『旅順攻防戦』余話

(2004年2月29日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 別宮暖朗先生の新刊の宣伝として、同書に載らなかった周辺的な雑談をしようと思います。

 この企画に関しましては28cm砲弾の写真収集等、皆様にもご協力を賜り、有難うございました。どうも版元の都合でせっかくの貴重な写真が掲載してもらえなかったようなのは残念ですが、まあ、よくあることでしょう。

 去年、私はスカパーのラジオ放送で、花火のお話をしました。そこからおさらいしてみたいと思います。

 今の日本の法律では、花火に仕込める火薬は80kgと決められています。直径90cmの2尺玉にも、それより多くは入れられません。

 打ち上げる火薬は「割り薬」といい、黒ゴマ状の粒に練られていて、500グラム。これで高度600mまで上がるのです。筒と玉の間には隙間があり、そこから点火用の千切れた火縄を投入します。

 どの角度からみても球状に多重の菊が咲く、日本の打ち上げ花火の技術は、塩素酸カリウムが輸入されだした明治7年頃から、大正末にかけて完成したものです。

 この日本型の花火玉、基本構造はナポレオン戦争時代の「曳火榴弾」に似ていました。もちろん鋳鉄ではなく、腰の強い和紙の重ね張りを、殻の素材にしたのです。

 黒色火薬は開放空間で火をつけても爆発しません。これが爆発するためには、火薬全体に火が回るまでの一瞬の時間、発生ガスの圧力が閉じ込められなくてはならないのです。そして、その外殻がいよいよ内圧に負けて破裂する際には、全方向に均等にはじけとぶようにこしらえておかなければ、花火は球状には散開しません。

 興味深いことに、欧米の打ち上げ花火では、その「三次元シンメトリー」の理想は、最初から諦めています。なんと、筒状の殻を打ち上げて、筒の一方から、すすきの穂状に飛び散るようなものしかない。おそらくは「曳火榴霰弾」の発想なのでしょう。

 このように祝祭用の洋式花火では西洋を早々と追い抜いた日本人だったのですが、肝心の戦争で用いる「砲弾」や「爆弾」の技術では、近代日本の陸海軍は甚だ苦戦しました。じつは、この分野ではいまだに西洋には追い付いてはいないのですけれども、それは防衛庁周辺ではなんとなく秘密にされている雰囲気です。

 追い付けない原因は、シミュレート能力に関係しています。

 砲弾は花火のように空中で勝手に自爆するものだけではありませんね。多くは、何かに当たってから爆発しなければなりません。

 当たる対象が柔らかい地面だけであるなら、信管を敏感にすれば良いだけの話で簡単ですが、そうでない場合がしばしばある。たとえばコンクリートの半地下室です。たとえば岩盤に掘られた満州の塹壕です。たとえば軍艦のぶ厚い砲塔や舷側です。

 これらの「ハード・ターゲット」に砲弾を貫入させるには、砲弾の殻は強靭に造らなくてはならない。ところが、殻を強靭にこしらえますと、その中に充填できる比較的に僅かな黒色火薬では、細かな均一な破片を無数に飛散させることができない。比較的少数の大きな塊に割れますので、密閉空間内に飛び込んだときには、十分な対人殺傷威力と焼夷力を揮うのですけれども、開放空間での人馬に対する危害力は思ったほどではない。また、ハードターゲットそのものを崩壊させるような爆圧も発生できません。

 日露戦争で旅順要塞を攻略するために、日本陸軍は、本土の海峡防備のために置いてあった「28センチ榴弾砲」を、東京湾と由良から取り外し、現地に送りました。これは有名な話ですね。

 この大砲は、明治20年代の軍艦の甲板(それは硬い材木を何重にも張ったものです)を上から射ち貫き、内部で爆発させて、あわよくば弾薬庫に火災を起こさせてやろうと考えていたもので、発射する砲弾は、ぶ厚い、しかもとても硬くなるように熱処理した鋳鉄製。中に充填された炸薬は、長期保存しても安全確実で、しかも燃焼時の発生ガス圧の大きな粒状黒色火薬でした(ちなみに花火の玉に入っている黒色火薬は粉状のまま使うので低威力です)。

 日露戦争では、日本陸軍は緒戦そうそうに、陣地攻撃に有効な「榴弾」を撃ち尽くしてしまって、内地の工場がフル操業で砲弾を量産しても間に合わないような状態でした。しかし好都合にも、この28センチ砲弾だけは、各地の海峡砲台におびただしくストックされており、工場に改めて増産をさせる必要がありませんでした。

 当時すでに「ピクリン酸」という、黒色火薬とは比較にならぬ猛烈な爆薬が、陸海軍で実用化されていました。開放空間でも付近の可燃物に火災を起こさせる高熱も、同時に生ずるものです。が、これは極く不安定な物質で、砲弾に充填するときにいろいろと気をつけねばならぬことがあり、巨大な28センチ砲弾は国内を列車で運ぶだけでも手間でしたから、陸軍省は、黒色火薬充填のまま、旅順に向け海送させたのです。ただし、最初に送った二千数百発については、その信管(各要塞内に、砲弾とは別な倉庫に保管されます)から「延期装置」を外させていたことが、防衛研究所に残っている当時の電報綴りから確認できるでしょう(これら公文書史料はインターネットを通じてデジタル画像を読むことができるようになっています。「函館」「信管」といった複数キーワードで検索が可能でしょう)。

 延期装置というのは、信管の中にあり、軍艦の表面では起爆させずに、内部の奥深くまで穿貫してから炸裂するようにタイミングを遅らせるための小部品です。しかし28センチ砲弾は弾頭ではなく弾底側に信管がついていたので、この延期装置を外しても理念的には「瞬発」とはなりません。ある程度の鈍感さはあり、百分の何秒かは遅れて轟爆します。

 これはどういうことだったかといいますと、別宮先生の本に書かれていますように、陸軍の最上級幹部には、この28センチ砲で旅順港内のロシア軍艦を撃沈しようという意図は無かったのです。明瞭に、二龍山や東鶏冠山北堡塁などのコンクリート天蓋陣地内の敵兵員を制圧させる目的であったのです。浄法寺朝美氏によれば、厚さ60cmのコンクリートの下に居たコンドラチェンコ少将は28cm砲弾の命中で戦死しました。

 おそらく、その時点でのストック砲弾の性能と対象物との間の「摩擦」が読めた者が、参謀本部や満州総軍ではなく、陸軍省の中に居たのではないか。私はその筆頭者が、技術系の少将だった有坂成章だろうと思うのです。

 この砲弾の人員殺傷効果が徐々に効いてきたので、まず「203高地」が陥落し、ついで他の敵陣地も守備努力が放棄されました。前後して28センチ砲による軍艦砲撃も試みられていますが、講和後にロシア艦を引き揚げて調査したところでは、やはり鋳鉄製の28センチ砲弾には、日露戦争当時のロシア戦艦を撃沈する威力は欠いていたことが理解されました。

 旅順のロシア軍艦は、副砲をすべて舷側から取り外し、山上に据えて日本兵を射撃しました。砲弾や火薬、そして水雷までも陸揚げし、陸戦兵器として活用している。むろん水兵も、塹壕の補充用員として次々に送り込んだのです。このため次第に艦内では、漏水をポンプで排水したり、火災を消火する「ダメージ・コントロール」が人手不足ゆえに不可能になって、窮余の策として、いっそ導水バルブを開き、浅い港内に自から着底して、艦を水中で保存するという手に出たのです。そして守備軍司令官が降伏することがハッキリすると、こんどは軍艦を日本に再利用させぬようにと内部で機雷を炸裂させたのでしたが、すでに弾薬庫すら空でしたから、小さな穴が開いただけに終りました。

 当時の機雷には、爆薬が30kg以上も入っています。これでなくては戦艦を沈没させることができなかった。しかるに、28センチ砲弾の炸薬は黒色火薬が9.5kgのみ。また当時の陸軍として最新のクルップ製15センチ榴弾砲でもピクリン酸2.6kg、15センチ加農砲だと同1.6kg、12センチ榴弾砲では同1.3kgというところでした。

 本来なら、これでは撃沈効果など無いのですが、撃沈したと同じ結果をもたらすことができましたのは、現地で敵の「士気」を観察した結果です。これはウォー・ゲーム式の机上理論では分らないことだったでしょう。

 それならば、日本海軍の砲弾は万全であったか?

 日露戦争頃の戦艦の主砲の寿命は、120発です。つまり、主砲が4門ある『三笠』でしたら、一海戦で30センチ砲弾を480発以上撃つことなど考えていない。タマも、その分だけ積んでいたら良かったわけです。ですから海軍の徹甲砲弾は、陸軍のように大量生産向きな鋳鉄ではなくて、贅沢な圧延特殊鋼を採用していました。中味の炸薬はピクリン酸です。

 信管は、とても敏感だったと言われますけれども、やはり弾底に装置されたものであって、タマ先が何かに触れて炸裂するまでの間には一瞬のディレイがありました。その間に強靭な弾殻が敵艦の装甲内部に貫通し、内部のピクリン酸が轟爆することになっていたのでしたが、日露戦争後の調査では、これも次のような事実が判明したといいます。

 すなわち、軍艦の舷側のような堅い金属表面に命中した砲弾の内部では、信管が作動するより前に、衝突衝撃で赤熱した弾殻がピクリン酸を自燃させ始めてしまい、結果として緩慢な爆発に終っていたというのです。

 道理で、さんざんに砲弾を撃ち込んで炎上させ、ついに降伏に追い込んだロシアの戦艦が、いっこう沈む様子もなく、内地の軍港まで簡単に連れ帰ることができ、やがて日本の戦艦になったりしているわけです。

 こういうディテール情報は、明治末期には軍の上層部に共有されていたのだと思われますが、大正末期には忘れられてしまい、特に陸軍では、佐藤鋼次郎中将の嘆いた「歩兵科」至上の空しい戦術主義(これについては『SAPIO』バックナンバーをごらん下さい)が横行して、昭和の国家防衛を破綻させてしまうのです。

 28cm砲の据付に関しては『偕行社記事』という雑誌に、その工事を指揮した将校・横田穣(有坂に抜擢された)の回想が載っているのですが、なぜか最初の砲撃開始の時点で、話が終ってしまっています。これは、今にして思いまするに、谷版『機密日露戦史』の「203高地攻め直前に児玉がさらに砲床を動かさせたのだ」説と、背馳してしまう内容だったために、編集カットされたのではないかとも疑えるでしょう。

 奉天では日露双方が観測気球を活躍させていますが、なぜ旅順ではあまり役に立たなかったのでしょうか? これは、旅順が海のそばで、しかも大陸の縁ですので、連日上空に強風が吹いていたからだと考えられます。またおそらく、要塞内から射程の長い重砲で榴霰弾による曳火射撃を受ければ、地表付近のデカい気球だけに、照準も付け易く、ひとたまりもなかったんでしょう。

 それから海軍がとにかく旅順攻略を急がせた理由ですが、戦艦の主砲身の内筒交換の必要があったためではないでしょうか。実射120発で寿命になるというのですから、これを新品に代えておかねば、摩耗したライフリングでは命中が期待できなくなります。(訓練は、内とう砲という、同軸固定の縮小射撃装置=豆鉄砲でやっていたんだろうと思います。)30cm砲の内張り交換が朝鮮あたりでできれば良いのですけれど、その設備はなかったのでしょう。

 もちろん、機関その他の整備もやりたかったのでしょう。当時の国内のドックがあまりに作業能力に余裕がなかったので、時間に余裕をもたせたかったのではありますまいか。
 昭和19年刊の佐野康著『闘魂記』には、アッツ島で将兵を殺したのは艦砲射撃でも地上火器でもなく、敵機の猛爆であった、と書いてある(矢野貫一編『近代戦争文学事典 第三輯』)そうですので、28Hの対塹壕射撃の効果の程も想像できるのではないでしょうか。それは、密閉空間で炸裂したときだけ、決定打となり得たのです。

 ちなみに、これは前にどこかで引用済みの数値と思いますが、日本は日清戦争で50万発の砲弾を補給したのに比し、日露戦争では105万発を補給。この日露戦費の起債が、旅順陥落までは難儀を極めたのです。また支那事変&大東亜戦争では7,400万発を補給していますが、すでに欧米列強はWWIの4年間で各国とも億発単位で発射していたことをご想像ください。ちなみに1941~45年の合衆国は、無慮4百億発を補給しました。

 『旅順攻防戦』にはフランスのシュナイダー社製75ミリ野砲が出てきますね。この諸元が大正5年の『各国各兵種使用兵器概見表』(by臨時軍事調査委員)に載っています。

 名称   1898年式野砲(※1897年に仏が初めて駐退機付きの75ミリ野砲を完成しましたが、それと同じものでしょうか)

 砲身素材 ニッケル鋼
 機構   ねじ閉鎖、気水圧式駐退、空気式復坐
 弾頭   7.2kg(榴散弾)
 炸薬   130グラム(榴散弾子放出用)+10g弾子×300個+濃煙剤
      またはメリニット700グラム(榴弾)
 仰角   最大12度
 初速   532m/s
 射程   榴散弾曳火200~5500m可変、榴弾Max8500m
 発射速度 20発/分(急射の場合)
 放列砲車 1150kg
 1中隊   4門 

 ちなみにドレフェス事件は、仏軍の最新の120mm砲の秘密漏洩の嫌疑がかかったものでした。


日本海軍の爆弾―大西瀧治郎の合理主義精神 (光人社NF文庫)


(管理人 より)

 以前スカパーで『Salon 28』という兵頭二十八先生がメインパーソナリティのラジオ番組が流れていました。実話ですよ!もちろん私は聴いていました。録音したCDを紛失した事は、痛恨の極みである!
 もう1回やってくれないすかね、藻岩山ラジオとかで……。マンガ『波よ聞いてくれ』は本当に面白いなぁ。
  (2020年2月)


28榴弾写真置場──大分県中津市奥平神社の正面に奉納されてる物(report 4)

(2004年12月5日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

report 4:S/Y 様のレポート

 大分県中津市奥平神社の正面に奉納されてる物です。
 高い所にあるのでこれで精一杯!


28榴弾写真置場──春日井駐屯地(report 3)

(2005年3月21日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

report 3:Masato-Shit 様のレポ-ト

1

 28cm砲弾(?)の全景(全周同じ状態なので、この一葉のみ)。銅帯の「ど」の字もありません。よ~く見れば、胴体上部には銅帯(溝)の痕跡のようなラインが看て取れますが、弾底部は見事に真っ平らです。表面は全面防錆塗料。背景の建物は、短SAM整備工場(!)

2

 全長測定。メジャーを持つのは、駐屯地の広報担当Y氏。

3

 「画像2」の接写。1m越えてます。ナんぼナんでも、15cm以上も誤差が出るなんてことは考えられませんが(喜久一丸稲荷レポートを参照)・・・。

4

 全周測定。(メジャーを持つ手はY氏)。ドンブリ勘定ですが、28cm砲弾ならば、全周は88cmになるはず。測定誤差を勘案しても、この砲弾、太すぎます。


結論。この砲弾は、旧軍の28cm榴弾砲のものではない。少なくとも、喜久一丸稲荷に在るものや、「日本の大砲」に写真が掲載されているものとは、別種である。


5

 米軍の1t(2000 ポンド GP)爆弾。Y氏によると、守山駐屯地の武器班が処理した不発弾とのこと。原型を留めている貴重な現物資料・・かと思いきや、これほどの大型爆弾は、近隣の被害を考慮して、不発爆処理は行わないそうです(守山の武器班担当氏による)。上部のリングは、Y氏によると、後から取り付けたもの。

6

 12吋砲弾。以上三点は、いずれも守山の部隊が処理したものを、春日井に持ってきたそうです。しかし、その時期等は守山でも把握していないようです。この三点、Y氏によると、駐屯地では誰も関心を持たないどころか、完全な邪魔者扱いだそうです。マスコミも、数年前に、地元紙が終戦関連企画のためにか、取材に訪れただけだそうです。むしろ、基地祭を訪れた戦争体験者が「こんなのあったんか」と驚いた顔をするとか。

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 爆弾の弾頭部接写。

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付記

防衛庁 url: https://www.mod.go.jp/

 一応、事前のアポをお忘れなく(一名ならば、当日でも可だそうですが)。尚春日井は、現在隊舎の引越し中とのことで、見学を断られる可能性があります。

wwwサイト「帝國陸海軍 現存兵器一覧」http://www.asahi-net.or.jp/~KU3N-KYM/list.html に、若干の記事と画像があります。

(2020年2月 管理人注:当時は防衛庁でした。URLは管理人が変更しています。)


 (管理人 より)

 これらのレポートをサイトで応募してもらっていたのである。今にして改めて思うがこの方々、凄くね?


28榴弾写真置場──岐阜の喜久一丸稲荷神社の現存28cm砲弾のレポート(report 1・2)

28榴弾写真置場──虫のよいお願いシリーズ、其の二[堅鉄榴弾] より継続


(2005年3月12日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

report 1:Masato-Shit 様のレポート

側面の全景

 この面の銅体は、完全に減失していますが、溝部には銅サビ(緑青)がべっとりと付着しています。弾頭のコーン部と円筒部分との境界部には、接合跡(?)があります。溶接跡のようなハッキリした盛り上がりがあり、少なくともワンピース削り出し、あるいは一体鋳造には見えませんでした。
(いずれにせよ旋盤仕上げ加工を行うはずですが・・・)。
 なお、胴前部の銅帯溝にある白いものは、鳥のフンです・・・。

斜め前方の全景

 こちらは日光が当たる面のためか、赤サビがひどいです。しかし、銅帯が一部現存しているのがわかります。

弾底部直径測定

 縁が丸く画取り加工されており、巻尺がうまくかかりませんで、定規と相成りました。中央の穴は信管穴。その上の突起部は、掲示板の投稿で触れた「リング」(左手で隠れている部分にもう一つあり)。
 これがホントーに妙なシロモノで、他のものがもげた形跡は無いし、後から取り付けたにしても用途不詳、意図不明です(二つのリングの穴が指し示す方向は、一直線上あるいは平行関係にはない)。吊下用にはそもそも小さすぎるし・・・。

『 弾底部直径測定 』の拡大図

 280ミリ以上ということは無さそうです。

弾底部銅帯の接写

 防錆のためか、黒い塗料が厚く塗られております・・・?
しかし、銅体がガスシールのためならば、この形状もナゾです。まさか、散弾銃のライフルスラッグではあるまいに・・・。

アングルを変えての接写

 黒塗料の下に、緑青がうかんでいます。

信管部の接写

 ねじ山はサビて、蛇腹ホースの内側の如し(?)です。縁の
加工からすると、信管は皿ビス様になっており、ねじこむとツライチになるのでしょうか?

奉納譜

 全文は以下のとおり。

 奉 納
 明  治  三  十  七  八
 年  日  露  戦  役  於
 旅  順  港  内  敵  艦
 バ  ー   ヤ   ン 命  中
 我  軍  二  〇  〇  山
 高  地  射  砲  二  十
 八  珊  砲  丸
 呉軍港廻航記念
 元海軍○信○兵曹
   勳七等矢木野新也

 ※原文旧字縦書、改行ママ。○は判読できず。なお、「矢」は「大」の、「木」は「水」の可能性あり。)

胴前部銅帯の接写

 寸法を計測し忘れました・・・不覚!

弾頭先端部接写

 欠損が見えますが、たとえ完全でもせいぜいが+10ミリでしょう。パーテーションラインは見当たりません。

 計測値は下図のとおりです。(手描きですみません・・・)

 スケールはほぼ1/10ですが、あくまで模式図ですので、形状の正確さは
保証できません。また、数値が食い違っている可能性もあります。御了承を。

全長(A-H)     835mm
弾長(A-G)     800mm
弾径(I-M)      274mm
信管穴径(K-L)  38mm
胴部溝幅(C-D)  9mm
弾底溝幅(E-F)  30mm
テーパー部(A-B) 321mm
信管穴加工(J-K) 12mm

付記:ご参考までに。

垂井町 http://www.town.tarui.lg.jp/

タルイピアセンター  http://www.town.tarui.lg.jp/docs/2014121200049/

 タルイピアセンターは、毎週月曜日及び月最終木曜日休館です。町立図書館が併設されているようです。また、学芸員が在籍しています(但し、電話で話した限りでは、現地を訪れたことは無い様ですが)。

※「垂井の文化財 第23集 (1999)」 p63~64 大岡明臣氏の記事によりますと、奉納譜の末二行は 「元海軍一等信号兵曹 勲七等 水野新也」となるようです(但し、この場合字数が足りませんが)。「矢木野」「水野」ともに地元にはよくある姓のようです(特に、前者は以前町長がでているそうです)。「不破郡史 下巻」によると、日露戦争の出征者に、前者に該当する名前は見出せませんでしたが、後者は、「会原村 歩一 勲八 水野新也」の名がありました(p110)。しかし、この人物は所属も勲位も食い違っております・・・


※管理人注  垂井町・タルイピアセンターのURLが投稿当時とは変わっているようですので、管理人が変更しています。(2020年2月)



(2003年8月22日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

report 2:読書公社 様のレポ-ト

実測値表

1:820mm
2:30mm
3:30mm
4:14mm
5:364mm

弾底部の外周長は874mm(”2”部分で測定)

1:275mm
2:39mm

1:430?mm

弾底部のリング(腐食変形しているのでおおまかな値です)
1:内径:42mm
2:内径:18mm

奉納譜

奉納
明治三十七八
年日露戦役於
旅順港内敵艦
バーヤ ン命中
我軍二〇〇山
高地射砲二十
八珊砲丸
呉軍港廻航記念
元海軍一等信號兵曹
勳七等矢木野新七

 砲弾弾底部の二つの「リング」の謎について────「戦場写真で見る日本軍実戦兵器」(あの悪名名高き「G」出版の本です。)で謎が解けました。日露戦争の旅順攻略戦で活躍中の28センチ榴弾砲の写真が載っていました。そこには、砲弾も写っていました。まさしく神社で撮影した砲弾と同じ物が写っており、「謎のリング」も弾底部に付属しています。と、いうことは神社の砲弾は間違いなく、旅順攻略戦で使用された砲弾だと思われます。写真からは、リングはクレーンで装填する時に使用されているように見えます。ミリオタ的、重箱の隅的な細かい問題でしたが、ご参考までにご報告いたします。


(管理人 より)

 このレポートをいただいたのも、もう15年以上も昔の話になりますか……。時間の流れは恐ろしいものです。改めて、ありがとうございました。
  2020年2月


28榴弾写真置場──虫のよいお願いシリーズ、其の二[堅鉄榴弾]

(2003年8月9日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 皆様、暑中お見舞申し上げます。

 現在わたくしは、帝国陸軍が明治37年に内地から旅順へ持って行った「28cm榴弾砲」から発射された「堅鉄榴弾」についてできるだけ深く広く調べようとしております。
 それで岐阜県のお近くの方にお願いがあります。

 インターネット情報によれば、不破郡 垂井町 東2丁目 の「喜久一九稲荷神社」の境内に、旅順で鹵獲し日本まで回航してきたロシア軍艦『バヤーン』の船内から2発発見されたという(おそらく不発の)28cm砲弾のうち1発が展示されているとか。

 まことに勝手なお願いですが、この砲弾のディテールを、できるだけ鮮明な写真に収め、それをこのサイトの一隅にて公開して戴けないでしょうか?

 そのさい、次のリクエストがあります。

一、他の砲弾との間違いでは絶対にないことを確実に承知するため、直径、銅帯のない胴中の外周長、全長を、それぞれ実測してみてください。

二、弾底信管の螺部分の大きさが精密に分るように、そこに巻尺/モノサシを当てた写真も撮影してください。

三、弾頭部分に何かネジこまれていないかどうか、クロースアップもお願いします。
 この三つ目のリクエストの意味は、「28cm砲弾」にも数種類があって、弾頭に信管のついているものは、旅順で発射された「堅鉄榴弾」ではないのではないかと疑われるからです。
 じつは函館の「船魂神社」にも、函館要塞の重砲連隊が大正時代~昭和前期に奉納した28cm砲弾が現存するのですけれども、これは弾頭に信管のようにも見えるものがネジ止めされています。(ちなみに砲弾の外肌は赤錆びてはおらず、ナマリ色で、これは「一号釜石鼠色銑」、つまり南部鉄の鋳物であったという情報に合致するかもしれません。)

 この他、大連の博物館にあるというタマも、インターネットの写真を見るかぎりでは、明治37年に旅順で撃った「堅鉄弾」ではないのではないかという疑問が湧くのです。(日露戦後に旅順要塞の主となった重砲兵部隊が持ってきた、普通の榴弾、あるいは榴霰弾ではないか?)

 他にも、「近くの神社に直径28cmの砲弾がある」という情報がございましたなら、この掲示板にご一報くださいますと幸いに存じます。


28榴弾写真置場──岐阜の喜久一丸稲荷神社の現存28cm砲弾のレポート(report 1・2)

28榴弾写真置場──春日井駐屯地(report 3)

28榴弾写真置場──大分県中津市奥平神社の正面に奉納されてる物(report 4)



28榴弾写真置場──おまけページ── これが現存する旧陸軍の迷彩ペンキだ!

(2007年3月24日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

これが現存する旧陸軍の迷彩ペンキだ!

(兵頭二十八先生 より)

 ここに掲げる写真は、函館市浜町の戸井高校(浜町717番地)のグラウンドと、公営住宅戸井沢団地(浜町921番地3)の間の雑木林にある、第二次大戦中の旧陸軍のコンクリート要塞の一部である。撮影DATEは、根雪が消えた直後の快晴日、2007年3月22日だ。
 2007年5月の函館ツアーでは、この珍しい遺跡にも、皆様をご案内するつもりである。

 現地は、汐首岬の、やや恵山寄り(太平洋寄り)に位置する。函館空港からは自動車で片道25分くらいなのだが、現地人の案内人なしでは、到達は至難だろう。

 なにしろ日教組最後の牙城とされる北海道では、こうした旧軍施設は教育界の研究保存対象としては意図的にスルーされている。現地に行っても見事に何の案内表示も無いし、観光ガイドブックに紹介されたこともない。

 汐首岬は、青森県の大間崎との距離がもっとも近い北海道の陸地だ。ここが、津軽海峡の太平洋側入り口のチョークポイントに当たっていた。そういう場所には、必ず要塞砲が置かれたのである。
 現在、この戸井要塞の砲台跡などは残っていないようだ。残されているのは、兵員の棲息部だと考えられる。

 とにかく塗装が貴重だ。対米戦争中の旧軍の迷彩塗装がそのまま残っている。しかしこれも、やがては時間とともに失われることは確実。よって小生は奮発してデジカメで撮影した。ツアーご参加の皆さんも、どうか高性能デジタル写真でこの色を永久に保存してやって欲しいと願うものであります。

 なお、現地に通ずる国道278号は、有名な「廃線」跡に並行している。
 函館市内から戸井要塞まで、旧軍は鉄道を繋げるつもりで、海岸に沿って、トンネルやコンクリート製アーチ橋をいくつも建設したのだ。だがそれは終戦までに間に合わず、けっきょく計画は放棄された。そして、トンネルと鉄道アーチ橋だけが、海岸に沿って、今も点々と残っており、道路から間近に、よく見えるのだ。
 例によって函館市は、この旧軍の近代遺産を、観光資源としては宣伝したくないらしく、観光ガイドブックにもほとんど紹介は載っていない。地元民も、それが何だかよく知らないのだ。
 ツアー参加者の中に、もしも熱心な廃線マニアがいれば、帰路の途中、その見学のための便宜も図りましょう!

 あと、観光名所となっている「元町公民館」を「お約束」として正規コースの中にてご案内致す予定ですが、もし、〈そんなものよりアイヌ人の武器が観たいのだ〉という方がいらっしゃれば、オプションとして、バス駐車場からすぐ近くの「北方民族資料館」を御覧いただけます。離頭銛、弓、矢、各種刀剣、木製制裁棒などの珍しい実物が展示されています。(残念ながら館内は撮影禁止です。)
 さらにまた、同じ時間を利用するオプションとして、これまた公民館から近い「船魂神社」の庭にある28センチ榴弾(砲ではなくタマ)に触りたいという方がいらっしゃれば、やはり、ご案内可能です。(北方民族史料館と船魂神社の両方を見学することはできません。方位が逆ですので。)

 では、皆様、5月19日にお目にかかりましょう。

☆☆☆平成19年5月19日~20日の函館・江差方面軍事史探訪ツアーの詳細は、下記までお問い合わせ下さい。

日本エアービジョン株式会社 担当:浅田均
〒104-0061 東京都中央区銀座1丁目3番先 北有楽ビル1階
電話:03-****-****
(2020年2月:管理人の判断で電話番号は伏せています)

(管理人 より)

 近代から現代の歴史を丸ごと満喫する北の大地ツアー『歴史パノラマ探訪iin北海道』──かつてこんなイベントが企画されたのである。
 一体何人集まったのか、私は知らない。行ってみたかったが行けなかった。
  (2020年2月)


28榴弾写真置場──函館山要塞が残した28cm砲弾

(2007年3月頃に最終更新された旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

函館山要塞が残した28cm砲弾

 一連の写真は、函館山の麓にある「船魂神社」境内の池の脇に、半没状態で安置されている1発の28cm砲弾を、全周アングルからしつこく写したものである。撮影は、2003年7月の下旬だ。

 まさにその1ヵ月ほど前、HTV(北海道テレビ)のスタッフが、物好きにもこれを掘り出して全体を撮影していったらしい。しかし私が訪れたときは、はやこの原状。
 1発217kg(もし発射直前状態の堅鉄榴弾であったならばの話)もある砲弾だ。とても「ヨッコラショ」と抱え上げ、弾底などを観察するわけにもいかなかったのであった。

 だが、私はこの砲弾を見るや、『これはいかぬ』と内心思ったのである。なぜなら、ご覧の通り、先端に信管のようなものがついている。尖っていない。
 これは、アーマー・ピアシング用のタマではない。つまり旧陸軍で「破甲」と称し、海軍では「徹甲」と称した榴弾とは、別物だと知れたからだ。

 コンクリートや鋼鈑を貫通しようというAP弾は、弾頭を少しでも頑丈にしておくために、信管のための孔を弾頭に穿ったりはせぬものなのである。もしそんなスキのある構造にしていたら、弾殻が衝突の瞬間に自壊してしまいかねないだろう。

すでに優秀なるインフォーマー君によってUPされている岐阜の喜久一丸稲荷神社の現存28cm砲弾の写真と、よく見比べて欲しい。実際に軍艦に撃ち込んだタマは、先端が尖っていたことが分る。これぞ、私がとことん仔細に調べたい、当時のホンモノの堅鉄破甲榴弾だ。

 さて、ならば、破甲榴弾でないならば、船魂神社に置かれてあるこいつは一体何のタマなのだ、と問われると、とても困ってしまう。
 それは、目黒の防衛研究所の戦史部図書館に出掛け、タイトル中に「重砲」「弾薬」などとある所蔵史料を片端からめくっていけば、必ず図面付きですべて分ることなのである。
 が、その図書館に日参していた頃、この兵頭は、正直、有名すぎるこの28cm砲などに深い興味は抱かなかった。だから、その貴重な記述を見かけても、まったくメモ帳に書き取っておかなかったのだ。

 そこで関東在住の奇特な方々に呼びかける。誰か、目黒に行って、それを調べて来て欲しい。そして、そのリポートを当コーナーにUPして欲しいのだ。
 たとえば、最大射距離で発射したときの弾道の最高点は、本当に地上5000mくらいだったのかどうか、などだ。

 このコーナーは、世界で唯一の「28cm榴弾の写真博物館」にしようと、密かに私は目論んでいるのである。

 というわけで、愛知県の陸自の春日井駐屯地内にあるという、先の尖った28cm砲弾も、誰か撮影してきて欲しい。

 また、青山墓地などを仔細に探険すれば、きっと28cm砲弾が飾られている墓がある筈である。誰か網羅的に探険してリポートして欲しい。尚、くれぐれも「墓あらし」にはならないように。

 大連の戦争記念館にあるという28cm砲弾は、インターネットの公開写真を見れば、どうも先端が尖っておらず、船魂神社と同種の物であるように見える。
 つまり、それは古戦場から掘り出したものではなくて、日露戦争後に旅順を守備することとなった、日本軍の重砲兵連隊が、教育用か何かに用いていたタマなのだろう。

 ついでだから念を押しておくと、ナントカ群像というムックの舞鶴要塞特集の中
で、28cm榴弾砲をクルップ製であるかのように書いているのは、ヘンな話だ。この大砲がどこ製であったのかは、拙著『有坂銃』をお読みの貴男には今更説明する迄も無かろう。

 函館山要塞は、28cm榴弾砲を尾根線にズラリ並べた要塞として、明治31年6月起工、明治35年10月に竣工している。(日清戦争の賠償金を活用したという。)
 その放列の跡や弾薬庫などは比較的良好に、今日でも保存されているのだ。(観光ガイドブックに載っていないだけで、ロープウェイ山頂駅から歩けば誰でも苦もなく見物ができる。夏場は雑草もちゃんと刈ってある。さすがに冬の除雪はしていないが、通行は可能。)

 ところが、その放列から最も近い対岸となる青森県の大間岬まで、だいたい距離にして30kmもある。28cm榴弾砲は、日露戦争当時から綿火薬を装薬としているが、最大射距離は7650mしかない。(同砲には最短射程限界もあり、それは1500mであった。)

 津軽海峡が最も狭くなっている「汐首岬~大間岬」間でも、直線距離で20km近い。
 つまり、とうじの要塞の数的主力であったこの榴弾砲を仮りに両岸から射ったとしても、津軽海峡の中央までカバーできなかったわけである。

 こんなところからも明らかに、函館山要塞は、「北海道全体の弾薬庫」と位置付けられていた函館地区を、敵(ロシア)の上陸占領の企図から防衛するための備砲陣地であったらしい。

 さすがに遠隔地なので、この要塞の榴弾砲が明治37~38年に山東半島や満州に持ち出されることはなかったが、有り余る砲弾を弾庫から取り出して旅順に送っている。
 ちなみに、旅順を砲撃した計18門(三度に分けて6門づつ運送された)の28cm榴弾砲は、いずれも東京湾か由良(瀬戸内海)の要塞から外して持って行ったものばかりであった。

 28cm砲弾は、旅順戦で少なくとも二千数百発が発射されている。これらは内地で新たに増産したのではなく、すべてありあわせをかきあつめてそのまま送ったタマ。
 ただし、弾底の信管だけは交換した。
 (日本の要塞内では、28cm榴弾砲の砲弾と信管は、別々な場所に保管してあった。即応分だけが、初めから結合されて置いてあった。)

 日本の28cm榴弾には信管が2種類あった。ひとつは遅滞爆発するもので、海峡を通過する軍艦に上から命中させ、当時はまだロクに装甲されていなかった甲板を40度以上の大落角で貫いて、艦底近くで炸裂するように考えたものだ(明治31年刊『砲工学校砲兵要務教程 海防戦之部』)。

 この対軍艦用の信管を、陸軍省は、大阪砲兵工廠に集めさせ、そこですべて「遅延装置」を外させてから、旅順に送らせたのだ。この命令書は残っている。

 ただし砲弾は、そのまま各地の内地要塞から旅順へ直送させたものと思われる。それは何を意味するかといえば、内部の炸薬(なんと黒色粒薬がタッタの9.5kg、ちなみに2尺玉の花火には黒色粉薬がちょうど80kg使われている)を、たとえば黄色薬(ピクリン酸、海軍の下瀬火薬と同じ)や綿火薬には、敢えて詰め替えしなかったということだ。

 そこで改めて弾底信管の直径にご注目である。AP弾は孔は弾底にしか開いていない。(リフティング・アイは、孔にはなっていないだろう。)
 この小さな孔から、黄色薬を詰めた紙袋(ピクリン酸は金属に直接触れると変質し、クラッカーボールのように鋭敏化して甚だ危険なので)を詰めるなんて、できなかったことが確かめられるだろう。

 ではせめて綿火薬に詰め替えなかった理由は何か?
 たぶん、入念に試験をやってみる時間がない以上、技術者(有坂)の良心として、元のままで送り出させることに決めたのだろう。たとえるなら、五輪のマラソンの本番で、いままで一度も履いたことのない新考案のできたての靴を、選手は試せるか、ということだったと思う。大本営では一刻を争っていたのだ。

 もちろん、28cm榴弾砲持ち出し作戦のメリットは、「今あるものを利用できるので、内地にあらたな負担はかけない」ということが大きかったから、余計な面倒は極力回避したのである。黒色火薬は長期保存性では綿火薬を凌ぐのだ。それでも信管だけは、遅延装置を外させた。

 弾底信管というやつは、遅延装置がなくとも、瞬発とはならぬ。弾底信管のみの砲弾は、基本的に反応は遅れて起こり、インパクトからごく僅かにディレイして炸裂する。

 寺内にそのような命令を出させた有坂の意図は不明だが、軍艦よりも、コンクリート・アーチを強く意識していたことは、想像ができよう。

 なお、昭和4年刊の『明治工業史 7 火兵編』には、日露開戦するや寺内陸相が大阪砲兵工廠をおとずれ、堅鉄弾はすべてその底部を改正し、弾底信管を塞螺にうえこむよう命じた、との記述があるが、これは28cm砲弾のことではあるまい。

 28cm榴弾砲は、最大腔圧が1700kg/平方cmで、あまり高くはなかった。しかし、それが信頼性を高めていた。
 WWIの青島要塞砲撃では、新登場の24加の弾底信管が不良で腔発を起こし、けっきょく古手の28cm榴弾砲が安定した活躍をみせたという。また、満州事変では、こんどは24加の弾底信管が発射衝撃で圧壊してしまって、多くが不発弾になったという。
 国産信管はそれほど厄介なものだったのだ。特に陸軍はそれを1000発~1万発単位のロットで量産させねばならぬのだから、責任者の有坂の寿命は縮まったのも無理はない。

 函館要塞の28cm榴弾砲は、WWI中にロシアに数門が売られた他、昭和9年以降に、1門が旭川(護国神社)、1門が靖国神社、2門が三沢方面に送られて、それぞれ永久展示用とされた(これらはすべて終戦時に消滅したらしい)。

 さらに、ノモンハン事件の前後に、関東軍用に送られたものもあったらしい。
 そして函館に残された十数門も、すべて終戦時に“消滅”した。いったいどこへ行ってしまったのか、その末路は、地元の郷土史家ですら明らかにできてはいない。

 函館山の一角(薬師山)には、旧式な15cm臼砲も並べられていた。これは、港に上陸してきた敵兵を射撃するため使う備砲である。
 そしてまた、道南の戸井(汐首岬)や、白神岬(竜飛岬と、もう一対のチョーク点を成す)には、津軽海峡の真ん中まで届く15cm加農が置かれていた。
 (戸井には昭和3年から「長30cm榴弾砲」×4門も配備。大間には、『伊吹』からおろした30cmカノン×2も置いたとされる。)

 船魂神社に15cmのタマも1発奉納されている理由は、こんなところから説明されるだろう。

 もちろん、奉納された段階では、内部の炸薬や信管等の火工品は取り除かれていたのは言うまでもない。教育訓練用のタマだ。

 奉納したのは誰か、であるが、函館山要塞に布陣していた「津軽要塞司令部」ならびに「重砲兵連隊」(その前は大隊)だっただろう。

 明治33年の『砲兵学教程』によると、破甲弾には、堅鉄弾と鋼鉄弾があったそうである。後者はスチール、それも特殊鋼であって、海軍の砲弾はコレだ。陸軍の28cm榴弾砲のタマは前者であり、それは基本的に鋳物なのであった。

 昭和9年の、長谷川正道著『国民講座 兵器大観』によれば、鋳物の砲弾にもいくつかの種類があった。
 「鋼製銑」は、鉄の中に鋼屑を少しまぜたもので、強靭だ。
 「堅鋳銑」は、銑鉄の冷却の速度を加減して硬さとねばりの中間を出したもの。
 「特別銑」は、銑鉄にマンガン、クロム、タングステンなどを混ぜたものだ。
 もちろんこんなことをしても、炭素鋼にニッケルを混ぜた特殊鋼よりははるかに強度は劣ったはずである。

 それでも明治時代、砲弾を鋳物としていたのは、陸軍の大砲は、重砲といえども、バカスカ弾丸を発射しなければならないと分っていたからである。

 他方の海軍は実戦でもそんなにタマをたくさん消費することを予期しない。たとえば『三笠』の30cm砲(の内筒)の寿命はわずかに120発だったという。それ以上を一海戦で撃つつもりが初めから無いのである。だから高価なスチールで贅沢に砲弾をこしらえることが、海軍では昔から許されたのだ。

 28cmの堅鉄弾は、御影石を積んだ表層をやすやすと貫き、その下のコンクリートを1.20m貫入できたという。

 ここで説明が要るのだが、日清戦争当時の要塞にコンクリート(仏語ではベトン)を用いているところは滅多になかった。アーチ部分も煉瓦製というのがほとんどであった。
 これは地雷榴弾(地面に少しめりこんでから遅延信管により炸裂する榴弾)の無かった普仏戦争スタンダードの、瞬発の榴弾の爆発力は簡単に吸収できた。
 しかし、直径15cm以上のAP弾は、煉瓦の壁や天井などはいともあっさりと貫徹できたのであった。

 日露戦争当時にはコンクリートはやや普及していたが、まだ要塞全部をコンクリートで造ることはなかった。アーチ部分だけがコンクリート。しかも、無筋だった。
 鉄骨も鉄筋も、入っていないのだ。

 これは、鉄筋コンクリートの工法が、大正5年頃までフランスのアンネビック社が広汎な特許を押えていて、その使用権料がヤケに高かったからだとも言われるが、要はとうじ世界的に未だ信頼されていなかった新技術であったのだ。

 それで、ロシアの旅順要塞も、日本の各地の海岸要塞も、弾庫、砲具庫や棲息掩蔽部(砲員が敵の砲撃を凌ぐ空間)の天井は、すべて無筋コンクリートでアーチをつくってあった。

 函館要塞だとそのアーチ部の厚さはちょうど1mある。(他の内地要塞ではどうなっているか、手分けして調べてみて欲しい。これらのアーチは端面が垂直外壁の表面まで露出していることが多いので、簡単に厚さが測定できる。)
 旅順ではそれは60cmだったらしい(浄法寺による)。

 そして、そのバイタル・パートの天井コンクリート・アーチの周りは、単に煉瓦や切り石を積むのみという構造であった。これが日露戦争当時の「永久要塞」なのだ。

 明治31年時点で、世界の海岸砲の最大口径は、32cmだった。これのAP弾を近距離から直射されたら、側面にコンクリートを使っていない構造物などひとたまりもない。が、海岸要塞は半地下式が多く、真上から砲弾が落ちてこぬ限り、バイタル・パートは直射はされないはずだった。

 函館要塞遺跡の場合、棲息掩蔽部の表面には厚く土が被せてある。これはWWIの戦訓で、土壌の耐弾力が評価されたために後からそうしたのか、あるいは最初からそうだったのか、よく分らない。

 ひとつ確かなことは、明治37年のロシア軍は、旅順要塞の掩蔽棲息部にまったく土を被せていなかった。そのため、厚さ60cmの無筋コンクリートは、40度の落角で命中する28cmの堅鉄榴弾の運動エネルギーを、食い止めることができなかったのだ。

 9.5kgの黒色火薬の化学的エネルギーは、煉瓦層でも阻止できる程度のものであったろうが、217kgのマスの運動エネルギーが、薄いコンクリート・アーチの裏面を逆漏斗状に高速で剥離させ、その高速コンクリート片が、内部の人員を殺傷し、要塞内に居たたまれないように仕向けたのであろう。
 そして、狭い密閉空間内では、発熱量の比較的に小さな黒色火薬といえども、顕著な焼夷&殺傷威力を発揮したものであろう。

この角度からだと「銅帯」の跟跡がよく分る。

後方に「船魂神社」がみえている。函館山要塞のふもとに位置している。

柔術の兄弟子に巻尺の28cmの巾を示して貰っている。(他の写真も同様)

遠くの足は船魂神社の宮司さんである。手前のタマは15榴

頭部の信管のようなもの。これはアーマー・ピアッシング弾ではありえない。

手前が15榴(149mm)の砲弾。奥が28榴。

函館山 現況写真

ロープウェイ山頂駅から稜線をみる。駐車場のすぐ上が「第2砲台」だ。

函館山の稜線。遠くに青森県の山がみえる。(画面左寄りにうっすらと。)

ちょっと見づらいが、アーチ端面が露出しているのである。

アーチ端面(外壁面)のしっくいがはげ落ち、砂利をまぜた無筋コンクリートがむき出しになっている。

アーチの内側。

無筋コンクリートなので赤サビなどはみられない。

なかば埋まってしまった「棲息部」。

これはミニ・サイズのアーチだが、厚さはしっかりと1.0mある覆土はほとんどないことがよく分かる。

第2砲台。丸いのは28センチ砲座跡。壁のリセスは「即応弾薬」を置いたところ。

土砂が埋めてしまった「棲息部」の入り口。

砲員が敵艦砲をしのぐための「棲息部」はこんな構造。アーチ厚は1.0m。

砲座は青天井だが、海峡を通る船からは全く見えない。

函館港をみおろせるロケーション。霧でよく見えないが・・・。

右上の四角い石は通気孔で、下のアーチ・トンネルまでつながっている。

ここは「電話室」だったらしい。

覆土がないことが分る一葉。

人物との大きさ比較。このレンガは地元産らしい。

アーチの端面(壁面露出端)は、漆喰が「たたき」のようなもので表面を化粧されていた。
それが剥げている。

一連の写真は「千畳敷」砲台の半地下壕。背景にロープウェイ山頂駅が撮っている。
稜線ぞいに歩けばここに達する。

千畳敷砲台の先端の観測所。天蓋は鉄板だったが、無くなっている。覆土はなかった。

ロープウェイ駅から津軽海峡方向をみる。肉眼だと青森県がよくみえたのだが・・・。

アーチの厚さは例によって1mちょうど。入口前が広々としているのは人員だけでなく砲具も収容するからだろう。

これは函館山要塞の北側、薬師山ピーク(252m)の15cm臼砲砲台跡である。三つ並んだアーチに注意。

アーチのつながったところ、表面がくずれおちている。これは雨水の長年の作用だろう。

内側。古墳の棺室のようである。

中からみた、明り採りの窓。

内側からみるとよく分るのは、まずアーチを支える壁をレンガで積み、そこにコンクリートアーチを打ち、そこに土をかぶせ、表面に石を張っているという工程だ。

15cm臼砲はこのような広場に据えられていた。ハシゴは木製で、当時のものではない。

ロープウェイ駅(334m)から北東をみる。日本の要塞の中で最も眺めが良かったところだろう。

薬師山はこの少し下にあり、正面の函館港に上陸する敵兵を撃つ任務であった。

函館山ロープウェイの窓から「薬師山」をみおろす。植生のため臼砲陣地は隠れている。

このアーチは、観測壕の地表面まで一体でコンクリートを打設してある。

入江山の観測壕。鉄製天蓋は失われている。ヒビがひどいのは無筋のせい。アーチは圧縮力だけなので無筋でも良いが、地盤沈下の引っ張りに対抗するには鉄筋が要るのだ。

函館山主稜線から枝分かれした先にある「入江山」の観測所。入港する船を見張るには絶好の場所にある。

超めずらしい「88式海岸射撃具」(※)の台座。水ぬき穴があって水は溜まらない。観測所でポイントした地点に、ここから75ミリ砲弾が正確に発射されるのだが、2点は100mも離れている。

 ※「撃」の字がよく判読できなかったんですが、まぁ、間違ってはいないでしょう。・・・^^;このサイトさんに載ってる88式海岸射撃具砲(?)の事ですよねぇ・・・?
(管理人注 『このサイトさん』は2020年2月現在、既に存在しないようです)

おまけページ──これが現存する旧陸軍の迷彩ペンキだ!


28榴弾写真置場──虫のよいお願いシリーズ、其の二[堅鉄榴弾]

岐阜の喜久一丸稲荷神社の現存28cm砲弾のレポート

春日井駐屯地のレポート

大分県中津市奥平神社の正面に奉納されてる物

『旅順攻防戦』余話