摘録とコメント。

▼杉江重誠『ガラス』昭和15年・改訂四版(初版S8年)
 内部に真空の空洞をもつガラス煉瓦。音と熱を伝えない。このガラス中空煉瓦だけで1933にシカゴでビルが建てられた。窓がないのに採光できる。
 ヨハネ黙示録に「水晶に似たる玻璃の海」と出るのはガラスの海のこと。
 石英質の砂、ソーダ灰、石灰石粉末をルツボで溶かすとガラスができる。
 出雲の国司が朝廷に毎年献上した美富岐玉とはガラス玉。
 日本のめがねは元和年間に浜田彌兵衛が東南アジアで学んできた。
 明和年代まで諸大名は、ビール瓶のようなくだらない舶来ガラス製品の購入のために大金を使った。
 日本の板ガラス生産高はS12年に世界一になった。重要輸出品。
 ところが必須の原料である硼酸・硼砂は国内で採れない。これがないと耐熱ガラス(硼珪ガラス)ができない。※つまりは防弾ガラスができない。
 ガラス製造はたぶん、エジプトで磁器のうわぐすり(釉薬)から発達した。
 梵語の「ルリベイドリヤ」がポルトガル語のvidroになり、そこから「瑠璃」「ビードロ」になった。七宝流しとも。
 ギヤマンはオランダ語のdiamantから。
 玻璃はラテン語のpolireから。
 ガラス製造屋は玉屋といった。
 「硝子」は江戸時代には「びいどろ」と読んでいた。それが大正13年いらい常用漢字の選定がなされて、「がらす」としか読めないようにされた。昔は「ガラス」などとは決して読まなかったのだが……。
 昭和6年からはケミカル/ファーマシーの分野で用語用字の統一平明化の作業が進められている。
 ガラスは珪酸のアルカリの混合物だから基本的に水には溶ける。耐熱パイレックスでも一日煮沸すれば鱗状片が生成する。
 だからガラス容器による化学実験ではアルカリ化を予期しなければならない。
 どんなガラスでも苛性アルカリには侵されやすい。
 ヂルコンをまぜると耐アルカリでは最強のガラスが作れるが、日本国内に産しない。
 硼酸がガラスの膨張率を小にし、弾性を増す。つまり温度変化に耐えさせる。
 1400度で溶ける。それを400~500度の雰囲気のなかで数時間かけて冷やす。
 昔は鋳型だと表面がザラついてだめなので、水にぬらした木型でガラス製品をつくった。
 ポンペイの廃墟の浴場に、厚さ半吋のガラス窓が使われていた。
 スティンドグラスは12世紀から。
 摺りガラス=マットグラスは人工的に傷をつけたものなので、きわめて割れ易い。
 表面張力があって糸状に縮まろうとする溶けたガラスをいかにして板状のままひきあげていけるかが工業量産のブレークスルーだった。
 ひきあげる速度を増せばガラスは薄くなる。写真乾板用の薄ガラスをこの方法で昭和7年から国産できるようになった。
 凸凹模様をガラス製造段階でプレスによってつけてしまうのを「型板ガラス」と呼ぶ。これは摺りガラスとは逆に割れ難い。
 昭和10年に2ミリ薄(世界最薄)の型板ガラスが国産化され、これが障子や住宅の戸に大量に利用されるようになっている。
 シリカ、酸化アルミ、酸化マグネシウムを多くし、酸化ナトリウム(ソーダ/アルカリ)を少なくした板ガラスは、雨や大気中の湿気で浸食されにくい。よって国産ガラスはすべてこれ。外国のガラスはこの配慮がないので、日本で使うとすぐに光沢を失う。
 古いガラスは素材中に鉄分が不純物として含有されており、そのために青緑色がかっていた。鉄分1%含有の厚さ4.5ミリの板ガラスは、太陽熱線のほぼ全部を吸収し、室内に熱を透過させないという特性がある。
 その代り熱を吸収して膨張しやすいから網入りの天窓ガラスとしては甚だ不適。
 支那事変直後に金属の代用品としてガスラ(グラス・ファイバー)が開発され、ネクタイやテーブルクロスをガラス綿だけで試作した。「ガラスの弾丸」も研究中(p.91)。※ホーローびきの拳銃弾ならば今日あるが……。
 そもそもグラスファイバーは1904に工業化されている。溶けたガラスを引き伸ばせば糸になることは紀元前から知られていた。
 WWⅠで石綿輸入が途絶したドイツがガラス綿を1914に大々的に工業化。また各国でも主に船舶の断熱用にガラス綿を試した。
 1914にロシア軍艦セバストポール(長さ450呎)は艦内の熱絶材料にグラスウールを用い、それによって380トン軽くなり、喫水が4吋浅くなった。
 しかし講和後は競争力がなく、また石綿が復活した。
 グラスファイバーは細ければ細いほど引っ張り力に耐える。それを撚り糸にすれば、ピアノ線の三分の一の強度にはなる。
 ロックウールは溶岩、玄武岩、安山岩を原料とした人工繊維。グラスファイバーは絹光沢の白色だが、ロックウールは茶褐色または灰緑色。ガラス綿より低廉。
 割れても飛び散らない安全ガラスはフランスの化学実験室で偶然のことから1903に着想され、二枚の板でセルロイドを挟んだトリプレックスとなる。
 非常に高価だが1924から箱型自動車の窓に採用された。自動車事故の怪我の半数がガラス切り傷によるものであったため。
 1930からは挟むフィルムが酢酸繊維になる。目下はビニール系とアクリル系を試験中。
 ガラスを製造工程で急冷すると表面が先に冷え、内部が後から収縮するので強力な引っ張り力が残る。これを叩いてもなかなか割れず、もし割れるときには一瞬に粉微塵になる。粒には鋭角がなく、手で掴んでも怪我をしない。これが強化ガラス。
 強化ガラスは切断加工ができない(すれば全部が粉微塵となる)。だから最初から製品寸法にしておいて熱処理をするしかない。強度は普通のガラスの7倍。
 カメラや望遠鏡に使うガラスは optical glass という。
 他の製品との違いは内部に「筋」が無い。逆に「泡」がわずかに残る。泡がまったくなくなるほどゆっくり製造していると、坩堝の内壁から不純物が吸収されてしまうため。
 鉄分含有は禁物。紫外線をブロックしてしまうので。
 天体観測用の大形レンズは冷却に数ヵ月かける。1時間にコンマ数℃づつ下げていく。 新しく買ったセトモノやガラスを水で煮ても硬くなることはない。このような迷信がなぜか家庭にある。
 スティンド・グラスは、断面がI字形、またはU字溝のある鉛のリボンでガラス板同士の境界をつないでいる。ガラス断面にもそれに対応した凹凸を彫る。日本では明治34年に製作された。
 重いガラスほど屈折率が大きい。鉛成分を30%も加えてもガラスは透明である。しかも比重から屈折大となり、光輝燦然としてくる。バリウムも。
 独のエナガラスのショット氏が紫外線を透過するガラスを1903に開発した。これで天文観測が飛躍的にパワーアップした。
 鉄、マンガン、銅を多量に加えると黒色ガラスができる。これにさらにニッケルを多量に加えると、紫外線だけを通すガラスになる。厚さは1ミリ半。これで暗中信号機ができる。20燭光で8哩の遠距離に通信できる。艦隊の無灯火行動に使える(pp.186-7)。
 紫外線写真は、証書の改竄痕を見破るのにたいへん重宝する。水の染み跡が可視化される。インキを消した跡も見える。
 眼鏡レンズはいかに透明でも9%の光は反射しているから、裸眼より9%暗い世界を眺めているのである。
 河原や砂浜に落ちている砂は鉄分が含まれているので、そこから造ったガラスは濃い緑青色にしかならない。
 ビール瓶は昔から鉄とマンガンで黒くしたガラスを使う。昭和の初めころに一瞬だけ、無色透明のビール瓶が製造されたが、すぐ元にもどった。
 大衆酒の瓶は大量に製造しなければならないので安い珪砂を使う。すると鉄分のため青いガラスになる(当時のふつうの一升瓶はコレ)が、これが面白くないのでさらにマンガンを加えて真っ黒にするのだ。
 明治19年のコレラ流行で生水が飲めなくなり、ラムネが普及した。今の玉壜はM30頃に登場した。
 普通のガラスで耐熱させようと思ったら、極力薄くするしか方法はない。
 パイレックスはアルカリ土類と重金属元素を含まない硼珪ガラス。
 体温計の計測時間を縮めるには水銀柱を細くするしかない。だが円形断面で細くすると目盛りが読めないので、楕円断面とする。その長軸でもなんと0.05ミリにする。
 ガラスは経年変化する。そのため古い体温計は、初期設定よりも高めの温度表示をするようになる。
 水晶の眼鏡(本玉眼鏡)はよくない。紫外線と熱線を全部通してしまうから。これはすでに文化3年に警告されていた。本玉でない江戸時代の眼鏡は、青みがかったガラスであった。
 鏡は影見。天の香具山の銅から日像の鏡を鋳たのが八咫鏡。
 現在のガラス鏡は銀メッキ。その以前は錫アマルガム。錫箔を貼り、水銀を塗り、1ヵ月後に水銀を除いた。
 銀メッキ法は1843に外国で発明された。銀引[ギンビキ]という。最終工程でベンガラまたは鉛丹を、剥離防止剤として刷毛塗りする。
 鏡の良し悪しは、表面に直角に掌をあて、それを横から見て像と比べて見ればわかる。
 銀メッキを極く薄くすればマジックミラーになる。
 模造真珠は太刀魚の鱗を溶かしてガラス玉に塗ったもの。
 天然宝石はガラスよりも熱伝導率が大きいので、冷たく感ずる。判断センサーには舌先が一番である。ガラスより冷たいと感じたらホンモノだ。水晶はこれで確実に分かる。
 科学的には紫外線を当てると蛍光の差で分かる。
 天王星が発見された数年後に新元素がみつかり、ウランと名づけられた。ついで同じ硫黄属の新元素がみつかった。地球を意味するtellusからテルルと名づけた。その数年後にセレンが発見された。これはギリシャ語の月(selene)から。
 日本の元素名はドイツ語系統が正式なのでウラン。ウラニウムは英語。
 ガラス戸をガタンと開けると必ず隅の方で割れる。
 熱湯でガラスが割れるときは曲線で割れる。ギザギザにはならない。
 レンズに黴は生えない。生えているところを拡大観察すれば、必ずダニの死骸があるはずだ。
 石英灯は大正13年に国産化された。2000度で溶かす。
 光学ガラスは、ドイツのエナガラス、英のチャンスブラザース、仏のパラマントアからの輸入であったが、「日支事変勃発と共に日本光学、小原光学等の各会社も亦光学ガラス製造設備の拡充を計り、主要軍需資材供給の重責を分担してゐる」(pp.287-8)。
 戦車、装甲自動車、装甲トラック、飛行機の窓ガラスには必ず安全ガラスや防弾ガラス(強化ガラス)が嵌込んである(p.288)。
 1787創立のマサチューセッツのボストンクラウンガラス会社は、州議会から、従業員の兵役義務を免除された?(p.294)。
 明治8年に『七一雑報』という雑誌があった。日本のプロテスタントがつくった最初の雑誌。この第一号の巻頭はガラスの記事である。※あるいは北海道開拓と関係があったのか。
 板ガラスの反射を使った手品のたねあかしは、阿部徳蔵『奇術随筆』にある。
 同じく西洋劇場の幽霊の出し方については、明治12年刊の『御伽秘事枕』。
 川柳ではびいどろは美人の隠語。
 十年ほど前に無色に近い透明なベークライト、正確に云って今のプラスチツクス(合成樹脂)ができたときに誰かがこれを有機ガラスとなづけた。
 安物石鹸には水ガラスが入っており、いつまでも手がヌルヌルする。
 明治40年頃まで汽車の窓ガラスには白ペンキで横線が太く引いてあった。窓があると知らずに頭を激突させる乗客が多かった。今でもまだ、ショーケースにガラス戸があることを忘れて横合いからさしのばした手を打ちつけ、きまりの悪い思いを苦笑にまぎらすことも度々である(pp.315-6)。
 マタイはなぜ新しい葡萄酒を古い革嚢に入れるなと言ったのか。新酒は醗酵が続いており、そのガス圧で古い嚢は破れて使い物にならなくなり、酒もまたこぼれてしまうから。
 明治5年9月に仁徳天皇陵の南の昇り口が崩壊して石郭があらわれた。その中に石棺があり、ガラス器が2箇あった。
 幕末の国産無色壜はほとんど薬用に造られた。
▼W.F.Wilonguby “Government Organization War Time and After”『世界大戦における米国総動員概説』資源局 ed. S9年、原1919
 WWⅠ中のロシア小麦はなお米市場を破壊し得た。
 そのロシアに休戦後は食糧を供給する必要がある。
 石炭は貯蔵に適さない。だからすぐ運び出せる鉄道のcapacityに生産量も制限を受けてしまう。
 「合衆国内に居住するドイツの臣民と取引するに際しては……単に彼等の国籍がドイツ人たるの事実のみを以てしては……『敵国人』と為さず」(p.163)。
 航空局は1917-6-30に「リヴァチー・モウター」を完成した。標準発動機。
▼C.G.Dawes『欧州戦に於ける連合軍軍需補給の実績』S2年
 1914以前は、補給の如き特殊事項を担任する将校は、劣等部類に属する者と看做されたることも少なくない(p.11)。 
 1918-10-31時点の貨物自動車数。米29869、英31770、仏80044、白4192、以上在仏。伊28600(在仏+在伊)。
 1918-10-31の在フランダースの獣数。米163795、英382927、仏642984、白38118、伊6804。
 同日・同所、自動小銃&MG数。米68011、英52145(ビッカース、ルイス、ホチキス含む)、仏75500、白4333、伊444(本国分含まず)。
 同日・同所の重砲弾薬(野砲クラスを含まない)数。米122431発(+さらに野戦軍より後方に310842発)、英3760896発(+216457)、仏2944400(+216457=英と同じ)、白33800(+225000)、伊14342(+225000=白と同じ)。
 英でsuppliesといえば、糧秣、油脂のことに限定され、米のsuppliesと対応する語はstoreだった。
 戦時中米国はFuel Administrationを設ける。
 アルゴンヌ~ミューズの戦闘では米軍は毎日15万トンのガソリンを消費した(p.110)。
 欧州各国にて使用せる鉄道用貨車平均で10t積載。平均速度は15~40km/hを超えない。
 動物輓曳車は1200~1500kgを積む。トラックは平均3tだった。前者は1日25km推進した。後者は80km/day。
 悪路の輓曳は300kgを毎時4km進められたのみ。
 空輸は末期に僅かに実施。
 恐怖心をおこさない騾が前線では100kgを運んだ。4km/hで30km/dayも。
 仏軍のソンム戦傷者はすべて河川で後送された。200tを4km/hで推進できたが、夜は動かせず、また長距離には却って不利。米軍は河川は利用せず。
 白、伊軍はTK遂に使わなかった(p.190)。
 米第一軍の9-26の発射弾数。75ミリ砲を322438発、2805トン。95ミリ砲を1347発、19トン。105ミリ砲を19476発、351トン。120ミリ砲を4317発、99トン。145ミリ砲を3905発、155トン。155GPFLPを3470発、1768トン。155Hを76918発、3700トン。220Hを2836発、312トン。
▼ Stephen Possony『今日の戦争』大内愛七 tr. S15年
 著者はオーストリア人。岩波刊なのでかなり多数の日本人が読んだ筈。
 訳者序、事変目的達成のために努力しつつあるわが国の産業界は、計画性が不徹底で、産業界自体が現代戦争に必要な資材の大きさを知らない。
 1934資料で、1梃のMGは前方2km、戦線13mを守り得るとされる。1km正面の防御には80~100梃いる。MGは6ヶ月ごとに取り換えを要する。
 当時の兵員トラックは15人とその必要物資を運べる。
 筆者はTKの最盛時は終わったとする。スペイン内乱より。
 スペインではGunとTKと爆撃機を同時に使用した時のみ戦線突破できた。
 WWⅠ中に爆撃で破壊された橋はない。
 WWⅠ中、対空砲の命中率は11000発分の1発から、1500発分の1発に向上した(p.58)。
 WWⅠ末のドイツで不足欠乏したのは、平時なら自給していた石炭や硝石であった。
 農産物の平時大量貯蔵こそは戦時の値上がりを防ぐ(p.152)。
 「総バーター勘定貿易」は、時の経過とともに、同一量の輸入を獲得するためにヨリ多くの財を輸出せねばならなくなる。これは1937に理論化されている。
 農民は労働者以上に国を愛しもせず、健康でもない(p.183)。
▼M.Debney『戦争と人』S19年
 ※タイトルの「人」とは「器材」の対概念。
 戦後、敗者の側には回想録が続出する。1871後の仏、1918語の独然り。
 WWⅠの仏将校は、普仏敗戦を体験した教官に育てられた。
 陸大卒業生は、「軍内貴族階級」「青年トルコ党」であった。
 ヒンデンブルク線=ジークフリート線。
 英軍は大会戦の後には詳細な会戦広報を出して国民を納得させた。フランスはこれをしなかった(p.34)。
 「器材戦」は必然的に「期限付戦争」を指向せざるを得ない。
 ルーデンドルフは自動車で麾下の徒歩旅団を誘導しつつ、リェージュ周辺の築城陣地に突然侵入した。
 馬匹はWWⅠ中、1日30kmの速度で前線~後方を往復。自動車はその3倍の距離を無休止で走った。
 1794仏将Pichegruは結氷に乗じ軽騎兵を以て北海テクセル島のオランダ艦隊を拿捕した。
 下級幹部は近代戦に於いて初めて重要な存在となった。
 フランス人は兵卒であっても指揮することが好きである(p.124)。
 フレデリックは敵近く行進して、会戦を拒否して遠ざかることができた。火器射程の関係により。
 仏軍操典の扉には「軍紀は軍の最も肝要な力……」と記してある。※これを真似して「承詔必謹」なのだな。
 「緒戦で戦争に勝てるのだ」と、「成功が確認できた場所に予備を進出させる」──この1870戦訓を、独はWWⅠでも墨守した。戦略的な“方向”が無視された。
 要塞は器材戦「兵器」であり、守勢をとる軍隊にあっては器材の価値が人間の価値を補い得る(pp.224-5)。※マジノ線の理由。
 ソンムでは塹壕がきわめて早期に粉砕され、兵は砲弾孔に陣替えしなければならならかった。だから永久陣地で人を節約汁。
 1882の仏教育改革いらい、百科事典主義が支配的。スペル、作文、判断の学力は低下。詰め込み式。「科学精神」をもつ若い世代をつくるという掛け声だが。専門教科がやたらに増やされ、膨張し、文部省に捨拾選択の自信はない(pp.275-6)。
 1917の仏軍反乱は統帥部に対してであって直上将校にではない。1918末の独軍反乱は、異階級人たる将校団に向けられた。
 デブネが戦場でみたのは、智者の崩壊と勇者の出現(pp.287-9)。
 航空写真標定と迫撃砲により、塹壕と鉄条網を攻撃前に爆砕しやすくなった。1918頃。 しかしコンクリート要塞は別だった。※だからマジノ線。
 仏政治家は会議冒頭では学のあるところをみせるが、やがてアングロサクソンの細部的、実証的な反論に尻尾を巻く(pp.300-1)。※フォッシュに欠けていたもの。
 普仏戦の敗因はアフリカ植民地の戦争しか知らない将校(p.304)。
 「La Paliceの真理」(p.333)。※1470~1525の仏将でPavieの戦いで戦死。最後まで勇敢に戦ったことを仏詩では「死ぬ前、元気だった」という。ここから「あたりまえ」の意に。
 遅蒔きの名案は大破局の註釈でしかない。
 フランス陸軍に於ては、参謀部が統帥(司令官)の代りをしたことはない(p.353)。独では皇太子を高級統帥者にしなければならないので、参謀がその無能を補う。
 独断=Initiative (p.356)。
 プロシアは自己の作戦計画は同盟国に知らせないが、同盟国の作戦計画に対しては閲覧の権を保有する(p.385)。
 多くのフランス人が権威の体制を待望しているにせよ、それは当然権威の中にこそ自由の真の保証者があると見るからである(p.433)。
▼川越重昌『兵学者佐藤信深淵』S18年
 信淵の没後3年目にペリー来着。
 「兵法一家言」中に、狩りで鎗刀にて打ち止めたり高崖からおっこちたことがあるが、刀も脇差も思いの外にその身は曲がるものだ、と。
 戦法の特色は、十分な楯によって敵陣に肉迫しようとすること。
 斬馬刀とは6尺棒の先につけた太刀で馬の脚を薙ぐもの(p.34)。
 ナポレオンは信淵と同年に生れた。
 「ワッソク」……背へ斜めに掛ける負い方(p.305)。
▼『眞山靑果全集 第十四巻』S51年
 附録の「月報」で福田恆存は激賞。西洋の作劇術を日本で最初にものにした人で、日本の近代演劇史に残る唯一の劇作家だと。菊池寛もかなわないと。
 東北出身。松竹の座付きになった。しかし晩年は数万人に一人の病気にかかって病床。
 M40の測量士は「××チェイン○○リンク」と測り回る。
 M40の自費出版には3000円かかる。
 「学派と学閥の闘争以外に何んの能も無い日本の学者達だ」
 北極探検では犬ぞりに鎗をもって乗る。
 M41の爪きりはハサミ
 「私どもの若い時にや、思ふの考へるのと云ふことが無かつたものだ」
 エスカリオテのユダが銀30枚でキリストを敵にわたした後、その罪を悔やみ、指を噛み、地を凝視して悄然と樹下に佇立する絵。
 If he had not been born. ……これはキリストがユダを呪った言葉としてマタイ伝に見える。その方が幸せだったと。
※とかく指先が震える人物が出る。著者は書痙か?
 M42、散弾の送蓋に「ワッパ」とルビ。
 2連銃に35円は出すが40円は出さないと。
 仙台藩では親不孝者は城下の芭蕉の辻で鋸引きにされた。
 暴れ者をとりおさえるには、細引きではない綱のようなものを被せるとよい。
 「財産を保護する為なら、法律上殺しても無論不論罪[ふろんざい]です」
 電柱には「コールタ」を塗る
 M40にお歯黒剥げした下女
 縄鳴子を張って待ち構へていると
 早稲田田圃に高圧電気の原導線を
 肱木の下には金網。万一切れた用心
 落合の火葬場の先にはまだ空地がある
 郊外が開ける前駆者は、湯屋と理髪屋
 石竹色=ピンク
※「大塩平八郎」大15雑誌『中央公論』発表。これほどクーデター決行者の緊張感になりきって表現しているフィクションは見たことがない。昭和の青年将校が刺激を受けたのは確実である。また、平八郎に対する河合のツッコミ、これは三島に対する森田のケシカケと同じではなかったのか。
 一日一度は川べりを散策しないと気色が悪い
 小前小者の貧民が御器をもたない新乞食となっていた
 兵庫の豪商北風荘右衛門が大塩らの上司の役人としめしあわせて西宮に内密の米市場をたてて、大坂に入津する諸国米を関東にまわしている
 檄文も配布してある(p.631)。※「檄文」はおかしいという人がいたが、実はおかしくなかったことがこれで分かる。檄は飛ばすものだが、撒くのは檄文で良いのだ。
 刀は仕損じる、槍で突け
 この混雑のなかに、常に知らない静かさがシインと聞えるやうな気がします。
 「大小を差していては人目にかゝるだらう」平八郎、大小を河中に投ず。
 真山の中学同級生が吉野作造。
 最後に常に自己にかえろうとする人間を描いた。
▼田中・藤巻・星野共著『不動明王』
 貴族の調伏合戦が、強そうな忿怒身像のファンを増やした。
 道長は法成寺を建立したとき、1万体もの不動尊を造像供養した。
 摂関期~平安末には修験道が不動信仰を庶民に広めた。
 右手の宝剣は慧刀と呼ばれる。智恵を「智慧」と書くのは不動明王の効験にあやかろうとしたもの。
 光背は迦楼羅炎と呼ばれる。
 日本では大師様と十九観と2様式あり、後者は古代インドの奴隷を彷彿とさせる醜悪な姿。※左肩に1本だけ垂らす弁髪は奴隷の髪形なのか?
 五大明王のうち3体は虎皮裙[こひくん]。また降三世明王の場合は獅噛[しがみ]の飾りも。※ある人いわく仁王の虎皮はヘラクレスなのであると。この場合は如何。

著者も新刊ゲット!(爆)

 一部書店店頭に出るより遅く、著者のもとにも『大東亜戦争の謎を解く』の見本が届けられますた(昨日)。
 おやっと思ったのがイラストです。当初計画では別宮先生のお知り合いの方が素敵な挿絵を描いてくださるというお話だったのでしたが……あれ、どうなっちゃったんですかね? しかし伝統ある『丸』風のイラストをこのようにサクサクッと付けてしまえるのですから光人社さんの実力はさすが凄いものです。また、装丁のソツの無さを御覧ください。装丁やレイアウトは本当にプロとアマの差が出てしまいますからね。やっぱり伊達に老舗じゃないですよ。
 あとがきにも書きましたが、インターネット時代に百科事典みたいな用語解説書をつくってもしょーもないわけです。ですからこの本は用語解説書ではありません。論点提示書であり、仮説集成です。
 どんな論説が載ってゐるか? それは買って読んでくだされとしか申し様は無い。
 反近代的リベラリズムとは所詮、似非リベラルであることを、モダーンの文語を移植される前の頭でも理解できる日本人は、ミリタリー研究者だけのようですね。これは元禄時代に生きた徂徠、白石の頃からそうです。
 戦前・戦中・戦後の日本を混乱させた共産主義は、80年代バブルに駆逐されました。そのバブル以後の日本人を納得させて引っ張っていく規範・指針を、誰もが求めています。
 一時はフランス発の「ポストモダン」がそれではないかと有閑読書階級の一部が思い込んだことがありました。
 が、湾岸危機(デザートシールド)のときに出した新聞広告声明で、もののみごとに彼等の前近代性がバレた。ミリヲタはみんなそれを直感しました。
 元禄時代から日本人が理想と現実を把握する力は、あまり進歩していなかったのです。
 近代(モダーン)の根本義は「公的な約束をしたら、それを破ることを誰もが恥と考える」に帰結します。その結果として社会の自由と平等が両立する。それ以外に、自由と平等への幹線などありはしないんです。
 ところが儒者と共産主義者は、公的な約束を守ることが筆頭にくる大事な人の道なのだとは考えないのです。したがって、儒教徳治主義や共産主義の先には、自由と平等が両立する近代は、あり得ません。
 日本のインテリはなかなかここを学習ができず、敗戦を挟んでなおまだ混乱をしているわけです。近代を理解もしていないのに近代後を論じようというのですから、幼児が自動車を操縦しようとするようなものです。危なくて見ていられない。
 「公的な約束をしたら、それを破ることを恥と考える」かどうかと、その社会の家族構造とは、ある程度、影響し合うでしょう。自分の血族だけが大事な社会(シナ・朝鮮)では、血族外に対する嘘は許されてしまうでしょう。そこから変えない限り、彼等の国内では近代も無い。室町以後の日本は血族社会ではないので、個人が外国に脱出しなくとも近代があり得たのです。ところが内乱防止に役立つと思って教育勅語などという儒教への退行を是としたところから、日本はせっかく離れたシナ・朝鮮(および共産主義者)の同類に、再びなってしまいました。
 新井白石は「国書復号経事」の中で、<いったいに朝鮮人は狡黠にして詐が多く、利の在るところ信義は顧みない。天性、狢の俗だ>と書いているそうです(上垣外憲一『雨森芳洲』)。白石はまた、朝鮮は明から助けられたのに、その明が清に攻められたときには一人の援兵も送ろうとはしなかった、と指摘しているのですけれども、これは公的な約束を破ったケースとは違う。しかし白石は、当時の朝鮮人の中に、デザートシールドの時の日本のポストモダンの連中を視たのでしょう。
 たまたま中公新書の竹内洋氏著『丸山眞男の時代』をサラッと読みまして、うたた今昔の思いをあらたにできました。
 丸山氏は1946年に「超国家主義の論理と心理」という論文を雑誌に載せ、そこでマルクス主義教条ではない「社会学」という舶載新型解剖刀の使い方の手本を日本人に示し、読書階級に大きな知的興奮を与えました。この丸山流の賞味期限はバブル前期まで長く保たれました。
 やはり丸山氏の初期の論文に「軍国支配者の精神形態」というのがあって、東郷茂徳はジョセフ・グルーになぜ宣戦のことも真珠湾のことも一言も言わなかったのかを、自我の弱さから説明していたのですね。米内光政の話も出てきます。
 そう、50年代とか60年代には、こんな固有名詞が読者には無理なく共有されたのです。2000年代の今は、日本がアメリカと戦争したことすら知らぬ日本人に、1945年以前の戦争について何が論点であるのかを説かなければならない。
 丸山氏が把握した価値中立でない戦中日本の超国家主義は、朱子学(=教育勅語)への退行であって、日本人が罹り易いインフルエンザだとは言えても、体質ではありませんでした。
 体質=自我意識の古層といえたのは、日本独特の水利灌漑共同体(それは1950年代末に半滅した)から来ていたものです。そのことは50年代から共産党員の玉城氏が指摘していたのに、丸山氏はじめ誰も理解できませんでした。
 新兵しごきは各国にもありました。古兵にとって新兵はじぶんたちの命を託すにはあまりにも頼りなく見えますので、急いで鍛えなければサバイバルができなかったのです。ドリルサージ(教練軍曹)が率先垂範でそれをやるか、一等兵が事後罰的にそれを代行するかの違いはありました。各国軍のシゴキの実態はベトナム戦争以後の米国映画や80年代以降のルポルタージュで徐々にミリヲタには把握されました。
 『ピンクパンサー』のクルーゾー警部は、ネットの映画予告編の発音を聴いたら「憲兵」だったのですね。この憲兵隊を内務省の機関とせず、陸軍省の機関としたために、明治政体は破壊されてしまったのだという話を、兵頭は1995年頃に雑誌に書いたと思います。そのとき、丸山氏はまだ存命でしたが、末期癌との闘病生活に入っていました(1996-8没)。
 社会構造等を云々する前に、日本人は近代に関して単純に無知なのです。ミリヲタは多少、その無知を覚ることができる。その無知を自覚しなければ、誰にも未来は語れません。
 丸山氏の対極に、「こんどこそはうまくやろう」という「悔恨共同体」の最初期バイブル:林房雄『大東亜戦争肯定論』(1964)がありました。これの延長が「if戦記」です。
 丸山氏にしても林氏にしても、実際の戦争指導の内幕をほとんど理解せずに自論を組み立てていました。
 新刊『大東亜戦争の謎を解く』が、もし1950年代か60年代に出ていたら、そのごの日本人はどうしていたでしょうか。皆様の読後感を承りたいところです。

摘録とコメント(※)

▼S.Glasstone編、武谷三男 tr.『原子力ハンドブック・爆弾編』1958、The Effects of Nuclear Weapons
 弱い力→強い力に変わるとき、エネルギーが放出され、質量が減る。
 1ポンドのウランまたはプルトニウムを完全に分裂させると9千トンのTNT爆破と同じ。
 20キロトン出力を得たいなら理論上は原料2.2ポンドで良いことになる。
 重水素1ポンドをすべて融合させると26千トンのTNT爆発と同じ。
 火球半径以上の高度で爆発させるのが普通である。1Mtなら2900フィートである。
 回折荷重:爆風波が構造物の裏にまわらぬとき、表裏の圧力差により働く力。円柱はこの回折時間が短いため荷重を無視できる(p.86)。※広島では風呂屋の煙突は立ったまま。病院や公共建物は円筒状に汁。
 衝撃波面に続く、突風による動圧荷重を「牽引荷重」と呼ぶ。TNTが1000分のn秒しか続かないのに、1メガトンでは2秒も続き、破壊的。
 巨大壁面構造物は主として回折力を、トラス橋などは牽引力を受ける。
 回折に弱い構造物が特定の被害を受ける範囲は、爆発エネルギーの立方根に、また被害範囲は「三分の二」乗に比例する。
 ex.エネルギーが1000倍になると、同程度の回折型被害の生ずる範囲は、およそ10倍ほどの割合で増加し、被害の起こる面積は約100倍の割でひろがる。
 牽引型被害は、それぞれ上の、10倍以上、100倍以上、となる。というのも、爆心からの距離は、風圧持続時間を縮めず、エネルギーに比例するからである。
 耐震を意図して建てられた現存する構造物で、その重量の10%に等しい横方向荷重に耐えられるようになっているものは、爆風による被害は少ないだろう(p.91)。※つまり今や日本の都市は他国の都市より核攻撃には強い。
 爆風の力は力積impulseでも表わされる。正圧部持続tと、超過圧力の変化を加味したもの。
 異なる出力で同じ被害が出る距離を求める算式(pp.96-7)。
 この本が出た時点ではまだ広島も長崎も20ktとしている。
 日本の鉄筋コンクリート建物の多くが爆風に強かったのは、1923震災後、高さ100ft、垂直荷重の10%の側圧に耐えるべしとの建築規制あったため(p.150)。
 航空機は後上方からの爆風にも弱い。
 地上破壊口の直径は、爆発エネルギーの立方根にほぼ比例して大きくなる。深さは4乗根に比例する(p.191)。
 テフロンを溶かすには、平方センチあたり70カロリーが必要。
 屋根瓦が泡立ったのは40カロリー。
 広島の火災は焼夷弾1000トン分に相当。
 長崎では市街の配置が不規則だったので、火災範囲は広島の四分の一で済んだ。
 熱線がピークに達するまでの時間は、爆発エネルギーの平方根に比例して長くなるので、小型核ほど退避行動が不可能(p.317)。
 1.25マイル以遠では、20キロトンからの初期ガンマ/中性子線は、無遮蔽でも被害を生じない。しかし1キロトン以下では、熱線を上回る到達範囲を有する。※中性子爆弾の明瞭な説明。
 中性子は百分の一秒以内に到達するから、退避行動は無意味(p.345)。※無意味でないという異見も。
 コンクリート、湿った土、酸化鉄鉱石や鋼鉄パンチングのような小さい鉄片を加えてつくった変性(重量)コンクリートは、中性子にもガンマ線にも有効である。※酸化鉄入りのテトラポッドが既にある。
 硼素は遅い中性子をとらえるので、colemanite をコンクリートに混合する。
 ガラスはナトリウムと珪素が主成文なので誘導放射体となる(p.382)。
 木材、繊維は放射性にならない。
 キロトン級から生ずる clouds は対流圏上層に達せず。
 成層圏留分の半数落下は7年。
 米国ではカルシウムの3/4を乳製品から摂る。ストロンチウム90はカルシウムと同じ消化のされ方をするために体内に定着し易い。
 1tのTNT-HEによる標準死者は40人とされる。
 三度の火傷は感染症の危機。ケロイドは通常の焼夷弾攻撃でも発生。
 被曝後の受胎児は奇形にならないようだ。
 ガンマ線を浴びると黒人は爪が青変する(p.464)。
 脱毛には順番があり、睫毛と鬚が先行する。ただし永久脱毛は一例もなし。
 放射線を浴びた海水も蒸留すれば飲料水として完全である(p.508)。※3Fの灰については触れていない。
▼H・トビン『アメリカ総動員計画』邦訳S16年
 南北戦争のとき、北軍は運輸・通信を統制。南軍は経済全般を統制。
 1917~8の経験では、米国の宣伝は主として広報委員会のうけもち。検閲は広報委員会の外、多数の機関によって行われた(p.59)。
 米のWWⅠ参戦熱に着火成功したのは、広報委ジョージ・クリール配下の素人宣伝家(p.60)。
 検事総長は25万人の志願者に政府の徽章を与え、破壊活動の狩り出し権をもたせた(p.71)。
 事前検閲は出版、報道、映画界に浸透。
 検閲に逆らい、榴霰弾の無効を公けにし、英陸軍にHEを採用させたのは、新聞。
 英はWWⅠの初期でドイツ宣伝ラジオをJamせず、反対宣伝で臨むことを決心。
 WWⅠ中の兵役拒否者は1500人だけだった。宗教者は除く(p.85)。
 米にはヴィッカーズやクルップに相当する大手兵器私企業なし。
▼伊藤博文 ed.『兵政関係資料』S10年
 鎮守府は、海軍の城郭たり。根拠地たり。
 横須賀鎮守府だけでは、九州や北海道沖で損傷した船がたどりつけまい(pp.12-3)。
 室蘭と舞鶴は対露用。佐世保は対支用。
 独人イヤリング教授いわく、日本は島国なのだから皇子孫は海軍に従事させろ。ロシアは皇太子を陸軍、第二皇子を海軍に入れている。日本はその逆をやれ。兵学校は江田島ではなく東京に置け。
 当時の三海峡は、紀井~淡路、伊予~豊後、長門~豊前。これ以外は封鎖できる実力がなかった。
 アナポリス優等生は英仏に留学させていた。
 北海道を防御したくば、本州から援助できる港湾に要塞をつくれ。函館と室蘭を考えろ(p.133)。
 M24の有地中将意見。スエズ運河は喫水25呎以上の船は通れないから、ヨーロッパが日本を攻めるにはケープを回る他ない。しかるに英仏露伊西の戦闘艦は1艦あたり877トンの炭量。戦時全力一昼夜で302トン消費する。つまり877トンは2日強で尽きる。経済速力でも5日しかもたない(仏海軍が証拠)。いろいろ考えると敵艦隊は4日毎に積み込みの要あり。香港、上海に石炭を供給しているのは、他ならぬ日本だから、連中に勝ち目は無い(pp.198-9)。
▼アラン・ムーアヘッド『ガリポリ』
 青年トルコ党の50%がユダヤ人で95%はフリーメイソンのメンバー(p.26)。ローマンカトリックは彼等を毛嫌いする。
 破産の脅しは抑止力にならない(p.37)。
 厳寒のダーダネルスには黒海から流氷が漂うことがある。
 この作戦には観測水上機を除き航空機は不参加?
 英のテストでは、透明度が良ければ機上から18フィートの深さの機雷を視認できる。
 たとえ老朽艦であっても「艦は人間よりも大切であるというのが全海軍の伝統であり、艦長たるものはどれだけの人命を犠牲にしようとも、艦を守り抜くようにつとめなれければならないのであった」(p.121)。※この義務あるがゆえに英国では艦長は最後は必ず船と運命を共にしなければならないのである。水夫に死を命じている以上は。
▼コルマル・フォン・デル・ゴルツ元帥著、フリードリヒ・フォン・デル・ゴルツ大佐補『国民皆兵論』陸大 tr.大15
 ※ゴルツ元帥は少佐時代、1883に普仏戦を総括した本を書いている。本書はWWⅠ後の読者対象。
 緒言、モルトケはクラウゼヴィッツの門弟だ。クラウゼヴィッツは近代におけるすべての軍事研究者の師だが、WWⅠを想像できなかった。
 大口径モーターは遅発信管。
 英の封鎖はハンニバル包囲の現代版だ。戦理は変わらぬ。
 大戦開始の際に4000万の人口の仏国が6700万のドイツと同等の常備軍をもっていた。
 参加総員の約半数の死傷者を出したボロジノ、アイラウの如き会戦は、大戦中に一度も見ることはできなかった。
 スーパー新兵器をすべての国が持たない限り、世界平和は無い。
 すべて新たにできた兵器はその法則をみずから作る。
 1813年以降、普国に於いては兵役は国民の当然負担すべき名誉の責務なりとの意見が行わるに至った。
 WWⅠの軍団の最後尾は1日行程分後方の路上にあるので、軍団が同時に戦闘に加入することはできなかった。稀に1日50km歩いたことも(p.47)。
 WWⅠ中、独はDをもって最大の戦術単位にするに至る。
 クラウゼヴィッツは、2単位制軍隊だと、その司令官は何もできなくなると警告す。
 騎兵と輜重縦列は、特に敵航空機に対して脆弱。
 以前は1000名よりなるBnが最小戦闘単位だったのに、今日では中隊~分隊も戦闘単位である。
 普仏役において加農/榴弾砲が敵の榴弾で損傷することがまったくなかった。
 WWⅠの偵察機は3機編隊で行動した。
 運動性劣る重爆は夜のみ使用され、昼は軽爆が出撃。※飛行船も。
 ベルサイユ条約は、観測気球や対戦車ライフルまで禁止してしまった。
 WWⅠ型LTKは「特製の自動車に載せて運搬し得」(p.76)。
 WWⅠ後、将校団は目の敵にされた。
 WWⅠ中、15万人の新任将校が、凡らゆる社会、凡らゆる職業より採用された。
 普仏戦時の仏軍将校の命令書は、詳細に過ぎた。ほとんどが9月革命で将校となった人々。
 ナポレオンは41歳で、フリードリヒは48歳で年齢超過を自覚した。
 「政策第一と云うナポレオンの金言」(p.198)。
 クリーグスプラーン:作戦計画←→オペラチオンス・エントウルフ:策動案。
 モルトケはもともと東西同時打撃を考えていたが仏要塞の発達により1878以降は西守東攻派となる。つまりオーストリーと共同でワルシャワあたりで露軍を合撃せむと(pp.258-9)。
 シュリーフェンはなぜそれを変えたか(pp.-260)。
 仏国新聞論調の好戦化は英仏協商後から。
 ~p.262までアロン引用の箇所と思われる。
 ベートマンは参謀本部のベルギー計画を知らなかった(p.266)。
 ※独国内の戦況報道が宜しくなかったのは国内があまりに分裂していたから。
 一等国ではじめて諜報勤務を整然と組織したのは仏(p.300)。
 7年役では戦闘隊形で行軍したので前進に道路を使用することは稀。
 夜行軍および夜間の部隊交替はWWⅠから(p.323)。
 WWⅠ前には「防者は全正面に於て成功した場合にのみ勝利を得るが、攻者は長い戦闘正面の唯だ一点に於て成功すれば、勝利を得る」といわれてきた」(p.358)。
 そこで小部隊による側面攻撃が多用され、常に成功した。
 クラウゼヴィッツが長生きしていたら、攻撃を有利と書き改めたろう(p.361)。
 フリードリヒ『戦争の一般原則』「故に攻撃を敏速に行うに従って、兵卒を失うことが益々少ない」。これは今日にもあてはまる(p.365)。
 「攻者は側面及背面の警戒を……成るべく猛烈に前方に向って攻撃することに依って、之を期すべきである」(p.368)。
 ドイツでは騎兵が軍隊の中でいちばん尊重され、国民の間に一番愛されたが、仏国軍隊では工兵および徒歩砲兵が優待された(p.414)。
 連合軍は後半2年、必ず歩兵の総攻撃にTKを集団的に先導させた。
 大量のガス弾の製造が普通の爆弾よりも容易かつ廉価(p.468)。
 「勇敢なる国民は爆弾やガス弾を以てする空中攻撃のみでは、決して屈服せぬであろう」(p.469)。
 フリードリヒからナポレオンになって、追撃が初めてできるようになった。
 「独断専行」を論ず(pp.530-2)。
 「精鋭な軍といえども、長い間劣悪な敵と戦って居れば、その能力が低下する」(p.541)。
 野戦軍の移動式炊事車は、日露戦争で初使用(p.574)。
 「如何なる史家といえども、支那人が長く存続するの故を以て、之をローマ人やギリシャ人の上に、置く者はあるまい」(p.616)。

摘録とコメント(※)

▼金子有鄰『蹄の音』S37年
 明治の戦闘用馬術を古くは要馬術という。
 日本馬は「馬当て」や人のふみつぶしができるが、西洋馬は不可。
 日本後記の弘仁3年に、「てい齧」(踏む・噛む)の荒馬の話。その脚色が今昔物語に。
 馬は犬と違い、主人の敵は自分の敵とは考えない(p.50)。
 鎗の大事は、突き出したものを掴まれぬこと。大刀では槍の柄は絶対斬れない。
 馬上刀は必然片手刀で、柄も短く、両手ではむしろ不便(p.56)。※だから宮本武蔵。
 佐久間象山は洋鞍をつけていたが、町を歩くときは馬丁の口取りが必要だった。
 槍で払うことを、しばき立てる、という。
 草書では「等」は「傘」と間違えられる。
 陸軍騎兵刀も非常に重かった。
 敵が自分の馬を斬ろうとする場合、これを防いではならず、敵を殺すことに集中。
 動物は怪我に鈍感なので、急所以外の防具は有害。
 馬に乗りなれぬ者の尻は桃尻といわれ、割れていない。
 やぶさめの語源は「矢馳せ馬」。
 古く、落馬とは人馬もろとも倒れること。人だけ落ちるのは「平落」という(p.360)。
 楠討伐戦で馬は役立たず。関東武士の威勢は地に堕ち、名馬思想も廃れた(pp.449-50)。
 北条匡房はオランダ人から攻城、砲術を聞き、兵書をあらわした。※「カチクチ」は「タクティケン」。
 太鼓は胴が長いと遠くに達しない。
 漢武帝より唐までシナ人はアラブ馬を大量に遠征獲得したが、これが三韓を経て我が国に移入された。初見は、神巧17年4月1日、百済よりと(p.504)。
 カウボーイの鐙は、欧州の古型をとどめる。
▼廣瀬清志『統幕議長の地位と権限』1979
 S53年、栗栖統幕議長が「択捉でソ連軍が上陸演習」と言うも、内局が「基地建設だ」とそれを打ち消す。
 が、7-29毎日は、米政府の「択捉ソ連軍演習」の判断を伝う。日米間の制服同志の情報交換が明らかとなって、金丸長官の怒りがバクハツした。
 作戦計画や軍事情勢判断も内局の手中。どんな機密も内局に筒抜け。
 制服は予算調整の権限もなし。
 ガリポリ上陸作戦が、初の陸海統合戦。
 米では軍高級人事は議会管掌。
▼宮崎弘毅『日本の防衛機構』1979
 連合国はMax20万人までの警察官を許可していた。当時、国家地方警察3万、自治体警察95000だったので、余裕分75000人の警察予備隊創設をマックは日本政府に命じた。
 ちなみに日本は4コiDで占領されていた。
 改進党のレトリック。教育の基本規定がないから教育基本法が憲法代わりだ。それと同様、自衛軍についても基本法によって憲法に代え得る、と。
 内局(内部部局)とは、長官官房、防衛局、人事教育局、衛生局、経理局、装備局。
 欧米では軍令は統合幕僚総長が文民長官を補佐する。日本では軍令も内局局長が補佐。 長官と軍人の間はすべて内局官僚がとりしきる。
 三自衛隊の幕僚監部は1951当時の米幕僚本部のコピー。
 国防会議に倒幕議長の常時陪席制度なし。軍事情勢判断への参画権なし。
 S47年、国防会議に国家公安委員長、内閣官房長官等を加えることを閣議決定。
▼御手洗辰雄『山縣有朋』S33年
 生れたのは新暦の6.14、旧暦の4.22で、足軽よりも一つ下の身分。
 松下村塾に10月に入塾したが、松陰は12月下獄した。
 1863-7の薩英戦争のときは、山縣は26歳で、奇兵隊軍監として壇之浦支営の司令。翌年が四国艦隊との戦争。26歳でリューマチス。
 薩長盟約は慶応2年1月。慶応3年5月2日、30歳で京都に行く。同行は鳥尾小弥太、伊集院兼次郎、中村半次郎。馬関で中村と待ち合わせた。5-18に初めて西郷とも会う。6月に京都から帰って7月に結婚。
 前原は陸軍関係の先輩。全く一介の武弁だった。
 親友は従道のみであった。西郷は徴兵で良いと考え、従道をして山縣を助けさせた。
 征韓論のとき、山縣は瘧[おこり]が起こった。※エピレプシー?
 頼山陽の漢詩はシナ人に見せられるようなものではない。
▼藤村道生『山県有朋』S36年
 奇兵隊のときに狂介と名乗る。
 M14、大山とともに東京防衛を建議。
 M8-12に廃刀令を建議。
 M22-2に月曜会を解散させ、偕行社に合一させ、三浦、谷、鳥尾らを予備にし、プロシア主義の外征軍建設で国論をまとめる。
 ※軍人勅諭は山県一人決めの修正憲法なのか?
 生涯の愉快事は、日清戦争で第一軍司令官となったこと。
 戦陣訓の祖形となる最初の命令は、山県がソウルに入ったM27-9-13に出した。
 三国干渉に反発する将軍連を抑えたのは山県の功。
 ニコライ戴冠式へは米国→仏経由で向かった。
 伊藤は大倉ふくむ政商資本家によびかけて政党をつくろうとし、山県は反対した。
 北清事変は山県内閣のときに起こった。
 M37-6、参謀総長になり、兵站総監を兼ねる。M38-12に両職解かる。
 日露戦争で山県は特に大本営に列することが許された。本人は満州軍GHQを望んだが、あまりに細部に口を出す性格なので、天皇が斥けた。
 山県は火鉢やテーブルを叩いて乃木の作戦を批難した。
▼W・ジャクソン『政治地理学』横山昭市 tr. S54年
 脚注、ソ連ではマッキンダー研究は公表されていない。
 南メソポタミアのシュメルの都市国家は確固に独立である。キシュ、ウル、ウルク、ラガシュ等。いずれもジグラットを有し、儀式場から発展した城壁定住地。そこからチグリス上流に殖民された。
 陸では隊商が結び、海ではインダス=ハラッパや紅海と船が行き来した。
 ナイルでは、メソポタミアにおいて不可能であった流域の統一を成功させた。陸では担夫と驢馬の交通に依存。
 フェニキアでは一人の王が多数の独立都市国家を統治。レバノン杉をエジプトまで運び、帰りはパピルスを積む。
 テュロス市は風向きに関係なく船を使うため島の南北に2港を整備し、メソポタミアとは駱駝で連絡した。テュロス商人は紅海まで進出。前814カルタゴ建設。前450にカルタゴ人はブリテン島に到達。
 ロンドンも元々独立都市なので、英国君主は儀式等に限ってロンドン城塞内に入ることを得。
 秦では人工運河が、インカでは道路が、内陸統一を実現した。
 19世紀殖民は鉄道が実現。ex.インド、シベリア、米西部。
 アレクサンダーの広域支配には、二つの首都(出撃拠点)が必要だった。すなわちバビロンとアレクサンドリア。
 始皇帝は長城で間合いをとり、首都から放射道路を造営。
▼青田学『金日成の軍隊』
 1947、日本製武器をソ連製に代え、48-2-8人民軍健軍宣言。
 45-10-25にソ連が空軍を組織してやる。これは海軍とともにまだ人民軍ではなかった。日本、シナの航空学校出身者を集めた。練習機は日本製。
 ※1957にマリノフスキが中共に提案した電波体制とは、SUB用ロランCのこと。
 国連軍が38度線を越えると金は満州の通化に逃げた。12月、平壌を奪回してからは慈江道別午里、または江界にいた。
 中共の抗米援朝志願軍は水中橋であらかじめ豆満、鴨緑江を渡河し、潜伏。
 ※このとき中共軍は石油のほとんどをソ連から補給された。もちろん製品で。そしてソ連自身はこの時期はまだルーマニア油田が頼みだった。とても米軍とは戦えた状態ではなかったので毛沢東をけしかけた。
 ソウル死守を唱える北鮮を中共がオーバーライドして指揮し、退却。※北鮮兵などというものは居らず、全員シナ兵だった。
 1958頃の北鮮軍訓練はすべて夜間と洞穴訓練。
 馬匹は1960’s中盤に車両化した。
 FROG-5/7は69から装備。
 南派ゲリラ戦は1965-7にテスト。67から正式に養成。
 金は非正規戦主義に傾き、68に近代化を主張した軍首脳を粛清。
 徴兵は16歳から。
 夏期は人民軍は0500に起床するも、1300~1350午睡あり。
 1988-1のプエブロ号事件で予備「労農赤衛隊」の3割が1週間で師団編成され出動準備。
 主たる基地は平壌~元山線以北の西岸。爆撃機は満州国境に配置。
 69-3に米はフォーカス・レチナ演習。米本土から空輸で援軍を韓国に移動させた。C-130/141など185機で。各機は21時間で到達した。
▼『海外国防資料』S42第27号その2
 朝鮮戦争で米軍1コDの1日あたり所要補給総量は500トン。対する中共は60トン。旧日本軍末期に等しかった。
▼堂揚肇『日本の軍事力』S38年
 SDFの1コDの1日戦時補給量は、糧食30トン、石油50トン、弾薬300トン、その他が35トン。
▼『ソヴィエト年報』S29年
 1927のソ軍はiD×70コに対しTK×180台。
 第二次五ヵ年計画を経て、1937にはiD×100コに対しTK6700台。欧州随一。
▼副島種典『ソヴェト経済の歴史と理論』
 1937にはトラック生産量でも欧州第一位になる。
▼コリン・グレイ『核時代の地政学』
 著者にいわせると、パワーは「攻撃の恐怖からの自由」というネガティヴな安全保障とは無関係で、「米国の価値を発展させること」がパワーであると。
 アトケソン将軍の観察。ソ連の長期目標は、へミスフェリック(半球的)なディナイアル(拒否)だ。
 ヨーロッパ・ロシアには460メートル以上の高地はない。
 黒海←→バルチック海間は1127km。
 コラ半島の海岸線は390kmで、その海岸線から浮氷原端までの平均水路幅は290km。
▼飯田嘉郎『航海術史』
 ヘロドトスによれば、前600エジプト王ネコはフェニキア人に東回りのアフリカ一周を命じた。彼等は沿岸に立ち寄っては種を撒き、収穫しつつ進んで、3年目に戻ってきた。
 前500、カルタゴのハンノ隊は、50橈の船60隻に3000人を乗せてシエラレオネに到着。食糧が尽きて、還る。
 地中海人によるインド洋季節風の発見は前100か。
▼H・シュライバー『道の文化史』邦訳1962
 ギリシャ人は黒海沿岸に殖民市をつくり、農産品を本国に発送した。
 クレタ、古代ギリシャ、エジプトの道路は商用でなく宗教用。
 ペルシャ王の道。ダリウスI世は統治のために道路を整備した。わざと主要な都市を避け、最短距離を通しているので、外敵には利用し得ない。※内線防衛作戦のインフラ。
 ペルシャ湾岸からアドリア海岸までの2500kmを乗馬伝令が10日で駈けた。
 インド初の統一者チャンドラクプタ(前298死)も総延長2400kmの道路を造る。多くの渡し場を摩擦なく運営させた。
 アレクサンドロスはギリシャ人の土木技師団を使い、迂回路の設営によりしばしば会戦せずして勝利を得た(p.32)。
 9万の兵が30km/日のペースでインドに進む。そこにマケドニアから絶えず補給が行なわれた。
 前13世紀のエジプトでは駱駝が知られていない。ロバと牛のみ。十分な水が得られないと南方には交通できなかった。
 ナポレオンの道路建設もローマ人に匹敵。
 前2世紀初頭までイタリアには古い未舗装商業路しかなかった。兵士の無聊からの反乱を予防するため、ローマは平時は軍隊を辺境での道路建設に忙殺させた。
 軍団に先行して道を直す工兵隊はローマ初期から存在。
 しかしローマ人は山間路は嫌い、できれば船、荒天時のみしかたなく海岸道路を歩くというスタイルを好んだ。
 南スペインのオブルコからカエサルは27日でローマに戻った。
 ローマは大規模な占領軍は置かず、わずかな駐屯軍と、道路によって急派できる本国の軍団により支配した。
 コルベールから道路と橋梁の整備を委託されたゴーティエ等、ローマ以後荒れ放題の道路の復旧に着手。近隣に水をあける。
 18世紀半ばまでに、かつてローマが13500km整備していた一級レベルの道路を、フランスは2500km有するようになった。
 1802~5のナポレオンのシンプロン峠道の開設には、発破が使用されている。※1820死の本多利明はとうぜんこうした情報を得ている。
 軍隊は発電所が脆弱であると考え、蒸気機関車を選好した(p.310)。
 ディーゼルエンジンの実用信頼性はWWⅠの潜水艦が初めて証明した。
 WWⅠ後、数十万台のトラックが市場で叩き売られた。
 中世ヨーロッパ人もアルプスの山岳を嫌った。
▼ケネス・マクセイ編『Tank Facts and Feats』1976
 古代の進化した軍事国家アッシリア BC1100~670。ヤギ皮を張って浮航渡河できた3頭曳戦車と弓兵。騎兵なし。
 記録された最初の chariots はBC3500頃、ウルとカルデアのスポークなし4輪・オナジャー4頭曳き・2人乗り車。
 エジプトはウルのスポーク付き戦車をコピーし、BC1680の対ヒッタイト戦に勝利。
 車戦は本質的に個人戦。だから人口が増し、集団戦術に移行すると廃れる。
 装甲騎兵があらわれると、車はそれに対する防護用になりさがった。
 中東では、ローマの Orchomenus の戦い(BC86)が最後。
 実質的にはペルシャがアレクサンダーに敗れたときに終わっていた。
 戦車の君臨期間は3000年で、BC700頃から装甲騎兵の時代になる。これが1000年続いた。
▼秋葉鐐二郎『宇宙開発近未来』1986-12
 抗力は速度の二乗に比例するが、熱の発生率は速度の3乗に比例。
 低軌道200kmの衛星といっても、遠地点では500kmになる。
 高度200kmは真空ではないが、固体が昇華し、消耗してしまう。
 真空中の衛星中のわずかな空気は、放電をきわめて起しやすくする。
 モンゴルフィエIR気球は、地面放射IRを熱源とする半永久高層気球。
 SEU・単一事象アップセットは、放射線によりデジタル記憶の1と0が反転してしまう事故。
 衛星を放射線から守るため、アルミ1ミリ厚板が必要。大気は遮蔽効果あり、高度500km=スペースシャトル高度の円軌道では、人体に影響ない。
 磁場の強さは距離の逆3乗に比例。
 重力は距離の二乗に逆比例(ケプラー法則)。
 軌道の摂動……6要素がゆっくり変化していく。
 ノズルの大きさを見れば、推力もわかってしまう。
 アブレーション断熱材は、シリカガラスで強化したフェノール樹脂。
 WWII中の固体ロケットの評価低かったわけは、今日のコンポジットに比しダブルベースで、工程のフレキシビリティ低かった由。
 液酸液水の実験は50年代の米でやっと。
 ペイロード10~100トンを中型、以下を小型、以上を大型という。
 フォン・ブラウンはV-2に翼つけて射程を延ばそうとした。
 シャトル発射はブースタ全開後、固定ボルトを火薬でふっとばす。
 放熱勢量は、(絶対)温度の4乗に比例。
 宇宙ステーションを回転させた動場でも、三半規管が角速度を検出し、不快。

摘録とコメント。

▼B.ヴォーチェー大佐『ドウーエ将軍の戦争学説』S14年
 著者は仏人。この冊子は『航空記事』5月号附録。
 ペタン元帥の1934-6-7序文付き。※伊の仮想敵は仏。
 空襲は、短期決定的でなければ、敵人民はけっきょく堪えてしまう。※そのような空襲は核攻撃しかないことがイラクで証明された。
 ドウーエは空軍を他の2軍から独立させ、政府直轄の総予備にしようとした(p.52)。※これをチャーチルがエアコマンドで初実現し、それをFDRがイタダいた。
 当時「戦闘機」とは全周火力を有するもので、前方火力のみのものは「駆逐機」(パースーター)と呼んだ。ドウエは前者を推した。※これが数々の双発複座戦闘機を生む。
 空襲では、物心両面に於いて最も敵に苦痛を与える機関を狙え。それが文明的戦争である。またその手段としては毒ガス空襲が結果として人道的である(p.93)。
 ドウエは、破壊第一、屈服第二の主義。「占領は結果にして原因にあらざるなり」(p.108)。
 空中戦力はいざというときまでとっておく切り札ではなく、開戦時に投出すべきもの。
▼末永雅雄『武器史概説』S46年
 ※文献案内が整った一冊。
 鎗の初見は1331(元弘3)の戦闘記事「南部文書」。
 刀剣について。「把の長さが両手の把握に適するようにつくったなどは、剣道による変化と考えられるのであって、中世の初めにはまだ片手把握を普通としているものが多い」(p.16)。
 廻り鉢。上半球が力を受けると回転するようになっている(pp.120-1)。
▼G.チャイルド『歴史のあけぼの』
 第三王朝の終わり、エジプト帆船は170フィートに。
 インダス川流域文明も、小降雨地帯にあり。
 インダス川とその諸支流は、大きな都市人口を養うための食糧を広い地域から集める輸送網になった。西と北は大山脈で、東は大インド沙漠で外敵から間合いがとれた。面積はシュメルの4倍。インダスにロバと駱駝は無い。
 ペルシャ湾からラガシュの農民に、またアラビア海からモヘンジョダロの農民に、海産魚が供給される。石器時代にはなかったこと(p.146)。
 青銅時代では、あまりかさばらない贅沢品しか遠距離に陸上輸送し得ない。
 東地中海文明ではバラ荷は瓶や俵に封印して輸出。
 ハムラビは、ロバに曳かせるソリッドタイヤ戦車に代え、輻つきの軽快な馬曳戦車を用いた。
 エジプトがヒクソスを追い払うためにも馬に曳かせる新式軽戦車を採用せねばならなかった。これがナイルにおける車両の初め(p.174)。
 ※便利なものは、これをフルに利用しないとき、他人が自分を亡ぼす手段になる。
 小アジア高原では、農業用泉が分散していたので都市集中が起こらなかった。
 フェニキア人は、船を漕いでナイル川に8日で到着し、帰路は、風向きが良ければ4日で済んだ。平底船でちょくせつ河岸住民に小間物を売った(p.185)。
 シリアのステップの隊商は、1日30マイルで旅行を続けた。ユーフラテス河岸から東へ360kmいくのに19世紀の記録で10日かけている。
 アッシリア、エジプト、ヒッタイトの中期の安定は、戦車によって官吏や地方行政官が早く旅行できたから(p.198)。
 軽戦車の改良の早さに比べて金属利器の進化は遅い。
 アッシリアは敵住民の皮をはぎ、クイで刺し殺し、運河をうずめたと記録される(p.214)。
 ダリウス~クセルクセスはインドの戦車隊も徴募。新領土の治安維持の組織をつくった。
 航海は不安定なので、陸路の移民よりも文化は混合する。北アフリカの殖民市は、メソポタミアの殖民市ほどには母国フェニキアに似てない。カルタゴが共和国だったとき、フェニキアは中央集権だ。
 前450のアテネは、主食を輸入依存するようになった最初の政体(p.225)。
 ヘレニズム期にロードス島からアレクサンドリアまでの海路4日は縮まらず。
 西アジアでは毎年、ごく短い間だけ雨で隊商路が泥沼化する。北イタリアではローマ道を離れれば周年泥沼。しかしローマ道上では、1台の馬車が1隻のハシケ相当の荷物を運ぶことができた。
 道路が悪いと輸送コストのため非ぜいたく品の工業製品(ex.陶器)の輸出は伸びぬ。すると職人じたいが移出する。そして現地で他の商品のコスト攻勢からよく守られて、独自文化が育つ。
 ローマ道が、イタリアをフランス製品の市場にしてくれた。
 AD25頃、ローマの工業技術は属州に拡散し、属州間貿易がとだえ、自給に戻る。※奴隷制の上で輸出努力しないため各地域の購買力が衰えた。
▼G.チャイルド『文明の起源』下巻
 帆かけ船は前3500までナイルに現れず。
 三角洲の西からはリビア人、東からはベドウィンが攻めた。
 BC1500直後、学者たちはエジプト、小アジア、シリア、メソポタミアの首都の間を自由に旅行していた。
▼徳田釼一『増補 中世における水運の発達』
 交通地理は、表・裏を通じて西日本が恵まれていた。海岸線の凸凹により。
 上代の貢物は初め陸路運送だった。延喜式をみると、大宰府、遠江、因幡からの海路運送あり。
 主要2ルート。西海→瀬戸内→淀川。北陸→敦賀津→陸路→水路→大津。いずれも官船が用いられる。
 荘園が強力になると、官用の船・車・人馬が地方で勝手に使われ、律令制は崩壊。
 律令では港湾は1区に1港が原則。荘園は港のある海辺を獲得しようとした。
 伊勢神宮が大湊を領有したのも、東国に散在する神宮御厨から海路輸送される年貢を収納するため。
 「梶取」は南北朝より「船頭」に変わった。船頭はシナ貿易船の船長の意で、鎌倉時代までは九州に来る宋商人を呼んだ(p.95)。
 若狭湾の小浜。応永年間に南蛮船が2回来た。朝鮮貿易の拠点。
 中世末期に帆の大小で船の格を表現することが一般化。室町時代に兵庫と大湊に造船所。
 港湾使用の関税が生じた。港を持つ荘園は潤った。
 鎌倉幕府は繰り返し関所廃止令を出した。
 淀川には享徳2年には180もの関があった。のちに616に増えた。
 土一揆は関を焼き討ちすることが多かった。商人の脱税を後押しした大名は強くなった。
 貞治、出雲に着岸した蒙古・高麗の使者が、その献物を海賊に奪われた(p.249)。
 朝鮮からの渡来船は、応仁より後、瀬戸内海の海賊を避け、若狭に。
 毛利、上杉、今川、信長は次々と課税を強制廃止。海賊鎮定作戦もこの延長で、信長から秀吉に引き継がれた。
 朝鮮征伐で水運業界は完全統制下に大発達した(pp.287-8)。
 中世、琵琶湖でさえも、漂没多し。
 山賊は、律令末期から増え、鎌倉初期に一時屏息。しかし鎌倉中期以降、激増。
 戦国諸侯は交通業者への課税を免除して富国強兵策とした。航海業者は富力を蓄積し、道路は改修された。
 淀川遡行は綱引人による。
 応仁の乱のとき西軍方の大内氏は、東軍の瀬戸内での待ち伏せを避け、西国の糧秣を日本海ルートで敦賀に。
 美保関には明船も来着。
 室町時代に船が準構造船から構造船に進化した。
 倭寇は福建から外国船を買い、それをコピーして底を尖らした船を造り、航洋性・凌波性を獲得。
 李朝の文によれば唐船も倭船も藁草を織って帆としていたが、それが麻や綿帆になった。
▼加茂儀一『騎行・車行の歴史』
 牛は重連しにくい。
 記録に残る最古の馬の調教所は前1500のオリエント。日本では「責め馬」という。
 駱駝はブーラン(砂嵐)を予期したとき以外は走らない。だから御具は発達せず。
 ギリシャ人がケンタウロスとみなした小アジア人は、地中海文明にさきがけて前2000頃に乗馬機動。
 馬具も馬術も未熟な古代には乗馬のままの接戦は避けられた。可能になったのが、中世騎士。
 ヒッタイト(旧約のヘテ人)は青銅斧と戦車。戦車は前1900から使われた。
 車の材料たる杉はメソポタミアの北のミタニにしかない。エジプトすらそこから戦車を得ていた。ヒッタイトがそこを占領。その後、ソリッドタイヤがスポークタイヤになる。車輪そのものは前3500から。
 前1500のアッシリア、ペルシャ、エジプト、インド、殷の大帝国は、戦車によって可能だった(p.27)。
 ヒクソスの南侵は気候乾燥のため。この傾向は続き、エジプトでは馬が使えなくなり、駱駝とロバに替わった。
 アッシリア人はヒッタイトから馬具を知り、改良し、秣の代りに穀物をあてがい、完成された初の騎兵に。ペルシャ人はモンゴル馬との交配で馬体を向上させた。
 ペルシャ騎兵の末裔がパルチア騎兵で、ローマとも漢とも接触した。
 インダス文明は牛車と象。征服アーリアンは騎馬と戦車だった。
 クセノフォンの時代の騎兵突撃は、後世のドラグーンのピストルを投槍にしたようなもの。スピードはギャロップだとUターンできないので常にキャンター(緩駆)。
 アレクサンダー軍の馬は湿潤熱暑のインドで蹄裂傷を起し、侵攻頓挫。
 西アジアではその病気はありえない。
 イタリア半島も乾燥地だがアルプス以北は湿潤のため蹄が軟化してしまう。ローマ舗装道だと著しく磨り減る。そこで鉄板製のヒッポサンダルを縛り付けた。
 ローマ末期に蹄鉄が実用化なり、周年遠征が可能になる。
 ローマ帝政は胸帯による輓曳法も発明した。これで作戦距離が伸びた。
 十字軍は乗馬がアラブ馬に著しく劣った。またトルコ兵の遠矢が馬を傷つけ、現地で馬を調達した。
 イングランドの大弓も三角断面のヤジリで鎖帷子を貫通する。埜は3フィート。
 この強弓対策として鈑金甲冑が14~15世紀に発達するが、接射で90度ならば貫かれた。また馬も装甲せねばならず、機動力の優位が減じた。
 14世紀末からの火器導入でヨーロッパの騎兵時代は終わり。イタリア小国家のみで生き残る。
 ドラグーン戦法。敵前15ヤードまで速歩で来て、停止。前列が2梃のピストルを順次射つ。第二列が同じことをする間に後退。
 クロムウェルは、ピストル斉射の後、速歩で白兵接戦にもちこんだ。
 17世紀の道路の悪いヨーロッパでは乗馬はトロットできない。18世紀に道路が改善され、4輪馬車ならトロット可能に。
 王政復古時、密猟と造船のために森林が破壊され、赤鹿、まだら鹿がイングランドから消える。狐すら貴重品に。
 囲い込みで柵ができたので、18世紀後半の狩猟家は飛越が必習となった。狐狩り、銃猟、乗馬、柵の4要素は、欧州大陸では揃って流行ることなし。だから英式馬術は独特に発達。
 シナと匈奴の争いは、前3世紀の秦代から7世紀の唐初まで。
 モンゴルの矢は長さ2フィート、三角ヤジリで、ヤスリで針のように鋭くされていた。三頭の替え馬に輪乗した。
 関東や中部山岳に古代日本馬の産地があったのは、湿気による蹄病が少ないため。源氏の勢力圏にだいたい一致する。

摘録とコメント

▼岩村忍『文明の経済構造』
 考古学者ゴードン・チャイルドや社会学者カール・ウィットフォーゲルは、テクノロジカルな水利工事を都市や文明の原因とした。
 岩村反論。デルタに人が移動する前の丘陵生活でも水利技術は存在したと。
 食糧革命から都市成立までは7千年かかった。
 ナイルと違い、岩盤のチグリス=エウフラテスは一貫した舟航はできない。
 メソポタミアは建材や香辛料を周辺山岳と南アジアに求めた。
 成立段階でエジプトはメソポタミアから刺激を受けた。象形文字はシュメルの影響だ。
 エジプトが必要とした青銅原料は、小アジア、カフカズ、イランに遠く求めねばならなかった。
 前1500頃、鉄器化と馬馴化が同時におこる。北方蛮族はメソポタミアからこれを学び強大化す。
 ヒッタイトはアナトリア人。鉄を産し、輸出した。
 優良な鉄鉱石が黒海、インド、セレス(支那)からギリシアに輸入された。
 アリストテレス『オイコノミカ』は前3世紀のペルシャ経済を分析。
 ギリシャ植民市は本国の干渉を受けなかったがローマ帝国はそうでない。と、アダム・スミス『国富論』。
 カラバンとモンスーン利用の舟により、ローマの商品はインド、シナまで達す。
 ローマは敵のペルシャの中継ぎで極東から絹繊維を輸入した。
 明末から清初にかけ、カソリック宣教師がルネサンス後の欧州文化をシナに持ち込んだが、需要者がヴェブレンいうところのレジャー・クラスだったのと、貧農→都市労務者のあり余る資源のため、医・農学ふくむ実用技術は顧みられず、天文学と数学が尊重された。日本はその逆をよろこんだ(pp.38-9)。
 ローマの手工業は属州に、農地は辺境開墾地へと遷移。空洞化が生じていた。
 3世紀のディオクレティアヌス帝は財政再建のため、貨幣納税を廃し、穀物に代える。市場なくなり、交易途絶え、輸入物は高価な奢侈品のみに。
 遊牧蓄の価:駱駝>馬>羊≒山羊。
 牛は多量の水を要するので遊牧に不適なのだ。
 蹄鉄をつけたパルティア騎兵は550kmを2日で走破。ローマ時代のステップで。
 ウェーバーいらい多くの学者は、封建制とは広域経済圏の崩壊に伴う現象だという。
 イスラムが海上冒険できるようになったのは7世紀半ばいこう。ウマイヤ朝が艦隊をつくってビザンチンを攻撃した。9世紀にバイキングは地中海に達した。『後漢書』によれば166に東ローマの使節が入貢。※ということはトルコもいずれはシナ領土というわけだ。
 モンスーン航船は600人乗れた(p.85)。
 アラブとシナの最初の接触は8世紀中。
 唐末に広州等が黄巣の叛徒により破壊されるまで、サラセン商人は広、杭、揚、泉の各州海岸に居留地を維持していた。
 宋代にシナが安定すると再びアラブ人が訪れた。
 宋代は史上かつてない都市発達時代。世界最初の紙幣も。
 宋船は小型で、日本や朝鮮との貿易限定だった。
 羅城は外郭を城壁に囲まれた都市内部。
 宋代、野合して散じ易いものを瓦といふ。転じて演劇の意味となる。徳川時代にそれを日本読みして河原の字をあてたのが、かわらもののはじまり。京都の四条河原とは何の関係もない(p.123)。
 バルト=北海=近東をつないでいたキエフ公国のノヴゴロド市は、モンゴルに対する防備のため商業活動が中断し、ロシアとヨーロッパは13世紀に切り離された。
 インダスとメソポタミアはインド人の出す船で交流していた(p.143)。
 このインド文明は前1500にアーリア人が侵入して亡びた。このとき少数支配のためカーストを生ず。
 以後インドは前500のシャカの時代まで歴史的に空白である。
 643にイスラムがパキスタン海岸に到着した。
 9世紀はじめにアラブがアフガンを征服した。
 16世紀にムガル王朝により全インドがイスラム化した。
 エジプトの都市化の発生と進展は相当遅かった。著者いわく、都市と文明は関係ないのだ。
 メソアメリカ(今のペルー)の前800のオルメック遺跡に都市の影はない。
 古代ギリシャのストア派以後の西洋のモラリストの主張は、性格、知能、肉体の相違を問わず、人間は等価とする。エガリテリアニズム。
▼日本歴史地理学界 ed.『日本海上史論』明治14年pub.
 足利時代、対馬人が朝鮮の港で戦闘したことあり、そのけっか釜山以外は閉ざされた。
 日本では西船東馬だ。
 呉は水上は得意なので、赤壁に曹操を破る。
 清和天皇の貞観21年、新羅の海賊船×2が豊前~大宰府の租税船を劫める。大宰府の官兵はおじけづいて追いつかず。蝦夷人に命じて討たせる。
 足利氏のとき、麗倭といって60戸に限り朝鮮の沿岸に移民が認められた(p.231)。
 江戸期には、奥羽を出帆し、下総の銚子口から利根川を溯り、関宿から江戸川を下って府内に。
 初期の台場はすべて波打ち際(低地)に置かれ、山上ではなかった。また、砲台と連携する軍艦を置かなかった。※照準器にロクなものがなかったため、水平直射以外は命中を期待できない。
 元寇のとき、河野通有が敵艦に小さな和船を漕ぎ付け、帆柱を倒して敵船に乗り移り、敵将を殺し、武器を奪った。この話が500年間の日本武士の海防戦の理想となってしまった。鼓吹したのが頼山陽の蒙古来の詩。彼が日本防衛を非科学的なものにした(p.355 & pp.360-1)。
 肥前唐津湾で島原乱後、外国武装商船を焼き打ちしたことあり。佐藤深淵は科学的な国防を構想した(pp.364-5)。
 品川台場建設のとき、木戸孝允は人夫に化けて江川太郎左衛門を観察。
 佐久間象山は江川の台場を無益と論じた。
 品川造船所や石川島、横須賀造船等の最初の職工の大部分は、戸田で江川が露船を造ったときの実習者(p.388)。
 カノン砲は鋼鉄製と決まっていた(p.391)?
 韮山→滝野川→関口水道町→小石川水戸屋敷跡……と移ったのが、陸軍砲兵工廠。
 演練のことを調練という。大調練は観兵式。号令は江川がオランダ語から日本語に直した。剣を刀としなかったのは、号令にしたときの響きが悪いから(p.399)。
 『築城典型』は蘭書の訳だが、日本で始めて亜鉛活字を用いた。
 下関砲台も低地水平射ち式で、口径5寸ほどの「長加砲」。24ポンド砲。有効射程20町。
 神武東征は紀伊半島沿いに太平洋を北上。宮川上流に上陸か。南朝の吉野は山中のようではあるが、谷が四方に通じていた(p.466)。
 海軍水路部は、航海に必要な浅海情報だけを収集していた。
▼ジャン・ルージェ『古代の船と航海』
 ギリシャ人は海が好きだったのではなく、やむをえず航海者だっただけだ。
 陸路と海路の危険は等しかった。海賊はローマ帝国前期で消えたが山賊は常にあり。
 東地中海では7月10日~8月25日に北風のため、北部アフリカからイタリアには渡れなかった。ローマ全期を通じて。
 カエサルの兵は渡河のときは革袋を用いた。
 ヘロドトスによればエジプトには大形板のとれる木がないので、アカシアを使った。稀に、エジプト・イチジク。
 エジプト船は骨組みは弱い。寄せ板構造のため。船底には荷物を載せない。しかし航海の際はバラストが絶対に必要だった。※バラ荷があり得ない。高付加価値の文物だけ長距離運ばれる。
 アテネは制海権をもっていた頃、造船用森林がない。マケドニア、トラキアから桧、杉をもってきた。
 樫は地中海では軍船の竜骨材となる。
 古代、船客は食糧を持参し、水については船の設備を頼んだ。
 樽はガリア起源で、ローマ初期まではアンフォラに流動荷を入れた(p.79)。
 エジプト~ローマまで、船の接岸は船首でのみ行なう。
 古典的な三段櫂軍船は、全力衝突の後、後方に漕ぎ、あけた穴から浸水させる。
 epibates(海の歩兵)は、少数のみ前方上部構造に載せた。
 epopides(敵船の櫂を薙ぎ折るための船首衝角補助棒)はペロポネソス戦争期に完成。ヘッドオンですれちがいざま破壊す。
 三段櫂船には、沖合い荒天航行力なし。好天時のエーゲ=エジプト間のみ。
 ペルシャ艦隊の中核は、より多数の海兵隊員を乗せたフェニキア三段櫂船。
 前4世紀末、ヘレニズム時代の諸王国は、巨大船を発明し、アウグストスがローマ艦隊をつくるまで地中海を支配。
 カルタゴは人的資源少なく、ローマと比べ、訓練されたクルーの補充ができなかった。 ローマが実施した最大の海上作戦は前214~3のシラクサイ封鎖。
 ローマは常備艦隊の維持に気乗り薄で、海洋同盟国の駆使を選好。
 256~282、人員不足のため、ローマ艦隊は半減した。
 古代エジプトでは、紅海の航行は異例のものとみなされていた。
 カルタゴは亡ぼされる前、ジブラルタルを封鎖。大西洋航海独占を企図。
 ロードス島は小麦と葡萄酒の地中海貿易(といってもローマが消費のために一方的に輸入する)センターとなる。
▼ジョン・ランドン・デーヴィス『冬季に於ける機械化作戦』大江専一 tr. S19年
 著者は英人。
 ソ連は対フィンランドにウクライナ人を投入した。
 森林に道路を啓開し、そこに湖水をポンプで流すと氷道ができる。冬の道路。
 ソ軍は兵も車両も白色迷彩せず、夏のママ。
 1939-10~11月の日付のみられる『ソ連スキー戦闘操典』が多数散乱していた。
 スキー戦闘は必ずスキーを脱いで行なう。フィンランドのスキーに踵を止める金具なし(pp.31-2)。
 スキー着用中の吊れ銃は、体前の胃の辺に斜に吊るのがよい。※PPShにやはりスオミの影響?
 ソ連にはアキオがなかったようだ。重機を2枚スキーに積んでいる。
 ソはウズベク、カルムクス、東洋人も投入(p.81)。
 ソの戦法。バラージ2h+数分間空爆(この前後30分、砲撃休み)+歩兵突撃(同時にAir support)
 T・A・ビッソン「日本経済瞥見」というロシア語訳論文も散乱していた。
 ハートの1937本を引用し、ソの密集好きを難ず。
 スウェーデンも対フィン武器援助していた。
▼外務省調査部第三課『辺疆問題調査第一号』S10年
 海岸に「ソヴィエト」地区をつくらないよう指導している。攻撃に弱いから。
  ※だから北サハリンに亡命政権をつくるのが最善だったのだ。
▼B・Tuchman『愚行の世界史』大社淑子 tr. 1987、原1984
 被征服民族に対するアッシリアの政策は、追放。
 コルテスは上陸するや、自分の船を焼いて退路を断った。
 ムーア人のスペイン征服も、スペイン内戦の敗者が外国に助けを求めたことが発端。
 ソロンは理想の法律をつくったあと、10年間の船旅に出た。
 カトリックは百以上の聖人の日を守ったがユグノーは日曜しか休まなかった。
 愚行は、その後も同じやり方を固執するところにある(p.25)。
 ラオコーンの話はホメロス後1世紀ごろの創作挿入。
 チャイナ・ロビーが猖獗を極めたのは1950~60’s (p.274)。
 中共は上陸戦により蒋軍守備の海南島を占領した。
 熱烈プロテスタント党のダレスは宗教ゆえに蒋と李を支持した(p.281)。
 ACデイヴィス海軍中将はインドシナ介入について「ひとたび戦争に突入したら、安上がりな戦争の仕方というものはないと理解してもらわなければならない」(p.282)。
 ダレスとアイクはマッカーシーを恐れていた。
 脚注、ラドフォードは対支予防攻撃思想を抱いていた(p.291)。
 リッヂウェイは現ファンダメンタルズの非近代性から朝鮮への地上軍投入には反対だった。
 レトリックから教義へ(p.293)。※→無策か究極かの大量報復戦略。
 ケネディは1965に再選されたら、撤兵させる気だった?
 ※ジャングルの百姓村は盲爆しても構わないが敵の都市民は爆撃できないとする奇妙な価値観に米国人はとらわれていた。これは戦中のシナとコミンテルンの宣伝が利いていた。じっさい、長崎後も、核兵器はアジア人に対してのみ使おうとされた。インドシナでは敵の独裁指導部が存在する都市だけ爆撃すべきであった。この咀嚼された戦訓がイラクで実験された。
 バーク「政治における雅量が真の英知となることはまれではない。偉大な帝国と狭量な心は調和しないものだ」
 ※「過度の野心」とはトートロジーではないのか。
▼フィリップ・ナイトリー『戦争報道の内幕』
 英では1870の教育法のおかげで1880→1900に新聞数が2倍。Daily News は普仏戦中に発行部数が三倍に。
 クリミアとボーアの間のすべての戦争は英国に関係なく、そこでの大胆な特派員記者は人気者。
 普仏役の初期までは速達郵便記事。電信採用されるや、記事のスタイルまでが電信文と類似に。
 日露役で完全報道検閲時代に。
 The Times のライオネル・ジェームズに無線機つきの船で日露戦を取材させるかわりに、日本情報将校が乗り込み、その船と設備を借用した。
 英ではWWⅠ時に国土防衛法。検閲制度が創設され、新聞は御用化した。
 WWⅠ前まで英軍人の仮想敵は仏(p.42)。
 英では宣伝関係のあらゆる書類が役後、破棄される(p.42)。※ウォーターゲートのヤバイ証拠を大統領が始末させ得なかった米政体との顕著かつ根本的な差。英国おそるべし。
 WWⅠ中の仏新聞は情緒的英雄譚でページを埋め、Newsのひとかけらも報道されなかった。タンネンベルクのロシア敗退は英でも戦後まで伏せられた(p.49)。
 チャーチルはアスキス首相にThe Timesの官房化を提案した。
 WWⅠ中は兵が前線で撮影すると銃殺だった(p.56)。
 英は最初の数ヵ月で、過去数百年のすべての戦争を合計したより多くの士官を失った。総戦死者ではWWIIの3倍である(英軍)。
 ジョージ・オーウェルはスペインでスターリンが独立左派を主敵と見ていたことに気付く。→“1984”へ。
 1939-4の英平時徴兵制が女も対象としたのは文明国では史上初(p.168)。
 1940-6~8月、6千人以上の裕福な家の子供たちがイギリスを脱出した。
 1941の英で本の検閲は新聞ほど厳しからず。
 WWII中、独ソ戦はソ国内でもまったく報道なし(p.199)。
 独軍は1コiDあたり1500台の馬車と600台の自動車を有す。英米iDは3000両のトラックあり。
 ベトナムは検閲なかったが、それが却って将軍に詳細を語らせないことに。
 朝鮮戦争初頭にも検閲まったく無し。
 が、マックは朝鮮戦争中、17名の特派員を日本から追放。
 イギリス部隊の方がモラル強かった。
 危険な感じはテレビでは決して伝わらない。
 ワシントンには調査報道基金・FIJがある。1000ドルくらい助けてくれる。

摘録とコメント(※)

▼津田重憲『正当防衛の研究』
 ギリシャでは「同害同報」。
 主観的危機感からの殺人は「誤想防衛」。
 正当防衛の相当性:不面目な逃避になる場合の防衛は可。ただし相手が子供、狂人の場合は、逃げないと罪。
 自ら招いた侵害に対する自衛は正当化されない。自招侵害に対する正当防衛。
 藉口防衛:逃げていく加害者を追い討ちすることなど。
 他人のための正当防衛は「緊急援助」。
▼星斌夫『大運河』
 書経に禹貢とあり、水路漕運によって首都に税糧を輸送していたことが推定される。
 呉は、対楚作戦の兵糧を、人工運河、陸行、水行を経て運んだ。
 呉は揚子江と淮河を運河で連絡した。これを使って兵糧を北に運び、斉を破った。
 淮南子の人間訓に、始皇帝が南越・広東を討つために渠をうがって軍糧を運んだと。
 史記・平準書に武帝の運河整備事業。
 後漢に、生産力中心が、関中(長城の南で、黄河中流の北域)から関東(黄河下流の北域)に移る。
 隋直前に生産力中心が揚子江(江南地方)に移る。それまでは中原地方、つまり黄河。
 荷物で重くなった船の遡航はむずかしかった。とくに10~3月の黄河の減水期は、支渠すべて航行停止した。
 徴兵制が傭兵制にかわった唐末、漕運需要が著増。
 長安はその大消費を大運河一本でまかなっていた。
 元は金と戦って征服した河南、山東の税糧を水路で通州にあつめた。南宋を後略するときも、各地の短い水道をフル活用。
 元じしんによる運河工事は、泥堆積のためことごとく失敗。遂に海上へ物流路を求めた。
 元代に造船技術も向上。
 南宋滅亡直後、大都へのコメ輸送は馬車で。礼器と図書は海船で。
 元代の海船は、2~3航海にしか堪えなかった(p.82)。
 淅江~北京の間で遭難すると、沖縄方面ではなく、朝鮮に漂着した(p.97)。
※昔の呉の沿岸で遭難した船は海流の力で半島南端の西海岸(つまり百済地方)または出雲地方に漂着する。日本人は百済まで赴けば南シナの技術情報を簡単に蒐集できた。
 明代は元への反動で海禁政策。しかし太祖が元を北方へ駆逐するときに士卒へ軍餉を輸送させたのは海船であった。
 明代の船は、河海両用の北運船。
 豊臣氏の朝鮮出兵に対しては、海運で糧食補給。登州から旅順口まで、順風帆走2日であった。
 運軍からの逃亡者が捕らえられると、面上に“逃丁”と刺青された。
 日清戦争中、日本は海運の安全を保証した。
▼馬場鍬太郎『支那水運論』S11年
 北方では、ラバ、ウマ、ロバが駄載用、ラバ、ウマが牽引用。
 南方では、ラバ、ウマが駄載になっているが、牽引獣はない。南方では人力が商品交通の主要素で、舟がそれに次ぐ。
 マックスウェーバーは西洋は森林文化で東洋は治水文化だと言った。
 長江は山峡の難あり、また季節の増減水が大きいが、価値は絶大。
 清代の洪秀全も用兵上、大運河を利用して長江に出て金陵に拠った。
 1872に汽船会社が海運サービス始めると河路は淤塞した。
 水路利用が徹底していたため、鉄道化は遅れた。
 1トンの貨物車を曳くのに北方では7~8頭要る。それで20哩/日。
 欧州では、運搬用に河川に注目したのが15世紀で、改良工事は17世紀から。
 河口付近は泥が厚く、大船は進入できない。19世紀。
 長江へは、周年2000トンの船が入る。夏の増水季は1万トンOK。
 揚子江は、ふつう屏山県が民間船の遡航の終点。しかし小舟は叙州上流60哩、蛮夷司まで可能。そのあいだは急流。
 重慶~宜昌の遡航は、汽船のないころは30~40日がかり。冬期も不凍。
 南満河川は小艇のみ可。北満は黒竜江系により大船可。
 全満水路は年200日しか航行できぬ。
 松河江支系はイカダのみ可。
 満州の降雨は、朝鮮国境で最大(p.312)。
▼国分直一『東シナ海の道』
 安藤広太郎によれば、江南海岸から北九州に向かう航海は、他の経路にくらべて危険度は小さい。
 国分反論。明時代のシナ人ですら沿岸航法をとっていた。遣唐使船は南路でほとんど遭難している。※その後、シナ皇帝の謁見の季節が決まっていたこと、そこから逆算すると滞在費が乏しい関係で、日本人は季節がよくないのを承知で出港するしかなかったという説明が誰かからあった。シーズンを選ぶ自由があれば、あれほど遭難はしないと。
 殷代、黄河に水牛あり。
 南西諸島は先史稲作の導入経路とならず。
 殷代に稲作あり。呉越戦争で呉を亡ぼした越王が海上から山東に入ろうとする。そのとき、漁労民が脱出したのが弥生文化だと岡正雄説。
 保存蓄積できぬ芋の文化は文明に発展しない。
 漢魏の頃の稲作北限は、山東南部から蘇北(p.62)。
 『後漢書』「鮮卑伝」。酒泉をふたたび寇したとき、秦水というところで軍糧の穀物と獣肉を土地から得られずに困った。魚だけはたくさんいたが、漁師がいない。そこで、倭人は「網捕」を善くすると聞いたので、倭人国を撃って、千余家を得、秦水上に移住させた。おかげで糧食は助かった。
 三国時代、呉は夷州なる海外の島を討伐した。台湾か?
▼高瀬重雄『日本海文化の形成』
 1年のうちかなりの期間、北西風。リマン海流が日本海を還流する。
 Pacific-sea を漢訳して「寧海」。
 渤海:もともと遼東~山東の両半島に挟まれた黄海の一部を云う。
 北九州一帯の気候は、山陰に似、曇天・雨・雪の日が多い。
 安倍比羅夫の蝦夷鎮定にあたって、越(日本海側諸国)は、大和朝廷が陸奥へ向かうための前進基地。兵糧を送るための舟を造り、また捕虜収容所も置いた。古代末期、津軽十三湊←→越の舟運が。
 「せんたい」という袋を古代の日本兵は担いだ。食糧を入れた。他に、支給の公糧がある(p.59)。
 高句麗を建てたツングースは、南満州「とうか」江流域に猟牧す。はじめ都を鴨緑江の中流に置いたが、413年に大洞江畔の平城に移す。
 唐会要。玄宗は渤海本国を討とうとしたが大雪と山路険阻のため失敗。
 安禄山の反乱の情報は発生後3年で朝廷に達した。
▼『春秋左氏伝』鎌田正氏解説
 疑わずんば(確信があるのに)何ぞ卜せん。
 魯と斉の戦で多数の兵車が用いられた。
 偏戦とは約束して決戦すること。詐戦とは約束を破っての奇襲作戦。
 普と楚の戦では普は各3人のりの兵車700乗を投入。城撲にて。
 それ文に止戈[しか]を武と為す。
 学びて後に政に入る(役人になる)を聞く。未だ政を以て学ぶ者を聞かざるなり。
▼『タキトゥス』国原吉之助 tr.
 計算書は、ただ一人に検査されて、はじめて都合よくいく(p.10)。。
 ローマ歩兵の担ぐ荷は重かった。そして老兵すらこき使われた。
 総督は反乱を圧するために剣闘士を養い、武装させている。
 盗癖のある奴隷から財物を守るため、食物や酒瓶にも封印し押印した。
 ゲルマニア人は木製楯。大半は先を焼いた棒の槍のみ(p.47)。
 「自分の功績は、自分が認めているだけで、充分だ」
 北海では天候は激変する。しかし岩礁はなく、砂濱である。
 ローマ人は双子を慶事とした。
 鉄のヨロイを着た敵に対してはローマ兵は斧や鶴嘴を使用。
 アウグストゥスは軍事統治の実相を隠すため首都衛戍軍を天幕キャンプに分散させていた。
 阿諛は遅れるほど仰山だ(p.111)。
 ローマの外征将軍は、自分の戦績が凱旋憲章に充分とみとめると、それ以上の作戦はやめた。
 解説。平時ローマにおける元首と市民自由の関係の調和を考査した。
 タキトゥスが記録した事件の子孫はリアルタイムで存命していた。悪い行いの記録も、栄ある美徳の顕彰も、すべてそのまま現世人への風刺、風諫である。
 トラキアの2~3の部族は山頂に定住し、近隣の部族と以外、絶対に戦わない(p.127)。
 尊敬されるのは文体に払った苦心よりも、文体のもつ気迫である。
 投身自殺は見苦しいとされた。
 ローマ人は官職を徳の報酬と考えた。年齢下限はなかった。
 かつてイタリアは食糧輸出国だったのに、アフリカやエジプトから輸入するようになったのは、土地が痩せたからではない。
 クラウディウスは兵の忠誠を買うために賄賂を使った最初の元首。
 市民に自由の印象を与えるために、公広場の警備兵を隠す(p.230)。
 ネロ 「いっそ間接税を全廃しては」
 元老院「そうすると直接税も廃止しなければならない」
 モセテ河とアラルを運河でつなぎ、海→ローヌ→アラル→運河→モセラ→ライン→北海と舟運可能に。
 その昔、劇場は立ち見だけだった(p.252)。
 AD59-60のアルタクサタ=ディグラーノケルタ300マイル(標高1500m級)の孤軍行軍は快挙。
 ローマ兵は穀食し、肉を有害と考えていた。※嘘。肉も食っていた。
 モナ島攻撃用に平底船をつくる。騎兵は馬にすがって泳ぎ渡る。※ナポレオンはこれをヒントにブリテン島を攻略せんとしたのだろう。
 オクターウィアの下女のうち大部分は拷問をうけても女主人をかばった。
 堕胎は未だ罪ではなかった。
 パルティア人は槍の投射加速具で戦う。
 「一般にわれわれは、人の怒りを買おうとしてよりも、人に恩を売ろうとして、いっそう多くの罪を犯すのである」(p.278)。
 進撃、退却はラッパの合図によった。
 「じっさい、民衆というものはいつも政変を待ち望みながら、しかもそれを恐れているのだ」(p.288)。
 自由市民への拷問は違法。
 当時の竪琴弾きの作法と聴衆の作法(p.303)。
 ネロは亡命先としてエジプトかパルティアを考える。
 アグリコラは百姓の意味。
 ブリテン島のカレドニアにはゲルマン種、南方にはヒスパニック、ガリア対岸にはガリア人種が住んでいる。
 気候は鬱陶しいが、寒さは厳しくない。南方系植物は生えないが土地は肥えている。
 ブリタニア人は、服従するために支配されるが、奴隷となるまではおちぶれない(p.330)。
 castraは常設陣営。castellaは要塞。ともに重要道路に沿う。
 「つまり、誰もが、はなばなしい成果なら、これを自分の手柄として吹聴し、みじめな運命なら、これを一人のせいにしてしまう……」(pp.338-9)。
 在英ケルト民族は1m以上の刃の鈍い大剣を持つ。騎戦用で、歩戦用に向かない。
▼『プルタルコス』
 テセウス。合図の白い帆をあげるのを忘れたので絶望して自殺したという話の初出。
 ソロン。「風によって海は波立つが、動かすものさえなければ、海ほど平穏なものはない」※日本近海との相違。
 ソロンを容れたペイシストラトスは、戦争で負傷した者は国費で養われることにした。
 アルキビアデス。新月の夜に月明かりで犯人の顔をみることができようか、という推理探偵プロットの初出。
 デモステネス。ラオメドンなる男、脾臓の病気を防ぐため長距離走を始め、ついに最優秀ランナーになりました、とさ。
 アレクサンドロス。彼はイリアスを戦術資料として読んだ。アリストテレスが校訂したもの。
 総司令官のことをヘゲモーンという。
 自噴油井への言及(p.197)。
 インドに入る前、多すぎる戦利品の山を焼いた。
 理性ある人の間では、水や必要な食物のためにだけ止むなく戦争が行われる(p.208)。
 戦象は今と同じように訓練を受けていた。
 ガンジス下りは筏の他にガレー船使用。
 酒飲み競争をして42人が死んだ話。
 クレオメネスは、重装歩兵の投槍を両手鉾に、把手盾を革紐で支える盾に替えさせた。
 ロムルス。さらに今日に至るまで花嫁は決して自分から寝室の中に進み入ることなく、抱き上げられて運び入れられるという風習が続いているのは、あの時も力づくで連れてこられたのであって自分で入ったのではないからである。
 凱旋の起源(p.264)。
 ロムルスが、アルゴス式円盾を、サビニ式楕円大盾に代えさせた。
 母親による子供の毒殺(p.269)。。
 支配とレジティマシーに関する初の言及。「それが維持されるのは、正当なことに固執するから」。
 「植木と同様に手入れと人目につく場所が必要」(p.280)。
 カトーは自分に厳しかったが、使用人や役畜にも甘くなかった。
 カトーはマニリウスを、昼間に娘の見ている前で妻を抱擁したとの廉で除名した。
 ローマ人はギリシャ風を知るまでは裸を恥じていた。
 サピエンスには賢人と慎重な人の両意あり。
 ローマ軍は火矢も使用(p.336)。
 メラス川は流れを舟で通えるものとして、ギリシャ唯一。
 BC5のスパルタ王の言葉。戦争に必要な富というものは際限がない。
 ローマ人は突き癖のある牛の角にまぐさを巻いて通行人の注意を促す(p.351)。※ここから、火牛計の場合は角で火を燃やすのが自然だったのであり、尾で燃やしたとするシナの文典は泰西情報を加工した作り話であることをほぼ推断できる。泰西からシナまで話が伝わる時間は現代人の想像以上に短かかったと知るべし。
 逃亡兵への古い懲罰。真っ先に逃げはしった集団を十人づつの組に分け、それぞれから籤に当たった一人づつを、衆目前にて処刑。
 クラッススはブルンジウムから冬の強風を冒して出帆したが、果たして多くの船を失った。
 パルティアの振り向きざま弓射はスキタイ人に次ぐ。また、駱駝に矢を山積して射まくり、ローマ歩兵部隊を全滅させた。風上に砂を盛り上げ、風に乗せて目潰しとした。
 「ローマの国家がこれほどの勢力に発展したのも幸運によるのではなく、危険に立ち向かう人々の忍耐や勇気によるのである」(p.364)。
 ポンペイウスの騎兵に対し、カエサル側歩兵は、投槍を投げずに顔をめがけて突くように命ぜられた。
 カエサルはepilepcyを患っていた。手紙を用いてローマ市と連絡しあうようにし始めたのは彼。
 ローマ市民の武器でガリアの財産を得、それをローマ市民に分配して、政治力を得ようとした(p.426)。
 ポンペイウスは海から補給を受けつつ戦い、カエサルはそれができなかった。
 槍は元来は足を打つもの(p.440)。
 護衛をつけず、人々の行為にこそ守られようとした。※マックが真似。
 「予期しない死」が最良であると。
 クレオパトラの魅力は美自体ではなかったこと。
 潜水夫に、釣り針に魚をかけさせる(p.498)。
 パルティア相手の戦闘では、山を右手に逃げよ、との勧告(p.503)。
 ローマ軍は鉛丸を使用。

摘録とコメント。

▼リチャード・マイニア『勝者の裁き』安藤仁介 tr. 1972
 シュレジンジャーいわく、ベトナム政策の立案者は、いずれもスチムソンの弟子たるバンディ兄弟とラスクだったと。
 最も侮蔑的な態度をとった(p.106)ウェブ裁判長も高柳を支持し、共同謀議を非法とした(p.62)。
 ケロッグの1928講演「自衛のために戦争に訴える必要があるかどうかは、その国のみがこれを決定し得る」(pp.71-2)。
 フィリピンに対する侵略は訴因から外された。独立国でなかったので。
 米とソのみ、軍人を裁判官に混ぜた。
 大陸法の方がコモンローより証拠基準が緩い。
 オランダが日本に宣戦したのは日本の蘭領攻撃よりも早い。日本はオランダに1942-1-11宣戦。
 チョムスキーは1930’sの対日政策を批判(pp.176-7)。
▼マシュー・F・スティール『米国陸戦史(上下巻)』1969第6版、T.K.訳、保安隊幹部学校pub.原1909
 カナダには道がなかったので侵入は常に水路による。
 フィリピン討伐中にフィリピン側を応援した米人もいた。
 ワシントンはしばしば小隊分散という基礎的過誤を犯した。
 独立戦争の資金は徴税ゼロで仏からの借金と紙幣刷りによった。ワシントンは私財で兵を養う。
 南部はサムター要塞さえ攻撃しなければ分離の既製事実化に成功しただろう。この先制攻撃が北部人を一致団結させ、熱狂をまきおこし、大統領の義勇兵応募に殺到せしめた。
 リンカーンは軍事経験皆無で、デービスはプロ軍人だった。
 デービスは欧州に小銃1万を発注している。
 追撃の重要性を解っていたのはジャクソンだけ。
 ジャクソンいわく「常に出来れば敵を迷わせ誤解させ且つ驚かせよ」。状況特に有利でない限り、決して優勢な敵と戦う勿れ(pp.270-1)。
 南北戦で不落だった陣地の共通要素。凹道によって囲まれている高地。ただの丘ではダメだった(p.335)。
 リーとジャクソンは、軍隊の行軍と同じ速度で野戦電線を架設する手段をもっていなかった(下巻p.24)。
 チャンセラーズビルが、両軍の歩兵隊が塹壕を利用した最初の大戦闘。
 南アフリカの戦訓。高地が防御に有利とは限らず、低地が不利とも限らない。
 ピッツバーグ、メッツ、パリ、プレブナ、サンチアゴ、旅順港の経験は、市街を砲撃するより飢えを待て、と教える。
 ミショナリーリッジの南軍。歴戦のプロだったのに、全連邦軍を見渡せる高地であったため、攻撃前2日間の敵の準備をみていてすっかり臆してしまい、守れる陣地を捨ててしまう。パニック。
 グラントの電報と書簡は、すべて、自軍よりも敵軍の方が損害が多いと言っている。
 シャーマンは、鉄道から100哩離れて作戦することはできないと(p.241)。
 米西戦時、海大はあったが陸大はなし(p.309)。
▼板倉卓造『国際紛争史考』S10年
 旅順口と通信していた露国側の無線電話局があった。これを発見し、凹ました(p.36)。
 バ艦隊は蘭人の無線技師クーイを同行していた(p.179)。
 1904-12-3、英国は独船がカーヂフ港で石炭を積み込むことを差し止めた。
 S5-9-29、スウェーデン公使フルトマンによる神奈川県金沢町轢殺事件(p.407)。
 FDRは資産家猟官公使制を、プロ外交官に代えた。
 ポーツマス条約は仏文を正文とす。日清講和条約は英文が正文。
▼平等通照 ed.『国語に入った梵語辞典』S53年
 nadi(河) →那智
 アバダは天然痘の隠語になった。
 右から左に書くセム文字がBC700頃メソポタミアから北西インドに入った。
 ばかも梵語由来。
▼渡辺銕蔵・抄訳『ソ連の石油飢饉』S17年12月pub.
 ※10月に上海の雑誌に載ったA・Riva「Oil for the Tanks of Russia」。
 1932の600万トンから1938の150万トンに石油輸出が減ったのは内需拡大のため。ソ新聞によれば1940の自動車用燃料の生産額のうち6割はトラクターによって消費された。また灯油はソ連国民の代表的な炊事用燃料である。
 カスピ沿岸のマハチ・カラ~グローズヌイ~マイコープ~黒海トゥアプセに至るパイプラインは170万トン/年。
 枝線にマイコープ~アーマヴィル~ロストフ~ドンバス~リシチャンスク。また、マイコープ~クラスノダールもある。
 バクー~バツーム(黒海)は2本のパイプラインで、ひとつは170万トン/年の原油を、もうひとつは100万トン/年のバクー精製油を送る。
 バクー~グローズヌイ間は1939着工。
 カスピから内水使ってタンカーを白海まで達せしむ。
 昨年、ドンバスおよびウクライナの多くの製油工場が既に枢軸軍の手に帰した。
 最近のイギリスからの報道によると、ソ連の鉄道網は、輸送能力50万トンにおよぶ油槽車をもっている。※だったらテヘラン→タブリッツティフリスと運べないか?
 ソ連の同盟国からは、彼等自身の油槽船の状態から見て何等の有力な援助をも期待できない(p.20)。
▼ヘロドトス『歴史』上中下巻
 タレスの河流二分工事&渡河(上巻p.62)。
 当時アジアにおいては武勇でリュディア人を凌ぐ民族なし。騎馬で長大な槍を揮う。
 キュロスの駱駝の計。
 スキュタイ人は、ヨーロッパからキンメリア人を駆逐して、コーカサスを右手に見ながらメディアに侵入。アゾフ海からリオン河まで、軽装徒歩なら30日。
 メディアのほかの地区はすべて平坦であるのに、黒海方面だけは山が多く、森林で蔽われている。
 世界中でペルシア人ほど外国の風習をとり入れる民族はいない。
 彼らが河を敬うことは非常なものである(p.110)。
 ペルシァの将ハルパゴスが盛り土戦術でイオニア諸都市のひとつテオスの城壁を占領すると、テオス人は全市民船に乗り込み、海路トラキアに向い、ここにアブデラの町を建てた。
 ペルシャ大王の出征時の飲料水は、河水を沸かして銀器に保つ。おびただしい数の四輪騾馬車で運ぶ(p.141)。
 バビロン(アッシリア)では、人工運河の最大の一本のみ、舟航可能(p.144)。
 河下し船の荷は、椰子材の酒樽と、帰り用のロバ。
 エジプトの、ヘリオポリスからテバイまでは遡行9日。
 ペルシャ人には王家の後裔を尊重する気風があって、叛旗を翻した者でもその子孫にはいつも主権を返す。
 ノモスこそ万象の王(p.307)。
 註、蛙はナイルには棲息しない。
 弓はエチオピア人、槍はエジプト人が愛用。
 ダレイオスはスキュタイをコーカサスを右手にしつつ追った(中巻p.14)。
 遠征より一世代前、「蛇の襲来」が北方からネウロイを南に逐った。
 スキュティアは寒いのでロバ、ラバはいない。
 ペルシャ人は弓と短槍、帽子を用いる。
 ペイシトラトス一族は樹木を伐り払い、騎兵行動を楽にしてスパルタを出撃。
 ダレイオスは召使に給仕のたびに「殿よ、アテナイ人を忘れるな」と三唱させた。※呉越。
 カリア軍はアイアンドロス河を渡り河を背にして戦うべし。こうすれば、もって生れた以上の勇気を出すに相違ない。
 註、ギリシャでは春秋に雷鳴多い。地中海は冬が雨季。夏が乾期。
 できるだけ平坦地で決戦しようとするギリシャ人をペルシャ人がわらう(下巻p.15)。
 「われら[ペルシャ]が行動を起さずとも、彼らの方では同じようにはせぬ。いや必ずやわが国に兵を進めてくる……」※これが真相だろう。
 穀類は粉末にして輸送した。
 「さればはかりごとを立てるには小心翼々、あらゆる不測の事態を考慮し、実行に当っては大胆不敵であるような者こそ、理想的な人物であると申せましょう」(p.44)。
 ペルシャ兵装。フェルト帽。鉄ヨロイ。柳編みの盾。盾の下にえびらをかける。短槍。大型の弓。矢は蘆。右腿に短剣を吊るす。
 十人隊長から万人隊長まであり。
 エジプトに「海戦用の槍」あり(p.61)。
 「人間を生き埋めにするのはペルシアの風習なのであろう」(p.74)。
 空壺を埋設して、テッサリア騎兵の馬脚を折る(p.167)。
 「戦闘中にはよくあるとおり、矢の当ったものの周りに大勢兵士が駈けよってきたが」(p.223)。
 「異国軍の兵士は相手の長槍の柄をつかんではこれをへし折ったのである」。ペルシャ兵の敗因は、身に装甲のなかったこと(p.278)。
 軍隊を女への贈り物にするのはペルシャ独特の風習。
 アメストリス(♀)はマシステスの妻の両乳房、鼻、耳、唇、舌を切って犬に投げ与え、変わり果てた姿をその家を送り届けた(p.309)。
 解説。ヘロドトスの没年は前430以降である。
▼池田博行『帝政ロシアの交通政策史』
 鉄道は運河より15倍速く、輸送費は1/4である。運河は春の増水期だけ利用すればよい。
 防衛上の見地から広軌を採用したが、1917の赤軍のワルシャワ攻撃は軌幅差のために手を焼いた。ポーランド軍はレールを換えながら簡単に前進した。
 ナポレオン撃退後に軍道整備。しかしクリミア遠征した32000の兵のうち、辿りついたのは12000だけ。
 通信線はクリミア戦争に間に合わず。セバストポリ包囲の報道はパリ経由でペテルブルクに届いた(p.94)。
 欧露の北部の河川は5~10月が航行可能。中部では4~11月。南部では3~11月。シベリア南部では5~10月。中部で5~9月。シベリア北部は6~8月だけ。
▼菅井・田代『アメリカ技術史』S24年5月pub.
 ※米国人によるモト本があるはずだが記されていない。占領軍も太っ腹だった。
 ※まえがきを見る限りでは、このジャンルの一般向けの啓蒙書は戦前は無かったようである。
 イロコイ族の長屋はカマボコ兵舎そっくりだった。
 初期米国には石炭がなく、ために石灰(漆喰)は得られなかった。かくして剥き出しの羽目板という米国風家屋が成立。ただし工作が悪いと隙間風が酷く、そこは泥土で塞がれた。
 丸木小屋はスカンジナビアで創造された。この工法のすぐれているところは、釘を使わずに、しかも、漆喰を塗らなくとも隙間風が入らないこと。
 灯火は鯨油ランプか、暖炉そのものであった。
 冬期の農閑期の副業が家内制工業の揺籃であった。仕事は暖炉の周りでした。
 靴屋は道具が軽いので渡り職人となった。村々の有力者の家に何日も泊まりながら註文をさばいた。
 米国最初の図書館はB.フランクリンが1729にフィラデルフィアに建てた。
 フランクリンのペンシルヴェニア型暖炉は、加熱気をN字状に煙突に導き、その最初の屈曲部および下降部の鋳鉄筒からの輻射熱で室内全体を暖め、かつ煙突からの隙間風の逆流を防ぐ発明。薪が少量で済み、しかも室内が煙くならない。
 フランクリンはこうした発明の特許をとらなかった。「われわれは他の人々の発明から非常な利益を受けている。自分の発明が他の人々に役立つ機会を喜ばねばならぬ」
 1752にフランクリンは雷雨の中、物置に雨を避けながら凧を揚げた。紐は麻紐だったが、そこに結び付けた絹糸が毛羽立った。また、手元に近いところに結びつけた鍵に指を近づけると、強い火花が出た。
 追試を重ねた結果、雷雲には陽電気と陰電気があると分かる。
 1752に避雷針を発明。大きな建物では数本使えばよい。避雷針は最も高い煙突上から壁沿いに地中まで届く長い金属棒で、接地部は地中で直角に曲げて壁から8フィートまで引き離したのち、ふたたび下方に4フィート潜らせておく。
 サミュエル・スレイターは少年紡績工を英国のように搾取せず、見苦しくない畏服をあたえ、教育を施した。スピニング・スクール。
 独立戦争で英国から梳綿機がこなくなったので、エヴァンスはこの機械をつくる機械を発明した。
 米では作業容易なシーアイランド綿は南カロライナとジョージアの海岸低地にしか育たない。他はすべてアプランド綿だが、これは繊維が短く、縁の種子に繊維が強く接着しているので、手工的に引き離すのが大苦労であった。奴隷が休まずに作業しても1人が3ポンドしか採れなかった。そこで綿花農場に寄宿していた青年ホイットニーがこれを機械化する単純な装置をこしらえた。それは1日に綿50ポンドを分離できた。ところがそれを農園で披露された地元の紳士たちは欲どおしくもたちどころにめいめい勝手にこの発明の類似品を特許申請したのでホイットニーは後には嫌気がさして銃器製作事業に転ずる。
 ホイットニーの綿梳機械の原理は最初から完成されたもので、その改良が各地で進められた結果、女工が1人で1日に100ポンドの綿を製造できるようになった。その結果、英国紡績工業に対する最大かつ独占的な原綿供給者として米国南部経済は急成長することになった。その結果、南部では非常に奴隷が増やされた(綿の栽培と収穫までは機械化できなかった)。それまでの奴隷は扱われ方が人道的だったが、「綿の増産すなわち大金持ち」という南部経済の構造ができてしまったので、以後は奴隷の酷使が進んだ。
 かくして南部は当然に、自由貿易マンセーとなった。北部はこれから工業を養成して英仏に対抗せねばならぬのだから、保護貿易が必要だ。こうして南北は対立コースに乗った。
 入植当時のニューイングランドの沼地には鉄が石ころのようにころがっていて、それを熊手で集めて製鉄の原料にした。
 当時、鉄鉱と不純物を液状化するまで加熱できる熱源は、木炭だけだった。それも窯の中にいっしょに入れて燃やさねばならない。必然的にそれらの窯は崖地に設置され、原材料は驢馬で崖上に運び、そこから窯に投入し、水車鞴で炉の底に空気を送り、銑鉄と鉱滓が別々の口から流下してくる。
 鉄は貴重なため、釘、蹄鉄、釜、銃、大工道具、鋤の刃部等にのみ使用された。多くの機械と歯車、馬車の車輪、車軸すら木材であった。鉄を採掘する機械までが木製だった。
 1898にフレデリック・テイラーが高速度鋼を実用化。タングステンクローム鋼を空気焼き入れした工具刃は、切削仕事を続けて700度まで熱をもっても軟化しない。これで作業効率が6割も上がった。
 これがWWⅠ中に世界に普及した。
 米国の資源上の欠点は、ただマンガンが国内で採掘されないことだけである。
 独立戦争で硝石の自給が確立した。古屋の下から1ブッシェルの土をとり、水に混ぜ、それを濾灰槽で漉し、透明になるまで煮詰め、冷やすと、1/4ポンドの硝石が採れた。
 シャンプレイン湖とニューヨーク港をハドソン河が結んでいる。ここを英国船に通航させないことが北部をバラバラに分断されないカギで、そのために北方タイコンデロガに先手をとって遠征した。つぎに河口から遡行されないように、総重量180トン、500ヤードの巨大鉄鎖を6週間で鋳造し、丸太に結び付けて北岸からウェストポイントまで流し、錨で固定した。
 18世紀はじめにスイス人とドイツ人が宗教的理由から渡米しペンシルヴェニアに定住した。その辺境ランカスターは鉄砲鍛冶のメッカだった。
 遠方を一人で行動する職業狩猟家にとって弾薬は浪費できない。その要請が小口径のライフル銃を発達させた。
 18世紀なかばのランカスターのRossers製の典型的なライフル猟銃は、.32口径、弾重49グレイン、黒色火薬22グレインで初速1483フィート/秒、100ヤードでは弾速は850フィート/秒であった。
 このペンシルヴェニア型ライフルは独立戦争のころにはヴァージニア、ニューヨーク、アレガニー山脈まで普及していた。しかしマサチューセッツ州には行き渡らず、そのためレキシントンとバンカーヒルの民兵はマスケット装備なのである。
 マスケットに照準器はなく、60ヤードでは当たらない(p.78)。
 ヴァージニア出身のワシントンは最初から千数百名のライフル銃隊を組織できた。
 英軍はこれに対抗するためドイツの狙撃兵を雇ったが、そのライフルはペンシルベニア型に劣り、不振に終わった。
 ライフルのマズルローディングの手順。角製容器から掌上に火薬を注ぐ。それを銃身に注ぐ。油を塗った丸い布パッチを銃口に置き、その上に弾丸を重ね、おやゆびで押し込む。先端の窪んだヒッコリー製の槊杖で突き固める。
 コルトは連発銃の木模型を早くから完成していたが、それを事業化するための資金が得られなかった。そこで染物工場で知った笑気ガス(亜酸化窒素)をつかった大道見世物でカネを貯めた。1946以前には電気発火式の水雷を試作した。テキサスvsメキシコ戦争でようやく連発銃の需要があり、ホイットニーの工場の近くにハートフォード兵器工場を開いた。
 トマス・ロッドマンは緩燃火薬を工夫した。燃焼が遅いほど、頑丈でなくても高い初速が得られる。大粒火薬は、燃えるにしたがって燃焼面積が小さくなるので逆効果。輪胴形の火薬粒に成型すれば、燃焼ガスは次第に増えるようになる。
 1786にラムゼーが完成した蒸気船は、水流を船尾からポンプ噴射するジェット・プロパルジョンであった。4マイル/時で遡上できた。
 アパラチア山脈以西の交通は自然河川を利用できない。ここから運河と鉄道が必要になった。
 最初の大事業がハドソン河上流とバッファローを結びつけるイリ大運河の開削。沼地の難所は厳冬期の凍結中に掘り進んだ。また生石灰モルタルではない、水硬セメントを開発し投入。
 この運河によってそれまで別々の地域であった東部と中西部(イリノイ、インディアナ、オハイオ)が一体化し、ニューヨーク港は大西洋最大規模に発達し、ミシシッピ河~ニューオリンズ経由の内国廻漕ルートは廃れ、これまた南北戦争の雰囲気を醸成した。
 トレビシックが蒸気鉄道を発明したのは1804だが、なんと1813まで、平坦な軌道に平滑な車輪を密着させれば機関車が列車を引いて走れるということが分からなかった。
 1831にジャービスがボギー台車を発明し、機関車を長くすることができた。
 英では機関車の燃料は最初から石炭だが、米では森林があり余っていたので薪だった。燃料がなくなれば、乗客が総出で斧をもって沿線の森林を伐採し、再び走行を続けた。
 米機関車独特の不恰好な煙突は、薪燃料に由来する火の粉の対策である。この火の粉は乗客の衣服にも、沿道の家屋にも、かなりの脅威だった。
 英国では鉄道は既存の地上利用を尊重して曲がりくねったルートが決められているが、米では鉄道はあらゆる地上物をまっすぐ貫いて敷設され、速度を殺さないようにした。
 このため、踏み切りと排障器が発達した。
 鉄道も南北でなく東西方向に発達した。
 スイスのトンネル掘削に圧搾空気が利用されているのにヒントを得てウェスティングハウスは列車の空気ブレーキを開発した。
 モールスは最初は紙に信号が印字されるものとして完成したのだが、やがて耳で聴いた方が分あたりの送信字数を増やせることがわかってきた。
 米では1820頃から石炭ガスのガス灯が普及した。それ以前の照明では細かい手元作業は不可能であったが、これ以後は夜なべ、夜更かしが可能になった。
 シンガーは月賦販売を発明した。また、彼の訴訟から、機械発明品の特許は先に完成・実用化されたものが優先されるという判例が出た。
 工業用ミシンがレディメイドを大量安価に提供したので、衣服の「手縫い」は廃された。この結果、家庭婦人の余暇時間が増えた。
 政府からマスケット銃の量産を請け負ったホイットニーは精密ジグを実用化し、互換性のある部品を連続量産することに初めて成功した。1818のフライス盤の発明はその延長。この小銃工作機械を1854にプラットが量産した。
 1868にブラウン・シャープ社は1万分の4インチを測定できるマイクロメーターを完成した。
 1864にセラーズは標準ネジ規格を制定。1899にはチューリヒでネジの国際規格が決まる。
 エジソンの母親は小学校教員だったが数学はダメで、エジソンは終生、計算を人に頼んでいた。12歳ころ、ギボン、ヒューム、ユーゴーなどを読んでいた。
 家は貧しくなかったが、12歳から列車の新聞売り子に志願し、終点駅の図書館で日中を過ごし、空いている喫煙室を化学実験場にしていた。ここで燐によるボヤを起し、車掌に殴打され、そのときに片耳の聴力を失った。
 電話の受話器の鉄片の震動の強さを知るために針をつけて錫箔の上に当ててみた。するとかなりの深さの溝が掘れた。ここから蓄音機を思いついた。多くのエジソンの発明は「組み合わせ」と「事業化」の努力なのだが、蓄音機だけはゼロからの発想であった。当時、かなり教養がある人でも、レコードの原理について容易に納得をし得ず、それはインチキだと疑っていた。
 WWⅠで独から円盤原料のフェノールが来なくなると、エジソンは自分でコールタール以外のものからフェノールを製造する方法を発見し、1日1トンも製造した。
 1915からは米海軍のためにASW関連の40近い提案をしている。
 初期の自動車は晴天時にだけ乗るもので、冬期は納屋に仕舞いこまれた。だから屋根は無い。
▼田岡良一『国際法上の自衛権・補訂版』1981
 日本の刑法は他人のための防衛を広く認める(p.3)。
 復仇は自衛ではないが奪還は自衛である。
 自衛権は現に行なわれつつある違法に対す。自力救済は既になされた違法に対す。
 sagesse politique 政治的賢明。
 多くの日本人学者は、国際法上の急迫とは未来のことだと、刑法とは異なる立場をとろうとしている(pp.24-5)。
 カロリン号事件における self-defence は相手国の不法を要件としない。つまり国内法とは別概念だった。
 緊急避難の場合、法益の釣合いの問題は起こらない。
 一般国際法上の自衛権は、国内法上の緊急避難と本質的に類似する観念であると見なさねばならない(p.125)。
 自力救済も相手側の違法行為を前提とする。
 自力救済は、従って自衛権ではない。
 戦争を厳密に表現せば、use of armed force, recourse to acts of force
 自衛権は second blow(なぐり返し)の権利のような消極的なものに非ず。
 国境外へ先制自衛してよい(p.217)。
 武力攻撃の発生と損害の発生を同一視するのはおかしい。
 意図の想像に基づく先制攻撃は不可。※よって電波盗聴衛星が必要になる。
 安保理事会や総会は政治機関であって、憲章の有権的解釈をする処ではない。(拘束力を持たない。)
 警備艇の銃撃も、武力行使である。
 国連憲章の第1章と第6章以下は全くの矛盾(p.354)。

摘録とコメント

▼塚本清著『あゝ皇軍最後の日──陸軍大将田中静壹伝』(昭和28年12月刊)
 ※『表現者』で紹介した部分は割愛。
 5月24~26日の空襲で、泉岳寺、乃木神社、増上寺、三笠宮、秩父宮、大宮御所、英大使館が焼ける。
 昭和14年に田中は師団長としてシナに派され、15年に宜昌(南京・漢口を経て揚子江をさらに重慶まで遡航する途中にある)を攻略する作戦の陣頭指揮をとる。未明から夜の12時まで32kmを行軍し続け、2カ月間は風呂に入れなかった。師団長は馬であるが、痔になった。
 大戦末期、本土を16コDで守るとすると引っ込むしかない。しかしもし50コDもあるなら、海岸でやれという元気がでてきた。
 本土は離島とちがって艦砲射撃も疎散となるはずだ。
 味方戦車も最初から水際に陣地つくれと。
 山で対戦車戦闘するのは消極的だと。
 かくしてS20年3月以降は、非合理的な水際決戦思想に逆戻り。
 20-3 東部軍管区司令官&第12方面軍司令官
 田中は関東平野の海岸線をすべて視察しようとした。
 S19年夏、サイパン失陥直後に、第一次の本土地区師団増設。約10コD
 関東地区では、千葉歩兵学校を中核に、第91師、第84師などを編成した。
 S20年初頭から、百単位師団が新設された。100番台である。これらはすべて「海岸拘束兵団」。別名を「はりつけ兵団」。
 斬り込み部隊が1個聯隊、機動性のない固着部隊が3個聯隊の4単位制。
 この師団はペリリューの戦訓から生れた。水戸聯隊の斬り込みの戦果を重視。19年末から教育総監部は斬り込みの浸透的潜入攻撃方法をもって火砲、飛行機の不足に代え、全縦深同時制圧までさせんと考えた。
 つぎに200番台の「二百単位師団」がつくられた。これは攻勢兵団で、俗には「突撃兵団」という。
 指揮官の年齢を思い切って若年化した。師団長は少将、連隊長は中佐か少佐である。
 100番と200番で合計30個師団、10個旅団ほど。
 20年春から、本土防衛は、東京の第一総軍と、広島の第二総軍でやることになった。
 第一総軍は東海道から北。杉山元帥が司令官。
 第二総軍は中部から西である。畑元帥が司令官。
 第一総軍は、北部、東北、東部、東海と分かれるが、そのうち東部(関東)を任されたのが田中静壹であった。米軍は九州と関東に上陸すると考えられていたから、九州には横山中将、関東には田中が任用された。
 東部軍の下には十数個の師団があった。九州は10個である。上陸後はそれぞれ倍増する予定であった。
 当時の本土軍は、方面軍としての作戦任務だけでなく、軍管区としての軍政任務も附課されていた。
 田中は東部軍(=第12方面軍)および東部軍管区司令官として、住民の防空、避難、国民軍の動員、編成、訓練も面倒をみなければならない。また帝都防空の最高責任者であった。
 12方面軍の下の第52軍は、佐倉に司令部をおき、九十九里から印旛沼で戦う。
 53軍は厚木に司令部をおき、相模湾の防禦。
 36軍は機動決戦兵団で、所沢や浦和に待機し、九十九里にも相模湾にも攻勢をかけられるようにしていた。戦車はぜんぶここに集めた。機動兵団の運用を知る上村利道中将。
 近衛師団は東京の防衛で、その司令官は飯村穣中将。
 (p.11) S19年以降の新編師団は火砲としては迫撃砲を主体にしたが、「多数の弾丸を必要とする迫撃砲に、弾薬の生産が追いつかぬという状態であつた」。
 田中配下の沿岸の3個軍は、築城におわれてほとんど訓練ができなかった。
 36軍だけ訓練をしていたが、駐留地の移動が頻繁で休宿地帯の宿営準備に忙殺されがちであり、しかもコメ不足のため、あまり過激な訓練を兵にはさせられないでいた。
 参本第一課は選択した。築城よりも訓練が大事だと。対米戦の成績を統計的に調査したところ。
 もし敵上陸が切迫しているなら訓練せよ。半年の余裕がある場合のみ築城せよと。
 田中は長野県まで視察した(p.15)。
 4-13、明治神宮が炎上。
 その前後に、各宮家もあいついで炎上。
 八丈島、大島も視察した(p.17)。
 おおいに苦労してつくった沿岸陣地が一本の命令で変更された
 中央部の意見がまったく不統一であった
 中央は、沖縄のあとは済州島にくるという可能性も、いちおうは考えた。
 20-8-24 自決。※ところが自決せねばならぬ理由がいまいちよくわからない。昭和20年の東京における憲兵運用に何か負い目があったのか(捕虜にした米機パイロットを住民がリンチで殺していることについて憲兵隊が責任があるといわれればそうかもしれない)。それとも天皇の松代動座を阻止するなどの陸軍中央に反する独断をしていたのか。それとももっとシンプルに、天皇に対する御詫びか。
 昭和20年に近衛兵が賢所に放火してボヤにする事件があった(p.223)。田中は東部軍司令官だった。
▼ニコライ・トルストイ『スターリン その謀略の内幕』新井康三郎 tr. S59年
 鉄道でいけないテヘランにバクーから行ったときのみ、スタは飛行機に乗った。モロトフも飛行機恐怖症だった。
 帝政ロシアでは拷問は長年禁止されていた(p.77)。
 1936にトハチェフスキーは、ソ連はドイツに対してチェコを援助できぬと告白。
 スタはヒトラーが何の反対もされずに反対派を粛清したのに倣った(p.96)。
 ポーランド侵攻が遅れていることについて、リッベントロップの催促をのらくらかわす。
 9月17日の午前2時という異例の時間にスターリンがフォン・シューレンベルク大使を接見し、赤軍は夜明けとともにポーランドを攻撃すると通告した。
 土地は時間に匹敵した(p.118)。
 ソは90万トンの石油を独に供給していた。ゴムはシベ鉄で極東より供給された。
 1939秋、チャーチルはFDRに「ヒトラーの石油の状態を考慮すると、彼は時間切れに直面しているとの感じを受ける」と伝えた(p.121)。
 ソからヘルシンキを攻めるのをリューディガー・フォン・ゴルツ伯のドイツ軍が援けた。
 1940にヘルシンキで五輪が開催されるはずだった。
 1940になって在フィンのソ軍に1939型ライフルとKVが行き渡った。
 英参本は中東からのカフカス連続爆撃と黒海封鎖で独石油入手を阻止しようとした(p.169)。
 ソ連もそれを怖れた。
 独のノルウェー侵攻直前、ソは1940-2-11協定に基づく石油を勝手に停止していたのに、侵攻開始後にすぐ再開。
 ソ連式の射殺法では、首のうしろからピストルを射って前額に達する。
 開戦後、まだ帰趨のはっきりしない5月、「事態がどちらに転ぶか不安定な状況にあった間は、スターリンは例の用心深さを発揮して、対独原料供給を遅らせていた」(p.208)。
 望む事の2倍を要求して、半分で満足するというソ連の戦術(p.218)。
 軍内の政治委員制は、元帝政下将校を監視するため、トロツキーが導入。
 一番信じられるソ連将兵の死数は750万。
 英国は白系ロシア人をいかに熱心にソ連に引渡したか。
 モンゴメリーがあと数時間遅れたら、デンマークも東側領になっていた(p.353)。
 1969にロバート・ジョーンズは米国の対ソ武器輸出の本をまとめた。未訳。
▼堀場一雄『支那事変戦争指導史』S37年
 ハンガリーは満州国を承認した(p.280)。
 カナダの対独宣戦は9月10日。
 WWII始まったので英仏は10~11月、シナから軍を引きあげた。
 日本軍は、政策、報道、軍需に有為の人材を回さなかった(p.758)。
 軍の庇掩下でないと日本人は大陸に進出できぬとの思想はあやまりだった。
 一戦場に同時に3コD集めたことなし(p.762)。
 「支那事変に在りては叡智ありて実行力乏しく、大東亜戦に在りては実行力ありて叡智乏しと謂ふべきか」
▼中原茂敏『大東亜補給戦』
 昭和12年にイタリアに重爆×72、小銃×10万、砲観測器若干を緊急発注。
 支那事変で、陸軍の各兵器費に対し、12年度は56パーセント、13年度には76パーセントが弾代に充てられた。
 ソ連の石油生産(百万トン)。昭和15は31、16は34、17は33、18は29、19は39、20は22で、だいたい日本の6倍。
 米は真珠湾の前の7月7日にアイスランド進駐。
 WWII前のルーマニア石油生産は600万キロリットル。ピークは800万だった。
 日本陸軍の火砲のRange値一覧(p.248)。31速野から99山まで。ロケットはなし。
 TNT生産は、昭和16~18は全火薬中の60~63%をしめたが、17年以降は割合が減り始め、19年は50%、20年は37%となり、多くはカーリットその他、代用新火薬に転換。
▼日石 ed.『石油便覧1982』
 WWⅠで「連合軍は石油の波に乗って勝利へと辿りついた」と評された。
 ダイムラーのガソリンエンジン1883
 ディーゼルの重油エンジン1893
 米海軍の石油切り替え1904
 英海軍の決定は1912
 カリフォルニア油田から蒸留するガソリンはオクタン価が高い。ボルネオ、台湾油も(p.121)。
 船用タービン用C重油は、粘度の高い低質でもようが、燃費悪く、経済性でディーゼルに劣る。
 1914、英、イラン石油を支配。
 1939、米はソと日本に航空揮発油の製造装置特許の輸出を禁止。モラルエンバーゴ。
 1939、英は石油局を設置。
 1941、米は対日石油輸出まったく停止。
 1942、英のガソリン不足深刻となり自動車輸送統制開始。
 1945、米英石油協定。於ロンドン。
 1951、英はイランの石油産業国有化を承認す。
 BPはもとはアングロ・イラニアン石油と称した。溯ればアングロ・ペルシアン石油。英人ウィリアム・K・D’Arcy がイランの最初の油田発見者。
 WWII前は精製は消費地ではやっていなかった。
▼『トューキュディデース』小西晴雄 tr.(筑摩書房『世界古典文学全集・第11巻』)
 内陸に当時残る帯剣の習慣は、盗・海賊時代の名残り。最初に廃剣したのがアテナイ人。
 初期の都市は、島でも大陸でも海岸線からひっひこんだ所に造り、海賊を避けた。
 トロイ戦争がペロポネソス戦争よりはるかに小人数で戦われたのは、現地調達可能な糧秣の水準まで絞り込んだから。
 イオニア、シケリアへの殖民は、トロイ戦の後。
 アイギーナvsアテナイの三段櫓船海戦時、甲板は全部に張られておらず。
 掠奪は主として海経由で、陸戦による侵略はなかった。
 アテナイの発達は海商というより海賊的支配によるものだったらしい。
 註、三段船に寝食する場はなかったので、航距離は局限。
 註、昔のギリシャ人は本を黙読しない。必ず音読。
 ケルキューラvsアテナイ海戦に船衝戦法なし。
 「諸君は他を傷つけない代りに自らも傷つけられないで守れると思っている」(pp.27-8)。
 一旦、与えられた支配圏を引き受けた以上は、体面と恐怖と利益の三大動機に把えられて我々は支配圏を手放せなくなったのだ。しかしこの例は我々をもって嚆矢とするのではない。弱肉強食は永遠不変の原則である(p.29)。
 常に我々は……敵の過ちに僥倖を恃むことなく、自らの用意に望みを託すべきである。人間にはそれほど大きな違いがあるとは思われず、限界状況で鍛えられた者こそ最も強いと考えられるべきである(p.31)。
 これを知ったアテーナイ軍は、重装兵を正面に押しだして攻撃を加え、さらに周囲を軽装兵で囲み、中にいた者に石を投げつけて全滅させた(p.39)。
 湿地の民はエジプト人の中でも最も剽悍な部族であった。
 註、エジプトでのアテナイの敗北は、陸戦化していった為。
 事実、アテーナイの国力は正規兵よりも外人傭兵に依存しているのだ(p.43)。
 戦いでは飽くまで冷静を保つ者ほど安全である。
 諸君が(侵略を受けて立ち)開戦を決定したとて条約破棄行為にはならない(p.44)。
 「ツキディデス症」は、市内に戦時体制のため人口急増したときに。
 飢饉はリモス。疫病はロイモス。
 註、密集海戦では、口頭命令だから、騒ぐことは許されなかった。
 註、最高司令官が戦場後方に位置するようになったのは、アレクサンダーの父フィリッポス以降。
 ……ひとたび戦いになるとどちらの側にも援軍が得られるような状態になり、敵より有利になること、自己の力を増すことのために他を呼び入れる機会は、反乱を起こそうとする者たちには簡単にあるものであった。
 これらすべての原因は物欲と名誉欲とを満足させようとする支配欲にある。これらの諸欲から闘争への渇望が生まれる(p.116)。
 また欲望に駆られた人でなくとも、闘争力が伯仲してくると人々は抑制しきれない強い感情に流され、残酷で無情な行為にでるようである。
 このような場合には、逆境にある人すべてにとって頼みの綱ともいうべき公律を他人に仕返しをする時に破ってしまうから、いつか誰かが危機に面して公律を適用しようとする時にはもはやその効力はまったく失われてしまっているのだ(p.117)。
 もっこがないので、後ろ手を組んだ、かがめた人の背中に、土砂を載せて運搬(p.129)。
 戦うことが利益になると考えればこそ、恐怖があっても戦いを避けない。……また他の者は目前の損失を我慢するより、戦争の危険を耐えるほうを選ぶ(p.145)。
 不測の未来は我々を一様に恐れさして、むやみに戦争を起させないというきわめて良い面も持っている。
 我々(シケリア諸都市)が賢明でさえあれば……今後は、島外から援軍や調停者を一切呼び入れることをしてはならない。
 シチリア原住民はイベリア半島を逐われて来た。
 註、当時の商船は平均9km/hの速さ。
 重装兵、騎兵には、糧秣を担う奴隷がついていた(p.272)。
 解説:彼がペロポネーソス戦争の体験を通して到達した考えの中では人の心理は基本的に重要な位置を占めていた。人の行動の動機とは、富の追求と名誉への欲望と恐怖から逃れようとする三つの動機に集約されると彼は考えた。そしてこの三つの願望を実現するために人間は力を得ようとする……(p.333)。
 兎も角彼は新しい考えを説明抜きで表現しようとしたのである。
▼石岡久夫 ed.『日本兵法全集・2 越後流』
 鎗は敵の顔面を突け。馬の載するは36貫(精米1斗)、人の担うは6貫可なり。
 首級は初太刀の者に与うべし。
 大軍なるときは夜明けて退き、小軍なるときは夜深くして退く。
 雪道は、まず人夫に踏み固めさせてから行進せぬと、泥るむ。
 縦ひ将吏を討捕るといへども、一番鎗の功を越えざるなり。
 飯の後に武具を著すると、緩む。槍をもって退去するときは、先端を後に寝かして左手に持つと、反向し易い。
 衆馬の中を駆けるときは、むしろますます狂馳させる。と、囲りの馬が避けるので、通り易い。
 血祭とは、首級を洗い、化粧して、串刺しにし、捨て置くこと。
▼石岡久夫 ed.『日本兵法全集・7 諸流兵法(下)』
 徳田の合伝流は西郷従道にも伝えられた。刀槍戦よりも鉄砲戦に重きをおく。
 兵学は実戦事実伝を肝要とす(p.56)。
 天正末~慶長初めまでは火縄銃は槍隊の露払いでしかなかった。
 が、慶長初め以降は、鉄砲の無い足軽や弓隊など全く用が無くなった。6~7間以遠では、弓は甲冑を射通せない。
 客戦に於て、服さゞる村里の井に、砒素、鴆毒を混ず(p.84)。
▼A・ボイド『中国の建築と都市』S54年、原1962
 インドは地震国だがシナよりも石とレンガを多用している。
 黄河域には良質の建材用石がない。代りに木材が余っていたのが理由か。
 中世英国では圧倒的に木造建築。
 木工は土着していたが、石工は渡り職人であった。※だからフリーメイスン。
 三角形トラスはアーチの代りになるが、剛性である。
 迫持石(アーチストーン)は同寸でなくてはならぬ。
 石材は漢代以降、主要な橋材となった。
 有名な某園のアーチ橋は大理石製。
▼小松茂美 ed.『続日本絵巻大系・17』S58年
 前九年の役絵詞では、長兵はなぎ刀のみ。したがって面頬も両側のみを被って正面は空く。
 結城合戦絵詞には平刃のヤリが見える。
 鎌倉時代の絵巻は京都に発注してとりよせていた。
 後三年合戦絵詞に、猪の目透しの鉞を肩にした軍卒の絵。
 中巻には半首[はっぶり]=面頬+アゴ被いの歩兵が出る。
 東北では、自分の手で首をとるを「てづくり」という。
▼小松茂美 ed.『平治物語絵詞』S52年
 あごひげのばし放題の男が目に付く。面頬はあるが半首は見えない。
 柄頭が急角に反り上がっているのは片手打ちを考えた馬上太刀。
▼機甲会 ed.『日本の機甲60年』S60年
 初期ドライバーは輜重兵だけだったのでTKもはじめは彼ら。
 大14の宇垣軍縮で自動車隊も廃止されることに。
 山下奉文中将団長のドイツ視察団はS15年5月グデリアンより直接コンバインドアームズの話を聞く。
 フラーの陸上海戦論の訳が大12-12月号の「騎兵教育の参考」に載る。
 対米戦初盤では95式LTKの37ミリがM3スチュアートLTK-I型の改すら貫通できず。
 鹵獲M3LTKの実験では後面も貫通しない。逆にこっちの正面は貫通される。
 重量25トンでは装甲を一般に云う戦車並みにすることは不可能(p.74)。
 米軍のマニュアルでは「弾薬の射表や弾丸効力、戦車各部の装甲板厚等は、隠すのでなく全軍一兵に至るまで知るべき知識とされてい」る(p.131)。
 ノモンハンのBTは半クラでも登坂した。
 74TKはAPDSも英国のものを使っている。
 TKが、前方1300mから400mまで30km/hで迫るとき、その見かけ上の面積は、歩兵が200→60mまで匍匐するに等しい。しかも前者は110秒、後者は700秒。よってTKがATKに暴露しているとはいい難い。
 イスラエルは四次戦争のゴラン高原では155Hのタマを400発/門発射する必要があった。
 74TKの年間ランニングコストは2千万円/台。乗員のコストは450万円/1人/1年。
 普通科が射撃しながら50m突撃したら30秒かかった(p.167)。
 同じ97MBTでも三菱製と日立製とは部品互換性がなかった(p.287)。
▼飯村穣『兵術随想』S41年
 編者の西内雅はS15内閣総力戦研究所いらいの部下。
 軍ははりきった馬であり、政治家はこれを御する良騎士でなければならない。
 軍部の秘密主義の責任は、機密をすぐ口外する政治家にあった(p.46)。
 イントリグの訳語が謀略。兵語「謀略」はロシア班小松原道太郎少佐による。
 「何某曰く式の兵術を排せよ」(p.116)。
 米がもし核を使わずベトナムから退いた場合は、日本は仏並の核武装をすべきだ(p.228)。
▼陸上自衛隊幹部学校 tr.『枢軸側の大戦略』S31年、原1952?
 ラディスラス・ファラゴが旧独軍人の論述をまとめた“The Axis Grand Stratety”という資料。
 クローゼウイツツはナポレオンの突破作戦よりもフレデリック大王の陣地戦をよしとした。その影響を継承してシュリーフェンは「包囲」にこだわり陣地戦に陥って決戦とならずにドイツは負けたのだ(p.57)。※と新時代の独参謀は言いたかったらしい。米軍はクラウゼヴィッツの影響を根掘り葉掘り訊ねているようだ。
 フレデリック「小人はすべてを防御せんことを望む……すべてを御るものは何物も救わぬ」「陸軍の強さは速力に依って増加した集団の力に等しい」※→フォッシュ?
 補充兵ほ多く保有せば数量は補うことができるが、失った兵の質は之を補うことができぬ。
 シュリーフェン「百万人を給養するには十億弗を要する時、消耗戦略を行うことは不可能である」
 1940年西部前進中のTKに対する飛行機または司令部よりの通信にはヒラ文を使用した。コードは陸上戦闘中不適と。
 グデリアン中心に代用潤滑油の研究すすめたがとうとう成功せず、東部冬期戦でTK凍結続出した。空軍用潤滑油もまた不足した(2巻p.143)。
 1934にナチのE・Hadamovskyは「力を用いることは宣伝の一部である」と。
 イタリアはアルバニアからの数十万トンを除くと全石油をドイツから食糧のバーターで得ている。

摘録とコメント。

▼ラルフ・タウンゼント『米国極東政策の真相』大江専一 tr.日本国際協会S12年pub.
 シナは一村内で既に自給が可能。またそれは、短距離間といえどもかかる高関税によって助長されてきた。※老子の世界。そして人民公社。
 シナ留学生は勤勉だが「自分自身の裁量に任されるとなると、恐ろしく下手」。
 アメリカインディアンは黒人と違い、宗教的にも肉体的にも奴隷化されなかたのは不思議だ。
▼ヴァルガ『戦争と世界経済』和泉仁 tr.S15年
 ※独がソから油脂を輸入している事実を伏字としている。60頁。
▼ヨハン・フォン・レールス(Leers、独人)『世界制覇の争点』高橋文雄 tr.電通出版部S18年
 1930~3にスタは「スターリン運河」を掘りバルトから北海ムルマンスクへ抜け出られるようにした。
 弩級艦は吃水深くスエズからは来られない。※つまり石炭罐の重油罐化にも関係なく、またシンガポールをどう整備しようが、弩級艦とともに英国はシナ沿岸において日本の敵ではなくなった。
▼大河原蔵之助『一水兵より海軍少佐になるまで』S6年
 日露戦前の石炭積みは人夫が主で、艦内では機関部員が加わるのみ。水兵は手を貸さなかった。が、開戦直前から、すべて乗員でやることに改めた(p.86)。
 13ノット出すと、マストやヤードが唸り始める。
 水兵の給与は平時の倍になる(p.108)。
 合戦中は耳に綿栓を詰める(p.141)。
▼エヌ・シュペクトロフ『軍需工業論』S10年、原1934
 戦闘艦の1門の発射最大数は19世紀後半は110回/日、WWⅠで987発/day
 戦艦1隻つくるのに6年かかる。改装も、1隻1年以上かかる。
 WWⅠの独ではTNTの結晶物は砲弾用に、屑物は、手榴弾や地雷用に回された。
 イペリットのつくり方に、マイヤー法とレヴェンシュタイン法がある。
 1913型3インチ騎兵砲を除けばすべてのロシアの陸軍砲は最初のものがクルップ、のこりのすべてはシュネデル製である。
▼参 ed.『日露戦争に於ける露軍の後方勤務』大4
 ユダヤ人多いオデッサで最も応召率が低かった(p.20)。
 1904-9にクルップに120mm臼砲を注文。1905初期より到着。
 1904-12に奉天に手榴弾工場をつくった。
 満州は5月下旬~8月下旬まで雨のためぬかるむ。
 馬車鉄道により雨季の糧秣補給を確保(p.304)。
 無線も使った(pp.366-7)。
▼松本伊之吉『海軍施設系技術官の記録』S47年
 米では施設作業部隊を平時には一般公共事業に用い温存したのに、日本では軍縮で潰してしまった。
 工作車には特に特殊鋼が必要だが、モリブデン、クロム、ニッケル、マンガンが足らないので、磨耗の早いものしか国産できなかった。
 鹵獲のブルでいちばんよかったのがアリスチャルマーだが、これは米では二流のもの。
▼有終会 ed.『米国海軍の真相』S7年
 飛行船の母船が10余隻もある。
 ワシントン会議以降、ハンプトンローズ、グァンタナモ、ボストン、セントトマス、パールハーバーの貯油槽を大増設。
 サラトガ級が入渠できるドックは、パナマ、シスコ、パールの3箇所しかなく、うち2つはレキシントン級には対応できない。
 陸軍長官出身のタフトは大統領になると、海主陸従主義を定めた。サンフランシスコにしか港湾防御要塞がなかったのを、パナマ、サンディエゴ、コロンビア河口のピューゼットサウンド、アラスカ、ハワイ、グアム、マニラ、スービックの8防御港に拡大した。
 ついで1916に太平洋軍港の拡大案が提出され、参戦にもかかわらず推進。
 シスコは油田からのパイプに直結していたので特に重要だった。
 アラスカには、キスカ&シトカの海軍貯炭所のみ。
 ブラッセー年鑑などの公表タンク容量はアテにならない。航続力は各国極秘。たとえば、何速に於て何マイル、とは示さない(p.298)。
 経済速度は8~12ノット。これは艦が大きいほど小さくなる。しかし戦中は対潜のため15ノット以下で走ることはありえない(p.301)。※しかし日本海軍では、あり得た。
 油の量だけでなく、それを急速に給油できる港湾装置が充実(p.305)。
 S6年の ala moana 事件。ハワイ人が米海軍中尉夫人を暴行し、裁判中リンチで殺された。
▼中根千枝『家族の構造』
 英では16世紀以来、どんな関係であれ、2組の夫婦が同居することは全土的になかった。
 「腹は借りもの」などという考え方は、インドやシナの血縁重視の思想からはけっして出てこない。
 遊牧民のテントには1核家族しか入れない。
 蒙古における一子相続の慣習は、大家族とは矛盾する。
▼中根『家族を中心とした人間関係』
 原始には氏族はなく、家族だけがある。古代と現代が小家族の時代。社会の富が不均衡で、超定着的な時代に大家族が現れる。
 原始基督教時代に一夫多妻があった(p.76)。
 アフリカでは弟に対する兄の命令権はない。シナ、インドでは、非血縁の親分・子分関係は生じない。
 東南アの家族制は世界で最も自由形態。結婚をしない自由がある。また女の社会進出はあたりまえ。
 インド人も距離の近い人と結婚しない。本家と分家もない。シナと同様。
 ハイパーガミーの行われるインドでは、上層に独身女、下層に独身男が増える。そのため下層女の持参金は莫大を要す。
 シナでは結納金が貯まらずに結婚できない男が多かった。
 シナでは父なるがゆえに父権がある。日本では家長なるがゆえに父権が附いてくる。シナでは父権は死ぬまで維持され、隠居制は無い。
 英人は10代に母親の世界から父親の世界に入る。
▼斉藤真 ed.『デモクラシーと日米関係』1973
 明治はじめのキリスト教入信者は、これを儒教の延長だとみた武士階級。
 南北戦争後の米事業家は、スペンサーの「ミリタントタイプオブソサエティからインダストリアルタイプオブソサエティへ」なる社会進化説に多大の影響を受けていた。ロックフェラー、カーネギーら。
 大正の日本人がアメリカ映画をいかに愛したか(pp.134-5)。
 ウィルソンは、自著『国家』(邦訳1896『政治汎論』)の中で、社会は進化によってのみ善くなり、革命は退化につながると。
 吉野作造は典型的なウィルソンかぶれ(p.147)。
 大正期に訪日したジョン・デューイは、反米論あることを報告。
 内村は米のWWⅠ参戦に絶望した。
 評判の悪い「写真花嫁」は1920に廃止。
 アメリカでの差別待遇を黙過すると、日本人は世界中から劣等人種とみなされて、いたるところで海外発展を阻まれることになる(p.184)。
 1900前後の日米開戦論は米側のみの一人相撲。
 1920’sを通じ、米海軍は、排日は戦争をしてでも貫くべき国益とみなした(pp.188-9)。
 日本政府は排日問題を重要なものとは考えず。よって大使の引き揚げもなし。
 大正デモクラットは人種差別をアマく見た。
 東部では100%アメリカニズムと19世紀末風人種主義がWWⅠを機に復興した。
 排日法が大陸進出を正当化した。
▼伊藤政之助『戦術史講和』大15
 オクスフォード大学は「戦争研究を度外視する大学は決して政治家養成の良学園にあらず」と、戦略・戦史の講座を置く。
 仏は1871~90は守勢作戦時代。独はこの間、先制を欲したが自制した。
 1890~1910は仏の攻勢防御時代。この間に独は力をつけた。
 1910~は仏の攻勢時代。ジョフル参謀長。
 英にはボーイスカウトの他、少年「チャーチ」旅団がある。本国のみで65万人。
 WWⅠで伊は総勢100万なのに50万の墺軍に防戦のみ。
 米の毒ガス生産は1日分で東京市民全滅に足る(p.22)。
 ベルギーではこの頃、強いアルコールを禁じていた。
 明治20年に至るや中隊を散兵と援隊とに改め、戦闘正面を150mに、散兵の間隔を3歩に縮め、おおいに攻撃精神を高唱せしも、「独断」の範囲は甚だ狭少であった(p.115)。
 ナポレオン下のアーゲローは黒人出身(p.309)。
 WWⅠの男子数に対する兵員。仏27%、独25%、英23%、伊20%だった。
 兵員100に対する馬の数は、普墺戦で15頭、普仏で17、日露で20、WWⅠで30である。
 WWⅠの陸兵1人あたりの毎日の純陸軍戦費は、英20円、仏5円、露・伊・独・墺が4円である。日露役の日本では2.3円だ。
▼川瀬一馬『日本文化史』
 7~8月の季節風は、日本の西南海地方(沖縄)から大陸に吹き、その後は逆に吹く。しかし、季節風にのっても、大陸からの戻りは困難。
 日本の西南地方は、風と海流が悪く、接岸が困難。
 揚子江は風道なので、上下行ともに「信風」を利用できる。
 日本海岸は夏のみ平穏で、秋の終わりから翌春まで交通できない。
 太平洋岸は一年中使えるが、午前は凪ぎ、午後に荒れる傾向がある。
 安倍仲麿は、おきなわ島まで到着しながら難波してまた大陸に吹き戻された。
 武家文化は文字でなく視聴覚に拠った。禅はテキストで教導せず、師との接触によったので、武家にウケた。
 足利学校は禅院の形式をとった。
 林羅山の宋学はまだ単なる紹介解説だが、素行が出て初めて宋儒を論難し、仁斎、徂徠が続く。
 神道の教義は全く儒仏に依存。あるのは祭式のみ。
▼北見俊夫『日本海上交通史の研究』
 柳田の『風位考』。日本海岸は陸路は往来し難いため航海が発達したと。
 山口県沖から海流と追い風にのった漁船はウラジオまで「二日走り」する。
 『元史瑠求伝』にいわく、「凡西岸漁舟到、澎湖己下、遇颶風発作」すると、漂流し、みぎわに落ち、百に一も戻って来ない。……つまり沖縄近海は低気圧が頻繁に発生するのでシナから交通するのは危険なのであると。
 順風でも急潮にかかると一歩も前に行かなくなった(p.122)。つまり黒潮が強いので。
 柳田『火縄銃から黒船まで』。江戸期のジャンクは、5~9月に揚子江岸を出、南西風に乗って来日。シナへの帰航は10~12月の北東季節風に乗る。片道3~6日だった。
 日本からシナをめざすのは目標が広いので容易だが、その反対が至難であった。
 日本海側の暴風日は11月~3月に集中。逆に夏はほとんどベタ凪ぎ。太平洋側の伊豆大島は周年荒れる。日本海の年間波浪は、1m以下が100日、2mまでが100日、2m以上が160日である。
 良材の多い熊野の山中で造船して川を下して難波に出た。
▼トライチケ『軍国主義政治学』上下巻、浮田和民 tr.大7、原1899~1900
 戦争とは自国が判事になる訴訟なのだ。
 国家が先であって、契約が先ではない。
 中世では貴族は外国の貴族と親密で、自国の市民とは疎。市民は市民同志親しく、自国の貴族とは疎。
 最初の成文「叛逆罪」は1352の英にて。
 英国のインド虐政は正当化される。ヨーロッパ人はアフリカと東洋ではヨーロッパと違う政策を採ってよい(上巻p.147)。
 フォン・ボイエンやクラウゼヴィッツのようにロシアに脱走して旧国旗に反抗したものは、残留組のヨルク、ブリュッヘル、ビューローより道徳少ない。
 英国においては、戦時状態にありとの布告が、ドイツにおけるよりも甚だ頻繁である(p.242)。
 ユダヤ人は名誉あるドイツ人に対して常に民俗瓦解の一要素たりき(p.392)。
 ロシアでは、国が認めないと貴族ではない。二世代続けて公務につけない家族は貴族の資格を失った。これは、成り上がり貴族を許す(p.417)。
 英国下院の議員の1/3は、鉄道管理者だ(下巻p.17)。
 スウェーデン人は社交的だが、ノルウェー人は無愛嬌だ(p.229)。
 著者の師のダールマンは言った。結婚の誓いのとき、離婚もあり得るなどとは言わない。それと同じで、理性を有する者は良心を犠牲にし得ず、軍旗に対しても良心の故に服従できない場合があり得る。だが宣誓のときにはそんな留保は言わないものなのだと。
 ドイツ青年の決闘の習慣は美風だ。英国士官は決闘を禁じられてから、公衆の前で喧嘩するようになった(p.311)。
 革命戦争以前、英仏だけが国債を起こせた。フレデリックは7年役のとき、ついに公債を起こせず、悪貨幣で切り抜けた。
 著者小伝。トライチケは初め自由貿易主義者だったが、年経るに従い、反動化したと。※つまり愛英→反英ということ。
▼『燃料史』
 昭和15年、米は航空燃料の他、鉄製ドラムの供給も禁止した(p.42)。
 南方油の運送実績。戦争第一年148.9万トン。二年246.6万トン。三年106万トン。四年(終戦迄)ゼロ。
 S18年末からの苦肉の策。台湾砂糖、満州雑穀、国内甘藷からアルコール。大豆、魚油、フィッシャー軽油を潤滑油に。航空ガソリンのための松根油、重油のための亜炭、ボタ乾溜、タンク底油液の処理。
 松根油はS19年に伝えられたドイツ技術で、針葉樹の8%がテルペン乾溜油になると。農林省は伐採に難色を示し、根だけ許した。陸海分担で、20万リットル製造したが、航空用にはならず、漁船用とされた。※大正時代から松根油の研究があることは兵頭旧記事を見よ。
 南方油田はタラカン油田とサンガサンガ油田(バリクパパン製油所)のみ。他には出なかった。
 兵站総監を作戦部長より上位にしている陸軍はパレンバン占領を素早く決心。海軍は作戦第一主義で伝統的に補給はどうにでもなると思っており、特に航空ガソリンに関してそうであった。こうして最大油田のスマトラは陸軍の製油分担区になった。海軍はボルネオを得た(p.94)。※トータルウォーを考えていたのが陸軍省であって海軍省ではなかったということ。
 S19年2月に海軍航空燃料が枯渇し、陸軍に融通を懇請する羽目に。陸軍は応諾したが、マリアナで空母が壊滅したのを見て、本土決戦に備えて海軍には渡さないことにした。
▼田辺義雄『世界の食糧情勢』
 1978~1982平均すると、綿など含めた農産物輸入はアメリカから42%だが、特に小麦シェア53%、トーモロコシ91%、大豆93%は一国依存状態。
 米国農地の2000万Acerが日本向けの作物をつくっている。これは日本の耕地より広い。
 83年の供給熱量は国民一人あたり2593kカロリーだった。うち1361%、つまり52%は国内産の勘定。
 人は寝ているだけで1日1450kcalを消費する。
 農水省は、最大限の自給努力をしても2000kcalの自給が限度と見ている。これは昭和20年代後半の水準。
▼クセノフォン『アナバシス』松平千秋 tr.
 エウプラテスの某地方は稗がきわめて豊富。
 ティグリスは舟航はできるが舟なしで渡河することは到底望めぬ。
 急退却をすれば、追撃は小勢では危険となり、さりとて大部隊ではスピードが出なくなる。
 ナツメ椰子の果汁は美味だが頭痛を起こす。
 規律のためには敵よりも指揮官を恐れさせねばならぬ、とクレアルコスは言ったとか。
 クセノポン「われわれ(ギリシャ人)は、寒暑や労苦に耐える点では敵(ペルシャ人)に勝る肉体を持っている……」
 クセノポン「さらに諸君よ、もう一つ私が確信していることがある、すなわち、戦いにおいて何としてでも生き永らえようと望むような者は、大抵は見苦しく悲惨な最期を遂げるものであること、それに反して死は万人に共通で逃れ難いものと悟り、ひたすら見事な最期を遂げんことを志す者は、何故かむしろ長寿に恵まれ、在世中も他の者より仕合せな生活を送るのを私は見てきているのだ」
 ただ一つ、騎兵はわれ\/に優る利点を持つが、それはわれわれよりも安全に逃走できるということだ。
 ペルシャ人の投石器は、掌に握れるほどの大きい石で、短射程。
 ロドス人の投石器は鉛丸で、ペルシャ人の石の倍、飛ぶ。
 それは弓よりも飛んだ(p.100)。
 ペルシャ人の夜営では馬は足も縛っておく。
 カルドゥコイ人の長弓は、下部を左足で踏みながら引く。
 ギリシャ人隊中には多数の娼婦がいた(p.120)。
 寝ている体に雪がつもると却って温かい。
 ギリシャでは猛犬は昼縛っておき、夜放す。
 テュノイ人は棍棒を、鉾の穂先を叩き落とすための武器だといっている。
 解説いわく、本書はアレクサンダーに影響を与えた。
▼『五国対照 兵語字書』明治14年2月 参謀本部
 ※山縣参謀本部長が西周らに編ませた、明治期の最初の外国語辞書の一つ。
 ※見出し語は仏語で引くようになっており、和語から引くことはできない。
 ※女性格に f.、男性格にm. と注記してある。(a)は古語の印。
 ※配列は仏、独、英、蘭、和の順か。
 巻末で室岡俊徳いわく、馬の毛色を言う語だけはどうにも比定がつかなかったと。
 Initiative,f.──Initiative,f.──Initiative.──Initia──先発
 Architecture militaire,f.──Kriegsbaukunst,f.──Military architecture,f.──Kriegsbaukunst,f.──築城術
 Arbalete,f.(a)──Armbrust,f.──Cross-bow,Arbalest──Armborst,f.──Kruisboog,m.──弩
 Cantiniere,f.──Marketenderin,f.──Sutler’s wife──Marketentster,Zoetelaarster,f.──従軍酒婦
 Guerre civile.f.──Burgerkrieg──Civil-war──Burgeroorlog──国乱
▼金子有鄰『日本の伝統馬術』
 ※先行する著者の主著と内容はほぼ同じ。
 「令義解」に、「具装」とは馬甲だとあるから、奈良時代に馬ヨロイがあったことが知られる。
 源平盛衰記の生田の戦いの箇所に「馬には冑を着すべし」とある。ただしそれはカブトなのかヨロイなのかはっきりしない。
 太平記の22巻にも馬の鎖冑が出る。その他の例、多数。
▼R.アーミテイジ『アメリカ海軍──その伝統と現実』古田保 tr.昭和16年
  ※巻頭写真が20ページほど破り取られていた本。
 艦隊派と本省派のあいだに意見の食い違いがある。
 スクリューのことを「暗車」という。
 「1948年には米国海軍が総トン数では日、独、伊三国の海軍の合計と同じになると言うことは別に隠す必要もあるまい」(p.30)。
 「水兵は複雑な仕事を憶え込むのに6年はかかり、除隊して一般人の仕事へ戻るのも困難だ」「我が海軍は……現役兵員の4割はハイスクール出身である」(p.31)。
 「我が戦艦はことさらにあまり速くないが、装甲を厚くし、備砲を大きくし、航続距離を伸ばすために、速力を犠牲にしてゐるのである」(p.32)。
 1925頃は商船とSubが衝突するとSubの方が沈んだ。S-51号と“シティ・オヴ・ローマ”のニューイングランド沖遭遇。
 「19世紀及び20世紀の攻撃戦理論の唱道者ともいうべきクラウゼヴィッツの諸概念は、第1次世界大戦中に疑惑にさらされるに至った。それは攻撃的作戦が成功するためには、殆ど三対一の数的優勢を要することが分ったからである」(p.182)。
 日本政府は圧迫を加えられると敏活だ(p.192)。
▼参謀本部・広田忠三郎『日本古戦法』大13
 太古の騎射は「半弓」を用いていた。さもなくば馬上で使えるものではない。
 甲越の戦いのころは槍は普及していなかった。信玄などは麾下の隊だけに長槍を持たせていた。信長はこれを多量に用いた。以後、武士は必ず手槍(短槍)を持つようになった。
 本邦の「魚鱗陣」はシナの「車輪陣」の誤りで、「鶴翼」もまた「虎翼」の誤り。
 孔明八陣とは実は64種あるのだが、越後流は知らない。
 本邦の陣備えは頭に重点を集中した攻撃型。後ろに脆い。シナ軍の陣は守るを主とする。
 答古智幾・タクチック と 士多剌的義・ストラテギー が明治12~13頃の当て字(p.30)。※『軍事史学』によると、フランス語にオランダ音をふった。
 折り敷いて石突を地に托す槍襖を「嵐」という。
 植株列がそろっていないのは、深田である。
▼モック&ラースン著『米国の言論指導と対外宣伝』坂部重義 tr.S18年
 ※序文ページ破れていて原タイトル不明。
 宣伝と政治・軍事は作戦上、同価であるとはWWⅠではじめて米人に気付かれた。
 1940ごろ米にフィンランド救援の気運をつくったのは、ロバート・シャーウッドの芝居「ゼア・シャル・ビー・ノー・ナイト」と、シベリウスの音楽。
 WWⅠ中の米国内宣伝は、米国人をして北米爆撃を覚悟させる迄に(p.28)。
 戦時防諜法で5~20年の禁錮判決を受けた何百人もが、ハーディング~クーリッジによってほとんど釈放された。
 ホームズ判事すらWWⅠ中は保守派の判決を下した。
 Four minuit man (四分間演説者)は、ラジオのないときのシンクロ放送網。
 開戦と同時に多数のロシア人が合衆国から帰国した。
 国内・同盟国向けには本局が、対敵宣伝は陸軍省が担当。
 国内無線局を全部接収したのは海軍。これを定期ニュースブロードキャストに(p.226)。
 1918年からはハルピンが米の対シベリア宣伝活動基地となる。
 ヴェラクルスを占領させたのはウィルスンだった。