▼十文字信介・著、村田経芳・増訂『銃猟新書』再版 M24~25
管銃、一名 いれこ銃。
村田序文。「……況や近来優柔の遊戯漸く衰へ尚武的勇壮の遊戯将に隆盛に趣く[ママ]時運なるに於てをや」。
多くの遊戯は「一朝事変に際し万一を裨補するものなし、唯之れあるは銃猟を嗜む者のみ」。
「況や近時銃器弾薬の製造は非常の進歩を徴し其弾道の低伸せしに依り我軍用小銃の如きは照尺を揚げざるも六百メートルを射撃し得るが故に……」
「余、射撃術の隆興を祈る年あり、先年 故内務卿大久保公に謀るに此一事を以てするや 公之に答て謂へる事あり 曰、其 冀望 誠に可なり、余も亦 大に賛成す、然れとも余に治国の方針あり 此維新の大業を全ふする三十年を要す、日初期十年は特に文事を勤め士気を鎮定し以て国力を養ふべし、次期十年は大に武事を励まし民心を振作し以て国防を整ふべし、後期十年は国権を拡張し以て対外の政策を定むべしと、而して明治十一年に至るや余も(?)実に射撃会の世に興起するを見るを得たり、爾来年を重ぬる正さに十四、時期も亦熟せり、冀くハ銃猟の研究と共に射撃術講究の美事 続々邦内に隆起せんことを」。明治二十四年秋、村田経芳《花押》
提銃荷鋤
後進猟者中、危険、乱獲、荒亡等、厭悪すべき者少なからず。
猟税は軽からず、狩猟法は整はず。
毛種羽族は、蕃殖の時期にさへ妄獲し去らるるが為、早すでに其の形影をだに留めざる地方あるに至れるも……。
四番銃=八分=24mm。
八番銃=七分=21.4mm。
10番銃=6分5厘=19.7mm。
《中略》
12番銃=6分強=18.1mm。
20番銃=5分2厘=15.8mm。
村田君いわく、砲兵工廠製村田式猟銃も右(4番~32番=13.2ミリ)と口径番号の割合を同じうすといえども、薬莢を少し長くし、弾薬が多めに入るので、24番銃で20番の働きがあり、16番で12番の役に立つ。
世間並製[なみせい]の村田式猟銃には、12番+のものあるが、村田銃の機構そのままで耐えられるのは12番までで、10番より上にするには特別な強化が必要で、必然的に重くなり、却って不利である、と。
「円筒銃」とは無チョーク(無狭縮)のもの。その反対が、「絞筒銃」。
大倉組、宮田製造所、川口製造所、岡本、原、小佐井等の製造所で近来、チョークボール(絞筒銃)は2、3割遠射できるが、「実弾」を射つことができぬ。
網弾[あみだま](散弾を網で包んでスラッグとす)も忌むべし。
近来、村田少将、銃端[つつざき]三寸を螺子仕掛けにして、チョークとストレートを代えられるように工夫。
初期の村田式猟銃は、砲兵工廠に於ける廃銃・損銃を再利用。
むかしは粗悪なので、捨て値で売ったが、今は品質安定し、9円50銭で払下げている。ほとんど新調と言っていい。
鳥打ちは、獣と違い、人家近くで撃つことが多い。ゆえに散弾にすべきだが、日本ではまだ、実弾を使う者が多い。
洋製の水平12番2連元込めは、200余円する。
鴨には2連が必要だけれども、雁、白鳥には、4番の単銃身が欲しい。
いれこづつ とは、12番銃身に、もっと細い〔40番くらいらいしい〕内筒を入れるもので、村田が工夫した。二十間先の小鳥を狙える。
余(村田)は、それを使って、十四~十五間も遠くの飛雉をさへ度々討ちし事あり。
「安静器」。ハンマーレスの猟銃に付くsafetyである。
自銃に安静器をつけたい人は、村田式セフティなら工廠へ、宮田式なら宮田へ持ち込めば、つけてくれた。
また村田銃は、円筒把手[にぎり]を一段揚げ戻す位置があり、そこにしておけば、セフティ代りになる。「セフティ・コック」代わり。
村田は国民皆兵化を促進するために、わざと猟銃に「てまえけんたう」(照尺)をつけた。
村田実験によればL/D比は、40でOK。製造のMax値は、54だが、40以上は益なし、と。
しかし筆者いわく、長いほど音が小さく、遠くの鳥が驚き逃げないので良い。多獲ができる。
海獣猟には「2番」もあるが、頭痛がするという。
M19の東京府下では、猟銃は、国産351丁、輸入65丁 であった。
M20では、国産579梃、外国製106梃。
M21では、国産661梃、外国製350梃。
M22では、国産1098梃、外国製351梃。
M23では、国産3285梃、外国製596梃。
※いずれも東京で売れた数のみ。全国統計ではない。
前装銃は、雷管を除いても、雷粉が火門に残留することがある。危険なので廃止すべし。
しかも、火門の近くの薬室が腐蝕して破裂することもある。
村田はゲベールで飛走物を撃っても、必ず当てたと。
雷管の発火で左手を焦がすことがある。
ハンマーが強すぎると、銅が火門内にめり込んでしまうことあり。
英国製猟銃は、欧州猟銃と違い、負い革がつかない。山がないので、藪漕ぎの用が無い。
バックストックにピストルグリップ状の凸出のあるのは、引き付け易いし、右手の位置が自動的に決まるので安全だ、と村田は言う。
散弾のサイズに、SSG、SS、AA、A、BB、1、2……10まである。「10」が最小。
12月初旬からは鳥の力が極めて強くなる。
村田君、鹿児島にては、鋸歯にて玉に傷をつけて用ひしが、巧あるものなりき。
村田に言わせると、ホローポイント弾は、200m以遠を撃つときは穴を埋めた方がよい。
猟銃の世界では、黒色火薬は遠射に向くのだという。
朝霧あるときの有煙火薬が、最悪(p.39)。
火薬は、晴れた日の午前10時から午後2時のあいだに干せ。
しまうときは天日をさましてからにせよ。さもないと湿気る。
コロッス(玉押し)は、タマをおくるためではなく、火薬の力を洩らさないためにある。
このころ村田猟銃の薬莢は、散弾でも真鍮製で、再利用する。
ただし重過ぎるので、紙製も半数、携帯する。
紙型も高級品は何回も使った。
村田かつてポーツマスで英艦の大砲射的を見て、勿体無いと思ったら、英人に諭された、と(pp.54-5)。
児島大審院長も銃豪である。
実体弾は、やや手前を狙うのだが、散弾は、まん中を狙え。
著者は明治16年から村田の下で銃を習った。
風のある日は、斜め風下がよい。真っ向だと、ガスをかぶる。
軽舟で鳥猟するときは、舟夫も、ガナーも、犬も、けっして鳥の居る方に眼を向けてはいけない。すぐ逃げられる。
デコイ=かた鳥。陸前の松島では、数十年前からデコイ猟がある。
「最小口径のバラー銃」(室内用)
ウサギ射ちは、見晴らしのよい所で待つと、何度射ち外しても犬が追い戻してくれる。ただし声をかけると、二度と近寄らない。砲声は、無関係。
キツネは野鼠を獲るものなので、その猟法は、特に略す。
養鶏農家にとっては、蛇と同じだが……。
カワウソ猟は、小屋で夕方を待て。
鮒を籠に入れて半ば河に沈め、数日間、勝手に食わせろ。
犬は、前夜に多食させて、当朝は、小食させる。
ただし、仕度を見られると、雀躍[こおどり]して食を為さず、ひる前にへばってしまうから、気をつけろ。
鶏卵は犬の疲労を防ぐ。一度に2個。1日4個。
村田は犬ごとに違う音の鈴をつけて、芦洲猟をした。
村田いわく、鹿児島でカスミと称する、淡水中の寄生虫が、武州白子と富士裾野にいるから、犬は連れていくな(p.158)。
散弾は、鉛百匁に、鶏冠石3分を混ぜ、火力を上げて溶かし、ソーロソロと洗手盆に注げば、できる。
和鉛は不純物として銅と銀が混っているので、このように自製しやすいのだ(p.174)。
▼坂口一郎『独立機関銃隊いまだ猛射中なり』非凡閣 S16-7
著者は横浜高商を出た富士紡の社員として応召した、陸軍中尉。皆伝部隊にいた。腹部に銃弾をうけ、東京の第一陸軍病院にいる間、百日でこの原稿を書いた。序文が菊池寛。
菊地が、戦場のディテールにおいて、かつて読んだ『黄海海戦記』に匹敵すると思ったので、出版の世話をしたという。
スタートはS12-10-25夜、大場鎮。
ガチャガチャと音がする。敵がチェコ軽機に触れる音だ。
九二式重機関銃の「九二」が伏字!
中国軍は笛を戦闘指揮に使っていた。
7.92ミリ弾は、飛来音も大。
HMG射手は一等兵で、上等兵が弾薬装填手。
5番以下の弾薬手は、円匙で土を盛り続ける。
伍長が指揮す。
笛の次にチャルメラ、太鼓。※ちなみにノモンハンの日本陸軍は、敵の空襲を喇叭で知らせた。
大友少尉は○○○式拳銃を連射した。※コルトか十四年か?
「活塞後退不足」の故障は、閉鎖はするが、単射でおわってしまう。
いちばん多い故障は「突込」で、遊底が閉鎖しない。
味方手榴弾はスーッと赤い火の尾を引いて飛んで行く。
手榴弾には手榴弾で応えるのが一番なのに……。
暗夜では、弾薬装填のさいに、つい土砂が入ってしまうものだ。
しかし今回は、規制子に敵弾が命中したための故障であった。
「機関銃も最新式の、驚異的威力を持つものだ」
大西齋『支那の現状』に、伍延芳なる者が、瀬戸内海をみて、大きな河だと言ったと。
タマの下で働いた人間は、目付きの殺気で判る。
上海で電柱のおびただしい弾痕を見て、半年や1年では帰れないことを知った。
浄水剤は効果に5分かかる。休憩10分の半分だ。
鞍下毛布は、馬の毛付き。
栄養状態、まさに「甲の上[じやう]」。
蝿は赤く大きい。誰いうとなく「旅団長」。
せんべいみたいに痩せた敵兵。此んな野郎の鉄砲でも、中りゃ死ぬぞ……。
戦争に来ると、食ひ気一方になる。
前線から担架が来る。腹部、顔面、そして白布……。
指揮班の「沸水車」は、鉄製タンク。
観測用の角型眼鏡。※蟹目鏡のことか。
眞茹の「無電台」のアンテナ鉄塔には、敵の砲兵観測兵が登っていたので、こっちから高射砲で制圧していた。
日本軍は階級章は皆外して戦っていた。指揮官から狙撃されるので。
「夜光羅針」が頼みである。
MGで射たれた者は「ボソリ」「ドタリ」と斃れる。余計なアクションは、一切ない。
シナ軍服は、表が青で、裏は白の綿入れが多い。
夏の青い軍服、カーキー色のもの、半ズボンもある(p.146)。
シナ農民の布団は、綿を木綿糸で粗くからげてあるだけだ。
「小十字鍬」(p.151)。
突撃準備射撃の最終弾は、煙弾で知らす。
1916のソンムでは仏軍が2千万発、独軍が1500万発の砲弾を撃った(pp.166-7)。
シャンパーニュでは英軍が45分間に13万5000発の砲弾を撃った。
ヴェルダン攻めの独軍は5時間で8万発の集中砲撃。objは巾1km、奥行き600m。
ヴェルダンでは独仏両軍、200個Dが、合計5000万発の砲弾を射った。それでもヴェルダンはもちこたえた。
WWI中、独軍は5億5千万発の砲弾を射った。
工兵が架橋に成功すると、対岸から擲弾筒で「黒龍一発」を打ち上げる。
HMGの射手は「四番」である。
MGを「最高姿勢」にして撃つのは危うい。
砲撃でMGの放熱筒の「連環状部」が四枚、欠ける。
シナ軍には狙撃にたくみん「老兵[ラオピン]」がおり、軍閥が高給で雇っている。
「我イマダ此敵ヲ猛射中ナリ」
飯盒の掛子〔中蓋?〕と体[たい]。
兵隊の一番嫌いな雨が降ってきた。
雨で土が軟くなると、敵砲弾は不発が増える。
戦場では、何人前も働く良兵ほど早く欠けてしまう。よって、優滅劣存となる。
「『第二のアイヌ』となる勿れ!!」(p.211)。
兵隊には「できたら~をやってくれ」という言葉は、何の力もない。「~をやれ」でなくばならぬ。
工兵は、歩兵を渡してから、皆で相擁して泣く。
細い一本橋をムキ出しで渡る歩兵は、ドブン\/と河へ落ち込み、櫛の歯が欠ける様に消えて行った(p.229)。
石灰工場にはクラッシャーがあり、人間のカマボコができかねない。
頑強な敵のMGネストを、後で調べたら、壊れたチェコ×5梃が転がり、血の海で、味方のタマは、銃眼内に何百発も飛び込んでいた。
敵MGの保弾帯はズック製。※米国製の古い三脚付き重機関銃か。
こちらのHMGの「前棍」は樫である。
上海の日本人街は、白人街に比べ、ゴミゴミした汚い街だった。
支那馬のことを「チャンマ」と呼んでいた。
猫、豚までが、屍馬を食ふた。
「緊定点射」を撃ち込んだ。
MGは太陽を背にすると、発見されにくい。
「微薙射[びちしゃ]」
水陸両用の渡河できる戦車と、MG改良が急務だと言っているのが珍。
▼内田靖夫『馬部隊』S17-6
※著者は講談社の雑誌に児童漫画も描いていたプロなので、記憶のみで下描きもなしで1枚30分で描いたという挿絵に、写真並の参考価値がある。時代考証に適す。
近代の日本軍のみが、戦役ごとに、軍馬の数が増加しているのである。
碇泊場司令部の水上輸卒隊が、着船業務として、馬をおろす。沖仲士そのもので、髯ボーボーの真っ黒。
遺棄重傷馬を収容する。銃創は軽く、治ることが多い。が、砲弾創は、まずダメ。
馬のたてがみや尾に、細長い標布が結び付けられていることがある。これは「咬癖」と「蹴癖」を警告するもの。「カムケル」と兼備した馬もいた。
馬を汽車や船に乗せるのは「馬匹登載」。※この字は「搭載」が正しいと思う。
砲車をつなぐのは「輓索」。
▼相馬基『沸印進駐挺身隊記』大阪毎日&東京日日 S17-9
陸軍中尉・萬尾武弘の遺稿にもとづくという。
「朝鮮人」が「○○人」と伏字になっている。
S15前後、青年将校は『戦争論』を少しづつ読もうと努力していた。
リデルハートの『世界大戦――その戦略』も。
軟い土地では、砲弾は無論、手榴弾の損害も、少なくなる。
これはしまった。部署が悪い。下士官では指揮がとれぬ。
支那事変中に櫻井忠温の『肉弾』を読んでも兵は感動しない。そこに、火野文学の需要があった。
軍隊で電話に出るときは「○○少尉」と、じぶんの姓と官のみをまず云ふ。
▼中支従軍記念写真帖刊行会ed.『中支を征く』S15-12 ※三庚図書館蔵。
未見写真。軍公路付近の迷彩89式TK、近景にHMGの托架のみ。
装面で11LMG、カッコイイ。
杭州湾上陸では、みな、ズボンを脱いでいた。さるまた半分、ふんどし半分と知られる。
54頁、上海の国際無線台の写真。89式TK×2の前景シルエット付き。
トラス柱で門状にした構造物がひとつ。
4角トラス柱から木の枝状に、四方向に桁張り出し。それが2段。冠頂部分には2方向の桁。こういうのが3柱あった。
その土地名を眞茹という。上海の西郊外で、人口1万足らず。
華僑子弟を教育する滬南大学あり。
南京占領は、S12-12-13夕刻。
中山門には「仁」の下に「仇國復誓」とペイントしてあった。
炎天の平射歩兵砲。いい写真。
「8940」番の八九式戦車。遠景に磚の多層塔。
山砲を分解している、いい写真。
水冷の87軽爆と鏡餅。カッコよすぎる構図。
盧山攻撃で、75ミリAAを使っていた。
南昌戦で、3年式HMG。
非装面で発煙している、貴重な写真。
四塩化砒素とアンモニアを筒口で混ぜあわせる発煙筒だという。
すばらしい一枚。「襄西方面における戦車隊の活躍」。
「402」と判る、89TK。車外に鉄帽×3個、吊るしている様子もハッキリ。
別に「361」号車も。ロングの写真をみると、車体に円い穴と三角の穴が開いており、丸い方はあきらかに弾痕とわかってしまうから、close up では修正してある。
97重爆に迫るイ-15。
※とにかくわたしが通っていた頃の三庚図書館は戦前写真の宝庫であった。
▼大東文化大学 東洋研究所ed.『昭和社会経済史料集成 第四巻 海軍資料(4)』S57
S12-8-24に、陸軍少将の喜多は、しゃんりくを評していわく。土嚢の築き方、甘い。弾を撃ちすぎる。兵数に比し、戦線過長。
日本のスローガン政策、経典的文句ばかりで、具体的行動の規律にならない。
1937-9-14の米政府の声明。日本への運搬を禁止されるものとして、.22口径以上の銃と銃身、サブマシンガン以上のMG、自動銃、砲、砲身。以上に用いる弾薬、薬莢、火薬。爆弾類、戦車、装甲車、装甲列車。航空機、航空機用エンジン。軍艦甲鈑。ケミカル〔おそらく4鉛化エチルのようなものが念頭〕。
上海には、日本の民間人が、3~4万人いた。
ニッケルは世界産額の88%を英帝国が占める。
▼『昭和社会経済史料集成 第五巻 海軍資料(5)』S58
S13-1-26、宣傅省(または宣伝院)の設置が検討された。ナチスを参考にして。
▼『昭和社会経済史料集成 第六巻 海軍資料(6)』S58
S13後半、宣伝院の検討は続いていた。
こっちから世界に宣伝しないとダメ。
ロイターは通州大虐殺や敵による黄河堤防破壊などは報道しない。
共同租界爆撃は支那軍のしわざなのに、それを日本の責任に帰した。
キャセイホテルや新世界迫撃の写真を載せ、それが日本のしわざのような印象を与えようとした。
英国は、ワヂリスタン、アラビア、タンガニカで、近年、無辜の非戦闘員を意図的に爆撃殺戮している。それを宣伝しなければ。※これはドイツからの入れ知恵。
S13-11-16、大島大使はゲーリングの談として、独から支那への飛行機輸出はゼロであること、しかしJu-86×20機の手付金は受け取っている、と。
▼『昭和社会経済史料集成 第七巻 海軍資料(7)』S59
S14前半時点で、南洋に出ている邦人のなかばは沖縄県人。
イタリアAAは、3インチ砲と、37.54ミリのブレダ連装砲の二段構え。
イタリア砲兵は、75ミリの野山砲と、100ミリの榴弾砲。
伊TKの火炎放射器はエチオピアで欠陥が分かり、その後、改正された(p.393)。
これはファアットの火炎放射戦車とは別。こっちは、エチオピア、スペインで、心理的に成功。
フィアットBR2Oは、1936から製作され、1トン半爆弾×1個を搭載(p.395)。
以上は、S14-4-24のH.W.ボールドウィンの記事を海軍省が訳した。
ソ連のLTKは装甲20ミリあったが、スペインで抗弾力不足。鉄の質がよくない。
ソ連軍が馬に頼る比率は、ポーランドについで高い。馬格は、大戦前のロシアより悪い。
イ-16はボーイングの戦闘機そのままだという。
エンジンは、ニーム・ローヌか、ライト・サイクロン。
イ-17は、ハインケルか、イスパノ。
イ-15は、ライト・サイクロン。
米はソ連に対し、ヴァルティー戦闘機、コンソリ飛行艇、セバスキー戦闘機、マーチン爆撃機のライセンスを与えた。
航本による、今後5ヶ年の整備計画。※日付不明。
S18年度までに150番爆弾を官で4983発、民で1560発。
80番爆弾を官で6701発、民で1400発。
25番爆弾を官で2万発、民で21256発。
6番爆弾を官では造らず、民で87843発。
※徹甲爆弾はすべて官で造る。制式陸用爆弾は主として民間工場に任せる。
▼『昭和社会経済史料集成 第八巻 海軍資料(8)』S59
パリ砲のことは、パリゼナー・カノネンという。
シーリーは、パネー号撃沈を見て、中国人も、白人何物ぞという感情をもつようになった、といっている。
▼池田諭『代表的明治人』S43
松蔭は、天朝も幕府もわが藩もいらぬ、と言った。
乃木は、学習院で生徒から反発されているときに、劣っていると思っていた英仏国民の規律、風紀、克己心が日本人より上だと痛感したはずだ。
乃木神社1号は、愛知県豊明村。ついで東京、京都、山口、栃木に。
初任のとき、周囲は「せいぜい中尉」と見ていたのに、いきなり少佐だったから、皆驚いた。松蔭直系(玉木)の親類という配慮があった。
寺内、児玉は、箱館戦争に従軍しているのに、少尉である。※児玉は初任が下士官のはず。寺内が箱館まで来たという話は他資料で裏づけられない。
村田三介は、乃木と同じM4に少佐になったが、歳は4つ上だった。
※ともかく、初任で少佐などという長州閥の異常な贔屓が、逆に乃木の人生を不幸にしてしまったのである。
岩国からは、長谷川好通が、やはり初任少佐になった。戊辰戦争で小隊長を務めている。
22日の戦闘では、河原林ふくめ戦死は3名のみ。23日に22人死んでいるのに比べて、激戦ではない。しかも月明あり。
乃木は、切腹できない自分を発見し、敵の弾に当たろうとし、断食しようとし、情け無いので大酒した。
※さらに病気にもなろうとしたのだろう。
福澤は『学問のすすめ』の中で、討ち死にや赤穂浪士の切腹よりも、正しい道理を唱えて政治に迫って生命を捨てた者こそ世界中に対して恥ずることのない人だと説いた。
M3~M6の農民一揆は、部落解放反対や、徴兵拒否も要求していた。
秩父事件の鎮定には乃木の1Dも参加した。
川上は、M4に中尉、M10に少佐、M17に大佐である。
桂は、文民で留独し、M7に大尉。
デュフェー一家を通じて独情を観察した。
M20新設の監軍部(のちの教育総監部)の参謀長に乃木を就けず、第二旅団長とした人事。乃木としては不本意。ただし桂が次官だから仕方ない。監軍部の総監は山県、参謀長は児玉、川上は参本の次長だった。
※不満がさんざん綴られているので、M21日記は欠落しているのか。
M23-7に東京の第二旅団長から名古屋の第五旅団長にされたのは、あきらかに左遷。だが、乃木伝記の多くは、それを指摘しない。
M24-10-25、名古屋大地震のとき、3D長の桂は、独断で市民のために軍を動かし、あとで進退伺いを出した。
松蔭は24歳で朝鮮、満州、支那を切り従えると言ったが、29歳以後、航海通商で西洋列強に対す、と意見を変えた。
桂、川上に追い抜かれたと言っても、彼らもとより乃木より年上。
日清戦争当時、旅順は10万人で半年囲まなければ陥ちぬ、といわれていた。
乃木旅団は、聯隊レベルでの独断により、よく任を全うした。ドイツ式の鑑。
台湾出陣中、乃木は部下に略奪をさせず、評価が高まった。
児玉は台湾総督になると、官吏数百人を馘首した。
日清役で実際に旅順を陥落させたのは長谷川好通と西寛二郎であり、日露役での3A長には、乃木よりもむしろ西が妥当だった。
伊知地は、参本の第一作戦部長として、事実上の、対露作戦計画を立案した。
7月14日に、後備歩兵第1旅団が到着。ついで9Dの後備歩兵第4旅団も。
クロパトキンは、「3年間はどんなにしても落ちない」と豪語していた(p.158)。
海軍の協力を謝絶したのは、満州総軍参謀の井口省吾少将である。
スコットランドの農家は、日本の農家より衛生的だと観察。
著者いわく、日露戦争後の乃木は、学習院院長ではなく、やはり教育総監になりたかっただろう、と。
生徒との間に結びつきがあり、教育も成功していたなら、それをうっちゃって自決はできないはずだ。
松蔭は、江戸送りになるときに、弟子の松洞に、肖像を描かせた。
乃木いわく。人は歳をとると、小学校教師の名しか想い出せない。理由は、中学以上の教師が、いいかげんなやつらばかりだからだ、と。
乃木いわく。家族同士の交通には、害あって益なし。
▼来原慶助『黒木軍百話』M38-10
第一軍の体験したこと。
北韓の道の悪さは、想像以上だった。歩兵が単独で歩くのすら困難を覚えた。
融氷で、にわかに、泥が水飴状になる。
天気が好いと、表面だけ皮のように乾くが、コンニャクの上を歩く心地。
自転車はどうかとも試した。自転車ごと荷物となる区間の方が長かった。
1石を積載できる輜重車に、各4~5人の補助輸卒を附せざるを得ない。
雨天や悪路では、積荷を8斗に減ずるも、1日に2~3里しか進めぬ。
1個師団×1日分の糧秣を、1日行程(6里)運ぶに4000人を必要とした。韓人夫は1叺[かます](=2斗入)を負担するが、1日以上は運ばぬ。また、雨が降っていたり、降りそうなときも、仕事をしない。
韓人を「よぼ」という。
鉄山半島の水路に辿り着くまでが最悪であった。満州より酷い。
大同江は、15石積の韓船(10人で漕ぐ)で「順川」まで遡行ができる。
清川[しんせん]江は、安州まで、200石積みの帆前船で遡行できる。
朝たに越客を送り夕べに呉客を迎へる、彼ら辮髪民族。
「天の時は地の利に若かず、地の利は人の和に若かず」、千古格言と思った。
7月下旬の遼陽街道にあった敵は、数個の軽気球を飛揚した。
福島安正少将の次男、次郎・歩兵中尉は8月30日、途家溝で受傷、陣没。26歳。
「黒英台」では「爆弾戦」をやった。9月1日。
ロシア軍は、逃げるときも壊乱はせず、1~2里うしろで一団となって後衛を収容する。それを繰り返す。
しかも、末尾には予備隊も用意しておくから、追撃しようがない。
▼大石常松『陸軍人事剖判――陸軍士官が将軍になるまで』S5-2
この時点でいちばん若い少将でも47歳。
人は時代をつくらず時代が人を生む。必要なだけの人物は、時代の要求によってつくりだされる。
寧ろ人物なきを以て、天下太平の瑞兆とみなすべし。
日本の労働運動家にえらぶつが出ないのも、日本の労働事情は英国ほど酷くはないからである。
実役停年。
少尉1年。中尉2年。大尉4年。少佐~大佐・各2年。少将3年。中将4年。
大佐から下は、歩・騎・砲・工・航空・輜重・憲兵に兵科が分かれている。
兵科により所帯規模が異なる。小さい所帯では、やはり出世は遅くなる。
加藤高明は30代で英国大使、40前後で外相。小村また40代外相だったことを考えると、50代でさへ若いといわれる今の時代は、進歩でなく退歩。※やはりそれも時代の要請さ。
海軍では、省部でなく艦隊勤務ばかりのおちこぼれをデッキオフィサーという。
日独戦には、第18師団と、第29旅団(静岡)だけ出征。
シベリア出兵は、第3、5、7、11、12、13、14、16師団の計8コDを出した。
上原元帥を除けば現役中第一の読書家は、渡辺錠太郎中将(航空部長)。かつて山県にも仕えている。
※2.26で殺された。
上原はモーパッサンまで読むけれども、渡辺や、山梨半造は、兵書のみだ。
工兵は、聯隊編制ではなく、大隊制。
歩兵師団は総計17個ある。
歩兵旅団は計32個ある。
山本権兵衛の長女は財部に嫁いだ。おかげで財部の秀才に傷がついた。
次女は山路一善がもらっている。ボンクラだが中将にまで昇進した。
三女は川崎造船所取締役の山本盛正へ。
四女は上村彦之亟の息子へ。
五女は日本電気工業の松方乙彦(正義の子)へ。
松井石根は「支那閥」の親分で、第二部支那課 直系。
これに対するのが、第二部欧米課の、英米班出身者。
▼『昭和四年 陸軍特別大演習 並 地方行幸 水戸市記録』S6-8
11月15日撮影、「水戸防空監視哨」。市役所構内。
3角錐、山形鋼、避雷針まで30m前後。頂上のハウス部分はガラス窓付き。
防空演習は、前年来、大阪、名古屋等の大都市を中心に行ってきた。
これが、特別大演習の項目に入ったのは、今回からである。
▼林直人ed.『満蒙事変大写真帖』S6-12 ※三庚図書館蔵。
曲射歩兵砲+テッパチという写真。
HMGはまだ三年式。
鹵獲兵器の写真。未見のもの。
開脚スペード付きのプトー砲の如きもの。
2輪付きの迫撃砲。
2輪付きの重迫撃砲。
※いずれも珍。
油崗子西方討伐の獨立守備司令官。※森中将か。
ここで1兵が伏姿でベルクマンの垂直マガジン型を構えている。その背には30連直線マガジン×4個が入っている革ケースあり。
「満洲派遣の準備を整へる世田谷自動車隊」
※超珍。例の初代ソリッド・トラックあり。ボンネットは前開きにも横タタミにもできることが分かる。
士官学校支那留学生 陸軍省へ軍刀返上に押寄す。
※考えさせられる一枚。インパクト強い。
「支那兵匪馬賊を討伐する装甲列車上の戦闘」。
銃床付きのモーゼル拳銃を構えている。
当時、支那側のポスターで「鮮人」と書かれていた。悪役である。
日本人は「倭奴」か「日人」であった。
▼安川隆吉&大竹末吉『戦記名著集 第六巻 血烟 剣と筆』S4-11
安川は陸軍中尉。初版はM44-11。大竹は特務曹長。初版はM45-5。
M34の志願兵は、1年で軍曹となって出られる。翌年、3ヵ月の勤務演習で曹長となり、且つ、見習士官となる。それから将校試験。
M37-2-16の話。義兄で鹿沼の人が、宇都宮~東京市の銃砲店を片端から隅々尋ねて廻ったが、どうしても精巧[きよう]なものはないので、やっと横浜の金丸[かなまる]で見つけてきた、と「自動十連銃の最新式拳銃[ピストル]」を革付ではなむけにくれた(pp.89-90)。
以下、剣と筆。
日清戦争を体験している後備兵の方が乱暴で、上官に抵抗し、酒狂で暴れ、殺伐を極めていた。
予は小十字鍬でコツ\/と気長に岩を穿って……(p.360)。
二〇三高地では、酷寒のために髯が凍って、触るるとポリポリ折れる。
▼浅田常三郎『国を守る科学』高山書院 S16-12-20pub.
著者は大阪帝大教授、理学博士。※彼の下に八木らがいた。
最近数年間に為した放送や、通俗講演の原稿をまとめたもの。
核分裂動力の話。U235 を集める。
赤血球を破壊する周波数(450Kサイクル以上)を水中に応用し、敵潜水艦の乗員を貧血にさせるという話。
超音波で赤血球破壊……これは、大阪帝大の産業科学研究所における、雄山博士および医学部の笠原・巽 両博士 その他の研究だと。
熱線探知技術について。
エレクトロンとは、マグネシウムに少量のアルミと亜鉛を混ぜ、機械的に丈夫で錆びなくしたもの。この合金で殻を作り、中にテルミットを充填したのが、エレクトロン焼夷弾。
日本の現用の訓練用の焼夷筒には、1瓩、2瓩、5瓩、10瓩の4種あり。稀に25kgまで使われる。
2瓩のものだと、800グラムのエレクトロン円筒内に、1200グラムのテルミットが入っている。
テルミットとは、米粒くらいの大きさの酸化鉄とアルミ粉末を、目方で3:1に混合、圧搾してから、水硝子・糊のようなもので固めるのである。
この酸化鉄は、圧延工場の廃品を利用する。
テルミットは、火薬利用の着火剤でないと燃え出さないが、いったんアルミに火がつくと、酸化鉄の酸素を取って高温となり、2000℃の熔けた鉄となる。
水や砂をかけても酸素が内側から供給されているのでムダ。延焼を防ぎ、自然鎮火を待つしかない。
濡れ筵の2枚掛けは有効。飛び散らなくなるので。
強力なポンプ注水で冷やすことに成功すれば、消える。
黄燐は必ず二硫化炭素に溶かせて糊状になっている。
アルカリで皮膚を洗わないと、燐酸が毒。
米国では、BB『アラバマ』に、黄燐爆弾を落としてみる実験をしている。
焼夷カードとは、英国製で、2インチ(6~10cm)角のセルロイド二枚の中に、綿火薬と黄燐を詰めてあり、水に浸して投下。水が乾くと、自然発火するのである。
初の焼夷弾は、1914-10にドイツが使った黄燐爆弾で、兵站基地を焼いた。
1918に独はエレクトロン焼夷弾を実用化し、木造家屋に対して使った。
英の焼夷カードは、1940-9初めに、独に対して使用されている。
エレクトロンは、湿気があった方が、発火点が低くなる。
テルミットは密着していなければ鉄板に穴をあけられない。5ミリの砂遮断層で、鉄板は無被害に。
阪大理学部で、焼夷弾の消火実験をやっていた。
サイクロトロンの話。
湯川の話。
浅田は若いときに長岡半太郎から、水銀灯をやれと言われて以来、18年間、その研究をしている。
昭和火工(株)が2kgエレクトロン焼夷筒のメーカー。
外径8センチ、高さ22センチ、肉厚1ミリ、全2050グラム、エレクトロン826グラム。
エレクトロンは最大95%まで充填できる。
その実験をS15-9-21~25に実施した。(財)塩見理化学研究所災害科学研究所と合同で。