政治家は諦めても秀才官僚群は「易姓革命」を目指す。

 いにしえの日本では、 『孟子』を積んだ船が唐土から本朝に向かうと、それは必ず難破する、と信じられていました。
 なぜなら、それはシナ古来の特有思想たる「易姓革命」を露骨に肯定するテキストであったからです。
 地理は文化を決定し、文化は歴史を決定します。
 大陸文化は科挙と易姓革命になじみますが、日本はそうではありませんでした。
 それを担保し続けるのが、過去にルース・ベネディクトだけが南太平洋島嶼文化との一致として理解ができた「神聖首長」たるわが天皇家の歴史です。これはとうぜん、紀元前何世紀にもさかのぼった文化で、その文化と不可分の政体が、朝鮮に国家らしきものができるよりも何百年も早くから日本列島内に確立していたからこそ、あとあとまで大和朝廷は大陸文化の易姓革命(間接侵略)を拒否しぬけたのです。
 武家政権は、神聖首長制度こそが、大陸からの直接/間接侵略を防止する合理的防御機能であることを直観で把握していました。
 今日、多くの保守派が、コミンテルン1927/32テーゼだけを問題としているようですが、大陸の脅威とコミュニズムは関係ないのです。そんなものは本質ではありはしない。大陸の脅威とは易姓革命と不可分の文化であり、それは地理からくるもので、マルクス以前から存在し、マルクス以後もあり続ける脅威なのです。
 この大陸の混沌から日本を防御するシステムが神聖首長の制度です。この制度があるから日本社会は混乱せずに近代化することができ、近代軍隊を持ち、社会の安全を保つことができました。天皇制がなくなれば日本はたちまち大陸と同じ永遠無限の混沌地獄にひきこまれてしまうでしょう。『平家物語』は仏僧が書きましたが、日本の天皇制だけは永久不滅であると絶叫しています。その意味は日本の国防と社会安定にこそありました。
 大陸から長期にわたり徐々にもたらされた危険な文化のひとつが、政治リーダーではなく、試験エリートによる国政をよしとする思想です。シナ式の科挙に酷似した文化が、明治以降の日本に移植されました。そして秀才官僚は無意識に神聖首長を俗化しようとします。これは文化の必然なのです。
 皇室を廃せむとする勢力…。それは、皇室制度がある限り日本に革命は起きないと見抜き、意識的に皇室廃絶を謀ったスターリンだけの話ではないのです。日本国内の秀才官僚は、無意識に、天皇の地位をうかがわずにはおれない。それが大陸に生じた科挙文化というものなのです。
 小泉氏は基本動機として官僚統制に反発をしているのでしょう。しかし、このたびの皇室典範改正さわぎでは、もののみごとに、表にはでてこない高級官僚群(こんかいは外務省)の術策にからめとられて、官僚のために働いています。彼はそのパペットです。小泉氏がいなくなっても、試験エリート官僚はいなくなりません。


どなたか…

 『軍事史学』の最新号を読んだ方はいらっしゃいませんか。中田祟さんの国民党中央宣伝部と外国人顧問に関する論文の梗概を知りたいのですが……。


妄評雑批

 現在の秋篠宮殿下のご成婚のとき、「兄君皇太子殿下を差し置いてお急ぎになるなど、お立場の御自覚が足りぬのではないか」と難ずる人たちがいました。
 当時、江藤淳は、既に巷間噂の方であった小和田雅子氏のご係累であったため、この問題に関しても、いっさい何も書かないことを自分で決めていらっしゃいましたが、東工大の研究室に出入りする出版社の担当編集者たちの誰彼には、ハッキリと腹蔵無い私見を伝えていたのです。たとえば、『月曜評論』に書かれているような批判は正しいと思う──と。このミニコミはなぜか国会図書館にございませんので見たことはありませんが、たぶん、弟君が長子たる皇太子殿下よりもお早くご結婚あそばされるのは日本のロイヤルファミリーとしては反儒学的な不たしなみであり、皇室の評判にプラスにならぬ、と心配する人たちとご同様のお考えであったのです。
 嗚呼、みずから実子を持たむとして遂に持ち得ず、いちじは養子を貰うことまで真剣に思ったほどの江藤淳にも、今日の「皇統の危機」を予見することができませんでした。平民の理性は遺憾にもこの方面では有限すぎるのです。
 宮内庁内の輔弼者たちは、さらに迂闊であったと申さねばならない。皇室の若君たち、なかんずく昭和帝の皇孫殿下には、可及的な早婚をお勧め申し上げるのが、彼らの責務であった筈なのです。責任を後代回しにする悪癖が抜けることのない平民官僚供に宮内庁を任せてはいけないことが分かったと思います。宮内庁こそいっぺん解体して再生させる必要がありませんか。


古書摘録

▼岡本功司・著『蟇将軍南喜一』(S46-3刊)
 南は1904生まれ、1970没。
 東京の大学専門学校に入学するには、三年生乙種中学卒では受験資格がない。まず「専検」に合格しなければならぬ。17歳で合格。
 農村青年が東都遊学の熱にうかされたのは日露戦争勝利で日本が大国になってから。
 大正2年4月まで親不知に鉄道が通じておらず、金沢から上京するには米原経由しかなかった。
 ヴァイオリン演歌師は辻で唄本を売る「啖呵バイ」によって収入とした。
 演歌は明治20年、自由民権思想を大衆に広める手段として始まった。
 明治末年は苦学生がそれをやった。東京住民はそれを好感を以て迎えていた。
 演歌は次第に艶歌に化した。女の客に合わせているうちに。
 M36に東京市にチンチン電車が敷設された。
 人力車には、お抱え車、俥宿、辻待ちの三種があり、それぞれ自家用車、ハイヤー、タクシーである。夜だけの人力車を「よなし」という。冬の夜は寒いので人力車の客足は減る。
 大正3年頃、月謝を4カ月滞納すると大学除籍となる。
 タレ流しが問題となっていた石鹸廃液をタダであつめて、グリセリン(WWⅠで火薬原料として高値)をとる工業を始めた。
 しかしすぐ真似られたので、特許のとれる耐アルカリ性の硬質ゴムパッキンを製造。
 WWⅠの景気で日本人労働者の収入は増えたが物価はそれ以上に騰貴した。大正7年の賃金は大正元年の1.5倍だが物価は2倍だった。
 ロシア革命後に米騒動があり、ストライキが大正8年までに急増。
 『墨東奇譚』の向島の濫觴は、大正はじめ、白髭橋開通後の「銘酒屋」=私娼窟。これが玉の井となる。
 ヴ・ナロード(人民の中へ)を合言葉に労働者の中に入っていった大7創立の帝大生「新人会」。創設者が赤松克麿ら。のちの会員に林房雄ら。
 大震災では家が崩壊すると人々は瓦をはがして救出せんとした。大火のときは真昼なのにあたりが薄暗くなる。
 朝鮮人、支那人、社会主義者、博徒が放火掠奪しているという流言のもとは、9月2日午前3時に船橋の海軍無電局から発信された各県警察部長あての内務省通達(p.62)。
 大塚火薬庫を不逞鮮人が襲撃しようとしているという大塚署長の返電あり。たまたま空地の広い公共施設に避難民が集まったもの。
 渋谷署長は、凶器をたずさえたる鮮人約200名が二子玉川の渡しを渡って市内に進行中と報告。これは川崎・鶴見の朝鮮人労働者が市内の同胞救援に動いたもので、白昼に渡しを渡って日本人が警備中の市内に破壊活動に向かうわけがない。
 2日午後5時に、戒厳司令部は市内各警察署に、朝鮮人の行動を厳重に警戒すべしと命じた。
 頭髪を長くしていた東北出身者が朝鮮人に間違えられた。
 亀戸では、自警団のある者が巡査に斬り付け、巡査は正当防衛手段として之を斬殺した。
 巡査部長は白木綿を柄に巻いた日本刀を用意していた。
 「亀戸事件」では留置場で騒擾した社会主義者らが騒ぐのをやめなかったので警察が軍隊に制止を依頼。少尉が5、6人の部下兵士に、14人を広場にひきだして銃剣で刺殺させた。その中に南の弟がいた。事件後に弁護士いわく、検挙者で騒ぐ者などいなかったと。
 大正8年=1919年に共産主義インターナショナル(コミンテルン)がモスクワに設けられた。各国の共産党はその支部に。
 コミンテルンは大正11=1922年1月にモスクワで極東民族大会を開き、執行委員の片山潜が指導的な役割をつとめた。上海経由で徳田球一らが参加した。
 この結果、堺利彦、荒畑寒村、野坂参三らにより非合法組織の日共が結成される。すなわち党規草案48箇条をコミンテルンに報告し、正式にコミンテルン支部として認められた。
 日共の存在は官憲に探知されて、大正12年6月に一斉検挙をうけた。ちなみに社会主義や労働運動は合法であった。革命が反憲法的で非合法なのである。
 社会の反発も大きく、大正13年3月に赤松克麿らの提唱で解党を決議。ところが徳田らは「ビューロー」と名づける新組織を立ち上げ、5月には機関紙『マルクス主義』を創刊。文部省留学生としてドイツでマルクス主義を学んだ福本和夫が書きまくった。大正15年12月に山梨の五色温泉旅館で日共再建大会。
 南喜一は渡辺政之輔のすすめで入党し、労働者のこれと目をつけた運動家を日共に勧誘した。
 モスクワ・コミンテルンは毎年日本から7~8名の労働者をクウトヴェ(東洋共産党大学)に推薦入学させていた。
 日共内には福本和夫と山川均の路線対立があった。昭和2年にパトロンのモスクワにその決裁をつけてもらおうとした。そのさいコミンテルンへ持参する活動報告書を渡辺が小卒(4年制)の南に書かせようとした。そのさい、党員候補者がすでに4万人いると嘘の記入をさせようとした。じっさいには党員60人、候補見込み300人、あわせて400にならなかった。
 インテリの渡辺は、どの国も万単位の報告をしていた当時、400人と報告しては援助金(党員数に比例)をモスクワからほとんど貰えないことをおそれた。南は拒否し、別の小卒(非インテリ労働者代表)がそれを書いた。
 福本、徳田、渡辺らがモスクワに潜行すると、プハーリンは、山川路線も福本路線もともに否定。7月に日共は「27年テーゼ」を与えられた。
 すなわち、4万ものレフトがいるのに地下でこそこそするな。表へ出て言論戦をやれと指令されてしまった。
 この結果『赤旗』が発刊(非合法)されることになり、工場を単位として表立った細胞組織づくりが展開された。
 大正14年に普選法が可決。昭和3年2月にその第一回の衆議院議員選挙。非合法の日共は、陰で操る労働農民党(合法)の候補の中に11人の日共党員をまぎれこませた。
 日共が選挙のたびに必ず候補者を出すのは、当選が目的ではない。選挙運動という合法活動の場を最大限に利用して、大衆に広くコミンテルンの主義主張を宣伝するチャンスとせよというモスクワの命令なのだ。候補者のポスターには堂々と「帝国主義戦争絶対反対」「天皇と結びついた資本家と地主の議会を破壊しろ」などと書かれた(p.108)。演説会場で撒くビラには堂々と共産党推薦と明記してあった。
 11人は落選したが、この選挙があったおかげで、誰が日共党員なのか、官憲にはすべて判明してしまった。
 3月15日に彼らは一斉に検挙された。特高警察は昭和7年にできる。
 党員の水野成夫は、昭和2年=1927年に漢口の武漢政府(中共と国民党左派の合作)にコミンテルン極東事務局の日本代表として渡った。そこで十数カ国の代表とともに一年暮らしたが、コミンテルンの指令のままに中共が働く様子を見て疑問を抱く。
 第二次一斉検挙で入獄した水野は昭和4年に脱党し、昭和5年に他の党員へのメッセージを公開。「コミンテルンと絶縁し、外国の指令によって動く外国の手先としての共産党ではない日本の共産党を作るべきだ。日本の民衆を共産党から離反させている『天皇制廃止』というスローガンを撤廃して、天皇制の下でのマルクス主義革命運動をやる」というもの(pp.116-7)。
 昭和4年に南も獄中で脱党。古新聞からインクを抜いて再生紙にする研究を始める。(南は薬剤師の正式免許を持っていた。)
 金融恐慌は昭和2年だが、労働争議件数の戦前ピークは昭和6年。
 ストライキがはじまれば支援カンパなどでカネが集まるのだが、ストに入る前のカネは借金して作らねばならない。南は河上肇から2000円という大金を借りられた。
 大正8年に東京一の私娼窟であった浅草観音裏は道路拡張のために取り払われることとなり、政友会の中島守利は代替地として玉の井を開発した。
 大正12年の震災直後に、浅草十二階下の私娼がどっと玉の井(いまの東武線玉ノ井駅)に移った。六区の再興だけが許されたので。
 大正15年の警察調べで玉の井の酌婦600名。これが昭和5年には860名。
 昭和5年以降から、素人が私娼として売られてくるようになった。それ以前は問題家庭の家出女やバクチの借金代わりという手合いであった。
 吉原や洲崎には公娼があった。これらは江戸時代いらいの遊郭で、客は、修正された写真を見て女を決めるしかない。
 ところが玉の井では、ちょんのまの一階のガラス窓から女を見て選べる。これがうけた。小窓は色電球で飾られていた。和服しゃぐま限定の遊郭と違い、いずれも有名な映画スターや美人歌手とそっくりにしていた。
 昭和8~9年の東北大凶作の頃、売られてくる娘の出身地は、山形、秋田、青森、福島、岩手、宮城の順に多かった。この順はその後も不変。東北6県で、玉の井の私娼の7割を占めた。
 他の有名な私娼窟としては、熱海、亀戸、名古屋の大曽根があった。
 昭和8年にヨーヨーが流行。
 当時も巡査から昇進して署長になった人がいた。
 私娼には、男の同情を引く身の上話の定番があり、これを皆使っていた。典型的なのが、女学校へ行っていたというもので、中には女子大を出て教師をしていたというものも。2~3年で、第二のアイデンティティになる。つまり自分で嘘とも思わなくなる。
 南は私娼の駆け込み救済組織をつくって、雇主に証文を破らせ実家に戻してやるという運動をしたが、女たちは根気がなくなっていて、また元の世界に戻ってきた。
 警察は有力な救済機関なのだが、それに動いてもらうには本人と親とに基礎的な知識や強い意志力と態度がなくてはならない。多くの者にはそれが無いため警察にはどうにもできない。
 クーラーの無い時代、夏は客がほとんど寄り付かなくなる。
 私娼窟の真のワルは、建物を提供している住民たち。表向きは小さな堅気の商売をしており、裏面で名義を貸して権利金を収入にしている。だから私娼が脱走すれば住民がすぐ通報する。
 日本経済は昭和8年から回復に向かうが、農村だけは取り残された。
 何年も百姓仕事から遠ざかっていた娘は二度と鍬を持てない。体力・体格が違ってしまうから。それが東北の実家に戻ってきても穀潰しの厄介者となるだけだから、けっきょくまた都会に戻り、女給・女中などを経て、私娼になる。堅気の人間の生活に歩調を合わせられない。
 南は400人を足抜けさせたが、最終的に堅気になることができたのは2人だけだった。
 しかし南の「向上」運動のおかげで玉の井の私娼の奴隷的労働環境は改善された。それを証拠だてるのが昭和12年の永井荷風の『墨東奇譚』。ここに描かれる私娼には外出の自由があり、買い物をする財力があり、芸者よりも早く借金が抜けるとの証言もされている。
 昭和13年頃は日本中の神社境内で、応召者・入営者の歓送会が見られた。
 苫小牧港のもといは「国策パルプ」勇払工場。これは南と水野成夫で創建した。昭和15年当時は湿地帯の原野のみ。陸軍の幹部(たとえば岩畔豪雄)は南が日共転向組であることを承知で、大陸の住民宣撫にあたらせたりしていた。それで統制経済下でありながら、新工場の設立が可能だった。既存パルプ業界は、南は北海道の木を狙っていると察した。商工大臣は王子製紙の藤原銀次郎だった。しかし椎名悦三郎が陸軍省の整備局長から商工省の岸信介次官に一札をいれさせると、藤原は簡単にハンコをついた。
 南は最新のスウェーデン製の抄紙機が汪政権支配下の広東省政府の倉庫にあるので、それを買うことにした。武藤軍務局長に根回しした上で、南支派遣軍の参謀副長の佐藤賢了大佐にかけあった。賢了おもえらく、パルプ不足の当時、陸軍の意のままにできる再生製紙がもてるならば、これは大新聞を操縦できる唯一の手段となる(佐藤は元陸軍報道部長)と。
 150万円で広東省政府から買い取った。
 広東の料理屋の私娼は九州女が多かった。南はその足抜け相談にものった。「軍が補助金をやってせっせと女を集めているのに」(p.239)、と反発された。
 続いて香港にいくと、米英の支蒋物資がジャンク百艘に満載されて滞貨となっていた。そのまま揚子江を遡航すれば重慶なのだが、日本軍が内陸と港外で監視している。英国はジャンクが港外に出ようとしたら日本軍の手に渡さぬように駆逐艦と砲台で撃沈する構え。
 そこで南は海賊の親分でしかもアモイの商工会議所会頭でもある某人物に70万ドルを渡した。1ヵ月近くたってその親分は蒋介石と英軍に話をつけた。メンツをたてるため30艘は揚子江を遡航させる。残りは南に売ると。約束の期日に70艘が帆をあげてそのまま室蘭に向かった。英軍は何もしなかった。
 ※航洋と大河遡航を1隻で兼用できる舟艇が対支戦では必要だった。
 台北郊外に北投温泉あり。
 三角柱は産婆の看板。
 寛政12年に武州八王子の千人同心隊の頭、原半左衛門が、同心子弟50人を率いて勇払に屯田した。樽前、恵庭の火山灰地で樹木が乏しく耕作にも向かず、5年後に撤収。30人が死んだ。
 大正8年、WWⅠが終わり、日本人も洋服を着るというので、緬羊牧場ができた。ところが事業は先細り、昭和8年頃には肉用の羊に切り替わった。それでも失敗。牧草が育たない土地だった。
 昭和7~8年の大不景気のとき、救済工事で湿地の排水溝を掘り、沼の跡地が工場用地になった。
 昭和15年でも電気がなくランプ。翌年6月にようやく電灯線が引かれた。
 職人は樺太のパルプ工場などから呼び集めた。当時は親分子分関係で、親分が電報を打つと簡単に子分が集まってきた。
 火山灰地に植樹するときは一本だけではだめで、何本も並べて植えるのがコツ。
 じゃがいもとかぼちゃだけがよく収穫できた。
 昭和20年に勇払原野に飛行場ができた。
 昭和20年7月14日に艦上機の初空襲。効果なし。そこで翌日に敵機は機銃弾に曳光焼夷弾をまぜ、ロケット弾を積んできた。
 苫小牧の王子製紙工場の消防望楼には機関銃が備えてあり、対空射撃したために、かえって狙われ、指揮官の将校と射手が戦死した。
 インフレになるとカネで買うより物々交換の方が物資が手に入り易い。
 庶民が大本営発表を信じなくなったのは昭和18年。17年の勝っているうちは東條は英雄になりかけていた。
 終戦後シナ政府は3人の係員を派遣し、南の苫小牧工場の機械類いっさいを賠償として掠奪するGHQ命令が出た。汪政権は偽政府であるから売買契約など関知しないと。広東から買った以外の機械が半分あった。
 昭和27年1月、札幌市警の白鳥警部が共産党員の手で射殺された。
 昭和27年12月に米国政府は南が元共産党員だとの理由で入国を拒否。
 英国はなぜインドとパキスタンを分離独立させたか。一大食糧源は東パキスタンにあり、これをインドから分離しておけばインドは食糧自給ができない。
 昭和27年11月、カルカッタで「排英米」の民族独立をモットーとした共産党のデモがあり、千余名の死傷者が出た。※近衛の排英論はアカの工作だったとする説は有力だ。
 インドの識字人口は18%だが、その中に共産党が多い。
 イタリーは石炭もなく、だから石灰石があってもセメント工業が成り立たない。鉄鉱がないから重工業も無理。にもかかわらず国民の魂はおちぶれていない。そして市場をみると、英独仏の商品があり、米国だけに依存していない。
 イタリアでは合法共産党と他の政党はどちらも国民を味方にするための政策論を堂々と訴えている。反共側に怠りがない。「日本のように無知で対策のないのと違って、危な気がないから[政府は]国民の信頼も得ている」(p.296)。
 ソ連の手先である伊共産党が、一昨年来、「完全なる独立、といって目標を掲げて民族運動を展開し、排英米の運動を裏にかくして、盛んに祖国を守れとか、民族を守れという言葉を宣伝する」「赤の嫌いな国粋主義者もその点では共産党と一致して来るから、非常に危険」「政府与党からすると、国粋主義者も赤も同じだ」(p.296)。
 イタリアでは口に入れた食物の総量の4割が糞になっていた。仏、英、蘭、ノルウェー、ベルギーでは25%弱だった。ドイツは18%以下だった。日本では5~6割である。ここから南は日本は遅れているという結論を出す。無駄が多いのだと。粒食ではなく粉食にしなければダメだと。
 南は米国で発見された「クロレラ」にとびついた。昭和30年に福岡から東京に進出した「ヤクルト」の代田博士と提携。
 クロレラ培養によって食が足り、戦争もストライキも絶滅すると信じた。
 ルンペンという新語は昭和6~7年に流行。ドイツ語でボロ屑のこと。
▼ジェフリー・T・リッチェルソン『世界史を動かすスパイ衛星』1994-2江畑謙介 tr.
原1990
 ディスカバラー・シリーズがスパイ衛星だったとはこの本が初めて明らかにした。
 フセインはサウジ侵攻計画をもっていなかったが、サウジは米の写真をみてそれを信じた。
 米ソは互いに条約遵守を監視する「国家技術手段」つまり偵察衛星の写真は第三国に公開しないという不文合意あり。
 イラクのスカッドは発射から着弾まで5~7分。
 スカッドの偵察写真はプリントアウトだけで数分。攻撃機が飛び立って現場につくまでに発射機はもう消えている。
 ロシアのクーデター騒ぎのあいだ、SS-25移動式ICBMはすべて基地にまとめられた。つまり制御下にあることを米衛星に示した。
 シナ軍の兵士は日記をつけない。。
 戦術情報は脊椎反射化する必要がある。つまり中枢で処理している時間はない。
 タイタンでの打ち上げは地元漁民にだけ直前に知らされる。
 ケープカナベラルは一般道路からまる見え。バンデンバーグは山に囲まれているが地元新聞が毎日見張っている。
 ホワイトクラウド海洋監視衛星は高度な秘密だった。
 アメリカも偵察衛星を実用化するまで10年の年月と十数回の失敗を要した。
 写真撮影の順序は米上空にきたとき暗号化されたプログラムで入力される。
 アイクがコロナ計画を承認した。1959実用化を期待した。
 補助ロケットを先に点火するミス。新しい指令を送る前にリセットボタンを押し忘れるミス。
 1959-4にソ連は間違ってノルウェーのスピッツベルゲン諸島に落下したディスカバラー2号を非合法に回収。
 アラスカに近いソ連のミスシュミッダ航空基地は、米偵察衛星がテストで最初に撮影する定番ポイントになった。
 空軍人はサモス計画について口にすることすら禁じられた。また事前の承認を得ることなく公的に論じることも禁じられた。
 議会の公聴会で語られた記録は削除された。
 衛星迎撃システムは1959から必要だと論じられた。
 敵衛星を調査するにはそのすこし前方の軌道に乗せてから15mまで接敵撮影。
 海での回収待機にはフロッグマン必要。
 ケネディは共和党がミサイルギャップをゆるしたと非難して大統領選挙に勝ったのだが、マクナマラはソ連のICBMがぜんぜん大したことないとの衛星知見をあきらかにしてセンセーション。
 タレント・キーホール・クリアランス。TK。U2の写真を見るにも必要。
 衛星のパラメータにアクセスするには、バイマン・BYEMAN・クリアランスが必要。これは衛星計画全体のコード。
 1958-4にシナはチンシェン(南東部)に最初のウラン鉱山を開いた。63年フル操業。
 1958-8に最初のウラン精錬工場を建設開始。この月には核実験場の選定開始。
 1958-10にモンゴルのパオトウに四フッ化ウランの工場の建設開始。1962春運開。
 1959-10 新疆ウイグル自治区のロプノールに核兵器実験基地を建設。
 1960-2、プルトニウム工場が酒泉に建設開始。
 1960-3、蘭州にガス拡散式の濃縮工場の建設開始。
 1963のサモスはフィルムが全滅。何の情報も得られなかった。
 1962に、アデナウアー、ドゴール、マクミランの三人に対しては衛星写真活動について米大統領が説明していた。
 衛星の難点はふたつあり、ひとつはカメラを動かす技術。もうひとつは、フィルムより先に軌道修正用の燃料が尽きてしまうこと。
 これらの問題はガタイをでかくすればよい。最終段から切り離さずに軌道に乗せることにして解決。
 1969に計画中止となったMOL計画。これは有人スパイ衛星であるが、これを無人化したのがビッグバード。※シナの神船はこの有人ビッグバードもどきの段階。
 フロリダとカリフォルニアとどちらから偵察衛星を上げるか。これが上院議員の関心事。
 極軌道に関しては、フロリダはバンデンバーグよりペイロードで不利になる。
 宇宙船になぜ床が必要か。飛行士が上下を識別するため。
 1.8m直径のレンズは10センチの分解能だが、これが大気のゆがみにより、実用は20センチオーバーとなる。
 有人宇宙船からは肉眼でも艦船の航跡がわかる。
 SA-1とABMはモスクワを72キロの半径で取り囲む。
 チェコ事件は痛恨のコロナ衛星故障で阻止できなかった。現像時点で侵攻おわり。
 ヒュミントも遅すぎるというのが教訓。→リアルタイム衛星開発へ。
 ソ連の対シナ戦略。まず1966-1のモンゴルとの防衛条約。
 1957いらい、モンゴルからひきあげていたソ連軍を再配備。1967-1には10万人に。
 ソ連は1966から極東に核弾頭を配備開始。
 スパイに無線送るためのリレーアンテナとして役立つので死んだ衛星もそのまま残すことあり。
 1962から1972までフェレットは専用ロケットでうちあげ。高度480kmを周回。レーダー情報のみあつめる。
 1973からはすべて「ヒッチハイカー」投入方式にきりかわった。
 フィルム回収カプセルは複数。最大で四個。
 近赤外線は昼間のみ。
 サイロの穴はまず大きく掘り、ついで埋めていく。これで直径がばれない。
 敵のサイロ建設は、二重三重のフェンスで知られる。
 カムチャッカ半島内にはダミー弾頭落下のクレーターが多数ある。
 1973にエジプトで献血のよびかけがはじまり、これが開戦の兆候だった。
 1974にアメリカは年の6/7の期間は1基の偵察衛星をまわせるようになった。
 KH-11のサイズは不明。しかしタイタン四の衛星搭載部は、12.2×4.4mである。外直径は5.1mである。
 必然的に円筒形である。長さ19.52m、直径3.05m、重さ13.62トンといわれる。
 シリコンは可視光線に反応して電流を出す。その強さを0から256の間の数字にする。
 6枚以上の3mオーバーのミラーでCCDに集めるのがKH-11。
 衛星データリレー衛星は北半球上空でふくらむ軌道。こうすればソ連上空を通過するのに9時間もかかり、好都合。
 太平洋ではグァムのアンダーセンとハワイのカエナポイントに衛星管制施設がある。
 リレー衛星にデータを送信するための電力を太陽電池で貯めるのに時間がかかる。
 過去データも必要。1988にシナがサウジにCSS-2を売ったときは、鉄道と港湾の過去の写真がチェックされた。
 これらの写真はコンピュータ管理しないとどうしようもない。ひとつひとつに秘密指定あり。その撮影時の太陽高度も重要。影は短い方が細部までわかる。
 平均からの偏差を増幅させるのがコントラスト強調処理。
 1983以来、映像の変化はCIAのコンピューターが無人で監視するようになった。
 1968-12、南アの参本長が、独自核兵器可能と発言。ついでNPT調印も拒否。
 1974のアンゴラ独立から1976のローデシア混乱までの流れの中で危機意識が高まりヴァリンダバ・ウラン濃縮工場をつくる。76-11の次期大統領カーター当選で決心。
 1976にCIAは南アの核開発を察知。77-8-6、ソ連はアメリカにコスモスがカラハリ沙漠で実験施設をみつけたと通知。※アメリカが先に撮影し、ソ連に後から確認させ、ソ連が発見したようにしたのではないか。
 1979-9、南アはプリンスエドワード島方面で実験。
 米は公開写真で苦労する。キーホール写真は見せられないのでわざわざSR-71を飛ばしてその写真を公開する。
 ソ連のスパイ担当者はアメリカの軍事施設や海外のCIA協力者について知りたがった。アメリカがソ連について知っていることには興味がなかった。
 電信柱に画鋲を押し込むという連絡合図。
 ソ連は何か具体的なモノを渡さない者にカネを与えることは決してない。
 1978にソ連はKH-11の能力に気付いているらしい地上の動きをするようになった。
 KH-11の軌道はKH-9より少し高かった。そこで米は、この衛星は既に死んでいるとのディスインフォメーションでソ連を最初だませた。
 KH-11はカメラの首振りが発達し、毎分12枚の異角度撮影が可能になった。
 弾道弾用の早期警戒レーダーは内陸に置いた方が軌道を正確に読める。
 カリフォルニア沖からのトライデントを警戒するために1983にクラスノヤルスクに東向きのABMレーダーをつくった。
 欺瞞=マスキロフカ
 1966からソ連は、米国の偵察衛星の通過について地上軍に予報するシステムを完成している。米にはその前からあり。※自衛隊には未だ無いはず。
 1980~81のポーランド危機は雲のため撮影できず。81-1にはバルト海沿いに大軍が舟艇機動して攻め込む準備ができていた。
 1985-1にディスカバリーが信号収集衛星マグナムを放出。
 チャンレンジャーは2万mから2分45秒かけて墜落。海面には時速330キロで衝突。24mの海底に沈んだ。
 4800キロのクロスレンジ着陸能力があるのは、軍事衛星を積んだままソ連領に不時着しないため。
 シャトルそのものからカメラ偵察する案が1980にあったが実現されなかった。
 タイタン34Dの爆発で、発射台修理に7ヶ月かかった。1985のこと。
 原発事故ではMil-8がまず砂袋投下で消火し、ついで鉛ペレットを大量に落とした。これは隙間に入り込んで埋めるためのもの。
 デッキエッジ型エレベーターが両舷に計3基ないような空母はオモチャ。
 ラクロスの最初の2基はシャトルでしかあげられない。
 真上からのレーダー画像をデジタル処理すると斜め写真にできる。※公表されたブラックジャックの斜め写真はこれか。
 チャレンジャーにはTDRS軍事通信リレー衛星も積まれていた。これ3基あれば地上局は1局でじゅうぶんである。
 これがないと、低軌道の衛星と地上が交信できない死時を生ずる。
 ケープカナベラルからの打ち上げだと最大軌道傾斜角は制約をうける。人口密集地帯の上を飛べないので。
 発達型ケナンが巡行ミサイルのためのデジタルマップをつくってくれた。
 ソ連の北東部はICBM基地建設すら不可能。
 シナミサイルは双城から発射され、ロプノールに落ちる。
 葫ろ島の南には、渤海湾のSLBM実験場。
 長興にはIRBM、SLBM射場。
 錦西にはICBM実験センター。
 青島には第一艦隊と第一潜水艦群の司令部。
 サウジは1986に国交のないシナに王族を派遣して射程1600キロのシナ製ミサイルを買い、シナがイランに兵器を売らない代償としてイラクに売ると公称し、その中継ぎ港としてサウジに揚げ、トラックで自領の沙漠に引き入れた。1988-1に衛星でトラックが追われてバレた。
 この本の時点では、サモスやコロナの写真はトップシークレットだった。SPOTより解像度悪いのだが。
 衛星偵察は原爆に次ぐ影響力を国際関係にもたらした。
 バイソン爆撃機が廃棄された証拠に尾部を切り離して放置。
 1979からイスラエルはアメリカの偵察写真をどの同盟国よりも広く利用できることに。
 レーダー衛星は、フラット面の突起に敏感なので、海上の小船を見張るのには最適。
 傾斜角90度以上の衛星は、西向きに打ち上げられたものである。
 1960-8 ディスカバラーの最初のカプセル回収成功。
 1963-8 有人軌道実験室MOLの開発スタート。KH-10カメラを有人で操作するというもの。※これを真似たのが初期サリュートだ。 そして米ではKH-9ビッグバードに発展した。直径3m、13.6トン。長さ12m。
▼チェ・ゲバラ『ゲリラ戦争』五十間[いそま]忠行 tr.1967 原1960? 文庫2002?
 ダントンの言葉。勇気、勇気、もひとつ勇気。
 投票によって選ばれる政府に対してはゲリラ活動はできない。平和闘争の可能性があるから。
 戦争におけるジェスイット派(策略家)になれ。
 最大の問題は弾薬だから、敵と同じ武器を選べ。
 5~6人を1単位とし、4単位で4方向から包囲しろ。
 アルジェリアの反仏ゲリラは、無線爆破地雷を多用した。
 ゲリラは自己弁護の機会をあたえずに犯罪者を処刑してはならない。それをやると道徳的に政府の上に立てない。
 M-1ガランドは弾薬を食いすぎるから腕の良い者だけに使わせる。
 自動火器の中では9ミリが、弾丸をたくさん持ち歩けるので最善。重火器は、現実的に使用不可能。
 山岳地ではラバがいちばん良い。100kgをはこぶ。
 人は25kgを連日運搬できる。
 ゲリラのジャングル工場はまず靴修理工場から。これが最も大事。
 人は一晩で50km歩ける。
 大きな粒の散弾銃は非装甲のトラック、バスや機関銃座を攻撃するのに良い。
 ゲリラの移動単位は10人を超えるべからず。15人を越えたらもはや隠れることはできない。
 バズーカの弾はひとりで3発しか運べない。
 レールをもちあげる道具が必要だ。
 商品を徴発したら借用書を渡せ。早くそれを償還せよ。
 40歳以上にゲリラは無理。ただし稀に65歳で指揮がとれる人もいる。逆に16歳以下も、艱難にたえられない。25~35歳がちょうどよい。
 とにかく体は臭くなる。一般人は近寄れないくらい。
 熱帯地で寝るにはハンモックが不可欠。
 一本の紐を貼り、ナイロンシートをかけるとテントの屋根になる。
 脂肪補給は不可欠。ラードが役に立つ。
 山地では磁石は意味がない。磁針に従えば通過困難な地形に行き当たるのみ。
 少量のガソリンがあれば濡れた材木にも火がつく。
 100~150人が最大指揮可能人数。少佐が指揮する。8~12人の分隊が基本単位。
 焚き火は長く跡が残る。必ず土で埋めよ。行軍中は無声を守る。命令は身振りで。
 前衛小隊は固定。変えない。司令部は縦隊の中間に。
 20番=16ミリ散弾銃の銃身を切断し、2脚をつけて肩あてを除き、装薬だけのカートを使い、地面に45度に固定し、壜にガソリンをつめ、壜底にゴムと木の棒をつけ、その棒を銃身にさしこみ、壜の口に火をつけたあと発射すると、100m飛ぶ。ちなみに12番は18.5ミリ。
 16ミリ散弾銃にバック弾つめてうつと、ちょうどトラックの荷台をカバーできる。
 戦闘員10人に対して2、3人の人夫が必要。
 85ミリまでの迫撃砲は木製の屋根を貫通できない。だから塹壕には必ず屋根をつける。
 四肢を撃たれると骨折することが多い。
 栄養失調からきた病気は治せない。
 テロリズムは無価値だ。
 現地民の、それも一部だけが、裸足で行動できる。
 敵を知り己を知れば……というシナの格言を知っている。
 部下への罰として武装の権利の剥奪。ヤル気のある者にはよく効く。
 やるきないやつは、縛り上げてタバコやメシ抜きの罰。
 部下に自由に手紙を書かせてはならない。
 開始時には最低30人必要。
 ゲリラの基礎能力は、連日連夜歩く能力に尽きる。
 キューバには内需をまかなうだけの石油が出る。ニッケルも出る。ドイツ人も投資していた。
 中南米には20の「共和国」が米によってつくられた。
 1960-3-4にハバナ港でゲリラ用の弾薬を積んだ船が爆発し100人死亡。
 亡命者が義勇兵(外国兵・傭兵)の助けを借りて母国に戦争を起こす方法を「スペイン方式」という。
 軍隊は制服を着た人民である。
 指導者は、味方を弱める分裂に反対し、人々を結合し統一する能力が必要。


イランが話を見えやすくしてくれた

 イランと西欧との距離は、東京とシナ奥地との距離に相当します。ようやく西欧は日本の苦境を理解しています。いまほど日本の核武装が現実的になったときはありません。イランが暴発したとき、北鮮とシナの運命も定まるでしょう。
 石油収入のあるイランは、90年代に貧窮したロシアから原発に必要な技術を買い、別な諸国からはウラン濃縮技術を買い漁り、2000年代に入ってから、いよいよ地下工場で原爆を組み立てようと努力しています。最初の1発が完成するのは早ければ2006年、つまり今年中だとイスラエルでは見ています。
 イランは80年代のイラン・イラク戦争の後半から北鮮にオイルマネーを渡してスカッド改型(射程500km)を購入し、バグダッドその他の敵都市に発射した実績は豊富です。イラ・イラ戦争では射程数百km級のSSMが600発も互いの主要都市に命中したといいます。
 イランからの巨額のマネーや日本からの総連マネーを使って北鮮は次に「ノドン」を開発しました。ノドンの射程1000~1300kmというのは、イラン内部からイスラエルまでの距離に相当します。このSSMをイランは2003年にシナ経由で買い入れ、イラン風の名を適当につけて配備したようです。
 イラン購入のこの「ノドン」と原爆が組み合わされますと、イスラエルは大弱りなのですが、それだけなら西欧はまだ高見の見物ができたでしょう。ところが、イランはやってくれました。北鮮に90年代を通じて資金を提供して射程2000kmの「テポドン1」を開発させ(98年)、さらに射程の長い「テポドン2」のパーツをロシア経由で2003年に入手したのです。これで西欧はブチキレました。
 テポドン2は、シナがちょくせつグァムの米軍基地を叩くわけにはいかないので、北鮮に代りにやらせられるようにと技術支援しているもので、北鮮とグァムの距離を測れば、その射程は3000km以上あるのは確実です。
 ざっと3000kmで、スイスとドイツの主要都市がイランからの射程圏内に入ります。
 また、3500kmで、パリが射程圏内に入ります。
 4000kmあれば、ロンドンやデンマークが射程圏内でしょう。(以上、いずれも目算です。誰か正確な大圏距離の数値を教えてください。)
 これは何を意味するでしょうか? 1988年に西ドイツ国防相にもなっているドイツ連立与党のショルツ氏は今年1月26日の新聞インタビューで、もしテロ国家が核攻撃してくるようなら、ドイツは核武装すべきだろう、と語りました。その意味は「フランスよ、俺達ドイツ人に核武装されたくないんだろ? だったら、お前たちがキッチリとイランのキチガイどもをワイプアウトするんだぞ」──です。
 シラク大統領はもちろん合点です。1月19日にわざわざSLBM原潜基地のブレストに出かけて演説し、テロ国家(つまりイラン)が大量破壊兵器(つまり核弾頭付きテポドン2)で攻撃してきたら、その首都や基地に核攻撃を加える、と表明をしました。同時に、SLBM搭載弾頭(もちろん複数個別誘導弾頭です)の数を一部、減らさせた、とも発表しましたのは、これはすなわちイランの地下化されている核関連施設を精密且つ確実に破壊するために、フランスは同時に2基~4基のSLBMをイランに向けて発射して、1つの工場に小型の水爆を2~4発づつクロス攻撃で集中させる、実戦的な準備を整え終えた(=万一の不発や外れも生じないように念を入れる)、というわけです。ただし、イランの都市に対する無差別なオーバーキルなどは考えていないよ、というメッセージでもありますので、却って迫力があるでしょう。
 ドイツやスイスやデンマークやイタリアは、イスラエルやフランスやイギリスに反近代的核武装国家の始末を依拠することが、ある程度可能です。しかし日本には、そのような頼もしい「仲間」を北東アジア地域内に見出すことはできません。
 いまや米国政府だけでなく西欧の指導者階級も、日本の立場を完全に理解しました。そして、日本はなぜ早く軍事力を発揮してテロ輸出国家の北朝鮮を亡ぼしてくれないのか、と思っています。
 いまこそ、わたしたちは核武装宣言をしなければなりません。
 早ければ今年中に、西半球で核戦争が始まるでしょう。


古書摘録

▼横井太郎『快弾餘響』M40-11
 著者は海軍軍医中監。
 フォンデルゴルツいわく、「人戦ふに決意し、若くは敵手の戦ふに決意したるを、確信するに至るときは、軍事上より考へて、利我に在るを信ずるに於ては、速に戦を開くべし、断じて政治上より考へて、自ら危疑し、道徳上より考へて、自ら踟●【足へんに厨】することある可からず。戦争の如き大事に於て、老婆深切心より、此等の過失を犯すは、弊之れより甚だしきは無し」(p.20)。
 めちやにかるまいん(メカニカルマイン=機械水雷)に船はこわされて青空高く煙にまかろふ/『朝日』の軍医長・石原純固
 3月6日にウラジオストック港を島影から間接射撃した。
 5月15日。本艦=『笠置』(8インチ砲)と『龍田』が、『初瀬』が触雷したところにかけつけた。艦尾はすでに沈んでいた。舵機も損傷。しかしガス気味なので老鉄山の砲台からは見えない。そこで我艦が徐行で近づいて鋼索で曳航せんとした。その準備中に初瀬は再び爆発した。艦首が立ち上がり、瞬時に轟沈。0時35分のこと(pp.61-62)。
 司令官などを海上から救助した。我艦には124名を拾い上げた。この爆発音を聞いて敵の駆逐艦16隻が港外に出てきた。
 M37-5-18夜、軍艦『大島』が僚艦と衝突して沈没した。
 通風管は帆布製。機関室へ涼気を送る。英語でシャークマウスという。
 対馬東水道の東に「沖島」という断崖の無人島あり、海軍はここに望楼を置いた。
▼ノウイコフ・プリボイ著、上脇進 tr.『日本海々戦』上(S8年8月)・下巻(S10年3月)、改造社刊、原題は「ツシマ」、著者は1877生まれ。訳者は『春日』の露語通訳だった。反軍的な記述の部分で伏字が多量にある。ex.「戦艦『パチヨムキン』が××を掲げつゝ黒海を通過して××階級に恐怖を能へた」
 フィンランド湾には「威嚇砲台」が点在する。
 『オリヨール』はクルップ鋼で装甲されている。7%ほど懲罰兵が乗り込んでいる。
 ウォッカは一定量が水兵にも給される。たいていは食前。
 クロンスタットでは下級兵は道の左側だけを歩かねばならない。そして公園には犬と下級兵は入れない。
 出撃前にウィルヘルム皇帝とニコライ皇帝が、軍服を互いに換えて着装し、砲撃演習を視察した。ティルピッツ海相も。カイゼルの片頬には名誉の傷跡があった。ロジェストウェンスキイは彼らの前でも部下に怒りを爆発させ、双眼鏡を海に抛り込んだ。
 連装の主砲塔内は電動式だが、水圧で動かす艦もある。砲台内には25人、砲台の真下には40名の水兵がいる。350kgの砲弾が天井レールから鉤で吊るされてくるのを装填架に載せる。ついで無煙火薬の包み(180kg×2コ)を載せる。そして装填架が砲尾と一致した瞬間に栓が開く。機械力で押し込む。内筒砲訓練もある。
 参謀将校の中に、頭をバリカンで刈上げている男がいた。
 1898以来、アメリカ、フランス、ドイツ、デンマークで建艦された新鋭軍艦が特に第一旅順口艦隊に配属された。これらの軍艦には専門技師でないと動かせない機械があり、そのために市民である彼らに将校の階級を与えて乗り組ませた。ところがもとから存在する将校団は貴族の集まりなので馬が合わない。また尉官級の技術系士官が増えて艦内の改革勢力になった。
 時計の針が右回転であるのは、日時計から進化したからだ。ただし南半球では逆になる。つまり時計は北半球の発明といえる。
 マダガスカルのセントマリイ島は「フランスの樺太」で、流刑囚が生活している。
 病院船オリョールもヘーグ万国平和会議決議を無視してマダガスカルでは燈火を消して停泊した。船長と軍医長は艦隊司令官に抗議したのだが。
 旅順艦隊はバ艦隊と違って兵員はほとんど現役ばかりだった。
 フェリケルザム少将は、マダガスカル停泊中、熱帯とて、兵員にキルクのヘルメット帽を被らせ、午前10時以降は炎天地上作業をやめさせた。が、他では兵員はボロ布を頭に載せて日中も働かされた。
 大部分の兵員は靴をはき潰して、素足になっていた。一部はロープをほぐして草履を自作していた。艦内はいたるところ石炭を踏まずには歩けない状態。
 最新戦艦の監禁室は艦底にあり、ベンチレーターがない。灼熱地獄。
 マダガスカルにも娼家があり、欧州女は士官を客にとる。兵員は土人を買う。
 インド洋横断中に、5回、石炭を搭載した。
 スマトラ沖の翼長1mほどの海鳥は飛び魚を空中で捕らえる。
 士官室の階下は艦尾水雷室で、空気穴の蓋を外すと盗聴ができた。
 夕方の祈祷時には全員脱帽。
 奉天会戦後、フランスの態度が冷淡になった(上、p.417)。
 洗濯物は盗まれるので水兵は寝床の敷布の下に敷いて体温で乾かす。
 日本はイギリスに軍艦修理用の鋼鉄鈑108枚を発注した。
 ベゾブラーゾフの3隻のウラジオ巡洋艦隊は、7月7日に津軽海峡を抜けて関東の沖で1週間遊弋し、また津軽海峡を抜けて帰投した。一度も日本の軍艦には遭わず、商船数隻を撃沈した。
 バ艦隊が日本列島の太平洋側を回ると石炭が足りなくなる心配がある。石炭船は伴っているが(上、p.489)。※はぐれたらウラジオへは到達できない。
 濃霧の期待できる宗谷海峡を目指せという意見も。
 台湾を過ぎた海域で、5月10日、最後の石炭搭載。朝鮮海峡まで2日行程。戦艦はこの日の作業前にすでに装甲舷が水没するくらい、石炭を積まれていた(pp.492-3)。そこに『スワロフ』からの命令。信号がない場合は旗艦に従い、敵の旗艦、ないしは嚮導艦に砲火を集中せよ。
 露艦は炸薬にも綿火薬を用いていた。もし弾火薬庫に火災が発生した場合は、その上層の大水槽から栓(カラン)を開けて水を雨下させる。
 朝鮮海峡侵入前の巡航速力は9ノット。5月13日昼、巡洋艦は15ノット、戦艦は12ノットに蒸気を上げた。14日は皇帝皇后即位の日で、ロジェストウェンスキイはこの日に海戦となるよう狙っていた。
 艦隊末尾の病院船、オリョールとコストローマは、条約によってきめられた燈火が煌々とかがやいており、夜間でもバレバレだった(p.519)。
 戦艦オリョールは石炭を1700トンも積みすぎている。真水も350トン余計に積んでいる(p.528)。
 クリミヤ戦争のときは艦隊からぜんぶ武器を下ろし、乗組員は要塞防備につかせた。それから空っぽの艦隊を湾口に沈めた。旅順口とそっくり(上、p.529)。
 即位記念日の午前8時、特別なアンドレーエフ旗が前後マストの中桁と斜索に掲げられた(下、p.9)。
 仮装巡洋艦ウラルの通信機は700浬の送受信が可能だった。その出力を利用したECM能力もあったので意見具申したが、司令長官はウラルに日本側の無電を妨げるなと返答。 昼食前に兵員は半杯のラム酒を飲んだ。
 日本艦はことごとく青灰色に塗装されて、海にとけこんでいた。ロシア艦は煙突が黄色で艦体は真っ黒だった。
 合戦準備の号令で火災に備えた水ポンプが働き出し、ホースから水が出て甲板を濡らした。カッターには、朝のうちから水がいっぱいに満たしてあった。
 負傷兵手術室は下甲板右舷にあった。内部は白いエナメルで塗ってあった。中央廊下に患者を寝かせることができ、舷側と天板はアーマーだった。
 砲戦中は大手術はしない。簡単な応急治療だけをし、海戦後に大手術にかかる。モルヒネ注射は用意がある。
 日本艦隊が弧を描き始めたとき、もし高速を出せる味方新鋭戦艦の5隻だけを突進させてその頭に密着していたら、そこに勝機はあっただろう(pp.35-6)。
 艦には900人が乗り組んでいた。
 日本の艦砲が水面に当たると黒褐色の煙と真紅の炎を伴う水柱がまきあがる。
 常に敵の旗艦を狙えという司令の命令に忠実なため、味方の距離が遠い艦の砲弾はその目標まで届かない。そこで艦長たちはイニシアチブを発揮して自艦に近い敵を射撃すればよかったのに、それができるようなイニシアチブはあり得ないほどロジェストウェンスキイは恐怖の統制キャラクターをもっていた。
 露艦の砲弾はAPH弾なので、距離をつめてアーマー貫通させないといけないのだが、距離がつまらず、そのために命中しても貫通力が足らず、敵艦の表面アーマーで小炸薬が炸裂してしまうこと多し。
 以前にオーロラを用いた露海軍の実験では、側面装甲を貫通したAPH弾は不発のことが多かった。
 バ艦隊の巡洋艦以下は戦艦の近くを離れることが許されなかったのでその中小火力はまったく戦闘に参加できなかった。つまり救助用として手元控置されたのだ。
 露戦艦の主砲は2分おきに斉射。砲身は後座し、コンプレッサで復座(pp.68-9)。
 主砲砲塔は密閉ではなく、水柱をかぶると隙間から海水が流れ込み、砲員は頭からずぶぬれになって小パニックを起こす。
 夜間は砲甲板は青い燈火だけ。敵に見つかり難い。
 オリヨールは8度の傾斜が限度(p.133)。
 屍体の枕元には砂桶がある。死者を海中に投げ込む前に、いちおう土に還すため(p.161)。
 『ニコライ1世』の使用する火薬は黒色火薬だった。
 まったく泳げない水兵も多くいた。
 ニコライ1世には降伏のための白旗の準備がないのでシーツを代用(p.187)。それでも砲撃が止まらないので艦尾の軍艦旗を降ろして日本の旗を掲揚した。
 巡洋艦イズムルウドの中佐艦長は合戦中は立派に指揮したが、離脱途中で恐怖にかられ、ウラジオ前を通り過ぎてセントウラジミール湾に到達。ここでも追っ手を恐れて座礁し、自爆措置。
 ニコライに白旗があがったので戦艦オリヨールもそれに倣った(p.201)。
 降伏と決まると士官も水兵も急に命が惜しくなり、いまさらキングストン弁を開くなどと言ったら誰であれ即座に海へ叩き落とされかねぬ雰囲気に。
 ある哲人いわく「人生四十までは本文であつて、四十以後はその本文に対する註解である」と(下、p.225)。
 「『一服吸はしてくれ』[オリヨールの艦長]ユングは急いで三度ほど煙草を吹かした、と見ると、震える手先きから煙草がボロリと辷り落ちた。断末魔は永くなかつた。呻き声を発して、何か否定するやうに頭を横に振つた。やがて、重くてやり切れない肩の荷物を抛り出した人によく見るあの深い溜息が胸の中から漏れた。最後に、疲れ切つた背伸びをしたと思ふと、亜麻色の顎髯の生へた顔から生色が消えて、だん\/年寄り染た、いかつい顔になつた。今まで宙を迷つてゐた瞳は、何か秘密を読み取らうとでもするやうに、凝つと白い天井の一点を凝視たまゝ動かなくなつた。」
 著者が収容された『朝日』の砲塔、遮蔽砲台には各砲ごとに測距儀が装置してあった(下、p.247)。居住には不自由だが贅沢な可燃構造物は排除し、よく防護してあった。
 「日本側は各砲塔各砲台に測距儀が装備してあつたが、わが艦隊では一艦に二個づつしか無かつた」(下、p.380)。ロシア艦の望遠鏡は旧式で数字盤は不正確だった。
 日本海軍には帆船軍艦の時代がない。いきなり蒸気。「だから諸外国の人々が愛着を持つてゐて大抵離れたがらない古い慣習や伝統は、彼等に対しては力を持つてゐなかつた」(下、p.248)。
 日本の水兵は、徴兵適齢まで沿岸航路の船に乗っていた者か、漁業従事者が多い。
 日本では砲手の優秀な者は高級を与えて極力長く軍艦に留まらせ、また全海軍から最優秀の砲手をえりすぐって戦艦に集めていた。海戦では巡洋艦より戦艦の砲撃が上手であった。同じようにわがバ艦隊も、最優秀の黒海艦隊の砲手を引き抜いて乗り組ませるべきだった。ところが新兵や予備兵に戦艦の砲手を勤めさせていたのだ(下、p.253)。
 『朝日』艦長の野本大佐はユングを知っていた。「私[著者]は、ユングが曾て日本婦人と結婚したことがあり、子供まであるといふことを士官達に聞いたが、……」(p.257)。
 対馬沖から上海に向かった駆逐艦ボードルイは、17日夜に石炭が尽き、木材を焚き、天幕を焚いた。5月20日からは罐圧ゼロで漂流状態。最寄の「シヤウエイタン」灯台から65マイルで滅多に船が通らない海。オスリヤビアから救助した人員で艦内は身動きもできず、水と食糧が足りなくなった。21日に英国商船クウコーリンが通りかかり、上海まで曳航。
 ナヒモフは浸水を防ぐために後進で朝鮮沿岸を目指そうとしたがコンパスが衝撃で狂っており、夜が明けたときは対馬が目の前だった。水雷士が綿火薬庫に爆薬を装置し、電池式の起爆線をカッターが引っ張って600m離脱。艦と運命をともにする気の艦長がブリッヂからハンカチを振るのを合図に点火せよと。航海長も残った。ナヒモフにはスチーム動力の艦載水雷艇もあったが、水兵がしがみつき過ぎてこれは転覆。総員退艦のさいに兵卒が機転で導火線を切断していたので、艦長が合図をしても不発であった。カッターに不知火が近づいたので、蓄電池は投棄され、水兵服を檣に掲げた。艦長と航海長は夕方、漂流しているところを日本漁船に救助された。
 戦艦ナワーリンの12吋砲は黒色火薬のため8000m以上は届かない。乗組員は700人(p.303)。2人の水兵があとで英国商船にすくいあげられ、天津のロシア領事館に引き渡された。
 5月15日、巡洋艦オリヨーグ、アムローラ、ジエムチユウグの3艦は石炭を倹約するために速力を10ノットに減らした。
 マニラから100海里でアウローラは日本艦隊に遭遇した。と思ったら米国艦隊(戦艦×2、巡洋艦×3)で、礼砲を交換。護衛されてマニラ湾に。米艦隊は、日本艦隊がフィリピン領海までおいかけてくる場合に備えて警戒していたのだ。
 長崎湾の北西部のイノサ村をロシアは戦前から借り受けて艇庫や工場や病院や海軍集会所を建てていた。ロシア海軍用墓地まであった。
 捕虜のロシア士官は長崎で旅費をうけとり、各自のコースで帰国。多くはインド洋回りだったが、北米経由で世界一周した者も。
 戦争の当初、旅順口で、巡洋艦ポヤーリン、機雷敷設艦エニセイが、自分の敷設した機雷に衝突して沈没した(下、p.376)。
 日本海海戦で1分間に撃ったロシア艦隊の砲撃は134発。日本艦隊は360発だった。その金属重量は露側が2万フント、日側が5万3000フント。一フントは百匁余。ロシアの12インチ砲弾には15フントの綿火薬。日本の12インチ砲弾には105フントの下瀬火薬。露側は1分間に500フントの綿火薬を飛ばし、日側は7500フントの下瀬火薬を飛ばしたことになる(pp.331-2)。
 日露戦争中に日本の商船は25隻沈んだ。5万5652トン。旅順口で鹵獲したロシア商船は59隻、13万8438トン(下、p.385)。


とりのオリンピックは分かったがひとのオリンピックはどうなったんじゃい

 発売された『諸君!』3月号の「特集 揺れる皇室」の重点は、3番目に配列されている八幡和郎さんの論稿であるとお見受けしました。内容には全然同意です。
 月刊『正論』の3月号にはNEETに関しますわたくしの別稿が載る予定でしたが、急遽、4月号回しにされております。いったいどなたの緊急原稿が突っ込まれるのかと思っておりましたら……。
 中西先生は『諸君!』と『正論』にほぼ同じ内容の寄稿をされていて、生前末期の江藤淳みたいです(ひょっとして次の『voice』にも同内容……?)。支那事変の始まりが盧溝橋だと思っているあたり、もう痛すぎる。蒋介石にイニシアチブがなくてシナ人の頭目になどなれますか? 40万人の動員と展開を8月のソ連の指示後に開始できますか?
 『別冊正論』vol.1のシナ特集に平松茂雄さんが寄稿をされておらず、代わりに編集部が宇宙関連の話をわたくしなどに依頼してきましたのは、きっと平松さんに何かご多忙の事情がおありなのだろうと推測をしていたら、こんどの『諸君!』の対談の中で単行本×2冊の公刊が近いとの予告がされていました。平松さんがかつてシナ関連の学会から干されていたとは初めて承知しました。
 ひとつだけさりげなく指摘させていただきます。これはわたくしごときがミリヲタ風のカタログ知識を自慢しようというのではなく、平松先生の過去のご著作から継続して観察し得る本質的な誤解が一点あるように信じられるからです。
 シナ軍の脅威とは、「行動の敷居の低さ」と「核武装」を除きますと、ハードウェアや補給面にはまずありますまい。宇宙関連(GPS含む)ですらそうです。
 彼らの潜水艦や航空機は、その「数」を加味しても、旧ソ連の実力には足元にも及んでいません。多数のディーゼル潜水艦で一斉に古い沈底機雷や係維機雷(これもよほどの浅海域でしか役立たないのですが、浅い海はあまり多くないことは勿論ご存知ですよね)を撒くなんて戦法は、過去にどこの国も成功させていませんし、きょうび、流行るものでもありません。ミリテク先進国では「無人潜航艇式のロボット機雷」を持とうという段階です。これは領海外から敵の港湾に向けて密かに放出することができる。また1980年代以降、着底した状態で近くを通る敵艦を自動識別してホーミング魚雷を打ち出すという「キャプター機雷」を在日米軍は航空機からいつでもばら撒ける体制ですが、シナ軍にこの同等品はまだありません。むしろ有事に各種の機雷で簡単に封鎖されてしまいそうなのはシナ沿岸の軍港の方なのです。またSu-30が実勢の数十機ではなく数百機に増えたとしても南西防衛区域の空自が翻弄されたりはしないでしょう。空中指揮システムに子供と大人の差があるからです。
 シナの軍事的脅威とは、中共の政治指導者は軍隊を手足のように使いこなし、それをみずからの宣伝言動と完璧に連動させることができるが、日本の政治家と官僚にはそのいずれの能力もゼロであること。これに尽きています。ハードウェアではない。政治的力量です。対内統制力(煽動力)です。情報操作力です(いまだに沖縄領海侵犯事件が中央の計画ではなく海軍末端の暴走だという解説にお目にかかるでしょう)。
 唯一ハードウェアで恐るに足りるのが核です。核を使えば自衛隊の指揮システムを混乱させてやることができます。
 こうなった責任は佐藤栄作にあります。彼が中共に対抗した核武装を断念してアメリカ政府からノーベル平和賞を貰い、日本の将来の安全を個人の一代限りの評判と引き換えてしまいました。その選択を見て、後継の田中角栄は、自分も未来の国民には責任を負わないモラルなき首相になれると安心したのです。また1977年に福田赳夫は、ハイジャック犯に脅されるや思考停止し、国内の刑務所から無差別爆弾テロ犯数人を出獄させ、日本政府発行のパスポートと税金16億円をも添え、日本赤軍へ送り届けました。一国の首相としてやっちまったこの決心だけで、彼のそれまでの全人生の評価はパーになり、青史には最悪の不名誉な形容詞が残るだろうと思われますが、この福田にしたって、前任者たちの伝統に無批判に倣ったまででしょう。首相によるあまりにも首相らしくない無責任な価値判断の悪伝統を断ち切れる首相が、戦後の日本国にはまだ持てていないのです。
 一人の「模範」も居ないということは、これほど困ることです。子供に学ばせる歴史の教科書には、できるだけ「模範」を取り上げて賞揚する必要があるわけです。


引越しに伴う既読本の整理(其の一)

 「火宅」ならぬ「雪崩宅」からの脱出先が漸く決まりました。こうなると、読んだあと部屋の一隅に放置してあるままの書籍類を少しでも多く捨てて荷物を軽くしなければなりません。
 狭い下宿を転々として参りましたわたくしには「書庫」を持つという趣味はございません。買って読んだ本は、気になった部分だけワープロにメモをとり、現物は片端から捨てていくのであります。こうしないと後から検索もできません。情報の持ち腐れになります。
 本体は捨てると分かっているから、赤ボールペンでの線引きや、書き込みなども、読みながら平気でできます。
 以前にも何冊かについて、勝手な摘録とコメントを紹介しました。今回の一押しはコレです。もちろん正確な摘録ではありません(w)。
▼三國陽夫氏著『黒字亡国』05-12刊。
 著者は1939年生まれで、元・野村證券。※マトモな反米と狂った反米があるが、本書は前者。
 日本は対米輸出でドルを稼ぐ。しかし、円高になることを嫌い、そのドルはすべて米国内に置きっ放しにするしかなかった。この結果、日本人は労働に見合った豊かさを享受できない。サビ残しているのと同じ。日本は汗水たらして稼いだ資本をアメリカの国内景気のために貢いでいる。とうぜん日本国内では通貨が減り、デフレになる。逆にアメリカ国内では、入った(置き去りにされる)資本の数倍の信用拡大が起こる(乗数効果)。それで米国内では購買力とサービス生産が大きく膨らんでいる。
 つまり日本の黒字が米の住宅バブルを支えている。
 米の住宅バブルがやがてはじけるとシナの対米輸出もダメになる。するとシナに鋼や化学を輸出して好況な日本もダメになる。※日本が黒字(=対米朝貢)を止めればシナは終わるのか。
 市場は間違えるから行政が善導する、と言う大蔵官僚の思い上がり。これをギブアップしたのが長銀売却だった。しかしアメリカのバルチャー・ファンドの益など、黒字デフレの害に比べればカス同然に小さい。円安維持と黒字の自己目的化こそは、日本人の労働成果をひたすら米国に移転する超悪政なのだ。
 経常収支の黒字がデフレの主因である。黒字で輸出を続けていくかぎりサービス業の進化も起こらない。サービス業こそ内需だから。したがって雇用も生まれない。
 日本の本格黒字は、設備機械が国産化されるようになってから。1960前後。
 1985頃、世界一の純債権国に。そのころからデフレの影が……。
 シナ労働力の世界経済への影響は冷戦終了後。
 95にクリントン=グリンスパンは「強いドル」政策。
 日本のような純債権国は、外貨準備そのものが不要のはず。日本の膨大すぎる外貨準備は、ドルの買い支えをやった結果、生じた。特に95年以降の積み分はムチャクチャな額。
 政府の大赤字の原因である過去の国債のうち35兆円は、なんとこのドル買いの原資として使うためであったのだ。
 日本は95からデフレになった。もし日本が速水総裁が主張していたように円高を容認していたら日本のGDPはいまごろ米に並んでいたろう。
 通貨レートは市場に任せるしかない。やがてドル高を政府日銀が支えきれなくなるのは必定で、そうなったとき、日本国内の輸出依存企業はすべて「負け組」である。なぜなら本来円高で合理化されているべきだった企業体質が、これまでぜんぜん合理化されておらず、競争力ゼロだから。
 日本の銀行も、海外業務をドルで行なうという無謀さ。もし、資金繰りがショートしても、米の連銀には支援の義務はないし、日銀も助けようがない。
 日本がアメリカの一州になってしまえば……と妄想する者がいるが、もし日本経済を完全ドル化すると、FRBは不健全銀行を助ける趣味はないので、日本の都市銀行はバタバタ潰れるだろう。
 そして日本国内はすでに過剰設備だから、世界の投資家にとって魅力もない。日米が一体化した場合、日本は列島まるごと<経済後進地>に転落するだけなのである。
 日本の弱点は、各省庁が個別にアメリカと交渉すること。そのため挙国一致の抵抗ができない。また戦後ドイツと違い、フランスに相当する「味方国」もアジアには存在しない。
 異なる通貨圏(たとえばヨーロッパと米国)の間で貸し借りが溜まると、ある時点で一斉にGold交換が起こり、それが1931の大恐慌に。
 Goldを米国内に置いていてはなぜいけないか。米国内にのみ過剰流動性(ハードカレンシーのふんだんな存在)が生ずる。それが起きたあとで正常に戻すのは難しい。米だけが富み栄えるスキームができてしまうと。これをドゴールは察した。
 ドゴールは保有するドルのgoldとの交換、そして米国内に預けてあるgoldの仏への現送を強く米国に求めるに先立って、1ヵ月間、公務のスケジュールを空け、国民に対米対決を説明するためのスピーチ原稿を練った。米国を激しく怒らせるような政策がなぜ仏国民のために必要であるかを、ドゴールは自国民に説明し切った。
 西ドイツ人はニクソン・ショックよりずっと早く、黒字+マルク安維持は、ドイツ人がアメリカ人を豊かにするためにサビ残するようなものだという事の本質を悟った。それでマルク高を容認した結果、今日のドイツ人の生活は豊かである。
 連合国は1921に、ドイツに対し、1320億マルクの賠償支払いを、最後通牒付きでドイツにつきつけた。このマルクはgold資産に裏付けられていなければならない。実行できず、フランスは1923-1にルールを占領。ドイツ政府はルール住民に消極抵抗(罷業)をさせるかわりに、国費で生活を扶助した。その原資としてドイツ政府は札を刷った。増税余地はもうなかったから。
 インフレは、雇用を実現するが、賃金は下がる。国の借金は減るが、国民の資産は減る。
 戦前からインフレ研究の第一人者であった木村禧八郎は、戦時中に半年間、憲兵隊に留置された。その理由はたぶん、債務をまたたくまに圧縮するインフレは国家秘密に属し、インフレを理解せず無防備な人が多ければ多いほど政府にとって都合がよくなるためだ。
 名目GDPに占めるマネーサプライの比率を「マーシャルのk」という。これが増えるのは経済活動よりも多めにカネが供給されているわけで、インフレを呼ぶ。
 マーシャルのkは日本ではずっと上昇しており、これは政府が「インフレが発生しても構わない」と考えていることを示す。
 紙幣や債権を所有する人がインフレによる富の喪失を甘受してくれる=インフレとはどういうことであり、どういう対策をとるのが個人として得なのかが分からない抜け作ばかりであること、それが、一国の政府の意図的インフレ政策の前提となる。
 ※LOHAS時代にはデフレが似合う。
 ※古い世代は日本の経済官僚をもう信用しないのに依然キャッシュだけは頼りになるものだと思っている。つまりインフレとは何かがぜんぜん分かっていない。
 アメリカの住宅ローンと同じ機能を日本では郵貯の定額預金が果たしている。どちらも一定期間をすぎるとペナルティなしで、満期前に、借り換え/解約ができる。
 幼稚国が富国強兵フェーズにあるとき、直接金融(各起業家が株式を発行して資本をあつめる)は効率的でなかった。すぐに儲からない産業に人々は投資せぬから。だから復興期までの日本が間接金融(郵貯でカネを吸い上げて政府が重要産業を気長に育てる)を主軸にしていたのは悪くなかった。
 生産拡大=輸出拡大=設備投資拡大。これによる成長は、必ず土地の値段を上げた。日本の土地は有限だから。だから銀行も土地を担保にとるだけで安心して貸し出しできた。
 2006から海外企業が株式を対価とするTOBが可能になる。
 けれども、国内で経済関係の法律が平等かつ厳密に実施されていること、そして、日本の国防が長期的に心配がないこと、の二つの条件が無いならば、外人は決して日本に投資しようとは思わない。なぜなら将来の債権回収が不確実となるからだ。
 ※つまり中共を早く滅ぼさないことには日本経済は持続ができない。ODAをゼロにしないと日本経済の未来は無い。
 直接金融時代には、買い手責任(よく疑わないで投資した個人が悪い)から、売り手責任(正直に知らせないで株主を募った会社が悪い)に変わる。
 ※以上の事情から、ライブドアは見せしめに摘発された。


週刊文春は当地では今日発売です

 たまたまミシン糸を買いに行ったダイエーの中に小さな本屋があったので、通りすがりに久々に『週刊文春』を買ってきました。本日発売のものでしたが、東京ではオトトイくらいに出た号でしょう。
 で、沖縄のカプセルホテルで死んだ人。あれは他殺だったのか? 
 文春の記事を読んだ印象では、わたくしには逆に、これは自殺であろうと思え、拍子抜けがしたのであります。
 理由は単純で、人は他人の首の横(そこに頚動脈と頚静脈がある)を2~3センチの深さで切ることはじつにたやすいのですけれども、「仮想犯人」は首の左右ともそれに失敗していることです。これはありえない。本人による「ためらい傷」だからだとしか説明はつきますまい。
 首の左右のどちらの動脈でも切断すれば、たちまち脳内血圧はゼロになり、非常ボタンを押すどころではない。たちどころに意識がなくなるでしょう。そのまま放置しておけば、間違いなくじきに脳死です。救急車が10分でかけつけ、30分以内にERが処置できたところで、頚動脈の切れている人を救命することは、まずできないのではないでしょうか。ですからプロの殺し屋なら、腹とか手首とか、余計なところを切ったり刺したりする必要は、ぜんぜんないのです。
 動物を殺し慣れているシナ人やヨーロッパ人は、首の横が人の一番の急所であることをよく知っています。日本人だけが、それに無知ですね。もし喉を正面からナイフで突いたって人は即死できません。幕末の武士階級の女たちですら、そういう不確実な自殺方法の迷信を実践していたのですから、無知は悲惨です。キチガイが増えた日本の街で自分の身を護るためにも、こういうことはよく覚えておきましょう。