日露戦争講演(7)──爆弾のはなし

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

 『孫子』は、敵を知ると同時に己れを知れと説いております。

 有坂成章は、日本の町工場の技術水準というものが分っておりましたから、それに合わせて信管と砲弾を設計し発注いたしまして、日露戦争を勝利に導きました。

 それから、村田経芳は、日本の工業では西洋のようなバネはつくれないだろうと予測を致しまして火縄銃のバネを使って村田銃を完成致します。この予測は恐ろしく当りまして、後に陸軍も海軍もドイツの飛行機用のサイクルレートが高い機関銃をコピー生産しようとするのですが、国産バネの品質がネックとなって失敗しております。

 しかし堀越二郎さんを筆頭といたします日本の航空関係者には、自分が生きている時代の日本工業の実力が見通せていなかった節がある。高性能の機械を一つつくるのと一万個つくるのとは別な世界の話なのです。そこを考えずに身の程知らずに闇雲にアメリカやドイツの真似をして負けてしまっているところが、調べれば調べるほど、まことに情けないのであります。

 ところが、そんな昭和の航空界にも、日本の工業水準がいかなるものか、それを基として組み立てられる最も合理的な作戦とは何か、ちゃんと考えた人間もいました。

 もとより一人だけというのではございませんが、ここでは一人だけ、大西瀧次郎中将を、挙げておこうと思います。

 大西さんは肖像写真がいかにも押しの強そうな熱血派。しかも普通にしていても憎体なところが見てとれますから、これに「特攻長官」などというあだ名が奉られてしまいますと、もういけません。どこから見てもカミガカリの精神主義者だったという評判が固定してしまいます。

 確かに彼は海軍の砲熕、つまり大砲ですね、これと、水雷、つまり魚雷ですが、こうした既成のセクションからは、甚だしく恨まれる立場にあった。時に感情的に対立したこともあるだろうと思われます。

 というのは、砲熕と水雷は海軍の中でも非常に古い艦政本部のナワバリですが、大西は航空本部の若手の幹部としていちばん元気の良い年代を過ごしている。

 あるいは戦史通の人にも少し誤解があるかと存じますが、海軍の飛行機が投下する魚雷、これは、航空本部が百パーセント仕切っていた訳ではございませんでした。

 もちろん、航空本部というものができましてからは、その中に航空魚雷のセクションもあるのですが、もともと魚雷は軍艦のものでしたから、その航空魚雷の開発も実態としては古い艦政本部の人脈頼みなのですね。それで事の勢いと致しまして、純粋な航空本部の人脈に属する若い大西などは、魚雷よりも航空爆弾で敵艦隊をやっつけられることを証明しようとするわけです。

 ちなみにこの日本海軍の魚雷、たしかに複雑な機械ではありましたが、精密な機械ではありませんでした。やはり一本一本が手作りで調整されております。家内制手工業でありまして、精密工業とは関係がないのです。

 ですから、有名な酸素魚雷も、進駐軍は実物を持ち帰って分解したらもう用は済んでしまった。「動力が珍しい」という評価です。V2号を造ったフォン・ブラウンのようにアメリカ本国に連行されて働かされた日本の技術者なんてのもいません。アメリカは1945年にホーミング魚雷を実用化していますが、これに比べまして酸素魚雷はべつだん精密兵器ではなかった。V2号のような技術的な価値はなかったのであります。

 潜水艦の艦長などはこの辺をよく弁えておりまして、大手柄を上げた日本の潜水艦長は、95式酸素魚雷ではなくて、89式空気魚雷を発射したものがほとんどです。酸素魚雷は職人芸的な調整が必要でしたが、それは狭い発射室内ではとてもできなかったからです。

 以上は余談ですが、ともかく航空本部の内部で爆弾派と魚雷派の対立の構図がありましたために、昭和17年になりましても、航空母艦の上で魚雷を運んできて取り付けられる台車と、爆弾を運んできてとりつけられる台車が、それぞれまったく別の規格の物が必要でした。

 それから、「97式」などの艦上攻撃機は、魚雷も爆弾も取り付けられますが、その取り付けるフック、これは機体にネジ止めされているのですが、これが爆弾と魚雷とで違うものに交換する必要があった。ネジ止めですから短時間では変えられない。しかも、何度もお話申し上げていますように、戦前の日本の工業は精密なんてことは考えていませんから、ネジの穴の位置が、機体ごとにズレていた。他の機体のフックを間違ってもってきたら、もう、合わないわけです。

 ですから、すでにウェーク島に対する艦載機による攻撃、この時点で、魚雷と爆弾の交換にやたらに時間がかかって危ないじゃないかという問題点が発見されたのですが、急には改めようがない。それで、引き続くセイロン攻撃で冷汗をかき、ミッドウェーでとうとう空母を4隻沈められてしまった。

 この遠因と致しまして、航空本部内の爆弾派でありました大西瀧次郎が艦政本部の系列である魚雷派と協調する気持ちが薄かったという構図は確かにあっただろうと思います。

 しかし、自分の担当でありました航空爆弾と爆撃機に関しましては、大西はこの上ない合理主義精神を発揮しているのです。この辺がまったく誤解されていますので、私は『日本海軍の爆弾』という本を著わしまして旧海軍の爆弾がどのように発達してきたかをできるだけ調べててみました。

 山口多聞少将はミッドウェーのエピソードで人気が高いのですが、この山口さんが支那事変のときには、中攻隊という、陸上から発進する爆撃機の指揮をとっております。

 ご承知のように、日本海軍の陸上攻撃機にしろ、陸軍の重爆撃機にしろ、もともとドイツの旅客機とかアメリカの輸送機などの民間双発機をモデルにしていますから、燃料タンクに銃弾が当ったときに火災が起きないようにする対策、なんてことは設計段階で少しも考えていなかった。

 広い主翼の中がガソリンタンクになっております。

 これを上の方から敵の戦闘機の機関銃弾で撃たれますと、羽根の上には小さな穴しか開きませんが、銃弾がすぐに横転します関係で羽根の下には拳大の穴があく。この大穴からガソリンが吹き出しますから中攻が基地に帰って来れないということになる。情報によればすでに支那軍の戦闘機にはフランス製の20ミリ機銃を積んでいるものがある。これで上から撃たれたら、ますますたまったものではありません。

 さて、後のミッドウェー海戦では、日本海軍のパイロットは百人ちょっとしか死んでいないのですが、この支那事変の中攻隊は、じつに数百人が死んでいるのであります。

 山口提督には、人的・物的な損耗には一向に構わずに強気一点で味方が全滅するまで攻撃を反復させられる、そういう精神の強さが確かにありました。日本の飛行機に防弾がないのは山口さんの責任じゃありませんし、味方が全滅するまで戦える気力があるというのも軍人として得難い長所なのでありますが、ではこういうキャラクターの指揮官に空母機動艦隊まるごとを預けて大丈夫かとなりますれば、海軍の内部でもだいぶ不安があったはずであります。

 で、この支那事変で海軍の96式陸上攻撃機が支那軍の20ミリ機銃を積んだ戦闘機に上から撃たれて未帰還機を連日のように出していた、ちょうどその頃であります。

 内地の航空本部では、次の陸上攻撃機をどうするかという会議がございました。

 ここで、後の「一式陸攻」と呼ばれる有名な双発機の要求仕様が決まるのでありますが、この会議の席に大西瀧次郎も臨んでおりまして、そこで盛んに意見を陳べております。

 いったい彼はそこで何と言っていたか。

 次の中型攻撃機は、主翼内にはガソリンタンクを置かないでくれ、と要求しております。

 これはずっと後にアメリカ陸軍のB-26双発爆撃機などが徹底して実施した方法なのですが、ガソリン・タンクを胴体内だけに置く。

 そうすれば空中でタンクに銃弾が当ったときに、それが火災に進展する危険を最も低く抑えることができるのです。

 後ろからみたタンク部分の投影面積が小さくなりますので防弾板も張れますし、底を二重にしてガソリンが外に吹き出さないようにすることも胴体ならば容易だからです。

 つまり、中国の上空で山口多聞の中攻隊のクルーが何百人も死んでいる。それを何とかしなければいけないと、具体的で合理的な改善策を示したのは大西なのです。それも、B-26にはるか先駆けたものだった。

 ところがこの大西の提案を、飛行機専門家の側が、まるで真面目にはとりあおうとしないのですね。要するに、コピーのモデルであったドイツのユンカース旅客機やアメリカのロッキード輸送機などにはそういう前例がないからです。

 大西も粘り強く要求しています。しかし、結局、飛行機の専門家が黙らせてしまった。そういう会議の模様が、防衛庁の戦史部図書館に記録として残っております。けっきょく1式陸攻は、96式陸攻よりも燃え易い、ほとんど自殺的な軍用機になったのは皆さんもご存じのところです。

 こういう合理的な主張をこの時期にただ一人している大西が、あとあと「特攻キチガイ」と呼ばれるようになりましたのは、私には不審でありました。

 たとえば、こういう批評があります。どうして飛行機をそのまま船に衝突させる必要があっただろうか、アメリカ軍が編み出した、飛行機が低空で爆弾を落して、それを海面で跳躍させながら敵の船にぶつけるという戦法を、日本軍も採用すればよかったではないか、と。

 これなどは、戦前戦中の日本の工業技術の水準が、まるで分っておられない。己を知らずに他を見て歴史を論ずるやじうまの批判なのであります。近現代史におきましては、この種のやじうまの批判が多すぎる。

 大西は航空本部に在任中に、大小数十種類の新型爆弾の開発計画を立てまして、その実用化の推進役でした。

 昭和12、3年のころにその計画を一斉にスタートさせたわけですが、昭和16、7年までに間にあった爆弾もあれば、昭和19年まで何十回実験を重ねても遂にモノにならなかった爆弾もある。

 間に合わなかったのは、日本の工業水準が、用兵側の理想に追い付いていなかったからです。

 その追い付かなさ加減を具体的に一番よく知っていたのが、大西なのです。日本で彼以上に航空爆弾について知っている者はいませんでした。

その大西が、米軍がソロモンで見せた「スキップ・ボミング」という戦法、これを日本海軍もやれないか、検討しなかった筈はありません。

 現に、この反跳爆撃のための爆弾の開発はスタートしております。

 しかし、数回の実験をした段階で、大西には先の見通しが得られたのです。

 まず、米軍の跳躍爆弾は、じつはふつうの爆弾に特殊な信管を附けただけのものなのですが、この方法は、日本では無理であった。

 というのは、米軍の爆弾はニッケルを含む圧延鋼でできていまして、敵の船に爆弾が横腹から衝突しましても、殻が割れてしまうということがない。信管が作動するまで、もちこたえられるのであります。

 ところが、日本海軍の爆弾は、素材の関係から、横向きに衝突した場合には、殻が割れてしまう可能性が高かった。大量の炸薬と申しますものは、起爆のときに、一瞬の間ですが、圧力を閉じ込めていないと、完全に爆発し得ないのです。殻の一部が割れた状態で信管が作動致しましても、炸薬の一部は爆発反応をせずに終ってしまいます。この危険が、日本の爆弾には常にあった。陸軍の爆弾は海軍の爆弾よりもなお素材が悪いものでしたので、対艦攻撃には使ってはならないものでありました。

 しかも、米軍の爆弾は全体が450kgですのに中味の炸薬が250kgもある。これに対して日本の500キロ爆弾の炸薬は220kg。米軍の爆弾より重いのに威力がないのです。これも、殻の素材の悪さを厚さで補っていたためなのでありますが、それに加えまして、秒数の長い時限信管を、まるっきり新規に開発しなければならなかった。

これだけパッと考えましても、大西瀧次郎には、反跳爆弾は資材と人材と時間のすべてが不足しているこの戦争中には遂にモノになるまいと判断できたのであります。

 加えまして、飛行機の性能の差、飛行機の数の差、パイロットの腕の差がありすぎた。 本当に敵を知り己を知る戦術家でありましたならば、スキップ・ボミングを大々的に実施させましても、言うに足る戦果はなく、その生還率も極めて低いと見通せたのであります。

 事実として特別攻撃作戦は、威力の劣る爆弾、性能の劣る航空機、技量未熟なパイロットの組み合せでありましたけれども、一人一殺以上の戦果を上げております。

 しかしこれは何となくそうなったのではない。昔から合理主義者で人命尊重主義者として知られていた大西が考え抜いた末に出した結論であったからこそ、航空機による大々的な特別攻撃作戦は、海軍部内で説得力を持ち得たのではないでしょうか。

 どうもお時間が来たようですから、この辺でお話を終わろうかと存じます。


(管理人 より)
思えば、兵頭本・兵頭記事集めに加えて、印税がビタ一文も支払われていないというウソかホントかわからない噂のある兵頭講演ビデオまで買った時、「私はこのまま真っ当なコレクターらしく、面白可笑しく人生を棒に振るんだろうか」と思ったものでした。その時の私の感慨を貴方にも味わっていただければ幸いである。


日露戦争講演(6)──黒幕、南部の登場

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

 次に、南部麒次郎のお話を致します。

 アリサカ中将は、大砲から小銃まで一人で考えたのですが、有坂の後継者となりますと、さすがに一人ではできませんで、大砲の方面と、小銃/機関銃の方面との二つに分れます。

 その、小銃/機関銃の分野で有坂の後を引き継いぎましたのが、これからお話し致します南部麒次郎。

 彼は佐賀・鍋島藩の出身ですが、この南部さんの経歴はほとんうに謎だらけです。

 もし、全容が明らかになれば、私は、大正から昭和にかけての日本の現代史、特に日中関係史は少なからず書き変えられるだろうと思っております。それほど、政治や外交方面への関与が浅くなかった。特筆すべき武器設計家なのであります。

 現在、日本の警察官が持っております「ニュー・ナンブM60」という5連発の回転式拳銃、これは実はスミスアンドウェッソン社のハンドエジェクターという小型拳銃のほぼコピーでありまして技術的には大したことはないのですが、このメーカーが「中央工業」と申します。【補注:2004年現在ではミネベア大森工場。】

 「中央工業」の前身は「南部銃製作所」と言っておりました。これは、南部麒次郎が中将になって陸軍工廠を退きまして、大倉商事などから資本金を集めまして大正13年に設立致しました。この大倉商事は銀座にありましたがバブル崩壊の余波で平成10年に自己破産を申請致しております。

 南部麒次郎が陸軍を退きました翌としの大正14年、皆さんにも少しは知られているかと存じますが、「14年式自動拳銃」が、陸軍の採用になっております。

 これが「明治26年式拳銃」から31年ぶりに日本陸軍に採用された新型拳銃でありましたが、じつは南部は日露戦争当時から既に工廠の中で自動拳銃を設計しておりまして、これを明治40年、つまり日露戦争後の大不況がはじまりました年に、寺内正毅陸軍大臣に見せていたのでした。

 しかし、寺内は、自動拳銃なんてものは不要不急の品であるといって頑として興味を示さなかった。

 どうも寺内さんは西南戦争で右肘の骨を砕かれておりまして、野戦病院でスッパリ切断されるところをなんとか残してもらい、いらい、敬礼も左手でしていたという将軍でありましたから、自分で南部式自動拳銃を射ってみることができなかった。右利き用の拳銃をたとえ左手で射ってみても、その良さは分りません。さしものプレゼン上手な南部麒次郎も、これにはお手上げだったようであります。

 まあ、普通のガン・マニアでしたら、たいてい、ここまで事実が分りますと、あとは事実そのままを編年体にまとめまして、それで終りであります。

 しかし歴史の研究は、記録から容易に判明する事実を極め終ったその場所を疑問の第一歩として、本当の調査を出発させなければならない。見えないところを見ようとしなければならないのです。

 なぜ、南部麒次郎は明治30年代から自動拳銃を開発して軍に提案しなければならなかったのでしょうか。上から要求もされもしないものを下で勝手に造って逆に採用を働きかけるとは、当時の日本陸軍という官僚機構の中では異例のことではないかと、ここで疑問に感じなければならんのであります。

 私はこの疑問に基づきまして関連しそうなところを手当たり次第に調べていきましたところ、南部麒次郎はただの軍人官僚ではなかったことが、だんだんに分って参りました。

 まず、彼は、近代日本で最初の企業家官僚であったと言っていいと思います。軍隊の中にあって、自動火器という精密工業製品の輸出を日本で最初になしとげたのです。これは、戦後、物作り大国となりました日本の進路を切り開いたのですから、日本の重工業の歴史に刻まれてよい事蹟のはずですが、なぜか今までの経済史家はほとんど注目してこなかったのであります。

 日清戦争と日露戦争との間には、9年間のインターバルがございます。つまり砲兵工廠としては、粗悪な機械で精密な兵器を生産できる熟練職工を引き止めておくために、9年間のシノギが必要でございました。

 明治33年に北清事変が起きておりますが、これはごく僅かの仕事を砲兵工廠にもたらしただけと見えまして、むしろ直後のリセッションで明治34年に辞めていく職工が多かったようであります。

 その一方でシベリア鉄道が開通しております。日露はやがて激突するという見通しは、参謀本部など軍の上層では共有しておりましたから、砲兵工廠の危機感も並ではない。

 このことは、旧陸軍の将校クラブの機関誌であった『偕行社記事』の明治35年1月発行号に、東京砲兵工廠の小銃製造所長の南部麒次郎大尉が寄せておりますインタビュー記事を読みましても推測ができると思います。

 そして、この記事の中で南部は注目すべき発言をしておりまして、職工たちに機関砲や自転車などをこしらえさせている、というのですね。

 自転車はこの頃は、要塞部隊が使っていたようです。要塞の内部は舗装されていますから、伝騎がわりに自転車が使えたようです。

 機関砲というのは、高田商会の斡旋で陸軍が製造権を獲得したホチキス式機関銃です。南部はこの量産を担当した関係で、自動火器とそうでない兵器の目に見えない違いを実感したのだと思われます。それは、1/100ミリ以下の精度です。

 人間の指先は、慣れてくると、金属表面の百分の数ミリの段差まで触覚で感じることができるそうです。しかし、一千分の一ミリ、一万分の一ミリの凸凹となると、いかなる名人といえども、目で見たり指で触って認識できるものではありません。20世紀の機関銃と航空用エンジンには、まさに、この人間の五感では分らないレベルの部品精度が求められたのであります。

 機械部品で一千分の一ミリの精度を出そうと思ったなら、それを加工する機械の方に一桁うえの精度がなければなりません。ところが、工作機械の加工精度に対してお金を出すことの意味、必要を、陸軍上層はなかなか理解ができなかった。安い中古機械がアメリカで売られているのだからそれを買ったら済むじゃないかという認識でした。それも貧乏国としては無理がないので、機械の精度が一桁あがると、機械の値段も一桁高くなったのです。

 航空エンジンのない当時、機関銃担当の南部麒次郎はこの問題を日本で一番よく分っていましたから、単に職工に仕事を与えるだけではなく、その精密な技能を維持させるために、新しく自動拳銃を作らせたかったのだと考えられるのです。

 自動拳銃は、ジョン・ブローニングという人が明治43年に非常に安価なモデルを売り出すまでは、とんでもなく値段の張るもので、しかも、工業先進国以外では製造できませんでした。

 だいたい普通の小銃の単価よりも、自動拳銃の単価の方が2倍ちかくしました。

 これを南部大尉は遅くとも明治35年内には「南部式大型自動拳銃」として完成致しまして、日露戦争たけなわの明治38年の1月から軍人向けに国内販売を開始しております。

 南部と晩年の村田とは親交があったようでありますから、こうした発想の大もとは村田の猟銃ビジネスだったろうと私は思っておりますが、南部の凄いところは、これを輸出するところまでもっていった。

 明治40年に少佐に進級して小銃製造セクションの長となると同時に、南部は自分の自動拳銃を清国市場向けに輸出し始めたといわれております。

 さらに大正年間に入りますと、彼は自分で設計した機関銃を中国の軍閥に売り始めます。じぶんでセールスして歩いた。この機関銃は三脚のついた重いもので、単価は小銃の40倍近いものです。

 要するに自動火器は高付加価値である。しかも、ある程度以上工業化された国だけが特権的に製造できる商品である。この事実に南部は目をつけまして、三井、大倉、高田といった当時の大手武器商社とも連携致しまして、中国市場を積極的に開拓致したのです。

 私は、こういう重工業製品の海外市場開拓を日露戦争いぜんにやったという設計家は知りません。南部が日本で初めてではなかったでしょうか。

 むろん、そうした大胆な企画を展開するにあたっては、彼は陸軍の上司に積極果敢に働きかけております。どうも政治方面の圧力までかけさせている形跡すらある。工業と経済と政治と外交のすべての方面で、南部さんは「日本初」の仕事をいくつかやったのだということが分って参りました。

 たとえば第一次大戦中の、有名な「対支21ヶ条要求」、これにも南部の関与がなくては絶対に有り得ない条項がある。それが第5項です。この中で日本側は、中国は兵器はすべて日本から購入するように、と要求しております。

 ところがですよ、考えてみてください。こういう要求をするには、仮にも中国側から買いたいと言われた武器は全部日本で国産品を供給できることが前提になっていたはずです。

 では、当時、日本はあらゆる近代戦の武器を国産できたか。それが、ひとつ、大変微妙なアイテムがあった。

 というのは、日露戦争中に南部が砲兵工廠で量産していた機関銃は、フランスのホチキス社からライセンスを買ったものでした。そのライセンスの契約では、製品の第三国輸出は禁じられていたのです。したがいまして中国に勝手に売ったりすればフランスから訴えられてしまう。

 ここで陸軍が南部に相談したか、南部が陸軍に請け合ったのか、どちらかわかりませんが、絶妙のタイミングで「三年式重機関銃」という、あらゆる部品を南部麒次郎が再設計致しました国産機関銃が完成するのです。これでホチキスのライセンス生産は終了しまして、同時に日本は機関銃を中国に輸出できるようになった。陸軍として「第5項」も要求できる立場になったのです。

 南部さんは今の「中央工業」を立ち上げた創業者なわけですが、自叙伝以外のまともな伝記がございません。

 大正7年の『太陽』という雑誌の6月号、ここに桃澤という退役陸軍砲兵少佐の短い寄稿が載ってございまして、その中で、「政府保護下の私立兵器製造会社」を設立しなければ、日本は第一次大戦のような大戦争に対応できない、と訴えております。この人の理想は、日本版のクルップ社を創ることだったように読まれるのですが、これはじっさいには、例えば、日本製鋼所と中央工業を併せたような組織にしないと無理でありましたろう。

 果して、南部麒次郎には「日本のクルップ」になってやろうというような大野心があったんでありましょうか? 仮にもしそうだったとしたら、それは三菱グループに潰されただろうと、私は想像しております。

 南部さんは、三井・大倉・高田の三大武器商社を糾合致しまして、「泰平組合」という武器輸出カルテルを結成させています。自叙伝ではそのことにはホンの数行、申し訳ばかりに触れているだけであります。この「泰平組合」には有力なメーカーがグループ傘下にありませんでしたために、支那事変の勃発ですぐに武器の供給ができなくなり、機能停止に陥ってしまいます。

 そのカルテルを三菱グループが乗っ取った……というと聞こえは悪いですが、三菱のリーダーシップですっかり解体して組み立てなおしたのが「昭和通商」であります。有名な「零戦」の20ミリ機銃を海軍の山本五十六に斡旋致しまして、そのライセンス生産を日本で実現させたのは三菱商事です。その三菱商事が「昭和通商」の幹事格になった。三菱グループと南部さんとはいつの頃からか商売仇であったんじゃないかと考えることは、可能なのではないでしょうか。

 しかし、日本で初めて国産の航空用機関銃を製造したのも南部麒次郎ですし、南部の設立した工場の優秀な設備と人員がなければ、満州事変以後の陸軍航空隊が必要としました膨大な数の7.7ミリ機関銃や12.7ミリ機関砲はとても調達ができなかったのは事実であります。つまり、97式戦闘機や隼などの活躍もありえなかった。しかし、南部さんは、これについても一言も語ることはありませんでした。

 ここで機関銃のお話から、飛行機と三菱重工のお話に移って参ります。

 といって、まるっきり唐突な展開ではございません。じつは、機関銃と航空機用のエンジンには、大きな“共通点”があるからです。

 これは、第二次大戦の工業技術面での敗因を考察する場合のキー・ポイントであります。そして、なかなか日本人には見えにくいお話なのであります。いまだにこれを分ろうとしない人も多い。「零戦」が精密機械であった、などという括り方は、その代表であります。「零戦」は少しも西洋レヴェルの精密機械ではなかったのだという真相が見えてこないうちは、将来の日本人も、かつての航空戦で訳も分らず負けたのと同じ弱点を持ち続けるだろうと、わたくしには心配されます。

 さて、機関銃と航空エンジンの共通点とは何でしょうか?

 どちらも高温・高圧の爆発反応を、動く部品、摺動部品によって封じ込めなければなりません。

 しかも、不随意に回転が止まってしまうことは、人命に関わるので、絶対に許されない。

 たとえば、機関銃が敵と撃ち合っている最中に突然部品がひっかかって動かなくなってしまったら、大変ですね。

 それが原因で部隊が全滅ということも、ありえます。

 同じように、空を飛んでいる飛行機のエンジン……。これも、飛行機が地上に降りてくるまでは、絶対に空中でエンストなんかして貰ったら困るものです。
 乗っている人間の命に関わるだけでなく、それで一つの作戦が大敗北するかもしれません。

 というわけで、機関銃に要求される工作精度は手動連発式の小銃より一桁高いものでしたし、航空用エンジンに要求される工作精度も、自動車用エンジンよりは一桁高いものだったのです。

 さらに機関銃にも航空機専用のものがございます。これに要求される精度は地上用よりも一段と高かった。と申しますのも、後部座席の旋回機関銃は、これは射手が手を伸ばして故障排除することができます。しかし、主翼についている機関銃、これは、一度飛び上がってしまいますと、故障排除のスベはないのであります。

 それで、ドイツなどでは、主翼につける機関銃には空中で遠隔操作によって再装填ができる装置をつけていました。それは、空気圧力ですとか、電気モーターの力で、不発弾を排除いたしまして、新しい実包を装填できる仕組みでしたが、日本ではこれがなかなかコピーできなかった。そのために、せっかくドイツから優秀な機関銃の設計図を買っておきながら、結局、それを後部旋回用としてしか国産化することができなかったのであります。具体名を挙げれば、MG15(旋回)とMG17(固定)。

 機関銃の遠隔装填装置のようなメカトロニクスの精密工作が日本の工場では造れなかったということは、日本の工作機械の最も質の良いものでも所詮その程度だったという証明でありますから、いわんや小型高性能の航空用エンジンは、量産できるわけがなかったと分ります。

 エンジンがよくても脚が出ずに胴体着陸となって飛行機がまるごとオシャカになった、あるいはゴムの油パイプが不良で、爆撃機が引き返す途中で脚が下りてしまって速度が出せず、敵戦闘機にやられてしまった……、みんな精密工作に関係した「フォース・マルチプライヤー」のネックだったと申せるのでありますが、ここではエンジンのお話だけを致しましょう。

 高度1万mを飛んで参りますB-29を迎撃するためには、戦闘機の機首に搭載するピストン・エンジンは、非常な高速で回さなければならない。しかも、正面面積を小さくして空気抵抗を少なくして、ブースト圧も爆撃機以上に高めなければなりません。

 これを直径の小さな空冷でやろうと致しますと、冷却が部分的に不足がちになりまして、空中でエンジンのあちらこちらが熱で熔けて火災になってしまいます。どうしても迎撃機というものは、水冷/液冷エンジンにしなければならなかった。

 ところが、大正14年に日本陸軍は、おそらくはアメリカの真似を致しまして、航空機の契約を、一社指名から、競争試作方式に切り換えました。

 これがまったく時期過早でありまして、当時日本では内燃機関を設計・製造できる最も体力のある会社は、三菱内燃機製造会社、すなわち後の三菱重工でありましたけれども、この三菱が、せっかくイスパノ系水冷エンジンのライセンスを持っておりまして、これから徐々に国産の水冷エンジンの技術を磨こうかという時であったのでありますけれども、そんなことをしておったのでは、すでに空冷路線に特化して陸軍機のシェアを占めつつある中島飛行機、つまり戦後の富士重工ですが、この中島との競争試作に勝てないのは明白でございました。

 それで、三菱は水冷戦闘機を造ることはすっかり止めてしまう。

 戦闘機に関してましては以後は空冷星型エンジンしか考えなくなったのであります。

 全体に、星型の空冷エンジンには、液冷ほどの工作精度が要求されて参りません。

 これが、水冷エンジンですと、気筒数に比例して曲軸、つまりクランクシャフトが長くなってまいります。これは回転速度が上がって参りますと、1万分の1ミリの工作精度で仕上げませんと、振動で飛行機が空中分解してしまう。

 ドイツのメッサーシュミット戦闘機が積んでおりましたダイムラーのエンジンは、このような精度で加工されていたのです。

 しかし、空冷星型ですと、曲軸はごく短いもので済みますから、いくらシリンダーの数を増しまして、大馬力に致しましても、液冷エンジンほどの加工精度は要求されません。その空冷エンジンのレベルで満足しておった結果として、日本の工作機械は、最もよろしいものでも千分の数ミリという精度にとどめてしまっておりました。

 そのために、あとでB-29の迎撃に液冷エンジンが必要だと気付きましてドイツから潜水艦でダイムラー・エンジンやら設計図やらを運んでまいりましても、とても、日本国内では、その長くて精密な曲軸を削り出すことができなかったのであります。

 つまり、高価な工作機械に投資できる三菱重工のような体力のある企業に、早すぎる競争入札方式で液冷エンジンの路線を放棄させてしまった陸軍の指導方針が、長い目で見ますと、日本の本土防空を不可能にしてしまったのだといえようかと思います。

 さきほど私が零式艦上戦闘機は精密な機械ではなかったと申しましたのもこの意味でございます。製造ロットが10とか100単位であった大戦初期の日本の戦闘機に供給致しましたエンジン、これは、製造ラインの最終工程で、ヤスリを持った職工が、ひとつひとつ擦り合わせ調整という仕上げをしていたのです。砲兵工廠の機関銃のラインと全く同じやり方でありました。

 この擦り合わせという仕上げをやりますと、もう部品の互換性はまったくない。戦地で墜落した僚機のエンジンのシリンダーを持ってきて使おうと思っても、誤差が0.何ミリもあるのではどうしようもありません。こういうのは精密機械とは言えないのです。

 工作精度がこの程度のままで少しも進歩がないのに、シリンダーの大きさをまったく変えないで、ブースト圧と回転数だけ高めようとしたのが、大戦後半に三菱と中島で造りました、いわゆる2000馬力エンジンです。

 いくら星型空冷といいましても、高温・高圧を動く部品で閉じ込めるメカニズムなのですから、ブースト圧や回転数に応じた精度は絶対に必要なのです。しかし、相変わらず、日本の航空エンジンは、最後にヤスリを手にした職工が擦り合わせで仕上げをしていたのです。

 人間の指先は千分の数ミリの段差は触覚できるかもしれないが、もう1万分の数ミリになりますと感じることもできません。しかし、2000馬力エンジンにはそのくらいの精度が必要だったのですから、そんなものが大量量産できた筈は初めから無いのです。

 日本は敗戦後、だいたい7年間くらい、著者の思うがままに戦前・戦中の回想を書いて出版することが禁じられておりました。アメリカの占領政策に、言論・出版の自由ということはなかったのであります。

 それで昭和27年にサンフランシスコ講和条約が成立する見通しとなった頃から、一斉に旧軍の要職にあった人の回想記が出版されます。

 昭和28年のベストラセラーになったのが、奥宮正武・元海軍中佐と、堀越二郎技師の共著の『零戦』という本でした。

 この中で堀越さんは、自分が主張したとおりに三菱重工のMK9Aという2000馬力エンジンを海軍が採用していさえすれば、「烈風」という素晴らしい戦闘機がマリアナ戦の前にも間にあったのだ、と書いています。これを信じる人が今でも多いようです。

 しかし、堀越技師は機体設計の専門家でありまして、発動機がどのように量産されていたのか、工場の実態はまるで知らなかったのであります。東大の工学部の航空科を首席で卒業したような人に、量産の現場は一生涯まったく無縁でした。これは戦前の日本の不思議な伝統なのであります。

 中島の「誉」エンジンを三菱の「MK9A」に替えたところで、製造ラインの最後にヤスリをもったベテラン仕上げ工が待ちかまえていて、一個につき何十時間もかけて調整してもなかなか調子良く回ってくれなかったという実態はまるっきり同じなのですから、「烈風」などというスーパー戦闘機も、絵に描いたモチでしかなかった。日本の飛行機は、最後まで精密産業の産物ではなくして、手作りであった。手作りでは、1万分の1の工作精度は絶対に得られませんので、日本にはB-29を撃墜する方法はなかったのです。これが、事の真相であります。


日露戦争講演(5)──野砲用砲弾における町工場の動員

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

 有坂成章のもうひとつの功績が、「31年式野砲」という大砲を国産したことです。

 わたくしが2年前に『有坂銃』という本を出しましたときに、この「31年式野砲」がドイツの何という大砲をコピーしたものかはっきりさせられなかったと書きましたところ、長谷川慶太郎さんからお手紙を頂戴致しまして、その御教示によりますれば、ドイツの「1896年式固定砲架野砲」ではないか、とのことでありました。これは1990年にベルナルト・グラーフという人が出しましたドイツ語の本に諸元が載っているそうであります。

 このように、大砲自体は真似なのでありますが、真似でない有坂の大発明もあった。それが、「銑製榴弾」という当時どこにもない砲弾、および、その信管なのであります。

 当時の野砲の仕事は、榴霰弾という、バラ弾を発射する砲弾を撃つのですが、このバラ弾は決して頭上から降ってくるのではなくて、ほぼ水平に飛んでいくものなのです。この辺は今の人はほとんど知識のないところであろうかと思います。

 水平に敵兵を捕捉する砲弾ですから、敵兵が地面に穴を掘ってその中に入ると、もうまるっきり効果がありません。そこで、野砲から榴霰弾を発射していてはもう時代遅れで、野砲からも榴弾を発射しなければならないと気付かれ出したのが日露戦争中のことでした。

 榴弾というのは地面に当って爆発する弾薬で、これなら塹壕陣地を攻撃できるわけです。今の大砲にとっては、榴弾を発射するのはいうまでもない当たり前ですが、第一次大戦以前は、榴弾は榴弾砲という少し重い大砲から発射するものでありまして、軽量の野砲から撃ち出すようなものではありませんでした。それを有坂は、野砲から榴弾を発射できるように、75ミリの鋳物の榴弾を開発しました。これに対してロシア軍は、ついに戦争の最後まで、野砲から発射できる榴弾は開発できませんでした。

 つまり、有坂は、野砲の榴弾砲化という、第一次大戦の列強にさきがける大事業を、一人で、それも戦時中にやってのけているのです。

 しかも、有坂は、町工場でも造れる榴弾を工夫致しました。それを「銑製榴弾」と申します。

 銑製の銑とは銑鉄の銑、つまり、鋳物、キャスト・アイアンであります。

 それまでの榴弾はスチールで造るものですから、とても町工場では造れない。八幡製鉄所のような、本格的な高炉か、特殊鋼用の電気炉が必要でありました。

 しかし、鋳物であれば、クズ鉄を溶かすだけでどうにでもできた。町工場の平炉でクズ鉄を溶かせばよかったのです。

 イギリスは製鉄王国でありましたが、それでも後の第一次大戦ではたちまちスチールが枯渇してしまいます。そこで、はじめて、航空用爆弾に鋳鉄を混ぜることにした。

 有坂は極東の日本においてこの工夫にいちはやく取り組んだわけです。何の見本も、先例もない。今でしたら、これだけでも通産大臣から叙勲申請があっても良いくらいの、すぐれた着想と実行なのであります。

 次に榴弾用の信管ですが、これは発射するまでは絶対に起爆してはいけない。そして何千Gという発射の加速度に耐えなければならない。しかも、柔らかい地面に命中しても絶対確実に起爆しなければならない。

 要するに、精密技術でありますとともに、極限技術でもあるのが、榴弾用の信管でした。

 そんなわけですから、一般に、信頼できる新型信管の大量製作法を確定して立ち上げるまでには、大砲の開発と同じくらいのマン・アワーと設備投資が必要とされておりました。

 ところが日本陸軍は、それを有坂一人にやらせました。

 メッケル少佐の確立しました日本陸軍の人材養成機構は、野戦の指揮官ばかりを増やすものでして、技術者を増やすことにはまったく無頓着でした。

 たとえば村田経芳も、メッケルの人事システムのおかげで、戸山学校の教官として何度も転出しては、再び砲兵工廠に戻るというムダな異動を繰り返しております。そんな杓子定規な人事規定のために、日本の新兵器の開発は非常に遅らされたのです。しかし、こうした技術者の仕事を邪魔するばかりのシステムは、第二次大戦まで改まりませんでした。

 まあ、そんななかで有坂成章が東京近郊の町工場を総動員して全く新しい野砲用の榴弾とその着発信管を量産させましたのは、これこそ超人的な努力というほかないのであります。

 これは、海軍の大砲と比べてみれば一層ハッキリするだろうと思います。

 軍艦の弾庫に搭載されます主砲の砲弾、これは、数が非常に限られたものです。

 だいたい、一門あたり、一海戦で射耗する砲弾は100発から200発です。

 つまり、必要とならば、砲弾一つ一つ、信管ひとつひとつを手作りしても間に合うようなオーダーでしかありませんでした。

 ところが、陸軍の使用致します野砲の砲弾、これは何万、何十万と量産して撃ちまくらなければならない。とうてい、一個一個の信管を手作りしているヒマなんぞはないわけです。

 ということはつまり、海軍砲弾、および海軍信管は、家内制手工業で間に合う。

 早い話が、江戸時代の細工物の内職の延長と構えておってもよかった。余談ですが、後の「酸素魚雷」なんかも、まったくそんな感じで造られております。

 これに対しまして陸軍砲弾、およびその信管は、よほど大規模な工場制でなければ、絶対に必要量を補給することはできない。

 ということは、工程管理が必要である。マニュアルも必要である。メートル法も知らない町工場のオヤッサン達でも造れるようにやしさく設計しなければならない。

 こんな苦労は、江戸時代の日本人は知りません。まさに近代工業の最前線に一人で立っていたのが有坂成章だったと言えるのであります。

 本来精密部品であります信管。これも、日本の町工場ではとても作れるものではなかった。

 しかし、対露戦争という国難に際会しまして、町工場を動員しなければとても必要量を確保できない。そこで有坂は、当時、東京とその近郊に一番普及していました機械であります「活字鋳造機械」、これに着目いたしまして、この活字鋳造器でつくれる榴弾用の信管をわずか数カ月で設計するのであります。

 こうした近代的な苦労に比べますれば海軍砲の「伊集院信管」なんてものは少しも偉くはない。

 「伊集院信管」はイギリス海軍の弾底信管のコピーに過ぎません。そもそも発明と呼ぶに値しないのです。有坂の作った信管は外国にもその例のないようなものですが、「有坂信管」などという名前を彼は付けなかった。奉天会戦が切迫していて、それどころではなかったのです。

 しかしこれは本当に例外的な奥ゆかしさでして、いっぱんに明治から昭和にかけての技術系軍人というのはつくづく自慢好きでありまして、外国のモノマネにすぎないものでも、この兵器はオレがある日夢の中で着想を得て作ったなどと埒も無い自慢話に華を咲かせております。ですから、ロクに正体も分っていない「伊集院信管」も、なぜか、名のみ高しというようになっておる。

 それに加えまして、これまでの歴史家は非常に怠慢でありまして、その通俗説のいうところを実際に自分で確認しないで鵜呑みにしてきておりました。

 私は鵜呑みにしませんでしたのでいちいち調べてみたところが、今まで偉いと思っていた発明家が実はぜんぜん偉くはない。大半はホラに過ぎませんで、むしろ兵器に自分の名前をつけるようなマネを恥じた有坂成章のような人物が、本当にど偉い近代的発明を為したのであるということを、ようやくつきとめることができたのであります。

 この有坂成章、日露戦争が終りますと、次の信管のテスト中に、脳溢血でなくなってしまいました。

 脳髄を絞った—とは、まさにこの人のような活動を言うのでありましょうか。


日露戦争講演(4)──有坂成章

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』 で公開されたものです)

 さて、山県有朋によって薩摩出身の村田経芳の代りに陸軍砲兵工廠に送り込まれたエリートが、長州の支藩である岩国出身の有坂成章であります。

 最初は、東京湾をロシア海軍から防衛するための要塞砲の世話係のような形で山県に使われていたのですが、だんだんに武器設計家としての頭角を現しまして、ついには日露戦争の陸戦兵器全般の面倒を見る「砲兵会議議長」という要職に就任致します。

 すなわち日露戦争は、陸戦に関しましては、ぜんぶ有坂が設計した小銃と大砲と弾薬で勝利したといって過言でない。

 この人がまた奥床しいというか、明治人には珍しく自己宣伝をしない人でありまして、そのために私が書きました『有坂銃』という本、これが伝記といたしまして唯一の単行本でございます。どうして遺族の人が没後に伝記を出版させなかったのか、これも謎なんです。

 おそらく、武器の大発明の陰には失敗作もあるのでしょう。その失敗作の欠陥品ために、平時に同胞が何十、何百人と死傷すれば、これは大変なトラウマであります。対ロシアの勝利という大功績をもってもその過去は帳消しにはならない。少なくとも本人は終生、気にしておりますので、国から表彰してやると言われれば金鵄勲章は受けますけれども、自分からはとても宣伝をして威張る気にはなれなかったのだと、私は、想像をしております。

 たとえば、旅順に「28糎榴弾砲」を投入した作戦がありますが、これも全く有坂一人の手柄でした。

 かつてケネディ大統領、成功には何人もの父親が名乗り出てくるが……、とピッグス湾事件の失敗のあとで嘆いたものですが、この28糎榴弾砲の話などはまさにその典型と申せます。「あれを提案したのはオレだぜ」という自慢話が、ポーツマス講和後に無数といっていいほど出ております。そのほとんどはホラ話であります。

 レッキとした将校たちがみんなで大ボラを吹いている。これが明治末期の雰囲気でしたから、乃木大将などもいたたまれなかったのは無理もない。

 詳しい経緯につきましては、小著『有坂銃』をご一読賜ればご納得いただけると思いますが、そもそもあの28センチ砲を日本の沿岸に取り付けさせたのは山県有朋でありまして、その実行を担当させられたのが有坂成章なのです。

 山県は軽い思い付きでこうした要塞を整備させたのではありません。彼はまず手元・足元から防備を固めるという主義の軍人だったのです。

 この沿岸要塞建設のために山県が投入した努力は、調べてみますと洵にすごいものなのです。心血を注いでいた。たぶん元治元年の奇兵隊が英仏軍に敗れた経験がよほど強烈だったのだと思いますが、とにかくそういう次第ですから、日露戦争中にこれを日本の沿岸から取り外すなどということはもっての他だったんです。

 ただ、有坂成章だけが、山県を説得できる男だった。もちろん、28センチ砲の据え付けの仕方を具体的に知っているのも有坂だけなのであります。他の軍人は、要塞砲が動かせるなんて知っていた訳がない。

 まあ、証拠と致しましては、当時陸軍大臣であった寺内正毅の明治37年8月25日と26日の日記、これを見ただけでも、提案が有坂から出ていることは明白であります。

 次に、日露戦争で歩兵が持っていた小銃ですが、これは明治30年に有坂が設計致しました「30年式歩兵銃」というものであります。

 この「30年式小銃」の口径とか全体の寸法は少しも変えないで、機関部の部品を僅かに変更いたしましたのが、有名な「38式歩兵銃」。銃剣はやはり30年式のものを流用しております。

 ですから、日本は明治38年設計の小銃でアメリカと戦ったというのは正しくありません。日本はまさしく明治30年に有坂が設計した小銃で、アメリカと戦っているのであります。

 では有坂銃は、時代遅れのダメな小銃だったか?

 とんでもないことでありまして、これは世界一進んだ小銃であった。しかも、最も省・資源的な武器であった。

 だからこそ日本は、弾薬補給の戦いでロシアに競り負けずにすんだのです。
 さらに、中国とイギリス、アメリカを同時に敵に回して何年間も戦争をすることができたのは、有坂の設計コンセプトが合理的であったおかげなのです。

 有坂銃がなければ、そもそも日本はアメリカと戦うこともできなかったと私は考えております。いや、その前に、満州の陸戦でロシアの騎兵部隊のために連戦連敗を喫していた筈であります。

 いったい、「30年式歩兵銃」のどこがそんなに優れていたか。

 日露戦争中の全ロシア兵が装備しました「1891年式歩兵銃」は、射距離500mでの最高弾道点が、地表から1.45mでありました。これは、日本兵であれば、200mぐらいのところだと、頭を低くすればかいくぐることができる。すなわち弾道の性能がよくないのであります。

 これに対し、有坂が3カ月で作った「30年式歩兵銃」の、射距離500mでの最高弾道点は、地表から1.2mしかありません。つまり、弾道が水平に伸びる。敵兵は、500m以内では、どこに立っていようと弾に当ってしまう。ですから、歩兵はともかくも、騎兵になりますと、事実上日本の歩兵部隊に近寄ることが不可能になったのであります。

 6.5ミリという小口径弾を採用するのはひとつの賭けでありまして、イタリア軍は先に6.5ミリを採用していましたが、こちらは銃身が短いので弾道性能がよくない。30年式では十分に銃身を長く致しまして、それで当時としましては世界で最も弾が低くまっすぐ飛ぶ、つまり誰が撃っても当て易いライフルになったのです。

 38式歩兵銃が白人兵と銃剣格闘するために長いのだという話が何の根拠もないデタラメな説明であることも、これで御分りかと存じます。事実は、このとき6.5ミリの小口径で弾道性能を良くするために有坂があの銃身長にする必要があったのです。それでも、着剣全長で比較しますと、ロシア軍のライフルより30年式歩兵銃の方が初めからずっと短く設計されています。

 ところで、当時の軍用銃は、弾がよく当るだけではダメなのです。その弾で、馬を一発で倒すことができなければ、戦前の軍用銃としては失格でした。

 明治の日本の最大の脅威はロシアであったことは誰でも知っています。

 そのロシア陸軍の最大の脅威が騎兵部隊であります。

 なにしろ馬の馬格が日本の馬の1.5倍以上良かった。馬の数でも日本などとは比較にもならない。ゼロふたつぐらい違っていたかしれません。騎兵対騎兵ではまったく勝負になりませんでしたから、なんとかこれの相手を歩兵部隊がするしかないというのが日本軍の苦しい立場でした。

 日露戦争前の日本軍歩兵部隊の研究課題は、コサック騎兵の突撃にどう対処するかに尽きていたといっていいでしょう。

 それをやり遂げたのは、秋山好古などではありません。有坂が歩兵部隊に持たしてやった、歩兵銃の威力だったのです。

 30年式歩兵銃の開発過程では、馬の一番太い骨を遠くから射つという実験を、何度もしております。一番太い馬の骨が打ち抜けるなら、その馬はただの一発で倒せる。襲撃をストップできるんです。それを有坂は、6.5ミリというギリギリの小口径で実現しました。

 おかげで、日本軍は、ロシア騎兵の突撃を少しも恐れる必要がなかった。横に一列に拡がって、30年式歩兵銃を撃つだけで、コサックだろうがなんだろうが、1000m以上離れた射距離からでも、突撃を破砕できたのであります。

 鴨緑江南岸で日本軍は初めてロシア騎兵500と遭遇致しますが、衝突しました日本軍の騎兵200がまさに風前のともし火というときに、近衛大隊の歩兵銃の掩護射撃でこれを撃退致しました。以後、日本軍にとってロシア騎兵は何の脅威でもなくなったのであります。あれほど恐れたコサックが日本兵を馬蹄にかけるという事態は一度も生じませんでした。ときどきやられたのは、日本の騎兵部隊だけなのであります。

 殊勲甲は有坂銃にありました。歩兵が有坂銃を持っていたから、少ない歩兵を横に薄く長く展開できた。そこをロシアの騎兵部隊も、突破することができなかったのです。

 さらに有坂の功績は世界史的であります。

 この日露戦争におきまして、勇猛無敵を謳われたコサックどもが最新の歩兵銃に対してからきし無力であると日本軍が証明してやりましたから、それであのロシア革命も起きたのであります。したがいまして有坂の功績は、明石大佐などよりも、遥かにでかいのであります。

 さて有坂の導入致しました6.5ミリ弾は、兵站上も有利でした。ロシア軍の7.62ミリ小銃実包と同じ弾数を用意するのに、より少ない資源しか要しません。弾薬が比較的に軽いですから、推進補給の労苦も少ない。それで、日露戦争を通じて日本軍は、小銃のタマ不足にだけは、苦まずに済んでいます。もしも日本軍の小銃弾補給が、野砲弾や攻城砲弾と同じように尽きてしまったなら、やはり日露戦争は失われたでしょう。


日露戦争講演(3)──マタギ・スペシャル

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』 で公開されたものです)

 明治41年に日本には泰平組合という輸出カルテルができまして、ここが余剰生産兵器を海外に売り捌く仕組みができました。これによって陸軍工廠では、国軍の需要のない端境期にも兵器をコンスタントに製造できる、つまり、腕の良い職工を常時つなぎとめておけるようになったわけであります。この事業を開始致しましたのが、日露戦争中の小石川の陸軍工廠でホチキス機関銃のライセンス生産を一人で担当しておりました南部麒次郎の少佐の時であります。

 ところが、戦前の銃砲店の商品広告などをよく調べてみますと、既に明治前半の村田経芳が、小石川工廠の設備と人員を活用致しまして、対民間のビジネスを始めていたということが分ってくるのであります。

 南部のように輸出をしたのではなく国内に売ったのでありますが、村田が退役した翌年の明治24年には、このビジネスはうまく軌道にのっていたことは、カタログ類から確実に分ります。

 残念ながら肝心の村田連発銃の生産はうまくいかなかったのですけれども、そうして普及致しましたのが、戦前の全国の職業猟師が愛用を致しました猟銃の「村田銃」でありました。

 名前こそ村田銃ですが、これはライフル銃ではない。単発の、非常に値段の安いショットガンなのであります。

 この猟銃の村田銃、発想はどこから来ているかというと、明治前半には素材が悪いこともありまして単発の13年式村田歩兵銃が部隊で使用中に銃身が曲がったり致しまして故障になる率が高かった。それを部隊におきましてはまだまだ直す技術はございませんから、いちいち製造元の工廠まで送り戻されて来ます。それを修理するセクションもありました。

 しかし、中には修理が全く不可能で、廃品にして、新しいのと交換した方がよい場合もある。その廃品銃の部品を活用して、村田が散弾銃をこしらえてみた。

 散弾銃というのは幕末に開港致しましてから白人の狩猟家が日本に持ち込んで流行らせましたもので、まあおかげでトキ以前にも何種類もの貴重な鳥や動物が大正時代に絶滅してしまうんでありますが、明治10年代ですと、まだ高級な輸入品です。

 べらぼうに値段が高かったので、田舎の職業猟師などはこれを手にしたくともとてもできない。いぜんとして江戸時代の火縄銃で猟をしておるありさまでして、村田はスイス式の国民皆兵制度を理想と考えておりましたから、安い近代ショットガンを田舎に普及させてついでに、射撃訓練もさせてやれ、と考えたこともあったようです。

 それで、最初は廃品の村田銃の機関部---つまり、槓桿を開いて薬室に装填して閉鎖して引金を引いて発火させる、その部分だけを流用致しまして、廃品利用の改造品という形で単発の散弾銃を造って民間の銃砲店に払い下げを始めたのですが、すぐに、18年式村田歩兵銃の生産ラインの一部を使って、まるっきり新品の猟用ショットガンとして受注生産を始めたようなのです。それこそ、口径や銃身長、台尻の木材の素材、安全装置をどうするかまで、客からの注文に応じていた痕跡がございます。

 だいたい、イギリス製の口径12番、水平二連の猟銃は200円以上していたそうですが、村田式の猟銃は、新調なのにたった9円50銭。

 二十分の一の激安というわけで、これは非常に普及致しまして、1950年代まで東北あたりでは村田式の猟銃で熊などを撃っていたことが、マタギの記録などを読みますとよく分るのです。


日露戦争講演(2)──見えない「精度」に投資できなかった近代日本

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』 で公開されたものです)

 ところで、日本陸軍のために小銃を造っていた工場は、東京砲兵工廠と申しまして、現在の小石川後楽園にあった。ところがこの砲兵工廠の運営に関しましては謎がいくつもある。

 たとえば、陸軍が採用を決めた新型の小銃、これは対外戦争を予期しまして一挙に膨大な量が発注されまして、常備連隊の武器庫にだんだんストックしていきまして、数年後に師団単位で一挙に旧式銃を更新するというパターンが多いのですが、いったいその納入が終ってしまった直後、日本最大のマスプロ機械メーカーでありました陸軍砲兵工廠では、何をやっていたのだろうという、未解明の大問題があります。

 と申しますのも、これが民間の工場でしたならば、設備投資を償却しなければいけませんし雇用者に賃金を手当てし続けなければならない。仕事が急になくなったら一大事でありますから未然に何らかの手を打つはずですね。しかし、官営の工廠ではどうするのか……?

 私に確信できましたのは、そこでは間違いなく、近代日本で最初の不況克服策、といいますか、雇用維持のための新需要の掘り起こしが、工廠独自に手探りで行なわれたに違いなかろうということであります。

 なにしろ当時の日本政府は外貨準備が常に逼迫しておりましたから節約できそうなところは極力節約を致しますこと、極端なものがあった。

 全般に、軍艦・兵器中心の海軍には、随分惜しまずに金をかけましたが、兵隊中心の陸軍は、機械に金を掛け出しますとそれこそキリがなくなって参りますから、革靴を造る機械が足りなくて明治10年くらいまで、まだ一部の兵隊にはワラジを支給致しましたぐらい。

 陸軍工廠の機械投資などもしわ寄せをかぶりまして、アメリカから廃品寸前の、それこそオクリがガタガタになっているような工作機械を種々雑多に買い求めまして、敷地が広いですから数だけはたくさん集めていたような次第だったのです。

 これは何を意味するかと申しますと、ボロい機械で軍用品に必要な精密な切削加工と仕上げを施さねばならなかった。

 およそ、うしろから弾をこめます近代小銃、もし部品に隙間がございますと、発射したときに火薬のガスが後方に漏れて参ります。ガスといいましても、ナマリの弾を4kmも遠くへ投げ飛ばすだけのエネルギーを発生致しますから、これが兵隊の顔面に少しでも吹き付けた日には、軽い火傷ぐらいでは済まされません。運が悪いと鼻の穴が三つに増えてしまった。

 そこで、いやしくも火器の部品の工作は、弾薬の威力が向上すればしただけ、仕上げの精度の方も上げて参りませんと、とても実用にはならない。ところが、今述べましたとおり、工作機械は、アメリカではスクラップ置場で解体寸前を二束三文で引きとってきたような年代物ばかりときておった。

 さて、このガラクタ工作機械を前にしていったい、どうすれば良いか。

 結局、工廠が頼りにできましたのは、機械の欠点をカバーしてくれる熟練職工の腕だったのであります。

 その機械にとことん慣れたベテランだけが、ボロい機械でも精密加工ができました。

 また、生産ラインの出口に老練な最終仕上げ工を置きまして部品のひとつひとつをヤスリでこすって精密機械の代りをさせておりました。

 もちろん、この方法では各部品に互換性がなくなりますから、最も重要なパーツには固有番号が専用のタガネでパンチされまして、兵隊さんが分解掃除などをした後で、他人の銃の部品と間違えて組み立てることがないようにされていたのであります。

 で、新型小銃の大量納入が完了しますと、陸軍省の予算も翌年から減らされますから、この大量に養成したベテラン職工を、砲兵工廠で抱えておくことが最早できなくなってしまう。これが村田経芳はじめ歴代の小火器設計家にとりまして最大の頭痛のタネとなったのです。

 と申しますのは、当時の職工は「渡り職人」です。給与体系は月給の他に歩合給があります。

 仕事がたくさんあれば歩合を稼げますから、全員が競うようにして部品を量産致しました。

 が、工廠に出勤しても仕事がまったくなくないとなれば、その月の歩合給はゼロであります。

 そうなりますと職工は他にうまい勤め口を探して転職するのが常でした。なにしろ終身雇用制なんてものは明治の職工にはありません。退職金も保険もないとなれば、それがむしろ当然なのであります。

 もしそのような状態で工廠に熟練工がいなくなり、その直後に戦争でも起きたらどうなるか。急に職工をいくらかき集めましても、彼らが担当する機械に十分に慣れないうちは、まともな小銃は一梃も供給できないことになるのです。

 このような最悪の事態を招かないように、当時の工廠ではどのような手を打っていたのでしょうか。

 こんなことに注意して改めて日本の陸軍小火器の造兵史を振り返りますと、今まで見えなかったいろいろな事実が、整合した意味をもって見えて参ります。

 たとえば、単発村田銃の最後の型は18年式村田歩兵銃と申しますが、これは明治17年5月頃から導入が始まりまして、年産数万梃のハイペースで量産を致しまして、だいたい明治19年には全国の鎮台のスナイドル銃だの何だのをすっかり交換してしまっております。

 ここでただちに職工の離職問題が発生致します。

 これは大変だというので、すぐに明治20年の秋に次の新型連発小銃の採用が政府に働きかけられまして、村田も直ちにその開発にとりかかるのです。これが明治22年に完成致しました、「村田連発銃」というもので、いわば、職工を手スキにさせないために、上の方から需要を造ったのですが、やはりその間に小銃製造所の職工が大量に流出してしまった形跡がございます。

 村田連発銃の連発機構は、西部劇でジョン・ウェインが持って出て参りますウィンチェスター・ライフル、あれに内部がよく似ておりまして、銃身の下のチューブから次々に実包を引き出してそれを装填する。これも特段に村田の発明というものではございません。

 当時の最先端軍事技術大国でございますフランスとプロイセンで、このような仕組みの連発歩兵銃が採用されておりまして、それを急いで模倣しただけであります。

 で、この村田連発銃、日清戦争の5年前に完成した訳でありますから、日清戦争ではすべての部隊が持っていても良かった。ところが、どうしたことか、明治27年の日清戦争までには装備更新がぜんぜん間に合わなかったのであります。

 原因は、はっきり指摘している史料はございません。そこで、あらゆる状況証拠を集めまして私なりに推理を働かせますと、どうも量産した銃の部品の精度が設計通りでなかったのだろうと思われます。

 それで、たとえば、少しでも中に砂がはいったりいたしますと、梃子の原理で内部の部品を複雑に動かしておりましたから、逆にレバーが動かせなくなってしまう。

 あたら最新の連発銃を携えながら敵前で一発も撃てなくなって立往生という、由々しい事態が予測されましたから、とてもこれを持たせて兵隊を戦場へは送れないというので、あれこれと改修を試みているうちに遂に日清戦争が始まってしまいました。

 これは、もともと部品の動きがスムーズでないからそんな故障も起こし易いのであります。要するに加工精度が必要水準を満たしておらなかった。

 けっきょく、日清戦争の最後になって台湾方面に投入された2つの師団を除きましては、全部隊が古い単発の村田銃で戦争する羽目になったのであります。それでも清国に勝ったのですから、やはり軍銃一定の効果はすばらしいものであったのです。

 妙なことに、この連発銃の量産と納入の最後の段階まで面倒を見るべき村田経芳本人が、明治23年に、東京砲兵工廠の現場から外されて予備役にされてしまっております。

 予備と申しましても、同日付けで少将に進級して男爵・華族に列する資格が与えられ、第一期の帝国議会貴族員議員の椅子まで用意されたのでありますから、表向きは円満退職でした。

 この人事は、山県有朋の一存で決定されておりますことは疑いがございません。なぜ山県はそんなことをしたのだろうと考えますと、理由として考えられるのは、要するに陸軍兵器の製造はできるだけ長州出身者に任せたい、村田は薩摩出身であるからこの辺で辞めて貰おうという、ただそれだけであったように思われます。

 ここで大事なことは、もし陸軍工廠の工作機械が極めて精度の高い最新型であったならば、村田はプロトタイプだけを完成してあとは誰任せでも不都合はなかったのであります。アメリカと戦争するようになって航空用エンジンや航空用の自動火器を量産致しますときに、この工作機械の精度こそは「フォース・マルチプライヤー」であったと誰もが気付きますが、明治時代には誰一人気付くものはございません。

 なにせ、精度の高い工作機械は値段もハネ上がる。明治人は、精度という見えない要素にはお金をかけられなかったのです。その代りに、そこから生じるいろいろな不具合は、熟練工を抱えることでこれを補わせるという仕組みでとりあえず「軍銃一定」を達成した。

 これが良く分っている村田を工廠から追い出したことによりまして、村田連発銃を製造する時にはそれに必要な熟練工が足りて居らかったのではないかと私には思われるのであります。

 常に仕事を作り出して熟練工に歩合給を保証して引き止めるという大切な工場経営方針が、おそらく村田の退役とともに中断したのであります。連発小銃の部品には単発小銃以上の精度が求められますのに、それに見合った機械投資は不十分で、人間にもお金をかけようとしなかった。それを理解する官僚がいなかったようであります。

 ために、村田がこしらえたプロトタイプと同じ部品精度が量産品の村田連発銃では実現されなかった—とまあ、このようにしか考えられません。

 それでは、村田の在職中には、東京砲兵工廠独自の仕事創出の手は打たれていたかと調べてみましたところ、これが非常に面白い。

 皆さんは靖国神社に大村益次郎の銅像が立っているのを御承知かと存じます。あの銅像が立ったのは明治26年でありまして、東京におきましては最初の西洋式銅像であったそうでありますが、この建設の提案は、明治19年に出されました。それから7年がかりで鋳造したのですが、その鋳造を請け負ったのが、小石川の東京砲兵工廠なのであります。

 つまり、あの銅像も、じつは職工対策だったのです。

 砲兵工廠内の小銃製造所、これは大規模なものでして、鋼鉄の原料から部品製作、組み立て、仕上げまで全部やります。そのラインの入口の部分が、鋳造とか鍛造でして、これを工廠では火の造りと書きまして「火造」と呼んでおりました。砲兵工廠の職人はフランスの真似をしたハイカラな作業服をあてがわれておりましたが、ここはほとんど素ッ裸、天井には昔の刀鍛冶よろしく、注連縄がめぐらされていたと申しますが、これは余計なお話です。

 ともかく、大村銅像の製作事業とは、この火造セクションの熟練工の慰留策であったことが、ほぼ判明致しております。鋳造なんて鋳物だから熟練工は必要ないか? とんでもない話でございまして、微妙な熱処理を誤りますと、どんな良い鉄を使いましても、ぐにゃぐにゃの銃身とかすぐに割れてしまうような部品しか出来て参りません。

 で、この火造セクションは小銃製造工程の入口でありますだけに、製造ロット数に必要な鋳造、鍛造を、切削とか仕上げとか組み立てセクションよりも、いちはやく終えてしまうことになります。つまり、最初に仕事がなくなる部門だったのです。だから、一番最初に銅像受注という形で端境期対策が講じられた次第です。

 熟練職人は工廠を辞めて他の民間工場に転職されてしまいますと、次の新装備、たとえば村田連発銃の発注が陸軍省から大量にありましたときに、また、新人職工を募集して、一から、クセのある製造機械に慣れてもらわなければならない。

 そのあいだに何千梃もの不良品が出てしまったというのがおそらく村田連発銃の真相で、つまり、火造部門ではなんとか引き止められましたベテラン職工が、切削や仕上げ部門では遂に引き留められなかったものと見えます。

 では、火造以外には何の手も打とうとしなかったかと調べてみれば、これもそんなことはなかった。

 明治21年に、将校用の拳銃を国産していないのは恥ではないかという意見が、陸軍将校の部内雑誌であります『偕行社記事』という媒体に載っているのが見えます。

 その前にも、兵器廠の記録によりますれば、明治16年、フランスから型式不明の拳銃をとりよせて戸山学校、つまり今の早稲田の近くにあった歩兵学校に支給した。明治19年にもフランスから士官用の拳銃2梃---たぶん「Mle 92」というやつだったと思われますが、これが戸山学校に渡されております。

 そして明治24年にはオーストリア製の「ガセール」(GASSER)という回転式拳銃が参考輸入されておりまして、これを模倣致しまして3年後の明治27年6月に何の前触れもなく「26年式拳銃」というのが制式化されております。

 これなども端境期対策だったと私などは睨んでおるのでありますが、回転式拳銃というやつは、自動火器や軍用小銃にくらべますと、いささか精度が粗くても構わないところがございまして、残念ながら優秀な職工をこのラインで養っていくということは、できなかった模様であります。

 ちょっとこの「26年式拳銃」についてもお話をしておきましょうか。

 重たい割に、弾に威力がない。しかも命中率も悪い--と、あまり評判は宜しくありませんでした。のちの「2.26事件」で反乱軍の下士官がこの拳銃を武器庫から持ちだしまして鈴木貫太郎に向かって屋内の至近距離から3発打ち込みました。死んだと思って引き揚げたら弾はすべて体の中央を外れておりまして、やがて侍従長の傷はすっかり癒えたという。その程度の威力でございます。

 これは26年式拳銃の引金が非常に重いので発射の瞬間に銃口がブレる癖がございましたのと、弾丸がもともと鉛のムク弾でしたのが、ダムダム弾禁止条約を律儀に守りまして、フルメタルジャケット弾に交換した。それで傷が軽くなったらしく思われます。

 では、そんな時代に遅れた拳銃であるならば、大正、昭和の早いうちに製造ラインを閉鎖してしまえばいいと思われるかもしれませんが、そこがお役所でして、関東大震災で小石川工廠が丸焼けになってくれた絶好のチャンスにも、どういうわけですか、この旧式拳銃のラインは、わざわざ復活させられております。そしてなんと終戦近くまで26年式拳銃を細々と造り続けていたようなのであります。

 こういう不合理は、機械も人員も優秀なのばかりを揃えた民間工場を設立しなければとても改善の見込みはないと、後のワシントン軍縮時代に断然奮起致しましたのが、明治20年代にはまだ新米の中尉でありました南部麒次郎でございます。

 が、南部のお話を致す前に、もう一つ、村田の仕事を語っておこうと存じます。

 それは、「村田銃」という名の猟銃---についてです。


日露戦争講演(1)

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭 二十八 先生 より)
  このテキストは、数年前に某所で講演した内容とほぼ同じものである。さいきん日露戦争に興味を持った人たちのために、何かの参考になれば幸いです。


 きょうは、「形になっているものを他人の言葉で理解しただけでは歴史を研究したことにはならない」という、至極あたりまえのようなお話を致そうかと思っております。

 主に武器弾薬のお話を致しますが、こうした形になって残っているはずのものが、案外正しい意味付けが、日本人じしんによって、なされておりません。その理由をみなさんに考えていただけたら、と念じております。

 明治の初めに大勢の日本人が西洋に留学致しましたが、その頃のフランスに留学した生徒が覚えてきたのが、「人の覩ざる所をば覩よ」—“Ce que lon voi, Ce que lon ne voi pas. —なる標語でありました。

 フランス語でも英語と同じように「見る」という動詞 voir が「分る」という意味も持ちますので、その言うところは、「人の解せぬところを解せよ」となるのでしょう。

 ですが、そもそも意味がちゃんと把握できていないと、モノが目の前にあっても、まるで見えていないのと同じである。そういうことが、人間の社会には、しばしばある。

 つまり、見えていてすら、分らぬことがあります。

 まして、見えないところを人に言われずして理解するのは容易なことでは、ありますまい。

 楽ではないが、これができる国民とできない国民とでは、やはり競争の結果が全然違ってしまいます。

 さあそれでは果して、近代以降の日本人は、これまで何千人がフランスに留学して帰ってきたか知りませんけれども、西洋人に比肩するくらいに、見えないところまで見えるようになったか?

 どうも、私には、そうは思われない。それは、戦争のパフォーマンスに、端的に現れていると思うのです。

 さらに問題なのは、現代の日本人自身が、その格差にまだ気付いていない。証拠が目の前にあるのに、分らんのであります。

 これを皆さんにお示しするには、最も形として、また実績として把握し易い、武器の話がよかろうと愚考する次第であります。

 徳川幕府が外国に港を開きまして、とにかく一日でも早く西洋に追い付かねばならんという意気込みで明治新体制がスタート致しましたが、岩倉具視を団長とする一行がまずアメリカとヨーロッパの文明の進み具合をつぶさに視察しようじゃないかと出掛けまして、現地で一様に感じましたことは、「これなら40年か50年で追い付けるじゃないか」だったという。

 大いに高をくくったのであります。

 確かに蒸気機関の模造品は、40年どころか1年で日本人は自作してしまいました。

 しからば西洋の蒸気機関を凌ぐ高性能の蒸気機関を、日本人は何時造れるようになったか。日露戦争前か、明治末か、大正年間か、昭和の戦前か、戦中か?

 じつは、戦後の現在も、かろうじて肩を並べている程度で、決して追い抜かしてはいないのであります。その肩を並べられたのも、ようやく昭和50年頃でありまして、単に追い付くだけでも、明治維新から120年近くかかっている。

 皆さんは蒸気機関というと休日に山奥の観光地で走らされるSLぐらいしか思い浮かべられないかもしれません。

 しかし、第二次大戦中の軍艦の動力は、9割以上、スチーム・タービンであります。近年の豪華客船『クイーン・エリザベス2世』号も、敢えて燃費の良いディーゼルではなくて、わざわざスチーム・タービンを動力に採用しました。その方が客室が静かになるのと、最高速度が出せますので有事の際に兵員輸送船として徴発したときに、より兵隊が安全になるわけです。

 それから、火力発電所のボイラー。将来は、天然ガスでガスタービンを回すのが主流になっていくと思われますが、今までのところは多くが脱硫のC重油でスチーム・タービンを回して発電しております。中国などでは逆にこれから石炭火力発電がたいへんな勢いで増やされるはずであります。

 ま、要するに、ピストンがタービンに変っただけで、蒸気機関の時代は19世紀から一貫して続いているのです。

 日本は明治末に英国のビッカーズ社から戦艦『金剛』を買ったのを最後に、総ての軍艦を国産に切り換えた………ことになっておりますが、主機関、つまりエンジンに関しては実はそうではなかった。

 大正4年竣工の戦艦『扶桑』は、米英共同開発のブラウン・カーチス・タービンを輸入して搭載していました。これは、大正7年竣工の『伊勢』までそうでした。

 大正9年に竣工して連合艦隊のフラッグシップになった戦艦『長門』の動力は、「技本式タービン」といっておりますがこれもアメリカ製のコピーに過ぎませんで、高速で回転するタービンでスクリュー・プロペラをゆっくりと回しますために「減速ギア」という部品が必要なのですが、これは米国からウェスチングハウス社製を買って取り付けております。二番艦の『陸奥』ではこれをコピーした。

 駆逐艦なら小さいから国産化も早かったかというとそうでもありません。エンジンでは、とじこめる圧力が問題となるのでありまして、日本は高圧のタービンをなかなか国産できませんでした関係上、新鋭駆逐艦の主機にも、その時どきの最新式の外国製を買って取り付け、二番艦以降でそれをコピーするというパターンを繰り返しているのであります。

 大正3年には英国で『浦風』という駆逐艦が竣工しておりますが、これにはもちろん英国製のタービンが搭載されております。

 また大正11年には駆逐艦の『菱』と『蓮』が国内で竣工致しますが、主機は英国カメルレヤード社製であります。

 昭和元年には浦賀で駆逐艦『弥生』が竣工致しますが、この主機はメトロポリタン・ビッカーズからの輸入でありました。

 こうしたスチーム・タービン関連の技術導入は、昭和初期で終りましたが、それは、昭和初期についに日本の技術が欧米に追い付いたから、ではありません。

 満州事変の結果、外貨が非常に逼迫しまして、外国技術を買い求める分野を絞り込まなくてはならなくなった。それで、蒸気機関はもう良いから、むしろ飛行機や潜水艦や戦車や魚雷艇などの内燃機関を買わないと列強の技術進歩に完全に取り残されてしまうというわけで、外貨の使い途がそっちに集中されただけなのです。

 ですから、戦前日本の造艦技術の集大成といえます戦艦『大和』、これは速力があまり出なくて、味方の航空母艦についていくことができませんでした。これに対して、アメリカの新鋭戦艦は空母にピタリとついて巡洋艦並の30ノットで暴れ回っている。岩倉使節団に聞かせたならば甚だ不本意だと思われたに違いない結果が出ております。

 日本人は、40年あれば克服できると思った蒸気機関で、開国から70年経っても西洋に追い付けなかった。「黒船」を、凌げなかったのであります。

 1943年に日本帝国海軍は『島風』という駆逐艦をタッタ1隻、建造しました。この駆逐艦には、特別設計のスチーム・タービンを搭載しまして、40.9ノットの高速を出すことができましたが、蒸気圧そのものは、米国の大戦中の量産型駆逐艦、つまり何百隻もあるごく一般的な艦よりも低かったのであります。

 それでは戦後はどうかといいますと、これもかろうじて追い付いたというところで、まだ追い抜くまでには至っておりません。

 たとえば日本で最初の100万キロワットボイラーが導入されましたのは、昭和49年のことでありますが、このとき東京電力の鹿島火力発電所では、米国のジェネラル・イレクトリック社製の設備を買っております。

 まあ、考えても見てください。原子力発電も蒸気タービンで発電しているのです。原子力潜水艦も、蒸気タービンでスクリューを回している。つまりアメリカは戦後も休むことなく、蒸気機関を改良してきたわけで、この蓄積を日本のメーカーはおいそれとは越えられない。

 じゃあ、その急には越えられない要素とはいったい何なんだといったら、それは簡単には見えにくいところにあるものなのです。

 いま、仮に日本でジェット戦闘機を純国産しようと思いましても、それに搭載すべきターボ・ファン・エンジンは、純国産できません。タービン・エンジンも含めて純国産できますのは、予想できる将来も、中型のヘリコプターと、せいぜい小型の練習機だけであります。

 F-2、つまりFSXとしてアメリカ議会が騒ぎました飛行機も、エンジンだけは初めから米国のを輸入するつもりだった。今、日本で国産できるのは、練習機用の小さいターボファンと、ヘリコプター用のターボシャフトだけで、後は気の利いたサイズの民間旅客機用も戦闘機用もすべて外国製を使うしかない。

 大型の輸送機ですとか、国際線で飛ばす旅客機も、機体はいくらでも設計できます。けれども、エンジンだけは、どこか外国からライセンスを買ってきて製造する以外にない。

 これは、よく、敗戦直後の7年間、日本が航空エンジンの開発を進駐軍によって全く禁止させられたからだと言われるのですけれども、そんなのは大嘘です。

 考えてみてください。7年間の遅れだけが原因であったら、それは7年未満でキャッチアップできなければおかしい。なぜなら、見本が既に外国で出来上がっているからです。

 しかるに、サンフランシスコ講和条約から7年経った昭和35年には言うも愚か、現在は講和後48年、つまり7年の7倍が経過しようとしているのですけれども、日本はアメリカのメーカーが1980年代、7年の3倍くらい前において設計できたような旅客機用、戦闘機用のジェット・エンジンを設計することも、まだできないでいるのです。

 理由を簡単に推測しまするに、日本の技術者の間には、この分野で競争しても無駄であるという共通の意識がありますでしょう。

 次に、鉄砲のお話を致しましょう。

 17世紀後半からイギリスはインドの植民地支配を目指して勢力の扶殖を開始します。と同時に中国に迫って広東を拠点に商売を始める。

 18世紀初めには、ナポレオンに占領されたオランダが極東に持っている植民地も全部奪い取ってしまいまして、次いでシンガポールに極東の経営拠点を建設します。

 準備が整いましたところで1840年、とうとうそれまでの「商人」の仮面を脱ぎ捨てまして、阿片戦争によって香港その他を割譲させた。

 この香港をシンガポールに次ぐ海軍の拠点に仕立てまして、さていよいよ次は日本を狙おうか--というところで、太平天国の乱(1850~)とクリミア戦争が相次いで起った。

 日本の教科書ではほとんど見ることはありませんが、クリミア戦争(1854~6)には、じつは極東戦線というものがありました。沿海州からカムチャッカ半島にかけてのオホーツク沿岸に要塞を築いて立て篭っているロシア軍の守備隊に対しまして、イギリス・フランスの軍艦が香港から長駆出撃を致しまして、これを片端から町ごと焼き払うという作戦。まったくの日本の近海で、こんな戦争が行なわれていたのです。

 その間、日本政府はペリー艦隊(1853~)の対応で手一杯であります。日本の開国がアメリカ単独の手柄となった背景にも、じつは太平天国の乱とクリミア戦争極東作戦がありました。

 さてここからが鉄砲のお話なのですが、いったい、この時期のイギリス軍、あるいは英仏連合軍は、いかにすれば万を以て数えたインドや中国の軍隊を、いずれもわずか数千、数百の兵力だけで苦もなく平らげていくことが、できたのでしょうか?

 これは、ハードウェアだけをいくら比較致しましても、説明はつけられないのであります。

 たとえばインドには良い鉄が出ます。それから、真鍮の原料となる亜鉛も豊かにある。

 こうした原料を使って、西洋式の鉄砲が、あちこちで造られておりました。中東一帯に輸出されるほどに、たくさん造っていたのであります。

 性能も、ほぼ等しい。

 鉛の丸い弾丸を発射する、ライフリングの無いマスケット銃ですから、誰がどのように造っても威力はほぼ同じになります。だいたいヨーロッパでも、ナポレオン戦争を挟んで前後数十年間、マスケット銃の基本性能は進化がないのです。

 これが劇的にパフォーマンスが向上しましたのが「ミニエー銃」という簡単に先込めのできるライフル銃でありましたが、イギリス軍がこれを制式採用致しましたのが1851年。さらに「エンフィールド銃」として大成させましたのが1853年です。したがいまして、太平天国の乱までは、まだどちらも同じ性能の旧式の銃で撃ち合っているといってよい。

 もちろんのことに、フランス軍やイギリス軍がやって参りましたとき、インド人は、侵略者と同じくらいの殺傷威力のある火器と、十二分の弾薬を持っていたことになるでありましょう。

 資源に困らない国で、しかも人口も多いのですから、弾丸を火薬で発射する銃器の総数は、むしろ多かったに違いありません。

 しかし、それでもインドは植民地化されてしまった。—これは一体、どうしてでしょうか?

 同じことは、中国についても言えます。清国には多数の大砲があった。要塞に据え付ける非常に大きなものから、野戦向きのコンパクトなもの、アラビア人がもたらした「フランキ砲」という後込め式の軍艦用の大砲まで、何でもあったと言っていいでしょう。数も、英仏軍の何倍、いや多分、数十倍はあった筈です。アヘン戦争のときには、イギリス軍は3000門の大砲を分捕ったという話もある。

 とうぜん、小銃もあった。やはりマスケット銃ですから、ヨーロッパ製も中国製も、飛んでいく弾丸の射程や威力はほとんど同じです。いやむしろ、篭城用の巨大な火縄銃を持っていた中国兵の方が、威力は勝っていたかもしれません。

 ここでもインドと同じで、ハードウェアの性能と量、それを装備する兵隊の人数だけを比較したら、イギリス軍やフランス軍に、そもそも勝ち目があるのかすら疑われるのです。

 しかし、ごくわずかな軍艦から上陸したごくわずかな兵力によって中国軍は連戦連敗、じつに他愛もなく、城下の誓いを強いられてしまった。

 全体の数字はよく分らないのですけれども、アメリカの初代駐日公使のハリスは、徳川幕府の外務担当の役人に対しまして、中国でイギリス兵とフランス兵はこれまでに数百万人の中国人を殺しているから、そんなのが来る前に通商条約を結べと脅しております。これに対して阿片戦争でイギリス兵が最も苦戦したある1日の戦死傷者の数が180人であったと申します。

 —どうしてそんな違いになるのでしょうか?

 これも、見えない理由があったのです。

 その理由をなんとか見ようとして、幕末に日本人の悪戦苦闘が始まっております。

 まず清国が手もなく破られたのは、イギリス軍やフランス軍が使っている武器が全然違うからではないかと日本人は疑ってみました。

 それで、長崎で幕府の役人をしておりました高島秋帆という人、この人がオランダの軍隊が使用しているという小銃を買い求めまして実際に調べてみます。すると、これが日本に元からあります火縄銃と比較致しまして、飛んで行く弾丸の威力が、特段に強い訳ではないと知れた。

 日本の火縄銃は、弾丸の重さで口径を表わしますが、小さいものは足軽用の2匁半、これが今風に言い替えますと口径11.8ミリ、大きいものは、ちょっと果てしもないのですが、まあ実用的なところで、大勢の武士が練習しておったのが「10匁筒」と申しましてこれが口径18.7ミリというところであります。

 それに対して西洋列強の使用していたゲベール銃、こちらは、筒だけ見ましたらば、日本の8匁か9匁の火縄銃と、これといって異なるところがなかった。

 佐藤信淵は、アヘン戦争のころの英兵の鉄砲は、口径が日本式に表わして8匁、薬の量は6~7匁だと書いている。7匁というのは約25グラムです。

 これに対して幕末の関流という火縄銃の砲術では、口径10匁、薬の量は最大で7匁としていました。しかし銃身長が短いので弾道は湾曲致します。

 それで命中率はどうかといいますと、火縄銃は引金のひっかかりが軽く出来ている。

 「火ばさみ」が落ちますときのバネの力はごく弱いものでして、従いまして、打つ瞬間のブレが生じません。だいたい3匁半までの火縄銃でしたらゲベール銃など比較にならないくらい命中率が高かった。

 それなら西洋式小銃の利点とはどこに存していたのか。

 よく調べてみますと、ゲベール銃にはリアサイト、つまり「後ろの目当て」となります照門が、どこにもありません。鳥打ちの猟銃と同じで、筒先に照星がついているのみであります。その代りにバットストック、つまり頑丈な肩当て銃床がついていた。

 これは何を意味するか?

 日本の火縄銃というのは、これは一人が一人を狙い撃つ、「狙撃銃」であります。銃というものは引金を落すタイミングを自分で決めませんと、絶対に狙ったところへ弾は当ってくれません。

 ですから一斉射撃などというものはそれまでは日本にはなかった。テレビドラマなどでやっているやつ、あれは幕末の「西洋銃陣」、「洋式調練」に他ならないのでありまして、元亀・天正の戦国時代から幕末天保に至るまで、日本の火縄銃にそもそも一斉射撃というものはないのであります。あくまで一人が一人を狙って、自分のタイミングで撃っていた。

 しかしゲベール銃は、文字通りの一斉射撃のための武器だったのであります。

 密集隊形を組んで、指揮官の命令一下、敵の集団に対しまして全員が一斉に発砲します。有効射程は150m以下ですから、とにかく銃を水平に維持すればよい。だから、リアサイトはいらないのです。そのかわり、発射するための火薬の量は多い。火薬の量を多くしますと反動がきつくなりますから、頑丈なバットストックで支えるようになっていた。そうすることで、弾は水平に飛んでいきまして、敵軍を弾幕の中に捕捉することができるわけであります。

 一斉射撃の後は、これまた命令一下、全員が着剣した小銃で突撃します。ただ一回の突撃で、必ず前面の敵部隊を粉砕してしまわずにはおかない。これが西洋銃陣の真髄でありました。

 この密集隊形による一斉射撃や銃剣突撃を可能にしていたハードウェアが、火打ち石による撃発機構です。これは1830年からは雷管に代りますが、いずれにせよ火縄のような「生火」は扱いませんから、射手と射手とが隙間を空けずにくっついて立ち並びましても、何も危ないことはない。

 私は火縄銃の実弾射撃を見たことがございますが、発砲の際に無数の火の粉が風下1mくらいに雨のように降り掛かります。これは銃口から出る火の粉ではございませんで、主に引き金の上の方についております火皿から、横へ吹き飛んで参るのであります。

 だいたい、少なくも2m以上、隣りの射手と離れていなかったら、とてもではないが危なくて装填動作などやっていられない。自分が持っている大量の火薬、すくなくとも500匁以上ですが、それから地面にこぼしてしまった火薬などに不意に燃え移って、ゆゆしい事故を招きかねないのです。

 ここにおいて、西洋軍隊の強さとは、ハードウェアに特別な秘密があるわけではない、運用術が違うのだと高島秋帆は気付きましたから、そこから「西洋銃陣」「洋式調練」といったものが初めて全国に普及して参ったわけであります。

 13世紀にヨーロッパでは、ロングボウというたいへん強力な弓が用いられておりましたが、日本で明治時代に弓をいろいろと研究してみた人によると、強い弓で遠くの小さい的に当てることはできない。つまり、強い弓は一斉射撃でないと意味がない。そんなところからヨーロッパにはすでに近代以前から、一斉射撃のノウハウがあったのだろうと私は想像しております。

 しかし、秋帆にしましても、また、1847年に「三兵タクチーキ」という洋書を翻訳致しました高野長英に致しましても、西洋銃陣のソフトウェアの肝心なところまでは窺い知ることはできませんでした。

 それと申しますのは、戦場の最も危ない場面において上官が自分の命令を必ず部下に聞かせる、ひとりの例外もなく聞かせないではおかないという、厳格な規律を保つ手法であります。

 こればかりはいくら洋書を読みましてもすぐに日本人の指揮官に身につくものではありませんから、長州藩の諸隊のように真っ先にゲベール銃と洋式調練を採用したところでも、実戦になるとたちまち元亀・天正のバラバラ戦法に戻ってしまったのであります。けれども、今回はそのお話は致しません。

 さて、高島秋帆が1832年いらいオランダ人より買い求めました洋式銃や洋式大砲、これは海防に必要であると認められ、幕臣の江川太郎左衛門、佐賀藩、薩摩藩をさきがけと致しまして、輸入や模倣製造が始まります。

 幕府もペリー来航の2年後、1855年にはすべての藩が勝手に洋式小銃を造ってよいと布告を出しまして、その4年後には誰でも大手を振って外人から洋式銃を購入できる運びとなりましたがこの結果、長州藩の諸隊の武力が非常に改善されまして、二度目の長幕戦争はそのまま戊辰戦争に発展して日本の政体は一変することとなります。

 ただ、第二次長州征伐で長州側が全員ゲベール銃、一部はミニエー銃を持っていたにもかかわらず、必ずしも火縄銃装備の幕府軍を一方的に押しまくったという訳には参らなかった。

 こういうところなどを見ましても、西洋軍隊のアジア侵略は決して武器の性能にのみ頼っていたのではない、何か目に見えない要素があったからだということが、窺えるだろうと思います。

 この「見えない要素」を、日本人として、否、アジア人として、初めて見極めましたのが、薩摩の貧乏侍で村田経芳という、ほとんど学問も何もない男。明けても暮れても銃と射撃ばかりを研究して一生を終えたというこの若者がもし鹿児島に現れていなければ、日本の近代史はまるで違ったものになっていたかも知れぬという、それほど重要な人物でございますけれども、なぜかまだ謎の部分が多う御座いまして、必ずしも歴史家より正当な評価を受けてきたとは思えない。

 詳しいことは後でお手元の資料などを御一読賜りたいと存じますが、この村田が気付きましたることとは、他ではない。—西洋軍隊の強みは、銃士が全員、全く同じ弾道性能の火器を携えている。発射する弾丸は正確に同じ直径、同じ比重、同じ空気抵抗であります。

 薬室に注ぎ込みます火薬も、同じ工場から送られてきた同じ成分。

 それを、全員が同じ分量だけ正確に計って用います。

 これで、密集隊形を組みまして、一人の指揮官の号令の下、全員が水平に構えて一斉射撃を致しますから、正面150歩以内におります敵は、必ず火網の中に捕捉される。そうなれば、一梃一梃の照準とは無関係に、敵軍の一箇所に全滅的なダメージを与えることができる。そこに一斉の銃剣突撃が続きますから、味方に致しますと一方の血路は必ず開かれる。敵にとりましては一方の備えは必ず崩されてしまうわけである。

 このように規格を一つに統一することによりまして、教育訓練も容易になります。また、弾薬の製造と補給を合理化することができる。

 今の用語でこういうのを「フォース・マルチプライヤー」と申しますが、この場合は、規格統一が「フォース・マルチプライヤー」なのだと村田は気付きました。

 今でも日本人はこういう見えないところを見るのが苦手でございます。ですから「フォース・マルチプライヤー」という英語概念の適切な訳語もございますせん。言葉がないのは概念がないからです。

 不思議なものでございまして、人間は、ちゃんと意味を掴み切れていないものは、たといそれが目の前にあっても、見えないのです。「何だか訳の分らないうちに戦争に負けちゃった、競争に負けてしまった」という場合も、その背景には、まだ日本人が意味を掴み切れていない原因があるのです。それを見ようとしなければならない。

 そこで近代戦史だけに着目致しましても、見えない要素が「フォース・マルチプライヤー」となっております例が、非常にたくさん発見できるのであります。

 「フォース・マルチプライヤー」とは何か? これ、日本語がありません。

 無理に訳しますと「(フォース)力を・(マルチプライ)倍加する・もの」となるでしょう。 が、一言でもって言い替えられる日本語は無い。

 同じ意味の日本語がないということは、どういうことか? 英米人にはあるその概念が、日本人の頭の中には存在しなかったということです。

 尤もこの「フォース・マルチプライヤー」の場合は、英米人が言い出したのが比較的さいきんですから、訳語がなくても無理はないかもしれません。しかし、ある外国語にちゃんと対応する日本語がないのは、これも、戦争を想像する想像力の競争で、日本人が負けてきたことの一つのアカシなのであります。

 たとえばちょっと鉄砲から話が逸れますが、明治末期におきましてこれからは石油の確保が大事なのだと気付けなかったのは、日本の指導者に「フォース・マルチプライヤー」が見えなかったのであります。

 軍艦の数よりも、その軍艦の回転率を上げる港湾設備の方が大事であること、たとえば艦船の建造ドック、修理ドック、艤装岸壁といったものですが、これも「フォース・マルチプライヤー」でありまして、戦前の日本の指導者には分らなかったのであります。

 飛行機も大事だが、ガソリンの性能、それから飛行場を造成する土工機械、これがフォース・マルチプライヤーなんだと気付いたときにはもう手遅れであります。

 ナビゲーション・システムもフォース・マルチプライヤーでございました。

 レイテ海戦あたりからアメリカの潜水艦による日本側の被害が急拡大致しておりますが、これは、潜水艦がレーダーを積んだだけでなく、ロランという航法システム、これはいまのGPSの地上版のようなものでありますが、このネットワークが西太平洋の米軍占領地に展開されたためでした。

 日本人は、アメリカの潜水艦がレーダーを積んでいることは知っておりましたが、ロラン航法システムなんてものを活用していようとは思わなかった。

 昭和20年に入りまして米軍の艦載機が日本本土を空襲します際にまず岬の灯台を銃撃して破壊してしまう。そんなことをしたらアメリカ軍も夜の目印がなくなって困るだろう、などとこちらでは不思議がっていたのですが、彼らは電波航法システムを利用できましたので、光る灯台など壊してしまってよかったのです。

 ロラン・システムも一朝にしてできたものではありません。ヨーロッパ人は、だいたい18世紀から洋上での経度を正確に計るための精密時計の開発を続けてきておりました。その精密時計の延長上にロラン航法があり、また、今のGPSがあるのです。GPS衛星は精密原子時計を搭載しております。

 ここでも、目に見えない精密さこそが戦いを左右する「フォース・マルチプライヤー」になっております。

 というところでお話は村田銃に帰ります。

 ともあれ村田経芳だけは、西洋軍隊は、軍用兵器の規格を厳密に等しくして、なおかつそれを一斉運用することに心掛けますことによって、百梃の銃、能く一万の烏合の衆をも自在に追い回せるのであると、事の真相を見抜いたのであります。

 欧米人には見えて日本人にはなかなか見えないものの代表が、「フォース・マルチプライヤー」でありますが、しかし、すべての日本人にそれが見えないわけでは決してなかった。この村田経芳などは、それを最初に見ることのできた日本人であったわけです。

 ただ、それだけでしたなら、薩摩藩、もしくは御親兵が、東洋におけるもうひとつのナボレオン式軍隊、あるいはフリードリッヒ式軍隊になっただけで終ったでありましょう。それでは日本は欧米に並ぶことは覚束なかったのであります。

 と申しますのは、欧米ではまさにこの時期、後ごめ式のライフル銃が非常に急速に発達を致します。伝統的な集団一斉射撃から、各個人の狙撃の技量が重視されるように変っていくところだったのです。

 そこで非常に日本国にとって運のよかったことに、この村田という人、空中に投げ上げられた梅干しのタネを銃で打ち抜く、あるいは走っている獣をゲベール銃で打ち倒したという、とてつもない射撃の名人でした。ですから、日本国軍隊が使用する火器を国産の一種類で以て統制するというアジアでは初めてとなる大事業と並行致しまして、鎮台兵に対して、特に狙撃を重視する教練を施しました。

 そのご、日本の工業は、弾薬を無尽蔵に供給できるレベルにはついになりませんでしたから、命中率を追求する村田の主義が全陸軍に定着したことは、日本が欧米軍隊と何年間も戦争ができる一つの条件を整備したといっていいのです。

 後に日本陸軍は「擲弾筒」という超小型の迫撃砲を開発いたしますが、これは第一次大戦で欧米軍隊は小銃の筒先にカップをとりつけて手榴弾を発射した。小銃擲弾といいますが、しかし日本ではそんなことをしたら小銃の銃身が歪んだり部品にガタがきて命中率に悪影響を及ぼすというので、まったく別の発射装置である「擲弾筒」を造らせたのです。

 このように見て参りますと、明治にたった一人の村田経芳という男がいてくれたお陰で、日本は、少なくとも歩兵銃の分野では、岩倉使節団から9年で、世界に完全に追い付いた。以後、一度も遅れをとっておりません。

 しかし他方では、航空エンジンや核兵器の分野で、この村田経芳に相当する人物は遂に今まで現れておりません。これは現代日本の不運であります。

 ところで、村田銃そのものは、傑出した銃でもなんでもなかったのです。

 基本的にはフランスのシャスポー銃の模倣でありまして、その際に、コイルスプリング—「つる巻きバネ」というものは高品質の特殊鋼でありまして、当時の日本の工業技術ではなかなか量産ができそうにない。そのバネだけで大きな最新式の工場を建てねばならない。そんな余裕はございませんので、火縄銃時代から国産の技術が完成しております板バネでもって撃針を動かすように工夫をしました。

 これが大正解でありまして、1950年代まで地方で猟師が使っておりました「村田銃」と呼ばれる単発ショットガンは、ずっとこの機構を踏襲している。それほど日本工業の技術レベルにうまくマッチした、すぐれた量産工業製品だったのであります。

 その発想に一人で辿り着いて、自ら偉い人々に働きかけまして、遂に国軍の火器を統一した。

 日清戦争におきまして清国軍はドイツ商社が李鴻章をとりこんで盛んに売り込みましたモーゼル連発ライフルという強力な最新兵器などを多数持っておりましたが、装備は各部隊内でもバラバラ、従って訓練もまちまち、国家単位での弾薬補給も行なわれないという次第で、日本陸軍は村田の開発致しました単発の小銃だけで大勝をおさめておる。これぞ「軍銃一定」の真骨頂であります。繰り返しますが、このように一国の第一線部隊が用います銃器をただ一種類に統一できたのは、アジアでは日本だけです。村田経芳の功績はここに尽きております。

 もう少し、この村田の話をしましょう。

 もし、明治に近代オリンピックが開かれたとしましたならば、エアピストルからスモールボアライフルまで、それから散弾銃のスキートとトラップも含めてになるでしょうが、バイアスロンを除いては、この村田が、射撃系の金メダルを総ナメにしただろうと、わたくしには信じられます。

 横浜には1863年から明治8年まで12年間、イギリス軍将兵1000名ないし300名、加えまするにフランス軍将兵300人が駐屯しておりました。この事実上の進駐軍、日本政府が各種の賠償金の残額を支払い終るまで居座っていたのであります。

 この軍人たちに加えまして、横浜では外人貿易商が軒並み武器を扱っておりました関係からか、若しくは護身のためでもあるのか、自ら狩猟や射的を好む者が非常に多かったと見えます。

 その軍人と民間人の中から鉄砲の腕自慢ばかり200人ほどが相集いまして、明治5年10月の15日と16日の2日間、本牧におきまして「小銃的射会」を催しました。

 この噂をどうして聞いたか、たまたま現在の品川区にございました薩摩藩邸に滞留しておりました村田経芳、自らこしらえた小銃を肩にかつぎ、飛び入りで参加を致しまして、並み居る200名の外人選手をあっさりと斥けて第一等の命中を得た。

 『新聞記事』というタイトルのニュース雑誌が当時ございます。その第68号を見ますと、大会の模様がこう伝えられている。すなわち、「発的場」に於きまして「我国旗を一等に建て」た。そのとき、村田を祝う声が地面を動かした、等と報じられてございます。

 ちなみに第二等はスイス人の貿易商であったそうですが、ともかくも「国際競技会」と名付けられるものにおきまして優勝を果たしましてそれで表彰台のメインポールに日の丸の旗を掲げた日本人は、この村田経芳が本邦の嚆矢である。

 この明治5年といいますれば日本政府は挙げて条約改正をいかに達成するか、汲々としておりましたけれども、日本国でただ一人、村田経芳だけは、白人コンプレックスというものには無縁であった。

 日本人全員が自分のように小銃射撃の腕を高めさえすれば大袈裟な陸軍なんてものを創らなくとも国は独立できるのだ---と身を以て示しましたから、徴兵制の陸軍を創るのにどうしたら良いかと頭を悩ましておりました大久保利通や長州の山県有朋にたいへん気に入られることとなりまして、よしそれならこいつに日本陸軍の小銃のことは任せておいたら良かろうということになった。それから10年足らずで出来上がった村田銃のおかけで日本は日清戦争に勝ち、独立国として世界から認知されることになる。まさに福沢諭吉のいう、「一身独立して一国独立す」を、地で行った男であります。