清張と遼太郎

2.26に信濃町で軍事学セミナーの一日講師を務むるべく、函館発羽田行き飛行機上の人となった「わたし」は、たまたま機内で消化するためセレクトした細谷正充著『松本清張を読む』を三分の二ほど読んでしまい、ほとんど驚愕する。
 「防衛庁が三矢研究をやっとった1963年に、松本清張は『現代官僚論』を書いていたのか…!」
 「わたし」の講演では、「なぜ司馬遼太郎は1967年に『殉死』を書き、翌年から『坂の上の雲』を書き、74年に『歴史と視点』を書き、86年から『この国のかたち』を書いたか」を、アカマル系の戦後ミリタリー関連書の出版史にフットライトを当てながら説明する予定であったのだが、松本清張という巨大なアカマルの存在はすっかり閑却していた。その清張という謎をかくも面白い摘録で知らされた「わたし」は、もはや当初の講演構想は抛擲するしかなかったのである。
 司馬遼太郎と対蹠的に貧乏であった松本清張は「敗因探求」の本は書かずに一足飛びに官僚研究に向かった。おそるべし、清張。
 そしてこれほど面白い要約の書ける著者細谷氏の前途は洋々としているではないかと思いつつ、「わたし」は、新橋のホテルで読み残しの頁を開くのであった…。

 


御礼。戦史研究家様。

 掲示板を拝見しました。ご教示賜りまことにありがとうございます。
 調子に乗ってもうすこし勉強させてもらっていいでしょうか。
 明治35〜36年の二等卒が最速で一等卒および上等兵になるには、何ヶ月かかったでしょうか。小生の見当では、ぴたり一年ではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。
 伍勤と兵長の相違も初耳でためになりました。
 自衛隊もはじめは「上等兵」制度を買っていたんですね。
 余談ですが大岡昇平の小説の中に、フィリピンでの噂話として、兵隊が全員上等兵からなる援軍がやってくるという話があり、その意味するところがよくわかりませんでしたが、最近ようやく話が見えてきたところです。(お粗末。)
 現在は一般二士で入隊するとだれでも半年で一等陸士になれるのですか。小生と小生の同期は、きっちり一年間、二士でした。これは入隊月によって長短を生ずるもののようで、小生は偶然にも11月中旬、つまり昔の徴兵の入隊月と同じだったのです。
 戦史研究家様、今後も宜しくご叱正を願い上げます。

のらくろフラッシュバック!

 自分がいちばん詳しいと思っていることで大間違いをしでかすのが人の常であります。
 先日はこんなことがありました。
 日露戦争に従軍したある歩兵が入営一年目、まだ開戦前で平時なのに、一等兵から上等兵になった、と自分で書いているくだりが目にとまったのです。
 「これはおかしい。著者は記憶違いをしているのではないか」と、わたくしはその書籍の編集部に注意を促しました。じつは、その書籍は日露戦争当時の日記の翻刻で、わたくしは巻頭の解説文をひきうけていたのです。
 昭和2年以前の徴兵は陸軍の場合3年満期です。そこでわたくしは思った。常識で考えて一等兵には2年目で、上等兵には3年目でなるもんだろうと。2年目で上等兵になってたまるかと。だったら平時なのに半年で一等兵かよ、と。
 これが、ぜんぶわたくしの無知誤解なのであります。自衛隊の陸士長の感覚で旧軍の上等兵を語ることはできない。旧軍の上等兵は特別だったのであります。陸士長は2年いたら誰でもなれるものであります。ありがたくない。二者は似て非なるものなんであります。
 調べるほどにこういうことが判明しまして、冷や汗をかいたわけであります。
 そして突如、あるシーンが蘇りました。
 「のらくろ二等卒」の最後に、こんなエピソードがあったんです。新兵が一斉に昇進する日です。だいたい1年目ですね。その朝、ブル連隊長がモール中佐に「のらくろは上等兵にしてやろう」と言うんです。ところがその日、のらくろだけ起床してきません。耳元で喇叭を吹きならしてもぜんぜん起きないので、連隊長は怒り、三ツ星の上等兵にするのをやめてしまって、他の新兵同様、二ツ星の一等兵の階級章をつけてやる。誰かが言います。「こいつ、星をひとつ損したぞ」……。
 わたくしはこれを読みました当時、「二等兵から上等兵にしてやるというのはあくまで猛犬聯隊の世界のつくりごとで、帝国陸軍じゃありえないことなんだろ」と思っていた。別に旧陸軍の制度に詳しいわけじゃなかったんですけどね。
 ところが、この「のらくろ」の二等卒→上等兵は、全くアリだったのです。陸軍では、中隊の中の特に優秀な二等卒(昭和7年から卒が兵と呼びかえられる)は、一等卒になると同時に上等兵に任ぜられたんです。
 嗚呼、おそるべし、猛犬聯隊。
 だってそうでしょう。のらくろは新兵時代に早くも重営倉に入れられてるんですよ。これは軍隊手牒に記録されちゃってるでしょう。八丈帰りの前科者みたいなもので。そのあとどうリカバーしたって、もう模範兵じゃあり得ないわけですよ。それが2年後であるとはいえ、ちゃんと上等兵になるんですから。
 モノホンの兵隊だったらヤケおこしてますます素行が悪くなって、師団の陸軍刑務所、果ては姫路の懲治隊送りになる可能性すらありましょう。しかし猛犬聯隊では、失敗のリカバリーが可能なんですよ。大尉ですよ、最後は。さすがに親も分からぬ捨て犬じゃ、陸大は受験できなかったでしょうけどね。
 そこでまた思うわけです。このマンガがウケたのは当然であると。戦前の日本社会は、失敗には不寛容でした。内務班の新兵ともなりゃあ、息詰るような緊張に浸りきった毎日ですよ。工場の見習いや、商店の小僧も、程度の差こそあれ、そうだったんじゃないですか。
 それが、猛犬聯隊にはないんですよ。アナザー・ワールドなんです。
 田河水泡という人は、落語の新作もなさっていた真の文人です。デッサンもプロで、その腕でデフォルメしていたから、上手いし、技巧も各所に凝らしてあるんですね。
 こういう人は、たぶん江戸時代からいたんでしょう。
 「のらくろ」の戦後バージョンには、アナザー・ワールドの魅力はもうなくなりました。なんでかというと、敗戦で、日本社会そのものが「しくじり者」となった。みんなで重営倉にぶちこまれ、釈放されて、それじゃあ、やり直しのリカバーをしようと、面の皮を厚くしていた時代になったからです。現実世界の緊張が、すっかり砕けてしまったんですね。だから逆に猛犬聯隊に戻ると息苦しくてしょうがない。昔の秩序だけはある。が、将来の大事件は何もあり得ない世界。
 「のらくろ」の戦後版は、描くべきじゃありませんでした。でも芸術家も霞を喰っては生きられないですからね。

名演技者揃いで真に羨ましく思った映画:『Ray』

 役者バカという言葉が日本にはありますけども、演技はバカに務まる職業ではありません。表現者としての素質がもともとあり、その上に頭脳と肉体を巧みに用い続けて、人に観てもらえる役者になる。その最も信任された演技者が、時の民主主義制度下の国政最高長官となっているんです。
 下手糞な芝居しかない国には、つまらない政治家しかいません。これは観客が二流なのですから、ごく自然なのです。
 さて有名な音楽家の半生をトーキー映画に仕立てたら、誰もが観て感心する映画となるでしょうか? まあ、世の中そこまで簡単なわけはないでしょう。
 音楽のドラマ性と人生のドラマ性はそもそもサイクルは合いません。というのは、一人の作曲家は一生に一曲しか作らないわけじゃないですよね。そこが、建築家や冒険家や戦争ヒーローとは違っているんです。どちらかというと、彼らは若いときに名曲をヒットさせてしまう。それも複数、立て続けに。
 それはしかし、人々が馴染んでおり期待もしているドラマの「盛り上がり曲線」には、あてはまりません。
 もし、脚本の雑駁なところをBGMで補うなら、たちまち「メロドラマ」と呼ばれる安物に仕上がってしまうでしょう。ミュージカル映画でない以上、音楽に重点を置いたら「負け」なのです。映画の作り手側としての野心が、それではほとんど満たされない。
 他方で観客の側とすれば、有名な音楽家の映画と聞いたら、やはりその音楽家のレコードを堪能したいと思うでしょう。脚本家も演出家もそれには応えてやる義務がある。もちろん役者は、本物の演奏家のように演技できなくては観客はすぐ幻滅します。要求されるものが高い。
 こうしたことから、有名な音楽家を主人公にした映画は、そうでない人が主人公の映画よりも、チャレンジングになるでしょう。博打です。そして、まず間違いなく、観客の全員をフルに満足させることはできないのです。なぜなら一人一人の聴取体験はユニークなものであり、異なっていますから。それが制作する前から分かっている勝負なのです。
 『Ray』はどういう解決法を採ったか。テレビの『ER』方式です。つまり複数のエピソードの波状連打で構成してきました。エピソード群の節目と、有名な持ち歌の1曲づつを、カプリングさせた。これはミュージシャン映画の王道ではないかと思いました。そしてこの王道には小細工が効かない。『ER』が病院のリアリズムを再現した以上に、ディテールに凝った映画になっています。しかしエンターテインメントへの凝りは、観ていて楽しいものですね。
 もし皆さんの中で、いまから1ヵ月間に映画のために投じられる予算が¥1800-しかないという人がいたら、『アレクサンダー』ではなく、『Ray』をご覧になることを兵頭は推奨します。わたくしが近年に観た、ティナ・ターナーの自伝映画(1993米公開)の1.5倍、それからエミネムの自伝映画『8 Mile』(2002米公開)の2倍ほどは堪能できる音楽映画でした。なによりも、賞嘆すべき演技者が集まっています。この多士済々の演技を脳みその隅っこに書き留めておくだけでも、一生の財産でしょう。演技ができるということは「人間が分かっている」のです。人間が分かっていなくてノー・ルールの競争に勝つことなどできません。
 わたくしは『アレクサンダー』はネットで予告編しか観ていませんが、これはイラク戦争とオーバーラップさせた、ただの国策映画だな、と感じました。こういう国策映画は少々不満足な出来でも権威あるナントカ賞はとらせてやるというしきたりに、あちらではなっていますけれども、日本人のわれわれがそれにお付き合いすることはないでしょう。『アヴィエイター』も、ブッシュ政権の「よいしょ映画」臭いですねぇ。
 ところで『Ray』の感想として「暗黒面を描いた」とか書いている批評家がいるみたいですけど、正気ですか? クインシー・ジョーンズの伝記を一冊読んだだけでも、「音楽ビジネスの現実に善人は一人も居ない」ってことは、もうオトナの常識として呑み込めなきゃいけないでしょう。
 そういう汚い、残酷で気疲れのする世界でミリオネアになった彼等が凡人たる我々より激しく快楽を求めるのは当然だとは思えないんですか? 『Ray』の描写ごとき、暗黒面でもなんでもありゃしません。
 公園の「花時計」があるでしょう。ミュージシャンから音楽をとったら、花を全部むしりとった花時計の針がぐるぐる回っている、それだけの現実です。そんなリアリズムを、誰が映画で観たいんですか? あれは、せいぜいが「青い芝生」も見せた、というレベルですよ。

吉川英治に『宮本武蔵』後半のモチーフを指図した陸軍人は誰だ?

「シナ事変が自衛戦争であった」ことを戦前の日本政府がまともに説明できなかったのは何故なんでしょうか? これは、統制好き官僚たちの秘密主義が、真の宣伝の足を引っ張り、政府として闊達な主張を打てなくしたのでしょう。日本政府の情報統制によってシナ事変は「日本の侵略」になってしまったのではないかと思います。
 スペシャリストに過ぎぬ日本の官僚はいくら秀才であろうとも「宣伝」にだけは向いていません。否むしろその有能さが途方もなく見当外れな「自虐」の方向へ発揮され、日本人の近代精神をどんどん退行させて行くことがある。その事例は、近年の各政策分野にも見られましょうし、戦前には、かの吉川英治大先生の小説『宮本武蔵』という徒花を産んでいます。
 そもそも日本政府(なかんずく外務省)と日本陸軍のエリート官僚が対外・対内宣伝の必要に目覚めたのは、第一次大戦直後です。国際連盟には常任理事国として加入した、しかし尼港事件では世界の同情が集まらない、国内では普選が実施されて民間人の代議士が軍縮を決めてしまうかもしれない……そんな大正9年に、まず陸軍省内に「新聞班」が設けられました。これは世論工作機関で、今の小泉内閣のスピンドクターの先輩です。
 昭和11年7月、内務省がそれまでずっとしてきたような「検閲」中心の消極的情報統制ではなく、もっとアクティヴな情報操作に乗り出すべく、政府は「内閣情報委員会」を設けます。
 ついで昭和12年9月、つまりシナ事変の勃発を承けまして、この組織が「内閣情報部」に改まる。
 さらにドイツの電撃戦を承け、統制官僚たちのお御輿として発足した第二次近衛内閣は、15年12月にこれを「情報局」に改組。昭和18年7月に「一県一紙」を指導したのも、この情報局です。
 けれどもこれら組織の内部で終始一貫の活躍をしていたのは、やはり陸軍省の旧新聞班の系列だと思います。
 陸軍省新聞班が、キレる人材をしっかり集めていたことは、通州事件の際のエピソードからも窺えるように思います。通州事件というのは昭和12年7月、南京からの謀略放送に対して有効な手を打っていなかった陸軍の特務機関が、陸軍の軽爆の誤爆をきっかけに、飼い犬であった「冀東防共自治政府の保安隊」に寝返られた形で、けっきょく嬰児を含む邦人223名(うち半分は半島人)が虐殺されてしまった大不祥事件です。これに狼狽した支那派遣軍司令部の大佐や中佐たちは、出張してきた陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に対して、間抜けにも、新聞に事件が載らぬようにしてくれ、と注文したといいます。松村は、すぐ近くの北京の外国人が見聞きして既に租界の無線で世界に通報されているはずだからダメだと撥ねつけ、激しい口論となりました。もちろん事件は内地の新聞で派手に報道され、国民の復仇心はかきたてられたのです。
 この、陸軍省新聞班の目立った活動は、満州事変の時から始まっているようです。一冊数十ページ(たまに数百ページ)の冊子の著述刊行でもって、国民に直接訴えようとした。たとえば古本屋のリストから拾えば、こんなタイトルが見つかるでしょう。
 『満州不安の実相』『満州事変に於ける嫩江河畔の戦闘に就て』『米国カリビアン政策と満蒙問題』『満蒙諸懸案に就て』(以上S6刊)。……アメリカもカリブ海で似たようなことやってるだろ、というパンチを繰り出したのでしょうか。
 『満州国の容相 正・続』『満蒙新建設に対する住民の意嚮』(以上S7)。
 『満州事変経過ノ概要』(S8)。
 『躍進日本と列強の重壓』(S9)。そう、この年でした。『國防の本義と其強化の提唱』という有名な「陸軍パンフレット」が日本中の図書館その他に撒かれ、統制好き官僚が文化や経済の領域にまで口を出すようになりましたのは。対国民の宣伝で、個人の「内面」をお上があからさまに指導しようとするんですから、共産党と変わりません。こんなのはまるで逆効果であろうと常識で考えられぬところに、今日までも変わり映えのせぬエリート官僚達の病弊があります。
 『満州国概観』(S10)。この頃には新聞班は、あの田河水泡に「のらくろ」の4コマ・バージョンを描かせて、兵隊向けの軍隊新聞『つわもの』に掲載していたということです。そして朝日新聞では吉川英治の新連載『宮本武蔵』が始まっています。これは「陸パン」とは大違いの顕著な効果がありましたけれども、昭和14年に完結したその効果の方向は「自虐」なのでした。
 『日露戦役の回顧と我等国民の覚悟』『支那共産軍に就いて』『陸軍軍備の充実と其の精神』『共産軍の山西侵入に就いて』(以上S11)。
 『空中国防の趨勢』(S12)。『事変と銃後』『北支経済及資源ニ関スル諸統計資料』(以上S13)。『支那事変下に再び陸軍記念日を迎へて』(S14)。
 あと新聞班の御仕事には「愛国歌」レコードのプロデュースもあります。つまらない歌を、東海林太郎や上原敏にSP版で熱唱させちゃうわけです。この国策音楽と、それから内地と満州の国策映画に関しては、どうも日本の陸軍省をはじめとする宣伝機関はパッとした仕事をしていません。とうぜんクリエイター頼みだったんですけれども、音楽界、映画界には「吉川英治」は居なかったようです。光っていたのは円谷英二の特撮だけでした。
 いや、写真本の『FRONT』(S17に第一号)などは良い仕事をしていたじゃないか──と思われる人がいるかもしれない。でも、量的に太宗を占めた報道写真はどうですか。
 わたくしは月刊『戦車マガジン』で毎月100点以上の写真をセレクトしていたことがあって、そのときあることに気付きました。シナ事変の初期の報道写真にはあまり修正の跡がありません。ところが事変が長引くことがハッキリした昭和13年から、戦車の大砲や機関銃がしばしば修正で消されてしまうようになったんです。これなど、まったく意味のない検閲です。情報の何が大事で何が大事でないかが、担当者に分かっていないと直感できました。この検閲をやっていたのも陸軍省の新聞班ですけども、組織の人数を増やしたことで却って宣伝下手になったのです。官僚化して「守り」に入ってしまったわけです。
 昭和13年7月に内閣情報部(内務省・外務省・陸軍省・海軍省から出向)は、軽薄なる日本国民が敵軍を軽くみて戦局や時局を楽観せぬよういましめること、かつまた国民には「長期持久」「堅忍不抜」の態度を植えつけていくこと、そして今のこの難局さえ突破すれば前途に光明がもたらされるんだと信じさせること、等の「新聞指導要領」をとりきめます。
 たちまちピンと来た人もいるのではないですか。これって、まるっきり吉川英治の新聞連載小説『宮本武蔵』の後半部、巌流島までのライトモチーフになってるのですよ。
 ではクロニクルを確認しましょう。
 吉川英治の『宮本武蔵』は、昭和10年8月23日から朝日新聞の夕刊の連載小説としてスタート。当初の著者の構想では全200回くらいの分量で、巌流島のラストシーンは早々に決めていたんだそうです。ところが新聞社の懇望によって、結局1013回もの大河小説になってしまう。こんな強引なリクエストに応えることのできた小説家の力量は、もう超人というしかないですよね。
 この間には休載期間が挟まっております。すなわち「風の巻」が終わった翌日の昭和12年5月21日から、「空の巻」が始まる前日の昭和12年12月31日までです。ちょうど折から、シナ事変が勃発し、蒋介石の首都南京も陥落した。しかし事変は決着しません。吉川英治は毎日新聞特派員として現地取材もさせられました。
 そして「円明の巻」の最終回が昭和14年7月11日に掲載されて、ついに大河小説は大団円になるんですけれども、なんと吉川英治は昭和13年にも「ペン部隊」として漢口作戦に従軍させられてるんです。「ペン部隊」というのはドイツのPK部隊に菊池寛がヒントを得たものでした。こうしたシナ体験が吉川版『三国志』に結実するんですね。後の話ですけど。
 ちょうどこの頃、新聞社には大きな事件がありました。昭和13年6月から「用紙統制」の脅しが始まっていたんです。それ以後、もう新聞は隅から隅まで、政府には決して盾つけなくなった。
 朝日新聞社は、昭和13年もしくは14年に、内閣情報部の陸軍人から「『宮本武蔵』の後半はこういうテイスト、展開にしなさい」と具体的詳細に指図をされ、それを小説の担当者がしかと承り、作者である吉川英治に巧みに取り次いでいたのではあるまいか。そして真面目な愛国者の吉川さんは体重を8kgも減らしつつ、それに見事に応えたのではなかったか──と、わたくしは疑います。
 ただし実際にはシナ事変はシナ側の侵略だったのですから、陸軍は事実を自由に調べさせて世界に明らかにしつつ、自衛の戦争と宣伝とをしぶとく展開していけばよかったんです。
 吉川英治氏に書かせる小説も、もっと他にふさわしい題材があった筈ですね。
 近代以前の禅に沈潜して己れ一人の決死の覚悟で局面を打開──。そんな求道的剣豪の謂わば自業自得と、近代的国際通義に立脚すべき現代の日本国を重ねられてはたまったものではないのです。この小説の直接の影響で多くの日本軍人が「政治」について思考停止しました。
 もし昭和前期にシナに関する調査や取材を陸軍が妨害・統制することがなければ、あの昭和15年の斎藤隆夫衆議院議員の寝惚けた質問演説なども、決してあり得なかったことでしょう。

 


『洗心』を読む

 中央乃木会がわざわざご親切から機関誌『洗心』(1、3、7月の年3回発行される)の最新号(平成17年1月刊 vol.146)を陋宅に恵与くださり、桑原嶽氏が昨年10月に逝去されていたことを迂闊にも初めて承知いたしました。謹んでお悔やみ申し上げます。
 平成2年の桑原氏の『名将 乃木希典』は、現在も第四版が中央乃木会から発行されているようです。陸士52期の桑原氏といえども、中央乃木会以外の版元からアンチ司馬遼太郎の言説を世に問うことは難しかったのですね。事情は今日なお大して違いません。
 桑原氏はその最晩年まで矍鑠として、「乃木は愚将」の俗論をただす健筆を揮われていたご様子です。NHKの「別枠大河」の出来を見届けることができなかったのはさぞお心残りでしたろう。というのはもう出版界は「ポーツマス条約百周年」の今年よりも、『坂の上の雲』の放映開始年に完全に照準を合わせて、今年以上に数多くの日露戦争モノの企画を進行させているところだと推定されるからです。
 じつはわたくしもそういった企画──ただし発売はたぶん今年中です──に一枚噛ませて貰っておりまして、その調査などで今たいへんです。桑原氏はじめ『洗心』の寄稿者の先生方には及びもつきませんけれども、ボウフラのように沸いてくる反日学徒がグラムシ浸透戦術を使って日本の歴史と日本の政治をねじまげんと策動しているのを黙って見てばかりはいられません。わたくしなりに微力を尽くそうと思っております。
 ところでたまたま同梱されてきました『洗心』138号に、佐竹義宣氏による興味深い記事を発見しました。乃木希典の若きみぎり、萩→長府間、片道18里(72km)を2日で往復(なか一泊)したというエピソードがあるんですが、これは 有り得たというのです。佐竹氏の曾祖母が幕末に「足の親指の付け根の膨らみで歩くつもりで歩けば一日歩いても疲れない」と父母から教えられたのだそうで、それに乃木大将の長靴の踵の拡大写真が添えてある。これが明らかに「水平に」磨り減っているんです。さらに、庶民も昔は「足半」という踵なし草履を用いていた、と。……いや、この踵の写真の話はずっと以前にもどこかで読んだような気もするんですが、すっかり忘れておりましたのを改めて再認識しました。
 「オシャレな乃木さんだから、靴屋に踵だけ新品に交換させていたんじゃないか」……といった突っ込みは控えておきます。高取正男氏はじめ、近世以前の日本人の歩行術について研究されている人々は、この乃木の乗馬靴の踵について何かコメントしておられるのかどうか、まずそれを承りたいものです。どなたかお詳しい方が居られましたならまたご投稿を願います。(白旗伝単についてお知らせ下すった方、どうも有難うございました。最も知りたかったことが貴男のおかげでようやく確認できました。)
 西洋の兵隊のパレードのように踵で地面をドンと踏まずに、足裏の「蹴りだし」のみを接地して長距離を歩くことは果たしてできるのでしょうか? 私見ですが、「空荷」だったらそれは可能でしょう。
 じつはわたくしは小学生高学年のとき、ある野球マンガ(もしかしてちばあきお?)の中に「大リーグの選手は脚力を鍛えるために立っている時も決して踵は地に着けない」と紹介されていたのに勝手に感動しまして、それを何年間か実践していたことがあるのです。自宅から小学校までだいたい1キロ強の道のりでしたが、その行きも帰りも爪先立ちで歩き通しました。校内でも自宅でも立っているときは爪先立ちです。その結果、中学三年くらいまで「お前は歩き方がヒョコヒョコして変」「いつも前傾姿勢で下を見て歩いているがカネでも落としたのか」と人から心配された代わりに、跳躍力はたしかに鍛えられました。走り高跳びは自分でビックリという感じです。しかし重い荷を負うての遠足や登山に、このスタイルは無理がありました。(あるいは爪先だけでなく、膝をやわらかく使えば良かったのかもしれませんが…。)
 昔のアメリカ・インディアンも名うての「遠足名人」で、尻の使い方が独特だったんだそうです。しかし何人であれ、軍隊並に重い荷物を持っていたら、やはり軍隊式の歩き方しかできないんじゃないでしょうか? つまり、近代以前の日本人の独特の連続長距離歩行は、本人が空荷に近かったときのみ、可能だったのではないかとわたくしは疑っております。
 これにつきましてはボランティアで物好きな人体実験をやる人が増えてサンプルが集積されるのを期待しましょう。

「島流し」におふざけの意味はないのです

 近頃立て続いております、反社会的な殺人事件、ならびにその裁判についてご不満のある方は、わたくしが1998年に『新潮45』の7月号に載っけておりますところの「江戸時代の島流し」再評価論文をご一読くださると、これから日本の「社会防衛」が目指すべき方向がしっかりと見えてくるだろうと思います。
 当該拙文ですが、これは単行本には収められておりません。ですから、みなさんは、お近くの大学図書館や国会図書館などで、古雑誌を検索して閲読をしてくださらなければなりますまい。
 けれども、わたくしの知る限り、社会防衛に関してこの論文を超えたものはまだ書かれていませんから、お手間を取らせるだけの価値はございます──と、ここで威張っておきましょう。
 わたくし自身、細かい論立てやテクニカルターム、列挙した歴史上の事例の数々についてはもう忘れてしまったんですが、内容の要点はこんなことです。
一、社会防衛のためには「絶対不定期の社会隔離刑」が必要である。更生などあり得ない罪人は昔からいた。また、遺族もコミュニティも二度とその罪人の地域徘徊を望まぬケースも、昔からあった。
二、ところが現代日本の司法にはそれがない。「無期懲役」がしばしば宥免されて事実上の有期刑になってしまう(裁判官の当たり外れにより、同類の罪状なのに死刑にされる犯人もいるから、著しく法の下の平等に反している憲法違反状態)。それゆえ日本で罪人を社会から永久に隔離するためには「死刑」判決しかない。「死刑」の既決囚となることで、初めて日本の罪人は「絶対不定期の社会隔離」に処されることになるのである。しかし死刑判決は気軽に出せないから、結果として 日本社会は、キチガイ犯罪者の天国になりつつある。
三、江戸時代はそうではなかった。各藩は犯人を気軽に死刑に処して治安を維持した。かたや江戸幕府は大都会の江戸市中の多くの犯罪に極刑を濫用していない。それは八丈島を代名詞とする伊豆諸島への「島流し」という、すこぶる合理的な「絶対不定期刑」が採用できたおかげであった。この刑罰のおかげで、江戸市中のコミュニティは死刑に依存せずしてキチガイから「社会防衛」されていた。
四、二十数年の年月が経過すれば、伊豆諸島の流人も赦免される場合があった。ただしそれには必須条件があった。地域コミュニティの代表や、殺された被害者の遺族からの、赦免の「嘆願書」が、奉行所に提出されていることである。これが揃わない罪人は、社会が永久に復帰を望まない者として、そのまま島で朽ち果てねばならなかった。つまり、江戸町奉行はいったん「絶対不定期刑」を申し渡すのだが、島流しに関しては、地域コミュニティもまた、量刑(刑期)を監視し、リアルタイムで左右できたのである。
 ……この論文の正確なタイトルは「一億総キチガイ時代のナイスな刑罰『島流し』」といいます。(今の編集長の中瀬ゆかりさんが考えて付けてくれたのだと思います。)
 本文中にも「キチガイ」という単語を数回使っています。当時わたくしは東京都内に暮らしていて、本当にこの町はキチガイだらけだな、と思いはじめていましたから、このタイトルには納得しています。
 ただ、このタイトルに「おふざけ」の印象がありますため、キチガイ犯罪者に関する社会防衛をまじめに考えている人たちに敬遠されてしまっているとしたら、残念なことです。
 あれから6年、日本は東京に限らずますますキチガイだらけとなりつつありますけれども、狭き門の弁護士資格の上にあぐらをかきたい法曹界の先生方は、キチガイ対策を真剣に考えてくれているんでしょうか? 「陪審制」などの前にやることがたくさんあるのではないでしょうか。
 かつて徴兵制があった頃も、じつは日本人の戸籍簿には「刑罰履歴」は記載されてはいませんでした。免許証のイメージから誤解があるかもしれませんが、「前科」は公式には戸籍に残らないんです。しかし軍隊は、かつての重罪人を兵隊にとらぬ方針ですから、村役場の戸籍係だけは、住民の誰が元重罪人であるのかを把握していなければなりませんでした。そのために戸籍とはまったく別の秘密ファイルがあって、それは村役場のみの部内資料として厳重保管されていました。
 これをデジタル方式で復活させようというのが「ミーガン法」でしょうか。
 しかし、そんなファジィな情報管理よりも、近代以前の江戸幕府による物理的な「島流し」の方が、ずっと叡智に富んでいたぞと、わたくしは現在も主張します。(江戸時代には諸藩による領民の遠島刑が別にありましたが、それはかなりムチャクチャないいかげんなものでしたので、混同しないでくださいね。)

「敵国恐怖病」のワクチンは「戯画化」なのだが……

 わたくしが小6か中1で読んだ最初の「ナチ文献」は、確か「サンケイ・第二次世界大戦ブックス」の初期シリーズに入っていた『ヒトラー』(ウロ覚え)でした。このシリーズ、後から気付いたのですが、えらい大幅な「抄訳」でした。当時は写真点数の多さで、まず多数の読書家を啓蒙していく必要があったのだろうと思います。
 先に『1960』の紹介でも触れましたように、まだ昭和40年代ですと、無知ゆえのナチス礼賛者は日本の若い人の中に少なくありませんでした。なんと90年代アニメの「ガンダム」でも、まだずいぶんナチ色豊かだったでしょう。あれとかアニメ版の「宇宙戦艦ヤマト」を制作していたオッサン世代が、要するに啓蒙され損なった最後の「無知世代」なわけです。──「な〜に結末で主人公を特攻させて殺してしまえば、その前のいろんなチープな戦争シーンも免罪され、PTAからの攻撃を免れるだろう」と腹の中で計算していた団塊の精神がよく表れていたなと思います。
 で、その抄訳『ヒトラー』なんですけども、この原作、「ヒトラーは貧乏学生時代にウィーンでユダヤ人娼婦から梅毒をうつされ、それでユダヤ人を憎み、脳みそもスピロヘータにやられていた」との新説を唱えまして、発表当時は世人の耳をそばだたしめたイギリス人の(これもウロ覚え)ノンフィクションでした。
 その著者の目的意識は、ヒトラーを要所々々で滑稽に紹介することで、それを読んでいる英国人に「悪魔的偶像」に対する気持ちの余裕を与え、現今の欧州大陸諸国に対する精神的な優位を強化せしめる、というところにあったように兵頭は思います。
 なぜそんなことをする必要があるのか? それは、英国の知的エリートの義務だからですよ。
 そういう活動を継続的にやらないでいれば、近未来の欧州大陸に「第二のヒトラー体制」が登場した暁に、英国の有権者は「恐怖」を感じてしまうでしょう。国民大衆が、対岸の強敵と敢然と抗争する気概を示すことができずに、最悪の場合、敵国に宥和的なスパイ的な首相候補を支持するようになるかもしれません。
 そういう民主主義の自殺にも等しい事態を予防していくためには、過去の恐ろしい強敵をコケにし続ける国内宣伝活動が、国家の指導者層に属する表現者としては最低限、必要なんです。
 この逆のことをやっているのが、戦後日本の原爆教育であることはいうまでもありません。
 ナチス・ドイツが、フォークランドのアルゼンチン軍のような鎧袖一触の弱敵であったのならば、なにも戦後の英国人として、馬鹿にし続ける必要などないでしょう。
 戦前のドイツは真に強敵だったし国民はヒトラーに大いに恐怖を感じたという事実があったればこそ、その歴史的なヒトラーの権威を英国の教育宣伝担当者たちはあくまでも剥ぎ取らねばならないのです。
 戦後、西ドイツの復興の勢いは驚異的なものでしたし、フランスの指導者は「反英国」を剥き出しにしていた。ソ連は中欧のどこに進出するか分かりませんでした。
 斯様な次第で、かつての敗者ドイツに対する戦後英国政府主導の「叩き」は引き続き、執拗です。
 しかしこれは何も「対ドイツ」だけに限ることではないので、「ドイツ叩き」の前には「オランダ叩き」がありました。
 英語には「ダッチ××」という、オランダ人を無闇に馬鹿にしたような俗語表現が多いのですけれども、これは、かつて英国人がオランダと互角のきわどい大戦争を戦わねばならなかった歴史の遺産だと言われます。一度はテムズ河口までオランダ艦隊に攻め寄せられながらも、かろうじて英軍は持ちこたえ、最後にやっと強敵を蹴落とした。その折の恐怖の裏返しが「ダッチ××」という軽口として今も受け継がれているわけです。
 もちろん、ナポレオンやフランス人を茶化す表現活動も、とっくに英人の伝等芸風になっています。シンガポール陥落から戦後しばらくの期間は、日本人もまた徹底的に戯画化されていました。さらにまた近隣憎悪という点では、アイルランド人を馬鹿にした小噺は、質・量ともにものすごいものです。アイルランド系のケネディが米国大統領になったときの英国人の恐怖は、いかばかりだったでしょうか。(じっさいに「スカイボルト」の米英共同開発プロジェクト破棄という大うっちゃりを、英国政府は喰らわされました。)
 ドイツを占領した米軍がドイツ人の街を見て感心したのは、そのインフラの整い方が、英国の田舎よりは米国の都市にはるかに近いぞということだったそうです。
 また、植民地に不足していた戦前のドイツからは、大量の移民が米国へ流出しています。おかげで米軍の高級将官でドイツ系の姓は珍しくありません。そして彼らは英国軍よりは余裕をもってドイツと戦い、圧勝できた。
 そのゆえか、戦後の米国政府は、英国政府とは異なり、反独宣伝をすぐにやめてしまいます。米国映画の中で「ソ連共産主義者のイメージ」をドイツ人役に担わせることは一般にありましたけれども、「ナチでないドイツ軍将校」は等身大の人間として扱われたように見えます。
 たとえば、朝鮮戦争後の反共精神が生んだと説明されている往年のテレビ映画シリーズ『コンバット』では、ドイツ兵が驚くほど格好良く描かれていました。あれを視て「ナチ軍装マニア」になった米国少年も少なくないでしょう(それがまた野放しであるのもヨーロッパとの大きな違いでしょうか)。
 外敵(独&日)との戦いのために、いまや戦友である南部人を差別するのはやめよう、という国内向けの宣伝教育が、あの大作『風とともに去りぬ』です。そして、これからはソ連との戦いだ、俺たちは西ドイツ人を守るぞ、というキャンペーンが、戦後の英米のいくつかの戦争映画には微妙に埋め込まれています(たとえば『レマゲン鉄橋』や『大脱走』におけるSS/ゲシュタポと国防軍の描き分け)。
 真に劇的な変化は80年代以降の戦争映画にあらわれ、もはや戯画化されたドイツ軍キャラの方が珍しくなってしまいました。それでも、米英合作の『遠すぎた橋』を観て、そうしたトーンの変化にあらためて感慨を抱いた人も多かったのではないでしょうか。ただし、敵が弱いと葛藤ドラマとしては弱くなりますもので、『遠すぎた橋』は戦車マニア以外には大不評。興業的に大失敗しました。
 タブーが無いように見える表現世界にも、厳然とタブーはあります。米英のどちらの映画界にも、ヒトラー個人を一人のキャラクターとして存分に描いた作品は、例外的にしか存在しないでしょう。大衆向けの映画のキャラクターとすることにより、「悪魔の偶像」が復活することを、やはり英米人は恐れているのです。
 日本でもそろそろ、シナ事変の戦争映画が制作される必要があるでしょうね。わたくしはいつでもそのシナリオを提供できます。

摘録と偶懐—-太田昌克著『盟約の闇──「核の傘」と日米同盟』04-8

 この本は「チャンネル桜」の収録翌日に東京の本屋で見つけて買ってきました。本の背中の「太田昌…」という著者名から、「前の沖縄県知事(昌秀氏)がこんなものを書いてるのだ」と錯覚し、読むのが遅くなりました。
 著者は1968年富山県生まれ。早大政経で米ソ冷戦に興味を持ったが、共同通信社に入社するや、いきなり広島支局に配属されている。※つまり「再教育OJTの要あり」と思われたかな?
 巻末年表は示唆に富む。※1957-8にソ連が米本土に届くICBMに成功すると、日本に関して対ソの「核の傘」は怪しくなった。そこで米は60-7に水中発射に成功したポラリス(まだ射程1850km)を搭載したSSBNを日本に寄港させることで日本防衛とソ連包囲の意思表示をしようとする。その前準備として、61-6に訪米した池田総理に随行した小坂善太郎外相に対し、ラスク国務長官がSSN(攻撃型原潜)の寄港を打診した。
 ついで63-1にライシャワー駐日大使がSSNの寄港を正式に申し入れ。
 ところが60年安保の再来を厭うた「低姿勢」池田は、3月の国会で野党に応じて、核弾頭を装備しているポラリス原潜(この時点で射程4630km)の寄港を断る旨、表明してしまった。
 シナが核爆発させた直後の64-11-12にやっとSSN「シードラゴン」の佐世保入港が果たされる。しかし肝腎のSSBNの寄港は実現することはなかった。
 61年にナイキ・ハーキュリーズ(核弾頭装着可)を導入決定するときに日本の核アレルギー輿論が騒いで、防衛庁は手を焼いた。このような輿論のため、核ミサイルを装備しない攻撃型原潜の寄港すら難題だった。
 通常弾頭だけのナイキ・アジャックスは62年から自衛隊に供与されている。67年の閣議決定は、非核弾頭のみに改造したものを導入する、とせねばならなかった。
 ライシャワーに次ぐ大使館ナンバー2のエマーソンは、戦中は中共へ連絡員として派遣され日共の幹部とも接触していた。そしてGHQでも日共とのリエゾンをとっていた。
 シナ版ロスアラモス研である「北京核兵器研究所」は58年の第二台湾海峡危機後に設立された。
 鉄道王ハリマンの息子はWWII中に駐ソ特命全権大使で、ケネディ政権下では国務省の役人でありながら大統領に直接書簡を送ることができた民主党の重鎮。
 63-1には次官としてソ連と核実験禁止条約の交渉を進めていたが、席上ソ連側から、米ソが共同でシナの核施設を先制破壊しようじゃないかと持ちかけられ、その感触を大統領に伝達した。ケネディはこれを真剣に検討し、暗殺される直前には、蒋経国やCIAもまじえてそれを実施する計画をいろいろ検討していた。※暗殺理由はどうみても核外交絡みでしょう。
 62-3時点で日本本土には核爆弾は置かれていない。ただし三沢に関しては57〜68年の間、「コア」抜きの投下水爆が貯蔵されていたと今では判明している。
 核爆弾は、沖縄に1000発あり、これを24時間待機のC-130×11機で本土の空軍基地に輸送し、板付のF-100×26機、ヨコタのB-57×36機、三沢のF-100×25機に搭載して、大陸を攻撃する手筈になっていた。専用のC-130は「ハイギア」と名づけられていた。
 デフコン2となり、水爆積んだハイギアが嘉手納から板付まで飛ぶのに1時間50分、ヨコタまでは3時間10分、三沢までは4時間15分。プラス2時間弱で、それぞれ出撃可能になった。
 三沢の場合は、水爆全体ではなく、コアだけ運ぶわけである。他の基地もそうであったのかどうかは不明。
 54年にシナが金門島を砲撃してから、65年までの間、本土の米空軍基地にコア抜きの水爆が貯蔵されたと、今では判明している。※その基地名は不明だが、距離から言って板付(福岡)か?
 1958頃に水爆の安全装置の改良が進み、コアを分離しておかずとも、事故で核分裂が起きる可能性はゼロになった。
 米国は核兵器の所在について否定も肯定もしない:Neither Confirm Nor Deny.
 西独では議会が認める3年前の1955から米軍の核兵器搬入が実施されていた。首相は知らぬこととし、問題になったら部下閣僚のせいにするつもりであった。57-12にジュピターとソーを西独内に配備しようとNATOが話し合ったところ、西独にはまったく発射権も発射拒否権も無いものだから西独輿論は8割が反発した。しかし西独議会は58年にそれを許容する決議。
 ケネディ政権時代には射程1000kmのSSMパーシング-1が「ツー・キー」システムで配備されている。その安全装置は62年に開発されたもので電子暗号を入力する。
 また、西独の核武装を押し止めるため、米人司令官の麾下、NATOの多国籍クルーが乗り込んだポラリス原潜を共同で運用しようじゃないかとも提案したが関係国にまったく不評で、ジョンソン政権はこの案を捨てた。
 フランスがミラージュ核報復機を配備し、西独にメイス巡航ミサイルが配備され、シナも核武装にスパートをかけていた59-7に、赤城宗徳長官が北部方面隊視察のついでに「赤城構想」を発表。6年かけて防衛費を倍増させること、核弾頭装着可能な「ボマーク」を導入するなどの内容。社会党が反発して棚上げに。※廃止後のいまでも弾頭重量が公表されていない「30型ロケット」(日本版オネストジョン)とも符号しよう。オネストジョンと核ファルコンは同じ小型弾頭を用いた。
 しかし高度成長の入り口で隊員増は給与面でかなり難しいと見込まれた。また池田政権は韓国との国交正常化交渉で「植民地時代の賠償に代る巨額の対韓経済援助」を求められており、それを実施するとすれば防衛費増額の余地はさらになかった。
 シナの原爆保有が間もなく確実という62年に日本の輿論を観察した国務省極東局は驚く。池田内閣は防衛費の対GNP比を増やす気配がなく、アメリカとともにアジアの地域防衛に貢献しようというそぶりもなく、核兵器開発も、米軍の核持ち込ませも、嫌がっていたから。ケネディ政権は、日本を「最も核武装化しそうにない国」と評価する。
 ライシャワーは、池田が、シナがやるのは核実験だけで核戦力は持つまいと思い込んでいる、と本国にリポート。国防総省から衛星写真を持った高官がじかに説明に乗り込んだようだが池田は真面目に相手にしなかった。※池田には核戦争リテラシーが無かった。
 66年赴任の駐日大使ジョンソンも、日本人がシナに親近感のみ抱き、その核武装を自国への脅威と捉えていないことに呆れた。※前に紹介した沢木耕太郎氏のノンフィクションなどを読めばその当時の空気が分かる。岸-佐藤-福田ライン以外は全員、中共との国交こそが手柄になり儲けにもなると狂奔していた。もちろん野党も。
 そこでしかたなく62年から岩国沖数マイルに海兵隊のLSTが核爆弾の浮かぶ貯蔵庫として68年頃まで置かれた。しかしライシャワー大使は66年までそれを知らなかった。この経緯は81年に公になった。
 ルメーが空軍参謀長としてペンタゴンの重鎮であった1962時点でペンタゴン内には日本の核武装を進めたい理想論があった。
 ルメイはROTC? ロンドンからB17によるドイツ爆撃を指揮。ついでグァムからB29による日本爆撃を指揮。ベルリン空輸を指揮。61年に空軍参謀総長。63年にキューバ危機で強硬論。65年に退役。68年に独立党のウォラス候補の副大統領候補になる。いつも対ソ・対支の全面核戦争を考えていた。※だから日本の核武装も許せということになる。だから日本は勲章を与えた。
 しかしジョンソン政権は、64年のシナの核実験以降、核不拡散の大方針を固めてしまった。※核抜きの沖縄返還が決まった69年時点でも米軍は日本の核武装を望んでいたという人がいるが本当だろうか。対支核抑止の機会は64年10月に去ったのではないか。つまり国防方針とは近未来の脅威に間に合うように策定すべきであるのに、シナ人の政治に盲目たりし池田勇人ら当時の吉田学校の腰抜け達がこぞってそれをサボったのである。
 60年代に日本に寄港していた米空母の主任務は対シナの核爆撃であった。68-1に「エンタープライズ」が佐世保に初寄港。※67のシナ水爆実験を承けた対北京メッセージであるが愚かな大衆はそれを解せず、ベトナム反戦運動の一環として北京に使嗾されるままにこれに反対した。
 72年にニクソンが横須賀を通常動力空母「ミッドウェー」の母港にしろと要求。その理由として、これは「核の傘」だと。
 ※米支国交回復交渉は、71年春の「ピンポン外交」で急に始まったのではない。それは表向きの宣伝である。まず69年1月のニクソン政権の登場を、周恩来は「対ソ防衛」と「アジア征服」の見地から是非に利用せねばならないと考えた。シナによる70年4月の人工衛星打ち上げは、ICBMポテンシャルの強調であって、ズバリ、米国に北京との国交交渉を迫るサインであった。米支の裏交渉はおそらく70年から始まった(その経過は日本の輿論を考慮してまだ公表されていない。愚かな大衆と役人と研究者は71年以後の公表部分が歴史のすべてと思い込んでくれているが)。中曽根が70年9月に訪米し、「シナの核ミサイルは日本にとって脅威だから、日本本土に米軍の核を置き、核の傘を維持してくれ」と頼んでいたにも関わらず、71年春、ヨコタ基地の核攻撃用のF-4はすべて沖縄と米本土に移されてしまった。つまり71年実戦配備の日本向けIRBM「東風3」が東京に撃ち込まれたとき、米軍の核攻撃部隊が核攻撃されたのと同じことになり米支核戦争の引き金が自動的に引かれるという意味でいちばん堅確なスタイルの「核の傘」は、この時、撤去された。それこそがキッシンジャーの初回北京訪問の前提になる「前交渉」の焦点だった。米国はまず「手土産」を整えたのである。周恩来はこの米国の譲歩事実を示すことにより、毛沢東および人民解放軍内の強硬派を説得できたのに違いない。72年の『ミッドウェー』の寄港要求は、ペンタゴンとしてはキッシンジャー一派の対支宥和に全く反対であったことを示す。
 SIOPはICBMと有翼空軍と潜水艦ミサイルと空母攻撃機の核を統一してターゲット分配を決めたもので、陸軍の核弾頭は無関係だった。
 このSIOPの標的としてレーガン政権のピーク時には東側の16000箇所がリストにあったが、冷戦後、半減。シナは82年に対象から外されたものの99年から再び対象になっている。つまりレーガン政権が対ソ集中のために外した。
 国務省のロバート・ジョンソンは63-10に文書をまとめた。すなわち、シナの核兵器はシナ大陸への「直接攻撃に対する抑止力となる」こと。「米国の助力を求める周辺国の動きを食い止め、アジア諸国と西側諸国の分断が図れる」こと、また、シナの軍事的脅威をアジア諸国が認知すれば、アジアに核戦争をもたらすのは米国の核だとシナが宣伝することが可能になること。そこで米国としては、アイク政権のように過度に核兵器に依存すればシナ宣伝の思うツボであるから、アジアの通常戦力を削減してはならず、アジア人の目に見えない形で北京に核戦力をつきつけなければならない。具体的にはSLBM原潜をシナの核実験前に太平洋に配備せよ。そしてIRBMはアジアには配備するな。また米ソ間の部分核実験禁止条約を宣伝してシナを国際世論から孤立させることだ──と。
 64年6月の国務省のペーパーは、シナの核武装を予期しつつも、日本に対する「核の傘」は「海上型核抑止力」の日本港湾の利用によるのが望ましい、などと書いている。※つまりトリップ・ワイヤーを避けてフリーハンドを確保できればよいというもので、まさに「抑止にならぬ」勝手な関与政策である。
 さらに同ペーパーは、東大のミュー3型ロケットについて、これはミニットマンICBMと同格のものであり、今すぐミサイル転用を決意すれば69年に実用化すると見積もった。※その発展型のミュー5型は、日本政府みずからの手でいまや完全に潰された。
 ご丁寧にも詳細なコスト計算までしてくれていた(p.218)。日本がミュー型を改造した核搭載の弾道弾×100基を75年までに揃えるのに、毎年GNPの0.5%、つまり数百億円で済む、と。
 奄美大島は講和発効2年後の53-12に早々と返還されていた。トカラ列島以北は米国の信託統治の範囲に含まれなかった。※要するに奄美大島には旧海軍の泊地があって、ホワイト・フリートの横浜訪問のときもそこから邀撃する計画であったので、米海軍としてはどうしても押さえておきたかったのである。
 64年に佐藤栄作が自民党総裁になるときの公約が「沖縄本土復帰実現」だった。佐藤が首相として初めて表立って小笠原の返還を求め、それはまず68年に実現された。沖縄返還を6年以内にするという日米の基本合意は67末である。
 小笠原の潜在主権は沖縄と同様、もともとサンフランシスコ講和条約に明記されていた。そしてその前に戦時中の「大西洋憲章」が領土不拡大原則を打ち出しているので、国務省も早く返せと米軍に求めていた。米海軍の巡航ミサイル「レギュラス」は、浮上潜水艦からのみならず、空母や巡洋艦からも発射できた。この核ミサイルの貯蔵も小笠原にしていた。米海軍は父島の二見港が潜水艦基地になると考えていた。※二見港は狭いので、原潜登場により価値が下がった。海自の潜水艦はときどき立ち寄るようである。
 米空軍にとっては、グァムからシナをB52で爆撃する際に、予備滑走路を別の島に確保しておきたかった。核爆弾貯蔵も分散しておきたかった。
 三木は佐藤後の総理の地位を狙っており、そのさいに「かつて米国に核の問題で譲歩した」と政敵に攻撃されることを嫌い、「持ち込み密約」に抵抗した。密約は必ずリークされると信じていた。そのためついに佐藤は三木外相を外し、密使の若泉敬に「核抜き本土並み返還・ただし有事の持ち込みはご自由に」の線でジョンソンおよびニクソン大統領と話をつけさせた。若泉は晩年の94年にこの話をオーブンにする。
 ※米政権が、議会に対する説明責任から、密約であっても正式な交換公文とするように求めるのに対し、60年代の日本の政権は、密約は必ず誰かから漏れ、それがマスコミや野党や政敵に政権攻撃の武器を渡すことになるのだとほとんど確信しており、文書化はもちろん口約束すら回避しようとした。つまり日本の議会はおろか、内閣、首相官邸内にすら「秘密漏洩」を罰するメカニズムが存在しないのである。これでは政治のリーダーシップなどあり得ず、選挙で責任をとらない官僚が独走したくなるのは自然だ。そして80年代以降、狡猾なシナは、この官僚どもを裏からコントロールしてしまえば、選挙とは無関係に国会、内閣、官邸を操れることを悟ったのであろう。
 ウォルト・ロストウは独自の理論をもつ頭の良すぎる経済学者であった。彼のすばらしい理論によれば南ベトナムはもう少しで「離陸」でき、近代工業国の仲間入りができることになっていた。それゆえ、60年代のインドシナの共産勢力に対する最強硬の対策をジョンソン大統領に提案し続け、とうとう米軍を「泥沼」に引き込んだ。
 68末、たまたま米国民はベトナム戦争に嫌気がさしていた。そしてべトナムから撤退してくれそうな共和党のニクソンが次期大統領に当選した。※かたや日本では69年になっても国民がシナおよび社共勢力の宣伝に操縦されており、対ソ・対支の核抑止の必要をぜんぜん理解しようとはしなかった。佐藤本人も、核武装は単に通常兵備よりも安価になるから有利なのだと考えていた節がある。「抑止」を理解できる政治家ではなかったのだ。佐藤がそうだとしたら、兄の岸もそうだったのだろうか?
 ICBMとB52とポラリス原潜の核の三本柱が充実してきていたので、米国にとっての沖縄基地の重要度は60年代前半よりもずっと低下しつつあった。特に平時の核配備について然りだった。
 沖縄復帰の交渉過程でニクソン政権は、核兵器撤去のための費用500万ドルを日本政府に負担させる方針だった。p.179
 佐藤は池田と正反対にシナを信じておらず、シナの核はまさに気違いに刃物だと66年12月にラスク国務長官に語った。※岸ラインだから当然。池田は吉田ライン。
 67-2にジョンソン政権は、シナの核戦力の高度に秘密なインフォメーションを佐藤だけに説明しようとした。しかし佐藤はその話が必ず外に漏れ、政権攻撃に使われると警戒し、謝絶した。結局、閣僚に対する秘度の低いブリーフィングだけが行われた。※つまりシナのミサイル基地の衛星写真や、開発中の対日攻撃用「東風3」のスパイ写真を佐藤に見せ、日本本土や沖縄への米軍の核貯蔵を公認させようと思ったのだろう。66年以降のこの時点でジョンソン政権が日本に核武装を促していたわけではないだろう。しかし佐藤には「核抑止」はサッパリ分からなかったのだろう。また、これ以後のある時から、日本の新首相は早期にホワイトハウスを訪問し、ホワイトハウス内において、高度に秘密の「ブリーフィング」を、日本のマスコミの目を気にせずに、受けるという慣習が出来上がったのだろう。
 63-2にマクナマラはケネディに秘密メモを提出。イスラエルは兵器級プルトニウムを抽出していて、核保有国となる決意も固く、2〜3年で核武装する、と。69年に米国とイスラエルは、「Don’t Ask, Don’t Tell」を決めた。すなわちイスラエルは核保有宣言を決してせず、アメリカもイスラエルにNPT加盟を求めない。
 フランスがIRBMを配備し、かつまた水爆実験した直後の68-9に佐藤は語った。「岐阜であれだけの話をしたのだから、一人ぐらい核を持てというものがあってもよさそうなものだな。いっそ、核武装をすべきだと言って辞めてしまおうか」。※そうすべきだった。官僚であった佐藤は「国民の教育」に失敗し、放っておいても返ってきた沖縄奪還の手柄に執着するあまり、NPTにサインさせられてしまった。代わりにノーベル平和賞を貰ったが、日本国民の権力はシナの核の前に丸裸となったのである。そして未だに「核抑止」が学ばれていないために、日本では核問題は「議論」以前の沙汰となっている次第だ。
 初代科技庁長官は正力松太郎。中曽根は59年に岸内閣の科技庁長官になった。※科技庁は50年代はあきらかに日本核武装の推進機関であった。
 しかし中曽根も核抑止に関する国民の教育には手をつけようとしなかった。
 70年1月に蝋山道雄ら専門家グループが政府要路に対し、外交的に核武装は得か損かという報告を提出し、外交的に安全にならぬこと、核兵備が大国の条件である時代は去った、などとネガティブな結論を出した。また同グループはそれに先立つ68-9に、ウタント報告のテキトーな数字を無批判に流用して、核武装は高くつき過ぎ、日本にそんなカネは無いと報告した。※この連中がキッシンジャー一派の意を承けた米人どものプロンプターを単に翻訳復唱していただけであることを歴史研究者として直感できなくては嘘だろう。自分たちで一から計算せず、世界公知のウタント報告の数字を使い、それでギャラを貰うとは、どういう「専門家」たちなんですか?
 75-8-6の新聞発表で日本はNPT早期批准を約束し、独自核武装の選択は封印された。
 ※ところでバンカーバスターの核弾頭版はどうなるのだろうか? 地中貫通爆弾は、現時点ではまだ浸徹量が10m未満。将来とて100mにも達することはなさそうだ。そして北鮮やシナが移動式ミサイルを隠している山岳地帯の横穴トンネルの上には、少なくとも厚さ数百mの岩盤がある。結局、トンネルのすべての出口に対するマッシブな核攻撃しか「カウンターフォース」の方法はないだろう。しかしイランの砂漠の地下工場については別な手が考えられるかもしれない。それは「十分の数キロトン」のミニ・ニュークをタンデム2連打で撃ち込む方法である。すなわち最初の一発を地表爆発させてミニ・クレーターを掘る。次にそのクレーターの底部にもう一発撃ち込むわけだ。

二、三の修正あり

 わたくしの参照したウェブ上の年表が十分でなかったようで、過去の首相の靖国参拝につき正しくないデータに基づく話をしておりました。
 遺族会と自民党の中曽根氏らがいかに靖国をねじまげてきたか(小泉氏の「8.15参拝宣言」もそもそも対遺族会の空約束だった)、また、梅原猛氏が中曽根内閣時代に「靖国懇」でアンチ靖国の立場から使った言葉を借りれば「靖国神道は、19世紀に起こった西洋諸国の国家主義によって」進化した神道であるがゆえにまさに必要かつまさに貴重なのであり、首相はとうぜん吉日に参拝しなければならないのだという点につきましては、いずれまた詳しく論じたいのですが現在、有料の原稿の仕事がありまして時間が取れません。
 以下の事実間違いだけを提示させてください。「放送形式」では過去に間違ったことを書き、あるいは書くべきことを書き漏らしたと思います。それをおわびし訂正します。
一、福田赳夫首相は靖国に四回参拝し、うち一回は8.15であった。
二、大平正芳首相は靖国に三回参拝しているが、8.15は外している。