摘録とコメント(※)。

▼小磯国昭・武者金吉『航空の現状と将来』S13
 長距離機に弱いエンジンはマッチしない。燃料満載で離昇ができないから。
 関東大震災は150箇所から発火したと仮定すれば、この頃の黄燐焼夷弾は1発5kgくらいなので、将来10トン積みの航空機ができれば1機で東京は丸焼けとなる計算だ(p.40)。※ところで黄燐は毒物なのにこの不発弾は「残置毒ガス」扱いにならない。実害もないためだ。つまり化学剤の長期持続力を分別しないで一括して扱うのは合理的でないのだ。
 武者:「借問す、大和魂を有する者は毒ガスを吸うて斃れざるか、焼夷弾を受けても焼けざるか? ……旅順の攻囲と雖も肉弾のみでは之を陥る事は出来なかったではないか」(p.74)。
▼オットー・レーマン・ルスブェルト『国際軍需工業論』杉田一夫 tr. S10
 独の社会主義者ルーズベルトによる兵器コンツェルン批判の書で、複数国で訳されたと。
 軍需資材の輸出禁止と軍需資材よりの利潤排止を初めて原理化したのは Hugo Grotius(1583-1645)。
 日露戦争中、英の会社は露に対しても武器を供給した。Basil Zaharoffはギリシャ系英人だ。
 仏は石油にアルコールを混ぜている。石油なきヨーロッパ大陸部は無防備である(p.106)。
▼H・J・マッキンダー『デモクラシーの理想と現実』
 ※昔読んだときは感心したが、今メモを見るとほとんど先人のアイディアの「再編集」だ。まあ、それすらロクにできんのが日本人のメモリーだ。
 近代以前の古い時代においては、世界全体がまだ貧困だったために、欲望を捨ててしまうことだけが、一般的に幸福にいたるための唯一の途と考えられていた。
 ビスマルクの1864対デンマーク戦に、バルトと北海を結ぶキール運河開削の意図があった。
 プロイセン人は、ビスマルクを除き、他国民の心を洞察しない。
 ラインラントとバイエルンはカトリック圏。
 フリードリヒ大王の単頭制が1806イエナの敗北と仏によるベルリン占領を結果し、フィヒテは1806~13に独の国家主義・官僚制を促進させる。
 創立されたベルリン大学は、事実上、参謀本部の姉妹校だ。学問の国家手段化だ。
 地図と地理学もベルリン大学で開花したのだ。
 マケドニアによるペロポネソス支配。これがランドパワー勝利の嚆矢だ(p.46)。
 ローマの陸上覇権は、海上パトロールを不要にした。
 北アフリカのローマ領は、沙漠限界に接していたので、間合いが充分とれた。
 英は内陸から攻撃されるおそれのあるペルシャ湾両岸には港湾基地をつくらなかった。駐印陸兵は北西国境に配した。
 1898、マニラで米艦隊に討ち漏らされたスペイン艦隊がドイツ艦隊に頼ろうとしたとき、英艦隊が米側に立って止めさせた。
 紅海には岩礁多く、常に北風あり、航海にはよくない。
 ダーダネルスをランドパワーが制すれば黒海沿岸はランドパワーにとりこまれる(p.123)。※チャーチルがこだわった理由。またスターリンが海軍に予算つけた理由。
 英の対ソ干渉。アルハンゲリスクからドビナ川を溯上、コトラスから鉄道でシベ鉄のヴィヤートカへ。
 プロイセンは北の土地から東へ出た。オーストリア人は、南ドイツから行った人々。
 ボルガ中流にドイツ人大集落あり、そのへんがドイツ語圏の東端(p.149の地図)。
 18~19世紀、ロシア政府は沿バルト・ドイツ系貴族の次・三男を官僚に大量採用。
 1878年は英国の鋼鉄船が大西洋でバラ積み輸送をはじめた頃。輸送革命→国際穀物価格革命。同時期、米大陸でも鉄道建設開始。
 英国の繁栄は、ただ競争者のいない時代に事業をはじめたというだけで、目下のところは企業の採算が成り立っているにすぎぬ。
 人間と称する動物の政治的属性の最初のものは、すなわち飢えである(p.168)。
 マニラで米艦隊を支援したのは南アの市場を守るため。南ア戦争でドイツ海軍の動きを抑えたのはインド市場を守るため。日本を支持してロシアに当たらせたのはシナ市場を得るため。
 ビスマルク後のたったひとりのまともな独宰相は1900~09のフォン・ビューロー。
 イエナで勝ったナポレオンはプロイセン常備軍を42000に制限したが、プロイセンは短期現役の国民軍制を創り出し、爾後世界趨勢に。※米人エマソンはナポレオンを「偉大なビジネスマン」と呼ぶ。
 敗北の思い出は、やがて時とともに消えてゆくものだ。が、何百万という誇り高い人びとの日々の苛立ちはけっしてそういうわけにはいかない(p.187)。
 マッキンダーいわく、18世紀以前の都市間移動の利便が万人に機会の均等を与えていたからヨーロッパはおもしろく発展したのだ。つまり有能な者はそれぞれ牛口となり自己実現できた。※文明も都市も大脳の灰白なのか。リム以外はクローン化する。
 自由放任ではなく、国家は「庭師」でなくばならぬ(p.234)。
 都市や地域や諸国家の個性がなくなり広域が均質化するのは文化の「近親交配」で、文明は衰弱する。※これはシュペングラーからのインスパイア?
 「われわれは戦時中の官僚の横暴な態度を知れば知るほど、彼らがこの国の永久的な主人公になることを望まないだろう」(p.241)。
 ローマの道路網はやっと18世紀になって代替復旧した。
 揚子江、ガンジス、ユーフラテス、ナイルの共通点は、海からの溯航可能性。※ルーマニアとユーゴ国境のダニューブ谷はIRON GATESと呼ばれた。
 辺縁に無数の橋頭堡を持ち、ランドパワーの地上兵力増強努力を強いれば、彼等は艦隊建設に専念できない。※本書がソ連で発禁本だった理由が分かる。
 「その上さらに、復讐心に燃えるドイツの旧世代が若い世代に向かって歴史を歪曲して教える心配がないように、その他もろもろの外科手術を施すことも、また考えられる。しかし……外国人の教師を派遣することは、百害あって一利がない」(1943の稿)。※…って、ロボトミー手術かよ。
 大西洋は“The Midland Ocean”だ。
 インド人やシナ人の生活水準が欧米と均衡すれば自由はやってくる(p.304)。
▼月刊『地理』1987-2月号
 秦→至那→斯那→脂那→支那(仏典漢訳から)。
 北朝鮮は黄海を「朝鮮西海」と呼ぶ。
▼Ferdinand Friedensburg『戦争と地下資源』児玉美雄 tr. S18年
 古代ヨーロッパでは、東アルプスの鉄、北欧の岩塩、スペインの金属鉱が争奪された。
 300年前は宝石と塩、19世紀初頭でも現在利用されるミネラルの大多数は未知だった。
 セメントのように、加工により価値ができるが元来普遍のものは、世界政策の対象にならない。
 ただし水だけは別。イタリーはエチオピアに数千トン分の給水船を出さねばならなかった。また少し前には北欧から氷が輸出されていたものだ。
 1929の世界で、全鉱物生産の価格にして三分の二は燃料であった。また採鉱力の90%は石炭と石油に投じられている。
 ドイツの鉄鉱石には硅酸が多すぎ、輸入が常に必要。仏は良質ボーキサイトで世界支配中。ザールのコークスは粗悪で、ルールのコークスは良質だった。日本炭の悪さは、大陸進出を促した(p.22)。
 コークスつくる際に出るガスは家庭用に普及中。ベンゾールも合成できる。
 石炭→コールタール。タール油はディーゼル燃料になる。副産物のトルオールは火薬に化ける。TNT。
 石炭ピッチ(さいごのカス)はアルミニウム工業に役立つ。※どうして?
 産炭国は米英仏で、世界の四分の三。米だけのシェアは40%なり。ソは1934で世界の8%に達す。※近代化は遅れたが、現代化は早かった。
 米のクラック法はベンジン回収率を上げるもの。
 パイプ輸送は鉄道より安価である(p.38)。
 米、ヴェネズエラ、ソだけで世界の六分の五(約84%)の産油。
 国防経済上の独立のためスウェーデンは機関車を電気化した。※水力豊富なので。
 蒸気タービンは17%の変換効率、ディーゼルのレシプロだと30%、石油の発熱量は石炭の4/3倍だから複合して石油機関は石炭焚きの半分の燃費になる。これは石炭の方が原料として安いにもかかわらず、である。※高速を出さなくても良いならね。
 1929世界全生産額ソは米加に次ぎ3位。日本の2倍以上。
 白金とその仲間、イリジウム、パラジウム、ロデジウム、オスミウムは精錬不要の鉱物で、世界の半分はウラルで出る。
 銀はほとんど他物質の副産物として出るので生産コントロールできず、銀本位制は必ず破綻した(pp.48-9)。
 ドイツはWWⅠ後、マンガンを他の先進国より多く自領に持っていることを発見。※ラインメタルの砲身の秘密……なんてことはない。
 WWⅠ中、銅飢饉の独はアルミを以て代えた。
 マグネシウムはカリ工業廃液から最近とられるようになり、独に豊富。
 前大戦前、現在の1/4だけを数えるに過ぎなかった全世界石油生産の寿命は、数十年と見積もられた。又1920年の新計算に依れば、米国地質学者は全国の石油埋蔵量を約10億tと発表しているが、此の数量は旧式掘削では殆んど16年で尽きる。
 旧ポーランド領ガリシア油田は衰微中である(p.124)。
 1tの鉄は9tの石炭でつくられるので、石炭の輸送問題の方が重視されねばならぬ。輸送費が高すぎるため石炭は自国内で消費されることが多い。
 石油は石炭の平均6倍の価値を有すのみでなく、この輸送が楽なのである。
 米のヘリウムはテキサスのアリロ鉱山から30万t/年出る。費用は水素の10倍。
 独はWWⅠ最後の年に、野2000、重砲400、山砲4300、銃250000、MG1500、砲弾1100万発、火薬類12000t以上製造した。
 連合国側はWWⅠ最後の月に、ベルギー=フランス方面にて50万t消費。
 米人E・C・エッケルは、原料ボイコットによる戦争防止を研究(p.262)。
 この大石油消費の計算から前独司令官ゼークトは、将来戦は少数精鋭でなくばあらずと結論した。
 ドイツ=オーストリーはポのガリシア油田に全面依拠していたが1914秋ロシアにまっさきに占領された。1915夏ロシアは返却に際し全リグ&精油施設を焼き払った。
 1916末、独がルーマニアに入ろうとすると英は技師と軍隊を送ってカルパチア油田を徹底破壊した。いずれも数ヵ月で復旧。
▼正岡猶一『米国膨張論』大3
 著者はM38に小村に随って渡米した。
 昔は鉄道運賃は汽船の3倍だったが、いまもなお2倍以上である。
 排日タカ派海軍少将にローマンというやつがいた。
 日本は日露役で、旅順を距る60哩のイリオト島に貯炭場および修繕所を設けた。
 米西海岸はよい石炭ないので東から運ばねばならない。
 1898露は租借地の遼東半島にダルニー港を開いたが時勢は牛莊を貿易の中心にした。
 日露war後、満州のロシア灯油は米国灯油に駆逐された(p.615)。※海経由の輸出はコスト安。
▼庵崎貞俊『帝国の興亡と石油問題』大9
 序。近時石油問題を論ずるの声漸く高く、既に立法部の議に上り、頗る世の耳目を聳動す。
 国家の存立上石油の重要なる事は既に十余年前より唱えられたる問題。
 WWⅠの結果Subより遅い水上艦は生き残れぬ。BBは25ノット、Cは30ノット以上要する。
 重油1tは石炭の2t以上に相当。容積は石炭の90%で二重底にも貯蔵し得る。
 石炭のように自爆しない。石炭より積み込みは比較にならず楽。
 1919ロイド船名簿によれば重油燃料装置を有する汽船は、米、英、ノルウェー、オランダ、日本の順に多い。
 英駆逐艦スヰフトは一回の重油積載200tで1500~1700浬を航走した。
 米海軍は1867に石油船実験。
 1907以降建造の米駆逐艦×29は石油専焼。
 BBデラウェア、ノースダコタ、フロリダ、ユタ、ワイオミング(1906これに最初に油焼装置)、アーカンソー、テキサス、ニューヨークは、補助燃料として約400tの石油を搭載し全速航走用に当てる。最新BBネヴァダとオクラホマは石油専焼。罐室の長さが減じ、1本の煙突に集中できた。
 英はWWⅠ初めルーマニア、ロシア油に頼っていたがダーダネルス封鎖されてしまい以後米油に頼った。
 WWⅠ中に給油、工作等の特務艦が著増し艦隊は基地を離れた。戦後も米は給油艦を増やし続けている。
 またキーウェスト、グァンタナモ、パールハーバー、サンディエゴ、メーヤーアイランド、ビューゼットサウンド、セントトマス、マニラ、ボルトン、メルビール、ノーフォーク他に貯油タンクあり。
 英に倣い、また対抗するため、英所有貯油場に頼らず周航できるよう各地タンクを増す計画。
 WWⅠで英破壊隊は毒のルーマニア進駐直前、油田を徹底使用不能にした。
 ラングーンに製油所あり。
 「信濃に於ける油田地は下水内郡浅川村と上水内郡富倉村の地域内にあり」(p.124)。※この長野市郊外の浅川上流の油田跡とやらを無職青年時代にホンダN360(軽で四ドア、しかもオートマチック)で探検してみたことがあるのだが、どうしても発見できなかった。誰か「ここが善光寺裏山の油井跡だ」という地点をご存知の方、周辺地形の分かる写真をご投稿くだされば幸いです。
 北樺太に石油の存在を知ったのは1886ロシア人が自噴を発見したとき(p.128)。※だからテディは早く占領せよと勧告し、ロシアはポーツマスであくまで割譲を拒んだのである。そして日本海軍はまったくその価値に気付かず、山縣が提案した占領作戦への協力を渋っている。
 露は北樺太で1904には大油井にヒットしていた(p.130)。
 日本政府は北樺太の石油の重要性に大3(大隈内閣)頃まで気付かず(pp.132-3)。
 大6、海軍省は台湾油田の試掘を日本石油などに委托した。大9の現在、海軍は台湾油田の試掘に最も期待している。
 政友会は燃料問題調査会を有し、大9、政府に建議するところあり。
 平時日本海軍は年23万トンの重油を使用し、戦時八八フリートを動かすとすれば200万tは要る。また陸軍は平時6万バレルの揮発油を使っているが、戦時は340万バレル要るだろう。ところが国内では200万バレルの原油しか出ないのだ。そのうち1割5分が揮発油に精製されている(pp.179-80)。
 現下、日本の給油船はたった5ハイ(最大は『知床』8000トン)にすぎず、2隻が就役直前。他3隻計画あり。
▼国民対米会 ed.『対米国策論集』大13、読売新聞社
 ネルソン「国防の第一線は敵の海岸に在り」。
 米ではいきなり日本海軍がパナマを攻撃するとの想定演習さかん。南米沿岸を北上してくるアプローチを仮定。
 パナマには複数の島上に12インチ、14インチ砲台がある。16インチも計画中。
 今日の一等BBは1万カイリの航続力をもつ。だから戦闘半径は3000くらいだ。よってグァムか比島の根拠地まで出てくる必要がある。
 ハワイからグァムまで10日かかり、ハワイからマニラまで15日かかる。しかし横須賀からならグァムもフィリピンも4日ですむ。
 ワシントン会議でのグァムの「現状」は6インチ砲台少数。但しマニラには14インチ砲以下、相当あった。
 グァムのアプラにはBB4~6隻しか入れない。それで浚渫工事の予定もあった。
 ニブラック提督がグァム根拠地論者である。
 米は1917より太平洋海軍軍港の設備ならびに築城に4億3000万ドル、1917以前の分(パナマ工事含む)も加えると10億ドル以上かけた。しかも計画では更に1億1800万ドルを太平洋沿岸設備につぎこむ。これは大西洋側の2倍以上。その更に三分の一はハワイに投じられる。
 米の四大軍港とはブゼットサウンド(シスコ)、ブレマートン、ニューヨーク、チェサピーク。
 2大前進根拠地は、パナマ運河、ハワイ。
 他に6つの副小根拠地。サンチァゴ、アラスカ、大西洋側4箇所。
 これまでBB用ドックはプゼットサウンドに2つ、パナマにひとつ、ハワイにひとつしかなかった。この脆弱性を克服するためにパールハーハーバーにドック×3造ろうとしている。工場、貯蔵所各種も加え、浚渫も。パール以外のカネオエ、ヒロ港の副港化も考えている。by川島清治郎。
▼N.Golovin『今日の太平洋問題』大12
 版元の大日本文明協会は大隈の手下下僕の集まりか。
 大12-5-1にシンガポール軍港案が英下院を通過した。
 大軍が遠洋渡海した例は、ボーアの英軍とWWⅠの米のみ。
 軍港が軍艦の扶けになるのは500カイリまで。それ以上だと損傷艦は辿りつけない。
 ドライドックは、佐世保2(浮ドック1建造中)、呉2、舞鶴1、横須賀2のみ。
 要港(陸上砲台なく艦隊が自衛しなければならぬ軍港)は、旅順に2、大連、台湾、澎湖、青島に各1あり。
 台湾および澎湖島の防備は既に尽して至らざる所ないから、五国協約の防備制限は戦略上大なる重要味を有しない(pp.181-2)。
 台湾および澎湖島(馬公島?)は駆逐艦とSub用港のみ。
 日本は小笠原、サイパン、ペルー群島アンガー湾の3ヶ所に要港化工事中。2箇所はドイツの手で工事が進められていた。
▼山村喜晴『食糧とエネルギーと軍事』1986
 「総合安全保障」の造語者は野村総研。1977-12のペーパー「国際環境の変化と日本の対応」で。
 このペーバーは、原子力によるエネルギー安保のため、核拡散防止条約にイニシアチヴとれ、と言っていた(p.81)。※佐藤~田中のNPT路線肯定のヨイショ作文か。
 またこのペーパーは、総合安保を、常に有利なものにのりかえてゆく、かけすて保険に見立てた。
 ※自国内陸部に石油の出る国と出ない国との間では対等の相互依存関係は生じ得ない。ヒトラーにはよく分かっていたことだ。
 「日本記者クラブ会報」のS55-5-10~56-4-10のシリーズ「総合安全保障」I~VIIは中味が濃い。
 桃井は、日本人は弘安の役以来陸上で敵兵と戦ったことがないといっている(p.103)。※下関はどうなる。
 通産省鉱山局の1971定義。資源とは、「再生産が不可能な地下資源」。
 経企庁の1982『2000年の日本』の第一章第一節では、危機発生の予知および防止、危機に対する脆弱性の克服、危機管理の三つを載せる。※「危機への便乗」は抜け落ちている。
 野口雄一郎は『世界』’80-1のマトリックスで、武器援助のオプションを外す。
 山村いわく、石油業界の再編成を行い、産油国精製・輸出時代に備えた産業構造にすることが、中期的なエネルギーの安全保障の上で、もっとも急がれることなのだ(pp.158-9)。
 食糧輸入が完全に途絶えた時の予測自給率は82%である。’80年度の農林水産による石油消費は全需要の6.4%だった。
▼A. Ressin著“Une Campagne sur les cotes du Japon”安藤徳器 tr.S5、原1866
 仏はシナにアフリカ歩兵を投入。
 日本の「馬は装蹄していない。遠乗りなどをする場合には藁の靴をはかせて、その紐を蹄の上端に結び付ける」(p.56)。
 生麦の賠償はメキシコのピアストル貨で行なわれた。11万リーブル。
 仏艦は着発弾を発射。
 群衆は好奇心以外に敵意を有せず(p.92)。
 伝統的破壊消防法はまったく効果がない(pp.199-200)。
 伊藤祐亨談:当時の日本の先込め砲は、5~7min毎に1発。
 毛利家老女より土浦老女へあてた書状:「下の関の道へ何か\/鉄砲にてなく魔法にて音なく火を廻し前田と申す村、……焼打に致し申候。」※コングリーヴ焼夷ロケット弾の発射は鹿児島だけでなかったという証言。
 山縣の書:数時間の後には、我が野戦砲の砲身及び車輪等、悉く破損し復た用を為さゞるに至れり。是れは余りに烈しく速射を為したるが故なり。余は陣営の側に屯せる槍隊をして、急進突貫せしめんと欲し命令を下したるも、隊長林半七は已に重傷を負て退き、其他にも傷者頗る多くして遂に行ふを得ず(於・壇之浦~前田)。


摘録とコメント(※)

▼馮承釣『支那南洋交通史』S15
 明代からさかんに「南洋」と言われる。これはマレー半島、スマトラ以西を称した。そしてインド洋のことを明の初期から「西洋」と言った。
 ビルマまでの交通は、元代にいたるまで、陸路。
 漢代以前の南洋交通の史料は無い。漢書地理志で初見する。
 後漢書天竺伝が、インドへの道の最古史料。陸路が2系統あった。
 AD1世紀に雲南~ビルマ道がひらかれた。仏教はこの前後に入る。
 康秦の書に「七つの帆を張った大船」とみえる。
 夏秋には西南の貿易風、冬春には東北の貿易風が吹く。
 唐代の海上交通は、それ以前に比較すれば盛ん。
 兵員の輸送にしきりに船を使ったのは元代。
 世祖が史弼らに南洋を攻めさせたとき、沿岸住民2万人を兵とし千隻に分乗させ、糧1年分を積んだ。島につくと、木を伐って小舟をつくり、河陸並行進撃で占領地を増やした。
 鄭和の遠征は貢服を求めるもの。服すれば位と金を与えた。服さざれば攻伐した。※マダガスカルまでシナの領土というわけか。
▼『支那水利史』
 1597の朝鮮出兵で、登州から兵糧を船で送り、軍庫に貯蔵した。
 海塘……海のつつみ。干拓すること。
▼G・チャイルド『歴史のあけぼの』
 欧州の新石器時代の村。濠、木柵、塀で囲んでいた。
 肥沃な三日月地帯と命名したのはアメリカの近東学者のブレステッド。
 最古の駄獣は東アフリカ原産のロバで、前3000にエジプトで家畜化。
 AD1000頃、水車が発明されるまで、帆が唯一の動力。
 シュメルは両河による新しい洪積沼地だったので、大収穫が可能だった。また、そのような泥からは、フリント、木、銅などは得られない。だから輸入の要があった。
 ジグラトには穀物倉、仕事場が付設されていた。神殿は、荷車、舟を装備した。
 メソポタミアの都市革命は、ほぼその発端からたどれる。ナイル河谷のは、それが頂点に達したのち、はじめて研究が可能に。
 かわいた砂によく死体が保存された。そこでエジプトに不死信仰が生ずる(p.126)。※まわりまわって、キリスト教とイスラム教の「死者そっくり蘇り」説となる。モーゼはそんなもの信じたか?
 ゲルゼ期の終わりになると、あきらかにペルシャ湾から来たと思われる帆船が、上エジプトまで到達している。ナイルにはパピルス舟しかなかった。
▼西嶋定生『東アジア史における国家と農民』
 中江丑吉が、殷周時代は「邑土国家」だと。必ず丘に建てられたから。
 宮崎市定いわく、春秋時代は古代ギリシャと変わらない城郭国家の対立時代。個々の都市国家間の敵意は激しい。これが戦国期に領土国家になり、秦漢で大帝国に。日本は青銅器時代がほとんどなく、いきなり鉄器技術が入ったために、氏族制からいきなり単一王朝に飛躍し、都市国家段階は生じなかったのだと。※これが唯物史観ってやつですかい?
 松本光雄いわく、諸侯の住む邑が國、その分邑が都で、國・都に支配された現住民の邑が鄙と呼ばれた。國・都に住む支配層が「人」、鄙に住む農奴が「民」。この人民関係はB.C.7世紀の春秋中期から崩壊した。
 ※奴隷獲得→開墾収益最大となる時期の戦争を前提とすれば、『孫子』の「全うする」が上策となるわけ。
 宇都宮清吉は、國、都、鄙が邑と総称されていたから「邑制国家」だと。
 『管子』度地篇:「内は之を城となし、城外は之を郭となす」。構造物そのものには、「城墻」の語を用いた。
 或(コク)をかこむ城壁だから「國」と書くのである。
 戦国時代は、城内を攻撃して「城郭を堕つ」ことが主戦術であったことが『墨子』から分かる。
 北魏軍主力は鮮卑系族人を中核とする騎兵。太祖・大宗期には「歩騎○万」との表現多く、騎兵が多い軍制だった。後、しだいに歩兵の比率が高くなる。
▼田名網宏『古代の交通』
 朝鮮の東沿岸の海流に乗ると山陰に達する。
 日本人が集団で遠方に渡航し得るようになったのは弥生以降。
 負嚢者。ふくろかつぎ。古代の貢納物は布ぶくろに入れて運搬されたのである。運脚とも書いた。
 日本の地形から、道は地勢に規定されており、古い道は後世まで永く不変であった。
 律令を可能にしたものは、駅馬、伝馬、幹線交通路である。
 七道のうち、京←→大宰府間は「大路」。あとの東海や東山は中路、北陸、南海は小路。
 971年の記から、東海道の交通事情が、水路や橋の整備に伴って容易となった、とみられる。
 シナでは唐代に、水駅がおおいに発達し、河(黄河)・江(揚子江)・余水(その他の川)の三系を通じて全国旅行できるようになった(p.78)。
 大化2=646の改心詔によって、関塞・せきそこ が置かる。
 706頃、駅(陸路)が廃れ出し、山陽では海路に重点が移る。
 軽貨物の貢はできるだけ陸路。コメなど重貨物はできるかぎり海路。※繊維製品は海水をかぶるとやたら重くなり難破のおそれがあった。
 雑物租の陸送が一般に駄載化されるのは、寛平ごろ。
 人が担ぐばあい、一人の輸送力は、コメ2斗、30kgである。駄載は、雑物60kg、コメなら90kg可能。つまりコメ100石なら馬は160疋の勘定。これは天平11年の記録でも変わらない。
 894の太政官符。官米は船でもってこい。
 東山道は、征夷の道。これのおかげで陸奥や出羽を結ぶ道も通じた。
 宝亀11年の陸奥遠征は、歩兵騎兵あわせて数万で、農民を漸次北方に移民させて、補給Baseを漸進させるという長期大作戦。延暦の遠征規模は実に数十万。
 馬子は最低でも1疋に1人必要で、できれば2名が望ましかった。
▼『井上光貞著作集 第5巻』
 598に高句麗は万余騎で遼西を寇し、隋文帝は、水陸30万を以て高句麗を攻めた。
 太宗は皇極3~4年、騎士6万を陸路遼東へ、呉艘500、募兵4万人を、海路平壌にむかわせ、高句麗に攻め入る。
 高宗は660年、水陸10万の兵を百済に出兵。
 663、錦江を下った水軍と陸軍が白村江で合流し、倭船1000艘とにらみあう。しかし百済は救われなかった。
▼毛沢東『軍事六篇』上下巻、浅川謙次 tr.1968
 人類の大多数と中国人の大多数がおこなう戦争は、疑いもなく正義の戦争であり、人類を救い、中国を救うこのうえもなく光栄な事業であり、全世界の歴史を新しい時代にうつらせるかけ橋である。
 戦略的勝利が戦術的勝利によって決定されるという意見はあやまっている。
 戦争指揮の要は、溺れないことだ(pp.29-30)。※だから水泳するってか?
 遊撃主義には陥らない。戦略では持久しても戦役は速決する。撃破戦ではなく、殲滅戦にもちこむ。戦略方向は常に一方向だけにする。
 既に持っている陣地を守るに徹すること=保守。
 長勺、昆陽、官渡、赤壁……など多くの古戦で、弱者は先に一歩をゆずり、あとからうって出て勝ったではないか。
 エチオピアも、一歩もひかない作戦を採るべきではなかったのだ。
 防御のときも、陣地戦には拠らない(p.105)。
 孤立していず、しかも十分堅固な陣地をもっている敵はみな戦いにくい。※ディエンビエンフーは孤立していた。
 毛のいう殲滅とは、全体は相手にしない。一ブランチを圧倒多数でとりかこみ、その囲んだ敵だけはひとりのこらず消滅させ捕獲するという意味。※囲軍は必ず欠く、を脱却。
 平綏、平漢、津浦、同蒲、正太、滬杭の各線路沿いに遊撃が行なわれていた。
 各遊撃軍はかならず無線装備せよ。
 根拠地をとろうとしない遊撃は、海賊主義的農民戦争だ(p.161)。
 抗日遊撃戦争の根拠地は、だいたい、山岳地帯、平原地帯および河川・湖沼・港湾・河又地帯(水網地帯)の3つの型を出ない。
 ベルギーくらいの小国には広大な地区がないので、遊撃戦争の可能性は皆無。
 日本の戦争機構は鈍重で、行動は緩慢で、その効果は知れています(下 p.16)。
 抗戦を堅持しさえすれば、かならず、ふるい日本を新しい日本に変え、ふるい中国を新しい中国にかえるであろう。
 レーニンは、戦争とは政治の継続だと言った(p.71)。
 政治綱領を暗唱して民衆に聞かせても、そんな暗唱はだれも聴きはしない。
 「消滅」とは肉体的にではなく、武装や抵抗力のこと(pp.76-7)。
 速決戦をおこなうには、一般には駐止中の敵を打つべきではなくて、運動中の敵を打つべきである。なぜなら運動中の敵は無準備だから。待ち伏せが有利だ。
 絶対的な優勢は、戦争の終局にしか生じない。
 優勢であるが準備がないならば、真の優勢ではなく、また「主動性」もない(1938年「持久戦について」)。※日本の独断専行よりもはるかにマシな訳語だ。
 運用の「妙」を毛は「弾力性」とよぶ。反語は「盲動」。
 「形勢」には、「敵の形勢」「わが方の形勢」「地勢」などが含まれる。
 後退するだけで前進しないのは逃走主義。前進するだけで後退しないのは、体当たり主義。
 日本軍の捕虜はきわめてすくなかった(p.111)。
 「日本軍の士気は動揺をおこしはじめ……突撃の勇気は中国兵よりもはるかにおとってきている」(pp.111-2)。
 世の中には、猫と猫が仲よしになることはあっても、猫とねずみが仲よしになることはない。
 河北省東部、チャハル省北部の占領は戦略偵察で、それに十数個Dを出したが、だめなので30個Dまでつぎつぎと小出しに増兵した。
 徐州作戦だけが集中の成功例。あとは集中もなく協同もない作戦ばかり。
 南京占領後の停頓は、兵力が限界を下回ったため(p.115)。
 「兵隊狩り」が行なわれていた(p.126)。
 「中国は、戦争の後期には陣地戦をおこない、日本の占領地にたいして陣地攻撃をおこなうことができます」(1936、スノウに拡声させた宣伝)→実現せず。
 「国民党が正面の正規戦をうけもち、共産党が敵後方の遊撃戦をうけもつ」(1938、「戦争と戦略の問題」)。
 1946に、すくなくとも3倍、できれば6倍の兵力で、まず敵軍の1個旅団あるいは連隊を包囲殲滅せよ、と言っている。※Korean Warでやったこと。
▼焦敏之 ed.『(レーニン)戦争論』大橋国太郎 tr.1951、原1940
 「社会民主党は、……戦争は不可避であることを知っている。しかしこの搾取を絶滅するためには、われわれは戦争なしにはすまされない」「人民民兵は、防衛戦においても攻撃戦においても、高度の軍事的任務をはたすことができるのである」(1905発言)
 アメリカのWWⅠ参戦は太平洋併合のための対日戦準備で、日米戦は不可避だと1929に言った?(p.163)。
 「これではまるで、本質は誰が最初に開始したかということにあり、戦争の原因は何か、戦争の目的は何か、戦争をしている階級は何かということにはないかのようである」「わが党はトルストイ学説や平和主義を拒否して、社会主義者はこの戦争においてこれをブルジョアジーに反対し社会主義をめざすプロレタリアートの国内戦に転化するよう努力すべきであると回答した」(1916執筆)
▼G・ゴーラー“The Americans ── A study in National Character”星新蔵 tr.1977、原1948ロンドン
 WWII中、米兵は日本兵より自軍将校を憎んだ。
 J・P・モルガンが小びとを膝にのせられ、写真にとられた。尊敬や畏敬を剥奪するために米人がよくやる手。※訪米した昭和天皇もコレに近い奇襲をくらった。
 ニューイングランド風清教主義倫理を全米に広めたのは女教師。男の教師なんて陸軍幼年学校にしかいなかった。
 米人は死に親しめない。映画や小説では一人が死ねばすぐ代役が登場させられる。※「大草原の小さな家」は子役が成長するとその同じキャラクターの子役がすぐに登場した。『魁!! 男塾』で雷電や伊達が何度でも死んで生き返るのはもっと凄いが。
 ひじょうに幼い時から子供は、注意深く敏感な大人の聞き手を前におしゃべりすることになれる(p.89)。
 米の学校ではヨーロッパ史は実際にはまったく教えられていない。
 アメリカがまだ大戦に参加していなかった時、海外へ若者を派兵することに反対の意見が述べられて、軍事上の勝利を得た後はできるだけ短時間に若者を復員させることに賛成の意見が述べられた主な理由の一つは、そうでもしなければ二度と来ない彼らの青春の日々がつまらぬことに少しずつ浪費されてしまうだろうということであった(p.126)。
 WWII参加国で米軍だけがホモを軍隊からしめだした。
 「アメリカの知識人が集った場合、たがいに自分はまったく正常な人間なのだということを騒騒しく証明し合うので、ばくだいな時間が浪費されてしまう」(p.134)。※ERの第一クールの第一回で、グリーン医師がホモではないことを視聴者にできるだけ素早く説明するために、どのような無理なシーンが挿入されていたか、想い起こすこと。
 われわれ外国人は、アメリカ人がまったく無意識のうちで行う関連性のないいろいろな発言や行為を関連性があるかのように考えようとする。
 米人は政治の種々の面が相関関係にあるとは考えていない。
 この国では、材料のあるなしよりも、製作する物の理想像や計画が重要である。
 「アメリカの道徳観に従えば、自分よりも力の弱い者に襲いかかるのはまちがっているが、もし弱者の方から襲いかかってくるとか、挑発にのって攻撃してくるなら、全力をあげてその弱者の攻撃に立ち向うのは悪いこととはされていない」(p.177)。
 Poor という形容詞は嫌われ、Underprivileged(めぐまれないひと)に置換される。
 パール・バックの『大地』が、経済的にのし上がるシナ人を書いたことが、米の対支親近感をつよめた(p.239)。
 米人は自国政府を「彼等」といい、「我々の」とは言わない(p.241)。
 南部には新移民が少ない。それで父親はずっと「模範」であり続けられた。さらにテキサスはCivil Warで北軍が入らず、戦前がそっくり残った。
▼黄昭堂「台湾の民族と国家」(『アジアの民族と国家』所収)
 いわゆる高砂族はマレー・ポリネシア系人。
 オランダが台湾本島の一部を支配し、大陸から漢族系移民を招来するまでは、台湾本島には漢人はおらず、澎湖諸島に数千人いただけだった。
 しかも、華南からの新移民も、風浪の高い台湾海峡による制約の結果として男性が多く、そのため原住民との雑婚が起こった。17世紀頃。
 オランダ、スペイン、鄭氏王朝、清国(1683-1895、オランダからだと270年)、日本(50年間)、中華民国が次々と支配した。
 政治的移民は、1661の鄭成功軍(反清復明)と、1940’sの蒋介石軍関係者の2回のみ。
▼山路一善『禅の応用──日露海戦秘録』S16
 著者は秋山真之と同期の元海軍中将。
 海軍では「イノシエチーブ」と言っていた(序p.2)。
 公案をいろいろ紹介。まさに唐人の寝言。
 筆者はM34~35に英国駐在。
 日露戦に先立って海底ケーブル(釜山~京間の陸線含む)切断し、艦隊動静の通報を遅らせた(p.70)。
 東郷の参謀に水雷科がいなかったので、対策遅れ、初瀬、八島を失った、と(p.91)。
 海軍重砲を陸に用いるヒントは、ボーア戦中のレヂースミスの包囲を破った英海軍重砲隊の記事。12珊、12斤、および15珊。
 秋山真之は、兄のドイツ流の陸戦書をよく読んだ。それで海軍用語にもドイツ語が混入した。特に、海大教官となったために(pp.126-7)。
 舷々相摩す、は、秋山が流行らせた。この秋山の作文は、日清役の島村参謀の報告に対比すると、まったく冗長であった。
 著者はワシントン条約で予備となった。


クッキーoffで書き込めなかったぜ!

 ライターの溝口さんの家族がヤクザに後ろから太腿刺されたって?
 狙った箇所といい、全治2週間の深さといい、最初から「とりあえず襲って、おどかしてやりました」というアリバイ犯行ですね。誰に命じられて気の進まぬ実行にまで追い込まれたのかは知りませんが。
 歌舞伎町でナイフを出して喧嘩する外国人が、よく相手の下半身(尻とか太腿)を横から刺すのだと聞いたことがあります。暗黙のルールというか慣習というか、胴を正面から突いたり腹を横から突いたら、それだけで殺人未遂になっちまいますからね。まあこんな流儀が日本のヤクザに真似られるのも時間の問題だったかしれん。
 ところで全国の護身術関係道場のうち、横から尻を狙ってくるナイフにどう対処するのか、考えているところはどのくらいあるんでしょうか? ほとんどないでしょう。
 攻撃方法も防御方法も、日本人より外国人たちの方が、はるかに真剣に研究を進め、先を行っているという気がします。
 犯罪と社会防衛の関係も、情けないが、また同様です。


テスト。

 とうとうFujiのデジカメ買っただよ。 買っただよ!
 シャッター優先にもできるなんて、凄いだよ。 すごいだよ!
 動画が29分も撮れる。ダブルエイト/シングルエイト時代の3分間を想い出して、泣けるだよ。 泣けるだよ!
 POWERスイッチ投入後、思わずOLDカメラのファインダー覗きの習性で、背面液晶モニター画面に目ん玉くっつけたら何も見えず、恥ずかしいだよ。 恥ずかしいだよ!


訂正。

 「七飯山」ではなくて、地元の方は「七飯岳・ななえだけ」と呼ぶことがあるそうです。聞き間違えました。
 しかし28日のUPかなと思っていたら、20日にUPされていたとは……。素早すぎるぜ!


摘録とコメント(※)

▼ハーバード核研究グループ『核兵器との共存』
 1974フォード大統領がSALT-IIをあきらめたのは、もしソ連と合意が成立すると共和党の大統領候補に指名されないおそれがあったから。
 ダレスは、ソ連の西欧電撃戦だけでなく、他の方角に対する小規模侵略に対しても米国は核兵器を使うかもしれないことを暗にほのめかした。
 1957から62年にかけ、米の戦略兵力の拡張は緩慢。弾頭総計は、55年が2000発、62年で4000発である。
 1960にペンタゴンは初めて、SIOP(統合戦略計画)をつくる。すなわち、ICBM、SLBM、爆撃機の調整攻撃マニュアル。
 インストラクションとストラテジーの違いは、後者は、使わないことも含まれる。
 62年マクナマラのアンアーバー/ミシガン演説でカウンターバリュー(対工業力)の伝統が大転換、以後、米の核攻撃戦略はカウンターフォース(対軍隊)に。※カウンターパワー(対権力)の発想が甘ちゃん夢想家の米人には無かったのが共産主義との戦いでは致命的に不利となった。戦争が政治だと理解していないから、無生物を相手にしようとする。
 1960’s初期、flexible response 戦略が米政府により採用され、67にNATO正式ドクトリンとして承認される。
 1961に米は、政府の意見とは独立の「軍備管理・軍縮局」をつくる。
 ピークの年だった1958には、4日に1回の大気圏内核実験があった。63年、部分核停条約。そこで63にもピーク。爾後、核兵器開発は3年間、停滞する。
 60’s後半、B-47の全部とB-52の半分を退役さす。
 1970’sはランチャーもメガトン数も60’sより減り、命中率指向が明確に。
 キューバ後、ソ連は年率3~4%で国防費を増し、60’s後半に劇的に強化。1966のICBM292基が70年には1300基となり、米を抜いた。SLBMは1974まで抜けず。
 ※質的、つまり核ミサイルの信頼性や確実性や即応力の面ではソ連は米国を抜いたことはなく、じつはベトナム戦争末期でも米国がソ連に核戦争で敗北するおそれはまったくなかった。問題は、MADによる抑止を現実として受け入れるか否かの、精神衛生上の価値判断に尽きていた。これを受け入れない、すなわち、万一抑止が破れたときの米国都市民の被害を限りなくゼロにしようと動いたのが、トライデント+GPSという先制カウンターフォース能力の革命と、レーガン大統領のSDI構想の組み合わせだった。
 60’s後半、ソ連ABM、地下壕、SAMは劇的強化。B-52対策も。国家の「耐核性」を獲得す(p.148)。
 1960’s中頃、マクナマラは、軍事予算シーリングの正当化のため、「確証破壊」なる説明を用いるようになるも、SIOPはカウンヌーフォースのまま。つまり、予算上、十全なるカウンターフォース(第一撃のみによる勝利)を実現できなくなっただけ。
 1930に米が、62にソがスパイ衛星を飛ばす。1969SALT開始、72に妥結。衛星で監視できない戦術核は、交渉対象にならず。
 1970から米によるMIRV化はじまる。ABM突破が目的。70年の4000発が、77年の8500発に著増。60’sは全く数が固定だったのに。
 ソは1970’s中頃からMIRV付き新世代ICBM(SS-17~19)をつくり、弾頭数で77に米を抜く。ただしSLBMのMIRV化は70’s後半までできず、ポセイドンによる米優位をゆるす。※けっきょくSLBMでソ連が米国を脅威することはその後もなかった。
 70’s中頃、バックファイア展開。以後の交渉の争点に。
 1970’s初め、シュレジンジャー国防長官は「限定核オプション」を強調。弱さゆえのエスカレーション理論だった。
 SALT-Iの特徴。ABM、中共の核装備を背景に、ソ連は競争を休む必要を感じた。米は爆撃機を対象外とすることに成功。
 米市民はABMを嫌った(p.155)。
 70’s後半、500基のミニットマンIIのうち300基が、出力2倍、精度向上型に更新。
 1980カーターの「リターゲティング」「相殺戦略」「CキューヴドI」「長期核戦争」ドクトリン。シュレジンジャー案に手を加えたもの。
 B-52は、1956~62年にかけ、対ソ大編隊の戦列に並べ終える。
 1977、SS-20の欧州配備。
 デタントのおわり。1970にソ連はアンゴラへキューバ兵を送り込む。フォードはSALT-IIを一年凍結。78、ソ連はエチオピアへキューバ兵を送り込み、カーターの足をすくう。79-9、キューバ駐留ソ連旅団が問題化、SALT-II調印遅れ、3ヶ月後、アフガン侵攻を見る。
 包括的核実験禁止条約交渉は、1982-7にレーガン政権により正式打ち切り(レーガン戦略は81に示された)。
 1962が米核兵器の出力総計のピークだった。
 ソ連のブラックボックス性は、Bomber、ICBMで劣勢の60’s前半には、幻のギャップを信じさせ、大増強しているさなかの60’s後半は、逆に過小評価をさせた(p.172)。
 1962のICBMの平均出力は、米が1Mt、ソ2Mt。1982ではその四分の一。
 WPの戦術核は、危機の際、ソ連から空輸される(p.208)。
 米は1982には6000の核弾頭を欧州の70箇所に貯蔵しており、危機の際には、それを300箇所に分散する計画(p.258)。
 1960’sのソ連ICBMは、目標の1マイル以内には命中できず、5Mt×4発を以てやっと米サイロ1基を破壊できた(pp.267-8)。
 ※つまり7割以上の確実性で敵目標を攻撃したければ同時に4発を集中せねばならない。数千発の弾頭があっても、じっさいに破壊しつくせる目標数はその四分の一以下でしかない。核大国といえども、カウンターフォースを採用する以上は、核弾頭は決してあり余ってはいないのだ。核兵器はいささかも絶対兵器ではない。石原慎太郎世代にはなかなかこれが分からない。
 1960’s後半、米巡航ミサイルがBMに代替さる。
 ICBMサイロの電源は数日間しかもたない。
 米は交渉を通じてソ連のSLBMに対する依存度を高めさせようとした(p.301)。※GPSとコミでないソ連のSLBMはまったく信頼性がなく、かつ西側の圧倒的な対潜作戦力の前に脆弱。だから米としては都合がよいわけ。げんざいロシアはSLBMを事実上、捨てている。
▼倉田英世『核兵器』
 1956-9仏の原発運開。
 1960-2-13仏の初の原爆はプルトニウム型。
 1963、実用原爆の量産態勢。
 1968-8-24水爆実験成功。
 U-238は高速中性子で核分裂を起こし、U-235は低速中性子で核分裂を起こす。高速中性子の数はたくさん得にくいから、U-235がたくさん必要。
 U-238が低速中性子を吸収するとPu-239に化ける。だから、低濃縮ウラン235を核燃料に、ありふれたU-238を壁材に用いた幼稚な原発→最初のプルトニウム原爆、というのが最も楽なコースになる。
 Pu-239も低速中性子で核分裂する。
 核融合は、DやTなど軽い元素の原子をクーロン斥力に逆らってくっつけるために高熱を必要とすることから「熱核反応」とも呼ばれるわけ。
 Dの生産単価はU-235の三百分の一で、出力は1000倍。
 融合反応で飛び出す中性子は、分裂反応から出る中性子よりも3倍も速い。よって、U-238の分裂や、中性子爆弾に使えるわけである。
 3F水爆は、U-238がLiDより安いので最も安価。
 ガス遠心法は、6弗化して気体化したウランを遠心分離し、軸側に集まる軽いU-235を次々とふるいわけて濃度(純度)を高めていく。これはガス拡散法のような、フルスケールの工場運転は必要としない。少しづつ、こっそりと造ることができる。※だからシナは最初の原爆がウラン式だということを米に対して隠すことができたのである。
 原子炉を数週間だけ運転したところですぐ停止させてU-238を取り出すと、核分裂性のPu-239がいちばん多く手に入る。時間をおくと、分裂しないPuの仲間が増えてしまう。※そこで米国が三菱と日立にライセンスを渡している2系統の商業原発は、炉全体をバラさない限りU-238を取り出せない設計になっている。これだと衛星からの監視が容易である。
 使用済み燃料からPu-239を取り出すことを再処理という。U-235は物理的濃縮(遠心もしくは拡散法)しかできず、面倒なのに比し、Puの取り出しは化学的な溶媒抽出でよいため、簡単。
 Pu-239は70%純度(通常発電所から取れる)でも兵器化はできる。
 Dは天然水を遠心分離して得る。Tは原子炉内でLiに中性子を照射して作り出す。
 放射線は光速である。中性子は、その半分~数百m/secである。
 γ線は高密度物で阻止する。中性子は、水素、炭素など低密度物でよく阻止される。
▼高榎Ibid.
 ローレンス・リバモア研のシミュでは、5~20発の中性子爆弾で、ソ連の1コMDを破壊。旧来核では10~40発要した。中性子爆弾の威力は現在の1Ktが最も良い(p.173)。
 トルコ、英、伊が受け入れたIRBMを、ノルウェーとデンマークは拒否(p.177)。
 ダレスは1957-10に「大量報復」をひっこめ、ペリフェラルな限定核戦(キシンジャーに沿うもの)に傾く。
▼ゴールドシュミット『核開発をめぐる国際競争』
 米国が、イランやトルコに対するソ連の進出の意図を未然に封ずることができたのは、核の独占のため。
 ネヴァダ核実験は1951から。はじめは戦術核のために新設された。※満州の中共軍をやっつけるための小型弾頭が多数必要になった。それがたちまち完成したので毛沢東も戦争を諦めた。
 1953にカナダで新ウラン鉱脈が発見され、ベルギー領コンゴ(1960閉鎖)やカナダの初期ウラン山(いずれも寿命尽きかけ)に代わった。
 1950年以来、米英は5000万ポンドを南アに投資してウラン採鉱を振興した。1958~60の最盛期には、年間に投資額に等しい売り上げ。これはgold収益の四分の一に相当した。
 ベルギーから昔買ってあったウラン10トンと、ノルウェーから供給された重水、数トンで、フランス最初の3基の実験重水炉ができた(p.153)。
 英仏採用の天然ウラン型動力炉は、プルトニウム生産炉から発達したものである。
 他方、米ソの濃縮ウラン型動力炉は、原潜エンジンから発達した。
 トリウムは、インド、ブラジル、マダガスカルに豊富にある。
 1957-12-16、スプートニク打ち上げ後の初のNATO首脳会議(於パリ)で、米国は、ミサイル発射基地の設置を受諾する同盟国に対しては、核爆弾を米国の管理の下に置く中距離弾道弾の供与を提案した(p.202)。
 英国が戦時中に支出した資金は、20億ドルに及ぶ米国の投資の約百分の一に過ぎなかった(p.74)。
 日本政府から在モスクワ大使館あての電報の件は、ポツダム会談が始まる前に、ワシントンには知られていた。この電報の内容は……天皇制の維持に対する保証を正式に宣言することによって……日本を即時降伏させることができると……数ヵ月来説得に努めていた国務省の一部の説の正しさを裏付けるものであった(p.94)。
 1944年、ボストンのある地質学の教授が、20年も昔の南アフリカの文献中に、トランスヴァールの金鉱石の中にウラニウムの存在を示すものがあることに気がつき……その結果、幾つかの鉱物標本は、微量のウラニウムを含有していることが発見された(p.119)。
 戦後、たいした費用をかけないでウラニウムと金を同時に分離する新しい化学的処理法が完成するに及んで、この発見はさらに重要性を帯びたのである。
 プルトニウム生産炉で1947年、照射により黒鉛が老化し、機械的なひずみが生じたので修理したが、1948まで正常運転できなかった(pp.119-20)。※チェルノブイリもこれが疑われた。
 カナダは、ウラニウムや、重水炉の使用済燃料棒を米国の再処理工場におくって抽出されたプルトニウムを米国に売却し、米国の核軍備に直接貢献する立場にある(p.121)。
▼ヴァルター・マルムステン・シェリング『戦争哲学』S17、原1939
 ※モラルを道徳と訳しているので話がおかしいところがある。またruleを何でも「法則」と訳しているのではないかと疑われる節もある。
 カントは「判断力批判」第28章で、戦争は一民族の考え方を高める、と。
 ヘーゲルは戦争についてはただ「法律哲学」324節で触れたのみ。
 カルル・リンネバッハ:「我々は一つの命題に対して反対の命題──然もそれは別な箇所で言われている場合が多い──を探し出す時にのみ、クラウゼヴィッツを理解することが出来る」(第14版索引の序文)。
 シャルンホルストはシュタインの社会改革をプロシア軍制改革のベースと見た(p.303)。
 デルブリュックは『戦術の歴史』の中で、14世紀はじめの火器が騎士をおわらせたのではなく、15世紀末の農民槍兵こそがその原因と主張。
 ゼークトは少数精兵主義。そして、同じ立場の「イギリスの軍事著述家」がある、と(p.315)。
 デルブリュックは、クセルクセスは百万の兵など率いてなかった、と疑う(p.358)。※明治期の日本の参本が編んだ日本古代~近世の戦史が非実証的な出来なのに比し、その手本とされたデルブリュックの欧州古代戦史は、このような疑問のオンパレードである。ただし、現代の常識から過去を安易に断定するというトルストイ氏流だが……。
 pp.407-12、435-6、445-6、465-6が、国会図書館の本では欠損。※おそらく共産主義等に関する陸軍省の検閲の結果。
▼『入営者必携 模範兵講習録 第4号』日本国防協会、S5
 陣地戦で突撃すると景色が同じなので必ず迷子になる。WWⅠでは磁石が必携だった。そこで俘虜が多かったのは欧州兵が弱いわけではない。
 空砲にモノを装填して発したもの→陸軍刑法の「違令の罪」。
 陸軍懲罰令。「免官は其官を免じて一等卒となし、降等は一階級を下す」。
 重営倉は、まともな飯と寝具が三日に一度。軽営倉はそうではない。
 教化卒は、兵器はもたせられず、外出もできない。
 諸令。特別大演習はD対抗。特種演習は、特別陣地攻防演習が主。
 金鵄勲章は軍人のみ。
▼滝沢正勝 ed.『入営準備 模範兵講習録』第2号、S5
 朝鮮、台湾、関東軍の三司令官は、天皇に直隷している。
 「陸軍教化隊」は姫路10Dの管轄。
 冬は6:30AM、夏は5:00AM起床。
 三八式歩兵銃の表尺鈑は400~2400米。
 軽機は左上方にタマが偏り易い(p.66)。※11年式のこと。
 ひとさし指をゆるめると、LMGは故障おこす。
 肉眼でパイロットの帽子が見えたら、高度200m。
 「間の外」から撃突する剣術。
 騎兵の「なみあし」は100m/分、伸暢駈歩[しんちょうかけあし]は420m/分。それ以上を襲歩という。
 日露役の沙河会戦で滝原三郎少将は、砲は前進するより長射程であることが有利だと痛感した。
 太田道灌は、浜辺の千鳥の鳴き声が次第に遠くなるのを聞いて潮の干いたのを察知した。陣中勤務では次のことを心得よ。
 埃の低く濃く起きているのは歩兵前進。
 埃の高く薄く起きているのは騎兵前進。
 埃の高く濃く断絶するのは砲兵前進。
 虫の声やんだら潜行兵。
 敵国住民が傲慢で勢い込んでいるのは近くに大敵兵あり。逆ならば敵兵少なし。
 飛行機工場勤務兵は自由が多く、安全なので、だらける。
 騎兵砲兵用の馬ははじめから軍馬補充部で育てたものだが、輜重の馬は壮馬を購買するので、御し難い。
▼大井成元・口述『メッケル将軍の思出』S14-5月、軍事史学会
 桂はパリに自費留学しようと出かけたが、ドイツが包囲中のため、ベルリン留学に変更した。
 大山は同じ船でフランスに調査派遣させられたが、両軍の士官を見比べて、仏側が恥なくたるんでいるのをみて独に傾いた。
 陸大以外の要職者も参謀旅行に参加させた。
 将来の独仏戦について、M26頃メッケルは、プロイセン陸大教頭として次のように講義した。とかく指揮官は敵の築城に吸引されがちだが、それは少数で監視せしめ、主力はパリを目指すべきである、と。それでそのための陣地線一点突破がさかんに研究された(pp.34-5)。
 「要するに将来の戦術は機動にあり」(p.35)。
▼嘉納吉彦『日本航空燃料史』1956
 ※資料として一級である。
 S6の上海事変では、30%混合することにされていたベンゾールがストックなく、海軍機は苦しんだ。
 そこで代りに四エチル鉛を使用開始。ベンゾール同様、これもS7に米から輸入。 
 S7に海軍は佐世保、横須賀にベンゾール貯槽を急増設。※まだ霞ヶ浦にしか航空機がない頃。
 初のオクタン価測定機材も米よりS8に輸入。
 当時、米の最高オクタンは87だった。
 北樺太オハ原油は、潜水艦用の重油にはなったが、航空用には年間1200キロリッターしかならぬことが分かった(p.14)。
 しかし中支渡洋中攻用にはオハ加鉛(74→92オクタン)使用オイルも特製。当時、米は100を輸出中。
 水噴射はアンチノック剤代わりに使える。重クロム酸カリ0.3%混入で防錆完璧となり、メタノール50%混合で不凍となる。噴射は高ブースト時のみ、燃料よりやや少ない量、行なう。
 この装置のために噴射式気筒をS18から造らねばならなかった。
 S19には全エンジンの三分の一が噴射式となる。
 燃焼のend-gasをかきまわす等して冷却すれば、「機械的に」オクタン価を高めることができる。
 揮発油の燃焼には3.5倍の酸素を要するが、アルコールは2倍強で済む。酸素消費量あたりの発熱量は、アルコールが上なのだ(p.123)。
▼白樺会『北樺太に石油を求めて』S58
 大15~S18まで、ピーク時には内地と同量、31万トン/年の原油を海軍に納入した。しかし大14で自主採油はなくなった。
 油田はロシア人が自噴しているのを早々と発見しており、1885にはその開発を考えていた。
 ちなみに千島・樺太交換条約は1875である。
 日本が北樺太に油田があるという事実を承知したのは、迂闊千万にも1905に陸海軍が北樺太を占領した際のこと。英ではとうからこの油田に注目していた。※テディが樺太占領を日本に勧めた理由も、とうぜん、これであったろう。
 ニコライエフスクの騒ぎの波は北樺太にも及んだ。日本の会社は一時全員、南に避難した(p.10)。
 利権回復後、ソ連はこの油をすべて極東で消費したようだ。
▼榎本隆一郎『回想八十年』S51、原書房
 米と違い採油量の少ない日本では航空ガソリンは分溜だけでは量があつまらず、イソオクタン(メタン原料の航空燃料)の合成をしなければならなかった(p.135)。
 水からガソリンをつくる怪人のエピソード(pp.136-7)。
 関東軍は満州事変後のS7年6月頃、燃料(石炭・石油)、鉄鉱石、アルミニウム原鉱石の三部門の調査を企画した。
 石油は内蒙ジャライノールがかねてから有望とれさていた。※だから田中隆吉?
 満州での試掘は失敗。石炭と油頁岩のみ有望と判断された(p.142)。
 ※じつは北支~満州の油田はシナ人とアメリカの石油会社が合同で綿密な調査をすすめており、石油がどこにたくさん出るかもほぼ判明したのだが、それを日本に知られればすぐに占領されてしまうので、シナ大陸に石油はまったく出ないという偽情報を広めて、米資本は一時撤退したのである。これを日本の敗戦後に中共が占領する。
▼成田精太『ソ連國力の解剖』S24
 モスクワ炭田の1940採炭実績は1300万トンだが工業用に不適。
 WWII中にモスクワから210工場を移転した。
 戦時中に沿ヴォルガ工業地帯が台頭。ウラル=沿ボルガ油田の1938生産高は130万トン。戦中に500万トンに達したかも。1941末クィブィシェフ遷都。
 ウラルでWWII中に全武器の4割を造った。
 コーカサス油田は1945に1100万トンと産油半減。1937には2100万トン。
 グローズヌイ&マイコップ油田は、占領、破壊、移転で壊滅。
 WWII初期ドイツの石油消費量は1000万トンで、ソ連よりずっと少なかった。
 ウラルの軍需生産はWWII中に6.6倍に。
 WWII英米の対独空爆は1500km以上飛ぶことはなく、1200~1300kmだった。
 ミンスク=バラノウィチ鉄道は最もパルチザンにやられた。ヴァルダイ高地からレニークラヴィッツじゃなかったレニングラド辺の湿地と、ピンスク~キエフ湿地は、春季泥濘化し、大軍移動困難。
 6-22は東部の雪溶けすぎの最大限早い時期。ヒトラーの侵攻開始予定日。
 例年ソ連工業は1~3月に鉄道フリクションのため生産下落、4~6月に回復する。
 1940のイラン縦貫鉄道は、バンダル・シャプール~テヘラン~バンダル・シャー(カスピ沿港)まで1394km単線で、機関車×109両、貨車×1350両だった。トルコからも単線。
 ヴォズネセンスキーによると、戦時、春蒔の労量へらすため秋蒔作物が増加された。
 戦中、英は在外資産売って財政賄ったが、ソ連にはシナ朝鮮の鉄路と東欧にしか在外資産なし。
 1939、人口密度はウクライナが一番高い。
 医員は1940でも76%が女。42年は83%だった。
 戦後ドンバス炭鉱の復興に7年かかった。食糧作物に変えてしまった綿畑復旧も困難。
 WWIIウラルでは兵器に必要な圧延鋼に傾斜。
 帝政時代、火力発電は液体燃料とドンバス炭使用。
 1937ごろ100気圧ボイラー設置。
 1949末のTD54型ディーゼルトラクター以前のトラクターの大部分は石油(ガソリン?軽油?灯油?)で、これを重油(軽油?)に替えて30%燃料節約と。
 ソ連では軍人の衣食は軍事費ではなく個人消費に勘定(p.309)。
 兵器バイヤーは政府なので価格を上げずに、経営を補助金で維持させる方針が、1949からはメーカー採算を強化する方向に変わり、兵器が値上がりした。1949-3-10ズヴェーレフ財務相。
 1948末までの兵器買い付け値は1939のまんま。1946末に軍人サラリー上げる。


摘録とコメント

▼『都市不燃化運動史』
 1657、明暦振袖火事後、植溜(緑樹帯)をおき、神社仏閣を郊外に移した。耐火都市計画。
 享保以降、町火消が町方、定火消が武家地、大名火消が江戸城を担当。
 特定地域では三年以内の土蔵造り化を命ず。
 失火後のコンクリートはアルカリを失い、中~酸性化して鉄筋を錆びさす。
▼本田喜久夫『戦争と音楽』S18
 WWII中のレコード各社の廃盤指導(pp.278-80)。
 星条旗よ永遠なれ、ワシントンポストは廃盤。蛍の光、庭の千草(ラストローズオブサマスー)は残る(pp.281-2)。
 カイゼルは無類の軍楽家。
 ビスマルクとワグナーは同世代人。
▼立花次郎『戦争と交通』S18
 S17頃に内容の無い本が多く出たのは、国民のインフレ気味の財布を狙った(p.151)。
 S17頃、少数の在独日本人がソ連経由で帰朝。
 戦争中も日本では温泉旅行が盛ん(p.155)。
 大間から鹿児島まで2200kmの「新幹線」構想あり。
 WWII中、独の大型船はバルチック海のみ立ち寄り、英国対岸は避けた。
 独は日本内地の5倍の鉄道密度を誇る。
 ベルリン=ウクライナ間200km余の複々線計画あり。
 ソ連はボルガの水運が×になるや、中央アジア鉄道を通じて単線5000kmに年間1500万t余の石油迂廻輸送を敢行した。50t油槽車を50両牽引する大貨物列車が延々5000kmの線路に間断なく走る。
 貨車はどうしても深夜に操車場に集まり、しかも照明もせざるを得ないため、空襲の好目標になる。
 ドイツは戦争中は“闇”食料がなくなる国だ(p.149)。※大嘘。
▼M・シャクリー『古代社会を復元する』
 archaeological visibility=考古学的な発見され易さ。 
 マヤの運河は、物資の建設資材を運ぶためのハイウエー。
 豹の骨と人骨が一箇所に出た。これはむしろヒト科が捕食されていたのである(p.42)。
 1930’s、二人の極地探検家が、1年間、肉食だけで生き延びられることを実証した。※植村も実践した生肉食だろう。エスキモーに倣ったもの。
 ローマ兵は実は多量の肉を摂っていた(p.118)。
 14世紀、小麦が主食となる迄は、ライ麦の麦角中毒多し。
 レプラと結核は免疫が互換的に働く(p.139)。
 ドニェープル近辺のマンモス狩猟民は、ネアンデルタールより人口密度高かった。
 10~15世紀ノブゴロドのコーデュロイ式街路。全長にわたって丸太を横に敷き並べる。起原はB.C.4000にまで溯る(於・オランダと西イングランド)。
 斧で伐ると木の端繊維を押しつぶすので腐るのが遅くなる。
 松と菩提樹は保存されやすく、オークは保存されない。
▼西川吉光『現代安全保障政策論』
 ラテン語se-cura「ある状態から自由になる」→security
 Wolfersは1962に、不安の不在が安全保障だとした。それは他者をコントロールする力でもある。
 包囲恐怖症=シージメンタリティ。
 レイモン・アロンはビアードやH・モーゲンソーに逆らって「国益」の存在を否定する。ちなみに「我が国には永久的な敵味方はいない。永久の利益のみ」と言ったのはパーマストン。
 公共善 Public good の達成について、プラトンは高学歴少数者統治によれ、といい、アリストテレスは、少数意見も保護した多数人民の合議でこそ、といった。
 フィレンツェのロレンツォ・ディ・メジチはベネチアに対抗してミラノ、ナポリと同盟を結び「勢力均衡政策の父」と呼ばれる。
 16世紀にはロアン、18世紀にはフェヌロン、バッテルが勢力均衡を説く。
 AJPテイラー「大国の勢力均衡は小国の利益」。
 スイスはWWII中、ドイツに大量輸出(p.80)。
 WWⅠ中、連合軍はドイツに6559万枚の宣伝ビラを撒いた(p.116)。
 ブートゥールは人口の増大を戦争原因とみる。
▼ジョン・オルセン『ウェストポイント物語』
 ウェストポイントの新入生には次の四語しか許されない。「Yes, sir」「No, sir」「I don’t know, sir」「No excuse, sir」。
 アナポリスは眼鏡者は採らない。水かぶると何も見えないので(p.62)。※これは戦前江田島も同じだったが、今はどうだか……。 
 ウェストポイントの外語は、ドイツ語(p.92)。
 レスリング、ボクシングなど各種スポーツを3ヶ月交替でひととおり習得。
 学科の「軍事科学」では、地図解読法などを。
 サバイバルスイミング。作業服2ポンド、ブーツ8ポンド、背嚢2ポンド、煉瓦10ポンド、M-14=11ポンド、計33ポンドを身につけ、深さ15ftのプールを75ft、銃を濡らさずに泳ぎ渡る。
 コロラドスプリングス(空軍士官学校)とアナポリスでは、もみあげや口髭の規制がなくなっている(p.254)。
▼陸海軍人民委員部『1929制定 赤軍偽装教令』陸軍航空本部&樋山光四郎tr. S8
 第十一:「積極的の偽装とは一定の計画の下に敵をして連続せる観念を辿り遂に我が企望する如き誤りたる判断に陥らしむるに在り 換言すれば偽装は一般の戦術上の方針に依り常に一貫せる主義の下に行われざるべからず 単に個々の目標を隠匿し或は偽工事を為すのみを以ては偽装と称するを得ず」
 第七十一:「規則正しき輪郭を有するもの、規則正しきか或は対称的配置を有する物体は飛行機に依り発見せらる」
 第百十七:「敵の空中偵察に対する偽装作業を為すに方りては開始前及作業中時々該地方の空中写真を撮映し且つ偽装専門家をして飛行機より肉眼を以て点検せしむるを可とす」
 第四百二十六:「作業を秘匿するには材料の運搬及配置を蔭蔽し夜間、濃霧時を選び遮蔽位置或は特に設けたる掩蓋下に於て作業を実施し且 偽装軍紀を厳守するを要す」
 ※キューバの核弾頭が全部発見されなかったのは当然だ。というか、そもそもバレたのが異常。部下軍人たちがフルシチョフに反発して臍を曲げたのだろう。
▼フラー『制限戦争指導論』
 1915初期、西部アルトア・ルースでは、砲兵の射撃によって敵の第一線壕を占領できた。ナポレオンも、戦争は砲兵の運用次第と言っている(pp.245-6)。
 補給車の推進は砲撃の弾孔のため困難で、歩兵に追随できず。※平時にいくら道路網が整備されていても、有事となればこうなる。
 イペリット系黄十字(マスタード)は致死性でなく、暴露後4~12時間で火傷発生(pp.257-8)。
 ※戦後の別資料で補う。マスタードの効果は、最短でも4時間たたないと出ない。そして目は数カ月ダメになる。イペリットは白血球すら壊すが、同時に、抗ガン剤としての用途も発見されている。WWIの毒ガスには、鳥が最も弱く、ネズミすら死に、馬もやられるが、犬は平気であった。塩素ガスはすごい濃度で、小火器などは錆びて動かなくなった。だからマグネシウムが良いのか?
 1918-3~4月、アラス=ラフェール間に独軍がガス攻勢。アルマンティエールス(仏白国境の町)はマスタードガス充満し、住民は下水道づたいに逃げた。
 WWⅠ中の米軍損害258338人中、70752人がガス。つまり27.4%だ。しかし全損害中46419が死亡であり、うちガスによるものは1400人だから、ガスによる戦死比率は2%だった。
 フラーいわく、WWⅠに使用された最も人道的兵器はガスだった。
 ナポレオンは、ロシア農奴、ウクライナ人、100日天下中の仏に対しても、まったく宣伝は慎んだ。
 ビスマルクも1871パリ革命政府を決して支援しなかった。
 ドイツの残虐を宣伝した詳細なリストは、“Falsehood in War Time”by Arthur Ponsonby, 1936を読め。
 ドイツにはWWⅠ中、宣伝省がなかった。
 1917末、ボルシェビキの宣伝はその全力をもってドイツ軍隊に向けられた。
 ブレスト・リトウスクの独ソ和平条約で、ロシアは人口の26%、農地の27%、石炭の四分の三を失った。
 1920のソ=ポ戦争で、もしトハチェフスキーが勝っていたらドイツは占領され、ベルサイユ体制は吹っ飛び、世界共産革命戦争に発展していた(pp.290-1)。
 革命後、労働者は働かなくなった。それで農民も交換したいものがなくなり、食い扶持分しか耕作しなくなった。これが1920の飢餓の因だと。→NEPの必然。
 レーニンはクラウゼヴィッツについて「その基本的思想は現在では、あらゆる思索家の反駁を許す余地を残さないものとなっている」と。
 レーニン時代には、ボルシェビキ党の多くがユダヤ人であった(p.346)。
 フラーは目撃した。戦車が軍の指揮頭脳をパニックに陥れた。このパニックを起してやれる兵種が他にあるならば、それでも良いのだ。
 フラーはダリウスに対するアレクサンドロスの直接アプローチがペルシャ軍崩壊に結びついた、と見る(p.361)。
 フラーの戦車による攻撃目標は、あくまで各級司令部で、そこに向け不意に驀進させるべし、と。
 1939の独陸軍の優位は数的なもので、質的優位ではなかった(p.363)。
 WWII開戦時の仏兵力は独の半分しかなく、マジノ防御は致し方なかった。
 質・量ともに勝っていた仏戦車がベルギー国境に集められていたら……(p.365)。
 トハチェフスキーは1937-5にフラーに反発。戦車部隊に対しても砲兵の支援は必要だと。
 資質を有する司令官は、善悪いずれのニュースに接しようと興奮したり驚嘆しない。資質のない人は、自らの体質から、ありもしない状況をつくりあげてしまう。──ナポレオン。
 1940-5-18、チャーチルは「共産主義者とファシストを抑留すべきである」と軍に訓令、裁判もなしに、ドイツ系ユダヤ人など多数がアスコットなどで抑留された(pp.388-9)。※マン島にも収容所ができた筈。
 1940の独軍の対仏電撃戦中、独のラジオ局はフランス語放送を間断なく行い、民衆パニックを演出した。
 ライトリンゲルいわく、もしドイツ人が、1918のウィルソン14条のようなものをもってロシアに侵攻していたら、ロシアはちょうどドイツが14条で分裂したと同じようになったに違いない。
 チャーチルにとって対ソ援助、対独非妥協は、自分の生涯を単純化するためでしかなかった(p.396)。※フラーはファシズム運動家。
 1940-9-3いらい、英爆撃機隊は国防省直轄とされ、チャーチルの私有部隊となった(pp.420-1)。※これをマネしたのがFDRの原爆運用。
▼ハンス・モーゲンソー『国際政治学』第3版・第8章「国力の本質」
 インドは石炭と鉄の宝庫としてアメリカとソ連の次にくる。
 1939にはわずか300万、総人口の1%以下のインド人が工業に就業していた。
 大きな人口がないと近代戦に必要な工業設備を建設したり動かせない。
 米人口は、1824からの自由移民、とりわけ1874~1924の移民に負う。
 WWⅠ直前、独は、ロシアの人口増はこのままでは我に不利と判断した(pp.167-8)。
 1870には独も仏も米人口より多し。しかし1940の米人口は1億(?)、仏独計は3100万。
 19世紀末、大英帝国は40000万人、つまり世界人口の四分の一。1946には55000万人、うちインドが41000万。インドを失えば、英も終わる。
▼増田抱村『国家と人口学説』S17
 英は中世では仏と同じ農業国。穀類を輸出し、人口は仏より少。19世紀に至り、工業発展し、食糧輸入で仏の食糧輸入額を凌駕。
 15~18世紀中葉は、ドイツ人(中心はシュワーベンやバイエルンの高地族)が最も増えた。ギボンの説明によると、ラテン民族より遅れて文明開化したので性的に堕落しておらず婦女をあくまで家庭内にとどめて増殖力を高く保ったからだと。
 東独移民とともにペストが流行し、15世紀以前の300年は人口は微増。
 1500生まれのフォン・ヴェルトは、ゲルマンとはゲルミノ(盛んに繁殖する)が語源だと主張。
 百年戦争で農村が掠奪されると流民が都市に殺到し開戦9年後から都市型疫病が蔓延。 ここから大復興したルイ14世の大臣コルベールが、人口は国力の手段であり、また国政の目標も要するに人口を増やすことだと言ったのはけだしなりゆき。
 マキャベリは、スパルタやアテネの衰退は人口制限にあるとした。スパルタは遺産を均等配分していた。ローマ人はギリシャ人と違い、人口が増加しても国内は乱れないと考えた。
 ※戦時中のコンセンサス。人口制限は個人のためにはなる。が、国家のために悪い。
▼美濃口時次郎『人口政策』S19
 モンテスキューが総括する。プラトンとアリストテレスは人口の増加を恐れ、その抑制を主張したと。
 それは少数の自由民が多数の奴隷を支配するための結論だと。
 ※戦死の可能性と飢え死にの可能性に直面した人にとって、後者がはるかに深刻である。
▼北岡寿逸『人口政策』S18
 明治には「人口問題」はなかった。
 大正に「過剰論」が生じた。
 コメの生産性が人口増に追及せず、輸入の必要があった。大正の米騒動。
 日本では支那事変を境に、それまでの人口過剰論が、「生めよ殖えよ」に転じた(p.58)。
 スペングラーは仏人口減少の理由のひとつに、15歳以下の児童の労働機会が減ったことを挙げる。加えて、教育の必要。
▼フォン・ボグラウスキー『古今戦法』伊藤芳松 tr. M34
 著者は独中佐。訳版元の兵事雑誌社はM29-3に雑誌創刊。
 独傭兵の銃兵は槍集団と組んだ。敵騎兵襲撃に対しては槍の後端を地に依托し、蝟集した。
 「クローゼウ井ッツ」に言及。
 ナポレオン時代は敵に300歩まで近づいて放列。
 普仏戦では400~500歩距離の歩兵損害が最大。これは密集過度のため。
 「独断専決」と訳している(p.232)。
 独実験によると400m以上の小銃射撃は無効。
 最新火器の決勝距離は250~400mだ。
▼中央経済法研究会・森敦三 ed.『敵産管理の理論と実際』S18
 S16-12-22に成立した敵産管理法の解説。
 ※要するに米国特許(の国内独占使用権)を強制的に公共化してしまう法律。ちなみに三菱商事などはスイス等を経由して対米戦中もパテント料などを払い続けていたことを戦後に誰かが書いていた。
 工業所有権戦時法ニ依ル専用免許申請ノ却下(S17-8-21、いずれも陸軍大臣が申請却下した)。
 特許No.77723・石炭、石油或ハ炭化水素化合物ニ水素ヲ添加シ圧力及熱ヲ加ヘテ之ヲ分解スル方法。
 No.97560・炭素質材料ヨリ有価生成物ヲ製造スル方法。
 No.97637・鉱油ノ精製法。
 No.104540・内燃機関用高空調整装置ニ関スル改良。
 No.107815・可調正「ピッチプロペラ」。
 No.117202・空気入リ「タイヤー」ノ内管。
 No.124287・石油炭化水素分裂法ノ改良。
 No.125870・液体混合物殊ニ炭化水素液体混合物ノ分離法。
 No.142640・高「アンチノック」原動機用燃料炭化水素ノ製造法。これは日窒がテキサコから買っていた特許である。
 ……他に、飛行機ノ尾輪、内燃機関用燃料ニ関スル改良、発動機燃料、分解蒸留物ヨリ得ラルル常時液体ヲナス炭化水素蒸留物ノ精製方法、などなど。
▼産軍複合体研究会『アメリカの核軍拡と産軍複合体』1988
 G・ライマンの『ヒトラーの特許戦略』によれば、スタンダード会社はファルベンに人石の特許を売り、WWII中も料金を受け取っていたという。
 WWIIで使われた燃料の6割は石炭。4割が石油。
 これが朝鮮戦争では逆転し、石油6割となる。
 ベトナムの米軍は100%石油だけ。
▼池崎忠孝『太平洋戦略論』S7
 ※三冊の単行本と幾つかの論文を合冊したもの。
 カトーはしつこく唱えた。“Delenda est Carthago”カルタゴは滅ぼされねばならぬ、と。
 思ふに、我国が封鎖されて一個月も立たない間に、主として木造建築から出来てゐる我国の首要都市は、殆んど灰燼に帰して終ふでありませう(p.32)。
 石油がいよいよ足りなくなったら、シベリア鉄道でロシアの石油を買えばよい(p.166)。※この石原莞爾の受け売りが、満州事変後の提案たり得るのか?
 米人は日本海軍の七割主張を an Incantation(無意味なおまじない)と呼んでいた(p.365)。
▼石井洋『日本国防の地政学』S55
 バイカル以東のソ連石油需要は1000万t/年。それに対してサハリン原油は250万t/年。よって西方からの鉄道貨物の3割が原油となる。コムソモリスクとハバロフスクに精油工場がある。
 1941-8-5に日本政府が対ソ中立条約遵守を声明するとスターリンはバム用レールを西シベリアからウラルの武器工場に送った(p.29)。※Really?
 ムルマンスク~喜望峰~ウラジオストックで15600マイル。スエズ通れば12000マイル。北米経由なら5700マイル。
 日本の1935と37の原油と重油の対米依存実績。67%(231万キロリットル)と74%(353万キロリットル)。
▼ブルース・A・ボルト『地下核実験探知』
 1945-6-16のニューメキシコのトリニティ原爆は1万9300tのTNT相当。
 地震波記録では、電光形の上向きに針がブレている軌跡が、地盤の圧縮を示している。
 シナの核開発担当官、銭三強は、パリのジョリオ・キュリー研究所からソルボンヌに進んで1943卒。WWIIで仏にとどまるあいだ、仏の地下運動を通じ、モスクワに成果を渡した。戦後のソ連の対中共核開発支援は、そのときの働きに対するお返しだった、と銭は言う(p.14)。
 ソ連援助でシナは重水炉を1960-6に臨界させた。そしてガス遠心分離で濃縮したウラン235により、1964-10-16、バクハツ。
 インド初原爆は10~15キロトンだった。
 ジェット気流は、通常の15倍も強い音圧で、50km以遠によく音を伝える。
 半減期の2倍の時間では、放射能は最初の四分の一になる。ゼロにはならぬ。
 ストロンチウム90の半減期は28年。セシウム137は30年。プルトニウム239は24300年。この半減期の長さが金属としての加工をゆるす。ウラニウム238は4.5×「10の9乗」年。
 煉瓦造の家に住む人は、木造の家に住む人より、多量の自然放射能を受けている。
 ふつうの水素の原子核は、陽子が1箇だけ。
 「陽子1箇+中性子1箇」は重水素。Dとも略記。これは自然界に5000分の1存在する。1kg分離するのに、100ドルかかる。
 「陽子1個+中性子2箇」は三重水素。Tとも略記。ふつうは核爆発(特に核融合)でつくられる。不安定な放射性で半減12年。Tは常温では気体のため、乾式水爆では6リチウム化重水素として原爆の周りを囲ませる。また「装置水爆」とは、DやTを液体で使ったもので、それゆえに湿式とも言う。
 1929春に米人がサイクロトロンを発明した。※爆縮式原爆に必要な、多数の爆薬を精密に同時一斉に電気点火する回路装置のことは「クライトロン」という。
 無用に飛び散る中性子の方が多い状態を、亜臨界という。
 プルトニウム239を使ったガン・バレル・タイプも可能である(p.51)。
 きたない水爆10個は、原爆1万発分のフォールアウトを生ず。
 500グラムのDの融合は、yieldにしてTNT26キロトンに相当する。
 湿った土の方が、地震効率はよい。水中なら、もっとよい。
 2トンの硝安発破は、400km先の地震計にもわかる。
 火山灰の塵が大気をまわると、夕陽が真っ赤になる。
 1350年に銃砲推薬として使われていた火薬が、採鉱に応用され出すのに、更に300年かかった。
 地下実験は、径2m、長さ1000mの孔。爆弾は鋼容器入り。電線を引いて、埋め戻す。
 表土が下底岩盤から切り離されることを spallingという。
 上昇表土の再落下衝撃を slapdownという。
 衛星でチムニー陥没をみつけられぬようしたければ、特に軟層土のところでは深掘りの要あり。
 液体中はS波は伝わらない。
 5kmより深い核実験は経済的に不可能(p.100)。
 102頁の断層崖の写真を見よ。Great wall は自然物がヒントだったのだ。
 普通の地震では、観測点によってP波の初動方向が異なる。が、核実験ではそれがすべて上向きとなる。震源の4方位からの観測記録を照合しさえすれば、核実験と確定される。
 空気が薄いと宇宙放射線の害を受ける。アンデスのインディオはリマ市民の10倍被曝しているのだ。
 ストロンチウムはカルシウムと同族金属なので、骨中に蓄積され易いわけ。
 アーネスト・ローレンスらは、1957にアイクに対し、ABMの無フォールアウト可能性を報告。
 1972時点で米で最も深い油井は8km。
 大空洞内で爆発させると地震は三百分の一になる。これをデカップリングという。
 1963-6フルシチョフの東ベルリン演説で、ソ連は現地査察は拒否するが、大気圏内・宇宙空間・水中の核実験停止条約は締結してもよい、と。それまでは全面核停以外は認めていなかった。
 1959-6提出のバークナー報告により、米国防省は、ソ連をとりまく国々に10地点ほどの地震観測点を置く。
 1974ジスカール・デスタンは太平洋実験を地下化すると述べ、1975-6-5のムルロワ実験は地下になった。
 スウェーデンはかつて地震の被害を受けたことがない国だが、1930’sから地震観測を開始。1000km離れたノバヤゼムリヤその他のソ連実験を記録し続けている。
 ツンドラや結氷海岸の地中ノイズは小さいので、観測所に適している(p.219)。
 径わずか17.5cmのボーリング孔にも入る小型地震計ができた。
 1971に於ける西側の探知能力は、最小20Ktまで。
 20Kt爆発は、300m厚の沖積層で完全に封じ込められる。
 ソ連はTNT5キロトン相当の化学爆発「メデオ」をやったことがある(p.259)。
 NSAは日本、トルコ、印パに於いて新疆の秒よみを聴いている。
 部分核停条約後も米はクレータ実験行なう。1968に三回。
 核爆発により陥没したチムニーの放射能は比較的低い。
 核クレーター利用貯水湖のソ連での実例(p.287)。
 5メガトン弾頭のABM爆発はかなりの広い空間をX線で飽和させ、進入ミサイルの電子回路を妨害する。
 1974(?)に南ア原子力評議会のスポークスマンは、南アの核技術はインドより進んでいる、と明らかにした(p.368)。
▼“The effects of atomic weapons”『原子兵器の効果』武谷三男・他 tr.科学新興社1951pub.原1950マグロウヒル。
 ※同じ本を主婦之友社も『原子爆弾の効果』と題して、篠原健一、石川、山口に訳させてS26に出している。主婦之友社版は485頁、科学新興社版は536頁。印刷技術に歴然とした差がある。なお国会図書館蔵の科学振興社版には例によって往時のミリタリーフリーライターによると思われる犯罪的な切り抜きがある。それは巡洋艦『酒匂』がビキニ実験で大破している写真の載っている頁の前後である。
 放射能は光輝が収まった後、生ずる。
 火球は、密度が小さいので上昇する。
 広島、長崎の例では、高度が2000ftで、フォールアウトに帰せられる被害者は全く存在しなかった(p.44)。
 ピーク過圧は、爆発出力を「三分の一乗」した数で距離を割った数値に、単純比例する。
 20キロトン爆弾が、距離2500で、ある被圧値(1平方インチあたりにかかるプレッシャー)を生じたとするならば、30キロトン爆弾は、同じ被圧値を、距離2860において示すことになるわけである。
 ※つまり小型の核爆弾を大都市の細かなグリッドに1発づつ、計数百発も落としてやるような絨毯核攻撃でも加えない限り、ひとつの大都市の地下構造が全滅することはない。
 圧力と距離との関係は、地上爆発の場合は、同じ量の空中爆発の場合の距離に、「2と1/3」をかけたものと同じ。
 高度が高くなると、地上爆発よりも、最大で「2と1/3」、ふつうは「2と1/2」倍に威力が増す。これは、反射波の効果が加わるため。
 ※つまり対都市の毀害面積を極大にせんとして最適な起爆高度をプログラムすれば、こんどは直下の地下構造に対する破壊力がトレードオフされてしまう。このように、核は「絶対兵器」からは程遠い。長崎と広島の被害は、両都市があまりに可燃であり過ぎたことによったのであり、これはドイツと日本に対する連合軍の通常爆弾空襲の投下爆弾量と、それによって地上で発生している死者の数値を並べてみたら、一目瞭然だ。
 ビキニ実験で発生した波頭の最高は20ft。
 重骨組+鉄筋コンクリートは最強で、レンガ造りは弱かった。煙突構造は、背圧が均しくなるので、おどろくほど強い。広島では鉄筋煙突は残った。木の電柱は折れた。
 大型核爆弾のピーク圧を考えると、その空中爆発の被害面積は、放出エネルギーが2倍になると、1.6倍(2の「2/3」乗)になる。
 小型核爆弾の力積を計算すると、エネルギーが2倍になれば、被害半径は1.6倍になるから、被害面積では2.5倍になる。
 20キロトンで完全破壊される地表域は、半径0.5マイル内である。
 丘陵の影になったためまったく無被害だった長崎の住宅地の写真(p.163)。
 18インチの土と木で造った半地下壕は、爆心から距離900フィートでも残り、1/2マイル以遠では、全無被害であった(p.189)。
 吃水30ftの主力艦に対しては水中1/4マイルで起こった核爆発が最も有効である。※艦底を破損し、浸水せしめる。
 潜航中のsubは、距離2700ftでの水中核爆発で仕留められるだろう。
 商船は3000ftでも損傷。軍艦は2000ftで。
 衝撃波面は輻射を発することができない。吸収もできない。よって火球を囲む。
 赤外線は起爆から0.3~3秒後に出るので、閃光を見てすぐテイクカバーすれば火傷を防ぐことができる。
 中性子を、火球をみてから避けることは不可能。
 遅い中性子は、よっぱらい歩きのように到達するから、壁のうしろに隠れただけでは防げない。遅い中性子の方が、高速中性子よりも5倍も致死的。また、速い中性子の放出量は、ごくわずか。
 長崎のグラウンドゼロで、生き残った山腹坑の写真(p.458)。


摘録とコメント。

▼Ernesto Massi・他『アメリカ地政治学』S16、原1941
 ※海大の蔵書印あり、そしてパナマ運河のイラストには「封鎖線」を朱ペンで書き込んである。翻訳の早さといい、もうマジですね。
 1914までの南米は単純に植民地で、その都市は、輸出のための交通基地に過ぎず。
 南米内の国家間紛争は「大洋への共通の出入口をどちらがとるか」
 1936に英はマヤ連峰の山麓(グアテマラ、ホンデュラス)に、独・墺・チェコの亡命者たちの植民地を定めんとした(p.184)。
 ホンヂュラスの河川による国内交通は、多くUnited Fruit Companyによって管理されている。
 1920頃、サウスジョージア島付近で年平均1万頭の鯨を捕った(p.191)。
 1940頃のフォークランド守備英兵は200名。
▼京大文学部西洋史研究室 ed.『傭兵制度の歴史的研究』1955
 スイス応募兵は飢餓線をさまよっていた貧民たち。
 英の対植民地革命鎮圧の要訣は、ニューイングランドを制するハドソン河の確保と目された(p.473)。
▼Joseph Marz『海洋地政治学』S16、原1937
 ※著者ヨーゼフ・メルツは独人也。
 アングロ・イラン会社の石油産出量は、1931に6300000tで世界の3.3%、1932に7000000tで世界の3.8%、1933に7100000tで世界の3.4%だった。
 当時、直接にイギリスの勢力下にあったのは、イラン、ビルマ、イラクの一部の油田。 大英帝国の横軸、すなわち英←→シンガポールに沿って油田がある。 
 東アフリカ領有に際して英はザンジバルの保護を重要視し、1890ドイツはそれを諦める代わりにドイツ寄りの北海河口に突出したヘルゴーランド島を交換物として領有した。しかしWWⅠ後、要塞は壊された。
 1939刊の「海軍評論」p.409に、海軍の保護による南方石油地域への進出を、海軍大臣が意見している。
 1937英人はカナダ人の35倍額を納税している。アンザックの3倍でもある(p.77)。
 英の地中海進出は、ミノルカ、エルバ、カプリ、コルシカ、ダルマチア沿岸諸島、イオニア諸島などの島嶼の占領によった。
 フリードリッヒ・リスト(1789-1846)は、香港占領前に「イギリスにとりアフリカは、インド、シナ、オーストラリアへの商業路としてのみ価値がある」「経済学は国家の特色に従って異り、時間的制約の下に立つ」と。
 1937のイタリーとフランスの潜水艦数は11+7隻で、英は15隻(p.155)。。
▼C・B・フォーセット『政治地理境界論』S7、原1921、Oxford刊
 ボーダーラインではなく、帯としての Frontier line を説く。
 ライン地方で話されるドイツ語は内部ドイツのそれよりも語尾の変化に注意しない。
 「マーク」。中欧原始林中の部落を囲繞する非居住広野で、よそ者がここを通過するときは、指定通路を守るか、自己の存在をあからさまに表わさなければ危害を加えられた。奇襲防止用の慣習。※「ディマーケイション」という映画があったな。たしか邦題は「戦争のはらわた」?
 ナポレオンいわく、仏帝国の辺境障害で、エジプト=シリア砂漠が最大であり、アルプスがそれに次ぎ、河川は第三位だと。※攻める立場? 守る立場?
 1890’sまでサハラを超えた軍隊はない(p.42)。
 アルプスの不均等な起伏は、イタリア側からの侵入を難しくし、南独側からの侵入をたやすくする。しかもイタリア側へは必ず分進合撃となる。
 山地は統一的言語を有するのが普通なのに、山頂を以て二国間境界としてしまうから、少数言語問題が起こる。
▼戦略問題研究会 ed.『戦後世界軍事資料・3』
 1950頃までは核兵器は米原子力委員会と軍の共同管理だった。トルーマン以後、軍の専管となった。迅速使用のため。
 1972春、南越軍の独力と北越軍は実力均衡していた。1973-1の停戦協定へ。
 第四次中東戦争で米はイスラエルに8000トン空輸、蘇はアラブ側に13000トン空輸+海上α
 1973にF・Ikleは論文にて、地下数千フィートから数週間かかって地上に出る戦略報復兵器を提案。同論文はまた「時間こそ、錯誤に対する最良の薬」と。※地下軍隊が忘れ去られて……というマンガはここからか。
 G・Santayanaの名言。狂信者は、彼等の目標を見失ったとき、彼等の努力をさらに倍加する。
 マイケル・ハワード1973論文。「核のクレディビリティを発揮するには、その地域への通常戦力投下のクレディビリティが先立たねばならない」。※日本がシナの攻撃を受けた場合も同じこと。軍艦で反撃できぬ国がどうして核兵器で反撃できようか。
 ハワードまたいわく、「欧州に強力な通常兵力を置きさえすればソ連は核を使えない」。※さすが英人でよくわかっている。全西欧を占領できるからこそ核を先制使用する価値がソ連にはあったので、占領という政治目的が防者の通常兵器によって実現できないと分かっていたら核だけ発射しても危険・高価・不利なだけである。
 ※もしもソ連が米国と同じ島国だったなら、とっくに核ロケット戦争は起こっていた。核破壊をうければ周りからどっと攻め込まれる立場であるがゆえに、ソ連は慎重であった。
 A・Wohlstetterの1973論文。通常と大量核の中間──戦術核──の段階があるから、そこで終結のチャンスが生まれる。
 H・P・Truemanの1971論文。機甲部隊は現在、1日に50ないし100キロのスピードで前進する。
 1970にニクソン政権が基地内で化学処理の上、廃棄を決めたB兵器は、アーカンソー州パインブラフ(対人用)、コロラド、メリーランド、カリフォルニアの三箇所(対農作物用)に貯蔵されていた。
 韓国は1970をもって号令と動作を米軍式から国風に変える。71年にM-16のライセンスを取得。
 1966後半より、ソ連はモンゴル内にロケット陣地をつくる。※マジでシナをやるつもりだった。
 対シナ作戦用の機甲主力はモンゴル北のザバイカル管区に集めている。
 1973当時、シナの40隻のディーゼルsubは黄海から南支那海の間を浮上せず潜航(p.146)。
 72頃の北ベトナムの保有トラックは2万前後。ソ連からは年8000台の援助があり、中共からは年2000台の供給があった。
 北ベトナムへの石油はシナからパイプラインで毎日1000トン送られていた。
 71年に米軍は6.7トンの「コマンド・ボルト」をC-130から投下し、一挙にヘリパッドを啓開した。
 破壊再生森林にはダニ、ネズミが増えるので、生物兵器の効果も倍加される。
 1973-11-2ワシントンポストはソ連がSCUDをエジプトに送ったと。
▼『戦後世界軍事資料・4』
 現代は「決戦のない長期闘争」なので、クラウゼヴィッツの「彼我双方が決戦を求めない場合の戦場防御」が適合する。
 攻者は、「決戦にならぬよう、できるだけ広い地域を占領せよ」「敵の有力な倉庫を占領せよ」「防者が守っていない要塞をとれ」「有利な小戦闘を求めよ」。※いまシナがやっているのはコレ。
 防者は「要塞の前面に兵力を配せ」「戦線を延ばして防衛せよ」「敵の側面を脅かす配置を」「不利な戦闘を回避せよ」。※つまり早く下地島に空自を置けってこった。
 SIPRIのTsipisによる方程式。イールドの「三分の二乗」を、CEPの二乗で割れば、ハード目標キル能力(K)は算出される。
 リッチェルソン1980論文は、ICBMでソ連の政治指導者を殺すと、残った軍人では戦争を終わらせられない、そこで対西欧侵攻力を狙え、と提唱。
 1974に米はギリシャ国内にオネストジョンの核弾頭部をもつ数個の基地をもっていた。
 韓国がF-16を希望しているとの報道がされたのは、1976-12のNYT。
 1981-11-10のロストウ(レーガン政権)によるガイドライン。ソ連のSS-20に対抗し、シナおよび日本への戦域核配備を考慮する。※これに乗ろうという日本の評論家がいたわけ。
 1982-2-7のFY83国防報告 by ワインバーガー。ソ連を極東に分散させるためシナを準同盟国扱いとし、補給支援したい。※これも日本が頼りなかったため。
 B-52、B-1に空対艦ミサイルを搭載して海軍に協力せんとしていた。
 83年、リビアに抗しているチャドへも米はレッドアイを供与した。※スティンガーの一代前のタイプ。
 1983に未発表に終わった西独国防白書は、ソ連の軍事力は米が言うほど大きくない、と指摘していた。※偵察衛星がなくともこれだけの判断ができた。それに比べて北鮮が核武装していると何の根拠もなく信じている日本の言論人ときたら……。
 1981に全大統領は戦闘機の国産を予告した。
 1983、政府は緊迫時の米軍による3-Straights の封鎖を考慮すると発表。※米軍は自前で三海峡くらい封鎖できるのであった。そしてレベルの低い日本のマスコミでそれを解説したところは一つもなかった。
▼フェルヂナン・フォッシュ『戦争論──戦争の原則とその指導』S13
 原1903、その第51版が1918だが、初版と1904版からの抄訳。
 日露戦争は、欧州にとり戦訓たり得ない(p.10)。
 火器の数で上回れば、攻者はそれだけで優位である。※マスケット時代の考え方。
 古いローマの格言「同時に二つの戦争は決して行ってはならない」(p.34)。
 モルトケ「敵主力との第一回遭遇までしか、作戦計画は立たない」「最初の集中に当たって犯した過誤は、戦役間には訂正し難い」。
 モルトケ「敗退した一軍が新たな軍の来着によって前方に推進された例しがない」(p.101)。※まさに赤軍の流儀がこれであった。突破に成功しているスピアヘッドに対して全予備を送り込む。悪戦停滞している部隊へは増援をしない。
 クセノフォン「兵術とは行動の自由を確保するの術」。
 フォン・デル・ゴルツ「敵の戦闘員を殲滅するは敵の勇気を皆無ならしむるに比してその価値が少ない」。
 陸大は“Ecole de Guerre”也。
▼フラー『制限戦争指導論』
 30年戦争(1618-1648)では、軍人35万人、民間人800万人死亡。
 1805ションブルーンでナポレオンはメッテルニヒに言う。自分は1ヵ月30000人を損耗しても構わないと。徴兵制のおかげで。
 「将帥は状況図を描いてみるようではだめだ。つまり将帥の聡明されは望遠鏡のレンズのようにすみきった状態にあるべきだ」/ナポレオン。
 奈翁いわく「大隊長は全将兵の名と能力を6ヶ月で覚えるまで休息するな」(p.57)。※今日ほとんどの軍隊でこれは実行されている。
 N.B.いわく「自分が3~4ヵ月先に何をすべきか考え抜くことになれる」
 セバストポリで使用考慮され、斥けられたのは、硫黄を使った「焼夷窒息弾」。
 南北戦争の動員。北は289万8304名。南は122万7890~140万6180名だった(p.148)。※黒人従兵をどうカウントしているのか?
 小銃射程が大砲射程を上回った南北戦争で、正面攻撃はすべて失敗した。1862-12-13フレドリックスバーグでは北軍バーンサイドが、1863-7-3ゲティスバーグではリーが、1864-6-3コールドハーバーではグラントが、いずれも撃退されている。
 南北戦争は本格的塹壕戦で、シャーマンすら築城をさせ乍らアトランタへ進軍したのである(p.149)。
 シャーマンの副官は、シャーマンを「民主主義者で少しもヨーロッパ的なところがない」と。
 露土戦争では、塹壕にいる小銃手の防御力は絶大だった(p.176)。
▼総力戦研究所『長期戦研究(1)』上・下 S20
 モルトケ「等しいものを加える時には等しい」。
 戦争回避の努力をしていた国が戦争を避けられなくなったとき、明確な指導理念を用意していた実例はない。
 国産愛用は戦争準備のインディケーターである。
 WWⅠ準備において、独は国境中心の交通網、露は都市中心主義の通路を整備したため、動員に大差が出た。
 文禄慶長役の水軍も陸に従わされて負けた(p.40)。
 長期戦の過程における占領地の拡大は必ずしも戦捷の象徴ではない(p.51)。
 WWⅠで独は農民問題を扱い損ねて失敗。ヒトラーはそこで「農民と土地」を訴えた。※WWⅠの食糧危機の想い出がウクライナにこだわらせたのだろう。またペテルスブルグを餓死させられると信じたのだろう。
 英海軍はその実戦重視の伝統から参謀将校の出現を喜ばなかったが、チャーチルの技術的見解により海軍参謀部が設けられる。
 WWⅠ前半に独艦が英本土を砲撃している。そのごはZeppelinに代わる。
 独はWWⅠ当時から、ルーマニア石油、ウクライナ農産をはじめ、東部を自給のための掠奪地としていた。ポーランド人の動員も。
 WWⅠ中の独の対内宣伝は、初期はロシアに、後期は英に敵愾心を指向せしめた。
 コンボイ式は一青年士官の建言で、ロイドジョージが採用。前海相チャーチルは商船員にその伎倆なしとして反対。
 英ではある作戦が失敗すると関係閣僚が辞職する。ダーダネルスのときはチャーチル。メソポタミアのときはチェンバレン。
 フレンチは新聞を利用して本国にタマ不足を訴えることに成功した(p.429)。
 英上流階級は、秋口から春までの9ヶ月間を田舎で狩猟と乗馬についやし、5月にロンドンに集まって社交を愉しんだ。しかし徴募あれば長男以下全男子を捧げた(pp.435-6)。
 ヴィタミンはWWⅠ直前の発見(下巻p.5)。
 末期ドイツは砒素生産が落ちてガス戦を続けられなくなった。
 火砲の音源探知機は英仏共同開発である。
 開戦前の独仏英の重機は2184/1872/158梃という比。休戦時には15700/12200/5500梃に増えていた。
 WWⅠの撃墜の六分の一は地上火器による。
 ガス死傷者は、英187000人、米76000人、仏244000人。
 当時、ノーベル賞数でみると、独は化学、英は物理で勝っている。
 戦争初期には「誰が始めたか」論、後期には目的論が活気を帯びた。※前者をレーニンが批判する。
 初戦で上下あげて最も熱狂的だったのはロシア(p.35)。
 プロイセンでは官僚(含・軍人)の上層は、貴族が占有するので、田舎人は政界に入るしかなく、政府と議会はソリが合わない。
 ルーデンドルフはカトリックをユダヤと並列に悪罵す。
 ロイドジョージは大陸指揮権をFoshに一任。
 「14ヶ条」はむしろ英宣伝機関により世界に広報された(p.66)。
 独露が10.5cm砲や10cm砲をそろえているとき、仏は7.5cmばかりだった。
 仏は防諜強化の一環に前内相マルビーを漏洩の罪で2年島流し。
 労働力不足をおぎなうために仏は5000人のシナ人まで雇っている(p.109)。※この延長で周恩来とトウショウヘイが渡欧してアカに染まることに。
 ロシアは東には食糧余り、西の戦線と都市部では不足した。運べず。食糧を輸送優先の末位としていた。※だから国内が混乱するたびに鉄道が止まって大量の餓死者がすぐに出る。
 仏の自動車は戦中に急発達。馬がとられたことと、米からの石油援助。
 ロシアはWWⅠ中にウォッカなど酒類の販売を禁じた。
▼長谷川重治『科学捜査』04
 死体は地上に置いておくと最も早く白骨化する。
 水中はその二倍、土中は八倍かかる。
 タイヤにふみにじられてできる、皮膚と肉とのスキマを「デコルマン」という。
 22口径のピストルの弾すら、1.6kmも飛ぶ。
 銃器の刻印を削っても、ひずみを電気的に浮かび上がらせることができる。
▼塩原俊彦『ロシアの軍需産業』2003
 2003のイラク戦争でM1×2をやっつけたのはロシアの「コルネット」ATMか?
 これはニューズウィークの報道で、ウクライナからの密輸であるという。
 ソ連時代、労働者の所得税率は最大で13パーセントに抑えられていた。消費財の小売価格を高めにしておき、その売り上げに対する取引税が高かったので。
 なにより、国家が生産企業から買い上げる価格を低くし、それを国民に売りつける価格を高くし、さらに賃金を低くしていたことが、ソ連政府の最大の「税収」だった。
 ソ連は90年には戦略ミサイルを年産190基であったが、94年には25基に落ち込む。
 戦闘機は、500機以上つくれたものが、93~94の二年間でわずか23機。
 92~99に国内向けに製造された戦車は31両のみ。これもソ連時代には年産1300両可能だった。
 ソ連時代の韓国に対する債務を、ロシアはT-80Uで支払った。
 ソ連時代は軍用主義で、トラックは4~5トン積みが8割だった。それで空のトラックをやたらに走らせる不経済だった。
 そこでGAZ=ゴーリキー自動車工場 は、小型トラックを生産し、大成功。
 戦車生産のメッカは、ウラル車両工場。
 ガンベッタのシシリアマフィアの定義は、警備という安全保障サービス供給に特化した会社の一群で、問題解決に暴力を使用する組織。
 これがそっくりロシアにある。
 過度の自由化を推進するIMFや米国の背後には、自由化で得をする投資家、会計・法律コンサルタントが存在する。
 会計監査をする者がコンサルタントをしてよいわけがない。エンロン。ワールドコム。
 ロシアの輸出での稼ぎ頭は、航空機。武器関連の75%を占める。
 それも、ほとんどはシナとインド向け。
 90~99年に打ち上げられた人工衛星。米542、露CISが510、欧州109、日本37。
 ロシアの投資環境整備状況は、シナの半分の水準でしかない。
▼2003-2 土屋龍司 tr.、David Chuter『国防の変容と軍隊の管理』原2000-8
 ソ連軍の大弱点は有能な下士官皆無で、その仕事をすべて将校がしたこと。
 フランシス・フクヤマの「信頼の高い社会」は個人の利益より全体を考えるようになる。「信頼の低い社会」は個人、家族の私益を優先すると。
 チューターいわく、何世紀も前に、人はカネよりも、同僚の称賛をえることのためにはるかに一生懸命働くことを学んでいる。
 将校には過酷な任務になったときに辞めることができるような契約条項はない。
 法に反する命令はそれじたい無効である。サウジ国内法により米軍は女性兵士をドライバーにできなかった。
 支持されない命令は、書類がなくなる、約束が守られない、会議が行なわれないなどして、決して実行されない。
 この著書では大佐以上の将校について考える。
 軍人食堂を民間に運営させるときっと汚職が起きる。だから将校食堂は兵隊にやらせるのがよい。
 戦争論のうち著者が生前全面改訂できたのはBook-1だけ。だからそこだけを完全なクラウゼヴィッツの論としてとりあげた方がよい。
 クラウゼヴィッツの時代は侵略戦争は国家の権利だった。
 アメリカの高級行政官は政治任命であり己の次のキャリアアップに興味が強い。だから国際会議で一時的な妥協ができにくい。
 conpetence は権限と直訳されるが、意訳すると タテ割りの権限のこと。英語にはなじんでいない概念だ。
 「組織図」は何も説明しない。それは最も重大なことを隠している。かかれざる網(ウェブ)が決定を機能させているのだ。
 「ある国の自由や独自性は、その国の指導者集団の精神の中に存在する」※よって団塊世代は排除さるべし。
 韓国軍はオーストラリア軍より強大だが、独自の指揮権を有しない。海外派兵も一存で決められない。
 情報は「収集」され「分析」され「活用」されねばならない。
 昔の英語でintelligenceは「ニュース」の意味だったが、今ではespionageと同義である。
 ただし英語ではintelligenceとinformationが明瞭に分離される。仏独語では分離されない。
 「赤ファイル効果」…表紙が赤ければたいへんな情報が書かれていると思い込んでしまうこと。
 「情報は単一の機関が作成するものであってはならない」p.84
 ただし大臣に二途から情報判断が届けられるべきではない。
 そこで、各情報機関と省庁を横断した情報分析委員会が、内閣総理大臣のオフィスに直属すべきである。
 歴史上の情報の大失敗。そこでは、真に情報が不足していたことはあまりない。たいていの失敗は、分析過程でなされたのだ。多くは人々の先入観や既知情報が邪魔をした。 p.85
 「情報資料の要旨がより広範囲に配布されることによって、議論がより促進される」※つまり隠しすぎは安全・安価・有利でない。
 フランスでは軍だけが情報を収集している。
 世論の支持を考慮するのがpoliticalであり、指導者が国際問題を考えるのがpolicyである。p.89
 日露戦争ではサンクトペテルブルクの誰も、戦線で起きていることを知らなかった。指揮官と国家指導部が通信を頻繁に交わせるようになったのはWWIから。
 1859のイタリアでの殺戮が1864に国際赤十字をつくらせた。
 73年のイスラエルの油断は、元兵士が政治家になっている国ではときどきある。
 PKFなどで海外に出ている自軍の戦車部隊がもしゲリラと交戦して数発発砲しただけで戦場を撤退したら、何もしなかったより悪い政治的結果を呼ぶ。
 ジュネーブ条約や国際条約に違反した政府命令を拒否する義務を将兵は有する。p.99
 投降した軍人の逃亡を防ぐための武力の使用は、たとえそれが死に至るものであっても許容される。p.99
 傭兵、狙撃兵、火炎放射兵、降伏が遅すぎた兵は、しばしば降伏後でも処刑されてきた。
 軍の構成を決定するどのような科学的方法も発見されたことはない。p.100
 国防予算は近年ではGNPの2~3%が相場である。
 国の予算支出可能性を決定するどのような方法も存在しない。p.101
 軍隊というものは、会計係をよろこばすような雇用と解雇の制度によっては維持できない。
 近代的な航空機は、用途廃止まで使うと、調達価格の3から4倍の経費がかかるものである。p.103 ※つまり古いものは早く捨てろ。
 通常削減されるものは、削減が望ましいものというよりもむしろ可能なもの。
 防衛政策と軍の編制は同じ人物が考えて決めないとまずい。p.106
 近世以前の王国の軍隊は、奴隷、犯罪者、外国人傭兵から成っていた。
 ほとんどの戦争において、一般ピープルは政府によって採られる最も過酷な手段を支持し、時にはそれ以上のことを要求する。p.113
 若い軍人に老練な法倫理学者の役を期待するのは間違いである。軍人の倫理逸脱はまず国家の制度によって防止されねばならない。
 軍の管理地の環境保護が先進国では大きな課題のひとつになっている。
 軍は最も広い意味における社会の代表であるべし。
 軍隊は、世論が行ないたいが自分たちでは行ないたくないことを行なう。つまり社会の集約的なid、無我意識である。
 暴力、支配、絶滅の恐怖と同時に嫌悪するものへの攻撃、規律が想像されている。
 一般ピープルの軍隊イメージと実像とはどの国でも何の接点もない。特に志願制の国では。
 「全ての者を納得させることを期待するな」p.117
 説明を受けるグループの全てを歓ばせることは不可能である。
 政策の最後の全てのニュアンスを説明しようとする努力は、無駄な努力である。
 反対世論は誰も事実は求めていない。政府の方針が自分の考えと異なる場合に、政府が嘘をいっているとか間違っていると言うのみ。
 政府発表情報は無視されるか拒否される。なぜならそれは批判する者の偏見と仮定に合致しないからである。
 キャンペーン団体の目的は自己宣伝であり、彼らの運動に沿わない情報をけなすことに利益を見出している。
 政府が対話をしてよいのは、「価値ある対話者」のみ。まずそうであるか否かを見分けなさい。
 その条件の一つとして、彼らが出す提案が常に実行可能であるかどうか。
 より広範に説明することを、公共の利益と取り違えるべきではない。
 p.121 「民主主義は、人々が好きではなく投票しなかった政府と協力する用意があるがゆえに機能しているにすぎない。」
 議会が議会であるがゆえに倫理的に優位であることはない。そのような仮定を認めるな。
 委員会の投票は英国でも現金入りの茶封筒が左右している。
 売国的、十字軍気取りのグループによって政府に透明性が押し付けられるのを拒否せよ。
 日本以外の先進国では議員に政府の秘密を共有させることが可能である。なぜなら人は部内者であることを部外者であることより喜ぶ。
 ※日本ではすべて漏れるので不可能。スパイ防止法がない。
 満足しないことが反体制運動家の拠って立つところである。
▼秋山昌廣『日米の戦略対話が始まった』2002-7
 ※1940生まれ。大蔵から奈良県警本部長、などを経て、91に防衛審議官。97事務次官。98-11退官。防衛局長時代に防衛大綱、事務次官で新ガイドラインをつくる。
 1993における西廣(すでに退官)の意見を聞いた。要旨は……
・21世紀はシナが政治、社会、経済、軍事あらゆる脅威になる。
・21世紀の途中までは米国との同盟が有効だ。
・冷戦はおわったが同盟の未解決部分をなんとかしとかないと有事に対応できん。
・陸海空自は無駄があり他方で必要なことが未整備なので構造改革がいる。
・陸自は定員を減らすしかない。定員割れで通常訓練にも支障が出ている。18万定員は11万に落として良いだろう。
・海自の掃海部隊は規模でかすぎる。P3Cはいくらなんでも100機は要らぬ。50機で十分だ。
・空自レーダーサイトが古すぎ。
・DIAの日本版をつくる必要がある。
 ナイは日本の弁護人である。80年代にボーゲルから学び、経済ライバルを政治ライバルと混同するなとの視点に立つ。
 1995までにこう決めた。陸自は18万から16万に減らす。代わりに即応予備自衛官制度を創る。陸だけ減らす説得は不可能なので海と空も少し減らす。
 つまり海自は60隻を50隻に。
 空自は戦闘機350を300機に。これは書面にせず、口頭で3幕に了解させた。
 法制局は、日本国憲法ではなく「平和憲法」と書け、と要求してくる。それは昭和60年ころから内閣が防衛庁がらみの文書ではそのように書いてきたから。
 しかし最終文書では「日本国憲法」で押し切った。これは橋本と尾辻の手柄である。
 平沢勝栄は防衛審議官だった。
 宮沢は長期プランを考える頭があった。シナの脅威が分かっており、長期的にシナに対して防衛力が弱まってはいけないと信じていた。
 基盤的防衛力とは、日本が空白となってアジアに不安定を招いてはいけないという意味だった。
 旧防衛大綱は、防衛力は無限に増やしませんという上限設定にしか意味はなかった。
 基盤的防衛力構想では、敵は3~4個Dで日本の1~2箇所に上陸してくるのみという阿呆な想定であった。
 新大綱では、「限定小規模侵略独力対処」というコンセプトを外した。
 小侵略でも日米が最初から協力するのは確実である。他方、独立国である以上、自主防衛の精神を失ったらいかんとの批判あって、こたえた。
 中共政府は、日本政府が文書化したもので一喜一憂する。なにより文書の国。※日本=法匪と思っている?
 米韓は合同軍であり、平時には韓国人が、しかし有事には米軍人が指揮をとる。
 が、日米はそれぞれ独立で、共同軍なのである。
 新大綱でも、「我が国に対する侵略の未然防止に努める」としながら「現実に存在する核兵器の脅威に対しては、米国の核抑止力に依存する」と大矛盾。
 中共側役人は会見冒頭で必ず歴史問題を触れてきた。一律なので、党中央の指示と見えた。
 日韓の雪解けは防衛当局同士が最も早かった。
 アセアンフォーラムでの紛争予防外交にはシナがリラクタントで、かかる問題は2国間で解決すればよいと。
 新大綱の師団は6000~9000人、旅団は2000~4000である。
 戦車は旧大綱では1200両定数だったのを600両にする。火砲も1000門を900門に。
 1個護衛艦隊は、対潜中枢DDH×1、防空中枢DDG×2、汎用護衛艦DD×5の計8隻からなる。
 この隊を4つ維持することで、修理中、低練度、高練度、のローテーションとなり、常に最低1個の艦隊を機動的に派遣できる。
 それとは別に、7個の沿岸張り付き隊がある。
 艦艇総数は旧大綱の60隻から50隻になった。
 小沢は政府提案の予算案を政府みずからが修正し、防衛費を1000億円削って湾岸に掃海部隊を派遣した。防衛力整備より国際貢献のために自衛隊があるとした男。
 自衛隊を国連に預けるという小沢に防衛庁官僚は誰もついていけず。
 しかし、制服の中には共鳴者が多く出た。元制服の長野と田村の参議院議員は、これに共鳴して自民から新生党に移った。公明党がまた小沢に考えが近かった。
 センサーと追跡能力なくしてミサイル攻撃対処はできない。
 検討するタイミング→「平時に、かつ、可及的速やかに議論する以外、答えはないはずである」
 アカウンタビリティーは、「説明能力」。これと透明性をもっていれば、軍事大国でオッケー。
 定数、組織、装備が、法律と予算の議決という形で国会の管轄下に置かれている。
 防衛庁長官を文官が補佐する仕組みが「参事官制度」。
 村山が辞めたのは、オウムを破防法適用第一号に指定せざるを得なかったこと、そして反米の大田知事を国として訴えざるを得なかったこと、これに堪えられなかった。
 日本から撤退する場合、米は日本に事前協議の必要はない。
 いったん日本に入った米軍部隊がそこから出られなくなる、などというような不合理は予期されてはなるまい。
 田中外務相審議官は、日米ガイドラインの見直しにも参画。
 新防衛大綱は、限定小規模侵略独力対処のコンセプトを斥けた。
 作戦構想は、航空侵攻、海上交通保護と周辺海域、着上陸侵攻に3別する。※馬鹿馬鹿しい。3自衛隊の顔を立てているだけ。
 他に、ゲリコマと、弾道ミサイル攻撃を想定。
 周辺事態の概念は、地理的なものでなく、事態の性質に着目したもの。そんな事態について、どこから先は入りませんと地理的に言うことはどの国だろうと絶対にできない。
 米軍は自衛隊に対して武器弾薬のニーズはゼロである。
 相撃防止のための要領と相互運用性
 集団的自衛権は、政治的インフラストラクチャー
 「国際協調」…これこそあやふや語。使うべからず。
 米国の対支政策は戦前から一貫で、市場を米国のために確保しようという国益の追求。
 NMDは、2001前半まで米国で大論議。ラムズフェルドは、同年3月にミサイル防衛からナショナルとかシアターという語を除くことにした。
 TMDとBMDはまったく同じもの。後者が日本呼称。米国内は不適用で、海外基地のみを守ろうという構想。
 しかしNMDは米国本土のICBM防禦で、まったく技術も規模も別。
 マジノ線は無駄だったか? ※地下壕を無駄と思ってはならない。
 欧州がABM条約の枠組みが変わるのをおそれるのは、米露関係の悪化を懸念するからだが、この問題はロシアではなく、米支問題だろう。
 TMDはABM条約の対象外だし、ロシアには反対する実益がほとんどない。
 シナはTMDの台湾への展開をいちばん嫌がっている。
 また、NMDはシナの20発のICBM方針を根本から無意味化する。
 子ブッシュは、米支は戦略的パートナーではなくコンペティターと言った。
▼藤竹暁『都市は他人の秘密を消費する』04-10
 著者は大衆社会学の専門家。
 ホフマンの1822短編に「隅の窓」あり。身体不自由な主人公が屋根裏部屋の窓から群集を観察し、推理する。※ヒッチコックの裏窓?
 次にポオの1840短編「群集の人」。ここでは主人公は注目した群集の一人をつけまわす。そして発見する。彼の行動に孤独恐怖以外の何の意味もない「群集の人」であったことを。
 雑踏こそが特定時刻にはエアポケットになるという推理物の嚆矢は、ポオの1842小説「マリ・ロジェエの迷宮事件」。
 都市では、特別なもの以外は透明な存在になる。
 主人公の探偵とは別な報告者に語らせる形式もポオがデュパン・シリーズでさきがけた。
 都市では「見えざる凝視」が必要であり且つそれに満ちている。
 都市では自分が仮面をかぶって匿名かつ自由な観察者になるとき、人は自分自身をとりもどす。
 ステーブン・キングの1995小説では、昼間の変装は無効だとしている。
 エンゲルスは見た。マンチェスターの不潔で家庭的でない労働者住宅では、獣的または病的な堕落した無知なものだけが、心地よさとくつろぎを感じることができると。
 ドイツ人のベンヤミンは1842に「パリの秘密」を新聞連載した。中流以上の読者に、下層階級や、上層階級の実態を体験させてやる。ウケた。エピゴーネン多数。
 1826のクーパーの「モヒカン族の最後」はヨーロッパの都市作家に大影響を与えた。ハードボイルドな主人公はここからきている。共同体をもたない孤独者の活躍。バルザックは「パリのモヒカン族」を書いた。
 1903にジンメルいわく、都会人はなぜ冷淡か。他人の無遠慮な侵入から自分を守るため。それほど密集してるから。
 松本清張は「密室物」は社会から遊離しすぎていてダメだという問題意識があって、社会派探偵小説を開拓した。
 最近はその反動の「新本格派」が多い。あえて没社会的な設定。
 仏語 flaneur=街をうろつく人。遊歩者。※乱歩の「屋根裏の散歩者」もこの影響?
 1833にまずNYでペニープレス(1セント新聞)が登場し、ヒューマンインタレストニュースすなわち三面記事を売り物にした。フラヌールとしてのレポーターを駆使。
 これに1855に英が、1863に仏が続く。※つまり都市化は米→英→仏の順。
 シカゴ学派とはフラヌールによる社会学である。参与観察、フィールドワーク。
 1880頃、米には微罪を処理する「警察裁判所」があり、それは陪審制ではなかった。記者たちのネタの宝庫だった。
 善きことのほか死者を語るなかれ…というラテン語あり。
 19世紀後半の米新聞の特種主義をスタント・レポーティングという。
 クリスティのつくったキャラであるヘイスティングスは負傷兵で、本国で療養中であった。ベルギーの高級警察官であったポワロは戦禍をのがれて英国に亡命してきていた。足をひきずっていた。
 あえてよそ者風を強調することで、小さい村の中の住民の口を軽くした。というのはポワロ経由で秘密は漏れないと判断して。
 ボードレール:己の孤独を賑わせる術を知らぬ者は、せわしい群集の中にあって独りでいる術をも知らない。
 事件解決後のホームズはよくワトスンをコンサートに誘う。満足感を静かに味わうため。
▼司馬遼太郎『空海の風景』1978中公文庫版
 和気清麻呂は自家に図書館「弘文院」をつくり、子孫まで学問技芸の官僚を輩出することを望んだ。
 唐の高宗は強悍であったが風眩(癲癇)であった。
 六朝の漢文は、上表文をふくめ、頭から本心ではない嘘を書くのが名文であった。
 日本の太政官はしばしば左大臣が兼ねた。常にある職ではない。唐には太政官はない。なぜなら皇帝の専制だから。
 この唐制に近づかんとしたのが嵯峨天皇で、蔵人という新職をおいて、それを経由して政治をとりおこなおうとした。結果としてますます唐制と異なる日本制ができた。
 平安時代の綿の単位は「屯」。これは「束」と通用。
 日本で誓いや約束が厳密になるためには、平安貴族の漢文教養がすたれて農民出身の武士の天下になる必要があった。p.185
 じぶんの密教を真言密教と呼ばせたのは空海
 飛白…かすれさせる筆勢。空海が日本に導入し、モダニズムであった。
 三密とは、動作と言葉と思惟
 密教は唐で現世利益の効験 くげん をもって道教と争った。空海はそれを輸入した。
 現象に接してその本質を見抜く行を止観という。自身は透明になる。
 バラモン教のうち性欲崇拝の傾向のつよいものがチベットに入ってラマ教になった。
 以心伝心……仏法の奥旨は文章では伝えられない。
 外できいた話をすぐに受け売りする態度を「道聴塗説」と論語ではいう。
 中国仏教は宗派間の交流は自由だが、日本では最澄が叡山を要塞化してから他宗派とは絶交が普通になった。
 空海は筆を選んだ。行、草、写書(写経)など、用途別に準備していた。狸毛の筆は空海が発明した? 正倉院には、兎毛と羊毛しかなかった。王義之の書風はこれと不可分。 空海から最澄にあてた手紙は3通のみ残る。風信帖といい、東寺にあり。
 嵯峨天皇が宮城の13の門の額の文字を、自分と空海と橘逸勢で書き改めた。だから「三筆」なのであろうと。
 逸勢は政争により伊豆に流され、途中で死んだ。
 朱にするのは硫化水銀。印肉にも使った。
 高野山は空海の個人の私寺で、造営費は一紙半銭も国庫から出なかった。権門家の寄進を集めた。
 唐では「寺」の字には「役所の建物」の意味あり。
 高野聖、高野行人[ぎようにん]は僧以外の教団関係者である。
 荼毘はパーリ語
 六朝風=装飾過剰
 漢文は我流のよみかたが許されていいだろう ※同意。
 金剛界は能動の世界。胎蔵界は変容の世界。
 「魔法」は日本中世末のキリシタン用語。
 空海時代の日本の人口は500万人。
 讃岐は雨すくなく川は細流なので溜池が必要。
 大和政権は、儒教やキリスト教といった抽象理想ではなく、「稲作」を基礎原理とした。その「王化」とは、非稲作民を定住稲作させることに尽きていた。※春秋戦国時代と近いだろう。
 『三教指帰』は戯曲構成で書かれた日本最初の思想小説。リーディングドラマ。
 大学の音博士。中国発音を教えていた。だから空海は上陸と同時に会話できた。
 理趣経はセックス経典だが唐音のため暗号だった。東大寺でも重視していた。
 虚空蔵求聞持法。一定時間内にある真言を百万ぺん唱える。この方法でフォトグラフィックメモリーの才能が開発される。
 密教仏の衣装こそ、当時のインドの最裕福階級の着物。
 孔雀は毒虫を平気で食う。だから解毒力があるのだ、とアーリア人は抽象的連想をたくましくした。サンスクリットはそもそも物事をストレートに表現することと相性が悪いらしい。
 般若経は「ゼロ」に一切が充実しているとみる。
 日枝の山が、平安遷都後に「比叡山」になった。
 山城は、もと、山背と書く。
 日本船は危なく、新羅船は安全であった。
 日本船は無釘であった。
 空海が偉くなってから四国にたくさん寺をつくったのは、入唐前のスポンサーシップに酬いるためだろう。
 アラビア地図で日本は「ワークワーク」だった。倭国。
 唐土では歩行者を卑しむ。
 上巻p.306 西胡は自分たちの民族を「イラニ」とよんでいた。他称は波斯。
 牡丹は唐の長安の流行植物だった。
 世界史上最大の国家的翻訳事業が、唐では仏典について行なわれていた
▼岡崎勝世『世界史とヨーロッパ』2003
 トゥキュディデスは、過去におこったことは、人間性が変わらないために、将来もフタタび起ると。
 こういうのは、農業文明がサイクル発想になじむ結果だという。
 ヘロドトスは、ギリシャの宗教はエジプトから来たものだと。当時、エジプトはペルシャの版図であった。ギリシャの敵、ペルシャを調べることは、三大陸を知ることであった。
 ポリュビオスはローマに連行されたギリシャ人捕虜であった。
 以後、小スキピオに同行し、カルタゴ滅亡を目撃する。
 ポリスは共同体である。共同体は家ではない。自由人が自由人を支配するから。
 中世都市は経済人が市民。古代ポリスは、政治人が市民。これ、ウェーバー。
 アリストテレスいわく、市民の基本任務は支配の術を学ぶことだと。それが政治学だと。
 そうなると古代人が市民に読ませる歴史とはすなわち政治史にしかならない。
 ヘロドトスは聞いておもしろいが、将来の参考書とすることを重視したトゥキディデスは聞いておもしろくない。事実の羅列なので。つまり詩的でない。当時はなんでも音読。 ポリュビオスは「プラグマタ」路線。国家的事件を書くことが実用的なのであると。
 有名権力者の人間性だけで歴史は決定される。こう考えたのが古典的ヒューマニズムの限界。その背景の時代の趨勢までは考えがおよばない。
 アウグスティヌスが歴史学を革命した。彼は人類史は神による人類教育の過程であり、直線的かつ発展的に救済という目的に向かって進むと説いた。
 ローマはキリスト教をうけいれたのに、西ゴートに劫掠された。それはなぜか? 人智で説明できない。これは神の教育なのだとアウグスティヌス。人間を越えた原因があるという歴史学のはじまり。
 ローマ時代にキリスト紀元なし。すぐ終末すると思っていたから。
 アッシリアが亡んだときにローマは生まれた。
 西洋では18世紀末までをアーリー・モダーンという。和訳して「近世」。
 聖書には原本が3種類ある。ヘブライ語のもの。ギリシャ語の「70人訳」。そしてサマリタン版(サマリア人が伝えたもの)。
 ルターはヘブライ版を根本とした。古代カトリックはもちろんギリシャ語訳版。
 ルターも終末が近いと思っていた。
 啓蒙主義は17世紀後半ロックから始まる。仏にわたってモンテスキュー。ドイツに移ってカント。いずれも、科学開花を背景に、宗教的な非合理精神を批判した。
 
 「赤頭巾」と「森の眠り姫」はペロー童話。すなわち仏。
 他はグリム。彼らは反仏&ドイツナショナリズム喚起のためにこれを編んだ。
 コンドルセは、専制君主が誕生した古代に、アジアの進歩は止まったと最初に主張した。それはギリシャ以前のこととする。
 ジェネシスの7日の創造では神はエローヒームと書かれている。ところがアダム創造のくだりではヤハーウェである。
 この「ダブレット」問題を、1753にフランスのアストリュックが解く。すなわち、創世記は、複数の部族が残した文書が合体混合しているのだと。
 現在の西暦は、キリスト教的意味を失った、中世的・数学的年号である。それは過去にも未来にも無限に延長できる、ニュートン的な時間にすぎない。
 キリスト教的ならば、創世記以前は表せないわけである。
 コンドルセはスペインの南米破壊は非難するが、啓蒙された欧州人が世界に植民地をもつのは正しいと考えた。
 モンテスキューの風土論はするどい。非常に寒い場所と非常に暑い場所が接近しているアジアでは、強い国民とヘタレな国民のギャップが甚だしく、力が均衡しない。そこには征服者と被征服者しか生じない。
 ヨーロッパは温帯が広く、強い国が強い国と対峙し、隣国人の勇気は拮抗している。
 マクルーハンより早く、コンドルセが、アルファベットこそ知的革命をなしとげたと書いていた。それはヒエログリフにくらべて知の独占をしにくいものだ。
 ※母音表記記号を発明し、それを子音表記記号と組み合わせたギリシャ人がいちばん偉い。インド人になくてギリシャ人にあったものはそれのみ。その違いがすべてを分けた。
 啓蒙主義はロマン主義の対立概念。
 啓蒙主義は、全人類を平等と考える。個性を許さない。人間=機械ともみる。
 啓蒙主義は、民族を認めない。ロマン主義は民俗重視。
 啓蒙主義は、社会契約説。ロマン主義は、国家有機体説。
 よって政治的ロマン主義は、反革命。保守の理論となる。
 ロマン主義は個性を重視する。よって天才願望でもある。
 ロマン主義は、市民資本主義=啓蒙主義と考え、その資本主義を嫌った。
 プチブルは俗物である。それは資本主義商売の必然結果である。その非人間ぶりから逃れなくてはならない。とすれば芸術だ。だからロマンティストは芸術家の謂いになった。 神ではなく、歴史を根拠と考える歴史学は、ロマン主義が生んだ。
 1890に、世界一の尖塔、ウルム教会堂が完成する。161メートル。これもロマン主義が背景。中世=ゴチックに注目した。
 ギリシャ・ローマの都市は農民=消費者の町。東洋の都市は支配者=消費者グループの駐屯地。
 中世の封建国家の都市において、はじめて、手工業者と商人の生産都市ができた。
 ウェーバーいわく、ギリシャとローマでは大水路土木による灌漑農業は必要ではなかった。だから巨大権力は必要でなく、専制化しなかったと。
 アメリカ原住民の石器をみることで、はじめて「雷石」と欧州でもいわれていた石器が、古代人の製作物であると確信できた。
 フリントのハンドアクスが旧石器だと広く認められたのは1859年。
 1913に死んでいるラボックはアリの目は紫外線を見ていると発見。
 進化論はたった10年で世界を席捲した。
 現代では二足歩行がサルと人を分けるとする。


摘録とコメント(※)

▼青木日出雄『戦略兵器』・他
 1949、仏、原爆開発を決める。
 1954、仏、製造研究の本格化。
 1959-6、ミラージュ4の初飛行。双発マッハ2、3人乗り、搭載4.5トンで初期型原爆×1発吊下OK。バディ給油システムを独自に考えたところで、米が空中給油機を売ることにした。行動半径2500kmでぎりぎりパリからモスクワ往復狙う。この行動半径は1962就役のTu-22より長く、1969就役のFB-111Aよりじゃっかん短いくらい。
 1960-2、初実験。
 1961-4、四度目の実験。実用化の域に。
 1963末、ミラージュ4の引渡し開始(実質64年)。最終的に50機整備し、各60Kt原爆×1発を積ませた。
 1968-8、仏の水爆実験成功。気球に吊るして、太平洋で。
 1971-8、強化原爆150Kt単弾頭の地対地弾道ミサイル×9基をプロパンス・アルプス地方の地下サイロに配備。固体燃料2段式で、射程3000km。強化原爆とは中性子ブースターを増着した原爆。高原であるほど、推力の面で得。
 1972-5、同じく9基を追加配備。
 1980、射程3500kmの後継IRBMを配備開始。弾頭は1Mt。
 1949、米はGLCMマタドールを欧州と台湾に配備。その発達型のメースを西独と沖縄に配備。※沖縄から北京まで2000km。現実的には、日本が巡航ミサイルに初期型原爆積むとしたらサイズはメース級にしないと収まらぬ可能性があるわけ。それを潜水艦搭載にする場合は浮上発射以外になく、とうぜんそれ専用の任務艦として特別に設計するしかない。つまり巡航ミサイルはICBMより早く完成できない。
 米は1954-3に小型の水爆実験に成功するまでICBMアトラスの開発は延期されていた。※アトラスには水爆は大きすぎて積めないとみつもられていた。そしてもし水爆弾頭にできないならば、精度の悪いICBMなど無理して持つ必要はなく、大量報復用のB-52で十分だと思われていた。
 1957-6、トルコに配した米レーダーが、クラスノヤールから極東に5000kmとんだミサイル×8を認む。
 1957-8、ソ連はICBMの開発に成功したと発表。
 1957-10、スプートニク成功。
 ジュピターは射程2500kmで1957試射成功。1959-3にイタリアに30基、10月にトルコに15基を配備。
 ソーは1958-9~1959-3の間に60基をイングランドの東部と北東部に展開。実戦態勢になったのが1958-12以降。
 これらIRBMは液酸+ケロシンを発射前30分かけて注入するもの。アトラスICBMですら注入に8分かかった。
 ※いまだにH-IIをICBMにしろという人がいるのだが、燃料注入やカウントダウンだけで24時間がかりのミサイルなんて使い物になるかっつーの。だいたいあの格好じゃサイロからは射ち出せないし、筒体の強度がギリギリなので組み立てた状態で横に寝かせてトンネルに隠したり列車で移動させることもできない。
 欧IRBMは、ミニットマンとポラリスが戦力化したので撤収された。
 目標破壊力は、爆発力の立方根の二乗に比例する。
 200Ktは1Mtに比べると、0.34:1の目標破壊力となる。
 20Ktと20Mtは、1:10である。ちなみにB-52には24Mt水爆2発、もしくは10Mt水爆×4発を搭載できた。米最大のICBMタイタンは9Mt、ソ連のSS-9は25Mtである。
 1957末、米は8000km飛ぶスナーク部隊を編成。スナークICCMは1959末にはメイン州に13基。1960末には30基。1961-6-25に0基になった。
 ワシントン←→モスクワ間は8000kmで、スナークはこの距離を0.9マッハで天測しながら飛んだ。
 マタドールは射程970kmで、1955秋から西独に。
 メイスは1959-6~1969頃、西独に。これは射程740kmのパーシングIと交代した。※つまり射程は半分以下になった。ソ連との取引か。
 ボーフルは、米国の核との結び付きを強調。「核の拡散と多極性とは区別すべきだ」
 ガロワはもっと単純な核拡散賞讃論。※説明宣伝に難があった。
 J・バーナム=「平和は外交の目的ではない」と最初に言った。
 ケナンはギリシャ援助には賛成だったが、トルコ援助には反対だった。
 朝鮮戦争中に米の最初の核戦略ができた。すなわちホワイトハウス直属の戦略空軍にのみ依存した大量報復。これがWWII直後の「動員戦略」「巻き返し」に代わった。ニュールック。
 1951-10、100機の戦闘機に掩護されたB-29×8機が北鮮上空でMig-15のために全滅させられた。→対ソ全面戦争の自信が崩壊。
 ヨーロッパを放棄するかどうかの論争が起きた。Great Debate.
 オッペンハイマーは早くも1953に、斬新な防禦テクノロジーで核軍拡を止められるという発想をしていた。
 ソ連の最初の水爆は実は水爆ではなかった。原爆を重水素化リチウムの固体で包んだ強化原爆だった。
 これに対して米の湿式は、サイズはデカかったが、本物の「熱核反応」兵器だった。
ソ連がそれに成功したのはやっと1955-11になってからである。
 「核の手詰まり」「相互抑止」は、陸軍の主張として1954~57頃、現れた。
 1957-10ダレスは『フォーリンアフェアーズ』誌で、ペントミック小型戦術核RDFが、大量報復抑止の必要を減らすだろう、と。
 1961~63に西独は米に核使用権を要求して対立、仏に近づく。→1963-1協力条約。
 1960’s、在欧の戦術核はいちじるしく増加した。
 ガーウィン式BMD=サイロの近くで土砂を吹っ飛ばす。→See高榎尭『現代の核兵器』
 CEP150mは絶対精度と呼ばれ、そうなったらどんなに垂直サイロを強化してもムダ。※逆にいうと、CEP150mになるなら、弾頭はKt級で十分。また、これ以後のサイロは山岳中の横穴トンネルとするしかない。
 核爆弾記号のB-は自由落下爆弾、W-はWarhead.
 ナヴスター網は1986完成予定である。
 64k-DRAMのセラミック・パッケージがα線を出し、ICの記憶電荷を失わせる、ソフトフェイル現象が核戦争では起きる。だからガリウム砒素。
 EMPの立ち上がりは雷以上なので、安全器では阻止できない。
 中性子爆弾とはT(トリチウム=三重水素)の割を多くしたもの。これは後から挿入する方式にもできる。
 マクナマラのミシガン州アナーバー演説。「全面戦争についての米国の基本的戦略は、可能な範囲内で過去における通常戦争のそれに似たものにされる。NATOに対する大規模な攻撃によって戦争が起こった場合には、米国は敵の一般住民ではなく軍事力を破壊することになる」。※戦前に米が梃子入れした援支反日の戦略爆撃プロパガンダが自分に跳ね返ってきた。これがベトナムの敗退につながった。経営学の秀才マクナマラは最大の道化を大真面目に演じた。対権力直接アプローチが採用された湾岸戦争以降、居場所がないので、いろいろと繰り言を語り続けている。ケネディのように空軍に殺されなかっただけでも感謝すべし。シナは将来米国から爆撃されにくくするための布石として、また重慶その他を宣伝し出しているわけである。
 1964のポラリスA3は、200Kt弾頭×3が500m間隔で落ちる。
 ソ連がミサイルにコンピュータを載せるようになったのはSS-19から。
 シュレジンジャーはソ連の対米核攻撃は全面的でない、とした。
 カーターの指令(PD)59号では、ソ連のいやがる食糧供給路、蘇支国境のソ連軍および政治軍事指揮センター700ヶ所が核攻撃目標に含まれている。ただし中央指揮管制センターは、初回の攻撃では狙わない。
▼フォーセット“Frontiers”(1921)邦訳
 ※同タイトルで1907にカーゾン卿も本を書いている。
 未開で人跡未踏の森林障害は、河川交通により容易に抜けられる。
 ユーラシア遊牧民は、中欧森林が羊飼育に適さぬため、侵入をあきらめた(p.55)。※羊こそは、「自走する食糧」だった。
 ネパールの独立は、テライ地方の沼沢が保障した。
 ナイル・デルタ沼沢は、後世、却ってエジプトを地中海発展から疎外した。
 フィンランドやポーランドの沼沢は、冬に凍る。→ソ連は冬に攻める。※9月開戦ならぬかりはないというわけだ。ウメーこというネ。
 ヴェニスやオランダを守る沼沢は周年、氷らない(p.58)。※蘭はスケート大国ならずや?
 1914年現在、欧州には河と国境の一致はほとんどなかった。例外が、ダニューブ下流、同支流のサヴァ、プルート。
 メソポタミア、エジプトの支配者は、常に河川上流地域を支配しようとした。それは水の供給を支配できるから。上で灌漑水を消費してしまえば、下では足りなくなる。※シナでは黄河と揚子江の上流を同時に扼した秦が最初の統一王朝を建てた。秦の故地に権力を扶植する現代の軍閥は誰ぞ?
 20世紀前半、シナと朝鮮の国境地帯は無人とされた(p.78)。
 アルメニアは、ローマとペルシャの間の緩衝国であった。
 軍事上、特に一方にのみ有利である境界を、化学的境界、と呼ぶ。
▼飯村穣『続兵術随想』S45
 昔、図書館は有料だったが、占領軍が無料にした。九段の大橋図書館には兵書多い。※これは今の中央区立図書館だが、古本は処分されている。
 陸大図書館には孫子の参考書はあまり無かった。
 帝政ロシアの陸大教官だった将軍による1000ページほどの仏語書『赤軍の戦略=社会戦争』を飯村は和訳しガリにして参本に配布した。
 とうじ、甲谷悦男大尉がモスクワから日本に帰る途上で翻訳した、最新の赤軍野外教令があった。
 NHKの磯村の父は、終戦後、南方から飛んで帰って大菩薩峠で墜死した少将。フランス班付きの参本第二部欧米課(p.95)。
 S16-8、飯村は総力戦研究所で、南方に油をとりにいったらソ連が出てくるとの想定で机上演習を実施。東條陸相は毎日それを見に来ていた。この演習は9月に終了(p.158)。
 日露戦のロシア軍は、「われの有たない気球を上げてわれを驚かせた」(p.202)。※いちおう、持ってたんですけど……。榴霰弾で簡単に撃墜されるのと、旅順あたりだと連日強風で、ほとんど決死隊だった。
 第三軍は急遽翻訳したボーバンの要塞攻撃法に基いて旅順を攻めた(p.202)。
 リデルハートは、史学徒出陣で、ほんのわずか大隊指揮をとっただけだが、生涯「大尉」と自称するのを好んだ。
 まずセイロンとマダガスカルを占領すればインドは浮き上がったろう、と(p.254)。
 米の対ソ援助はウラジオ経由が一番多く、ペルシャ=コーカサス鉄道は戦中建設のものである(p.281)。
 北海ルートでは2回しかコンボイを送っていない(p.303)。
 ナポレオンの後方も河川依拠(p.291)。
▼ブレジンスキ『テクネトロニック・エージ』直井武夫 tr. S47、原 Between Two Ages 1970
 1878に普仏戦を論じたエンゲルスは、もはや兵器のこれ以上の進歩は不可能、と断定した(p.77)。
 G・J・F・マクドナルドは、電磁パルスによって住民の脳の活動を阻害することが十年以内にできると言っている(p.78)。→ソ連のSDI恐怖は実はコレ。
 引用。カトリック組織は、独身主義であるが故に、世俗権威に抵抗できた。内部団結も堅い。
 ※本書は1970’s前半が不毛のイデオロギー時代であったことを教える。このような世相と没交渉的に中学時代までを田舎で過ごせたことは我が生涯の幸運だ。70’s後半から日本の自動車のデザインが劇的に変わり、共産革命は視覚的にあり得なくなった。
 図書のマイクロフィルム化もNASAの技術なのだ。
 引用。「専門外の事柄についてのアインシュタインの発言の陳腐さは、専門内での彼の天才と同様に、まったく驚くべきものである」「彼はパスカルではなかった」(p.315)。。
 スタンレーホフマンを批判(pp.364-5)。
▼松平信輝『騎射』大正写本、国文研蔵
 図によると、0時から9時の45度角以外は射ないことになっている。
▼丸山国雄『日独交渉史話』日本放送出版協会、S16
 普仏戦中、ヨーロッパ諸国間に仏への同情なかった。ナポレオン3世の外交宣伝の失敗による。
 1860=万延元年に初めてドイツ船が江戸湾に。
 独立戦争後で米普関係良好。米公使が斡旋して日独条約締結。
 水戸の彰考館に寛政12年のドイツ兵書写本あり。最古(pp.102-3)。これらは独蘭辞書でまずオランダ語にしてから重訳されたようだ。
 明治4年、大学南校(旧昌平学校)の語学生の割合。英219、仏74、独17人。※これではドイツ流の軍制になどしたくてもできない。
 同年の文部省学制改革で、独のコース定員が125名に増加された。
 これらはもちろん、その外国語による全科授業があるのであり、単なる通訳養成ではない。※通訳養成は私塾でできた。
 陸軍が明治3年の布告で仏式を採っていたとき、和歌山藩だけはプロシア式を採用していた。
 マルクシズムは明治30年以降に入った(p.147)。
 明治20年頃から、教育学における、英米→独シフトがおこった(p.148)。


オプション最大化(Maximization)戦略とは何か

 チャンネル桜の討論会でも言及したこの概念についてご説明しましょう。これが分かりませんとシナの脅威の本質が分かりませんし、それに対抗するための日本の次期首相は誰でなくてはならないか──も、分からぬでしょうから。
 シナは1980年代からアメリカ東海岸に届くICBMを20発しかもっていません。この20発を30発、40発……100発……500発とすることは、かれこれ十数年も時間があるのですから、いくらでも可能だったでしょう。が、それを敢えてしていないんです。
 この意味は、「ICBMをもっと増やすか増やさないか」のオプションの自由を最大に確保しておくことで、米国政府との交渉力を最大にしようというのです。
 アメリカにとって「分かり易い敵」になったら、シナのような経済弱国は、おしまいなんですよ。
 常に敵を翻弄し続けることができなくてはならない。これこそが、先般コキントが『孫子』をブッシュに進呈した意味です。あなたがたの単細胞人士に分かり易いような敵対行動はシナ人はしませんよ、と念を押すことにした。
 そして米国NSAはこの孫子進呈計画も事前に察知していて「バカヤロー、こっちの方が上手だわい」と、スピーチ会場に「叫び屋」を潜ませてやったんでしょう。けっきょくコキントさんが翻弄されてしまったのです。
 オプション最大化戦略はICBMだけでなく、あらゆる分野で実施されます。たとえばシナは90年代初めにミサイル原潜と攻撃型原潜を1隻づつ国産した。そのあと、姉妹艦を増やさない。これも「オプション最大化戦略」です。対抗する米海軍としては、シナが原潜を量産するのかしないのかで、予算から編制から人事配置から、ぜんぶ計画変更しなければならない。シナは、自分の進み得るコースを無限大に確保することで、敵の要路の心理を翻弄してやれるわけです。
 その翻弄を通じて、交渉ができる。こちらが何かをしないことと引き換えに、敵に何かをしてもらえるでしょう。
 過去のソ連のように「物質」対「物質」のベタなレースに参加してしまえば、米国に勝てる国はありません。米国を物質で圧倒しようとするのではなく、むしろ今は手元にない非物質にモノを言わせていけ、という手なんです。
 これを市場でたとえるなら、じぶんの実際には持っていない株式で勝負する相場師のようなもの。未来の可能性で敵を脅かす。現に大金持ちでなくとも、よいわけです。
 ただし軍事競争上のオプション最大化戦略では、大事なことがある。最初に1つは「リアルの物質」を持たなければ、交渉の土台にすらならぬということです。
 げんざいシナは空母を1隻も持っていません。この「ゼロ」の状態からでは「空母艦隊をたくさんつくるぞ」という脅しはほとんどリアリティを生じません。
 「口だけの脅し」では逆効果にすらなってしまいます。
 「今すでに1つある。これを2つ、3つ……10倍に増やす」という脅しならば、相手も頭から否定できなくなるのです。そこから交渉を強制できるのです。米国のINFにソ連が屈服してSS-20が全廃(パーシングIIと相討ち)されたのは、その好い見本です。
 まあ、日本の臆病者たちが「核武装のポテンシャルだけで核抑止になる」なんて言っているのをシナ人が聞いたら、大笑いでしょう。
 また、北朝鮮が原爆を1発ももっていないことも、ここから容易に断定されなくてはなりません。「ゼロを1にします」という脅しでは、国際関係では、無効なのです。子供の虚勢と変わりない。北鮮の支配層もそれはよく分かっています。分かっていて1発の実験もできないでいるのは、現実に1発も手元にはないからでしょう。こんなのにひっかかるような哀れな知識人が多いのも日本だけでしょう。
 たった1発、パキスタンのように非公開で実験をしてみせさえすれば、北鮮の脅迫力は数百倍になるんです。なのに彼らがそれをしないでいることの合理的説明は、「その1発がそもそも無いから」しかないでしょう。何年か前に硝酸アンモンが大爆発したのは、それを地下に集めて「ナンチャッテ核実験」を偽装したかったのではありますまいか。
 さて、そこで、日本の次の首相です。
 これは「現に中堅の地位を占めている政治家であり、しかもシナから大いに嫌われている人物」でなくてはなりません。
 彼こそが、シナに対抗して「オプション最大化」の政策を実行できるでしょう。
 シナから嫌われている若手、ではいけない。彼はこんご、シナから脅されたり、籠絡されてしまう可能性があります。
 しかし、既にシナから憎まれまくっているのに、それでもしっかりと中堅の地位を占められているという政治家ならば、今後、シナから脅される可能性も最も低いわけです。彼は、もしシナからイヤガラセをされた場合、将来が長いので、シナに報復することができます。
 これを、シナは重視しないわけにはいきません。頭の良い中共指導者は、けっきょく、軽易なイヤガラセ以上のことは、彼に対してはしません。その結果、日本はものすごく安全になります。
 ヤクザは、武力行為の前には常に、敵組織からの報復と、その後の報復合戦の連鎖・エスカレーションについて瞬時に想像をめぐせます。組織の力は「後から報復できる」ことです。この連鎖の終末についてのリアルな判断が瞬時につかないようなチンピラでは、とうていヤクザ組織の長になどなれません。中共の政治指導者層も全く同じです。彼らは匪賊の血統です。シナの歴代王朝の創始者は、いずれもヤクザの親分でした。ヤクザに好かれているような政治家が日本の首相になったらどうなるか。これは考えるまでもないですね。
 シナから嫌われていても、年寄りの政治家ではダメです。なぜなら、彼には報復の時間がもうありません。それはシナというヤクザ組織から見れば弱点なんです。小泉氏は歳をとりすぎ、現役の終わりが見えてきてしまったので、ちかごろシナから強く揺さぶられているわけです。
 シナがオプション最大化戦略で近隣世界に対しているのに、日本国が自分で自分のオプションを規制するのは、自殺行為に他なりません。
 マック憲法、非核三原則、宇宙開発に関する国会決議、ICBMを日本が作ればアメリカが怒ると触れ回っている評論家……凡て、ヤクザのカモがする思考ループです。