幸運な人生完結?

 Robin McKie 記者による2011-9-24記事「Scott of the Antarctic: the lies that doomed his race to the pole」。
    1912-12-12に英国捜索隊はロス氷棚上になかば雪に埋もれたテントを発見した。それがスコット隊の最期の地点だった。内部の食糧と燃料は尽き果てていた。
 寝袋はトナカイ皮製である。

 テントの柱はいかにもスコット流に完全に打設されていた。
 中央にスコット。その両側に、バウワーズ海軍中尉と、ウィルソン博士。
 スコットの表情だけは苦悶を呈していた。

 他のメンバーの運命は、残された日記によって判明した。
 隊でいちばんのちからもちのエヴァンス海軍兵曹は、クレバス転落時に脳を傷め、南極点から引き返す途中で死亡したようだ。
 前後してオーツ陸軍大尉は、脚部の凍傷から、このままでは隊の足手まといになると判断してブリザードの中をテントから出て行き、行方しれず。

 また日記から、スコット隊は、ノルウェーのアムンゼン隊に、南極点一番乗りの先を越されていたことも確かになった。
 3名の皮膚は黄色いガラス状になっていた。

 捜索隊は、竹製のテント支柱を抜き、テントをカバーとして、3名の遺骸の上に被せ、その上にケルンを築いて目印とした。
 そして捜索隊長のアトキンソンが、『コリント書』の一部を読み上げた。

 この悲報を英本土に届けるまでにそれから3ヵ月を要した。最寄の海底電信線の端末はニュージーランドまで戻らないと無いからである。

 アムンゼン隊5名はスコット隊よりも34日も前に極点に到達していたのだった。

 アムンゼンはノルウェーの船会社社長の四男であった。彼はカナダ沖に北極航路を見つけようとして失敗したジョン・フランクリンの壮挙に影響されていた。
 また1895年に北極点まであとすこしのところまで到達した自国人のナンセンも景仰していた。

 フランクリンを乗り越えた以上、次の目標は、ナンセンが果たせなかった北極征服だ。
 ところがその準備を整え終わった1909年、米国から誤報が到来する。
 2人の米国人がそれぞれ別経路から、北極点を目指して進発したというのだ。
 今日、その2名が北極点に到達したとは信じられていない。報告されたその移動スピードは速過ぎて、非現実的なのである。2人はじぶんの行動を証明できなかった。
 ちなみに2人は別々のニューヨークの新聞社によって冒険資金を提供されていた。ネタのための新聞社企画だったのだ。

 アムンゼンはすぐに目標を変更することにした。

 しかし南極点征服を目指すとなると、こんどは42歳の英国海軍将校スコットがライバルになる。スコットは1901と1904にも南極大陸にとりついており、43歳で三回目での目標達成を期していた。

 ノルウェーと英国の同盟関係は深い。ノルウェー王妃は、ヴィクトリア女王の孫娘である。
 だからノルウェー政府が、アムンゼンに「英国人を刺激するような余計な競争はやめろ。探検は許可できない」と言ってくる可能性もあった。

 それで、俺たちはケープホーン回りでアラスカ沖から北極点を目指す――と偽り称して、『フラム号』をさっさと南下させた。

 スコットは豪州のメルボルンに到着したところで、アムンゼン本人からの電信を受け取る。アムンゼンは攻略の矛先を南極へ転じたのである。アムンゼンは有名人であり、スコット隊は緊張した。

 ある者いわく。米国新聞のフェイクニュースがなければアムンゼンは北極へ行った。その場合、スコットには焦る必要はなにもなく、ゆっくりと南極点に到達できたはず。帰路も士気が高揚しているから、往路で途中に設営しておいた巨大デポまであと11マイルというところで力尽きることもなかっただろう――と。

 ※阿呆か。こんなことを言っている英国人がいるのか。スコット隊は「地質学調査」「サンプル収集」で貴重な時間や体力をものすごく無駄にしているのだ。アムンゼンが軽い橇を使って動いているのに、余裕をかましすぎていた。「目標のシンプル化」という軍事鉄則に反していた。馬の代わりに馬鹿力人間の下士官を橇曳きに酷使して疲労から凍傷を促すなど、現地を甘く見すぎていた。

 スコットは、妻子と老母、さらに独身の姉妹複数も養わねばならぬ家長であった。だから死後の遺族のめんどうを頼むと書き残している。この願いは叶えられ、遭難隊員の遺族全員が年金を得ている。

 最後の3名には自殺するにじゅうぶんな量のモルヒネがあったが、彼らはそれを使わなかった。
 ※どうやって凍結防止した?



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