中共国内では世界仕様のTikTokは禁止されていて、国内専用の似非バージョンだけが流通許可されている。

 Caroline Delbert 記者による2020-1-17記事「18 Things You Probably Don’t Know About Prohibition」。
      百年前の1月17日、合衆国憲法修正第18条が発効し、酒類の製造と販売が禁止された。

 今、ニューヨーク市には、酒類販売ライセンスを受けている酒場が1万2000軒ある。しかし禁酒法時代のピークには、3万2000軒の闇酒場(スピークイージー)が蔟生した。

 ブートレッガーたちが国境外から高速艇によって違法な酒瓶を密輸入してくる、アトランティックシティとNY港の間の海域は、「ラム酒通り」と呼ばれた。
 密輸船取締りのため、海軍の軍艦36隻が動員されている。

 カナダからデトロイト川を使って密輸する者、バハマから英国産ウィスキーをフロリダへ荷揚げする者、なども、ギャングとして繁盛した。

 禁酒賛成をドライ派といい、禁酒反対はウェット派と呼ばれた。ハーバート・フーバーvs.アル・スミスの1928の大統領選挙戦で、論争は盛り上がった。フーバーは禁酒に賛成であった。

 メリーランド州は、禁酒法にもとづいた法の強制執行は徹頭徹尾、しなかった。
 逆に、禁酒法が廃止される流れにいちばん抵抗したのは、ミシシッピ州だった。

 酒類業界は、関係従業者の数では米国内で5番目に大きい産業だった。それが全員失業の危機に瀕し、かつまた、アルコールにかけていた税収もゼロになった。これまた「大恐慌」の下地であった。また、フーバー大統領がその穴埋め政策を何も持ち合わせていなかったことが、次の民主党FDRの地すべり勝利をもたらした。

 禁酒法は、酒の消費を禁じてはいなかった。
 個人が、ストックの酒を自宅で消費するのは自由であった。

 ウィスキーのソーダ割りのことをハイボールという。これは独特なグラスとともに、禁酒法時代に普及した。

 禁酒法の適用例外は宗教だった。シナゴーグとカトリック教会内では、礼拝用のワインが飲めた。

 禁酒法はたしかに人々に「酒=罪」のイメージを刷り込んだ。撤廃された後も人々は自制した。ようやく酔っ払いが見咎められなくなるのは1970年代である。

 カナダ、アイスランド、フィンランド、ノルウェー、ロシアでは、国家ぐるみの禁酒が推進された時期がある。
 また今日でも、米国内の10州が、その州内に、完全禁酒のカウンティを擁している。

 禁酒法時代、医師が処方箋を書いてやると、人々は、薬局でウィスキーを買うことができた。有名チェーン店のウォルグリーンズは、禁酒法時代に急成長したのである。

 米国の開拓時代にウィスキーが飲まれていたというのは作られたイメージで、初期の人々はマイルドな醸造酒をたしなんでいた。それが時代とともにハード・リカーに移ってきて、社会問題が生じた。南北戦争の直後から、婦人が立ち上がって禁酒運動を起こし、それは全国規模で支持されるに至った。だからこそ改憲すら可能になったのである。
 禁酒法が撤廃されたあと、この歴史が隠されるようになった。

 1933まで続いた禁酒法の最大の弊害は、人々が法律を尊重しなくなってしまったことだった。またエリート階級が禁酒法違反で摘発されることが無く、法の下の不平等があからさまに人民に知られてしまった。

 NASCARという自動車レースは、酒を違法に輸送するための改造車同士で、私的に競走していたのが始まりだった。インディカーなどと違い、NASCARが「ストック」車体をベースにしなければならぬのは、この来歴から説明される。もともとは、ガソリンタンク車などに偽装して、ウィスキーを運んだのだ。