「い号」機の出自、もしくは背景と宇垣一成

 長年、ミッシングリンクが気になっていた「九七式小作業機」のモデルに、おそまきながら見当がついた。覆帯クローラー式の電動耕運機だったのだ。
 ここ1ヶ月ほど、5月下旬の道南ツアコンに備えて明治2年の函館戦争のおさらい調査をしつつ、以前に人から貰った敗戦直後出版の農業関係図書を十数冊ばかり、よみふけっていた。(内容はいずれ「読書余論」で紹介したい。)
 外地からの引き揚げ者で日本内地の労働人口が急に何百万人も増えてしまった昭和20年代は、「失業と食糧不足」というダブル危難が、全国民を脅かし続けていた。とくに朝鮮戦争以前は、連合国は日本の工業の復活を許す気がないように観測された。そこで日本政府は「とりあえず農業に吸収させるしかない」と即断し、巷には、戦時中以上に、俄か農夫のための開墾手引きや既製農家のための増産のハウツー本が供給されたのだ。
 かつてレーニンは、資本主義国家の「蒸気機関」を止めてしまう方法は、燃料供給を断つことだと理解をしていた。いま、イラン周辺で戦争が始まれば、日本には「失業とエネルギー不足」というダブル危難が到来するだろう。燃料資源大国のロシアにはそれを止める理由はない。アメリカにもイスラエルを止める理由はない。だから、過去の危難の時期の農書には、近い将来のわれわれにとっての面白いヒントがあるはずだ、と思って読んでいたら……。
 昭和27年刊の伊藤茂松著『土地改良圖説』に、なんと「ロケ」(98式6トン牽引車)が開墾に使われている写真が載っているではないか。「ロケ」は戦後、いちばんよく再利用された装軌式の野砲牽引トラクターだが、敗戦直後のこととて、その再利用中の写真が残されているのは、珍しいのである。
 さらに、昭和28年3月の『日本農業電化の展望』(福島秀治ed.,(社)農業電化協会pub.)の巻頭グラビア頁にも「アッ」と驚く。そこに、電力耕耘機の作業実景の写真が2葉あり、うち、岡山県で現用中という1葉の「足回り」が、旧軍工兵隊のロボット兵器「97式小作業機」(い号)に類似している。耕耘機=転輪式という、1960年以降の常識を漫然と過去へ遡及させてはいけなかった。昔は履帯式も普通に在ったのだ。
 余談だが岡山県というところは旧幕時代の領主が熊沢蕃山を大抜擢して改革を実行させつつ、結局、蕃山の判断とは正反対の開墾主義に走り、それが戦前において農業機械化率日本一を達成させてもいたという土地柄。こんな風土から宇垣陸相が輩出しているのは偶然ではないのである。
 さて『日本農業電化の展望』の本文を見ると、動力耕耘機は、大正末期から普及がはじまったが、昭和初期から、従来の石油発動機式に加えて、電動機式が、そのラインナップに加わったという。
 昭和8年11月末時点で、12台の電動力耕耘機が存在した。発動機は3馬力くらい。バッテリー式ではない。電線をつないで電力を供給した。そのケーブルは、足回りで巻き込まぬように、耕耘機本体上に高く立てたポールの先から、繰り出されるようになっていた。発電機は、耕地の隅に置いたわけである。
 昭和17年に燃料統制が厳しくなると、石油発動機式の使用が不自由になり、いきおい、電動モーター式の農機の数が増えたらしい。
 小型の農作業用電動モーターは、大正12年に1/4馬力のものがユーザーによって工夫され、昭和2年以降は、大手メーカーが製作・供給した。単相運転が可能な電動機の大きさはだいたい3馬力までで、無理すれば5馬力までもいけたという。
 愚考するに、この小型電動トラクターに着目したのが宇垣一成だったのだ。
 ――満州事変の「爆弾三勇士」を美談にしてはいけない、あれは無人の機械で実行できると、昭和8年から13年にかけて開発されたのが、有線操縦自走作業ロボットたる「い号」である。
 しからば、なぜ、民間なら1年でできたであろうものが、陸軍では5年もかかっているのか? それは、宇垣が開発の尻を叩けるポジションに連続して座っていなかったからだろう。
 宇垣一成は昭和8年には参本の総務部長で、このリモコン兵器の開発を促すことができる地位である。しかし、同年4月から陸大校長になり、10年3月には第一〇師団長。兵器開発には口出しできない。それが昭和11年5月に教育総監部本部長となって再び陸軍科学研究所第一部に口出しできるようになり、12年10月陸軍次官となって予算を自在につけられるようになり、13年1月に陸軍大臣だ。
 このように、日本の官僚組織の欠点は、上司も部下もなかなか理解できぬような野心的プロジェクトに最適な人間が、現場を直に指揮できる最適なポジションからすぐに引き剥がされることである。(だから日本型組織では、アメリカより早く原爆を創ることは絶対に不可能だった。)
 1992年にわたしが『帝国陸海軍の戦闘用車両』を編集したとき、この「い号」機が、先行モデルも何もなく、突如として登場していることの不思議さの説明は、つけられなかったが、今、ようやく補足できることになった。ほぼ同サイズの電動耕耘機が、先に民間に存在していたのである。そして陸軍の関係者たちは、引退後の技術自慢話の中で、先行モデルがあったという事実は語らなかったのである。そのような例は、南部麒次郎いらい、枚挙に暇がない。
 話を函館戦争に戻そう。この戦争は明治2年の夏に決着がついている。しかも渡島半島の南端の、そのまた突堤状に孤立した函館で、旧幕軍は降伏した。
 時間の上でも、場所の上でも、旧幕側の生き残りたちには、内陸で長期持久戦争を試みようという発想は最初からなかった。
 彼らの心理は味方の近代海軍に依存しすぎていた。近代海軍から離れたら戦争はできないと思い込んでいたのだ。
 結果として新政府軍の艦砲で粉砕された。
 土方の死因も銃弾ではなく砲弾の直撃だろう。さもなくば、七重浜方面への離脱が不可能な重囲の続いたごく狭い戦場で、死体の行方がまったく不明になるはずがない。万単位の死体で平地が埋ずもれてしまったWWIの西部戦線とは違い、死体は一体一体、衣服や所持品の確認ができたのだ。
 海上の戦力比で劣勢だったら内陸に避退する、というのが陸戦の常識であった。クリミア戦争中の極東ロシアの沿岸の砦は、みな、その常則にしたがって、英仏軍の陸戦隊にわずかに抵抗したあとは内陸に逃げている。
 これを北海道で再現するなら、榎本たちの未熟な操艦技術でも安全に停泊ができた内浦湾の室蘭港に機動して、そこから艦隊とは分かれてどんどん北上すればよかったわけだが、つくづく当時の日本人は寒さに負けていた。地元の松前藩主すら、新暦で12月の日本海岸を「熊石」というところまで退却して、そこからは北上をあきらめ、青森に逃走した。熊石の緯度は、室蘭より南であった。ロシア人は北樺太と同緯度のカムチャッカ半島に砦を築いていたというのに……!
 旧幕軍のうち20代の若者はもう一回、越冬することができただろう(上富良野駐屯地で鼻毛が凍るマイナス12度以下の朝でも、慣れるとシャツ一枚で平気だったりしたものだ)。しかし30代後半より年寄りの面々は、もう越冬は無理だと観念し、秋になる前に戦争を終わりにしたいと願ったことだろう。
 当時の日本人に欠けていたのは、耐寒建築と燻製(貯蔵肉)のノウハウだった。北欧のログハウスの智恵がなかった。ロシアのペチカの原理を知らなかった。満州のオンドルの原理も知らなかった。北海道には材木だけは腐るほどあったのだから、こうした智恵さえあれば、若くない内地人にとっても、越冬はカムチャッカなどよりも十倍も容易だっただろう。ようやく満州事変以後、そうした耐寒住居が調査されて、その成果が、昭和20年代の国内僻地開拓の手引き書では紹介されている(川上幸治郎著『営農技術』S26-5刊は、奇書でオススメ)。
 函館戦争はWWIのようなメガデス戦争ではなく、また殲滅戦でもない。降伏のチャンスは終始、与えられていた。そんな中で土方と中島父子だけが、降伏を拒絶して戦死した。
 土方は多摩の農兵出身だが、江戸の呉服屋に十年前後も奉公に出されている。彼はその商人の世界に戻るのが死ぬよりも厭だったのだ。しかし彼が周囲から頼られたとすれば、それは商人の世界で対人折衝の機微を鍛えられていたお蔭であった。だから近代を敢えて捨てる「北蝦夷ゲリラ戦」などは、彼には構想し得なかった。
 中島父子は、父子で一所に立て籠もったのが運命を決した。子の前で父として恥ずべき行動が採れようか? 父の前で、子として卑怯たり得ようか?
 1毛につき年に1期収穫するサイクルの農業では、「新機軸の試みと失敗の経験」のチャンスは、一人の成人男子が、老齢で引退する前に、せいぜい二十数回しか、与えられない。しかも、一回失敗すれば、一家が死活の窮地に陥ってしまう。
 それで農業では、効率化とか改良とか革新の進度が、月に何度でも放胆にトライ&エラーの可能な工業品と比べて、著しく低調たらざるを得なかった。また日本の行政も、畑作と違って非商品的な統制商品であった水稲の、頭を使わないルーチン生産の安易さに、農家を誘導してきた。
 この結果、野心的でなさすぎる農家の惣領のタイプが登場した。
 このモテない惣領たちに外国人の妻を斡旋しようという商売は、1980年代からある。わたしはフリーター時代、一業者氏から、そのパンフレットの原稿書きを受注したことがあった。そのとき聞いた話であるが、じっさいに会ってみると「こりゃどうしようもないな」と嘆息せざるを得ないような男たちばかりだと。まあ、土方歳三の逆だと想像すれば良いのだろう。商人的な、あるいは武人的な対人訓練が皆無で、したがって他人の気持ちが分からず、外の世界を知らず、とにかく覇気がないのだ。
 そのように夫候補に根本的に人格の魅力がない次第であるから、妻候補も世界の最貧地帯から募集するしかないのだという。それが今日では満州なのだそうである。シナの中でも満州は工業が発達していると錯覚している日本人は多いだろうが、シナは広い。満州の農地の生産性は低く、農業は粗放畑作である。満州の農民は、シナの農民の中でも一、二を争う非文化的な極貧生活を今日も続けているのだ。文字通りのあばら屋住まいである。
 さて一般に満州人は人気[じんき]が悪い。北鮮人と同様、あまりに生産性の低い悲惨な風土なので、住人の気性も冷酷になってしまっているのだ。冷酷でも素朴ならば救いはあろうが、日露戦争以後に山東省からシナ人が入り込み、冷酷プラス狡賢いタイプと化してしまっている。それが、労働集約的な日本の農村にやってきて、果たして覇気のない夫と連れ添って行けるのか、もう、ケントもつ~か~ぬ~、と申し上げるしかない。
 むろん、夫候補のタイプだけが、日本の農家に嫁の来手がなくなっている原因なのではなかろう。効率の進化速度で工業に負けてしまう宿命の農業は、投入労働力×時間にくらべて所得が少ないと思われるのみならず、「参入したが最後、足抜けができにくい」というデメリットが、予期されているのだろう。女は結婚前に「出口戦略」を考えている。夫の転業も想定している。だが三ちゃん農業に組み込まれてしまったが最後、それは容易ではなくなるだろう。
 粗放畑作が許されない日本の農業とは畢竟「土づくり」なのである。耕地を一年でも手入れせずに放置してしまうと、耕作を再開しても元の反収は得られなくなってしまう。これが、店舗や工場との違いなのだ。戦後の新規開墾者の多くも、土が改良されるまでの数年間を持ちこたえられずに、棄農した。同時に進行する既製農地の土地改良の効率に、とても対抗はできなかったのだ。
 話が長くなったので、続きは次回以降の「読書余論」にしたい。「読書余論」は有料です。バックナンバーも購読可能です。
 それから、函館ツアーの現地集合組の募集の締め切りも、いよいよ近いです。


「ヲイ、他人のこと言えんのかよ!」シリーズの第二弾(第三弾?)

 アイゼンハワーやパットンなどWWII中の米国の名だたる将軍/提督の少なからぬ者が正妻以外の愛人とのテンポラルな私生活を有していたことは、ここ十数年の間に、外国人戦史家たちの著作物のおかげで、秘密でもなんでもなくなった。
 おそらくリアルタイムでも、周辺のインナーサークルでは誰でも知っていた話だったんだろうが、たとえばアイゼンハワーの大統領選挙出馬に際し、それは何のスキャンダルともならなかった。
 敵陣営の選挙参謀は、知っていながら、そこを衝こうとはしなかったのだ。ケネディの多情然り、クリントンの淫乱然り、いくら公人であっても、私的な場のみで完結している出来事を咎め立てするのは、「米国世論」ではなかったからだ。米文学の古典:『スカーレット・レター(緋文字)』は、女が妊娠したから村八分になったので、他郷で分娩すれば村八分にもされ得なかったはずであり、当時は当然にそうしたであろうから、そもそも小説の設定自体にリアリティがない、と現代の批評家はツッコミを入れている。
 開拓移民の天地では女は女であるだけで希少価値を有したので、北米の西部において著しくフェミニズムが亢進した。(ではその同じ現象が近世シベリアのコサックの社会ではなぜ起こらなかったのか。南シベリアは南米と同じく昔から一貫して無人地ではなかったからだろう。余談ながら最近のロシア製のエロ・クリップは「抑圧度」が酷いという印象を受けるね。都市部では精神の不自由度が10年前より悪くなったんじゃないか。)もちろん、西部の開拓をしたのが地中海人だったら、今のような過激なフェミニズムは育たなかったと想像することは公平だろう。
 ならば東部の貴紳社会は石部金吉の集まりだったのであるか? ジョージ・ワシントンらが生きていた時代は、奴隷制農業の時代だった。彼らブルジョアが恐れたのは子孫の没落であった。
 遺産相続権のある嫡出子をやたらに増やすことはプランター(大農場経営者)の身代の破滅につながる。だが、当時はまだ「経口避妊薬」は無い。かたや、マルサスが言うように、ヒトの性欲は時代を通じて激変するものではない。かくしてピルなし時代のバースコントロールとして妻とのセックスを早々と自粛する他なかった紳士たちは、自己の所有する黒人奴隷女たちによって、健康な成人男子としての欲求の解消を実現するしかなかった。
 〈ミドルティーン未満の児童に向けて公然と展示して見せてよいものとよくないもの〉を截然区別せんとするのが、米英流の公衆道徳であるから、もちろんこんな話は米国の教科書には載っていない。
 WWII中に米兵が世界各地へ持ち込んで当地の人々を感心させたのが、雑誌切り抜きのピンナップガールを自室に堂々と張る風習と、爆撃機の機体に裸の女を描く風習だろう。前者は世界に普及し、後者は普及しなかった。WWII中の米国人は、「兵隊のテントの中や、爆撃機の側面は、決してミドルティーン未満の子供が見たり親しんだりする世界じゃない」という価値観を共有していたのだと想像するしかないだろう。だからこそミドルティーン未満の児童が読むことが当然に予期される日本のマンガ雑誌に女の裸が露骨に描かれていることに、かつて米国人は一驚を喫したと伝えられているのだろう。
 これは前にも「摘録とコメント」で紹介したことがあるかと思うが、1984年のチェスター・マーシャル著、邦訳2001年の『B-29 日本爆撃30回の実録』の51ページに、ホノルルのP屋の話が出てくる。戦時中、B-29をサイパンに運ぶ途中で、クルーが目撃した光景だ。
 ほぼ一街区ごとに兵士が行列を作って建物に入る順番を待っており、その値段は5ドルだった――というのであるから、立派な組織売春の慰安所が軍の半公認で営業されていたのだ。
 1984年以前には、こんな話が紹介された例は稀だと思う(すくなくも兵頭は読んだ覚えなし)。
 たとえば戦中のアベレージな白人徴兵の性的な妄想がよく告白されていたノーマン・メイラーの『裸者と死者』(たしか、ルックスの良い黒人女とも一回やってやるぞと自分に誓う下りがあった)にも絶対にそんな話は出てこない。だから〈米国には慰安所はなかった〉と勘違いする粗忽者が今日の米国内に多いのかもしれぬ。現代人による過去の慰安所批判こそ、「知る者は語らず、語る者は知らず」の典型例であろう。
 (ついでにコメント。新聞よりも書籍の方にずっと自由が保証されている今日の日本国で、有料の書籍を遠ざけ、無料のネット上ソースだけで事物の真贋判定ができると思い込んでいるブロガーたちは、皆、理性の病気である。米国では、単行本を全国の書店に流通させるまでには、著者にものすごい高いハードルが課せられ、しばしば、出版社側の言うなりに、記述内容を不本意に変更しなければならない。だからインターネットが、既製市場ではマイナー評価だが、正確でエクスクルーシヴな情報を持つ著作者多数に、公衆向けの自由な伝達の場を与えた。日本ではそのような著作者は大抵、すでに活字発表の場を得ていたので、インターネットが新たに付け加えた有益ソースとしては、官庁インサイダー達のリークが最も注目される。)
 さて、ホーハウスにおいては「しつこくない」というので好評らしい日本男児は、宣伝戦でも、エンドレスの長期戦が戦えない。北京の国際宣伝司令センターの攻め口は決して慰安所だけではない。イメージ毀損の心理戦は、文化の全戦線で無限に続くだろう。
 奥宮正武著『もう一つの世界――13カ国・平和への挑戦』(1977-12)の88頁に、1973年当時のケルンの日本文化会館で、館長をしていた松田智雄公使(東大でドイツ経済を教えていた)から聞いたという話が紹介されている。いわく、「この国には、日本人は悪玉、中国人は善人という筋書きの、程度の低いホンコン製の映画が氾濫しています」と。それに対して松田が打つことのできたカウンター・プロパガンダは、ドイツの「水準の高い人々」を対象にした、歌右衛門や雁次郎の〈隅田川〉の上演であったという。
 まあ、2000年代の今どき、こんな勘違いをしている「文化人」はいなかろう。ヒトラーの『わが闘争』は、正直に宣伝戦の極意を公開している。最も水準の低い人々に向けて、宣伝は、為されるべきなのだ。
 口には出さぬが現代シナ人が困惑しているのが、世界に氾濫している「程度の低い」ニホン製の漫画の中に、シナ人のお約束キャラとして、辮髪が出てくることではないか。あれは「満州族」の風俗であって、辛亥革命以降のシナ人には、親の仇のようなものだ。
 防衛省が庁であったときは久間氏も外務省の腐れ役人とそのお仲間たちから陰湿なイヤガラセをさんざんされたようだが、省になったとたんに自前の軍事外交が展開できるようになった模様で、結構なことだ。インドやネパールへの特務機関扶植は、対支戦略としてヒットになるだろう。しかし、F-22と引きかえにアフガンに派兵とは……。イラクから抜いた戦力を振り向けろと? ブッシュ政権がF-22を取り引き材料にする気なのは想像がついた。だが2008年以後の次の米国政権は、約束をキープするだろうか?
 ここでも必要なのは、〈日本と韓国は違います。韓国人は歴史的にシナ人の仲間です。アジアでの韓国の侵略を防ぐために日本はストライクイーグル以上の装備を必要とします〉といった、絶え間のない国際宣伝である。それは、米国要路に対してだけでなく、米国大衆に対して、展開し続けなければ決して有効ではない。
 〈日本人は善玉、○○人と辮髪は極悪人〉という筋書きの、程度の低いニホン製の漫画とアニメと映画も、米国の大衆メディアのレベルで、もっと氾濫させねばなるまい。


これから予想される「下ネタ」文化戦争

 北京の反日宣伝総司令部が、とうとう気付いてしまった。わが国への間接侵略に対抗する防衛上の孤塁であった「日本警察」の弱点部を!
 おそらく洞爺湖サミットにピークを合わせて、日本国内にある、すべての店舗常設型の「ヌキ」系の風俗業が、アメリカ政府やマスコミ発の非難の弾丸で狙い撃ちに連打されるようになるだろう。もちろん、アメリカ世論を刺激すべく、絶えず燃料を注入し続けるのは、全世界に展開し、北京からの注文で仕事をいつでもキッチリこなす、在外プロパガンダ機関である。シナ人は表には出てこない。
 そのさいアメリカ人は、日本でいわゆるデリバリー型、すなわち米国流のコールガール形式やストリートガール(立ちんぼ)だけは非難しない(できない)はずであるが、降って沸いたようなフーゾク・バッシングに、日本政府(風営のコントロール担当は警察)が周章狼狽すれば、見境いのない行政指導の混乱や、官庁同士の下半身スキャンダル暴露合戦や、世論の暴発等が、生ずるに決まっているだろう。
 「ソープランド」を筆頭とする日本のフーゾク慣習に対する攻撃が、北京にとってのみ有利なことは言うまでもない。今のシナには、常設店舗の中で完結するヌキ営業は無いからだ。(ヤミで在ったとしても、一晩で撲滅し得る。)
 つまり、彼らは、世界の中で日本政府だけが不道徳な性産業を公法で公認して応援しており、その苦界には経済後進諸国からヤクザが人身売買的に狩り集めてくるベアリー・リーガル(=スレスレ合法orほとんど触法)な若さの「年季奉公人」が奴隷的に強制労働させられているのだと大々的に宣伝することが可能となる。それが that old「慰安婦」攻勢を、援護射撃することにもなる。
 そしてそこから、要するに日本の警察は国際テロリストに通ずるヤクザの仲間でもあるとし、対外的な信用を貶しめ、その警察が日本国内で摘発しようとしているシナ・朝鮮系のスパイ達などは皆、濡れ衣であると印象づけることも可能になるのである。かくして日本の警察が米国政府からこれまで受けて来られた高い評価(それはなんと外務省よりも高かった)は傷つけられ、公安組織はガタガタに揺さぶられ、日本の中の北京の手下たちが大暴れできるような環境が整ってしまう。
 このおそろしい嵐の前提となるべき、日米の「ヌキ」フーゾク文化の違いとは何か?
 日本では、「店によるシステマチックな多数女子従業員の管理」が堂々と許され、八百屋の野菜のように管理されている商品としての女を男が買うというスタイルが近代以前から伝統的に続いてきているのだが、アチラでは、相対ずく、すなわち、タテマエとしての「女と客の一対一の自由交渉」しか、社会的に認容されない。※間違っていたら、あとで後藤芳徳さんにでも指摘していただこうと思います。
 英国もビクトリア朝時代から「カタい国」と思われているけれども、その当時でも、教会の裏手などが「あいまい窟」となっていて、男子のヌキ需要に応える供給はもちろん存在していた。ただ、パリなどと違って、表通りからの視線は遮蔽されており、また、男どもがそこを利用する行為が、外聞・外見ともにはばかられた。もちろん、八百屋の野菜スタイルではない。まず男女ともにサロンにくつろぎ、女も男も談笑裡に互いに品定めをして、そこから徐ろに値段交渉に移って、自由な合意成ってのち、別室に消えたのである。
 戦前のベルリンでは、特定の酒場に、男の客が深夜までたむろしていると、いままでの従業員とは違う女たちが、あたかも客のようにして入ってくる。そこから、男と商売女の一対一の自由交渉が始まり、合意成れば、女のアパートに同伴外出……となったようである(旧軍参謀たちの回顧録の類をさんざん読んできた結果、このぐらいのことが、分かるようになってきた。ただし英米駐在組の下ネタ話は、さすがに軍人回顧録では読んだ覚えがない)。
 それならば現代のオランダやドイツなどにある(と聞く)行政公認の固定施設型の売春宿はどうなんだ(飾り窓は、江戸時代の吉原と同じじゃないか)――と日本人が反論しても、たぶん無駄だろう。それらの施設では、「女と客の一対一の自由交渉」が保証されている、と言われてお終いであろう。日本では「定価料金」が堂々と店の入り口前の看板に掲げられていて、それを店内で交渉で変更できるという話を聞いたことがないが、欧州の売春宿では、女が個室で客を見て料金を申し伝える、いわば時価制になっているのではないか。※間違っていたら、あとで後藤芳徳さんにでも指摘していただこうと思います。
 「一物一価」の女、というところに、米国人ならば反発するのだ。それでは人間が八百屋の野菜と違わないと思うわけである。これは尤もな話だろう。
 先走った予測をしよう。日本政府は、固定店舗内完結型のヌキ系風俗営業の完全禁止に、けっきょく踏み切らざるを得なくなるだろう。
 北京のこの攻め口の巧妙さは、日本国内の官官接待で、管理売春施設に類する施設が利用されているケースがおそらくあって、そこに弱みを感ずる一部官僚や政治家が、萎縮すると見抜いていることにもあろう。先のヘタレ国会議事堂のように、もののみごとに萎縮するだろう。反論すれば、どんな過去のフーゾク関与歴を指摘されるかわからない。
 風俗営業を管理する立場の警察官が、風俗業界から奢られていたというケースも、探せばどうしてもあるはずのことで、警察組織もこれから連打を浴びることを覚悟しなければなるまい。ドラスチックな風営法の改正(それは従来の業者とのコラボ関係を破壊し、恨みを買う)と、スキャンダル火消しに追われるために、肝心な国内第五列の監視や、テロ資金源となる賭博・薬物への対策の手が緩んでしまうだろうことが、大いに心配だ。
 やがて、「自分はソープなんか行ったこともないし、ピンサロなんて意味わかんない」という、下情とほぼ断絶した「清い」半生を送ってきた相当に奇矯な代議士や役人だけが、大威張りでのさばるようになるのか……? 刮目せざるを得まい。


18日、前泊する人は、浅田氏経由で兵頭までご連絡ください。

 ツアーの現地集合オプションはまだ予約が間に合います。空前絶後のこの機会をお見逃しなく! 宣言しますが、たった5万円の報酬でここまで至れり尽くせりの旅行ガイドをわたしが買って出ることは、もう二度とありません!
 さて、公務員の天下りイビリ問題などがなぜこの時期に出てきているか、低LEVELバカ右翼をはじめとする徹底不勉強主義ネット浮浪民は、その梅干並の脳ミソに活を入れてよく考えることだ。
 公務員の天下り問題に政治家が首を突っ込んでも得をすることはほとんどない。政府がそんな面倒な事業をわざわざ掲げているのは、それに別な効能があるからだ。
 真の狙いは、その問題の次に報道されるようになる「ロードマップ」を庶民に受け入れさせること。それに対する庶民の反感を、事前に懐柔する緩衝材の機能が、公務員イビリには期待されているのだ。
 それが何のロードマップなのかは、わたしも皆目分からなかった。折柄、「消費税率UP」のアドバルーン報道が出てきた。すると、これであったのか……?
 一般に、税率UPを歓迎する納税者はどこの国にもいないから、その報道に接して悪感情を抱く有権者の気分を、予め中和しておく必要がある。日本政府もさいきんは、そのへんの呼吸を学んで来ている。
 そしてこのたび用意された中和薬が、公務員イビリなのかもしれない。
 役人の再就職規制などは実質、失敗することは予見されている。だが政府にとっては、それでいい。ポーズと宣伝効果がすべてだ。
 〈民間とは段違いのさまざまな“生涯福利厚生”を享受している公務員をこのようにキッチリと苦しめましたから、納税者の皆さん、消費税率UPをヨロシク〉――という宣伝が続くのかもしれない。
 財務省が、2008年以前にプライマリーバランス修復に実効的に着手せねばならぬと焦る事情、その解法として日本を「大インフレ」にしてしまう手もあったこと等については、他のヒマ人がどこかで解説しているだろう。
 ところで「みせがね」ではない真の公務員人事制度改革とはどんなものか?
 有料の「読書余論」に入塾している「おりこう右翼」の諸士はすでに気付いてくれたことと信ずる。1930年代のソ連の絶好調は、石油輸出収入の他に、公務員人事制度の活力に理由があった。
 民間会社の場合、「上司から見て役には立たないが組織に忠誠な社員」を飼っておくことにもそれなりのメリットがあるのだ。本来的に不安定な民間企業の空気を安定させ、その空気が、有能社員の活動を効率化させたり、各社員をして、会社の長期の繁栄のための工夫を自発的にさせるようチアアップする効果もあるからだ。
 無能社員は、自分のかけがえのない自由を会社に売り、会社は自由社会ではそれ自体が貴重な「忠誠」をサラリーで買っているという関係だ。(だからこれは余談になるけれども、永久就職の無能正社員の福利厚生が、有能バイト君よりも数十倍良好なのは、自由売り渡し黙契の代償として、当然なのだ。有能バイト君は「転業機会の自由」「臨時欠勤の自由」などを享受できている。)
 その民間とは逆に、役所は、本来的に安定な職場であるから、「上司から見て役には立たないが組織に忠実な公務員」を1日でも飼っていたら、国家と全国民は累積的にふくらむ損失を蒙らざるを得なくなる。
 1930年代のソ連の人事制度は、役立たずの部下公務員を有能な上司の一存で即刻に職務停止や左遷にできた。もちろん、不当に下降的配置転換をさせられそうになった当の部下公務員は、直上上司をとびこえて自分の有能さと上司の無能さを党幹部にアピール/上訴すれば、その直上上司を逆に左遷させることもできた。
 この結果、1930年代のソ連では、有能な公務員だけが、同じポジションに長く留まり続け、無能な公務員は、下降的配転を続けることになったのである(ときには銃殺粛清された)。
 もし、この人事制度なかりせば、ソ連は決してドイツと戦って生き残ることなどはできなかったし、アメリカにすぐに続いて原爆を造って生き残ることも不可能だったろう。
 しかしフルシチョフ以降、しだいに「上司から見て役には立たないが組織に忠実な公務員」をシベリアの強制労働キャンプに送り込むことができにくくなって、ソ連は衰退している。
 日本の国家公務員制度では、あるポストに最適の人材が発見されたとしても、彼は決してそのポストに長く留まることができない。また無能な公務員も、組織に忠実であれば、上昇的配置転換を続けて行く。さらに、重大な法律違反を犯したり、国家叛逆行為を為したことが発覚した高級公務員(高級軍人が大宗)を、銃殺はおろか、懲戒免職にもできなかった。これが戦前の日本帝国の敗因であったし、今日の諸々の苦境の原因だろう。
 すくなくとも、現役の衆議院議員たる閣僚/大臣(すなわち有権者に直接に責任を負うている公務員のボス)は、何の理由も示す要なく、直接の口頭示達のみによって、ただちに部下公務員を随意に配転させられるようにすること。今日では、これが、日本を救う改革だろう。この改革を回避した「制度いじり」は、所詮「みせがね」で終わる宿命だ。
 消費税率を上げようとするときに必ずひっかかるのが、食料品課税をどうするのかという話。瀬戸氏のブログでも正面からとりあげていたのは、見上げたものだ。
 この解決案も提示しておこう。
 消費税率0%の食料品のみを扱う「免税食料品店」の営業を、届出制で、公許することだ。
 離島や交通不便の僻地村では、1店舗内に仕切りを設けてレジを分離するだけでも認める。もちろん、帳簿は分けなくてはいけない。こちらは、許可制にする。
 いやしくも「市」または「区」となっているエリア内では、この「免税食料品店」以外の商店では、食料品にも無差別に定率の消費税をかける。
 この結果、大都市では店舗の数が著増し、雇用が増えて、景気も良くなることが期待できる。
 一方では食料品の消費税率を減税するのだから、この税率改正は、有権者に受け入れられるはずだ。
 もちろん、真正の公務員制度改革がなされれば、これまで土建や男女共同参画など経済活動の最下流に、ほとんど無駄に(利権構造に食い込んでいる公務員と公務員OBにとってのみ大いに有益に)たれ流されてきた兆単位の予算費目を、ハイテク軍事という経済活動の最上流に一点集中してかけ流すことができるようになる。
 経済活動の最上流に投じられた公的資金は、最下流に達するまでに、「投資の乗数効果」を発揮するので、日本の景気をよくし、日本の頭脳需要を増して、国際競争力を底上げしてくれる。(投資の乗数効果と「シナジー効果」とを混同させて道路土建投資を弁護せんとる誤導宣伝がよくあるから読者は注意せよ! 高速道路も海底トンネルも超高層ビルも、いまやルーチンで竣工できるローテクにすぎず、研究開発などの新規の頭脳需要は発生しない。)
 日本ぜんたいの景気が少しよくなるだけでも、国庫に収められる法人税その他が著増する。消費税率UPなどまるで必要なくなるほどに、景気浮揚の効果は大なのだ。その王道的解決を阻んでいるのが、天下り利権構造(公的資金ドブ流し捨て構造)なのだけれども、天下りだけを規制しようとしても、大臣に部下公務員を思うように働かす人事権力がないのでは、日本の事態は今日と何ひとつ変わるまい。歴史が教える常識である。


そろそろ隔月刊『ランティエ』(角川春樹事務所)も発売なわけだが……。

 今月の「読書余論」は、じぶんで読み返すのも面倒なほどのボリュームになった。低LEVELバカ右翼で終わらぬための実りある勉強を是非したいと思っているのにまだ当塾に申し込んでいないキミは、この新学期から、心機一転しよう!


近日発売の『別冊正論』にも注目して欲しい

 人間は非合理的なこともする存在なので、カントのように他の人間ぜんぶを「目的」にしてしまえば、倫理や社会を数学のように確からしく構築することは、まず不可能であろう。
 非合理なこともやる場合のあるオレおよびアンタの自由を併存させる方法は、兵頭のおもうところ、一つしかない。それは、互いに公的な嘘だけはつかぬことだ。その空間でのみ、人々が互いに自分ひとりだけの勝手な趣味を楽しみながら共棲することが可能になる。
 この「契約」履行の倫理化は、いまから8000年以上前にメソポタミアの人類最初の「都市」で芽生えたもので、そこから東にも西にも拡散していったのだが、高度に発達させたのは、西ヨーロッパの都市においてであり、本家の中東ではいまでは「約束」があてにできない。
 19世紀以後の東洋では日本人が最もよくこの倫理の外形を吸収した。それは、この日本群島のありがたい「水土」(=地政学的な所与条件)のおかげであって、日本人がシナ人よりも優秀だからではない。現に、日本の選良たる政治家や、試験エリートたる高級官僚が、戦前も戦後も、しばしば公的な約束を破ることを恥じていない。
 さて、ロー・エンフォーサー(law enforcer)でもない者が、自宅戸外の公共の場所へ、有力な連発火器を服の下に隠して携行することを許している米国諸州の法律は、公的な約束が守られる空間の維持・強化に役立つだろうか? たぶん西ヨーロッパ人は、そうは考えはすまい。
 これは、今日のバクダッド市内の会議場に、誰かが手榴弾を服の内ポケットに入れたまま入場し、傍聴することが許されるかどうかを考えたら、アメリカ人にも分かるはずの理屈だ。
 旧日本軍の手榴弾は、突撃のきっかけをつくるためだけの、いわば花火のようなもので、せいぜい1発で1人しか殺せぬ低威力のものとして設計されていた。だから、自軍の手榴弾で確実に自決するためには、兵士はその上に腹ばいとなる必要があった。(つまり日本軍の1発の手榴弾では、「集団自決」などとうてい不可能だった。)
 ところが現代のオートマチック拳銃は、貫通力の大きな9mm軍用弾を弾倉内に十数発も収納するものが売られている。ワイアット・アープの証言によれば、ゆっくり狙って撃たない拳銃は、室内といえども1発も当たるものではないそうだが、とうとう今月、1人が拳銃だけを用いて32人だか33人を一挙に殺すという、新記録がつくられてしまったようだ。
 合衆国連邦憲法がつくられた当時、米国有権者が手にしていた武器は、ほとんど全部が「先ごめ単発式の小銃」で、その全長は2m前後もあった。(先ごめ単発のピストルも決闘用として存在したが、サイズが大きく、しかも小銃とは勝負にならぬ短射程であった。)
 偶然にも、まだこの単発小銃しかない時代に、有権者がそれで皆武装していたという状態が、米国の民主主義を確立したのだ。
 つまり、1人の小銃射手は、2人の小銃射手と撃ち合って勝つチャンスはほとんどない。1人が1票の政治的意思表示をキッチリできた。その担保が、単発小銃だった。
 米国の独立を望む有権者の数(=小銃の数)が、それを支持しない有権者および英国兵の小銃の数を上回ったので、米国は独立した。それは近代啓蒙主義政治哲学の上でも正当なことであると、英国インテリも承認をしたのだ。
 連邦憲法が米国市民の武装権を明記しているのは、この全長2m前後の単発小銃を前提にした話だった。それは服の下に隠し持って戸外に持ち出すことはできず、しかも、1人で一挙に1人の市民しか殺傷することはできない。
 不意打ち的に、少数者の意見を多数者に強制することは、不可能なのである。だから、公的な約束が守られると期待ができる。
 さらに大事なことが、アメリカにおける陸軍の禁止だった。1人の独裁者の命令で動く常設軍隊は、その装備として単発小銃しかなくとも、バラバラの市民を各個に殲滅できるのだ。だから当初の米国憲法は、「大統領が随意に運用できる常設連邦陸軍」という発想を絶対に否定した。その代わりとして、ミリシャ(民兵)だけを認めた。
 つまり、「常備軍の禁止」と「国民皆武装の推奨」がワンセットであった。
 この憲法の大前提を崩してしまう高性能の実包式連発拳銃が米国人によって発明され、人口希薄な米国西部に普及したのは、南北戦争の直後だった。すなわち、ダッヂ・シティにローエンフォーサーのワイアット・アープなどが必要とされたときにあたる。(日本の時代劇は徳川200年間が舞台。米国の西部劇は、年表的には幕末のほんの一瞬のひとコマだ。)
 遵法精神など無いカウボーイ(アープのインタビュー評伝を読めば、これは山賊に近い無法者集団のイメージであったことが知られる)の集団が連発式火器を携行しているのに、農場主が単発銃しか持たないのでは、農場財産を略奪から守る自衛は不可能だった。
 その後、米国の市/郡警察と州兵と連邦軍(合衆国騎兵隊)が、西部の法的無秩序を徐々に平定したから、初期米国憲法の前提は大きく崩れたのだ。大都市においては、市民の連発拳銃の隠然携行は、公共の秩序にはどう考えても有害になってきた。
 しかし、かたや田舎では、まだ連発銃による農民の自衛は必要だったのである。警察や軍隊が電話一本ですぐにやってきてくれる環境では、そこは必ずしもないのだ。とにかくアメリカは広いのである。
 この、都市と地方の治安担保のギャップがどうしても実定法では調整し切れないので、都市部における小型連発火器の自宅外持ち出しと隠然携行も、いまだに野放しにしておくしかないのだろう。
 さて今回の銃乱射事件の第一報で、犯人はシナ人らしいと報じられて、全米がそれを信じた。わたしがもう何度も強調しているように、米国人はとっくのとんまにシナは将来の敵になると認識しているのだ。
 だから日本人の安全のためには、日本人はシナ人や朝鮮人とは違うんですよという積極的なPRが不可欠なのである。
 サンフランシスコで明治38年に日本人の移民を排斥する運動が起きたのが、よく、日米戦争の伏線のはじまりだったとされるようだ。しかし、立場をひっくり返せば、これは当然の反応だった。どんな国も、低所得移民の都市部への流入には、顔をしかめるものである。それでもNYのような大都市ならば低所得層の街区も広く、埋没もできるが、サンフランシスコやシアトルのような地方都市では、どうしても目立ってしまう。
 その頃の日本移民は、最低所得層の出身であり、アメリカ人からはほとんどシナ人や朝鮮人と同じだと見られていた。なのに、明治23年の教育勅語でシナ式世界観を肯定してしまっていた日本政府は、日本人はシナ人や朝鮮人とは違いますよという宣伝を打たなかった。
 明治38年に日本は連戦連勝のうちにロシアとの講和を結んだ。このとき在米日本人の態度が、とつぜんにデカくなった。講和の斡旋をしたのはアメリカである。ところがそれに対する感謝の表明が日本人の間からはない。むしろ逆に、賠償がとれないこともアメリカのせいにしてブーたれた。それまで日本軍を応援していたアメリカ人も、こういう幼稚な反応をみて、引いてしまった。こんな身の程しらずなガキの集団はとても仲間として受け入れられないと直感したのである。
 しかも、対露勝利後の日本が朝鮮半島を併合するのは時間の問題のように見られた(じっさいには明治43年)。となれば、日本の低所得層よりもさらに低所得であった韓国人移民が、爾後は日本人だと称してどんどん米国に流入することになろう。それゆえ明治38年のサンフランシスコの学校は、先手を打って日本人と韓国人を並べて名指しして排斥し、翌年には、チャイナタウンの学校へ行きやがれとの市命令が出されたのである。
 1970~80年代、日本の遠洋漁船の乗り組み員たちが、南米や南アフリカの港に立ち寄って上陸するさいにはまず、自分たちは日本人であって、韓国人やシナ人ではないということを強調して、地元の市民から絶対に混同されないようにした。それによって、客としての扱いがまるで違ったのだ。無学な漁民すらこれを弁えていた。
 シナ人と日本人は違うという宣伝は、信用度を維持できる「ネット上の図書館」に英語の資料をたくさんUPしておいて、随時にそれを誰でもURL付きで引用できる状態にしておくしかない。これ以外にないのだ。それをやっているのが、いまのところ民間有志の「史実を世界に発信する会」である。さらなる寄付金を募りたい。
 わたしは視ていないが、番組表によれば、NHKのクロースアップ現代は、まだ放送しているようだ。回数は千回を越えているだろう。この番組は尺数は短いが、毎回、NHKという組織を動員した人海戦術で作られている。一人のプロデューサーや少人数のディレクターが、週に3つも4つも異なった新しいテーマを掘り出してきて追いかけてまとめあげることなどできはしない。それを何年でも無限に続け得るのが、組織力の凄さだ。
 シナの反日プロパガンダも、このクロースアップ現代と同じだと思えばよい。人海動員によって、ネタは無限に繰り出されてくるのだ。それに日本の首相が反論するには、一つの問題についての詳しい知識があったとしても無力である。敵は一つのいいがかりを論破されても、別のネタを十個出してくるからだ。
 ではどうすれば対抗できるか?
 戦前の史実について、トータルでシナに反論できる、信頼度の高い巨大なデータベースが、公開的に存在している必要がある。もちろんすべて英文でなくてはならない。それがあることによって初めて、日本の内閣総理大臣や米国高官は、たった一言、「シナ/朝鮮のいいがかりは事実ではない」とTVカメラの前で言い切ることが可能になろう。ソースは、あとで内閣官房や米国政府スタッフが、そのデータベースのURLをHPで発表してフォローすれば良いのだ。
 このようなネット上の英文アーカイブが利用できぬために、米国政府高官も、日本政府に対する公開的な援護射撃のしようがないのである。
 もちろん、このようなデータベースは、日本国の政府や、役人には、まずぜったいに構築は不可能である。国会図書館のいままでの予算のつき方を見れば、わかるだろう。
 この大事業は民間ならでは、できないのだ。
 2ちゃんバカ右翼たちは、アメリカ連邦下院に対する朝鮮人の慰安婦工作の司令塔が北京であることすら察しがつかない様子であるし、今も将来もおそらく英語力はゼロに等しい(というかその前に日本語の文献を読んで咀嚼する力がない)ので、ボランティアの翻訳投稿を呼びかけても無駄だ。これが昨年と今年、わたしが学習できたことである。
 資金を出す有志と、翻訳するプロのチームを、分けるしかない。
 わたしは「史料英訳会」よりも「篤志つうじ倶楽部」のスキームに、むしろ期待をかけていたのであったが……。残念だ。「篤志つうじ倶楽部」のボランティア管理人さんには、まことにご苦労様ですと申し上げる。
 ツアー情報追加。大野町郷土資料室を確認してきました。けっこう面白いことが分かりました(大戦中に機関銃弾で貫通された半鐘の実物など)。ツアー2日目午前の、二股口の土方歳三の塹壕跡を見学する前に、ここにも30分ほど、立ち寄りたいと思います。既に申し込まれている方は、お手元の予定表に追記しておいてください。


ソラ玉(そらだま)のきょうふ

 またソラ玉を買っちまった。こんどはマルチカラー。自動的に色が変化してくれるのだ。
 クリスマスイルミネーションにハマって電気代を月に二十万も払っているという御大尽の家がTVで紹介されたりしているが、この1個千円強のソラ玉を2万円分も並べたら、かなり淫靡なムードが醸し出されるだろう。なにしろ、一晩中、365日ですからね。
 LEDの消費電力は、赤と黄が少なく、緑や青は多いと聞いていた。したがってマルチカラーだと持続力はガックリ落ちるのではないかと危惧したが、夜明けまで点灯している。大したものだ。さすがはオーム電機だ。(同社の握り発電装置付きLED懐中電灯もグッドデザインだった。)
 ところでこのマルチカラーのソーラーボール、以前買った同社のソーラーボールの「黄色」と値段が同じなのに、見ると、発電パネルが別物のようだ(面積は同じなのだが、表面のワイヤー状の筋が密である)。おそらく、消費電力が嵩む分、いくぶん高性能な発電パネルを組み込んでいるのではないかと想像する。てことはお買い得なのか。
 パッケージ中に固定台などが附属していない同社のソラ玉をいかにして長さ数十センチの垂直ポールの端縁上に固定するかのDIY実践は、後ほどリポートしたい。同社のソラ玉の輝度と持続力は、地面にころがしておいたりするのでは、「闇夜のマーカー」としてのポテンシャルが引き出せず、勿体ないからだ。
 さて、さいきんブログで地政学の話をしているところが目につくのだが、大概は1980年代の議論に漸く目覚めた体の、いいオッサンが中二病に似た周回遅れの熱中をしているもので、「日本人のアンタが、洋学の受け売りではなく、どうやってオリジナリティを提示してくれるんだよ?」と詰め寄りたくなる。
 いま売っているはずの『表現者』の寄稿記事の補足をしておこう。
 ふつう、陸上で国境を接する隣国を強くしてやるという選択を、国家は採用しない。ソ連は1950年代に中共の核開発を支援し、途中でこいつはヤバイぞと悟って手を引いたが、1960年代に大いに後悔しているのだ。
 ソ連が、インドやベトナムを梃入れして、シナを挟み撃ちしようとする戦略ならば、合理的である。シナの立場からは、シナからみてソ連の背後に位置するヨーロッパ諸国に強くなってもらえば、好都合だろう。ふつうはそう考える。
 そこでアメリカ政府も、まさかシナ人が、対インドの布石としてであるとはいっても、短いながら接壌する隣国の、それもイスラム大国であるパキスタンに、原爆を持たせるなどというオプションを1980年代に実行するとは、想像しにくかった。
 パキスタンの原爆保有の意味は、〈アメリカ人はシナ人の行動を古い西欧流の地政学によってはほとんど予見できない〉ということだった。が、それを指摘する外国人が誰もいなかったので、こんどは北鮮も核実験してしまった。
 〈シナ人はフツーではない〉という説明をアメリカ人に対してする義務は、日本人が負うていた。ところが日本人はそれをしなかった。否、できなかった。保守派が教育勅語などを賞揚しているあいだは、日本もまたフツーの国ではなく、フツーの考え方ができないのである。フツーの考え方とは、公的な嘘をつくことを恥じることである。公的な約束を破ることを恥じることである。そこからしか「法の下の平等」「法の支配」という近代の考え方は生まれはしない。
 マッカーサー偽憲法は、公的な嘘の塊である。そして教育勅語は、個人や国家の対等を認めないシナ思想である。
 シナ人の古言に「浸潤の譖(そしり)、膚受の愬(うったえ)」を黙過するな、それを明察し、予防し、艾除し、反撃していけ、という教訓がある。
 すこしづつ宣伝され、すこしづつ蓄積されるような悪イメージが、おまえを破滅させるんだよ、というのだ。
 政治とは宣伝であり、宣伝戦には休憩などないんだよと、「聖人」様が教えてくれているのだ。宣伝を休んだ方が負けなのだ。とうぜん、安倍政権には無為無策の責任がある。
 日本はこの逆をやってきた。日本人はシナ人や朝鮮人とはまったく違うのであり、シナ人こそが最も嘘つきでクレイジーなのだという積極的な宣伝をアメリカでいささかも展開せず、逆に、シナ人と日本人は似たようなものではないかと誤解されてもしかたのないような言動を保守派とバカ右翼が反復継続している。瀬戸氏はまたもや〈ユダヤ陰謀論〉を書き込んでいる。つける薬はない。
 するとアメリカ人は日本をどう思うか。ギリシャ的価値観がないという点ではシナ人と差がなく、ユーラシア大陸経営のための戦争能力ではシナにはるかに劣り、将来の市場規模でもシナに劣ると考えるだけだ。
 北京はもちろん、日本人のイメージをシナ人以上に劣悪に見せる宣伝を、世界単位で展開し続ける。そうすることがシナの安全とステイタスの向上につながるからだ。
 「横田めぐみに同情してくれ」という宣伝は、アメリカの大衆にはまったく訴求しない。シナは厚顔無恥な韓国人を手下として「慰安婦」ネタを無尽蔵に繰り出すことで、容易に安倍氏から「拉致カード」の神通力を奪えたのである。「浸潤の譖、膚受の愬」を黙過した迂闊さの責任はまったく安倍内閣じしんにある。
 米国政府高官の間では、北京発の嘘宣伝の真相はほぼ掴まれている。しかし日本政府は、米国の有権者全般をみずから直接にわかりやすく説得し感化しておかないならば、宣伝にも人海戦術を採用するシナとの宣伝戦には別な戦線で必ず負けてしまい、日本の国益は長期的に汚損されるという単純な機序を理解すべきである。
 伊藤貫氏は、アメリカは日本の単独行動を歓迎しないと『表現者』でも断言しているが、この断言は説得的ではない。日清戦争の前も、米英は日本の単独行動を歓迎しなかった(see→『蹇々録』)。しかし、対支戦という行動が起こされてからは、米国大衆は無責任なスポーツ観戦者となったのである。
 「横田めぐみ」が拉致され、まだ生きているという情報をもっているのならば、日本政府は一刻も躊躇せず、単独で北鮮に軍隊を送り、奪回すべきである。米国大衆はそもそも他国間のトラブルに関心は無いが、もし関心を持ったとしたら、とうぜんにそのように考える。そして日本軍に声援を送るであろう。
 この逆に、自国民を拉致されたと騒ぎながら、ほとんど有効な単独行動を起こしていない日本政府と日本の有権者は、アメリカの大衆の目からは、シナ人と同じくらい謎なのである。気概がないのか、人権に価値を見ていないか、どちらかだと疑う。およそ大衆が外国同士の戦争を見る目は、スポーツ観戦と同じであって、ヘタレを応援することは決してない。
 1960年代の前半、もしシナが核武装するなら、日本も安全保障上核武装するのが当然であった。ニクソンはそう考えた。しかし佐藤はヘタレだった。こうなると、シナの対米宣伝が圧倒的に魅力的になる。シナは自国の独立維持のために単独行動できる国だった。気概があった。それは米国大衆の愛する気概でもあった。キッシンジャーはシナと組むことに自己の利益を見出した。「ユダヤの陰謀」とは何の関係もないことだ。


ツアー締め切り迫る!!

 道南の新撰組遺跡と旧軍要塞遺構等を巡るツアーの申し込みの締め切りが迫って参りました。
 北海道も函館市も、軍事観光資産を活かす着眼が乏しく、地図や標識が十分に整備されているとはいえません。ですので、現地ガイドを伴わずに効率的にこれらの史跡・資料館を視察することはできないと思われます。
 今回のツアーは地元居住者である兵頭が特別に例外的に軍事史的なガイドを担任するもので、ふつうなら2日では観られない内容となっております。
 羽田発着コースのお申し込みは、もうじき締め切られます。この機会をお見逃しなく。
 (函館現地集合組のお申し込みは、5月中旬ギリギリまで可能です。)
 さて世間話です。昨日とどいた月刊『文藝春秋』にウッドワードのインタビューがあり、やはりというか、キッシンジャー老人が、現政権にも頻繁に接触して、米軍がイラクから撤退せずにあくまで勝利を追求するよう発破をかけていると。最凶のシナ工作員が誰なのか、いずれ明らかになるでしょう。


書評だけ読んで再書評

 本日とどいた『SAPIO』誌に、柳澤健氏著の新刊、『1976年のアントニオ猪木』の紹介記事が載っていた。
 1976年6月当時、わたしは満15歳で、プロレスに興味はなく、格闘技ファンでもなかった。しかし、鳴り物入りの前宣伝でTV中継されると聞いた「猪木 vs.アリ」戦では、猪木氏はあぶなくなったならリングに仰向けに寝そべる戦法をとるのだろう――という見当だけは、事前につけていた。
 (さすがに、形勢不利となる前からいきなりそれをやると迄は予測せず。)
 というのは、それ以前に、どこかで読んだプロレス漫画(または格闘マンガ)に、まさにそんなシーンがあって、もっともらしい解説も付いていたのだ。
 レスラー(柔道家?)がいきなり仰向けに寝て強敵を誘うや、打撃系の選手である強敵は、ためらってしまい、まったく攻めることができなくなる、という、少年漫画にしてはヤケに意外な展開……。
 だからこそ、格闘技マニアでないわたしの記憶にもちゃんと残ったのだ。
 わたしですら、それを覚えているのだから、わたしと同じ1960年生まれの柳澤氏は、その漫画について知っていて欲しかった。『Number』の元記者として、当然に調査をいきとどかせていて欲しかった。残念ながら、『SAPIO』の紹介文を見る限りでは、この予言的な漫画についての言及は、無さそうである。
 この漫画の原作者をとにかく確認したいものだ。それは故・梶原一騎であった可能性があるのではないか。梶原氏は試合の流れも全部、考えてやったのではないか。


繰り返し

 日本時間の1945年8月9日午前零時は、モスクワ時間の8月8日午後5時にあたる。モロトフ外務人民委員は、佐藤駐ソ大使に、午後5時から面会。そこで、ソ連の対日参戦を通告した。
 満洲時間(=日本内地時間)の8月9日午前零時すぎ、ソ連軍爆撃機が新京とハルビンを爆撃し、地上部隊が満ソ国境を越えた。
 東京の鈴木総理大臣は、ソ連の参戦を、10日の朝に承知する。ニュースソースは短波ラジオであった。
 ハーグ陸戦条規の宣戦規定の外形的な遵守は、こんなものでよかったのだ。外務省の幹部や、退役大将を外相として送り込んだこともある海軍の幹部は、それが分かっていた。しかし1941年12月8日の東京の日本外務省は、敢えてこの方法は採らなかった。
 もう1934年から、AT&T社は、米国の太平洋岸と東京を、無線でリンクして、音声電話の国際通話サービスを始めていた。高い料金さえ払えば、日米間で、電話会話すら可能だったのだ。海底ケーブル網による電信は、もっと早くから全世界の都市を結んでいた。もちろん東京の各国大使館には、自前の短波無線装置、長波無線装置、自国の商船や友好国の軍艦を借りての無線送受など、百般の通信連絡手段があった。
 つまり、東郷外相が、東京でグルー大使に、12月8日未明に、今から開戦すると口頭で伝え、さらにその事実を短波ラジオで東京から国際放送すれば、ハーグ陸戦条規の外形的な遵守は、達成されたのだ。しかし外務省はそれをしなかった。海軍との間に事前の共同謀議があったからである。
 野村大使も、東郷外相も、日本海軍が1929年のパリ不戦条約批准の後も「寝首掻き」方式での開戦しか考えていないことを、重々、承知していた。統帥権独立は、海軍軍令部が堂々と国際法を破り、国家として五箇条の御誓文に背くことを許していたのだ。
 奇襲を絶対に失敗させないために海軍は、退役海軍大将の野村をわざわざ開戦時の大使として指名し送り込んでいたのである。ハルはすべてを知っていたから、野村には冷たく対した。
 日本がソ連方式でパールハーバー攻撃30分前に対米宣戦したとしよう(特殊潜航艇の港内突入が最初の急降下爆撃より早かったことは捨象する)。それで「スニーク・アタック」の汚名は生じなかったのだろうか? まったく、以後の日本の不名誉に変わりはなかった。ここが低脳保守には半世紀たってもまだ分からないのだ。
 ソ連は、ドイツがたたきのめされるやすぐに、日本非難を開始していた。日本を侵略者と呼ばわり、その侵略者への反撃をすると、予告しているのである。つまり世界に対する自衛宣言である。これをすることによって、ソ連は「パリ不戦条約」を遵守しようとする意志を、いちおう、示したのだ。
 日本は「パリ不戦条約」を遵守しようとする意思が、ひとかけらもなかった。大本営は、「交戦状態に入れり」とラジオ発表した。〈米英軍が先に攻撃してきたので自衛した〉ではない。宣戦詔書は「自存」といっているが〈自衛反撃〉とはしていない。アジアに新秩序をつくるという余計なニュアンスの本音まで混ぜてしまっている。教育勅語が近代精神を狂わせた最良の見本である。そもそもアメリカの禁輸は南部仏印進駐へのリアクションであり、英蘭の禁輸はドイツの同盟国への当然の態度である。侵略者には世界は禁輸で応えるというのは国際連盟の掲げた精神だった。日本はかつて国際連盟常任理事国であったとき、この禁輸指針に何の反対もしていないのだ。
 ナチスやスターリンですら「自衛」を装うことを心がけ、大いに尊重する構えを見せているパリ不戦条約を、日本政府だけは、公然と、堂々と無視していた。これに、不戦条約の幹事国であった米国の国務省人脈が憤ったのはあたりまえである。マッカーサーが、〈ドイツ人は、12歳の日本人と違って、45歳の近代人だった。つまり日本人は全員条約にすら無知な少年犯罪者であったが、ドイツ人は国際法もよく承知した上での確信犯だった〉と表現したのも、このパリ不戦条約を如何に回避したかの態度の相違を指している。日本政府は回避をせず、ただ、無視したのだ。あたかも不戦条約などこの世に存在しないかのようにふるまった。
 (マッカーサー自身は、戦時国際法ではない条約や法律が将官を罰する根拠になるという哲学を本能的に歓迎しなかった。マッカーサーの父親はフィリピンの虐殺者である。秩序をつくるために破壊殺傷を担任するのが軍人である。軍人が平時法で罰せられてはたまらない。だから、マックが東京裁判のスキームを得心するまでに数年かかった。)
 東京裁判で東條元総理は、「宣戦布告をしての侵略戦争、または、宣戦布告なしの侵略戦争」の計画や実施を咎められている。ハーグ陸戦条規違反は小さなことで、パリ不戦条約が重大なことなのだ。それを一言に縮めたのが「平和に対する罪」だった。
 現役大将であり陸相であり総理大臣であった東条英機は、パリ不戦条約を巧妙に回避する方策をなにひとつ考えられなかったので、近代世界の憎まれ者になった。そしてこの東條と、海軍大臣は同罪である。ハーグ陸戦条規違反に関しては、海軍と外務省が共同で謀議をめぐらした。しかし米国内でのきわめて高度な政治決定により、海軍は免罪された。それによって日本外務省も免罪された。
 戦前にNHKがラジオ放送を開始するとき、東京市内の電話加入者は3万人しかいなかった。
 この電話というシステムはグラハム・ベルが創った。大正4年にはアメリカの都市内の電話は普及がほぼ終わっていて、こんどは西海岸と東海岸との間で、長距離電話をつなげようという段階だった。1945年にはもう全米家庭の5割が電話を引いていた。
 戦前の日本国内の電話交換機も、ベル・システム社が開発したものに準拠していた。とうぜんながら、電話の盗聴技術は、アメリカが日本に数十年も先行していた。
 連合艦隊の旗艦『長門』の呉軍港での繋留ブイと、霞ヶ関の海軍省との間は、延々と、有線電話で結ばれていた。途中には、無数に、盗聴ポイントがあった。おそらく、広島市内に、盗聴センターの一つがあっただろう。その証拠設備は、さいごに原爆で消滅させられた。スチムソンはかつて国務省の通信傍受を指揮監督する立場にもあった。
 ハワイ攻撃部隊の択捉島集結は、千島方面での民間の無線使用までが制限されたことで、札幌の逓信省の文民の役人すら、容易に察知することができていた(see→『寺島健伝』)。電気通信後進国は、一方面での急な電波封止はかえって外国の注意をひきつけることになる、という通信欺瞞の初歩すら、分からなかったのである。
 これに、日本周辺に展開した米英の諜報網が気付かないでいた――と推断する方が、不合理なのだ。
 11月26日の南雲艦隊の単冠湾出撃は、米国要路にリアルタイムで把握されていた。直ちに「ハル・ノート」が書かれた。これをうけた東郷外相は、昭和天皇に、これはアメリカからの最後通牒ですと説明した。だが野村がハルに手渡した交渉打ち切り通告が、最後通牒の体をなしていなかったように、ハル・ノートも、最後通牒などではない。東郷は巣鴨の獄中で、ハルノートを読んで目がくらんだなどと書いているが、もちろん嘘である。
 アメリカは日本海軍と日本外務省の意図的な国際法破りを、すべてお見通しだった。が、高度な政治判断で、日本外務省は東京裁判での断罪から免れた。
 これが、日本外務省が靖国神社や東京裁判イシューに関連してシナからの対米バックパッシング(buck-passing)宣伝工作攻勢をうけると、それに対してまったく反撃の態勢をとりようのない、深い理由なのである。外務省こそ日米戦史の歪曲者であり、過去を掘り返すことは日本外務省の自殺になると考えている。
 したがって戦後の対米宣伝を、脛に傷もち、弱みも握られている外務省などに任せておいて良いわけはないのである。他の機関が推進しなければシナの宣伝攻勢には対抗ができない。さりとて、これが文科省のような二流官庁ではなお役には立たぬ。
 かつてGHQが「大東亜戦争」の呼称を禁じたとき、それに代えてこう呼びなさいという命令はなかったのである。しかるに二流官庁の文部省は自発的に「これからは太平洋戦争と呼ぶように」との旗振りを買って出たのだ。彼らに日本史を任せておくことは危険である。
 戦前の東大生で高等文官試験に上位合格した者は、文部省のような二流官庁を志望しない。高成績に加え、覇気もある者は、内務省に入った。内務省の中核が警察である。GHQは内務省をバラバラに解体することで日本の統治を容易にした。日本の警察は、覇気を維持しつつ、米国とも協力した。
 背後の皇軍を失った日本外務省が、1970年以降にシナの工作と田中派の台頭でますますガタガタになっていったのに、警察は内心で反発し、いろいろな対抗をしてきた。
 たとえば近々、中共の大物が来日する。すると警察は、弾薬庫に保存していた予備弾薬を出してくる。たとえば、(被害者にも自業自得の面があるという点で)解決優先度が高くない、未発表の拉致事件である。総理大臣がバリバリの旧田中派だったら、こんなタイミングでこんな事件の公表をすると首相の警察に対する覚えが悪くなるだけで損だが、今は、逆に総理大臣にも恩を着せることができる。警察のマスコミ利用術は、官庁の中では最も高等である。そして、アンチ中共であり、アンチ半島である点で、頼りにもなる。
 だが歴史問題で警察が対米宣伝をしてくれることはない。それは無理である。お門違いである。
 歴史問題で対米宣伝をしなければならない責任者、それは現役の内閣総理大臣なのだ。現役の内閣総理大臣には、他の官庁のすべてを超えた対外宣伝力が必要である。日本外務省が、1941年の東郷外相の侵略謀議加担・パリ不戦条約違反推進という深い傷を脛にもつために、そうする以外に、日本が国際宣伝戦(バックパッシング合戦)で生き残る道はなくなっているのである。
 シナはアメリカとの長期的衝突コースが確定しているがゆえに、必死でアメリカの悪感情を日本に向けさせようと、工作にドライブをかけている。バカ右翼が、マンマと釣られて反応し出した。首相には、一人で反撃する責任がある。駐日大使がシナ朝鮮の工作にやられたなら、その駐日大使に対する不快感をすぐに首相は公然と口にしなければならぬ。国際宣伝戦では「受け太刀」すら必敗の道。まして「無刀」では死あるのみ。一人で宣伝反撃のできない首相は、日本国の国益を損なってしまう。
 諫言する者がいない。東京裁判で免罪された外務省と旧海軍が連携しての戦後の「偽史」づくりに、日本の民間の保守言論人は、ころりと騙されたまま、いまだに目が醒めない。事前にアメリカ政府を「侵略者」として東條首相が公然に批難し、いついつまでにかくかくの措置を米国政府がとらない場合は日本国は自衛するしかないと予告してから軍事行動に移るのではなければ、宣戦布告を1時間前にしたところで、それは「スニーク・アタック」であり「パリ不戦条約違反」なのである。日本政府は、パールハーバーを海軍が襲撃する前に、アメリカに対する自衛戦争をほのめかしもしなかった。それ以前の海軍省のマスメディアを通じた威勢の良い宣伝は、侵略の予告にはなっても自衛の予告にはなっていなかった。そして外務省に、パリ不戦条約を守る意志があったならば、軍事行動前の宣戦文書の交付などは考えてはならなかった。それは逆に日本軍の行動が「自衛反撃」ではない計画的侵略である傍証となってしまうだけなのである。じゅうぶんすぎるほど「スニーク」である。日本人は12歳のガキだった。いまでもガキに見えるだろう。