進化論と戦術

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 わたしたちの現実世界では、すぐ先の未来に何が起きるか――すらも、完全な予測はできないものです。
 あなたが最善だと信じて選択したコースの結果が、よくなかった――ということは、しばしばあるでしょう。
 第二次大戦の後半、旧ソ連軍は、東部戦線のドイツ軍を西へ向かって押し返すときに、北から南まで連続して延びている長大な対峙線の、どの一点を次に突破するのかは、あらかじめ決めないようにしておくことが、有効であると学びました。

 全線をほぼ同時一斉に圧迫し、すべての箇所で、浸透や突破を試みる。
 するとそのうちどこかで、ドイツ軍が防備をもちこたえられない場所が偶然に見つかり、そこで小規模な前進が成功します。
 ソ連軍司令官は、その「現にうまくいっているように見える場所」に、手元に控置していた予備のありったけの兵力を注入して、戦果を拡大しました。

 この流儀は、進化論の智恵そのもので、豊田章男氏(トヨタの会長)がさいきん言っていることにも近いものなのです。

 すなわち「脱炭素」を実現するために何か特定のアプローチ(たとえば乗用車に関しては完全な電動自動車化、発電方式に関しては再生エネ)を、政府の智恵の足りない少数者が「これがベストだ」「これしかない」と信じ込んで闇雲に選別してしまい、全国民にそれのみに限った努力をおしつけ強制せんとする流儀は、進化論的に非合理的で、みすみす国家的な不利益を背負い込み、とりかえしのつきにくい損失を国民の行く末に課してしまうおそれがあるのです。

 進化論的に政策を推進するようにしたら、このような「騙されやすい政府が善意のつもりでハマってしまう禍害の陥穽」は、避けられるでしょう。

 すなわち、脱炭素のためのあらゆる方法を、各法人・各私人がめいめい自主的に多様に考えて追究することを奨励する。そのなかから、おのずから「他の方法よりうまくいく」方法が現れてきます。だんだんとそれを見定めて、政府は、じっさいに他よりもうまくいっている方法を、手厚く応援するようにして行く。
 この流儀こそが、かつてないチャレンジとなる目的を集団的に達成するためには、いちばん合理的なのです。

 なおソ連軍式に関してもうひとつ覚えておくとよいことがあります。
 攻勢作戦において、攻撃が頓挫してまさに全滅の危機に瀕しつつある味方部隊が幾つかあっても、上級司令部ではその地点をサクッと見捨ててしまい、決して増援部隊などは送らない方針を貫いたことです。

 突破と前進に成功している箇所に全予備をまとめて投ずるのが、攻勢作戦での全線勝利の鍵なのです。
 すでに攻撃が頓挫し停滞していると判明した箇所に、貴重な有限資源をあとから分割投入してはいけないのです。

 ソ連崩壊後のロシア経済――とくに2010年よりも前――は、このソ連軍式の適用をしなかったせいでうまくいかなかったのか、それとも、まさにこのソ連軍式を経済行政に採用してしまったがために破滅的な結果を招いたものなのか、そこを知りたいとは思っているのですが、わかりません。

 さて、進化論については、ほぼすべての人が、一知半解です。
 にもかかわらず、おおぜいが、じぶんは進化論を十分に知っている と思い違いをしているところから、癌患者が伸ばせるはずの寿命を、むざむざ縮めてしまっているよ—と啓蒙する本が訳刊されています。

 キャット・アーニー氏著、矢野真千子氏tr.『ヒトはなぜ「がん」になるのか――進化が生んだ怪物』(Kat Arny“Cancer, Evolution and the Science of Life”, 2020. 邦訳/河出書房新社 2021)が、それです。

 ある経済的な恩人からわたしはこの本を頂戴したのでしたが、一読して、すべての軍司令官はこの本を読む価値がある—と、膝を叩きました。対ゲリラ作戦を組み立てるときのヒントに満ちているからです。

 人体にとって、癌細胞は「敵」です。しかし通常、36歳以下の若い人のカラダは、その「敵」が爆発的に増殖することをゆるしません。
 じつは健康な若い人も、癌細胞を体内に抱えているのです。いるけれども、国家の治安力のようなものが働いていて、その身中の敵の爆増を許していない。癌細胞があっても、それが増殖しなければ、ヒトは、健康でいられるわけです。国家のどこかに犯罪者予備軍が存在するが、その跳梁は、力のバランスによって抑止されているようなもの。見かたを変えますと、社会と敵とのしずかな共存状態になっているのです。

 成人が、もはや子どもをつくれない年齢にさしかかると、体内の癌細胞の増殖を抑える力は、弱まります。というのは、生き物のDNAにとっては、子孫を残すことが優先順位の最上位ですので、子孫を増やせなくなった年寄りの個体は、もう死んでくれてもいいからだそうです。

 それで、老人の体内を仔細に調べれば、ほぼ全員、どこかに癌細胞を持っているのが見つかるそうです。

 しかし、その癌を悪化させることなく長生きして老衰死する老人もいる。本人は、病院で医者から指摘されないかぎり、じぶんの体内に癌細胞があるとは知らないで、一生を送るのです。

 体内に癌細胞はいくつもあるけれども、それが爆発的に増殖しない。それがじつは、「健康」の真相であったのです。

 ということは、人体内の「癌細胞を根絶してやろう」という医療の目標設定は、根本的な誤りです。

 若い人のカラダがしぜんに実現できていたように、敵との共存状態を、老人になっても、できるだけ長く維持させる。癌細胞は存在しているけれども、それを爆増させないように保つ。それこそが、成人医療の目標設定であるべきだったのです。

 そこで大事なことは、敵は一枚岩ではない、というリアリティの把握です。
 敵集団の中に、必ず、マイノリティが混じっている。
 じつは、敵も「多様」であったのです。

 敵集団の中に、複数のマイノリティが混在し、敵集団の中でも「三すくみ」のような「力の均衡」状態が生じていた。それがあるおかげで、癌細胞集団ぜんたいとして正常細胞にうちかつことはできず、どの癌細胞も爆増できないでいるのです。

 もし、正常細胞に炎症(たとえば煙草を猛烈に吸えば肺は炎症状態になります)などの攪乱が加えられると、正常細胞と癌細胞の「力の均衡」が崩れ、癌細胞にとっては爆増のチャンスが到来します。

 そしてそれだけでなく、特定の癌治療薬が投与されたときにも、癌細胞集団の中の「力の均衡」が崩れて、いままで逼塞していたマイノリティの癌細胞が、驥足をのばして、あらたに爆増することになってしまうのです。

 既視感におそわれないでしょうか? 中東情勢は、これと似たところがありませんか?

 米国がイラクのフセイン体制を打倒したら、それまでイラク国内の統治者集団だったスンニ派が失業して、やむなくアルカイダを結成し、かたやイラン(シーア派本尊)を憎んでやまない米国がサウジアラビア(スンニ派本尊)を甘やかした結果、アルカイダが世界じゅうに転移し、タリバンが強化され、さらにISという変異株まで生んだ。

 米軍がISを叩けば、イランから後援されているフーシやヒズボラやハマスが元気になって、サウジアラビアやイスラエルをテロ攻撃します。

 アルカイダのテロ攻撃を受けた米国が、サウジアラビア人のビンラディンをかくまったタリバン(アフガニスタン民族主義運動にしてスンニ派)を弱めようとしたら、表向きタリバンではないという地方ボスが芥子畑経営を米軍からなかば公認され、その巨額の麻薬収益が賄賂やタリバンの軍資金となって、アフガン政府・軍・警察を骨の髄から腐敗させ、けっきょくは元の木阿弥。

 近年までの癌治療は、海外の前近代的部族社会と似たこのような「力の均衡」のリアリズムを敢えて無視してきました。そのために、癌治療の延命成績も、みすみす、悪くされていたのです。

 本書は、くりかえし、強調しています。
 ある人の体内の癌細胞は、その出現の最初から、すでに多様である、と。

 多様であるために、一種類の抗癌剤で、絶滅させることは、ぜったいにできないのです。

 本書の白眉は、この真相に気づいた医師たちが案出している、薬に耐性をつけてしまった癌細胞を爆増させないための、さまざまな新戦法です。

 たとえば、「囮薬」。
 古くからある高血圧の薬、ベラパミルには毒性はほとんどない(したがって患者にもやさしい)。それを、癌治療薬に耐性をもっている癌細胞にふりかけると、その細胞は、分子ポンプを総動員してフルスピードでベラパミル成分を外へ押し出そうとする。それにかかりきりとなるために、もはや増殖のエネルギーが残りません。

 その結果、抗癌剤に耐性のない癌細胞が数的に優越している、つごうのよい状態が維持されてくれる。
 これが、患者の寿命をいちばん延ばす—といいます。

 その耐性のない癌細胞を、敢えて全滅させない。増殖させずに存在だけさせておくのです。
 非耐性の癌細胞が腫瘍内でマジョリティとして存在し続けるから、ライバル関係の耐性癌細胞の方はいつまでも驥足を伸ばせず、爆増できない。耐性細胞は、その耐性を発揮するために余計なエネルギー消費をしていますので、そのままなら、けっして爆増はできないものなのです。
 非耐性の癌細胞を除去してしまったら、そのときは、耐性癌細胞が爆増します。なぜなら、それまで非耐性細胞の存在が、耐性細胞の増殖を抑制していたからです。耐性癌細胞にとっての「制がん剤」は、非耐性癌細胞なのです。

 この考え方を、「ゲイトンビーの適応療法」というのだそうです。

 イスラエルがガザ地区で展開している作戦は、この方針に近いようにも思えます。定期的に、ハマスの幹部だけ殺し続ける。イスラエル軍にとって、パレスチナ人を絶滅させることはたやすいでしょうが、敢えてそんなことは考えないのです。ハマスという、過激だが一面でくみしやすい分子をほどほどに除去し続けることによって、ハマスよりも有能な脅威かもしれない新手のテロ集団はガザ地区内ではいつまでも成長しないのかもしれません。

 本書は教えてくれます。植物も同じだよと。
 つまり、農薬に耐性をもつ雑草は、ふだんは、農薬に屈しやすい雑草よりも優勢になることはありません。耐性を発揮するために使わざるをえないエネルギーの消費負担が大きいからです。そのため増殖のために使えるエネルギーの余裕はなくなっていて、ずっと小さな集団のままで推移するのです。
 しかしもしも、農薬に屈しやすい雑草が根絶されてしまったなら、その瞬間から、耐性種にはライバルがいなくなるので、じぶんたちの天下となって、爆増できることになるのです。

 「カクテル療法」も、ヒントに満ちています。
 1950年代からあり、複数の抗癌剤を組み合わせる、多剤併用法だそうです。

 たとえばウイルスが三つの異なる薬に同時に耐性をつけるよう進化する確率は、1000万分の1しかないそうです。
 だから、三剤か四剤まで薬を増やせば、一個の癌細胞がすべてのメカニズムに耐性をつけることはまずありえないという考え方。

 たとえば野鼠にとって、鷹に食われないように適応する方法はあるでしょう。そしてまた、蛇に食われないように適応する方法もあるはず。しかし、鷹にも蛇にも食われないようになる、そのような都合のよい適応や進化は、なかなかできないものでしょう。
 わが国の領土である島嶼を侵略してきた敵兵を全滅させるためには、やはり空からも陸からも同時に逆襲するのが、確実になるのでしょう。

 《効いている攻撃方法を、そのままダラダラと続けてはいけない》という戒めが、最近の癌治療の化学療法の分野にはあるようで、これも知っておく価値がありそうです。

 まず「第一の薬」を与えて、その「第一の打撃」で大量に癌細胞を殺す。ただし、全滅させようと望んではいけません。全滅するまで同じ薬の投与をしつこく続けようとするのが、癌との戦いでは、最悪手になるといいます。癌は、かならず進化するからです。

 まず第一の打撃により、敵集団の個体数と遺伝子多様性を減殺するのです。
 が、少数の癌細胞は生き残っている。でも、いいのです。そいつらは、一番目の薬剤を細胞外へ追い出すのに多大なエネルギーを使ってしまっているので、疲労困憊の状態です。肩で息をついている。
 そこで、早いタイミングで、サッと別の作用機序の薬に切り替える。これが「第二の打撃」。
 第一の打撃に耐えて生き残った癌細胞は、この別種の新打撃に対応する体力の余裕を、残していません。
 念のため、さらに、第三、第四の別種の薬に、テンポよく切り替えて行き、四回連続で、たてつづけに別種の打撃を与えるようにすれば、四種のまるで成分の異なった薬に耐性を発揮して生き残るような癌細胞は、ほとんどない—という次第です。

 このとき、一番目の薬が効いているからと、それをダラダラと使い続けると、癌細胞が耐性をつけてしまうのは、時間の問題。ですから、同じ攻撃法を長く続けることは、有害なのです。

 『孫子』は、《敵が進化する》ことを、ちゃんと警告してくれていました。

 『孫子』は「拙速」を強調しました。この「拙速」は、攻める拙速ではなく、撤退の拙速のことです(詳しくはPHP刊の兵頭著『新訳 孫子』を参照)。

 遠征軍は、決して、敵国内に長くとどまったらいけないと言っているのです。
 どうしてでしょう?

 どんなに弱っちい現地軍であっても、侵攻してきた占領軍が長居をすれば、占領軍の弱点を理解するようになり、ゲリラがそこを衝けるようになるからです。敵が早く進化し、「耐性」をつけてしまうのです。

 イラクやアフガンに長居をした米軍は、どうなったでしょうか?

 「一撃離脱」の外征戦争を繰り返すようにすれば、敵が「耐性」をつけてしまうリスクはありません。
 これが『孫子』の教えなのですが、わたし以外に、誰もそこを正しく読めていませんね。残念なことです。

 アメリカ人は、中東での敗因を依然として言語化できていません。そのままですと、また同じことをやりそうですね。



ヒトはなぜ「がん」になるのか; 進化が生んだ怪物


[新訳]孫子 ポスト冷戦時代を勝ち抜く13篇の古典兵法

(管理人Uより)

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 因みに兵頭二十八先生の傑作『[新訳]孫子 ポスト冷戦時代を勝ち抜く13篇の古典兵法』は、Kindle Unlimited会員なら0円で読めます。


新刊『尖閣諸島を自衛隊はどう防衛するか――他国軍の教訓に学ぶ兵器と戦法』について自己宣伝します。

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 また1冊書かせていただきました。奥付は3月31日発行となっています。アマゾンで注文した方がたは、25日頃にもう届いてますよね?

 現下、原稿をかなり先行して書き上げないと書籍そのもの発行日が決まりません。それで、じつは、去年のうちに書いたことが、やっと4月に世間に問えるという感じなんです。
 しかしまあ、このぐらい専門的なネタでこうして商業出版ができるだけでも、恵まれているのでしょうね。
 なにしろ骨子の提言のひとつが「砲兵改革」なんですから。

 ナゴルノカラバフ紛争が11月に停戦になってくれたのは、ありがたくも絶妙なタイミングでした。単行本であの紛争の最新の戦訓を論ずることができるポジションの著者はそもそも少ないはずで、その先頭打者になったと思えば、運の良さを痛感するのであります。

 アゼルバイジャン軍の勝因はトルコ製のUAVだけじゃない。イスラエル製UAVのSEADが露払いをしているのと、イスラエル製の地対地ミサイル(航法衛星参照式の地対地ロケット弾)が良い仕事をしているのです。
 まずそこを掘り下げてみました。

 日本国民の中心的な関心事は、中共が尖閣に来るのか来ないのか、でしょうね。
 しかし、これについて、来ると断言する人、来ないと断言する人、どっちもシナ人を理解しているとは思えない。

 水はいちばん低いところだけを通って流れる。戦闘の指揮もそれと同じだ――と『孫子』が説いていたその流儀は今日でも変わりはしないんですよ。すべてはこっち次第なのです。

 敵、すなわち中共の周辺諸国のうち、いちばん抵抗が弱そうなところが自動的に狙われるんですよ。自動的にシームレスに侵略が始まる。それがシナ式の政治です。

 スイッチを持っているのはこっちだという自覚が必要です。儒教圏人とわたりあう組織にはね。

 日本の有権者が覚醒して、対支で弱腰の政治家を落選させ、対支で譲歩しない政治家を当選させれば、連中は尖閣をあきらめ、他の方面での侵略活動に精を出すことになります。
 日本国民が覚醒せず、対支で弱腰の政治家を当選させ続ければ、中共は尖閣が「いちばん低い」=「いちばん抵抗が弱い」と見切り、尖閣に自動的にシームレスに出て来ます。
 すべては、こっち次第。

 中共中央に「大計画」がある、などと思っちゃいけません。行程表などないのです。あるのは好機を捕らえるセンスと、軽いフットワークと、あとから行為を正当化できる屁理屈の本能だけ。
 いいかえると、「水」があるだけ。こっちが低くなれば、水はこっちに決壊してきます。こっちが高くなれば、水はこっちではないどこかへ流れ去る。「プランB」「プランC」……は自動生成されます。
 まったくのオートマチックシステムです。

 日本の政治家に低くない見識があれば、わたしが月刊誌記事を連載していた頃に早々と警鐘を鳴らした中共の「コーストガード軍拡」に遅滞なく反応して、海自のイージス予算を1隻分削減してでも海保陣容を倍増できたはずです。

 こういう省庁間予算や省庁間人員の融通がきかないのは、国家の動脈硬化症。若年人口が足りないという前に、日本の古い組織・団体の指導層が精神的に高齢化し、干からびている。戸籍年齢が四十台でも、はや即身仏ではないかと思います。

 中共は好いポジションにいます。
 日本外務省はおそらく憲法と法律に違反する過去の《密約》の弱みを北京政府に握られているし、戦争のセンスがないくせにNSCを支配してみずからの瑕疵を国民に対して隠蔽することにのみ関心が強い。海保は上層(公明党系列)が弱腰のうえアウトナンバーもされていて、士気崩壊の兆しすらある精神状態にある。陸自は最も急いでも数週間しないと尖閣方面へは出動などできまい、といった読みがあるものと思われる。

 海上民兵とホンモノの漁民と海警・武警を使い、日本の海空軍の出番がないようにしてやれば、数週間で尖閣支配の既成事実化は可能です。

 東京夏季五輪が流会にならず、22年の北京冬季五輪を日本がボイコットするかどうか読めないという只今の「不確定」さが、連中の尖閣侵略の自動発動を食い止めています。この天佑を活かさなかったらバチが当たりますぜ。

 わが政府のレベルがいかに低くとも、陸上自衛隊のドクトリン改革だけで、鞏固な対支抑止は成立する――という話を、そこで、こんかいの新刊のなかで訴えてみました。

 これを説明するのに「プロスペクト抑止」理論を独自に展開してみたかったが、ちょっと準備時間が足りなかったのでそれは次著でやることにします。

 海保と陸自を融合させる案は、「安全保障のライフハック」ともいえるもの。彼我の形勢は一気に逆転します。海保の人員不足、重火器不足を陸自が補完できます。海保は海警から有力火器で攻撃されればシームレスに戦闘を陸自にバトンタッチできるようになります。敵がつけこむ「隙」がなくなります。海保船艇がもし海上民兵のスチール船体トロール漁船による「体当たり」をうけて浸水をしはじめたら、巡視船内の陸自隊員は救命ボートで脱出し、最寄りの尖閣諸島に上陸します。敵がどう出ようと、それは、中共にとって、前よりも悪いシチュエーションの始まりに帰結するのです。

 イスラエルの話にも力を入れました。大事だからです。
 イランの核武装はもはや不可避であるという共通認識が、サウジアラビアとイスラエルの間にはあるものと想像できます。
 イスラエルは兵器産業と技師たちの疎開先を探しているはずです。いまこそ、それを日本が取り込むチャンスです。

 ビンサルマンの肝いりで、アカバ湾の東岸からヨルダン国境にかけて建設するサウジアラビアの新都市計画「THE LINE」。これの狙いはわたしが昔から唱えてきた「耐核リニア・シティ」そのものだと気づくのが遅れました。この都市計画については次回作で論評するかもしれません。この都市は、イランがかかわる核戦争が起きたときの、サウド家の疎開先です。
 「ザ・ライン」の西風の風上には、イランから見ての核攻撃目標がありません。シナイ半島と海しかない。したがってイスラエルやエジプトを狙った核ミサイルの降下灰は「ザ・ライン」までは飛んでこないでしょう。

 わが国はいまのところ「少子高齢化」のまっただなかですが、じつは中共ももうじき、そうなります。国内がじじいばかりになるんです。それは待ったなしでやってくる暗い未来。日本よりも暗い。だから熊プーは大焦りです。
 世界中でシームレス侵略を続けて、常に成果を国民に示し続けないと、権力の座を逐われてしまう。尖閣に隙があったら、尖閣に出よ。そういう心境なんですよ。

 わたしは昔、親切心から、熊プーのための善い政策を提言しているんですよ。西部の砂漠にトンネルを掘ってそこを緑地化しろ、とね。そこにしか、ダブついた資金や余剰生産品を吸収できるフロンティアはなくなるはずだよと。砂漠のトンネルにスチールプロダクツをブチ込み続けろ、と。わたしのこの助言に従っていれば、すくなくとも食料品に関しては中共はいまごろ「アウタルキー」を実現できていたかもしれないのです。

 しかし中共中央は無明の闇に迷い、砂漠開発を顧みませんでしたので、まもなくして中共が高齢社会に突入したとき、若年労働力、エネルギー、食料のすべてが、中共には足らなくなってしまいます。国民1人あたりGDPでも日本に追いつけません。暗い未来です。
 その頃、日本はどうなっているでしょうか。
 次の本では、そんな話もするかもしれません。



尖閣諸島を自衛隊はどう防衛するか 他国軍の教訓に学ぶ兵器と戦法

(管理人Uより)

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 右や左の旦那様、どうか兵頭先生へお仕事ご喜捨を……。
 私は『兵頭二十八のマッカーサー伝』を読んでみたいですよ。


ひょうどう偶懐――「新コロ時代」は「X島」よりもハード?

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 2001年末に四谷ラウンドさんから初版を刊行した『地獄のX島で米軍と戦い、あくまで持久する方法』は、2010年に光人社さんがNF文庫に入れてくださっていた。それがこのたび新装版になりました。
 関係各位に篤く御礼を申し上げたいです。

 大きな直しは不可能でしたが、行の変更がない小さな直しは可能でしたので、たとえば《26年式拳銃は敗戦の直前まで製造が続いていた》――といった勘違いを是正することができまして、ホッとしております。
 これに関しては杉浦久也大兄から賜ったご示教に大きく負うております。杉浦さま、ありがとうございました。

 いや26年式に関してはもっと根本から記述を変更するべきなのでしょう。いつまでも2001年以前の知識で語っていてはいけないはずなのです。しかし行数をいじらないで直すのがちょっと難しかったもので、残りは後日の課題とさせていただきました。

 本書とは直接関係ないのですが、前に杉浦先生からは、重擲弾筒の開発担任者三名の名前も教えてもらいました。1966年刊の『砲兵沿革史 第5巻 上(回顧録 其の1)』に載っている、と。
 これは盲点でした。この出版物は「レア度」としては微妙だったために、精読してなかったんです。じぶんとしては読んだ気でいました。

 つまり戦後に刊行されているので国会図書館に行けばいつでも読むことができる――と考え、精読を後回しにし、斜め読みで済ませていたわけです。そのうちに、すっかり忘れてしまった。
 資料漁り業の「あるある」ですよ。

 防研図書館にしかないレア史料とか、国会図書館に戦友会が寄贈している個人出版物から先に調べるべきだという焦燥感で、当時は頭がいっぱいだったんですなあ……。

 国会図書館は戦前資料(特に軍事系定期刊行物)のデジタル化をすっかり了えたのだろうか? 新コロ時代にはオンライン閲読をもっと便利にしてくれませんと、こういうマニアックな研究も深まりませんでしょう。

 戦後の刊行物でも、私家版の戦記のようなものは、早めにデジタル化してくれたら有り難いですよね。
 たとえば、『X島』の中で書いたかどうかは覚えてないのですが、わたしは「消音の単発拳銃」にこだわりがあります。これは現代でも、たとえば尖閣奪回に派遣される特殊部隊には全員に持たせるべきだと思っているほどです。

 そう思うようになったのも、先の大戦に関する私家版の回想戦記類の影響なのです。
 南方のジャングルで、敵の歩哨線を越えないと身動きができない、という局面が、多いんですよ。そこで何よりも必要だったのは、「消音銃」でした。

 この装備さえあったら、敵の歩哨線を随意に越えやすくなっただろう。それによって、日本軍の戦果や、日本兵の生存率が、どのくらい違っていたか知れないのです。単発だったら、わずかな投資だったんですよ!

 単発の消音銃なんて、今であれば、米国に行けばガレージ内で自作ができる。
 だれか試作品をこしらえて、防衛省に真正面から売り込めよ、と真剣に思います。
 あ、向こうの法令で、消音銃がその地域で合法かどうか、まず確かめてくださいね。念の為。

 ところで『X島』を書いたとき、日本はバブル崩壊不況で、若い人たちの人生計画は狂うだろうなと予測ができました。だから《X島ほどの最悪状況でもまだ活路はあった。現代人は頭を使え》――というのが、本書のメッセージでした。
 そしてNF文庫に入った2010年の2年前には、「リーマンショック」でしたよ。
 こんどの新装版は「新コロ」動乱のさなかに書店に並ぶことになります。

 おそらく若い皆さんの不安は、「このパンデミックは収まるのか?」に集約されるのでしょう。
 そこで、調べてみました。1918年の人類史上最凶のパンデミックは、どのように収束したのか――を。

 こんかいベーシックな参考にしましたのは、以下の三本のネット公開記事です。
 Marta Rodriguez Martinez 記者による2020-3-6記事「How did the Spanish flu pandemic end and what lessons can we learn from a century ago?」
 Teddy Amenabar 記者による2020-9-4記事「‘The 1918 flu is still with us’: The deadliest pandemic ever is still causing problems today」。
 Dave Roos 記者による2020-12-11記事「Why the 1918 Flu Pandemic Never Really Ended」。

 1918年型インフルエンザ・ウィルス「H1N1」、俗名「スペイン風邪」の猛威は、14世紀の「黒死病」を凌ぐ数の病死者を世界にもたらしたという点で、世界史的に特筆されます。
 H1N1ウイルスは、全世界ですくなくも5000万人を斃しました。

 この1918年型インフルエンザは、三連続パンチとして、世界を襲いました。

 まず1918年春、北米と、欧州西部戦線の塹壕に広まりました。

 続いて1918年の秋に第二波。9月から11月までのあいだに、全世界で数千万人を斃しました。

 そして最後の第三波は、1918年末から1919年春にかけてです。豪州、合衆国、欧州がやられています。しかしこのときは、ウィルスはマイルド化していました。

 冬に沈静化して夏にもり返す、という現象が観測されています。

 そしてスペイン風邪の場合、第一波より第二波、第二波よりも第三波の方が、致死率は低くなっていました。
 さらに抗原遷移したバージョン(変異型)が、1919年末から1920年初、および、1920年末から1921年初にかけて再々流行しているのですけれども、いずれも致死率が低く、ほとんど普通の季節性インフルエンザと差のない危険度でした。

 世界のコミュニティがノーマルに復帰したのは1920年の前半でした。
 このパンデミックは、収まるときははあっという間のように思われたかもしれません。それまでの2年間に5000万人が死に、それで集団免疫ができたのです。

 疫学史の上では、1918年型インフルエンザのパンデミック終焉は「1920年の前半であった」とされています。これに異論を唱える人はいません。

 スペイン風邪のときに世界が学習したことがふたつあります。
 まず、当初には「大袈裟だ」「過剰だ」と言われていた対策は、すべて、後から振り返ると、まったく不十分でした。
 そしてもうひとつ。人々は1920年に、パンデミックのことなど、すぐに忘れてしまいました。ただし、今次の「新コロ」もそうなるのかどうかには疑問があります(後述します)。

 いつをもって「パンデミックの終焉」と言うのかは、次のように定義されます。そのコミュニティに、制御不能な伝染が起きなくなったとき。そして、発症率が非常に低くなったとき。
 その状態が数週間続いたなら、パンデミックは終焉したのです。

 パンデミックの終焉とは、社会が集団的免疫を得たことを意味しました。しかしそれは、原因ウイルスが消えてしまったことを意味しません。
 「1918年型ウィルスは、1920年の前半にその猛威をうしなった」と表現するのがいっそう正確なわけです。ウィルスじたいは、存在し続けているのです。

 「スペイン風邪」と名づけられた経緯について。
 記録されたアウトブレークの始まりは、米本土でした。それは1918年の1月でした。まだ第一次大戦中ですので、それがすぐにフランスへ伝わり、そこから全欧州に拡散。スペインでアウトブレークしたのは1918年5月です。
 ちなみに第二次大戦と第一次大戦では違いがありまして、第二次では米兵はいったん英本土に上陸し、そこから渡仏するわけです。しかし第一次大戦では英本土をスルーして直接にフランスに上陸しました(このへんについては2019年の既著『兵頭二十八の農業安保論』をお読みください)。だから英国への伝染はフランスよりも遅くなった次第です。

 ところが当時、参戦諸国はこのインフルエンザのおそるべき死者数については、情報を統制して公表をしませんでした。
 それに対してスペインは中立国でしたので、何も気にせずに病死者数を公表。
 スペイン王アルフォンゾ8世も罹患したと報じられました。
 それが世界に伝えられた結果、この疫病は不当にも、「スペイン風邪」と呼ばれるようになってしまったのです。

 「1918 H1N1」の真の発祥の地と時が、どこでいつであったのかについては、いまだに学術論争の決着がつきません。
 カンザスの兵舎で患者第一号が記録される前に、スペイン風邪ウイルスは1917年のシナ大陸もしくはフランスで誕生していたのではないかという疑いが、根強いです。どうせアヒルや家畜からヒトに移ったに違いないというので……。

 異論なく一致していることもあります。もともとはヒトのインフルエンザではなくて、トリのインフルエンザであったという科学的な分析です。

 1918年型インフルエンザウイルスのゲノムは、1990年代に解析されています。
 当時病死した米兵の肺サンプルが某所に残っていたので、それをもとに国立保健研究所NIHが解明したそうです。
 1918インフルは、おそらく1917年に、アヒルとかニワトリといった家禽の鳥インフルエンザから、ヒトインフルエンザに変化したのだと推定できました。
 研究所で、そのオリジナルを復元したウィルスで鼠を感染させたら、今日の季節性インフルの100倍の致死力を示したということです。

 1918~1920年のスペイン風邪のときは、不思議にも、30歳以上の人が、重症化しにくく、快癒率が高かった。
 おそらくその理由は、1889年と1890年に流行した「ロシア風邪」のウィルスによる免疫が、それらの人々の体内に残っていたからだろうと考えられています。つまりスペイン風邪のウィルスの遺伝子情報の中には、その前のロシア風邪のウィルスの遺伝子情報が含まれていたのです。

 インフルエンザ・ウィルスは消えることなく、変異しつづけます。
 その遺伝子情報の一部が後々まで、最新世代ウィルスの中に受け継がれて行くのです。

 平時の、季節性のインフルエンザでは、それに罹って死ぬのは主に年寄りと子どもたちです。
 ところが1918年のスペイン風邪は、20歳代と30歳代を狙い撃ちし、世界全体の病死者のうち半数が、その年齢層の男女でした。

 「1918年型インフルエンザ」は2年間で5億人に感染したと見られています。5億人というのは、当時の世界人口の三分の一です。

 そして、全世界の20歳以上40歳未満の男女のうち1割弱がこのスペイン風邪によって殺されたのではないかといいます。つまり1割弱が死ぬくらいに流行した時点で、やっと集団免疫ができたわけです。

 偶然にも、30歳以上の男女には、その前のロシア風邪の免疫が残っていたおかげで、重篤化はまぬがれることができました。

 スペイン風邪のウィルス「1918 H1N1型」は、1920年以降は、どこに伝存したのでしょうか。
 人間、ブタ、アヒル、ニワトリその他の生きた動物の体内です。そこで生き続け、複製され続け、変異し続けている。

 そして時間ととも、ふつうの脅威度のインフルエンザと同格のウィルスになりました。すなわち、毎年ある季節になると流行するが、パンデミックにはならないインフルエンザと、大差がないものに。

 いわば、さいしょは体重91kg以上のヘヴィー級のボクサーがメリケンサックをつけて通り魔をやっていて、一撃で通行人が殴り殺されていたのに、しだいに、47kg以下のミニマム級のチンピラに降格したという感じでしょうか。

 いっぱんに、あるコミュニティ内に疫病ウィルスが長く存在し続けるほどに、そのウィルスの毒性は弱くなって行くとされます。
 これは、ウィルスが宿主aから宿主bに伝染しおえる前に宿主aに死なれては、自己複製ができなくなってしまいますので、自己複製の見込み率を最大限に上げるために、しぜんにそうなるのだと考えられています。

 たとえば現代では、ポリオにかかってもほとんど症状を自覚できないケースがあるそうです。新コロも、このポリオのように、少しおとなしくなりながら、残り続ける可能性があります。

 もちろん、今後もすべての疫病ウィルスが例外なくそのような低威力化の変異を遂げるのかどうかは誰にも確約ができません。

 変異は、家畜や鳥の体内で簡単に起きます。
 たとえば甲というインフルエンザと乙というインフルエンザが1羽のトリの体内に同時に侵入したとしましょう。するとその鳥の体内で、二種類のインフルエンザの遺伝子が融合して新型「丙」ができあがってしまうのです。

 まさにこれが1957年のインフルエンザウィルスの正体でした。トリの体内で「H2N2」という新型ウィルスができてしまったのです。それが全世界で100万人を斃しました。ベースは「H1N1」です。

 1968年の「香港風邪」=H3N2 も同様で、鳥の体内でこの新インフルエンザがつくられました。この香港風邪も世界で100万人を殺しました。その遺伝子の一部は、やはり「H1N1」からひきつがれているものなのです。

 「1918 H1N1」の直系後継ウィルスによるインフルエンザ流行は、1957年、1968年、2009年に起きています。
 2009年のインフルエンザは、スペイン風邪ウィルスの「ひ孫」=四代目 が起こしたのです。

 すなわち過去百年以上、「A型インフルエンザ」と呼ばれるものは、要するに「1918年型インフルエンザ」の子孫なのです。その遺伝子の一部は、スペイン風邪ウィルスそのものなのです。

 2009年の豚インフルエンザは、1918年型ウィルスが米国の豚にのりうつって温存されていたものが、ヒトインフルエンザおよび鳥インフルエンザを取り込んで変異したものでした。それが世界中のヒトに伝染した。
 この2009年型インフルは世界で30万人を斃しました。

 死者が少ないのは、2009年のインフルエンザでは、老齢世代の多くが免疫をもっていたからでした。若い世代は、過去の類似ウィルスの免疫ができていなかったため、このウィルスにやられやすかったんです。

 今次の新コロが1918インフルエンザと明らかに違う点がいくつかあります。
 ひとつは後遺症。たとえば新コロに罹患して治った患者は、恢復後も、心臓血管疾患のリスクを長く抱え続けることになるおそれがあります。

 ここから先は兵頭の個人的な感想です。

 死ぬことはないし、自覚症状すらないが、それに感染すれば、体内の血管細胞が健常者よりも脆くなってしまうなどの時限爆弾を知らぬ間に埋め込まれてしまう、そういうステルスタイプの厄介な疫病として今の新コロが変異した場合は、このパンデミックが終わったあとも、人々の恐怖は永続するでしょう。

 誰もが、じぶん自身をも含めて《ステルス・スプレッダー》たり得るからです。

 新世代罹患者は、自覚症状が無いので、じぶんでも知らないうちに、それを他者に移して広めてしまう。
 そのため健常者は、すべての他者を疑って暮らすしかなくなる。

 これはスポーツ時代の終わりを意味するかもしれません。それが東京五輪の年に、始まったことになるかもしれません。

 英国からの報告によると、英国変異型ウィルスは、オリジナルのチャイナ・ウィルスよりも強毒である可能性があるそうです。これはもっと調査が必要です。もしそれが本当であったならば、新コロは1918インフルエンザのパターンをなぞらないことになります。

 さらにブログでも紹介しています最新のいくつかの研究によれば、新コロ・ワクチンを接種した人が、ひきつづき、サイレント・スプレッダーとなり得る。
 健康な人が、罹患歴がなくて、ワクチンも接種してもらっているのに、あらたに自覚症状のない新コロに罹患してしまうという確率すら、どうやらゼロではなさそうだというのです。
 そしてその人たちは、知らないうちに、別な人に新コロを移してしまうのです。

 いったん罹患して、快癒したと思っている人も、じつはサイレント・スプレッダーであるかもしれないし、逆に、再度罹患することだって、あり得る。
 「オレは妖怪だった!」と、平凡な人間が突然気づくというホラー。
 ウィルスの立場になって、望ましい進化型を考えたら、そういうのは、納得ができる変異でしょう。

 過去のインフルエンザだったならば、後遺症として肺にちょっとダメージが残るくらいで済むかもしれませんが、新コロは、血管の細胞を攻撃するらしいので、当人が自覚しないうちに、全身のあちこちに深刻なダメージを、当人が自覚しないうちに、蒙ってしまうかもしれない。

 頭がハゲるくらいなら、帽子をかぶってごまかせばいいでしょう。しかし、心臓血管が脆くなったり、肺の機能が不可逆的に低下したら、「スポーツは不特定多数の人々の健康にとってとてもリスキーな活動だ」ということになっちまいますよね。激動が、頓死をもたらすかもしれないわけですから。

 さらに想像してみましょう。
 ワクチンを接種済みであることや、既往罹患歴がないことや、PCR検査の陰性結果が、ある人の「ウイルスフリー」性をいささかも立証してくれないのだとしたら……? これから、いつまでたっても、ずっと……。

 そういう人でも、たった今、ステルス感染しているかもしれないし、サイレント・スプレッダーなのかもしれないし、これからまもなくして罹患するかもしれないとしたら?

 困りましたね……。

 もう、かつての世界は戻って来ないことになるでしょう。
 ではその世界はどんな世界なのか?

 わたしには想像できます。しかし、とても長くなりそうなので、また稿をあらためて、お話ししてみたいと思います。
 とりあえず『地獄のX島で米軍と戦い、あくまで持久する方法』をアマゾンでポチりましょう。


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兵頭二十八の農業安保論

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ひょうどう偶懐――米政権交代が済んで

兵頭二十八の放送形式 Plus

 合衆国の連邦首長の交代式が、狙撃や爆発物による不祥な騒ぎもなく、おわったようですね。
 気が早いようですが、いきなり4年後の想像からしてみたいと思います。

 共和党はペンス氏をかつぐのではないかと思います。就任式で彼の挙措が光っていた。
 議事堂に突入した暴徒から命を狙われていたというのが、彼の勲章になりました。上院議長として彼は合衆国憲法に忠実に、トランプを斬った。そのさなかに命を狙われていた。こうなると、「俺はイラクとアフガンで負傷した帰還兵だ」と自慢できる候補者に近い資格がある。

 そもそも対中共の公式絶縁宣言を叩きつけたのはトランプ氏ではなく副大統領のペンス氏であったという厳然たる事実も日本人は思い出すべきでしょう。

 民主党の著名人としてはオバマ氏のでしゃばりが目立った。あの老人はまだ現役返り咲き――そして「オバマケア」の完成――の未練を棄ててませんね。精神年齢と肉体年齢が、余っているようです。4年後に向けて、民主党内からかつぎ出す勢力が、現れるかもしれません。

 それと、クリントンの女房は、どこへ消えた? かんぜんに燃え尽きちまったんだな、4年前に。映画界とTV業界は罪つくりなことをした。あれだけアバターを活躍させて、支援射撃があって、それで大落選。《胴上げ殺人》みたいなもん。そして今は、誰もインタビューに行かない。ひでえ………。

●マシーン投票と郵便投票の区別がつかない日本人たち

 ここ数ヶ月で少々あきれましたのが、《郵便投票では大々的な不正がなされる/なされた》という米国トランプ陣営の主張を鸚鵡返しに増幅した日本人の多さでした。中共の情報工作であやつられているんだとしたら、大したもんだと思います。

 わたしは過去記事で数回、ペーパーレスの「マシーン投票」は危険だというMIT系の警告をご紹介してきました(これは大統領選のずっと前からです)。
 ペーパーレスだと、あとから検証しようがないのです。

 しかし郵便投票制度は、「紙」が残されるんですよ。「紙」が現存する以上、あとからチェックすることができます。再集計がいくらでもできる。
 もし「紙」が行方不明になれば、その数量も把握できます。
 その「あやしい」数量が、もし州の投票結果を逆転できるくらいに多ければ、それも隠すことはできません。

 こんな単純な理屈が理解できんという人が多いことに驚いた。
 不正の規模が、州の投票結果を左右できるくらいに多い、という主張を prove できなかったから、トランプ陣営の訴えはすべての裁判所で退けられています。
 紙の証拠力に、負けたのです。

 こんかい騙された人に老婆心ながら忠告したい。あなたはデジタル時代にデジタルに騙されやすいから、できるだけ紙を頼って生きなさい。決済は「日本銀行券」と小銭でしなさい。銀行では常に冊子の貯金通帳を、有料でも惜しまず作ってもらうといいよ。通信環境ではFaxを導入し、維持しなさい。
 いまはデジタルに対応できているとあなたは思っているが、あなたが老人になれば、ついていくことは不可能です。あなたは巧妙な詐欺の被害者になり得ます。
 そんな老後にも安心して頼れるのは、紙だけですから。

 旧通産省系の軽佻浮薄な役人は、ガソリン車を禁止しようというのと同じノリで、ペーパーを禁止しようとするだろう。国民よ、抵抗せよ。騙されるな。トヨタさんも先手を打ってオレを対抗宣伝者として雇用すればよかったんじゃない? 公式に政策化しちまってからじゃ、もう遅いけどね。

●もといじめっこが隣に土地を買って豪邸のあるじになったら?

 無職ニートがトランプファンになるというのは、アリでした。
 しかしその人々にはトランプに投票しない人の心理がわからないだろう。
 《こいつが自分の上司になったら、自分は堪えられるか?》ってことを、有職ホワイトカラーは、頭の中で想像します。そして、それは絶対に無理だと結論されたのです。
 トランプ政権の4年間で次々にクビにされた閣僚や高級スタッフたち。
 この、馘首免黜された面々の心境に、有職ホワイトカラーは、同化できていました。
 その想像ができるグループとできないグループの間の断絶は、埋めようがなかったのです。

 プロスポーツの世界で尊敬されるのは、「グッド・ルーザー」の態度でしょう。実力があった現役スーパースターが、ライバルに遂に負かされるときがくる。プロにとっての真の見せ場は、そこです。敗れて去る者をいかに格好好く、観客に対して自己演出できるか。人々はそこを見ている。
 プロたるもの、ふだんから、そういうことを考えてイメージトレーニングしていないと、ダメなのです。
 ドナルド・トランプにはそれがまったくできないんだということが、ここ数ヶ月で、彼の支持層だった人々の目にも、ハッキリしてしまった。
 それで、これまでは左翼からの悪意ある宣伝だろうと疑われていた話の一部が、じつは真相に近かったんだと信じられるようになった。すなわち、高校~大学時代のトランプは、不正競争し放題の、誰からも尊敬されない、ガタイのでかいいじめっこボスだったという話です。
 勝負に負けたのに負けを認めない奴――です。誰も、そいつと一緒にいたら愉快だろう、とは思いません。

 その性格が、成人しても直っていないとしたら? 有職ホワイトカラーは、そんな人物と同じオフィスにいたくないなと想像するだけです。トランプ氏の4年後のカムバックは考えにくいでしょう。「バッド・ルーザー」の見苦しい姿を、彼はさらしすぎたようです。さようなら。

●ナヴァロさんのこと

 学校時代のいじめっこが町内会長になったら困るでしょうが、他国の外国元首だったなら、そんなの関係ねえ、ですよね。ぜんぜんオッケーだ。
 米国の外交政策のアウトプットが、日本に有利で、儒教圏に不利なら、安全・安価・有利の三拍子で、日本人にとり、まさに大歓迎。何の不満もあるわけがなかった。
 そのアウトプットがでてくるブラックボックスが愉快なものか不愉快なものかなんて、日本人には、どうでもいい話でしょう。

 これまでそのブラックボックスを支えてきたのは、ナヴァロさんでした。政権内で厚遇されていたとはいえないが、トランプ氏個人にあくまで忠誠を尽くすという態度を維持したので、最後まで干されずに済んでいます。日本政府はナヴァロ氏に勲章をやらなければダメだ。

 しかしナヴァロ氏個人が払った犠牲は大きかった。《選挙は盗まれた!》という親分の主張をそのままサポートしてました。テレビインタビューで。

 近代空間とは、公人が公的な嘘をついたら恥じなければならない空間です。ナヴァロ氏はその空間から逸脱した。近代人ならば葛藤します。(儒教圏人は近代人ではないので、葛藤しません。)

 しかしこういう「会社役員」の姿にも、有職ホワイトカラーは同情しますよ。『オレにはそこまでできんわ』と思った人が多かったでしょう。
 ボスに忠義を貫かないと、じぶんの昔からの主張を公式の政策にして世の中を変えていくことができない。権力機関のインサイダーとして、ありがちな、板ばさみ。
 ボスがこんなにクレイジーでなければ……と心の中ではナヴァロさんも思っているのでしょう。有職ホワイトカラーはそこには同情したと思います。

 バイデン政権の対支政策ですが、これも、方向を決めるのは「とりまき」です。その「とりまき」の姿はまだ浮揚していません。論評するのは早いでしょう。

●巨大SNS会社は反トラスト法でバラバラにされる

 もし第二のトランプを狙う候補がこれから選挙運動をしていくのならば、じぶんの「テレビ局」をもたないとダメでしょうね。超マイクロTV局でいいはずです。
 その「テレビ局」でまずじぶんの発言を発信し、その動画を、誰でも自由にインターネット空間でコピペ共有していいよ、ということにするのです。
 この流儀なら、ツイッターその他から選挙戦の途中でいきなりアカバンされても平気でしょう。

 あと、日本のカネ余り大企業は、日本国内に「巨大サーバー」を構築する事業に対して投資すれば、それで国際的な大きな商売ができることに気づいたのではないかな?
 巨大サーバーに使われているのは、グラフィックボード。その集合体は「AI」としても機能させることができます。チップの量産工場は、やっぱり必要みたいですね。

 巨大サーバーは冷却コストが馬鹿にならないので、北海道に誘致できるでしょう。オレが夕張市長だったらまっさきに手を挙げて「炭坑跡の地下空間を、サーバー施設に使ってください!」と申し出るよ。

 世界最高速のコンピュータなんてどうでもいいんだ。米国から制肘されない巨大サーバーを複数、北海道内に構築することが大事。これがきっと日本を救うことになると予感します。

(管理人Uより)

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 そして、YouTube動画制作が出来て函館市近郊にお住まいの方を変わらず募集しています。経費のいくらかは私が負担するつもりです。
 絶対条件が『函館市内にすぐに行ける方』なのです……。よろしくお願いします。


みなさまのご質問等に、じゃっかん、答えむとす。

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■みなさまのご質問等に、じゃっかん、答えむとす。

 「防衛大綱」はどう変わるのか。また、どう変わるのがよいのか?

 地ージス計画がキャンセルになったので、その穴埋めの方針が示されないと格好がつきません。合理的なのはイージス艦の定数を増やしてしまうこと。……ですが、三自衛隊の中で海自予算が突出してしまうのが部内的にまずいと思われるのでしょう。それに、艦を造っても、そこに配乗させるべき隊員が足りるわけがないんです。

 いくつか、解決方法があります。BMD任務専用の機能限定版・廉価版のイージス・プラットフォーム艦をこしらえるという方法です。対潜任務や対水上艦任務などは原則として考えない。機関は30ノット出さなくてよく、25ノット対応の高速コンテナ船用のディーゼルでいい。もちろん艦隊の旗艦にもさせません。そして作戦展開海面は、日本本土の太平洋側に限ってしまう。必ず護衛の駆逐艦を1隻、つきそわせるんです。それは既存の、各軍港固有の小型防備艦でじゅうぶんです。

 思い切った設計を許せば、必要人員を数分の一にできるはずです。
 でも、日本人の悪い癖で、「思い切って割り切った設計」が、できないんですよね。つい、くだらない余計なことをいっぱい、盛り込んでしまう。オフザシェルフのコンポーネンツも選べない。臆病だからです。それで、オリジナル・イージスと値段がほとんど変わらなくなり、要員もほとんど減らないという結果は目に見えていますから、まあ、この方法は駄目でしょうな。

 「大綱」には「敵地攻撃」を謳うべきか。

 原則論として謳うべきでしょうね。

 具体的に何によってどこを攻撃するかですが、モノには順番があります。
 まずは開発中のハイパーソニック弾で大連や青島の在泊敵空母を直撃できるようにしておく。プラットフォームは呉の護衛艦でいいでしょう。
 これが第一ステップ。とても重要です。
 弾頭は無炸薬。ソリッド弾です。それを都市に撃ち込んでも大量破壊兵器にはなりません。

 この能力を整備できるようになったら、そのあとから、次の第二ステップとして「報復能力」の付与でも考えたらいいことなのです。そこではじめて、弾頭部分に別な《物質》を載せることを検討できるようになる。

 モノに順番がある――とは、このことを言います。
 こちらの領海内の軍艦から発射して敵地心臓部までリーチが届く運搬体、すなわち現状では現実解となるハイパーソニック弾を保有する前に、「報復能力」の話をすれば、諸方面からの雑音で、話は半歩も前進しないでしょう。
 夢物語(それには「核武装論」が含まれる)を語らず、まず即応できる「手段」を確保する第一ステップに集中することです。

 地対空レーザー砲は開発すべきです。それによって、「火球」が接地する、《地表爆発モード》での敵の核ミサイル攻撃プランを抑止できるからです。詳しくは拙著『東京と神戸に核ミサイルが落ちたとき所沢と大阪はどうなる』を読み返してみてください。げんざいの米国内のレーザー砲の性能は、あのときと比べて、じゃっかん、向上している程度ですが、《日本政府も開発に乗り出した》というニュースは、世界におけるわが国の評判を高めます。人気が出るんですよ。ここが自民党や三菱や外務省のおっさんらにはいつまでたっても分からんところですね。
 そんな大人気の日本国の「大綱」に文句をつけられるのは、反近代諸国だけ。敵の宣伝工作は、おのずから効きが悪くなるでしょう。

 「新大綱」と、そのゆくすえを妨害する敵国発の宣伝工作を、わが国は、どのように、払いのけられるでしょうか?

 これはNHKが衛星放送を無料化すれば、ただちに実現するでしょう。

 とにかく地上波が癌です。新型コロナウイルスや砂漠トビバッタ以上に日本人に不利益をもたらし惨害に誘導して飽くことをしらないのが、地上波テレビ放送だと言えるでしょう。これを撲滅し去るには、視聴者の選択自由度を拡大する、インターネット番組やCS番組にがんばってもらうしかありません。

 NHKの衛星放送無料化は、げんざいテレビを地上波しか受信していない底辺層を、精神の地獄から救済するでしょう。

 NHKにどうやって衛星放送を無料化させるかについては論じません。日本人は馬鹿ではないので《課題》さえ明確に呈示されたなら、あとは、良いアイディアがいくらでも、どこからでも出てくるのです。《課題》はもう、把握されたんですから。

 最近の、オススメの映画やドキュメンタリーはあるか?

 ないですね。いくつか感心したものはあるのですが、タイトルを覚えてない。すいません。トシですね。
 基本的に時間を惜しむので、わたしはすべて録画再生で視聴しています。ダレ場を、どんどん飛ばせるのがいいですよ。

 フィクションの映画については、最近、じぶんでおそろしいと思うことがあります。でだしのテムポが悪いものは、もうその先を観る気がまったくしないのです。再生を止め、消去してしまいます。そんなものは一生、観なくていい、という心境になっているんです。
 むかしの白黒映画でも、でだしからテムポが良いものがあります。ぎゃくに、近年の有名タイトルの映画でも、それの悪いものがある。創作の自由ですから、作り方に文句をつけたいわけじゃない。単に、視聴しておつきあいすることが、無理になってしまった。ノンフィクションの番組でも、これは同じです。

 スマホで見るインターネットのニュースも同じです。最初に要約が書いてなくて、「次のページ」をクリックする必要が5回ぐらいあるようなページ構成のニュース記事がありますが、もう、ノーサンキューです。途中で何度もCMを消さなくてはいけない構成のウェブページも同様。

 人の時間を、無駄にさせたらいけないですよね。みんな忙しいんだから。その貴重な時間を戴くんだから。そういう価値観を共有している人が作ったウェブページを読みたいと思っています。

 トランプ大統領は再選されるんでしょうか?

 再選の可能性は高いと思いますよ。民主党の敵手バイデンは、現役の副大統領だった時代、軍人の間ですっかり「馬鹿バイデン」として定評がありましたからね。マクリスタル・スキャンダル当時の記事を読み返してみてください。軍人は誰もバイデンなんかをボスにすることは望んでないでしょう。トランプも無茶苦茶らしいが、バイデンよりは耐え得る……と思われているはずです。

 アメリカの今の混乱は「ホルモン異常」がその根底なのではないかと私は疑ってます。みんな、筋肉付け過ぎ+肥り過ぎ でしょう?
 野生の熊の筋肉は冬眠中も衰えません。その必要があるからです。熊にとってはそれが健康。しかし人間は、使わないでいる筋肉は、運動系だろうが心臓だろうが、すぐに衰えるようにできています。その方が健康なんだと進化の過程でわかっているからでしょう。
 いったい、飢餓と隣り合わせではない今の米国社会で、肉体労働者ではない者が、「肥満マッチョ」になって、何を達成したいんだ? 「銃未満」の暴力が増えるだけじゃないか。その姿が、かれらじしんで見えていないのも、すでに人間が人間以下の動物のお仲間になりかかっている、ホルモンに支配された病的社会だからなのではあるまいか――と、思われてなりません。


(管理人Uより)

『兵頭二十八の放送形式 Plus』は当サイトが兵頭先生へお金を払って記事を発注する企画です。


 今回は皆さんより『お題』を募集しました。
 メッセージ下さった皆さん、ありがとうございました。『あ、自分の質問だ』と思われた方は、ニヤリとして下さい。
 今回『お題』とならなかったメッセージに関しては、次回以降の参考とさせていただきます。


兵頭二十八、没シリーズ『アメリカ大統領戦記』の企図を回想する。

兵頭二十八の放送形式 Plus

兵頭二十八、没シリーズ『アメリカ大統領戦記』の企図を回想する。

 シリーズ企画そのものが第二巻を以って中止となっております『アメリカ大統領戦記』ですが、筆者の関心はどこにあったかというお話をいっぺんしておこうと思います。
 と申しますのも、ただいまの新コロ流行を見ておりますと、第三巻に予定していた「1812米英戦争」を単発企画としてまとめあげられる日も、わたしが生きているうちにはもう来ないのじゃないかという予感がするからです。

 本シリーズは、米国の戦史をありきたりになぞろうとする企画ではありませんでした。

 20世紀の超大国となる運命が最初から決まっていた――なにしろ絶頂期の大英帝国と戦争して勝った――若い国家・アメリカ合衆国の最高指導者層には、どんな資質があったのか。
 それを日本国民が知らないのは、話にならぬことだと考えていました。

 歴代の米国大統領は、キャラクターが選挙に向いていて、しかも戦争指導ができなければなりませんでした。1930年代以降は、それに加えて経済福祉にも長じていなければ当選はできなくなります。

 どれもこれも、20世紀の日本の指導層には欠けた個人資質でした。
 この個人資質の落差のほどをわきまえないで、旧軍のエリート幕僚らは、米国留学組までも、そろって米国の戦争対応力を下算し、ほとんど日本を破滅させかけた。
 しかも戦後にその知識の欠損を埋めた形跡が見られないのです。

 第二次大戦は、《世界知》の足りない国民(日本人)が、《世界知》で上回っている諸国民に戦争を仕掛けて勝手に自滅した戦争です。FDRは日本のことなんかに関心はありませんでした。そんなに暇じゃなかったんです。日本人の方で一方的に「アメリカは日本を殊更に憎んでイヤガラセをしてくる」と思い込んでいた。ほとんど朝○人と似たような反応パターンでした。
 「日本の指導者は他と比較してあまりに無知であった/今も無知である」という自己判定も、今日なお、十分にできているとは思えません。敵を知らずに、己れも知らない。この認識欠損が埋められないままでは、戦後何年経とうとも、同じような自滅を際限なく繰り返すおそれがあります。

 本シリーズは、そのような国家間の知識ギャップが生み出す非生産的な諸事件を将来にわたって回避させる啓蒙書ともするつもりでした。
 版元さんに提案したときのシリーズ構成は、以下のようにするつもりでした。

 第一巻 独立戦争と George Washington

 第二巻 対英抗争から主権拡大時代
  John Adams ・ Thomas Jefferson ・ James Madison ・ James Monroe ・ John Quincy Adams ・ Andrew Jackson ・ Martin Van Buren ・ William Henry Harrison ・ John Tyler ・ James K. Polk ・ Zachary Taylor ・ Millard Fillmore ・ Franklin Pierce ・ James Buchanan

 第三巻 南北戦争と Abraham Lincoln

 第四巻 ラテンアメリカの制圧と太平洋への進出
 Andrew Johnson ・ Ulysses S. Grant ・ Rutherford B. Hayes ・ James A. Garfield ・ Chester A. Arthur ・ Grover Cleveland ・ Benjamin Harrison ・ Grover Cleveland ・ William McKinley ・ Theodore Roosevelt ・ William Howard Taft

 第五巻 第一次世界大戦から暗黒の木曜日まで
 Woodrow Wilson ・ Calvin Coolidge ・ Herbert Hoover

 第六巻 第二次世界大戦と Franklin D. Roosevelt

 第七巻 核時代の大統領
 Harry S. Truman ・ Dwight D. Eisenhower ・ John F. Kennedy ・ Lyndon B. Johnson ・ Richard Nixon ・ Gerald Ford ・ Jimmy Carter

 第八巻 ソ連の消滅と世界経営
 Ronald Reagan ・ George H. W. Bush ・ Bill Clinton ・ George W. Bush ・ Barack Obama

 しかし、武力衝突の勃発の地レキシントン以下、名前だけは――専ら航空母艦の艦名として――知られていますけれどもディテールがロクに伝わってはいない個々の会戦の経過確認にツイのめりこみました結果、計画の第一巻が、前・後2巻に膨脹。
 英国を遂に投了させたヨークタウン攻囲戦までまとめるのに、2年かかってしまいました。

 「War of 1812」というのは、どこかなげやりな響きのある呼称です。米国人は、この《引き分け戦争》を思い出したくないのでしょう。実際には講和が1814年末、戦闘は1815年まで続いた(大西洋の通信手段が帆船しかなく、遅かったため)という、米英間の相当規模の正規戦争です。ちょうど欧州でナポレオンがロシアで消耗してイギリスが最終勝者とはなったものの、疲れも出たという潮時に重なっていました。

 米国では、指導者層だけが、この戦争を記憶しようとし、この戦争から何かを学習しようという姿勢を持っています。上陸してきた英軍部隊のために焼き打ちされてしまったホワイトハウスの焦げた部材が、今も保存されているのはその象徴です。

 いろいろな意味で「転機」になった戦争でした。
 たとえば合衆国の指導者層は、英帝国の強さの中軸に大海軍力があるのだという、誰も秘密になんかしていなかった事実に、苦戦のさなかに気づかされました。

 はるか後のセオドア・ローズヴェルトも、政界を目指し始めたばかりのハーバード学生時代に、1812戦争の海戦データを徹底検証するマニアックな独自研究に打ち込み、それを公刊したことで、いきなり、海軍の問題にやたら詳しい将来の有望な国家指導者候補――としてまずエリート階層間に認知されるのです。このテディの方が、地政学者としてはマハンより格上だったという話は、拙著『地政学は殺傷力のある武器である。』でしておりますので、御覧ください。

 じつを言いますと、わたしが大統領戦記シリーズを出版社に提案したのは、この「1812戦争」までをじぶんなりにまとめてみたかったからでした。正直、これ以後の戦争は、書けなくてもいいやと思っていた。ラ米干渉戦争の局面ぐらいしか、時間を使って広範な調査をしてみたいという欲望も、かきたてられなかったんです。

 それはどうしてかといえば、たとえば南北戦争でしたなら、「全日本南北戦争フォーラム」の小川寛大さんたちのような本当に物好きな人たちがすでに大活躍をされているわけです。事実の紹介に関しては、わたしなどが後から出る幕じゃないという気がする。いやもちろん南北戦争やWWIの米軍についていっぺんじぶん流に総括をしておくのが無意義なはずもないんですけれども、一度しかない人生の時間を割いて投入するからには、やはり、前人未踏の分野の方を、選びたいと思いませんか? (ボーア戦争の本を書いてみたいと思っているのも、同じ動機に基づいています。誰も書くわけない、というところが、わたし的には、面白いわけ。)

 ここで、せっかくの機会ですので、だいぶ前に第三巻を書くために英文ネットで調べてメモ書きしておいたテキストを適当につなげ、梗概式に、1812戦争の片鱗なりとも、ご紹介しましょう(他史料によるチェックをしておらず、また、兵頭の意見も含まれていませんから、そこはご承知ください)。

 1812戦争勃発時の大統領は、第四代のジェイムズ・マディソン。
 フランスとの交易を洋上で実力で妨害されたり、米国人船員を拉致されたり、北米インディアンに武器を与えて反米ゲリラ戦争をけしかけたりするので、アメリカの方から怒ってイギリスに宣戦布告した。
 だから、「マディソン氏の戦争」と、呼ばれたりもする。

 国防長官は、ジョン・アームストロング。彼は、英軍は一寒村にすぎないワシントン市になど来やせんわ、と請け合った。
 やってきたのは、ナポレオン相手の戦争で歴戦の「ウォー・マシーン」となっている英兵4500人。
 合衆国はとっくに正規軍など解散させていたから、慌てて5500人のミリシャを集めた。しかし当時のミリシャは、訓練も戦争経験もゼロに等しい烏合の衆。だいたい訓練は年に一度。それも、隊内の互選で選ばれた大尉が、中隊を飲み屋へ引率し、そこで1日潰しておしまいだった。

 こうなった責任は、前任のジェファソンにあった。ジェファソン大統領は、税金を安くし、連邦政府を小さくした。連邦海軍もゼロにした。米国を弱くする政策ながら、有権者からはウケがいい。マディソンは、このジェファソン路線を継承した。人気取りのために。

 前半の主戦場は五大湖とカナダ国境。米国人有権者は、カナダを併合する欲得戦争として開戦を支持していた。
 米国人がこの戦争を忘れたがっているのとは反対に、カナダでは、この戦争がとてもよく記憶されている。カナダ国民は、この戦争で一体となったから。

 英帝国は、1813年にチェサピーク作戦で反撃。そのさい、黒人奴隷を軍艦に拉致したが、黒人からみたら、ありがたい「解放」だった。

 合衆国の首都防衛責任者は、軍歴のパッとしないワインダー准将だった。政界の「おともだち」人事で抜擢されたワインダーは、無能ぶりを遺憾なく発揮した。

 たてなおしたのは、国務長官のモンロー。彼が第二線を構築した。

 攻め手の英軍は、陸軍のロス将軍と、海軍のコックバーン提督。
 防禦軍は、軍靴もなければフリントもない、そんな無準備状況だった。
 マディソン自身も、ピストル2梃を肩からかけて、駆けつけた。頭上を、英軍の新兵器であるロケット弾が飛翔した。
 ミリシャは隊列を崩して潰走し、そのまま自宅まで逃げ戻ってしまった。

 ホワイトハウスでは、大統領夫人ドリー・マディソンが午後3時にディナーとするのが日課だった。その準備中に解放奴隷が馬で駈けて来て、「みんなにげろ~! アームストロング将軍の命令だ~!」
 夫人がくだした決断。ジョージ・ワシントンの肖像画のカンバスだけはがして、別な場所へ隠しなさい。もしダメなら破壊し、けっして英兵の手に渡してはなりませぬ!
 おかげでそれは、いまもある。

 続いて住民がおしよせて、銀器などを略奪して去ったという。

 英軍は「放火」には慣れていた。家具類をホワイトハウスの建物内の数箇所に積み上げ、火薬を振りかけて、点火。ジェファソンがパリで購入した家具もこれで灰になった。

 英軍はついでに国会議事堂も焼いた。財務省と陸軍省の建物も焼いた。

 コクバーンは、新聞社の活字の「C」を全部、押収させた。だからアメリカ人はコクバーンの悪口を書けなくなった。
 港内にあった軍艦は、アメリカ人自身の手で自焼させられた。

 英軍は公共施設を焼き打ちしたけれども、米国住民の私有財産には手はつけていない。強姦も無し。特許局は保全された。そこは、文明国間の戦争だった。五大湖のこぜりあいからも、戦時国際法上の重要な前例が生まれているほどだ。

 街のあちこちが火災となった。住民は寝ずにそれを見物した。
 マディソンはヴァジニアへ逃げ込んだ。
 民衆は、大統領夫妻を罵ったという。
 マディソンは、ホワイトハウスの図書室が焼かれたかどうかを気にしていた。焼けたに決まっていた。

 英軍はすぐに軍艦に引き揚げた。そしてポトマックを遡上して次の都市を目指した。
 司法長官はモンローを急かした。早く政府としての公式声明を出せ。さもないと英国がストーリーをでっちあげてしまうぞ。
 そこでこの大敗は、あたかも偉大な勝利のように宣伝された。これはアメリカの伝統となった。

 どちらも疲れていたのでゲント条約はすぐ結ばれた(1814年12月)。おおむね、開戦前に戻す。
 この知らせが本国に届く前に、アンドリュー・ジャクソンはニューオリンズの陸戦で大勝利していた(1815年1月)。一躍有名人になったジャクソンは、将来の大統領候補に。

 近年、メキシコ湾の英軍の指揮をとったパケナム少将に対する英本国からの秘密命令が、ロンドンで発掘されている。もし講和の話を聞いても、関係なく戦え、と。
 それによると、英政府は、対米講和に関係なくニューオリンズを占領し、それによって合衆国のルイジアナパーチェスそのものを蹂躙しようという企図を蔵していた。
 英国は、ナポレオンがトマス・ジェファソンにルイジアナを売った契約は無効だと考えていたのだ。
 けっきょく、英艦隊はモービルに退却した。それ以後、米英間では戦争は起きていない。

 マハンやセオドア・ローズヴェルトの世代にとって、「1812戦争」を調べることは、今のわたしたちが第一次大戦や日露戦争をあらためて調べるような努力です。しかしそれが国家の方針策定のためにとても有意義であることは、米指導層の間ではちゃんと理解はされていました。
 以下、それに関するメモ書きも、羅列してみます。

 アルフレッド・マハンは1890年に『The Influence of Sea Power upon History, 1660~1783』を書いたが、続編の1812戦争の部分はほぼテディの研究の受け売り。すなわち、1811年以前の海軍政策が不都合だったから、英国から舐められ、外交が成功せず、まずい開戦を余儀なくされたのだと。

 マハンの大著は、英国が一躍世界帝国になったのは全く海軍力のおかげなんだと主張した点で、革命的だった。テディもそこまでは言ってなかった。
 マハンいわく。英国が海軍を強化していたときに、フランスその他はそれにおくれをとった。だから英国が世界の勝者になった。

 1781年のヨークタウンの決着についてのマハンの考え。
 フランス海軍が海岸を制圧していたので、英軍は脱出できず、増援も受けられず、降伏するしかなかった。
 その時点では、海軍に関するフランスの政策決定が、ものすごく正しかったのだ。
 ぎゃくにナポレオン前後のフランスの海軍政策はなってなかった。だから負けたのだ。

 強調したこと。世界最大の艦隊を持て。その艦隊は戦艦で構成しろ。
 どんな陸軍も海軍による封鎖には勝てない。
 マハンはこの主著のあと20冊書いているが、いずれも最初の本の補論である。

 マハンは、リトラル戦争を考えていた。海からの陸戦支援は圧倒的であると思っていた。
 マハンは多国間の自由貿易システムも考えていた。そのシステムのための、米国の制海権。

 マハンの主張。将来どんなに海軍関係の技術が進歩しても戦争には不確実部分が残る。だから未知の将来に直面する海軍士官がどこまで偉くなり得るかは、表層的ではない歴史の読み込み努力如何にかかっている。
 新案を得たいか? ならば古い本を読め!

 マハンは南北戦争中、小艦を指揮して南部のブロケイドに従事していた。海戦には遭遇していない。

 後日、南北戦争におけるカリブ海やミシシッピ河、レッド河(テキサスとオクラホマを南北に分ける大河で、ニューオリンズの少し上流でミシシッピと合流している)の作戦について、本を書かないかといわれた。

 それがマハンの真の最初の本『The Gulf and Inland Waters』であり、それは1883に出版されている。
  ※この本があったから1886にいきなり海大校長なのだ。

 1815までの海戦史を書き上げたところで、マハンは次に、北軍の提督の伝記を書いた。
 1897刊の『ファラガット提督』は、マハンがリトラル作戦+大河作戦を総括する才能をまたしても示した。

 艦隊を欠いた南部軍は、内陸の河川すら思うままに利用ができなかった。
 北軍は、海陸合同作戦により、あっさりとニューオリンズを占領してしまった。モービルも。
 このジョイント作戦能力が北軍の勝利の一大要因なのだとマハンは見る。

 マハンは強調する。揚陸作戦というのは、モタつくものであり、艦隊の行き足は止まるし、一地点に拘束されて自由がなくなる。そこを攻撃されると艦隊がヤバいことになる。だから、完全な制海権を握った側だけが、アンフィビアス作戦ができるんである。 ※海大が所在するロードアイランドの攻防がまさに好戦例。地元だから史料もいくらだって残っていたはず。居ながらにして現地地形を確かめることもできただろう。

 コルベットが、マハンは洋上決戦にばかりこだわったと難じたのは当たっていない。水陸協同作戦の前提が、制海だったのだ。

 マハンは1885にローマ史を読んでいて、大発見をした。と自分で回想している。
 カルタゴはどうして海上機動しなかったんだ? とマハンは思ったわけだ。
 このパターンは、17世紀後半から18世紀の欧州列強の戦争にすべてあてはまるとマハンは見た。

 マハンが海軍史論家として知られるようになる1890年代、アメリカ大陸の経済発展の可能性は終わったのではないかと人々は疑った。
 1893にウィスコンシン大学の教授が、フロンティアの消滅とその後に来る社会停滞を警告した。
 国内人口の爆発が止まったのだから、あとは、国外の市場を元気満々に開拓するしかないぞと。

 マハンは、産業革命をおえた東部の工業製品は、たちまち国内では売れないほど製造され、あとは海外で捌くしかないはずだと見通していた。
 では、海外の市場へのアクセスを担保するものは何か。それは合衆国政府の強制能力であり、それは具体的には「商船隊」「戦艦をズラリそろえて列強海軍を圧倒できるだけの米国海軍」「グローバルに給炭港の連鎖を設定し、かつ、維持すること」の三本柱だ。

 海軍のための中継基地整備を重視したのは、マハンの創見ではない。南北戦争直後、ウィリアム・シューアード(またはスーアード)国務長官(在任1861~69、つまりリンカン政権からジョンソン政権)は、アジア貿易航路の中継港とするためにアラスカを1867に購入。さらにハワイと条約を締結してハワイ経済をがっちりと米国経済にしばりつけた。

 のみならずシューアードは、カリブ海にも適当な港湾拠点を買収しようとした。
 そしてシューアードは最後に、コロムビアのパナマ地峡地区に運河を建設する条約を議会が批准せよと求めた。

 しかし南北戦争後の大課題は南部の再建であり、上院はとてもそんな余裕はないとしてシューアードの目論見をすべて潰してしまった。
 スペインとの敵対が始まった1898-5に、マキンリー大統領は、上下両院の合同決議によって、ハワイ併合を決めた。
 それに続いて、対スペイン戦争の完勝。

 これでマハンの欲した給炭港チェーンはかなり揃った。すなわち、プエルトリコ、グァム、比島である。
 その5年後、米国はキューバから、グァンタナモ湾を永久租借した。※スペインから独立させてやったのだから、そのくらい見返りに寄越せ、というわけか。

 マハンは、海上貿易は、富を蓄積する捷径であった、と強調する。
 制海権のある国家は、戦争になれば、世界中の戦争資源を決定的な場所に集中してくることが、簡単にできる。
 だからこそ、平時においては、それのできる体力ある国家は、できる限り強力な海軍を建設すべきなのである。

 巡洋艦によって洋上で敵国商船を1隻づつ発見して破壊し続けたところで、敵国の全商戦隊の活動を止めることはムリである。

 敵国の主要港をブロケイドすることによってしか、敵国の通商を機能停止させることはできないのだ。そのブロケイド艦隊は、相手国が戦艦艦隊をさしむけてきたときにそれを撃攘できるだけの交戦力をもっていなければ話にならない。つまり、ブロケイド艦隊も戦艦で構成されていなくてはいけない。

 ※マハンは機雷を無視する。南北戦争時代から、米国はロシアにならぶ機雷技術国になったのだが……。

 ブロケイドを続けるためには敵艦隊を全滅させねばならん。ブロケイドを破るためにも敵艦隊と海戦しなくてはならん。ということは、軍艦は戦艦だけが必要なのだ。これが、マハンの結論。

 ※ブロケイド突破は水雷艇でもいいというのがコルベットの反論か。現代では、地対艦ミサイルがあるから、水上艦によるブロケイドなんて考えられない。

 欧州列強間の植民地主義的競争は、1880年代から熾烈化した。

 蒸気動力により、鉄製船体の商船を動かせるようになったことが、富の稼ぎを莫大化しつつあった。穀物や鉄鉱石などのばら積み輸送の効率が格段によくなったので。

 ネルソン伝と、1812年戦史の2冊においても、マハンは自説を補強する事例をあつめてみせている。
 この2冊のテーマを述べるならば、「英国はいかに世界支配勢力に成りあがったか」。それに尽きる。

 ※兵頭いわく。「国家の地勢の封鎖されやすさ」「封鎖されたときの困りの程度」が大事で、英国はそのどっちでも強い立場だった。

 マハンは米国政府のための最良戦略だけを考えた。
 マハンは、アメリカが19世紀英国のように海軍強国となり、20世紀の世界ナンバーワンとなることを望んだ。イギリスの真似をしてくれ、と。

 英国が、商業大資本と結託したエリート支配政体だったときは、海軍に大投資がなされた。ところが、小資本の民主制に傾くにつれ、英国の海軍予算は減らされた。
 その結果、20世紀の現在、英国は、世界の海上貿易を仕切れなくなっている。

 マハンの見解では、いかなる民主主義国も1国ではこの負担は仕切れない。
 そこでマハンは言う。20世紀の海洋の自由は、複数国の協同によって実現するより他にないと。
 これはあらたまった条約では実現しないだろう。政治的な利権の衝突、紛争が無い状態が、しぜんに実現してくれよう。

 マハンは結局、英米合同で世界の海を仕切れという結論だ。米国は弟分として、英国についていく。
 米国がこの役割を演ずるなら、巨大海軍は必要ない。
 英国が欧州との戦争で海軍力が劇的に弱まってしまったという場合をのぞき、米国は、世界一海軍を目指す必要はない、とマハン。

 マハンが予期した事態。西側連合が、拡張主義ロシアを封じ込める。英独戦争。そして、欧州文明とアジア文明の衝突。

 マハンは米国が世界の単独最強海軍国になるとは予期しなかった。
 マハン自身は海軍兵学校で、木製帆船+前装砲で教育された。
 彼が退役するときは19世紀末で、軍艦は蒸気動力。砲熕は後装式になっていた。
 1880年代から米海軍は組織として巨大化する。そのため行政的人材がもとめられ、気質は官僚化した。海戦野人ばかりが必要ではなくなったのだ。

 彼の父デニスは、戦争では高級指揮官がいちばん重要なんだと常々語っていた。
 デニスが言いたかったことは、戦場では指揮官は、不完全すぎる情報をもとに、敵よりもできるだけ早く、判断と決心をしなければならんということ。これは、どんなに補助機械が発達しても、指揮官の苦労としては、存在し続けるはずだ。

 では若い将校の卵はどうしたらいいか? 父デニスの結論は、とにかく過去の作戦史をたくさん読んでおきなさい。それしかない、と。
 マハンが自分の作文を最初に活字にしたのは、1879年のことで、そこで何を論じたかというと、海軍の教育は間違っていると。技術偏重だと。もっと人文系素養を身につけないとダメだと。

 危険と不確実に直面しながら判断と決心をする。そのモラルの質を涵養しなくては。
 マハンは後期には、景仰される指揮官を育成する方法にも関心を示した。
 マハンは主著の中でも、技術よりも人のよしあしが海戦を決めると強調している。

 指揮官は、あとで法的に処罰されるかもしれないというリスクのジレンマにも直面する。
 エンジニアにはそんな心配はない。だからエンジニア教育ではだめだ。また官僚は、ものごとを遅くするのはいっこう平気で、自己責任の分散にぬかりがない。そんな人間を製造しても戦争には勝てない。

 マハンには、では主力艦はどう設計すべきか、といった具体的デザイン力はなかった。
 マハンはフィッシャーの弩級戦艦をけなした。これについてはまったくマハンの負けであった。

 かといってマハンは最新機械が生理的に嫌いだったわけじゃない。
 マハンは、機械の進歩が意思決定の不確実性を解消してくれることはないと強調したのだ。そのエトスを海軍軍人が失えば、その国の海軍はほろびるのだ。

 技術がいくら進歩しても、指揮官の負担は変わらない。頼れる指揮官は戦史を多読してきた者のみ。

 雑なメモであるため、以上の出典を記せないことは恐縮です。※印以外は、わたしの意見ではありません。

 大統領戦記の話をする最後に、フーバー大統領をとりあげましょう。
 大恐慌に対処できなかった無能な指導者……だったんでしょうか?

 やはり、英文ネットから集めておいた雑メモをもとに、ミニストーリーをご紹介しましょう。

 フーバーは1784年にアイオワで生まれた。少年期に両親を亡くしているが、1891年にスタンフォード大に進学。
 土木系の学問を修めて鉱山技師となり、40歳までに海外に5回出張した。

 WWIが勃発したときロンドンに居たフーバーは、中立NGOを立ち上げて、独軍に占領されていた900万人ベルギー市民のために食料を援助した。海上を英海軍が封鎖していたので、英政府と話をつければそれは可能だった。

 彼はウィルソン大統領から食料庁長官に指名され、1917から18まで務め、休戦と同時にヨーロッパにまた出張。
 荒廃した欧州二十数ヵ国のために食料を援助する米国援助局の長になった。
 彼はそこで東から広がる共産主義運動を見た。

 1919-9に帰米。
 パリ講和会議にはウィルソンの上級アドバイザーとして扈従したが、欧州諸国の強欲さに、ほとほと呆れた。
 フーバーは、過去250年間にアメリカと欧州は途方も無く違う社会になってしまったと認識した。
 米国を、他国発案の社会実験の場などにさせてはならないというのが彼の得た確信だった。

 1921にフーバーはハーディング内閣の商務長官になる。

 フーバーの大疑問。なぜアメリカは旧世界とは違うのか? なぜアメリカだけがこんなにユニークなのか。
 その問いに自分で答えたのが、この『アメリカの個人主義』という1冊だった。

 個人主義といっても彼は不羈なレッセフェールを信奉してはいない。ただの個人主義は暴動とイコールだと理解していた。したがってソーシャル・ダーウィニズムではない。

 彼は、「機会の均等」が担保された社会においてこそ、個人主義はプラスの面が極大化すると把握した。
 アメリカ社会も最も大事な理想は、機会の均等だと、フーバーは見切った。

 政府はアンパイアに徹するべきで、政府がビジネスを所有したりするのはいけないことだ。
 大統領となった彼はその信念を貫いたのだが、大不況に対する無策を国民は納得しなかった。

 1933に彼は、まるっきり社会主義でしかないニューディールとの政争がこれから始まる、と予言した。
 フーバー元大統領は1964年まで世界を見届けた。


(管理人Uより)

 右や左の旦那様からのご喜捨は、確かに兵頭先生へ送金されています。本当にありがとうございます。

『兵頭二十八の放送形式 Plus』は当サイトが兵頭先生へお金を払って記事を発注する企画です。

 残念ながら前回同様、決して十分な金額ではありません。私は出版業界の事を全く知りませんが、そう思います。
 激安価格で請け負っていただいた兵頭先生には感謝の一言です。 『アメリカ大統領戦記』シリーズが中止されています。私はその事実がとても悲しい。
 中止されているのなら、その後の『私が気になる部分』をエッセンスだけでも書いてもらおう──それが今回の発注です。

 私が大いに期待し待ち焦がれていたのは、第一次世界大戦終幕から第二次世界大戦開幕直前を描く『大統領戦記』です。狂騒の20年代と世界恐慌を兵頭本として読みたい。
 100年以上遡っての米英戦争も、もちろん読みたいです。しかしあくまで私の一番の興味は戦間期です。

 世界恐慌時にフーヴァー大統領が『何をしなかったのか』、ルーズヴェルト大統領は『どんな情報から何を判断したのか』、それを兵頭本として読みたかったのです。
 コロナ禍により急激に破壊される経済の中で生活すると──もちろん世界恐慌時と現在は違うでしょうが──より一層、そう思います。 

 現時点では『アメリカ大統領戦記』シリーズは中止されています。改めて──私はそれがとても悲しい。何とかなりませんかね? 誰に言っているのか自分でもわかりませんが……。

 『兵頭二十八の放送形式 Plus』をあなたが楽しんでくれたなら──このサイトを作った兵頭ファンの私は、とても嬉しいです。


アメリカ大統領戦記1775-1783: 独立戦争とジョージ・ワシントン1


アメリカ大統領戦記1775-1783独立戦争とジョージ・ワシントン2


「地政学」は殺傷力のある武器である。


東條英機と習近平

兵頭二十八の放送形式 Plus

習近平国賓訪日(予定)記念

(管理人Uより)

 少し前に『こっそり進めている新企画があります』──と私は書きました。このたび公開する『兵頭二十八の放送形式 Plus』がそれです。
 当サイトがお金を払って兵頭先生へ記事を発注しています。激安価格で請け負ってくださった先生には感謝の一言です。詳しくは最後尾に書いています。
 まずは兵頭二十八先生の『東條英機と習近平』をご覧ください。

■東條英機と習近平

 5年以上前に私は、習近平はだんだん東條英機に似てきたので、末路もご同様だろう、という予言を、このブログでしています。
 しかし現代人は、東條英機といってもそれがどんなキャラなのか、まず、知っていない。
 これでは予言のし甲斐もありませんので、東條の一代記としては決定版であると思われる、上法快男編『東條英機』(芙蓉書房・S49刊)の内容を以下に摘録し、それにコメントを附すことで、みなさんにもあらためて考えてみてもらいたいと念願いたします。
 ちょっと長いので恐縮ですが、今後のご参考にはなりましょう。

▼上法快男・編『東條英機』初版S49-11、芙蓉書房pub.
 編者の上法は、M44うまれ、東北帝大の独法科を出て、陸軍主計少佐。陸軍省人事局附で終戦。戦後、芙蓉社の社長~会長に。

 巻末の東條英機略年譜より。
 M17-12-30生誕。
 M30-4-1、城北中学校入学。14歳。
 M32-9-1、東京陸幼入学。第三期生。16歳。
 M35-9-1、中央幼年学校入学。
 M37-6-21、陸士入学。17期。
 M38-3-30、陸士卒。
 M38-4-21、任・歩兵少尉。
 M40-12-21、中尉。24歳。
 M42-4-11、勝子と結婚。
 M44-5-9、英隆うまれる。長男。
 大1-12-13、陸大入学。27期。
 大3-9-23、輝雄うまれる。次男。
 大4-6-8、大尉。32歳。
 大7-2-23、光枝うまれる。長女。
 大8-9、ドイツへ。
 大12-8-13、満喜枝うまれる。次女。
 大14-11-9、敏夫うまれる。三男。
 S4-10-16、幸枝うまれる。三女。
 S7-5-28、君枝うまれる。四女。49歳。

 S23-11-12の夕刻のラジオニュース。東條に絞首刑を申し渡すウェッブ裁判長の声に続いて、どよめきと、笑い声が起きた。ラジオはそれを明瞭に伝えた。

 東京裁判に東條が出した「東條英機口供書」。作製日付はS22-12-19である。S15-7-26に第二次近衛内閣の陸相となってから、S19-7-26に自分の内閣が総辞職するまでの政治活動を綴ったもので、220ページあり、それを清瀬弁護人が翻訳、ブルーエット弁護人が校閲して、法廷で朗読するのに3日間かかった。

 その中で東條は主張した。
 日本はやむをえず自存自衛のため武力を以て包囲陣を脱出するに至った、と。
 東亜解放とは、1世紀前にラテンアメリカ人がラ米の解放のために戦ったのと同様である。
 大8-1から開催されたWWI媾和会議においては、我が国より国際連盟規約中に人種平等主義を挿入することを提案したのだ(pp.10-11)。

 大13-5、排日移民条項を含む法律案が米連邦両院を通過し、大統領の署名を得て同年7月1日から有効となった。
 それより先、豪州はM35に、黄色人種の移住を禁じている。

 S16-12-8に発生した戦争は、米国を欧州戦争に導入するための連合国側の挑発に原因し、「わが国の関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものである」(p.12)。

 「当年国家の運命を商量較計するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つということがただ一つ残された道であった」(p.13)。
 「私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する」。
 以上、口供書より。

 近衛は能筆として知られていた。近衛は和紙8枚に33000文字からなる建白を墨書した。S20-2-14に天皇に単独拝謁して上奏。
 いわく。満州事変と支那事変を起こし、拡大して大東亜戦争にまで導いてきたのは、軍部一味の意識的計画であった。過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の各方面に亘り交友を有する不肖が、さいきん静かに反省して到達した結論である(p.15)。

 いわゆる「田中義一上奏文」について、朝日新聞いわく。
 田中の政友会内閣がS2-6に、在支の外交官と軍人を召集して「東方会議」を開き、シナ革命を弾圧して満蒙を征服する方策を決定した。まず満蒙を征服し、ついでシナ本土を征服し、やがては米英を打倒する、と。

 この文書、シナでは、田中奏摺 と表記する。

 東京裁判では、7月2日に清瀬弁護人の質問に対して岡田啓介が「私は、田中メモランダムというものを見たことがない。そういうものはないと信じている」と証言。
 7-24には、秦徳純将軍が「私のみたのは中国文である。原文があるかどうかは知らぬ」と証言。

 福島安正の娘が蒙古王の顧問になったとか、1920死亡の山県有朋が22年に締結された9ヶ条条約の打開策について会議したとか、荒唐無稽のことが書かれている。

 田中メモランダムと称する、コミンテルンが発表した露文のテキストを、戦後いち早く、イスクラ社が和訳し印刷して街頭にばら撒いている。
 
 重光葵は、こう記す(『昭和の動乱』上巻)。要するに田中覚書なるものは、左右両極分子の合作になったものとみて差し支えない。

 重要なのは、当時、このような方針に対して国民が抵抗を感じなかったこと。指導者層の常套的イデオロギー「日本の生命線のための自存自衛」の論理と心理が、国民の間に広く浸透していたということ(p.21)。

 S11-8-7に、田中メモランダムそっくりの「国策の基準」が、広田内閣の5相会議で決定された。日満支で共存共栄。ソ連の脅威を除去し、英米に備える。外南洋(インドネシア)方面に、他国を刺激しないように漸進的に勢力進出する。

 このあと、参本の作戦課長石原莞爾が「対ソ国防五ヵ年計画」を作製。さらに「北支処理要綱」も決まる。すでに関東軍は長城線を越えて北支平原に南下する態勢。

 チャハル方面では11月、関東軍参謀長の東條が発起し、田中隆吉が直接率いた「蒙古軍」が、綏遠に侵入したが、傅作儀のためにさんざんに打ち破られた。傅はS49に北京で死んでいる。
 
 明治の元勲たちは、わが国体の真髄〔天皇は地上権力ではない〕を洞察するの明がなかった(p.26)。

 天皇を隠れ蓑にし、輔弼の名をかり、統帥/輔翼の特権をふるった。きわめて責任の所在があいまい。
 その天皇はイエス/ノーの意思表示さえしないわけだから、全体が無責任体制。

 近衛vs東條のような、国務と統帥の相剋抗争の歴史が、昭和日本。
 遠因として、M21の山県主導の、陸海軍大臣現役制の勅令。

 山県は、鳥雄、谷、三浦、曾我、山田顕義などを、軍人勅諭(M15)の政治不干与の原則に反するとして追放しながら、みずからは政治に口も手も出した。

 山県の幕僚政治の根源は、ドイツ式参謀のあり方にある。
 M14-6に、陸軍文庫の1冊として、フォン・セレンドルフの「ドイツ参謀要務」が翻訳された。著者はメッケル招聘時のドイツ陸相である。
 ここに参謀本部長の山県が序文をよせている。「軍隊の士官あるは、人の頭目あるが如し。而して、参謀はその精神なり」。

 山県が確立した国是。M24の第一回議会で、国是についての演説。ついでM26に「軍備意見書」。ついでM28に「軍備拡充意見書」。ついでM39に「国防方針私案」。
 いずれも、流石という内容。

 M26の軍備意見書にいう。退いて守らんとする者は、かならず、進んで攻むるに足るの実を有せざるべからず。進攻の実力なくして、徒らに退守の策を議するものは、真の退守を知る者に非ず。これ、有朋の素論にして、古来の戦史、歴々として徴すべきなり。
 列強は国家歳入の1/4~1/3を軍備に充当しているが、それ並ではダメだと。

 M28の軍備拡充意見書では、国境線=主権線に加えて「利益線」の新概念を提出。

 官僚は、権力体系の中で、何が実力ある主流か、何が従属的か、権力諸要素内部の矛盾と分裂は現在どうなのか、将来どう発展するかという現実感覚をきかせて、巧みに泳ぎまわりながら、行政する。

 S2に蒋介石が下野して日本に亡命したとき、田中義一総理と秘密会談し、日本の満蒙における特殊権益を蒋が黙認するかわりに、日本は蒋の北伐を承認しその革命を援助することで合意した――と書いているのは『森恪伝』。
 田中の日程記録にも、箱根行きが書かれていないほどの秘密。
 森恪伝を書いたのは、鈴木貞一によれば、森番の新聞記者。

 S2に、蒋の南京軍は、徐州で張作霖軍に敗れた。張は民衆といっしょに排日運動を強化していた。日本人の土地商租権を有名無実化し、満鉄に平行線を敷設していた。

 田中vs蒋会談の下ごしらえは、当時の参本第二部長の松井石根中将と、蒋介石とのあいだで、箱根でなされているという。

 国民党が支那を統一する。満蒙に於ける日本の特権地位を蒋が諒解する。
 これは、明治末に孫文が、向島大倉別荘で諒解した話の焼き直し。

 しかし公式記録がない。上法は、東亜同文会で松井大将を連続1週間取材し、毎日2時間、彼の対支経歴を聴取したが、箱根会談については遂に語らなかった。
 森、松井と鈴木貞一はこの件にくわしいが、松井は口約を守って、他言しなかった。

 外務省主要文書には、田中総理蒋介石会談録 がある。
 日本は率先、南京へ公使を派遣することを計画していた。

 蒋は田中に語った。革命軍の将士は、敵を軽んずる風がある。
 広東から出征したときは2個D。それが江南では20師団以上に膨脹。文字通りよせあつめだから内容が複雑。敵がなければ結束せず、分裂してしまう。

 田中:日本で共産主義が蔓延するのは、支那共産党が増長しているのが原因。だからわが国は自衛のために、貴国の赤化をつねにやかましく反対するのだ。

 蒋と田中はこの日、初めて会った。
 蒋:支那国民は、軍閥を嫌忌する。そして軍閥は日本に依頼していると諒解している。

 この時点では蒋は張作霖の満蒙を日本の干渉に任せる方針をとっていたことは明らかである(p.36)。ソ連が干渉しているのだから、日本も対抗して干渉しろよと。

 石原莞爾は、この蒋介石の意向を解釈して、彼の満蒙処理の方針を樹立した。
 石原の信念。満蒙は人種も歴史も、シナ本土より日本と密接な関係にある。満蒙を日本が治安維持すれば、5億の支那民衆も欧米の干渉から救われる。

 石原の固癖は、衆望を収め得ないキャラクター。だから支那事変を拡大させてしまった。

 東京裁判でのキーナンと東條の論戦。
 あなたは戦争というものは最も悪い犯罪の一つであるという点で私と同意しませんか。
 肯定いたしません。
 では、ミスター東條、侵略戦争は犯罪であるという点で私と同意しませんか。

 USSBSが700人を動員してまとめた「日本戦争経済の崩壊」。食糧の何割かと石油を海外に依存していた日本は封鎖作戦に際し絶望的に脆弱だった。

 メイナード・ケインズの『平和の経済的帰結』は、経済ライバルのドイツを倒すために英国が戦争を望んだという。WWI前の英保守党党首バルフォアは、英独間に敵意を生じさせたという。

 マーシャル参謀総長の部下で、戦争計画部の幹部であり、在支米軍司令官にもなったウェデマイヤーの回想録(読売新聞社から訳刊)。
 アメリカは日本を満洲からしめだすために、シナ大陸をソ連に売り払ったと総括。
 1920年代~30年代は、WWIの真相暴露時代だった。この時代に成長したアメリカ人は、WWIIへの参戦を望まなかった。

 1941-12-5に、『シカゴ・トリビューン』紙が、「ルーズベルトの戦争計画」と題して、ウェデマイヤーらが企画立案した戦争計画をスクープした。
 1943-7-1までに、欧州でもアジアでも、陸上攻勢がとれるとしていた。
 この漏洩事件ではウェデマイヤー本人もFBIから調査された。

 パール判事の意見。日本人は、白人種に対するコンプレックスの裏返しで、アメリカ人の精神構造を甘く見過ぎた。日本人は最後まで戦うが、米人はそうではないと、さいごまで信じていた。しかし同じ白人のドイツ人に対してはそういう評価をしていないのだから、ご都合的に過ぎた。

 東條には独裁者のカリスマがなかった。毛沢東は長年の同士を一瞬に始末できる超人的神経をもっている。東條にはそれはない。

 S16-7末の南部仏印進駐に対する経済制裁。これは日米会談の頓挫よりも効いた。

 禁輸を受けてからの海軍の貯蔵量は極秘中の秘であったが(p.56)、2年分もないといわれていた。陸軍にとっては南方圏の海象が気になる。11月頃から風が強くなるので、上陸用舟艇による接岸が難しくなるのだ。
 ※接岸の前に、母船から小舟に乗り移ることができなくなるのである。

 東條と陸軍は、シナでの防共駐兵にこだわって、近衛内閣を潰した。

 10月17日に東條に大命降下。軍務課長だった佐藤賢了によれば、前夜に予告情報があったが、信じていなかったという。軍務局長の武藤章は、生まれてはじめて組閣名簿を作るというので、熱中してはしゃいでいた。

 赤松秘書官によると、東條は、大命をこうむった後、明治神宮、靖国神社、東郷神社に参拝した。

 近衛が「国民政府を相手にせず」と声明したのはS13-1-16。ドイツがオーストリーを併合したのは同年3月13日。
 1939-3にドイツはチェコスロバキヤを保護国化。
 S15-6-17、フランス降伏。
 S15-9-13、小林一三蘭印特派大使をバタビヤに派遣し、石油をくれと頼ませる。
 S15-9-23、北部仏印進駐開始。
 1941-3-11、米が「武器貸与法」を成立させる。交戦国に中立国が武器を提供することは国際法により禁止されている(p.61)。※そんな国際法はない。交戦当事国が、実力によるブロケイドにより、中立国商船の搬入を阻止することだけが可能だった。

 S16-7-2、関特演動員開始。関東軍は、それまでの2倍の80万に膨らむ。

 S16-7-26、米国は日本の南部仏印進駐を見越して、在米日本資産の凍結と、事実上の石油禁輸を発動。
 7-28、日本軍が南部仏印に上陸開始。

 ロバート・ビュートが『東條英機』で書いたこと。
 はじめて陸相に就任するとき。7-17に畑陸相が訓令。東條中将は陸軍航空総監として満洲旅行中だったが、奉天で飛行機に乗り、7-18夕刻に立川飛行場に戻った。そこから陸相官邸へ。米内内閣退陣の事情を聞かされた。

 四相/五相会議は、広田内閣のもとでは有意義なものだったが、支那事変後は、参本が考えた政策を一方的に内閣へおしつけるための仕組みに堕していた。

 東條は56歳ではじめて内閣のポストを経験した。
 しかし第一次近衛内閣では陸軍次官だったし、中央行政の経験はあった。

 陸軍航空総監は、その時点では、三長官につぐ要職だった(p.64)。
 東條は政策の立案者ではなく、政策の推進のために弁じたてる方。

 近衛は10-15、東條に、防共駐兵を楯に詰め寄られ、屈した。
 岩畔は、ルーズベルトとのトップ会談ができるならば、武藤軍務局長、海軍の岡軍務局長、さらに土肥原賢二を随員=人質としてもいい、と考えていた(pp.66-7)。

 サトケンいわく。「御聖慮は憲法にまさるものである」。9-6御前会議では、天皇は、外交優先を、声をはげまして力説された。

 木戸日記いわく。9-6の御前会議の決定については、御前会議が開催されたことすら発表されなかった。
 帝国国策遂行要領で、日米交渉では駐兵政策を変更しないと定めさせたのは、陸軍大臣の発意。

 近衛は東久邇宮内閣を考えた。しかし皇族内閣というものはは、陸海軍の意見が一致してない難問の打開策を丸投げされては困るものなので、没。

 編者いわく、木戸日記からは木戸の思い上がった長袖者流小手先細工と卑俗さが読み取れる(p.72)。

 アメリカの立場になれば、東條内閣が成立した時点で、ただちに戦争は必至と受け取る。あたりまえではないか。

 10-2の口上書を日本政府が受け取ったのは10-4。

 新内閣は、前内閣の決定を覆すことはできる。しかし御前会議は閣議ではない。政府と統帥部の最高形式協定なので、統帥部が変更に同意しないと、内閣として変更できない。皇族内閣なら、そこを超克できるかもしれなかった。

 S16-10-17に宮中よりお召しあり。本日は、御椅子を賜らぬと。東條は「お叱りかな」と独語して、御前に出た。

 はじめ内相を兼摂したのは、対米和平と決まれば二・二六事件並の騒動になるから、その鎮圧をじぶんでやるつもりだった。しかし戦争で民心がおちついたので、湯沢次官に内相をゆずった。

 満洲官僚として関東軍の東條と知己であった星野直樹の証言。
 歌舞伎座で「桐一葉」を観ていたら、拡声器のブザーが鳴り、麹町二番町の星野さん、電話口へ、という。それで電話をとると、東條が呼んでいるから陸相官邸へ来てくれという話。いきなり、書記官長(今の内閣官房長官)を頼むよと言われた。
 あとで聞いたが、武藤軍務局長とサトケン(軍務課長)が勝手に組閣名簿をつくっていたのを、東條はしりぞけた。そして陸軍関係者を組閣本部内から追い払ってしまった。
 星野は、東郷茂徳とは、北満鉄道買い入れのときに共に仕事をした仲だった。
 蔵相には賀屋と青木の2候補があったが、青木は南京にいて呼び戻すのには時間がかかるから、消去法で賀屋となった。
 東條は、文相として、元岩手県知事〔つまり内務官僚〕の石黒英彦を考えていたが、星野が、そいつは事を起こしそうで危なっかしいからダメだと。橋田を留任させたほうが無難だ、と主張。
 法制局長官の村瀬は留任を固辞した。内閣が変わって法制局長官の変わらない例はない。

 星野が見るところ、日米交渉が悪化したのは、近衛内閣が異常だから。松岡外相が交渉の責任者のはずなのに、その責任者をつんぼさじきにおいて、松岡がドイツに行っている隙に、秘密に米国カウンターパートと話をどんどん進めた。松岡が帰朝後にそれを知って反発し、その話をあとからぜんぶ潰そうとしたのは無理もない。陸軍もまた、内閣が対米交渉中なのに勝手に軍隊を進める。
 米国から見れば、日本は支離滅裂としか、映らないのである。

 原則として、満洲以外からは結局撤兵することについては、日米は同意できていた。
 陸軍は、防共のため、満洲以外の一部の土地に数年間の期限付きで駐兵することを強く主張していた。
 中支からは短時間で、北支や蒙古の防共駐兵地域と海南島からは数年で撤兵するというのが甲案。
 南部仏印の兵を北部仏印に引き揚げ、石油全面制裁発動以前の状態にとりあえず戻すというのが乙案。
 この両案を在米大使に伝えた時点では、近衛内閣時代の御前会議で決めてしまった開戦のタイムリミットが近かったので、すでに宣戦の詔書の草案を練っていた(p.87)。
 これへの回答が、ハル・ノート。
 外務省の訓電がすべて読まれていた。外務省は、はじめは甲案でねばって、ダメなときは乙案を出せ、と訓電していた。これでは、日本には乙案をほんとうにやる気などはないのだ、と疑わせるに十分だった。
 だからハルノートは、乙案にはかすりもしていない。相手にしてなかった。そして甲案を正式に全否定した。
 日本としては、乙案こそが命綱だったのであり、さいしょから乙案を示して真剣さをあらわすべきだったのである。大国相手に小人らしい策を弄して自滅した。

 陸相秘書官だった、赤松貞雄の回想。
 東條は、大命を受けると、明治神宮→東郷神社→靖国神社 の順に参拝した。 
 東郷神社から靖国神社に移動する車中でようやく、じつは大命を拝したのだ、と教えてくれた。それまではまったく教えてくれなかったから、神主たちもわけがわからず、狼狽していた。

 東條は、内閣書記官長の候補者として、星野と塩原時三郎の2名をあげた。そのうちから、稲田内閣総務課長(後の侍従長)に、どちらかを選ばせて、星野に決めた。総務課長と書記官長の仲が悪くては、往生するからだ。

 第二次近衛内閣の企画院総裁だった星野を、近衛首相が辞めさせたかったが、自分で言い渡すことをいやがり、満州つながりの東條にその役をおしつけた。東條が話を星野に伝えると、じつに男らしくあっさり辞めた。そのとき、東條は改めて星野に対する好意を抱いたのだという。

 東條総理大臣の秘書官には、広橋真光伯爵(梨本宮女婿)と稲田耕作(大蔵官僚で、のちに池田首相の秘書官も)。陸軍からは赤松。海軍からは、鹿岡円平(那智艦長として比島近海で戦死)。ただしこの時点では、現役軍人が、文官である首相の、秘書にはなれなかった。予備役になるとなればおおごとであるから、家族や両親にも相談する必要があった。さいわい、企画院や興亜院では、現役軍人が文官の仕事をやれる官職があったので、それを利用し、企画院調査官兼首相秘書官ということにした。鹿岡は、興亜院事務官兼首相秘書官に。これなら、内閣が終わったとき、即座に現役として古巣に戻れる。
 ただし、秘書官服務仲は、天長節か靖国神社大祭日参拝でないかぎり、軍服着用を許されなかった。東條は、そういうけじめはつけた。

 東條陸軍大臣の秘書官としては、軍事課長の西浦進大佐。
 
 下村海南の証言。
 木戸の責任が重大だ。東條内閣が対米戦を始めたらどうする気だったのか。どうも、戦争したら勝てるという妄想を木戸が抱いたのじゃないか。
 重臣会議で、東條ではなく宇垣一成を推したのは、若槻だった。

 宇垣の日記にはこうある。
 S16-10の重臣会議で、若槻さんと清浦さんが熱心に私を推したとのことだ。
 東條にしたのは、陸軍が何事もうるさいから、一遍やらせて見たらどんなものかよく判るだろうとの捨鉢的な考えが、木戸にあったからだ。
 私が陸軍大臣時代に、東條は中佐くらいでまだ課長にもなっていなかった。すぐ手帳を出してなんでも書きとめるという風だった。事務官としては間違いない男。
 ※この日記の文面だと、宇垣は、じぶんにならなかったことを悔しがっている感じ。クーデターの御輿だったという自覚がまるでない。

 サトケンの証言。
 南部仏印に基地を持たねばと考えていたのは、海軍も陸軍もどちらもだった。
 北部仏印に進駐したとき、ドクー総督は、ゴムなどを日本に輸出すると約束していたのに、サトケンが東京に戻るとまるで実施されていなかったので、サトケンは腹を立てた。
 陸軍がやろうとしていたのは、南部仏印に飛行基地と軍港を得ようとするもので、軍隊進駐ではなかった。しかし基地の警備をどうするのかの考えが甘かった。
 けっきょくそれは軍人が民間警備員に化けるしかないのだが、フランス人も馬鹿ではなく、すぐ見破って、上陸させないのだ。
 だからサトケンは、けっきょく軍隊で堂々と占領するしかないと結論した。

 タイのピブン政権は親日的だったが、タイ国内の親英派が有力だった。

 松岡は、シンガポールはどうしても攻略しろという主張だったが、その前段階として南部仏印に基地などつくっていると奇襲効果がなくなるからすぐやれという頭。奇襲しないと米国が参戦すると心配していた。

 サトケンいわく。松岡は、ドイツに協力したいのが第一で、日本の真の死活の問題は二の次だった(p.102)。

 陸軍の考えは、世界情勢(ドイツの連勝)を利用して日本の自存自衛を全うすることに主眼があった。

 近衛は、陸軍が対ソ戦を始めては困るので、南部仏印進駐に合意したのだそうだ。いやしくも首相の考え方としては言語道断だろう。
 『太平洋戦争への道』を読んでサトケンは初めて知った。近衛にそういう説明をしたのは、武藤章だったのだ。参本はなにがなんでも対ソ戦を始めたい意向だったから、それを抑えるために南侵させたのだという。
 なるほど、武藤は対ソ戦には不賛成であった。

 軍務局長が書記官長を通じて首相へそんな説明をしたとはあきれる。

 サトケンは北部仏印進駐ではじめてフランス人の殖民地行政を知り、フランス人が憎くなった。

 南部仏印進駐は、6月25日の連絡会議で正式に国策と決まった。「第二十五軍」は、7月25日に、海南島の三亜港を出発し、28日から上陸を開始した。

 米国は7月26日に、日本の在外資金を凍結した。27日、英と蘭も、日本の在外資金を凍結した。日英通商条約は廃棄された。日米交渉は打ち切られた。

 海軍は、南部仏印進駐で日米戦争だと考えていた。ところが陸軍は、それによって日米戦争が起こるとの予想も覚悟もなかった。
 サトケンは、まさか資金凍結=経済封鎖を受けるとは予想しえなかった。

 満州事変のとき「経済封鎖は戦争の第一歩だ」〔だからやらない〕と言ったのは米議会のボラ外交委員長。その記憶もあった。

 サトケンいわく。経済封鎖は、戦争そのものであり、不戦条約違反だ(pp.103-4)。

 米国の経済制裁で、日本国内は世間一般、沈鬱になった。

 サトケンが聞いた、東條の政治家評。政治家は、事前に熟慮せず、大事を軽々に決し、すこし具合が悪くなると、弊履のごとく捨てようとする。

 日米交渉のはじめに武藤は渋った。支那事変の自力解決に自信を失って他力本願にすがるのは、火遊びに近いと。火傷するぞと。

 RDRは野村に言った。じぶんは飛行機での移動を禁じられている。だからホノルルに飛んで近衛に会うことはできないと。だからジュノー市ではいかがかと。
 しかしこれは、ハルとかけあいで近衛を愚弄したものだろう。

 グルーは首脳会談に賛成。
 国務省のホーンベックは首脳会談に頑強に反対した。

 9月6日の御前会議で近衛が開戦決意を不用意に決したのは、首脳会談に期待をかけていたから。

 豊田外相は、防共駐兵など放棄してよいという立場。
 また、三国同盟があっても日本は防護と自衛の観念で行動する。米国を攻撃はしない、と譲歩したが、米国は無反応。

 第三次近衛内閣が崩壊したとき、東條は、次期首相は東久邇宮でなくてはだめだとの意見を近衛に述べた。東久邇には陸軍に対する統制力があった。
 近衛はその東條案を天皇へ内奏した。しかし木戸がそれに真っ向から反対した。

 大命降下のため呼ばれたとき、東條は、防共駐兵についてお叱りを受けると思い、その説明資料を準備していた。

 9-6御前会議議案の起草にはサトケンも関係していた(p.113)。

 破滅を避けるのは簡単だった。近衛が9-6の御前会議のときに、それでは議案を練り直しましてさらに御前会議を奏請いたします、と言うだけでよかったのだ。

 9-6の決定を白紙にすることについて、両統帥部は反発的だった。理由は、白紙還元の御諚を木戸がちゃんと統帥部に伝えなかったからだ。

 勝算の有無に絞った会議が、なかった。連絡会議が、それをすべきだった。
 陸軍は、対米戦は海軍の専管事項であるとして任せきり。海軍では、それは国力の問題だからと政府に下駄を預けた。

 三国同盟からの脱退をサトケンは進言したが、東條が反対した(p.116)。
 参本は、日米交渉を打ち切れと要求した。武藤軍務局長は、外務省と組んで、交渉する気があることを米国に打電させた。それで参本は、東條内閣を倒すか、さもなくば東條の陸相兼任を辞めさせようと欲した。主唱者は、田中新一作戦部長である。

 東條が陸相を兼任したのは、国内の反対派を黙らせるためには、憲兵と警察を一手に握る必要があるため。その魂胆は、参本には読まれていた。

 武藤は、自分と田中新一を抱き合わせで中央から外せばいいと提案したが、サトケンがそれには反対だった。けっきょく参本は、杉山総長が黙らせた。

 海軍内では、永野総長と福留作戦部長が強硬で、嶋田海相は、じぶんか永野のどちらかが辞めなくてはと言っていた。

 『太平洋戦争への道』は、永野が開戦をあせっていたのは、3年後になると負ける公算が大になるからだと推定しているが、サトケンは当時も今も、それは永野の意図ではないと思っていた(p.119)。
 ※陸軍省の軍事課長ですら、エセックス級が量産されてくる意味を深刻に受けとめていなかった。とても興味深い証言であろう。

 サトケンいわく、「経済封鎖の鉄桶の中に閉じ込められて……」(p.119)、国民生活物資が窮乏する、せっぱつまった感じは、戦後の人には理解できないだろう。

 この切迫感の中で、フレデリック大王の「敵の糧による」、つまり戦いつつ戦いを養えばいいという戦争指導構想が生じた。
 ※サトケンは英語スクールだったので、フリードリッヒとは書かないのである。
 
 マーシャル群島には、ひそかに、防衛施設と飛行基地の建設を始めさせていた(p.120)。※ワシントン条約の基地制限条項は、まだ生きていた。

 井上成美・海軍航空本部長が提出した「新軍事計画〔sic.〕」をサトケンは戦後、読んだ。

 海軍は、開戦後になっても、海上輸送の護衛の着意を欠いていた。海上護衛はGFで統一指揮するようでは臨機の間に合わず、末端で分散して実施するべきだった。

 開戦時点では日本の保有船舶は、小型船まで含めると、663万トンで、これは英国に次ぐ海運力だった。

 近衛内閣時代の10月7日に及川海相は東條陸相に、開戦3年後以降は海軍は自信がないと伝えていた。ただし、発言は内緒にしてくれ、とも。

 軍令部総長の永野修身の本音は、戦争で時局を解決しろというのなら、わしらのいちばん都合のよい11月上旬に火蓋を切らしてくれ。それができないで開戦の好機を逃がすならわしらは引き受けられないから、そうなればもう戦争をしないことにしてくれ。

 勝ち目がないことを誰も公然とは言えない。それでどうやって開戦を避けるかと考えたら、答えは皇族内閣しかないのだ。これが東條が東久邇内閣を推薦した理由。

 サトケンいわく、南部仏印進駐は、日仏協定に基づいて日本が合法的に実施したものである(p.124)。
 サトケンの怒り。アメリカは南ベトナムに傀儡政権をつくり、1954のジュネーブ協定に違反し、戦火を北ベトナムに拡大している。だったら戦前の日本のように経済制裁されるべきじゃないか。

 岩畔とサトケンは、整備局で一緒に仕事をしたことがある。岩畔は多才で、窮することを知らない人だった。

 岩畔は軍事課長時代に三国同盟に賛成したが、ヒトラーがソ連と結んだので、こうなったら援蒋しているFDRと直談判して支那事変を解決しようという考えだった。

 サトケンの認識。B-17は1942-3に比島に配備される予定で、それまでFDRは対日戦を延ばしたかった(p.128)。

 日本が対米戦を避けたとして、米国が欧州戦争に参加してドイツを潰せば、そのあと、こんどは全世界が日本に、大陸からの完全撤退を迫ることになるだろうと考えられた(p.129)。 
 
 日米交渉は、どちらの側でも、世間にその内容を知らせなかった。サトケンはあとで気づいた。その詳しい内容を日本が公表してしまうべきであった。そうすれば米国内に反戦論が起こったはずだから(p.131)。

 ※近衛が、海外ラジオ放送を通じて、英語で、公開的に主張・提案し、交渉を進めればよかったのである。弱国のぶんざいで最強国に対して隠し事をしながらこすっからく外交しようとしか考えられなかった、戦前指導層の器の小ささ。

 支那事変が拡大すると「一億一心」というスローガンができた。しかし実態はまるでそうじゃない。

 S16-11-1時点で、外相の東郷が辞任していれば、東條内閣は倒れて、開戦はできなかった。※そこには大チャンスがあった。

 甲案。三国同盟について、日本は自衛権の解釈をみだりに拡大する意図はないと米側に説明したい。

 北樺太の油田を買収しても、年産150万トン。帝国の需要を充たすに足らない(pp.146-7)。

 S16-11-2の参謀総長の見識。南方作戦が成功すれば、英米が蒋介石を支援するルートが遮断されるので、蒋は抗戦を断念する。シベリアが冬であるうちに南方をかたづけ、そのあとこっちから対ソ開戦する。
 ※ヒマラヤ超え空輸は想像し得なかったとしても、ソ連からの西部砂漠超えの援蒋ルートを遮断できるわけがないことをどう考えていたのか。杉山は切腹至当の大タワケと評するしかない。

 S16-11-2の両総長の上奏。杉山「交戦権の発動は目下研究して居ります」。

 12-1御前会議。永野いわく。プリンスオブウェルズとレパルスが極東に来ているのは、ドイツ空軍から爆撃されるのを避けてやってきたのだとの説あり。

 原いわく。「空爆」をうけたとき、東京では火を止められないだろう。

 塚田攻・参謀次長の、11-2の参本内での発言。日米戦争は避けられない。日本の南進により、独伊が英国を屈服させることを期待する。

 武藤章の遺稿『比島から巣鴨へ』より。
 武藤は、松岡が、三国同盟と日ソ中立条約のあと、米国をなんとかしてくれると思っていた。
 岩畔と井川が8月中旬に帰ってきたのは、野村大使の周辺にこの2人がいることを外務省が非常に嫌うので、東條大臣が召還命令を発した結果。
 米国務省側でも、いきなり野村がハルやFDRと接触したので、その日米交渉そのものを憎んでいた。

 外務省の仕事の杜撰なのに驚いた。字句が前電と後電で異なるのである。野村は大混乱だろう。それを指摘しても、昔からこれが外務省のやりかただと一蹴された。

 9-6以降、武藤には憲兵の護衛がついた。極右が対米交渉をやめさせたがっているというので。

 東條総理は、中将の停年が少し不足していたが、特旨で大将に進級した。
 船舶の新造と損害の推計は、基礎数字が仮定に過ぎぬので、結論も不確実だった。

 毎日新聞社編『太平洋戦争秘史』によると、日米交渉の向こうの主役は、FDR、ハル、スチムソン、そしてウェルズ国務次官。

 ハルのみたところ、井川は、日本人もその誠実さを評価しない、ずるい政治家タイプの男だった。
 岩畔は、北支駐屯を頑として譲らなかった。

 7月23日にスチムソンはウェルズに言った。日米交渉の最中に、南部仏印に侵略したのは、南西太平洋に全面的な攻撃を行なう準備だから、もう交渉を継続する基礎がなくなった、と。
 
 ハルはウェルズに指示して、日本が仏印で行動を起こした場合は、日米交渉は続行しないと、日本政府へ通告させた。

 7-24に日本の侵略部隊がカムラン湾に入った。
 傍受した日本のメッセージによって、日本が仏印侵略を中止する気がないことが明らかとなったので、FDRは日本の在米全資産凍結の行政命令を出し、日本関連の金融ならびに輸出入を、米政府の直接管理下に置かせた。

 ハルは8-6に野村に言った。法を守り平和である国は、自分自身以外の誰からも決して包囲されることはない、と。

 8-26に野村大使は、近衛首相からのメッセージ2通をFDRに渡した。その1通に首脳会談の希望が書かれていたが、ハルは、それは1938-9のチェンバレンとヒトラーによるミュンヘン会談の二の舞になると懸念した。

 ハルいわく。日本は三国条約の解釈および適用は自主的に決定すると述べたが、それは米国が欧州戦に参加した場合、「自衛」の判断はまったく日本政府が勝手にするつもりであることを意味する。

 スチムソンの回想。
 20年来、比島は、防衛することのできない軍事的負債であった。日本は緒戦で簡単に占領できると従来みんな信じていた。ところがマックの大言壮語で、防衛は可能なのだという錯覚が、要路に植えつけられた。ただしB-17で南シナ海を封鎖できるという楽観は、マックだけでない、すべての軍事助言者がやらかしていた。スチムソンはそれで1941-10-21に、比島はB-17で防衛可能になったし日本のシンガポールへの南進は阻止できる、と大統領に報告してしまった。

 ハルの回想。東郷新外相は、典型的官吏で、外交のしきたりは知っていたが、広い視野に立脚する見識に欠けていた。
 
 来栖は大急ぎで派遣される必要があったので、ハルが、飛行機旅行の便宜を図ってやった。

 ハルの感想。来栖は野村と違って嘘つきで、尊敬できるところはゼロだった。

 ハルは来栖に伝えた。三国条約を捨てない日本とのいかなる平和解決も、米輿論をして、FDR政権に対する猛烈な非難をよびおこすことが、わからないのか。

 比島にはB-17を47機、追加派遣するつもりだったが、開戦に間に合わなかった。

 日本が叫ぶ、東亜の新秩序とか、大東亜共栄圏というのは、ハルにいわせれば、ナチス流そのもの。

 財務長官モーゲンソーがつくってきた解決策。ハルは思った。モーゲンソーは次の国務長官を狙っていて、こんなものをこしらえたなと。

 11-25にチャーチルからFDRに発電された意見は、あきらかに蒋介石から影響を受けたもので、対日暫定協定には反対。

 日本に1滴でも石油を売れば、それは米国世論を反発させるだろう。

 ウェルズの回想。宋子文の新聞工作が一流であった。対日暫定協定は宥和政策であり、FDR政権は日本の強請りに屈しようとしているという新聞輿論ができてしまい、暫定協定は不可能になった。

 日本が、比島に手を出さずに、タイ、蘭領東インド、シンガポールに限定して作戦を発起した場合、米政府は自動参戦することができず、議会を説得して対日宣戦しなければならない。

 ハルに言わせると野村は頭が悪い。午後1時にハルに会えと訓令を受けているのだから、通告の最初の数行しか翻訳ができあがっていなくても、正1時にハルに会ってそれを伝え、続きは大使館員が後からもってくると説明するべきなのに。

 1941-8-13に、下院は選抜徴兵延期法を可決したが、それはたった1票差であった。ということは、真珠湾攻撃がなければ、米国側から対日宣戦することは、ものすごく難しかったのである。

 海軍の作戦命令は、東京時間の12月8日0時に開戦状態に入ると定めていた。コタバル上陸は午前1時25分、真珠湾攻撃は3時20分だった。どちらも東京時間。

 グルーの回想。1941-1-27に米政府に報告。日本が米国と断交する場合、大挙して真珠湾を奇襲攻撃するつもりだと。

 グルーの1941-4-17の記録。ドイツからゲシュタポ要員が来日していて、日本の警察に、反独感情を抱く日本人の名を通告している(p.199)。

 グルーの1941-7-26の記録。南部仏印進駐への制裁として資産凍結されたのは豊田外相には予想外だったらしくて、ここ数夜、寝てないとボヤいていた。日本政府は、米国政府がそれについて報復には出ないと、全員揃って思い込んでいたのだ。米国駐在の日本官吏が、米国輿論を掴むことにかけて、あるいはそれを本国政府に伝える能力において、無能だったのではないか。

 日本の歴代外相は、一見真摯に、グルーにいろいろな約束をしてきた。しかし日本政府はその約束を破る対外政策を続けた。このため米国政府は、日本政府の口約束などいっさい信用しないことに決めたのである。日本政府が何を実行するかだけを見ることにしたのである。

 グルーが関知するかぎり、野村は、数回、本国外務省からの指令の実行を遅らせ、すくなくとも一度は、自発的に、対米交渉を後退させる提案を提出している。

 米国では、大統領、ハル、ウエルズ、ホーンベック、ハミルトン、バランタインが野村および助手の若杉と話し合った。東京では、ドウーマンとグルーが、近衛、豊田、寺崎と話し合った。

 ナチスは日本国内で工作をやりすぎた。それに乗ったのが松岡。その松岡に乗ったのが近衛とぜんぶの軍人。ところが日本人は、アメリカ政府から石油完全禁輸制裁を受けるまでは、ドイツと組むことには禍しかないことを理解し得なかった。

 近衛にいちばんの責任がある。しかし松岡が身代わりになったので、近衛は首相の座にとどまった。グルーは、昭和天皇が、断じて対米戦争を起こしてはならぬといったことを知っている(p.204)。

 日本人には、対外公約を、簡明な、曖昧でない言葉で表現することができないという欠陥がある。そのために、墓穴を掘るのだ。

 グルーの認識。外交は、国防の第一線。海軍は第二線。陸軍は第三線。
 東郷は、モスクワ駐在大使となったときに、ソ連からのウケがすこぶる良かったという(p.207)。その東郷を斥けたのは松岡だ。

 1941-10-29のグルーの日記。某国の外交使節があつめた情報によると、在日ドイツ人集団は、あたらしくできた東條内閣にがっかりした。対ソ参戦してくれないどころか、新内閣ができた直後に2人のドイツ人が逮捕されたので。在日独人実業家たちは、日米会談反対と、対ソ開戦とを、日本人に対してささやきまくれという指令を受けた。ドイツ最高司令部は、冬用被服の供給が間にあわないので、対ソ戦を早く切り上げたい。オランダ本国を占領済みのヒトラーは蘭領インドネシアの石油をとうぜんに欲しており、日本人がそれを奪わないようにさせたい。ドイツの陸軍武官は、東京のドイッチェス・ハウスで週に1回、軍事教練を実施している。徴兵適齢の在日ドイツ人はこれに出なくてはならない。ドイツ本国では食糧が欠乏していることを、在日ドイツ人は知っている。

 1941-11-29のグルーの日記。FDRがジョージア州ウォームスプリングスでの滞在をきりあげてDCに戻ったのは、東條の好戦的な演説(防共協定記念日に、東亜から米英を追い出すと宣言)が一つの理由だ。アメリカを脅せば屈するとでも思っているのか。子供の演説である。

 1941-12-6のグルーの日記。ウィーデマン配下のナチ・テロ工作部隊の3人が、サイゴンにある米国所有の石油貯蔵庫と米国領事館に爆弾を投げた。それを日本人のしわざだとみせかけて。

 東郷の秘書は、友田二郎。

 FDRから天皇への親電。日本が南部仏印に送った軍事力の規模、さらにインドシナ半島の南端に空軍基地を建設しはじめたことの意図は、防衛的性質のものだとは誰も思わない。

 1940末を境として、俄然、海軍が南進論の主役になった。※陸軍に対ソ戦をおっ始めさせないため。

 1941-9-6の帝国国策遂行要綱は、海軍側の原案にもとづくものである(p.221)。

 東條内閣が倒れた直後、列車の中でたまたま近衛に逢った。そこで東條は近衛に言った。じぶんは参謀総長だったが、海軍軍令部が、どういう作戦をやっているか、どのような損害を受けているか、いっさい、教えてくれず、皆目、知ることができなかった、と。

 岡田啓介の回想によれば、米内と末次は、会っても口を利かない。海軍内も、英米派とドイツ派に分裂していた。

 海軍の神重徳、藤井茂、柴勝男のトリオは、いずれも、ベルリン駐在帰り。
 海軍には、上層部が中堅エリートに情報を共有させないことによって組織内を統制しようとする文化がある。だから課長クラスは、何も知らない。これが、課長がむしろ主役である陸軍との大きな違い。
 
 1938-12中旬、米内海相は、英仏米をも対象とする日独攻守同盟に終始一貫反対していたことが判明。米内の立場。英国だけ対象としても、米国は英国を助ける。英米は不可分である。両国から経済圧迫を受け、さらに両国と開戦したら、海軍としては勝てる見込みはないから。

 当時、侍従武官の平田昇・海軍少将が、米内に天皇の意嚮を伝えていたと思われる(p.223)。

 平沼内閣が倒れると、穏健派幹部が海軍省を去った。9月5日、及川古志郎が海相に就任したことで、海軍が三国同盟に傾いた。自動参戦義務を除外すればOKという。
 部長や局長が三国同盟賛成なので、トップの海相としてそれに順応したのだ。
 
 9-7の軍令部情報部長の岡敬純の判断。ドイツが英本国に上陸して勝つ。

 海軍の政策担当は1940-12に設立された「第一委員会」で、中心は、陸軍との折衝担当の石川信吾大佐。狂信的なところがあった。松岡洋右とは同郷。及川の下で働いていた特殊な関係あり。他に、軍令部の作戦課長の富岡定俊大佐。

 海軍は、先に対米戦を決心していて、その前提で、仏印進駐を進めている(p.227)。

 海軍の作戦研究は、米英の出先艦隊を叩くというだけで、その2年後にフル動員されてくる米軍をどうあしらうのかの研究がない、と1941に瀬島に語ったのは島村中佐。1945-1にGF参謀として戦死している。

 南部仏印進駐は米国による全面禁輸を招くと警報していた駐在武官もいた。海軍の横山一郎で、5月のこと。

 GFの燃料油は、日ごとに1万2000トンづつ涸渇した。
 海軍内部の過激派が陸軍と結託して、及川を強圧し、荻窪会議で及川は不決断に終始した。こう見るのは、豊田副武の推量だが、当たっているだろう。

 富岡作戦課長の戦後の告白。ドイツがイギリスを屈服させるから、アメリカはその世論の習性からして、戦意を喪失すると期待した。だから日本は限定戦争に勝てばよいのだと。

 海軍には対米一国作戦の頭しかなかった。複数国を相手にする戦争の研究を海軍が始めたのは、1941-6で、どうしようもなく後手である。

 そして日本国内のどこにも、国力の総合的・長期的判断にもとづく戦争のマスタープランを立てる機関が存在しなかった。

 陸軍も海軍も、石油の貯蔵量について、手の内を企画院に見せることを絶対に拒んだ。それが判明したのは、開戦の1ヵ月あまり前だった(p.233)。※この部分を書いているのは鈴木貞一か?

 日米交渉の見通しが暗くなったとき、海軍の保科善四郎・兵備局長が、対米戦備はとうてい不可能だと発言した。石川大佐らがさっそく保科のところへねじこみに行き、結論をひるがえさせた。

 在外武官の報告は、軍令部第三部(情報部)でフィルターをかける。
 しかし第一部(作戦部)はそれに頼っていられないから、特務班による外国無線通信の傍受、それと陸軍筋から直接にも情報を得ていた。

 石川は、米国についてはじぶんは外務省よりも詳しいのだという奇妙きわまる自信を抱いていた。だが井上成美にいわせると、石川は米国について何も勉強していなかった。
 敵について無知な中堅が開戦を主導した。

 陸軍にとっては、どの国相手であれ、「準備」と「決意」とは同義語でなくてはならなかった。マンパワーの大規模動員、その南方への集中、展開は、海軍のようにかんたんではないから。いったんこのプロセスが動きはじめたら、もう停止させられない。
 だから、海軍側が、戦争決意なき戦備促進、と言い出すのを聞いて、怒った。それは統制資材をぶんどるための国内政治謀略じゃないかと。

 海軍内の対米開戦派の系譜は、加藤寛治、末次、高橋三吉、大角、永野、そして伏見宮である。1930年代からの破局コースを、急には転舵できなかった。

 福留繁の『海軍の反省』いわく。
 山本大将の参謀長として福留がじかに聞いている話では、山本は近衛に対し、海軍の対米戦争継続能力は1年半だと説明したそうだ。

 近衛の記憶はあてにならない。連絡会議において軍令部総長が、米国とソ連とを同時に相手に戦争できないと発言したと近衛は言っている。そのような記録はない。

 1941の石油生産は、人造石油も加えても、平時需要の12%未満だった。
 永野は1941-7末に天皇に、石油を輸入できない状態で対米開戦した場合、ストックの石油は1年半で底をつくと答えた。大勝利どころか、日本が勝てるかどうかさえ覚束ないと答えた。

 企画院の3ヶ年計画なるもの。陸海軍+民需は年間3500万バレル。開戦1年目に、500万バレル供給できるだろう。すなわち、国産150万バレル、人造175万バレル、占領地からの取得175万バレル。さしひき3000万バレルは、ストックで充用する。開戦2年目の末に、ストックはゼロになるだろう。

 これを根拠に、「2年はもつ」という話になったのである。

 じつは真珠湾攻撃は失敗の可能性が大きかった。例年通りの海象なら、洋上給油ができないほど荒れるはずなのだった。

 福留もまた、対米戦争は、リミテッド・ウォーだと思い込んでいた。福留の認識では、WWIすら、有限戦争だったから。

 福留はS15に海大の戦略教官になり、そのとき、ドイツ国民はWWIのどの時点で屈服したかを調べたところ、食料の配給が平時の半分に減ったときだと分かった。
 だから仏印のコメは絶対必要だと思われた。仏印進駐をすすめた。
 また仏印まで占領すればオランダ人がビビって蘭印の石油を売るかもしれんとも期待した。

 ハルノートが出されたS16-11-27の前日の26日夜で、ハワイ攻撃部隊はすでに単冠湾から出撃していた(p.255)。

 S16夏時点の全日本の貯油量は700万トン。
 大井篤いわく。どんなに陸海軍がおとなしくしていても、年に350万トンの石油を、日本は消費する。

 高木惣吉の『太平洋海戦史』によると、S16-8-1時点で日本の全貯蔵量が940万キロリットル。1キロリッターは約2トン。
 産油は、内地で年に40万キロリッター。人造は30万キロリッター。

 種村佐孝『大本営機密日記』によれば、S16-10-29の判断で、貯蔵600万トン、生産30万トンと。

 USSBSのコーヘンが調べた数字だと、S16-12-7時点で、貯蔵4300万バレル=680万キロリットル。S16の国内産油は194万バレル=31万キロリッター。人石は122万バレル=19万キロリッター。

 陸軍は、南方侵略は比島→ボルネオ→ジャワ→スマトラ→マレーの右回りを主張していた。
 海軍は、まったくその逆順の、左回りを主張。
 けっきょく、フィリピンにもマレーにもほぼ同時に上陸し、ジャワは左右両翼から攻略することになった。
 ハワイの夜明けにあわせる都合から、マレーに敵前上陸する陸軍は暗夜の決行となり、おそろしく不利であった。

 帝国国防方針は、M42につくられ、大7、大17、S11に改定された。陸軍参謀総長と海軍軍令部長が協議して作成し、上奏裁可をあおいだのち、内閣総理大臣にだけ開示される。
 福留は、作戦課長になるまで、帝国国防方針の中身は知らなかった。

 陸軍と海軍の「同床異夢」は、こうした文書に意味曖昧な漢字を使うことによって可能になった。福留は、作戦計画には漢字は適さないと信ずる。

 大海令も、よくあんな要領不明な文章で戦争ができたものだと思う。いくさをするのに、作文がうまくても、なんにもならないのだ。

 S16-8末の「戦争を辞せざる決意の下」という文章は、陸軍が「戦争の決意の下」にしろと求めたのを、海軍の岡軍務局長が変えさせて妥協した。

 高木惣吉の『私観・太平洋戦争』いわく。
 日清戦争でも日露戦争でも、陸軍は朝鮮に開戦前に兵力を進駐させたがった。
 リッベントロップがソ連は3ヵ月で片付くといったのを大島大使が鵜呑みにし、杉山も信じた。それで関特演になった。
 FDRは7-4に特別書簡を近衛総理に送った。これは対ソ戦をするなよというメッセージ。

 満洲と朝鮮には、陸軍は、終戦時にも、トータルの5割を残していた。
 もし日米交渉が妥結しても、けっきょく陸軍はシベリアへ進攻しただろう。その結果、また米国の制裁になったはずだ。

 S16-3時点で対ソ戦を練っていたのは、参本の戦争指導班長・有末次大佐、作戦課・服部卓四郎中佐、陸軍省軍事課の西浦中佐。

 海軍の石川大佐は、青島で海軍特務機関に勤務したときに、陸軍式に政商を利用する術策を学んだ。軍務2課長になると、公用車をじぶん専用に乗り回し、部下を新橋や築地に招いてじぶんの派閥にとりこんだ。

 実松譲の『米内光政』いわく。
 ワシントンで10月16日、東條内閣成立を知ると、すぐにキンメルが太平洋艦隊を警戒配置につけた。
 ミッドウェーに潜水艦×2。ウェークに潜水艦×2(10月23日到着予定)。さらに日本近海に6隻の潜水艦を派遣できるように準備。

 11月26日に単冠湾を発進せよ、と、山本GF長官が11月25日に命令している。 

 サトケンの歴史認識。斉明天皇の崩御後に、中大兄皇子は任那放棄を決心した。天智天皇は、唐と交通して大陸文物を直接に輸入しようとした一方で半島からは撤兵したのである。

 日露戦争後の満洲移民には着実な農業移民はすくなく、ほとんどが、一旗組。
 シナ本土からの移民も最底辺の苦力階級ばかりだった。だから彼らの低賃金に日本人は絶対に対抗できなかった。
 豆餅と生ネギ1本と水で、苦力は1食済ます。1銭か2銭である。

 日本人の大工に仕事をたのめば、朝現場にやってきてからカンナをとぎ、2時間仕事してお茶と菓子。昼飯には蕎麦を要求して、日当は3円近くをとる。それに対して満人の大工は、仕事場に来る前にはカンナを研いであり、ただちに作業にかかり、お茶も菓子も昼食も要求せず、日当は50銭であった。

 ハワイ移民が成功したのは、現地の生活水準が高かったから。その逆の労働移民が成功するはずがないのである。

 ソ連は内蒙をまず赤化しようとし、その次は山東をと狙っていた。

 防共駐兵は、そもそも「九ヵ国条約」にまったく違反するものなのである。だから「名を捨てて実をとる」などという策略外交のできるはずがないのに、近衛や外相がそれができると主張するから、東條は怒った。

 蒋介石は、満洲事変後、「安内攘外」の政策をえらんだ。

 藤田尚徳侍従長の回想。
 占領中の天皇退位論の中心人物はワード・プライスだった。ヘラルド・トリビューンなどに寄稿。
 かたや、延安から伝えられた「日本共産党の綱領」は、天皇制を承認してその下で共産主義を実現すると主張していた。
 これは終戦直後に出獄した元幹部の主張と異なっていたから、ソ連の意向なのだろうと解釈できた。
 じっさい、後になって野坂参三が帰国すると、「愛される共産党」と言い始めた。

 昭和天皇は常々、朗々とした声で話す。だから耳の遠い鈴木貫太郎も、陛下のお声は大きいので、聞くのが楽だと言っていた(p.291)。

 キーナンいわく。彼個人としては天皇を証人として法廷に出廷させたかったのだが、これは同じ君主国の英国が、忍び難いと反対した。

 藤田いわく。終戦の決定は、天皇と鈴木貫太郎の合作であった。近衛や木戸とは、天皇の気脈は通じなかった。陛下と鈴木大将の間にのみ、一脈の気魄が通じたのだ。

 S19の日本の人口は、7200万人。

 サトケンの私見。日本では、憲法よりも聖慮を重しと考えなければならぬ。

 塩原時三郎の東條メモいわく。
 閣議には保存記録はない。すなわち、誰がどういう意見を述べたか、採決はどうしたか、それを書く書記はいない。
 その代わり、各閣僚は、じぶんの省に帰ったときに、局長たちに報告するための再現記録のようなものをつくるのである。

 閣議には、発言権がなくても、オブザーバーとして、書記官長、企画院総裁、法制局長官は出席する。ときには情報局総裁も。

 閣議は多数決ではなく、満場一致。閣議では、彼らは省の代理なのではなく、政府ぜんたいの代理、すなわち国務大臣だ。よって、重要事項に1閣僚があくまで反対すれば、その大臣が辞任するか、さもなくば内閣総辞職となる。
 
 宮内大臣は、立法には関係しない。

 御前会議の決定は、閣議を縛る。閣議において、すべては正式に決まるのである。

 東條の記憶では、S16-12月7日の夜遅く、天皇のお手許から、開戦に関する詔書の草案が枢密院へ回され、8日の朝、枢密院がそれを可決して天皇に奉呈。さらに天皇がそれを内閣に下付した。8日の11時半か12時頃、内閣は、そのことを新聞社に知らせた。

 閣議や御前会議で議事録をつくらないのは、秘密保持のため。

 東條はもしただの首相であったら、戦争計画を知らされる立場ではないが、大本営の一員であり、軍事参議官だったので、帷幄に参加できた。

 次の内閣の陸相を誰にするかは、陸相・参謀総長・教育総監の三長官が意見をまとめて、現陸相の輔弼の責任において、御裁可を仰ぐのが慣行であった。

 オランダ政府はロンドンに亡命していたので、英蘭一体なのは当然。
 大本営も政府も、ドイツは不敗だと確信していた。勝たないかもしれないが、負けることはないと思っていた。これを大前提として、日本は対米戦に踏み切った。

 ドイツは、もし英本土を占領したら、4700万人の住民の給養の責任は負わないと公言していた。とすれば英艦隊が太平洋に退避するなどという事態もありえない。

 独ソが媾和してしまって、日本だけが単独で米英と戦い続けるという事態になるのが、最悪だとわれわれは考えていた。

 がんらいラバウル攻略は、海軍の最重要根拠地のトラック島を掩護するためなのである。ラバウルに敵の航空基地がつくられると、トラック島は丸裸になっちまうので。
 陸軍は遠くラバウルにまで兵を送るのを渋ったが、海軍に押し切られた。

 ニューギニアをどうするかは、開戦時には、何も考えてなかった。陸軍も海軍も。

 もし開戦がS17-3まで遅れると、その時点で内地の油の保有量はゼロになるので困ると思った。

 マレー近海は1月と2月が荒れるので、開戦を1月にして欲しくはなかった。
 理想は、下弦の月が、正午頃に出る、そんな夜に奇襲開戦をしたいわけ(p.318)。

 S16-8月の日本の保有船腹は、油槽船に限ると、36万トン。
 S16年度の造船能力は、40万総トン。

 1941-11-5の鈴木貞一の公式説明。
 米穀年度は10月スタート、9月終了である。S17年度は、台湾から310万石、朝鮮から628万石を輸入。内地で5913万石を生産。タイから300万石、仏印から700万石を輸入するつもり。
 ※仏印はコメの大産地だった。

 パーム油は、代用機械油となる。
 人造石油のプラント建設には、2年以上、3年くらいかかってしまう。

 宣戦詔書は、11月中旬から連絡会議で討議した「開戦名目骨子案」を下敷きにしていた。

 日本は独ソを手打ちさせて、ソ連がインドやイランに攻め込むように誘導したいと思っていた(p.333)。

 関特演は、「全方位的戦略準備陣」であった。
  ※そこから対ソ戦も始められるし、動員済みの部隊を南転させて対英米戦にも使える。

 陸軍はシナ大陸を資源地域とみなしていたので、そこから撤兵しろというアメリカの要求は絶対に呑めなかった。

 赤松貞雄秘書官の手記いわく。
 ローマ法皇庁ではフランス語しか通じなかった。誰も通訳がいないので、〔スイス駐在武官だった?〕赤松が通訳した。

 塩原の東條メモいわく。
 真珠湾攻撃が成功したという一報を東條は朝の5時頃にとりつがれた。そのとき東條は官舎で寝ていた。(その後消失した永田町首相官邸の日本間で。)

 キーナンに向かい東條は「日本は正常な正当防衛をなしたのであります」と答えている(p.342)。

 ※国家に人格があって、その人格に正当防衛権があるという考え方は、戦前のドイツ国家学であって、米英主導の国際法ではなかった。くわしくは、篠田英朗氏著『憲法学の病』(2019)。この本を江藤淳が生きていて読んだならば、さぞ感嘆しただろうと思う。

 6日にマレー沖で日本のコンボイが米飛行機によって発見されていたので、とても奇襲は成功すまいと思っていた(p.343)。
 この船団は北西に進路を変えてバンコックへ航行するが如く装った。しかし東條は7日には敵によって洋上で全滅させられてしまうだろうと心配した。

 東京裁判でのブラットン大佐の証言。12月3日に、東京から駐米大使館&領事館にあてて、暗号伝と文書を破棄しろという命令が出たことを知った。さっそく部下を大使館へやって偵察させると、裏庭で文書を焼却していた。
 大佐は開戦当時、DCの陸軍省作戦局軍事諜報部極東課長。※いったい戦後はどうしたのだろう? 聞いたことが無いが。

 ロベルタ・ウォルステッターの著書いわく。
 11月1日に日本海軍は艦艇の呼び出し符合を変更した。
 12月1日、またしても艦艇呼び出し符合を変更。
 12月4日、米国政府は、在東京、天津、重慶、香港、サイゴン、ハノイ、バンコクの公使館に、暗号処分を指示。

 もし外交交渉の中止だけなら、大使は、暗号機械、暗号書を、おみやげの人形といっしょに鞄につめて、堂々と帰国すればよいだけ。まして領事館は、交渉中止のあとも領事業務を続行しなければならないのだ。

 海軍戦争計画部長のターナー提督らは、日本はソ連を攻撃すると堅く信じていた。

 S17-1、陸海軍が合議し、インドは日本陸軍が、豪州は日本海軍が担任することに決めた。
 
 海軍は、軍令部も海軍省も、挙げて、豪州に対する攻略を推してきた。連絡会議における研究議題の決定にあたっても、結論がおのずから対豪州侵攻になるように誘導しようとした。
 これが、開戦後に生じた最初のはっきりとした陸海軍間の路線対立だった。論争は、S17-2-9から、3月4日まで続いた。
 参本は断乎反対した。その理由は、まず豪州の広さは支那本土の2倍である。兵要地誌的な困難性が高い。人口も700万人あって、住民はその気質として、ゲリラになってでも徹底抗戦するだろう。それを攻略するとなれば12個師団が必要。輸送の船舶は最低150万総トン必要。これと在満の兵力維持は両立しない。
 つまり緒戦で南方に投入した以上の兵力を、海上4000海里を隔てた大陸に投入しようとする馬鹿作戦。放漫といわざるを得ない。こちらの策源からは遠く、敵の策源からは近い(pp.358-9)。
 ※陸軍の者は「策源地」とは言わない。「策源地」と言うのは海軍流である。

 これに海軍は折れたが、そのかわりにポートモレスビー攻略により米豪を遮断することで陸軍の合意を取り付けた。

 ※鳥居民氏は、参本は南方一段落のあとは対ソ戦を始める気だったが、海軍はぜったいにそれを阻止するために南方で徹底的に泥沼にわざとはまるような作戦を続けたのだとハッキリと書いた。

 S18-2-28時点での認識。米国は戦時兵力700万を楽々と維持できる。
 重慶は、食糧と軽兵器を自給できている。
 シベリアにはソ連兵は70万人いる(p.364)。

 S18-9-25の連絡会議。
 米国の目的は、ドイツよりも日本を完全屈服させるにある。※まだこんな勘違いをしていた。
 英国の目的は、ドイツを完全屈服させるにある。※チャーチルは対ソ用に生殺しでとどめようとしたけどね。

 米軍の空母はS20には37隻になるだろう。
 ドイツは1000万人の兵力を保持しているが、来年は困難だろう。
 
 東條はS18-3-13に南京を訪問して汪精衛主席と懇談。※日本の歴代総理大臣として初の外遊か?

 S18の東條の説明。満洲国は、帝国と、一徳一心の関係にある。
 仏印を本国より離脱させるまではしなくていい。
 南方では軍政を続けるが、原住民の民度に応じて政治に参与せしむる。

 S19-2中旬、トラック島が大空襲を受けた。東條は人心を一新するため、賀屋、八田、山崎の3大臣を更迭。みずからは、陸相にくわえて参謀総長も兼任した。

 永野軍令部総長に対しては海軍内では小林躋三大将などが開戦前から更迭させようと運動していた。
 海軍の人事は、海軍大臣がすべて独裁することができた。だが伏見宮をかついでからは、この元帥の意向が必須要件になってしまった。

 この時点でサトケンは、マリアナ放棄と比島決戦を提言していた。
 
 堀場一雄大佐は、こう言っていた。戦争指導の要諦は、戦争目的の確立、進軍限界の規整、終結方策の把握である。作戦指導の要訣は、決戦点の把握である。

 額田・参本第三部長の回想。
 S19-2-19、つまりトラック空襲の2日後、杉山参謀総長から、本日参謀総長は東條首相の兼任と決定された、と伝えられた。その場には、第一部長の真田穣一郎、有末第二部長も(秦次長はトラック方面出張中)。全員、寝耳に水。杉山と東條の間に激論などあったわけがないと断言できた。杉山は聡明なので、東條の理屈に納得したのだ。

 東條嫌いの永野が退くのも朗報だと思った。
 御殿場の秩父宮が「東條は幕府を作った」とか言ったそうだが、そう聞いても驚かなかった。額田は東條が総長室で「自分は御殿場に赴いて切腹する」と言うのを見た。

 東條の参本初登庁は2-21(月)だった。さすがに緊張していて顔面蒼白だった。

 額田はS18はじめに、日大教授の高橋学而から質問された。「オーバー・ベフェールとは何か」と。高橋は、WWIの列国の統帥機構を研究し、日本だけ異常だと思っていた。

 M26に軍令部長が天皇に直隷することになったのだが、戦時には、参謀総長が陸海両軍の参謀長とされていた。
 ところがM36に、陸軍が譲歩して、戦時にも陸海同格となった。これが一大禍根だ。

 阿南陸相から額田は言われた。「統合幕僚長」の下に陸軍参謀総長を置くのでその人選をせよと。それで額田は、岡部直三郎を第一候補として答申した。だがけっきょく、米内海相に、陸海一体化の熱意はなかった。

 杉山の証言。東條は、もし参謀総長を兼任し得ないならば、戦争完遂の自信がないからただちに桂冠する、と脅したので、山田教育総監ともども、同意したのである、と。

 林三郎・参本ロシア課長の証言。
 新体制では、参謀総長の下に、次長が2人つくことになった。しかしこの2人の人事は部内で不評だった。ひとりは後宮大将。東條の陸士同期で、情実人事である。後宮は、次官であるのに、米軍戦車をいかにして破壊するかの問題に集中した。精巧な兵器を今から作る国力も時間もないから、「爆薬を抱いて戦車に突進する戦法を採るべきだと強調した。その結果、この肉弾戦法を多分にとり入れた対戦車戦闘法が、でき上ったのである」(p.393)。

 服部卓四郎『大東亜戦争全史』いわく。
 S19-6-16に成都から二十数機(主力はB-24で、少数がB-29)が北九州を初空襲。
 済州島のレーダーで捉えていたから、これは奇襲ではなかった。
 撃墜7機。うち1機がB-29であった。

 今次戦争では、交戦国双方に対して仲裁的役割を果たすべき実力のある第三国は存在しなかった(p.398)。

 近衛と木戸は、ミッドウェー敗戦いらい、和平探求に動いていた。
 東條は、参謀総長を辞任するにさいし、腹心の後宮淳を昇格させんとしたが、部内の猛反対に遭い、関東軍総司令官だった海津にお鉢がまわった。

 近衛はMI敗戦前は、東條に戦争の一切の責任を負わせると言っていた。しかしMI敗戦で気が変わった。
 近衛は、陸軍統制派=レーニン主義者だという構図がよくわかっていた。

 重臣会議での米内の発言。「元来軍人は片輪の教育を受けて居るのでそれだからこそ又強いのだと信じて居る。従つて政治には不向なりと思ふ。」

 米内は、寺内元帥に次の総理をやらしたらどうかと提案。阿部大将は、それは困難だと反対。寺内は直情径行で陸軍内の輿望がない。インドシナから呼び返すのも大手間だ。
 阿部いわく、梅津なら人物だからOKだ。

 近衛いわく。自分は敗戦よりも〔陸軍統制派による〕左翼革命を恐れる。敗戦しても国体は保つ。革命となれば国体が潰される。
 次は鈴木貫太郎ではどうか。

 原枢密院議長いわく。鈴木は軍人だから、大命ありとも絶対に拝受せず、と言っている。

 米内は小磯を推した。
 平沼いわく。小磯については宇垣の事件〔3月事件〕につき、御尋ねありたり。

 寺内は、連合軍反抗の最前線にいるので、それを呼び戻すと、占領地の民心に影響がある。

 阿部大将のみは、小磯・米内連立内閣に反対であった。

 星野直樹の記録。
 S18のある連絡会議で、米軍がラバウルを放置してマーシャルに進出するだろうという報道について、永野軍令部総長は、マーシャルで海のタンネンベルグができるとフカしていた。ところが海軍は何もできなかった。

 星野の見るところ、東條の不満は、海軍に物資を渡してもそれが対米作戦に使われていないと思われること。だから海軍の統帥部をコントロールするために、自分が統帥部にも顔を出す方途を考えた。すなわち、総長の兼任。

 東條は、天皇から、国務・統帥の兼任をやめろと間接的に伝えられた。
 それを不信任とは受け取らずに、内閣改造に着手。
 国務相の岸(軍需省においては次官)と、小泉を閣外へ出して、かわりに、重臣の阿部信行と米内を入閣させようと考えた。
 岸は以前から星野に、辞めたいという意思をもらしていた。しかし、自分が辞めるだけでは意味がなく、重臣をひき入れて挙国一致内閣にしないとダメという立場。

 米内は断った。阿部は、米内といっしょでなければ意味が無いという態度。
 こうして開戦後2年7ヶ月で、東條内閣は倒れた。

 赤松貞雄秘書官の手記いわく。
 WWIのマルヌ会戦の前、師団長らが直接戦場から仏政府首脳や代議士と議会運動をして作戦を難しくしていたので、ジョフル元帥が全員を軟禁して策動を封じたことがあった。その真似をしようかとも考えた。

 赤松は、松平康昌の関係で、福井の旧家臣である岡田啓介と話がしやすかった。女婿の迫水久常は内閣参与で同僚だった。

 阿部は入閣を承諾。米内は保留。
 閣僚のポストがひとつ不足し、誰かに辞めてもらわねばならない。それで岸に声をかけたが、岸は辞表提出を拒否した。辞表を出さない閣僚を、首相が罷免することは制度として不可能であった。 
 依願免職を奏請する道もダメ。なぜなら岸のバックには木戸内大臣がいるから。岸と木戸は長州閥なのだ。
 岸と木戸の策動については、阿部が赤松に逐一、知らせていた。

 東條は、首相になるとき特旨によって現役大将を続けて陸相を兼任したので、総辞職するときにすぐに予備役願いを出した。これによって、軍事参議官でもなくなった。

 東條いわく。奈良県から偉人が出ていないのは、何か欠陥があるのではないか(p.419)。
 東條は、楠木正成の階級に関心があった。死んだときは兵衛尉つまり少将相当だ。死後、左近衛の中将になった、と。

 元参本の総務課長の榊原主計大佐が、S20-11に大森に入所して、東條に面会したときの記録を残していた。自決(失敗)に使った拳銃は「陸軍の制式拳銃なり」(p.422)。

 下村定いわく。
 自決があの日になったのは、裁判に提出するための供述書の浄書ができるのを待っていたからだと。

 清瀬一郎いわく。
 共同弁護人の塩原時三郎から聞いた。
 ピストルは、東條の女婿の古賀少佐が、8-15に自殺したときに使った軍用銃で、当日、東條はこれをからだにつけておった。

 用賀にあらわれた米人の新聞記者たちは全員、規則によって軍服を着ていた。
 弾丸は、心臓をかすっただけで、背中へ貫通してしまった。
 遺書にいわく。「惟ふに今後、強者に跪随し、世好に曲従し、妄誕の邪説に阿附雷同するの徒、鮮からざるべし」。
 この文飾は、当時日本言論文筆及び史学界の最長老某氏の添削を経たものだという。※蘇峰以外にねーだろ。

 ロバート・ビュートの記録。
 用賀の東條邸は、平屋で、外観だけ半分西洋風の日本家屋。高台にあった。
 逮捕の瞬間を取材するため、記者とカメラマンたち、それから某記者の女友達である白系ロシア人1名が、そこに殺到した。

 東條の4人の娘といちばん下の息子は、九州に行かせていた。数日前から。
 心臓直下の傷口から、血が吹き出していた。東條はまだ意識があり、右手にピストルを握っていた。
 クラウス少佐が、ピストルを捨てろと命ずると、彼はポタリとそれを離した。

 パラシュートで脱出した場合にそなえて米軍パイロットが与えられているのと同型の、0.32口径のコルトであった。
 アイケルバーガー書簡によれば、このコルトのシリアルナンバーは、535330であった。陸軍省から買ったものだと東條は言った。

 この拳銃とは別に、テーブルの上、手の届くところに、0.25インチ口径のピストルと、白布で覆われた抜き身の刀もあった。

 2世のジョンソン医師は、弾丸が貫通した表と裏の傷口を繃帯できつく押さえた。

 米軍規則では、将校だけではアンビュランスを動かしてはならず、かならず下士官に運転させねばならない。

 出血量からみて、心臓に当たってないことは確実だが、東條の脈は微弱になっていた。
 傷口は、開放性気胸になっていた。
 少量のモルヒネを静注。
 
 横浜に、第98エバキュエーション・ホスピタルがあった。占領軍が設立した唯一の米軍病院だった。小学校の跡地に。

 ニューギニアで17ヶ月過ごさねばならなかった米陸軍の軍曹が、東條のためにB型血液を提供した。

 東條夫人いわく、夫は右ききではあるが、力のいる仕事をするときにはいつも左手を使っていた。夫人は、東條が左手で拳銃を持って狙いが狂ったと信じている。これはクラウス少佐証言により否定される。
 ※ようするに天然の左利きだったのが、矯正によって右利きにされていたわけ。

 朝日新聞法廷記者団著『東京裁判』いわく。
 ニュルンベルクで説明されたこと。裁判所条例は事後法=エクスポストファクトロー ではなく、1928-8-27のパリ条約という国際法の表現なのである。

 法廷での東條は、差し入れられた、仕立ておろしのカーキ色の軍服を着用した。
 東條が内務大臣の兼摂を解いたのはS17-2-17。

 リットン報告書は満州事変に関して「自衛権の発動」という思想を否定している。
 対米交渉の方針は、さいしょから、一定の時期を画して、その後は戦争の手段に訴えると決めていた。戦争するという国是が先に確立されていたのだから、外交は開戦の道具でしかない。平和への熱意などどこにもなかった。

 強盗が時計をとりあげようとするのに「ノー」と言った。これがハルノートなのである。強盗のすることに逆らう言説を「最後通告」というのが日本人。

 原田熊男(西園寺の秘書)の日記は二級資料でしかないことを東條は法廷で暴露した。

 ハルノートに含まれていた三原則は、すべて日本が1922に署名した九ヵ国条約に含まれていたことばかりではないか。
 その条約が後に状況に合わなくなってきたのなら、関係諸国を集めて条約内容を再検討させようとするのが筋であろう。日本はそれをしていない。つまり国際法なんてどうでもいいんだと態度で示していた。

 軍政は、総軍司令官が統轄している。その部下の軍司令官が担当地区の執行権をもっている。その中間にある方面司令官の分担は、東條はよく知らない。たぶん、方面司令官には責任はなかった。

 捕虜の輸送途中の命令は、統帥系統が出す。
 戦陣訓は、S16-1に、東條陸相が出した。

 陸軍大臣は軍法会議を開かせることができず、それをやるのは参本だった。
 1月8日付け毎日新聞。日本では戦争は政治ではなく、官吏の事務だった。満州事変以来の戦争はすべて官吏の事務だった。一人の政治家もいなかったのだ。

 金子堅太郎が書いたものによれば、明治憲法の原案には、天皇は陸海軍を統帥す、陸海軍の編制は勅令を以てこれを定む、とあったのに、それを、たんに、天皇は陸海軍の編制を定む、に直されたと。

 佐藤賢了の見解。
 東條のおびただしい数のメモは、敗戦と同時に焼き捨てたようだ。
 サトケンの主任弁護人は、草野豹一郎博士と、米人のフリーマン氏。

 経済封鎖こそは戦争の第一歩であるから、政策の手段として経済封鎖は放棄すべきである(p.485)。

 サトケンの副任弁護人としてブラナン。
 獄中では、筆記具は、戦後製の粗悪な鉛筆1本だけ。それを削るには看守にいちいち頼まねばならない。

 サトケンいわく、アメリカがやっているベトナム戦争のどこが自衛なのだ。

 菅原裕『東京裁判の正体』いわく。
 ブレグニー弁護人は、オッペンハイムを引用して、侵略戦争でさえも、戦争をしたということは国際法上違法とはされない、と主張。国際法に侵略の定義がない、とも。

 清瀬弁護人が開廷まもなくにして言ったこと。日本は無条件降伏したのではない。無条件降伏したのは軍隊だけで、国家としてはポツダム宣言を受諾して戦争を止めたのである。
  
 サトケンの見方。田中上奏文(共同謀議の証拠だとされた)にかかわる失態をとりつくろわんがために、広田内閣の「国策基本要綱」が注目され、その結果、広田は文官でただひとり、A級絞首刑になった。

 サトケンが若いとき、米国に駐在し、田舎の教会を訪れた。昔そこで尼さんが妊娠し、戒律に照らして火焙りにされた。その腹の子の父親は宗教裁判の裁判長の牧師であったと(p.494)。 ※いったいどの宗派の教会だよ。まさか『緋文字』の伝聞じゃ……?

 菅原裕は、荒木の弁護担当だった。S28に『東京裁判の正体』を書き、それはS36-10に時事通信社から公刊された。

 清瀬一郎の記録。
 判決言い渡しのとき、菅原は見た。板垣は非常に緊張していた。武藤は口をへの字に曲げたが、これは田中隆吉のことを考えたに違いなかった。 

 東條が、花山信勝に告げた遺言。抑留者や戦災者の霊も、遺族の申し出があったなら、靖国神社に合祀して欲しい(p.505)。

 東條の身長は5フィート4インチ。体重は136ポンド=62kg。

 陸軍内部の反東條の名士は、寺内寿一、多田駿、山下奉文、阿南惟幾、石原莞爾。

 寺内は最長老の元帥。東條は、南方軍司令部の位置を奉勅命令でマニラに引越しさせた。寺内に対するイヤガラセの意味があった。

 多田は、東條が板垣陸相の次官だったとき、参謀次長であった。板垣と多田は共に支那派で幕僚付き合いが長かった。
 東條陸相は、多田が北支方面司令官だったときに、大将に進級させると同時に軍事参議官にして、予備役にしてしまった。

 有末精三によれば、東條は、1期あとの酒井鎬次や、もっと下の鈴木率道をも敬遠した。つまりは、頭脳明晰な者を嫌っていた。

 東久邇宮は石原莞爾ファンであったことが、東久邇宮の日記でわかる。
 東久邇はフランスに留学したとき、ペタン元帥とクレマンソー元首相から忠告された。次の戦争でアメリカは日本に先に戦争を仕掛けさせてやっつける気だから、気をつけろよ、と。
 S16-12-29に東條は東久邇に、この調子ならオーストラリアまでも容易に占領できると思う。この時機に和平などは考えるべきではない、と傲然といった。

 京都の若松華瑤は、東條首相の私設秘書で、東久邇の連絡担当。
 S17-4-14の石原莞爾の考え。まず独ソを和平させる。その成立ののちに、ドイツをして英国を撃破させる。重慶とは直接交渉して休戦。アメリカとも休戦。ソ連はアジア人の味方にしなければいけない。

 東條がやろうとしている国務と統帥の兼任は、幕府時代への逆戻りだと指摘したのは、杉山が第一部長の真田穣一郎少将に書かせた内奏案。

 前田利為は東條と陸士同期。S17-9にボルネオ方面軍司令官として戦死した。生前は、アンチ東條だった。
 満洲時代に2者の関係が悪化し、東條が陸軍次官のとき、前田は予備役に編入された。
 その後、貴族院に属し、機械化国防団の総長などもつとめていた。三国同盟には絶対に反対だった。
 独ソ戦が始まったとき、日記に、ドイツは3ヵ月で手を引かなかったら敗北する、と前田は書いている。
 S16-12-15の日記には、遅かれ早かれソ連は必ず対日参戦する、と書いている。
 対米開戦で現役に戻され、S17-4に出征し、作戦命令でラプアン島へ飛んでいるとき、撃墜された。9月5日。
 東條は、「戦死」「戦没」という用語を弔辞で使うことを禁止し、「陣没」に統一させた。

 藤田尚徳侍従長(海軍大将)の回想いわく。
 米国は、1945-3月1日までに日独に対して宣戦せざるものは4月25日の会談には参列せしめず、という脅しを巧妙に使った。

 米国の人口は1億2000万人(白人だけなら8000万人だから日本と大差は無い)。
 ※いや3人に1人も黒人だったわけないだろ。
 
 陸海軍合計1170万人。動員労働者は6000万人。
 
 サトケンの石原評。
 せっかちで、他人を納得させるだけの説明をしないので、第一級のエリートたちは、敵になったり敬遠したり。
 着想を、既製組織の事務手続きにのせて定着させる、根気のいる努力を、彼の健康にめぐまれない体質から、怠りがち。
 だから、永田、梅津、武藤のような人材を取り込んで味方にすることができなかった。満州事変は、少数の同志だけで決行できたので、成功したのだ。

 樋口季一郎の証言。
 樋口は石原の親友。
 石原と東條の対立は、ベリヤとマレンコフの対立にそっくりだ。ベリアは、ソ連邦内の構成諸地方を対等に扱おうとした。
 満洲国防婦人会は、会長が張景恵夫人だが、東條夫人が牛耳っていた。

 石原は軍人のあいだには同調者がすくなくて、民間人にファンが圧倒的に多い。
 東條は憲兵に石原を監視させた。憲兵は東條に媚びて、あることないこと報告したから、憲兵が両者をますます反目させるに至った。

 秩父宮は、石原シンパであり、アンチ東條だった。歳は石原の方が上だがポストは秩父宮が上だった。

 藤本治毅の記録。
 東條英教の父は、福岡の黒田侯に仕えていたが、のち、奥羽の南部侯に能狂言を以て仕えた。英教のときに、本籍を東京へ移した。
 英機は陸士17期、莞爾は21期である。だが陸大に兵学教官として勤務したのは同時。

 サトケンの石原評ふたたび。
 参本の作戦課とは戦争をすることを考えるところで、和平だの、攻勢終末点だの、そんなことを考えてはいけないのだ。謀略と言い換えてもダメだ。和平外交を作戦の本尊がしようとするのが間違っている。
 S15春、ダンケルクの神風が吹いたときこそ、昆明や重慶まで進撃して、それによって泥沼から抜け出るべきであった。
 サトケンは、昆明作戦を企図した。

 岡田丈夫の近衛伝記いわく。
 末次信正、中野正剛、橋本欣五郎らは、支那全滅論を唱えていた。
 近衛によれば、鈴木貞一は皇道派で、池田純久や秋永月三が赤化幕僚だった。
 細川日記には、池田は梅津の子分であると。
 近衛は、柳川平助中将を、総理兼陸相に起用したかった。

 藤田尚徳の近衛評。
 天皇は近衛を信頼してなかった。鈴木貫太郎や米内光政にはガッツがあったが、近衛には勇気が無かったので。

 細川護貞の記録いわく。
 S19の3月27日時点で、さすがの憲兵も意気消沈していて、重臣の反東條の動きに対して、敏感・執拗には反応しなくなっている。

 木戸は長州である。長州派は、皇道派とは合わない。

 中野正剛はS18-10-27午前零時に「断十二時」の遺書をのこして死亡した。58歳。
 ※過去に何度か書いたが、これは憲兵が刺し殺して自死にみせかけたというのが私の推定。権力に媚びる憲兵はそこまで暴走してしまうのである。

 蘇老泉の「管仲論」にいわく。一国は一人をもって興り、一人をもって亡ぶ。

 ナチス体制を褒めながら、比較にならずゆるいファッシズムである東條体制を非難する矛盾。

 朝日新聞はS18の元旦号に、中野の「戦時宰相論」を載せた。依頼したのは緒方竹虎主筆。発禁処分をくらう可能性がある論文は、当時は、事前検閲を受けていた。一字一句の削除もなしにパスした。人によっては、東條を激励する内容だと解したぐらいだった。
 ところが屠蘇気分で新聞の初刷りに目を通した東條は、中野の写真入り、囲み十段の記事を読みおわるや、ただちに卓上電話を取り上げて情報局を呼び出し、朝日の発禁を命じた。
 新聞はすでに配達済みだったから、実効などなかった。
 発禁の報が社内に伝わるや、居合わせた社員は一斉に萬歳を叫んで歓呼したという。

 中野の盟友の松前重義(通信院工務局長)いわく。中野は簡単な憤慨だけで自刃なんかしない。自刃をさせる暴力が加わっていたに違いない(p.589)。

 終戦後にNHKが放送した「真相箱」は、東條が、自決の機会を与えてやる。武士らしく自分で始末をつけないなら、われわれの手で片付けるまでだ、と最後通牒を送っていた、という。
 この最後通牒がもし事実ならそれは東條憲兵隊から出たものであろう。

 中野は衆議院議員であったため、臨時議会中の3日間、釈放されていた。3日間あるのに、その最初の夜に死んでいる。追い詰められての自殺であるはずがあろうか。

 中野の片足は義足である。片足のない者が投獄されると、たいへん苦痛である。
 岳父の三宅雪嶺は、死の真因は永遠の疑問だとした。
 憲兵は中野の前に、三田村を行政検束していた。

 10-24夜に、総理と閣僚が集まって、中野をどうするか相談した。内相は、中野は演説をやめさせるとこんどは座談会をやるなど、舐めている。徹底的に弾圧したいという。
 松坂検事総長は、議会中に議員を行政検束するのは憲法精神の上で間違っている。反対党を抑える先例になり、国家永遠のために悪い。保護検束は24時間以内だし、行政検束もがんらい一時的なものだ。
 
 大麻国務相いわく。行政検束で議会中の議員までも収監されるとなったら、いままで中立の代議士たちも恐怖を感じて反東條になってしまう。だから反対だ。

 東條の意見。戒厳令を出したくないと思ってやってきた。なぜなら、それをやると国内総生産が落ちてしまうから。しかし反東條文書が出回るのを止められないようなら、戒厳令もしかたがない。

 東條いわく。さいきん第一線からもどってきた兵隊たちに聞いたところ、朝鮮の独立委員ができたというニュースを聞いて皆、ひやっとしたと。軽易なことでも第一線の将兵には重いニュースとして伝わる。不安を与えてしまうのだ。

 警視総監の認識。いまは戒厳令を敷く一歩手前の段階だ。

 国士舘大学講師の近藤真男が並木書房の『軍事史学』8巻4号に載せた見解いわく。
 第83臨時議会は25日に召集される。
 行政検束されていた中野は26日に警視庁を出た。するとすぐに憲兵隊が拉致した。監視の憲兵2名も派遣された。
 東條と四方憲兵の関係は、水野と鳥居、あるいは井伊直弼と長野義言の関係と同じ。そういった圧政コンビが、中野をイビリ殺したのだ。

 軍事評論家の高宮太平は、中野問題について東條と直接に語り合ったことがある。その『昭和の将帥』いわく。
 独裁者の最高権力者には「垢」がつく。東條の垢の最たるものが憲兵だった。放っておいても蟻の甘さにつくがごとく、憲兵というものは権力者にたかってくる。
 もし多少でも色よい顔でもしようものなら、蝗の如く空を覆って蝟集してくる。荒木陸相の〔皇道派の〕場合がそうであったし、東條〔の憲兵たち〕もまた然り。
 
 東條が中野を殺せと命じた確証がないかぎり、下手人は憲兵である。「憲兵は中野を殺すことが、東條に忠なるゆえんと解してやったことである」(p.600)。

 中野はムッソリーニやヒトラーにも面会したことがある。
 高宮は福岡出身で中野からは後輩にあたる。
 高宮が東條に「世間では閣下が殺したように言っていますが……」というと、東條は、「君は中野の家来か」。緒方の家来なら中野の家来じゃないか。「中野のことで俺に文句をつけようというのなら……面倒になるぞ」と高宮を脅した。
 首相在位中の会見で、こんな後味のわるい思いの残っていることはない。
 
 退陣したあと、用賀を訪ねた。満員電車で。東條のオーラは、昔の少将くらいの頃に戻っていた。東條邸の庭には頑丈な防空壕がつくられていて、何トン爆弾かの直撃を受けねば壊れないと自慢して案内してくれた。

 その後、何度か用賀で雑談したが、東條はとうとう、開戦に関する反省は口にしなかった。あのとき開戦したのは当然だという考え方だった。それでなければ、生きていられなかったであろう(p.602)。

 戦時宰相論の中では、WWI中のドイツの「補助勤務法」が批判されていた。15歳から60歳の男女に強制労役を課したもので、逆に生産力は減退し、国民は指導部を怨んだ。

 勅任官二等兵。すなわち松前重義の懲罰召集事件。
 S19-7-18に電報が。召集令状発せらる。
 通信院の課長以上と技術者は、「余人をもって代えがたいもの」として召集免除のはずであった。松前は42歳の工務局長である。勅任官であるから、天皇の許可なくしては召集されない。
 それが、工兵隊の二等兵にされた。

 松前は、14年前にアメリカの工業を視察したことがあった。日本の軍需工場を十数か所見て、その生産力は14年前の米国工場にも甚だ見劣りするとわかった。企画院は嘘の数字を政治的に発表しているということを知った。
 そこから独自調査をはじめ、日本の鉄鋼生産力は年間三百数十万トン、米国のは1年で1億トンだとつきとめた。
 このデータが反東條の人々に渡された。
 だから東條が怒ってじきじきに松前を懲罰召集させた。

 マニラの寺内総軍司令官は事情を察して松前二等兵を司令部附にし、軍政顧問を委嘱して、平服着用を許可した。 
 小磯内閣になっても松前の召集は解除されなかった。
 けっきょくS20-5-20に召集解除。内地では通信院総裁となった。

 清沢洌の『暗黒日記』いわく。
 中島健蔵からマレイのことを聞いた。マライ人にはナショナリズムはないが、ジャバとスマトラにはあると。その独立を約束したのに実行しないので現地人は不満である。 

 9-29に軍需省ができて、商工省と企画院は廃された。
 10-5、青山学院と立教大学はキリスト教なので迫害されている。幕末と同じだ。

 10-19、徳富蘇峰と末次信正、中野正剛は、開戦に責任がある。外交界では本多熊太郎・駐ドイツ大使。
 FDRがアルゼンチンのユダヤ人弾圧を攻撃している。

 10-27、午後の夕刊にて中野正剛の自殺を知る。僕は大東亜戦争勃発に続いてのショックを受けた。かれは、開戦すれば米国はただちに屈服すると公言していた。中野は、英国へ行けば英国流の考え方に堕するおそれがあるというので英国に行かなかった。ひとつのイデオロギーを守るために、他の説を聞かない。宗教である。かれは「真」を恐れた。
 今日聞いた話。S19-2-23の毎日新聞が、特号活字の記事を一面に出した。トラック島がやられたという発表の直後。敵は鋏状に侵寇してくる、と強調。本土沿岸で待っていてはダメで、特火点になっているラバウルやニューギニアで決戦しなければダメだと。ゆえに、竹槍では間に合わぬ。海洋飛行機を造れ、と。
 この記事を東條は、その日の午後3時に読んで、怒った。敵が沿岸まできたら万事休すとは何事かと。東京が焦土に帰しても日本国民は飽くまで戦うのだと。
 情報局は慌てて、午後三時半になって、毎日新聞の発表を禁止した。
 数日後、その記事を書いた記者に突然、徴兵命令の赤紙が来た。海軍省の出入り記者で、41~42歳。国民兵である。それが丸亀連隊に入隊させられた。海軍省が怒って除隊させると、その翌日、また徴兵された。いまも丸亀にいるという。この話ほど東條の性格をいみじくも画き出しているエピソードはない。ことに、極端なる御用新聞の毎日なだけに、興味はいっそう深い。

 有末精三の証言。
 有末が陸相秘書だったとき、東條少将は軍事調査部長。週1の局長会議では、山岡軍務局長は何も言わない。東條がひとりでまくしたてていた。

 東條はその後、陸士の幹事→旅団長→関東軍憲兵司令官→関東軍参謀長→次官→航空本部長→大臣。

 急に浮かび上がったのは、関東軍参謀長時代であった。
 その頃有末は、陸軍の爆撃機が航続距離が劣るためにぜんぜん活躍できていないので歯がゆかった。そこで、スペインで活躍しているイタリアのフィアット社のBR20爆撃機を、日本陸軍で購入できないか、調査照会を依頼した。その結果、半年間で1000機を製作可能で、1機を80万円で売ってもらえるという見積もり。これを東京に進言したが、反応は鈍く、見本に1機だけ購入するという返電だった。むこうは機密情報である生産能力まで明かして協力の姿勢を示してくれているのに、1機の購入だけというのでは酷い。せめて100機を買うのでないならば、私を免職にしてくれとの強硬電報を発し、やっと中央は、重爆72機、発動機144基など6000万円の予算を付けた。従来の陸軍航空本部のやりかたからは、破天候である。
 この製品輸送は、機体を分解せずに、毎月、イタリア商船1隻に12機ずつ積んで、リボルノ軍港から大連まで運ぶことになった。
 これについて、対イタリアの連絡員として、当時フランスにいた大川幸夫少佐をイタリアの航空アタッセとして転勤させてくれたのは、東條の事務処理の機敏なところであった。

 ジャワのバンドンは、そこからラジオ電波を飛ばすと、アメリカでよく受信できることがわかっていた。末次は、そこから和平放送をしてはどうかとS18に意見具申した。

 泉可畏の証言。
 S8から関東軍副官を5年間務めた人物。
 東條はS16に東京陸軍幼年学校で講話している。いわく。M32に入校したときぜんぜん勉強しないで、50人中尻から2番目の卒業成績だった。中央幼年学校に進むと20名の上級生から袋叩きに逢った。悔しいが屈強の20人に復讐する方法はじぶんの腕力ではとうてい無理である。頭で競うしかこいつらに勝つ方法は無いと悟った。それから一生懸命勉強するようになった。

 東條が関東軍参謀長だったとき、東條の長男が、新京の首都警察庁に警察官として在勤していた。その警察庁に勤務していた日本人の女子職員が、その長男の夫人になった。熊本の五箇荘出身の人だった。

 稲田正純の証言。
 大14の陸大。東條教官の戦史の教え方は拙かった。マルヌ会戦を講義するのに、種本1冊に依拠していた。それはフォン・クルックとその参謀長フォン・クールの回想録で、稲田は仏語スクールなのでその仏訳本を探して、東條教官の出題の先手を取ることができた。敵軍側の資料などまったく参考にしてないのが、東條流だった。フランスの地名もぜんぶ独語風に読んで、それですましていた。
 稲田は大12から陸大生だが、同期生には山口県出身は一人もいなかった。そういう時代だった。初審には長州出身者が17名通っていたのに、再審の面接で全部落とされているのだ。東條教官とその父親の世代は、むかし、長罰の横暴にやられた世代だった。東條英教は陸大1期の首席だったのに、岩手出身のため大将にはなれなかった。その報復が行なわれていた。※山県有朋が死んだので。

 昭和2年頃、参本の要塞課(防衛課)の課長が例外的に山口県出身の河村恭輔大佐であったが、彼は、周囲からの反発を買わぬように、非常に用心しているのがはっきりと看取されたものである。
 S18-3-2の作戦会議。東條は、ガダルカナルのヘマを帳消しにするために、ビルマの反攻打破をやりたいようだ。

 稲田は、巣鴨で澤田茂中将に、S15-7に近衛内閣の陸相として東條を推薦したのは誰なのか尋ねてみた。阿南次官と澤田次長であったそうである。
 富永少将は、S16-4から人事局長だったが、18-3に次官に昇叙してもひきつづき人事局長を兼任して、東條内閣が果てるまでやめなかった。東條からよほど気に入られていた。

 寺内は、後先見ずの殿様根性なところがあった。
 シンガポールでは、鹵獲した英人の自動車を、次の作戦のために軍が整備するでもなく、兵隊たちが勝手に私有車にして乗り回していた。これを東條が目撃したので、寺内に対する憎しみが強まった。

 インドネシア軍を育てる場合、稲田の考えでは、戦闘技術はどうでもいいから、人間把握に長じた親分肌の人を幹部にするべきである。

 稲田にとって、阿部信行は岳父である。
 ニューギニアでは東部にこだわりすぎて連戦連敗していた。さっさと西部に後退して、比島にかけての決戦場を準備すべきだと稲田は繰り返して意見表明していた。

 海洋中に散在する島を視察するには、水偵が絶対に必要だった。しかし陸軍には水偵がない。海軍から融通してもらうには、戦車かなにかを代償で与えねばならない。
 たまたま、土浦で訓練をうけた軍属がマクノワリ(ニューギニア西部)にいて、水偵を操縦できたので、稲田は助かった。

 陸軍は「安定確保」を合言葉のようにして、すべての離島にわずかな兵力を分散させたがった。まさに幕僚の気休めだった。常続的補給の手段がなければ、そんなのはすべて、捨石となるしかない。敵が上陸すれば玉砕、迂回されたら餓死というのがオチだった。

 大きな戦争になると、良心が麻痺して、人を殺すことを何とも思わなくなるのが、幕僚の悪い癖(p.648)。

 8月2日、シンガポールで、重爆飛行団長の田中友道少将の話を聞いた。彼いわく、双発の重爆はどっちつかずでダメだと。すぐ焼けると。米軍だったら、双発が混ざってもいいのだが、日本軍がその真似をしたって分が悪いにきまっている。陸軍の重爆はやめてしまって、邀撃戦闘機だけに生産を集中したがよい、と。爆撃機パイロットからの転換訓練は三ヶ月でできるから、と。

 筆者は、統帥とは人事なり、と考える。適材適所ができたら、あとはおおまかに任せたらいい。東條はそれができなかった。

 後宮淳の証言。
 後宮は、大阪地方幼年学校の出身。中幼と陸士では、東條とは中隊が別で、語る機会もなかった。

 永田事件のあと、後宮が人事局長として、東條を関東軍憲兵司令官にした。これは、関東軍の参謀長にする前に、満洲を一通り体験させる必要があるので、そのワンクッションだった。最初から、関東軍参謀長にするつもりで推薦した。

 大島浩の証言。
 大尉のとき、いっしょにドイツで暮らした。
 東條が陸士に入ってから勉強するようになったのは、日露戦争が契機だろう。特に開戦前の三国干渉。

 東京裁判では、大島の弁護人は、カニングハム。
 大島の感想。ニュルンベルクでは、A級の被告1人ずつに、数ページを費やして詳細に罪科を挙げた。東京裁判では、全員ひとからげ。曖昧粗雑で、広田を軍事参議官と言ったりしている。雲泥の違いがあった。

 片倉衷の証言。
 東京裁判で、片倉は、板垣征四郎の特別弁護人であった。

 高宮太平の証言。
 富永は東條の眼を直視して話せる柄ではなかった。
 武藤だけが思い切った意見具申をした。
 杉山は、部下参謀につめよられると、眼をパチクリしながら同意するだけ。

 那須義雄の証言。
 松前を懲罰召集しろという命令は富永次官から受けた。当時、自分は陸軍省兵務局長だった。
 開戦時、那須はコタバルに連隊長として上陸した。波浪は2m近く、艀に乗り移る限度をはるかに超えていて、危険きわまりなかった。

 星野直樹の手記。
 関東軍は北支には進出しないタテマエだったが、板垣の5Dが張家口で苦戦していたので、特設兵団を結成して、背後から張家口を圧迫することにした。司令官には、東條参謀長みずからがなった。※参謀に指揮権はなく、これは軍律違反。
 これ以前、東條は、戦地で実兵を率いた経験が皆無だった。 

 巣鴨では、東條は、囲碁、将棋、トランプなどは、かたわらで見物するだけで、じぶんではしようとしなかった。自らに娯楽を禁じていたのだ。

 松崎陽の証言。
 中隊の軍装検査について東條はこう言った。カンカン照りの地面に並べた兵隊の背嚢につけられた飯盒に直射日光が当たっている。それを見て平気なのか。腐ってしまう。すこしでも日蔭の涼しいところに置いてやるように気を利かせるべきであると。

 山田玉哉の証言。
 東條の甥である。騎兵。
 うまれたとき、英教がめんどうくさそうに名付けてくれたという。苗字の逆さでいい、と。ヤマダのはんたい読みで、ダマヤ。

 東條は長男の英隆からは反抗されていた。満洲国警務部に就職したのは英隆の自発的な行動だった。東條はあとからそれを知って怒り、上司をよびつけ、すぐにクビにしろ、クビにしないなら永久に昇級させるなと命じた。
 英隆は、巣鴨にも、いちども面会に行かなかった(p.679)。

 東條は、親類がじぶんの近くで仕事をしているのを世間がなんとみるかを、満洲時代から気にしていたのだ。

 山田が少佐時代、首相の東條から殴打された。満鉄理事に嫁いでいた東條の妹(佐藤次枝)、つまり山田の叔母のところで、山田が女中に戯れたことが知れたため。さらに東條は山田をサイパン送りにして殺そうとしたが、その人事はなぜか実現しなかった。

 精養軒で洋食のメニューを開くや、東條は長男の英隆とドイツ語で会話しはじめた。

 東條は中央幼年学校で腕力勝負に負けてさんざんに殴られた。それまで腕力自慢だったのだが、それが通用しない。だから頭で勝負しなければならないのだと目覚めた。

 東條の座右銘は、「努力即権威」。
 頭がよいとかカミソリだといわれても不快になってその人を相手にしなくなった。しかし「あなたは実に努力家だ」と言われると喜んだ。

 東條勝子の談。
 郷里は福岡県田川郡川崎町。妹が医者をしており、じぶんも女子大に通っていたが、姑(英機の実母)に禁止され、1ヵ月半だけで退学した。
 英機からの手紙にはかならず一連番号がふってある。未着があれば、それで分かる。

 東條は、海軍の秘書官の鹿岡大佐がその後、巡洋艦『那智』の艦長として出撃して戦死してからは、犬の名前に「那智」とつけていた。

 米軍の憲兵隊長のケンワージーには世話になった。
 「努力即権威」は、外国の格言の翻訳だと言っていた。権威はオーソリティだと。 

 秘書官の広橋真光と赤松貞雄の記録。
 宣戦の大詔案は、赤松が徳富のところで直してもらった。「祖宗の神霊上に在り」は蘇峰が挿入した。

 鹿岡秘書官は、開戦が12-8になることはあらかじめ知っていたが、GFが真珠湾に忍び寄っていたことはまったく知らなかった。
 午前6時過ぎに、交戦状態に入れる旨のラジオを聞いた。

 S17-9-2、外相は、企画院総裁に感情的に非常に反発している。
 S17-4-20、谷が外相に就く。

 S18-1-15。東條は言った。じぶんは、できるかぎり、重要な問題は、その研究の途中において奏上するようにしている。だから御上は経過をじゅうぶん御承知。よって決定案をすんなりと認めてくださる。

 S18-5-28、朝早く町を巡視しゴミ箱を見ていることを人々が笑っていることを知っている。魚が配給されているのなら、魚の骨が捨てられているはずだから、それを確かめたいのだ。

 9-22、総理は、筒袖の和服の戦時型を着て迎賓館に臨場した。これは日本婦人会の「袖切り運動」の一環。

 9-23、総理は秘書たちに、書類には必ず決定した日付を、年から書き込めと教えている。これは父の東條英教が川上操六から仕込まれたルールだという。文書は大量に生産されるので、後になると、それが何年のことだったかが、分からなくなってしまう。だから必ず月・日の前に「年」も省略しないで記入するべきなのである。

 東條は、金鵄勲章に年金があることは軍人に対する侮辱であるとして、廃止させた。

 東郷外相は、大東亜省の設立に反対して、更迭された。
 12-28、東條は、空襲警報下の窃盗に死刑を適用したいと望んでいた。

 S19-3-9。岸いわく、満鉄では、社員の机の引き出しには、書類を入れることを禁じて、代わりに、防火用の砂を入れさせた。東條いわく、ドイツの警察には椅子がない。全員、執務中は常に立っているのだ。

 S18に大学生の学年短縮を実行しようとして橋田文相が大学からつるしあげられ、橋田は辞任した。後任者がすぐに得られなかったので、東條が兼任した。帝大と文部省内がおちついたところで、岡部長景を後任にした。

 東條がミッドウェーの惨敗の実情を知ったのは、昭和天皇の口からであった(p.716)。

 重臣の中で陸軍を代表するのが阿部だった。

 S20-8下旬。用賀の自宅で秘書に語った。戦災者は犬死ではないので靖国に祭祀して欲しい。
 終戦の詔勅を聞いたあと、東條は、じぶんの家が断絶すると思い、次男以下を分家させることにした。輝雄は分家。敏夫は光枝さんの養子とした。幸枝・君枝だけを家族とし、九州の勝子夫人の郷里に帰した。そのご自邸には夫婦だけで居た。

 赤松貞雄の手記。
 赤松が歩一連隊付きだったS3に東條が連隊長として着任したのが最初の縁。東條の指導のおかげで赤松はS6-12に陸大に入れた。
 東條は、上奏については、必ず結果報告だけでなく中間報告を励行し、各大臣にも励行させた。

 東條は、永田鉄山の遺族への援助をひそかに続けていた(p.726)。
 中隊長が初年兵の名前を入隊前に覚えず、「何番前へ」などと呼ぶときは、強く戒めた。誕生日は違うが命日は一緒だ。三途の川も手をつないで渡る相棒であると思わないのかと。
 徴兵されたことによって失職した兵隊の除隊後の就職斡旋を始めたのも、東條の時代からである。

 演説原稿には必ず1枚ずつあらかじめ折り目をつけた。そうすることにより、いちどに2枚めくってしまうことがないようにしたのである。

 時間制限のある口演のときは、原稿に終わりの方から一連番号をつけ、あと何枚残っているかを簡単に把握して時間調節ができるように考えていた。とにかく用意周到。

 次男の輝雄は航空会社にいたが、鳥のようにガソリンなしで飛行機を飛ばせることがなぜできないのかと迫って、困らせていた。

 西浦軍事課長が言っていた。現体制組織の中で行政的手腕を発揮する能力は、東條が真に抜群であったと。

 松平康昌は、春嶽の孫。分家から本家を継いだ。妹は三井当主の夫人。岡田啓介は旧福井藩士なので康昌からすると家来ということになるのだ。

 東條はS18-1に風邪。陛下にうつしてはいかんので書類上奏に変更。20年ぶりに寝込んだ。陸軍大臣が軍医以外の診察を受けては、軍人たちが怒るはずだからと、名医の往診を拒否。そこで赤松は、干したミミズの煎じ薬を飲ませてやった(p.732)。

 東條は、乳製品は絶対に口にしない習慣であった。巣鴨ではじめて、チーズやバターを食べるようになったという。

 S18-4に満洲国訪問。満洲国皇帝の皇后が阿片中毒なのを心配していた。

 初代の軍需大臣を藤原銀次郎にしなかったのは、揉める仕事であることが明瞭なので、いきなり民間人にやらせては酷だから。それでみずから兼任し、陸海軍の部課長たちをびしびし指導したあとで、藤原と交代した次第。

 敗戦後、政府は、占領軍の指示で、A級被告だけには弁護人を官選として手当てを出すことにした。これに清瀬老人が大反発した。外地で裁判にかけられているBC級被告にこそ、官選の弁護人をつけてやらなければダメだろうと。

 東條は左ききである(p.741)。
 護身用にいつも持っていたのは米国製の小型拳銃であったが、当時は女婿の古賀氏が使用した日本陸軍の制式大型〔拳銃〕を用いて自決を決行した(p.741)。※これは米側記録で否定されている。この秘書の言い分が信用できないことがわかる。

 榊原主計陸軍大佐のS20-12の感慨。
 大森拘置所で東條から直接に聞いた。
 自決に使った拳銃は陸軍の制式拳銃だった。
 S17-4-18に「軍律会議」を設けた。俘虜は小学生と知って上空から銃撃した。殺人行為なので、国際法外の問題である。よって軍法会議としないで軍律会議としたのだ。


(改めて、管理人U より)

 少し前に『こっそり進めている新企画があります』──と私は書きました。
 このたび公開する『兵頭二十八の放送形式 Plus』がそれです。当サイトがお金を払って兵頭先生へ記事を発注しています。

 ところで、やる気も無ければ出来もしないのに憲法改正と言ってみたり。しなくてもいいのに消費税増税してみたり。死んだら閻魔様に舌を抜かれる事が確定していそうな我が国の首相が、今度は習近平を国賓として迎えるそうです。

 習近平氏が国賓来日したからといって私の貯金が減るわけではありません。来日しなかったら増えるわけでもありません。何の関係もありません。だから正直、どうでもいいといえば、どうでもいい事です。

 だけど、2014年12月12日の『兵頭二十八の放送形式』──私はずっとこの投稿が引っかかっていました。2020年になっても、です。

 『今日の我々は、東条と習近平の一致点を、数十個くらい挙げることができる。東条ファンの白痴右翼は、習が来年何をするかを、よく見ていることだ。』……皆さんは、挙げる事ができますか? 私はできません。

 『兵頭二十八の放送形式 Plus』の第一回のオーダーは私のこの疑問に対する回答です。お金が必要な企画なので、二回目の注文がいつできるかはわかりません。請けていただけるのかもわかりません。
 しかし今回、第一回の発注ができた事で、少しスッキリしました。サイトをリニューアルして良かったな、と思います。