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▼宮坂九郎『歴史資料全集 災害篇』S8-3
 磐梯山が噴火する3、4日前から猿が騒いだ。
 千島艦750トンは仏の地中海鍛鉄造船会社でM22-11起工、M23-11進水式。機関の担当者として仏人1名だけ同乗させていた。瀬戸内で英人船長のラペナ号2319トンと衝突し沈没。
 「東洋に漂泊する英人は概ね公義を知らざる無頼漢」(p.82)。
 下の関取究書によると長藩の砲撃に関して幕府が償金を出すことは約しているが通行権には何の言及もない。
 かつて米国の小学読本を翻訳したとき、米政府は版権侵害を申し越した。英国石鹸商標、ドイツ葡萄酒商標についても類似事件あり(p.90)。
 M29福知山町に洪水あり、犬猫ほとんど溺死。犬を寵愛した犬勝という者がいて、夏は蚊帳に入れ下女一名を付して扇がしめたるほどなりしに……(p.111)。
 八甲田遭難で発見死体の大半の靴の踵は破れていた。また、藁靴も履いていた(p.146)。
 村松伍長は温泉で救助を待っていて助かった(p.148)。
 山口少佐の父は少佐に手紙で自刃を勧めた。
 幽霊の噂に怯兵が恐れているが「何でう死を國に許せる武夫の未練にも女々しく恨み出づべき」(p.152)。
 松島艦の午前4時の爆沈。爆発の2、3分前、後部砲塔付近に臭気。後部舷側と艦底に破孔。上甲板にいた者がかろうじて脱出できた。厳島と橋立は総端艇を送り、「深海燈」を点じて救助活動。四十余名死亡。
 芝増上寺の怪火。「蒸気ポンプ」と「水管馬車」が出動した。山門前には消火栓があった。60間の水管5本を継ぎ合わせて消防。
 M42の天満の大火。砲兵工廠からポンプ車と消防隊が出た。上福島の二つの紡績工場では火勢が近づいているのに役員が門を内側から厳重に閉じ、工女を外に出さないようにしていたので、警官隊が強制解放した。
 第六潜航艇は60トンと最小サイズでしかも旧式。艦内空気は6時間分しかない。
 ハンドポンプで排水に勉めた痕跡があった。
 大2の所沢の飛行機墜落。着陸30秒前、高度300mで、左旋回の途中、左からの突風で針金が切れ、右翼が飛んだ。1分間で墜落。飛行場にいた石本大尉、滋野男、青木軍医らが自動車でかけつけた。木村中尉は眼球が飛出て口の中には機械の破片。左手の時計が正午12時で停まっていた。手にはハンドルの破片を堅く握っていた。徳田中尉は木村中尉の胸に頭をつけて死んでいた。木村中尉は交話機のパイプを発明した。
 葬儀の棺の上に長さ3尺の飛行機推進機を置き、その上に軍服、制帽、剣。
 遺品は遊就館に出陳された。ちなみに同館9号室が乃木将軍の遺留品室。
 駿河湾では三角波を「ヨタ波」と呼ぶ。大3-1-4沈没の汽船愛鷹丸57トンは130人以上を乗せて浸水沈没。船長はあるだけのブイを投げたあと、寝室に入り、船と運命を共にした。定員は26名だった。
 大3-1の桜島大爆発の6日前から井戸水が減退。また前日には大震動あり、島民は避難準備していた。東方の瀬戸方面は以前は鎮遠のような軍艦が通過できたのだが、ほとんど埋まってしまった。
 筑波の爆沈。3分間で着底してしまった。日曜日なので火薬庫は開閉しないはず。おそらく松島と同様、火薬の変質による自然発火だろうと。
 日本最初の弩級戦艦河内は呉で4分間で爆沈。青島戦の殊勲者である艦長・正木義太大佐と副長は生存者中にあり。行方不明500名。横須賀からも潜水夫と潜水器50づつを動員。
 関東大震災で丸の内ビルディングが倒壊したと誤報されたが、それは工事建築中の内外ビルデイングであった。横須賀と鎌倉は火災に加えて海嘯にやられた。品川駅は残った。政府は「非常徴発令」を発布した。地方長官が、非常徴発書で、救援に必要な物品を徴発できる。
 2日の戒厳令発布。警戒線を設け、食料品を携帯せざる者は絶対に入京せしめない。3日、例外なく入京せしめないことに。
 目黒火薬庫、小石川砲兵工廠火薬庫は爆発。浅草十二階の倒壊で120人死亡。
 七十号潜水艦が淡路暇屋沖で沈没。浮上後、急に舳が下に向いて直立、浸水。艦長池田大尉は艦上に出ていたために助かる。同じ甲板にいた上林少佐、阿由葉機関大尉は「ハッチ、ハッチ」と叫びながら水の侵入する司令塔から艦内へ入っていった。
 艇には水袋が二つある。舳、艫、司令塔に出入りのハッチがある。45名定員のところ、試運転なので八十余名も乗っていた。定員なら2昼夜は空気がもつ。
 潜水夫がワイヤーをかけ、引き上げ。
 死体は白蝋化しているので直に石炭酸をふりかけ、全身をガーゼで被い、二枚の毛布に包み、寝棺に納める。
 海兵ならば着衣の裏に名前が書いてある。ところが同乗職工は誰という判別がつけられない。
 外壁には白ペンキで算用数字で70と。
 駆逐艦蕨の沈没。850トン。
 沈んだ死体が浮き上がるのは24時間後。
 艦長五十嵐中佐以下119名の英霊。
 衝突した軍艦神通の艦長・水城圭次大佐44歳は軍法会議で罰金600円の求刑をうけ、弁護側は無罪を主張。判決前に西洋剃刀で首を切って自殺。長野県出身だった。未亡人はその後、白木屋百貨店に勤めたと。
 重爆・第102号機の墜落。立川から各務ヶ原へ向かおうと離陸し旋回して高度150mの雲中に入ったところで錐揉みとなる。発動機故障、あるいは操縦士が幻惑されたのか。作戦部長の小川少将、作戦課長の藤岡大佐などが乗っていた。立川の砂川上空で、機首下げ、ブリル状態のまま畑に突っ込む。7名即死。作戦本部付の深山少佐は瀕死で助かる。
 現場は肉片が散乱しているが、不思議に機体には鮮血の跡はみられない。バラリとオモチャがこはれたやうな形。
 鈴木参謀総長の乗った第7号機が発動機がなかなかかからなかった。
 BMW600馬力の双発。1台が故障しても30分飛べた例あり。※ドルニエワール?
 航空専門家の阿部菊一少佐の死が最も惜しまれた。
 小川少将、藤岡大佐、阿部少佐は発動機に頭部を撃たれて惨たらしい姿。操縦は長中尉。
 陸軍技手も死亡。もし技師に昇任の御沙汰あれば、「航空勤務者保護賜金」が倍額になる。
 神田の大火で小川町警察署は、留置中の重罪人は他の留置所へ移したが、軽罪人は一時解放した。
 大阪の民間火薬庫大爆発。鴻池邸に死骸が空から降ってきたほどの大惨事。榎南銃砲店の経営者の25歳の主人が出張から帰るとこの有様なので、失神した。陸軍御用であることをいいことに警察の指導に従わず、ずさんな火薬管理をしていた。杞憂ついに杞憂ならず。村田式実包の払い下げ廃弾を解装した火薬か。当時の火薬取締法は、普通火薬10貫、劇発火薬1貫しか貯蔵できなかったが、あきらかにオーバーしていた。
 各地で春になると陸軍招魂祭をする。そこでは煙火の需要が増している。安い原料はないか。陸軍払い下げの2号火薬は1基2円。しかし廃弾火薬はその半分。だから人気がある。
 粒形/全形、破淬、粉薬の3種が混ざっている。これを篩い分ける。粒形は袋に入れて篩い、光沢をつけて陸軍の2号火薬模造とする。破淬は煙火の雷鳴にする。粉薬は鶏冠石、塩酸カリ等を加味して色火にする。この篩い分け作業を裏庭でしていた。
 滝野川火薬製造所いわく、粉薬の原料は硝石、硫黄、木炭粉だが、これを水車混和機で混交するとき、1分間に6~8回転させる。15分するとネズミ色になるのでそこで取り出さねばならない。1秒でも時間経過すると摩擦発火するから15分で機械をとめ、いったん、工場外の障壁外に退避する。気象では砂塵を警戒する。いくら警戒しても爆発事故は起きると。
 日本の業者の問題は陸軍を退役した専門家を雇わずに危険事業を自分でやること。
 住吉の新設火薬庫はまずい。地雷火と鉱山に使うジナミットを貯蔵しているが、これは湿気で膨張し、冷気で収縮し、そのさいに爆発することがある。
 特に複数種類の火薬を同一場所に収容するのが危ない。各聯隊でもそれに気をつけている。
 陸軍はさらに安全な水中火薬庫を建設中である。
 丹那山トンネルの坑口から150尺奥の掘削現場で煉瓦巻き工事中に崩落。孔底を流れる溝に、木片5個をつないで流してきた。これは生存の合図か。
 8日目に捜索トンネルが達する。17名の坑夫が救助された。草鞋を食ってしのいでいた。飯田技手[ぎて]は、経験上、8日目に救助されると計算し、目隠しの準備をさせた。
▼リヒタース『化学戦と軍用動物』新美達郎・他 tr. S20-4
 ドイツ人らしい医学実験リポート。2000部訳刊。
 化兵剤は、ガス→揮発液→油脂・固形物と発達した。
 1928-5-20、ハンブルク市近郊でホスゲン流出。シュトルツェン博士工場の汽缶が爆発。9km離れた動物を殺した。
 特に「黄十字ガス」が動物にとって危険だ。
 黄十字に汚毒した樹木に雨が当り、その雫で馬の背がやられる。
 患蓄の馬はゆっくり牽いて現場から遠避け、馬具すべてを外し、毛布で保温せよ。
 馬か機械か、ではなく、「馬と機械」だ。
 独は初め、放射だったが、英人がガス投射器を発見。仏人が大砲によるホスゲン弾の射撃に成功。独は緑十字弾で対抗。
 迫や手榴弾ではガスの効果ほとんどなく、揮発性ホスゲンが用いられた。
 航空機からのガス散布はWWⅠで遂に用いられず。
▼兵器学教程? 第11巻「化学」S18-6
 一酸化炭素が0.1%以上あると、小鳥は5~10分で羽毛が逆立つ。やがて嘔吐し、麻痺。0.8%では1~2分で半数が死亡する。
 演習用に、擬液甲~戊あり。また褪色液甲乙あり。
 擬液は匂いを出し、草を枯らす。催涙性もある。数時間で消える。
 褪色液は数時間、地面を赤く染める。
 馬用には、馬防毒面と、馬防毒脚はんがある。ゴム引き麻布で蹄鉄も覆う。
 警務用の拳銃催涙弾がある。26年式用と14年式用とあるが、違いは弾尾の「装著環」と薬筒(ブランク)のみ。
 14年式からは、紙弾を発射して飛ばす。26年式は、ガスのみ。重量等のデータは無し。 乙催涙筒。点火具で点火したあと、投擲すると爆発。10m飛び散る。
 水上発煙筒。甲乙あり。浮嚢がついており、渡河時に使用。
 発射発煙筒。筒端から延びている細い棒状の支柱を、45度敵方へ傾けるようにして地面に突きさし、点火具で点火すれば、7秒後に18gの小粒薬が弾体を射出する。その着弾後、660gの発煙剤が煙幕を構成する。
▼斎藤恵彦『国際人道法』1988
 戦後、ハーグ法を確認し、補完し、総合化する作業が進んだ。
 不必要な苦痛をもたらす武器の禁止。
 背信行為の禁止。
 広範な、長期のかつ重大な損害を生ぜしめる、またはそのように予測できる戦争の方法または手段を使用することの禁止。
 ダム、堤防、原子力発電所は攻撃の対象とされないこと。
 1980に、過度に傷害を与えまたは無差別に効果を及ぼすことがあると認められる通常兵器の利用禁止または制限に関する条約。その付属議定書が三つ。破片利用兵器。地雷。Pillage[ピエージュ](劫略、掠奪)。
 ※ちなみに十字鍬はPioche、植杭作業はPilotage、穴掘りはPiochageだそうです。
 民兵は公然と武器を携行しなければいけないが、「固着の特殊標章の義務は廃止された」(p.35)。
 当該国の軍隊の類似の階級および任務の戦闘員に約束された、または支払われる額を明らかにこえる物質的補償を約束された「傭兵」は、「お金を唯一の目的として戦闘に従事する人間のかす」であって、「戦闘員たる資格も捕虜たる資格を享受する権利も有しない」(pp.36-7)。
 反乱軍は国内では国家反逆者とされるが、戦後はその反乱軍にも人道法が適用される。ただし、「責任ある指揮のもとにあること」(pp.38-9)。
 戦後ジュネーヴ法では、「戦闘手段」は武器、「戦闘方法」は、これらの武器の使用を意味している(p.43)。
 「背信行為」はハーグ法の「奇計」の言い直しで、休戦旗を掲げて敵をおびき出すこと、文民や非戦闘員を装うこと、国連や非紛争当事国の標章を使用すること、など。
 遭難航空機からパラ降下する者を、その降下中に射ってはいけない。降着したら、攻撃前に投降の機会を与えること。もちろん空挺部隊は保護されない(p.45)。
 町の中に軍事目標があるときに、その軍事目標と町とを全部あわせて単一の軍事目標とするが如き砲爆撃は、「無差別攻撃」であり、禁止(pp.46-7)。
 「第二次世界大戦中に、日本軍隊の一部がフィリピンで使用した一般市民による武装反乱」?(p.48)。
 住民の密集地域の内部あるいは近くに、軍事目標を置かないこと(p.48)。
 ダム、堤防および原子力発電所は、復仇の場合でも攻撃の対象にしてはならない(p.51)。※復仇の場合でも禁ずるのはリアルな法学として愚ではないか。
 すべての患者は、外科手術の一切を拒否することができる(p.59)。
 衛生要員は、秩序の維持、個別的暴力行為に対する自己および自己の責任のもとにある傷者の防衛のため軽度の兵器の携行は認められる。しかし戦闘員とはみなされない。敵の権力内に陥った場合は、帰路が開かれる。病院船のクルーは捕獲されないし、抑留もされない(pp.61-2)。
 交戦者は、病院船の中立性を確認するための広範な臨検の権利を有する(p.64)。
 抑留国は捕虜を労働に従事させることができる。ただし将校は労働を強制されず、下士官も監督者としての労働しか要求されない。
 捕虜への懲戒罰は、30日を越えてはならない。司法罰は、軍事裁判所だけが、これを課すことができる。死刑の言い渡し後、6ヵ月が経過する前にこれを執行してはならず、また利益保護国は前もって通告を受けなければならない(p.71)。
 難民を、ジュネーヴ条約を適用する意思も能力もない国へ移送してはならない。また、政治的または宗教上の立場のために迫害を受けるおそれのある国に被保護者を移送してはならない(p.81)。
 占領国は、18歳をこえている者については、これを労働に従事させることができる(p.85)。
 人道法に関しては相互主義は放棄される。国際共同体に対する諸国の片務的約束(p.102)。
 しかしそれでは取り扱いの平等を保障する実定法ではないという有力な正論あり(p.108)。
 赤十字の他、赤新月、赤のライオンおよび太陽が、武力紛争の犠牲者救済団体のマーク。
 国際委員会は第三の紛争当事者といわれた(p.115)。
 国境のない医師団は、アフガニスタン政府の同意なくその領域に入っていった(p.124)。
 ニュールンベルク法廷では、上官の命令は違反行為者の責任を阻却しないという判例がつくられたが、現在では、この規則は遠ざけられた形である(p.142)。
◎閑話囈語
 毎年春になるとキチガイが現れ、それが知っている人だったりするので哀しいこともあるのですが、若い野望に燃えた生徒・学生諸君が一身の将来に不安を抱くのも、このGW前後ではありますまいか。
 現在わたくしは、ある新人の航空ノンフィクション・ライターの誕生に立ち会っております。ああ、まだこんな可能性があるのだなあと、目を瞠かせてもらった上に、まだまだ日本も捨てたものじゃないと思い直せる。そして暮夜、こういう新人がどうしたらもっと増えてくれるだろうかと考えます。
 しかし結論はいつも同じです。早道はありません。地道に情報インフラを整備することにめいめいが一臂の労を提供する。やがて誰でもが有益な情報を検索し易くなる如く努める。その徒次に於いて、おそらくは真実が人を自由にする確率も高まるであろうと、漠然と期待することができるだけです。
 わたくしは自己の経験から、学生は休日は行楽せず図書館に通えと勧めてきました。これからも勧めるでしょう。しかしそう言っているだけでは「目がさめた人」は、微増するにとどまるに違いない。
 それでこたびは、なぜ若いうちに是非「濫読」をする必要があるのかを端的に体感してもらおうと思いつき、敢えてGWにあわせてアトランダムに「摘録」を連続UPしてみた次第です。堆積している古いルーズリーフの手書きメモなどを逐次に廃棄して部屋を整頓する作業の一環でもあります。
 板垣征四郎の巣鴨日記に、連合国側は英文タイプライターが普及しているのでその日の全証言がもう夕方にはバインダーになって検事側の手元に揃う。ところが日本文の方は何週間も待たないと弁護側が読める印刷物とはなってこない。この差がとても大きい、と嘆かれています。このハンデはまだ続いているのではありませんか。
 理想的であるネットの上の図書館は、いつかはできるのでしょうが、すぐには実現する見通しがありません。しかし、「要約」ではない「摘録」という方式を使えば、ネットの上の「参考図書室」くらいは構築可能だとは思えないでしょうか? そこで「篤志つうじ倶楽部」や「史実を世界に発信する会」にご賛同くださる同好の方々に呼びかけたい。各人でお手持ちの絶版資料の「摘録」を積み上げませんか。わたくしは皆さまの「摘録」にアクセスしたいと思います。
 わたくしは和文のブラインドタイプをしますから「摘録」の入力も特に苦行ではないんですけれども、この作業に一定時間を使いますと、新著の執稿のために費やすべき余暇は減ってしまいます。もうそろそろ版元から催促が来る頃です。次作では、古代から現代までの日支対立と国体について考究できればと思っています。こんどは皆さまの「摘録」を参考にできましたら幸いに存じます。摘録はその人が興味を持った部分しか出ぬわけで、その人ならではの関心が反映されるところが乙な具合でありましょう。
 ところで『東京あけぼの』の連載は、これは45歳の著者冥利に尽きる仕事でして、たったあれだけの字数ですが、毎月10日間くらい、あの連載のためだけに費やしております。作家も中年を過ぎると「古典を読み直さなければ」と思ってもその時間は無いでしょう。それが原稿料をいただきながら可能なのですから、この上もない仕合せだと感謝しております。


摘録とコメント。

▼江橋英次郎『航空兵魂』S19-2
 著者は陸軍人。
 海軍航空は大正2年に爆弾投下の試験をしたのが最も早い(p.63)。
 青島の爆撃では、はじめは弾頭を下に向けたまま落下させるために小さい気球をつけて投げつけたが、成績きわめて不良。よって鉄板の矢羽根を弾尾につけた(p.71)。
 大7-8~大11-8までの間、シベリアに陸軍偵察機×31、P×15が出動。
 WWⅠ中、イタリアの要請で操縦将校20名、職工100名からなる航空団を派遣(大7-10)したが、11-11休戦で参戦機会を逸す。
 しかたなくカシノコスタ飛行学校で10ヶ月伝習をうけて帰朝した。
 フォールが来朝したとき山縣は「何事も自立が肝心だ、しかし今は彼れ等に教はるのが早手廻しだ」といったらしい(p.80)。
▼くろがね会 ed.『海軍報道班作家前線記録 第二輯 闘魂』S18-2(3万部?)
 BANDA島とは、「黄金の実が生る樹」の意。パプアとは縮れ毛の意。
 オランダ領東インドにはV.K隊(破壊隊)あり、宣教師らもその一員。新旧両派あり、ニューギニア南部はカソリック、北西部はメソジスト。
 いまのニューギニアには、お祖父さんの頃には人も喰ったことがあるという伝説を持ったワレス族が、ずっと奥の大山脈地帯に住んでいるにすぎない。
 村上元三いわく「華僑は世界の蝿だ」(p.115)。
 海野十三いわく「マーチンB27(?)」は果敢だ。
▼尾川正二『極限のなかの人間』1983
 マラリアの恐怖は徹底して事前教育されていた。だから1匹に刺されても心配した。
 しかしアクリナミンはあまりにも苦いので飲まない兵隊もいた。
 土民は男は赤い腰巻、女は腰蓑。体臭が異様にはげしい(p.22)。※水木しげる氏によれば、それはマラリアのため体を水で拭けないからであると。
 マッチは防水を完全にしないと、湿気で頭部が崩壊する。兵器も、朝べたべたに油を引いておいても、夕方には錆が浮く。鉄製の将校小売に入れた新品軍服は折れ目から溶解する。
 シナでもそうだが戦場でいちばん落ち着けない場所は、娑婆とは逆で、風呂と便所(p.35)。
 30過ぎればもう老兵。
 警報ラッパは「ヒコウキガ トンデキタ」と聴こえる。
 ラバウルからの潜水艦が入港してコメが卸下されるが、ゴム二重袋が浸水して黴びていることがある。
 三個小隊編成の中隊は165名、四個小隊編成の中隊は261名。長含め。
 連隊長はジャングルの中で、食えるものは何でも手まめに拾えと訓示(p.67)。
 防寒具になるものは、150センチ平方の天幕だけなので、2000m級の山地の夜は参った。
 塩をとらないと、汗がまったくべとつかない。さらっと乾く。
 コメよりも塩が欲しくなる。また、「動物質への渇きが、全身をつき上げてくる」(p.75)。
 「動物質の欠如、疼くようなからだの渇き」(p.103)。
 若い土民はたいてい、ピジン・イングリッシュが通じた。
 乞食のこつは、とにかく現地人の言葉を使え。片言でも。
 ピジンは若い男だけに通じる。f音はpとなる。火は「パイヤ」。※幕末日本人と同じ。
 栄養失調の神経痛で、右手首が2カ月間、まったく動かないことあり。
 「出陣以来の垂れのついた戦闘帽」(p.83)。
 陸士出身者が「貴様」をよく使う。
 北支戦線では、1日に40km歩いた。これが60kmになると、「五体はきしみ、五臓は顛倒する」。装備の重さで腰の感覚がなくなる。ついには炎天下で寒気を覚える。
 敵と遭遇するとこの行軍を中止できるので、みな、喜んだ。
 ニューギニアではさすがに湿気の関係でこれほどの強行軍はありえない。
 腐敗して蛍光を発する木を背嚢に縛り付けて誘導の目印にする。
 擲弾筒のタマは1万発に1の割合で、腔発を起こすとされていた。だから実弾演習は遠隔操作で引き金をひっぱった(p.151)。
 K上等兵が実戦で擲弾筒を続けて6発くらい発射したとき、事故が起きた。Kの左手は吹き飛ばされ、頭部もめちゃくちゃ。筒は部分は花のように砕け散っていた。
 佐賀県で生まれ育った朝鮮籍の特別志願兵の最期のことばがアイゴー・オモニーであった。
 兵隊の1ヵ月分の俸給は10円(p.159)。
 野ねずみは罠でとり、もぐらは野焼きでとる。
 ジャングル内で砲弾は「ビシャン」という音をたてて炸裂する。
 人の頭に弾丸が当たるとポクッという鈍い音が聞こえ、力が抜けたように死ぬ。
 各人は防蚊頭巾と防蚊手套[てとう]を携行し、1個分隊用の蚊帳も用意。
 南方の蟻はものすごいもので、ライオンが蟻に負けたという寓話は、ありえた話。
 ブキツという国では男女とも一糸もまとわず。しかし余所者の裸は困るという。
 言霊信仰があり、トウモロコシを撒くときに決してトウモロコシと言ってはいけない。言うとそれをモグラに聞かれてしまうから。
 豪州軍に降伏するとき、銃の御紋章を帯剣ですりつぶした(p.224)。
 一度に食いきれない小魚は煮沸して乾かしていりこにする。
 豪州軍がそろえていた小冊子の中に“Japanese Eta”なるものまであった(p.240)。
 収容所からは空母『鳳翔』で帰国した。とちゅう、病没者が出ると、いちいち停船して、水葬にした。
 浦賀に上陸すると、青天白日旗をかかげたトラックが罵倒と揶揄をあびせながら驀進してきて老人を跳ね飛ばして過ぎていった。
▼航空文学会『陸鷲戦記』S17-10
 比島の既設飛行場。クラークフィールド、カバナツアン、バギオ、デルカルメン、イラガン、タルラック、ニコラスフィールド、リマイ(バターン半島)、カブカベン(バターン半島)、コレヒドール。
 またセブ、ネグロス、パナイ、ミンドロ島には、秘密急造滑走路があった。
 バッファローは爆弾90kg積む。
 メシ食ってるとき不時着情報入ると、整備兵は咽喉を通らぬ。
 機附きや整備兵による離陸時見送りは、支那事変後半で廃れ、南方戦で復活した。
▼アントン・オーホルン『大軍を率ゐて』大2-5
 乃木学習院院長が、子供用に訳せといい、吉田教授、安楽直治が分訳、さらに猿谷不美男が子供向きに抄訳。
 ナポレオン戦中のドイツ(ザクセン?)軍部隊の話。当時の記録を参照したフィクション也。
 この独部隊は仏軍の一員としてモスクワ攻めに参加。
 けっきょくドイツ兵数千人がロシアに仆れた。
▼小糸忠吾『日本と国際コミュニケーション』他
 UPのビッケル社長は、1917の赤色革命以来、ロイターおよびアバスが、ソ連の八百長報道に終始してきたと。W・ミルズは“戦争への道”で、WWⅠ中アメリカの新聞がいかに外国通信社電により惑わされたかを明らかに。リップマンとC・メルツは、1917~1920に新生ロシアのできごとがAPおよびNYTによっていかに誤って報道されたかを公表した。
 1851-11にドーバー=カレー海底電信。
 1865-3ロンドン=カルカッタ海底電信開通。
 1866-7、ATTによるアイルランド・バレンシア=カナダ・ニューファウンドランド。すでにATTは全国電信網は整備を終えていた。それまでは欧州のニュースは快速船でハリファックス港沖に届くまで2週間かかった。9月、並行海底電線も完成。
 1869にボンベイ=アデン。
 1871-6-13に印度=シンガポール=上海=香港の海底ケーブル。
 1871-6-26に上海=長崎が開通。
 1873にシンガポール=豪=サイゴン=上海。
 1873-2-17に東京=長崎。
 昔のロイター電は通信料金節約のためラテン語を使って英文字句を簡略化しており、一般人が傍受しても読めたものではなかった。
 1916-6に北海道の落石中継局からペトロパブロフスクに初の国際無線。ついで1916-11船橋中継局からハワイに向けて。そこからサンフランシスコに転電。1921、磐城局から直接、米本土に出力400kwで飛ばす。
 1917にロバート・ランシングは、傍受し暗号解読したZimmermen電報をAPに公表させた。
 1924頃、仏独から日本へニュースを送るには4~8時間かかった。
▼雑誌『選択』バックナンバー ※学生時代に都立日比谷図書館でメモったもの。
 大慶油型原潜6100~6900トンは、2500km級ミサイル×12を積み、1990までに12隻完成させ、常時8隻を、ベーリング海からアラビア海に展開し、ソ連を狙う。チベット、新疆、東北に建設中のマイクロウェイヴ通信網で指揮する計画。(1983-2月号)
 仏から持ち帰った再処理プルトニウムのなかにはPu240が12%含まれるのでさらに精製しないと核分裂爆弾にならない。再処理前の使用済み核燃料は数秒間被曝しただけで死ぬほどだが、再処理後は微力なアルファ線のみなので、Puを紙一枚の手袋で持ち上げてもOK。ただし手に傷がある人はダメ(1983-7)。
 Mig-25のエンジン取り外しに2時間かかった。これは前線整備は考えていない(1983-9)。
 ウスチノフ国防相は、パーシング2に対しては全面対米核報復をすればよいとする政治家。オガルコフは、対米第一撃武装解除が不能である以上、通常戦力を重視せよという純軍人(1984-7)。※つまりウスチノフは米ソ戦などありえん派で、オガルコフはやらねば派だった。
 昭和60年度から首相官邸に工事するキャプテンシステムは要するに各省庁のデータベースにすぐアクセスできるというだけのもの。ランドコーポレーションや英戦略研究所の日本版と言えたのは、満鉄調査部(1984-6)。
 国際通信の紳士協定では、通信の意識的なツー・ホップ(転電)は禁止。しかし英国は伝統的に転電を武器に国際通信シェアを拡大してきた。インテルサットの回線利用シェアも日本の3%に対し12%ある(1984-6)。
 トルコは「もしイランが、イラクはもちろんクウェート、ヨルダンなどに侵攻すれば、一戦も辞さず」と凄味をきかせている(1984-9)。
 南アの白人科学者が、南アが黒人だけに致命的なウィルスを研究してナミビアの刑務所でテストしていると国連機関に内部告発(1984-9)。※ディスインフォメーション?
 オガルコフはロシア語を話せない低学歴の兵隊は役に立たないと強調。ソ連ASATはECCM上、レーダーホーミングから赤外線式に代えたとたんに命中率悪化(1984-1)。
 ウォールステッター、ヒッチ、カーン、シュレジンジャーが、ゲーム理論に基づく「警告→エスカレート」主義を生んだ張本人。いずれもランドコーポレーションに拠点あり、マクナマラ時代に国防省の高官に任命された(1984-2)。
 ミニットマンのサイロをマルパクしたのがSS-13のサイロ。イリューシン86はB-747のコピー。イリューシン76はC-141のコピー(1984-4)。
 長野県では教育委員会ではなく校長会が教員人事権をもつ(1984-4)。
 フランスの現在の核戦力増強計画によれば、4000km以上級核ミサイルのRV数は90’s初頭までにいまの三倍の500個となる。ちなみに米のINFは572基だ。
 西独に対する攻撃に仏がどう対応するかはわざと不明瞭にしている。不明確戦略という。フランス独自の核抑止力「フォルス・ド・フラップ」。米が大量報復戦略を柔軟反応戦略に変えたとき、ドゴールは米の傘を離脱し、核武装した(1985-7)。
 プルトニウムを使うW82(155ミリ砲用の中性子砲弾、長さ85センチ)は、1960’s配備のW48の代替だが、1発300万ドルもするのを陸軍は1000発要求し、1986から欧州に配備の予定。203ミリ用の新弾頭はW79。
 1945に原子力の文民管理原則をトルーマンが定め、製造から引き渡しまでエネルギー省原子力委員会が専管し、軍はアクセスできない(1985-11)。
 1977-3にソ連は200浬漁業水域を設定し、日ソ漁業条約は廃棄され、オホーツクとベーリングのサケマスは全面禁漁だと通告された。同年、オホーツクから米東海岸を狙えるSS-N-8×18基積載のデルタI、II、III級原潜が、太平洋海域に初めて姿を現す。
 1986-2に底刺し網が全面禁止に。また樺太東水域での着底トロール禁止。1985は196隻のトロールと110面の底刺しが展開していた。
 1982頃はペトロにデルタ×10隻いたが、作戦待機海域は中部太平洋だった。
 85-4、サハリン東の穏やかな海で深度350mのそこびきをしていて「網が深みに落ちた。船が回らない」と僚船に伝えて沈没した第71日東丸124tは、おそらく原潜により引きずり込まれた。太さ5cmのワイヤーロープが、全長2kmの中央部で切断されていた。同海域は86年に「着底トロール禁止区域」となる。
 アメリカは1981-11に『オハイオ』をワシントン州バンゴール基地に置いた翌年、北洋米海域でのズワイガニ漁を禁止している。米国防総省は、有事にはソ連SSNがバンゴール周辺に機雷をしかけるだろう、と予測している(1986-5)。
 1986-2のパリにおける独仏定期協議で、ミッテラン大統領は、仏の抑止用戦略兵器をドイツ領土で行使してもよい、と宣言。その場合、西ドイツとは事前協議するが、決定権は仏にある、と(1986-4)。
▼『明治記念帖 乾・坤』大3-3?
 秋田の小坂鉱山の銅山精錬所の写真。藤田組。
 ちゃんと煉瓦煙突をナマコ丘の上に建て、下の工場から煙路でつなげている。
 日立鉱山の写真では、阿呆煙突がモクモクと……。その左には大煙突が建築着工されている。大煙突基部へは∧形に下から煙路を這わせてつなげている。
 ムカデ煙突はそのずっと左にY字形に見える。※よって『日本の高塔』のキャプションは間違っていました。スイマセン。


『孫子』強調の意味は「対米雌伏」、そして……

 新聞をとっていませんもので、後になって知ったのですが、訪米した中共の大物が、冊子の『孫子』を米国大統領に贈呈したのだそうですね。いったいそれは英語版だったのでしょうか。だとしたら誰のどのような訳でしょうか。
 そういう興味はともかく、この冊子のプレゼントによってシナ指導部が米国要路に伝えたかったメッセージは単純です。「シナはアメリカに対し、核であれ非核であれ、こんご、正規の戦争を挑むことはありません」と匂わせたのです。
 ──だいたい「算」が無いのに真っ向勝負を挑むわけがないでしょう、ウチはいま「国を全くする」だけでもたいへんなんですよ、もしやるなら、「戦わずして人の兵を屈する」ようにするでしょうよ、強いこと言ってるのは内実が弱いからなんですよ、ウチの核ミサイルなんか飾りですよ──だからアメリカの皆さんよ、米支戦争があるぞあるぞとマジになってヒートアップするのはやめてくださいネ……と宥めたかったわけです。
 それから、シナ指導部は自国軍の若手指揮官連に対しても『孫子』を配って読ませているらしい。
 これは何を意味するかと申しますと、「お前ら、己れを知れ」です。やはり国内に対してもクーリングダウンを誘導している。
 いままで愛国宣伝で シナis(or, will be)ナンバワン! ……と煽りすぎました。「よーし、アメリカと戦争して勝ってやる」なんて勘違いする馬鹿も増えてきた。これでは行く末ヤバイ。
 だから、「シナ軍はアメリカ軍には勝てない。それを自覚しろ。だが腰抜けの日本なら、戦わずして屈してやることはできる。リアリズムを学習しようや」と教育しているのです。
 ダブルオーセブンのこの前の朝鮮版で、たしかラストに『Sun-Tzu』が出てきましたね。もっと前の別な版では悪党の屋敷のワーテルローのジオラマの上でラスボスが死んで、主人公は「お前のウォータールーに会ったな(ナポレオンのように幸運が尽きて終わったな、という意味の英人の慣用表現)」をかましていました。シナ軍人の依拠する古典が孫子だということは冷戦期以降のアングロサクソン指導部にとっては新しい情報じゃありません。その陳腐と思われている冊子を敢えて持ち出して中共は何を訴えたかったか。そこには軽い意味はないと思いますよ。
 ところで、東京裁判で一度も証人として口を利かなかったという木村兵太郎の私家版の伝記のようなものはどこかに存在するのでしょうか。ご存知の方はいらっしゃいますか。
 それから前の毒ガスの話の追記ですけれども、大正七年あたりでは日本陸軍は毒瓦斯のことを「特種兵器」と呼んでいたと思います。
 後に、「特種演習」といえば、それは主に化学戦の訓練を意味しました。
 満ソ国境を想定したトーチカ攻撃演習も「特種演習」といったそうなのですが、おそらく、兵頭私見では、これも対ソ開戦では先手必勝で瓦斯を使うつもりだったからではないでしょうか?
 ところが日本も批准していた国際条約の精神で、毒ガスは先には使わないということになっていた(敵が使ってきたら、やり返してもよかった。それで各国とも、ガスのストックだけはしていた)。
 それで旧軍が降伏するときに、ポツダム宣言が「戦犯を裁く」と言っていたのが気にかかって、所持だけで戦犯容疑をかけられて収容所送りにされるのも厭だと思い、化学兵器だけはソ連や国府に引渡さずに勝手に埋設処分したという可能性は十分に考えられるのではないですか。ましてシナでは「あか筒」を使いまくって恨みを買ってもいたわけです。
 昭和20年8月の関東軍が毒ガスを使わなかったのは当然で、負けると分かっている戦争でガスなんか使ったら、ただちに戦犯裁判にかけられて指揮官は刑死必至、国体も危くされるからです。参本作戦課は、日本からソ連に満を持して奇襲開戦を仕掛けるときだけ、致死性の毒ガスを使う気でいました。それが国際条約違反であることは重々承知でしたが、小軍が大軍に勝つためにはパリ不戦条約違反を含め、なんでもやるのだというのが、明治いらいエリート参謀の学んだドイツ流の戦争観だったんです。満鉄をあくまで日本陸軍の私物にしておく(そのためには満州事変すら起こす)必要がありましたのも、そうでなくては全満の鉄道網を対シベリア・沿海州の奇襲開戦に、うまく役立てられなかったからでした。
 ここでわたくしが今更のように知りたいことが幾つかあるのです。ひとつは、旧軍がシナで「きい」剤を実戦使用した記録があるのか? わたくしは見たことがないのですが、どの部隊がいつどこで使ったというのか?
 「きい」剤を使ったらそれだけでB級戦犯で死刑は免れなかったと思うのですが、その記録はあるのでしょうか。あれば中共が大々的に宣伝してると思うのですがね。
 だいたい満州ならともかくどうしてシナに「きい」剤その他の致死性ガスなどを運んでおく必要があったのでしょう。それは関特演がらみでしょうか? 解明できる方、期待しております。
 (余談ですが関特演が「特種演習」と表記されたことが当時本当にあったのだとすれば、やはり対ソ奇襲開戦では参本はガスを使うつもりであったのが、つい字面に反映されたのではないでしょうか。)
 大いに知りたいことのもうひとつは、ソ連やシナが「昭和20年に降伏した日本軍から致死性のガス弾のストックをこれだけ引渡された」という記録、または、日本軍としてこれだけ引き渡しました、という記録が一つでもあるのだろうか、ということです。『正論』6月号を見て、それはなかったんだと驚いている次第です。てことはガス弾処理問題に関しては外務省は案外マトモ? でもそれなら外務省はなぜ自己弁護をしない? 誰も彼も、胡散臭すぎる印象があります。
 張作霖軍も毒ガスを装備していたことなどの記録につきましては、過去に兵頭の著書の中で幾度か紹介した記憶があります。ご興味ある方は絶版本をひっくり返してみてください。著者もどこに書いたかすっかり忘れております。
 それから国共内戦で国府は日本軍から押収した「あか」や「きい」を使っているでしょうか? たぶん、無いですよね?
 あ、それと「しろ」剤の疑問は一発で解けました。googleは凄いや。


摘録とコメント

▼清沢洌[きよし]『日本外交史 上・下』S17年、東洋経済新報社pub.
 1921海軍制限国際会議を提唱したボラーは、ウィルソンの国際連盟案に最も強く反対した男。
 尾崎行雄はかつては、日清開戦の急先鋒であり、また大正3年には国務大臣として大隈内閣の二箇師団増設に賛した。
 日英同盟に未練あったのは、首相ロイド・ジョージ、外相カーゾン、海相リー、バルフォア、オーストラリア、ニュージーランド、及びインド。カナダが米の意を受け反対(p.402)。
 米英2洋分担の提案者はリー。
 会議前のワシントンでヒューズと幣原大使が頻々と会見するので、カーゾンは英国を除外することの苦情を林大使に云った。
 日本全権。加藤海相。徳川貴族院議長。幣原駐米大使。埴原外務次官(はじめ随員、のち全権昇格)。海軍専門委員として加藤寛治。※政治家がいない。
 米はヒューズ国務長官、ルート上院議員、ロッヂ上院議員、アンダーウッド上院議員。
 英&帝国はバルフォア樞相、リー海相、ピアース豪国防相、サルモンド新西蘭大審院判事、ボルデン前加首相、サストリ印度行政参事会員。随員ハンケーは陸軍出身で内閣書記官長になり諸事録を作った。
 ヒューズ提案におどろいたのは、ふつう会議は儀礼的式辞に始まるのが常だったため。「この計画」の秘密は最後まで保たれて毫も外部に漏れなかった。※秘密保持のできるシビリアンであって、はじめて政府としてプロ軍人を黙らせることができる。
 加藤の太平洋防備提案に米海軍は反対せしも、ヒューズはそれを抑えた。
 この会議に終始賛成の清沢いわく、「即ち米国は日本と戦争する場合に、少なくともハワイを基地とせざるを得ず、そこから行動して米国に戦勝の見込みはない」。だからシンガポールを借りるしかない。
 同盟存続を主張する濠州及びニュージーランドも、日本との接近提携を図らんとするものであるよりも、寧ろこれによって日本の行動を控制せんとする内意をふくむものである。
 1919-4-7、パリ講和会議で米大統領に随行したベンソン提督提出の「アメリカ海軍政策」の中で、イギリスの狙いは、海底電線、無線電信、商業航空、海運、燃料上の便宜、燃料資源の6つを支配することだと。
 12-1、加藤がバルフォアに太平洋問題を持ち出す。
 12-12、ヒューズは日本が5:5:3認めるなら、またハワイを含めず、日本の島を要塞規制対象に含めるならOKと。
 12-15、陸奥問題決着。また、太平洋合意を発表。
 その発表について文句。
 その文句に対し、「琉球以外に海軍根拠地候補地なし」と。※根拠地は要塞より格下。
 結局、アリューシャンと引き換えに、小笠原、奄美の非基地化を約束したのが第19条。
 ※この会議のあと、米国は日本の仮想敵ナンバーワンになった。
▼東方通信社調査部 ed.『華府会議大観』大11
 Sir Aucland Geddes は駐米の英大使。 Elihu Root は前国務卿。M.Jusserand は仏の駐米大使。 駐米大使の全権参加はどの国も常例。
 ロッヂは比率相談の前に4国協案を発表し、その大前提にヤップの解決を必須と宣言。
 4国条約第1条のinsuler possession (or, dominions)が日本本土を含むかについてのヒューズの疑義は、12-20午後の記者会見で表せられた。
 その1時間後、ハーヂングが記者会見し、日本本土含まないと打ち消す。
 その夜相談し、21日ヒューズは、日本本土含むと再確認。
 「日本本土含む」に本国で反対したのは、ボラー、リードの2上院議員(p.122)。
▼斉藤直幹『国防経済研究』第1号、1936
 華府会議では3000tの水中防禦、馬力upなどの改装がみとめられたため、日本は以来、1億2600万円もそれに投じ、すこしも軍縮になっていない。
▼長沼毅『深海生物学への招待』1996
 チューブワームは1977に発見された。口も消化器もない。
 海で一番深くまで達する光は青色。日本語の赤いはあかるい、黒いはくらいに源がある。
 深海生物が赤いのは、青色を吸収して黒く見え、背景の闇に隠れられるから。
 海洋の平均深度は3800m、陸地の平均高度は840m。陸地をぜんぶ平らにすると、地球は水深3000mの海球になる。
 海の表面の数十mまで、海水がよく混じるので温度変化が少ない。そこから下は600mまで水温が急低下し、それ以深で一定。
 200~600mの途中で水温躍層がある。それ以下は4℃~0℃しかない。
 人が息苦しさを感じるのは酸素が足りないのではなく二酸化炭素の増えたせいなので、水酸化リチウムで二酸化炭素を吸収する。
 二酸化炭素の濃度が10%になれば意識はなくなり、25%以上では数時間で死ぬ。
 チタン合金は真空中で電子線ビームで熔接するしかない。
 深海魚の浮き袋には空気ではなくワックスが入っているので潰れない。豆腐やこんにゃくも水圧で潰れることはない。
 低温で育つ生物の細胞膜には不飽和脂肪酸が多く、それで柔軟性を保つ。
 500気圧以上ではネズミの細胞骨格のタンパク質が構造を保てない。
 紫外線は水中数十mで無影響になる。
 深海生物は紫外線には無力で、照射されるとイチコロ。
 374℃以上では、いくら高圧にしても、純水は液体としては存在し得ない。
 メキシコ湾沖には海底から原油が漏れ出している。石油があれば硫化水素ができ、そこにチューブワームが集まってもいいはずだ。
 サンタバーバーラ沖も海底から原油が染み出していて、船で近づくとすでに石油臭く、その臭いが風向きによっては町まで漂う。しかしチューブワームは発見できていない。
 海水にもっと鉄分が増えれば、光合成が増すという仮説がある。
 金属硫化物パイライトは fool’s gold と言われ、金色。
 窒素80%の大気を水深40mで吸うと「窒素酔い」となり思考力が低下し多幸感がもたらされる。50m以深では、ヘリウムと酸素の人工空気でなくてはならない。それでも潜水病の危険はある。
 飽和潜水によれば500mまで生身の人間が潜れる。あらかじめ加圧室で予定深度の人工空気に体を慣らし、エレベータで現場へ降り、数日間の海中作業ののち、また減圧室でゆっくり元の気圧に戻す。
 ダイビングスーツは宝探しの欲望が進化させた。現在では500m耐圧のものがある。
 1951にマリアナ海溝に世界最深の10863m地点が発見された。それ以前のレコードは軍艦「満州」が測深した9818mだった。
 火山学者は海洋学者よりも怖いもの知らず(p.223)。
 アルビン号の場合、人の乗った耐圧部分だけを分離して緊急浮上させることもできる。
▼西沢利夫『航空機・宇宙産業』S62年
 民需主体社はエアバスとボーイングのみ。
 Propfan もハミルトンスタンダードの提案(p.44)。
 航空機用エンジンは、コンピュータより数倍もトン当たり価格が高い。
 リチウムは密度最低金属でアルミの1/3のみ。
 ベトナム特需ピークは1968年だった。
 DC-3が成功しすぎたため、ダグラスのジェット化は遅れをとった。
 グラマンもF-8Fにこだわりすぎ、同じ末路に……。
 グラマンだけが東海岸に本拠を置く。
 RRが倒産した時、技術者はGEに流れた(p.276)。
▼シャープ&ウェストモランド『ベトナム戦争に関する報告』S44
 北ベトナム内へのナパーム攻撃は、ローリングサンダー6までは禁止。
 捕虜いわく、B-52が最大の脅威だった。
 1964にRPG初使用。1966、それが著増。
 120ミリ迫は1966初使用。
 河戦でのトレンチフット(浸水足)対策として、2日交替制をとれ。
 1967-2にレンジ8000mの140ミリのソ連製ロケットが投入された。
 1967-7に、射程11000mの122ミリのソ連製ロケットも現出。
  ※これらが日本の共産主義者の手に渡らなかった理由は何か。
 1967-2-22、ナムにおいて初のパラ降下。
 ベトナム軍は日本製70ミリ榴弾砲まで使っていた(p.327)。
▼G・B・マレソン『印度に於ける英仏争覇史』大沢良蔵 tr.S18年
 “History of the French in India” 
 セポイのアイディアはフランス人。
 フランス人はいかにドジか(p.433)。
 ナポレオンが1814に帝位を失ったのは、自尊心という感情に支配されたため。
▼『水木しげるのラバウル戦記』1997、初1994
 南方に向かう一個大隊が600人くらい。
 パラオからラバウルに向かう輸送船が、あのバルチック艦隊発見の信濃丸のなれのはてだった。ペンキを節約しているので、もうおしまいだと思うほどみすぼらしかった。7ノットで進んだ。
 ビルマからラバウルまで使役で連れてこられた老印度兵もいた。
 ココボの慰安所は日曜か祭日の営業で、沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」と呼ばれていた。軍隊も日曜日は休み。
 土人は子供でもタバコを吸う。20歳の水木はタバコを吸わなかった。
 20機以上の「ロッキード」(P-38)と3機の零戦の空中戦の下で洗濯をしていたら近くに空戦で発射された機関砲弾が落ちてきた。
 マラリア対策にアクリナミンという黄色い薬を渡される。
 土人は夜、木魚のようなものでポクポクと連絡している。
 ニューギニアでもアフリカでも現地人に嫌われたことはないがアラブ人はだめだ。写真をとると激怒する(p.49)。
 バナナは実は30種類以上あることが分かった。
 ラバウルのバルチン山に登ると、下で作業しているさまから話し声まで聞こえるので高地の価値が分かった。
 大発ほど便利で無駄のないものは初めて見た。
 ココボから前線に行く直前に金属製の「認識票」を貰う。
 大隊長は27歳の大尉だった。
 大発には40人の兵隊、すなわち1個小隊が乗った(p.69)。隊長は特別に連隊本部からきた中尉。
 全部に大砲を搭載し、前面のランプを上げずに大発は夜出港した(夜しか動けない)。大発はタンタンタンというエンジン音がある。
 豪州兵の死体から靴をとってきたら、古兵たちに元にかえしておけといわれた。
 陸軍ではめしだけは初年兵にも平等(p.81)。
 波の音は海岸よりも山に登るとよけいによく聞こえた。
 半年いると、美味い椰子の実の識別ができるようになる。
 サイパンがやられたときのラバウル空襲は見ていてすごかった。また魚雷艇が山の上の宿舎を銃撃してくる。
 豪州で訓練された自動小銃をもった土人をナンバーテンボーイと呼んだ。
 靴下4本に詰めたコメはすでにかなり重い。缶詰は牛缶ばかり4個、小銃弾150発、鉄帽。
 文字の書けない船大工の兵隊がいた。
 分隊も土人を雇う。ソルジャーボーイという。しかし敵のスパイであることもあった。歩幅で宿舎の大きさを測っていた。
 洗濯物は岩に貼り付けておくと30分で乾く。
 海軍基地では給養がよく、陸軍のようにくたびれていなかった。
 行軍中に小銃を1発射っても必ず銃腔掃除をしていた。
 土人は蚊避けのために屋内で火をおこして寝ていた。
 1本だと暗闇の中でまったく目立たず、しかしそれを投げて一箇所にまとめると派手な炎となるたいまつを土人は持っていた。
 土人も珊瑚の上を裸足で走ることはできない。
 マラリアに水浴は禁物で、うっかり手拭で体を拭いただけで40度の熱が出て、暗い穴の中で1週間も寝ることになる。
▼マキアヴェルリ『ローマ史論 I、II』大岩誠 tr.S24~25
 ※歩兵を徒士組、騎兵を馬武者組と訳す。
 人間は必要に迫られてこそ善を行なう。
 共和国に戦いをしかける目的は二つしかない。その国の支配者になることと、自国が支配されることを防ぐため。
 人間の世界では何ひとつ永久不変のものはないのだし、物はみな静止したままではいられない。
 スイス人は古代人を偲ばせる唯一の国民(p.82)。
 ローマ軍が鳥卜に逆らって戦勝した話(pp.87-8)。
 ベネチアのように非常時には少数市民に対策専断権を与える制度を持て。「こういう権力を認めない共和国では、国家が厳重に法律的形式を尊んで亡国の悲運に陥るか、国家福祉を求めて法律に背くかの二つに一つの外にみちはない」(p.153)。
 乱民は導けるが、乱主をさとすスベはない。
 多くの史家は、ローマの覇権は武勇よりむしろ幸運によった、と。※→英帝国についてのシーレーのレトリック。
 昔の方が「今よりもはげしく男の子を欲しがったので、今日より遥かに人民の人数も多かった」(II、p.32)。
 キリスト教会は過去の歴史記録を抹消した(p.45)。
 フランス人のいわゆる大軍即決。コルテ・エ・グロッセ?
 ガリア人は移住のための皆殺し戦争をした(p.54)。
 モーゼもそれをやったのだ(p.56)。
  ※皆殺しだからゲルマン慣習法では侵略者に正義があるとして文句が出ない。そして奴隷が発生しない。しかし英国内では皆殺しが起きず、その結果、既存王権の尊重と、反慣習法たるエクィティが意識される。
 大地から離せば不死身ではなくなる、との古神話は、国外におびきだして敗戦させた故事の比喩(p.73)。
 「敵地の真只中にいる軍兵どもは、どうしても戦わねばならぬといふ気持も強くなる。……この強制こそ勇気を鼓舞する原動力なのである」(p.74)。※同じことを三巻96頁でも。
 日頃武装を整えている国民なら国内で、ひごろ丸腰の国民は遠くで戦え(p.77)。
 策略の必要は、クセノフォンの労作から学んだ。
 密集隊形で大砲や城壁にむかわなければならない。イタリア式散開はダメだ。※こういう有力意見も過去にはあったわけである。
 解説。「支配するには仲違いをさせろ」はローマ人の言。
 ポリュビオスは批判的に、リーウィウスは賞讃的にローマ史を書いた。
 本書は君主論より後に書かれた。
▼軍事史学会『軍事史研究』vol.1-2号、S11 ※1960から『国防史学』?
 ▽原田二郎「易城」
 「金木水火生境家土」「地に金木水火の地、西高向東を金性と為す」
 ▽有馬成甫「地聴に就て」vol.1-5号
 シナの甕。三方向に口がある。その口に薄皮を張り、井中に土におしあてて、敵の攻兵が坑道を掘っているのを探知する。
▼『国防史研究』No.3、1962・ 佐藤堅司「宮本武蔵の兵法観…」
 北条氏長は1609生まれ、武蔵は1584生まれなので、交流があってたもおかしくない。
 無構=無形だ。
▼『軍事史研究』No.8、S39 ※「国防史~」からまたまた改名。
 升本清「幕末の築城」
 幕末日本に導入されたオランダ築城書は……。
 カルテン「海上砲術全書」1832
 ベウセル「砲術書」1834
 エンゲルベルト「海岸要塞」1839
 ケルクワイク「築城術」1846
 メルクス「築城法」
 サファール「築城原理」(仏書の蘭訳)
 パスチュール「工築ハンドブーク」「工兵学」
 五稜郭はアーチ技術が未導入だったため露天砲台となり、艦砲に心理的に抗堪できなかった。復座斜板の着眼もなし。旋回砲架、ひとつもなし。
▼雑誌『海軍』某号
 subの備砲はWWⅠ中、商船破壊のために必要になったが、商船の自衛火砲に対抗するため、大口径化したと。
▼A・M・Kotonev『支那軍事史』1940訳
 ※ロシア人が孫子に言及している早いもの。
 シナ兵は死ぬ時に誰の名も呼ばない。
 管子は孔丘の150年前の人。E・H・パーカーが訳している。
 墨子はいかなる進撃にも反対したが、専守防衛の実際を考究した。
 ジャイルズ訳の『孫子』がロンドンで出たのは1910か?
 管子は哲学者だったが孫子は職業軍人だった(p.25)。
 ジャイルズで読んだ著者は、古代兵の士気について誤解している(p.29)。
 1661に明の鄭「国姓爺」成功は、軍を率いて台湾に渡航し、オランダ人の要塞ゼランディアを包囲して降伏させた。
 シナ兵は旗や紋章を失っても何とも思わない(p.64)。
 太平党は、側面を騎兵に守らせた密集歩兵。
 袁世凱軍は、モーゼル、マンリッヘル、少数のリー・メトフォードライフルおよび各カービンを装備。
 孫逸仙「支那で自由を叫んでも少しの注意も払われないだろうがもし財産を作ることを提案するなら民衆はこぞって歓迎しよう」(p.129)。


摘録とコメント(※)。

▼杉村陽太郎『果して強国は醒めたりや』大11
 バルフォアはときどき居眠りした。
 プロ外交官のジュスラン大使とゲデス大使はまるで精彩を欠いた。
 英が報道官ロード・リッデルに毎日数回記者会見させたのに比し、米はプレス宣伝を自制した。
 ルートは法律家の権化にみえた。
 WWⅠで圧倒的な独subは英水上艦を少しも傷つけることができなかった(p.194)。
 ユトランド体験者ビーティ提督と、若手チャットフィールド提督が英に随行。
 米海軍人の随行員は、不得要領のクーンツと、30代のルーズベルト海軍次官。しかし智恵袋はプラット。
 日本は大佐級をつれていった。山梨中将、野村大佐、上田、末次、清河、永野、堀、他。
 ヤップ問題は12-12に解決。
▼参謀本部編纂課 ed.『征西戦記稿』M20-5
 編者のまえがきは日づけがM18-10となっている。
 ※西南戦争での乃木少佐の動きを最も多くのディテールとともに伝える資料。
 この本の前に『軍団記事』という官本もあった。2冊とも、人名の書法は……。
  姓官を書し、名を初出に註す。
  同姓同官の人は逐次その名を註して以てその粉淆を防ぐ。
  戦役中、進級したる者も亦その進級の始めにおいて再びこれを註す。
 題は、研究途上なので「稿本ト証スル所以ナリ 賢者之ヲ諒セヨ」。
 ルビなし。
 初め賊兵の薩境を出て熊本に来らんとするの報あるや谷少将は小倉営所なる第十四聯隊長乃木少佐(希典)に令して小倉の兵を以て盡く熊本に集合せしむ。
 後装銃とはすべてスナイドル銃。
 馬関に後装銃が舟で着いたとき将卒はみな歓喜踊躍し、覚えず声を発す(p.3)。
 このとき1個中隊は4個小隊からなり、計4個中隊あり。
 有名な軍旗喪失劇のオリジナルと思われる語り(p.8)。※すべてはこの孫引きか。
 このとき、将校で死んだのは河原林だけだった。
 中巻。保田窪のくだり。
 20日朝6時から官軍が攻撃。夕方までに全壘を占領し、さらに追撃。山縣と大山も親臨。
 そこで夜営準備していたところへ貴島清の隊が抜刀逆襲。
 しかし21日3:00AMまでに壘を回復。
 この日は全戦線で動かした兵数は陸軍開闢いらいだった。
 健軍と保田窪は、ひと続きの戦場であった。
 山縣は4月1日に村田少佐を大阪に赴かせた。弾薬欠乏が心配のため。
▼大山誠一『<聖徳太子>の誕生』1999
 長屋王木簡を調査しているうちに、聖徳太子伝説を誰がなぜ捏造させたかという当時の政治の構図が見えてきた。
 王族の一人に「厩戸王」がいたことは確か。蘇我系で、宮殿と氏寺を構えられるほど裕福だった。が、記録ではそこまでしか分からぬ。それは聖徳太子ではない。
 いまの美術史の飛鳥時代は聖徳太子の遺品を中心にしてあるが、いかがなものか。
 法隆寺に太子の遺品があるのは不自然だ。
 「太子=恵思の生まれかわり」説は鎌倉時代に問題となった(p.24)。
 憲法十七条は儒教を基本に、仏教も説いている。『礼記』『詩経』『論語』『孟子』『孝経』『文選』の古典が引用されている。
 十七条をシナ人が読んでも違和感はないという水準。604年にただの太子がそんなものを書けるわけがない。とうじは一般の官人すら日常的に文字を使っていなかった。
 674年に唐の高宗が、君主称号を「皇帝」から「天皇」に変えた。老子と唐の皇室が同じ季姓であるため、道教の宇宙最高神「天皇」を採用したのだ。
 これが天武朝(672~686)に日本に伝わり、689の飛鳥浄御原令で正式となり、天武天皇に最初の天皇号が捧げられた。
 だから薬師像の銘文は、天武・持統朝以後に考えられたもので、607年のものとしては偽物だ。
 シナでは天皇号は定着しなかった。やはり道教では支配学として儒教より弱いのだ。
 律令国家となる以前の日本には大王が生存中に後継者を指名するという制度がなかった。つまり皇太子(制)がなかったから、後継をめぐる内乱があった。
 大化の改新以前に日本国内で年号が使用された証拠はない(p.51)。
 推古=トヨミケカシキヤヒメ、のようなものは和風諡号といい、死後に贈られる。和風諡号は、記紀の編纂のために新たにつくられたと考えられる。
 古事記は712に成立した。日本書紀は720に成立した。編纂事業は天武朝に始まっている。
 三経義疏は聖徳太子没後120年以上たってから突如、太子御製として登場した。
 三経義疏はシナ製であろう。藤枝晃が戦後にはじめて指摘した。それを持ち込んだのは遣唐使帰朝組の道慈や玄昉だろう。
 聖徳太子が活躍した推古天皇の時代(593~628)に、蘇我氏を中心とする豪族政治から、大王(のちの天皇)集権国家に転換。
 ※隋から社会技術を学ばねばならなかった。
 皇太子制はシナ由来で、日本最初の立太子は697の軽皇子。これを日本書紀では、神武天皇の時代から皇太子がいたことにした(pp.72-3)。
 戦前に津田左右吉いわく、十七条憲法の精神は君・臣・民の三階級となっているが、推古朝は天皇以外の氏族が優勢で、そんなヒエラルキーはまだなかったはずだ。
 またいわく、大化の改新以前に、国家の民である「公民」は存在せぬと。
 なぜ古事記は推古天皇で終わり、代わって日本書紀の編纂が始まるか。
 古事記の最後に「厩戸王」がみえる。実名は「厩戸」だった。それ以外は後から付加された。すなわち、上宮之厩戸豊聡耳命・うえのみやのうまやどのとよとみみのみこと。
 豊は神主や王族名によく使われる美称。また長沼賢海いわく、法華経に「その耳聡利きが故に、悉く能く分別して知らん」とあるのも参考だと。
 古事記の仁徳以降では、天皇に即位する皇子は「命」と呼ばれ、「王」を称する皇子の中から天皇は出ない(p.84)。
 645以後、中大兄と鎌足は、唐の制度を学習しつつ、唐の高句麗攻撃への対応も考えねばならなかった。
 660に唐は半島南東の新羅と結託して、半島南西の百済を滅ぼした。中大兄は出兵を決心し、663に白村江で大敗。このとき唐人の捕虜を得た。またこのとき留学生は多く帰国した。
 以後、新羅とのチャンネルが維持されたが、唐とは30~40年間、チャンネルが閉じた。しかし残留留学生の単身帰国は可能であった。
 668に中大兄王は天智天皇に即位。同時に近江令を完成。しかし669に鎌足没。
 672に天智の後継をめぐる内乱で天武が勝つが、天武は唐と結託したわけではない。反シナの国是が貫かれた。
 集権国制の完成事業は、さらに持統朝、文武朝とひきつがれ、鎌足の子の藤原不比等が701に大宝律令を完成した。
 702に遣唐船が復活。ただし厳密には則天武后の「周」。しかしシナでは女帝を認めないので、この周朝は無かったことになっている。いずれにせよ唐の最盛期で華やかなときだった。
 対唐戦争以前の『周礼』の知識でつくった「藤原京」は、復活遣唐使がリアルで見てきた首都・長安城とはくらべものにならず劣って見えた。→そこで平城京。
 持統朝のころの太政大臣は、有力な皇族がつくことになっており、もしもの場合は即位も可能で、皇太子に近かった(p.91)。
 古事記の世界とは……。高天原に降臨した神の子孫の神武天皇は、東征し、ついで大和で即位した。そのごヤマトタケルが国内各地を平定した。神功皇后は新羅と百済を従えた。仁徳は聖帝王だった。雄略は天真爛漫に活躍した。それだけ。没哲学。
 シナ皇帝は天命を受け、天子として絶対権力を行使する。日本の律令制の天皇は神として君臨するが、国家の運営は不比等ら高級官僚に任せる。それが古事記。
 だがこれではシナに比べて見劣りがしてしまうと、太政官・不比等は考えた。
 シナでは皇帝が儒教、仏教、道教、文化、芸能の中心に君臨する。その代表格が則天武后。
 吉井巌いわく、古事記最大の英雄のヤマトタケルは、めずらしい王族将軍として602に「撃新羅将軍」に任命され、途中の筑紫で仆れている久米王(来目皇子)がモデルではないか。
 ヤマトタケルには常に賄いの従者として七拳脛[ななつかはぎ]がいた。
 論語は「礼楽征伐は天子より出づ」とするが、日本書紀では礼楽と征伐を、聖徳太子とヤマトタケルに分け持たせた。古事記のヤマトタケルは粗暴者だが、日本書紀のヤマトタケルは粗暴ではない。
 日本書紀は、太子を「一[ひとたび]に十人[とたり]の訴を聞きたまひて、失[あやま]ちたまはずして能く弁へたまふ」と紹介する。
 これは、トヨ・トミミから「十の耳」を連想したのだと明治に久米邦武は解釈した。
 ※侍従武官も勤めたある旧海軍人の講義にいわく。あるフランス人の本でシーザーとナポレオンを比較していると。それによるとシーザーは筆も上手で、自分で作文をしながら秘書を七人も置いて、同時に用を言い付けたと。兵頭いわく、厩戸がキリスト、天馬がアレクサンドロスなら、カエサルもありか。
 文武帝のころ、まだ幼少の天皇の例はない。
 文武の遺児の首[おびと]皇子が成人するまでの間、祖母の「あべのひめみこ」がなかつぎで即位すればよい。それが元明天皇。
 彼女以前に即位した女帝はすべて皇后(天皇の正妻。浄御原令いぜんは大后)だったが、元明天皇は、即位せずに亡くなった草壁皇子の妃で、異例。
 そこで不比等は「不改常典」なるものを捏造した。
 元明天皇は、不比等ではなく長屋王の意向に合わせて、娘の氷高内親王に715譲位。元正天皇。
 不比等は長屋王を右大臣にしないために、死ぬまで右大臣にとどまって、左大臣には上ろうとしなかった。
 元明太上天皇は721崩御。元正帝は724に首皇子に譲位。724聖武即位。729長屋王自尽。
 718に帰国した律師・道慈は、日本で最初の本格学識を身につけた僧侶。それ以前の僧は著述を遺していない。遺すに耐える水準では未だなかったのだ。
 この道慈が聖徳太子に仏教家のキャラクターを与えた。
 道慈がもたらした金光明最勝王経の文章が日本書紀にしばしば利用されている。
 もともと仏典をシナ語にするときに、神仙思想の単語を借りた。そのシナ訳の仏典から逆に、神仙、陰陽などの道教テキストも再構築されている。
 天皇を神として宗教的世界に祭り上げ、その天皇の信任を得て、優秀な官僚トップが政治権力を振るうという図式を日本国に定着させたのは藤原不比等(pp.130-1)。
 不比等は、首を皇位につけたいがために、皇太子という地位の重さを日本書紀で強調した。
 皇太子は偉いものなのだとの実例として、中大兄王だけが、日本書紀の中に、皇太子としての事蹟を紹介された。
 十七条では、官人たちに礼が無いこと、男女間の乱れもあることがいさめられている。そんな時代だった。
 第三条の「詔を承りては必ず謹め」は、君臣間上下の強調。論語の「君は君たり、臣は臣たり」のパラフレーズ。ただしシナと違って、君も臣を使うには礼を以てせねばならぬ、などとは、この日本では強調しない。
 金光明経は天武朝が新羅から輸入した。仏法に帰依すれば四天王が国を護ってくれるという信仰。道慈があとおしした。
 捨身飼虎の説話はその中に含まれている。放生会の由来の長者子流水の説話も。
 仏教の三毒である、むさぼり、いかり、おろかさのいましめは、十七条の5、10、14条に配分された。
 道慈は儒家を厳しく嫌った。
 儒教では、礼のための和である。ところが十七条では和だけが大事とされる。
 もともと修行僧は集団生活だから和は強調された。
 弥勒信仰も道慈が日本に紹介した。
 玄奘は『続高僧伝』に「行蔵[ぎようぞう]時に適[かな]ひ」と讃えられる。
 「年すこぶる稔らず」の「年」は穀物のこと。
 八角堂は故人をしのぶ廟堂的性格だ。廟堂があれば、聖徳太子は実在したことになるので、建設した。
 著者は『新潮45』2000-5月号でもこのテーマで分かり易い説明をしている。以下、その摘録。
 久米邦武いわく、日本書紀、法隆寺金堂の薬師像・釈迦像の光背の銘文、かつて法隆寺に伝えられた天寿国繍帳、三経義疏。これしか歴史学では聖徳太子の史料とはなし得ない。
 書紀によれば、厩戸王(574~621)という人がいたのは確か。この人は斑鳩に、宮と寺(法隆寺)を建立した。
 皇太子という地位は689の飛鳥浄御原令で制度化された。それ以前の推古天皇(聖徳太子の叔母)の時代にはおかしい。
 憲法17条が偽物であることは江戸後期に狩谷という学者が言っている。津田左右吉は、17条の文章は奈良時代の『書紀』『続日本紀』と類似していると指摘。書紀は720年に完成したが、そのころに17条も作文されたのだろうと。
 久米も津田も戦前に大学を逐われた。
 もし聖徳太子がそんなすごい人ならその死は国家的事件である。が、彼の死に際してつくられたという釈迦像や天寿国繍帳についての記事が書紀には皆無。三経義疏についても書紀に記事なし。これはおかしい。
 おそらく法隆寺系の史料は書紀のあとから作られたのである。その逆であるとすれば書紀は必ず法隆寺史料を参照したはずだから。
 では書紀はどうして聖徳太子を創作しなければならなかったか。
 大化の改新で中央集権国家になったは良いが、663の白村江で唐と新羅に大敗。以後、唐からは敵国待遇となり、遣唐使も派せなくなった。
 しかたないので日本は新羅経由でシナ情報を探りつつ、律令国家の確立を急ぐ。
 それは701の大宝律令で一応完成した。
 それと同時に、律令国家を権威付ける史書が編まれる。
 古事記。712にできた。シナ思想が排除され、日本的な天真爛漫な英雄が活躍。
 が、702に国際関係が好転し、久々に遣唐使が出された。古事記の世界ではシナの権威に対等たり得ない。そこで儒教の礼を踏まえ、仏教と道教も保護するシナ皇帝と対等の天皇をアッピールする必要があった。こうして書紀が編まれた。
 藤原不比等は儒教派。長屋王は祖父の天武天皇と同じく道教派。そこに718唐帰りの僧・道慈が加わり、書紀を編纂。
 儒・仏の権威者がうんと昔からいたことにしたかった。それには子孫が絶滅している厩戸王に仮託するのが都合が良かった。
 その後、宮中角逐から法隆寺に帰依すればよいと説得された光明皇后が遺品蒐集に乗り出し、ここで義疏や繍帳が捏造された。736以降のこと。
 唐や新羅から舶載されたもののうち、最新文物は聖武天皇が貰い、古そうなものは法隆寺に送って太子遺愛の品とされたろう。
 神功皇后は斉明天皇(白村江に出兵したときの女帝)がモデル。竹内宿禰は中臣鎌足がモデルだろう。しかし古事記のキャラは素朴すぎた。
 書紀が創った太子だけがシナと並ぶことができる。日本はシナに遅れていないと信ずることができる。だから日本人に崇められた。
※ゲルマン人も素朴だが民主主義について誇ることができる。古事記の世界はそこが弱かった。
▼Jane’s Infantry Weapons 1985-86
 PPIとよばれる新型のAP弾頭技術。7.62×51mmでレンジ300mの場合、10ミリのアーマープレートを貫通できる。同射程の.50弾頭なら25ミリである。
 最新のBody armor は5メートルから発射された7.62ミリAP弾をストップできる。
 この時点での世界の小銃擲弾の性能。径55ミリでレンジ650m、ただしロケットアシストのものあり。また径75ミリで375mのものあり。径35ミリで水アブソーバー使って肩射ちで600mレンジのものあり。
 ところがM-16用の140ミリRAWはHE弾頭を2000mも飛ばすことができる。
 この時点でのゲリラ用ロケット砲。ユーゴ製の128ミリロケットランチャーは、弾重が23kg、中味は2.3kgのRDX/TNTで、ランチャーが22kg、射程が8600mある。


本日届いた『正論』6月号の毒ガス砲弾の記事について

 以下は、たったさっき、慌てて簡単に調べましたもので、ぜんぜん確実ではないと、まず最初にお断りします。
 水間正憲さんが、「代用弾の表現は化学弾が含まれていると思われる」と書いておられます。
 愚生の認識では、「代用弾」は平時演習で発射する、砂などを詰めて重量だけは実弾と同じとした砲弾、でした。
 ちなみに、砲尾への装填動作だけを演練させる模型のタマは「演習弾」と呼びました。
 (たとえば掲載写真の表中に「九四式三七粍砲徹甲弾代用弾」と見えますが、外径37mmのアーマーピアシング弾の中にガスを入れても効果はあったでしょうか?)
 また「四一式山砲榴弾甲、四一式山砲榴弾乙は、……化学弾のきい一号甲と乙と思われる。それは通常イペリットである」と水間さんは書かれています。
 が、愚生の認識では、この場合の甲と乙は、砲弾の頭部にネジ止めする信管の、旧式と新式の違いではありますまいか?
 四一式山砲弾薬などで「榴弾甲弾薬筒」と「榴弾乙弾薬筒」がありました。この場合の甲は砲弾のてっぺんにラウンドな信管がついており、空力が悪そうなもので、乙は尖った信管がついており、空力が良さそうなものです。どちらにも同じ量の通常炸薬が充填されていたことは変わりありません。
 陸軍ではイペリットのことを「きい」と称しました。
 「黄一号」がガス状のイペリット。「黄二号」が液滴状のルイサイト。「茶一号」が青酸ガスだったとする資料もあります。
 陸軍の92式以降の製造のガス砲弾には「黄一号」と「黄二号」が半々で混ぜられていたとする資料もあります。制式は昭和9年以降でしょうか。
 陸軍の「あか」または「赤一号」は、ジフェニール青化砒素で、クシャミと催涙性。唾液を飲めば嘔吐もします。非致死性で、シナ戦線では昭和12年から19年まで普通に用いられたものです。野戦では主として94式軽迫から発射するのが合理的でした。
 「みどり」または「緑一号」は、塩化アセトフェノンで催涙性。
 「ちゃ」は青酸で窒息性。これは対ソ戦の切り札の一つだったもので、対戦車手榴弾の「ちび弾」に詰めたのもこれでした。硫黄島でしたか、他の南方島嶼でしたか記憶が定かではないのですが、敗戦時に「ちび」のストックが米軍に引渡された記録が防研にあったのを見ました。シナと満州ではそういう記録はあるでしょうか?
 「あお」はホスゲンで、これを陸軍では「甲剤」と呼んだこともあります。大正時代からあったものです。
 「しろ」もありました。この成分は何だったのか、手持ちのメモ類で判明しません。スイマセン。追々、調べてみます。
 「あかしろ」は刺激性ということですが、たぶんあおとしろの混ぜ物なんでしょう。
 「あおしろ」は、あお90:しろ10で混ぜたものだそうです。
 旧陸軍では、照明弾、焼夷弾、信號弾、発煙筒等を「特種弾」と表記することもあったようです(S13-5『歩兵弾薬参考書』)。
 また旧軍のシナ事変以降の発煙弾には黄燐を填実したものが主流だったと思われます。この黄燐が有毒で、皮膚に触れたら二硫化炭素で洗滌しなければならないことも『歩兵弾薬参考書』で注意されていました。
 陸軍の発煙筒の「甲」は揮発性の四塩化炭素を薬剤として使用していたようです。
 なお海軍ではイペリットのことを「特薬」と称し、平塚海軍火薬廠ではごまかして「徳薬」と表記したこともありました。より正確には「3号特薬甲」が海軍のイペリットで、「3号特薬乙」が海軍のルイサイトす。
 こうした海軍特薬、化兵爆弾等の種類については、拙著『日本海軍の爆弾』の第5章などを御覧ください。書籍としては絶版ですが、現在、武道通信のPDFダウンロード(有料)を申し込めば、で誰でも閲読できます。
 旧陸軍の投下爆弾の特殊爆弾についても、『日本海軍の爆弾』の巻末附録でざっと紹介してあります。
 今回紹介された資料が、もし網羅的で脱漏も無いのだとしますれば、それは却って、「毒ガス弾は敗戦時に正式にソ連に引渡されていなかったかもしれない」ことを推測させる証拠となってしまうかもしれません。
 今回水間さんが紹介してくださった資料で興味深かったのは、陸軍が「トンプソン銃実包」を広東方面で鹵獲してしっかり保管していたことですね。


摘録とコメント。

▼平野光男『明治・東京時計塔記』S43-6改訂増補壱千部限定版
 湯島天神の境内に昔、陽時計があった。
 大正12年の震災まで、懐中時計の必要はなかった。いたるところに時計台あり、また商店を覗けば柱時計があった。
 定時に鐘の鳴る時計塔はルネサンスのミラノに初登場し、不定時法から定時法への切り替えを促した。
 日本では明治に定時法となり、いっせいに時計塔がつくられることになる。
 憲法発布のM22までが「文明開化」時代。
 明治期のメカは重量式。それが大正期にメンテの楽な電動式となる。
 時計納入ではFavre-Brandt商会の実績がダントツ。館主はスイス人だがスイス時計を輸入したのではなく、英国製が多い。
 東京市の嚆矢は竹橋陣営時計塔で、M4竣工。S20-4末の空襲まで残っていた。
 震災直後まで放置期間があり、当時の内部はくもの巣だらけ、湿気がこもり、蝙蝠が飛び、埃の堆積した床を鼠が走っていた。
 機構は「八日巻」で、週に一度、カギを捲かなければならない。
 伊藤為吉はCapellettiに建築学を学び、さらに米留学ののち、服部時計店の時計塔を耐震式に設計した。
 M4の新制度による初の郵便役所=日本橋の駅逓。初代の頭の前島密の回想。隣が小公園でそこで軍談の席があって、講談が酣になると張扇の音で会話が妨げられる。また軍鶏鍋屋も繁盛していてその煮える匂いがしてきたと。
 市ヶ谷の士官学校は尾張藩の下屋敷だったので、ここに士官学校工事直前まで薩軍が屯ろしていた。S12秋に機関は座間に移転し、建物は陸軍予科士官学校に使われた。
 ももんじ屋は、三都ともに化政以降に盛んに。江戸に最も多し。鍋とし、葱を加えていた。
 小林伝次郎は天保年間に俗曲を奏でるオルゴール入り枕時計を製作。しかしS18に小林商店は時計屋を廃業するしかなくなった。統制経済のため。
 M18頃の鬼瓦の櫛の歯のような突起は、「カラス」といい、鋳鉄製で、烏除け。明治十年代の東京の烏はおびただしく、M11に市中市外の鴉と鳶の巣を取り払えというお達しが出ていると。
 上野公園は東大医学部の移転地としてつぶされるところだったがオランダ人教授が公園を減らすなと勧告して、旧加賀藩邸になった。
 この医学部時計塔は正確だったので、明治末まで付近住民は袖時計の必要がなかった。
 参本は永田町1丁目1番地の高台にあった。陸軍省と陸軍大臣官舎が隣接。建物はすべてS20-5-25の空襲で焼けた。ただし機構はS16に市ヶ谷に移されていた。
 角海老楼は新吉原の老舗ではない。明治中期に勃興。宮沢平吉という長野県人が幕末に新吉原の並店安尾張に奉公し、分看板をもらって「角尾張」を経営。たまたま売物に出た妓楼海老屋を買い取り、角海老と改名す。その時計塔は「たけくらべ」に出てくる。
 塔はM44-4の火事で消失。明暦三年の新吉原開設いらい、26回目の丸焼けだと。
 遊郭は大12震災でガラリと姿が変わり、さらに終戦で性格すら変わってしまった。
 明治政府は吉原の他に本郷根津に遊郭を許可していたが、それが区画整理で一斉に洲崎へ移転させられたのがM21のこと。
 その一軒の八幡楼に時計塔があった。花魁の部屋は贅沢な三間続き。この敷地内に天然ガスが噴出し、事業化されたという。洲崎橋を渡ったあたり。
 M7頃、「髭をはやして官員ならば、猫や鼠はみな官員」と囃された。武士の二腰が禁止されたので、その代用として長い鬚で庶民を威嚇したのだ。
 S20-5-25空襲では慶大の図書館も内部が焼けた。S24に改修工事。
 しかし、Calamus Gladio Fortior =ペンは剣よりも強し、と記された女神と武士のステンドグラスは失われた。 1912-1国際紛争平和的処理条約公布。4月、慶大図書館時計塔竣工。
 避雷針は日本ではM7から。街路樹の植樹もM7から。
▼エム、カー、クリスチー『戦車工学』S18、原1937露語
 劣悪な土地での車輪の損失は20~40%に達す。履帯は舗装道上では車輪よりロス大きいが、路外ではタイヤの半分~三分の一。
 変速機は自動的なものでなければならない。
 「94式中戦車」の諸元が紹介されている(p.7)。
 各国の装甲板の材質や製法を詳述(p.10)。※これだけシステマチックに技術情報集めて公開していたからT-34もできる。日本との違い。
 当時の装甲鈑の重さは全体の14~28%
 鋲接車体にタマがあたると、内部の鋲頭が飛び散り、乗員を傷つける。
 乗用車エンジンは平均負荷40%、トラックは60%なのに、戦車エンジンは連続的にその最高出力の80~90%で使われる。そこで、軽油、重油の無気噴射式高速ディーゼルを持つ必要がある。
 最近、100atmの高圧蒸気機関が現れた(p.13)。
 発生炉ガスの発動機はまだ。
 今の戦車砲は、20ミリで1000m/s、37ミリで800m/s、75ミリで600m/sである。
 鈑厚20ミリで100m以遠からの20ミリ徹甲弾を防ぐ。
 ガス防護には、戦車内部を高圧に保て(p.25)。
 ビッカース12トン戦車は装甲板にアスベスト等熱不導体を裏張りし、冬夏の寒暑を防いでいた。※今はセラミックが代用材か。
 大型戦車で中程度の不斉地を2、3時間連続走行すると酔う。
 単独の戦車は不斉地では最大速度が3割低下し、夜間はさらに4割低下する。縦隊では、単車時の5割のスピードに落ちる。
 路面が堅い時、転輪の中間には履板重量がかかるばかり。転輪直下の接地圧は5倍以上になる。
 ATGの2発間隔は12セコ。これ以内で戦車は旋回せねばならぬ。
 重戦車は径50cm以内の樹からなる森林なら跋渉できる。厚さ80センチの石壁も破壊する。鉄条網は戦車には無意味だが、隠れた針金傷害は起動輪や誘導輪に捲きついて、履帯をはずすか、落伍させる。
 変速段を増せば、燃費はよくなる。8h連続運転したいところだ。戦車の発見はその車高による(p.38)。
 悪天時、戦車のエンジン音は1200m先から聴こえる。
 接地圧比較。トラック2.5~7.0kg/平方m、タクシー1.5~2.5、装軌牽引車0.4~0.6、重戦車0.8~1.6、軽戦車0.4~0.5、かんじき類0.05~0.2、スキー0.03~0.05、ヒトの足0.4~0.5、人が乗った馬1.2~1.5也。
 装軌車両の接地圧は装輪の約十分の一。人の足に略等しい(p.53)。※三分の一の場合もありそうだ。
 戦車に最も害ある揺れはピッチング。照準が大きく狂うから。垂直動揺は害が少ない(p.339)。
 戦車履帯の接地角および離昇角はなるだけ小さい事(p.366)。
▼早乙女勝元 ed.『写真版 東京大空襲の記録』S62-7
 白骨遺体が位牌を手にしていた場合がある。漆塗りなので火にも水にも強い。その戒名が新聞に発表されると数日しないで関係者が名乗り出てきた。戦後20年あたりまで。
 東京初空襲のとき、警視庁しらべでは、250キロ爆弾×6、小型エレクトロン焼夷弾452発が落とされ、61棟が焼失、死者39人。日本全国だと死者50人だった。
 ただし当時はこの被害発表はない。
 内務省はS18-6から全国民を収容できる防空壕と公共退避壕の設置強制を始めた。
 ただし下町のゼロメートル地帯では水溜りとなるだけであった。
 マリアナから東京まで2300km、B-29は7トン搭載時の航続5000km超。北海道までは往復ができない。
 1945-1-1の新年切り替わりと同時の夜間爆撃を浅草に。明け方には江東区。
 1-27、3-4には第一目標の軍需工場の天候が悪いので市街地無差別爆撃。
 警戒警報は3分間の連続吹鳴サイレン。
 3-10を境に都民は消火より脱出を優先するようになった。
 6月は、伊豆七島が頻繁に銃爆撃された。
 東京の被害統計はハッキリしない。警視庁は、1944-11~1945-8-15までに9万5996名が空襲で死んだとする。が、戦後3年目の東京都の調べでは、9万2778名とある。さらに『東京都戦災史』では9万4225名とある。
 ところが墨田区の東京都慰霊堂には一般都民の白骨10万5400体が並べられた。
 あらゆる資料を総合して、東京では死者は11万5000人以上出ただろう(p.175)。
 ちなみに対米開戦時の東京人口は735万人。
 日本全土の対米戦での銃後死者は60万人だろう。60万の半分は「広島・長崎」。残る30万人は、「東京」「沖縄」、それ以外、と、10万づつ三等分されるだろう(p.178)。
 1945の日本人の男子平均寿命は23.9歳となる。
 防空法では、消火しないで逃げ出すと1年以下の懲役や罰金と決められた。
 3-10空襲では先発隊は高度1500~3000mでアプローチした。
 1937-4-26にゲルニカ空襲で2000名死。
 重慶爆撃のピークはS16-8だった。
 ワシントンの国立公文書館には入り口に Study the Past と彫刻してある。
▼目加田誠 ed.『詩経・楚辞』S44
 4馬を並べて曳かせる戦車では中の2頭は先に立ち、外の2頭は遅れる。「国風・淑于田」。
 馬が装甲していること。車に2丈の酋矛と2丈4尺の夷矛を立てること。それには朱の飾りがついている。
 弋[いぐるみ]。「女日鶏鳴」、「大雅」。
 「駟●【馬ヘンに鐵のツクリ】」、猟犬も車に載せたらしい(p.93)。大型兵車は元戎といい、小型のは小戎。盾には竜か鳥の絵。馬に介させる(馬ヨロイ)。「三角の矛は、いかけの鐓[いしづき]。
 弋[ほこ]に殳[つえ]。「候人」。
 小雅・出車、他に「敵を生け捕りうちとって」と出る。※奴隷獲得戦争。
 大雅・韓奕に「鏤[ちりば]めたる馬の面がね」と出る。
▼赤塚忠 tr.『書経・易経』S47
 尭舜は三皇五帝よりも古くから語られていた。尭や五帝は太陽がモデル。
 舜は刑をゆるめ、過失犯は罰金で済ませた。
 「誓」の源義は、征伐の正当性主張。
 甲骨文に「歩伐」と出る。歩は100歩か?
▼本田済 tr.『漢書・後漢書・三国志列伝選』
 季陵・蘇武伝。匈奴あいてに大量の首斬り。
 天子の兵は征あって戦なし(p.62)。
 支配者だけが対象だ。
 東方朔伝。孫子呉子22万字を暗誦した。
 馮異伝。左伝や孫子に通じていた。
 馬援伝。当時の牧夫の服装は羊のけごろもに皮の袴。


摘録とコメント(※)

▼マーチン・カイダン『アメリカの宇宙基地──ケープ・カナベラル物語』S35-1、朝日新聞社 tr. 原題“Spaceport U.S.A.”1959
 かつてP-38乗りで各種ジェット操縦資格もある著者は空軍ミサイル実験場の司令官顧問をしていたこともあるが、お役所仕事には辟易していた。すでに零戦についての著書もある。
 初の月ロケット打ち上げを見て著者は泣いた。これが本書のきっかけ。
 ロケット打ち上げの緊張で嘔吐する技師も見た。
 アトラスの第二段のサスティナーは、目標都市にうまく突入できる速度、角度、高度が得られたときには、モーターを1秒以内で止めなければならない。あとは慣性飛行。
 アトラスの内部燃焼は2800℃以下だから、外壁は人が手をおいてもいいくらい冷たい。その外壁をPRI燃料が通過するので冷却されている。
 新型爆撃機はまず50機つくってそのうち40機は一度も飛ばさずに地上で実験して壊す。ICBMもまったく同じ手順で開発される。
 アトラスは1基200万ドル。
 戦時では、秒読みに15分、長くても20分以上かけてはいられない(p.28)。※ソ連から30分でICBMが来るので。シナから日本までなら10分か。
 液体酸素を注入するとき、鋼鉄の燃料管が収縮するので、とてつもないノイズが響き渡る(p.31)。※これではSLBMには使い辛い。
 しかも圧を逃がすために頂上バルブは開放しておかないといけない。そこから気化された冷たい酸素が漂うため、遠くから打ち上げ場を見ると、かげろうのように風景が揺れて見える。また、地表には靄がたちこめる。
 発射台下の鋼鉄をブラストの熱から護るために滝のように冷却液が流される。
 ブロックハウスの中では技師が「ゴー・ベビー・ゴー」と叫ぶ。
 V1発射場だけでも英米の爆撃機は、日本本土にB29が投下したより多くのトン数の爆弾を降らせた(p.45)。
 V2の貢献もそこにある。それは2万機のジェット機と同じ予算を喰ったが、同時に英米の爆弾も吸引してくれた。
 米国は液体燃料ロケットの研究をWWII中には始めなかった。大量生産の暇がないことが明らかだったから。
 ドイツは単発長距離制空戦闘機は不可能だと見ていた。米はそれをP-47とP-51でやってみせた。
 広島、長崎への原爆投下を、捕虜のドイツ科学者たちは信じようとしなかった。
 クラウゼヴィッツはかつて警告した。「戦争の究極の目標は敵の心を変えるにある。敵に戦いをやめる決心をさせることにある」(p.47)。
 WWⅠ中、スペリー社は米海軍から頼まれて、無人複葉飛行爆弾をつくった。射程640kmで450kg爆装。ロングアイランドで実験成功。しかし1918講和までには間に合わなかった。
 1916~18に陸軍も無人爆撃機研究に5万ドル使った。デイトンでレールから発射され、90マイル飛んで、無線指令で目標に命中した。やはり実戦には間に合わず。
 パールハーバー時点で米軍には1発のロケット弾も無かった。が、1945-8時点では63kgのホーリーモーゼ12.5センチ空対地ロケットを数万発発射していた。
 小型ロケット発射艦。これは40サンチ砲×27門に匹敵する火力を浴びせる。1944-6-6のノルマンディでは4万発のロケット弾を撃ち込んだ。
 対潜水艦用は9センチの「缶切り」。
 タイニーティムは重さ582kg、長さ3m以上。弾頭は230kg、径30センチ。
 1943に48機のB-17がGB-1滑空爆弾×116発でケルンを夜間攻撃。フラック圏外数キロからスタンドオフする試みだったが、ほとんど外れてしまった。指令誘導ではなくプログラム自律誘導。
 M-65アゾン誘導爆弾。450kgで、尾部の炎を頼りに爆撃手が落下方向を誘導できた。これでルーマニア/ユーゴ国境の水門破壊、ブレンネル峠下の鉄橋破壊に成功。
 ビルマではB-24×40から鉄道を狙い、橋梁30を破壊。効率から言って、10トンの爆弾投下に匹敵したと。※防研史料を漁った管見では旧軍が米軍の誘導爆弾に気付いていた兆候は無い。
 VB-3ラゾンは改良型。
 その次がROCでやはり450kgだがTVカメラが先端部についていて、それをモニターしながら誘導する。完成前に終戦。
 フェリックスという赤外線追尾爆弾あり。軽爆撃機が4発をラバウルで試験投下。3発が商船に命中したと。
 WWII中に海軍は「パット」レーダー追尾滑空爆弾を完成。1945に2機が日本の駆逐艦に射程32kmで発射し、撃沈した(p.52)。
 フロリダの飛行区域に英領バハマがある。その島に有毒林があった。高さ1.2mで、触れた皮膚を猛烈に爛らせる。しかも再発性。カルシウム注射で予防できるが寒気がして不快。この林を燃やすと毒ガスが出て、皮膚に痛みを与える。吸い込むと命が危ないと。
 ガダルカナルの蚊は種類が非常に多い。しかしカナベラルはそれを上回るひどさ。
 バンパーの実験では、第一段のV-2は落下途中でTNTにより爆破した。上空4500mにて。
 マタドールの初実験は1951-6-20のこと。
 発射前60秒からエンジン全開。
 スナークは高度15000まで上昇する過程で燃料の大部分を使い切っており、軽くなるのでスピードがマッハ0.9になる。
 破壊指令の暗号はソ連が悪用できないように考えられている。
 ロケットモーターの燃焼は自由電子を発生させ、それがミサイル直後空間の電波通信を妨害する。
 WWII中、ランカスターがドイツのアパート団地に11トン爆弾を1発落とした。600人が死んだ(p.174)。
 ソーやアトラスは液燃だから上昇はゆっくりだが、ポラリスは固燃なのでかなり速く飛び上がる。
 ボマークで散骨した婦人科学者あり。
 実射テストは海に着弾させるわけだが、1回ごとに場所をずらす。そうしないと前の残骸と混同してしまう。
 テレメトリーは暗号であり、しかも周波数が常に変えられる。
 テスト発射の日取りや時刻は公表しない。知られると敵による電波収集作業が楽になってしまうから。
 X-15有人超音速機にナバホの推進ロケットを抱かせるという案あり。※これはまるっきりスペースシャトルだ。
▼野一色利衛 tr.『戦争と政治──独逸の世界観教育と指導』S17-9
 墓地の門に「永久平和」と書かれたものがある。さらにそれを模したオランダの酒場の看板があって、カントはそれを見て自著のタイトルとした、とライプニッツが指摘。
 モルトケ、「永久平和は……一つの夢に過ぎず、而も美しからざる夢」である。
 独逸はWWⅠでベルギー人をひっとらえて労働力不足の本国に送った。
 ロイド・ジョージ、ポアンカレー、クレマンソーは中欧諸国の指導者に優っていた。が、ビスマルクやナポレオン程ではない。
 1933リンネバッハの「戦争に於ける勝敗決定の要因」全文(pp.116~)。
 武力戦は勝敗を決しなかった。思想戦と経済戦だ、とゾルダン。
 イエナ、セダンも戦争の勝敗を決定していない。セダンは国家を破壊していない。
 戦争を終結せしめた決定的勝利の列挙。
 フリードリヒはケッセルスドルフ。これは「ラスト・ストロー」という感じ。
 ナポレオンはアウステルリッツ、フリードランド、ワグラム。双方疲れての平和。
 反ナポレオン側は、ベル・アリンス。これはナポレオンの戦闘力と同時に、ナポレオン体制とその国家を破壊した。
 モルトケはケーニヒグレーツ。
 経済封鎖の先例。スペイン王位継承戦。米革命戦争。ナポレオン戦争。南北戦争。
 Politikというドイツ語は「政治学」「政策」の意もあり(p.185)。
 ビスマルク「戦争の目的は国家に依り追求される政策に相応せる諸条件の下に於て平和を戦ひ取ることである」
 シラー:全民族の性格はその法律の最も忠実なる模写であり、従って又、法律の価値と無価値に対する最も確実な裁判官である。
▼森英『熱帯の荒鷲』S17-9
 著者は陸軍航空本部嘱託の従軍画家。
 整備兵は16歳。
 爆撃機の「小便する器械」は後の方へしまってある。
 爆弾投下は下の丸窓からよくみえる。
 ボマーはなるべく前の方が酔わない。
 15cmくらいの茶色の小瓶に葡萄酒、これを元気酒といい、氷らぬようにポケットに入れておく。
 ドラム缶風呂は丸太を踏んで入る。よく缶ごとひっくりかえる。
 脳天が陽に当たってもいい。しかし後頭部は必ず日蔭にしないといかん、と安南(ベトナム)人は言う。
 女は歯を黒く染めている。
 シナ人は貰い物を前にすると大人こどもの区別なく争い合うが、ビルマ人はそんなことはない。
▼山口・戸井田『石橋物語』
 ローマはB.C.300にアッピア水道をつくる。シナでは605年に河北に趙州橋という石橋を架けたのが早い。漢~唐代に石橋拡散。盧溝橋は1192完成の235m14連の石造アーチ橋。金朝が造らせた。
 日本では沖縄にまず伝わる。1452に福建人が那覇から首里まで7つのアーチ橋を架けた。この技術は僅かに鹿児島に伝わった。
 九州では宮崎と佐賀には石橋は少ない。大分では1817に架けられている。
 長崎の太鼓橋はアーチ工法で、円周率は秘伝であった。
 維新前に華僑が架けたものも多い。
 大金が必要で個人では建設できないものだが城主は石橋の必要など認めなかったので日本には普及せず。
 アーチ橋は洪水浮力=下からの力に弱い。そこで石と石を鉄札で結合。
 橋脚先端に水制を設けないと水によって基礎が洗掘される。
 万世橋は、中仙道への関門であった筋違門を壊した石材でつくった。
 明治初年の東京の石橋のうち現存しているのは常盤橋だけ。


摘録とコメント。

▼永田実『ルーブル』
 ソ連の工業製品が輸出に占める割合は3~4%だが日本は軽工業含めて97~98%である。
 1979ソ連はチタンの輸出をとつぜん停止した。クロム、プラチナ、マンガンなどの国内蓄積を進めている節がある。
 ソ連は欧州市場の軽油の60%を供給。
 アジア・ドル市場はヨーロッパに比べ規模が小さいので操作しやすい。ソ連はまず大量のドル売りに出、相場を押し下げたところで買い戻して利ザヤを稼ぐ(p.71)。
 ルーブルの発券量が公表されることはない。
 米『タイム』誌85-6-17号によると、ソ連AWACSは米スペースシャトル初期モデルに似ていると。
 ソ連東欧は技術文書に関しては公開主義で、西側へのライセンス輸出を欲しているが、翻訳困難であまり利用されていない。
 85-6の米議会公聴会で米海軍は海外では最大規模の諜報員64人を日本に置いていることを明かす。
 70’s以降、貿易政策上に国務省よりペンタゴンの発言力が強まる。
 ソ連の対西欧ガスパイプが止まってもノルウェーがある。
 1963の不作はフルシチョフの大処女地開拓計画の失敗で土地が荒れ旱魃にみまわれたため。ハードカレンシーないのでgold売却につながり失脚。米豪加アルゼンチンから小麦買い付けの始まり。
 ソ連は81年から穀物の生産実績を発表しなくなった。※70’sにソの大量買付けでアメリカ飼料が値上がりし市場混乱が続いたので偵察衛星で作況を調べるようになった。
 ソ連では魚料理の数は限定される。すずきの一種、ちょうざめ、こい、ふなしか食べない。さば、いか、くじらの食べ方をテレビで指導したが無駄だった。
 ソ連の外貨準備は金準備ともどもスターリン以来非公開。
 ソ連では石油生産&輸出の方が小麦生産より「比較優位」。百万トンの小麦を輸入し、その生産コストを石油業にふりむけると、7億ドルの輸出収益に。
 ソ連は石油採掘と併行して新油田の探鉱をしなかった。しかも西シベリアでは機械採油ではなく自噴に頼っていた(p.42)。
 ソ連は沖合い油田は未経験である。
 ソ連は貨物輸出の半分を鉄道に頼る、世界一の鉄道王国。
 圧延鋼材の鉄鋼製品全体に対する比率。1981においてソ連69%、米74%、日本87%也。日本では絶滅した平炉鋼がソは1980で28%もある。このため径100ミリ超の鋼管は輸入しなければならないのである。
 アエロフロートの機長が千葉のスーパーで日用品を万引きして捕まった。
 終戦直後のソ連原油生産は2500万トン。84年は61500万トン。
▼西村文夫『ゴルバチョフ』
 レーガン再選の見通しが明確になるとソ連は米からの提案で顔を立ててもらって宇宙軍縮の話し合いに乗り出す決心をした。9-6のオガルコフ解任はその露払いだった(p.202)。
 60’s末~70’sはじめ、クバン地方の収穫さがったのは「キーロヴェツ」トラクターが重すぎて土壌を過圧縮してしまうしてしまったから。空隙つぶれ浸透保水なくなり立ち枯れ。
 ゴルビーはより軽いトラクターを別な工場でつくらせようとしたが戦車&トラクター工場を利権とする軍に阻まれた。
▼モルデハイ・アビール『中東に伸びるソ連戦略』1977
 WWⅠまでロシアは米に次ぐ石油生産国。
 WWII後、コーカサス油田が枯れかけたときに、ボルガとウラルの中間で第二バクーが発見され、1960には総生産の7割に。
 ソ連油田が僻地に移るにつれて採掘は困難を増し、それがソ連をして国際原油価格の値上がりを歓迎させる。
 石油収入はソ連の外貨獲得の第一位。
 シベリアの石油をヨーロッパ・ロシアに運ぶためには精油と同じくらいコストがかかるため、ボルガ・ウラル石油に比べるとその価格は2倍になる。
 チェコの対ソ石油依存度は99%である。
 ロシアは19世紀末、鉄道をバンダルアッバスからアラビア海東岸まで延長する予定だった。
 味方でない者は敵=ドグマ的態度。敵でない者は味方=実用主義的態度。
 1959の米英のレバノン・ヨルダン介入では、ソ連はスエズに続いてふたたび脅しをかけはしたが、領内南部で軍事演習するにとどまった。
 1962の米の対イラン軍事援助停止と、トルコIRBM撤去は、イランをしてソ連に接近せしむ。天然ガス輸出協定。
 また1966-7にイラン・ソ連兵器供給協定。
 1973-10にイランは石油危機に便乗して対ソガスを値上げ。ソ連は値上げの代わりに土地の割譲を提言した(p.146)。
 1974にミグ23とスカッドが大量にイラクに送られた。
 ソ連に支援された南イエメンがサウジと小戦闘。
 米は1978高価格の中東石油を輸入し、アラスカ石油をより低価格で輸出した。
 訳者。CIAリポートによるとソ連の汲み上げ技術は米の50’sのものであり、水攻法も含水率44%になってしまっていると。
▼旅順図書館 ed.『日露戦後三十周年記念 在旅順同役参加者座談会誌』第一回~第三回(S10-12、S11-11、S14-5 pub.)
 36連隊長は二龍山からの47ミリ砲に腹部を直撃され、後送後に死亡。
 とうじ「予備」はなく、現役→後備→国民軍。日清で現役だった者は日露では国民軍だった。
 日清戦当時、一門の大砲を撃つには上等兵が三名と馭者3名は古い者でなければならぬ。他3名はシロートでよい。
 日清では後備の騎兵がスペンサーカービン。また歩兵の後備はスナイドル。10~15発うつと新品でも遊底開かなくなり、みな腰に木槌をさげてこれで叩く。
 日清では歩兵は近1のみ22年式、近2は単発銃、二連発銃(?)だった。
 日露では後備歩は18年式。
 この銃の話をしている第三軍弾薬中間廠附砲兵一等銃工長・駒井春太郎の談。
 M38-8~10月に「遊底覆」を考え、槁本参謀長に認められ、1個大隊分つくって送ったと。
 輜重車は、36式2輪輜重車→38式→39式→自動(貨)車。
 蝿取り紙は、カナダ製?
 日本の発明ではなかった。タングルフートとか言った。
 日本兵のPOWは帰ってきたとき、やはり申し訳なさそうにしていた(第一回)。
 焼夷弾という言葉はなく、延焼弾と言った(第二回)。
 支那馬車は輪の接地幅が広い。日本のwheelは幅が狭く、泥に沈む。
 素焼きの丼を「ごろ八茶碗」と言った。
 ロシアのコンクリートに鉄筋は無かった。
 鉄条網は3000ボルト通じていた。
▼吉田璋也『有輪担架』S15-3
 キャンバス木骨担架の下に自転車のタイヤが一輪ついている。これを装備した隊があった。
▼毎日新聞社 ed.『海鷲隊長の手記』S19-11
 十数人へのインタビュー。
 ボルネオでは死体を一丈の大トカゲが食っている。
 S17-5-7に小型空母喪失の報を知るや「断じて報復せん」と全員の敵愾心は熱湯のやうにたぎりたつた。
 ビヤ樽に洗濯板を突きさした奴=F-4F
 ミッドウェー参加の零戦隊長浅間大尉いわく、敵の搭乗員の顔をみたことはない。赤いか青いか、帽にメガネで分かるわけがない。白いマフラーをはっきりみたことはある。
▼エルンスト・ウーデット『戦乱の翼──大戦勃発から終局まで』坂部護郎 tr.S12-8
 2人乗りボマーで部品欠陥のためスイスに不時着。ウーデットは上等兵だった。スイス人は親独だった。
 「今は敵のプロペラーの廻転によつて起る風を感じる位に近づいた」
 20mまで近づくと、敵のプロペラ風を感じる。そこから撃つと12発でおとせる。
 航空兵は曹長から無試験で少尉に昇進す。
 両手でMGを叩くと直ることがある。ギュヌメールが後ろからそれを見てこの機の状態を悟る。そして両手で「あばよ」と合図して去っていった。
 ※両手で、の意味は、どちらの手も引き金から放したよ、ということか。
 リヒトホーヘンは騎兵大尉男爵でウーデットと会った日に68機撃墜しており「西部戦線の赤鷲」とか「紅の男爵」と云われていた。
 リヒトホーヘンは10mで射っていた。
 リヒトホーヘンは編隊中で臆病な行動をとった者は即日、追放した。
 長靴を履いたままでは大便はできぬ。
 すれ違いざまヒマシ油の匂い。
 まわりで火を燃やすとガス対策になる。
 末期はフォッカーD VII、階級は中尉。同じ中尉のゲーリングが最後の着任上官。
 ウーデットは戦間期をいかに飛行機屋として過ごしたか。
▼滝口乙三郎『青嶋占領紀念写真帖』大4-5
 騎銃(30/38)の一斉対空射。珍。
 38式15榴のクリアな写真。
 占領当時イルチス砲台上の写真。間違いなく38式歩兵銃。※つまり初陣でドイツ軍に勝った小銃なのだ。
 独のソリ付き重機。
 分捕せる敵の野砲。15榴くらい。
 破壊されたビスマーク砲台の28cm砲。
 独野砲は38式野砲に酷似。
▼『スターリン全集 第一巻』大月書店、1952
 日露戦争中のアジ:「カフカーズの労仂者よ、復讐するときがきた!」
 「どうだろう、同志諸君。専制政治は、われわれにむちのうなりや弾丸の音をわすれてくれ、何百人のころされた英雄の同志を、われわれのまわりをただよって『復讐しろ』とわれわれにささやく彼らの栄誉あるまぼろしを、わすれてくれとたのんでいるのだ!」
 「復讐するときがきた! ヤロスラヴリ、ドムブロヴォ、……グーリア、バクーその他の場所でツァーリのバシブズーク兵にむごたらしくころされた栄誉ある同志の復讐をするときがきた!」
 「復讐するときがきたのだ!」
 以上、1905-1-8印刷の宣言文。
▼ジョージ・Marion『基地と帝国』新山健 tr.1954、原1948
 第五艦隊司令長官、レイモンド・A・スプルーアンス大将は、沖縄に戦後も基地をもつのは「防衛」に合致しない、と。
 デンマークはグリーンランドから米国人を追い出すことができず、逆に原住民100人を疎開させた。
 グリーンランド撤退を米が拒否したことは1946~47のデンマーク内ではげしい議論をよんだ。
 1985に米の銀行、鉄道会社は、ロシアに100%米資の「満鉄」をシベリア鉄道に連結させろと要求した(p.113)。
 これを断って1896、ロシアは東新鉄道の権利を得た。
 1916にはWWⅠに乗じでシナの通信界を支配できる取り引き。他の計画、特に鉄道は、欧州が日本をあとおしして潰させた。
▼片倉藤次郎『英米の空爆原理』S18-11
 この版元・アジア青年社に、『獄中獄外』/児玉誉士夫あり。
 「我々は敵国アメリカが先月(四月)迄に既に十一隻の航空母艦を進水せしめ更に五月下旬に新に一隻を進水せしめた事、そして其上に尚ほ六十隻の航空母艦の建造中であると告げられる」(p.5)。
 また4月15日に首相官邸で開かれた地方長官会議で陸軍は「最近米国の与論、その戦備進捗の現況に鑑みるとき帝国本土に対する敵の空襲はこれが実現必至と予想せらる」と。
 彼等は本年度末には12万5000の飛行機を有するに至ると我等は告げらる。
 アリューシャンの飛行場は9月末~初夏は濃霧で使えぬ。
 英の対独空襲は1939-9-4のウィルヘルムスハーフェン及びブルンスビュッテル等の要港に対するのが最初。
 前日には偵察飛行とリーフレット撒き。
 9-24にフリードリヒスハーフェンのエンジン工場を英仏が爆撃。
 対人民爆撃は1940-1-12のシルト島ウエスヨーラントに対するのが最初。
 1940-5-10~12、フライブルク市初空襲。
 5-21~22、ボン、アーヘン初空襲。
 独の対英爆撃は1939-9-29のヘリゴランド湾、10-16のスコットランドのフオラ湾が早く、40-6-20夜に至りようやく陸上都市を爆撃。
 これに対し英はベルリン住宅地を8回爆撃。
 独は遂に1940-9-6~7にロンドン大空襲。
 1907の陸戦法規。第25条。如何なる手段に依るも無防備の都市、村落、住宅又は建物の攻撃または砲撃は禁ず。
 海戦規約の第1条にも、無防備の港、都市、村落、住宅又は建物の砲撃は禁止せらる。 ともに英米も調印。
 「この英米の焦土化テロ空爆原理が」(p.38)。
 東京大阪の人口密集度はロンドン、ベルリンをしのぐ。
 WWII緒戦でベルギーは7000余の戦死者を出して降伏したが、その後英米がアントワープを空襲したところ一挙2300人が死んだ。
 ローマ爆撃を米に勧めたのも英。
 1933-5-27、連盟委員総会で米代表ウィルソンは、空襲戦の全廃、空襲の例外なき違法化を唱えた。
 空襲を警察行動と言い張ったのは1934頃の英政府。
▼関根伸一郎『飛行船の時代──ツェッペリンのドイツ』H5
 アルミはバルト海~アルプスまで独国内で自給可能。WWⅠ中、銅など輸入金属の代用材として、ラインラント、バイエルンで量産。
 英は戦前からツェッペリンを警戒し、チャーチルは1913に、英も建造せよ、と。
 1915-1-20、初の英本土爆撃がL3とL6で。ウィルヘルム二世は自分の親戚を空爆したくなく、ロンドンは不許可。
 200キロ爆弾を投下。
 1915-6-6、1000キロ爆弾を投下。
 新型のLZ40号(L10号)は、1915-6-4に、100キロ×2、50キロ×20、焼夷弾×90を投下。
 また1915-6-16に2500キロの爆弾を投下。
 1916には夜間空襲に切り替え。1916-9-2~3の16機による爆撃では事前に警告した。463発を投弾。
 ロンドン往復30h、高度6000だからひどく体力を消耗する。航空心理学や航空病の研究が始まる。
 ツェ伯じしん、1914には飛行船より固定翼と考え、ボッシュに巨大飛行艇をつくらせている。
 ブルガリア→東アフリカ補給飛行では、エジプト上空で沙漠の照り返しに乗員が目をやられた。高度1000mを保つ。95h、6757km飛んでたどりつく。
 WWⅠで海軍LZは64機投入、17機喪失。陸軍LZは50機投入、17機被撃墜、9機事故、19機老朽解体。
 1915から3年間に出動した飛行船の英国爆撃ミッションは50回。それによる英人被害は556人。
▼岩田達『戦捷の哲学的基礎知識』S18-11
 日蓮いわく、「夫れ一切世間の中にて國が亡ぶるが大事にて候」「須らく天下国家を祈りて己が一身に及ぶべし」。
 吉川英治「死んだ偉人も国家の現在の宝」「世界の有する財産の中で、最も貴重な財産は人間」(スターリン氏)
 プラトン「正に仮面の平和こそ戦時」
 「我が民は智識なきによりて滅さるべし」(ホセア書 四ノ六)
 フォッシュいわく総力戦下の国家は往時の包囲された都市市民と同じなのだと。
 会津籠城では、鍋、釜、装身具、骨董品、仏具を弾丸にした。「仏法を鉄砲にする会津兵」
 昭和14年までは工作機械用精密軸受けの「国産は絶無」で、総てテイムチンおよびSKF(スウェーデン)の供給に依存し、S15-8、米の工作機械禁輸と、S16-6独ソ戦にせまられて、S16-10にかろうじて国立機械試験所の手による円錐コロの製作法に一成案を得、政府の援助もあって17年初頭以後、ようやく国産精密軸受けの生産を見る(p.217)。
 14、15、16年度の物動計画は、どうなるかも知れない米英の物資を頼りにして樹てられていた。
 多田恵一は大8にボルネオ開発を説いた。田中義一陸相は明石台湾総督に南洋調査費を出させようとしたが、明石中将病没で頓挫。
 シベリア出兵時、陸軍航空本部第二課長であった高橋常吉大佐がS12-9-1に講演したところによれば、シベリア出兵でいっしょに出て行った米英軍は、戦闘そっちのけで石油その他の資源地質調査を行なっていた。それを見、その目的の遠大なるに、却って感服した、と(p.228)。
 仏印には無煙炭あり、日本の電力会社はこの石炭を最も使いたがった。


靖国関係の疑問ある人は『大東亜戦争の謎を解く』を読みましょう

▼内田星美『近代日本の技術と技術政策』1986
 陸軍からの留学は1870=M3桂太郎から始まる。
 初めは組織・作戦を学ばせるためだったが、1879より、砲・工兵関係の技術留学が大宗に。
 日露役直前の1903に工兵課の所管に軽気球が加わった。
 M17にはオーストラリア政府から銃の依託生産を受注。
 三年式重機には「レキザー」銃の長所がとりいれられている?(p.204)
▼フラウイウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』I~III、新見宏・秦剛平 tr.1975~81、原B.C.75~9
 著者は防衛隊長だった。
 破滅の原因は僭主。この僭主よりはローマ軍が寛大だった。
 ギリシャ歴史学は二次史料の羅列だけだ。
 軍勢は……無数のらくだに踏みつぶされてしまった(I巻p.53)。
 安息日でも自衛のためにだけはユダヤ人は戦う。
 麦は夏に収穫されるので、夏こそ掠奪の秋。
 ユダヤ人は体力に於いてギリシャ人にまさっていた(II巻p.11)。
 ローマは中東の平坦地では槍騎兵を主用した。
 命令はすべてラッパ(p.113)。
 ローマ歩兵は両腰に長短2剣を帯びる。
 フェンスには牛の生皮がよい。
 動物には自ら望んで命を絶つものはない。だから自殺は神への冒涜である。よって投降も不名誉ではない。
 アスファルトを船の防水材にしていた。
 城壁の破壊部分を大きくすることは退却をsuggestする(p.69)。
 ローマ兵は鋲を多数打った靴を履いていた。
▼『島崎藤村全集・13』「フランスだより」S31年
 大正5年発表の談話によれば、フランスの新聞はゴシップ載せず、未決犯人は頭文字しか出さない。
 シーメンス事件当時、筆者は仏人から仏製軍艦売り込みに協力するよう迫られた。『ニコニコ』大5-9-1号記事。
 仏人は勲章に執着する。
▼濱口富士雄『射経』S54年
 唐~宋にかけ『○○経』という本が百出する。酒経、香経、筆経……。
 易経の繋辞下に出る弓は未だ丸木弓。これが周礼の考工記弓人になるや、現代とほぼ同じ合成短弓に。
 決・ゆがけは、親指につける象牙の器具。遂・ゆごては、腕を保護する。蒙古式。
 詩経の車攻に、車上射を描写。
 趙王の胡服騎射採用は『戦国策』に載る。
 押し出し射法を難じ、自然な離れを提唱しているところを徂徠が訳し、日置流に採用された。
 解説。日本の弓は耳のうしろまで引く。シナの弓は顎の下まで。
 弓をひきつがえた状態=持満。
 倭寇の頃、和弓はシナ弓より威力があった。南方では膠が解けるので威力が落ちるせい?
 実戦では練習用よりも弱弓を用いる。強いと狙いがつかなくなる(p.72)。
 原始の形では、右手親指のハラと人差し指の第二関節脇で矢を締め付けつつ引く。
 地中海形では、親指と小指を一切使わない。三本指の第一関節で弦をひっかけて引く。
 蒙古形は、曲げた親指で引く。だから親指保護の「ゆがけ」が必要。
 柳は根付きよく、成長も早いので、軍営の周囲に植えられた。よって柳営という。
 シナの騎射は「居鞍」。日本式は「立透[たちすかし](p.164)。
▼筑摩『現代日本思想体系 4 ナショナリズム』1964
 神風連は明治5~9年に進歩派が敬神党を嘲笑せんとしてつけた仇名。
 神風=カミガカリという記号認識は明治初からあった。
 神風連とは、オランダ学万歳派が、新世代の英仏その他派に叛旗をひるがえしたものとも言える。
 M8の神風連は髷は残し、刀は袋に入れて手に提げて外出した。
 熊本城では乱があろうとは察していたが、まさか洋式武器のある城に攻め寄せるとは予期せず。
 このとき、与倉知実中佐邸が襲われ、本人は逃げたが、聯隊旗は奪われた。M9-10-24のこと。※人事総覧をみると与倉はその後将官になっていない。
 保田与重郎は『馭戎概言』を精読すれば思想戦が書いてあると1942に。
 中野正剛は、国家改造計画綱領の中で、金融は統制下に置けと。米では銀行反抗のため行き詰まっている。国有化や半官半民にする必要もないと。
 日本はいまだ……高度精密工業……について先進国に譲るところのものが少なくない(p.323)。
▼G・ダニエル『文明の起源と考古学』1973、原1971
 1950’sまでの成果を収録。
 ジョンソン博士はcivilizationを彼の英語辞書に収録することを拒み、古くから礼儀を意味したcivilityを選んだ。
 都市化は urbanizatin
 E・タイラーの定義だと、野蛮→未開(農耕)→文明(文字)。
 モーガンの区分。火→弓矢→土器→家畜→鉄→表音文字→文明。
 トムセンの三段階。石器→青銅器→鉄器。
 ラボック。Neolithic~Palaeolithic (lith- 石の)
 炭素測定法により、文明はザクロス山麓でなく、最初の農耕民のあらわれた三日月地帯よりももっと南のメソポタミアで生れたと確定。「歴史はシュメールから始まる」。
 創世記11章。人々は東のほうから移動してきて、シヌアルの地=シュメールに平地を見つけ、そこに定住した……。
 アベルとカインは、ステップ沙漠民と灌漑流域農民とを代表。
 旧約のバビロニア人とはカルデア人。ジェネシスのアブラハムはそのウルに住んでいた。
 「カルデアの」は長いあいだ「賢人」を意味した。
 日干しレンガの耐久年は75年。だからテルができる。
 ヒッタイトは象形文字を使用。
 プンジャブには古代車が残り、現用されている。
 マルサスが1798にシナを世界で最も豊かな国と言ったのは当時の西洋のステロタイプに基づく。
 『人口論』から25年でシナ観は地に堕ちた(p.120)。
  ランケ、ゴールドスミス、ヘーゲル、コンドルセは口を揃えてシナを停滞不変の国と呼んだ。
 黄帝は青銅期の直前か。
 シルクロードはB.C.3000には開かれており、仰韶の成立と一致し、それより6000年前からある近東農業をうけついでいるかもしれない(p.127)。
 商期、ほとんどの交通は水路によった。
 ワトソンいわく、商社会は、戦車と弓を主に使う点、青銅器近東都市文明に似ると。
 食料生産革命はエリオット・スミスが言った。
 弩がシナから西に渡ったと主張したのはJ・ニーダム。
▼ロマン・ギルシュマン『イランの古代文化』
 アゼルバイジャンは別名・メディア地峡。イラン山岳防御帯の裂け目であり、肥沃で人口稠密、メディア人からペルシャ人の出発地。
 カスピ沿山地は雨が多い森林で、大食糧供給地方。
 エラム象形文字は、魚を除けば既に漢字とは全く違う。
 ギアン出土の三足土器は、鼎に似る。B.C.2000末。
 B.C.860以前のアッシリアはチャリオットのみで騎兵なし。アッシリア彫刻に国王が戦車で山河を越えるところを描いているのは、それが大苦労だったから(p.78)。
 旧約エレミア:見よ、かれは雲の如く来り、その車は旋風の如し、その馬は鷲より早し……。スキタイの地中海征服。
 シナとうてつ文の仮面の「新ヒッタイト王国」様式の類似。
▼F・ギゾー『ヨーロッパ文明史』上・下
 1828ソルボンヌでローマ崩壊から仏革命までをGuizotが講じたもの。
 文明の科学的定義はしない。
 文明とは社会と精神の進歩、発展で、物質的豊かさではない。だから文明のために蒙った損失ならば忘れることができる。
 ヨーロッパ文明の秘密は、社会秩序の諸要素の多様性、それらの要素が互いに他を根絶し得なかったことに求められる。その反対がアジア的専制なのだ(p.51)。
 初期ローマ時代、イタリアには耕地はあっても農村はなく、都市から田園に出かけていくのみ。
 上位ヒエラルキーが下位者を任命し、思想を強制するカソリックが12世紀以降定まったのは不幸。
 5~10世紀、農村優位化し、都市が衰微し、人口は減った。
 封建制→再び都市が活性をとりもどす。常に都市内にある教会が、農村封土からの逃亡知識人を吸引。→市民。
 領主の土地の中に、収穫対象としての都市が囲繞されることになった。
 自治市と領主との「防壁権」をめぐる戦いは11世紀に本格化。市側が勝つ。
 市民は領主をさしおいて、王に接近する。12世紀。
 12~13世紀の市民は常に胸ヨロイをつけ、槍を手にしていた(下p.32)。
▼渡辺已之次郎『華盛頓に於る日本の敗戦』大11
 米国海軍はWWⅠで活躍できなかったため、戦後、腕試しがしたくてたまらないのだ(p.15)。
 ウィルソンの頃まで、米大統領は海外旅行しないとの不文律あり。またウィルソンは講和委員に上院議員や共和党員を含めず、議会対策をまったく怠った。
 当時のフィリピン総督はウッド将軍。
 デンビー海軍長官による米国艦隊編成替は、太平洋に最新の重油焚き艦、大西洋には石炭焚き艦を配せんとす。
 ハワイ軍司令官には、WWⅠ指揮経験あるサマロール将軍が任ぜられた。
 ヤップ島問題は大9の国際通信会議以来。
 グアムにもヤップにも海底線。ヤップからはグアム、上海、メナドに線が繋がる。
 海軍の秘密主義が陸奥の既成艦たることを米国に知らせないようにして置いた(p.139)。
 グアムは米海軍の軍政下におかれ、アプラ港には外国商船立ち入り不可。ただし貯蔵は石炭のみ。
 サモアも米軍政下。艦船修理施設あり。「ボロック」にも海軍根拠地。
 ハワイは、カリフォルニア、アラスカ、サモアより等距離。東部太平洋の支配点(p.143)。
 ターンバル、フィスクらの海軍人は、早くからフィリピンは空軍力で守るのが合理的であることを説いていた(pp.242-4)。
▼鈴木兼吉『ワシントン会議に際して』大10
 全権は国内では後援を訴えず、出航はるか後、無電で支持を呼びかけた。
 マーク・ケーア中将の9月論文。subは半径6マイル[ノーティカルマイル]しか見通せないが、クルーザーは20マイルみわたせるから、水上制海こそ完璧な洋上支配也という(p.100)。
 また同将はairはsubに絶対有利なので護衛も空軍にやらせろという(p.105)。
 ヤップ島電信はもともとドイツ所有。ガム、ミンダナオ、セレベス(メナド)に線がつながっており、ロケーションは比島とグアムの中間。
▼常田力『ワシントン会議と永久平和』大11
 「事実現代を溯る五十回の海戦に於て、六割で勝ったのは漸く一割位である」(p.163)。だから七割に固執した。
 4国協定とは、奄美や小笠原が日本本土であると否とに係わらずこの防備を現状維持するとしたもの。
▼外務省調査部第二課『ドイツと植民地問題』S16年
 ニューギニア殖民は濠の猛反対あったが英の許可があったので実行。東半分の北側をとる。
 スペインは米西役の負債を軽くするため、1899、カロリン、パラウ、マリアン(アメリカが占領したグアムを除く)諸島を1675万マルクで独に売却した。
 ガダルカナルのあるサロモン諸島ははじめから含まれない。
 連盟を脱した日本に連盟は委任統治の返還要求の態度が示せない。米はそれを望んだ。英は日本の抑制のためにこれを自分たちの統治領もあわせて、ドイツに返してもよいとすら言っている(p.162)。
▼田中広巳「東シナ海と対馬・沖縄」(防衛大学校紀要・第40輯・人文/社会科学編、S55年)
 幕府が沖縄を1609の遠征以来、薩摩藩に任せていたのは、軍事的脅威の面で幕府がぜんぜん警戒していなかったことを示す。
 ロシアに対して対馬を、砲台+海底ケーブルで守れと主張したのは榎本(大日本外交文書・巻8)。
 『ペリー提督日本遠征記』S28訳には、英国未着手の沖縄に着目したのがペリーであったことを示す手紙載る。「太平洋の諸島」は、別の箇所から沖縄と推測できる。
 またペリーは日支両方への拠点として台湾を最重視していた。この構想は南北戦争で実現せず(p.48)。
 台湾征討論者の西郷隆盛も台湾を沖縄や南洋、シナを制握するところとみなしていた。南進政策は、薩摩系人士の沖縄ルートの発展策である。
 李鴻章は沖縄を清国対外発展の門戸とみていた(p.50)。
 井上毅は日清戦に臨み、朝鮮は一国で独占できないが台湾は違うと。
 『沖縄縣治要覧』大10版によると、M29年7月に沖縄分遣隊は撤廃されてしまった。M31~35までは大隊規模のみ。戦闘力ほとんどなし。
 沖縄は日清戦争で、対馬は日露戦争で、各々前線から回廊へと役割が変化した(p.56)。 沖縄基地は米中心にみて価値があるが、アジア中心にみると永遠の価値はない。
▼石井通則『小笠原諸島慨史(その一)』1967
 欧米人の初来島は1823、米捕鯨船Transit号の漂着。船長はCoffin。
 1855ペリーが父島に。
 幕府はペリーの記事によって同諸島が外人に占拠されていることを知った。
 硫黄島(火山列島)居住は、M20以降、日本人が最初。定住はM37から。
 ペリーは母島を占領せしめたが、合衆国政府はそれを否認した。
 南鳥島は19世紀後期よりマーカス島として周知さる。
 ついに確認できない「中之鳥島」があるらしい。
 沖ノ鳥島と硫黄島は370カイリ。南鳥島と硫黄島は689カイリ。
 軍機関としては、父島要塞司令部、海軍通信隊。
 S19-4-4から全島民のひきあげ始まり、6-15に艦上機の第一回空襲。
 マッカーサーは島民を残す意向だったが、米海軍が反対して強制送還になったという(p.27)。
▼小笠原戦友会 ed.『小笠原兵団の最後』S44年
 硫黄島で降伏勧告させたのはサイパン捕虜。
 トラック島に対する機動部隊空襲で杉山参謀長と永野軍令部総長が、東條、嶋田に代わられる。東條は軍政と軍令を兼ねる。
 S20-1-1時点で父島に陸軍9200人、海軍6000人駐留。
 終戦前の1年間は、木造の小型船団すら父島に寄り付けず。
 母島からは晴天のときだけ父島が見える。蚊と蟻と鼠がすごい。
▼望月小太郎『華府会議の真相』大11
 著者は山縣有朋にも近い、英語で話せる代議士。
 林大使はロイド・ジョージの演説当日まで日英同盟は継続される如く誤解して、本国に報告を送っていた。
 中南米諸国はぜんぜん参加しないことに決した。
 加藤友三郎は日本語で。ハーバード大の市橋教授が通訳した。
 加藤は自分の口からではなく、海軍専門委員をして7割をいわせようとした。これが6割屈服の原因だ。
 加藤は将来にわたっても米英との海軍対等は求めないと言った。
 日本記者団は6割を支持し、海相に迫った。
 11-8には出席代議士を前に海相みずから7割必要を説いた。
 ここでも日本外交は軟弱で男性的率直を欠き、堂々と陸奥復活を要求しないで、7割の比率を要求すれば陸奥も自然に生かされるというが如き態度。これはじつに見え透いていたので、7割要求もかけひきのひとつとみなされてしまったと。
 海相は新聞記者にもなぜ日本が7割を欲するのかの理由を2週間にわたり全く説明しなかった。だから米国新聞は、7割説は一種の駆け引きだと批評した。
 海相ははじめから、もし7割が失敗したら、随行部下である海軍専門家の責任にしようとしていたのである。
 加藤を抜擢した権兵衛いわく、あまりに妥協性に富むと。
 政友会代議士応援団は、ワシントンで7割をプッシュしたが、加藤が6割を呑むと、それを成功と言い囃した。
 アラスカ買収の際、英とのあいだで軍事防備せぬ黙約あったが、キスカに米国第二の根拠地を設けた。1898の比島併合の際にも星亨公使に併合しないと約しながら結局やった。グアムは潜水艦根拠地にする予定である(p.88)。
 マハンは『米国海権の現在及び将来』の47頁で、ハワイを北太平洋死命の地と呼ぶ。ホーマーリーやバイウォーターも。
 ハワイを海軍策源地にすることは1916米国将官会議の決定。
 海大教官ニーブラック大佐は、アラスカ、ハワイ、ミッドウェー、グアムの根拠地化を説く。ナイトとロッヂは、ハワイ、ミッドウェーを強調。
 加藤海相は、ヒリピン、グワムは我国の鼻先に在るから危険であるが布哇は脅威でないといふ。
 大型subはミッドウェー~横浜2250浬を13hで航海している?(p.95)
 現にドイッチェランド号はキールからニューヨークを往復した。
 1912のヘリゴランド防備制限会議も独が応ぜず、英は占領に苦労した。
 山梨陸相は3-12の貴族院で、国防の第一線なる奄美大島小笠原方面に制限を受けるのであるから多少の不安を免れぬ、と。
 以前の高平・ルート協定では、ハワイ含む太平洋島の現状維持は約束済み。
 ハワイ併合は1898、台湾割譲は1895。
 フォッシュもついてきた。
▼小松緑『ワシントン会議の真相』大11
 ヒューズ案を知っていたのは、全権4名の他に、デンビー海軍長官、クーンツ海軍大将、ルーズベルト海軍次官、フレッチャー国務次官。
 市橋の通訳は声がよくなかった(pp.32-3)。
 海軍専門委員は、ルーズベルト、英ビーティー大将、仏ルボン中将、伊アクトン中将、加藤寛治中将。各国とも部下3名づつ。
 フィリピン、グアムと米本土間のケーブルはヤップを通らざるを得ず。