野鳥の「密集度」と耐伝染病性には、なにか相関があるのだろうか?

 David Hambling 記者による2020-6-3記事「Why U.S. Air Force’s CLEAVER Could Be A Step Change In Air Weapons」。
    輸送機であるMC-130Jの荷室から、木箱入りの、1万5000ポンドのBLU-82(中味は、硝酸アンモニウムとアルミ粉をゲル状にしたスラリー爆薬)を投下して、ジャングル内にヘリパッドを一挙構成したり、敵兵の心理を動揺させる……。
 これは昔からあった。

 米空軍は、その進化形を実験しつつある。CLEAVER(荷台発射式延長射程飛翔物)という。
 木箱を輸送機の後部ランプドアから滑らせて落とすところまではいっしょだが、中味の弾薬はエンジン付きで、翼も展張して自力飛行する。

 最終的にはスウォームを狙うらしい。

 ※ありふれた輸送機を対ゲリラ用の爆撃機に転換できる、荷室から滑り落とす簡便な兵装の開発は、日本独自で進めたらいい。これこそ、輸出向きだしね。とりあえず、バッタの大群が攻めて来たときに、薬剤を投下する役に立つだろう。

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 2020-6-5記事「Cancer acts like bacteria to resist drugs」。
  ポリメラーゼは、RNAやDNA形成の触媒となる酵素だが、どうやらこれには二種類あるらしく、抗癌剤の攻撃を受けているときには再現忠実度を下げてみずから変異しようとする。そしてサバイバルがうまくいったなら、こんどはその、うまくいった変異遺伝子を、高忠実度で複製するモードに戻るという。
 このようにして癌細胞も、みずからを変革することによってサバイバルして行くらしい。

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 Matt Ridley 記者による2020-6-6記事「Could the key to Covid be found in the Russian pandemic?」。
    1889から1890にロシアから全欧に伝播したインフルエンザのパターンはとても参考になる。
 今の新コロと似ていて、子供は罹らず大人が罹った。また女よりも男が圧倒的に多く感染した。

 あまりにも伝染スピードが速いので、当時のルーモアとして、人ではなく鉄道そのものが病原体を運んでいると言われた。

 結論。今の新コロも、長期的には、致死率が低下する。とはいえ、インフルエンザと同じで、いったん消えたように見えても完全消滅はしないで、何年かすればまた流行する(これは短期の第2波とは別の話である)。しかし数年後の再流行時の致死率は、今ほどではない。

まだこっちは夏ではない。

 Craig Singleton 記者による2020-6-4記事「Exposing China’s Malign Influence Activities in the United States」。
       以前の上院議員で、駐支大使でもあったマックス・ボーカスは、中共企業を顧客とするコンサルティンググループを保有している。また、ファーウェイ社は、以前のホワイトハウススタッフだったアンディ・パーディをセキュリティ責任者として雇い上げている。

 ホワイトハウスは「大統領令13770」を強化するべきだろう。連邦議会も「18 U.S.C. § 207」を再考したがっている。それにより、かつて米政府の高官だった者が、外国政府所有の企業や、米国の国家安全保障をおびやかす会社に雇われることは禁じられるであろう。

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 Bradley A. Thayer 記者による2020-6-4記事「The Chinese Regime Is Not Legitimate」。
      政治的な合法性は、明示的もしくは暗黙裡の人民からの同意を必要とする。ところが中共政体にはこれがまったくない。
 これまでは人民に富があたえられることが、非合法性の見返りだった。しかし新コロでそれが変わる。

 シナ人民は、じぶんたちの意思で合法的な政府を得ていない。だから世界は、中共を、合法政府として扱うべきではない。
 世界は、かつてのアパルトヘイト体制の南ア政府と同様に、今の中共に対するべきである。
 つまり、中共との商売をボイコットするべきである。

 中共を、世界経済から切り離さねばならない。
 西側諸国はけっして一帯一路に加担すべきではない。それは非合法政体との共謀行為である。
 日本主導のアジア開発銀行のようなあり方が正しい。

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 Captain Jamie McGrath 記者による2020-6-3記事「There Are No Strategic Chokepoints」。
   ※記者は退役海軍大佐。
     かつて英海軍のボス、ジョン・フィッシャーは言った。世界には五つの鎖鑰がある。すなわちドーバー海峡、ジブラルタル海峡、スエズ運河、マラッカ海峡、喜望峰であり、英国がその全部を握るのだと。

 今日、このような考え方はあてはめられない。
 焦点は、戦略的海面にある。それらをつなぐ部分(海峡部)にはない。

 1905年の日本海海戦で東郷平八郎は、バルチック艦隊は対馬海峡に必ず来ると予想して麾下艦隊を一点集中させることが可能だった。というのは当時の石炭エンジンの燃費の悪さから計算して、津軽海峡、宗谷海峡、間宮海峡を経由してバ艦隊がウラジオ入りする可能性など無いと判断できたからだ。

 ところが現代には、このような制約がない。誰も、ひとつの通路にこだわる必要がないのだ。
 もしひとつの海峡を「支配」したとしても、その両サイドの海域の支配は保証されない。

 WWI中、英国は、ドーバー海峡と、北海の出入りを、ドイツ艦船に対して機雷堰で閉ざした。これは確かにドイツの屈服に貢献した。
 しかしヒトラーはフランスの港を占領することによって、イギリスの北海封鎖を無効化した。

 今日、マラッカ海峡が閉塞されれば、シンガポールは収入が途絶えて困るだろうが、商船は必ず代替の迂回路路を見つける。輸送コストは上昇するけれども、世界の船会社はそれを市場合理的に調整してしまう。

 2000年代前半、アフリカの角沖の海賊脅威にも、世界の船会社は、市場合理的に対応した。代替ルートは常に見出されるのだ。

 スエズ運河は1869年の開通いらい、5回、閉鎖されている。長かったのは1967年から75年までの8年間だ。しかしそれでも世界貿易に深刻な影響はなかった。マラッカ海峡の影響は、それよりもずっと軽微だろう。

 冷戦時代には、グリーンランド~アイスランド~英国の線をソ連のSSBNに対して封鎖しておかないと、米本土がSLBMで脅威されてしまうと心配されていた。しかし今日、SLBMの射程が延びたため、ロシアは北極海に居ながらにして合衆国本土を核攻撃できる。

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 SARAH ROSE 記者による2020-6-4記事「Pan Am flight attendants conducted their own special missions during the Vietnam War」。
     ベトナム戦争中、パンナムは、休暇兵士や死体搬送のために国防総省と契約して、民航ジェット機を太平洋域でたくさん飛ばしていた。その機長たちの多くは朝鮮戦争のベテランだったが、スチュワーデスたちは特に選ばれた者たちではなかった。サイゴンのタンソニェット空港を離陸した直後にベトコンの対空火器に撃たれて4発エンジンのうちのひとつが火を吹き、しょうがないのでルートを変更して比島のクラーク基地に降りた、などという体験もめずらしくなかった。

 米空軍は、このフライトアテンダントたちに、臨時に「中尉」の階級を与えていた。というのは万一捕虜になったとき、将校の正規階級があると、扱いが良くなるからである。これはジュネーヴ条約で定まっている。

 機材は最初はレシプロのDC-6だったが、最後はボーイング707になった。これらは政府に1ドルでレンタルされた体裁をとっていた。

 1967年のピーク時点ではベトナムの戦地上空を800人の民間人スチュワーデスが飛んでいた。
 このスチュワーデスたちは当時は短大卒以上と定まっており、ひとつの外国語ができることになっていた。
 1968年時点ではスチュワーデスは35歳前に退職を強いられた。既婚者もダメだった。

 サイゴンにDC-6を着陸させるときは、敵火から撃たれないように、急降下する必要があった。
 南ベトナムの飛行場には2時間以上とどまっていてはならなかった。2時間で乗客の入れ替えと、機体点検を終わらせて、すぐに飛び立つのだ。

ひきこもりで痩せモードに突入。いま60瓩通過。

 Brian Kerg 記者による2020-6-2記事「Mine the Littorals and Chokepoints: Mine Warfare in Support of Sea Control」。
  記者は海兵隊少佐。
    過去125年以上、最も多数の船を損傷した兵器は、機雷である。

 南支那海に米軍の前進拠点複数を設定したら、そのあいだを機雷で結ぶ。こうすることにより機雷は侵入センサーにもなり、囲碁の布石のようにわが陣地を強化する。
 シンガポールから日本まで、機雷の「布石」で中共海軍を封じ込めることができる。囲碁のように。

 DARPAが開発させているUFPという未来機雷。空から撒いて、深い海底に数年間も待機。
 ここから、魚雷ではなく、海面上に飛び出すUAVを放つ。コマンドをうけると罐体が浮上する。
 ※これは中共軍が対米空母用に発想した兵器の一案を横取りしたものか。

 ゾディアック・ボートからUUVを使ってこっそり敵地沿岸を掃海してしまうというExMCMという戦法も海兵隊は研究しているところ。

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  Lieutenant Commanders Andrew Kramer and Martin Schroeder 記者による2020-6記事「The Navy Needs a Gray-Zone Strategy」。
     グレーゾーン作戦とは、サラミ戦術とプロパガンダの合成物である。
 グレーゾーン作戦は、ゴールポストを徐々に動かす。
 そして敵が軍事反応に移るレッドラインを引き難くする。

 これに対抗するには、こっちもトリップワイヤーとなる「海外コーストガード船」を遊弋させるべきだ。
 あるいは安価なフリゲート艦にそれをさせてもいい。
 小型艦であるほど、小港に立ち寄りやすい。ヨット溜まりのようなところでもいいのである。
 小型艇であれば、一海面に同時に6隻を展開することだってできるから。

昨日、アベノマスクが うちにも配られやした。

 多重ガーゼ畳み構造。両端だけミシン縫いして、白ゴム紐を通すチューブの形状を維持せしめている。昔の給食当番のマスクの手触り。

 手作業のかかるデザインだ。これを急速大量に調達しようとすれば、家内制工業の大動員となる。カネがかかったのもむべなる哉。

 次。
 Charlotte Jee 記者による 2020-6-2記事。
   医学誌『ランセット』最新号によれば、新コロ伝染予防のためには、立っている人と人との距離を2m開けることが、とてつもなく重要だと分かった。1mでは、ダメである。

 人と人との間隔が1m未満のとき、伝染リスクは13%と考えられる。
 1m以上だと、それは3%に減ずる。
 2m以上だと、伝染リスクはさらに3%の半分に。3mならば、さらにそのまた半分に減るという。

 マスクは、それなしでは17%ある感染リスクを、3%に減らしてくれる。
 ゴーグルは、それなしでは16%ある感染リスクを、6%に減らしてくれる。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-6-2記事。
   1991年に世界に戦車は10万両あったが、今は5万両を切っている。

 米陸軍は2018にスウェーデンから「BONUS」という対戦車用の155ミリ誘導砲弾を買っている。そしてこのたび、セカンド・バッチが発注された。
 「BONUS」は英仏端の共同開発で、生産中心はスウェーデン。撃ち放しにできる、自律誘導弾薬。

 NATOの155ミリ野砲から発射したときの有効射程は35km。
 1発の中に2個の子弾。
 子弾は、マルチバンドの赤外線センサーと、レーザー・レーダーを具備。
 落下中の減速は、小翼のエアブレーキによる。旧来、こうした弾薬はミニパラシュートで減速されていたが、それはコスト高になるばかりか、敵眼から目立ってしまうことが分かっている。

 子弾は、弾道の最後の175m付近で分離する。
 子弾は、眼下の3万2000平方メートルのエリアで動いている標的に向けて、爆発鍛造弾を発射する。
 厚さ13センチの装甲も貫徹する。重戦車といえども、天板はそんなに厚くできない。

 最近の戦車のAPSは、HEAT弾のジェットを逸らしてしまうことはできるが、爆発鍛造徹甲弾は溶けた金属塊なので、APSも無効。
 ロシアは、爆発反応装甲で対処する気だが。

 米軍が1970年代から開発してきたSADARMは、信頼性が8割に届かず、高額すぎるとみなされて、2001年にキャンセルされている。
 しかしSADARMの子弾を500kgのクラスター爆弾につめたもの(CBU-105)は、2003年4月にバグダッド南郊にB-52から投下されて、有効であったと実証された。

 次。
 T.S. Allen 記者による2020-6-2記事「Don’t Bring a Knife to a Gunfight With China」。
     中共軍は正規戦で米国と対決する気などない。中共の脅威を名として米軍が正面戦力を強化するのは、あたかも、ナイフを手にスープ料理を味わおうとするようなもの――と、ジョン・ヴロリクはうまいことを言った。
 だが、そうだろうか?

 かつて中共は、マレーの共産党を育て、インド辺境区の分離運動を支援し、クメールルージュの味方になり、ジンバブエのゲリラを幇助した。

 しかし中共は1980年代いらいこのかた、反米ゲリラの後援はしていない。ロシアやイランとは、グレーゾーン戦争のスタイルが、明らかに異なる。毛沢東時代とは路線を変えてきているわけである。

 「戦わずして他者を屈服させる」のが中共の理想流儀である。西側自由陣営がそれに対抗するには、すべてのステージで闘えるコンディションを維持して行くしかないはずだ。

 ※呑気なことを言っているが、長野五輪の前に長野市内で騒擾を起こした第五列と同じ手合いが、いま米国内で放火暴徒に燃料を供給してるんじゃないの?

旧資料備忘摘録 2020-6-2 Up

▼古野直也『台湾軍司令部 1829~1945』H3
 台湾人が対日感謝に転じたのは支那事変中で、通訳が、大陸とのあまりの格差に気づいたことから。

 マラリア駆除に40年。
 阿片撲滅に50年。
 首狩根絶に35年。
 平野部鎮定に20年。
 高地蕃の制圧に30年かかった。

 日本は朝鮮には36年で200億ドルを投下した。
 台湾には当初の10年に3500万円。その後は自立している。

 総督 乃木希典。
 乃木の従兄に、御堀耕助という俊才あり。M2に山縣や従道と渡欧。M4に結核で死ぬときに、枕頭の木戸、山県、伊藤らに、死んで行くじぶんの代わりに乃木を出世させて欲しい、と頼み、一同、遺志を守ると誓約した。

 那須野は、主に夏の避暑用の別荘 兼 家庭菜園に過ぎなかった。

 陸軍予算の巨額さに比べれば台湾総督など屁のようなもの。それで桂は避けた。
 朝鮮総督は36年間に8人。
 台湾総督は、50年に19人。

 台湾の官吏は、初代の樺山が連れてきた薩摩人だった。

 乃木は部内通達で民間人接待の飲食を禁じ、違反者は馘にすると申し渡した。
 支那人と土民をカネでてなづける方策にも反対。

 曽根も拓務省の局長からのし上がった男で、只者ではない。
 M32に、マラリアは蚊が伝染すると分かり、M34から、陸軍軍医が防疫に来て、S14までに根絶した。
 その間、キニーネの発見もあった。

 乃木帰国から2ヶ月後、台湾は昔に戻り、高島鞆之助拓相は、汚職を追及した台湾高等法院長をクビにしてしまった。

 乃木が帰国し、京都御所に天皇を訪ねたところ、異例の対個人勅語を下し賜い、しかもその内容は乃木着任の訓示に似ていた。

 3962m峰をニイタカヤマと命名したのも、乃木時代。

 アーネスト・サトウの日記に、台湾の英国領事問題は一語も出てこない。これを理由とする史書は、官僚の作文に騙されているのだ。

 第三次伊藤内閣で桂が陸相になると、台湾→桂宛ての予算請求、伺書、報告書が多くなったので、乃木はそれが厭になったのである。

▼木俣慈郎『桜花特別攻撃隊』S45
 著者は1930静岡生まれ、一ツ橋経済卒。高校の先生。

 米空母のSK大型レーザーは150kmを見張る。
 高度6000mより高いところからだと、まったく海面上の敵艦を視認し得ない。

 高度6000mから桜花をリリースすると、届く距離は1万8000m。
 高度4000m、距離1万2000mで発進させたとすると、飛翔時間は約1分になる。

 S19-7に陸軍は、今後の航空作戦について会議し、そこで技術者がヘンシェル293型式の無線グライダー(戦艦『ローマ』を沈めたやつ)を提案したが、無線操舵が思わしからず。

 館山の341空(零戦主体)の岡村基春司令(大佐)が、S19-6に特攻を提案。

 大田光男特務少尉(水兵からの叩き上げ)は、762空の銀河偵察員。それがS19-7に有人親子爆弾を発案。
 渋谷の東大航空研究所に図面作成を依頼。
 それを8月に、横須賀の海軍航空技術廠へ送った。

 この4ヵ月前、嶋田繁太郎軍令部総長は、艦本と航本に9種の特攻兵器を提案させていた。4番目のが震洋になり、6番目のが回天になる。

 太田は日比谷の航本を尋ね、塚原二四三[ふしぞう]中将に面会。
 海軍では、黒板に人名を書くとき、頭文字をマル、三角で囲むか、アンダーラインを引く。各々、士官、下士官、水兵を表す。
 太田少尉は士官だから、「マル大」となったのである。

 中央がGoを出し、空技廠長・和田操中将→飛行機設計課主任・山名正夫技術中佐→主務設計者・三木忠直技術少佐。
 山名と三木のコンビは、銀河の生みの親である。

 S19-8-16、三木、設計開始。
 エンジンがないので9月中旬に1号機を完成できた。爆薬800kg。

 2枚ラダーになったのは、母機に吊下する関係から。
 エンジンを支えるために、胴だけはアルミにするしかない。その代わり、真円断面として、量産性を追求。

 V1と比べると寸法は小さいが、重さはほぼ同じ。

 練習機に見せかけるために、名称に「花」をつけた。
 初期生産数、50機。

 滑空の最大速度は460km/時だった。
 カタパルト用の火薬は緩燃。だからそのまま転用できた。

 天山を改装空母から発進させるための「4式1号ロケット」(19年秋完成)が使えずに余っていた。平塚の第三火薬廠で作った。
 このロケットを次々と点火すると、水平640km/h、急降下900km/hになる。
 後期にはさらに両翼下にも1基づつ付けたとか。

 追浜航空隊でS19-11-6、地上噴射テスト。
 太田は台湾沖航空戦で10-16に死亡。 ※ということになっていたのか……。

 桜花専用の721航空隊が10-1に開隊。
 721とは、横鎮所管の陸攻隊を意味する符号。
 司令は岡村。百里ヶ原基地。

 721航空隊の下に、711飛行隊あり。これは母機×36機からなる。

 S19-10-23、技術部が木更津から一式陸攻に吊るして飛ばし、無人の桜花を高度4000mから落下させ、相模灘に着水させた。

 10-31、有人実験。
 使ったのは、練習降下用の桜花で、これは8月下旬から「K-1型」として45機作られていた。
 高度3500mからリリース。
 速度220km/時で着陸した。戦闘機の着陸速度 120km/時とは大違いである。

 11-7、七二一空は茨城県の神ノ池に移動。

 弾頭は爆撃部の早川仁・技術少佐。
 炸薬はTNA(九一式爆薬)。

 桜花の最終降下角は20度。
 よって敵艦の上甲板を20度でかすめても起爆する必要がある。

 『磐手』(9180トン)は、至近弾の水圧だけで沈んでいる。
 11-20、実用頭部の投下実験が終わる。

 桜花の母機からの切り離しは、投下爆管による。
 4-12、哨戒艦『マナート・L・アベール』に対し、母機が1800m〔?〕まで近づいて、高度6000m〔?〕で投下した。命中し、轟沈。
 乗員350名中、104名が戦死または行方不明に。

 桜花の最期の模様が判明しているのは、4機のみである。
 『マナート・L・アベール』は、桜花が来る1分前に、別の特攻機が命中していて、航行不能状態であった。

 横須賀の第一技術廠(空技廠をS20-2に改名)は、終戦までに155機をつくり、練習用の「K-1」型も45機生産。
 霞ヶ浦の第一航空廠では、600機の桜花を作ったという。

 小田野正之『学徒特攻隊』によると、訓練は、一式陸攻によって、高度4000mからリリースする。

 「二二型」も、山名中佐主任、三木と、服部六郎・技術少佐が担当。
 図面はS20-2完成。1ヶ月で設計した。

 「二二型」は、「ツ-一一」型(初風ロケット)という一種のジェットエンジンをもつ。※パルスジェット。
 空気取り入れは両胴側から。
 290リッターの燃料で15分飛べる。
 よって「22型」は高度3500mから放すと70km~110km届く。

 「22型」の試作1号は、4月にできた。
 全長が80cm長くなり、主翼は90cm短い。銀河の狭い車輪間に制約されたため。
 エンジンの重さが2割重い。やむなく、弾頭重量を600kgに減らした。

 初風は、推力200kg。日立製作所製。
 22型実験機は、S20-5に、七二二空に届いた。

 空中始動ができないので、地上から暖機運転していく必要があった。
 S20-6-26に投下実験。失敗。パイロット死亡。
 増速用のロケット×1に、先に点火されてしまい、母機と衝突した。

 二二型を空技廠は、終戦までに約50機、製作した。実戦使用は無し。

 B-29が落とした時限爆弾には、最長で36時間後に爆発するタイマーがついていた。

 S20-3-26に、本土沿岸防衛型の桜花の設計がスタートした。
 4月末、図面完成。「四三型」とす。
 はやり三木少佐による。

 「噴進射出機一〇型」と称する、桜花専用のカタパルトを使う。
 全長97m。これを山の上に設置。
 桜花は本番まで、山の麓のトンネル内に格納しておく。トンネル内では翼は折りたたむ。
 ケーブルカーによって、山上へ引き上げる。

 「四三型」は自重2.3トン。

 射出機1基に対し、四三型桜花を5機から10機、配する計画。
 そのカタパルトを3基から5基まとめて、1基地とする。

 カタパルトには15度の俯角がついている。
 エンジンは「ネ-20」ターボジェット。ドイツからもらった設計図(Me-262用)をもとに国産した。

 四三型桜花は、翼スパンが二二型桜花の2倍。
 しかし、カタパルトで射出後、一挙に高度4000mまで上昇し、500km/hで滑空でき、レンジは280kmになる。

 弾頭重量は800kgとした。
 飛行中、消費した燃料分が軽くなる。そこで翼端を投棄して翼面積を小さくするのがよい。
 これをまず九九艦爆で実験した。

 「一一」「二二」型桜花は木製翼だったが、この方式のために「四三」型の主翼はジュラルミン製にした。

 「四三型甲」は、「イ-400」型潜水艦に搭載しようというもの。
 陸上基地用は、「四三型乙」。けっきょく、こっちのみ、量産することに決まった。

 S20-6末頃、11型用のK-1型機を二人乗りに改造した「四三型射出練習機」が完成。
 着陸用の橇と、8秒燃える小型ロケットがついている。
 終戦までに2機、つくられた。
 発射実験は成功した。 ※武山海兵団の平地から?

 四三型の実戦部隊は第725航空隊で、S20-7-1に発足した。これが、日本海軍が編成した最後の航空隊となった。場所は琵琶湖。

 比叡山のカタパルトから、四国沖~伊勢湾をカバーできた。
 8-3、「二二型」は見切りをつけられ、隊員の一部は725空へ転属するよう命令された。
 岡村はS21に千葉で鉄道自殺している。

▼内藤初穂『桜花 非情の特攻兵器』S57
 著者は大10生まれ。

 増速ロケットはパフォーマンスが均等でないため、左右の翼下にとりつけるのはよくないということが、10-31の有人テストで判明した。とっさに切り離せたので、テスパイは助かっている。

 11-3の実験では、水バラストを頭部から先に捨てたために、操舵不能となり、ハードランディング。テスパイは2時間後に死亡。

 『信濃』を廻漕に使わんとした。50機積み込んで、沈められた。

 比島のマルコット飛行場に、桜花秘匿トンネルを掘ったが、使われず。

 神雷部隊の岡村から、1技廠の山名に対する、「二二型」の要請は、2-28以前にあった。
 2-28時点で、山名には成案があった。
 したがって、「一一型」の全滅より、前である。

 「二二型」は3月下旬に機体関係の設計を了えた。秘密主義も止めにし、愛知航空機に量産させる方針へ。

 ターボジェットで母機投下式のを「三三型」と称す。
 「四三乙」のカタパルトは、火薬ロケット×2本使用する。

 米艦隊のピケットラインは、110~130kmの半径。そこに哨戒艦がいる。

 桜花の信管は、大型艦用に遅働となっている。だから駆逐艦の『スタンリー』に命中した機は、弾頭が爆発する前に艦首の反対舷まで突き抜けてしまって、駆逐艦は小破しただけだった。

 比叡山が選ばれたのは、全国のケーブルカーで金属供出されずに残っていたのが、そこと、生駒山(大阪府)のみだったから。

 このカタパルトは、火薬を節約するための、重錘式であった。

 初風は、高度4000m以上では動かない。10機だけ、うまく調整されていた。
 6-26に銀河から有人でリリースしてみた。
 高度1000mまで降りたところで、テスパイはパラシュートで脱出する予定であった。
 ところが火薬ロケットに先に火がついてしまった。
 テスパイはベイルアウトしたが、その落下傘が半開で、墜死した。
 この結果、増速ロケットは「二二」にはつけないことになった。

 初風は、7-20~8-1まで6回の空中テストを重ねたが、開けると振動、絞るとストールで、うまくなかった。

 「四三乙」型は、対馬と津軽海峡にまず配備される予定であった。
 8-12に、「二二型」の投下実験をしようとしたが、ボルトにヒビが入り、中止。

▼碇義朗『航空テクノロジーの戦い』1996 FN文庫
 空技廠はS7-4-1にできた。
 S16に、電気部と爆弾部が新設されて9部に。

 本廠では機体やエンジンを扱う。支廠では搭載兵器や爆弾、試作、実験を分担。
 爆弾部は、弾体生産を民間や光工廠にまかせ、製鋼だけをするようになった。だから製鋼部と改称した。

 スキップボミングは近づくまで爆音が届かないので、奇襲になる。
 田中重美は飛行機部第一工場に配置され、桜花の試作もてがけた(p.70)。

 アメリカの艦船に対する爆弾攻撃の研究は、兵器部2科(爆撃)の小島正巳少佐(のち大佐)らによってS10頃からなされていた。

 水平防御鋼鈑の厚さは重巡で70mm、正規空母は80ミリ、戦艦100~150ミリ。
 艦本では、それを航空爆弾で貫徹できると認めたがらない。

 S10に20cmの「爆弾砲」で実験するとき、爆弾の形状は逆テーパーにした(p.93)。

 燃料タンクは燃料が漏れるから火がつく。内部では火はつかない。
 末期の本土上空で、オレンジ色の煙を引いておちるのは日本機。黒煙や無煙で落ちるのは米機だった。

 ガラスの断面はふつう、青い。これを重ねると光線透過率が落ちる。鉄分の少ない硅砂でつくったガラスは青くない。白板ガラスと呼んだ。

 ボーキサイトは、マレー半島の先端、すぐ鼻先にあるビンターンという小島から主として積み出され、静岡県の清水港で陸揚げされていた(p.280)。

 著者は戦中、立川の陸軍航空技術研究所で、ソ連のラグ3の粗っぽい仕上げの木製飛行機体を見た。
 1科3班の専門は、熱処理および巻線(コイル)ばね。

 電気部には、開戦直後に米国から帰朝した電気部の有坂亮平という技術中佐がいた。
 筒内爆発は陸海軍のどちらにもよくあった。加藤建夫の部下もそれらしい事故で死んでいる(p.334)。※つまり13ミリの爆発弾頭。

 ばねメーカーの中央発条は、疲労試験の方法がわかっていなかった。固有振動数に合わせて伸縮させても無意味なのだ。

▼渡辺洋二『日本の軍用機/海軍編』1997-1
 彗星は小型空母では離着艦できないので、古い零戦二一型が、マリアナ沖海戦には、「爆戦」として数十機、積まれた。

 紫電と紫電改は、対重爆用の局戦ではない。対戦闘機用の「甲戦」。
 S18-4以降、局地戦闘機は「乙戦」と改称。

 レシプロ双発戦闘機で成功したのはP-38だけ。
 中島の単フロートは、米ヴォート社の血統。
 二式水戦はアリューシャンでは駐機中に強風と波浪で壊された。
 父島に配備された9機は、S19-7-4の早朝にF6F×2機を撃墜。こっちは5機やられた。

 日本海軍は「流星」を2座にして艦攻と艦爆の単一機種化をはかった。米海軍もXSB2Dで同様の模索。最後の雷撃攻撃機スカイレーダーは単座。

 日本の艦爆の歴史が浅いのは、何でも英国準拠だったから。英国に艦爆なかった。日本はS6から米海軍の艦爆に着目した。

 彗星は航本が身内の航空廠に作らせたために低性能機に仕上がった。もし民間メーカーがあれを作ったなら、門前払いされたレベルであった。おそらく愛知に九九の後継を空冷エンジンで作らせていたなら、堅実な機材が早くできていたろう(pp.108-9)。

 艦爆/急降下爆撃機は、WWIIでだけ活躍ができるような諸条件が、揃っていた。

 ハワイ作戦では、戦艦は静止していたのに、九九艦爆は6割の爆弾命中率だった。しかしS17-4-9の『ハーミス』に対しては82%を当てている。

 九九艦爆とドントレスを比べると、爆弾搭載能力、速度、航続力のすべてで劣っていた。

 彗星は油圧メカを減らして電気駆動にすることで、油もれを回避しようとした。しかし主車輪ブレーキとプロペラピッチ角度の変更だけは油圧に頼るしかなかった。

 彗星の二一型と二二型は、『伊勢』『日向』からのカタパルト射出に対応した型。

 泰山は双発の限界につきあたり、放棄された。まともに防御能力を付与するなら四発しかないと航本(本庄季郎技師)がようやく気づいて、連山。

 海軍では急降下爆撃が可能なものだけを「爆撃機」に区分する。銀河は唯一の陸上爆撃機となった。
 航空廠は、S14に航空技術廠に改編。

 インテグラルタンクでは本格的な防弾はできない。
 米国で実用されていた内袋に必要な耐ガソリン性の人造ゴムは、日本では作れなかった。

 WWII中に制式採用された対潜哨戒専用機は日本の「東海」しかない。資源小国の無駄行政だった。
 機首まわりはドルニエそっくり借用。

 まず電探機が潜水艦発見を基地に報告する。磁探機が3~6機で捜索し、各機が1発の25番を投下する。
 この流儀で、済州島の九五一空は、敵潜7隻を撃沈したという。

 日本は飛行機用の爆雷を造れなかった(p.151)。

 ターボジェット×2の橘花はトンネル内から発進させるために主翼は畳める。水際決戦用なので航続力は要求されなかった。

 彩雲は艦偵として完成したのに一度も空母から運用されなかった。速度で勝った相手はF4Fだけで、P-38には追いつかれた。助かる方法は、こっちから先に敵戦闘機を見つけること。その点、三座の見張り力が活きた。

 身内の空技廠だからこそ可能だった資源の大無駄使いが「景雲」の開発。
 九州飛行機はその前は渡辺鉄工所といった。

 零観が米戦闘機を落とせたはずがない。緒戦の報告は誇張誇大だ。
 航本は「瑞雲」が水上爆撃機なので「水爆」と呼んだ。

 晴嵐が液冷エンジンなのは、その方が狭い潜水艦に格納しやすかったから。

 九七式飛行艇がS17早々、爆装、雷装3機づつ、モルッカ海で敵水上機母艦単艦を攻撃して一弾もあたらず、逆に1機が落とされた。
 軍用機の真価はデータ表の数字にはなく、どれだけ戦闘に貢献できたかに尽きる。日本の「大艇」はこの点、落第だった。

 2式飛行艇の二三型は、低オクタン燃料も使える燃料噴射式の「火星」二五乙に換えてみた試作機。
 2式大艇は1式陸攻の5倍の単価。夜間の対潜哨戒か長距離人員輸送がせいぜい適任だった。そして、近代的四発実用機を作れなかった日本……と言われるのを打ち消したことが無形の功績。

 「晴空」はS19後半以降、孤島やラバウル、比島からの救出活動に用いられた。一〇二一空では隠蔽のため、北海道の洞爺湖に避退させたこともある。

 ※テキスト中心なのに旧軍機ラインナップをビビッドに説明し切っている快著。従来の解説書の、枝葉末節コンシャスなもどかしさがない。

▼横井勝彦『大英帝国の〈死の商人〉』1997-8
 イギリス軍需産業の資本家連合は、ヴィッカーズ、マキシム、アームストロング、ジョン・ブラウン。

 南北戦争期にアメリカは100万丁以上の銃をイギリスから輸入した。
 北軍だけでも400万丁を使い、うち100万丁は輸入であった。
 北部はすぐに自給するようになり、1863-9にイギリスとの銃取引を停止。

 幕末維新期の日本も中古品を中心に七十数万丁を輸入している。

 元込め、施条[しじょう]の大砲はニューカッスルの企業家ウイリアム・アームストロングが開発した。
 幕府は1862の使節団に、ウーリッジ王立造兵廠でのアームストロング砲の製造を視察させていた。
 佐賀藩は1861にロシアにアームストロング砲×2門を発注した。

 萩の反射炉は鉄製砲の製造に失敗した。そこから南に2kmの郡司銃砲鋳造所でひきつづき旧式の青銅砲を製造した。

 19世紀後半、オランダのリエージュの小銃生産はバーミンガムを凌駕。
 手工業的な熟練に頼っていたイギリスの銃産業は、1853のアメリカ視察の報告をうけ、陸軍省の主導でアメリカ式の標準化量産システムに再編。
 エンフィールド造兵廠が新設された。

 ブーア戦争はイギリス側が6週間で終わると踏んでいたのに2年7ヵ月に延びた。トランスヴァール共和国とオレンジ自由国は各種最新銃器を輸入し、1899-10のタナラ丘陵では、ヴィッカーズ製の大型機関銃ポムポム銃がイギリス軍に向けられた。

 19世紀初頭に英国のH・モーズレーは、改良ネジ切り旋盤や、マイクロメーターを考案した。
 ホイットワースは、モーズレーに学び、自動平削り盤と、100万分の1インチの精密計測器を考案。ネジの溝を標準化した。

 1851-5のロンドン万博開催と同時に英陸軍は、円筒尖端型弾丸を用いる前装施条銃ミニエー銃を制式化した。

 米政府は民間兵器産業も応援した。マサチューセッツにスプリングフィールド、ヴァージニアにはハーパース・フェリーという造兵廠がありながら、コルトの模範的工場からも銃を調達した。

 戦艦『比叡』の蒸気タービンは、ヴィッカーズからの輸入。13万2000ポンドだった。
 1897にヴィッカーズはマキシム・ノルデンフェルド兵器会社を買収。

 1903、海軍工廠条令。横須賀、呉、佐世保、舞鶴。
 1904にアームストロング社の株主総会で会長アンドリュー・ノブルが報告。日露双方の艦が黄海海戦で3000ヤード以内に接近しなかったのは、互いに魚雷をおそれたからだ。そのため今日、艦砲の重要性が増している。

 イギリス産業革命は1840年にほぼ完了。軍事部門の変革とは終始無縁だった。ナポレオン戦争からクリミア戦争まで、英陸軍の野砲は進歩していない。先込めの滑腔砲のままだった。

 1858にまずイギリス陸軍が施条のアームストロング野砲を制式採用した。
 翌年、英海軍の艦砲にも。
 だからアロー戦争では、施条砲が火を吹いている。

 1889時点でアームストロング社は英国内の6番目の軍艦製造業者。それが10年後にはヴィッカーズ社と並ぶ最大手に。

 英政府は1931に武器輸出禁止令。ライセンス制の導入により。
 1932年に英国は日本に、大砲・曲射砲などを10門、輸出した(p.185)。
 機関銃は740丁、輸出した。

 満州事変をうけて英外相は1933-2-27に、日中両国への暫定的な武器禁輸を宣言。しかし3-13には、枢密院議長S・ボールドウィンがそれを正式に撤回。その2週間後に日本は連盟脱退。

 米国は1922の武器禁輸法によって、中国への軍需品の輸出はできなかった。
 しかし1929にこの規制が緩む。国務長官と中国公使館が承認すれば、蒋介石政府への武器輸出ができるようにされた。他の軍閥向けだと×。

 ロンドン南部ウーリッチに大砲博物館がある。


用があって ひさびさに書店を覗いたら 人々は普通だった。

 Alla Katsnelson 記者による2020-5-20記事「Multiple clinical trials test whether NO gas can treat and prevent COVID-19」。
    電気のスパークは、空気中の窒素と酸素を結合させて、1酸化窒素を生み出す。
 1998年以降、この1酸化窒素が、呼吸困難に陥った患者の肺に好作用をもたらすことが分かってきた。

 そして今、一酸化窒素で、新コロ患者も救えるのではないかとの期待のもと、米国とカナダでテストが進められている。

 一酸化窒素ガスには、肺の中の酸素レベルを高める力がある。とすれば、機械的なヴェンティレーションの接続の必要をなくすかもしれない。

 2003年に北京の病院でSARS患者に対して1酸化窒素吸入治療を併用してみたところ、それをしない患者よりも早く肺炎症状が軽快したと。

 現在、複数の研究機関にまたがった無作為の比較トライヤル6を含む11のトライヤルが進行中。

 罹患者だけでなく、新コロ患者と向き合っている医療従事者たちが、そのシフトの初めと終わりに一酸化窒素ガスを吸入することにより、感染予防にもなるのではないかという。

 一酸化窒素はふつう、ガスタンクに入れて管理しなければならなかった。
 しかし、イリディウムとプラチナのスパークプラグを使えば、空気中から随意に所要量の一酸化窒素を作り出せるのである。これなら、ガスの価格も只同然になる。

 一酸化窒素を新生児治療に役立てようとしているザポル医師。このガス発生器を思いついたきっかけは、1980年代にNASAが雷雲中に飛行機を突っ込ませ、カミナリによって合成されるいろいろな酸化窒素のガスのサンプルをあつめている――という何かの記事を読んだことだったという。

 そして2015年にザポルは、スパークによって一酸化窒素を空気から製造できるマシンを、ポータブルなサイズにまとめる目途をつけた。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-6-1記事。
   ビルマ政府はいまのところ、国内に228人の新コロ患者がいて、6人が新コロで病死したと認めている。
 そのほとんどが、中共から入国した者だという。
 ビルマのGDPの7%は、外国人観光客が落とすカネで、そのほとんどは中共から来ていた。だから新コロでビルマは困ったことになっている。

 ビルマは2011年以降、軍政ではなくなったが、軍が国家予算の11%を取っている。

 ※中共市場ぬきで太平洋の経済が回るように、日米豪の3ヵ国の間で何か斬新な仕組みをつくるべき時が来たように思う。

サミット自体がもう時代遅れ。リモート・セレモニーでじゅうぶんだ。

 ストラテジーペイジの2020-5-31記事。
    この4月、ロシア軍ハッカーがポーランドの陸軍大学校のウェブサイトに侵入し、学校長の名を騙って投稿し、NATOおよびポーランド政府を批判した。

 ポーランド国内のネットに侵入してフェイク・レターを投稿することは、露軍のハッカー要員たちにとって、初歩段階の訓練になっているらしい。

 2015前半にウクライナに大停電を引き起こしたロシア製のコンピュータ・ウィルス「ブラックエナジー」。
 NATOが手口を解析したところ、まずウクライナの小さいエネルギー企業3社がスピアフィッシングにやられていた。それらを踏み台にして、ウクライナの全電力ネットワークをMap化する作業が入念に進められたのちに、大々的なマルウェア攻撃が仕掛けられた。

 ロシアのハッカーに全力で対処できているのはエストニアである。2007年からサイバー防備体制を整えた。
 ウクライナはエストニアより大きいのに、対処が遅れていたのである。

 次。
 Jennifer Leman 記者による2020-5-31記事「Watch This Protester Instantly Neutralize Tear Gas」。
    香港市民による抗議デモ隊が、催涙弾への対処法を編み出した。その動画は、昨年秋に、動画配信サイトで世界に流されている。
 地面に転がって白煙を出している催涙弾を、泥を入れた魔法瓶の中に入れて蓋を閉じ、シェイクしてから、中味を全部捨てる。それだけ。

 これについて、催涙ガスに詳しいデューク大学のスウェン・エリック・ジョルト先生に尋ねた。

 催涙弾は、発火すると、木炭が燃える。
 そのさいに、硝酸カリウムや塩素酸カリウムのような化合物が、酸素供給源となっている。
 硝酸カリウムはもっぱら助燃剤として働く。
 塩素酸カリウムは、燃焼反応により分解して、塩化カリウムの煙を立ちのぼらせる。

 催涙弾にはシリコン成分も混ぜられている。これはガスを液滴状にする。
 炭酸マグネシウムも混ぜられている。これは催涙弾内部を過度に酸性にするので、塩素酸カリウムが不安定化するのである。

 もうひとつの秘密成分が、甘味糖のスクローゼ。
 スクローゼは比較的に低温で燃える。そして、有毒・不快な煙が生成されるのを助ける。

 すなわち「2-クロロベンジリデンマロノニトリル(またはクロロベンザルマロノニトリル)」で、通称は「CS」だ。刺激臭がある。

 こうした諸成分が、可燃性のニトロセルロースによって混和されて成形されたものが催涙弾の正体である。

 燃えている催涙弾を泥の入った魔法瓶の中でシェイクすると、酸化反応は阻害され、且つ、気体が出てくるのを泥が封じてしまうのだろう。

 配信されている動画を見る限り、魔法瓶の中に大量の水(もしくは液体窒素)があるようには見えない。
 もし液体窒素が入っているなら、蓋を開けたときに「霧」が出てくるはずだ。

 というわけで、専門家にも、動画の魔法瓶の真の中身については、確信は持てないのであった。

 次。
 Paul French 記者による2020-5-31記事「Stanley Ho’s escape to Macao in World War II laid the foundation for his fortune. But it wasn’t without controversy」。
     マカオを世界のギャンブルのメッカにした男、Stanley Ho Hung-sun が98歳で死去。遺産総額は149億ドルだという。
 マカオを創る前に、彼は自分じしんを創らねばならなかった。
 うまれたのは1921年。

 彼が若いとき、父はサイゴンへ逃げてしまった。1920年代後半の不況で商売がダメになったので。
 じきにWWIIが勃発。香港はクリスマスに陥落した。
 ホーは対空監視哨で配置についていたが、制服を捨てた。そのままでは日本軍に処刑されると考えたので。

 ホーの大叔父は Sir Robert Hotung といい、買弁で巨富を築いていた。西洋人しか住めなかった香港の「ピーク」に邸宅を構えることを許された最初のシナ人である。

 この大叔父が1940年代にマカオに移住し、20歳のホーを呼び寄せた。
 マカオはポルトガル植民地だったので、日本軍から攻撃されなかった。ポルトガルは1944まで中立国だったからである。

 日本軍はマカオの周囲の港湾と海面を支配していたので、マカオのポルトガル総督府は日本軍と協力しなければ食糧も搬入できなかった。

 そこでポルトガル人は、対日協力会社CCMを創った。ホーは大叔父の推挙により、その運営の手伝いをすることになった。
 このCCMの資本の三分の一は、日本陸軍が出していた。

 ホーは日本とのバーター取引を開始する。コメ、砂糖、豆の代価として、機械や工業製品を日本軍に渡したのである。
 ホーはこの商用のため汽船でマカオ島の外部に幾度も往復した。一面、ポルトガル政庁の代理人であり、一面、日本軍の手先であり、一面、自衛海賊であった。

 ホーは必死でポルトガル語と日本語を自習した。
 穀物や野菜の購入先は仏印であった。海南島にも立ち寄った。
 国民党軍にとらわれれば、対日協力者として命の保障は無かった。

 戦争の前半、日本海軍の艦艇は、沿岸を航行する民間貨物船を敵性のものと見てしばしば攻撃した。戦争の後半になると、こんどは米英海軍の潜水艦が、沿岸航行船舶を、日本の輸送船と見て攻撃し始める。

 ホーはこの戦争中に、石油(ケロシン)工場も開設した。

 米軍は1945年になると、マカオのガソリン・ターミナルを空爆した。マカオは事実上、日本の占領下にあるものと看做したのだ。そこから石油が、日本の海軍や、航空部隊に売られていた。

 この結果、ホーの私有精油所が、マカオにおける石油の独占供給者になってしまった。ホーはたちまち富豪になった。

 日本政府は1943年にマカオを事実上の保護国としていた。
 ホーは、マカオにやってきた憲兵隊長の「澤大佐」に英語を教えてやったという。

 終戦直後、国民党軍はホーの身柄を引き渡せとポルトガルに要求したが、ポルトガル政庁はホーを庇った。
 1942年にホーは、マカオの富裕なポルトガル人の娘と婚姻するなどの手を打っていた。

 1945-8のうちにホーは香港に戻り、汽船を買い上げて、マカオ~香港のフェリー航路を経営した。
 彼は回顧している。「戦争中のマカオは、パラダイスだったよ」。

旧資料備忘摘録 2020-5-31 UP

▼『維新の反逆児 前原一誠』S2 春江堂
 広沢は萩から江戸まで300里を17丹治で歩いた健脚。※1日74km? 不可能!
 明治の大岡越前といわれた玉乃世履が広沢暗殺犯を探そうとしたが、大物が出そうなのでためらった。

 幸いに奸雄の嘯集[しゅくしゅう]に誘われずといへども……
 人はなかなかいざとなると死ねぬもので、面白からぬ年月を こうした山の中で送り迎えてゐたのでございます。

 一誠の本姓は佐世。その祖先は米原。このヨネハラを転じて前原と名乗る。
 来原良蔵の推挙によって藩庁から長崎留学を命ぜられ、英書を研究。

 木戸は前原の叔父にあたる来原良蔵の妹を娶っていたので、親類関係であった。
 大村の後任として薩閥は大山綱良を推していたが、西郷が前原にさせた。

 軍艦2隻が萩の沖から砲撃し、明倫館の内を粉砕。前原党は西郷だのみで、周章狼狽をきわめた。
 沖原製造所の銃器を略奪した。

 乃木実弟の玉木正誼は、前原党幹部が新潟へ逃走しようとするのをいさぎよしとせず、ことさらにひとり自ら戦死を遂げたとの説もある。

 前原の弟、山田穎太郎[えいたろう]が正誼の死体の首を切って回収しようとした。
 山田はわが陸軍最初の、幼年学校出身の青年将校。桐野の部下として熊鎮にいたこともあり。

 前原の父の彦七は、捕吏の向かうや自刃したが、死に切れず、牢内で絶命。

▼『宇部短期大学学術報告 第33号』1996
 諸井耕二 「石樵 乃木希典の漢詩(六)――「旅順虐殺事件」など」

 清側では日清戦争とはいわずに「甲午戦争」と呼ぶ。日露戦争は「日俄戦争」。
 11月21日に日本の第二軍が旅順を総攻撃し、旅順陥落。4日間の大虐殺あり、2万人死ぬと。

 外国従軍記者は Port Arthur Massacre と呼び、外相陸奥は『蹇々録』に「旅順口虐殺事件」と記す。
 支那語では「大屠殺」である。

 当時の編成。
 大山大将の第二軍の下に、山地元治中将の1D、その下の第1旅団が乃木少将てに、第2旅団は西寛次郎少将。
 2Dは旅順攻めには不参加。
 混成第12旅団も大山麾下だった。したがって計3個旅団で攻めた。

 第2旅団は2個聯隊からなっていた。歩兵第2聯隊は、伊勢知好成大佐。もうひとつは歩兵第15聯隊。歩兵第15聯隊の第3大隊が、歩兵第2聯隊とともに、市街突入。

 乃木の第1旅団の下には、歩兵第1聯隊があり、その聯隊の第2大隊以下を率いて、乃木は金州に向かった。

 爾霊山の碑は、大阪砲兵工廠が鋳造した。M45-5完成。また鋳造材料の運搬は、大阪商船会社。
 東郷と連名の「表忠塔記」は、じつは塩谷時敏(青山)の代作。
 安重根の処刑も旅順監獄。
 1996-5-15に、東鶏冠山、旅順監獄址が、日本人記者団に初公開された。

 ポート・アーサーのアーサーはヴィクトリア女王の三男の名。同地はアロー戦争(1856~1860)で英が占領したので。

 肥馬大刀無用処
 千金一攫事豪遊
 欲望吾骨埋何地
 酔夢空回五大州

  このM15-11-16日記の付作は、金園社の日記には載っておらず、乃木神社社務所ed.『乃木希典全集・上』(H6)で、はじめて公表された。

▼『二松学舎大学人文論叢 第51輯』1993-10
 石川忠久「乃木石樵の漢詩」

 乃木の詩を調べるのに便利なのは、中央乃木会ed.『乃木将軍詩歌集』S59。
 M8~45の238首を載せている。

 作品は七律が1首あるのを除き、すべて絶句である。内訳は、七言詩が208首、五言詩が28首、十一言詩が1首。

 伊藤博文における森槐南のようなプロが看ていないため、つまらぬ間違いが多い。

 M10の「西南役後過田原」の、村童が 砂中拾得弾丸来 というのは、杜牧の「赤壁」のなかにある、「折戟沙に沈んで鉄未だ鎖[き]えず」がヒント。

 富士山は、木花乃開耶姫[このはなのさくやびめ]を祀っているので、王女山という。

 乃木の詩作には漢学の素養の深さは感じられないものの、平易流麗で時に機知がある。
 M12の「伊豆通中」で「水車」が「短虹」を起こすと詠んだのは先人に例がない。

 七言律詩は、相当の技倆なくば、過不足なく作り得ないもの。

 金州城外は、はじめ「夕陽」としたが、夕が平仄に合わず、斜とした。
 ただし、山川を山河にしたのは、平仄(平字)・意味とも同じなので、改めたのに意図がある。

 すなわち「山河」にすれば杜甫の「国破山河在、城春草木深」を連想させる。
 「山川」とすれば、李華の「……主客相搏、山川震眩、……往馬【足知】【足厨】、……草木凄悲、……」を連想させる。こちらは「弔古戦場文」という題。

 この詩は『古文真宝』『文章軌範』にも入っていて、かつての日本人なら誰でも知っていた。

 十里はシナ里で5kmほどにすぎぬ。すなわち「弔古戦場文」が大荒野を謳っているのに反対している。
 それまでの日本に辺塞詩は育っていなかった。乃木がいきなり上乗のものをつくった。

 史記 項羽本紀 にのっとれば「見父老」でなければいけないが、それだと「仄三連」の禁を犯すことになるので「看父老」とした。

 子規は乃木より18歳若いが、従軍記者としてM28に同じ金州城外で辺塞詩を詠じた。その出来は既にてだれである。家庭環境の差。

▼『海軍の翼 艦攻・艦爆・陸攻篇』H1 国書刊行会
 九七艦攻はそれまでの複葉機に比べて音は静かで振動は少ない。しかし着艦のさいのエンジン加減が難しく、脚は弱かった。

 S18末に、『瑞鶴』から、当時、飛行隊長だった松村平太(海兵63)が、ラバウルに移ったあと、雷装九七艦攻で夜、飛び出した。しかし敵空母を発見できず。編隊は魚雷を抱いたまま着陸したが、全機、脚は折らなかった。

 発動機は、試作時の「光」から「栄」になって、視界がよくなった。
 S18には、低速のため夜間しか使えない機体になっていた。

 九七艦攻は、S14頃、合成風速12mで、『飛龍』に着艦できた。
 20ノットでは空母はほとんど白波が立たない。しかし駆逐艦は卵の泡のようなすごい白波をつくる。

 拘束フックにひっかけるときのショックは、何でもない。
 97艦攻は、兵装なしのとき、増槽を吊るせた。

 艦攻が着艦寸前であっても、空母は、必要を感ずればすぐに面舵一杯をきる。たとえば敵の急降下爆撃機を見たときなど。

 九七艦攻は沖縄特攻(S20)では500kgの爆装。
 97艦攻の主翼は、常に右翼を下にして折り畳む。複雑なので、手動式である。
 6番は、6個吊るせた。

 九七艦攻の地上アイドリングは700~800回転。しかし低回転で長時間運転すると、点火栓が汚れる。

 ミッドウェイの頃の九七艦攻は航続距離が公称1315浬(10時間)だが、上手いパイロットはACレバーの操作で12時間飛び続けた。

 九七艦攻の「栄一一型」の信頼性は「天山」の「火星」1500馬力をはるかに上回っていた。天山の前方視界は悪かった。

 S17-2-17、スマトラ島東のガスパル海峡で、九七艦攻×3機が、全速回避運動中の敵駆逐艦を、水平爆撃で撃沈した。『龍驤』の鮫島博一(パイロット、海兵66)の嚮導による。
 雷撃機乗りには、落ち着いた性格の者が選ばれた。

 「流星」は2人乗りで、800kg兵装で1600浬。つまり一式陸攻と同じパフォーマンス。
 陸軍のAAには、米機だと間違われて、よく射たれた。

 九六陸攻は「金星二三型」にしたら高度7000mに上昇できた。
 S12頃、油圧系統のパッキンは皮製が多く、油温80℃で硬直し、油漏れを起こした。
 特に可変ピッチプロペラは油圧制御なので、皮パッキン不良による引き返しが多かった。

 一式陸攻は、目標までの距離3000mの手前で「安全解除」をする。これは投下器の装置。
 投下は、ボタンを押す。
 某教官。「雷撃は、人生で一度か二度しか、チャンスはない」。

 S17-9-10にツラギから高度8000mでガ島を爆撃に行ったが、F4Fに待ち伏せされた。
 「火星一一型」は、よく回ってくれた。

 「攻撃最大荷重」というのがあり、一式陸攻の場合、15.5トン。
 よって2トンの「桜花」を吊るすときは、1トンの魚雷より1トン重くなる分、燃料を減らす。
 燃費もものすごく悪くなるゆえ、足は著しく短くなる。
 陸攻にして然り。艦攻ならもっとシビア。

 「銀河」では、パイプ接合部の工作不良と紙パッキンの代替使用で、もっと油が洩れた。
 操縦系統は「高油圧」ゆえ、いちばんシビア。

▼『海軍 第八巻 航空母艦 巡洋艦 水上機母艦』S56-9
 『赤城』『加賀』より『レキシントン』級の方が、確かな方針で改造されていた。日米の航空知識の差をストレートに反映。

 62ページの写真。単冠湾の『赤城』飛行甲板上に6機の戦闘機。ブリッヂ横ではなく、後甲板に。
 『蒼龍』型は当初、艦攻を載せないで戦闘機と艦爆だけ積ませるつもりだった。
 正規空母は34ノット前後という方針は、日本では『蒼龍』型から定着する。

 『蒼龍』型の弾火薬庫は20cm砲弾に耐える。ガソリン庫と機関室は駆逐艦の砲弾に抗堪する設計。
 『赤城』は、舷側水線部ならば、20cm砲弾に耐える。つまり、巡戦時代より、薄くした。

 日本の空母は、飛行甲板の前から100mが収容区域。後から150mが発艦整列区域。
 ただし『赤城』だけはこの通りにいかなかったという。

 補用機は、分解格納されていた。

 『翔鶴』型の計画では、艦内には、魚雷45本、80番爆弾90発、25番爆弾306発、6番爆弾540発、航空ガソリン745トンを収納する。

 『翔鶴』型の弾火薬庫は、800kg爆弾の水平爆撃と、巡洋艦の20cm砲弾に耐える。機関室は250kgの急降下爆撃と、駆逐艦の127ミリ砲弾に耐える。主要部は、炸薬450kgの魚雷に対して安全。

▼堀川一男『海軍製鋼技術物語』2000-9
 著者は東大冶金→1945海軍技術少佐。

 91式徹甲弾が、肩より底にかけて、逆テーパーだった。
 15.5センチ砲弾だろうと、大和の46糎砲弾だろうと、製法は同じ。Ni-Cr-Mo鋼SL4 である。

 米空母の甲板が80mm厚だという情報が入って、それに合わせてこしらえたのが「2式500kg爆弾」。レパルスはこれで沈めた。

 真珠湾に投下した80番は、『陸奥』等の旧式になった40cm徹甲弾を転用した。テスト中には、『山城』の36cm砲弾も使った。

 99式80番5号は、本来、魚雷と径を一致させて45cmとするつもりだったのに、応急改造徹甲爆弾は径40cmのため、投下器を共用できない。それに気づいたのが開戦1ヶ月前なので、工員を母艦に乗せて、単冠湾まで出張させた。

 大13に陸軍と日本製鋼所は、オートフレッタージュの特許を購入した。海軍もS2から中口径砲に採用。順次、大口径砲にも適用した(p.132)。

 NVNCとは、新しいビッカースのVNCアーマー(CO4 Ni5 Cr2%)のこと。
 HTは、船体用高張力鋼。Cを高めたのがHHT。

▼『National Geographic』日本版1999-4月号
 トマス・B・アレン「回想、ミッドウェー海戦」

 海中の『タイタニック』をみつめたロバート・D・バラードが、あらたに『ヨークタウン』を発見したことにちなむ、歴史読み物。
 ヨークタウンの舷側 「.30」MG射手だった、ビル・サージー(当時18歳)もバラードに同行。ヨークタウンには単装20ミリもすでにあったのだが。

 ヨークタウンを雷撃した艦攻の偵察員・丸山泰輔は、まだ愛知で生きている。加賀の艦攻乗りだった吉野治男と、同じく加賀の赤松勇二も、生きている。

 ドントレスに乗っていたリチャード・ベスト(今88歳)は、赤城の飛行甲板に見えた日の丸を目印に投弾。命中した。彼は酸素供給システムの不備のため肺をいため、廃兵となり、MIを期に引退している。

 アベンジャーは6機あり、うち5機を喪失した。
 SBDは、128機中、48機喪失。
 カタリナは、31機中、1機喪失。
 F4Fは、88機中、26機喪失。
 SB2Uは、21機中、6機喪失。
 B-26は、4機中、2機喪失。
 F2Aバッファローは、21機中、13機喪失。
 TBDデバステータは、44機中、40機喪失。
 B-17は、17機中、2機喪失。

 米人362人、日本人3057人、戦没。

 九九艦爆の最初の1弾でヨークタウンには格納甲板火災が起きたが、スプリンクラーによってたちまち消火した。

▼『昭和社会経済史料集成 第二十二巻 海軍省資料(22)』H8
 S18-11~12月の資料を収める。

 ラワンは水より軽いが、造船用材の「アピトン」は水より重いので、筏に組んで海上を運ぶことはできない。

 戦争中は成人犯罪は最初の2年は減るものである。そして青少年犯罪がいちはやく増加に転ずる。

▼『昭和社会経済史料集成 第二十三巻 海軍省資料(23)』H9-9
 S19-1~3月の資料を収める。

 和辻いわく、飛行機の不足を公表することはない。

 丸の内の映画館に昼間いる観客の大部分は、工場地域から来たサボリ工員だ。

 山崎いわく。S19-1-25の東條首相の予算総会の演説はひどい。あれだと、東洋において英米思想を実現するものが日本ということになってしまう。

 山崎。医者は患者をして痛いところを全部云はせて初めて診断がし得る。
 和辻。人をわずかなタイプに括ってしまうのは英米ソのやり方なのだ。

 谷川。湊川精神は一種の敗戦思想。また、現在の指導者層の中に、戦争をできるだけまずくやって其後の革命の如きものを期待してゐる者が確かにある様に思う。

 1万人以上の徴傭工を与えられると軍隊式でないととても動かせない。
 2000人以下なら、家族的になんとかやれる。

 和辻。学校教練は、中学、高校、大学を通じて内容が同じなので段々ルーズとなる。雰囲気もジメジメしている。

 私立、夜間の学生は×。
 慶応、帝大は士官候補生として○。
 国士舘は陸軍の教官は褒めているが、入隊すると最悪。帝大生はその逆。

 文部省は陸軍に対して寔に意気地無く、闘はずして敗るの感あり。
 勤労奉仕はドイツの真似。

 国学院は「横書反対」を言い出し、教科書を変えた。
 語学教師は一般に反国家的。

 学徒出陣が決まると総合雑誌は読まなくなり、何か古典をじっくり読もうという気になるようだ。

 造言飛語(海軍刑法第百条)。
 米動員は、各個人を full に ballanced に effectiant に use することを目指す。

 S19-3に、疎開を促進する文化映画『爆弾と弾片』あり。
 マニラ港の7号埠頭には、15トン・クレーンが2基、その上のヘビー・クレーンが2基、あとは4トン・クレーン。

▼櫻井忠温『将軍乃木』S3
 写真では左目が悪そうに見える。
 虫メガネも右手でかざしている。

 歌舞伎座の松居松翁が脚色した芝居の「乃木将軍」は東郷大将も見に来た。
 浅草ではなく、歌舞伎座に軍人の劇がかかったのは、これが初。乃木=左団次。静子は歌右衛門。
 日活の山本嘉一は、最も似ているといわれる。

 日露戦争の実写ムービーは、旅順と遼陽のものしかない。
 特に旅順の動画は400~500尺、時間にして10分間もある。

 二龍山の爆破、望台突撃。
 水帥営も。
 捕虜の中にステッセル夫人も写っている。
 米チームが会見自体を撮影したいと希望したが乃木がゆるさず。

 乃木は5尺5寸~6寸。
 連隊長時代から、左右同形靴。

 髯は自分で鋏で刈り込んでいた。
 自刃前の写真で髯が伸びているのは、平生の姿ではない。

 煙草は極上等のものを好んだ。晩年は朝日のみ。※禁煙してない。
 乃木邸は当時は異例の洋風文化住宅だった。

 晩年、痔がひどく悪かった。
 リウマチスもあり。

 伝令使時代は呉服橋外に下宿。
 のち、芝区に住み、歩1連隊長になったとき、近所ということで赤坂に。

 応接間は板敷き。栗毛の馬皮が一枚、敷いてあった。
 丸テーブルの上の灰皿はどうみても縁日で売っていた安物。
 額なし。

 帽子掛け、剣掛けはなく、客はそのまま対座した。
 おしかけ書生、ずいぶんあり。特に二児なくして後は頻り。

 乃木が軍旗をとられてから、官軍は軍旗を戦線へ出さなくなった。
 麻布の谷底で生まれた。

 小倉城一番乗りをしたという。城内の鞍置き馬に乗って帰ったら、山県が召し上げてしまった。
 Y中将いわく、伏見では乃木は不細工な鉄砲の担い方をしていたと。
 時計の見方も分からぬ生徒ばかりだった。伏見。

 寿号は種馬として六十余頭の仔を生み、その一頭が乃木号。
 演習投宿では、外套を被って寝た。

 野津はかなりメシに面倒な人。
 奧は、どんなものでも「御馳走\/」といって小言を言わない。
 乃木は「なぜこんな御馳走をするのか」

 柳樹房では、瀬戸火鉢に豆のような火、アンペラの上に外套を頭から被ったまま瞑目。
 白井二郎中佐が保典戦死を伝えると、「何、保典が、そうか」といい、ローソクの火を消し、体がアンペラの上に倒れたような音がした。それだけだった。

 保典は、塹壕内を前進中、額にタマを受け、即死。
 勝典戦死は、八里庄の村落。
 櫻井は『肉弾』をM39-4-25に刊行してから三ヶ月で天皇拝謁を賜った。まったく乃木のおかげ。

 「非常演習呼集」の喇叭。
 これを聞いたら、外套を巻き、背嚢につけて、銃を持って出る。

 脚絆は釦かけである。
 そして十五里の強行軍。
 川も渡渉する。
 すると対岸で赤白ヅボン(乃木)が見ている。

 乃木は「蒙古来たる」の軍歌を歌い、身、D長でありながら、若い連中の先達になって、庭をビールをラッパ飲みしながら行進した。

 手拭は、模様あるものは使わず。白の晒木綿を手拭の長さに切っていた。
 口笛は許さなかった。書生でも。
 時計の鎖を胸に吊るすこと、鉛筆や万年筆を隠しからのぞかせるのも、嫌った。

 相撲は、隙ばかり狙ってコセコセするというので、好まず。
 撃剣の汗は和紙の反古を腹におしこんで吸わせた。

 風呂は大嫌い。1ヶ月に1~2回。
 しかも、手や足を拭いておけばいいという流儀は、秋山好古と共通。

 カネは状袋に入れた。がま口はあまり使わず。
 菓子を飯に入れて茶漬けにして喰うことあり。
 ラッキョウと唐辛子は苦手。
 間食は、焼芋、衣[きぬ]かつぎ。
 肉を食ふと人間が馬鹿になるとよく言っていた。

 祭日には葱その他、臭う物を喰わず。
 急ぐときには水かけ飯を5分ですませる。

 お前は飯を食ったか が口癖。

 善通寺で練兵場で本を見ていたというのは嘘で、馬に乗ったり、演習を見ていたのである。
 陣中でも肋骨の服に medal をつけたまま。

 陣中外套は営口で500円で買った狐皮。
 面帳(顔だけの蚊帳)は、当時からあった。

 酒は「天爵」がフェイバリット。
 詩は、志賀重昴にいつもみせていた。
 井上通泰に歌の添削を頼んでいた。

 謡はM25~26に、野村靖から習った。
 日記に「此夜発声」とあれば、「小袖曾我」をうなったのだろう。それが得意だった。

 M44にはパリのハンプトンコートで絵画に見入った。
 じぶんで写真も撮った。

 実弟の集作は昨年死去。
 この二人で、那須野では射撃をしていた。

 『軍事新報』に寄稿したことがある。
 寺内からよく兵書を借りていた。
 鎌倉三代記をときどき読む。

 自身で弓を作り、野良犬を追った。
 稗は、腹にもたれず、長期、貯蔵できる。常食にはしていなかった。

 熊本で、長女の恒子[つねこ]を亡くしてから、人が変わって暗くなった。

 凱旋のときは、十数分の黙劇状態に。
 骨董、ひとつもなし。
 応接間に置物ひとつなし。

 3000の聯隊が一夜にして50人になったのもあった。
 恩賜金で時計をつくったが、盲いた山岡中佐の分は、手探りでも時刻が分かるものにした。

 有賀博士は国際法顧問として第三軍についていた。
 勝典戦死のとき、さる人が静子に2羽の生きた鴨を送ってきた。どこかへ放してやってくれというのを書生が密かに絞め殺して食ってしまった。

 乃木いわく。電車に乗ってゐると、座席を狙っている者はすわれないで、フラリと入って来た者が席を得る。これが世の中の運不運というものだ。

▼『凱旋乃木将軍』
 大庭柯公(景秋)は同郷で、日露開戦前、大阪朝日新聞記者のとき、乃木家に出入りしていた。

 ステッセルは馬を2頭、贈った。もう1頭は「柴」。それは将軍と同時に新橋駅についた。
 花火、爆竹も鳴らされた。

 保典戦死は、静子には寺内が知らせた。
 この劇中では、旅順で2万の壮丁を殺したとなっている。

▼飯野三一ed.『乃木将軍餘香』S2
 三越呉服店でS2に殉死15年記念の遺品展示を三日間やった。そのまとめ。

 解説文は5年かけて編んだので、現時点で、欠漏過誤はもっとも少ないだろう。
 学習院の富士見台に、榊壇の写真。前方後円墳。
 寺内の方が乃木より大男だった。百穂平補画伯のスケッチによれば。

 吉田豊彦中佐はM44にドイツで乃木の通訳を務めた。
 法庫門のM39の招魂碑はどうなったのか、誰も知らない。

 海軍の黒井大佐は、乃木が北上したあとも旅順に残り、露艦の引き揚げに従事した。
 ステッセルを救うため、開城時の旅順内の残存武器を証言した書簡あり。リストではない。
 碑文を書いてもらうときは、あらかじめ升目が引いてある。

 M44の渡英船中では、軍服ではなく、三越につくらせた背広姿。

 日露戦中の「長々靴」について、外国武官は、うちらには半長靴しかない、と言うと、乃木は、これは日清役の教訓で、防寒用に特製しているのだ、と。

▼中村郁一ed.『鍋島論語 葉隠全集』原M39、S9 repr.
 新渡戸は初版の序に「予は武士道の極は基督教と接近せりと信ず」と。

 キリスト教は、舐牛の愛を説いたものではない。
 この本は晩年の乃木も読んだ。

 乃木はベルリンでゴルツ元帥と会っている。
 ゴルツは、ベルリンはますます虚栄利己に馳せつつあり、田舎的堅実の気象は年々堕落、前途憂慮に堪へずと。乃木いわく、東京もそうだと。

▼前川和彦『軍神乃木希典の謎』1981
 著者は1929生まれ。

 乃木は長府の墓を、M44-4に東京青山に改葬した。

 山縣は桂を松方内閣の陸相にと内示していたが、薩摩がクレーム。高島鞆之助になった。桂は怒って台湾総督まで放り出した。
 総督は中将以上の定めあり。乃木に。

 乃木は初め、「土匪帰順政策」をとったが、12月26日に断念。雲林討伐へ。
 乃木は「三段整備」の制を打ち出すが、まったくの失敗におわる。
 乃木が免職させた水野遵に代わったのが曽野。

 現在までに外国では350冊の乃木伝記あり。
 乃木神社は公認だけでも全国に8ヵ所あり。

 占領中、ソ連軍兵士が乃木邸を破壊しようとしてMPと乱闘になり、ソ連兵1人射殺、米兵1人負傷したという。
 その後、MP常駐となった。
 マッカーサーは邸内にハナミズキを植えさせている。

 M6、名古屋時代、芸妓を孕ませたが、女児は早逝。
 兒玉は伍長からスタートした。乃木が少佐だったころは少尉。

▼川西栄之祐『乃木一門忠義』大11 大阪刊。
 著者は小学校長。

 長府の首さらし。青竹を交叉した上に載せてあった。胴はその下に横たえてあった。
 左右同形靴は、大佐に昇進の後?

 保典も死んだと聞いて兒玉のみ声あり「乃木は宜い事をしたり」。
 斬撃は、鍔元を撃つつもりで。続いて体当たりをして倒せ。

 佐々木高綱の宇治川先陣の話は、源平盛衰記にはあるが、吾妻鏡以下実録の書に見えず。しかし承久の乱で先陣したこと、溺死から救われた春日貞辛が返恩として泰時の乗馬を隠し、渡水を止めた実話あり、これが遡って佐々木と梶原の話に加工されたのではないか。


習と軍閥は《「実戦」が近々あり得る》と国民を脅すことによって 国内を統制しようと謀る筈。

 Kristin Huang 記者による2020-5-29記事「China’s first home-made aircraft carrier the Shandong begins sea trials」。
      CCTVは昨年すでに就役済みなのに公試運転は未了の『山東』が、公試運転中である様子を放映し宣伝した。

 ついでに新コロいらいできないでいた、艦上機の離着艦訓練も実施。

 場所は報道されていないが、大連発のノーティスから、渤海だと知られる。
 公試運転/訓練は6-1~6-2にもやる。

 次。
 Major Dan 記者による2018-5-29記事「May 29, 1935: Greatest Fighter Plane? First Flight of the Messerschmitt Bf-109」。
     Bf-109 は戦闘機として史上最多量産数の記録をもっている。ドイツだけでも3万3984機。これに、チェコスロヴァキアとスペインが1958年まで製造した数百機が加わる。
 ちなみに露軍のイリューシン2は戦闘機じゃない。

 同時代のFW-190の方が、より近代的で重武装だったが、量産性と整備性はBf-109が勝った。
 WWII中に運用されたドイツの全戦闘機のうち57%はBf-109だった。

 最大欠点は航続距離の短さだった。
 バトルオブデリテンでは多くのBf-109が燃料切れで落ちた。英本土上空でたったの数分間しか、空戦できなかったのだ。
 増槽は、バトルオブブリテン中には発想されなかった。
 あとになり、80ガロン入りのドロップタンク×2が工夫された。もともと500マイルだったレンジはそれで1000マイル近くに伸びた。

 すべての戦闘機が急速に旧式化してしまったあの戦争で、なんとBf-109は、他国のどの主力戦闘機よりも先に就役していたのだから驚くべきだろう。ちなみにスピットの初飛行はメッサーより1年遅い。

 実戦デビューはスペイン内乱だった。ドイツが派遣した「コンドル軍団」の麾下だった。
 それは、最強のエンジンを、最も軽く小さなフレームで包んだ飛行物体だった。

 初期型の最高速力は時速350マイルくらい。これがG型になると最高398マイル、巡航でも365マイルとなった。
 少数製造されたH型は、470マイル/時という、ピストンエンジン機としては尋常でない高速を出せた。

 液冷エンジンはラジエター系に1発被弾孔が開いただけでも即エンジン火災に直結する。そこでメッサーはラジエターを2個に分け、パイロットが随意に片方もしくは両方の液流をシャットすることができるようにした。還流を全部止めても数分間はエンジンは回り続けるから、その間に不時着かベイルアウトを考えればよい。

 初期型の武装は1門の20ミリ・モーターカノンをスピナー同軸に。そしてカウリング上に7.92ミリMG×2。
 後期型ではこの武装もさまざまに強化された。重爆撃機用の空対空ロケット弾も最後には用意された。
 対地攻撃機にも動員された。その場合、250kg爆弾×1か、10kg爆弾×4を吊下した。

 設計上の失敗といえるのは主脚がセンターラインに寄せられすぎていたことで、そのため、パイロットにとっては、離陸、着陸、タキシングの途中で事故死する危険が、空戦以上に高かった。

 ※古い本にはいちど書いたことだが、世界史の教科書は、現代史のパートに必ず「Bf-109」の写真を沿えるべきである。じっさい、この戦闘機が世界史を変えたのだ。この戦闘機さえなければ、英仏はヒトラーに妥協宥和する必要はなかったのだから。これほど政治的に存在がデカかった戦闘機は、歴史上、他にはない。

きょうの人出はどんなもんでしょうか。

 Christen McCurdy 記者による2020-5-28記事「Nellis AFB to test 5G network beginning in January 2021」。
    ネリス空軍基地に、5G環境を7月から構築し、2021-1から、その運用を開始する。
 すでに米軍は四箇所の基地を5Gテスト用に指定しており、これで五箇所になる。

 中継塔は移動式である。野戦部隊が1時間で開設できるもの。5Gのネットワーク・センターが、戦場を機動できなくてはならないので。

 なおこの環境には事前に許された者しかアクセスはできない。部外者は割り込み利用などできない。
 実用実験は3年ぐらい続けるつもり。

 これまでテスト基地に指定されたのは、ユタ州のヒル空軍基地、ワシントン州のルイスマコード合同基地、サンディエゴ海軍基地、ジョージア州のオルバニー海兵兵站基地。

 FCCはすでに民間のリガード社へのLバンド使用を許したが、NTIAというテレコム情報行政機関はその撤回を求めている。

 次。
 Jon Harper 記者による2020-5-28記事「Foreign Military Sales at Risk of Decline」。
     昨年、米国のFMSは550億ドルを計上した。
 しかし直後の新コロと原油価格の低落は、FMSを縮小させるだろう。

 FMSの巨大なお得意さんだったGCC諸国に、兵器なんか買い付ける余裕はなくなるはずだからだ。

 欧州諸国も、新コロ対策費を捻出せねばならず、兵器調達は抑制するはずだ。

 FMSの仕組みでは、購入国は、あらかじめ信託機関に代価をデポジットしなくてはならない。だから既成約分に関しては、米国側には1文の取りはぐれもない。

 縮小リスクに直面しているのは、米国軍需企業と外国政府との間の直取引だ。
 ちなみに、そうした直取引に関して、米国政府が特旨を以って融資をしてやったりローンを組ませてやったりするという場合もある。

 次。
 Nicholas Clairmont 記者による2020-5-26記事「“Please Do Not Show This To Anyone. Military Secrets, You Know.”」。
    記者の祖父は、1941年8月9日と10日の「チャーチル-FDR」会談の場となった巡洋艦『オーガスタ』の無線通信士だった。
 チャーチルは、戦艦『プリンス・オヴ・ウェルズ』に乗ってやってきた。

 場所は、ニューファウンドランド島のプラセンティア湾。
 話し合われたのは、戦後経営。まだ日本が参戦する4ヵ月前だから、米国も対独戦には加わってなかった。

 合意したこと。

 英米どちらも、領土は拡張しない。
 ともに、国際貿易の自由化を追求する。
 世界の海洋の自由を確立する。
 ドイツに占領されてしまった諸国の政府は復活させる。それらの国民はじぶんたちの政府の形を自由に選べなくてはならない。

 これらの大原則は「大西洋憲章」と呼ばれた。
 チャーチルの最大の願望は、米国の参戦であった。しかしそれはこの会談では叶わなかった。

 この「大西洋憲章」のコピーは麗々しく額装されて1942年から44年まで、DCの国立博物館の壁にかけられていた。
 ところが44年後半、FDRは新聞記者たちに、あの憲章には公式の「オリジナル」は無い、と暴露する。そしてFDR自身、それがじつは大問題になり得るということに、気づくのである。

 FDRいわく。オリジナルに最も近いものといえるものなら、『オーガスタ』と『プリンスオヴウェールズ』の通信室にあるのではないか。公式文書は存在しない。

 チャーチルとの大西洋会談は極秘外交だった。
 ドイツの潜水艦から襲撃されるのを回避するため、FDRは1941-8に、大統領専用ヨットの『ポトマック』で10日間の釣りの旅に出ると公表し、世界を欺いていた。

 『ポトマック』にはニューイングランド沖をずっと巡遊させておき、その隙に、大統領本人はカナダ沖に移動したのだ。

 記者の祖父の通信士の日記より。
 1941-8-2(土)、巡洋艦『オーガスタ』は朝6時に抜錨し、ロードアイランド州のニューポートへ。護衛するのは重巡1隻+多数の駆逐艦だ。
 『オーガスタ』の行き先は、水兵の誰も知らない。緊張感が満ち、ルーモアだけが流れる。

 西に航走して、午後2時、ロングアイランド海峡の「シティ・アイランド」という小湾に投錨。

 そこはレジャー用のヨットやカヌーでいっぱいだった。
 たちまち民間人どもは当艦に興味を抱き、蝟集して周囲を回り始めた。水着美女をはべらせている船もある。ただし皆、海軍には好意を持っているようだった。

 しばらくすると、海峡を、2隻のタグボートが、巨大なバージを押してやってきて、当艦に横付けさせた。
 作業衣の男たちが乗り組んでいた。
 カンバスがかけられ、外からは何なのかがわからないようにされていた複数の物体を、我々はクレーンで積み取った。

 大統領の所属品であることを示すニッケル・プレートがついていた。
 この時点で、新聞では釣りの旅に出ると言われている大統領を当艦が運ぶのだと理解できた。

 われわれは夜に出港した。
 こんどはロングアイランド海峡の東端までゆっくり移動した。
 そして夕方、投錨。夜になり、また移動開始。護衛の軍艦5隻も一緒だ。
 翌朝、聞いたこともない港に停泊していると、そこに白いヨットが颯爽と現れた。大統領の『ポトマック』だった。

 大統領たちとさらなる荷物を載せ、いよいよ大西洋に出て北上開始。艦内ルーモアは、行き先がアイスランドかグリーンランドだろうという。

 2日航走してメイン州の沖も通過したので、いよいよアイスランドかと思った。
 しかし3日後に艦隊は変針。
 松の木に覆われた山岳がとりまく湾内へ滑り込む。そこはニューファンドランドのどこか、だった。

 大統領は舷側からじっさいにフライ・フィッシングをした。
 そしてじっさいに15ポンドのブラックドッグフィッシュを釣り上げた。
 大統領は、息子の海軍少尉(同名Jr.)を帯同していた。

 ややあって、われわれは「堵舷礼」の配置を練習させられた。外舷の手摺に沿ってズラリと整列するのだ。これでピンと来た。「堵舷礼」が必要なのは外国元首である。

 その時点で民間ラジオニュースは、米英頂上会談があるのではないかという予想をしている新聞が一、二あることも伝えていた。

 英国最新鋭戦艦は、夜明けにやってきた。
 その戦艦からボートが卸され、こっちにやってきた。

 こっちの全将兵は、直立不動。楽隊が英国家「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」を吹奏。その曲が終わるまで、英艦の乗員は敬礼を続けた。

 『オーガスタ』上には、キング提督、大西洋艦隊司令長官のワトソン提督、首席海軍卿のダドリー・パウンド、ハリー・ホプキンスなども集まっていた。
 この場ではムーヴィーも撮影されている。しかしそのフィルムは今日、伝わっていない。

 英軍艦の乗員たちのために、チーズやリンゴやオレンジや煙草を大量に送り届けてやった。向こうの水兵たちは感泣せんばかりだった。英本国では食糧は厳しい配給統制下にあって、数少ない果物などはほとんど禁止的な値段で取引されていたのだ。

 『プリンスオブウェールズ』は『ビスマルク』と砲戦してこれを沈めている。ほんの数ヶ月前だ。

 ある英水兵から写真を見せてもらった。沈められる直前の『フッド』などが写っていた。
 ビスマルクの15インチ砲の最初の斉射でフッドは弾火薬庫を貫かれ、瞬時に爆沈した。前檣の高いところにいた3人だけが、吹き飛ばされながらも生還し、残り全員は、死んだのである。

 その水兵の乗っていた艦にもビスマルクの巨弾が命中したが不発だった。その砲弾は、ドイツに占領されていたチェコの工場製で、おそらく工員が信管に細工をしていたのではないかという噂になっていた。

 ロンドンに落ちた爆弾の不発弾の信管からも「これがわたしにせいぜいできることです」というメッセージの紙片が発見されたという。

 英艦の配膳は悲惨なものだった。砂糖、クリーム、バターは皆無だった。サトウダイコンが甘味として代用されていた。
 FDRは犬の「ファラ」を伴っており、その犬は通信室にまで入ってきた。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-5-29記事。
   155ミリの「エクスカリバー」GPS誘導砲弾がさらに進化した。1Bという。

 大落角で落ちるときに、手前寄りにコースを修正できる。すなわち、崖の裏に隠れている敵を、背中から直撃できるようになった。