誰か詳細をご存知の方はいませんか?
一、12月16日に福岡発釜山行きの高速船が何かに接触して船体の一部を破損し、乗客89名が別の船に乗り換えた。これは鯨ですか、それとも某国の潜水艇ですか?
二、沖縄から石垣島まで海底線の敷設工事があるという海上保安庁の予告。
これは「十一管区水路通報 第40号 平成16年10月8日」として第十一管区海上保安本部がインターネットにUPしているものです。
そのなかに「南西諸島 沖縄島〜宮古島〜石垣島……海底線敷設工事実施」というのがありまして、平成16年10月25日から12月25日にかけ、作業船及び潜水士等による海底線敷設工事が実施される、と書いてある。その緯度と経度まで載っていたので海図で見てみると、東シナ海側ではなく、太平洋側だとわかる。ただし何の海底線なのかは一言も書いてない。備考として「警戒船配備、潜水作業中は国際信号旗「A」旗を掲揚。 潜水作業は昼間のみ、潜水作業位置に小型浮標設置」と。
これが12月に終わるということは、シナ原潜が石垣水道を突破したときにはまだ南の部分は未成で、工事中だったわけですね。
仮りの話、これが新たなるSOSUSなんだとしますと、昼からその作業をやろうとする現場を深夜〜早朝に敢えて乗り切るように通過して虚勢を張ってやろうと考えるのは、相手が相手なだけに、プロファイリングの辻褄が合うような気もするのです。
投稿者: 兵頭二十八
沖縄の核シェルター
米国防総省が「テポドンの標的はグァムと沖縄の米軍基地だ」とコメントしたのは、もう古い話で平成6年5月9日です。
これを聞いて北鮮は『そうかDoDはグァムを狙われるのは厭なんだな』と悟りまして、「我々は射程3000km以上のSSMを開発するニダ」と発破をかけたのはまず間違いないでしょうが、一度も実射試験もなされていないのに、ちょうど10年後の今年になって「それは完成した」というインフォメーションが流れたのはどういうわけでしょうか。
これは金正日とDoDと日本国内の無責任マスコミが合作しているようなものです。この三者が合作すれば、核爆弾でもIRBMでも、無いものが有る、それも量産体制に入っているという話になる。一度もテストしてない高額精密兵器を量産するバカがどこにいるのでしょうか。わたくしでしたら、実戦で不発になってから後悔したくはありません。
沖縄には、ノドンやテポドン以前から、地下壕があります。航空自衛隊の防空用の指揮所などは、大型通常爆弾の直撃や、離れた所での核爆発のEMPを凌ぐことのできる半地下壕構造となっております。自衛隊ですらこれですから、詳細は不明乍らも、米軍も必要な重要施設は防爆化しているだろうと信じられる。それは何を念頭しているのかといえば、むろんのことに北朝鮮じゃありません。60〜70年代はシナの原水爆であり、80年代は主としてソ連の水爆であり、90年代以降は再びシナの核兵器ですよ。
シナの核の脅威は、北鮮のありもしない核ミサイルとは違い、リアルです。
ところが、この最前線の沖縄に、民間用の核シェルターが自治体によって全く整備されていない。これは兵頭は大問題だと思っているのですが、なぜか誰も指摘する人がいません。
昭和20年の広島のグラウンド・ゼロから水平距離で150mの3階建てビルの 地下1階にいた男性は、昭和57年まで健康に生きました。
ヒトラーの地下壕は天井のコンクリートが5mあり、スターリンの地下壕はさらにその倍以上の厚みがあったそうですが、そんな立派なものでなくちゃ核爆発からは生き残れないってわけじゃないんです。広島ではコンクリートの薄壁一枚に遮蔽されたおかげで死なずに済んだ被爆者もいる。要は、人間が無防備で地上に立っていないことが、生と死の確率を劇的に変えるんです。簡易な地下シェルターも、爆心の近傍に於いてすら無駄ではないわけです。
しかるに、さらに強力な水爆がさらに身近に落ちたなら地下に居ようとなんだろうと無駄ではないかと言う日本人が居るんです。それは夫婦喧嘩で文化包丁が飛んできた場合にただ突っ立っていたら死ぬかもしれないのと同じでしょう。
なにも北朝鮮のように地下数千mの炭坑をシェルターに変えようってんじゃありませんよ。市町村の公共機関がビルを建築または増改築するときには、必ず十分な容積の地下駐車場も附属させるようにしてはどうですかと、わたくしは前から申し上げているのみであります。そこにSUVで乗り付けるだけで、住民の当分の避難所にはなるでしょ? 公共施設の地下だから土地の取得費もかからないし、技能低劣な地場の土建業者も潤って、選挙の票になりますよ。
戦中はこういうことを内務省が指導してたんですが、戦後は内務省が解体されたので、「民間防衛」に責任をもつ政府機関が無い。国交省から海保を分離独立させる代わりに、このセクションを設けちゃどうですかね。
核兵器すら破壊力は有限です。まして非核の弾頭にできる仕事についてはよほど、見積もりを厳しくしなきゃいけませんでしょう。
非核弾頭の長距離弾道ミサイルで敵の地下軍事施設を破壊できるという米国メーカー筋の思いつきをその著書で紹介なさり、無知な日本人読者に『ならば北鮮のミサイル・トンネルも破壊できるな。日本は核武装しなくても良いんだ』と思い込ませてしまった江畑謙介氏の意図はわたくしには分かりません。
台湾が通常ミサイルで山峡ダムを破壊できるようになればシナは台湾侵攻を思いとどまる、と雑誌に書いている方もいらっしゃいましたけど、たぶん巡航ミサイルでダムを破壊するのは至難でしょうし、また山峡ダムと台湾のどちらがシナにとって価値があるのかと言えばそれは台湾に決まっているのではないでしょうか。
故・高坂正尭氏が書いていたと記憶しますが、南砂にシナが出ていったやりかたは、軍隊が駐留していない無人のところを占有したので、すでにそこにいる駐留軍隊を排除して強行した例はないと。これは竹島もおんなじですし、北朝鮮の人さらいだって、日本の警察と銃撃戦しながら日本人を拉致したわけではなかったですよね。
台湾に関しては、シナは軍隊でプレッシャーをかけておいて、内側から民心を屈服させようと狙っています。これは、沖縄にも適用される戦略です。これでも、民間用の核シェルターは不要でしょうか?
シナ・北鮮の政治リーダーの方が、西側の「軍事通」よりも、兵器の性能の生かし方、殺し方、他人の土地の占領の仕方などが良く分かっているなあ……というのが、兵頭の受けている印象であります。
新しい戦争などというものはない、と旧著で言いたかった
「恐怖から結ばれた信約」も「義務的である」とホッブズは看做しました。ところで「日本国憲法」は、誰の誰に対する信約だったでしょうか? これがアメリカを代表とする連合国との「隠し条約」であったことを江藤淳は指摘していました(『利と義と』)。
無理やり結ばされた「条約」なのであると仮りに解釈すれば、実定法によって取り除くことを得ないはずの自然権を除くかの如き、反人間的な条項が入ることがあり得たかもしれません。
しかし、有権者国民と統治機関との間の信約がそもそも「憲法」なのであるとするなら、自然権を認めないという反人間的な宣言は、それだけで初めから無効です。ホッブズも「暴力にたいして、自分自身を力によって防衛しないという信約は、つねに無効である」と明快でした。
現行「日本国憲法」は、それが単に「押し付け」であるから改める必要があるのではない。それじたいが有権者国民と統治機関との間の信約になっていない内容なので、改める必要があるのです。
憲法は有権者が政府に「押し付け」るものです。その逆ではありません。これが、憲法と、憲法以外の国内法との一大相違点です。
しかしアジアの中でも日本にのみ独特な水稲灌漑システムが弥生時代いらい培った非近代的な自我の伝統文化をひきずる日本人は、憲法が統治者や占領者から与えられるもので、それを国民は一所懸命に守るだけなのだ、と誤解をしています。
同じ原因による同様の誤解が、「国連」その他の国際秩序に関しても、日本人にはまだまだ根深くあります。
国際秩序を、あたかも国内法と同じように考えてしまうのは、日本人の誤解です。
国際秩序は大国の意志だけで決まりますもので、良くも悪くも大国の意志によって変えることができるのです。
たとえば国連加盟国のうち「G7+ロシア」を除く百数十ヵ国が一斉に「G7+ロシア」に対する侵略戦争を開始したとしましょう。国連総会で議決をとったら「G7+ロシア」側の「侵略反対」の票は8票だけです。しかし、有象無象の百数十ヵ国の主張と実力は「国際秩序」をなんら構成できません。
日本は世界第二の大国の経済的ポテンシャルを持っていますから、あとは大国の意志をうまく発揮するだけで、国際秩序をよりよく変えることができます。この現実が多くの日本人に分かりませんのは、1950年代の多目的ダムの普及以降は不要になった前近代日本式の自我に、いまだに精神を支配され続けているからです。いくら兵器やマルクス主義を詳しく勉強しましても、自我が前近代のままでは、世界の現実は見えません。
いまの国連は、近代英国式の自由主義思想と相容れないシナやロシアのような国が「P5」(安保理常任理事国)の一員として認められているという点だけでも、日本にとって危険な存在です。日本は、すくなくとも中華思想の国家がP5から外されるように運動すべきですし、それが実現するまでは「日本はP5のうち、最低払い込み額の国より多額の分担金は払い込まない」と表明すべきなのです。もちろんカネの力だけで世界秩序を良い方向へ変えることなどはできません。カネの力だけでシナをP5から追い出すことはできないでしょう。
IAEAが許さないから日本は核武装できない──と言う人も多いですね。これなど近代人の発想ではなくて、アジア的奴隷の思考ループそのものではないですか。大国は秩序を上から与えられることはありません。
IAEAは事実上、アメリカの機関です。アメリカと日本は、基本的人権の評価に於いて一致するところの多い大国同志です。どうしてイスラムのテロリズムに悩まされているアメリカが、シナからの挑戦への対応を日本の核武装によって助けてもらいたいと思わないことがあるでしょうか。
もちろんアメリカ政府の要人は、シナ文化の反近代性に関してはてんで無知でしたから、過去には狂ったチャイナ・カード外交が展開されたこともありました。
1981年11月10日に「ソ連のSS-20に対抗すべく、赤色シナおよび日本への戦域核配備を考慮する」と発表したのはロストウ氏です。1982年2月のFY83国防報告でワインバーガー氏は「ソ連軍の力を極東に分散させるため共産シナを準同盟国扱いとし、補給支援したい」とブチ上げた、そんな「ヨーロッパの安全のためなら東洋はどう混乱しようが構わん」と考えられていた時代も確かにありました(そのとき米空母の見学を許された中共のオッサンが最近、ケッサクな回想録を出したらしいです)。
遡れば、戦時中のカイロ会談で、FDRは沖縄をシナにくれてやるつもりだった。それを蒋が辞退して米支共同統治でよいと返事した(宮里政玄『アメリカの沖縄政策』1986)というのですから、このごろ中共が調子にのって遂に沖縄領有まで妄想し出したのには下地があるんでしょう。
ちなみに田中角栄を失脚させたのは台湾ロビーだろうという仮説をわたくしは学生時代にどこかの媒体に投稿して載せたことがあります。田中は周恩来から事実上の賠償を要求され、それがODA6兆円となるわけですが、これに一番怒り狂ったのは台湾でしょ? たしかに佐藤や竹下ほどには田中はアメリカ政府の「良い子ちゃん」「カネづる」じゃなかったのかもしれませんけど、失脚させるほどの反米的行動が田中個人にあったのでしょうか? 教えてもらいたいものです。
目出度いことにキッシンジャー一派の政治の舞台からの退場とともに米国の権力エリートのシナ観は漸くマトモになりつつあります。映画の『Mr.インクレディブル』は予告編から推定するにヒラリー・クリントンの04年大統領選出馬の援護射撃であったんでしょうが、彼女は出馬を08年に延期し、しかもそれでも当選の目はゼロだそうで、これまた御同慶の至りと申す他ありません。
シナの誇大妄想狂式野望は、05年にはSSNによるハワイ挑発に向かうだろうと思います。
そうなれば三沢のP-3C部隊に注目が集まるでしょう。この部隊は三陸沖〜伊豆〜小笠原〜マリアナの線をパトロールしますので、ハワイにとっては最前衛となっているからです。
三沢のF-16を沖縄に移せという人がいますが、移してどうするんでしょう? 満鮮国境に配備された日本向けの中距離ミサイルは三沢から飛んでいって核爆撃するのがいちばん近いわけで、日本政府としては逆に引き留めるのが筋ってもんです。もちろん、近い将来に、その打撃部隊は航空自衛隊が編成しようというのです。
ちなみに北鮮からハワイに向けて発射したミサイルは三沢上空を通ります。南支からグァムを狙う場合はSSMは沖縄上空を通るでしょう。しかしシナ大陸から米本土を狙ったICBMは日本上空を通りません。どうやらそれも含めてぜんぶMDで撃墜できると思っていらっしゃるらしい前原誠司氏は、一「地球儀をよく眺める」、二「MDの迎撃ミサイルの実績射高とシナのICBM/IRBMの実射テスト時の中間飛翔高度を数字で比較してみる」必要があるかもしれません。
もしかして米国は「北鮮の核開発を阻止してくれたら沖縄の海兵隊くらいは実勢を減らしてもよい」という取り引きをシナにもちかけたことが、過去数年のうちにあったかもしれません。しかし今の米政府は、シナ政府に北鮮の内部まで指導する影響力が無いことがよく分かっていますし、対日戦で9万2,904人が戦死している海兵隊は、沖縄こそはアイデンティティ化したトロフィーだと思っていますから、完全に出て行くことはないでしょう。ちなみに太平洋とアジア戦域で米陸軍は4万1,686人が日本軍に殺され、米海軍は3万1,485人が戦死しました。つまり、米軍にとっての対日戦争とは、死者の数だけで比較したなら、まさしく「海兵隊員の血で購った勝利」だったのです。この歴史を知らないと、うまい交渉などできません。
現在沖縄には米海兵隊が19000人ばかり駐留していますのに、陸自の普通科はゼロ人。これこそ異常です。十分な陸自が駐屯していれば、米空軍の嘉手納基地のテロ警備だって陸自が担当できる。しかし陸自のプレゼンスが皆無とくれば、航空基地の開戦時の防衛にも海兵隊がにらみをきかせるしかない。とうぜんの理屈ではないでしょうか。
江戸人の優越感
「核戦争」と「核抑止」は、同じ時間に同じ場所では存在できません。
MD(ミサイルディフェンス)の迎撃ミサイルを発射する事態とは、核抑止が消えてなくなっている事態です。相手はもう核兵器をわが国に向けて投射しちゃってるんですからね。それは「核戦争」の事態そのものです。
つまりMDとは、これは限定核戦争の道具なので、抑止の道具なんかじゃありません。抑止というのは、敵に1発目の核兵器をはじめから投射させないことです。敵には航空機内臓核爆弾もあり、宅配便の核爆弾もあるでしょう。その行使を抑止できるのは、何ですか? わが国による即時同害懲罰能力の担保、すなわち核反撃戦力のスタンバイとその運用の意志の宣伝──だけです。
核武装をしていない日本にとっては大して役に立たぬMDを「あたらしい核抑止」などと強弁した米国政府の詐術にひっかかっている防衛庁と日本政府は、要するに言語操作能力が米国の政治家より劣っているために、日本国民の権力を危うくしているんです。
前に2chにときどき得意気な質問をする人がいるのを見掛けました。「軍事力で世の中の何が解決されているか?」と一つ覚えの書き込みです。
Answerは「右目を開け。左目も開け。そこにある。」
つまりこの世の現実が答えそのものなのですがそれが見えないのでしょう。昔からあきめくらと申します。心の盲いた者を導ける理性の言葉は残念ですがあり得ません。
核戦争と核抑止の違いが分からない人がいるのは一体なぜなのか。どうも、要するに暴力の効能を認めたくないらしいのです。
司法や行政で解決されるよりも多くのことが日々、諸主体の暴力を背景とする「抑止力」によって解決されている。この現実が見えない。見ても、認知し得ない。
暴力の効能を見たくないとすれば権力の実相は見えない。権力の姿形が見えなければ政治は分からない。政治が分からないのは人間が分からない。マキャベリは人間を誰よりも深く観察していましたから政治が分かった。しかし、それをそっくり文章に致しましても没理性漢にはとうてい理解不能だということまでもよく観察をしておりましたから、やさしいイタリア語で、話を極端に単純化しまして、以て代表的ルネサンス人に教えようとしたのです。しかし、十分にやさくし、単純化すればしたで、「一行罵詈」を止めない没理性漢はいつの世にも現れます。マキャベリにはそれさえ予測の範囲でした。
核抑止の話も、単純化して説いてきかせれば理解されるわけでもないというのは、兵頭が10年も前に体験したことで、いまさら驚きはしません。
けれどもさいきんこの兵頭が聞いて驚く、と申しますより、ほとほとあきれますのは、100年以上前の勝海舟の金言:「みんな敵がいい」の精神が、ぜんぜん民族の血肉とは化さないことですね。すなわち近代日本の個人がすっかり「近代人」とはなれないで、シナ人や朝鮮人といまだに五十歩百歩の迷走をし続けていることです。
李登輝さんは日本人の耳に心地の良いことを仰いますが、それは大東亜戦争中に宋美齢の反日演説がアメリカのマスメディアの耳に心地よかったのと、そんなに違うんですか?
台湾国はげんざい日本国の敵ではないが、将来いつか敵にならないと、誰が断言できるんでしょう。親日的であることと反近代的であることは困ったことに両立するんです。日本は近代の道を選択した以上、選挙一発で反近代に走るかもしれない他国は「みんな敵」と思っていなければならない。近代国家同士では核戦争は起きないでしょう。しかし、反近代国家のもつ核は「悪い核」になるんです。
思うに勝海舟の自信は、人に嫌われることをあまり怖れなくて済む「江戸弁」のアドバンテージの上に乗っかっていたんでしょう。兵頭が日本核武装の当座目的のために「図書館」ですとか「国語教育」「出版界」さらには「2ch」の話もせざるを得ないのは、言語がひとたび衰えれば人間のすべてが衰えてしまうからに他なりません。
以前に勝谷誠彦さんが何かでお書きになっていたように記憶しますが、反日アナキストの残党はなおまだ無知な大学生たちの取り込みに一部では成功している模様ですね。各種の工作員に仕立て上げられ、戦術を教えられて、たとえばネット工作にも出精している彼等。いっけん荒ラシでないような語り口で、ウィルスが自己の形を変えて細胞に侵入しようと試みるように、まことに疲れを知らぬ奉職ぶりと申すしかありません。ですが、その活動による言語力の深化は見られません。より強い言語力で、人間についてもっと知りたいのなら、現代においてもその方法は、ある限りの古典を読むしかありません。
某紙が報じた、少し既視感(w)ある記事について
本日のウェブ版産○新聞にシナ原潜の航路その他について一見特だねのような調子のある解説記事が載っていましたが、何かあたらしい情報が入っているんでしょうか?
普通人の揃えられない情報を力技でかき集められる筈の新聞記者さんがまとめた記事にしては、ずいぶん「浅いな」という印象を受けてしまいました。果たして東京新聞や朝日新聞の中の人たちにはどう思われてしまいますでしょうか。デスクの方もチェックが甘い。
石垣島と多良間島との間の幅28kmある水道は、両島のリーフ外縁ですと、213mから223mといった「浅さ」なんですけれども、水道中心部の幅14kmくらいの帯をキープしていきさえすれば、水深が290mを切ることはありません。これは、海保で売っている海図を見さえすれば、誰でも知ることができます。シナ潜の中には日本の水路部謹製の海図はもちろん全部揃っています。
仮りに水深290mの海底で「405号」が逆立ちしても、艦尾が水面に飛び出すようなことはないような気が兵頭はいたします。
11月のシナ潜は石垣水道侵入直前に一回浮上して、アメリカ様のGPSによって慣性航法装置を規正しております。ですからINSに頼っただけでもこの14kmの中央の帯を外すことはまず無い。しかもシナ潜は始終前方にpingを打ちまくりなんですから、12ノットで左右のリーフの「断崖」を両睨みしつつ、その中間を維持して行くのは雑作もなかったのではないでしょうか。
ちなみに日本国籍ある良い子の皆さんは『新潮45』はもう読んで呉れましたね? 操舵を誤ると珊瑚に突っ込む、というのは、ソナーの利かぬ高速で回避機動をしたときの話であります。なお今月はもういちど、月刊誌に兵頭の記事が載りますので(年末は特別なのだ)、某S経新聞のライターの方、こんどは「早刷り」に遅滞なく目を通せば、何もうろたえることはありませんよ。ますますのご健筆を祈り上げます。
日本の大学は「自由競争」ができないから後れをとる
これも紹介すべき本なので紹介します。以下、その内容メモ。(内容メモというのは、「ここには翌日忘れてしまうには惜しい情報が含まれている」と兵頭が思った箇所です。「あらすじ紹介」じゃありませんので、興味をもった人は一冊読まないと損でしょう。)
▼川島レイ著『上がれ! 空き缶衛星』04-6
1993から衛星設計コンテストを、九州大学の八坂哲雄や中須賀真一が立ち上げていた。
99年時点で米はナノ・サットよりもっと小さいピコ・サットを大学主導で開発するという話が進む。
トィッグス教授いわく、計画して、実行して、解析するまでの一連のプロジェクトのサイクルを学生に経験させるのが、完全な宇宙工学教育である。
米ではアマチュアが高度4000mまでロケットを上げてよい。そこから物体を放出するとパラシュートで20分後に回収できる。ネバダ砂漠で年に数回の打ち上げ大会あり。ロケットじたい、回収利用するためパラ降下させるタイプも。径16センチ、全長3メートル。※それは空対空ミサイルのサイズではないか?
東大1号機案は350ミリリットル缶に太陽電池パネルを張り、缶は自転させる。
p.115 「こういうメカニズムを使いたいから、こういうミッションにしてみる」と考えるのが東工大で、「こういうミッションをしたいが、どんなメカニズムがいいだろう」と考えるのが東大。※公平な評と思う。日本のミリヲタはここで謂われる東工大生タイプが多いために抑止論・戦略論は遅々として深化をして参らぬのである。
プロジェクトにおいて何をもって成功とするかは事前に討究し、数段階の「サクセス・レベル」を設定しておかねば無意義である。たとえば「ミニマム・サクセス」「ミッション・サクセス」「フル・サクセス」等がある。
フライト・モデルの前にエンジニアリグ・モデルがある。電気や構造の妥当性を基本設計段階で検討できるもの。
睡眠不足と疲労で爪が紫色になってもまだ大丈夫。黒くなったらちょっと危ない。
カン・サット計画は2003で5回目となり、参加大学には東北大、九州大、日大、創価大もくわわった。操縦可能なパラフォイルで回収地点まで降下を指令誘導できるようにもなった。
米ではカン・サットはじっさいに軌道に乗せられている。
次にトィッグスが「キューブ・サット」を提案し、これも東大と東工大製の10センチ角サイコロがオービットした。そこから送られるCCD画像はアマチュア無線局で受信できる。
▼以下、兵頭のコメントです。先日ご紹介した『暗黒水域』と読み比べると分かると思いますが、一般人にとって無味乾燥な技術の話を「よみもの」にまとめるためには、機械ではなく人間にドラマを演じてもらわないといけません。米国のプロフェッショナルのリライターは、まあ手垢がついたような方法論なんですけれども、確立されたこの方法論を遵守して、面白い構成にしてみせてくれます。ずっと前に兵頭が書いていた武器の本も、焦点が当たっているのは人間です。たとえば『日本海軍の爆弾』だって爆弾のカタログ本じゃありません(構成はもろ、カタログですが、日本のミリタリー書籍市場にはその方が訴求する故です)。
あの本は、大西瀧次郎という「日本海軍の爆弾男」の頭の中を想像してみた試みなのです。格好をつけまして自制をしてしまい、そこをサブタイトルで敢えて強調しなかったことは、著者として今さらですが、後悔をしております。
某衛星TVが晦日に「核武装討論」番組を検討中
95年とか96年といったら、日本で「日本の核抑止」の話ができる人間は数人しかいなかったのではないか? 数名の核武装論者の人たちがいたが、全員まるで「核抑止」の意味が分かっていなかった。
敵に一発目の核兵器を使用させないのが核抑止兵備なのであって、どちらかが一発目を使用してしまったらそのあとは「全面核戦争」と「民間防衛」の話に移行する。全面核戦争に勝利するための準備があり得るとしたらそれはプライスレスだろうが、それ以前の段階として、必要かつ小規模の「核抑止力」は、ソ連のような大国が相手の場合でも低コストで保有できると証明したのがフランスであった。そのさいのハードウェアの唯一の必要条件は「敵の首都に届くこと」であって、その要件を実現する手段は、それこそ飛行機だろうが弾道弾だろうがスーツケースだろうが何でも良いのである。
興味深いことに、96年の『諸君!』の、極く単純化した核武装エッセイの段階で、以上の核抑止の意味が理解できなかった人は、現在もまだそれが理解できない様子だ。学者といわれる人がちゃんと文章を読み通した場合でさえも、人は既得の我執を捨て去ることにはしばしば堪えられないものであることは、文業家は肝銘しておかなければならない。まして最新の核抑止文献に一つも目を通さずにこの議論にネットで加わろうという無気力な青少年たちがおよそ10年間、入門レベル以前の話を飽きもせず繰り返している情けなさは怪しむに足りない。
近代国家の競争力は大都市から発生する。大都市に人々が住めなくなってしまったら、農村やジャングルや山地に何人が無事暮らしていようと、近代国家としての競争力は担任し得ない。大都市の数はどんな大国も有限である。幾つかの中央集権国家のように、首都が脳と心臓を兼ねている場合は、その首都ひとつを焼き払われるリスクでも「ファースト・ストライク」をためらう十分な理由になる。
ヤクザの喧嘩はいきなり拳銃で撃ち合ったりしない。まず口撃からいくのだが、これは相手の出方次第では腕ずくに移行すると相手に信じてもらわないと無効である。その腕ずくにも段階があって、いきなり相手の顔面に全体重を乗せた右ストレートパンチを繰り出したりはしないのだ。まず丸めた雑誌で相手の頭の上の方を、怒鳴りながらカスってやる。これでビビればよし、効き目がなければ、さらに軽い脛蹴り、胸倉掴み、ヒカリモノのチラつかせ、取り出しと、段階的に様子を見ながらエスカレートさせていくものである。このとき、もしも片方がたまたま刃物も拳銃も所持していなかったら、それを互いにチラつかせる段階にエスカレートする以前に、なんとか譲歩か逃走を図らねばならない。
国家間の紛争もほぼ同じで、小紛争からいきなり水爆の投げつけあいになるわけがない。必ず通常兵備の小競り合いが段々にエスカレートして行く。
そのとき、一方に水爆ミサイルがあり、もう一方が非核三原則の国であったならば、前者に最終譲歩の必要はない。後者は通常兵器による戦争の最後の最後の局面では必ず譲歩を強いられる。結果、後者は非理非道な原状変更を呑まねばならなくなり、これを平たくいえば、奴隷化である。
要は前者は核兵備をバックにした通常兵力の脅しをかけられるのに対して、後者は核兵器が一発も無いがゆえに、通常兵力の反撃の切っ先も終始鈍らざるを得ない。核兵器は、このように、使わなくとも戦争の役に立つのである。
その核兵器を、価値観のまったく相容れない隣国だけに持たせておくのは、自国の価値観を守らないと言っているに等しい。「近代的自由」は、そんなに簡単に「アジア的専制」の前に放棄できる価値観だろうか?
貰ってどうする、そんなモン
「エイリアンvsプレデター」は、わたくしがまだ劇画の原作に関与していました時代、つまりマンガ出版のノウハウのない会社までがよってたかってマンガに手を出そうとしていたバブル末期に、たしかビクターの関連会社から、アメコミの翻訳版としてリリースされたと記憶します。
その時点では映画の『エイリアン』も『プレデター』も「2」まで公開済みであったように思います。
ちなみに俳優時代のシュワルツェネガー氏が「女のアクション映画は好きじゃない」とオーストリア男らしいホンネをつい漏らしたのは、まず『エイリアン2』が念頭にあっての発言とみて良いでしょう。あのキャラ創りは衝撃的でしたからね。
その後、第二次大戦中の硫黄島を舞台にした『プレデター3』が出来るとか出来ないとかの噂が一瞬流れて、そのまま立ち消え状態でしたが、ついに『vs』の方が先に映画となりました。パワーのない女のアクション映画です。その代わり、野心的なキャラ創りは、一匹の「プレデター」の中の人(大男?)がしていました。
脚本は、葛藤(コンフリクト)が弱いです。これは仕方無いかもしれません。元種のコミックもそうでした。エイリアンvsプレデターの狭間に人間が割り込んで三者の葛藤ドラマを100分では描けないでしょう。
しかしこの『vs』が人気の中継ぎとなって、もっと面白い『プレデター3』が制作される、そんな流れになってくれるのではないかという期待も我々に持たせた、微妙な「中の人」のキャラ創りではなかったかと思います。
リッコーヴァー提督
日本の核武装を考える人は、米国の原子力委員会と海軍の原潜計画の両方を一時は一人で引っ張りまわしていた人物のキャラクターについてよく研究しなければなりません。この種の大きな事業は、たった1人の優れた精力的なプロマネが指揮せぬ限り、うまくいくものではないんです。
先日、『暗黒水域 知られざる原潜NR-1』を読みました。
本書は原著が03年で、訳は04-1に出ていました。ぜんぜん知らなかったんですが、シナ潜事件で最近の関連書籍をググってたらこれが出てきましたので早速購読。満足しました。
作者はヴィボニーという、米海軍の特殊任務の超小型原潜に乗り組みを許された数少ない白帽(水兵)出身者です。彼のモトゲンを、デイヴィスというプロのリライターが加工しているらしい。だから無味乾燥なノンフィクションなのに、うまく読ませます。そしてリッコーヴァーが裏の大役として暴れまくっています。以下、その内容メモとコメントです。
『ナーワル』は自然循環冷却式の原子炉なので静か。
米軍潜水艦と乗員の半分がWWIIで喪われた。
平時の大洋の安全水域では原潜は水深100mで巡航か。速度は17ノット。p.15
音響測深器=ファゾメーター
1957当時、米は領海3浬しか認めず、ソ連は12浬主張。このグレーゾーンでソ連は米潜に爆雷を投下していた。ソ連側の説明は「演習で投下」。そして損害があってもどちらも公表しなかった。3浬内では本当に撃沈してよく、そして撃沈すれば公表されたはず。
水中でも潜望鏡は見える。それによって敵潜水艦の艦底を気付かれずに撮影した。
ジュリエット級はプロペラをダクトに納めて騒音を減らしていた。
1960に『チャレンジャー』は水深11900mに米国旗を立てた。
『スレッシャー』沈没原因は、機関室の海水パイプらしかった。
1966-1-17、B-52が空中給油機と衝突してB28水爆×4発が落下。うち2発はスペインの海岸の村の畑でショックにより起爆用の高性能火薬が炸裂し(平時は安全措置をしてあるので核反応は起きない)、650エーカーにプルトニウム粉をぶちまけた。
※生のプルトニウムでテロを起すというフィクションがあるが、じつは大したことが無いことが分かる。長崎上空でも大半のプルトニウムは反応せずに撒布された由。
NR-1は深度を狙うために船殻貫通の箇所は最少。よって潜望鏡も無し。
ジミー・カーターも原潜士官だった。※だからあのスタンスでも許された。
米軍艦でもっとも冴えないネーミングは「マッカレル」(鯖)。
リッコーバーは海軍では一度も原子炉の事故を起させなかった。それが一度でも起きたら原潜艦隊に米国の予算はつかなくなると知っていた。そのために彼は必ず品質をコストに優先させた。
武器メーカーから派遣されて軍艦に乗り組む民間人として「フィールド・エンジニア」と「テク・レップ」がいる。
リッコーバは大尉時代に、独語のWWI潜水艦文献を余技で英訳した。また米国の教育問題についてもコンスタントに著作した。
1965時点で米海軍は3メーカーの原子炉を使用。そのすべてに訓練施設があり、いずれも片田舎で、表向きは秘匿されていた。
NR-1は士官×3+徴募兵×9の12名定員。艦長は「直」につかない。すると原子炉の機関当直は2名の士官が交替でするしかない。これでは不可能だから、水兵に士官の仕事をさせた。
エレクトリック・ボートはWWI前に電動モーター付きヨットを造ってた会社。
NR-1用の超小型原子炉は「やかん」サイズだ。
冷却水に海水が混じっていないか、標本が取り出せるようになっていなければいけない。
アポロ計画が終わったとき、3000人の技術者がレイオフされた。そしてめいめい勝手に再就職口を見つけた。
1967年に米国でも字幕付きの「外国映画」が上演されていた。
1968-1にノベンバ級原潜はエンプラを最高31ノットで数日間、追尾し続けてみせた。これすなわち技術力の誇示。
最新特殊器材の故障対策はどうしたらよいのか。同じものを三つつくる。一つは艦上に、一つは港か水上のサポート船に、もうひとつはメーカーに置く。そして故障したらまずユニット全体を取り替えてしまう。
原子炉区画は完成前の検査が大事である。ここで外部の検査官に徹底して欠陥を指摘させ、そこを直す。それが最終的に巨額のカネの節約となる。NR-1では1300箇所が指摘され、すべてを直した。
真水は加熱蒸留によって得る。一日最大百ガロン。
タービンは毎分3万回転で、これはジェットエンジンの二倍。
艦の前後にショットタンクが2本あり、それぞれ数トンの鉛玉を入れている。緊急に浮力を得たいとき、投棄できる。
初試験航海=アルファ・トライアルで、リッコーバはいきなり1000mまで潜らせ、着底までさせた。ただし150mごとに止まって船殻にかかる圧力を安定させる。鋼はHY-80であった。※潜水艦は潜るにしたがって船殻が縮むのである。つまり体積が変化するから、刻々と浮力も変わってしまうわけ。
1969末から単独航海開始。今日なお現役。つまり艦齢36年か。
浮上航行ではセイル上とて海面から2mにすぎない。
隔壁内からセイルに出るには、いったん高さ90センチの「犬小屋」を経る。頭上のハッチの上に水が溜まっているかどうかは、赤青ランプで分かる。
米本土でも、原子力船は特定の港にしか入港を許されない。避難でもダメ。
ヴェント弁はドックでの不注意の沈没を防ぐため、港では鍵がかけられている。そのキーを忘れて外海に出ると、荒天を潜航で避けることができなくなり、セイル当直がとんでもないことになる。本艦のセイルは上下から水が出入りする非水密構造のため。
激しく横揺れするとバラスト・タンク内の空気が艦底のフラッド・ポートから出ていってしまうことがある。
海底走行(2輪を使用)では0.5ノット以上を出すと危険。またスラスターが持ち上げられないほどの海水をバラストに入れてはならない。
武装は保管庫内の45口径のピストル一梃のみ。サメよけなどに持ち出す。なぜかメカジキが意図的に船体に体当たりしてくることがある。
ミサイル原潜ならば3名のコックを乗せ、一度のパトロールに食糧45トンを積んで行く。
水兵が「入港時特定甲板士官」の資格テストを受けることもできる。さらには「運航時甲板士官」もの資格も。これがあると操舵させてもらえる。また甲板士官のみが艦橋直につける。
30センチ厚の鉛シールディングは、コンパクト化のため、前部隔壁にのみ使用。あとは放射能出放題なので、艦の後半は立ち入り禁止。特に入港係留時。
ベトナム戦争で起きた「汚染」は、無能な司令官への士官たちの盲従。
水上艦が嵐で揺れて空き缶が転がると、それをサブのパッシブソナーで聴ける。
55ガロンのドラム缶が海底にあれば、艦首ソナーで300m先から探知できる。
副長の仕事として乗組員の士気の鼓舞も。
アゾレス諸島で水深900mから鉄塔を建てて、サブ用の航法電波塔にした。送信塔1、受信塔2で1986まで稼動。AFARという。基部からはケーブル。※衛星通信以前の何かか。
リッコーバはチビなのでアメフトその他スポーツが嫌い。海軍兵学校卒も嫌っていた。なぜならアメフトをするところだから。
旧ドイツの機雷を漁船が網でひきあげると爆発することがよくあった。
米海軍は、ソ連の全艦艇の位置を4時間ごとに確認した。これがSLBM対策として必要なのである。
シシリー海峡とメッシナ海峡にはなんとソ連がSOSUSもどきを仕掛けていた。
NATO海軍基地はサルディニア北岸にも。
ソナーにも合成開口式があり、映像が得られる。サイド・ルッキング。
海底ケーブルの破断箇所は、ケーブルのどこかをつまみあげてずっと辿っていく。そして箇所がわかったら水上で待っている修理艦まで持ちあげていってやる。これができたのがNR-1。
現在のケーブル敷設艦は、ジェッターによって溝を掘りながら埋めていく。
ソ連海軍のオホーツクの通信ケーブルを1971に海底で盗聴したのは『ハリバット』。
水銀はガスが有毒なのでサブのような密閉空間では使用禁止。
フェニックスには核弾頭も装着可能であった。
公海に沈んだモノは、海洋法の定めるところにより、誰でも引き揚げて所有できる。
空母機は前脚が射出用に特に頑丈なので、ここにワイヤーをかけて引き揚げる。
ある海底ではほぼ10時間おきに、5度も水温の低い水の塊が高速で通過する。突風の如し。
1976-11にNR-1の情報が部分公開され、乗員は5人と説明された。ロシアが漁網で回収を試みるしかなかったモノを拾ってみせた。※ここから例のキャタピラ付きミニサブが意地で開発されたのか?
原子炉の最初の加圧は外部電力(電池)とモーターによる。この電池が切れると原子炉はかからない。※不思議なことにアイソトープ電池を搭載する発想はなかったらしい。
水酸化リチウムを撒いてCO2を除く。
レーガンはもと戦闘機乗りのレーマンを海軍長官にしたのでリッコーバが反発した。馘になるときに、とんでもない暴言を吐いた。
トム・クランシーの『レッドオクトーバ』は84年。ここにNR-1も少し出る。サブからトマホークうてるようになったのは88年。
科学者ロバート・バラードが海軍の可潜ロボット『アーゴ』を使って次々と成果をあげる。スレッシャー、タイタニック、ビスマルク。※加賀も?
95にNYタイムズの記者がNR-1の全貌を公式リポート。
NR-1はイスラエルの沈没潜水艦『ダカール』も発見した。
理論上の航続力は330人日。水中最大3.5ノット。
書店で「此一冊」と出遭える時代は去りました
拙著『あたらしい武士道』を地方の書店で探すのは時間と労力のムダです。
わたくし自身、函館市内では一冊も見たことがないほどです。横浜、札幌といった政令指定都市の最大級の書店でも初回入庫は3冊くらいだそうです。もう残ってないでしょう。
よほどのメガヒットかロングセラーとならぬ限り、大型書店への二度目の入庫もありません。それは来年のいつになるやら分かりません。
書店であらためて新刊を註文しますと、1〜2週間は待たされるでしょう。「取継店」が間に入っているのと、版元の倉庫はたいてい田舎にありますので、手間がかかるわけです。
典型的な「多品種・少量」商品を、たった一度だけ、たった数冊づつという名目的な分量でも、全国の書店に流通させている現今のシステムがまだ成り立っているのが既に奇跡に近く思えます。
わたくしが書いておりますような数千部しか刷らぬ書籍は、もう「書店を覗いて偶然見つけて立ち読みして面白かったので買う」などという時代ではないです。
書籍はネットで注文して買うしかない時代に、わたくしたちが知らない間に、突入しました。
現在、この方式で注文すれば、数日で宅配されてきます(あるいはセブンイレブンで受け取れます)。電車賃や「時間×体力」などの「サーチ・コスト」を計算に入れると断然こっちが「お得」です。いきおい消費者も版元も、このシステムを好む。するとますます取継店は地方書店からの返本率をゼロにしなければ経営が危うくなりますから、地方への配本数は極限まで絞ることとなります。
もう「再販価格維持制度」も崩壊寸前と見て良いのではありますまいか。
なお、みなさんには、最寄りの公共図書館で「購入リクエスト」のカードをお書きになり、数ヵ月待って、只で読むという手もあります。(ちなみにわたしは手持ちの著者分をすべて八重山列島の公共図書館に寄贈しました。この日本には、バスの「巡回図書館」しか無い島もあるんです。みなさんはまだ恵まれている方です。)
どうしても書店で現物を確かめたい場合には、まずインターネットで書名を入力してググる。それで「昨日の在庫は××冊です」とすぐに出てくるような書店に行けば大丈夫です。東京都内ならば「ジュンク堂・池袋店」がgoogleにヒットしてきますね。ここは確か立ち読みどころか「座り読み」もさせてくれる太っ腹書店でしたよね。
「良い店はますます良くなり、悪い店はますます悪くなる」──誰の名言か忘れましたが、経験的に「真」ですね。
ところで東京では『新潮45』(05-1月号)は書店に出てますか?