2010/2/16 防衛省オピニオンリーダー・防衛政策懇談会 合同部隊見学

(2010年2月23日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

■平成21年度の「防衛省オピニオンリーダー」と「防衛政策懇談会」の合同部隊見学は、平成22年2月16日に行なわれ、場所は空自の浜松基地であった。引率は防衛省大臣官房広報課。

 今回のツアーも、函館→羽田→早朝に入間集合→浜松というコースではワタシ的にマジ厄介すぎるので、名古屋空港経由、浜松市内に前泊をして、当日朝に基地でみなさまご一行と合流をさせて貰うことにした。(帰路だけ入間へCH-47で。)
 セントレアでショックだったのは「スタディ・ルーム」という店舗が今月下旬に名古屋市内へ引っ越してしまうという話。田舎ではあのレベルの舶来教育用玩具をデパートで選ぶことができないため、貴重な店舗だったのに……。

 浜松市には、あの京野一郎先生がお住まいである。わたしは駿河湾名物だという白魚料理をご馳走になりつつ『なるほど、これが成長するとウナギになる。つまり、出世払いで可いというナゾか…!』と納得しながら、〈伝え聞く、さいとうプロの最近の苦境から察して、『ゴルゴ13』の連載の終わりがいよいよ迫っているのではないか? あるいは、御大なきあとも連載が続くような仕事モデルを構築中なのであろうか〉と、キワドすぎる質問をぶつけてみたが、京野先生はとつぜん口を濁され、それについて一切語られることはなかったのである。さらにわたしが深く追及しようとしたところ、「帰ってくれ! そんな話をするなら、もう帰ってけれですたい!」と、逃げるように一品料理屋を出て行かれたので、いそいでそのあとを追ってわたしも店外に駆け出そうとした刹那……!
 「お客さん、困るんですよね。この不況でしょ。最近、多いんで……」と、ガタイの良い板前氏がわれらをブロックして片手を差し出すではないか。
 そうなんだよね。ホンダがオートバイを作らなくなり、ヤマハもヤマハ発動機のとばっちりでピンチが来たとささやかれ、せっかくできたブラジル公使館もブラジル人労働者が帰ってしまって仕事がないとかいう、やはりここも、いろいろなことになっている気配の浜松市の夜は更けた。

F-2でサムアップ
F-2うしろアップ
F-2のバルカンの弾倉
F-2右主車輪
F-2脚根本・F-2点検パネル・F-2背・F-2脇前・F-2右横腹・F-2下腹

 さて航空自衛隊浜松基地は何をするところか。
 まず航空教育集団がある。
 別な基地(たとえばシズハマ)でT-7による初等操縦訓練をした生徒は、次に福岡の蘆屋でT-4に慣熟してからこっちに来るという。
 そして、エンジンまで純国産のT-4練習機で1年間、合計96時間の飛行をすると卒業だという。
 ※これを12で割ると月に8時間となる。そんなもんなのか?

 離着陸、緊急降下、ストールからの回復、地文[ちもん]航法によるナビゲーションの訓練などがカリキュラムに入っている。

 ちなみにシズハマは古い基地なので低地にあり、霧は出ない。しかし最近なにかと話題な「静岡空港」は台地に造成したため、霧でたいへんだという。

 基地の周辺はとうぜん市街地で、窓は全部二重サッシになのだと、京野先生が教えてくれた。T-4だから音のレベルも低い。

 航空教育集団の下には、第1術科学校がある。
 ここではF-15やF-2の整備員の教育をやっていた。整備訓練専用の機体が用意されているのだ。
 一連の写真は、その地上整備訓練専用のF-2だ。パネル類がぜんぶ開けられて、丸裸状態でわれわれのカメラの前にさらされているのであった。

 タイヤを撮影しておいたのは、このF-2のタイヤが1個30万円だという説明があったので、個人的に興味を惹かれたため。
 パンクなどぜったいにしないかと思えば、そうでもなく、毎年1回以上は、必ず発生するものなのだそうである。原因は、滑走路に小石のようなものが落ちていて、それを踏むことによるらしい。そうか、戦闘機の弱点は、足にあったのか。

 建設工事に詳しい加藤健二郎氏に訊いたら、タグボートが緩衝用に舷側に吊るしているタイヤも、あれもぜんぶ飛行機用のタイヤなのだという。自動車用タイヤでは、船舶のショックアブソーバーにはならぬらしい。(加藤氏もオピニオンリーダーのメンバーなのだが、16日はたまたま大場久美子のコンサートの前座演奏のリハが重なって不参加になってしまった。それにしても大場久美子氏がオレより1歳年上だったとは、なんだか信じられん。)

E-767模型

 やはり浜松といえばAWACSであろう。
 ところがあまりにも秘度が高すぎ、「格納庫内の撮影不可」「機内の見学もお断り」と知らされた。よって、写真が1枚もない。すいません。
 しょうがないので、「教材整備隊」(空自の教育用に材木などからジェット機のスケール・モデルを手作りしてしまうなんともヲタッキーなセクション)が製作した模型の写真(エアーパーク内にあり)で、かんべんしてもらいませう。
 実機の接写がダメだと事前にわかっていたら、京野先生のターボ付きジムニーで正門に乗り着ける前に外柵を一周してカメラ小僧たちといっしょに離着陸訓練中の実機を撮影しといたのにな~。

 このAWACS区画は、浜松基地の中でもさらに鉄条網の囲いがしてあって、基地の広報官も、これまで立ち入ったことがなかったので今日はうれしいとか話していた。どんだけ秘密なのよ。

 浜松の警戒航空隊は600人。三沢の警戒航空隊は360人ほど。
 機体だが、日本のAWACSは世界でも珍しいE-767(双発機)である。米軍とNATOはE-3(四発機)である。こっちが普通だ。
 浜松にはこのAWACSが全部で4機ある。うち1機は常にメーカーに預けて整備させている。だいたい半年間かけて整備するという。

 1機のE-767の中には、20~36名が乗り組める。胴体後方には、くつろぎのためのスペースもある。滞空10時間、往復4時間だから、広くないと生身の人間の肉体がもたない。
 操縦訓練は、民間の全日空(日航ではなく)に依頼している。

 日本のAWACSには、ESM能力がない。※つまり北鮮ミサイルのテレメトリーなどは聴きとれない。おそらくその仕事はEP-3相当機がしているのか。
 ※さらに邪推。海自はいまや空自よりも、米国からみて「ティーチャーズ・ペット」になっているのだろう。

 また日本のAWACSにはECM能力がない。つまり敵戦闘機やAAM/SAMに対する自衛能力はゼロなんである。チャフもフレアも無論なし。
 あと驚いたのは、日本のAWACSは船舶の大小を識別できないという。その能力に関してはむしろ三沢に13機あるE-2Cの方があるという。

 また、E-2Cは、離陸して1時間でシステムが立ち上がるが、AWACSはそれに数時間かかってしまうという。※ロイタリングの現場に着くのに2時間かかるようだから、2時間前後なのだろうと想像するが、もしそれ以上かかるのだとしたら、困っちゃうよね。

 日本のAWACSは、地上や海上や空中の友軍と見通し距離通信でのデータリンクはできるのだが、「リンク16」を衛星経由でつなぐことはできないという。※信じ難いが、対衛星アンテナそのものがないという。すなわち海自が米海軍と一体なのに比し、空自は米空軍とは通信面で分離しているのである。

 情報処理系のハードもソフトも、米軍/NATO軍のAWACS(E-3)に比べて2~3世代古いものであるという。しかしそれでもシナ軍のAWACSよりはマシなようだ。

 空自はこんどの予算要求で、AWACSの能力向上をしたいと要求を出している。具体的には、ウェイポイントを〔顕著なランドマークや地文とまったく関係なく〕GPS座標のみでバーチャルに設定し、リアルに空路を確定して管制するという能力が、是非とも欲しいようだ。これはもう世界の趨勢なんだそうで、日本だけできないでは済まされなくなるという。

 もうひとつ驚いたのは、日本のAWACSは、どこから飛んでくるかわからぬ巡航ミサイルは、まず探知などできない――とのご説明だった。北朝鮮のシルクワームは、いつどこから発射されるのかおおよそ分かっているので、日本のAWACSでも探知ができるのだという。
 本当か? そもそもE-2Cを導入した理由が、ベレンコ中尉のミグ25を奥尻のレーダーサイトが失探したことであったのだから、低空飛行物体を探知できませんでは済まされぬ話だろう。それじゃ、これまでずっと納税者を欺いてきたのかい?
 今じゃ、シナ軍、台湾軍、韓国軍も、みんな長射程の巡航ミサイルを装備しているんだぞ。どうすんの?
 むかし戦車マガジン社からF-117についての別冊を出したことがある。たしかそのネタ元の一つであった洋書によれば、レーダーの反射信号の強さは、標的物体のサイズとは無関係なのであって、ただその形状とのみ関係があると書いてあったと記憶する。それを信ずるなら、特にステルス設計ではない旧世代の巡航ミサイルがAWACSで探知できないというのはおかしな話だ。もしそうなら、旧ソ連時代の潜水艦発射式の巡航ミサイルだって、探知などできない相談でしたよ――ということになるじゃないか。
 この話を聞くにつけても、わたしは、空自はいまや米軍からは継子扱いされて放任されているのであり、海自だけが可愛がられているのではないかと疑わざるを得なかった。

PAC3キャニスタうしろ
PAC-3ディテール
パック3キャニスター

 浜松には空自の高射教導隊もある。
 珍しかったのは、ペトリオットPAC-2スタンダードの米国における実射動画だった。まずいったん、いちばん高いところまで上がってしまってから、落下をしつつ標的に命中した様が、ビデオでは克明に撮影されていた。
 ※つまりその時点ではミサイルはモーターを吹かしておらず、慣性飛行。だから、敵機がハイG機動すれば、ふりきられる可能性もあるだろう。

 PAC-3についての類似実射のビデオは、拝観することを得なかった。
 写真の「発射機」は、銘鈑によると、2008年9月の三菱重工製だ。
 PAC-3は、Fu(ファイアユニット)を構成する車両群が、従来の無線によるだけでなく、妨害等に強い光ファイバーででも接続できるようになっている。

 空自隊員によるスティンガーの実射動画(於・米国)も、珍しいと思った。というのは、標的が、なんと、「MQM-107」という大型ロケット弾なのだ。それの上昇中にスティンガーの狙いをつけて発射して撃墜してしまうのだ。ビデオが編集されていたのかもしれないが、あまりのクイック・レスポンスなので、唖然とさせられた。

ラインメタル20ミリ全景
ライメタ20ミリ座席

 浜松基地のもうひとつの名物が、民主党の「事業仕分け」で槍玉にあげられた、航空自衛隊浜松広報館(エアーパーク)だ。
 けっきょく、あの騒ぎのおかげで、いまでは入場料を¥400-とるようになっていた。

 展示品の中でわたし的に珍しいと思ったのは、ラインメタルの双連20ミリ対空機関砲の実物だ。1970年代に、数セットを輸入して、千歳基地で運用試験をしていたという。が、けっきょくM-55の後継アイテムとしては、米国製の20ミリ・ガトリングの方に決まったのである。

 あと、錆だらけの胴体とエンジンだけが回収されて、それに主翼などをつぎ足してレストアした零戦五二型も、吊るされていることは、みなさんがご承知の通りだ。

92式重爆をヨコ上から
92重爆正面
九二重爆ななめ後ろ
イ式重爆
初風エンジン
木製の増加燃料タンク
木製増槽の注意書
零戦五二型を横から
ユンカース双爆
91式飛行艇
92式重爆ヨコ

 わたし的にはエアーパークよりずっと濃厚な内容に思えたのが、外見「あばら家」の「基地資料館」。
 木造平屋で、目立たないことおびただしい。
 この中には、西村得之という人が材木でゼロからこしらえたという約190機の「1/50」スケール・モデル・プレーンが展示してある。はたしてそれは、どのくらいの精密さなのか。とりあえず「九二式重爆撃機」でご確認いただきたい。
 他にも、市販のプラモデルには過去に一度もなったためしのない激レアの旧陸海軍機がズラリと並んでいたのは圧巻なるも、ディスプレイのショボさが遺憾であった。
 都合により、ここにピックアップしたのは、いずれも1/50の「イ式重爆」と「91式飛行艇」と「ユンカースK-37 (愛国號塗装)」のみ。

 資料館には、他にも、「木製増槽」の実物(レプリカは札幌の開拓記念館にもあるが)や、初風エンジンの復元品などが保存展示されている。どうしてこれらをエアーパークの方に展示せぬのか、わたし的には理解不能であった。

 最後に「資料館」への不満を書いておこう。戦中にここにあった、旧陸軍の重爆聯隊や「飛龍」関係の史料が何も無いように見えるのはなぜ? せっかく基地内にスケールモデルの工作隊がいるんだから、1/1モデルをつくったら、呼び物になるじゃないか。浜松空襲や艦砲射撃の史料が充実していないように見えたのも、拍子抜けだ。「艦砲射撃体験館」をつくりましょうよ。ぜったい面白いから。


(管理人 より)

 結構、久しぶりの『資料庫』更新である。
 兵頭ラジオが始りそうだったり、JSEEOの兵頭講演会はもうないのかな、などと思ったり、兵頭ファンには激動のこの頃である。
 今年は兵頭先生、更なる飛躍の年になる筈である。どこまで高みを目指されるのか、兵頭ファンとして今年も『兵頭二十八』から目が離せない。


蟹工船のペーパークラフトが出来たよ

(2008年12月26日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 小樽に住んでいて、北大の講師などもなさっているわたしの友人の片桐保昭氏(ご専門はランドスケープデザインだがPCを使った製図なら何でもやってしまう)が、このたび「市立小樽文学館」の企画として、「小林多喜二の蟹工船 博光丸」を考証し、そのペーパークラフトを設計した。

 この面白模型がもうじき発売になるらしい。
 兵頭はその試製品を頂戴したから、そっくりそのままデジカメで撮影してご紹介する。

 どこにも縮尺が書いてないので困った。リアルの「博光丸」は全長95mであったという。このペーパークラフトの「甲板」を実測したところ、長さは18cmちょうどである。

 写真は、最終検討品らしく、赤ペン修正が一部入っており、実際に販売される商品とは微細なところで異同があろう。
 定価も不明なのだが、ご興味のある方は「市立小樽文学館」(これまた連絡先がどこにも書いてない)まで、問い合わせてみてください。

 ところで有能なる失業者諸君! 海上自衛隊の艦隊勤務ならば、まだまだ募集があるらしいぞ。きょうびは誰もフネになんか乗りたがらないらしいのでな。(潜水艦だとインターネットもできんだろうけど、情報弱者のキミには天国だ。)このさい、四の五の言わず、男らしくチャレンジしてみることを勧める。文字通り、大船に乗った気持ちになれるかも……ネ! 来たれ、イン・ザ・ネイヴィ!!

蟹工船Pクラフト

組立て図

博光丸せつめい


(管理人 より)

 蟹工船。今年(去年?)、えらく話題にのぼった作品でもある。後藤芳徳さんのblogに『蟹工船くらい働けば、人生開ける』と書いてあって、読んだ事もないのに、どんな話かわかった気がしたものだ。
 皆さんは蟹工船読んだ事、ありますか?
 読もうといま思ったアナタ。読まねばならぬのは、来春発売予定の兵頭本『予言 日支宗教戦争』ですよ。
※さすがに2020年現在『蟹工船』は読みました。ところで、後藤芳徳さんは今どうされているのだろう? 私はあの方の本に助けられたんだけども。


豚斬りの真実!

(2008年10月12日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(グロ注意! Caution ! Might be Too Visual for you, children)

(兵頭二十八先生 より)

 古い撮影(ネガ写真)だ。
 このたび、版元の並木書房さんが、本書を増刷してくださるというので、あらためてプロモーションの一環として、ここに掲載することにした。
 本書中の挿絵のモノクロ写真よりも、よりヴィヴィッドなイメージをお伝えできれば幸いである。

豚頭を前に……籏谷師

 肉屋さんから買ってきた豚の頭を前に……。籏谷師が手にしている真剣は、据え物切りをするときの専用のものだそうだ。幅広で、長く、そして重い。

斬!

 動物の骨も歯も基本的にカルシウムからできているのだろうが、歯の硬さは、骨の比ではない。おそらくほとんどの斬り手は、顎のかみ合わせの部分に切り込んだ場合、(上顎までは切断できても)下顎の歯のところで、刀身がガッキと阻止されてしまうのではないか? そのように、兵頭は観察した。
 三島由紀夫の斬首のときにも一刀目は奥歯に当たって止まった(そして刃こぼれした)と伝えられるし、野生の犬科の動物の共食いでも歯の部分だけはたいてい残されるものだと報告されているし(初期南極探検の極限事情下では、その歯も残らなかったというが)、また、古代メソポタミアでは猪の牙だけを寄せ集めて王様のヘルメットが作られていたというヘロドトスの記述が発掘で確認された例もある。つまり防刃素材として、動物の歯は、それほどすごいものなのだ。

豚の下顎部に注目

 犬や猫や豚が人間のように口を利くことはない。それは舌を容れる口腔の形が細長すぎて、舌を内部で自在に動かす余地がないためである。

めったにない機会なので、お弟子さんの全員が試みる

 この他に、じつは、わたしが後で思いついたために撮影ができなかった実験の一つとして、「押し切り」があった。わたしの関心は、柳生流の本に書いてあるように、ふりかぶっている敵の腕に我[われ]の刀身をピタリとつけて押し切った場合に、それでどのくらいの深い傷を負わすことができるのか――だった。
 この実験については、立会いもせず写真もいただいていないので、あくまで伝聞を「推測増幅」するのだが、どうも、居合いのプロたちががっかりするような薄手しか与えられないようである。(おそらく骨の部分で止まるのだろう。)
 しかし、これこそ真剣の真実ではないかとわたしは思った。だからこそ、敵の腕の内側、つまり動脈が走っている側を正確に狙う必要があるのだろう。それを修練するのが、柳生流なのだろう。

刃こぼれの真実

 本書114ページのモノクロ写真を、ここではカラーでお見せしよう(ネガ画質だが…)。豚の頭を切るだけでもこうなる。白い筋が見えるのは肉の脂。
 「実戦で『折れないし曲がらない』とコンバット・プルーフされた名刀が、初回納品時の形で後世まで残ることはない」という真実が、この一枚でご理解いただけるだろう。「刃こぼれしない」といわれる名刀は無いからだ。
 (すなわち、「初回納品時の形で伝存している名刀」は、どれもコンバット・プルーヴンではなく、実戦に持ち出したら、折れたり曲がったりする危険があるわけ。)
 そして、研ぎ師たちは、こうなったのをどうやって修繕していたのかについては、是非、本書をご講読くだされたい。
 刀は、それが実戦で「名刀」だと証明される都度、サイズがどんどん小さくなって行く宿命なのである。

さらに安全帽も試みんとす(これは試斬前の pause の写真)

 2005年製のFRP製の安全帽は、刀剣の斬撃に対してはかなり安全なのだな、という印象を兵頭はうけている。
 ということは、カブトで頭部を脳震盪から防護できている武士なら、(その手に槍や弓がないとすれば、)むしろ太刀などは投げ捨ててしまって、首をすくめて姿勢を低くして敵将にタックルし、短刀で「道具外れ」を狙った方が、手柄首を獲りやすかったのかもしれない。
 敵の刀剣の「物打ち」より内側でこちらの背中を割られる心配はなさそうだし、「押し斬り」も背中に関しては恐ろしくないとすれば……。
 あんがい、「組み打ち」には合理性もしくは必然性があったのではないか? すくなくとも、それは「蛮勇」とは違ったのではないか。

モノホンの戦争用の鏃(ヤジリ)と、鏑矢

 昔も狩猟中に誤って弓で同僚を射殺してしまうということがあったらしい。このようなやじりを大物猟にも使ったとすれば、それも得心ができる。

鉄扇(てっせん)

 ホネの部分だけが鉄で、そこに和紙が張ってある。

鉄扇の正しい持ち方

 なるほど、防ぐだけではなく、突くこともできるのかと分かる。

(管理人 より)

 世紀の快作『陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り/並木書房』。もちろんこのサイトをご覧頂いているような兵頭ファンならば、まさか一冊も買っていません等という事はあってはならないのだが、もしそうなら6冊買ってください。このページは、『陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り』の終わらないエピローグ、止まないアンコールの1つなのです。


兵頭本[文庫]新刊情報──『日本史の謎は地政学で解ける (祥伝社黄金文庫)』

兵頭二十八先生の単行本『日本史の謎は地政学で解ける』の文庫版が2020年2月14日に発刊予定。祥伝社様からの鉄骨入りバレンタイン・チョコレートだ。
ありがたい事である。

兵頭二十八先生を語る上で欠かせない本はいくつもある。
マスターピース──『日本の防衛力再考』。
伝説的名著『ヤーボー丼―いかにして私たちはくよくよするのを止め、核ミサイルを持つか』。
私は『軍学考』が大好きであるし、『アメリカ大統領戦記』シリーズは読んでいて楽しかった。

ちなみに私が『やっぱ[兵頭二十八]は普通じゃない』と確信したのは傑作『日本人のスポーツ戦略―各種競技におけるデカ/チビ問題』だ。『絶対に[軍事評論家]の枠内の人じゃない』と理解できる。

今回、満を持して文庫で再登場する『日本史の謎は地政学で解ける』。

──なぜ畿内が、日本史の中心として栄えたのか?

──なぜ源氏は、鎌倉で幕府を開いたのか?

──なぜ足利氏は、京都に戻ったのか?

──なぜ日本は、元寇を撃退できたのか?

──なぜ秀吉は、朝鮮に兵を送ったのか?

──なぜ黒船来航が、日本の防衛観を一変させたのか?

──なぜ薩摩と長州が、幕末の雄藩になれたのか?

──なぜ明治政府は、江戸に天皇を移したのか?

──なぜ「征韓論」が、地政学のセオリーなのか?

兵頭二十八先生がお答えになる。
『日本史の謎は地政学で解ける』は兵頭本の中でも『面白い』本だと思う。

全て名著、全て必読なのが兵頭本だが、その中でも私は好きな本です。

(管理人U)


2008年9月4日 函館7eゴンドラ 試し乗り

(2008年9月10日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)
 横津岳の北麓、住所でいうと亀田郡七飯町東大沼に、「函館七飯スノーパーク」(旧名・函館七飯スキー場)がある。わたしは、この地名の「ナナエ」は、沿海州の「ナナイ族」と関係があるんじゃないかと疑っているのだが、まぁ余談だ。
 このスキー場は、従来、せっかくの観光資源を、冬しか利用してこなかった。多くの地元労働者と同様、兵頭はアルペン・スキーやスノボを嗜まないから、用の無い場所であった。
 しかし、もはやゴルフ客やスキー客ばかりを相手にしてイージーにガッポリ稼げる時代は過ぎ去ったのではないか――とすばやく時勢を見通したらしいホテル&観光開発会社が、営業多角化の一貫として唐突に、2008年夏シーズンにロープウェイ(循環式ゴンドラ)を開業したらしいことを、わたしは大沼プリンス・ホテルのロビーに置いてあったチラシで偶然、把握したのである。
 これは、うれしい驚きであった。
 さっそく、好天の日を選び、現地を偵察してみた。なにせ、HPやパンフレットではちっとも実態が想像できやしないのだ。

はっきりしない道標

 まず交通アクセスからリポートしよう。無料送迎バスがあるということに、わたしは現地に至って気付かされたのだが、それがどこを回って走っているのかは不明。地方の一住民のわたしとしては、とうぜんにマイ・カーでアクセスする。例によって、近所の石黒氏の仕事用の車に便乗をさせてもらった。
 函館市街から向かうばあい、国道5号線の、大沼トンネルの北側出口から、右折して、「大沼公園鹿部線」を、鹿部方向へと走る。
 途中に、ご覧の、デカい看板が立っている(この写真は帰路に撮影したため、矢印が左を向いている)。まさに、この看板の交差点で、右折する。(流山温泉にアクセスする左折路がある交差点まで行ってしまったら、それは行き過ぎだ。小学校よりも手前である。)
 なお、この看板の表示だと、ドライバーはここより2キロ先で曲がればいいのか、それとも、ここで曲がってから2キロ走ればロープウェイ駅に着くと理解すれば良いのか、迷うことだろう。この矢印の矢柄は、直角に曲げておくべきなのではないか?
 日本人がマニュアルや開発契約仕様書を満足に書けないという欠点は、日本語の助詞(テニヲハ)の規定力のあいまいさ(しばしば複数通りの意味解釈が可能であり、聞いた者が常にそのうちの一つであろうと判断し続けなければならない)に、遠因するのかもしれない。
 たとえば「街道でイク!」とわたしが叫んだ場合に、それぞれ聞いた人が、合理的と思えるコンテクストにあてはめて、あり得る複数の文意の中から一つを選択して理解するだろう。「で」という助詞ひとつに、じつにいろいろな含意を乗せられるようになっているからだ。
 このような日本語による生活にすっかり適応し切ってしまうと、たとえば看板の表記(カギ状になっていない矢柄を含む)が、どれほど外来者に曖昧な解釈をゆるす表記であるかという自覚や心配も、できなくなってしまうのかもしれない。

夏はやってないレストラン
山麓駅脇の食堂

 駐車場のすぐ脇にロープウェイの山麓駅がある。その山麓駅のすぐ近くに「レストラン」と「フード&ドリンク」という2つの食堂施設があった。「レストラン」の方は、写真の階段を見れば見当がつくように、積雪季用に設計されている。夏場は営業をしてないようだった。「フード&ドリンク」の方は、入り口に階段がないので、たぶん夏~秋専用ではないかとお見受けした。もちろん、冬も除雪して営業することは可能だろうが……。

ゲレ食メニュー

 これは山麓駅の乗り場に貼ってあったメニュー。「フード&ドリンク」なる食堂で提供されている品々のようだった。今回われわれは、現場からやや遠いプリンス・ホテルの「パン工房」(カール・レイモン直営店)のテラス席で昼食にしたので、体験はできなかった。

山麓駅のりば

 写真を拡大してスペック掲示を読むべし。かつてわたしは『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』という、今日では企画としてまず不可能なマニア向けハードカバー書籍を作った覚えがあるので、写真のような説明板を見ると、懐かしく、つらつら眺めずにはいられない。なお、このロープウェイは「交走式」ではなく「循環式」だ。あの本をつくったときには、「循環式」には個性的な味も無く、取材のし甲斐が無いと思っていた。しかし今回の搭乗で価値観が変わった。「循環式」は、任意の時刻に待たずに飛び乗ることができ、搬器(ゴンドラ)の中でファミリーがいくら騒いでもよく、しかも窓を開けて手や頭を出して写真撮影することができる。ゴキゲンだ!

途中からの眺め

 北海道駒ヶ岳の東南麓に、蛇行した川筋のようなものがみえるが、これは将来の噴火に備えた土石流阻止の工事痕だと思う。その周辺は広く無人地帯だ。北海道駒ヶ岳は、地下で恵山や恐山ともつながっているであろう活火山で、地表面は鎮静しているのだけれども、地震計には微振動が捉えられている。そのため、入山そのものがずっと規制されたままで、山麓の大規模観光開発も不可能になった。

遠くに羊蹄山

 視野をやや右に転ずると、内浦湾(太平洋)越しに羊蹄山まで望める。羊蹄山/ニセコ一帯は、いまやオーストラリア人に占領されつつあるらしいが、蝦夷の松島と呼ばれる大沼周辺には、シナ人/台湾人のパック・ツアー以外はまだあまり外国人を見かけない。

山頂駅に着く

 ロープウェイ業界では、そこがじっさいは山頂ではなくとも、高い側の駅を「山頂駅」と呼んでおくのが、ならわしである。搬器を降りると、係員が熊避けのベルを渡してくれる。皆がそれをガラガラ鳴らしながら散策していた。山頂駅およびその周辺には、売店は無い。

標高920m地点の案内図

 この案内図によると、七飯ゴンドラの山頂駅は標高920mに位置するようだ。そこから遊歩道(冬はゲレンデになる)を歩けば、さらに984mまで標高を上げられる。

展望の丘984m

 しかし残念なことに、横津岳の北の稜線の延長上に位置すると思われるこの「展望の丘」からの、大沼方向の展望は、植生にさえぎられて、あまりパッとしない。むしろ、ゴンドラの中からの眺めのほうが、パノラミックである。なお、「展望の丘」は、夏は運行していないチェア・リフト(確認しなかったが3~4人が横並びに腰掛けられるものだろう)の山頂駅の脇にある。
 このさい、ひとつ提案をさせて貰いたい。ホテル&観光開発会社は、この「展望の丘」から、横津岳の頂上まで、尾根線づたいの登山道(兼・クロスカントリースキーのルート)を整備し、横津岳の向こう側斜面のスキー場とも連絡すべきだ。冬なら羆も出ない。このように、「横のつながりオプション」をつけておくことで、利用客の方が勝手に面白い遊び方(orイベント)を創意工夫する。横断的利用の余地が大きいことによって、観光地の集客力は強化されるのだ。こういうことに、そろそろ地方の観光開発業者は気付いて欲しいぜ。

駒ヶ岳演習場と鹿部飛行場

 写真に撮っている辺り(駒ヶ岳の裾野)に、いまはほとんど使われていないと聞く陸上自衛隊の演習場があるはずだ。鹿部飛行場は、行ってみたことはないが、たしか本田技研と関係あり?

横津岳山頂とのつながり

 横津岳の山頂周辺には、国交省の航空管制用レーダーと、気象庁の雨雲レーダー等がある。(詳しくは、函館に引っ越した直後に自転車で探訪した折りの写真アルバムを参照されたい。)このアングルは、その諸施設を、尾根の北側から見上げていることになろう。

山頂駅外観

 2本の避雷針に注目。近くには、落雷で枯れたと思われる樹木も複数、見られた。かつて、四国の剣山のチェア・リフトを取材したときも、避雷木だらけでゾ~ッとしたものだ。

山頂駅脇から駒ヶ岳

 このロープウェイはまちがいなく、紅葉シーズンの新名所となるだろう。

空母からの発進

 循環式ロープウェイは、搬機がワイヤーを掴んで動き出すときの加速感が面白い。なお、ドアは全自動で開閉する。冬季は、ドアの外側にスキー板を差し込んで運ぶのだ。

小沼湖の鳥瞰

 小沼は大沼と水路でつながっている。その向こうに見えるのは、太平洋(内浦湾=噴火湾)。撮影時刻は午前11時半。

違う角度から位置確認

 これは同日の12時20分、小沼の対岸の「日暮山(ひぐらしやま)」の展望点(303m)に登って、東南東方向に見える横津岳の北麓一帯を撮影したものだ。スキー場の全貌は、くっきりとは望めていないが、だいたいこの写真の中におさまっているはずだ。


(管理人 より)
 ゴンドラには私は1度か2度しか乗った事がない。それは、それで良いのである。しかし、近日発刊の兵頭[座談会]本『零戦と戦艦大和』そして──兵頭本『新訳 名将言行録』。これは、1度といわず2度でも3度でも読まねばならないのである。ここを閲覧するような兵頭ファンの皆さんも、勿論そうしますよね?


零戦と戦艦大和 (文春新書)


[新訳]名将言行録 大乱世を生き抜いた192人のサムライたち


” Out of Drawings of Scenes of War; From Shanghai (August, 1937) to Nangking (December, 1937) “

(2008年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

” Out of Drawings of Scenes of War; From Shanghai (August, 1937) to Nangking (December, 1937) “

(c)Hyodo Nisohachi & Kosaki Takeshi

 マンガ『やっぱり有り得なかった南京大虐殺』の英語版 :” Out of Drawings of Scenes of War; From Shanghai (August, 1937) to Nangking (December, 1937) ” (c)Hyodo Nisohachi & Kosaki Takeshi を、無料でリリースします。

●日本の皆様向け ご挨拶 /兵頭 二十八(原作者)

 かねて期していた通り、2008年8月8日から同月24日まで開催予定の北京五輪に合わせて、マンガ『やっぱり有り得なかった南京大虐殺』の英語版をインターネット上で無料でリリースできることになりました。
 このような変則的な派生プロジェクトに賛同してくださった「(株)マガジン・マガジン」様には、あらためまして深甚の御礼を申し上げます。

 英文は兵頭が一人で書いております。内容は日本語版とは違えております。
 「この表現は変ではないか」と思われた方、どうか、各自のブログでその旨を公開してください。あいにくわたしは「ファン・サイト」の「掲示板」等は、読んでおりませんので、ご承知ください。

 「オレならこの英文の台詞はこうするぜ」という意欲満々の方は、この無料公開ページをコピーし、それを元に独自にフキダシの中や絵のディテールを加工し、各自のブログ上で公開されてはいかがでしょうか? わたしはそういう試みを楽しみにしたいと思います。(改変された場合は、改変者の署名をお忘れ勿く。また、日本語バージョンでの改変はご遠慮ください。)

 なお、日本語版のマンガには巻頭に附録されております、兵頭二十八による「セルフ解題」ですが、この公開版の英語バージョンでは、読むことはできません。陸戦隊が撮影した戦場写真や、長春の凍死者捨て場の写真絵葉書なども、無料公開はいたしません。是非、それらは書籍を御覧ください。

 日本語版のマンガにご興味のある方は、まずは書籍をお買い求めください(ISBN 978-4-89644-673-9、(株)マガジン・マガジン発行、税込定価一千円)。
 あるいは最寄の図書館に「購入希望リクエスト」をして、お読み下さると良いでしょう。シナ政府の反日プロパガンダを日本の危機だと思う人は、積極的に、最寄の図書館の購入希望カードを活用して下さい。

 オリジナルの日本語脚本(ト書き指定から全部入ったもの)にご興味のある方は、「読書余論」の2008年6月25日配信分(有料:¥200-)で、全文を確認できます。このメルマガは、バックナンバーも単発で購読できるようになっています。詳しくは、メルマガ配信元の「武道通信」のウェブサイトhttp://www.budotusin.netでどうぞ。


” Out of Drawings of Scenes of War; From Shanghai (August, 1937) to Nangking (December, 1937) “

(c)Hyodo Nisohachi & Kosaki Takeshi

State Commanding Terrorism

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Aggression To Annihilate Alien Merchants

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Mobilization As Legal Defense

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Punitive Blow

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Capital Is Lousy

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(管理人より)

 ついに、市販されているマンガの英語版──なんてシロモノをupするに至った当サイトである。もう少しうまい公開方法などあるのかもしれないので、わかる方は教えて下さいね。 (全ファイルをまとめると結構な大きさになるので個別にリンク張ってます)


やっぱり有り得なかった南京大虐殺―1937年、日本軍は自衛戦争に立ち上がった (SUN-MAGAZINE MOOK)


青森県の「船の博物館」の珍しい展示品・その他

(2008年7月24日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 2008年7月17日に、青森市のフェリー埠頭に隣接している「みちのく北方漁船博物館」に行ってみた。これは青函連絡船の『なっちゃんレラ』または『なっちゃんワールド』に乗る前の時間潰しの場所として、ファミリーであっても最適だ。

 その前にまず『なっちゃんレラ』について説明しておこう。
 さいきん青函連絡航路に投入された最高36ノットの最新高速フェリーで、船体はアルミ合金。推力はウォータージェット。「レラ」は「連絡船」の略なのだろう。ベタだ、
 離岸してから接岸するまで正味2時間。その間、子供に窮屈な思いをさせずに済むので、引率者としては、飛行機や列車よりも有り難いのである。
 今年になって姉妹船の『なっちゃんワールド』も就航したから、時刻表的にも頻発となった。
 船体はSWATH型。原理的に揺れを抑え、なおかつフィン・スタビライザーで不快な船酔いをしなくて良いようにしている。20年以上前の「青函連絡船」とはもはや別次元に進化を遂げていた。17日に海峡内で前線に突入して横風に吹かれたときだけ、ちょっと揺れを感じた。

 ところで、東日本フェリーのウェブサイトでは、『レラ』に乗るにはいったい何分前から車で埠頭に集合していたら良いのかが、さっぱり分からない。
 わたしの16日朝8時発便の体験では、函館港のフェリー埠頭において、出航時刻の約23分前から2輪車の搭載が始まり、約18分前からトラックの搭載となり、約15分前から乗用車の搭載となった。だから25分前に着いていれば余裕だと思った。逆にそれ以上早いと、車の中で何十分もじっと待機していなければならなくなり、子供連れでは困ったことになる。(ガラスのピラミッドのような客船ターミナルは、徒歩乗船客の待機場所であって、車両ごと乗る人は、距離的に、そこを利用できない。青森の埠頭では、歩いて往復できる距離だが……。)

 ただし、オン・シーズンで車両数が多いときは、この時間繰りは違ってくるのだろう。
 乗船手続きは、15分前までにしないと、締め切られてしまうそうだ。当日にすべての申し込みをするならば、出航時刻の40分以上前に到着する必要があるかもしれない。しかし、5日以上前にインターネットで申し込んでコンビニで運賃も決済してある場合は、自宅のプリンターで出力した紙をゲートでかざせば、瞬時に乗船手続きが済む。その場合は、出航15分前にかけつけても、なんとかなるのであろう。
 係員は埠頭のあちこちにいるので、分からないことは、何でもその場で訊ねれば良い。

 昔は「二等客室」といったらもう座敷にザコ坐りで、あちこちの隅っこでテレビが大音量でつけっぱなしで、まるで〈災害避難民があつめられた地元の体育館〉のような雰囲気だったのだが、『レラ』の船内はすべて「椅子(指定)」であって、かつての連絡フェリーの雰囲気は払拭されていた。テレビも無い。それがすばらしい。
 しかも、よほどのオン・シーズンでない限り、人はガラガラ。指定と無関係に利用できる、両サイドのスペースの窓際ベンチ(テーブル付き)や、最前方のひろびろとしたスペースの長いソファに勝手に座って飲み食いしていれば、2時間で対岸に着いてしまうのだから、昔に比べると天国のようなものだ。
 それでも酔いそうな人は、前方ではなく、両サイドの窓際から外を見ていると良い。自分が移動していることを視覚的に把握しやすい。正面の海を見ていると、移動実感はほとんどない。
 離岸してしばらくすると、後部デッキ(オープンエア)にも出ることもできる。ただし悪天候時はドアが開かないはずだ。
 キッズルームもあるが、これはあまり広くないうえに、馴れた乗客のオッサンが昼寝スペースにしている場合がある。幼児を寝せたいときは前方のソファがいいだろう。
 人の目をはばからずに堂々と寝て行きたい大人は、ビジネス・クラス(昔の一等~特等客室)の高い切符を買えば、大きくリクライニングするシートを独占できる。たった2時間であるが……。

 さて、「みちのく北方漁船博物館」だ。
 ここは、青森のフェリー埠頭の前の道路へ出ないで、埠頭敷地内を自動車で青森市街方向、つまり西の方へ移動すれば簡単にアクセスできる。歩いてもそんなに大した距離ではない。目印は「船の博物館」と書かれた展望タワーである。もちろん道路からでもアクセスできる。

 特に皆さんが興味のありそうな、ロシア製の折り畳み鉄舟(一人乗り)と、アムール河水上警察のモーターボートの写真を掲げておく。
 折り目のところでどうやって防水しているのかは、確認をし損ねたが、写真で見ると、ゴム板を打ってあるようだ。銘鈑で読める通り、ノビォシビルスク製。
 ここは「漁船博物館」というよりは、《世界の雑舟コレクション館》で、他にも、かなりレアなものが転がっている。

 「ベトナムのザル舟」の実物まで蒐集されていた。わたしはこれを見て初めて、民話の『かちかち山』のルーツを悟った。
 皆さんは「タヌキの泥舟」という話を聞いたことがあるだろう。しかし、「泥で舟をつくる」という発想が、いったいどこから出てくるものか、疑問に思いませんでしたか?
 どうやらそれは、ベトナムであった。やはり日本人のルーツの一つは「呉・越」のあたりにあるのだ。
 ザル舟は、割り竹を編んで円い椀状にし、その網目に、牛の糞にゴム樹脂とサメ脂をよく捏ねあわせたものを、摺り込むように塗りつけて、その上からコールタールでコーティングする。これで、8年間も防水が保たれるという。完成品は真っ黒である。知らない外国人がその表面を見たら、まさに泥でつくってあるように見えるだろう。
 佐渡の「タライ舟」の前に、古代日本人が「ザル舟」の知識を、日本の現地で得られる材料だけで、なんとか再現しようとしたことがあったのではないか。しかしそれは、失敗したのだ。それが『カチカチ山』のタヌキの話となったのかもしれない。

 この博物館には、手漕ぎ舟体験プールという屋外設備が附属していて、もし転覆しても溺れ死ななくて済むような浅いプールで、いろいろなボートを漕いで遊ぶことができる。雨が降っても遊べるのかどうかは、不明。しかし屋内だけでも1時間以上は飽きることはないであろう。

 余談だが、今回は、「浅虫水族館」と「夜越山森林公園」と「モヤヒルズ」にも足を伸ばしてみた。
 青森県営の浅虫水族館ではキッチリとイルカのショーをやっていた。それはもはや全国の水族館のデフォルト・スタンダードなのであろうが、すばらしいのは人の少なさだ。混雑した水族館ほど、ファミリーとしてくたびれるものはないですからね。穴場だった。内部は近年にリニューアルしたと思しく、開設年の古さを感じさせない。
 規模の豪快さでは小樽水族館に、また、アトラクションの多彩さでは苫小牧水族館に負けているけれども、「疲れない」という点で、ホッと気の休まる場所であった。
 なお、水族館内には広い休憩所があるが、食堂はない。しかし駐車場に面して複数の民営食堂が営業していた。

 「モヤヒルズ」は朝9時台に到着したところ、まったく営業が始まっていない。よって、30分くらいで退散。観光ガイドブックに写真が載っている「ウォール・クライミング」は、小学3年生くらい以上でないと、遊びようがないだろうと思った。
 「サマータイム」とか言う前に、観光県の半官営施設が、積極的に、夏季は朝8時からスタンバイするように心掛けなきゃ、どうしようもないでしょ。「朝からやってるなら立ち寄りコースに入れてみようか」と考える人がいるはずなのだから。
 「24時間をいかに売ろうか」という発想が、ダメな観光地には、どうも無いようだ。都会から来る人は、「24時間をいかに買おうか」と考えて来ているのに……。
 もし雨になった場合は、近くの屋内施設である「ねぶたの里」に行こうと考えていた。ねぶた祭りを体験できない観光客に、疑似体験をさせてくれるスペースになっているようだ。しかし今回は偵察をしなかった。ここは朝9時オープンだと書いてある。

 夜越山(よごしやま)には、サボテンの温室と洋ランの温室がある。無料ではなく、ゲートで大人ひとり300百円がかかる。冬の悪天候時の観光コースとしては、悪くないかもしれない。しかし夏に子供を遊ばせようとしたら、ここじゃないだろうと思った。

 オマケ写真は、浅虫温泉の「辰巳館」の3階バルコニーから陸奥湾を写したものだ。正面が「湯ノ島」、右手の独立岩が「裸島」である。中央に「海づり公園」が写っているけれども、利用者は誰もおらず、見かけた2~3人の釣り人は皆、無料の岸壁から竿を垂らしていた。
 青森のねぶた祭りが始まる直前のタイミングであったせいなのか、ガソリンが値上がりしているからなのか、どこへ行っても観光客は少なかった。
 この辰巳館には昭和39年に火野葦平が投宿したときに描いた色紙がある。木造の本館が建てられたのが昭和13年だそうだから、支那事変の2年目でも日本人は田舎の温泉へ汽車で旅行していたことが分かる。
 目の前の「陸羽街道」(国道4号線)は、30年くらい前にはなかったのだろう。扇状に引っ込んでいた海岸線を埋め立てて直線的な道路をつくったのだ。これで浅虫温泉の風情もブチコワシとなった。ダンプカーや大型トレーラーが通る音が鉄筋のホテル内までよく届く。遮音しようとして雨戸を閉め切れば、むろん眺望も遮蔽される。
 たぶん辰巳館の主人は、旧館(本館)の手摺り付きの和室からの眺めが忘れられず、RCで新館を建てるときにも、わざわざ各室に手摺り付きのバルコニーを付けたのだ。しかし道路がこんなに五月蝿いと分かっていたら、別な設計を選んだかもしれない。
 かつての雰囲気の片鱗でも味わおうと思って朝4時台にバルコニーから海を眺めていたら、沖合い遠くから、イカ釣り船のエンジン音が、けっこうな迫力で聴こえてきた。

なっちゃんレラの船内
アムール水上警察用ボートの運転台
2台並べ
モスキヴィッチ1500ccエンジン
なぜか英語の銘鈑
重さ23kg折り畳み鉄舟×2
折り畳み鉄舟
浅瀬用にウォータージェット型もあるという
鉄舟内部
辰巳館3階からの湯ノ島


(管理人 より)

 私はいまだに東京より北に行った事がない。いつかもっと北へ行ってみたいと思っているが、機会があったらこの船にも乗ってみたい。
 ロシア製の折り畳み鉄船に興味のある方が一体どれ程いるのか私には皆目見当もつかないが、見る機会があればやはり、見てみたいのである。


細心かつ不敵な空き巣狙いについてのリポート/2008-7-19

(2008年7月19日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

●細心かつ不敵な空き巣狙いについてのリポート/2008-7-19/兵頭 二十八

 平成20年7月16日の朝6時半過ぎから、7月17日の夕刻5時頃まで、函館市美原地区の自宅を空けていた。夏休み直前で、旅費等が「オン・シーズン」価格になる前のタイミングである。出るときにうちの女房は、台所の窓の施錠を、しっかりしていなかったようだ。
 16日の昼頃、宅配便(光人社からのゲラ)が配達されたものの不在であったために、不在通知のスリップが、郵便受けに半分差し込まれた。〔あとできいたところ、『完全に投入されるとわかりづらい』という客からのクレームが多いために、常にそうしているのだとのことです。〕
 自宅には玄関スイッチの自動点灯装置がないために、16日の暮から就寝時刻にかけ、普段は点灯する玄関前の蛍光灯は、消灯のままであった。屋内にも灯火なし。そして玄関前の駐車場には、いつもの軽自動車なし。またいつもの子供の騒ぎ声もなし。
 16日の深夜、ひとりの男がやってきて、針金とプラスチックのメッシュで構成されたフタ付きの軽量ごみ袋置き箱を踏み台にして、かねて目をつけていたトイレの窓から浸入しようと試みた。このトイレの窓は、夏は、深夜でも数センチ、開けていることがあるのだ。犯人は、それを事前に見ていたのだ。
 〔我が家は袋小路にあるのでストレンジャーが通りすがることはない。つまり男は夜間に自転車などで町内を巡回しつつ、かなりな遠距離から、家々の窓の施錠状況を目視し、記憶しているのか、あるいは近所の日常に溶け込んでいる、深夜徘徊常習者である。出撃拠点は安アパートと考えるのが自然だろう。〕
 しかし、トイレの窓の鍵はしっかりかかっていた。犯人の期待は裏切られた。〔このとき、ごみ袋置き箱は、男の体重で屈曲損壊した。よって以後は「犯人」と呼ぶ。〕
 次に犯人は、台所の窓の施錠状態を確認した。なんと、鍵はかかっていなかった。
 そこで犯人は、屋外灯油タンクの下に置かれてあった幼児用の三輪車を持ち出して、それを台所の窓の下の花壇に据えて踏み台とし、台所の窓から屋内に侵入することに成功した。〔この貸家を管理している不動産屋さんいわく、もし鍵が完全に閉まっていた場合には、窓をカットして入ったかもしれない、とのことです。そのような浸入盗はもはやめずらしくないとのこと。〕
 犯人はダイニングルームのサイドボードの最上段に置いてあった5つのポチ袋(お年玉入れ)に目をつけた。なぜ夏のいまごろそんなものが存在するのかはうちの女房しか知らないのである。ポチ袋の中には千円札が1枚づつ入っていた。犯人はご丁寧にもその千円札を抜き取り、ポチ袋を元通りに戻しておいた。きっと犯人の身長は170センチ以上あるだろう。さもないとこのポチ袋の存在そのものに気付きにくいと思うのだ。〔わたしはちょうど170cmだが、ポチ袋があったなんて知らなかった。〕
 次に犯人は、電話台となっている半透明の引き出し付のクリアケースの引き出しの中を、ひとつひとつ、確認してみた。そこには名刺入れなどがあったが、現金は無かった。犯人は、引き出しを元通りに閉めたが、子供のいたずら防止用のフックは、外したままにしておいた。
 次に犯人は隣の座敷(寝室)に向かった。箪笥の上に、事務用の透明なプラスチックの引き出し付きの整理ケースが鎮座している。いかにも『この中には通帳、印鑑、現金、へそくり等が収納されていますよ』とささやきかけているようである。
 犯人は周到にも、まず、座敷の窓の施錠を内側から外し、2重窓をそれぞれ数センチ、開けておいた。これは、もし誰かがやってきたときに、即座にそこからエスケープするための道を、準備したわけである。プロである。
 そしていよいよ、ささやきかけている整理ケースの中を確認にかかった。犯人はその中にあった複数の事務封筒の中を覗いた。合計6万5000円前後の札が見つかった。犯人は上機嫌になったであろう。現金だけ抜き取ると、丁寧に封筒と引き出しを元通りに戻した。
 ところでわたしは今回の旅行の途中で宿の払いに当てるためにわざわざ数万円のキャッシュを青森県の銀行のATMからおろすという面倒なことをしなければならなかったのだが、寝室に常時こんな大金が置いてあるのならば、なぜ女房氏はそれを持ってくることによってわたしの手間を省いてくれなかったのであろうか? その理由も、女房しか知らないのである。〔17日の帰宅直後、女房はそこに何万円置いていたかを把握していなかった。17日夕方の被害届け額は総計2万5000円で、18日に近くの交番に追加の届けを出した。〕
 この犯人は現金以外にはまるで興味がないようであった。カードや書類や現金以外の物品などからは足がつきやすい。また路上で現行犯逮捕されたときに動かぬ証拠となって即OUTだと分かっているのであろう。絶対にアマチュアではないのである。
 次に犯人は2階に向かった。そこには兵頭氏の仕事場があった。倉庫と化している押入れの引き戸は開けっ放しであった。その中に整理用の引き出し付きクリアケースがある。犯人はまず兵頭氏の蛍光灯スタンドの自在アームを高々と上に伸ばしてスイッチを入れ、クリアケースの中をのぞき、分厚い封筒の中身を確認したが、すべて古い手紙等の束やメモ帖であって、現金は無かった。犯人は、80円切手のシートにも興味を示さなかった。またパソコンのUSBにも興味を示さなかった。
 なぜこの部屋で蛍光灯スタンドをつけるという大胆なことができたかというと、この部屋は、1階と違ってカーテンが閉められていたからである。
 この2階の部屋で犯人は、物音を立ててしまった。兵頭氏が肩たたき用に買っておいた軽量な丸木の棒を、押入れの中間の棚の縁からフローリングの上へ落下させてしまったのだ。現金にしか興味がない犯人は、兵頭氏の部屋には現金の匂いがしないと的確にも判断し、そろそろ汐時と考え、1階に降りて玄関から出て行くことにした。
 ここで犯人は、予期せぬ事態に直面した。なぜか、ドアが、玄関の内側から、開けられないのだ!
 パニクった犯人は玄関脇のトイレにかけこみ、窓のカフェカーテンを引きむしった。しかし、なぜか犯人はそこでまた考えを変更し、そのカフェカーテンとレール棒をにぎりしめたままトイレから出て、トイレのドアを閉め、玄関のタタキに立って慎重に2重ロックを操作した。〔考えを変えた理由は、犯人のガタイがデカいからだと思う。トイレの窓は、身長170センチで体重63キログラムの兵頭氏には容易にすりぬけられるサイズだが、胴まわりがもっと大きければ、ためらうであろう。〕
 じつは、この貸家は建て付けが悪いのか、玄関ドアの2重ロックの1つが、外側からは、通常の力では、かけられない。そのため兵頭氏は、しばしば、1つのロックしかかけずに外出し、今回もそうであった。〔ちなみに警察官氏によれば、このドアロックはピッキングには強いタイプだということです。〕犯人はそんな戸別事情は知らぬから、2つのロックを旋回させた。すると、1つは外れるが、1つは逆にかかってしまい、内側から玄関ドアが開かないという理解不能な状況に陥るのである。しかしベテランの犯人は、落ち着いて考えてついに真相に気付いたのであろう。
 玄関を出た犯人は、台所の窓を閉め、窓の下で踏み台にした三輪車をきちんと元の位置に戻した。ところがカフェカーテンとレール棒をトイレに戻す気にはならなかったと見え、トイレの窓の下、ごみ袋置き箱の脇に、そのカフェカーテンとレール棒を投げ捨てて、現場を立ち去った。
 さて17日夕刻に帰宅した兵頭氏は玄関のカギが開いているので変だなとは思ったが、この家には盗むような価値のある金品はないと日頃からタカをくくっていたので、空き巣にやられたと最初に気付いたのは女房氏であった。それは台所のカフェ・カーテンが横にひきよせられており、なおかつ窓近くの物品も移動させられていることから、浸入されたと感づいた次第であった。〔人から聞いた話ですが、窓を出入り口にする泥棒は、窓の周囲のゴチャゴチャした物品が嫌いなのだそうです。よって読者の皆さんには、「水の入った倒れ易く割れやすいガラスの鉢植え」などをやたらたくさん並べておくことをオススメいたします。〕
 女房氏が110番通報すると、5分か10分くらいで2人の制服警察官がやってきてくれた。またそのあとから続々と、証拠採集の警察官氏数人と刑事までがやってきてくだすったのには、恐縮した。たまたま珍しく他に事件が起きていい日だったのだろうか? わたしは「被害はお恥ずかしいような小額です。他の重大事件でお忙しいところ、申し訳ないです」という正直な気持ちをその場で伝えずにいられなかった。これは本心である。
 わたしは今の日本の警察が人手が足らず、住民のわがままもあって非常に多忙であって、現場の警察官諸氏は心身ともにヘトヘトだと聞いているから、『まあこの程度のコソ泥事件では、1人か、よくて2人の警察官氏が、かたちばかり指紋採取をして、被害届けだけを受理し、そのままお宮入りとなるのだろう。それでも有り難いと思わなくては』と覚悟していた。けれども、そんな予断は間違っていた。北海道警察のモラール(士気)は、すくなくとも函館に限れば、尋常でなく高いと実感させられた。
 なにしろ体格がすばらしい。まるで選りすぐりだ。しかも、あきらかに長年、剣道や柔道で鍛えないとこういう手にはならないだろうなという手をしている。組織文化の厳しさは、やっぱり陸上自衛隊よりはずっと上だ〔話には聞いていたが、間近で観察する機会はいままでは得られなかったのです〕。
 若い警察官氏がキッチリと被害届けを作成した。先輩の警察官氏がその書式を指導していた。「このひとたちには大学院卒並と同じくらいの月給を支払ってやってくれ。定員も最低2倍以上に増やすべきだ」と、わたしは心から願うものである。
 コソ泥がつかまりにくい理由も、今回、呑み込めた。被害者が被害に気付いたときに動転してしまい、的確に「ここを触られていますから、ここの指紋を採っておいてください」と、警察官に指示できないわけである。警察官の皆さんも忙しいから、やってきてくれるのは、まず当日の1回きりだ〔うちは例外的に18日にも2名の警察官の方をわずらわせてしまった〕。
 あなたは110番通報をしてから約10分間のあいだに、自宅の外と内側を自分で丹念に見回って、泥棒の「動線」を再現することができますか?
 ここにおいて、なぜ犯人が封筒や引き出しや、浸入した窓を元通りにして去るのかも、理解できるのである。それはふだんボーッとしている被害者が被害に気付くのを遅らせ、また、被害に気付いたときの混乱を大いに助長する効き目があるのだ。そのため、浸入盗犯が証拠をいくつか残したとしても、その証拠を警察官が確保できる率は、すこぶる悪くならざるを得ないのだ。
 今回掲載する写真は、8月16日夜に函館市美原の兵頭の留守宅に侵入し窃盗を働いた(おそらくガタイの大きな)男が残していった明瞭な靴底の跡です。これをわたしが発見したのは18日の午前で、まったくの偶然からだった。
 この靴跡は18日に警察官氏がわざわざ写真を撮影し、かつ、泥も採集してくれましたが、初回通報のときではありませんから、わたしとしては、これが捜査の資料にはならずに無駄になってしまう可能性を懸念いたします。それで、わたしが独自に撮影したフットプリントを、地域の皆さんへの警報として、公開したいと思いました。
 手際の良い犯人も、これを拭き取ることは考えなかったようです。ちなみに、なぜか室内には泥はほとんど落ちていませんでした。

犯人の靴跡1
犯人の靴跡2
犯人の靴跡3
犯人の靴跡4
犯人の靴跡5


(管理人 より)

 自宅に入った空き巣狙いの足跡をup。それが高度情報化社会に生きる者の心意気なのである。嘘。
 そうはいっても、私は遥か大阪から、函館で絶対に許されぬ事をしでかしてしまった犯人が、逮捕されて懲役800年くらいになると良いなと祈っている。


予言 日支宗教戦争


台場山に砲台なんてあったのか? その現地検証

(2008年6月8日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

2008-6-3/兵頭&石黒

(兵頭二十八先生 より)
 川汲[かっくみ]峠、およびその脇500mにピークがある「台場山」(標高485m)は、函館の五稜郭から北東へ15kmほどの位置にあります。
 明治1年の10月(旧暦)、今の森町の「鷲ノ木」に、榎本軍の艦隊が、陸戦隊を上陸させました。
 土方歳三はそのうち400人ほどを率いて、太平洋岸を東進します。
 そして川汲温泉の下流で内陸方向に転じ、箱館へ通ずる峠道(今の道道83号線とコースが概ね重なる)をラッセルしながら南進し、旧暦10月24日に川汲温泉に投宿したといいます。
 土方は、まずそこを本陣にして、支隊を先行させ、夜のうちに、川汲峠に所在していた50人ほどの哨兵を鎧袖一触で追い散らすと、翌日、粛々と湯の川まで下りてきて、さらにその後に、榎本軍本隊が陥落させた五稜郭へ入城し、本隊と合流しました。

 その当時、新政府軍(含む、旧松前藩士)が、到るところに哨所を設け、哨戒・連絡用の役人を散開的に派していたことは、間違いがないでしょう。
 けれども、この土方軍のコース上では、土方軍との間には、ほとんど真面目の戦闘は生じなかっただろう、と想像することができます。

 といいますのも、まとまった人数の部隊を何日間も駐留させるだけの後方兵站を、準備できたはずはないのです。季節は、新暦だと12月初旬でした。当時の日本軍(武士団)は、精神面でも装備面でも、蝦夷レベルの寒気に負けてしまっており、集落を離れては、部隊の野営なんてできませんでした。

 土方軍が、川汲温泉を占領してしまえば、あとは、そこから函館市街の湯の川温泉まで、ほとんど山林ばかりで、ロクな人家もありませんでした。道路は、駄獣だけが通れる、羊腸の小径があっただけ。荷車など使えません。しかも積雪期です。川汲温泉以外、夜に寝られる場所は得られなかった。旧松前藩主体の新政府軍は、策源である箱館港から25km以上も山道を糧食や弾薬を運んでいって間道の防ぎを万全にしようという気に、そもそもならなかっただろうと思われます。

 おそらくは、川汲温泉以北の集落での防衛が失敗した以上は、川汲峠で400人からなる土方軍をくいとめようとも思わず、単に「物見」用の役人などを置いていただけでしょう。役所組織ですから、雑用係・荷物持ちも含めれば、50人くらいもいたのかもしれません。

 台場山は、別名「毛無し山」とも言ったそうです。いつからそう呼ばれていたのかが問題です。自然に尾根線に樹木が生えていない山は、道南のあちこちにあります。尾根より少し下がれば、樹木がある。炭焼き用の伐採や焼畑などの人為によるものではなく、ほぼ周年の自然の寒風が、内地人の想像を絶して酷烈なわけです。しかし台場山の場合は、哨所とするために山頂を伐採して、それ以後、「毛無し」になったのかもしれません。
 台場山は、ピークを「不毛」にしておけば、360度の眺望が得られました。しかも、川汲峠のすぐ脇にあるわけですから、この峠道ルートに一箇所、歩哨線を設けるとしたら、まさに屈強のポイントでした。

 しかし、例の「二股口」のような、陣地防禦に適した地形かといえば、大いに疑問があります。上述のように、後方連絡線が甚だこころもとないので、わざわざ築城をしてみたところで、弾薬・糧食の日常的な補給が得られません。もし敵軍により浸透・迂回されれば、簡単に後方策源から遮断されてしまう、そんな「孤塁」です。北から南へ攻めてくる、まとまった部隊を、ここで阻止しようと試みることは、合理的ではなかったでしょう。

 ですから、この台場山の山頂に、榎本軍が、新政府軍の逆襲に備えて、大砲4門を設置していた、とする函館市の歴史解説は、何かの間違いではないか、と兵頭は疑うのです。
 あるいは、山頂の人工的な窪地の痕跡が、四稜郭を想起させるため、つい、四稜郭の解説情報が、混入してしまったのではないでしょうか? 

 榎本軍が、川汲温泉に歩哨の1コ分隊を配して、2名くらいづつの輪番交代制で、台場山上から物見をさせていた、ということはあり得ましょう。
 さらに、山上に、旧松前藩の旧式大砲や大鉄砲を据えて、緊急連絡用の「号砲」としていた可能性もあったでしょう。つまりは狼煙の代わりですね。
 号砲であっても、いちおう大砲があれば「台場」と呼ばれたことでしょう。

 今回は、そんな疑惑の現地を、確認に出かけてみました。以下、写真でご報告します。

道道83号線の左入り口

 私有車で、函館市街から「函館南茅部線」を川汲方面へ走る。矢別ダムを過ぎたあと、道路の左側を注視して行くと、この「旧道」の入り口を発見する。(もし川汲トンネルまで到達してしまったら、見落として通り過ぎたことになる。)
 この旧道は川汲トンネルの開通前はバスも通っていたという。つまり、明治元年の駄獣道と完全に一致しているわけではないことは覚えておきたい。
 黄色い板に「4209m/20m」と書いてある標識は、尾根上のNTT中継所までの道のりを表しているらしい。上の数字が「のこりの距離」、下の数字が「すでに通過した距離」。だいたい200mおきに立っているので、よそ者のハイカーには心強い案内だろう。
 このゲートは鎖錠されているけれども、2輪車ならば支柱の脇をすりぬけることができる。地元民が、原付バイクで山菜を運搬しているのに、途中で擦れ違った。

入り口の看板

 見ての通りの注意書き。晴れた日であれば、マイクロ中継施設が山道から見えるようだ。本日は小雨で、山全体にガスがかかっていた。
 他に、熊が出没するので入山するな、という看板もある。また、「この道は夫婦で」云々という私設標識があるという情報を事前に仕入れていたが、今回、途中で目にすることはできなかった。

峠の道標

 「429m/3800m」という里程標識を過ぎると、まもなく、この道標が立っている。ここが旧「川汲峠」で、おそらく明治元年時の古道と、位置はそれほど違っていないだろう。

分岐点の看板類

 ここからは、舗装道路を離れ、未舗装の車道に入る。草露で足元が濡れるのを覚悟しよう。

第二の分岐点

 かつて登山者を迷わせたという、この白い標柱の矢印は、赤ペンキで抹消されていた。入り口まで200Mではなく、まさにここが入り口なのだ。抜き捨てた方がよいのではないか? 白い標柱の背面をみると、「H九 函館道有林〔管理センター?〕」と読めた。ここから、未舗装の車道を離れて、急斜面の登攀にかかる。

台場山山頂へ

 旧川汲山道入り口からここまで、野郎2人連れの足で、1時間強であった。
 3本の標識が立っているところが、台場山のピークだ。狭い。
 明治2年4月に土方隊が青銅砲4門の台座を築造したと書いてあるのが読めるが、土方隊がこの毛無山あたりから新政府軍の警戒隊を駆逐したのは明治1年であり、また、明治2年にあらためてここを「台場」にしたのは五稜郭の榎本政権であって、そのときは「土方隊」は関係はなかろう。
 4月9日には新政府軍が江差の北方の海岸に上陸しているから、榎本政権が焦っていたのは確かであるが、焦点はすぐに大野街道や木古内へ移ったはずだ。ますます、川汲峠に築城などしている暇はなくなったであろう。

山頂凹み

 山頂にはあきらかに人為的に「カルデラ湖」を掘って、その「外輪山」を胸壁にしようとしたのではないかと見られる痕跡が残っていた。しかし地積は著しく狭く、反動で後退するタイプの野砲を4門も密集させても合理的でなかったことは一目瞭然。小銃兵の配置や、操砲員が複数いることや、弾薬の集積場もかんがえると、今どきの迫撃砲サイズのものを1門置くのがやっとこなところで、それですら、戦術的価値は疑われただろう。

山頂から函館市街方向

 どなたか新撰組の愛好団体が立てたとおぼしい右の看板に「函館戦争の火蓋を切った地」と見える。が、大鳥啓介軍が七飯町の峠下(いまの昆布館があるあたり)で本格交戦をしたのが明治1年10月21日(旧暦)だったそうだから、そっちの方が早かったのではないか。
 ちなみに、近世以後~近代以前の日本の合戦の「夜襲」は、闇夜に火縄銃隊が照準もつけずにバンバンと撃ちかけて気勢を挙げて敵を退散させてしまうもので、鎗や刀で肉薄するようなものではなかった。これは『名将言行録』を精読すると、わかります。
 なお、「台場山」の看板の下には「火の用心」と書いてあったらしいのだが、既に判読不明状態である。

川汲温泉方向

 この500m下が川汲峠。そこから左へ4kmほど行けば、川汲温泉のはずである。小型の旧式大砲では照準すらつけられぬ距離だ。

外輪山の小ささを見よ

 こんなところに、いかほど小型とはいえ大砲を4門も並べたと思いますかい?

垣ノ島A遺跡から出土した足形付土板(大船遺跡の展示パネル)

 これはオマケ。川汲の近く、南茅部に、垣ノ島という地名があり(海の島ではなく川沿いにある)、そこから6500年前の縄文時代前期の墓が集中して見つかった。中に、嬰児の足型が刻印された土板が副葬されているのが判明した。こういう土板は、それまでも知られてはいたが、用途が不明であった。成人の骨とともに墓から出てきたことで、古代日本人の子煩悩ぶりがハッキリしたのだ。
 つまり縄文人は、自分の子供の足型を取り、その土板を囲炉裏で炙って固くし、それを自分が死ぬまで、竪穴住居の内壁に吊るして眺めていたのだ。そして40歳代くらいで本人が死んだとき、本人がずっと大切にしていた土板が、墓に一緒に投入されたのだ。
 腹が減ったら他人と子供を交換して食ったというシナ人との、何という差異であろうか。

鹿部(しかべ)間歇泉

 これもオマケ。鷲ノ木から川汲まで歩く間に、土方軍は鹿部温泉郷を通過したはずである。この間歇泉は大正13年の工事で噴出したものなので、箱館戦争当時にはなかった。

おしまい


(管理人 より)
 私は兵頭ファンである。
 兵頭本『[新訳]孫子―ポスト冷戦時代を勝ち抜く13篇の古典兵法』の2刷が出た事を全く、喜んでいるのである。
 既に兵頭二十八先生は知る人ぞ知る人物ではない。そして『兵頭二十八』は必ずもっと有名になると私は盲信しているのである。
 有名になっても全くビタ一文も私に得はない。それが私が純粋なファンたる所以であり、私はなんて良いヤツなんだろうと自画自賛したりもするのである。ともあれ、台場山に砲台なんてあったのか? それをアナタは知りたくないですか?


[新訳]孫子 ポスト冷戦時代を勝ち抜く13篇の古典兵法


函館山要塞のマイナー編

(2008年5月24日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(探索日=2008-5-18、with石黒氏)

(兵頭二十八先生 より)
 函館山要塞は現在、その約半分ほどが地元散策者のために整備・開放されているのだが、立ち入りが推奨されていない場所も多い。かつて函館市土木部のために要塞全域の図面を作った測量士さんの二代目氏を伴って、その現状を撮影してきた。(測量図はPDFになっており、コピーできます。)

ここに入り口が

 まずは、ロープウェイ山頂駅の横の展望広場。団体観光客が記念写真を撮るこのスポットに、地元民もほとんど知らない地下要塞への入り口があった。

STV送信施設脇

 この通り柵がしてある。

いったいこの先に何が

 この天井部分は、戦前はもちろんなかった。

真っ暗、照明なし

 懐中電灯なしでは咫尺を弁ぜず。

ダンジョンです

 要塞の中心的な司令所跡だけあって、廊下が広い。

こんなに広く

 行き止まり部分は、こんな風になっている。知りませんでした。

岬の端が鞍掛山

 次は勇躍、津軽海峡に最も近い高地へ向かわんとす。

七曲から鞍掛山へ

 登山道から少し逸れると、地元の人が山菜取りに往来する踏み跡があり、植生をかきわけつつそれを辿ると、まず戦前の炊事場もしくは便所のようなところを見る。

鞍掛にも砲座があった

 つづいて、重砲を1門くらい設置したと思しい砲座が。リセス部分は即応用の弾薬を並べるところ。近くには地下棲息部もあるが、見慣れた構造だったので、写真を省略。

函館要塞最南端の棲息部

 ここは、鞍掛山の尾根線の端、監視&弾着観測用陣地の真下である。

その内部

 たいした広さはない。哨兵が寒気や風雨を凌いだのだろう。

上がってみると、これだ

 いきなり崖っ縁! 海面までの落差113mである。これじゃ観光コースにはできないと分かる。

ここから海峡を見ていたのだ

 植生が繁茂しているが、これを刈り去れば、青森県の山まで一望であろう。

かつて有蓋たりし支柱跡

 たぶん戦中は、鉄板で天井をこしらえてあっただろう。したがって哨兵は雨ざらしではなかったはずだが、ガラス窓があるわけでなく、風雪の日は、眼鏡を持つ指が凍えてたいへんだったろう。

左はもう崖、火サスの世界

 監視&観測壕は、ご丁寧に複数のポイントに構築され、連絡壕で結ばれていた。

眼下に立待岬

 もしロシア艦隊が津軽海峡を強行突破しようとした場合、当要塞の備砲では、おそらく阻止できなかったろう。しかし敵に「通峡はムリだ」と思わせたら、用は足りたのだ。

七曲登山道入口の防空壕

 日露戦争中は山の下の方には「棲息部」など造らなかったから、WWII中に急遽、準備する必要を感じたのだろう。

鞍掛山は113m

 岬から見上げるとこんな感じで、尾根に要塞施設があるとは、分からない。しかし米軍の偵察機からは、バレバレだったらしい。航空写真も残っている。

おしまい


(管理人 より)
 私は、廃村ないし廃ビルを一つ丸々会場として使えるサバゲー場を作ればきっと儲かるんじゃないの?と信じている者なのだが──私はサバゲーを一度もした事がないので、単なるたわ言だが──こんな要塞が近場にあるのなら、きっともう少し利用価値などあるんだろうなあと思う。本当は全然無いかもしれないけども。
 因みに、サバゲーのインドアフィールドなら既にレンタルしている所もあって、そんなに大もうけしているようにも見うけられない。あらま。
 それでも函館山要塞、興味深い場所である事に疑いは無い。私は一度は観てみたいのである。