旧資料備忘摘録 2020-7-30 Up

▼大達[おおだち]茂雄伝記刊行会『追想の大達茂雄』S31-11
 講和条約ができ、追放が解けて参議院議員になり、文相を引き受けた。

 昭和天皇は、大達の読み方を「おおだて」と間違えていた(p.5)。
 大達は天皇のことを「天子さま」と呼ぶ。
 徳川夢声とは同郷の石州。

 歴代の文部大臣でこんなに正面から堂々の喧嘩腰で日教組と対した人はいない。
 41歳までに4回結婚している。41歳で福井県知事に転出したとき、5年在勤の若い女中を夫人に昇格させたのが四度目。内務省中びっくりした。

 S18に東京が都になり、初の都長官になった大達は、蒲田の一旋盤工が書いた『世紀の警鐘』という秘密出版物を読んで感心した。それは映画のシナリオとして書かれたもので、米機の爆撃で富士山の形が変わり、日本が惨めに敗北し、米人の占領治下におかれ、自由を奪われるが、そこここの山中に日の丸部隊というゲリラが蔟生して、日本の再興を図る。最後に、これは夢だった、夢でよかったと書いてある。おそらくこの書物を大達は、高松宮に差し上げた。

 小磯内閣は東條時代から一変して国民に明朗な気分を与えたが、締まりの無いところもあって、ある時期からはは一刻も早い退陣が願われた。大達もそう考えていた。

 大達は演説が下手。
 大物すぎて、衆議院の陣笠にはなれない。だから参議院。緒方が推輓して文相に。

 読書家ではない。パール・バックの『大地』は読んでいた。

 巣鴨同人の古野伊之助いわく。S18頃、都長官あてに知らない男が小説体の原稿を送ってきた。敵国軍隊占領下の国民の苦悶を様々に描き、大暴風雨の夜に乗じ、ひそかに集まった人々が、あらしの中で「君が代」を三唱四唱するシーンで終わる。大達が調べさせたところ、作者は大森あたりに住む大工で無学の男ということであった。しかしそのような作者IDは腑に落ちない。
 おそらく、大達自身があれを書いていたのではないか(pp.24-5)。
 それを古野に見せ、意見を求めたのではなかったか。

 大達が都長官のとき、サイパンの陥落の前、東條政権ではダメだと確信したから、それについて上奏を企てた。まず高松宮に相談したが、それは筋違い上奏なのでダメだといわれた。木戸内相に相談すると、親任官だから拝謁を願い出る権限はあるのだが、現下の情勢上、とりつぐことはできない、と却下された。

 内務省には「防空課」があった。
「防空局」には「指導課」があり、そこで民間防空を策定した。

 寿命を縮めたのは、選挙と国会対策だろう。喫煙+飲酒で胃癌。

 S17秋、昭南軍政監部は、シンガポールの道路標識も新聞も英字をすべて禁止するという通牒を出した。軍政顧問と称する者たち、軍政要員として内地の各省から選抜されて派遣された数多くの者が参画していて、反対をした者が一人もいないというていたらく。けっきょく大達市長ひとりが反対して撤回させた。

▼青木一男『聖山随想』S34-1
 長野の寒村から長野中学、そして一高へ。大学正門前の喫茶店にさそわれ、シュークリームという菓子を初めて食べて胃痙攣を起こし二、三日入院した。同級の近衛はいつまでもこの話を宴席のネタにした。

 寮で消灯後も勉強するためには蝋燭をつかう。蝋勉という。
 公職追放されていても、弁護士登録は可能だった。S23。

 大内兵衛が大蔵省の上司だった。
 WWI中に米国内を旅行したが、排日侮日が酷かった。S30の現在、かえって対日感情は著しく好転している。

 英国にはギニーという変な通貨単位があった。1ポンド1シリングと等価。それは、下宿代や洋服代の単位であった。
 WWI中の英国はむしろ侮米であった。対日感情は良かった。唯一の例外が『マンチェスター・ガーディアン』紙。日本の綿糸が商売を脅かしていたので、排日論だった。

 ベルサイユ条約でドイツは、1600トン以上の商船をすべて賠償に差出し、1000トン以上の商船の半分も差し出す。戦前世界第二位の商船隊が解体された。
 各国の被害に応じて分配された。このとき青木が指名して日本にひきとった4隻の中に、後の『大洋丸』と『吉野丸』あり。どちらもWWIIで沈められた。

 ケインズの条約批判の書『The economic Consequences of the Peace』は、飛ぶように売れていた。
 上部シレジアは石炭宝庫だったが、住民投票の結果を無視してポーランド領とされたので、ドイツの支払い能力がいちじるしく減殺された。

 S29-2-20の参議院本会議で質問に名をかりて演説したこと。防衛力はショーウインドーのガラスのようなもの。誰でも割ることはできるが、それでも抑止力になっている。「国土の防衛は憲法以前から存する国民の義務であって、世界の憲法でこれを規定していないのは日本国憲法でけである。しかし国土防衛と徴兵制度とは別問題であり、われわれも徴兵の制度は採るべきでないと考えている。しかるに反対論者が憲法を改正すれば徴兵制度に戻るごとく説いているのは、民心に媚びようとする悪意の宣伝である」(pp.81-2)。

 もし憲法中に第九条のような条文を入れておくと、それでその国の平和が保障されるならば、そんな安上りの平和策はないから、どこの国でも真似をしそうなものであるが、そんな国は一国もなく、莫大な国防費をつかって国の安全をはかっているのである(p.92)。

 第九条は幣原が発案したのだろうか?

 疑いの根拠は、S26-5-5アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会におけるマック証言。
 三日間の最終段階。マクマホン議員が「元帥、われわれがすべての事柄を解決するような方式を見出せる希望をあなたはお持ちですか」と質問。
 マック答えていわく。「それは戦争の放棄です。そしてわれわれがこの基本問題に早く取組めば取組むほどその問題を解決することは困難ではありません。《中略》彼らは自分の意見でその憲法の中に戦争放棄の条項を書きこみました。首相が私のところに来て『私は長い間考えた末、信ずるに至りました』といいました。彼はきわめて賢明な老人でした。最近亡くなりましたが、《中略》。私は彼に、彼が世界から嘲笑されるということは実際あり得るといいました。《中略》しかし私は彼を元気づけました。そして日本人はその条項を憲法の中に書き入れたのです。《中略》何世紀もの間戦争に勝ち、戦いを追及[ママ]してきた戦闘的な一民族がありました。しかし原子爆弾が彼らに教えた偉大な考え、偉大な教訓は理解されました。」

 青木いわく。この証言では次の点に注目すべきだ。「第一は歴史的事実の証言として最も大切な会話の日時が省かれていることである。
 幣原首相の秘書官だった岸倉松が、S31-5-7参議院内閣委員会(委員長=青木)で参考人として陳述したところでは、マック司令部が憲法原案を日本政府に交付した以前、幣原首相がマックと会見したのはS21-1-24の一回限りである。そして幣原は当日そんな重大発言をしたことを岸秘書官にも話していない。

 第二は、マック証言によれば幣原首相は「私は、今われわれが起草中の憲法にこのような条項を挿入するよう努力する」と述べたことになっている。しかし1-24に起草中の憲法といえば、松本国務大臣の起草中のものだろう。そこには立派に軍備をもつことが規定してあった。

 したがってわれわれの憲法中に戦争放棄を挿入するというのは、司令部の原案を政府が受諾した以後のことでなければ辻褄が合わないのである(p.95)。

 憲法第九条の起源についてマッカーサー司令部が本国政府に提出した公式の報告書である「日本の政治的再編成」(ポリティカル・リオリエンテーション・オブ・ジャパン)中には、こうある。

 いわく。S21-2-1に総司令部に提出された松本蒸治委員会案を、マックは、承認すべきでないとして、ホイットニー准将に、日本政府に提示すべき憲法草案を作成させた。そのさいマックみずからペンをとって三つの項目を示し、これらを必ず草案に入れろと指示した。第一は天皇制のこと。第三が華族制度や封建制度の廃止。そして第二が、「国家の主権的権利として戦争を放棄する。日本は国家間の紛争解決のための手段としての戦争及び自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。日本はその防衛と保護を今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。いかなる日本陸海軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。」

 この第二項はその後、総司令部で細部が練られて、2-13に日本政府に提示されたときには差異が生じているのだが、要するにGHQの公式報告書が、第九条の発案者はまさしくマックだったと物語っているのである。

 幣原が死の直前のS26-4に公刊した『外交五十年』。
 これなど、「司令部から押し付けられた憲法原案を受諾した責任者である総理として(平素の平和主義の理念の裏付もあって)強く新憲法を擁護した言説」としか解し得ない。
 憲法原案が司令部で作成されたことなど、S26時点ではとっくに公知なのに、それを極力否認しているのが、幣原の同書の陳述の信憑性に暗影を投じているではないか。

 もし幣原が《その通り。新憲法はほとんどGHQの作文だが、あの九条だけは俺が入れさせたのだ》とでも主張したなら、むしろ日本人は幣原を疑わなかっただろう。

 S29-7-7に自由党憲法調査会(青木が副会長)の総会が首相官邸で開かれ、松本蒸治博士に経緯を聴取した。松本博士は質問に答え、「私が書いた小さい説明書(注、軍備を含む松本私案)を出すときには幣原さんはもちろん賛成して出せというので出しておる。その時にそういう考え〔軍備全廃、自衛権放棄〕を持たれる道理はないですね」。

 松本私案では、軍の統帥は内閣及国務大臣の輔弼を以てのみ行わるるものとせんとす。
 軍の編成及常備兵額は、法律をもって之を定むべきものとせんとす。

 この要綱と説明書を司令部に出す(2-8)については幣原首相も異議なく同意された。2-8時点で、陸海軍を廃止する考えなど幣原さんになかったことは疑いない――と松本。

 2-13に外相官邸で、吉田外相、松本国務大臣に、ホイットニーが会見し、マックの言い分を申し渡した。松本案は承認できない。ここに司令部から改正原案を提示する。この案は米本国も連合国極東委員会も承認する。これがなければ天皇の身体の保障をすることができない、と。

 芦田は、マッカーサー司令部の情報部員であったワイズの1954著書『東京の颱風』にあるとおり、憲法草案に織り込まれた基本原則は、マックの創意ではなく、アメリカ国務省と国防総省の合意の決定によるものだろうとしている。

 マックはわが国では神様扱いをされたけれども本国では化けの皮が剥げている。第九条についてもユートピア的であるとか子供らしい夢物語であるとか米国新聞が批判していたのだ。

 トルーマンに罷免されて帰国したからのマックは、そのうえさらに九条押し付けの責任を追及されてはかなわないから、責任を幣原に転嫁しようとして嘘証言をしたのだろう(p.109)。

 ホイットニーは、司令部在任中も、退官後も、マックと一心同体の人である。その証言に独自の価値なし。
 しかも嘘つきである。『ライフ』誌にこんな話を載せている。S21-1-2正午に幣原が、病気治療用のペニシリンをもらった礼にきて、マックと2時間半も会談した。そこで憲法の話が出て、幣原はぜひとも戦争否定と軍備廃止の条項を入れなければならないという信念を披瀝したので、元帥は思わず立ち上がってこの老人の手を握り締めたと。これについて岸倉松は参議院の内閣委員会で社会党からの確認質問に答えて、幣原は前年12-25から病床につき、1-2にはまだ病が重いときなので、司令部にでかけるはずなどないと、ホイットニーが法螺吹きにすぎないことを証言。

 大正13年の思い出。漢口からさらに長沙まで行った。
 さらに江西省の炭坑を視察した。優良な粘結炭だった。この炭坑の人たちによると、ほど遠くない瑞金というところに、工人会という不穏分子の本拠があり、地方の治安が脅かされているとのことだった。この工人会こそは中共の前身なのだった。

 大正10年春から、外為政策の事務を担当して、ひとつの商売哲理を発見した。大資本を擁して一定目的に投資し、永いこと眠っていれば、必ずもうかるということ。

 勝田蔵相のとき、高田商会の破綻をすくうため預金部の資金を500万円融通させようとしたが、国庫課の青木がひとりで反対して潰した。
 新規事業の育成や、預金者の救済のためなら、国策として正義があろう。しかし一輸入業者の救済などダメだ。
 これに対して海軍省が、高田商会はスウェーデンから低燐銑を輸入して海軍に納めているので潰しては困ると訴えてきた。青木いわく、高田商会の手を通らないと輸入ができないことを証明せよと。
 これについて海軍の回答のないうちに、内閣が更迭した。

 従来の預金部融資も、中間機関である日本興業銀行や横浜正金の申出に基づいて実行されていた。高田についてはそのような中間機関からの申出がなかった。
 省議決定もなかったので、これは大蔵省が約束を破ったことにならぬ。
 浜口にいわれて、資金の運用を規定する法律案を青木が考え、大14-2の国会にかけた。その審議中に高田は倒産した。

 預金部資金は、郵便貯金の累増に伴って逐年増加し、S12-9には5億円を超え、S15-11には100億円を超えた。S15の一般会計の歳出が50億円余。同年度内の臨時軍事費特別会計の歳出をあわせて103億円。それに匹敵するのだから驚くべし。

 青木の生まれ育った村には、戦国時代の烽火台の跡がいくつもあった(p.136)。

 戦時中、馬匹改良の統制法が施行され、一定の体長に達しない牡馬はすべて去勢することになった。

 シナには、渇に臨んで井を掘る=「臨渇掘井」という言い回しがある。

 S32に台湾を視察した。青木はもと大東亜大臣だから感無量だった。高雄に陸揚げされた原油をその郊外の精油所で精製し、6インチの油送管で台中、台北、基隆まで送っていた。総督府時代の道路に沿って。日本にはこのようなパイプラインはひとつもなかった。

 井上が金解禁するとき、青木が文字通り片腕となって手伝った。
 S6-10中旬、本庄司令官は立派な人だが、奥の院に祭りこまれているという感じを受けた。
 日ならずして、関東軍の実験は板垣高級参謀&石原中佐のコンビが掌握しているのだとわかった。

 軍部は満州国を金本位制にして日本と同じくしようとしたが、大蔵省から見ればそれは非現実的で、シナ本土と同じ銀本位制でなければうまくいくはずがない。

 今井武夫参謀は、青木の長野中学の後輩。

 関東大震災のとき、夜になると本郷台のすぐ下の小石川砲兵工廠が燃え出し、爆音の連続。
 大蔵省も、夕刻、南隣の内務省の火を貰って類焼。

 とうじ、東京市内に、本店銀号が138行もあった。それだけ弱小銀行が多かった。

 巣鴨からは大達の方が先に出た。「岸君は私を稽古台としてだいぶ〔囲碁の〕腕を上げたようであった」。
 S23-12-24朝、何の予告もなく、釈放された。3年と12日ぶりに帰宅して家族を驚かした。

 千倉書房から出した『金解禁』という小冊子は、全文、青木が書いたものだった。

 マラヤ連邦の共産匪は、戦時中、イギリスが援助した支那人の抗日ゲリラだったが、戦後、イギリス政府が彼らを重用しなかったので抗英軍に変身していた。

 セイロンでは卵を女中が茹でてくれない。生きているからというので。

 インドネシアの石油は、戦中のパレンバンから、戦後は中部スマトラに主産地が移った。年800万トン。
 華僑が中共を助けるのは、じぶんたちを保護してくれる強力な祖国が欲しいから。イデオロギーは関係ない。
 インドネシアには戦前は炭焼きがなかった。日本占領時代に石川という人がそれを教えたのだと。

 林というもと陸軍軍人は、ビルマから退却中マラリアで人事不省におちいっていたのをタイの老婆に助けられ、その養子となった。僧侶になり出世していたが、最近(S32-12から見て)、三井銀行に採用された。

 S32時点で、東南アジアの道路よりも日本本土の道路の方が、酷すぎる。

 M30に貨幣法を制定したとき、金二分が、1円になったのである。
 S3の外国為替管理法も、青木が立案した。「この法律はわが国における真の意味の経済統制法の嚆矢である」。米穀法はもっと古いが、あれは真の経済統制ではない。
 S13の国家総動員法は敗戦で消えうせたが、外為法は残されている。内容は変わったが。
 外為法は「両罰主義」。下手人個人も罰するが、所属する法人にも罰金を課す。事前に司法省を同意させるのに苦心した。

 高橋是清は人事に興味がなく、さっぱり人の名前を覚えない人だった。部下局長の名も全員分は記憶していなかった。青木は国庫課長のとき、局長と勘違いされて困った。
 人の名を覚えない人は、政党の首領としての適格性を欠く。

 帝人事件のときは、革手錠が自白強要の道具になった。
 もしこれほどの軽率無思慮な司法暴走がM30頃に起きていたら、世界列国は治外法権を手放すことを無期延期したであろう。

 歴史に徴するに、職司その人を得ざるは、国家衰亡の基である。