●「読書余論」 2013年4月25日配信号 の 内容予告

▼防研史料『明治43年 陸軍兵器本廠歴史 附録』
▼防研史料『明治44年以降 陸軍兵器本廠歴史 第九編』
 2.26事件直後に憲兵隊は大量のアストラ拳銃を導入していた。それはいったい、どこへ消えたのか? 憲兵の子孫宅に今も眠っているのではないか?
▼『偕行社記事 No.301』M35-11
▼『偕行社記事 No.302』M35-11
▼『偕行社記事 No.303』M35-12
 日本製の弾薬は自爆し易かった。その設計や管理をする分野の人材を、明治政府は育成せず、また厚遇もしなかった。それが祟っているのだ。
▼『偕行社記事 No.304』M35-12
▼『偕行社記事 No.307』M36-2
▼『偕行社記事 No.296』M35-8
▼高木惣吉『太平洋戦争と陸海軍の抗争』S42-8
 S18-9~11の古賀長官の判断。もし米機動部隊が、ビスマルク諸島から北の海面に進出するようになれば、日本側はレーダーが非力で、島もまばらなので、哨戒も反撃も不可能になる。
 ノーマン・エンジェルは『公衆心理』で書いた。公衆は、政治的決断にさいして、自明の事実、周知の真実を、無視しようとする。それはどんな無教養の者にとっても「誤謬」と判断できるものだが、それを国民は、しばしばやらかす。
▼福田敏之『姿なき尖兵――日中ラジオ戦史』H5-3
▼樋畑雪湖『日本絵葉書史潮』S11-4
 あんがい貴重な戦場写真が エハガキという形態で後世に伝えられているのである。
▼小川寿一『日本絵葉書小史(明治篇)』H2-9
▼藤井正雄ed.『墓地墓石大事典』雄山閣、S56
 アメリカ文化は、死との直面を回避するので、南北戦争でとうとうエンバーミングがビジネス化した。
▼ポール・ウォーレス著、高橋健次tr.『人口ピラミッドがひっくり返るとき』2001-6、原 P.Wallace 1999.
 トロツキーいわく。「人間に降りかかるすべてのものごとのなかで、老いは最も思いがけないものである」。
 安全保障アナリストたちは、ロシアが西側諸国に与える脅威を心配するどころか、中共にたいする防波堤としての役割をロシアが果たせなくなっていく状況に、動揺することになるだろう。
 欧米にキャッチアップしたあとの日本の「過剰投資」は、「資本の浪費」だった。日本の不況は人口ピラミッドの必然であるゆえ、ポール・クルーグマンは、インフレへの回帰こそ療法だと断じた。
▼滝川政次郎&石井良助ed.『人足寄場史』S49
 免囚保護を国家事業とする矯正恤刑の思想が江戸時代からあったことについて。
 ◆  ◆  ◆
 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)
 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。
 大きな図書館に毎日通えない人も、最低費用で、過去の軍事知識のマニアックな勘所に触れることが可能です。
 また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。
 「読書余論」は、毎月25日に「武道通信」から最新号が配信されます。1号分の購読料は500円です。
 バックナンバーも1号分が500円で、1号分のみでも講読ができます。
 過去のコンテンツは、配信元の「武道通信」のウェブサイト
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どうやら「オスプレイ調達」は、アメリカ政府から日本政府に対する「命令」らしい

 15日に届いた『朝雲』#3052によると、3-11の衆院予算委員会で小野寺防衛大臣は、「個人的な感覚で言うと、小笠原を含めた離島での患者搬送には非常に大きな威力を発揮するのではないか」と述べ、急患空輸を視野に自衛隊へのMV-22の導入に前向きな考えを示したという。
 この質問をしたのは自民党の西銘恒三郎代議士だという。
 こういうのは「馴れ合い質疑」といって、答えたい話が先にあって、それを、気心の知れた味方の議員に議場でわざわざ質問してもらうものである。
 質問の内容がとつぜんに奇襲的に変更されることもない。
 ということは、以下の推理が可能だろう。
 小野寺氏は、自衛隊がオスプレイ(および水陸両用兵員輸送車 AAV7)を必要としていないことを知らないか、知ってはいるがそんなことはどうでもよい何か事情があって、誰かの意図にひたすら迎合して、それらの調達の実現のために日本の国益を犠牲にする肚を括っている、と。
 げんざい、小笠原村からの急患輸送は、厚木基地の海自所属の国産(新明和)の4発飛行艇が実施している。父島の二見港にも海自基地があり、その砂浜に、この飛行艇が這い上がれる「斜路」が整備されている。「斜路」がない母島その他でも、ゴムボートで海浜から患者を機内に搬入することができる。
 国産4発飛行艇は、速力でも、航続距離でも、上昇限度(これによって台風や積乱雲を回避しやすい)でもオスプレイより大である。しかも、いちどにヨリたくさんの患者を運ぶことができる。(最新型のUS-2なら機内の与圧もされている。これは潜水病患者にはありがたいことだろう。)
 この国産飛行艇による患者輸送を止めて、オスプレイに代替することに、ぜんたいどんな国益があるというのか、小野寺氏がもし売国奴でないのならば、国民に説明すべきだ。
 国産四発飛行艇は、遠洋で漁船が転覆したような場合の救難活動にも威力を発揮する。オスプレイは、ダウンウォッシュが強力すぎるために、ホバリング&ホイストによる救難活動は、実用的だとは思われていない。
 またげんざい、南西諸島での急患輸送は、自衛隊のバートル型の大型ヘリコプターが担任しており、その航続力と収容能力には何の不足もない。
 本州の病院への高速搬送が必要な場合には、最寄の空港で空自の固定翼機に患者を移し換え、さらに本州の飛行場で救急車または小回りの利くヘリコプターに移し換えることができる。
 バートル型の大型ヘリコプターは、3000m級の日本アルプスでの救難活動にも使える。が、オスプレイは、そのような標高ではホバリングそのものが苦しくなり、且つ、ダウンウォッシュも強すぎるので、高地での救助に役立つ機体であるとは思われていない。
 もしオスプレイを導入すれば、自衛隊が整備しなければならない機体の種類、エンジンの種類が増え、整備員の教育訓練も新規に別にしなければならず、維持の費用(特にスペアパーツ代)が嵩み、他の必要な予算を圧迫してしまう。これがどうして日本の国益になるというのか、売国奴でないならば、小野寺氏は説明すべきだ。
 防衛省は民主党政権時代から「オスプレイ」と「AAV7」(どちらも米海兵隊アイテム)を予算要求したがっていた。このことからわたしは、陸幕が海兵隊に洗脳されているのではないかと疑っていた。しかし自民党の大臣も肚を括ったということになると、これはもはや海兵隊イシューではない。米国政府イシューなのであろう。
 「オスプレイ」は、米陸軍からは見向きもされていない機体である(長所は速力だけで、航続距離は最新型のチヌークと違いがなく、運べる兵員数=救助できる民間人数は、チヌークが格段に多い。オスプレイ機内には高速ゴムボートも入らない)。
 こんな素晴らしい輸送ヘリであるチヌークを、陸自はすでに持っており、部品はすべて国内で調達できるようにもなっているのである。陸自のヘリ部隊の現場では、誰もオスプレイなど欲しがってはいないとわたしは想像する。現場が欲しくもないものを、内局と政治家が押し付けようとしているのだ。もうその背後には米国政府様がいらっしゃるのだと想像すべきだろう。米海兵隊は、直接に日本人にはたらきかけたのではなくて、得意技である米政府へのロビー活動を成功させたようだ。
 アメリカ政府から日本政府に対するこうした「命令」がどのような仕組みで処理されているのかの推定は、拙著『日本人が知らない軍事学の常識』に書いてあるので、未読の人は参照して欲しい。
 小野寺氏は「国賊」と呼ぶにはまだ小者すぎるとしても、「売国奴」にはかなり近づいているように思う。すくなくともわたしはこの代議士の見識の低さに失望し、厚顔無恥に呆れた。
 拙著『「日本国憲法』廃棄論』でも述べた如く、国会改革や選挙制度改革の主眼は、頭の良い人間を国会に送り込むことを重視するのではなくて、下僚の言うなりに日本の国益を合法的に他国に移出せしめて恬淡たるこの種の売国奴を一人たりとも国政に参画せしめないことの方に狙いを絞って行くべきだ。


『「日本国憲法」廃棄論――まがいものでない立憲君主制のために』(草思社)のご案内

 見本がもう出ているはずですが……(わたしは現物を未受領です)。定価¥1680- です。
 配本予定は3月13日です。(奥付は3月21日)。
 内容は、〈立憲君主制のススメ〉であります。
 憲法論を、面白くてタメになる「読み物」に仕立てられた人はあまりいないでしょう。とくにそれが、アンチ「マッカーサー憲法」の立場から書かれたものならば、絶無のはずです。
 東大法学部は、なぜ、偏差値が高い(教養課程からそこへ敢えて踏み入ろうとする人がそんなにいない)といわれているか。たぶん、日々読み込まねばならぬテキストの分量がハンパじゃないので、敬遠されてしまうのでしょう。通常レベルの法文系の秀才君ならば、他のことなど何もできなくなってしまうぐらいの負荷量なのかもしれません。おまけにそのテキスト類は、無味乾燥であったり、「マッカーサー憲法万歳」の、道徳的に歪みまくった《応用宗教学》だったりするわけでしょう。達成感すら予期し難い。
 あるいは なかには、「集中力」だけの自慢ができるという学生が、「よーし他の学生がおじけづくようなところなればこそ このオレ様がやってみせて目立つか」と、何かそれまで特段持ってはいなかった人生課題を与えられたような気になれるところが帝大法学部なのかもしれません。いずれにしましてもそこを通過してきた人々が、内閣法制局はじめ、日本の立法・行政・司法の枢要におさまっています。この日本で「法学」をやることは、理性に忠実たらんとすれば、いかさま難儀な話でござろう。
 まぁしかし、本書がその状況を変えるでしょう。
 共産党や朝日新聞は、〈マック偽憲法の9条の改憲は許さないゾー〉と明け暮れシュプレヒコールなご様子。けれども彼らが真に防衛したいのは「9条」じゃありません。「前文」と「1条」なのです。それが中共が冀うところでもあります。
 しかしそのことをあけすけに口に出してしまえば、国民の支持が日共や左翼新聞を決定的に離れるということが読めていますので、かれらは、カムフラージュ宣伝として「9条」だけを殊更にとりあげるという叛逆戦術を決めているのでしょう。
 わが国の安全と自由を最も左右するのも、あくまで「1条」と「前文」であって、「9条」などはほんとうにどうでもいいものなのです。それは一夜にして公然と無視され得ることはみんなが知っています。だって「違憲」の自衛隊がこんなにも長く持続しているじゃないですか。
 近代憲法とは、それじたいが「国家の説明責任」とイコールです。
 ところでこの「説明責任(リスポンシビリティ)」という概念が、江戸時代にも、それから明治いらいの近代日本人の中にも、ぜんぜん無かった(したがって、こなれた日本語の訳語も当てられない次第)。日本語の喋れないオランダ人ジャーナリストのウォルフレン氏が著作でしつこく説明をしてくれるまで、誰も気にもかけてなかった。たしか90年代でしょう。わたしには、つい昨日のことのようです。
 藤森弘庵(天山。寛政11~文久2)という水戸系の儒学者が、嘉永6年の黒船来航直後の七月に『海防備論』というのを出していて、その全文はいまだに読むことができないのが地方住まいの貧乏人として遺憾なのですが、目次だけは分かっています。「総論之一 志を定め、国是を明らかにすべき事を云ふ」。「総論之三 全体の結構を立つ可き事を云ふ」。そして、「処置之宜論五 文武合併の大学校を設る事を云ふ」。
 まぁこの人は水戸斉昭を「総督」にして、徳川将軍の権力を移そうと運動したぐらいで、その「国是」は「近代」には重ならなかったことだけは確実に想像ができますけれども、国家の大綱を論ずるときに先づ「国是(日本の場合は天皇制をどう公定するのか)」からハッキリさせて行こうぜという気組みは、まっとうなのではないでしょうか。この人は「説明責任」が分かっていたと思います。わたしはこの「目次」にすっかり感心をしました。
 水戸では會澤正志斎が文政8年に『新論』を著わしていて、早々と理路整然と明治維新に到るロードマップを説明していました。藤森もこれを読んでいたから、自説を素早くまとめ得たのに違いない。
 「説明責任」という概念は知らずとも、彼ら幕末のインテリたちには説明の意欲があり、それを発揮する能力がありました。
 ところが今どきの憲法論者たちや代議士たちときたら、根本の説明義務を欠いて平気である。だから「政治家」ではなく政治屋ばかりとなり、「維新」だって再現できないんだろうとわたしは思います。
 かつては読売新聞が、そして4月にはどうやら産経新聞が、「改憲案」を出すそうです。でも、そのメンツを仄聞するところでは、どうも「国是」より「9条」に関心が集中している御歴々のようだ。それだといかにも底の浅い作文にしかならないんだよね。読売案のときも大向こうがガックリとしたものです。「なんてこった、いまや わが日本には こんな薄っぺらな憲法思想家・国家学者しかおらんのか」という絶望で……。まぁひとつ、『「日本国憲法」廃棄論』でも読んで、志を入れなおして貰いたい。特に内務省の残党ね。
▼目次の一部抜粋(最終校正以前のデータを参照しているので、できあがりの刊行物そのものではありません。オ~イ、はやく見本をオレに呉れ、草思社さん!)
■まえがき――立憲君主制こそが特権の暴走を防ぐ
■第一部  自由と国防は不可分なことを確認しよう
・あなたの所属する近代国家だけが あなたの自由を保障できる
・離婚した異国籍夫婦間の子供は、どちらのものなのか?
・高度の安全と自由を両立しえた日本という国
・時代と土地と生産が異なれば、集団の正義も変わってくる
・「イギリスに成文憲法がない」という話は本当か?
・明治39年までも憲法無しで大国面[づら]ができたロシア帝国
・憲法で「市民の武装は権利だ」とする国としない国。どっちが正しい?
・「押し付け憲法」の事後承認は、惨憺たるイラク戦争も誘導した ※現代世界に大迷惑をかけている「日本国憲法」。
・存在しない「人民」などに主権を与えれば、日本が分解するだけ
・昭和前期に国会はなぜ権力をなくしたか
■第二部  「押し付け」のいきさつを確認しよう
◎H・G・ウェルズとF・D・ローズヴェルト
・「世界統一政府」構想の萌芽 ※FDRはハイチにて憲法押付前科一犯たる事。
・ドイツ参謀本部式の奇襲開戦主義を禁じた1928年のパリ不戦条約
・ウェルズが書いたサンキー人権宣言
・マック偽憲法の中核にもされたローズヴェルトの「四つの自由」
・スティルウェル将軍が証言するローズヴェルトの宗教意識 ※自身が再臨キリストだと思ってた。だから「新約=ニューディール」。
・「アンチ・ウェルズ」だった「四つの自由」
・カトリック票もとりこむ絶妙のレトリック ※ライムインザディッチ。
・「自存自衛」と「preserving its own security」の関係
・ヒトラーが手本を示した最新版の対大国の開戦流儀 ※スタ演説、モロトフ声明も抄訳。
・合衆国憲法違反の日系人強制収容 ※FDRが日本などに何の関心もなかったからこそこういう措置が通った。彼の頭の中はドイツだけだった。
◎アメリカ側の準備
・「無条件降伏」の目標設定
・1944年、ローヴェルトに同心しない「知日派」の活動が始まる
・「聯合国」と漢訳もされた戦後の超国家機構が起案される ※この漢訳は自然でなく、蒋一派の意図的なもの。
・大統領への野心に火がついたマッカーサー
・ありのまま評すれば日本は侵略国だとスターリン
・ヤルタ会談で対日戦後処理が相談される
・バーンズ回答でも国体は保証されず
◎改憲草案をめぐる攻防
・終戦詔勅においては「セルフディフェンス」を撤回 ※外務省が隠したい原罪について。
・偽憲法の精神ともなる「初期対日方針」が指令される
・新憲法を作れとマッカーサーから迫る
・占領下の改憲は「ハーグ陸戦条規」違反になるという道理も百も承知
・幣原は、占領初期の改憲というポ宣言違反にも合意
・凶悪犯も超法規的に解き放って政府をゆさぶる米国の戦術
・大急ぎで妥協点を探す過程での紛乱 ※兵頭は戦後の幣原は評価する。
・梨本宮元帥の逮捕
・ソ連の猛反発と外交攻撃が開始される
・1946年元旦詔書
・あわただしき正月
・「戦争放棄」を憲法で明文化することが即決される
・政府の松本試案は否定され、「マッカーサー・ノート」が作られる
・フィリピン憲法との異同 ※ハイチ憲法のジャンダルム=警察予備隊。
・ケーディスらが8日間で新憲法を書き上げる
・勅語による明治憲法改正の指示
・市ヶ谷法廷での戦犯裁判に並行して国会議事堂での改憲審議が進む
・「9条」に加重された「文民大臣限定」
・冷戦開始直後の混乱
・歴史の繰り返しサイクルはまだ終わっていない
■第三部  国民史は「改正」ではなく「廃棄」からこそ再生する
・「偽憲法」よ、ありがとう
・なぜ「自衛権」は、日本でのみ誤解されていたのか? ※それは内務省の独善的な出版検閲のせいだった。
・「無慈悲な官僚制」を必要とする国々がある ※ウィットフォーゲルが到達できなかった地理政治決定説。
・ならば、新憲法ではどんな点に注意すべきか
・「国防の義務」と「スパイ防止法」のない近代国家は無い
・偽憲法の放置が長引くにつれ日本人が不自由になると懸念した江藤淳
■あとがき――「日本国憲法」が日本国民を危険にし不幸にする
■著者プロフィール
兵頭 二十八(ひょうどう・にそはち)
1960年長野市生まれ。
1982年1月から1984年1月まで陸上自衛隊(原隊は上富良野)。
1988年、神奈川大学・英語英文科卒。
1988年4月から1990年3月まで、東京工業大学大学院の江藤淳研究室に所属(社会工学専攻修士)。※これはじぶんではあまり宣伝しないことにしているのだが、タイトル柄、こんかいはしょうがねぇ。
その後、軍事雑誌の編集者などを経て、フリー・ライター。
2002年末から、函館市内に住む。
著書に、『日本人が知らない軍事学の常識』『北京は太平洋の覇権を握れるか』(以上、草思社)、『やっぱり有り得なかった南京大虐殺』(劇画原作)、『ヤーボー丼』『武侠都市宣言!』『ニッポン核武装再論』『近代未満の軍人たち』『日本海軍の爆弾』『【新訳】名将言行録』『【新訳】孫子』『【新訳】戦争論――隣の大国をどう斬り伏せるか』『日本人のスポーツ戦略――各種競技におけるデカ/チビ問題』『精解 五輪書』『極東日本のサバイバル武略』『新解 函館戦争――幕末箱館の海陸戦を一日ごとに再現する』など。


◎「読書余論」 2013年3月25日配信号 の 内容予告

▼旅順市文華堂pub.『旅順の戦蹟』S11-1
 この写真集はすばらしい。
▼上田恭輔『旅順戦蹟秘話』原S3、S4repr.
 沈没艦船の位置図が詳細ですばらしい。
 永久堡塁のアーチトンネルのコンクリートの厚さは10呎近くある。
 営口の軍政署付の検疫医に、野口英世がいた。
▼井上晴樹『旅順虐殺事件』1995
▼防研史料『砲兵會記事』第2号、大7-4
▼防研史料『砲兵會記事』第13号、大10-2
▼防研史料『砲兵會記事』特号、大14-7
 日本軍のMGの故障について。
▼防研史料『砲兵會記事』ナンバー無し、大15-9
 ニッケル無しで砲身を造ったドイツはどうなったか。
▼防研史料『明治40年 陸軍兵器本廠歴史』
▼防研史料『明治41年 陸軍兵器本廠歴史』
▼防研史料『明治42年 陸軍兵器本廠歴史』
▼防研史料『明治43年 陸軍兵器本廠歴史』
▼『中央史学』第12号(H1-3)所収・坂和雄「砲術伝書に見る玉径〔に〕ついて」
▼防研史料『砲兵全書』S17-5
 S14-10-24改定砲兵操典を紹介している印刷物だが、「陸軍刑法」最新版と「陸軍懲罰令」の附録がむしろ役立つ。
▼防研史料『大戦後現われたる火砲と大威力機関銃』S11-12陸技本tr.
▼防研史料『昭和9年編纂 砲兵用 兵器教程附図』by陸軍教導学校
▼防研史料『昭和9年編纂 砲兵用 兵器学教程 附図』by陸軍教導学校〔箱54〕
▼金森久雄・他『高齢化社会の経済政策』1992
 難民や外人労働者をさいげんなく受け入れれば、その「保護」を名目として、外国から派兵される。
▼『エイジング事典』
 「バリアフリー」は1960’sの米国で、帰還廃兵への思いやりとして始まった。
▼『岩国市史』S32
 特に鳥羽伏見以降の吉川=岩国藩兵の活躍について。
▼大山柏『戊辰戦役史(上)』S43
▼『戊辰上野之戦争』M23
▼伊吹武太郎『歴史を変えた五日間 鳥羽伏見で勝因を探る』H7
 これは良いまとめ。
▼八木彬男[あやお]『明治の呉 及 呉海軍』S32
▼『横浜開港資料館紀要』12号(H6)
 中武 香奈美「幕末維新期の横浜英仏駐屯軍の実態とその影響――イギリス軍を中心に」
▼上田純雄『岩国人物誌』S45
▼大岡昇『郷土岩国のあゆみ』S49
 この本に日新隊は出てこない。
▼『増補 防長人物誌』原S8、S59復刻
▼陸軍軍医団『軍医団雑誌』No.318(S14-11-10)
 ノモンハンについての検閲無しの貴重な証言が満載である。ある意味傍観者の軍医が見たままを語っているので。
▼陸軍軍医団『軍医団雑誌』No.319(S14-12-1)
 戦場心理では、鉄帽に弾が跳ね返ったときでも「やられた」と感ずる。
▼『六合雑誌』32巻11号(1912-11月号)
 乃木大将の上書はともあれ、寺内〔首相〕、宮相、田中義一等の諸氏に対する遺書の内容が公表されないのはおかしいだろ、と。
▼『山本七平全対話 5』1984-12
▼『山本七平全対話 8』1984-12
 つか・こうへいは、「だまされた、だまされたといってた奴に、われわれはまただまされた」といい、それがウケる。
▼防研史料『「戦訓」 航空基地急速設営ニ対スル機械力利用所見』byニューギニア ワクデ基地 仮称103設営隊長、S18-3-31
▼『偕行社記事 No.279』M34-12
▼『偕行社記事 No282.』M35-2
▼『偕行社記事 No.284』M35-3
▼『偕行社記事 No.233』M33-1
▼横森直行『提督角田覚治の沈黙 一航艦司令長官テニアンに死す』光人社S63-5
 角田の評伝は、これ以前には無しという。
▼中山太郎『未来の日本を創るのは君だ! 15歳からの憲法改正論』2008-11
▼中山太郎『実録 憲法改正国民投票への道』2008-11
 ◆  ◆  ◆
 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)
 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。
 大きな図書館に毎日通えない人も、最低費用で、過去の軍事知識のマニアックな勘所に触れることが可能です。
 また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。
 「読書余論」は、毎月25日に「武道通信」から最新号が配信されます。1号分の購読料は500円です。
 バックナンバーも1号分が500円で、1号分のみでも講読ができます。
 過去のコンテンツは、配信元の「武道通信」のウェブサイト
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防衛省発行『我が国の防衛と予算(案) 平成25年度予算の概要』を読みて

 小生、2013-1-1から「海上保安庁政策アドバイザー」の任期が切れ、律儀な御役所さんと見えて、いらい海保からはマスコミ向け資料(毎回の記者会見の概要なども分かる)を一切郵送して来なくなったので、まあ今後話柄にとりあげることもすくなくなろうけれども、防衛省さんからは引き続き資料が郵送されて来るから(ただし記者会見の概要は含まれない。防衛記者クラブにはかなりディープな情報が記者会見以外の場で渡されているはずで、それが朝日のウェブ版消去記事となったのだろう)、例によってその注目点を指摘し、コメントを残しておくのは田舎の評論家の義務でもあろうかと心得る。
 『我が国の防衛と予算(案) 平成25年度予算の概要』は、奥付によるとH25-1刊行で、防衛政策局・防衛計画課と、経理装備局・会計課の合作である。再生紙A4版・平綴じ、本文46ページ、カラー図版挿入の冊子パンフレットで、たぶん非売品だ。
 135億円が、E-767とE-2Cの「運用拡大」を支えるための燃料費、修理費、通信維持費等のために要求されている。
 憶測するに、対露だけでなく対支の常続的監視も同時に必要になったのだから、JP-8代や交換部品代や衛星回線借用料も倍増せねば追いつかなかったはずのところ、売国民主党政権は、何もしていなかったのだろう。だが、それを言い訳にして先般の領空侵犯を不可抗力と言い逃れることは許されない。シナ人が低速機や無人機で領空侵犯を狙ってくる企図はプロならば当然に予測せねばならず、その「抑止」のための措置はいくらでもあったのにもかかわらず、漫然と過去のルーチンに安住して敵に凱歌を進呈したのだから、陸軍ならば歩哨の懈怠も同罪であり、第一責任者たる空幕は全部入れ替える必要があるし、海自のピケット艦を遊弋させる等の措置を講じなかった上級責任者も、譴責無しで済まされることではない。この責任問題をうやむやにするなら、日本軍は第二次大戦中のような「不適格人材の放置」を主因とする自滅的な拙戦をシナ軍相手に再演すること必定だろう。
 89億円が、宮古島と、宮崎県高畑山の空自防空レーダーをFPS-7に換装するために要求される。
 わたしゃこの「7」というレーダーについては何ひとつ知るところが無いんだが、昨年から話題になっていた「西日本にXバンド・レーダー」っていうのは、こいつのことなんですかい?
 1億円が、「宇宙状況監視」のために要求される。
 具体的には、朝雲新聞によると既存のFPS-5(ガメラレーダー)を宇宙デブリ監視用にソフト改造してみるというんだが、デブリ(これは「シナ軍の新鋭ICBM試射の際にそのデコイ分離タイミングを精密に観測すること」を言い換える日米の符牒のようなものだろう)を仔細に検分するためにはXバンドじゃなくちゃダメなはずで、つまり「(なんちゃって)デブリ監視」の役目も主に「7」で担うことになるのじゃないの?
 3億円が、那覇基地でのE-2Cの常続的運用態勢確立のために要求される。
 この予算が通る前の「緊急措置」ということにして、下地島の滑走路をE-2Cの給油用に使いなさいよ。誰も反対しないよ。
 1000万円が、「短波レーダー等の警戒監視技術」の技術動向の調査と研究のために要求されている。
 これって「OTHレーダー」でしょ。我が目を疑いましたよ。とうとう日本も独自に建設する気になったのか。さてそうなると立地ですよ。こいつは電力を喰うから、送信局は島嶼部には置けない。しかし、「受信局」は最前線の島嶼に広く散在させる、マルチスタティック方式にするべきだよ。当然、そこまで考えてるよね?
 F-35関連では、「国内企業が製造に参画するとともに、F-35の国際的な後方支援システムに参加」と注記してある。
 国内大手企業が待ちに待っていたのはコレだったのだね。F-35のパーツを米国を経由して世界中のユーザー(といっても今の調子だとイスラエルしかいなくなるぞ絶対)に売る。F-35はコスパ上の「失敗作」確定だから、ここですぐに大儲けしようってんじゃない。この「一線」を突破することで、将来、他の分野での「兵器部品輸出」に道が開かれる。一回、輸出の枠組みがエスタブリッシュされれば、あとは決河の勢い。誰も日本製パーツの奔流は止められねえ。道理で株式指数が爆上がりするわけですよ。いままで実績ゼロの分野が10倍、100倍に伸びる。そこに機関投資家が注目するのはあたりまえすぎますわな。
 25億円が、「水陸両用車の参考品」4両購入のために要求されている。
 波が高いと使えない、断崖にも這い上がれない、敵が水際地雷や沈底式機雷を撒いたら近寄れない、敵が曲射弾道のATM持ってたら池のアヒル同然に死あるのみ、第一空挺団が半日でとっとと陣地占領・築城工事してしまえる離島に1週間かけないと接近すらできない(その間にシナ人は橋頭堡を確立して東京政府を核恫喝して、わが揚陸艦の動きは途中で止まる)、そんな売国精神フルコースのアメリカ製「AAV(Amphibious Assault Vehicles)7」を陸自用に調達する気満々だね。民主党政権時代から一貫してこれを推進している内局の工作員はいったい海兵隊からどんな接待をされたんだ? 海兵隊など滅亡確定の恐竜にほかならず、時勢は英軍の「ロイヤルマリンズ」(それを模倣したのが米海軍のシールズ)のような少人数上陸作戦に完全にシフトしているのに、時代に逆行して海兵隊の真似を陸自にさせようというのだ。これは米国海兵隊以外の誰の利益にもならない。島嶼防衛の要訣は、敵にそもそも上陸をさせないことで、そのためには水上をノロノロと接近する装備は無用の長物。チヌークか高速艇で守備隊を先に送り込んでしまうことが、安全・安価・有利な対策である。国会議員諸君は、こんな亡国の予算案を認めてはならない。
 800万円が、「諸外国におけるティルト・ローター機」の調査研究に要求されている。
 構造的危険機オスプレイを、信頼性が確立している現有チヌークの後継機として買いたくてしょうがないらしい。内局内には、海兵隊から完全に洗脳されちまった、もしくは、天下り利権に理性を失っている御仁がいると見た。
 チヌークの航続距離はどんどん伸びており、オスプレイに遜色はない。しかも3000m級の山岳地がある日本の地形ではチヌークのホバリング能力はオスプレイを断然に上回っている。遠くの島へ速くかけつけたいなら、国産飛行艇のUS-2を大量調達した方が、よっぽど日本の景気はよくなる。US-2は内陸飛行場にも降りられる。そこから沖合いの軍艦まで邦人をピストン輸送することも可能だ。もとより140万人もの在支邦人は回転翼機で救出できるような数ではあるまい。カントリーリスクを強調して平時から大陸への渡航を抑制させることこそ、まともな責任ある政府というものだろう。
 いうまでもなく、軍事作戦的には、チヌークの最新型をどんどん増やすことが、現実的・合理的であり、日本の国益である。
 この800万円は亡国の端緒であり、絶対に承認してはならない。
 比較して、民主党政権時代に鳴り物入りでブチ上げられた「グローバルホーク」に関しては、なんと海外調査費100万円が要求されているのみだ。担当係官1名が北米とグァムに出張旅行したら消えてしまう額で、「当政権として、やる気はまったくありません」と表明したに等しいだろう。
 いまや国産の高性能4発哨戒機があるというのに、シナ軍のSA-2で簡単に撃墜されてしまう、しかも運用基地はアンダーセンを間借りするしかない、そんなグロホを大枚はたいてわざわざ導入するメリットは、誰が見ても皆無だろう。
 253億円が、「在日米軍従業員の給与及び光熱水料等を負担」したり「在日米軍従業員に対する社会保険料(健康保険、厚生年金保険等)の事業主負担分等を負担」するために要求されている。
 これってもう誰かの「利権」になっちゃってるんでしょうね。誰が考えてもありえないでしょ。金額といい内容といい、非常識きわまる。これがいままで国会を通ってきたということは、議員も役人もみんな腐ってるってことだね。


●「読書余論」 2013年2月25日配信号 の 内容予告

▼山岡惇一郎『田中角栄 封じられた資源戦略』2009-11
 造兵学者の大河内正敏について詳しい。ピストン・リングが現代航空戦のキー・テクノロジーであり且つ戦時量産のネックになると見抜いていた慧眼の大河内が戦前に書いたものは国会図書館にたくさんあるのだが、彼自身が戦後どうしていたのかはよく分からなかった。この本のまとめにより、承知ができた。
▼『大正ニュース辞典』毎日コミュニケーション
 泰平組合スキャンダル関係記事を拾った。国会で公然と議論されていたところが、大正デモクラシーらくして良い。
▼『内外兵事新聞』
 村田少佐がつくった「室内銃」について。
▼『偕行社記事 No.282』M35-1
 南部小銃製造所長の小銃談。
▼『内外兵事新聞 第21号』M9-7-31
▼『内外兵事新聞 第22号』M9-8-7
 村田の「軍用銃原因略誌」という寄稿がある。
▼防研史料『自動砲教練』宮沢部隊本部 ?年
▼防研史料『満蒙ニ於ケル兵器使用上ノ注意』陸技本 S9-10
▼防研史料『伐根車 取扱法』陸軍航空審査部 S20-4-5
▼防研史料『蘇軍手榴弾説明書』陸技本 S16-8
▼杉本勲ed.『幕末軍事技術の軌跡――佐賀藩史料「松乃落葉」』S62
▼宮田幸太郎『佐賀藩戊辰戦史』S51
▼『田中角栄 私の履歴書』S41-5 日経刊
 この自伝が出たあと、山本七平は、旧軍体験者との対談の中で何度も、准尉に取り入れば軍隊ではほぼなんでも可能だった、と確かめ合い、角栄は満州の騎兵聯隊で准尉に賄賂をつかませて仮病で除隊したと匂わせていた。その真偽について、ここで精読して判定しよう。ちなみに南次郎によれば騎兵聯隊は不良将校の吹き溜まりだったそうだけれども、田中の回想にはそれらしい記述はない。
▼牧野和春『巨木再発見』1988-6
▼中出栄三『木造船の話』S18-9
▼鈴木雷之助『薩摩大戦記』M10-3-10~M10-4
▼清水市次郎『絵本明治太平記 全』M19-11版
▼馬場文英『改撰 鹿児島征討日記』M11-7
▼塩谷七重郎『錦絵でみる西南戦争』H3
 乃木少佐が軍旗をとられた事実についての政府による検閲が当時あったことは、以上の一連の当時の出版物から、傍証され得る。
▼『公衆浴場史略年表稿本 自明治元年 至昭和四十三年』S44
 日本の煙突史について調べていた頃のメモより。
▼井上哲次郎『倫理と宗教との関係』序文M35-8-28
 日本主義は個人が自存のため「衛善」を怠らないようなものだが、国民の場合、種々の宗教が紛争すると、国民自衛できなくなる、と井上は言う。自存&自衛という用語がコンビで活字となって出てくる、管見によれば日本で最も早いもの。
▼『第三次防衛力整備計画』つづき
 蒋介石は『中国のなかのソ連』で、中共の暴力戦略をこう総括した。「彼らは戦いに敗れると、平和共存を要求し、彼らの実力が強くなれば、平和的話し合いを決裂させて武力反乱を起した。彼らにとってはわれわれとの平和交渉が、とりもなおさず、われわれに対する武力反乱の準備であった。これが、すなわち彼らの弁証法のいわゆる『矛盾の統一』と『対立物の転化』なのである」。
▼『山本七平全対話6』つづき
 会田雄次いわく。教育召集で入隊したとき准尉さんが「君のお父さんも君が戦地へ行くことを心配しているだろうな」という。これは、お前のおやじに連絡して金を包んだら、お前を出征組から落としてやるというナゾだったのだ。准尉殿の当番兵になったということは、命が助かるということ。
 司馬いわく。会津藩の百姓は、会津若松の城が今日か明日にも落ちるというときでも平気だった。会津は後進的だったので侍と百姓が分離していた。官軍の手引きをする連中もいた。商品経済がなかったから、四民平等思想に達しないのだ。
 山本いわく、ユダヤ教世界には、契約の更改がある。それが新約。それをするのが、予言者。イエスは予言者である。あたらしい契約の時代が始まるんだと。
▼防研史料『明治39年陸軍兵器本廠歴史』
▼『偕行社記事 No.213』M32-3
▼『偕行社記事 No.216』M32-4
▼『偕行社記事 No.217』M32-5
▼『偕行社記事 No.218』M32-5
▼『偕行社記事 No.219』M32-6
▼『偕行社記事 No.221』M32-7
▼『偕行社記事 No.228』M32-10
▼『偕行社記事 No.238』M33-3
▼『山本七平全対話1 日本学入門』1984
 司馬遼太郎は1976年頃に積極的にノモンハン経験者に取材していたことがわかる。その咀嚼はしかし、深化しなかった。
▼加登川幸太郎『帝国陸軍機甲部隊――増補改訂』1981、原書房
 山本七平と司馬遼太郎の対談を読めば痛感するように、80年代になってもまだ日本人の戦車の知識など、未熟きわまるものだった。同じ課題を元参謀の加登川氏も抱き、出入りの防研に眠る史料と、戦術面では得意のロシア語文献を参照して、戦中の実相に迫ろうとした力作。しかし加登川氏には戦車の話ではなくフィリピンの話を聞いとくんだったといまさら悔やまれます。
▼小松茂美ed.『続 日本絵巻体系・17』中央公論者S58
 長刀しか無い時代には正面の防護は考えなくてよい。だから兵士のプロテクターは両頬だけなのである。
▼洞富雄『幕末維新期の外圧と抵抗』1977
 いまの神奈川県立図書館から桜木町駅の間のどこかに、幕府が買ったガトリング砲が据えられていたという話。
▼『開拓使 事業報告 第五編』大蔵省 原M18-11pub.→S60復刻
 軍艦・蟠龍のその後の運命について。
 ◆  ◆  ◆
 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)
 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。
 大きな図書館に毎日通えない人も、最低費用で、過去の軍事知識のマニアックな勘所に触れることが可能です。
 また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。
 「読書余論」は、毎月25日に「武道通信」から最新号が配信されます。1号分の購読料は500円です。
 バックナンバーも1号分が500円で、1号分のみでも講読ができます。
 過去のコンテンツは、配信元の「武道通信」のウェブサイト
http://www.budotusin.net/yoron.html
 で、タイトルが確認できます。
 ウェブサイトでわからない詳細なお問い合わせは、(有)杉山穎男事務所
sugiyama@budotusin.net
 へどうぞ。


●「読書余論」 2013年1月25日配信号 の 内容予告

▼『多門二郎 日露戦争日記』S55、芙蓉書房刊
 日露戦争直後の2大ベスト・セラー戦記は、櫻井忠温の『肉弾』と、多門二郎大尉の『余ガ参加シタル日露戦役』(M43)。その後者を現代かな文字に直したものである。著者は2D長として満州事変より凱旋直後に病死し、静岡県人は残念がった。生きていれば大将だった。ロシア兵たちが満州平野での冬営のために晩秋からイグルーの土壁版のようなものをオンドル込みでこしらえ、半地下のその1個の中に6人くらいで寝て、その穹状土窟が蓮の実のように野営地に蝟集していたという記述は、本書でしか読めず、超貴重である。日本の豪雪僻地の住宅はこの発想で行くべきではないのか。
▼『偕行社記事 〔No.1?〕』?年?月pub. ~No.49 M23-11
 創刊号を今回、ようやくご紹介できる。
▼『偕行社記事 No.?』M24-5
 菊地陸軍2等軍医正(i3Rn)の寄稿。
▼『偕行社記事 No.64』M24-7~ No.75 M24-12
▼『偕行社記事 No.166』M30-3~ No.? M31-11
▼防研史料『陸軍兵器本廠歴史 明治38年』
 これは1年分のみ。日露戦争で事件が多いため、単年になっている。
▼(社)電子情報通信学会ed.『日本における歴史的マイクロ波技術資料保存目録』H10
▼電気興行(株)ed.『依佐美送信所――70年の歴史と足跡』H9=1997
 GPS普及以前、米海軍の潜水艦用の長波信号の送信所だった。その設備は、日本人だけに任されていた。
▼『続日本無線史〈第一部〉』S47、電気通信協会pub.
 共通して必要な基礎研究を、一セクションで済ませてその成果を全セクションがシェアすればよいとは考えず、二重、三重に、セクションごとにぜんぶ別々に一からやろうとして資源も時間もロスしたのが、戦中戦前の日本であった。
▼美代勇一tr.『日本爆撃記――米空軍作戦報告』S26、アテネ文庫145
 初出は米誌『Flying』の1946-2月号で、米空軍の正式報告の抄録。B-29が投下した機雷はすべて沈底式であったことなど、マニアックな内容。
▼John Kells Ingram著、青山正治tr.『奴隷及農奴史』S18、原1895
 いろんな百科事典の記述の元種にもなっている、労作的な総括。
▼中村哲『奴隷制・農奴制の理論 マルクス・エンゲルスの歴史理論の再構成』1977
▼北山節郎『ピース・トーク 日米電波戦争』1996
 戦中、日米は、互いの国内放送を傍受していた。
▼陸軍軍医団『軍医団雑誌 No.316』S14-9-25
 櫻井図南男・軍医少尉「軍隊に於ける自殺 竝に 自殺企図の医学的考察」。
 ◆  ◆  ◆
 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)
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◎「読書余論」2012-12-25 配信 の内容予告

▼ヴュルツバッハ著『非核化時代の安全保障』S63、原1983?
▼西郷従吾『アメリカと西欧防衛』S56-3
▼ジョージタウン大学戦略研究所ed.、時事通信社外信部tr.『チェコ以後のNATO』S45-2、原1969
 NATOのきまりによれば、ベトナム戦争には全欧が馳せつけるべきなのだが、実際は片務的であることが確認されてしまった。
▼Harlan Cleveland著、鹿島平和研究所tr.『NATO――その変遷と将来』S46-11、原1970
 チェコ侵入の前には、在欧米軍の削減という流れがあった。
▼戦略問題研究会ed.『戦後 世界軍事史〔1945~1969年〕』S45
▼防研『北大西洋条約機構(NATO)(1949年~1969年)』1969
 54-10-2、独は仏に対し、12個D=40万しか持たぬ、と約束。英も仏を安心さすため、むこう44年間は英軍を欧州に置く、と。
▼丸尾眞『NATOの東方拡大問題』1996(財)世界平和研究所pub.
▼Ronald Steel著、平泉 渉tr.『同盟の終り』S40、原1962
 ミサイルの戦略射程化で、米の在外空軍基地は続々と不用化しつつあったので、英仏としては、米をまきこむための独自の核兵器が必要になった。
▼日本経済政策学会ed.『経済政策の諸問題』S16-2、日本評論社pub.
 ドイツでは1937から、国境から500km離すことで工場は敵の重爆から安全になること、逆に150km以内では工業の対空防護は不可能であると結論。
 電化は工場疎開を容易にした。
▼海保燈台部『日本燈台史』S44非売品
 S25に、終戦処理の砲身を灯塔に利用し、波圧を少なくして自重を増した。→黄金碆。
▼日本経済政策学会『戦争と経済政策』S18-1
 アクィナス:「まさかの場合に食糧が入って来ず、そして食糧が届くまでに人民の生活が脅かされるやうな形で食糧を外国に依存してゐる国は、国家としては不完全」。
▼東京都ed.『明治初年の武家地処理問題』S40
▼Jerome B. Cohen著、大内兵衛tr.『戦時戦後の日本経済 上』1950
 田中貢は『ダイヤモンド』1940-12-1に「日本はナチスの経済統制を学ばざるべからず」と寄稿。
 しかし1940~1942の日本のGNP増は、わずか2%強。日本の官僚がいかに無能かが知れる。
 1944のGNP指数は、1940の1.24倍。
 藤原銀次郎が調べたところ、アルミ地金の55%しか飛行機には使われていなかった。あとはなんと、ナベ・カマ、容器、機械台に無駄遣いされていた。
 東條は1943に独裁の非難をかわすため7人の経済界指導者からなる内閣顧問を任命。「最高戦時経済会議」としたが、週一回、自由討論を首相が傍聴するのみで、なんらの決定も勧告もおこなわれず。
 小型熔鉱炉というものは、人員とコークスの無駄遣い。非効率すぎ。
 進駐軍がジープに松根油を試した、数日でエンジンがダメになった。
 マグネシウムは海水から取れる。日本こそ活用すべきだった。独と米は、とっくに活用していた。
 日本は飛行機工場を分散どころか、開戦後にわざわざ集結させていた。
▼『戦時戦後の日本経済 下巻』1951-3tr.
 1人の熟練工の穴は、3~4人の未熟練工でなければ埋められない。
▼Emeny著、一原有常tr.『米国戦争資源の分析』S17-2、原1938-11
▼中村隆英・原朗ed.『現代史資料43 国家総動員 1』1977、みすず書房
 S12年度以降の軍事支出の拡大は、必然的に入超を招き、国際収支が悪化する。
 外国で起債する道の無い以上、あとは、直接統制で内需を抑えて国際収支をかろうじてバランスさせるしかなかった。
 満支に出超でも、円が戻ってくるだけ。ドルやポンドは、入らない。
▼防研史料『兵器本廠歴史前記(明治31年~35年)』
▼『偕行社記事 No.163』M30-2
▼『偕行社記事 No.165』M30-3
▼羽仁五郎『白石・諭吉』1937-6
▼ウィットフォーゲル著、平野義太郎らtr.『東洋的社会の理論』S14-6
 奴隷経済文化は史上に一回きり(Einmaligkeit)生起した。すなわちギリシャとローマ。それは天水農耕と不可分であった。
 東洋的国家では、上層は王+官僚に等しい。
 黄土帯では、河川流量が夏は過多となる。そして、降雨は農作にとって不適当な時にある。だから、人工灌漑が必要。
 西欧では、都市は政治的に独立していたから、商業資本は工業投資家になることができた。それは市民に法的安全(burgerliche Rechtssicherheit)があったから。
 その下地は、農業が集約的でなくて、地方拡散的で、生産力が低かったこと。
 周の末期以前には、税とは力役であり、公田を耕させるものだった。しかし誰も他人の土地を熱心に耕すものはいないので、税収が悪すぎた。
 むしろ、土地をすべて農民に与えて、小家族に耕作させ、そこから地税を吸い上げた方が得だと為政者は気づいた。
 左伝には、戦車を御することが得意だったり、戦場で活躍できる宦官もいたことが書かれている。鄭和も宦官であった。
 礼記(小載礼記)と論語は強調する。妻および子は、老人に仕え、扶養せねばならない。だがそれだけなら犬や馬と違わない。「敬」がともなわねばならぬ、と。つまり外形的だけでなく、内的にも完全に従属しろというのだ。子は、長上に仕えるときの容貌にも注意しなければならない。完全なる子のみが、君主にとっての完全な隷僕である。
 こんな農民ばかりだったら、治安コストは削減できるわけ。
 ドイツ、フランス、イギリスの有畜農業は、日本の水稲作とは比較にならぬほど、男子の体力を要求するものであった。
 これが意味するところは、若者から壮年者にかけてが一番偉くて、老人になればその男子は壮年ほどには偉くはなくなる、ということ。
 支持点=アンハルツ・プンクト。※これが軍事用語の「支とう点」?
 古典古代ギリシャは奴隷経済だったが、それは工業に投入されたのであり、農業は奴隷に任せていなかった。
 農業に奴隷を使うことはあまり効率はよくない。手抜きをするのは簡単なので、おだてながら使用しなければならない。極度に酷使することができない。
 ローマでは、技術や注意のほとんど要らない分野、穀物の粗放畑作、油、葡萄酒、家畜に、奴隷労力が投入された。
 東ローマ帝国(シリアやトルコも含む)は人工灌漑農業であり、奴隷に任せることは不可能だった。
 都市の中に、国家につらなる役人どもがふんぞりかえっていたら、「市民」は誕生し得ない
▼尾崎秀實『支那社会経済論』S15-6
 尾崎は、支那社会とはいつまでも封建社会なんだという考え。
 シナの首都は、経済中心には置けない。国防上の合理性から、経済的な辺境に置かれる。そこと経済都市を連絡したのも運河。
 族長が、引退した国家官僚ならば、その族長を通じた中央集権が可能。
 この族長は、中央政権が革命で交替すれば、その次の政権と、すぐに結びつき、それで何の問題もない。
 国家の興亡と、村落の興亡が、きりはなされている。
 儒教とは、シナ家族の全面肯定に他ならない。君臣関係、朋友関係は例外規定であり、標準は、父子関係、夫婦関係、長幼(兄弟)関係である。それは狭い小家族のルールである。それを国家や国際にまで適用しようというのだ。
 水田農業では、畑作農業以上に、家長の経験値がモノを言う。
 国家支配者は、村の長老たちを大事にするといえば、全国支配が容易であった。
 以上のシナ式封建社会が崩壊しはじめたのは、ここ百年だ。
 秦の始皇帝と、漢の武帝は、他のすべての罪を帳消しにするくらいに、匈奴に勝ったことが偉かった。
 宋代の社会が沈滞していたのは、民族運動=対外戦争が消極的だったからだ。
 ウィットフォーゲルいわく。日本には、アジア的な大規模の灌漑システムは存在しなかった。だから集権的な専制国家もできなかった。中世のヨーロッパと同じ。19世紀においては、産業資本主義の進化の準備が完成されていた。だから開国すると即座に資本主義化した。
 秦の商鞅は、商人からは利潤を奪え、商人は抑えつけ、畏怖せしむべしと言っている。シナの古い伝統。
 その価値観から「士農工商」という順列が定義された。政策的に商業をおさえつける。
 商人はそれにどう対抗したか。商業部門に再投資せず、土地を買った。
 貨幣で納税させること(宋代の王安石の改革)は、政府が国民に対する「高利貸し商人」になること。
 シナでは繊維の手工業が工場にまで発達することが決してなかった。農と工が、分かれない。
 シナでは官僚の成れの果てが田舎の地主資本家となる。官僚と高利貸しが同じ人物。
 1895日清戦争で清国に多額の賠償金が必要になると、列国はそこにつけこみ、借金によって清国を支配しようと競った。
 つまり、商品輸出でなく、資本の輸出。
 シナでは、官営工場がダメだとわかると民営に払下げた。日本では、事業立ち上げのリスクを政府がとり、もう大丈夫そうだとわかると民間に売り渡した。
 WWIで欧州資本はシナから引き上げざるをえなくなった。そこに日本がつけこんだ。米国もこのときシナ市場を放置していた。
 1919以降、欧米は、シナ市場をとりかえそうとして力を傾注してきた。その努力のひとつが、ワシントン会議。
 1927秋に、新興資産階級である浙江財閥を基礎に国民党政府が南京にできた。
 さかのぼれば1924に孫文が容共政策をとって、国共を合作させ、北上。
 1927に長江筋に出て、漢口に武漢政府をつくった。
 さらに上海の資本と接触すると、その要求として当然ながら共産党を切れと迫られた。
 そこで1927-4-12に蒋介石は反共クーデター。
 マジャールが見抜いたこと。シナでは「土地税」がムチャクチャに収奪的で、ちっとも地主ブルジョアの権力を反映していない。資本蓄積など思いもよらない。だから地主や自作農は資本家として驥足をのばせない。
 北支では軍閥が「兵差」という名でカネや賦役や現物を自作農から強請り取る。自作農は零細化せざるを得ず。
 高い封建的地代の存するところにおいては、地主は資本主義的の経営を避けて、封建的な地代を得るために土地を小作せしめる。
 1928のシナ大飢饉。死者はおそらく何十万。この被災地ではメシを食うときは窓を全部閉じないと餓鬼の群れに襲われかねない。
 1931には、水害被災8000万人。このとき尾崎は水上機(操縦は米人)で上海から漢口へ飛んだ。見渡すかぎり水。。
 軍閥が大河川を分割支配すると、水防は不可能なのである。
 清末の「張公堤防」は堤防の上を自動車でドライブできるくらいの大規模なもの。
 蒋介石政権は清朝がやっていた治水事業をぜんぜんひきついでいない。口先だけでやるといい、税金をとって他に使っている。
 一国は30%くらいは森林が必要だ。しかしシナには7%しか残ってない。
 日本の水害と違うのは、カラカラ天気が続いているのに、水がどんどん上流から流れてきて增す。
 中共は1930夏に長沙を12日間、占領した。
 すでに失脚したが李立三という中共の領袖、一省で「首先勝利」をおさめて足場にすべきだと唱え、大工業都市の漢口を狙った。ちょうど水害時。
 尾崎は見た。汽船会社は、餓死者を長江に放り込んで処理していた。
 「食を求めて避難民が漢口に殺到して来るのに対しては、武漢にゐる兵隊が漢水とか揚子江の上流の適当な地に機関銃を据ゑた船を用意して、なだれこんで来る避難者を追払ひ、時には撃払ふといふ非常手段をとつてゐた」(p.130)。
 シナ人の金持ちは、じぶんの利益になることならば一生懸命やるが、他人の金を預かってそれでもって事業を発展させて行かうといふ場合には熱意がない。
 満州事変は、すでに工業化していた満州市場を奪われることなので、蒋介石のバックの財閥にとっては市場シュリンクであり、大打撃だった。
 ドイツはバーター的に戦争資材を確保する必要があり、秘密協定によってドイツはシナに1億マルクのクレジットを設定した。3割弱は余剰の古い兵器とのバーター。
 租税の9割は間接税。一般大衆に課し易い。
 全収入の半分近くは、関税。シナの関税は、国内市場を保護するためにあるのではなく、政府が主たる収入を稼ぐためにある。
▼尾崎秀実『現代支那論』1982repr. 原1939 岩波
 「漢文を通じて吾々が想像し描く所の支那社会といふものと、現代に於ける支那社会といふものは殆んど何等の繋りを持たないまでに隔つてゐる」。
 しかるに、1000年以上の飛躍を忘れて、古典漢文が現実のシナ理解の唯一の尺度としてしばしば錯覚され誤用されている。
 支那では軍閥を一代やったら、数代の子が楽に暮らせる。
 天津や上海や香港には、外国租界があり、そこに軍閥の子孫が、富裕な生活を送っている。
 たとえば広東の主、陳済棠。1億元以上を安全に香港に保管している。
 フェミニストの林語堂いわく。周代にはまだ女家長制の残滓が明らかに残っていた。婦人には姓(苗字/家族名)があった。しかし男子には、地名/官名+個人名(氏)しかなかった。儒教は婦人を幽閉した。
 秋沢修二の把握。周は奴隷制国家だった。殷人を捕虜として、征服者たる周人の間に分配し、奴隷労働に駆使していた。
 漢末、奴隷制は崩壊し、封建的社会(小作人が主に耕し、大土地を所有する地主は耕さない)が萌芽する。
 シナでは商人資本は産業資本に飛躍しない。土地を買い、封建的地主となる道が選ばれた。巨富を得た商人は、官府と結びつくか、大地主と一体化しないと、財産が安全ではない。
 宋の版図は狭い。統一シナ帝国のなかでは、最も勢力が微弱だったといえる。モンゴル方面だけでなく、チベット方面をも征服ができなかった。
 シナの官僚は、地方の地主階級から多く出る。そして、中央での活躍後は、また田舎に戻って地主階級におさまる。
 尾崎いわく、軍閥もまた、シナ特殊の官僚制の一変態なのである。
 橘樸いわく、シナの官僚は先進資本主義国の官僚とは決定的に違う。官僚は、上層有権階級そのものなのである。個人ではなく、家族として官僚が存在するのだ。
 官僚が中央で活躍するとカネが溜まるが、それはシナ社会では土地に投資するしかない。したがって野に下っては、田舎の紳士、郷紳として大きな勢力を揮う。
 官僚の溜めたカネは商業資本にもなり得るが、官僚とは非生産的なビヘイビアの生き物であり、高利貸し以上のビジネスなどできない。
 国民政府が北伐のとき、「土豪」「劣紳」を打倒するぞとスローガンをかかげた。この土豪も劣紳も、スタートは、官僚なのである。宗族の一人が中央で高い役職を得て権勢を揮うと、ネポティズムにより、一族は田舎で特別な支配力を行使し得る。そこで一族が蓄財し、土豪になる。
 毛沢東による土豪劣紳の説明。某姓のなかでも地位が高くて権力のあるものが「門閥」である。門閥は「言動が不正でも人が咎めず」。門閥のひとりが農商総長となったら、彼の無能な兄はネポティズムにより郷里で専横のかぎりをつくすことができる。同姓の宗族は皆、この特権を得るのである。こうして門閥から、土豪劣紳が発生した。
 つぎに、田舎のインテリ。まわりが低能民ばかりだから、地方官吏と結託することで、利欲を計ることができる。そこから、劣紳になりあがる。
 軍閥の頭目は、学問がなくとも人民に尊敬される。だから、現役時代の財産で田舎に田地を買えば、そのまま、そこの土豪として余生を送れる。これが第三の発生原因。
 紳士とは、現代シナでは、租税の賦課を引き受ける者をいう。インテリもあれば、大将軍もある。ただし読書人でも科挙は通っていない。インテリの士人が朝にあれば官吏、野にあれば紳士である。秘密結社をつくり、農民を糾合して中央に対抗するのは、紳士。その代表が、シナ史上最大の農民暴動をおこした、洪秀全。かれは落第秀才であった。
 軍閥の最後の野望は新王朝の始祖となることだが、袁世凱はこの最後のチャレンジで失敗した。
 張作霖は、北京で、お手盛りで「大總統」になった。
 いずれも、個人の強烈な思いからそうしたのではない。シナでグループの長になるということは、しぜんに、そのコースを歩まねばならんのである。つまり部下どもが、親分を「帝位」へ推進するのだ。
 袁世凱が各省に置いた都督(のちに督軍)が、そのまま軍閥の長となった。中央政府(總統)は非力で、督軍を任免できなくなった。北京の總統は、中央政府というより、これまた一軍閥と化した。
 地方督軍のうち有力なものは、二、三省をたばねて「巡閲使」となった。
 かくして1920には軍閥間の安直戦争、1922と1924には、奉直戦争。
 1926に広東国民政府は、軍閥打倒の旗印をかかげて、北伐を開始。
 長野朗による軍閥のせつめい。
 軍閥は、成長すると分裂する。親分のすぐ下は、旅長、師長だが、かれらはみずから督軍になりたい。戦争があれば出世し、分裂できる。戦争がなければ、いつまでも下積み。だから、ナンバー2がナンバー1になりたいために、下の方から開戦要求がつきあげられてくる。内訌がたえない。
 軍閥は利益結合であり、殲滅戦争はしない。裏で密かに敵方と款を通じており、戦況がひとたびどちらかに有利に傾くと、たちまちにして大勢を決する。
 蒋介石はいわば南京軍閥。のしあがる過程で敵軍閥は整理したが、支配下の地方軍閥は整理できなかった。
 四川軍閥の領袖たちの何人かは、大石油会社の株主となっている。
 四川では、阿片税が大きい。阿片産業は、北支や、雲南や江西、広東にもある。
 支那事変が始まると、あちこちの軍閥は、もともとアンチ蒋介石だったのに、みな、「抗日英雄」になった。この蒋介石の指導力は見事である。
 軍閥の苛斂誅求は、土匪を生んだ。
 意気地をもっている連中は、兵隊ではなくて、土匪になる。
 思想は均産主義。官僚には強い反感を持っている。地主も官僚の仲間だから、土匪は地主を攻撃する。
 土匪に対する住民の自衛組織が、〇〇會。紐帯は宗教であることが多い。
 1920にシナにおける日本の支配を英米に抑制させるために列国がワシントン会議。
 1937-7時点で、イギリスは軍艦20隻をシナに展開。アメリカは14隻、フランスは10隻、イタリーは2隻、日本は15隻。
 1927に排英運動が激化したときは、イギリスは本国から兵員1万人をシナへ送り込んだ。
 シナに石油を輸出しているのは、イギリスの「アジア石油会社」。
 イギリスは、漢口、九江、厦門、鎮江の租界、さらには威海衛の租界まで返還した。これは、シナ市場において日本に対抗するための高等政治。
 英国人は、日本人よりもシナ人を知っており、シナの政治を利用することにも長けている。
 1932、ドイツは、シナ軍改革のため、国防軍のフォン・ゼークト元帥を指揮者とし、ファルケンハウゼン将軍を筆頭とする約60人の軍事顧問をシナへ送った。かれらがドイツ製武器をさかんにシナ人に買わせた。
 昨年の春、さいごまで漢口に残っていたファルケンハウゼン将軍以下数名のドイツ軍顧問団は、すべて本国へ引き揚げた。
 1932-6、蘇支国交回復。これは満州事変で日本に脅威を感じたソ連がよびかけた。反共の蒋介石と結ぶことについてはソ連内の「世界革命派」からは反発があった。しかしモスクワはリアリズムに舵を切った。
 ソ連は、あまりに蒋介石援助を大きくすると、国民党が赤化してしまい、こんどは英仏が蒋介石を援助しなくなるので、大局的に不利だと計算している。
 リットン報告いわく。シナにおける最初のボイコットは、1905米支通商条約の改訂でシナ人の渡米が制限されたことに反発して起きた。
 1933-1からの第五次討伐は、フォン・ゼークトらの顧問が指揮。江西の共匪は「長征」と称する大退却に移った。
▼西部邁『文明の敵・民主主義』2011-11
▼小山常実『「日本国憲法」無効論』2002-11草思社
 パルは東京裁判が原爆以上の被害を日本に与えると見たが、小山は、マック偽憲法こそ原爆以上の日本破壊兵器だとする。
 ◆  ◆  ◆
 「読書余論」は、主に軍事系の古本を、兵頭が注目した一斑の摘記や読書メモによって紹介し、他では読めないコメントも附しているものです。(配信されるファイルはPDFスタイルです。)
 あまりに多すぎる過去の情報量の中から「兵頭はここは珍しいと思いました」というポイントだけ要約しました。
 大きな図書館に毎日通えない人も、最低費用で、過去の軍事知識のマニアックな勘所に触れることが可能です。
 また、ミリタリーしか読んで来なかった人には、他分野の情報が、何ほどか有益かもしれません。
 「読書余論」は、毎月25日に「武道通信」から最新号が配信されます。1号分の購読料は500円です。
 バックナンバーも1号分が500円で、1号分のみでも講読ができます。
 過去のコンテンツは、配信元の「武道通信」のウェブサイト
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「読書余論」 2012年11月25日配信号 の 内容予告

▼『偕行社記事 No.786』S15-3
 町工場のバネの品質でまだ苦労している。
▼『偕行社記事 No.142』M29-3
▼『偕行社記事 No.145』M29-5
▼『偕行社記事 No.146』M29-5
▼『偕行社記事 No.151』M29-8
▼『偕行社記事 No.157』M29-10
▼『偕行社記事 No.160』M29-12
▼『偕行社記事 No.162』M30-1
▼防研史料 『陸軍兵器本廠歴史前記 明治二十~三十年』
▼秋永芳郎『ほらふき信淵――幕末大砲奇談』1986
▼日本放送出版協会ed.『日本の「創造力」』第3巻、H5
 村田銃と村田刀の話。
▼本の雑誌社編集部『新・匿名座談会』2000-10
 2年分の連載のまとめ。対談収録の時に酒を出してはいけない。その理由は……。
▼コスチェンコ著、樋口石城tr.『旅順攻防回想録』新時代社1973
 M44に『屍山血河』として邦訳されたのを現代語に直しただけのもの。
▼芳賀矢一(故人)『日本人 付・戦争と国民性』冨山房 S14
▼高橋三郎『「戦記もの」を読む――戦争体験と戦後日本社会』1988
 筆者は『大空のサムライ』を読み、『坂井三郎空戦記録』にあった何かが消えてしまったのに衝撃を受けた。S24に「記録文学」とよばれる旧軍告発モノが大量生産された。『三光』S32、『侵略』S33。人肉食はS46に初めて告白された。
▼伊藤皓文『研究資料 75RT-2 ユーゴスラビアの全人民防衛』1975 防衛研修所pub. 
 ユーゴは1941-4にわずか数日間で占領され、1943秋まで、いかなる国からも助けてはもらえなかった。歴史意識がなくて戦意だけあっても、人民戦争は遂行できない。
▼長坂金雄『類聚傳記大日本史 第十四巻上 陸軍篇』S15-5
 陸軍特別大演習の年次と地方名と参加師団名の一覧表。村田経芳の話。
▼『日本鉱業株式会社 五十年史』S32
▼『川崎重工株式会社百年史』1997-6
▼ジル-ガストン・グランジェ著、山村直資tr.『理性』1956
▼香西 泰ed.『景気循環』1984
▼伊藤政之助『ナポレオンと秀吉の戦略比較論』冨山房S18
▼ラス・カーズ著、難波浩tr.『ナポレオン大戦回想録 第2巻』改造社S12
▼尾池義雄『戦術から見たるナポレオン』春秋社S6
▼読売新聞社『兵器最先端・4・機甲師団』
 核戦争時には、中隊と中隊の間隔を1km以上とれ。
▼石井研堂『明治事物起原[sic.]』M41-1
▼明治大学文学部紀要『文芸研究』S63-3所収・吉田正彦「旗と十字架――キリスト教会の塔を飾るもの」
▼早乙女勝元・岡田黎子『母と子でみる 毒ガス島』1994-4
▼岡山新聞報道部『瀬戸大橋』S63-3
 「電磁誘導発破」について。
▼林武『ナセル小伝』S48
 英帝国に反発していた米国がエジプト独立革命を幇助していた裏話。
▼『大川周明全集 第四巻』岩崎書店S37-10
▼『日本の名著 45 宮崎滔天 北 一輝』中公1982
▼松本清張『北一輝論』S51
 初出はS48の『世界』「北一輝における『君主制』」。それに加筆した。
▼芦澤紀之『ある作戦参謀の悲劇』S49-12
 堀場一雄・元陸軍大佐の伝記。服部の同期なので卓四郎のキャラを知る手掛かりにもなる。日本語の「面接」は「総力戦研究所」が普及させた。陸大の「口頭試問」の呼び換えだった。
▼内閣総力戦研究所『昭和19年度資料 長期戦研究(1)~(4)』S20-3-5印刷、S20-3-10発行
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■贋アイヌ人と お粗末な反日フィクション

 つまらぬ本のために1日前後、無駄にしてしまった。
 函館市立中央図書館に堂々と開架で並べられている、それも「小説」コーナーにではなくノンフィクションの扱いになっている『戦場の狗 ある特務諜報員の手記』(1993-1、筑摩書房刊)である。
 じつは、ある人から「満鉄に雇われ英才教育されたアイヌ人スパイがいた」という話を聞いた。そのソースが本書である。
 その人は当該書の内容を事実だと信じ込み、海外辺境一人旅のバイブル視しているようであった。
 わたしはそんな話をこれまで聞いたこともなかったので、「そのネタは、史料の信頼度をじゅうぶんに精査する必要があるだろうと直感します。そんな事実がもしもあったのならば、たとえば北海道でいちばん購読戸数の多い『北海道新聞』のような反政府左翼的マスメディアが、放って置くわけがないと思います。よろこんで取材して「戦前暗黒史観」の補強記事にしているはずでしょう」と返信した。
 わたしは『表現者』に「近代未満の軍人たち」を連載している。いつかは北風磯吉(アイヌ出身兵で金鵄勲章)について、ぜひとりあげたいとも念じていた。ところが北風の関係史料は小樽図書館に行けばあるそうなのだが、函館図書館には全く無いときている。そのために、いまだに旅順の英雄・北風については何も書けないでいるのは残念である。
 しかし北風以上の戦争の英雄がいるという。これを知らずにいたとなると、やはり北海道在住のライターとしては恥であるから、なにはともあれ確認せねばと、わたくしは当該図書を借りて読んでみたのだ。
 著者は「和気シクルシイ」という男性で、生まれが大正7年=1918年4月(戸籍上は6月とか。この変更のいきさつも信じ難いものである)。
 74歳で初めて自分史を公刊するため書き綴ったことになる。それまで誰にも取材を受けなかったのか?
 インターネットで検索すると、誰もまともにとりあげていない人物であることだけは確認できるであろう。
 子供の頃に、近所の誰とどんな遊びをして、ある日こんなことがあった――という述懐がない。こうしたディテールの不足感は、全篇を貫いている。
 1929に「ハルピン学院」で「体術」の67歳の「老師」からテコンドーを2年間習ったという。しかしネットで調べると、そもそも「テコンドー」という単語が創出されたのが1954年12月であったと知れよう。
 著者は松岡洋右と3回会っているというが、やはりディテールが乏しい。松岡の伝記を読めば誰でも書けるようなことしか書いてない。
 ……というか、この著者は松岡の伝記も十分に確認していないらしいことは、読むに従って明らかとなる。
 第一回面会は1931-9で、場所は大連だったという。13歳の少年を応接間に迎え入れ、松岡は英語で長広舌を揮い、共産主義を排斥するための満鉄の義務や、ドイツでのナチズム台頭などにつき語ったという。和気はそれまで8年間、外国語の英才教育を受けていたので、その内容が分かったという。
 1931-9-20から、燕京大学で、言語学者のアルマンド・スタニスロー先生(50歳前後、略称スタン)に就いて学ぶ。
 1932-6から1933-5にかけて、スタン教授の学術調査キャラバンに加わり、蘭州や昆明まで行って北京に戻ってきた。装甲バス、有蓋トラック、ジープ混成だったという。
 この著者はジープが1930年代前半には存在するわけがないという自動車発達史には、頓着をしないらしい。
 1933-12のクリスマス後に、著者はスタン教授と中東旅行に出たという。このとき、スタン教授が「戦略事務局」OSSのスリーパーであると知ったという。
 この著者は、OSSが1941年以前には存在しないことにも興味がなさそうである。
 1937年10月20日、スタン教授は著者をワシントンに連れ出し、松岡洋右に会わせた。場所は日本大使館の一室だという。
 史実では松岡はその時期には満鉄総裁。渡米の事実もないが、著者はそういうことには読者は関心をもつまいと踏んでいるのだろう。
 1938-9に神戸につくと、松岡の指示で、「相沢中佐」が迎えに来ていた。この中佐は「ワシントンの日本大使館の山荘」〔オイオイさっきは大使館の一室だったろ〕で松岡に会ったときにも松岡の身近に陸軍中佐の制服を着ていたというが、神戸では背広だったという。
 著者は数ヶ国語に通暁する記憶力の良い若者のはずだが、相沢中佐の下の名前は一回たりとも出てこない。兵科も、出身中学名もわからない。
 あとになると、相沢中佐は、大佐となって出てくる。それは1940のことである。ふつう、中佐から大佐へは3~4年で進級するから、これは、おかしくない。
 しかし、相沢は、著者より12歳、年上だという。ということは1906生まれ。明治39年である。明治39年生まれのエリート軍人は、ほぼ、士官学校39期である。39期の同期で最も早く大佐になったエリート君は、昭和20年3月の昇進である(次の40期になると、終戦前の大佐はゼロ)。
 S16に大佐である陸軍軍人ならば、それは陸士34期より前でないと、整合しないだろう。
 ……とまあ、そんな計算をやってみずとも、大佐以上の軍人の名簿は『陸海軍将官人事総覧』でぜんぶ調べがつくので、終戦時に大佐だった「相沢」なる陸軍軍人がひとりもいなかった事実は、簡単に知られることなのである。
 相沢は、燕京大学を卒業したあと、ドイツに3年間も領事館付武官として住んだという。
 ベルリンには「大使館」があった。
 著者は1938-5に相沢中佐の案内で熱海の別荘に松岡を訪ねたという。松岡は、いま行なっている南方作戦を中止して中国本土の反共に努力すべきだと語ったという。
 まだ北部仏印進駐すら始めていないんですけど……。海南島もS14だしね。
 1938夏時点で著者はアメリカにおいて、北千島のアイヌ語の研究で博士号を得ているという。
 論文博士ならばその論文のタイトル、博士号をくれた大学、レフェリーの教官、ぜんぶ覚えていて当然だろうが、ひとっこともそれが語られることはない。
 「燕京大学」卒の20歳の日本人に言語学系の博士号をくれてやるアメリカの大学が、当時存在したとは、想像もできないけどね。
 著者は、1938-12-15に相沢中佐につれられて大本営へ行き、いきなり陸軍少尉に任官したという。
 非軍人である若者は満20歳で徴兵検査を受けねばならなかった。その場合、高学歴者でも最初は陸軍2等兵とし、予備士官学校に通わせる間は下士官とし、それから陸軍将校へ任官させたものだ。いきなり陸軍少尉なんてあってたまるかい。
 1939-2に相沢中佐につれられて新京へ。4-19に新京の「関東軍本部」に行き、「参謀部」で話した。
 この著者の記憶には、正確な組織名、部署名がぜんぜん入っていないらしい。それなのに早熟の天才? すくなくも本書の作者が旧軍のプロ軍人などではなかったことは確かであろう。
 1940-6末、天津で、相沢大佐に会った(p.62)。
 1941-6には重慶に潜入。通路のスピーカーで、「東南アジアやマレー半島の戦況」などを放送していたという。
 日本軍がマレー半島に上陸するのは1941年12月なのだが。
 1941-11のベトナムに、アメリカ製のジープがあったという(p.91)。
 松岡は、1940-4にスターリンに会って帰国する途中に外務大臣を罷免されたという(p.95)。
 著者は、戦前の総理大臣には閣僚罷免権が無く、総辞職しかないということを知らないらしい。7-16に近衛は松岡を抛り出すために総辞職したというのが史実。もちろん松岡はとっくに帰朝していた。
 1941-12のタイに、ジープがあったという。
 バンコクは建物が壊れていた。なぜなら1940-9に日本軍が仏印に送った軍隊がやったのだ(p.103)。
 北部仏印進駐で中立国のタイの首都にまで日本軍が雪崩入ったら、その時点でもう世界大戦じゃないかとは、この作家さんは考えないらしい。
 1942-2中旬に、アメリカ製のイギリス軍ジープでバンコクからシンガポールへ走ったという。5ミリ鋼板で装甲されていたという(p.104)。
 シンガポール近くの水上では日本海軍の巡視船が英語で「浮遊魚雷に注意して進め」と呼びかけていた、という(p.116)。
 大川周明は「老壮会」を主宰し、「行地社」を結成したという(p.118)。
 1945-1にチベットにあった米空軍のゴルムド基地で、ロシア語放送を聞いたという。それによるとアメリカが開発中の新型爆弾が製造段階に入ったので、これで日本本土を攻撃すれば戦争の終結はそれほど先のことではないと言っていたという(p.144)。
 史実ではトリニティ実験が7月。しかも広島投下まではプロジェクトは厳秘にされていた。
 1945に「中支派遣日本軍」が安徽省に居り、その「中支派遣軍司令部」は南京にあったという(p.166)。
 1945になってから、著者は、「中尉」になっていることを知ったという(p.170)。
 1939から少尉を6年以上もやってたのか? それだけで映画になるだろ。「最先任少尉」だわ、間違いなく。
 松岡は1941に、日ソ中立条約締結後、日本に戻る車中で内閣総辞職を聞き、自らも外務大臣の席を追われたことを知った、という(p.172)。
 1945-7の大同。半島では徴用されるというので30万人くらいの朝鮮人が北支の大同の炭鉱に移住して、シナ人相手に威張っていた。朝鮮人は、日本の敗北が近いと知るや、現地人の側に寝返ろうとしたが、現地シナ人はそのまやかしに乗らなかった。朝鮮人は「半国人[バングオレン]」と蔑称されていた(p.180)。
 こういう記述と、シナに関するディテールだけがやたらに詳しいことから、本書の作者はシナ人ではないかとも疑われる。
 張家口で聴いた1945-7-9昼の重慶放送は、アメリカが新型爆弾の第一回実験を太平洋のどこかの島で実施したとアナウンスしていた。それは「アトミック・ボム」であるとも言っていたという(p.182)。
 相沢はリッチモンドのバージニア州立大学で卒業するとき金時計を得たという(p.195)。
 南京の虐殺に反対し、城内の酒楼で毒殺された関東軍参謀・川崎辰雄大佐がいたという(p.198)。
 参謀が死んだ事件があったらそれだけで大事件でしょう。もちろん、実在などしません。
 この川崎大佐は著者の父の妹が嫁いだ先で、旭川第七師団にいたが、関東軍参謀部二課に転属になっていたという。
 著者は日本に帰ってきて「東京拘置所」に入れられ、日比谷の濠端のGHQ建物内で取り調べをうけたという。
 「巣鴨」という単語が出てこない。そして、拘置所の中に他に誰がいたのか、一行の記述もない。だいたい第一生命ビルの中で犯罪容疑者の取調べなどするものか。場違いも甚だしいだろう。
 あとがきにいわく、相沢大佐には戦後いちども会っていないが、東南アジアあたりのどこかで暮らしているらしい(p.231)。
 随所に旧日本軍の対住民暴行が捏造されて証言されており、架空の「アイヌ人」のIDを駆使して、シナ人の反日ブラック・プロパガンダに加担した書物であることは瞭然としている。
 中共が仕掛けるこの類の低級な宣伝企画が、またこれから増えるのではないかな。ミリタリーの「識字力」(リテラシー)を身につけ、せいぜい警戒すべし。