平成19年度・防衛省オピニオン・リーダー視察

(2007年10月26日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

平成19年度・防衛省オピニオン・リーダー視察
《三沢(空自基地)2007-10-18&八戸(陸自駐屯地・海自基地)2007-10-19》

八甲田-猿倉温泉 編

十和田バスから八甲田

 今回のツアーは個人的に10月17日、南八甲田の猿倉温泉から始めることにした。函館から三沢に直行する汽車の便が、入間からC-1が飛来するタイミングより2時間も早いものしかないため、わざわざ駅まで迎えに来て下さる基地広報の人たちに余計な負担をかけてはいかんと思ったわけ。前日に青森県内に入っておき、朝10時代の十和田観光電鉄で乗り込めば、C-1便の三沢到着とだいたい同じ時刻になるはずだ。
 青森駅前のバス停広場に、高速バス乗り場があって、その案内所(ここでも暇つぶしができる)で「十和田湖」方面行きのバス切符を買って12時発のバスに乗る。
 バスで猿倉に直行すると、着くのは13時23分となり、ちょっと早い。そこで12時59分に途中下車し、八甲田ロープウェイに初乗りと洒落込む。ここは、怪著『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』で無念にも取材をパスした、公共交通アクセスがあまりよくないところだ。山麓駅には常時、数台のタクシーも待機している上、レストハウスでチープなメニューを注文すれば長時間の暇つぶしができる感じだったから、安心だ。

RWから雲谷方面を見る
八甲田RW山麓駅
八甲田山頂の天候

【上からの紅葉】
 交走式のロープウェイが、このハイ・シーズンは15分間隔で運行されていた。13時ちょうどのには間に合わぬので、13時15分のに搭乗。搬機は100人ちょっとが乗れる、大型であたらしめのものだが、ホーム進入後の強制揺れ止め装置がない。そのため、昔のロープウェイと同じように、ホーム直前で大減速して、自然に揺れがおさまる間、ノロノロと徐行する。交走式の場合、これが最大回転率の制約となってしまう。とはいえ八甲田の場合、観光ピークは秋の紅葉時しかないから、余計な投資はできないのだろう。
 紅葉と海が一望できる架空索道は全国でも有数ながら、9合目くらいで雲の中へ突入。これが山岳観光の博打たらざるを得ぬころで、天気が悪ければもうどうしようもないわけだ。地元民はこのリスクを弁える。それで、八甲田よりも手前の「雲谷[もや]ヒルズ」のホテルが、陸奥湾の眺望と、当日の行動の選択自在度の高さの両狙いから、人気がある。

山頂駅から

【山頂駅】
 山頂駅から一歩出ると、霧の中だし、風は吹くし、気温は2.8℃と来た。頭の防寒装備の準備を忘れた小生は、荷物が重いこともあり、早々に退散することに決めた。なお、山頂駅にも軽食喫茶店があるが、15分待つのにコーヒーは無用だ。
 山麓駅のレストハウスで(たぶん業務用レトルトの)カレーライスを掻き込みながら時間をつぶし、14時39発の十和田湖行きのバスが来るのを待つ(この便を逃すと、次のバスは16時34分まで来ない)。驚いたことに、やってきたバスの運転士は、12時59分に降りた前の便の運転士と同じであった。青森から十和田湖まで3時間弱のはずだが、いったい、どんなシフトなのか?

バス停から猿倉へ

【舗装された小径】
 15時03分に猿倉温泉のバス停に到着した。バス停から400mくらい、ご覧のような舗装された私道(?)を歩いて下って行く必要がある。途中、乗用車が何台も上ってくるのだが、これは、15時までやっている「立ち寄り湯」を利用した観光客たちであろう。

猿倉コテージ外観
コテージ内1
コテージ内2

●猿倉温泉は冬は6mの雪に埋没し、休業する。本館の隣に離れ(コテージ)がある。中が左右に二分割されており、吹き抜け二階構造で、ロフトのような二階部分に寝台が並べられ、一階の裏口テラスに各固有のミニ露天風呂がある。硫黄臭く、スケール(湯の華)が混ざりまくりな「元湯」。しかし洗い場が吹きっ曝しなので、秋季は、単に身体を温め直すという用途にしか向かぬと思った。夏場なら、面白いだろう。なおわたしは「家族+嫁の母」で予約したが、当日に子供が熱を出してしまったため、けっきょく単身で大人3人分の料金を払ってここで一晩過ごす事態となった。テレビはあるが、映るのは無料BSのみ(ケーブル契約なし。なにしろ電灯線が引かれておらず、自家発電だ)。

猿倉温泉

●本館の温泉は、外来客の立ち寄りにも開放される露天風呂と、宿泊客が利用できる「まほろばの湯」(内風呂+露天風呂)があり、後者が断然オススメだ。深夜、男湯の露天風呂から、北極星を正面に、市街地の「光害」を受けない無数の「男の星座」を、怖いくらいに眺めることができた。

猿倉から南八甲田

【南八甲田】
 19日朝、猿倉温泉の玄関付近から望む南八甲田の尾根。ところでわたしは朝食の焼き魚にサバの切り身を使うような旅館の食事を褒めることはできない。サバを出すぐらいならメザシ一尾を出して欲しいとマジで望む(それに目下、サンマがものすごく安いじゃないか)。しかし今回は体調がいつになく良く、ペロリと平らげた。


【十和田バスから】
 前日に頼んでもらっていたタクシーに、朝7時45分に猿倉温泉から乗車し、「十和田湖温泉郷」のバス停に向かう。そこから十和田観光電鉄バスの、8時40分発の、電鉄十和田市駅行きに、乗ろうと思っていたわけだ。ところがタクシーは速く、その前便の8時09分発のバスが来る前に、「十和田湖温泉郷」のバス停へ着いてしまった。タクシー料金は¥4110- であった(ちなみに尋ねたら、猿倉から三沢まで、通しでタクシーに乗れば、料金は1万円くらいらしい)。このバス停には屋根付きの待合ベンチがある他、目の前がホテルなので、もし長時間待つとしても、安心である。なお、地元(焼山周辺)のタクシー乗務員は、八戸行きのJRバスには詳しいものの、十和田観光電鉄バスには至って無知なようだったので、三沢へ抜けようとする旅行者は要注意だ。十和田市を横断した印象は、非常に良好。ここも住むのに佳い場所であると直感する。


そして三沢基地へ

三沢基地-八戸基地 編

三沢旧海軍レール
廃線間際の三沢の鉄道

【三沢基地内】
 電鉄の三沢駅の改札に空自の広報班長の准尉が待っていてくださり、JR三沢駅の裏口から空自のマイクロバスで基地へ入った。ここで附言しておく。地方の駐屯地/基地におられる「広報班の准尉」には三自衛隊共通したキャラクターが歴然としてある。それは、若い時の職種とはまったく無関係だ。わたしなどは二士入隊した経験があるので、准尉といえば徒弟の親方で、どうみたって三佐以上の「神様級」ということがよく分かっているから、その人たちが愛想よく広報の接待をしておられることに、心から恐縮するのみである。滑走路に来たら、なぜかF-18が四機いて、それは昼前後に離陸して行った。入間からのC-1は、追い風だったのか、予定より早く駐機していた。
 ここに掲げる2葉は、廃線マニアのために記念撮影(10月18日)した。三沢基地は昭和13年から旧海軍が建設し昭和17年にオープンした基地で、戦前から省線の引きこみ線が敷設されており、これまでずっと利用されてきた。それが、とうとう全部、跡形も無く撤去されることになったと聞いては、どうしても撮影しておかぬわけにはいかないだろう。燃料輸送は、今後はタンクローリーだけでするらしい。自衛隊の敷地には、八戸港から地下パイプラインが通じている。

三沢のF-2スクランブル

【F-2スクランブル】
 三沢は沖縄や岩国と違って、狂犬(海兵隊)が住まないから、住民の基地感情は良い。数ヶ月前に退役空軍人による顔見知りの女殺しが一件あったものの、問題にされていない。しかし内部を一巡すると、小川原湖畔に米軍家族専用のプライベートビーチ(日本人漁民は接近禁止)が設定されておるは、米軍人専用の広々としたゴルフ場はあるは、で、あきれるばかり。ふた昔前の在日米軍人は貧乏人のオーラが出ていたが、今はメタボ家族の満足感に変わっていた。「間借り」の空自はなんとも肩身が狭そうだった。
 象のオリは現役であったが接近はできず。地下壕構造のSOC/DCは見学を許された(当然、撮影禁止)。セクターとは航空方面隊のこと(三沢は北海道上空を統轄)。ディレクションとは「あああせよ、こうせよ」である。北海道の西海上で実機を使って空戦訓練中の「味方」機に対し、地上から口頭の英語でリアルタイムに敵情および指示を送るという訓練をしていた。しかし東洋人の英語発音にうるさいオレに言わせると、こんな不明瞭な発音の英語を使うなら、断然、日本語で指示を飛ばすべきである。すでに隣室には業者が入って、バッヂ→ジャッジの更新設備中であった。
 F-2は、先般のボロ露探機のリレー追尾のため、やはりスクランブルしたそうである(アラートの役はF-4と週替わりになっている)。アラート待機要員のGスーツの裾には黒いフェルト(?)のパッチが当てられている。これは、大急ぎで狭い後傾コクピットに滑り込むため、擦り切れ対策としてパイロットが特注しているらしい。写真は、スクランブルの真似事(離陸せず)。これでも大サービスだろう。
 この前の三沢航空祭では、車輛にモデルガンを積んで入ろうとしたバカな日本人がいて、米軍MPに追い返されたそうである。また、過去に火薬を運んだことのあるトラックで入ろうとした日本人が、やはりゲートで追い返されたという。米軍の飼っている火薬探知犬が、その車両の前から動かなかったという。犬、えらい。
 犬といえば、三沢基地では米軍の歩哨は実弾警備だが、自衛隊は警棒だけ。それを補うため、ある箇所では警備犬を放しているようだ。

ホーク模型

【ホークのカッタウェイ模型】
 陸自の八戸駐屯地にはホーク部隊がある。最新バージョンはフェイズドアレイ・レーダーではないものの、その代わりに強力なビームなので、このパワーに勝てるECMは難しかろうとの話だった。敵機は百数十kmで発見し、40km以内で交戦する。もしSSMに転用すれば、射程のポテンシャルは60kmになるらしい。六ヶ所対空射場ではL-90の実射もやっている。
 そう、なんと、まだL-90が現役で岩手に1個ユニットだけ残っているのだ。全国の廃止部隊から、最も砲身の散乱度が少ないモノをカニバリズムで掻き集めて装備しているので、命中率は驚異的に良いらしい。敵の小型RPVへの対処にホークなんか発射できないので、近接信管をつけたL-90はまだ役に立つはずだというお話であった。(お恥ずかしい話であるが、小生は、日本のL-90は近接信管のついたタマは装備していなかったとばかり思っていた。この話は、かつてL-90部隊の指揮をしていたこともある現役将校から直かに承ったので、嘘ではあるまい。)その岩手のL-90部隊も、来年(平成20年)には、とうとう消える予定である。廃品のL-90は溶断してスクラップにされる。

対地ロケットの子弾

【空対地ロケット弾の子弾】
 ASR、つまり直径70ミリの空対地ロケット弾は、低空のヘリコプターから斜め上に向けて発射した場合のポテンシャルとして、射程が10kmにも達する。しかもその弾種は、1本から9個の子弾がバラけて落ちる、ミニ・クラスターである。子弾はご覧のように立派な銅板張りのホロー・チャージ(対装甲穿孔用途)で、しかも、筒体側面の内壁にはタテヨコに溝が切ってあるから、対人馬用の破片効果も十分だ。エア・ブレーキは、3本足のヒトデのような形態であった。信管はもちろん弾尾にある。このASRを日本の演習場で発射するときは、単射しか許されない。そこで、実戦的なバラージ射撃は、わざわざ米国の射場で実施するのである。

地上ランタン

【ランタン】
 画面左下に、白と赤のランタンが置かれている。これはAH-1が飛行場以外の場所へ夜間に降着するときに、あらかじめ地表で左右にならべておいて、場所を指示してやる器材。
 ヘルメットはズシリと重いもので、空中で機体の行き脚を減速させると慣性で首が前のめりとなり、筋肉がよほど疲労する由。また、双眼鏡形のノクト・スコープは、ほとんど、トイレットペーパーの芯から覘く程度の視野しかない。これでヘリを操縦するのは非常なストレスが伴う由。そりゃそうだろうと同情する。
 バイザーには右目専用のモノクルがある。これを下ろすと、ヘルメットの向いた方向にチン・ターレットの20ミリ・バルカンが指向されるようになる。つまり、前席のガナーがTOWを誘導中に、後部席のパイロットが、20ミリを発砲できるわけ。
 余談だが、雑誌の『TIME』の暴露報道によると、オスプレイはどうしようもない欠陥品らしいね。低空低速でエンストしたときにオート・ローテーティングにならぬ構造のため、乗員全員死亡まちがいなしだと。また、自衛火器として3銃身のキャリバー.50をチン・ターレットに装備し、それをコー・パイのバイザーで指向できるようにし、後部ランプドアの内側には7.62ミリ機関銃を1梃、装備すると書いてあった。

カトケンOH
OH-1尾部
應蘭芳OH
AH-1
OH-1[1]
OH-1[2]

【AHとOH】
 AH-1はガナーは機体左側から乗り降りする。しかしOH-1では、パイロットもガナーも機体右側から乗降。ちなみにOH-1では前席が操縦者で、後席が偵察者である(AHと逆)。もちろん、AHと同じく、どちらでも機体を操縦でき、また、操縦免許なしでは、偵察者にもなれない。
 OHはグラス・コクピット化していて、すでに製造の終わっているAHとの計器類の世代格差は歴然としていた。座席まわりの寸法の余裕はOH(偵察・観測ヘリ)の方があり、AH-1は米国人には両足の横が窮屈じゃないかと思ったが、さすがにラダー・ペダル(尾部ローターの推力を変える)までの長さは米人用にできていた。
 航続力はOH-1の方が長く、3.5時間。AHよりも先に現場に進出している必要があるからだ。
 AHの作戦は常に2機単位で、左右に展開し、互いに視認できるギリギリの間隔を保って連携運動する……はずなので、どうしてAH同士の接触事故が、演習空域で起きたりするか、さっぱり分からない。

八戸展示タマ
八戸展示弾薬
真鎗木銃
八戸青龍刀
イタリア小銃
イランのスポーツ銃
トド撃ち銃
トド猟銃
八戸不発弾

【防衛館の展示品の数々】
 八戸は史料の宝庫でもあると直感した。「防衛館」の図書類では、南北戦争(津軽と南部藩のイザコザ。ちなみにディープな津軽方言は南部人には聞いても意味が取れぬという)関係に、貴重なものがありそうだ。地元のマニアが詳細な書目リストをつくってインターネットにUPすべきだと思う。
 実物では、この「トド射ち銃」だろうか。たぶん、端艇の舷側に尾部を押し当てて発射するのだろう。函館の北方海洋博物館にも、これは置いてない。
 旧軍の長木銃の先に真鎗の穂がついているのも激しくレアである。これは在郷軍人が本土決戦用に作ったと思う。
 東北にはB-29の空襲がなかったので、こんな貴重品がたくさん残っているのだ。「防衛館」の入り口に展示してあるB-29の不発弾は、たぶん、地元から掘り出したものではあるまい。

八戸ジオラマ1
八戸ジオラマ2

【防衛館のジオラマ】
 個人的に最高に笑わせて貰ったのが、この大ジオラマだ。なんと米軍と自衛隊が入り乱れ、着上してきたソ連軍を相手に「共闘」している。しかも老眼のせいか、米軍の戦車が、「ガン・ランチャー」(シェリダンやM60A2のアレ)装備の、ターレットにリアクティヴ装甲張りまくりの、摩訶不思議なものに見えた。とにかく、この駐屯地に模型マニアの隊員がいることは分かった。さらに頑張って欲しい。いや、このジオラマの規模を10倍くらいにしたら、きっと名物(呼び物)になるよ。

八戸隊員食堂

【隊員食堂】
 隊員のメシは業務隊がつくる。各駐屯地で伝統があり、美味いところはレシピが受け継がれ、定評が立つ。たとえば八戸の隊員食堂の場合、ラーメン(太緬・縮れ・鰹ダシ)をつくるとなったら、数日前から仕込みを開始するのだという。うらやましいね。試食の機会を得なかったのが残念だ。

150kg対潜爆弾
対潜150キロ爆弾

【海自八戸基地のP-3C関係】
 平成11年3月24日に、能登沖で北鮮の工作船に150キロの対潜爆弾を投下したことがあったが、あれをやったのは、この八戸の海自基地から飛び立ったP-3Cだった。安全を解除する風車がよく分かる。
 爆弾倉は、P-2Jとは違い、機内からアクセスはできない。これは、機内が与圧されている関係である。
 なにしろ高度60mで飛ぶ場合も多い哨戒機だから、双発だと、1発停止のときにリカバーができない。4発なら、エンジン2基が停止しても、海に突っ込まずに済む。PX(次期対潜哨戒機)への期待は大きいようであった。

P-3C洗濯中

【P-3Cの洗濯】
 八戸の滑走路は、東端が海に向かっている。画面の右側の煙は、鋼鈑工場の煙突。左側の煙は、チップから紙パルプを造る工場の煙突。そして駐機場の奥では、帰投したP-3Cが真水で塩分を洗い落としている水煙が見える。これは、機体が洗浄場に進入すれば、自動的に噴水がかかる仕組みである。
 画面のフレーム外、ずっと右手にある八戸港が水深12mあるかどうかは知らないが、過去にイージス艦が寄港したことのある港湾ならば、12mあると思って間違いない。というのは、今の軍艦で水深12mを必要とするのは、バルバスバウがソナーで肥大しているイージス艦ぐらいだからだ。
 P-3Cは、八戸からハワイまで、他のトラフィックを気にすることなく、どこまでもまっすぐにオートパイロットで飛行(燃料が軽くなるに応じて高度はステップアップさせる)し、10時間で到着する。さらにハワイから西海岸までは7時間だ。しかし、ハワイからの帰りはグァムに立ち寄る。偏西風のため、燃費が悪くなるのだ。
 八戸は、冬でもほとんど雪が積もらない。すべて八甲田山で降ってしまうためだ。しかし5月から9月にかけ、八戸には霧が出ることがある。その場合には三沢か厚木にP-3Cを着陸させることになる。比べて、三沢は晴天が多いことでは全国一かもしれない。米軍が手放さないわけである。

管制塔の光の信号機

【管制塔の信号機】
 管制塔内には、無線の送受に不具合があるときに、光学的に万国共通のサインを送る器材が備え付けられている。青または赤の光を、手持ちのライトから発することができる。

P-3Cボムベイ
投下傘

【P-3Cから落とすコンテナ】
 これはP-3Cから救難目的で海面に投下する、大小の物料コンテナだ。減速傘がついていて、中に真水の容器などを入れる。中間の赤白の布切れは、メモを入れて投げ落とす「連絡球」のエアブレーキ兼目印となるもの。

正しいホイスト

【正しいホイスト】
 救難ヘリに吊り上げてもらうには、この「輪っか」に正しく掴まる方法を知らねばならぬ。これは、腰掛けるものではない。
 遭難の現場が基地から370km以内なら、UH-60J(救難ヘリ)がこの方法でピックアップしてくれる。それ以遠だと、US-1などが必要になる。
 回転翼機は、速度等に関係なく、飛行中は、メインローターを毎分258回転に保つ。また回転翼機の最高速度はどうしても350km/hくらいなもので、UH-60Jはそれに近い314km/時を出す。ヘリは燃費が悪く、巡航1時間で、ドラム缶3本のジェット燃料を消費する。航空装備にとり、過去も、これからも、燃費と国際石油市況は、深甚な影響を及ぼすはずだ。原油と違って、精製後の石油製品は、何年分も買いだめして貯蔵しておくわけにもいかない(2年で変質する)。
 救難捜索機のU-125Aが、これからは中途半端な装備となる。というのは、同機の任務はいまや無人機で代行できるからだ。八戸のP-3Cは、函館気象台のために流氷状況を目視でリポートしてきたのだけれども、この任務も、燃料費の高騰のため、だんだん回数が減らされている。やはり、人工衛星と無人機で「代行できない」とは言いがたいミッションだろう。

集合写真

おしまい


(管理人 より)

 防衛庁というお役所も、何もしていないか或いはとんでもなくカタいようでいて、意外と楽しそうな事もしてるんじゃないかと、つくづく思うのである。多分、殆どの人がこんな懇談会があってるなんて知らないんだろうけども。
そんな事はともかく、本当に有難う御座いました。


写真で辿る 函館「八十八箇所」肝試しコース

(2007年6月29日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 女子供向けの市販の観光ガイドブックにはロクに載っておらず、しかも地元民すらほとんど知らずに過ごしているようなマイナーなスポットを、住民の義務心からインターネット上でご案内しておこうというシリーズ。今回は、市内の陣川温泉の北東の山中にある「八十八カ所」を紹介する。撮影は2007年6月8日に行なった。

 「八十八箇所」とは、四国まで実際にでかけられない庶民のために、ミニチュアのお遍路コースを作ったもので、全国にたくさんあるものだ。しかし、函館にもあったのだと知っている人は、あまり、いないのではないか。

栗の古木

 市街方向から陣川温泉まで登ってくる車道を、温泉を左手に見ながら、さらにそのまま北進すると、左手に劇団の建物があり、舗装はそこまでである。そこから先はいかにも山路で、人家もなくなる。そのあたりに自動車をとめて、徒歩でさらに砂利道を登って行くと、まずはこの栗の木に到達する。

洗心水

 これは栗の木の対面にある、水飲場らしき施設だが、ご覧のように、撮影時には水は出ていなかった。

ロータリー十字交差点

 さらに登っていくと、立ち木を中心にしたロータリー状の広場があり、道が四方向に延びている。地図によれば、向かって左側に折れると、北海道東照宮の裏手の道へ通ずるらしい。八十八箇所参拝道に行く者は、右側に折れる。(もし直進すると、谷に下って行き、その先は分からない。たぶん、森林の中でいきどまりだと思う。)果たして道を間違っていないかどうかは、石仏群が道の左右に現れるかどうかで分かる。

八十八カ所巡り開始

 参拝道に入ると、左右に石仏が並ぶ。ひとつひとつに、四国の霊場の名前が彫ってあって、どこのご本尊をコピーしたものなのかが分かる。

石仏の一例

 台座に「第○○番」と通し番号が彫られているのが確認できよう。しかし、この石仏群がいつ設置されたのか、その手がかりとなるようなDATEの刻字は、どこにも発見できなかった。

説教所の跡

 まもなくすると左手にこんなスペースがあるところを通り過ぎる。一部の地図によれば、ここは「説教所跡」だそうである。昔、講のようなものがあったのだろう。

この分岐は左へ

 ここは道なりに左に進む。

石仏は左右に並ぶ

 この写真はロータリー方向を振り返って撮ったもの。

左に下ると不動明王に達する

 ここで、広い道から左に分かれる細い道に入る。そちらに石仏も並んでいる。この細い道はループになっており、またこの広い道へ戻って来るので安心するように。なお、左折せずに広い道をずんずん直進すれば、そのまま蝦夷松山(667m)への登山道となっているようである。

湿地帯の板道

 細道はぬかるみが多く、とても小さい子供を連れてハイキング……といったコースではない。ただ、足場の悪いところには親切に板が敷かれている。

とつぜん衆生橋

 笹流川の支流である谷のせせらぎが聞こえると思ったら、とつぜん、近代的な人工物が目の前にあらわれる。この鉄製人道橋は昭和51年に架けられたことが銘鈑から知られた。地元のどこかに仏教信者の講のようなものがあって、そこでこの施設を整備しているらしい。渡ると、無人の休憩所と、不動尊像などがある。

不動明王像

 無人の休憩所の中には密教の曼荼羅図が掛けてある。その休憩所の隣がこの像。暗い時刻に一人で来たら、ややインパクトがあるだろう。

不動橋

 この石橋は、現状では谷を跨いでいない。想像するに、かつては鉄橋はなく、この橋だけがあったのだが、大雨かなにかで半分以下に壊れてしまったのではないだろうか。

帰り道から振り返る

 右手の金属製のパネル構造物は、灯明台である。

硫黄泉

 写真を拡大すると分かると思うが、この不動像は、鉱泉の近くに設置されていたのだ。(気付かず通り過ぎてしまった。)ある地図には「硫黄泉」と書いてある。最初にこの鉱泉が知られ、それから参道がつくられていったのかと想像できる。

帰り道

ループを辿り、硫黄泉から最初の参拝道に戻って行く。

元の参拝道に復帰す

 とつぜん、元の道に出て合流。分岐点とは、じつは数十mしか離れていなかった。

ロータリーに戻った

 もうあとは迷うところはない。下り道をテクテクあるくだけで、四つ辻に達する。なお、このロータリーまで地元の老人数人が自動車でピクニックに来ていたので訊ねたところ、鉱泉のことも、石仏群のことも、知らなかった。

栗の大木まで戻った

 拡大すると、舗装道路が見えるだろう。その先が陣川温泉である。右手の茂みの上に、地元の某劇団の建物の屋根が出ている。ここまで、歩いて40分くらいで往復できた。


(管理人 より)

 私は一度もお遍路が、各地にあるなど、知りもしなかった。行く機会があるのかどうかわからないが、各地にあるなら、敷居も低くなるだろう。
 身を清めたくなったら、利用しようかと思う。有難うございました。


霊巌洞リポート

(2007年6月29日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 2007年6月23日午後、熊本市郊外の雲巌寺(曹洞宗・雲巌禅寺)を訪問することができた。

 写真の五百羅漢は、1779年以降の奉納だというから、1643(寛永20)年に60歳の宮本武蔵が『五輪書』を書き始めたときにはこんなものはなかった。
 1枚の遠景に見えるピークは、地図によると、おそらく河内山(363m)であろう。熊本市郊外の最高峰は金峰山(665m)で、雲巌寺は、その金峰山の西麓にある。

 五輪書の冒頭序文によれば、武蔵は「岩戸山に上」ったことになっている。岩戸山とは、この岩戸観音がおさめられている霊巌洞のある低山のことだろう。
 寺のパンフレットによると、今の「岩戸の里駐車場」があるあたりに見晴らしの良い場所(黒岩展望所)があり、そこからは有明海と雲仙岳が見えるようである。武蔵が戦場で負傷した、因縁の地の方角だ。

 岩戸観音は、文献上では有名なのだが、現状では厳重に格子戸で囲まれていて、目で見ることはまったく不可能だった。邪推すれば、摩滅が著しいのであろう。

 洞窟は凝灰岩質で、南西方向に開口しているから、旧暦10月10日の寅の刻だと、早朝4時前後の、月明かりの有明湾上空が望めたと考えられる。
 霊巌洞の開口は大きく、奥行きは深くない。だから平安時代以前から、蝙蝠の巣窟のような、陰気な場所ではなかったのだと想像できる。冬だから、不快な虫なども少なかったはずだ。

 本道から通じている小径は今では舗装されているけれども、大昔はずっと細い道だったのだろう。しかしご覧のとおりの南西向きの山の斜面なので、明るい感じだったろう。

 この寺は、熊本城からはかなりの道のりがある。タクシーだと30分かかるそうだ。しかも、大寺ではない。武蔵は、地元の者でもなければ誰もよく知らないような、さびしい場所を、わざわざ選んだ。さらには、13歳と16歳で勝負に勝ったとする兵法者も、誰も名前も知らないような者である。
 この無名の場所の選定、そして自分が斃した有名人の名前を敢えて出すことを避けている書きぶりは、意識的である。

五百羅漢と霊巌洞
霊巌洞への小径
霊巌洞俯瞰
霊巌洞を望む


(管理人 より)

 兵頭先生は、熊本での講演会の折にこの場所へおでかけになられたそうである。
 講演会もそうだが、先日の[観光ツアー]にも私は参加できなかった。
 世界は、優しい私に優しくないのだ。しかし、いつかは機会もあるだろう、それを期待する。


2007/3 新田原基地見学ツアー

(2007年4月7日と2007年4月14日 に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(管理人 より)
 ここに提示した写真は確かに新田原基地見学ツアーのものである。けれども、『兵頭二十八の放送形式 ”絵の無い解説文を提示します”』のキャプションのものとは、厳密には一致しない。(勿論、一致するものも、ある)

 写真の入った郵便封筒が亜空間に消えてしまって、兵頭先生から私に届かなかったのが理由である。その後、写真は入手できた。それを符丁やキャプションを付けず適当に公開してしまうのが私『管理人さん』のいい加減な所である。
『このキャプションはこの写真を指しているのだな』という風にも楽しんでいただければ、私は嬉しい。




デモ・スクランブル

写真:(c)防衛省 2007

(2007年4月14日 に公開)


兵頭二十八の放送形式 2007年03月27日 05:37 絵のない解説文を提示します』より

【1】
 入間からC-1で高度7800mの飛行を続け、鹿屋へ(万一機体に機関砲で穴をあけられても、ヒマラヤ無酸素登頂と思えばいいわけだ)。与圧は1000mに合わせているので「差圧」はかなり大。おかげで、国内線のエアバスよりも耳は痛くなりません。
 いきなり余談ですが、なぜC-1をジェットにしたか、旧陸軍の参謀の自伝を読むと、よく分かるんですよ。彼らは、自前の移動手段で、他の官庁の誰よりも早く、連絡に行きたかったんです。高速参謀輸送機として考えていたに違いないと、最近は確信してます。
 さて写真は、海自のP-3Cの第一航空郡司令部です。なんとこの建物は昭和11年4月に海軍鹿屋航空隊が飛行場と同時に建設したもので、空から見ると「戦艦」に見えるデザインにしてあるそうです。またもう一棟の古い隊舎は、「空母」を模してあると。東シナ海の油田群の見張りは沖縄基地ではなく、この鹿屋基地の担当なんですが、詳しい話はオフレコにしといてくれと言われました。まあ、キッチリ「仕事」してますよ。
 P-3Cは以前は垂直尾翼に派手な部隊マークを描いていました。が、それじゃシナの潜水艦の潜望鏡からひと目みただけで日本側の発進基地がバレバレだろ、というわけで、いまではごく小さくなっとります。
 ちなみにシナ軍は、偵察機をあたかも民航機であるかのような塗装・マーキングにしてある、国際法違反精神マンマンな軍隊です。合成開口レーダーを積んだやつは、定石通り、どこに関心があるのか気取られないよう、日本の沿岸全部をなめて通っているそうです。
 北京から見ると、日本列島でいちばん気になるのは、山陰の島根県あたりでしょうね。ここにIRBMを置かれると、最も短い飛翔時間で北京に届きます。余談ですが、中立国には交戦国の領空侵犯を阻止する義務もありますから、もし巡航ミサイルを日本海から北京に発射すれば、韓国軍がそれを撃墜することになるでしょう。バリスティック・ミサイルじゃないと、ダメなんです。
 鹿屋の近くの東串良町には通信所があります。また錦江湾の東岸の福山町には、海自の開発隊群があり、潜水艦や魚雷を試験しています。「えびの」には潜水艦に指令を送る送信所があります。根占町には受信所があります。要するに鹿屋は対潜センターの一つだと理解ができるでしょう。
 鹿屋基地の航空燃料は、まず古江にタンカーで揚げて貯油し、そこから短い距離をローリーで運んでくる。この便利が良いのか悪いのか、沖縄米軍のKC-135が鹿屋に移転してくるのじゃないかと一時、噂されましたが、まずその目はなさそうでした。日本の基地で、米軍受け入れの余積を有しているのは、千歳だけでしょう。

【2】~【7】
 海自のヘリ・パイロットの訓練は、すべてこの鹿屋でOH-6を使ってやります。タッチ・アンド・ゴー(斜めにダイブし、接地はしないで、ぎりぎりホバーしてから、斜めに急上昇)を見ましたが、マークを向こう側に外してしまう訓練生が多いようでした。遠くからは見えないが、「バカヤロウ」と横の教官にはたかれているそうです。
 さて写真でご覧にいれますこの一連のディッチング・トレーナーは、全国でもここ鹿屋にしかない、海や湖に着水してブクブクと水底へ沈みゆく、しかも180度横転したり急角度に傾いたりしながらという天地無用なヘリのコクピットから、クルーが着衣のまま泳いで脱出する、その過酷な状況を何度でも容赦なく再現しちゃるという、掛け値なし〈命がけ〉の筐体マシーンで、NIPPI(日本飛行機株式会社)の謹製であります。
 警察や海保のクルーもここで年に一回くらいは溺死寸前の恐怖を満喫せねばならないらしい。ホントに脱出にモタついて水飲んで気絶して、プール内待機の海自ダイバーに救出される人がいるそうで、ヘリのクルーがカレンダーの上で最も精神的な重圧を感じている、「これさえなければ……」という悪夢の年中行事であると仰るのも、頷けます。ともかく、一年でいちばん血圧が上がるとか。
 手順ですが、まず両サイドの透明窓を、墜落途中の段階でブチ外す(あれ、外れるようになってたんですね)。そしてザンブと着水すると同時に、天井の大きなレバーをガクッと引き下げます。これが、エンジン緊急停止レバー。そして、ハーネスを外したときに天井(いまやアップサイドダウン)に落下しないように、片手で天井につっかい棒をし、片手で鼻をつまむ。このとき、酸素吸入チューブを口に咥える場合もあります。
 次がおそろしい! 海水(この施設は真水使用)が完全にコクピット内を満たし、視界を妨げる気泡が消えるまでの30秒間、その姿勢で息を止めたままひたすら待つのです。気泡が周りに充満しているうちは何も見えないですから、脱出はできぬというわけです。しかしその間にも、ヘリはどんどん真っ暗な海底へ沈降して行く。ダンナ、堪えられやすかい?
 脱出は着衣のままです(軍隊のヘリ用スーツは、急に脱ごうとしても到底脱げるものではないらしい)。個人用ゴムボートは先に水上に浮かんで膨らんでいるという想定です。これが見当たらなくとも、スーツには浮き袋もついていますが、それはまだ膨らませてはいけない。まず潜水のまま10mくらい機から泳いで離れてのち、水面に顔を出さないと、ローターで叩かれる危険があるわけです。
 機体の沈み方は、8パターンほど再現が可能で、そのすべてをマスターすれば、将来どんな事故に遭っても沈着に脱出できるそうです。ただし、対潜ヘリの場合、おそらくは、「気付いたときには海面に激突していた」というシチュエーションだろう、とのこと。海上ヘリの事故原因は、ローターの焼きつきなど機械原因のものは稀で、やはり、バーティゴーなど人的な原因がほとんどのようです。
 また面白いもので、水平線ではなく母艦の甲板を基準にしてしまって、艦と一緒になってヘリの空中機位を揺らしてしまう訓練生が必ず一定数あり、彼らは、海自のヘリのパイロットにはなれない、とのことでした。
 なお、このプール内には、訓練を実施するクルーの数だけ、潜水士が水中待機することになっています。

【8】~【10】
 鹿屋の史料館は、復元零戦(五二型)があるので有名ですが、知覧と違って館内撮影ができません。しかし今回は許可があったので、バカチョンで撮りまくった。遺憾ながら、そのフラッシュが非力すぎ、機体の写真は薄ボンヤリしとりましたので、割愛。機銃の写真を、ご堪能ください。

【11】
 これがよく分からないんですよね。陶器製の代用爆弾……とは思うのですが、なぜ傘が付いているのか……。
 こういう戦中の珍しい代用兵器を所蔵している人は寄贈してくれ、というお話でした。

【A】
 陸自の基地としてはコンパクト(キッカリ普通科1コ連隊)な、宮崎県の都城駐屯地の資料館です。比べると函館駐屯地は「1コ連隊 - 1コ中隊」なのに、もっと広々しとります。
 この建物はなんと、旧軍の聯隊司令部がそっくり使われとります。展示もシブく、これは貴重と思いました。ちなみに駐屯地の倉庫も木造で、メチャしぶ(何を恥ずかしがるのか、近寄らせてくれなかった)。『戦マ』時代に善通寺でこれとタイぐらいに古い木造倉庫を見た覚えがありますが、今はどうなっていますかなぁ……。
 さて、都城は上原元帥の出身地として有名なのですが、この資料館の歴代聯隊長の名前の中に荒木貞夫があった。う~む、そういう縁もあったのか。調べてみると、荒木が大佐になったのが昭和7年、歩23聯隊長だったのは昭和8年7月から10年4月までです。上原は昭和8年11月に老衰死。対ソ戦をやりたかったでしょうなぁ。
 この駐屯地からはイラクにも兵員が派遣されています。そのさい、住民の反対活動は皆無だったそうです。いい土地ですよ。出発前には高機動車の荷台をパレード仕様にして、市内を練り歩かせ、歓呼の声に送られたそうです。

【B】
 軽装甲機動車の車内。路肩爆弾への対策から、このサイズも二回りくらい大きくしたいところでしょうが、空輸の限界もあるし、日本の地方都市の道路はほんとうに狭いですからねぇ……。都城は、陸自のなかではかなり早く、軽装甲機動車を完全充足させて貰った普通科連隊だったようです。運用試験を任せられたのかもしれません。

【C】
 天井のフラップ・ドアの内側には、ウレタンフォームの分厚いクッション材が、貼り付けられていました。

【D】【D+】
 ちびヤンなどを通じて、すでに全国のマニアが多数の内部写真を撮っているでしょう。にもかかわらず、元雑誌記者の性、ついドアの厚みなどに着目してしまうのは、かなしい……。ちなみに、横のドアの窓は内側から開閉ができます。そこからも小火器で射撃ができるわけです。
 後部ドアは一見、乗員の出入り口風にも見えるのですけれども、後部シートの背もたれによって車内通行が前後遮断されており(背もたれの上を乗り越えるのは可能)、通常は荷室へのアクセス用にしかなりません。

【E】【F】
 「01ATM」です。ということは4、5年くらい前から部隊にあるのでしょうが、マニアをやめて久しい小生、実物を拝見したのは、これが初めてでした。このアイテムが、カールグスタフを更新しました。カールグスタフを持たされていた隊員が、これへの転換訓練を受けたわけです。では、まだ使えると思われるカールグスタフは、どこへ行ったのか? いけね、訊くの忘れた! あと、ロケランは?(w)
 カールグスタフは2人がコンビで、片割れが背中のコンテナに予備弾2~4発を入れて運搬したのですが、このATMにも予備弾はいちおうあるらしい。ただし、運用は1名です。
 つまり、ソ連の大機甲部隊が雲霞のように押し寄せることなどない――と、陸自は現実に目覚めたのでしょう。
 前後の八角ナットのようなものは発泡スチロールでした。実用時には、外して捨ててしまうんでしょう。
 まとめると、これって米軍に大昔からある「ドラゴン」がようやく陸自にも装備された、という解釈で宜しいでしょうか? なにぶん、武器マニアを卒業して久しいもンですから……。
 カールグスタフには時限爆発モードがあって、敵の塹壕の頭上アタックにも使えたのですが、いまやそんな機能は、想像しますに、充実した81ミリ迫と120ミリ重迫のVTモードにさせれば済むだろ、という考え方なのでしょう。

【G】
 「もしもし、道をお尋ねしたいのですが……」
 ――こんなスナイパーが各普通科中隊に1名、配備されるようになるとは、かつて誰が想像をしたであろうか。選ばれているのは最も射撃がうまい上級陸曹(なんと裸眼視力2.0を維持! ぜったいにPCはやってないね)で、双眼鏡をもった観測手と、二人一組で、わが中隊長を狙ってくる敵の狙撃者を、物陰から返り討ちにして行くのだそうだ。この中隊スナイパーの練成は、富士演習場に全国から集めてやっている。
 官給のカモフラは、地形地物にひっかかるので、隊員は、自分で引っかからないやつを自作していると語っていた。とにかく地面にプローンの姿勢をとったまま、動かないで何時間もじっとしている商売だそうだ。

【H】
 銃はレミントンのボルトアクション5連発、ただし最初の1発はチャンバー内だ。
 肩当を調節することができ、ボルトを後方に引いたときに、頬に触れるか触れないかという距離にアジャストしておく。ボルトは指の先だけで軽々とコックできるように、見受けられた。(狙撃担当の隊員は自分の狙撃銃の部品を決して他人には触らせたがらないという話だったので、遠慮した。)
 タマは7.62ミリNATO弾で、64式用のような減装薬ではない。つまり62式機関銃のタマなのか。消炎薬のような特殊なものではない、とのことでした。
 観測手は、とにかく横風を読む。陽炎で、分かるそうです。
 ポテンシャルとして1km先の狙撃が可能だそうですが、どうも、手ごたえが確実なのは、600mくらいまでらしいぞ。もちろん、劇画じゃないので人の眉間を狙ったりしない。「的」の大きさは、胴体サイズのようです。

【イ】【ロ】
 宮崎県の新田原基地です。「にゅうたばる」と正式に呼びます。略称「にゅうた」。新潟を「にいがた」と読むのに近いようです。基地内のPX食堂(民営)のカレーライスは300円で、「お代わり」もし放題でした。宮崎県は日本一物価が安いというのは、嘘じゃないっす。
 基地面積は、嘉手納の1/7、千歳の1/4です。しかし隊舎を増やす地積の余裕はぜんぜんなく、米軍もこの前に見に来て「こりゃアカン」と承知したそうです。だから沖縄からの移転はないでしょう。しかし築城よりは広いわけで、まあ、これからの自衛隊の最重要基地の一つです。「にゅうた」から戦闘機ですと65分で上海、30分で釜山です。
 「にゅうた」の一大特徴は、F-15のアグレッサー部隊がいることです。うまいパイロットが集められており、全国の戦闘機パイロットの空戦の相手となって、鍛えてやる。バカチョンの写真が悪くてすいませんが、各F-15の迷彩塗装は、全部色を違えてあります。これは、訓練生が、空戦でどの機を「撃墜」したのか、確かめやすくするためだそうです。
 空自のF-15パイロットは、全員が「にゅうた」で教育されます。うち、英語の適性のある半数が、米国に行ってしごかれます。
 「にゅうた」のF-4は、ストライカー任務です。まずF-2で教育を受けてから、F-4に転換するそうです。
 F-4の離陸を見ていますと、「起動車」(4輪トラックの荷台に小さいガスタービンが載っていて、そこから空気ダクトでエアーを取り出し、戦闘機のエンジンをスタートさせる)によるエンジン始動はごく短時間で完了しますのに、それからタキシングが始まるまでが、やや待たせます。これは、ジャイロがレーザーリング式でない旧式であるため、それを安定させるまでに5分くらいかかってしまうからだそうです。そこで素朴な疑問。空自の沖縄基地はF-4にスクランブルをまださせているが、「5分待機」をどうやって実現してるんだ???
 もし、「5分待機」指定のAチーム2機が、スクランブルにもたついてしまった場合は、「1時間待機」のBチーム2機が、代わりに飛び出すそうです。というのは、調子の悪いパイロットや機体をムリに上げても、絶対にロクなことにならぬからだそうです。
 F-15乗りなら、裸眼視力1.2~1.5を維持したいところでしょうが、現実はそうもいかないので、「裸眼0.2で眼鏡」というパイロットも今はOKだそうです。そして興味深いこととして、眼鏡によって視力1.5になっているパイロットの方が、裸眼で1.5のパイロットよりも、敵機を先に発見するそうです。
 おそらくその理由は、誰の目にも加齢とともに「乱視」の要素が入っているせいではないでしょうか? 虚空の中の微小な一点(ドット)を見極めるには、「乱視」が矯正されている方が、有利なのでしょう。
 ということは、裸眼視力が良いパイロットも、今後は、乱視矯正ゴーグルを装着した方が、良いのでしょうね。パイロット用にそういうゴーグルを、開発すべきでしょう。シナ空軍のSu-27の錬度はロシア空軍からみてもまだ酷いものだそうですけれども、ステルス設計のUAVくらいなら、飛ばしてきかねませんからねぇ。
 さて、戦闘機パイロットは、経済的に、割りに合うか? これは、絶対に合わないと断言できます。毎日出る航空加給食くらいでは、とても、とても……。
 たとえばF-16/F-2のシートは後傾していますけど、パイロットは戦闘中はゆったりとリクライニング姿勢などとってはいないわけです。前がよく見えませんからね。あれは、強烈なGがかかって、どうしても体が耐えられないときに、背中が楽におしつけられる、というだけなのです。戦闘機パイロットのほとんどが、首か、腰に慢性の痛みを抱えています。
 なにより、Gのいちばんおそろしいダメージは、毛細血管の破壊にあらわれる。空戦機動訓練のあとの操縦士の腕の内側には、蕎麦粉のような斑点が出るそうです。毛細血管が切れて内出血した痕跡です。まあ、腕くらいなら、野球の投手でも、毛細血管がボロボロになりますよ。それでどんなプロ投手でも、「なか三日」とか「なか四日」で毛細血管を復活させて再登板している次第ですが、戦闘機乗りの場合、Gがかかるのは、腕だけじゃないのです。全身の中で最も、血圧による疲労を受けやすい、脳内の毛細血管もまた、間違いなく痛めつけられてしまうのです。
 脳血管の障害で早死にしている「元戦闘機乗り」は、統計こそ公表されていませんが、かなり高率だろうとわたしは想像します。そこで兵頭は日本政府に提案する。このように文字通りに自分の生命を削ってパブリックにサービスしている戦闘機パイロットや海自ダイバーなどの遺家族には、特別な手当てがあって然るべきだ。特に子供の学資は政府が完全にみてやるべきではないのか。さもなきゃ、なり手がいなくなりますよ。
 あるいは航空関係の特殊法人が、こうした支援を担当してもバチは当たらないと思いますよ。
 この平時の訓練とは逆に、ホンモノの戦争の際には、軍用機パイロットの死亡率は、第二次大戦中とはまったく比較にならず、低くなるはずです。今日のミサイルや機関砲は、機体にロック・オンするので、パイロットを狙ってくるのではありませんからね。機体は失われるけれども、パイロットは生還する、という可能性が高いでしょう。
 そこで、昔とは航空戦備の考え方も、変えなくてはなりますまい。すなわち、パイロットの数よりも、機体の数を増やしておく必要があるでしょう。
 地上勤務員は、これとは逆です。旧軍の砲兵部隊の馬の係りになった兵隊は、朝は誰よりも早く起きなければならず、夜も、誰よりも遅くでないと休めませんでした(だから「竹橋事件」という暴動まで起きた)。今日の空自の地上勤務員は、この「馬の係り」と、まったく同じようでした。飛行機が離陸する何時間も前から滑走路上にいなければならず、飛行機が着陸してから何時間もまた、仕事が待っているわけです。パイロットは時間外労働はないが、地上勤務員には休むヒマがない。「1日10時間労働」「1日12時間労働」というのがデフォルトになってしまっています(自衛官に労基法は適用されない)。人員増が必要でしょう。
 それと、燃料。単年度予算で燃料を調達している今の慣行では、突如、石油が値上がりすれば、その年の訓練は、半分もできなくなるという可能性が、あるわけです。これはやはり、数年分をまとめてストックしておいて、時価の変動に関係なく、存分な訓練ができるよう、調達方式は格別に考えるべきでしょう。
 ちなみに日米空軍合同のコープノース演習は、日本側が米軍側の費用(毎回100人くらいが基地にくる)の半分以上も負担してやっているにもかかわらず、米国の財政が悪化すると、その年はあっさり中止になります。訓練も、カネ次第です。
 米空軍では、戦闘機よりも、むしろ爆撃機や攻撃機に、最も優秀な空中勤務者を配属させているそうです。パイロットの希望も、同様なのだそうです。これはやはり、有事には核弾頭を扱わせるためでしょうね。
 航空基地には必ずアレスティングワイヤーの設備があるので、F-15のような艦上使用があり得ない機体でも、テイルフックがあります。このワイヤーはいくつかのゴム玉で地面から浮かせておくのですが、そのゴム玉にフックがジャストミートしてしまえば、ワイヤーにはかからぬこともあるそうです。
 新田原の基地防空隊員(短SAMやVADS)は、釧路や根室から家族ごと移駐してきているのだそうで、びっくりしました。VADSのバルカン砲を正面からみると、真円ではなく楕円になっており、それでディスパージョンを適当に散らしているということを、いまさらながら、知りました。

【ハ】
 新田原には、F-15用のシミュレータがあります。内部は撮影禁止でしたので、加藤健二郎さんに撮ってもらった、この写真で我慢してください。左後方のお二人は、国民保護法の専門家である浜屋英博教授と、チャンネル桜によく出ている葛城奈海さんです。
 中のシミュレータの構成ですが、コクピットが中央に固定されていて、その全体を半径数mのドームが覆い、そこへアラウンドに画像(動画)が投影されるものです。隣室で、あるいは筐体のすぐ隣りで、教官がすべてをモニターしています。マイク付きヘッドギアで教官と交話もできる。
 おそらくこれは、F-15のパイロット候補者が、ごく初期段階で使うものなのではないかと、推測しました。というのは、SEGAのアーケードゲーム筐体のように、コクピットがぐらんぐらんと動くわけじゃないんです。まったく固定。しかも、キャノピーの後方には、ビジョンが投影されません。明らかに、空戦をシミュするものではない。主に、ヘッドアップディスプレイの計器の見方に慣れるためのものではないか、と愚考を致しました。
 民航機と違って、二機が併走するようにしてスクランブル発進するというのも、戦闘機だけの状況です。そのシーンが、ちゃんとこのシミュレータで、再現できるようになっていました。
 もちろんコクピットは本物のF-15の部品で構成されていて、スティックやスロットルの感触も本物なのです。
 ひとつ、発見をしましたのは、アフターバーナーを入れますと、機軸が落ち着かなくなるんです。上下左右に小刻みに振動し続ける(ように画面が揺れる)。ということは、ガンによる空戦には不利ですよね。タマが散ってしまって。超音速の空戦は、もし敢行するとしても、それはミサイル頼みでしかありえないのだということが、よく分かりました。

【ニ】
 新田原基地の周りは、もともと、茶、芝、大根の農家ばかりだったそうで、それが昭和17年に、陸軍航空隊の対南方の輸送基地となった。パレンバンに降下した空挺部隊は、ここがベースだったようです。
 写真の神社は、同駐屯地の中にある珍しい神社で、もともとあるものだから勝手に毀すわけにはいかず、さりとて変態左翼に宗教政策を攻撃される材料にされても困るぞという、ビミョーな空域である。


オピニオンリーダー及び防衛政策懇談会 新田原基地見学(19.3.14)  (c)防衛省 2007

おしまい


2006年5月中旬の、正直へたばった庄司山ルート探訪

(2006年5月20日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

兵頭二十八先生 より

 道南の山の名前は、その昔の入植者が、未開地の地点識別のために、沿岸の集落から見上げたときの分かりやすさだけを重視して、いかにも投げやりに付けたとしか思えぬものが多い。
 横に長いから横津岳。ピークが三つ見えるから三森山(3つ盛り山)。残雪がそうみえるので袴腰岳、泣面山。(どうもよくわからぬのは貧乏山)。いずれにしても歴史の浅そうな、「マンマやないけ」という趣ならざるはない。
 七飯町[ななえちょう]にある庄司山(570.4m)も、おそらく「障子のように立ちはだかる山」からの転だと思われる。下界から眺めると、この顕著なコブが横津岳を遮り、大きく目立つ。
 七飯町というのは、函館に港町を建設するにあたり、その食糧供給地として開墾された隣接地域で、高架道路上などからは、この庄司山の麓まで、畑が広がっているのがよく見えるのである。また冬には南側の尾根線に道筋のようなものがくっきり現れる。だから函館市街から遠足気分で登山できると思うと、甘い。
 30万都市の市街地のすぐ外縁の里山を庶民の行楽用に整備してやろうなどという段階に、未だにこの北海道は、達してはいないのだ。山に登りたい者は、須らくみずから試行錯誤し、道標の無いルートを見極めねばならない。死と隣り合わせに決行すべき冒険。それが、この地域の散策者のデフォルトの掟である。
 以前から非常に気になっていたが登山道の入り口がどこにあるのかさっぱり分からなかったこの山に、吾が輩は先日、ついに登頂できたので、ご報告申し上げたい。
 なお、途中に道案内らしきものは皆無であった。

 松並木が北海道らしくもない国道5号線の、高架でない方の、通称「大沼国道」。写真の奥が北、すなわち大沼方面で、手前は南、函館市心方面となる。位置は七飯町の1丁目。左手にスーパーの「魚長」が来てしまったら行き過ぎだ。正しい右折路はこの少し手前にある。

 Uターンするために入った魚長スーパーの駐車場から遠望した「庄司山」(二本の松の間の三角ピーク)。ただし地元民は「七飯山・ななえやま」と呼ぶらしい。

 ここが正しい「にんにく沢通り」の右折点で、「福田自動車商会」が角にある。

 広くもない舗装道を東へ進めば、このような農道の四辻に出る。ここをさらに東へ直進する。道を渡った北東角に、大川8丁目の墓地がある(墓石の上に庄司山ピークが見えている)。
 なお、市心から自転車で出かける場合は、LAWSON函館桔梗町店(大沼国道を北上し、道道函館上磯線のクロスを超えてさらに300m弱北上した右側にある)の脇の道を進むと、25分くらいでこの墓地に到達できる。その場合は「蒜沢二号橋」を直前に渡るから、それが目安になる。

 さらに東へ直進する。左右は畑。振り返ればこんな感じ。左手遠くの台地は函館山、右手遠くのコブは「丸山」である。

 函館新道(やはり国道5号線なのだが、高架の高速規格である)の下を潜ってさらに東へ直進する。

 高架を二回くぐって、振り返るとこんな感じ。

 すると北東角に「大和静観園」があらわれる。ここをまだ東へ直進する。すなわち、ここから道は砂利道となる。

 この砂利道をずんずん進むのだ。

 さらに東へ、ずんずん進んで行く。

 いよいよ山道らしくなる。振り返るとこんな感じだ。

 さらに道なりに進もう。

 これは西を振り返った風景だが、この畑が最後の畑で、あとは雑木林の中の山道である。つまり地元民ではなく地元熊に出会う可能性が出てくる。このへんから路面の凸凹が増し、ロードクリアランスの小さい軽自動車だと腹を何度も擦ることになる。

 右手に、コンクリートを敷いた、秣を堆積させておくためのスペースが現れる。すぐ右手は蒜沢川[にんにくさわがわ]だ。ここから先は、自動車の擦れ違いは困難だ。
 第一回目のルート偵察は、ここで車を引き返し、再び各種資料と照合して確信を得、本番の自転車によるチャレンジに臨んだのである。
 ちなみにさっきの墓場から、ここまで、自転車であれば35分かかる(半分は漕ぎ、半分は押して歩く)。

 さらに自転車を押して、えっちらおっちら歩く。右側からは沢水の音。

 とつぜん、目の前が開ける。正面はもちろん庄司山。

 じつはここには、蒜沢川に2つある砂防ダムのうち、下流側の「2号砂防ダム」があり、その工事をしたときに造成された広場だったのだ。

 上流側から広場を振り返る。左手がダムになる。普通の登山者は、ここに自家用車を駐車し、ここからは歩くようである。わたしも自転車を置いていくことにした。

 ダム広場から北をみるとこんな感じ。違法ゴミ捨てダンプは、ここからさらに少し上まで進入して、沢に廃材を捨てたりするようだ。

 特に急傾斜でもなく、楽なアプローチだ。

 下流のダム脇駐車場から10分くらい歩いてくると、このような二俣分岐点に出会う。右の道は蒜沢川の方へ下っている。この右の道を進む。

 すると、上流側の砂防ダムが見えてくる。下流側のダム脇からここまで、歩いて15分である。

 この砂防ダム、ぜんぜん砂が溜まっていないということで、地元の自然団体は無駄な土木工事のサンプルとして挙げている。水量モニターのボックスが設置されていた。ここで、沢の上に渡された、ブリキ板の橋を渡ると、いよいよ本格的な登山道だ。

 渡って、南岸から北岸を振り返る。このワイルドな橋。

 南岸から砂防ダムを振り返る。

 少し登り、また振り返る。

 やや行くと、入林届けのボックスが現れる。ここの標高がちょうど300m。熊注意の看板が倒れている。ただし地図とかコース表示とかは何も無い。

 入林届けのボックスから庄司山山頂570.4mを見上げる。記帳をみると、だいたい毎日1人くらいのペースで入山者がある様子だ。(この日はさいごまで、他の入山者を見かけることはなかった。)

 ここで不注意にもわたしは、左側の道を迷わず進んでしまった(だって広いんだもん)。左、すなわち北へ進む登山道は、「北尾根コース」といい、積雪期以外は山頂まで行けないのだ(藪こぎが大好きな人は別だ)。写真は、道の途中からピークを振り返ったもの。どんどんピークから遠ざかっていくのだ。

 下界を見る。

 もうすぐ尾根線に出るというところ。なぜかオートバイのようなもので誰かがここまで来ているらしいタイヤ痕があった。

 尾根線まであと一歩のここで、登山道が笹薮の中に消失。しょうがないので引き返す。この地点まで、入林ポストから約30分。ここから入林ポストまで戻り道は20分くらいか。

 入林ポストに戻って気がついた。道は右側(南側)にもあることを。それが正しい「蒜沢川コース」であった。再び気力を奮い起こしてアタック再開。写真は南側斜面から望む山頂方向。

 入林ポストからおよそ35分、ヘトヘト状態で山頂の鳥居に辿り着く。鳥居の向こう側が「北尾根コース」に続いている筈だが、もう確かめようという気力は湧かない。

 小さな祠に鉄の草鞋が奉納されていた。看板のようなものが雪の重みで潰れたように倒れていたが、起こして確認してみる気力無し。

 鳥居の内側から、南側、つまり函館市街方向を見下ろす。山頂からの眺望に関しては既に複数のウェブサイトで画像のUPがあるようなので、省略しよう。ここから入林ポストまでは25分で戻れた。脱水していたので沢の水を飲み、さらに上流ダムの橋から下流ダムの駐輪場所までが徒歩17分。そこから下り坂を自転車で降り、墓まで16分。そこから疲労した足でローソン桔梗町店まで漕いで14分だった。

 オマケ。家に戻る途中、こんな素敵なハウスが……。


 「七飯山」ではなくて、地元の方は「七飯岳・ななえだけ」と呼ぶことがあるそうです。聞き間違えました。

兵頭二十八の放送形式 2006年05月29日 17:12


(管理人 より)

 ニートハウス。学校に通学せず、独身で、収入を伴う仕事や就労に向けた活動をしていない15~34歳の人ばかりが住んでいて時折どう考えても感情移入できない突発的でセンセーショナルな事件が発生するハウス───では勿論なくて、neatなハウスなんでしょう。
 先日読んだ[ライトノベル「超」入門/新城カズマ 著]という本に載っていた話。まぁ、有名な話でもあるんでしょうが、[ライトノベル]という現在では定着した名称も、当初は他候補に[ニートノベル]というものがあったそうな。これと似た(或いはよりシンプルな)プロセスで命名されてしまったハウスのなのかもしれませんね。
 (ニート対策に熱心な大家さんが2ヶ月前に命名してたら凄いけれども)


情報WANTED[仮称:商品X]

(2007年2月4日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(管理人 より)

下に提示した写真の物体こそが、我らが兵頭先生の御心を掴んで話さない、そして多分、当サイトだけで話題の[仮称:商品X]である。
商品Xについての詳細はコンテンツ[兵頭二十八の放送形式]の以下の投稿をご覧頂きたい。
そしてこの[仮称:商品X]をご存知の方は、掲示板か管理人宛メールで是非教えてくださいませ。

因みに、写真で黄色く見えるのは太陽光線を乱反射しているためで、夜間のLEDの発光は白色だそうです。

2007年02月04日 03:29
2007年01月29日 19:54
2007年01月29日 07:14
2007年01月17日 10:37

※管理人注:2020年現在当サイトに掲示板はありません。


(兵頭二十八先生 より)

仮称:商品X

さらにディテール

パネル寸法

太陽電池パネルの寸法は、外枠が6.6cm×6.6cmで、シリコン部分は5.3cm平方です。ご参考までに。
この黒いABS樹脂の特長は、金属や透明アクリル樹脂と違って、太陽光をよく吸収・放熱し、日中に雪が積もりにくいことだ。

発光部

発光部です。白色LEDが1個、ついています。右側の筒は、LEDを覆うリフレクターですが、今日の一般的な製品と異なり、底部に銀色の凸面鏡を嵌めてある。部品コストも工程コストもかかる、古き良きヴィンテージな設計なんでしょう。

基盤

回路基盤です。縁の部分にピンクの小粒のような部品が見えます。これが明暗センサーで、「商品X」では、それは下向きに設けられている。つまり、ちょうど、太陽電池パネルが傾いている、一番低くなっているところの縁の下に、このセンサーの「窓」があるのです。太陽電池パネルには、絶対に水や湿気が入らない構造としていることが分かります。今日の廉価な製品では、太陽電池パネルは防湿されていません。

基盤

――誰かこれと同じ性能のものを作ってくれ! ただしLEDは黄色でよろしくネ。


ソーラーライト──じっさいの光り具合などを、デジタル・ギャラリーでご紹介


2009/3/7 兵頭二十八先生 講演会『顕在化する日本の危機』──の動画

(2009年3月20日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

2009/3/7 兵頭二十八先生 講演会『顕在化する日本の危機』

  1. 司会挨拶
  2. 主催者挨拶 軍学堂 望月昭義氏
  3. 来賓 別宮暖朗 氏 「本講演の意義について」
  4. 4.講師 略歴紹介
  5. 5.兵頭二十八 先生 講演

動画提供:MH 様


(管理人 より)
兵頭ファンとしてあるまじき事ながら、私は講演会いけませんでした。
けれども、動画が手に入りました。動画くれた方に、感謝。
しかしやはり、私は講演会に行きたかった。


※今回WordPressに転載するにあたり、動画をYouTubeへUPしています。WordPressに動画を載せるならYouTubeへUPした方が良いと聞いたからです。

どういう経緯でこの動画を頂いたのかも、失礼ながらうろ覚えです。
私はナマでは観ていない講演会です。ファイルを下さった方へ最大限の感謝をします。ありがとうございました。


ソーラーライト──じっさいの光り具合などを、デジタル・ギャラリーでご紹介

(2007年2月11日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

1.2ボルトの黄色光
これは取り寄せで4000円以上したものですが、薄暗いです。しかも冬の夜は長持ちしません。

2.4ボルトの黄色光
こちらは送料込みで5000円ですが、よく目立つ光度で、冬の夜でも朝方まで十分に長持ちしてくれます。なお、球体の下縁にはこのように、内臓の発電パネルの影が出ます。

Globelight底ラベル
これは1.2ボルトの方です。タイ国でアセンブルされていることが分かる。

Solar Light底ラベル
これは2.4ボルトの、リコメンドできる方です。しかしなぜかこちらには、スマートソーラー社のロゴがない。

エックスの白光
参考まで。「商品X」は毎晩、夜明けまでこのように輝く。

スマートソーラー社製品の外観は白い
1.2ボルトのものですが、夜間にストロボ撮影すると、このように見えます。球形ケースは半透明の白。内部のLEDが黄色発光なのだ。

ソーラーボールの黄色光
名品、オーム電機製のソーラーボール(黄)は1000円なのに輝度はこのように十分で、マーカーとして遠くから目立ってくれる。

ソーラーボールの発電パネル
ソーラーボールの唯一の難点は、ポール上に固定する方法がないことで、そこは各人が工夫しなければならないのだ。

撮影:意味もなくソーラーライトを愛好する会

皆様からのソーラーライトの実設実用感想受付中!


2006/3 旅の手帖”沖縄”

(2006年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(撮影 兵頭二十八 先生)

P-3C内部には、くつろぎのスペースも。
このカーゴローダーは空自にしかないおもしろ車両。
わが家からの風景。3月上旬。(1)
わが家からの風景。3月上旬。(2)
救命用に落す水タンクなど。
ボムベイを機内から確認する床窓。
操縦席から脱出するにはこの窓を使う。
プロベラの塗料がはげている。実用機らしい。
エンジンメンテ中。
ソノブイは30~300mで使えるとわかる。時間は30分~3時間で可変。
F-4のガンポッドの先端も塗料がはげていた。
カッコ良い塗料はげ。
この捜索機は離陸以外は全自動OK。もう無人機時代は近いネ。
最新捜索機の中。(1)
最新捜索機の中。(2)
那覇駐屯地の爆弾。
91式魚雷の頭部。(一部欠損?)
一部マニアの間で有名な那覇戦説明パネル。中央背中はカトケン。
パネルのアップ。赤いのは飛行場。上から2コ目が「中飛行場」つまり今のカデナ。
那覇基地のバクダン。
91式魚雷(1)
91式魚雷(2)
91式魚雷のメカ。
91式魚雷(3)
米軍の砲弾(1)
パネル
米軍の砲弾(2)
LR-1の惨劇。
チヌークのAPU。
高いところから見た那覇基地(1)
高いところから見た那覇基地(2)
高いところから見た那覇基地(3)
高いところから見た那覇基地(4)
U-4で帰るで~。
中にはこんな人乗ってます。
U-4の余裕スペース。
なはでなははは。

集合写真 (この写真のみ2006年4月7日公開)

(管理人 より)
 北から南へ、また北へ。
 兵頭先生の花粉症が治った、驚異の沖縄での写真記録である。
本当にありがとうございました。
 因みに、私は、毎年シーズン中、花粉症の症状が2,3日間出ます。


2005年9月10日の奥尻島の状況

(2005年9月18日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)
『北の発言』の連載記事の取材で奥尻島に飛んだ。メインの記事にはならぬ雑多な見聞を、この場を借りてお伝えしよう。

 わが浪宅から函館空港までは歩いて行ける。そして空港内でも歩いて飛行機に乗る。エアー北海道の………機種名が気になる人は、各自に調べてください(爆)。灯油の匂いがしたから、レシプロではないだろう。

 松前半島を横断してアーーーーーーッという間に奥尻島へ。画像左端が、島の南端である「青苗地区」なのだが……。

 同じ場所。津波は画像の右からやってきた。平成5年7月のことだ。多額の義捐金と補助金で人々は島内の別な土地に新家屋を建てることができた、中には見栄を張って分不相応な家作にし過ぎ、げんざいヤクザの取り立てを受けている戸主もあるとか聞く。

 着陸態勢に入ると、旧滑走路(?)が見える。奥尻空港は地震前はランウェイの長さ800mだったのが、いま1500mに更新工事中で、完成のあかつきにはジェット機が降りるのだという。そんな需要あんの? それともやはり満州を核爆撃する三沢空軍の予備滑走路となるのか?

 空港ターミナル。中には何もない。観光案内パネルすらも。この飛行機は霧が出ると止まる。風では止まらない。一方、連絡船は、霧では止まらないが、風=時化で止まる。冬場1週間の欠航で島内から牛乳が消える。ちなみに卵は230円より安いことはなく、ガソリンは本島よりリッター30円は高目。事実上の無医村でもあるから単身赴任の空曹も多い。島内には近年、信号機が1つできた。これは西表島よりもずっと遅いのだ。

 地震津波は夜だった。画像左側の赤白の灯台は鉄筋コンクリートなのに根元からポッキリと折れて横倒しになった(灯火は消えなかったという)。今上陛下ならびに皇后陛下はほとんど翌日、すごい早さで被災地御幸をご決心になった。ただし聖上は船酔いされるご体質(というか移動中は景色ではなく壁ばかり眺めて行かねばならぬ窮屈なご身分)ゆえ、当初は自衛隊機にご搭乗あそばされ、それでも途中でダメで引き返し再び船舶に御動座あそばされ、その間、奉迎の自衛官たちはずっと炎天下の堵列(かきねのようにならぶ)を続けた。しかしご還御の折、畏くも皇后陛下は堵列隊員の顔を一人一人視認して歩まれたという。
 写真の人工丘陵は、全滅・全戸移転となった青苗地区にあり、御詠を刻む。
 遠景のスカイラインに空自の第29警戒隊のバッヂ・レーダーと、そこから2kmほど離れた電波傍受施設(いわゆるNSAの日本支処の一つ。運用は空自で隊員は警戒隊と同じ隊舎に寝泊りする)のアンテナが望める。近年逐次に拡張されているという。この面の日米関係は政権と関係なく親密のようだ。

 高台の灯台すらぶっ倒される大津波にも関わらず、青苗岬突端の波打ち際に聳えるこの「威仁[たけひと]親王徳洋記念碑」(高さ18m)は、ビクともせずに残った。これが建てられたのは昭和6年。その50年前、この岬に英海軍の機帆軍艦『アイアン・デューク』号が濃霧のため座礁。同艦には、英国に倣って日本も若い皇族を全員陸海軍将校にするべきなのだとの元勲らの意向の実現第一号として、有栖川宮親王がミドルティーンの若さで見習いとして御乗り組みになっておられ、座礁艦の乗員救援のため現地島民を指揮された。その記念碑である。ちなみに、都立中央図書館がある有栖川公園の銅像は、実兄の熾仁[たるひと]殿下。年齢は27歳も離れていた。

 夏場のハイシーズンにやってくる島外のイカレた奴らがこの徳洋記念碑のある汀に卒塔婆モドキやら捨て地蔵のガラクタを寄せ集めて心霊スポットに仕立てようとしていた。冬には跡形もなく日本海の波が流し去るであろうが……。

 営外者の官舎のある宮津と奥尻町を結ぶ、島の北の横断道路。その道路の途中地点から、空自レーダー・サイトのある神威山(標高584.5m)を望む。持参のバカチョンはレンズのキレが悪く、矯正視力1.0ではっきり見えた隊舎やらアンテナやらもほとんど識別もできませんね(笑)

 管理人注:現在、三次元レーダーの古いタイプを新しいタイプに交換する工事をしているとの事で、レドームは1基見えるそうです。

 島北端の賽の河原という不気味すぎる海浜キャンプ場からも、神威山のレドームが見える。え、分かり辛いって?(爆)

 島北部の球島山山頂から、南方の神威山を見る。やはり空自基地がよく望める。え、分かり辛いですか?(核爆)

 奥尻といったらコレといわれる「鍋ツル岩」。地震で剥落した箇所があって、そこをコンクリートでパテのように補修していた。いいのかな~それで……。

 空港拡張用の工事車両群の背景に、やはりレーダーと傍受アンテナがよく見えたのである。え、さっぱり分からない?(略)

さて、それでは帰ろうか。あっ、また同じ飛行機のようだ。座席は、右側が2列、左側が1列なので、往復ともに同じ側の席を確保するとナイスな遊覧飛行になる。体重+荷物が特に重くない限り、位置は概ねリクエスト可。

 一番前の窓から振り返るように神威山にカメラを向けてみる。このフレームにバッチリおさまっているのだが、使い捨てカメラの限界で、設備等は識別不能。検閲ではありません。しかしこの真横のプロペラ、もし吹っ飛んできたらこっちはひとたまりもないだろうな。

 エアー北海道では函館空港から(おそらくこの機体を使って)遊覧飛行も随時やってくれる。しかし今回気付いたのだが、雲の低くない日に奥尻島へ往復飛行すれば、それが遊覧飛行を兼ねることとなるのだ。終始、低空飛行だからである。画像、眼下に見えし五稜郭。旧タワーの横に、高さ2倍の新タワーが建設中。


(管理人 より)
福岡市在住の私にとってはニライカナイよりも遠い島、奥尻島にこの度 兵頭流軍学 開祖 兵頭二十八先生は赴かれた。
 私は兵頭ファンなので、あの気が狂ったように五月蝿い選挙演説風に言うならば「北の発言」、「北の発言」をよろしくお願いしますという事だ。
 後、2005年9月、ようやっと兵頭[別宮共著]本新刊”技術戦としての第二次大戦 日本vs中ソ米英篇/PHP研究所”が出版された事もとても嬉しい。