2003/9/7 三沢リポート

(2003年に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

管理人:一連の写真は2003年9月7日に三沢基地で撮影されたものである。行った人もいるだろう。行きたかった人もいるだろう。想い人の肌に初めて触る時のような興奮をもって狙撃銃を抱える男性に不審な目を向けられる諸氏もおられるだろう。まぁ、ともかく、興味がある方無い方も、まずはぜひぜひ見ていっておくれよ。勿論、撮影は「管理人」ではありません。 


 アメちゃんのバスはボンネットにこだわるが、その理由は衝突安全の重視だ。 
 私有車と思われる、シュヴィムワーゲンもどき?
 「高機動車」でなく「メガクルーザー」と書いてある。ランクルをやめて、単価の高いこいつに切り替えたのか。
 空自のペトリオット部隊の使う「待機車」
 待機車内部。上段ベッドはおりたたんでいる。エアコン・シャワー・トイレ付だがNBCフィルターはない。
 炊事車の内部。こうした後方装備は陸自で共通化すべきだ。
 こいつがないと「ストライク・パッケージ」にならぬ電子妨害専用機。
 ふきながし曳航機。ふきながし中にはマイクがあって、AA機関砲の命中率を地上でリアルタイムで把握できる。
 こっちは当てて落としてしまうPRVだが発砲スチロール製なので、エンジンに命中しない限り平気で飛び続けるという。
 DVADは1回の引金でタマが100発飛び出すが、そのリンクは、AP×45+HE×5・・・のくりかえし。つまり榴弾は10発出る。
 クラスター爆弾も堂々の展示。
 サイドワインダー最新型に対抗する国産ドッグファイトAAM。
 古い320kg爆弾にレーザーガイダンスと動翼をとりつけたものだが今の話題はJ-DAMの導入決定だろう。
 12.7ミリの狙撃銃もあった。飛行場は広いからネ。もちろん米軍のもの。
 ハンヴィーの「銃塔」型発見!触って材質を確かめたかったが、人ゴミで断念。
ミニミくらいは装備できそうだ。

おしまい


北海道駒ケ岳レポート

(2003年9月14日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

(兵頭二十八先生より)

 北海道駒ケ岳は火山活動があるとかで、周囲4kmが入山禁止になって久しいのだが、それを知らず、勝手に入り込んでしまった者がいる。一連の写真はその時に撮影されたものらしい。以下、2003年9月4日に入手したフィルムに推測キャプションをつけてみた。


 北海道駒ケ岳を南から見る。中央部が「馬の背」で、そこから右下の方へ斜めに登山道が見えるのである。手前の白壁は砂防工事。
 T字路から南をふりかえる。奥が「カウベルビレッジ」方向だ。封鎖された道路なので車も人もいない。
T字路を右折し、しばらく歩いたところからふり返る。つまり奥が西である。
 舗装が途絶え、土の道となる。6合目駐車場をめざして進む。
 馬の背から南をみおろす。誰も立入れないバス駐車場が見える。
 登り開始。写真では伝わらないが、胸つき八丁の連続なのである。
 ずんずん登る。
 さらにずんずん登る。
 右手のピークは隅田盛。892mだ。なぜか手前にマンホール。
 馬の背に到達。左のピークは円山で1000m、右のピークは剣ヶ峯で1131m。これ以上進む体力はなかった。
 馬の背から西をみる。
 この踏み跡は砂原岳方向へ通じているようだ。右手が火口原になる。
 砂原岳 1113mをみる。その手前が火口原で、ごく小さな噴気も・・・。
 うしろをふりかえると大沼湖。さらに遠くには函館山もみえる。
 馬の背から東を見る。


「正論」2003年3月号 ”TMD幻想から覚めよ!日本の「核武装」放棄で笑うのは誰か”の訂正

(2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

(兵頭 二十八 先生 より)

 月刊『正論』3月号の連載コラム(ちなみにコラムとは柱の意味で、囲み記事を指すのが今では普通で、2頁以上ある長い記事のことは通常、コラムとは呼びません)「TMD幻想から覚めよ」の中に誤りが多数あるとの指摘を5月17日に手紙で受け取りました。その内容が信用できると思われましたので、この場を借りまして甚だ遅れ馳せながら訂正を公示致し度いと存じます。

 訂正すべきだと思われた箇所は以下の通り。


原子炉に挿入する新品の燃料棒には、天然ウランは約0.7%含まれている。

 【記事では約0.3%としていましたが、それは誤り。より正確には、ウラン234が0.006%、ウラン235が0.712%、ウラン238が99.282%だそうであります。】

ウラン235の比率を2~4%に高めた低濃縮ウランを使う原子炉(すなわち軽水炉のことである)から生産されるプルトニウムは、原爆材料としては性能が悪く、原爆材料に使用された実績もない。

 【記事では、軽水炉からも原爆用プルトニウムが取り出し得ると断言しているようになっています。それは可能だとする学説もあるにはあるのですが、それを一線兵器用として量産しているような核大国は無いのでありました。】

黒鉛減速・炭酸ガス冷却の「プルトニウム生産炉」でも、ウラン238のごく僅かがプルトニウムになるだけであり、具体的には、1トンのウラン238から、たった数百グラム(1000分の1未満)のプルトニウム239を取り出すことができるだけである。

 【記事では、「内部のウラン238のかなりな部分がプルトニウム239に変身」としていますけれども、これは全く大間違いでありました。私の記事の熱烈な愛読者であるに絶対まちがいのない金正日大先生が、この誤てる情報から大いなる脳乱を得られたことを祈願致すのみであります。】

再処理工場で溶出させたプルトニウムは、まず金属に変換しなければならない。

 【いきなり「粉末」にはならないのであります。核兵器の中に入っているプルトニウムは、発泡スチロール状だと書いている本も見ました。金属とするのは、密度が高くなければ臨界せぬからであります。それを発泡スチロール状とするのは、プルトニウムはいつも出ている中性子がウランに比べて多いので、あまり密にしすぎるのもヤバいからでありましょう。】

使用済み燃料に含まれる核分裂成生物からの放射線が強力である。

 【記事では、プルトニウムの放射線が殺人的に強い、と書いてありますが、プルトニウムの放射線はアルファ線なので手袋一枚で止まる強度です。しかしこれが粉末として肺の中に吸い込まれたときに、発癌するのではないかと疑われてきているわけであります。】

CANDU炉は、原子力委員会が、これからは輸入技術よりも、国産技術(新型転換炉)の方にしようというので、導入しないことに決めた。

 【記事ではアメリカが圧力をかけて輸入を止めさせたと書いておきましたが、当時アメリカが日本の原子力施設で強い猜疑を向けていたのは東海一号発電炉—これは天然ウランを使える黒鉛炉で、各国の兵器級プルトニウム生産炉と同じもの—だけであったようです。それから、CANDO炉と書いたのも単純誤り。】

 貴重なご指摘を下さった方、どうも有難うございました。


(管理人より)

訂正の指摘をされたのは「プロ」の方らしいです。やっぱ、「プロ」は凄いですね。


interview with──江藤淳は三島由紀夫を認めたのか(2012 暑中インタビュー)

(2012年に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(管理人より)

『やっぱ兵頭二十八ってすげえ!』私は、今までのインタビューの中で最もそう──心底から思った。
読めばわかる。やっぱり、スゴい。
これ程のインタビュー、普通タダで読めませんよ。
やっぱり破天荒に面白いな、兵頭先生の仰る事は。


H=兵頭先生
U=管理人

U:『●A◆I★』の8月8日売り号に珍しい記事が載りましたね。

H:故・江藤淳の「保守」を解説することによって「ネトウヨ」を叩く――といったおもむきの原稿依頼でしたので苦労しました。なにしろわたしは瀬戸弘幸さんのブログを除けば「ネット右翼」系のウェブサイトは巡覧してないので、ネトウヨの何がそもそもよくないとされているのか、誰が誰をどのように批判しているのか、実態というか背景事情を知らぬわけです。加えて、江藤先生は公人や言論人を批評した人でした。庶民・大衆を批評する必要のない時代に地位を確立した人なのですからね……。それで最初に送った原稿が、担当編集者さんにはどうもご不満であったようでしたので、わたくしは、「また没となる原稿に蝉しぐれ」という駄句を標題にし、「放送形式」にそのテキストをUPする準備をしていました。ところが、けっきょく大筋は変えずに活字にしてくださることになり、まあ逆転決着です。こういう経緯は、初めての経験だったね。まぁこれもあまり言いたくないが、起承転結まで編集者が考えて、このラインの通りに原稿書いてくれって注文したがる、おそれを知らぬ編集者が近年増えてるんじゃないかって気がする。初めに予定コメント脚本ありきのNHKスペシャルみたいなのが、雑誌界で流行ってるんじゃねぇかとね。そんなのに応じちゃう軽々しいライターどもが増えたってことなんでしょう。オレの知らないうちにね。

U:兵頭先生は2ちゃんねるは見ないんですか。

H:まとめ系サイトってありますよね。あれはおもしろいのでTVニュース代わりに巡覧します。あそこには市場メカニズムがちゃんと働いている。左右のしょうもない罵言やコピペはカットされているのでしょう。ああいったまとめ系サイトに残っているようなおもしろ発言が「ネトウヨ」なんだとしたら、わたしは「ネトウヨ」を支持したいね。だって市場から歓迎されてるじゃないか。だからまとめサイトにわざわざ残され、人々によって現に楽しまれているんでしょう。それを悪いものだとは言えないよ。エドマンド・バーク流に考えればね、すべて存在するものには理由がありますよ。つまり、われわれ「活字右翼」の世を動かす力が足らぬから、ギャップ・フィラーの需要があって、供給があるんだと考えるべきだ。そこを反省するのが先。そんなネトウヨをどうこう言う前にオレが批判したいのは、ご承知と思うが、「バカ右翼」(これは宮崎哲弥さんの命名だがじつに適確な表現と思う)ライターの方ですよ。あと、気合だけ入っている、おかしな編集者ね。

U:ネトウヨは江藤淳を正しく評価していると思いますか。

H:オレも今回あらためて学んだことがあって、それは、「インターネットは、まるっきし、図書館の代わりにはなっていない」っていう現状についてですわ。ネットで「江藤淳」「保守」と検索しても、出てくるものは、薄っぺらい片言隻句ばかり。誰もその意味は理解はしてない様子がよく分かりました。あんな世界に1日10時間いりびたったところで、「江藤淳」も「保守」も分かりはしないです。わかったふうな誤解が広まるだけさ。やっぱり図書館ってのは偉大ですなぁ。オレは良い図書館のある神大を偶然に選んだのでラッキーだった。大図書館や専門図書館の集中する東京都内で10年以上も暮らせたことも幸運というしかない。ホント痛感しちょります。そのころに図書館で貯め込んだ知的資産で今、こうして喰ってるようなもんだからね。ちなみに東工大の図書館は残念な施設で、オレの役にはあまり立たなかった。その代わりに都立中央図書館や国会図書館などがあったから、困らなかったのです。

U:「保守」とは何なんですか?

H:それについては参考書は1冊しかないってことを今回、確認できました。エドマンド・バークの『フランス革命についての省察』。江藤先生も、『保守とは何か』を書くときに、それを参照した痕跡が明瞭ですね。バークはこう言っている、と、ずばり書かれてもいる。ただ、複数ある和訳バージョンのうちどれを参照したかまでは、不明。それ以外には、江藤先生は、何か参考にしたという形跡はないですね。

U:「保守とは感覚」である、とかいうものでしたっけ?

H:バークは「感情」だと書いていた。それを江藤先生は、マルパクじゃ芸がないってんで「感覚」に直したのかもしらんね。……で、その意味、分かります?

U:分からないですね。

H:そうなんだよ。「ああそうですか」で引き下がっちゃダメなんだ。ここは分かりにくいはずなんだ。手短かに言うとですね、イギリスの貴族たちは、とっくの大昔から、王様の権力に対抗して「自由主義」政体を集団的武力でもぎとっていた。その自由をずっと継承してきていた。名誉革命よりも以前からですよ。だから彼らにとって「保守」とは、イコール「自由」であり、守りたいのはあたりまえなんですよ。自由が世襲財産みたいなもんなのよ。革命すら保守であった。名誉革命では貴族も王様も同じ法律で縛られることが確認された。法の下の平等です。これがなかったら自由なんてものも保障されませんからね。逆専制に流れるに決まってるんで。そんな基本のところが、ちっともわからないのが、儒教圏(シナ・朝鮮)の特権大好き連中と、日本の儒教馬鹿(教育勅語奉賛右翼)だ。しかし考えてみれば、英国の自由の伝統は、いかにも英国だけのユニークな地理や歴史の、たまものでしょ。したがって、とてもじゃないがユニバーサルな応用など、できない。英国の外にある他国になんかあてはめられない。フランス人相手に英国インテリのバークが、それをフランス人の好む理詰め式に説教することは不可能だったんです。だから「感情」としておいた。

U:そのイギリス式の保守がどうして日本に輸入できるのですか。

H:明治維新が自由主義革命だったからです。維新を保守することは、五箇条の御誓文の精神を保守することです。それは儒教的不平等を捨て、上下関係しか存在しない独裁親近の儒教圏とは訣別して、法の下の平等に担保された近代的な自由主義をめざすという大方針でした。この五箇条の御誓文の策定に参与したひとたちは「英語スクール」でしたろう。米国人宣教師経由で、英国伝来の自由主義思想が入っていたんです。ところが反動勢力(これには明治天皇ご本人が含まれていたことは『大日本国防史』で説明した)が後から儒教思想全開の「教育勅語」を押し込んだために、明治維新は暗い色調に塗られてしまった。それでも徳川時代よりはずっと自由ですが……。という次第で日本の保守といったってそれはバーク時代の英国人とは違ってまるで「所与」じゃなかったんだから、クリエイトしつつ同時に防衛するという、いばらの道さ。そんなの、楽に説明できるような話ではなかった。江藤先生の生前には、そこまで話は整理できなかったでしょう。というのは江藤先生は若いときに結核のうたがいをもたれたために、官僚となる人生コースをはやばやと諦めている。それをいいことに学生時代に漢学にそっぽを向き、仏文とか英文ばかりやっていたから、儒教そのものに不案内で、儒教の正体というものがおわかりにならなかったのです。そこにはいまひとつの〈突破できない言語空間〉があったかもしれんね。

U:だから三島由紀夫も〈江藤はいまごろ朱子学かよ〉みたいな嘲笑をしていたのですね。

H:漢学教養が無いとズバリ指摘されたことは、江藤先生にとって死ぬまでトラウマだったでしょう。だけど、三島じゃなくたってそんなこと指摘できることのはずなんだけどね。1960年前後は日本の漢学が若いインテリからソッポを向かれた率において、あるいはどん底の時期だったのかもしらん。そうだとしたら、納得できる。三島だけがそれを言えたという事情がね。三島はさいしょ、親の意向で官僚コースを進んだ人ですよ。戦前の官僚は漢文をキッチリ修めてないと採用後に上司から文書作業を任せてもらえませんから、家の伝統でその勉強を強制され、漢学のおさえるべきところはぜんぶおさえていたんでしょうな。で、シナ人も保守の悩みに擬似というか類似の悩みがあった。孔子の主張とは、春秋時代の周のしきたりが人間社会の理想であるから、今の人も全員で全力で墨守しなさい、ってことだった。しかし何百年も経過して、シナの経済は発展し、人口は増え、家族関係も変わり、国家のひろがりは昔と違い、農奴獲得戦争なんてゆるされなくなり、物質にも精神にも社会にも時代の進運がつきものですわな。流れは止められっこない。宋儒(代表は朱熹)も明儒(代表は王陽明)も、いまさら春秋時代に戻れるわけなんてあろうか、ってことはわかってました。経済がとんでもなく発展してたから、いきおい「利」を追求する役人が朝政を牛耳り、それに反発して儒者があらためて「義」を説いた。それは孔子時代にはなかった事態だから、孔子の説からは離れ、いま保守すべき「道」をあらたに定義し説明しなければならないという大ジレンマに彼らは直面して、彼らなりのロジックを洗練した。三島はとっくにその跡を辿ったことがあったから、いまさら朱子学とかちゃんちゃらおかしかったはずです。

U:三島さんが楯の会をつくったのが1968年で、市ヶ谷駐屯地突入が1970年でしたかね。

H:きっと貴男の生まれてない時代でしょう。わたしはちょうど1960年生まれですから、長野市立吉田小学校の図書室の壁の高いところに、日本の偉い小説家の肖像写真が横一列に並べられていた中に、三島が含まれていたのを覚えています。「あの写真の人が大騒動を起こしたのか」と、ひとりでひそかに興奮しました。もちろん行動の背景なんかわかりゃしません。

U:江藤淳は楯の会をみて、軍隊ごっこだ、と評したんですか。

H:たしかそうじゃないですか。「ごっこ」という悪口で呼んだ早いケースだったのじゃないでしょうか。まあ、今の軍事オタクが見たって、こりゃ「ごっこ」といわれてもしょうがないわな、と同意するレベルです。今ならば、「アニヲタかよ」みたいなね。これは日本の本当に不思議なところで、とうじなら、まだたくさん生きていた元気の良い旧軍人たちから、武器訓練や戦闘訓練の稽古をつけてもらおうという発想が、左右ともに無かったのですよ。

U:「男塾」がどこにも存在しなかったんですね。

H:そうなんだ。彼ら過激派は、銃も爆弾もけっして用意しませんでした。左なら火炎瓶、右なら日本刀、ただし軍刀術や銃剣術は知らなくて、学生クラブの道場竹刀剣道でね。それで何をしようっていうの? まあ、こんな不可思議きわまる1970年前後の特殊な国民心理構造を分析するのは、別な機会に譲りましょう。ひとつ若い人に注釈をしておかねばならないことは、1969年以前の大学生は、人数的にもまさしく「少数選抜エリート階級」で、このグループだけが将来も日本の運命を決めると思われてた。小林秀雄も江藤先生も、だからその階級だけを相手にしたんだと思うよ。そんな考えがあたりまえに通用した最後の時代に、つまりインテリだけの牙城であったはずの大学が、70年以降すっかり大衆化し、「遊び場化」あるいは「総〈学習院〉化」し、特に語学力が無慚に低下して行くという端境期に、三島は、王陽明に共感したらしい。西郷隆盛は陽明学を実践したんだ、と三島が信じたかどうかは知らないが、王陽明は、ノン・エリートの中にも聖人のタネはあるんだと考えてたので、ノン・エリートや残念な学力の人が大学に進む時代にはマッチしている。

U:江藤淳は、楯の会がもっとホンモノの軍隊っぽかったら、エールを送ったんでしょうか?

H:わからねぇ……。ただひとつ言えそうなことは、江藤先生は、三島の頭の中はよく分かっていると思っていたんだ。三島を評論できるのはじぶんだけだという自信があった。その上での悪口なんですよ。

U:漢学の教養に落差があるけれども、文業については理解をした上で、反対だったということですか?

H:そんな感じです。これは詳しく説明しないと誤解を招くね。東工大の研究室には大きなキャビネット・ロッカーがあって、江藤先生は、大事な手紙をぜんぶその中に保管してあったんですよ。カギがかかってるわけじゃないので、わたしも朝とか夕方や休日に見てやろうと思えばいつでも見放題な状態でしたが、院生当時のわたしは文学なんかにはほとんど興味がなかったので、文人が批評家に宛てた私信なんかコッソリ拝見したところでしょうがないやと思ってました。しかし江藤先生はそんなわたしに向かって、〈その中には三島由紀夫から来た手紙も保管されている〉と何度もおっしゃるんですな。今、思うに、それはどうやら江藤先生にとっては、大自慢の証拠物件であったようです。

U:三島の新作についてのなにかの書評文みたいなのが、三島にえらく気に入られたことがあったんですね。

H:それでしょうな。自分のアレを理解してくれたのはアンタだけだ、みたいなことを、三島はよほど感激したのか、わざわざ私信にしたためて江藤先生に郵送したことがあったようです。で、江藤先生はそれを受け取ったのが、文芸評論家としての、公然のご自慢であった。それで、批評家の役目としては三島の行動をけなすけれども、三島の頭の中は知っているよ、みたいな自信があった。

U:三島があんな行動に走ったのは、小説で勝負できなくなったからだろう、みたいなコメントを、江藤淳は残していませんか?

H:早くから残していますね。三島は文学作品が書けなくなったから死んだのだ、と、わたしのような芸術世界の門外漢に向かってまで、再三、仰った。ということは、それは1970年当時だけでなく、晩年までも江藤先生のご確信だったとみていい。

U:そういう江藤淳も、脳内出血でうまい作文ができなくなって自殺をしているのではありませんか。

H:う~ん。会話には何の不自由もなかったように傍目には見えたんですがね。得意の文章をつくるのには苦しまれるようなことが、あったのかもしれませんね。……すいません、話をまた戻しますよ。60年安保以降、日本の若いインテリたちが、あくまで言論だけで勝負するか、それとも、言論プラス、肉体的・物理的暴力で勝負を仕掛けるかという、分かれ道があったと思うのです。

U:江藤淳は言論だけで日本を変えられると考えてたのですね?

H:晩年はともかく、お若いころはそうだったでしょう。大学生が今より桁違いに少なくて、その少数のインテリだけ覚醒させればいいという時代だったから。その「言論」には、マスメディアだけでなくて、国会議事堂もあったでしょうね。「変える」とは、何を変えるんだということになるでしょう。それは、「1946憲法」なんですよ。あくまで。江藤先生の人生を賭けたゲームで、ぜったいにこいつを倒すんだと、肚をくくって射弾を集中していたボスキャラは、「1946憲法」なのです。みんな、ここが分かってませんよね。言語力が足りないと「1946憲法」を疑うことすらできないのです。これはおかしいという「勘」が働かないという状態。それが「閉ざされた言語空間」。これは一秒でも早く打破して葬り去らねば、日本の天皇制が破壊されてしまい、そこから日本全体も破壊されるんだと、そういう恐れをお持ちであったように思う。だから、早急に「改憲」か「廃憲」を実現してくれそうな国会の新星には常に期待を寄せられた。一時期の小沢一郎に嘱目したのだって、ただ一点、その可能性に賭けたかったのではないか、と、わたしは想像する次第です。

U:小沢に改憲とか廃憲とかは無理でしょう?

H:小沢氏をとりまいていた若い人の中に、誰か有望そうな人でもいたんでしょうかな。いたとして、それが誰だったのかは、私には見当もつきませんし、今となっては、あまり興味も湧かないことです。

U:最晩年の江藤淳は何に期待したんでしょう? 小沢にも、岩手に帰れ、とよびかけましたよね。

H:文筆や議会を通じて日本人を説得することに絶望しかけていたと思える節はあります。小説の新人賞だかの審査員もじぶんから降板してるしね。日本の文運そのものがおちぶれてしまったと、心のなかで歎いておられたのではないでしょうか。日本人の日本語能力が低下したとすれば、それは「1946憲法」の反日毒が日本人の総身に回ってきたからだ。これじゃあもう改憲なんてじぶんが生きているうちには無理らしいと諦めたから『南洲残影』を書いたんでしょう。西郷隆盛に同情・同感するってことは、三島の「軍隊ごっこ」や、陽明学者風の蹶起を、事後承認したのと同じことですね。このことはわたしは、リアルタイムではぜんぜん気付かなかったのです。とにかく私は三島の文章が肌に合わん。どこが面白いのか分かりませぬ。ゆえに、興味が持てないので……。いまだに三島の小説は一作も読み通せてないというザマです。さすがにエッセイはできるだけ読みましたけれどもね。感心したという記憶はありません。しかしそこを棚に上げまして、今は私には、そうだったんだろうな、と思えます。

U:『南洲残影』は、小説としてはなにがやりたいのか不明な作品でしたね。

H:すこしも面白くありません。念のために言えば、もちろん三島の足元にもおよばぬシロモノです。もし無名の新人があんなのを書きあげたとしたなら、どの出版社も真剣に相手なんかしてくれませんよ。資料は二次的なものをごく浅く参照しただけだ。独自の新見解が盛り込まれているというわけでもないし。ただ、三島の焦燥と絶望に、ついに自分は今は同情ができるようになりましたよ、と言いたくて、あんなものを発表したのではなかろうかと、わたしには思えるのです。しかし、あれで企画が通るんだから、文学の世界はユルユルだな。

U:日本人を説得して対米再戦でもしたかったんでしょうか。

H:「1946憲法」をとにかく一秒も早く投げ捨てないと、日本人は言語に於いて不自由になる。狂った言語がつくるバーチャルな牢獄の囚人になって、そのうちリアルな外敵から亡ぼされてしまうんだぞ――というのが江藤先生の危機感です。低能保守にもニューアカ(死語)にもこれはまず分からないところなんだ。まず自由な言語があって、国民の自由があるってことが。「1946憲法」で規定される言語空間は、不自由空間そのものなのですよ。そんな言語の不自由空間をブチ破って自由になるためには、よい「勘」を得るためのよほどの言語力、よい「感情・感覚」を得るための読書量が必要でしょう。ただし、インターネットでは図書館の代用にはならない。だから1日に10時間ネットサーフィンしたところで、「ネトウヨ」や大衆には、じぶんたちが不自由な言語を強制されているんだってことに自分で気付けないのです。それに気付けるだけの素養というか「勘」は、ネット閲覧を通じては得られないのです。

U:「閉ざされた言語空間」……。

H:それですよ。その言葉は覚えてほしい。みんな、鏡張りの座敷牢に入っている。ここに罠があって、それに今じぶんの全身がひっかかっているんだ、っていう自分の問題に、自分で、気付けないまま、歳をとっていく。これが、外国人と売国奴に強制された人工言語の牢屋の怖さ。ネトウヨ界からはあまり「改憲論」や「廃憲論」が出てこないのは、図書館利用の少なさに対応しています。検閲をかいくぐる智恵の限りが尽くされていた戦前の言論からずっと読んで来ないと、彼らの頭の中で、憲法がそんなにも重大なことなんだとは意識できないはずです。言語力がないから、戦後のマック偽憲法の反日毒に気付けず、そうして、マック偽憲法が漫然と放置されて続いていけばいくほど、天皇をいじくって日本の革命防波堤を除去してやろうという外国の策動が有効になり、日本人の言語はいよいよ不自由になるのです。これに三島が焦ったのはさすがというか当然だったし、その三島の焦慮に江藤先生が追い付くのは、いささか遅すぎましたよね。

U:江藤淳は漢文はできなかったが仏文や英文ができて、それで「1946憲法」の害悪を見破ることができたというのは、大したものではないんですか。

H:いわれてみればそうだね。それだけ日本語がおできになったということだね。常人のレベルを超えた日本語力をお持ちだから、認識ができたのだ。江藤先生は、漢文はダメでした。ダメというのは、暗号解読のようにして意味を取っていくことは、漢字と文学の知識を総動員して、できるのだけれども、スラスラと訓読、つまり日本語式に読み下して味わうといったそんなレベルではなかった。おそらく、子どものときから馴染んできたわけでも、青年時代に大好きではまっていたというわけでもない。しかしそれだと漱石評論なんか続けられんから、無理にも勉強をされていたという一現代人でしょう。とうとう作詩はおできにならなかったはずですよ。……もちろんわたしもできゃしませんよ。念のために言うけれども。……今でもいらっしゃるでしょう。とてもじゃないが漢詩を味わえるような漢文の教養もお持ちでないのに無闇に漢詩などを引用して自己演出にこころがける、「文士願望」がよほど強い人が。ああいうのは江藤先生の「悪真似」でしょう。人の悪真似してどうするんだっての。

U:そう考えると、図書館には及ばずながら、インターネットや大規模投稿サイトだって、「閉ざされた言語空間」の打破に確実に寄与するはずでしょう。じっさい、ネットの普及で反日左翼は明らかに退潮していますが。

H:ああ、仰るとおりです。ニューアカで商売ができなくなったのもネットのせいかもね。あれはネットが図書館の代わりになっちまう。ネットがあれば、ニューアカ先生は用済みだから。……ところで、三島と楯の会がやらかしたこととは違ってネット右翼は人の腕を斬ったり首を刎ねたりしてません。左翼のように爆弾も炸裂させていません。他者の悪口を言うとかで一部から嫌われているらしいが、江藤先生が生前、活字でどれだけ無責任に「口撃」されたか、みんな忘れてるのか。江藤先生は、ご自分について何か活字で悪口が書かれたものがあると、どんな低レベルのくだらないものでも、いちいち保存しておられたものです。ブログもソーシャルネットワークもなかった当時、誹謗・脅迫が入り混じるああいう「らくがき攻撃」に事実上反論することを封じられて、ずっと堪えて生きてたことが、どれほどのストレスであったか……。オレにはあんな真似はできねぇ。わたしは自分に関する書き込みなんか読みゃしませんよ。良い影響は受けないって学んだんでね。まあ、あの時代の左翼の江藤タタキと比べていまどきのネット右翼の書き込みなど、おとなしいかわいいものでしょう。

U:ネットの匿名性はどう考えるべきでしょうか。

H:日本人が「閉ざされた言語空間」を打破するのに、匿名リークのできる空間があることが、有益か無益かを考えたら、答えは出るよ。

U:本当にありがとうございました。

H:どういたしまして。

おしまい


兵頭二十八先生より皆様への「虫のよい無償調査発注」

(2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

(兵頭二十八先生より)
 いつもお世話になっております。前回ちょっとお尋ねした「排水量換算表」の件では、改めて、このサイトの底知れぬ深さを認識させられたように思っております。
(尤も直接読んでないので甚だ恐縮なのですが…。管理人様、いつもすまないねえ…。それは言わない約束? おお、そうじゃった!)
 そこで、図に乗りまして第二の「発注」を致します。皆様には是非、下記についての書き込みをしていただけますと誠に幸いでございます。
 これらは無論、本来であれば兵頭本人が図書館を回って調べねばならないのですが、現在、兵頭には複数の雑誌原稿の入稿〆切が切迫しておりますため、多少時間を「巻き上げ」たいのであります。勝手ですが、「軍事関係の蔵書ほとんどゼロなのにオピニオン誌の編集者たちからは立派な『軍事評論家』だと思われている軍学者」の生計のため、ひとつ「特急」で宜しくお願い申し上げます。
 薄謝として、管理人様が保管する「写真」のうち、「最もくだらない一枚」が貴男の自宅へ直送される……かもしれません。これはあまり期待しないで下さい。


(管理人より)
 下記全ての「御下問」について何か御存知の方は是非掲示板に御投稿下さい~。ええ、住所と御本名をメールで御教え下されば、各設問に対して無条件で先着5名様に焼き増ししたのを喜んで送らせていただきます!よろしくお願いしま~す!

※2020年現在、掲示板は当サイトには存在しません。


長期募集

 日米戦争中、米軍から日本兵に投降を呼びかけたビラ(伝単)で、「白旗を持って出てきなさい」と書いたものが、あったか否か?
 これについて些細な事でも御存知の方は、是非、情報を掲示板へお書き込みください。
 なぜ兵頭がこんなことに関心があるのかは、月刊『発言者』をずっと愛読されて
いる方にはお分りですね。けっこう見逃されている部分なのであります。

これまでに寄せられた御投稿

No.2

http://www.iwojima.jp/data/handbill.html

http://www.city.yokohama.jp/me/soumu/sisi/war-colect2.html

http://village.infoweb.ne.jp/~pms/Tenji/dentan.htm

http://asao20.hp.infoseek.co.jp/dentan.htm

http://www.asaho.com/jpn/bkno/2002/0318.html

http://history.independence.co.jp/ww2/phtop.html

書籍
「紙の戦争 伝単」平和博物館を創る会・編 エミール社

御投稿者:水 様
2003/02/15(Sat) 20:13


No.1
 某有名プラモデル雑誌上でミリタリー関連のインターネットHPを紹介するコラムを長年書いてこられている大先達の三貴雅智様から、次のような貴重な情報を、別ルートにて頂戴致しましたので、謹んで皆様にお知らせし度いと思います。
http://members.aol.com/RLobinske//Saipan.html に、“Military Life on Saipan 1944-1945”という頁があり、1枚の「生命を助けるビラ」の写真が載っています。
 太平洋戦線で米軍が撒いた勧降伝単の実物だ。
 これです!
 こういう情報を求めているのです!
 ちなみにこれを見る限り、米軍は日本兵に「白旗」を要求していなかったことが分る。この例外のリーフレットは、どこかに残ってないか?
 あるいは、記録文中で言及されてないか?
 ビルマ戦線では?
 引き続き、幅広く情報をお寄せください。お待ちしております。
 三貴様、どうもありがとうございました。サ・ス・ガ……です。
 久々に「ハヒャッ」とうならされてしまいました(楽屋落ち・1)。
 ぜひ『軍事新潮』、略して「ぐんしん」の秘密メンバーになってください(楽屋落ち・2)。

兵頭 二十八 先生 より

※管理人注  リンク先にコンテンツがもう存在しないものはURLの記載だけしております。


聴取期間終了
(兵頭二十八先生より)
 お世話になっております。
 北朝鮮工作員と在日米軍関係の質問は、雑誌の締め切りが過ぎたので、打ち切ります。
 ご協力ありがとうこざいました。


(管理人より)
1:掲載媒体はクローズドな雑誌である。
2:情報を提供した方でどうしても読みたいという方は、「管理人」の手に渡されたコピーをfax(或いは別の方法)します。

御下問:四

想定状況:
 あなたは北朝鮮のトップ・リーダーである。朝鮮半島で戦争が起きることが確実となった。さあ、あなたは工作員または正規軍その他に、日本国内にある米軍基地または米軍関連施設を、どのような優先順位でどのように攻撃するよう、命令を出すか?その理由は?

--聴取期間は、2月中旬まで。みんな、相手の身になって考えよう!

これまでに寄せられた御投稿

No.4
私は、どこに基地があってどこに施設があるのか全然把握してないので具体的な場所は言えませんが

ただ、私でも言える事はおそらく真っ先に米軍の通信施設・通信関連施設は破壊するでしょう

チェ・ゲバラもボー・グェン・ザップも共通して指摘するように「敵の通信を切断する」ことが劣勢にあるゲリラ側を勝利に導きました。だから、何よりも米軍の通信施設・アンテナ・ケーブルを切断・使用不可能にすると思います。

御投稿者:谷口公一 様
2003/02/06(Thu) 22:03


No.3
横田基地を最優先目標に選定しました。その理由として、
①在日米軍の元締(=自衛隊の元請)がいる
②最大の空輸拠点である
③弾道弾で狙った場合、たとえ逸れたとしても周辺の町に被害を与える(嘉手納だと海)
④関東一円の交通(=物流)を遮断できる

基地や軍関連施設以外ならば、東京電力の給電制御所(システム)でしょうか。
停電に続いて発生する混沌で「日本」を長期間無力化できるかと。

あと、さしでがましいことを申し上げるならば、家族住宅やアメリカンスクールを
狙うのは逆効果だと思います。昔どこぞの国が行った奇襲攻撃のように、
兵士および国民の士気を沸点まで上昇させ、無差別報復の許可証にサインしたことになると思われます。

御投稿者:カミノクレッセ 様
2003/02/03(Mon) 23:36


No.2
やっぱ「家族住宅」でしょうか。

理由は「米国民の厭戦意識の喚起」と「つぎは日本!!」ってメッセージを送ることで「日米分断」を図るってことで…

「日本国法令でこの施設の中に入ることは禁止されています」
みたいな看板を見ると血圧があがります。

御投稿者:横浜市民 様
投稿日:2003/02/01(Sat) 15:06


No.1
 今晩は、手持ちの資料に米軍基地の所在地を示しているものがないことに気づき、途方にくれているバッタンバンでございます。
 そうゆう訳ですので、単なる思い付き程度の意見ですが書かせていただきます。正規軍が採るべく方策は、横須賀軍港もしくは岩国基地への弾道弾の集中攻撃だと思います。その理由は、
 ①前者は基地面積が広く、敷地内のどこかに落ちる可能性が高い、後者は北朝鮮本国から近いため弾頭重量の大きいものを攻撃に使える。
 ②周辺海域の水深が浅く、交通量も多いため、海に落ちた、不発弾を無視できない。
 などです。
 工作員には、米軍基地周辺の歓楽街に時限爆弾を仕掛けたり、米軍基地当てに、白い粉の入った封筒を送りつけたりして基地の警戒レベルを上げさせることが良いかと思います。
 役に立つのかはなはだ疑問ですが、僕はこう考えました。御投稿者:バッタンバン 様
投稿日:2003/01/29(Wed) 23:30


(兵頭二十八先生より)
 某雑誌原稿の〆切が過ぎましたので、「着弾」と「国内全般テロ」の情報募集も打ち切ります。有益な御書き込みを戴いた皆様、誠に有難うございました。某雑誌ですが、2月中旬に全国書店に並ぶと思います。

要聴取情報・其の三

 あなたが日本国内に潜伏中の北朝鮮工作員であったとして、本国から「法律を一切無視して何でもいいから日本国内に最大最悪の混乱を起こせ。それも5日以内に!
 最後にはおまえも死ね」と極秘に厳命されたら、あなたはどこ/誰をどのように攻撃または工作するか? あるいはそれとも、その命令の実行は他の仲間に任せることにして、あなたは何かをしたフリだけで済ませ、引き続き日本住民としての自由なライフを延長しようと画策するか?

これまでに寄せられた御投稿

No.10
まあまず気になったのは、北朝鮮工作員ということをわかるように事を起こすのかそうではないのか。「死ね」という命令は死が確実にあるような工作をしろということなのかそれともどんな工作をして例え生き残っても死ねということなのか。継続的なテロは認められないのか。
などなど。まあ実際そういう命令が来たら、こんな風に聞くことは出来ず、ただ従うしかないのでしょうけど(苦笑)
自分はインフラを狙うテロ(水道、電気施設の破壊もしくは無力化)を考えたりもしましたが、食品に毒(細菌)を盛るのも面白いかなぁとも思いました。まあ、せこいですが(苦笑)
あと、他の仲間に任せて自分はエンジョイは難しそうですね。効率的な工作を行うには工作員同士のネットワークの確立が不可欠だと思います。ということは、各々がそれぞれの所在地を知り、そうでなくても工作員同士の情報交換で自分のことがばれる可能性もある。そうなれば自分は味方を裏切った(首領様のために死ななかった)奴として狙われるかも知れませんしね。
ただ、何か行うとして、全て自分で調達するのか、それとも本国から送ってくれるのか。これによっても自分が出来る範囲は変わってくるので、一概にはいえませんが・・・
後は、混乱を起こす目的でしょうか・・・
首領様のお心は知れない、といったところなのでしょうけど。

御投稿者:楠 様
投稿日:2003/01/28(Tue) 17:58


No.9
朝鮮総連工作員 張 龍雲 小学館文庫のp21-p23から引用

非公然活動が最近下火になっているというのは大きな誤解である。事態はかえって深刻になっている。なぜなら1990年代に入って、ことに1998、99年の二年間に、北朝鮮の工作員の任務対象が大きく変わったのである。ひとことでいうと、今までの対韓国(対南)工作活動中心から対日工作活動へと比重が大きく移ったのである。軍事面から見て、韓国と日本が同等の敵国となったのである。今までは韓国潜入のための経由点、あるいは資金面の工作対象に過ぎなかった日本が、軍事的攻撃目標、あるいはテロの対象に格上げになった。
情報筋によると、行動のための日本国内調査や下調べは完了しているという。「テロならいつでもできる」ということだ。対象は横須賀や沖縄など米軍基地の所在地を筆頭に、都市の生命線である電力供給施設にも及ぶ。
私の知らない別系列の非公然組織が、この種のテロ活動をテストケースで行っているらしい。そうした事件が、この何年か徐々に増えてきている。たとえば愛媛県の松山や兵庫県の淡路島で起こった、高圧送電線の鉄柱のボルトが何者かによって緩められた事件が、それである。このようなきわめて反社会的なテロ活動が、普通の日本人によってなされる事件ではないことは明白である。
何の犯行声明もない。愉快犯とも思えない。この種の不可思議な事件は、北朝鮮の破壊工作のシミュレーションもしくは訓練と見たほうが妥当であろう。現に日本の公安筋もそう考え、私に確認を求めてきた。
電気、交通など日本経済の動脈を寸断し、社会を混乱させることを狙った犯行である。挑発行動か、進行中の交渉への威嚇かもしれない。 略

なにも警備の厳しい原子力発電所やそのほかの発電所、ダムなどをわざわざ大量の爆薬で破壊する必要はない。送電線の数本を切るなり倒してしまえば、都市機能を停止させるには十分なのだ。
北朝鮮はそんな愚策を弄するより、スパナや電動工具を使って日本民衆の厭戦感を助長する工作だけで、目的を達成できる。
この点、日本では北朝鮮のこの種のテロ活動には全く無防備というほかない。北朝鮮側にとっては、特別な装備も武器もいらない、このような作戦がより実用性が高いのである。

引用終わり

確かに、元工作員の証言だけあって、鋭い。

読売新聞1999年11月23日の報道に拠れば空自のT-33ジェット練習機が墜落し、高圧線を切断し、東京都内や埼玉県の80万世帯が停電を起こし、鉄道も一時ストップし、信号、自動券売機、銀行・郵便局のATMが止まった。東京証券取引所で、国際証券先物オプション取引で一部会員の銀行、証券会社の端末が動かなくなり、約30分間取引を中断したと報道されし、
送電線を攻撃する事はリスクが少なく効果が意外に高い。
 その他に1986年3月23日、雪の重みで鉄塔が倒れ、神奈川県、静岡県などで133万世帯が停電したという事件もあるし、送電線を攻撃するのはかなりの混乱を起こせるのではなかろうか?。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/25(Sat) 00:08


No.8
(管理人注:No.4に対してのレス)

 国土地理院の2万5千分の一「興津」
http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/nph-mm.cgi?mesh=5238443&res=0)をごらんいただければお分かりいただけるように,若干両者には距離があります。ですからトンネルを通行不能にするよりも、興津川の橋梁を破壊することを考えたんです。ま、この方法を採るなら、大河川(多摩川天竜川など)のダム堰堤を破壊するのがよいでしょうが・・・。
 あくまでも軍師殿の設問は実行可能な方法を考えろ。という、知的実験(っていうか頭の体操)と私は考えたんですが、見解の相違があるようですね.確かにダダ龍様の挙げられた施設に対する警備手段は貧寒としたものです。有事法制が無い以上、警察力に拠って守備せざるをえませんし,警察力自体手が回らないでしょう。テロ実行のイニシアティヴは相手方にあるわけですし。

御投稿者:螺鈿 様
投稿日:2003/01/22(Wed) 19:51


No.7
もし、私が北朝鮮の工作員なら、
素手ならば、火炎瓶を大量に作って警察・消防署に投擲する

武器を使えるなら、AK47・RPGを持ってNTT・放送局(NHK・民放)に乱入して抵抗する警備員・職員を処断して手当たり次第
放送設備に手榴弾を投げ、RPGを撃ち出来る限り破壊する。

こんな事にならなければいいと思うが、戦争になれば
向うは、「殺る」だろうなぁと考えます。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/22(Wed)


No.6
駅前や繁華街の広場にある噴水の水源に培養したサルモネラ菌や真菌類を混入するのが良いと思います。こういった場所では人通りも多く、汚染された水も飛まつとなって飛び散るので効率よく多くの人間に感染させられると思います。問題は、通常の風邪の感染対策で予防できてしまうということでしょうか。

御投稿者:バッタンバン 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 23:31


No.5
 北朝鮮工作員として我国を混乱に落とす事を第一とするならば今上帝並びに直系の皇太子殿下二名の暗殺が最も効果が有ると思います。
 永続すると疑わぬ「日本」の象徴としての皇統を断たれるという事態は人々の心に必ずや大きな混乱を引き起こすのではないかと考えます。

御投稿者:枯山 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 20:23


No4
(管理人注:No.3へのレス) 

>  ①回線のバックアップルートが存在すれば、無意味となるのでは無いでしょうか。

回線ではなく、中枢、すなわちホストコンピュータと、そのバックアップが対象です。

> ②大規模な土石流を起こすことが可能な方法はあるのでしょうか?

新幹線と東名高速は、それぞれ興津トンネルを通行不能にすればいい。土石流は不要でしょう。

→ま、いろいろ方法はありましょうが、わたしが示唆したいのは、これらの施設が他の重要施設ほど厳重な管理下にないという点です。破壊活動に対する早急な対策が必要です。

御投稿者:ダダ龍 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 15:48


No.3
(管理人注:No.2へのレス) 

 ①回線のバックアップルートが存在すれば、無意味となるのでは無いでしょうか。マイクロ波回線なら割り込むことも不可能ではないでしょうが・・・。
②大規模な土石流を起こすことが可能な方法はあるのでしょうか?新幹線は東名高速より1キロほど山の手をトンネルで抜けていますし・・・。4つのルートが地上で近接している地点としては、由比町由比地区付近が挙げられますが、それでも一キロ少し離れています。(手元の「マックスマップル東日本道路地図」による)この地区を流れる河川に大規模な土石流を起こす方法があるならいいんですけどね。核兵器をここで使用してもコストとベネフィットがつりあわないのではないでしょうか?
 どうせ核兵器を使用するなら、万景峰号で持ち込み、大型トラックで任意の原発、柏崎刈羽でも志賀でも、あるいは状況が許せば東海でも構いませんが、そこで爆発すれば、首都圏にパニックを引き起こすこともできるのではないのでしょうか?
 なんにせよ権力行使者を狙う必要がありますのでやはり、首都圏で行う必要があるでしょう。また大マスコミ関係者に生命の危険を認識させないと大規模なパニックをある程度長期に渡って、起こさせねばなりません。
 麻生幾の小説ではありませんが1000人単位の草に伝染性と致死性が高く、免疫をもつ人が少ないウイルス(小説では天然痘だったと思いますが)に罹患させ、都内に徘徊させるのがいいと思います。軍師様が「お前も死ね」と設問されているのですから・・・。しかし、北鮮は今何かやろうとしても「意在っても力なし」の状態でしょうね。
 はい、自己訂正です。F-16が飛来したのは関西空港でした。恐らく、極東有事の際には米軍が使うのでしょうね。

御投稿者:らでん 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 12:00


No.2
 最大最悪かどうかはわかりませんが、①日銀ネット(金融機関と日本銀行との資金決済につかうネットワーク・システム)および全銀ネット(銀行間の資金決済につかうネットワークシステム)の中枢を破壊したら、カネのながれがとまり、②由比から興津にかけての隘路(興津トンネルなど)に障害をもうければ国道1号線、東名高速道、東海道新幹線、東海道線がとまり物流が麻痺するでしょう。

御投稿者:ダダ龍 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 11:22


No.1
 恐らく北鮮中枢はわが国の中枢に対し、ある程度時間的な幅を持って混乱を惹起させたいと望むでしょう。しかしながら、必死の決意を持ち、テロを行うには、高い志操を持ち、体制に殉じる確信がなければなりません。もしそうでないならば、現今の朝鮮総連の運動家や北鮮シンパがそうであるように日本国内における法の下の平等を否定し他の在留外国人に絶した特権を要求し続けるほうが安全安価であると思います。だってねえ、草だって日本の安楽な生活の方が快適でしょうしねえ・・・。うんで、適当にこう、営業開始前の新幹線の線路に置石したりして・・・、偉大なる戦果を挙げたとやる気のなさ全開で行動したりして・・・。

御投稿者:らでん=螺鈿 様
投稿日:2003/01/19(Sun) 22:54


要聴取情報・其の二

 過去の実戦で、長距離砲弾またはSSMの1発の着弾で、平均して何人の軍人や民間人が死んでいるか? あらゆる時と場所、建物毎に、できるだけ多くの「実例報告」も、出典明記の上、求む。

これまでに寄せられた御投稿

No.10
ジャワ攻略戦とガダルカナル玉砕戦 共栄書房のp307から引用

十月二十四日(土)雨 山形戦死⑦
朝、五時十五分射撃開始。敵砲火益々盛ン。本日ハ総攻撃ノ日、是非共成功セシメ度。一同元気旺盛頑張ル。夕刻ヨリ雨トナリ、砲撃止マズ。十七時攻撃開始、二十一時飛行場占領ノ通報アリ。喜ビタルモ後誤報ト判明ス。雨は夜半迄降ル。本夜ノ攻撃成功セズ。山形菊衛戦死。鈴木三郎負傷(戦闘支障ナシ)。

引用終わり

1942年10月24日のアメリカ軍の砲撃により
日本軍兵士1人戦死。1人負傷。しかし、10日後の11月3日に鈴木一等兵戦死。 
アメリカ軍の砲撃により日本軍兵士に2人戦死。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/28(Tue)


No.9
ジャワ攻略戦とガダルカナル玉砕戦 木村竹治 庭野静三 共栄書房の第Ⅱ部 飢餓の戦場、ガダルカナルの死闘 p308から引用

十月三十日(金)晴一時雨
四時三十分頃敵巡洋艦三、駆逐艦三現ハレ、二時間半ニ亘り射撃ス。陸砲兵ノ死角ヲ海上ヨリ射撃スルヲ以テ困ルナリ。マルデ機関銃ノ如シ。陣地ノ近所ニ四発落下破裂ス。一同無事、夕刻ヨリ雨降リ壕中溢レル。

引用終わり。

当時第二師団野砲兵第二連隊第一大隊第三中隊の庭野静三陸軍大尉の日記に拠ると
1942年10月30日4時30分頃に巡洋艦3、駆逐艦3による2時間半の艦砲射撃を受けた
日本軍砲兵陣地の近くに4発落下したが、陣地に居た日本軍は無事。

ルソンの砲弾 第八師団玉砕戦記 河合武郎のp233から引用

十五榴の殺傷効力半径は五十メートルです。

引用終わり。

日本軍の15センチ榴弾砲の殺傷効力半径は50メートル。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/28(Tue)


No.8
ルソンの砲弾 第八師団玉砕戦記 河合武郎 光人社のp190から引用

四月二十三日、敵の第一波は、まず砲兵の集中射に始まった。午前十時ごろだったと思う。敵の息もつかせぬ砲撃が開始された。 略

米軍の射撃思想は一発必中ではない。弾幕をもって、大網を打つように撃ってくる。同じ山にいても、直距離も余り離れていない河合中隊には、弾着の地響きが、自分が被弾しているようにはっきりと伝わってくる。長い長い恐怖の時間だった。砲撃はやっと止んだ。そこに伝令が壕に飛び込んで来た。大隊本部が大変だという。とっさに、私は壕を飛びだした。まるで軍艦のブリッジのように、整然とこしらえてあった大隊本部は、足の踏み場もない泥と、喧噪の真っ只中にあった。直撃は受けていないが落盤である。上を見上げると不気味にえぐられたその下に、こんもり盛り上がった土の山があった。その山にむかって無数の人が取り組んでいた。手に手に道具を持って、それもない人は自分の鉄帽を脱いで、一生懸命に泥を払いのけている。泥の下には五、六人の人が埋まっているという。

引用終わり

昭和二十年四月二十三日フィリピン・ルソン戦時
アメリカ軍の砲撃により山岳地帯に作った日本軍陣地が
崩れ日本軍側に5・6人の死亡者がでたと

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/26(Sun)


No.7
ノモンハンの夏 半藤一利 文春文庫のp266から引用

須見部隊第七中隊の大高豊治上等兵の日記に、その後のことが印象深く記されている。

「七月十六日 晴
穴ぐら生活も大分慣れて来た。飛行機の爆音によって、敵機か友軍機か判読もつく様になった。朝から砲撃の大試合が始まった。一尺五寸位の大きな破片がとんで来る。聞き馴れるとなんでもない。穴ぐら生活も今日で二日目。水には一番苦しむ。(略)食う物とても、ささやかなものだ。(略)

「七月十七日 晴
穴ぐら生活第三日目、砲の音はどんどん聞えてくる。付近に二、三発当たった。物凄いスリルだ、恐怖にかられる音だ。小林、宮岸に逢えた。平田は負傷したそうだ。二十日の総攻撃まであと三日、元気で嬉しい。前方五百位の所に敵が来襲して来たので眠らずに警戒す」

引用終わり

大高豊治上等兵が篭ったタコツボ?に7月16日、砲弾の破片が飛んで来たが無事

7月17日に付近に2、3発当たったが無事。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/26(Sun)


No.6
グアム島玉砕戦記 佐藤和正 光人社NF文庫 p255-p256から引用

ようやく迫撃砲の射程外に出てほっとした軍医は、立ち止まって部下に休息を命じた。そのとき、十メートルほど横の椰子林に艦砲が落下した。椰子の木は裂けて吹っ飛び、強烈な爆風が軍医を地面に叩きつけた。
「みんな、だいじょうぶか!」
倒れ伏した部下を見回して軍医は叫んだ。両脇に伏せていた二人の兵が頼りない声をあげた。
「やられました、軍医殿・・・・・・」
「よし、見せろ」
いそいで傷口を見ると、太股に小さな破片が当たっていた。二人とも盲管だった。いまは破片を摘出している暇はない。
「軽傷だ、命に別状はない。どうだ、歩けるか?」
「痛いですが、何とか歩けます」
「よし、我慢して歩け、そのうち直る」
艦砲が落下する場所に、おちおち休んでいるわけにもゆかず、一行はもう少し先まで進むことにした。

引用終わり

吉田軍医中尉と十三人の負傷した衛生兵が、グアム島中部の折田・オルドットから北部の高原・サンタロサへ移動中にアメリカ軍の艦砲射撃を受け日本軍兵士に2人負傷

同 p302-p303から引用

(グアム島中部)品川へ出ると、そこに一軒の島民の家があったので中へ入ってみると、及川という海軍の兵と、佐藤という青森出身の陸兵がいて、三人でボソボソ話しながら休憩してたんです。そこへ艦砲が至近距離に落下しちゃった。ドーンと音がしたかと思ったら、うなりをあげて破片が飛んできて、目の前に座っていた佐藤さんの首をスッポリ切り落として柱にバサッと突き刺さった。ワッ!という声が上がっただけで、佐藤さんの頭がゴロッと足元に転がっちゃった。ギロリと目を剥いた無念の形相のまま、頭が床の上で天井を睨んでいるんです。ゾッとしましたねえ。私はあわてて及川と二人でそこを飛び出して一目散に折田へ撤退したんです。

引用終わり

谷島昌一技手は、零戦の計器テストを専門とする整備技術者
証言によると、アメリカ軍の艦砲が至近距離で落下し
日本軍兵士に1人即死 とのことです。

大本営参謀の情報戦記 堀 栄三 文春文庫のp125から引用

巡洋艦と駆逐艦では大砲の大きさが違うが、平均して一発は八十キロと仮定する。 略

一発の有効破壊半径は百メートルある

引用終わり

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/25(Sat)  


No.5
(株)国際出版「Gun」昭和51年4月号の記事によりますと、第二次世界大戦中のドイツによるV-1(Fi103)による初攻撃(1944年6月13日)では、ロンドン、ベスナル・グリーン地区に着弾したV-1により6名が死亡。1944年6月30日にはV-1がイギリス空軍省ビルに着弾し、198名が死亡。

また、朝日ソノラマ「報復兵器V2」(野木恵一)によると、一発のV-1による最大の被害は1944年末にアントワープ市内の映画館に命中したときのもので、観覧中のイギリス兵269名死亡、192名負傷。1944年9月8日のV-2による初攻撃ではロンドン西部チズウィックに着弾し、3名が死亡、18名が重軽傷。

引用開始~
(V-1による)最初の一週間の攻撃による死者は22人重傷者は68人で、平均すると一発当たり死者2.7人、重傷者8.5人となる。この数字はそれまでのFi103による被害、一発当たり死者2.7人、重傷者9.1人とほぼ一致している。
~引用終了。

御投稿者:読書公社 様
投稿日:2003/01/22(Wed) 21:31


No.4
確か、1991年の湾岸戦争時にイラク軍が空爆の報復として発射したスカッドミサイルがサウジアラビアの米軍基地に?着弾してアメリカ軍兵士に約20人前後が死亡した云々
って昔NHK教育で放映されたドキュメント番組のナレーション
を覚えていますが、録画してなかったのでどこが製作したのか正確に指摘できないのが歯がゆい。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/21(Tue) 04:15


No.3
(管理人注:No.2を指して)

↓下のレイテ戦の砲撃戦が書かれている部隊は
第一師団の重砲の部隊です。場所はリモン峠の後方
のカナンガ=ロノイ間の街道付近の叢林から撃ったようです。

闘魂ビルマ戦記 サムライ重機分隊員の死闘 石井貞彦 光人社NF文庫のp368-p370から引用

突如として、はるか東北方でドドーンと砲の連続発射音がした。つづいて、ヒューンと中空高く弾道音がこちらに向かって、まるで弾丸が見えるような感じで飛んできた。私たちは、あわてて西側の路側にとびこんだ。道はかなり高くかさあげしてあった。その急斜面にメザシのように私たちはならんで伏せた。顔をあげて弾道音の方向をうかがうと、星明かりに黒く浮きでて見える、富士山のような山容をもつポパ山の三合目あたりの上空をこえ、私たちの方に飛んでくる。
十センチ加農砲の遠距離砲撃である。
やがて、それらの弾丸は、斜め上方から急角度で私たちの方へ落下してきた。ガガーンと初弾群が炸裂したのは、後方、さきほどまで待機していた谷間付近であった。つづいて四門、四門と八発の砲声が起こるとともに、弾丸が二段になって飛んでくるや、すこし距離をちぢめて炸裂した。弾着はだんだんと近づいてきて、ついには破片が周囲に落下しはじめ、不運にも最後の集弾が、私たちのいる位置から路面にかけて落下してきた。そのなかの一弾が、うつぶせになって両足をすこしひろげていた私の股間ちかくに落下した。激しい炸裂音が全身をつらぬいたような衝撃で、腰がファッと爆風でもちあげられたとたん、サクッと男の急所に激痛がはしった—-やられた!しかも男の急所ときては、いよいよオレも終わりだな。おもえば昭和十七年二月、ビルマ進攻作戦いらい十八年、十九年はアラカン戦線、そしてこの二十年と三年間を激戦の渦中をくぐり、編成いらいの戦友はつぎつぎと姿を消し、中隊にはもう数えるほどしか残っていない。略

片キンとは情けなや
砲撃が終わるやいなや、戦友たちは起き上がってバタバタと路上を走って行く。その足音を聞きながらも、私は起き上がれなかった。傷口はしびれ、痛みも出血も感じないが、力がすっかりぬけていた。と、路上の向こう側で、「片岡、やられた」という声を一瞬聞いていたのだ。片岡(政市)一等兵は指揮班に最近きた補充兵だ。見てやろうと私は、痛みをこらえて道にはい上がり、黒い影にちかづいた。「片岡、しっかりせい!」と声をかけたが、もう言葉もない虫の息だった。右大腿部に砲弾が直撃して片足がふっとんでいた。私一人では手当てのしようもない。 略

その月の光で谷のなかを歩いてくる兵のなかに、大隊本部の菊地伍長をみとめて呼びとめた。彼は崖をはいのぼってくると、私のたのみで、路上の片岡を見に上がっていった。まもなく、「ダメだった」といいながら、私のところへやってくると   

引用終わり。

昭和二十年四月十九日頃
ビルマ西部の第二十八軍干城兵団第二梯団の歩兵百十二連隊の第一(細川)大隊の一兵士の証言

英軍の10センチ加農砲による砲撃八発?で日本軍兵士1人戦死、1人負傷

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/21(Tue)


No.2
われソロモンに死すとも ガタルカナル戦記 光人社1992 の中の鈴木正光氏の遺書となった日記 p282-p283から引用

(1942年)十一月四日。

海岸道、とくに前方に進出なしありし砲兵は、後退をかさねつつあり。前にあれば、後退しつつあるわが歩兵の第一線にたいして、援護射撃をなしえざるなり。 略

ついに一日、前進砲列救援のため観測所を下りしより、いまだに観測所に登らず。中間点-待機所間の往復なり。 略

昨三日、第一中間点においてまた通信手一名戦死せしむ。
その通信手、玄蕃を中にはさみて、右に通信手、左に余と三名寝ありしに、付近に砲弾集中落達。玄蕃の頭部に破片命中せしなり。もし玄蕃あらざりせば、余に命中するところなりしならんも、運なりというか、命なりというか、心に黙しつつ葬る。

ガダルカナル島戦時、
アメリカ軍の砲弾が集中して日本軍側に一人死亡した。 と

レイテ戦記 下 大岡昇平 中公文庫のp45-p46から引用

突然日本軍の105ミリカノン砲一門が反撃した。これは地形上の便宜からこの陣地に配置されていた野砲第二大隊(早尾猛大尉)の10センチ榴弾砲か第四大隊の15センチ榴弾砲一門かである。十一月十七日クラシアンの米砲兵陣地に日本軍唯一の有効な遠距離砲撃を加えた砲であった。この頃は早尾大隊長はじめ幹部将校はことごとく戦死していたが、残った砲二門(他の一門は恐らく10センチ榴弾砲)はちょうど米軍の二個大隊の間隙に巧みに隠されていたのであった。
砲撃は600ヤード東南の米砲兵観測所に指向され、戦死一、負傷十五の損害を与えた。米小火器班の重迫撃砲と二七一野砲大隊の射撃が集中し、対戦車自走砲一個小隊がこの砲を破壊するために前進した。日本軍の砲はまもなく射撃を止めたが、30分後第二大隊が進撃を始めると、再び300ヤードの距離から三発発射した。戦死三、負傷十五。G中隊と対戦車自走砲が側面から攻撃して四人の砲手を殺し、陣地の破壊に成功した。斥候はさらに一門の105ミリ砲を発見したが、夕闇が迫ったし、砲は二五フィート(米公刊戦史)の距離から発射を続けるので、攻略を諦めた。二七一野砲大隊は夜通しこの砲兵陣地とカナンガ=ロノイ間の街道を砲撃した。この砲撃が遂に日本軍の最後の10センチ砲を破壊した。
これは諫山少尉と第五中隊の三木泰蔵少尉、清水幹部候補生らほか兵十五の抵抗であった。第五中隊は中隊長今村孝雄中尉戦死、砲弾を射ち尽していたので、まだ砲弾50発を持っていた第六中隊の位置に移動して、戦い続けたのであった。しかし結局十九日夜の砲撃で大半は戦死、三木少尉と原田准尉は敵陣に斬り込んで戦死した。これは砲撃によって重傷を負い、捕虜となったある上等兵の証言である。 略

この陣地の十榴がクラシアンの敵砲兵陣地に数発の有効弾を送ったにすぎなかった。しかしその最後の戦闘は見事というほかはない。

引用終わり。

1944年12月19日レイテ戦時

日本軍砲兵が撃った砲弾でアメリカ砲兵観測所に戦死1人、負傷15人の損害を与えたとアメリカ軍の重迫と野砲が反撃したので日本軍砲兵は射撃を止めたがアメリカ軍の第二大隊が前進すると日本軍砲兵が砲弾三発発射して、アメリカ兵に戦死3人、負傷15人与えたと。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/21(Tue) 01:08


No.1
陸軍めしたき゛どぶ長゛奮戦記 光人社1992のp64-p65から引用

ノモンハン事件時の砲撃戦で富岡観測手の証言に拠ると

七月下旬のある日、大隊観測所ふきんにさかんに敵砲弾が落下し、その一弾がついに観測所の真ん中に命中した。そして、その炸裂で召集の観測手一名が即死し、三中隊現役の茶山上等兵も負傷した。私たちも爆風で一瞬、息がつまるような気がしたが、このとき、私たちの一年先輩で召集の野呂上等兵は、私たちのところへ飛んでくるなり、「茶山の首が飛んだ!」と大声でさけんだ。見ると野呂上等兵も爆風に吹かれて真っ黒な顔をしている。ところが首が飛んだと思われた茶山上等兵は、頭ではなく鉄帽がペチャンコになって吹き飛んだもので、彼は負傷しただけですんだのである。 略

即死した召集の観測手には、三中隊の中島軍曹が末期の水を飲ませたが、背骨が折れているとみえ体がぐにゃぐにゃで、あらためて砲弾の恐ろしさを知った。砲弾をうけはじめてから時間はいくらもたっていない。ほんの数十秒の間の出来事である。

と 引用終わり

ノモンハン事件時

ソ連軍の砲弾一発で、日本軍兵士に即死が一名。 一名負傷との事です。
御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 05:36


要聴取情報・其の一

 北朝鮮の持っているSSM(地対地ミサイル)は、日本各地の大都市や港や基地や飛行場へ、それぞれ何分何秒で届くのか?

これまでに寄せられた御投稿

No.3
ノドンの飛翔時間は7-8分と言うことで、調査打ち切りとありますが、ミサイルの弾道計算に関するページがありますので、ご紹介しておきます。

http://village.infoweb.ne.jp/~kubota01/index.htm

御投稿者:富士見町 様
投稿日:2003/01/25(Sat) 22:01


No.2
『自由』昭和六十一年九月号の「核シェルターの有効性」という記事に地対地ミサイルのパーシングⅡが最大射程千八百キロ飛ぶのに十三分かかるそうです。一つの目安として参考にしてください。

御投稿者:枯山 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 20:23


No.1
諸君! 1999年3月号 麻生 幾 99「春の危機」のp42から引用

警察庁警備企画課

アラートは、防災無線を使用することからして問題が多い。アラートが市町村の住民に伝達されるまでには最低でも一時間が必要だ。何しろ、防災無線はハード的にも、国→都道府県→市町村とダイレクトに繋がっていない。
ノドンミサイルは発射されてから、遅くとも二十分以内で日本の国土に着弾する。
現状の防災無線システムでは到底間に合わない。しかも、アラートするにはしたが、受け取った国民はいったい何をすればいいのかが分からず混乱するだけだ。その対策も考えておかなければならない。 と 引用終わり

ノドンミサイルは発射されてから遅くとも二十分以内で日本の国土に着弾する。 そうです。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 05:36


interview with──2010年を振り返る

(2010年に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

兵=兵頭先生
管=管理人

 

管:今年もいろいろございましたね。

兵:2009年はJSSEOでキリキリ舞いでしたが、2010年の前半にその整理をつけまして、それでとうとう50歳ですからね。まあ、こやつは日本のためにできることはいちおうすべて試みたのだ、という後世へのアリバイくらいにはなってくれますでしょう。わたしは川崎市に住んでいた院生時代に銭湯で、見知らぬ謎のじいさんから声をかけられ、「あんたは50歳になる前にすごい偉いことをするよ」と予言されたのを、これまでずっと心の支えにしてきたんですが、予言は当たらなかった(w)。この予言なくば、わたしはJSEEOもやっていなかったでしょう。ワハハですわ。

管:『大日本国防史』は年内に出ませんでしたね。

兵:5月に本文を脱稿しましたが、その時点でなんと、小生が2007年11月に渡したはずの劇画のシナリオの一部が小松さんに渡っていないことが分かりましてね。けっきょく、戦国時代とハルノートの謎に迫る2篇のシナリオが作画されないことになりました。もう共著はかんべんして欲しいという気持ちです。短いものでもシナリオ1篇書くのにどのくらいの「諸資源」が投じられているものか……。これが最後っす。宣言します。もちろん、この企画をいただきましたことにつきましてはたいへん感謝しております。

管:サワリの部分でもご紹介願えませんか。

兵:最後の方にサラッと書いてありますが、明治天皇は名君じゃないですよ。ロクなことしてません。明治維新は偉大でしたが、明治天皇はただの反動君主です。周囲が偉かったのです。ここがご老人揃いのバカ右翼どもにはなかなか分からぬところだ。それで「教育勅語」なんかを有り難がっているのですよ。教育勅語が明治維新の精神とまったく相容れないことも理解できないような反近代的な団体とはわたしは距離をおきますよ。あ、これ、「新風」のことです。念のため。イニシアチブを発揮して偉かったのはなんといっても昭和天皇ですが、それは「古代南洋天皇制」の理想とは違います。

管:詳しいことは1月のご新著を楽しみにしたいと思います。劇画はむずかしいものなのですね。

兵:この歳になり、ようやく、江藤淳がどうしてマンガ・劇画を拒絶し続けたかが、わかるような気もしてきました。読み手によって、想像力や解釈力には、個人差がありすぎるのです。書き手と読み手の間にある、とてつもない「壁」を、いちばんうまく埋めてくれる――といいますか、橋渡ししてくれますのが、テキストなのです。たとえば読み手が1日の勉強でちょっとだけ利口になれば、同一のテキストから再生できる情報のレベルが、てきめんに上がるのですよ。イデアを伝える信号として、自然言語のテキストが、じつは人が望みうる最上のものだったのです。これ以上のものなど、ありはしなかったのです。たから文体は人格をも越える。感心させられる文章を書く人が、会ってみるとくだらない人物であることがあります。その逆もありますが……。それは不思議なことではないのです。それほど、テキストという道具が凄いのです。

管:尖閣事件を契機に『2011年日中開戦』はバカ売れしませんでしたか?

兵:してないですね。どうも時代から2歩以上先を行ってしまうと、商売的にはダメですね。

管:NHKの『坂の上の雲』はいかがですか。

兵:わたしは最初から1本も視聴していません。日本のドラマはもうNHKだろうと学芸会レベルでしょ。しかし女房はよく視てるようです。わたしは早寝をするため、居間を通りすがりにそれを覗くことがあるんですが、『ひでぇもんだ…』と確認するのみです。NHKは司馬の墓前に詫びるべきだね。遺言に背いてあんなもの作ってるんだから。

管:日露戦争にはもう謎は残っていないでしょうか。

兵:「伊集院信管」が最後の謎だと思いますよ。まあ、史料はどこにもないでしょうけどね。弾底信管でありながら、空中線のワイヤーにかすっただけでも起爆したといわれるのは本当だろうか? たぶんそれは大口径の戦艦の砲弾ではなくて、慣性質量の小さい副砲弾だったろうと想像しますが……。大口径の砲弾でそこまで瞬発だったとしますと、普通の「水柱」が立たぬだろうと思うのです。

管:2011年はどんな年になるでしょうか。

兵:一寸先は闇ですね。それに尽きます。しかし、暖冬になるんじゃないかという予感だけは、救いですかね。日本一国だけ暖冬っていう……。

管:ラジオのポッドキャストが足踏み状態のようですが……。

兵:JSEEOが終わってしまったのと、同時に体力が尽きてしまったので、もうダメです。すいません。宝籤で2億円くらい当たれば、時間と気分の余裕も出るのかもしれませんが……。

管:「ネット乞食」作戦の調子はいかがでしょうか。

兵:それをわたしが言うとポッドキャストの管理人さんが怒るんですよね。だから不本意ながら自粛を余儀なくされてしまいましたよ。あ、いつもいろいろモノをくださっている方々、この場を借りまして、篤く御礼を申し上げます。貰っていちばん感心致しましたのが、「フリーズドライのアマノフーズ」の即席かゆでした。広島県の天野実業(株)製。これがもし戦時中にあったなら日本兵百万人が救われただろうなと考えつつ、かみしめた次第です。マグカップにお湯を入れるだけで、いろいろなお粥ができてしまう……。まあこの地球には、イスラエルみたいに国家ぐるみの乞食まであるわけですから。NGOなんて早い話、みんな乞食じゃないですか。それを恥じるのはおかしい。世の中はすべて分業です。仏教僧にとっては乞食こそ修行でしょ。それはなぜかを考えてみてください。ケチなプライドを捨ててみろってことですよ。とるにも足らん世間の悪口に一喜一憂するのは餓鬼ですよ。

管:この頃は、夜に走ってトレーニングとかは……?

兵:ぜんぜんしてません。ひきこもり状態に近いですな。しかし老人らしく朝の3時台には目が醒めますので、夜明け前に散歩をしてますよ。これは、毎朝コースを決めたらダメです。カントのようにボケてしまうでしょう。毎朝、コースを変えるのが、じじいの精神の緊張には良いと思っています。あと、犯罪者に間違われないよう、風体にもそれなりの気を遣うべきでしょうなあ。

管:「ソラ玉」報告は打ち止めでしょうか。

兵:アッと驚く新製品が2010年は出ませんでした。これこそ驚くべきことじゃないでしょうか。ぜんぜん進歩してないってことですよ。進歩が止まっているんです。だから買ってません。ソーラーは、工事用の点滅標識を除きますと、当分、見込みがないかもしれません。それと、安価な製品は、紫外線対策ができていないので、落下したりするとすぐに割れるようになりますね。その点、例のインド製のは、凄い。ポリカーボネイトなのに、何年経っても紫外線では変質しないようです。ピカイチですが、市販電池で交換すると、パフォーマンスが劣化してしまうんですよね。しかも最近、通販でも売ってないみたいだし……。

管:来年がより明るい年になると良いですね。

兵:みなさまの御多幸を、心より、お祈りします。今年一年、どうもありがとうございました。

おしまい


interview with──近況緊急インタビュー(2010年5月1日)

(2010年に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(管理人より)

昨今のコンテンツ[兵頭二十八の放送形式]における衝撃のタイトル群──缶詰、乾パンの喜捨募集。
まさにショッキングである。しかし、大半の人が[兵頭二十八先生の冗談ではないか?]と考えた筈だ。
真相を明らかにするための、インタビューである。
結論からいえば──冗談ではなかった。


兵=兵頭先生
管=管理人 

管:久々に近況インタビューをやろうと思います。調子はどうっすか?

兵:町に大勢の失業者が溢れている中、カップラーメンと袋ラーメンとカロリーメイトとスパゲッティと缶詰をめぐんでくれる人がいたので大助かりです。乾パンが届かなかったのは遺憾ですが……贅沢は言えません。

管:生活にお困りなのでしょうか?

兵:著述を主とする自由業は、常に綱渡りなのですよ。じつは、『たんたんたたた』と『グリーンミリテク』の印税が4月末に入るだろうと予期していたら、5月中旬だというので、困った事態に陥りました。それしき、一人暮らしなら何でもなかったところですが、40歳過ぎの夫婦は年金保険料が莫大ですから、冬の灯油代も重なって、急激にピンチに陥ったのです。ホント、GWというのは有害ですよ。多くの自由業者と日銭稼ぎの労務者を現実に不幸にしている悪制度ですよ。この際、国定の祭日は、正月元旦と、天皇誕生日だけに減らすべきでしょう。その分、月曜の午前をぜんぶ休みにすればいいんですよ。もちろん市役所は逆に「24-7-365無休」としてね。

管:文庫の『たんたんたたた』は発売が半年以上も前ではなかったですか?

兵:まあ世の中には半年後とか1年後に売り掛けを回収してやっと従業員の給与を払ってやれるのだという事業所も多いでしょう。製造業や建設業の下請け、孫請けなどでは、よく聞く話じゃないですか。そういう人たちのことを思えば……。

管:印税って前借りできないものなのですか?

兵:駆け出しの頃に、編集者さんに頼んで前借りしたことがありました。中公の『軍学考』です。しかしその編集者さんはもうこの世の人ではありません。最近は世知辛いので、前借りなんてこっちからは言い出せません。そこでネット乞食を考えたのです。

管:なるほどネット乞食……それはうまくいったでしょうか?

兵:わたしは5月10日くらいまで生存するに足るラーメンと乾パンと魚の缶詰をお願いしようと思いついたのですが、なんと郵便受けに1万円を投入してくださった方がいたので恐縮いたしました。これで名実共に「オレは乞食だぜ!」と胸を張る資格を得たものと申せましょう。

管:現金は募集してないのですね?

兵:していません。わたしは袋ラーメンがあれば十分に生存できる人間なのです。スパゲッティならば御の字です。ところがウチの女房は「毎日麺だと飽きてダメだわ」とか贅沢を言いやがるのです。情け無い! なんというとんでもない不心得であることか……。

管:インターネット・ラジオ局のコンテンツが増えない理由は何でしょう?

兵:宝くじを拾ってそれが当たり、貯金が100万円くらいにせめて増えたら、気楽にあっちにもご奉仕できるのですが……。ホント申し訳ないです。小松さんがボーナス章を追加した『イッテイ』増補版CDの商材化作業を進めてもらいますので、ご注目ください。それから、お宝動画のオークションをしようかと思っています。

管:オークション?

兵:売り食いをする資産はないかと探していたら、出てきたのです。わたしが高校3年くらいのときから、自衛隊現役時代まで、光学8mmフィルムで撮影し、さらに編集し、アフレコの音までついたものまであるという、この世で1つしか存在しない、幻の映像です。内容は、1980年代のプラスチック製のモデルガンを発火させまくっているもの、自衛官時代に道東を単独旅行したときに撮影したものなど。当時、じつにくだらない「戦争映画」も作ったはずなのですが、それが入っているかどうかは未確認です。長尺な上に編集機や映写機などはとっくに捨ててしまいましたので、中味をすぐに確認できない状態なのです。しかし大小のリール2巻、全部で15分以上はありましょう。第二戦車大隊時代のわたしが山の中の演習中に自分撮りした映像や、長野市郊外の山の中で対磁性地雷コーティングを施されたタイガーI戦車を仕掛け花火で吹き飛ばしている「バルジの戦い」の映像などが含まれている可能性もあるのです。これを誰かが買ってデジタル化してくだされば嬉しいです。ただし、シングル・エイトとスーパー・エイトがツギハギになっていますから、これをデジタル化する時には注意深くピントを微調整して行く必要がありましょう(フィルムの厚さが微妙に異なっている)。詳しくは、インターネット・ラジオ局のお知らせ等をご注目ください。

管:次の出版のご予定などは?

兵:『大日本国防史』の前編は脱稿。発売日は並木書房さんにお問い合わせください。後篇は今、書き進めているところです。鎌倉時代末から室町時代中期までは、年表的に混み入ってくるので、さすがに疲労しますな。しかしやっと戦国時代の入り口まで来ましたよ。あとは一気呵成に行きたいと思っています。まあ、この後篇をとにかく書き上げないことには、新しい別な企画には着手できません。まる一日、ヒキコモリ状態で書いています。

管:『大日本国防史』の最初の予告はかなり前に出ていましたよね?

兵:わたしが劇画部分のシナリオを5つばかり提出したのが2007年でしたよ。その作画がまだ2つくらい残っているようですな。こういうめんどうな企画は、もう戦艦の造船所とおんなじで……。戦艦はキールを据えてから進水するまで4年かかる。その間、急に空母を造りたくなっても、乾ドックが塞がっていて工事は頼めない。そして、得られる印税は単著の場合の半分なのです。それが分かっているから急かすわけにもいきません。急いでもらった代わりの見返りなんて、何も無いのですからな。

管:放送形式の量も増えていますが……?

A:吉田兼好はひとつだけ感心することを言いました。それは、〈物をくれる友だちが、一番よい友だちだ〉というのです。これ以上の金言があろうか! わたしがインスタントラーメンをもらってしみじみありがたいなぁと感ずるように、皆さんが無料の軍事系の英文ニュース・ダイジェストを享受してくれることを希望しています。勝手な抄訳な上、間借りのブログなのですから、じつにお安いご用だ。こういうのが、わたしが無料で貧乏な読者の方々に差し上げられるモノではないかと、最近、気が付いたのです。マザー・テレサと同じ気持ちです。

管:しかし外国の軍事ニュースは充実していますよね。

兵:豊饒さが桁違いですよね。あれらの上に、有料のクローズドな媒体もたくさん存在しているのですから……。有名なのは『ジェーン』でしょう。わたしは乞食の分際ですから、有料媒体は購読してはいません。しかし朝の1時間~2時間くらいを使ってナナメ読みしようと思ったら、量的にはあれで一杯です。

管:有難うございました。ご活躍を期待します。

兵:おありがとうござい。

おしまい


interview with──2008年 お花見対談(劇画『2011年日中開戦』発刊)

(2008年に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(管理人より)

もう本当に出ないんじゃなかろうか?──そう私が危惧していた兵頭劇画『2011年日中開戦』。
それが ── 発刊されたのだ。
桜舞う春の巷で、皆さんは如何お過ごしでしょうか?
勿論、尋ねるのは野暮だろう ── 生粋の兵頭ファンならば、季節に関係なく兵頭劇画を待っていた筈である。
発刊を記念しての、今回の対談である。

尚、毎度の事になるが、函館に居を構える兵頭二十八先生と大阪市在住の管理人が一体何処でお花見対談などしたのか───絶対に詮索してはならない。


兵=兵頭先生
管=管理人

管:またとんでもない内容の劇画が出ましたね。『2011年日中開戦』……。

兵:このくらい初期のタイトルとズレてくると、思い切って「もう一声」と言いたくなります。『3001年日中開戦』でもよかったのではないか……などと。

管:ともかくもおめでとうございます。

兵:ありがとうございます。何事も勉強っす。

管:ラストの「二度とこのような…」というオチは、たしか八木京一郎さんの持ちネタですね?

兵:そうです。パクリであり、またオマージュでもある。先行ランナーであられる偉大な八木センセイの存在のおかげでわたしはサラリーマン生活から足を洗い、フリーライターとして勝負しようというふんぎりをつけることができたのですからな。八木氏には、あとで大奮発して鮨をおごる約束をしています。ま……、くるくる廻るほうですけども。

管:マガジン・マガジン社とサン出版は、同じなんですか?

兵:よく知りませんが、ビルは同じですね。サン出版の自社ビルの中にありますよ。わたしが駆け出しの頃に月刊コラムを書かせてもらった『マガジン・ウォー』以来のご縁であります。

管:いきなりエロなシーンで始まるのは、出版社の社風に合わせたのですか?

兵:かつて日本初のホモ雑誌を創刊しているという輝かしい歴史のある出版社さんですからね。書かせて貰う者としては、それなりの敬意を表さねばなりません。

管:レイプシーンも不可欠ですか?

兵:あのシーンや、秋葉原のシーンなどは、2006年4月の最初の送稿時にはなかったんですが、もっといろいろ加筆してくれんかと追加注文を受けまして、それじゃやったるかというノリですわ。原作でシーンを増やすのは簡単。1日か2日で書けちゃう。でも作画させられる方はたいへんなんでね。それでわたしは「軽く数十ページも増えちゃいますよ、いいんですか」と念を押したんだが……。けっきょく、懸念したとおり、2006年末までにはとても仕上がらなくなっちゃったようなのです。

管:2006年ごろでないと意味の通じにくい「流行語」が散見されます。

兵:これは大反省しとります。シナリオ書きの初歩のいましめとして、「流行り言葉を混ぜるな」っていうのがあったんですがね。どうせ「2ちゃん」の読者しか買わないんだからと、バンバン使った次第です。

管:作画家さんは大友克洋さんの影響を受けているように見えるんですが……?

兵:わたしは絵のカテゴリーについてはよく存じません。わたしが素直に感情移入できる絵は、アメコミのリアルなタッチか、さもなくば往年の川崎のぼる氏風だけでして……。ギャグや四コマはまた別ですが。要するに古いヤツなのです。しかし分業である劇画の仕事では、原作者は自分の好みは言えないし、また、言ってもどうにもなりはしないのです。そこは出版社と編集者にお任せするしかありません。それでも、進行がずいぶん遅れているというお話をうけたまわったときには、わたしは、「作画家さんに印税を前払いしてアシスタントを雇わせたらどうです」と意見具申しました。それで、お二人になったのでしょう。

管:機関車の罐に人間の死体を燃料として放り込むという発想はどこから出ているのでしょうか。

兵:これはかつて、福田和也さんから、蒋介石がよく政敵を蒸気機関車で燃やしていたという話を三回ぐらい聞いたので、それを応用したのです。生きて放り込まれた人間がまた飛び出してくるというのは、作画家さんのインプロヴィゼーション。脚本では単に放り込まれておしまいにして先へ進めていました。

管:「浅南大使」にはモデルはいるんですか?

兵:いません。

管:総理の「どどどーまん」というネーミングはどんな深い意味なんでしょうか。

兵:故・谷岡ヤスジ先生ならこんな名前をつけたろうかというネーミングを考えたのです。

管:沖縄にシナの漂流民がおしよせるというプロットは、『別冊宝島』の防衛問題か何かのバックナンバーで、たしか小説体で使われてましたよね。

兵:そう。劇画は没になるだろうと思ったので、あそこに使っちゃったわけ。主人公は「堆片ダン」という名前にしました。なぜかというと、島の村長に「たいへんだぁ、堆片ダン!」――と、叫ばせたかったんです。そのシーンを最初に考えた。それだけなんでございますわ。

管:『2011年日中開戦』ではベン・アミアスが最後にキノコ雲に向かって両手をあげて「バンザイ」と叫びますが……。

兵:これも、まずそのシーンが頭に浮かんでいて、そこから遡及的に、登場人物の名前やら筋やらが、思いつかれているわけです。ちょっと説明しておくと、ベンはベンジャミンの省略でして、典型的なユダヤ系のファースト・ネームです。兵頭二十八にはアンチ・セミティズムは無い。

管:『ベン・ハー』もユダヤ人でしたもんね。

兵:チャルヘスがつい数日前まで、まだ生きてたんですよね。合掌。

管:けっきょく日本には独裁政権ができちゃうという予言なんでしょうか。最後の方では。

兵:これは読者に非日常的な体験をさせるマンガです。タブーをぜんぶ取り除いた。閉ざされた言語空間を開こうとしたものです。人々の意識は確実に変わりますよ。

管:警察官が不良少年を射殺したあとで「スカッとした」なんて言えないですもんね。普通のマンガでは。

兵:たかが出版物に世の中の大きな流れは変えられない、と思っている人が多いと思うけど、小さな流れは不可逆的に変わるんですよ。たとえば『並べてみりゃ分かる 第二次大戦の空軍戦力』っていう本があったでしょ?

管:「G」出版……ですね? かの有名すぎる……。

兵:そう。あれ以後、ミリオタが日本軍機を見る目はガラリと変わったと思いますよ。そういうのは、もうあともどりのできない変化なんですよ。

管:印税の代わりに現物の冊子をたくさん貰ったという、聞くも涙の出版事業でしたっけね。

兵:で、自慢話をさせて貰うと、『並べて』は、オレがテープ起こしのタイプ打ちから編集から全部やってるわけ。そしてオレ自身にさんざんな突っ込まれ役を割り振ったことで、ぜんたいを高度なエンタメにして宗像さんを抵抗なくオタク世界に紹介できたわけ。ホスト兼司会兼エディターにこのサービス精神がないとね、共著とか座談会とかは、良い商品にはならんのだ。他社であのスタイルの真似をして、愉快なオタク討論を再現しようとしても、できなかったでしょ?

管:はいはい、わかった、わかったよ(心の声)。

兵:『なぜケータイ小説は売れるのか』(本田透・著)っていう新書があるんだけど、この中にも良いことが書いてあったよ。PCインターネットの空間は双方向の「突っ込み」で活性化されている世界だと。だからそれを書籍化しても宗教の代替物にはならず、ケータイ小説のような化け物ヒットは生まれ難い、というんだね。その通りなんだ。

管:SF劇画の場合は、宗教的な煽動力があるんでしょうか?

兵:ありすぎてマズイので、「セルフ・突っ込み」を入れているのだ。それが、ラストの数ページなのですよ。

管:たくさん売れて欲しいと思います。

兵:日本の夜明けは近い!

おしまい


interview with──2007年を振り返って(2007年度 X’mas特別企画)

(2007年に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(管理人より)

絶対再開はなかろうと信じられた驚異のコンテンツ[interview with ───]。クリスマス・イブに復活である。
私は全然ビックではないのだが、そこはそれ。イルミネーション煌くイブの0時台にupしている私の心情をお汲み取りくださりスルーしていただきたい。
尚、私は今日も明日も仕事である。
毎度の事になるが、大阪在住の管理人と函館に居を構える兵頭先生が、一体どこでこんな事話しあったのか、絶対に詮索してはならない。
それでは皆様、メリークリスマス!


兵=兵頭先生
管=管理人

管理人
 ことしも押し詰まってまいりました。

兵頭
 日本では正月の比重が下がってクリスマスの比重が上がっていますね。がんらい日本の正月は、大人が楽をする「休養日」でしたが、それだとバラバラの家族がますますバラバラになって行くだけ……。かたや、クリスマスは、大人が積極的に参加して盛り上げるイベントなので、バラバラ家族を結束させる高揚感があるんでしょうなあ。

管理人
 景気はどうですか。

兵頭
 1年中、貯金残高が百数十万円を切らぬようにするのが、来年の目標です。

管理人
 おおっ、なんという進歩、すばらしい! 相変わらず、新聞購読はナシですか。

兵頭
 ないです。しかも、わたしだけ、ひきこもりに近い生活です。

管:テレビはあるのでしょうか。

兵:ありますが、子供向け番組か、子供用ビデオを見るのに使うので、わたしはまず視る時間はないですね。ウチは食事中はテレビは消していますし。

管:インターネットは一日に、どのくらいご覧になるのでしょうか。

兵:朝起きて40分、寝る前に30分。これだけの時間が、メール対応と、ニュースを把握するのと、定期巡回ブログをながめるだけで、だいたい消費されてしまいますね。あとは調べ物がある都度、使います。

管:定期巡回ブログを教えていただけないでしょうか?

兵:列挙は差し障りがあるのでやめときましょう。「支持していないが読む」というのもあり、「いまが旬のようだからいまだけ読んでいる」というのもあり、「打率1割の信憑性だが目覚ましになる」というのもありです。メニューも逐次に変わっております。

管:「2ちゃんねる」は見ないんですか。

兵:いや、見ます。「ニュース速報+」の順番の上位に来ているスレッドのタイトルは、必ず毎朝チェックしています。というのは、この上位の話題を見れば、公務員たちが目下、何の世論工作に熱心なのか、なんとなく見当がつきますからね。もちろん、いま庶民がいちばん影響を受けてしまっているテレビのワイドショーのテーマもおのずから知れますでしょう。

管:「2ちゃんねる」の「工作員」の多くは公務員だとお思いですか?

兵:間違いないでしょう。やっている公務以上に所得や福利厚生を得ている「うしろぐらい」公務員が大半ではないかという印象を時に受けます。もちろん組合の指図ですよ。

管:劇画はいつ出るんでしょうか?

兵:それは版元であるSUN出版にお尋ねください。ひとつは2005年末にシナリオを渡して、ようやく今年の夏に絵が上がって来たものの、その後は、どう進行しているのかわたしは承知していない『2007年 日中開戦!』です。いくらなんでもこの年末には本になっているだろうと思っていたのですがね。いったい、何をやっているのか……。

管:2007年はもう終わっちゃいますよね。

兵:そうです。わたしは最初に原作執筆を打診されたときに申し上げたんです。「あの『嫌韓流』の第一巻のように、ヘタでも良いから速く描ける作画家さんをお願いしますよ」と。ところが編集部の人は、どうやって見つけてくるのか、よりによっていちばん仕事の遅い人を選んでしまったようです。近未来フィクションを2年も放置されたら、原作者はたまりませんよ。2006年中なら「おっ、この予測はすごいな」とハイブラウな読者に驚いてもらえたディテールも、2008年に世に出されたら、お笑い草でしょ? わたしはこの原作に関しては原稿料を貰ってませんので、言いたいことを言わせてもらいます。

管:タイムリーな出版で某隣国に打撃を与えられなかったのは残念でしたね。

兵:このようなビジネスしか成り立たない、わたしの不徳のいたすところだと考えております。

管:もう一冊は何ですか?

兵:数ヶ月前に大阪のデザイン事務所に脚本をお渡ししているはずだが、まだ作画は仕上がっていないらしい『From Shanghai to Nanking』です。これはヨコ組みにして、冊子はSUN出版から売り出し予定ですが、まあこれもどうなるか知れたもんじゃありませんが、とにかく、フキダシの中を英文に直したものをインターネットで特別無料公開することは決めています。この「資料庫」に入れてもらおうかとも思っていますので、来年までお待ち下さい。

管:そちらの作画作業は速いんですか?

兵:わたしに聞かれても困ります。面識がない相手ですから。まあ、『2007年 日中開戦!』がダメになった分、SUN出版さんにはせめてこちらに注力して欲しいものですね。また3年先に没決定、なんてことにならないように……。

管:並木書房からは『逆説 北朝鮮に学ぶ』が出るそうですが。

兵:来年早々の出版を期待しています。原稿はもう送ってあります。やはり地の文だけ、そして単著、というのは良いですね。狭雑要素が介在しないので、進行が速いし確実ですよ。ストレスがかかりません。わたしは基本的にはもう共著とかイラストの多い本は減らす方針です。新人発掘の場合のみ、共著に取り組みたい。あと、単著では、PHP新書で『孫子』のコンパクトな口語訳を出す予定です。

管:それが出るのは、春ごろでしょうか。

兵:そうでしょうね。1月末までに書いてくれと頼まれております。ご承知と思いますが、日本の軍学者は一生に一度か二度、『孫子』のまるごと解説を書き上げねばなりません。山鹿素行のように、デビュー直後に若書きを一度、そして晩年になって、さんざん弟子に教えてきたことを集大成してもう一度、というパターンが多いのですが、わたしの場合は、純粋に『孫子』だけの解説の仕事は、これが最初で最後になるかもしれません。とすると、他の仕事は全部断ってでも、今はこの仕事一本に集中すべき時なのですが、生活がありますから、そうは言ってられないところが辛いですね。

管:12月に光人社から出た『日本の戦争 Q&A』は野心的な内容でしたね。

兵:ありがとうございます。

管:本土決戦が起こる前に日本政府が屈服してしまう、というのは、敵よりも内乱が怖いからなのですね。

兵:そうです。1945年にアメリカに降伏したのも、嘉永6年にペリー艦隊が江戸湾への生活必需物資の搬入を途絶させただけで幕府が屈した、そのパターンの再現に他なりません。本土決戦しようか……という前に、政府がもたないわけです。もし日本列島を外国海軍が海上封鎖すると、7千万人の住民が飢餓に瀕するだろう。すると、ブリテン島とは様子が違い、外敵よりも内乱が恐かったので、日本政府は継戦を諦める。嘉永6年のときは、倒幕運動の恐怖でしたが、1945年のときは、共産革命=天皇制廃止の恐怖です。

管:日露戦争では日本海海戦が決戦になりましたね。それでロシアが日本列島を封鎖できなくなったから、日本は助かったのですか。

兵:ええ。ロシアは明治38年の日本海海戦で、海軍の人材のほとんどを失った。産油国でしたから、やろうと思えばすぐ主力艦を外注して3年後には「四・四」艦隊くらいは復活できたかもしれません。ところが、熟練した水兵はカネじゃ買えない。3年とか5年では、乗組員は復活しませんので。これが、2~3年で飛行士を育成してしまえる、航空戦力との違いなのですよ。

管:日米の空母の数は1944年以降はおそろしく差がついてしまいましたね。

兵:アメリカは大きな船渠(ドライドック)の数で戦前から日本を圧倒していたので、日本が2隻しか造れなかった非条約型の『翔鶴』級空母よりさらに高性能な『エセックス』級空母を1943年から1ダース以上も就航させてきました。開戦前からわかっていたことです。だから1942年までに洋上での艦隊決戦が起きて大勝利し、敵の空母乗組員とパイロットが全員溺死でもしない限り、日本海軍には対米戦争の勝機はなかったんです。それでも、そんな最初から勝てるはずがなさそうな戦争を、3年以上も粘ることができた。それはなぜかというと、人は誰でも死ぬのは厭だからでしょうね。相手に死ぬ気で抵抗されれば、どんな強いやつだって、じぶんの損得を考えなくちゃならないんで。

管:特攻はムダだったでしょうか。

兵:量が少なすぎました。大西瀧次郎だけが、そこのところが分かっていました。大西は、2000機の特攻じゃまだ足りないんだ、と8月15日まで叫んでいた。これ、正しいんですよ。米英軍の飛行機乗りは対ドイツ空襲で14万人戦死しています。そのくらい飛行機と乗員とを惜しげもなく投入しないと、当時の大国相手の航空消耗戦にはとても勝てなかったのです。日本軍は、アメリカ相手に飛行機と人命の出し惜しみをし過ぎていたと言えるでしょう。米英軍の方が、空では勇敢でした。

管:空母はランニングコストがものすごくかかるはずですよね。

兵:小銃や大砲は特別な事故がなければ50年くらいも使えますが、飛行機はそうはいきませんね。平時にただ訓練しているだけでも、機体・乗員ともに、常に補充が必要ですし。空母となれば、なおさらでした。

管:フィリピンで1944年から終戦までに、日本軍の地上部隊は、あの戦争中最悪のキル・レシオ(味方一名の戦死に対して敵何名を殺したか)で惨敗していますね。

兵:歩兵同士の戦闘でも、庶民の教育水準が高い国の陸軍は、少ない犠牲で、敵に多数の死傷を強いますね。その逆の例はまずない。持ってた武器とはあまり関係はないようです。ちなみに当時の米軍ではすでに高卒など珍しくなかった。日本軍だと今の新制の高卒に相当する学歴の兵隊は1割いたかどうかでしょう。だから、無筆のシナ軍との間ではキル・レシオが良好だったのに、米軍との間ではキル・レシオが俄然、悪くなったのは、まあ仕方なかった。

管:南洋群島に日本軍がいくら飛行機を並べても、米空母の機動集中力には勝てなかった、というのが戦訓でしょうか。

兵:井上成美と山本五十六は、敵は空母に双発機を搭載できないが、こっちは陸上基地に双発機(中型攻撃機)を並べられるから、歩が良くなるんだ、と空想したのでしょう。空母を建造して維持するよりは、その方が安上がりだったのは確かですが、攻防のイニシアチブは、空母艦隊の方に断然にありました。つまり空母建造競争で勝てない島国は、米国との海戦を勝つことは至難だった。

管:零戦は名機だったでしょうか。

兵:操縦士との組み合わせで、名機となっていました。素人がふりまわすと、およそ斬れないが、武芸者が使うと役に立つ日本刀と、似ていましたね。ベトナム戦争直後の米軍パイロットは、スキルでは無双だったでしょう。もう、関ヶ原直後の武芸者のようなもので、ムダをやらず、ムリもせず、恐怖もなし。零戦も、そうした実戦経験を大陸で積んだ操縦士が編隊の要で居る間のみ、名機たりえた。ちなみにBf109がずばぬけた名機とされるゆえんは、操縦士を消耗品と割り切り、名人が乗らずとも即戦力たり得るように考えぬいた、世界で最も早く成功した一撃離脱専用戦闘機だったためです。しかしそのコンセプトでは、艦上戦闘機としては採用不可能なんですよ。

管:20ミリ機銃は、やっぱりダメでしたか。

兵:そもそも長距離エスコートや長時間CAPをさせる機体なのに、インターセプターのような20ミリ機銃を搭載して、何の役に立ったのか。敵の単座機には弾道が悪くて当たらないし、すぐに弾切れになって、ただ死重を増やしただけでした。

管:真珠湾攻撃を事前に知っていた海軍の幕僚はどのくらいいたんですか。

兵:作戦課長だった富岡定俊と海兵同期の平出英夫は知っていたようですね。

管:山本五十六は「反米」に凝り固まっていたのですか。

兵:たぶんそうでしょう。周知のように米軍は、天皇の命も東条の命も狙っていないけども、近い将来の日本の首相になるかもしれない山本の命は狙って仕留めた。これは軍隊レベルで勝手に決められる話じゃなく、F・D・ローズヴェルトと側近たちの国家最高意思です。きっと次官時代からの通信が盗聴されていて、山本は肚の底から反米だというリポートでも存在したんでしょう。

管:でも宮中は基本的に海軍の味方でしたね。

兵:ソ連が沿海州の飛行場を米軍のB-17用に貸与する事態を、宮中と海軍はいちばん恐れたと思いますね。そうなれば陸軍が対ソ戦をはじめちゃいますから、陸軍統制派による国内革命も同然の戦時体制に切り替わり、天皇制もどうなったかわからない。宮中と海軍は、この対ソ総動員の逆賭し難い福次作用にくらべたらば、アメリカに敗れる方が百倍マシと判断したんだろうと、わたしは思っています。

管:1942年のミッドウェー作戦の情報漏れは問題じゃなかったというお話は、たしか『表現者』の連載の中でも書いておられましたね。

兵:奥宮正武さんが終戦後ずっと言ってきたことなんでね。なんで人々は、そういう証言を素直に読むことができないのか……。日本の空母艦隊は、あのときは、津軽海峡の大湊港から、それも真っ昼間に出撃しているんですよ。わざと米軍のスパイに、こっちは空母4隻だけでミッドウェーへ向かいますよ、他の2隻はアリューシャンで暴れさせてますよ、と念を入れて教えていたんです。なぜかというと、真珠湾のように空母6隻を一海面に集めれば、上空掩護に隙がなくなる。米海軍の正規空母3隻では勝ち目がなくなりますから、敵はそもそも洋上決戦に応じてくれなくなる。だからね、わたしは、ミッドウェーに敵の空母の可働全力3隻がちゃんと出てきてくれたという事実を以て、山本はたしかに名作戦家であったと言いますよ。日本の空母艦隊は、雷撃機で港湾を奇襲するシステム構成に特化していましたから、それを開戦後の不期遭遇戦に投じたら、急降下爆撃機中心の米空母より不利なのは当然でした。だから、あのシステム構成では負けるべくして負けたんですけども、そのハンデがあってもなお、日本側は粘りに粘った。熟練した日本人の集団は、どれほどの難事を克服するかという好見本を残してくれた。日本人の長所が戦史に記録されたのです。そこを指摘する人がいない。

管:しかし、戦時中に日本国内で共産主義革命なんてあり得たんでしょうか。そこがどうもよくわからないんですけども。

兵:武藤章は敗戦後の巣鴨拘置所の獄中回想録で、大正8年前後に「労働中尉」になりかかったと告白していますよ。労働中尉というのは「マルクス中尉」という意味です。戦間期の日本のお金持ちには失業者に対する同情が薄かった。「なんだよ、自由主義の政党政治ってのは、デフレ政策で金利所得階層の生活水準だけを守ることなのかよ」と、若いインテリは反発したんです。陸軍統制派が昭和13年までに法制上で実現した「統制経済」っていいますのは、当時の非ソ連の大国・強国の中で、いちばんソ連経済に近いものだった。私企業の経営者から、借金や設備投資や配当の決裁権を奪ってしまったのですからね。別宮氏のサイトに詳しいと思うけど、ヒトラーだってそんなことはしちゃいない。日本では、天下り役人が、統制組織をつくって、その中の合議で、何もかも決めた。この仕組みはもう資本主義ではいささかもなかったんです。昭和13年までに一種の革命が進んでいたのです。当人たちは、まさにソ連をモデルにして、口では言わないが、共産主義のつもりでいたんです。天皇なんか、どうでもよかった。だが、やっていることが少しもソ連式になってなかったのが滑稽ですよ。天下り役人だけを天国にする、日本式の社会主義経済でした。いずれにしても、もうすでに戦前から、天皇制廃止まであと一歩だった。陸軍エリートの気分は、ロシアの革命家とどこも違わなかった。宮中の危機感が、分かりますか? ロシア革命通の米内光政を宮中が頼った理由が、分かりますか?

管:ソ連とはどの辺が大きく違っていたんでしょうか。

兵:ノルマの数字が天下り役人の方から出ていたことです。ソ連は政府中央からの示達ですよね。だから日本では、誰もサボタージュ罪で銃殺はされない。つまり天下り役人だけがお手盛りの満足を得て、経営者はヤル気がなくなり、国家の戦争ポテンシャルは低くなる一方の「総動員」経済だったわけです。既存の生産ラインをフル稼働させても、生産は十倍には増やせません。そういう急激な戦時増産には、迂遠なようでも設備投資が必要で、急激な設備投資には何よりも経営者のモチベーションが必要なのにもかかわらず、日本の統制経済は、経営者から前向きなモチベーションを一切、剥ぎ取ってしまうのです。凡庸な役人よりも頭を使って機敏にうまくやる経営者の存在を、許そうとはしなかった。レッドテープ(規則)とお役所稟議とで縛ってね。ソ連の国営工場では、量でも質でも、上からの命令を守れぬマネジャーは前線送りか銃殺でしょ。日本ではそんな処刑は一例もありせん。増産量だけでなく、戦時増産兵器の質の劣化も、ひどすぎた。天下り役人同士の談合で回転する経済では、経営者が製品の質についての責任を、事実上、問われなくなるせいでしょう。

管:自衛隊の武器もあまり改良されませんね。

兵:64式小銃の可倒式照門が鉄帽の庇に当たって半分傾いてしまうのは、どう考えても不都合だろうと、わたしが週刊誌に書いてもらったのはもう25年以上前です。これはついになんの対策もされずに終わったというのは事実ですね。いつの世でも、国防を邪魔する敵は常に国内にあると思って、間違いありません。昭和10年代、海軍部内でも誰もが航空戦の時代になったと認めていたのに、なぜ低速戦艦『大和』と『武蔵』をあらたに造らせ、稀少な船渠をそのために何年も塞がせたか。これは大艦巨砲思想が信じられていたからではなくて、官民を縦断した既存の「戦艦利権」を切れなかっただけでしょうね。

管:お忙しいところ、ありがとうございました。

兵:よいお歳をお迎えください。

おしまい


interview with──2004年4月 新学期インタビュー

(2004年4月頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

管理人:4月である。ここを見ている皆さんの中には、一人くらいは新学期を迎え、或いは社会人として再スタートをきる人がいると思う。そんな方々へ向けて、兵頭二十八先生へのインタビューである。お忙しい中時間を割いてくださった兵頭先生、勿体無さ、かたじけなさに、私は頬を伝う涙を止める術を知りません。
 尚、毎回書いている事だが、一体何処でインタビューなどしたのか、余計な詮索をしないように。


管理人:今更といえば今更ともいえますが、インターネット人口が急増しておりまして──職場や学校から閲覧されている方々もいらっしゃいますし ── この新年度から我がウェブサイトの常連になってくださる訪問者もいらっしゃるかと思います。そこでひとつ先生の《旬な》コメントを頂戴できませんでしょうか。

兵頭:管理人さんは「ここの書き込みが少ない」とかご不満なのかもしれませんけど、これからはそういう時代じゃないんです。たとえば、これは管理人さんの方がかなりお詳しいと思うが、「2ちゃんねる」は最近、面白いですか? スレッドが乱立して、内容はどんどん低年齢化しているでしょう。

管:つまり、『週刊少年ジャンプ』化現象?

兵:もちろん役に立つ「インサイダー情報」は丹念に見ていけばあるし、そこらの兄ちゃん同士の会話の中に予期せぬ秀逸なコントが混じっているのに遭遇するという幸運もあります。が、ぜんたいに時間を惜しむ人は、無駄な書き込みがヨリ少ない専門的サイトを発見しようとするのではないですか。

管:たとえば先生にはそんなサイトがいくつかあるんですか?

兵:ご承知のように僕もインターネット2年生に過ぎませんから何も分かっちゃいませんが、太田述正さんという方のニューズレターがとても興味深いことを最近になって発見しましたよ。あと、レイバー・ネットというところの掲示板をときどき見るようになりましたね。

管:いやあ、今度は労働組合方面まで精力的にご取材とは……。

兵:僕が思うに、これからのウェブサイトで大切なことがあります。これは役に立つだろうと思って人が書き込んだ情報がずっと残されていくことです。誰かがウェブサイト上に何かを書き込みますよね。それは世界に対して瞬時にアクセス可能とするわけですけれど、だからといってそれを世界中の人が同日に見てくれるとは限らないものです。全国生放送のテレビとは違う。ですから人によっては、情報が書き込まれてから何年も後にそれを読むのかもしれません。そのアクセシビリティを残し続ける努力、これは図書館蔵書の永久保管とも似ていて、酬われることはすくないけれども、それぞれの管理人さんの偉大な文化的功労なのですよ。

管:どうもお褒めに与かりまして恐縮です。それで、今年度の先生の単行本計画はどんな感じでしょうか。

兵:例の杉山穎男さんの斡旋で、武器や格闘技系の出版物にとても強い有力な版元さんから、武士道に関する本を、まあ数か月以内には出す積りでおります。

管:それは朗報です。潰れる可能性のない中堅出版社と渡りがついているということは…(笑)。古いファンが待ち望んでいる、兵器の話なんかもあるんですか?

兵:それはまだ分かりません。ただ僕が目指しているのは、つまるところは「日本人論」で、かつて兵器を研究したのは、あくまでその手段ですよ。

管:ああ、それじゃやっぱり、兵器解説はもう無い、と。

兵:変な比較ですが、1980年代以降、「フランスの最新哲学を日本に紹介する」という評論の一ジャンルがあるんですよ。これと大方の軍事研究家とは類似の業態なのです。要は、内外の電圧差をはしわたす「電燈線」の役を買って出ているものです。

管:つまり、欧米ではここまで進んでいるのに、日本では誰も知らず、遅れているじゃないか、とか…。

兵:そうですね。外国の進んだ「常識」なるものが日本に未だ存在しないではないかと憂えて、それを紹介する。説教し、伝道し、売り込む。よく言わば、訓導する。

管:では、戦前の兵器の紹介なども、それと同じなんでしょうか?

兵:たとえば最近ますます、フリゲート艦や海防艦、軽巡級の数千トンの軍艦のことを「戦艦」と呼称する新聞記者やプロの評論家が増えています。往時の海軍に詳しい人なら「おまえら、それは間違った言葉遣いだぞ」とすぐ指摘ができる。電圧差を埋めたくなるわけです。同じでしょう。

管:「迫撃弾」というのもそうですか。

兵:ハハハ…。あれは二、三十年前の過激派のオモチャに公安が大袈裟な名を工夫して付けたもので、軍隊の迫撃砲および迫撃砲弾、あるいはロケット砲弾とは、似ても似つかない。そんなものがサマワで落ちてきてたまるかーーーっ、てなもんですね。

管:兵器の本を書くとそんな感じのマニアからの突っ込みが烈しいから、最近は避けておられるのでしょうか。

兵:インターネットという優れた媒体のお陰で、書籍でそれをやる時代は終わったんですよ。特にカタログ的な本は無意味ですね。増補・改訂がすぐにできないから。だから兵器だけでなく、「高塔」とか「ロープウェイ」、ああいった全国を取材して写真を集めてくるような企画も、もう今だったら考えられません。思えば、僕はそれが可能な最後の数年間を現役ライターとして満喫させて貰ったわけで、じつに幸運な奴でした。

管:「紹介企画」は潔しとしない—となりますと、兵頭先生のお仕事が減っちゃうのではないでしょうか。

兵:内容の深い良い仕事ができれば良いのではないでしょうか。僕は、旧軍と自衛隊の兵器の調査から「日本人論」を一歩前進させることができたと、自分で自負しています。これは誰も言ってくれないから手前でここで宣伝することにしましょう。僕は文系の人間だから、興味のあるのはあくまで人間です。モノじゃありません。モノをつくった人間に興味がある。これは機会あるごとに表明をしてきた僕の基本スタンスです。「兵頭本には間違いがある」とご親切に指摘してくれる人がいます。その通り。人間の仕事には誤差があります。ところが、その世間智に到達できていない日本人がとても多いために、日本は戦争に負けたり、経済政策を失敗したりしているのですよ。これを今まで以上に明らかにしたのが僕の仕事です。真の理系人間なら僕の本の結論に同意していただけるはずですが、まだまだ日本には「算数家」でしかない人が多いために、たいへんに危うい状態のままだと思っております。

管:すると山本七平さんが一時、大流行させた「日本人論」の系譜に、兵頭本もあるのですか。

兵:ええ。是非ともそうならねばならないと努めています。さっき、最新フランス哲学の紹介屋さんのことをあげつらいましたけど、そうではない思想・哲学というのもあります。それは、自分自身を知る努力を続けている人です。それは古代にギリシャ人が「汝自身を知れ」と言ったその課題を現代にもしつこく、日本人なりに追い求めていこうというのだ。これこそ、紹介屋に堕さない、苦労のし甲斐のある作業ですよ。昔から日本人は日本列島に暮らしていたわけですね。生まれたときから人々は誰しも自分を知っていると思っています。ところがじつはよく知らないではないかと自分で分かるのです。どうしてその「気付き」が可能なのでしょうか。これぐらいチャレンジングな仕事はないでしょう。もちろん、昔、日本人論のカテゴリーとして「外国人の見た日本人」みたいなタイトルがやたらに出版されたものですが、そんなのは誰でもできる紹介事業に過ぎません。

管:兵頭先生と同世代の評論家の中にも、別宮暖朗さんが警告されている「大アジア主義」に近そうな人と、そうでない人とが、ハッキリ別れてきましたね。

兵:そうですね。誰と誰…とは言いませんが「日本はアジアと組め」と主張されている人は多いですね。…っていうか、「永久にアジアとは組んじゃいかんぞ」と言っている同世代の評論家なんて今、日本にいるんですか。中共はヤバイぞと警告する一方で、昔の大陸浪人的な大アジア主義のロマンに惹かれている人は案外に多いのではないだろうか。僕はそれは、「他国民」というものを知る努力に不足するところがある結果ではないかと疑ってます。ちょっと難しい話をしますけども、「この『自分』は、『自分の国』の中であって、はじめて自分たり得ているのだ」と見切った人が、ソークラテースでした。最新のフランス思想に詳しくても、この基本を一から考えたことのない人には、日本の対外国策は危なっかしくて任せられない。そういう危機感を抱いているので、僕は家計的にはほとんどコジキの分際ですけど、大所高所の偉そうな発言を続けておるわけです。

管:つまり、石原莞爾なんか讃えてちゃいかんぜ、と?

兵:次の僕の本の中で、西郷隆盛の話を少しするかもしれません。西郷隆盛と石原は似ています。それは、かつて結んだ条約を一方的に武力で破っても構わないと考える人だったことです。交渉など面倒だ、テロで邪魔者を殺し、クーデターで秩序を破壊すれば良い、と。大久保利通はそうは考えなかったわけです。福沢諭吉もそうは考えなかったわけです。アジアの指導者は皆、西郷、石原の徒ですよ。それが中堅評論家にも分からない。だから今の「日本はアジアと結べ」と言っている若いひとたちは、大久保や福沢からは遠く、西郷や石原に近い。僕は、江藤淳先生が『南洲残影』をお書きになっていた頃は、まだこういう構図が見えてはおりませんでした。

管:するとやはり別宮暖朗さんの影響は甚大なんですね。

兵:僕は「別宮の徒弟」と言われても構わないですよ。じじつ偉いのですからね。あの人は。漸くというか、別宮先生もメジャー媒体に進出を果たされました。僕もこれからは別宮説の紹介屋の仕事を減らし、もとからやっていた「汝自身、日本国民自身を知れ」の活動に復帰していかなければなりません。

管:それで、最近はギリシャ語を勉強されているのですか。

兵:はい。本当に出来の悪い生徒ですけれども、四十の手習い中です。あの言語の世界に触れなければ、善や悪の判断にイマイチ確信がもてないと、以前から不安だったものですから。

管:お忙しいところ、どうも本当にありがとうございました。

おしまい


管理人:新学期、それは出会いと別れである。「沈没ニッポン再浮上のための最後の方法」は、たまたま卒業(絶版(泣))してしまったのである。決して、決して内容が面白くないからでない事はここを読んでくださっている方にはお分かりだろうと思う。私がタダでダース単位で手に入れた同著を、せっかくだからと送った皆さん、この本を床の間に飾って、朝夕2回毎日欠かさずペルシャ絨毯の上からお辞儀をして下さい。