「東大卒二等兵」という負の遺産

 戦後の日本防衛史には二つの大きな筋があって、ひとつは核武装をめぐる佐藤栄作以前の日本の総理大臣と米国政府との間の交渉史。もうひとつはそれ以外のすべての路線の変遷史です。
 後者は大きく分けて「旧大綱」路線と「ガイドライン」路線です。この非核の二路線については、佐道明弘氏著『戦後日本の防衛と政治』(2003)が、初めて分かり易くまとめて書いてくれた。後者二つの路線は、いずれも、それを考えたのは時の首相ではなくて、官僚と政治学者たちでした。佐道氏は、従来は半匿名のように朦朧としていたその官僚と政治学者たちの役割を、解明し得る範囲で整理してくれました。
 「大綱」路線とは、すなわち「護憲」+「財政重視」です。
 「ガイドライン」路線とは、すなわち米国との攻守同盟です。
 兵頭に言わせれば、そのどちらにも「シナ(およびその国内シンパ)への遠慮」が前提として在る。だからどっちの路線だろうと、国民にモラル(西洋近代の道徳)とモラール(士気)の放棄を呼びかけたようなものでした。そんな不健全な路線を採択された上で「国民一人一人が国を守る気概を持とう」などと政府から呼びかけられても、誰も気概など持ちようがなかった。庶民のうち、自分の頭で考えられる一握りの分子は、「だったら核武装しようぜ」と思ったでしょう。
 シナに遠慮しない路線とは、すなわち核武装路線です。
 佐藤総理は核武装の放棄を米国政府(それもキッシンジャーの言うなりに中共と手を組むことに決めた米国政府)に対して約束しましたので、以後、日本には「自主防衛」路線はあり得なくなった。「非核の自主防衛」というスローガンは言語の上ではあるのですが、それは実態として、大綱路線か、ガイドライン路線か、どちらかの範疇でしかあり得ない。
 ですからかつて日本の核武装を理論的に捨てさせた高坂正尭・京大教授に学んだこともある中西輝政氏が今日、核武装に肯定的な論客となっている様子なのは、いみじく感慨深い。それは日本人のモラルとモラールの復活の兆しかもしれません。
 初期の防衛庁に自衛隊の管理官庁としての性格を付与したのは、旧内務官僚(警察)の海原治氏です。
 佐道氏の本には海原氏の経歴が載っています。その前半が興味深い。
 1917年生まれ。一高→東大。1938-10に高等文官試験行政課合格。39-4内務省に就職。40-2入営。二等兵。満州に駐屯していたが、本土へ転属。主計大尉で終戦。
 つまり陸軍に入営後に幹部候補生に志望して兵隊から将校になった。兵隊である間は他の二等兵と全く同じ扱いです。それだけでもイイトコ育ちの青年には十分なトラウマ体験になる。また、幹候に行くのだと判明した兵隊の訓練や内務指導は、他の兵よりもキツくなるのです。ぶっちゃけ、イジメ半分です。これでは海原氏、すっかり陸軍が嫌いになって復員したとしても不思議じゃありません。
 戦前・戦中の気の利いた金持ちエリートならば、陸軍に二等兵でとられる前に、海軍の短期現役に志願して、海軍士官の身分を手に入れてしまうものです。海軍は志願してきたエリートをそれなりに優遇してくれたところです。しかるに海原氏の場合、微妙な時期に満20歳になったので、その機転を利かせ損なったのでしょう。
 2.26事件で陸軍部隊に警視庁を占拠されて捕縄をかけられたことも警察の屈辱となっているのは事実ですけれども、もっと根の深い陸軍への恨みは、戦前〜戦中に、ヒラの警察官のみか内務省キャリアまでを一兵卒として徴兵したことなのです。
 しかもどういうわけか日本には、パラミリタリーの重武装警察をして陸軍の権力に国内で拮抗せしめるという、仏・独・蘇式の発想が無い。たとえば機動隊をM2カービン等で武装させて機動憲兵隊として併行的に充実させていけば、何もことさらに陸自を怖がる必要も無かったはずです。海原氏のようなエリート内務官僚で、それを発想した人が一人もいなかったらしいのも不思議なことです。よほど戦前の陸軍の徴兵システムは、非軍人エリートの意気地を破壊してしまう有害なものだったのでしょう。そのシステムがまた逆に、服部卓四郎のようなエリート参謀を万人に対して天狗にさせていた担保だったんでしょう。
 「向米」もしくは「親米」の戦後日本政府の伝統的路線について、これをイデオロギー、つまり「反共」で説明していたのは、甚大な誤りでした。
 歴史的に、社会や国家の長期連続を信じられなかった、シナ、朝鮮、ロシアの住民たちは、社会や国家への継続的な信頼感がなく、私利や血族の利便を公的契約を守ることよりも優先できる文化を染み着かせています。他者の自由を許容しない態度と、そのような文化は一致します。
 国家の継続、社会の連続を信じて生きてきたわたくしたち日本人は、彼らシナ人、朝鮮人、ロシア人たちとは、他者の自由について一致することができないでしょう。それは共産主義のせいなどではなかった。それはまさに彼らがシナ人、朝鮮人、ロシア人だからなのに他ならなかった。ですから、彼らが共産主義を捨てたと宣言しても、わたくしたちは彼らとは対等の付き合いができないんです。
 約束を守らない人とは、近代人は道徳的なビジネスはできません。それはイデオロギーとは無関係です。
 東アジアでは、日本人だけが契約を守れる近代人です。その事態は、こんご100年くらいは変わりそうにありません。
 昭和11年からの統制官僚のマクロ経済の失敗のおかげで日本国民が「貧国意識」に誘導され、そこから戦後の「小国意識」が生じてしまったのも、まことに不幸なことでした。
 核兵器などハイテク兵器の開発は、投資の乗数効果により、日本経済の国際的競争力を改善し、少ない労働者で多数の老人を守って行ける社会を可能にします。歴代日本政府が続けてきた、土建事業への公的投資のタレ流しは、そのような社会の実現を不可能にするでしょう。


コジキスタンよりハズベキスタンなスパイ

 福田康夫代議士が国会で首相に訳の分からない質問をすると、絶妙のタイミングでシナ政府が日本の内閣総理大臣を恫喝にかかる。
 なんと凄い連携プレイでしょうか。
 しかもタイミングが良いのです。月の第二週の出来事は、月刊『文藝春秋』(10日発売)には突っ込めません。
 18日発売の『新潮45』はタイミングとして短いものなら突っ込めますけれども、あそこは短いトピカルな記事を号外的に入れるテイストではないでしょう。
 そうなると、次の月の初旬発売の『正論』と『諸君!』が批判を載せるしかないんですけど、いまどき20日も経過したら、もうみんな生々しい印象は忘れてしまいますよ。この前、どこかの踏み切りで事故があったそうですねえ。ああ、そんなことがあったかもしれませんねえ。
 というわけで左巻きメジャー・メディアだけが、尻馬に乗ってワンワン吠えて、この一件は終わりです。
 うまい。巧みである。
 かくして、生々しい事実はどうでもよくなり、漠然としたイメージだけが庶民の中に蓄積される。それがシナとその内通人脈の常套とする宣伝工作です。


また一つキの字出たる皐月かな

 前から評判であった佐藤優氏著『国家の罠』は、先月は函館の書店ではみつけられませんでしたけれども、別宮先生との新しい共著本の下書きに目処がついた先日、ようやく購読することを得ました。
 これは05年の日本語出版物の収穫でしょう。誰が買って読んでも損をしない情報テンコモリです。
 一読して思い出しましたのが、1977年の『岩畔豪雄氏談話速記録』の断片です。
 旧陸軍のエリート参謀であった故・岩畔氏は、戦前に統制派の中心人物として憲兵にマークされていたことがありました。その岩畔氏が2.26事件の後で兵務局へ異動となり、そこで憲兵隊がかつて自分の身辺を嗅ぎ回って上司に上げていた報告の綴りを見たのです。
 その経験から、岩畔氏はインタビュアー達に忠告していました。警察のリポートは8割引きでお読みなさい。感心なほど系統立っているが、ウソ八百だよ──と。
 佐藤氏の誠実な述懐は、ご本人の起訴に関する限り、この岩畔証言の確認にもなっています。これが表層的な驚きですが、第二の驚きがある。
 おそらくは読者を説得しようして展開されているであろう佐藤氏の弁解から、佐藤氏の世界観が大枠で狂っているという真相も、じわじわと了知されてくるのです。
 佐藤氏は、1991年12月にソ連邦が崩壊し、以後ロシアは、自由・民主主義・市場経済という価値観を日本や西側と共有するようになっている、と信じているようです。
 また佐藤氏は、「親米」には、「日本はアメリカと価値観を共有するので常に共に進むべきである」派と、「アングロサクソンは戦争に強いので、強い者とは喧嘩してはならない」派の二種類がある(56頁)と愉快なまでに正確に分類しつつ、自分はそのどっちに近いのかを明かしません。
 しかし佐藤氏は前者の派を「イデオロギー的な親米主義」と括り、また「9.11」以後の日本の親米路線は「冷戦の論理」でポスト冷戦の世界に対処しようとするものだと仰っています(118〜9頁)。
 その路線はまた「排外主義的ナショナリズム」でもあるそうです。
 日本外務省内ではロシア・スクールを「地政学」派と呼ぶのだそうです。
 地政学派は、ロシアと地理的に一衣帯水の日本が政治的にも露国ともっと親密になることによってロシアの極東に対する発言力を強め、以て冷戦後のシナに対する地域バランスをとる、との大構想をお持ちのようです。
 橋本内閣やS.ムネオ氏や佐藤氏が一丸となって推進してきたのは、すなわち「外交における地政学的国際協調主義」なんだそうです。
 しかし佐藤氏には見えていません。核ナシの地政学など戦後日本にあるはずがない。ゲオポリティークというカッコいい言葉で幻想に浸っているだけです。
 ロシア指導者の関心を日本に向けたくば、核武装することです。簡単です。
 日本が核武装すれば、シナのミサイルのどれが東京に向いていてどれが大阪に向いているか、頼まなくとも、ロシアのほうから耳打ちしてくれます。
 逆にシナの政治家はロシア軍の情報を提供してくれます。
 働き盛りで有能な官僚のエネルギーは、日本の核武装の実現にこそ、集中投入されるべきなのです。
 エリツィン辞任のニュースを日本外務省の誰よりも早く知ったとて、それで日本国民の権力は向上したでしょうか? また、佐藤氏は、米国を筆頭とする他国の情報機関がそのニュースを佐藤氏よりも早く得ていないと本当に信じているのでしょうか。さらに、佐藤氏が本国その他に送信している諸連絡が、どこかで傍聴され解読されていないと思っているんでしょうか。
 大国である日本が核武装を避けている限り、日本外交官の仕事はすべて佐藤氏のように空しいでしょう。
 明治維新が目指した理想は、公的な約束を守りかつ守らせる、武徳に裏打ちされた西欧の近代的自由主義です。
 この理想は、シナ人、朝鮮人、ロシア人とは、残念ながら倶に奉ずることができないものなのです。
 なぜならこの三地域では、法に、連続性・継続性が無いからです。
 地理的に、脱法者の隠れ処に不足せぬこと、辺境の他民族を根絶できぬこと、歴史的に政府の方針や政体そのものが数限りなくひっくり返ってきており、そのたびに以前の法律や契約がチャラにされてきたこと……。
 必然の結果としてシナ人、朝鮮人、ロシア人は、法や契約を蔑する民となりました。この反近代的指向は、百年やそこらでは変わらないのです。
 ロシアと日本は、自由・民主主義・市場経済という価値観を共有していません。この価値観の最低の前提は、約束を守ることと、罪刑/租税法定主義です。
 法が蔑され、契約が軽んじられ、約束が反故になるような地政学的環境の下で、近代自由主義は育ちません。日本は同じ近代国家である米国、西洋とビジネスをすれば世界人類に対してもまた良いことがありますが、反近代の支朝露の三地域とビジネスをしても世界人類に対して悪い結果しか出力しません。
 日本の国益は、この三地域のいずれもが極東で大きな権力をもつようにはさせぬことです。そのオプションの一つとしてあった日米軍事同盟は、現実に有効に機能してきました。
 佐藤氏には、シナ・朝鮮・ロシア文化の異常性は分かっていません。
 佐藤氏によれば、「ロシア人はみなタフネゴシエーターで、なかなか約束をしない。しかし、一旦、約束すれば、それを守る」(114頁)のだそうです。が、どうでしょうか。1956年の日ソ共同宣言は、両国の国会で批准され、法的に国際条約に等しいものであるにもかかわらず、ロシアは1960年にそれを一方的に反故にしたのではありませんか。
 かつて日ソ中立条約を破られ侵略を受けている相手に、何度も騙されるのがプロの外交官、すぐれた政治家といえるでしょうか。
 ロシアの文化は、公的な約束を守れない文化です。日本が外国としてそれを守らせることができるようになる日がくるとしたら、それは日本が核武装した後です。話はそれからなのです。
 孤独な思考家の佐藤氏は、最初に「外務省ロシア・スクール流地政学」なる世界観の大枠を、自分の言語で咀嚼し定義し、それを固く崩さないことで、世界の中で自己を保持し、現在と折り合いをつけているキャラのようです。取調べ検事が「格好をつける」(310頁)と指摘したのはそこでしょう。この佐藤氏のキャラはたぶん今後も変わりますまい。とすると、フォン・ゼークトの箴言がわたくしの耳底に反響します。
 昔ゼークト曰く、将校のタイプとして「無能な働き者」は、指揮官にも参謀にも連絡係にも使うわけにはいかず、軍隊としては銃殺してしまうのが一番よい(それほど味方に大害悪がある)──と。
 けだし、「国益について勘違いしている有能な役人の頑張り」が、「政治家のケチな野望」と結びつくことは、無能で勤勉な将校以上に、日本国に災厄をもたらすのです。
 佐藤氏が政治家のお先棒を担いで成し遂げようとした日露修好とは、ロシアに対する日本の相対国権を低め、ロシアに今まで以上に極東問題に口を出させ、この地域の近代自由主義を阻害させる道でしかなかったでしょう。それは日本の国益に反し、世界人類の幸福にも反しました。
 「日本人の実質識字率は五パーセントだから」「ワイドショーと週刊誌の中吊り広告で物事は動いていく」という外務省幹部の発言(76頁)は適切です。
 けれども佐藤氏が「愛国者」と呼ぶS.ムネオ氏が逮捕されたのは、決して「ポピュリズム現象」による「排外主義的ナショナリズムの昂揚」のせいなどではありません。シナ人、朝鮮人、ロシア人という、公的な約束を守らぬ反近代人たちと仲良くしようと暗躍する政治家と官僚に、日本国民はチェックを入れたいと思うようになってきているのです。
 小泉氏以前の内閣の売国的な対露外交が、何者の指図によってか、あの程度で食い止められ、また小泉内閣の売国的な対北鮮外交も今のところポピュリズムの反対によって歯止めがかけられているかに見えることは、慶賀すべきことです。
 現在国民は、小泉内閣がシナに対して靖国問題や歴史問題で売国的な譲歩を裏でしているのではないかと疑っているところです。そして東京地検特捜部には、「そろそろ外務省チャイナ・スクールも何とかしようよ」との期待がかかっています。
 欲得を離れて努力すれば真実を掴める立場の知識人には「無知の罪」もあります。これは庶民は被らないし、問われもしません。「できること」と「わかること」は違うのです。


拳銃を抜いたら当てろ

 銃器に対して庶民が幻想を抱いていた時代は遠く去りました。
 もはや警察官の拳銃は「警告」の役には立たないのです。
 抜いたらまず一発、足か肩に。それでも静止しないなら、もっと致命的な部位を照準しましょう。
 自動車で突っ込んでくる容疑者は、すでに殺人の意志または未必の故意を有していますから、顔面または首を狙って射殺しましょう。
 夜間の警邏車乗務にあたる者は、これからはヘルメットを常装しましょう。(自衛隊は昼でもそうなっています。)
 戦国時代の武士の馬の手綱には、鉄鎖が入っていて、敵に切断されないようになっていました。防刃素材の肩紐を工夫しましょう。
 また警察用拳銃の握り部分に、ICチップのようなものを埋め込んだ方が良いかもしれません。


酒やカラオケが駄目ならNHKの芸能番組を視るのもまずいっしょ

 電車をひっくり返した当人でもない職員が世間をはばかって酒も飲めないとは、大阪では「隣組」が復活したんでしょうか。
 日本の首相はほんの少し前、東南アジアで戦前の日本の政策について、日本国民が頼みもしないのに勝手に謝罪をしました。
 本当にそんなオトロシイ罪の意識が小泉氏や外務省にあるのなら、矢張り彼らは今後、被害者の方々が「許したるわ」と言ってくださるその日までは、飲酒、宴会、パーティ、ゴルフ、花見、セックス、映画・オペラ観賞、休暇静養、そういう娯楽は一切断って自粛し反省する態度を満天下に示し続けねば、「言行不一致」ということで、「あまりにも公人としての意識が低く、情けない」などとの隣組の批判を浴びちゃうんじゃないでしょうか?
 先日配信された民主党西村議員のメルマガで、—会社が株主のものでいいのなら、この事故に関してはJR西日本の大株主こそが謝るべきで、大株主でもないただの経営者や従業員に謝る義理はないだろう—と指摘されていましたのは、卓論と存じました。
 「悪いことをした覚えはないが、口先で謝っときゃいいだろう」といった日本式のふしだらさが、日本国民を世界公認の悪党にしてしまう—と指摘なすった先日の遠藤浩一氏のブログの書き込みも、まことに適切だと感じ入りました。


「坂の上の雲」では分からない日本海海戦

 わたくしたちは、偶然のめぐりあわせにより、歴史認識が日々深まって、昨日までの日本史把握や外国人把握は間違っていたと刻々に悟る体験をライブで味わえる、珍奇かつ幸運な時代に暮らしております。
 まあ、元からの日本国内の歴史学や教育者や知識人が酷かったために、これほど「修正」がドラマチックになってしまうのです。
 海戦史に関する、快著が誕生しました。
 並木書房の最新ラインナップ、別宮暖朗先生のコダワリの一冊です。
 やかましいことを言えば、「この図版はなんとかして!」「間違ったルビを振ったりしないように校正は必ず社外のプロに発注すべきだと何度言えばわかってくれるのか…」と嘆きたくなる趣きもなきにしもあらず。
 しかし断言しましょう。10年後には、この本に書かれてある「主情報要素」が、海事ファンの間では「常識」になっています。
 そして、「その説のソースはどこなんだよ」と改めて自問自答されたときに、「2005年に読んだこの本だった」と思い出せる貴男は、そこからオリジナルの研究を推進するのに何のフラストレーションも感じないでしょう。
 わたくしが若い頃はGW中も毎日どこかの図書館に通っていました。そうやっていると何週間に一度かは「隠れた名著」にぶつかり瞠目します。『なぜ書評家や大先生は「この本をこそ真っ先に読め」と教えてくれなかったのか』──と悔しく感じたことは、数かぎりもない。
 そこで、この場を借り、わたくしの当座の責任を果たすこととしましょう。
 今月以降、「日本海海戦」または「東郷平八郎」または「艦隊派」または「砲術」に精通したい志のある方は、まず最初に『「坂の上の雲」では分からない日本海海戦』をお読みになることを推奨します。
 メジャー雑誌の書評コーナーで大きく取り上げられないことは、その本が名著でないことや、内容の正しくないことを必ずしも意味しません。むしろ逆に内容が、既製の第一線著述家や編集部の古い常識をすっかり超絶してしまっている場合が、稀にあります。
 その確認ができる特権が今、貴男に与えられました。


心からの「ふざけんな」

シナ式政治宣伝は、敵の譲歩にはとことん付け込んで、何も無いところに「大勝利」を作り出します。
 小泉氏が「わたしは靖国神社には参拝しません」と内々に北京に伝えた。
 そこでシナ政府はここから「大勝利」を作ることを早速考えます。
 「少なくとも日本の総理大臣が参拝することは許さない」と駐日大使に公言させるのです。
 この結果、あたかも日本の首相はシナに命令されて行動を選んでいるように見える。シナ国民にも見えますし、日本国民にも見える。他のアジアのマスコミ、欧米のマスコミにも、そのように印象されるわけです。
 シナ人との喧嘩を避けることは平和を意味せず、さらなる窮境にみずから溺れていくことしか意味しない。
 これは靖国の祭神たちにはよく分かっていたことでした。

 



「JRなんかやめてやる〜!」の可能性

 これからの電車車両は、タクシーみたいに、運転士の顔写真を各客車内に貼りだしておいて欲しいですね。
 たとえば若い運転士が、駅で一度オーバーランをしでかして上司から譴責されてしまったとする。そして何ヶ月もしないうちに、また同じドジをやってもうたとする。
 このような場合に冷静に自分を責めることができる青年であるのかどうか。
 はたまた、そのような場合はすぐヤケを起こしてしまう、アブなそうな奴なのかどうか…。これを、乗客に判断させて欲しい。
 「脱線したって構わね〜! また始末書だぁ。俺のキャリアはどうせこれでおしまいだぜ!」 (ただし関西弁) と心の中で思いつつ、一分半の遅れをノーブレーキ&MaxSpeedで挽回しようとするデンシャラス人格なのかどうか、そのツラつきと年齢から判断させて欲しい。
 まあ、無理でしょうね……。


全国の地雷マニアに朗報

 防衛庁から『オヤジたちの国際貢献』という、特定非営利活動法人の地雷処理の宣伝パンフレットが送られてきました。買うと2200円する立派な冊子です。
 Mine Action は、地雷処理だけでなく、不発弾処理の意味もあるんだそうです。初めて知りました。
 この本には、カンボジアやアフガンに埋まっていたホンモノの地雷と不発弾のカラー写真が多数、掲載されております。これは貴重です。
 また、現地人が不発弾をどう扱っているかのカラー写真、これは衝撃的です。
 ただし、地雷の生産国その他についての詳細な情報はありません。だから日本に数少ない地雷と不発弾の専門家集団がリリースした資料集としては、物足りない仕上がりになっています。そうしたデータが充実していたら、2200円は安いと感じられたでしょう。
 ちなみに満州の不発弾処理はこの団体の請負ではないので、その関係の記載は皆無です。
 これからどこかの地雷原に踏み込もうとしている貴男は一読して損は無いでしょう。


中のヒト、お疲れさまです

 所帯をもつとテレビというものがあるので便利と迷惑が相半ばします。
 昨夜は初めて地上波の「プライド」(この奇妙なネーミングについては何も言いますまい、どうせヤクザの興行なんでしょ)を視てしまいました。
 いや、ハイビジョンでなくともこの映像はおそろしいですね。両方の選手の目の表情がクロースアップで映されてしまう。今回のはメインはほとんど「シナリオあり」だったじゃないですか。いいんですかね、この調子でプロレスになっちゃって?
 まあ、長期の目論見としては、ヤオ試合七分の中にガチ試合三分の配合で、試合場の緊張感と茶の間のドラマ感を維持できれば、もちろん今風の興行として大成功の部類でしょう。いいトシになってもたまにガチを指定される有名選手はたいへんだろうと思いますが、天職ですからね。
 シウバ選手は今回はいろいろなキツいクスリを打って来ませんでしたね。DOPE歴と今の年齢を考えたら確かにもう蓄積が危険な水準に近づいていますでしょう。お金もじゅうぶんに溜まったでしょうし、潮時なのだとお察ししました。
 韓国の柔道選手はずいぶんビジネスに納得したものだなぁと感心しました。しかし人が殴られる危険に直面しているとき、ああいう手のガードをするでしょうか。そこを視聴者に納得させられないと、なんだかんだと言われてしまいますね。
 なぜわたくしがこの番組にあらためて興味をもったかと申しますと、ここのところ週に一回、タダでブラジリアン柔術を教えてくれる人がいて、そのお兄さんにお手ほどきを願っているのです。これをじっさいに体験せずにあの番組だけ視てれば満足という大衆が、わたくしには信じられない。
 人間の最大の戦闘器官は頭脳ですけれども、人も動物である以上、「全身で考える」ことが、より有益です。
 テレビやモニターの前に座っているだけで何かを理解できたつもりになってはいけません。
 こんどのシナ暴動騒ぎでは、「あれは江沢民派の陰謀だ。胡錦濤は被害者で、迷惑している」との風説が日本で流布されました。
 原潜挑発事件のときと、まるで同じですね。
 全身を使わずに物を考えた気になれる大衆は、自分の気が楽になる妄説をドーピングのように求めてしまいます。せっかく、他人の目の表情をクロースアップで視せられても、心のサインが読めません。
 こんどのシナ暴動も、胡錦濤が一から十まで計画し、実施させている政治マヌーバです。