって、U-238の分裂や、中性子爆弾に使えるわけである。
 3F水爆は、U-238がLiDより安いので最も安価。
 ガス遠心法は、6弗化して気体化したウランを遠心分離し、軸側に集まる軽いU-235を次々とふるいわけて濃度(純度)を高めていく。これはガス拡散法のような、フルスケールの工場運転は必要としない。少しづつ、こっそりと造ることができる。※だからシナは最初の原爆がウラン式だということを米に対して隠すことができたのである。
 原子炉を数週間だけ運転したところですぐ停止させてU-238を取り出すと、核分裂性のPu-239がいちばん多く手に入る。時間をおくと、分裂しないPuの仲間が増えてしまう。※そこで米国が三菱と日立にライセンスを渡している2系統の商業原発は、炉全体をバラさない限りU-238を取り出せない設計になっている。これだと衛星からの監視が容易である。
 使用済み燃料からPu-239を取り出すことを再処理という。U-235は物理的濃縮(遠心もしくは拡散法)しかできず、面倒なのに比し、Puの取り出しは化学的な溶媒抽出でよいため、簡単。
 Pu-239は70%純度(通常発電所から取れる)でも兵器化はできる。
 Dは天然水を遠心分離して得る。Tは原子炉内でLiに中性子を照射して作り出す。
 放射線は光速である。中性子は、その半分~数百m/secである。
 γ線は高密度物で阻止する。中性子は、水素、炭素など低密度物でよく阻止される。
▼高榎Ibid.
 ローレンス・リバモア研のシミュでは、5~20発の中性子爆弾で、ソ連の1コMDを破壊。旧来核では10~40発要した。中性子爆弾の威力は現在の1Ktが最も良い(p.173)。
 トルコ、英、伊が受け入れたIRBMを、ノルウェーとデンマークは拒否(p.177)。
 ダレスは1957-10に「大量報復」をひっこめ、ペリフェラルな限定核戦(キシンジャーに沿うもの)に傾く。
▼ゴールドシュミット『核開発をめぐる国際競争』
 米国が、イランやトルコに対するソ連の進出の意図を未然に封ずることができたのは、核の独占のため。
 ネヴァダ核実験は1951から。はじめは戦術核のために新設された。※満州の中共軍をやっつけるための小型弾頭が多数必要になった。それがたちまち完成したので毛沢東も戦争を諦めた。
 1953にカナダで新ウラン鉱脈が発見され、ベルギー領コンゴ(1960閉鎖)やカナダの初期ウラン山(いずれも寿命尽きかけ)に代わった。
 1950年以来、米英は5000万ポンドを南アに投資してウラン採鉱を振興した。1958~60の最盛期には、年間に投資額に等しい売り上げ。これはgold収益の四分の一に相当した。
 ベルギーから昔買ってあったウラン10トンと、ノルウェーから供給された重水、数トンで、フランス最初の3基の実験重水炉ができた(p.153)。
 英仏採用の天然ウラン型動力炉は、プルトニウム生産炉から発達したものである。
 他方、米ソの濃縮ウラン型動力炉は、原潜エンジンから発達した。
 トリウムは、インド、ブラジル、マダガスカルに豊富にある。
 1957-12-16、スプートニク打ち上げ後の初のNATO首脳会議(於パリ)で、米国は、ミサイル発射基地の設置を受諾する同盟国に対しては、核爆弾を米国の管理の下に置く中距離弾道弾の供与を提案した(p.202)。
 英国が戦時中に支出した資金は、20億ドルに及ぶ米国の投資の約百分の一に過ぎなかった(p.74)。
 日本政府から在モスクワ大使館あての電報の件は、ポツダム会談が始まる前に、ワシントンには知られていた。この電報の内容は……天皇制の維持に対する保証を正式に宣言することによって……日本を即時降伏させることができると……数ヵ月来説得に努めていた国務省の一部の説の正しさを裏付けるものであった(p.94)。
 1944年、ボストンのある地質学の教授が、20年も昔の南アフリカの文献中に、トランスヴァールの金鉱石の中にウラニウムの存在を示すものがあることに気がつき……その結果、幾つかの鉱物標本は、微量のウラニウムを含有していることが発見された(p.119)。
 戦後、たいした費用をかけないでウラニウムと金を同時に分離する新しい化学的処理法が完成するに及んで、この発見はさらに重要性を帯びたのである。
 プルトニウム生産炉で1947年、照射により黒鉛が老化し、機械的なひずみが生じたので修理したが、1948まで正常運転できなかった(pp.119-20)。※チェルノブイリもこれが疑われた。
 カナダは、ウラニウムや、重水炉の使用済燃料棒を米国の再処理工場におくって抽出されたプルトニウムを米国に売却し、米国の核軍備に直接貢献する立場にある(p.121)。
▼ヴァルター・マルムステン・シェリング『戦争哲学』S17、原1939
 ※モラルを道徳と訳しているので話がおかしいところがある。またruleを何でも「法則」と訳しているのではないかと疑われる節もある。
 カントは「判断力批判」第28章で、戦争は一民族の考え方を高める、と。
 ヘーゲルは戦争についてはただ「法律哲学」324節で触れたのみ。
 カルル・リンネバッハ:「我々は一つの命題に対して反対の命題──然もそれは別な箇所で言われている場合が多い──を探し出す時にのみ、クラウゼヴィッツを理解することが出来る」(第14版索引の序文)。
 シャルンホルストはシュタインの社会改革をプロシア軍制改革のベースと見た(p.303)。
 デルブリュックは『戦術の歴史』の中で、14世紀はじめの火器が騎士をおわらせたのではなく、15世紀末の農民槍兵こそがその原因と主張。
 ゼークトは少数精兵主義。そして、同じ立場の「イギリスの軍事著述家」がある、と(p.315)。
 デルブリュックは、クセルクセスは百万の兵など率いてなかった、と疑う(p.358)。※明治期の日本の参本が編んだ日本古代~近世の戦史が非実証的な出来なのに比し、その手本とされたデルブリュックの欧州古代戦史は、このような疑問のオンパレードである。ただし、現代の常識から過去を安易に断定するというトルストイ氏流だが……。
 pp.407-12、435-6、445-6、465-6が、国会図書館の本では欠損。※おそらく共産主義等に関する陸軍省の検閲の結果。
▼『入営者必携 模範兵講習録 第4号』日本国防協会、S5
 陣地戦で突撃すると景色が同じなので必ず迷子になる。WWⅠでは磁石が必携だった。そこで俘虜が多かったのは欧州兵が弱いわけではない。
 空砲にモノを装填して発したもの→陸軍刑法の「違令の罪」。
 陸軍懲罰令。「免官は其官を免じて一等卒となし、降等は一階級を下す」。
 重営倉は、まともな飯と寝具が三日に一度。軽営倉はそうではない。
 教化卒は、兵器はもたせられず、外出もできない。
 諸令。特別大演習はD対抗。特種演習は、特別陣地攻防演習が主。
 金鵄勲章は軍人のみ。
▼滝沢正勝 ed.『入営準備 模範兵講習録』第2号、S5
 朝鮮、台湾、関東軍の三司令官は、天皇に直隷している。
 「陸軍教化隊」は姫路10Dの管轄。
 冬は6:30AM、夏は5:00AM起床。
 三八式歩兵銃の表尺鈑は400~2400米。
 軽機は左上方にタマが偏り易い(p.66)。※11年式のこと。
 ひとさし指をゆるめると、LMGは故障おこす。
 肉眼でパイロットの帽子が見えたら、高度200m。
 「間の外」から撃突する剣術。
 騎兵の「なみあし」は100m/分、伸暢駈歩[しんちょうかけあし]は420m/分。それ以上を襲歩という。
 日露役の沙河会戦で滝原三郎少将は、砲は前進するより長射程であることが有利だと痛感した。
 太田道灌は、浜辺の千鳥の鳴き声が次第に遠くなるのを聞いて潮の干いたのを察知した。陣中勤務では次のことを心得よ。
 埃の低く濃く起きているのは歩兵前進。
 埃の高く薄く起きているのは騎兵前進。
 埃の高く濃く断絶するのは砲兵前進。
 虫の声やんだら潜行兵。
 敵国住民が傲慢で勢い込んでいるのは近くに大敵兵あり。逆ならば敵兵少なし。
 飛行機工場勤務兵は自由が多く、安全なので、だらける。
 騎兵砲兵用の馬ははじめから軍馬補充部で育てたものだが、輜重の馬は壮馬を購買するので、御し難い。
▼大井成元・口述『メッケル将軍の思出』S14-5月、軍事史学会
 桂はパリに自費留学しようと出かけたが、ドイツが包囲中のため、ベルリン留学に変更した。
 大山は同じ船でフランスに調査派遣させられたが、両軍の士官を見比べて、仏側が恥なくたるんでいるのをみて独に傾いた。
 陸大以外の要職者も参謀旅行に参加させた。
 将来の独仏戦について、M26頃メッケルは、プロイセン陸大教頭として次のように講義した。とかく指揮官は敵の築城に吸引されがちだが、それは少数で監視せしめ、主力はパリを目指すべきである、と。それでそのための陣地線一点突破がさかんに研究された(pp.34-5)。
 「要するに将来の戦術は機動にあり」(p.35)。
▼嘉納吉彦『日本航空燃料史』1956
 ※資料として一級である。
 S6の上海事変では、30%混合することにされていたベンゾールがストックなく、海軍機は苦しんだ。
 そこで代りに四エチル鉛を使用開始。ベンゾール同様、これもS7に米から輸入。 
 S7に海軍は佐世保、横須賀にベンゾール貯槽を急増設。※まだ霞ヶ浦にしか航空機がない頃。
 初のオクタン価測定機材も米よりS8に輸入。
 当時、米の最高オクタンは87だった。
 北樺太オハ原油は、潜水艦用の重油にはなったが、航空用には年間1200キロリッターしかならぬことが分かった(p.14)。
 しかし中支渡洋中攻用にはオハ加鉛(74→92オクタン)使用オイルも特製。当時、米は100を輸出中。
 水噴射はアンチノック剤代わりに使える。重クロム酸カリ0.3%混入で防錆完璧となり、メタノール50%混合で不凍となる。噴射は高ブースト時のみ、燃料よりやや少ない量、行なう。
 この装置のために噴射式気筒をS18から造らねばならなかった。
 S19には全エンジンの三分の一が噴射式となる。
 燃焼のend-gasをかきまわす等して冷却すれば、「機械的に」オクタン価を高めることができる。
 揮発油の燃焼には3.5倍の酸素を要するが、アルコールは2倍強で済む。酸素消費量あたりの発熱量は、アルコールが上なのだ(p.123)。
▼白樺会『北樺太に石油を求めて』S58
 大15~S18まで、ピーク時には内地と同量、31万トン/年の原油を海軍に納入した。しかし大14で自主採油はなくなった。
 油田はロシア人が自噴しているのを早々と発見しており、1885にはその開発を考えていた。
 ちなみに千島・樺太交換条約は1875である。
 日本が北樺太に油田があるという事実を承知したのは、迂闊千万にも1905に陸海軍が北樺太を占領した際のこと。英ではとうからこの油田に注目していた。※テディが樺太占領を日本に勧めた理由も、とうぜん、これであったろう。
 ニコライエフスクの騒ぎの波は北樺太にも及んだ。日本の会社は一時全員、南に避難した(p.10)。
 利権回復後、ソ連はこの油をすべて極東で消費したようだ。
▼榎本隆一郎『回想八十年』S51、原書房
 米と違い採油量の少ない日本では航空ガソリンは分溜だけでは量があつまらず、イソオクタン(メタン原料の航空燃料)の合成をしなければならなかった(p.135)。
 水からガソリンをつくる怪人のエピソード(pp.136-7)。
 関東軍は満州事変後のS7年6月頃、燃料(石炭・石油)、鉄鉱石、アルミニウム原鉱石の三部門の調査を企画した。
 石油は内蒙ジャライノールがかねてから有望とれさていた。※だから田中隆吉?
 満州での試掘は失敗。石炭と油頁岩のみ有望と判断された(p.142)。
 ※じつは北支~満州の油田はシナ人とアメリカの石油会社が合同で綿密な調査をすすめており、石油がどこにたくさん出るかもほぼ判明したのだが、それを日本に知られればすぐに占領されてしまうので、シナ大陸に石油はまったく出ないという偽情報を広めて、米資本は一時撤退したのである。これを日本の敗戦後に中共が占領する。
▼成田精太『ソ連國力の解剖』S24
 モスクワ炭田の1940採炭実績は1300万トンだが工業用に不適。
 WWII中にモスクワから210工場を移転した。
 戦時中に沿ヴォルガ工業地帯が台頭。ウラル=沿ボルガ油田の1938生産高は130万トン。戦中に500万トンに達したかも。1941末クィブィシェフ遷都。
 ウラルでWWII中に全武器の4割を造った。
 コーカサス油田は1945に1100万トンと産油半減。1937には2100万トン。
 グローズヌイ&マイコップ油田は、占領、破壊、移転で壊滅。
 WWII初期ドイツの石油消費量は1000万トンで、ソ連よりずっと少なかった。
 ウラルの軍需生産はWWII中に6.6倍に。
 WWII英米の対独空爆は1500km以上飛ぶことはなく、1200~1300kmだった。
 ミンスク=バラノウィチ鉄道は最もパルチザンにやられた。ヴァルダイ高地からレニークラヴィッツじゃなかったレニングラド辺の湿地と、ピンスク~キエフ湿地は、春季泥濘化し、大軍移動困難。
 6-22は東部の雪溶けすぎの最大限早い時期。ヒトラーの侵攻開始予定日。
 例年ソ連工業は1~3月に鉄道フリクションのため生産下落、4~6月に回復する。
 1940のイラン縦貫鉄道は、バンダル・シャプール~テヘラン~バンダル・シャー(カスピ沿港)まで1394km単線で、機関車×109両、貨車×1350両だった。トルコからも単線。
 ヴォズネセンスキーによると、戦時、春蒔の労量へらすため秋蒔作物が増加された。
 戦中、英は在外資産売って財政賄ったが、ソ連にはシナ朝鮮の鉄路と東欧にしか在外資産なし。
 1939、人口密度はウクライナが一番高い。
 医員は1940でも76%が女。42年は83%だった。
 戦後ドンバス炭鉱の復興に7年かかった。食糧作物に変えてしまった綿畑復旧も困難。
 WWIIウラルでは兵器に必要な圧延鋼に傾斜。
 帝政時代、火力発電は液体燃料とドンバス炭使用。
 1937ごろ100気圧ボイラー設置。
 1949末のTD54型ディーゼルトラクター以前のトラクターの大部分は石油(ガソリン?軽油?灯油?)で、これを重油(軽油?)に替えて30%燃料節約と。
 ソ連では軍人の衣食は軍事費ではなく個人消費に勘定(p.309)。
 兵器バイヤーは政府なので価格を上げずに、経営を補助金で維持させる方針が、1949からはメーカー採算を強化する方向に変わり、兵器が値上がりした。1949-3-10ズヴェーレフ財務相。
 1948末までの兵器買い付け値は1939のまんま。1946末に軍人サラリー上げる。

摘録とコメント

▼『都市不燃化運動史』
 1657、明暦振袖火事後、植溜(緑樹帯)をおき、神社仏閣を郊外に移した。耐火都市計画。
 享保以降、町火消が町方、定火消が武家地、大名火消が江戸城を担当。
 特定地域では三年以内の土蔵造り化を命ず。
 失火後のコンクリートはアルカリを失い、中~酸性化して鉄筋を錆びさす。
▼本田喜久夫『戦争と音楽』S18
 WWII中のレコード各社の廃盤指導(pp.278-80)。
 星条旗よ永遠なれ、ワシントンポストは廃盤。蛍の光、庭の千草(ラストローズオブサマスー)は残る(pp.281-2)。
 カイゼルは無類の軍楽家。
 ビスマルクとワグナーは同世代人。
▼立花次郎『戦争と交通』S18
 S17頃に内容の無い本が多く出たのは、国民のインフレ気味の財布を狙った(p.151)。
 S17頃、少数の在独日本人がソ連経由で帰朝。
 戦争中も日本では温泉旅行が盛ん(p.155)。
 大間から鹿児島まで2200kmの「新幹線」構想あり。
 WWII中、独の大型船はバルチック海のみ立ち寄り、英国対岸は避けた。
 独は日本内地の5倍の鉄道密度を誇る。
 ベルリン=ウクライナ間200km余の複々線計画あり。
 ソ連はボルガの水運が×になるや、中央アジア鉄道を通じて単線5000kmに年間1500万t余の石油迂廻輸送を敢行した。50t油槽車を50両牽引する大貨物列車が延々5000kmの線路に間断なく走る。
 貨車はどうしても深夜に操車場に集まり、しかも照明もせざるを得ないため、空襲の好目標になる。
 ドイツは戦争中は“闇”食料がなくなる国だ(p.149)。※大嘘。
▼M・シャクリー『古代社会を復元する』
 archaeological visibility=考古学的な発見され易さ。 
 マヤの運河は、物資の建設資材を運ぶためのハイウエー。
 豹の骨と人骨が一箇所に出た。これはむしろヒト科が捕食されていたのである(p.42)。
 1930’s、二人の極地探検家が、1年間、肉食だけで生き延びられることを実証した。※植村も実践した生肉食だろう。エスキモーに倣ったもの。
 ローマ兵は実は多量の肉を摂っていた(p.118)。
 14世紀、小麦が主食となる迄は、ライ麦の麦角中毒多し。
 レプラと結核は免疫が互換的に働く(p.139)。
 ドニェープル近辺のマンモス狩猟民は、ネアンデルタールより人口密度高かった。
 10~15世紀ノブゴロドのコーデュロイ式街路。全長にわたって丸太を横に敷き並べる。起原はB.C.4000にまで溯る(於・オランダと西イングランド)。
 斧で伐ると木の端繊維を押しつぶすので腐るのが遅くなる。
 松と菩提樹は保存されやすく、オークは保存されない。
▼西川吉光『現代安全保障政策論』
 ラテン語se-cura「ある状態から自由になる」→security
 Wolfersは1962に、不安の不在が安全保障だとした。それは他者をコントロールする力でもある。
 包囲恐怖症=シージメンタリティ。
 レイモン・アロンはビアードやH・モーゲンソーに逆らって「国益」の存在を否定する。ちなみに「我が国には永久的な敵味方はいない。永久の利益のみ」と言ったのはパーマストン。
 公共善 Public good の達成について、プラトンは高学歴少数者統治によれ、といい、アリストテレスは、少数意見も保護した多数人民の合議でこそ、といった。
 フィレンツェのロレンツォ・ディ・メジチはベネチアに対抗してミラノ、ナポリと同盟を結び「勢力均衡政策の父」と呼ばれる。
 16世紀にはロアン、18世紀にはフェヌロン、バッテルが勢力均衡を説く。
 AJPテイラー「大国の勢力均衡は小国の利益」。
 スイスはWWII中、ドイツに大量輸出(p.80)。
 WWⅠ中、連合軍はドイツに6559万枚の宣伝ビラを撒いた(p.116)。
 ブートゥールは人口の増大を戦争原因とみる。
▼ジョン・オルセン『ウェストポイント物語』
 ウェストポイントの新入生には次の四語しか許されない。「Yes, sir」「No, sir」「I don’t know, sir」「No excuse, sir」。
 アナポリスは眼鏡者は採らない。水かぶると何も見えないので(p.62)。※これは戦前江田島も同じだったが、今はどうだか……。 
 ウェストポイントの外語は、ドイツ語(p.92)。
 レスリング、ボクシングなど各種スポーツを3ヶ月交替でひととおり習得。
 学科の「軍事科学」では、地図解読法などを。
 サバイバルスイミング。作業服2ポンド、ブーツ8ポンド、背嚢2ポンド、煉瓦10ポンド、M-14=11ポンド、計33ポンドを身につけ、深さ15ftのプールを75ft、銃を濡らさずに泳ぎ渡る。
 コロラドスプリングス(空軍士官学校)とアナポリスでは、もみあげや口髭の規制がなくなっている(p.254)。
▼陸海軍人民委員部『1929制定 赤軍偽装教令』陸軍航空本部&樋山光四郎tr. S8
 第十一:「積極的の偽装とは一定の計画の下に敵をして連続せる観念を辿り遂に我が企望する如き誤りたる判断に陥らしむるに在り 換言すれば偽装は一般の戦術上の方針に依り常に一貫せる主義の下に行われざるべからず 単に個々の目標を隠匿し或は偽工事を為すのみを以ては偽装と称するを得ず」
 第七十一:「規則正しき輪郭を有するもの、規則正しきか或は対称的配置を有する物体は飛行機に依り発見せらる」
 第百十七:「敵の空中偵察に対する偽装作業を為すに方りては開始前及作業中時々該地方の空中写真を撮映し且つ偽装専門家をして飛行機より肉眼を以て点検せしむるを可とす」
 第四百二十六:「作業を秘匿するには材料の運搬及配置を蔭蔽し夜間、濃霧時を選び遮蔽位置或は特に設けたる掩蓋下に於て作業を実施し且 偽装軍紀を厳守するを要す」
 ※キューバの核弾頭が全部発見されなかったのは当然だ。というか、そもそもバレたのが異常。部下軍人たちがフルシチョフに反発して臍を曲げたのだろう。
▼フラー『制限戦争指導論』
 1915初期、西部アルトア・ルースでは、砲兵の射撃によって敵の第一線壕を占領できた。ナポレオンも、戦争は砲兵の運用次第と言っている(pp.245-6)。
 補給車の推進は砲撃の弾孔のため困難で、歩兵に追随できず。※平時にいくら道路網が整備されていても、有事となればこうなる。
 イペリット系黄十字(マスタード)は致死性でなく、暴露後4~12時間で火傷発生(pp.257-8)。
 ※戦後の別資料で補う。マスタードの効果は、最短でも4時間たたないと出ない。そして目は数カ月ダメになる。イペリットは白血球すら壊すが、同時に、抗ガン剤としての用途も発見されている。WWIの毒ガスには、鳥が最も弱く、ネズミすら死に、馬もやられるが、犬は平気であった。塩素ガスはすごい濃度で、小火器などは錆びて動かなくなった。だからマグネシウムが良いのか?
 1918-3~4月、アラス=ラフェール間に独軍がガス攻勢。アルマンティエールス(仏白国境の町)はマスタードガス充満し、住民は下水道づたいに逃げた。
 WWⅠ中の米軍損害258338人中、70752人がガス。つまり27.4%だ。しかし全損害中46419が死亡であり、うちガスによるものは1400人だから、ガスによる戦死比率は2%だった。
 フラーいわく、WWⅠに使用された最も人道的兵器はガスだった。
 ナポレオンは、ロシア農奴、ウクライナ人、100日天下中の仏に対しても、まったく宣伝は慎んだ。
 ビスマルクも1871パリ革命政府を決して支援しなかった。
 ドイツの残虐を宣伝した詳細なリストは、“Falsehood in War Time”by Arthur Ponsonby, 1936を読め。
 ドイツにはWWⅠ中、宣伝省がなかった。
 1917末、ボルシェビキの宣伝はその全力をもってドイツ軍隊に向けられた。
 ブレスト・リトウスクの独ソ和平条約で、ロシアは人口の26%、農地の27%、石炭の四分の三を失った。
 1920のソ=ポ戦争で、もしトハチェフスキーが勝っていたらドイツは占領され、ベルサイユ体制は吹っ飛び、世界共産革命戦争に発展していた(pp.290-1)。
 革命後、労働者は働かなくなった。それで農民も交換したいものがなくなり、食い扶持分しか耕作しなくなった。これが1920の飢餓の因だと。→NEPの必然。
 レーニンはクラウゼヴィッツについて「その基本的思想は現在では、あらゆる思索家の反駁を許す余地を残さないものとなっている」と。
 レーニン時代には、ボルシェビキ党の多くがユダヤ人であった(p.346)。
 フラーは目撃した。戦車が軍の指揮頭脳をパニックに陥れた。このパニックを起してやれる兵種が他にあるならば、それでも良いのだ。
 フラーはダリウスに対するアレクサンドロスの直接アプローチがペルシャ軍崩壊に結びついた、と見る(p.361)。
 フラーの戦車による攻撃目標は、あくまで各級司令部で、そこに向け不意に驀進させるべし、と。
 1939の独陸軍の優位は数的なもので、質的優位ではなかった(p.363)。
 WWII開戦時の仏兵力は独の半分しかなく、マジノ防御は致し方なかった。
 質・量ともに勝っていた仏戦車がベルギー国境に集められていたら……(p.365)。
 トハチェフスキーは1937-5にフラーに反発。戦車部隊に対しても砲兵の支援は必要だと。
 資質を有する司令官は、善悪いずれのニュースに接しようと興奮したり驚嘆しない。資質のない人は、自らの体質から、ありもしない状況をつくりあげてしまう。──ナポレオン。
 1940-5-18、チャーチルは「共産主義者とファシストを抑留すべきである」と軍に訓令、裁判もなしに、ドイツ系ユダヤ人など多数がアスコットなどで抑留された(pp.388-9)。※マン島にも収容所ができた筈。
 1940の独軍の対仏電撃戦中、独のラジオ局はフランス語放送を間断なく行い、民衆パニックを演出した。
 ライトリンゲルいわく、もしドイツ人が、1918のウィルソン14条のようなものをもってロシアに侵攻していたら、ロシアはちょうどドイツが14条で分裂したと同じようになったに違いない。
 チャーチルにとって対ソ援助、対独非妥協は、自分の生涯を単純化するためでしかなかった(p.396)。※フラーはファシズム運動家。
 1940-9-3いらい、英爆撃機隊は国防省直轄とされ、チャーチルの私有部隊となった(pp.420-1)。※これをマネしたのがFDRの原爆運用。
▼ハンス・モーゲンソー『国際政治学』第3版・第8章「国力の本質」
 インドは石炭と鉄の宝庫としてアメリカとソ連の次にくる。
 1939にはわずか300万、総人口の1%以下のインド人が工業に就業していた。
 大きな人口がないと近代戦に必要な工業設備を建設したり動かせない。
 米人口は、1824からの自由移民、とりわけ1874~1924の移民に負う。
 WWⅠ直前、独は、ロシアの人口増はこのままでは我に不利と判断した(pp.167-8)。
 1870には独も仏も米人口より多し。しかし1940の米人口は1億(?)、仏独計は3100万。
 19世紀末、大英帝国は40000万人、つまり世界人口の四分の一。1946には55000万人、うちインドが41000万。インドを失えば、英も終わる。
▼増田抱村『国家と人口学説』S17
 英は中世では仏と同じ農業国。穀類を輸出し、人口は仏より少。19世紀に至り、工業発展し、食糧輸入で仏の食糧輸入額を凌駕。
 15~18世紀中葉は、ドイツ人(中心はシュワーベンやバイエルンの高地族)が最も増えた。ギボンの説明によると、ラテン民族より遅れて文明開化したので性的に堕落しておらず婦女をあくまで家庭内にとどめて増殖力を高く保ったからだと。
 東独移民とともにペストが流行し、15世紀以前の300年は人口は微増。
 1500生まれのフォン・ヴェルトは、ゲルマンとはゲルミノ(盛んに繁殖する)が語源だと主張。
 百年戦争で農村が掠奪されると流民が都市に殺到し開戦9年後から都市型疫病が蔓延。 ここから大復興したルイ14世の大臣コルベールが、人口は国力の手段であり、また国政の目標も要するに人口を増やすことだと言ったのはけだしなりゆき。
 マキャベリは、スパルタやアテネの衰退は人口制限にあるとした。スパルタは遺産を均等配分していた。ローマ人はギリシャ人と違い、人口が増加しても国内は乱れないと考えた。
 ※戦時中のコンセンサス。人口制限は個人のためにはなる。が、国家のために悪い。
▼美濃口時次郎『人口政策』S19
 モンテスキューが総括する。プラトンとアリストテレスは人口の増加を恐れ、その抑制を主張したと。
 それは少数の自由民が多数の奴隷を支配するための結論だと。
 ※戦死の可能性と飢え死にの可能性に直面した人にとって、後者がはるかに深刻である。
▼北岡寿逸『人口政策』S18
 明治には「人口問題」はなかった。
 大正に「過剰論」が生じた。
 コメの生産性が人口増に追及せず、輸入の必要があった。大正の米騒動。
 日本では支那事変を境に、それまでの人口過剰論が、「生めよ殖えよ」に転じた(p.58)。
 スペングラーは仏人口減少の理由のひとつに、15歳以下の児童の労働機会が減ったことを挙げる。加えて、教育の必要。
▼フォン・ボグラウスキー『古今戦法』伊藤芳松 tr. M34
 著者は独中佐。訳版元の兵事雑誌社はM29-3に雑誌創刊。
 独傭兵の銃兵は槍集団と組んだ。敵騎兵襲撃に対しては槍の後端を地に依托し、蝟集した。
 「クローゼウ井ッツ」に言及。
 ナポレオン時代は敵に300歩まで近づいて放列。
 普仏戦では400~500歩距離の歩兵損害が最大。これは密集過度のため。
 「独断専決」と訳している(p.232)。
 独実験によると400m以上の小銃射撃は無効。
 最新火器の決勝距離は250~400mだ。
▼中央経済法研究会・森敦三 ed.『敵産管理の理論と実際』S18
 S16-12-22に成立した敵産管理法の解説。
 ※要するに米国特許(の国内独占使用権)を強制的に公共化してしまう法律。ちなみに三菱商事などはスイス等を経由して対米戦中もパテント料などを払い続けていたことを戦後に誰かが書いていた。
 工業所有権戦時法ニ依ル専用免許申請ノ却下(S17-8-21、いずれも陸軍大臣が申請却下した)。
 特許No.77723・石炭、石油或ハ炭化水素化合物ニ水素ヲ添加シ圧力及熱ヲ加ヘテ之ヲ分解スル方法。
 No.97560・炭素質材料ヨリ有価生成物ヲ製造スル方法。
 No.97637・鉱油ノ精製法。
 No.104540・内燃機関用高空調整装置ニ関スル改良。
 No.107815・可調正「ピッチプロペラ」。
 No.117202・空気入リ「タイヤー」ノ内管。
 No.124287・石油炭化水素分裂法ノ改良。
 No.125870・液体混合物殊ニ炭化水素液体混合物ノ分離法。
 No.142640・高「アンチノック」原動機用燃料炭化水素ノ製造法。これは日窒がテキサコから買っていた特許である。
 ……他に、飛行機ノ尾輪、内燃機関用燃料ニ関スル改良、発動機燃料、分解蒸留物ヨリ得ラルル常時液体ヲナス炭化水素蒸留物ノ精製方法、などなど。
▼産軍複合体研究会『アメリカの核軍拡と産軍複合体』1988
 G・ライマンの『ヒトラーの特許戦略』によれば、スタンダード会社はファルベンに人石の特許を売り、WWII中も料金を受け取っていたという。
 WWIIで使われた燃料の6割は石炭。4割が石油。
 これが朝鮮戦争では逆転し、石油6割となる。
 ベトナムの米軍は100%石油だけ。
▼池崎忠孝『太平洋戦略論』S7
 ※三冊の単行本と幾つかの論文を合冊したもの。
 カトーはしつこく唱えた。“Delenda est Carthago”カルタゴは滅ぼされねばならぬ、と。
 思ふに、我国が封鎖されて一個月も立たない間に、主として木造建築から出来てゐる我国の首要都市は、殆んど灰燼に帰して終ふでありませう(p.32)。
 石油がいよいよ足りなくなったら、シベリア鉄道でロシアの石油を買えばよい(p.166)。※この石原莞爾の受け売りが、満州事変後の提案たり得るのか?
 米人は日本海軍の七割主張を an Incantation(無意味なおまじない)と呼んでいた(p.365)。
▼石井洋『日本国防の地政学』S55
 バイカル以東のソ連石油需要は1000万t/年。それに対してサハリン原油は250万t/年。よって西方からの鉄道貨物の3割が原油となる。コムソモリスクとハバロフスクに精油工場がある。
 1941-8-5に日本政府が対ソ中立条約遵守を声明するとスターリンはバム用レールを西シベリアからウラルの武器工場に送った(p.29)。※Really?
 ムルマンスク~喜望峰~ウラジオストックで15600マイル。スエズ通れば12000マイル。北米経由なら5700マイル。
 日本の1935と37の原油と重油の対米依存実績。67%(231万キロリットル)と74%(353万キロリットル)。
▼ブルース・A・ボルト『地下核実験探知』
 1945-6-16のニューメキシコのトリニティ原爆は1万9300tのTNT相当。
 地震波記録では、電光形の上向きに針がブレている軌跡が、地盤の圧縮を示している。
 シナの核開発担当官、銭三強は、パリのジョリオ・キュリー研究所からソルボンヌに進んで1943卒。WWIIで仏にとどまるあいだ、仏の地下運動を通じ、モスクワに成果を渡した。戦後のソ連の対中共核開発支援は、そのときの働きに対するお返しだった、と銭は言う(p.14)。
 ソ連援助でシナは重水炉を1960-6に臨界させた。そしてガス遠心分離で濃縮したウラン235により、1964-10-16、バクハツ。
 インド初原爆は10~15キロトンだった。
 ジェット気流は、通常の15倍も強い音圧で、50km以遠によく音を伝える。
 半減期の2倍の時間では、放射能は最初の四分の一になる。ゼロにはならぬ。
 ストロンチウム90の半減期は28年。セシウム137は30年。プルトニウム239は24300年。この半減期の長さが金属としての加工をゆるす。ウラニウム238は4.5×「10の9乗」年。
 煉瓦造の家に住む人は、木造の家に住む人より、多量の自然放射能を受けている。
 ふつうの水素の原子核は、陽子が1箇だけ。
 「陽子1箇+中性子1箇」は重水素。Dとも略記。これは自然界に5000分の1存在する。1kg分離するのに、100ドルかかる。
 「陽子1個+中性子2箇」は三重水素。Tとも略記。ふつうは核爆発(特に核融合)でつくられる。不安定な放射性で半減12年。Tは常温では気体のため、乾式水爆では6リチウム化重水素として原爆の周りを囲ませる。また「装置水爆」とは、DやTを液体で使ったもので、それゆえに湿式とも言う。
 1929春に米人がサイクロトロンを発明した。※爆縮式原爆に必要な、多数の爆薬を精密に同時一斉に電気点火する回路装置のことは「クライトロン」という。
 無用に飛び散る中性子の方が多い状態を、亜臨界という。
 プルトニウム239を使ったガン・バレル・タイプも可能である(p.51)。
 きたない水爆10個は、原爆1万発分のフォールアウトを生ず。
 500グラムのDの融合は、yieldにしてTNT26キロトンに相当する。
 湿った土の方が、地震効率はよい。水中なら、もっとよい。
 2トンの硝安発破は、400km先の地震計にもわかる。
 火山灰の塵が大気をまわると、夕陽が真っ赤になる。
 1350年に銃砲推薬として使われていた火薬が、採鉱に応用され出すのに、更に300年かかった。
 地下実験は、径2m、長さ1000mの孔。爆弾は鋼容器入り。電線を引いて、埋め戻す。
 表土が下底岩盤から切り離されることを spallingという。
 上昇表土の再落下衝撃を slapdownという。
 衛星でチムニー陥没をみつけられぬようしたければ、特に軟層土のところでは深掘りの要あり。
 液体中はS波は伝わらない。
 5kmより深い核実験は経済的に不可能(p.100)。
 102頁の断層崖の写真を見よ。Great wall は自然物がヒントだったのだ。
 普通の地震では、観測点によってP波の初動方向が異なる。が、核実験ではそれがすべて上向きとなる。震源の4方位からの観測記録を照合しさえすれば、核実験と確定される。
 空気が薄いと宇宙放射線の害を受ける。アンデスのインディオはリマ市民の10倍被曝しているのだ。
 ストロンチウムはカルシウムと同族金属なので、骨中に蓄積され易いわけ。
 アーネスト・ローレンスらは、1957にアイクに対し、ABMの無フォールアウト可能性を報告。
 1972時点で米で最も深い油井は8km。
 大空洞内で爆発させると地震は三百分の一になる。これをデカップリングという。
 1963-6フルシチョフの東ベルリン演説で、ソ連は現地査察は拒否するが、大気圏内・宇宙空間・水中の核実験停止条約は締結してもよい、と。それまでは全面核停以外は認めていなかった。
 1959-6提出のバークナー報告により、米国防省は、ソ連をとりまく国々に10地点ほどの地震観測点を置く。
 1974ジスカール・デスタンは太平洋実験を地下化すると述べ、1975-6-5のムルロワ実験は地下になった。
 スウェーデンはかつて地震の被害を受けたことがない国だが、1930’sから地震観測を開始。1000km離れたノバヤゼムリヤその他のソ連実験を記録し続けている。
 ツンドラや結氷海岸の地中ノイズは小さいので、観測所に適している(p.219)。
 径わずか17.5cmのボーリング孔にも入る小型地震計ができた。
 1971に於ける西側の探知能力は、最小20Ktまで。
 20Kt爆発は、300m厚の沖積層で完全に封じ込められる。
 ソ連はTNT5キロトン相当の化学爆発「メデオ」をやったことがある(p.259)。
 NSAは日本、トルコ、印パに於いて新疆の秒よみを聴いている。
 部分核停条約後も米はクレータ実験行なう。1968に三回。
 核爆発により陥没したチムニーの放射能は比較的低い。
 核クレーター利用貯水湖のソ連での実例(p.287)。
 5メガトン弾頭のABM爆発はかなりの広い空間をX線で飽和させ、進入ミサイルの電子回路を妨害する。
 1974(?)に南ア原子力評議会のスポークスマンは、南アの核技術はインドより進んでいる、と明らかにした(p.368)。
▼“The effects of atomic weapons”『原子兵器の効果』武谷三男・他 tr.科学新興社1951pub.原1950マグロウヒル。
 ※同じ本を主婦之友社も『原子爆弾の効果』と題して、篠原健一、石川、山口に訳させてS26に出している。主婦之友社版は485頁、科学新興社版は536頁。印刷技術に歴然とした差がある。なお国会図書館蔵の科学振興社版には例によって往時のミリタリーフリーライターによると思われる犯罪的な切り抜きがある。それは巡洋艦『酒匂』がビキニ実験で大破している写真の載っている頁の前後である。
 放射能は光輝が収まった後、生ずる。
 火球は、密度が小さいので上昇する。
 広島、長崎の例では、高度が2000ftで、フォールアウトに帰せられる被害者は全く存在しなかった(p.44)。
 ピーク過圧は、爆発出力を「三分の一乗」した数で距離を割った数値に、単純比例する。
 20キロトン爆弾が、距離2500で、ある被圧値(1平方インチあたりにかかるプレッシャー)を生じたとするならば、30キロトン爆弾は、同じ被圧値を、距離2860において示すことになるわけである。
 ※つまり小型の核爆弾を大都市の細かなグリッドに1発づつ、計数百発も落としてやるような絨毯核攻撃でも加えない限り、ひとつの大都市の地下構造が全滅することはない。
 圧力と距離との関係は、地上爆発の場合は、同じ量の空中爆発の場合の距離に、「2と1/3」をかけたものと同じ。
 高度が高くなると、地上爆発よりも、最大で「2と1/3」、ふつうは「2と1/2」倍に威力が増す。これは、反射波の効果が加わるため。
 ※つまり対都市の毀害面積を極大にせんとして最適な起爆高度をプログラムすれば、こんどは直下の地下構造に対する破壊力がトレードオフされてしまう。このように、核は「絶対兵器」からは程遠い。長崎と広島の被害は、両都市があまりに可燃であり過ぎたことによったのであり、これはドイツと日本に対する連合軍の通常爆弾空襲の投下爆弾量と、それによって地上で発生している死者の数値を並べてみたら、一目瞭然だ。
 ビキニ実験で発生した波頭の最高は20ft。
 重骨組+鉄筋コンクリートは最強で、レンガ造りは弱かった。煙突構造は、背圧が均しくなるので、おどろくほど強い。広島では鉄筋煙突は残った。木の電柱は折れた。
 大型核爆弾のピーク圧を考えると、その空中爆発の被害面積は、放出エネルギーが2倍になると、1.6倍(2の「2/3」乗)になる。
 小型核爆弾の力積を計算すると、エネルギーが2倍になれば、被害半径は1.6倍になるから、被害面積では2.5倍になる。
 20キロトンで完全破壊される地表域は、半径0.5マイル内である。
 丘陵の影になったためまったく無被害だった長崎の住宅地の写真(p.163)。
 18インチの土と木で造った半地下壕は、爆心から距離900フィートでも残り、1/2マイル以遠では、全無被害であった(p.189)。
 吃水30ftの主力艦に対しては水中1/4マイルで起こった核爆発が最も有効である。※艦底を破損し、浸水せしめる。
 潜航中のsubは、距離2700ftでの水中核爆発で仕留められるだろう。
 商船は3000ftでも損傷。軍艦は2000ftで。
 衝撃波面は輻射を発することができない。吸収もできない。よって火球を囲む。
 赤外線は起爆から0.3~3秒後に出るので、閃光を見てすぐテイクカバーすれば火傷を防ぐことができる。
 中性子を、火球をみてから避けることは不可能。
 遅い中性子は、よっぱらい歩きのように到達するから、壁のうしろに隠れただけでは防げない。遅い中性子の方が、高速中性子よりも5倍も致死的。また、速い中性子の放出量は、ごくわずか。
 長崎のグラウンドゼロで、生き残った山腹坑の写真(p.458)。