疫病による士気低下を憂慮したペリクレスは紀元前430年、大規模な海上機動攻勢に討って出た。座して自滅するよりマシだったからである。

  Walker D. Mills 記者による2020-7-28記事「The Cod Wars and Today: Lessons from an Almost War」。
    1958年春、できはじめたUNCLOSを承けて、アイスランドは自国領海を12海里まで拡大すると発表した。これは同海面でタラのトロール漁を続けていた英国漁船を狙い打ちにした措置だった。

 その数年前から、アイスランドは3浬幅だった領海を4浬にすると発表して、英国と揉め始めていた。「先・タラ戦争」と称される。

 英国は歴史的に15世紀からアイスランド沿岸まで出漁していた。
 加工業者、流通網もあわせて、英国議会への漁業系利権の影響力は大きかった。

 アイスランドには海軍がなかった。沿岸警備隊は7隻の小型船にすぎず、各1門の大砲があったのみ。それぞれ100トンもない。これでどうやって「領海12カイリ」を英国に強制できるか? 英国海軍は母港から2日航程で、当該漁場に殺到できるのだ。

 1958-9、第一次タラ戦争が始まった。
 アイスランドのコーストガードによる英トローラーへの臨検と没収が始まったのだ。
 対抗して英海軍はゾーンを宣言し、フリゲートと駆逐艦によって漁船を護衛し始めた。
 9-2には、同じ漁船にアイスランドの沿岸警備隊員と英海軍水兵の両方が乗り込む事態に。

 アイスランドは後に引く気はなかった。漁場のタラ漁獲量は3年連続で15%ずつ減少していた。おびただしい英国トロール漁船が資源を涸渇させつつあったからだ。

 2年半後、英政府は不本意ながら、アイスランドの12海里海面を尊重することにした。

 だがその10年後の1972-9、こんどはアイスランドは、12海里をさらに50海里まで拡張すると言い始めた。第二次タラ戦争の始まりだ。

 漁場では、アイスランド公船による威嚇発砲、そして英国軍艦や徴傭タグボートとのラミング等が続発した。
 アイスランド公船は、トローラーの網を切断する装備を持ち出してきた。捕鯨銛のような物体をライン付きで射出し、それをたぐりよせることによって、銛先の「カエシ」の裏側の刃部で網を破ってしまうという仕掛けであった〔写真を見たくば Icelandic net cutter で画像検索せよ〕。

 さらにアイスランド政府は、もし英国が譲歩しないならアイスランドはNATOを脱退し、駐留している米軍にも出て行って貰う、と言い出した。この脅しが効いた。

 グリーンランドと英本土の中間に浮かぶアイスランドが、ソ連の同盟国に転ずるかもしれない。そうなったらソ連原潜は大西洋へ出放題なのだ。

 1975-11に、アイスランドは「第三次タラ戦争」を開始した。こんどは、同国の領海は200海里である、と言い出した。英国とは一時的に「国交断絶」状態にも入っている。

 有名な、アイスランド公船が英国フリゲートの艦尾に意図的に衝突している動画は、1976-3に撮影されたものだ。
 このたびも、1976年に英国が譲歩して、アイスランドの200海里内での英国漁船の操業規制を呑んだ。

 英海軍は3区画の軍艦護衛海面を設定して、その中でトロール漁をさせたが、そのような狭い限定海面からは、漁民が望むような水揚げは決して得られるものではなかった。

 次。
Shilo Brooks 記者による2020-3-14記事「Why Did the Wright Brothers Succeed When Others Failed?」。
     ライト兄弟はどちらも大学に行ってなかった。「ライト・フライヤー」を製作するのにかかった費用は1000ドル未満。今日の価値で2万8000ドルである。この資金は、本業の自転車の製造販売で得たものだった。
 本拠地はオハイオ州のデイトン。田舎である。

 「ライト・フライヤー」は初飛行こそ852フィートだったが、ちょっと改造したら連続40マイル飛べるようにもなった。

 おなじ頃、大学教授であり、スミソニアン博物館長であったサミュエル・ラングレーは、米国防省からの資金も得て、7万ドル(今日の200万ドル相当)の「エアロドーム」を設計・製作。初飛行に臨んだが、すぐにポトマック川に突っ込んだ。

 じつはライト兄弟はじつはとても恵まれていたのである。
 牧師であったオヤジのミルトンが、兄弟の知識への探求欲を、助長したのだ。このミルトンの読書好きの生活態度がなかったならば、「ライト・フライヤー」は生まれもしなかったろう。

 そして母親のスーザンが、大卒だった。彼女は子供のおもちゃを自分で製作したという。
 一家の本棚にはあらゆるジャンルの書籍が充実していた。

 両親は兄弟に、読書によってじぶんでじぶんを教育しろ、と促した。
 兄弟は、それがおもしろいと思って「飛行」に挑んだのである。

 20歳代後半になってウィルバーは、鳥の解剖学や動物の運動についての書籍を読むようになった。
 飛行機の制御に必要な三軸操舵を考案するためだった。鳥の羽を模倣して、翼面をねじる方式が選ばれた。

 ウィルバーはスミソニアンから、ラングレーおよびオクターヴ・シャヌートの著した空力学のパンフレットを取り寄せ、ノースカロライナで実験を開始した。
 すぐに兄弟は気がついた。スミソニアンの気圧表は、信用ができないと。

 そこで彼らは独自に風洞をこしらえ、じぶんたちで必要なデータを取り直したのである。
 オーヴィルいわく、これらはまったく、楽しみのためにやってたのだと。

 飛行機のための小型で強力なエンジンをこしらえてくれる職人もみつからなかったから、兄弟は、自転車ショップの手代の助けを借り、じぶんたちでエンジンも製作した。

 プロペラ形状についての兄弟間の討論は深更におよんだ。真実に到達したいという欲望だけが2人を動かしていた。