旧資料備忘摘録 2020-8-23 Up

▼佐藤堅司『孫子の思想史的研究』S55 原書房
 ※初版は風間書房からS37

 オクスフォードで『孫子』に関する学位論文を作成中の、元米軍将校のグリフィス氏が、「孫子の兵法は唐代に日本に伝来したという証拠があるかどうか」その他、5、6の質問を寄せてきた。S33-5月のこと。

 孫子はBC506以前に書かれている。ツキディデスのペロポネソス戦史よりも80年くらい前と考えられる。
 ジャイルズ(1931)は、兵者国之大事 の兵を the art of war と誤訳した。

 左伝や、先秦の文献には、孫子はまったく出てこない。
 左伝にないから実在でない、と疑う人もいる。
 杜牧が言うには、もともと数十万言の書が伝わっていたのを、魏帝が13篇に削ったのだと(p.14 quot.)。※なんという眼力。まさにその通りだと思う。ただし、単に削ったのではない。曹操は、伝わっていた字句表現に満足せず、それを詩人流に加工して、インパクトを強めたのである。しかも、自分が作者であることは隠した。
 左伝では、伍子胥の名が高く、軍師「武」の名は蔭に隠れたのだろう。この説を、小説家の海音寺も採る。

 斉思和の疑問は、作戦篇の「馳車千駟……」とか、用間篇の「……師十万」とかが春秋期にしては過大なこと。さらにまた、「覇王」「分数・形名」「五行」などは春秋時代にはない用語の筈だと。

 桜田家「古文孫子」は吉備真備が将来したものだと(p.24)。※佐藤氏の大ポカが、「桜田本」に入れ込んでしまったこと。

 ウィルヘルム2世は敗戦後に孫子を読み、20年前に読むべきだと言った(p.31)。※んなわけない。

 氏長の『士鑑用法』(1646)は、孫子の要点を「治内・治外・応変」と解釈しなおす。
 素行は、五事の第二の「天」を、「陰陽は陰陽家の説、……」と解いてしまった。『孫子諺義』で。
 素行の『諺義』は、「分衆」を、ぶんどり品の分け与え、と解いた。
 『作戦要務令』は、小国が大国に勝った例ばかりが思想的ベースになっていた。

 正々堂々とした敵軍を迎撃してはならない理由を佐藤は訓練に見出そうとする(p.145)。※そうではなく、それを見た味方の徴兵が、心理的に逃げ腰になってしまうのを予防せねばならないのである。

 素行は「行軍」は敵地内の移動のことだと解釈する。※正しい。
 「作戦」は、戦争を起こすことである(p.217)。
 闘戦経は呉子を褒める。

 せっかくシナから招来された『孫子』『六韜』『三略』は秘事とされて、一部公家や有力武家の家宝になってしまい、陰陽道の『訓[きん]閲集』のみが、大江維時の力で流布してしまった(pp.238-9)。

 1606に家康が木活版で『武経七書』を刊行させる。羅山はそれらに、簡単な字句註をしたのみである。
 しかし羅山の『孫子諺解』こそは、本朝の孫子研究のはじめなのだ。
 ただし学問的に参照できる研究の創始者としては、小幡景憲とせねばならない。

 氏長は古文孫子の最初の研究者の一人で、素行と双璧といわれたが、素行は古文を見てない(p.258)。※古文孫子なるものはフェイクである。佐藤はそれに気づけなかった。日本の研究がシナの水準より高いと主張したいために。

 著作開始は氏長の方が早い。
 素行は「兵=士」とする氏長の見解を若いときは受け入れていたが、晩年、改める。
 江戸期以降の「孫子」の訳は450版以上もある。
 体系的に構造を分析したのは、素行が、和漢を通じて初(p.269)。

 素行は氏長の「孫子外傅」を読んでいない。
 香西成資は、素行と比べれば、たいしたことはない。
 長沼澹斎は用間を軽んず。
 徂徠も大系を看破していない。また、陰陽をオカルトとみる誤りもしている。
 徂徠の【金今】[けん]録 は、戦争術の大著。『孫子國字解』より後の著作。
 詭道に重点を置き過ぎるのが徂徠風。

 白石は徂徠より10歳年長だが、孫子の註釈ではむしろ遅れている。『孫武兵法択(副言)』は1722である。
 白石と松蔭は、孫子の全文を暗記していた。
 白石も陰陽をオカルトに解する。
 管子が孫子の源だと白石が最初に主張した。
 白石は孫武に「子」をつけない(p.338)。※うやまわず、さげすんだということ。

 以下は江戸時代の前半の孫子研究。
 松宮観山(1686~1780)は、陰陽を天候と見た。
 徳田【たけかんむりに邑】興(1738~1804)は、合理主義者で、陰陽を天候だと見破った。
 徳田は、めずらしく、火攻篇を高く評価した。それを「鉄炮」と読み替える意図から。

 阿片戦争のニュースは、ナポレオン以後の西洋兵学を習わねばという気運を醸成させた。
 『象山全集』巻5に、勝麟太郎への手紙が載っている。《さてまたご所蔵兵書のうち、オランダ人も宜しき品と申しおりそうろうカラウセウヰツの遺書、ご恵贈をこうむり、まことに望外の義、感銘これ劇しく存じたてまつりそうろう》。
 これはE.H.B.Brouwer の1846オランダ訳 であった。

 象山は、「動於九天上」の表現をあげつらい、孫子は空言だとけなしている(p.392)。
 山鹿流は「一方つかぬ教」の精神。松蔭もこれ。
 松蔭は戟を復活させようとした(p.408)。※洋書の影響だろう。
 松蔭が最も信頼したのは、けっきょく、白兵だった。

 作戦要務令は、日清戦争からWWIまでの教訓を反映している。
 北條氏長の「孫子外傅」の全文を附録す。
 竹簡には、九変篇と軍争篇が「今文」の形になっている。

▼王 武通『弭兵古義』
 WWI後の軍縮ムードを背景にした出版。
 易経からはじまって、反戦の句を集めている。
 特に左伝からの陰陽は、松蔭と対照的。
 春秋穀梁傅も引く。

▼Hans Delbruck著、棚瀬襄爾・抄訳『社会民主主義の起源と本質』S14、原1924
 アテネ、スパルタ、マケドニアのような立派な政体下では階級闘争は起こったことはなく、むしろ、ミレット、アルゴス、メガラの如き未開のとるにたらぬ社会でこそ、激しかった――と、マルクスに反駁する。

 むしろ世界史は身分闘争史である。
 ※デルブリュックは、階級=財産と定義していた。

▼北村佳逸『孔子教の戦争理論』S10
 ※どうもジャイルズなど英語圏人が書いた孔子や三略等の解説書をネタ本にしてまとめているようだ。レベルは低い。

 孔子は周末の諸侯が手盛りのタイトルを名乗り僭称するのをにくんだので、『春秋』では、周から正当に与えられた爵位に変換した肩書きをあえて冠している(p.182)。

▼飽善淳・著、増田英次・訳『漢文をどう読みこなすか』1986
 止、之 は字源が同じで、往くの意。
 「おおざと」は、たいてい、地名に付く。

 古代に唇歯音〔f〕なし。b か p のみ。
 古文中の「支」は、ふせぎとめる の意味で、サポートの意味はない。
 保険 は、要害の地を頼みにすること。

 無慮 は、すべておおよそ。
 洋 が海の意味で使われるのは宋代以後。
 春秋時代の「字」には文字の意味はない。こどもを扶養するの意。

 古代の燭は、枯草のたいまつである。
 昔の歩 は、今の2歩。
 名詞の前の数詞は動詞。
 降 は、こっちが降服するのか、むこうを降参させるのか、きまりがなく、どちらにも読める。

 席捲とは むしろをまくの意で、包囲ではない。
 古文には主語としての三人称代名詞はない。「彼」は指示としてしか使えない。
 「草を結ぶ」。左伝にあり。戦場で死んだ亡霊が味方してくれて、敵が転んでしまう。

 我と吾は、交互に使う。同じ一人称が重なるのが格好悪いので。
 幾は nearly である。よって「幾十万」は「十万に近い」。
 「隠然」に隠れた、の意なし。

 貫、彎、ともに「ゆみをひく」の意味あり。
 前漢の人はすでに周秦の本が読めなかった。だから漢代から「注書」が残されるようになる。
 事 には、軍事征伐の意味もある。
 シナで古文といえば、春秋・戦国の文をいう。

▼平凡社『後漢書』
 周瑜・呂蒙伝の原注には、孫権が「孫子、六韜を読め」と言ったと。
 三國演義は、三国志の裴注にすべてを取材している(p.439)。

▼『漢文訓読の基礎』
 時ニ  やれるときにはいつでも。
 伐 には proud の意味も。
 方[まさ]に は、今。 将に は、未来。
 策 には書物の意味もある。
 識 は、記憶である。
 乎 は、連体止めのときは「か」と読むが、終止形に使うならば「や」と読む。
 縮[なほ]……直とおなじ。
 川上 は、かわのほとり である。

 退けよ  ……もっていけ。
 燃える、燃やす の原字は、然。
 北斉書 元景安伝 「大丈夫は、寧ろ玉砕す可きも、瓦全する能は不[ざ]れ」。
 韓非子の「行人」は、兵士のこと。
 叙任官をあらわす字は、すべて、受け身によむ。

 微[な]かりせば
 城 は、都市をあらわす。
 驂 は「しん」と読む。旧軍が「さん」と読ませていたのは、おかしい。
 稲が花をつけることを「秀」という。

 六尺は「りくせき」と読み、15歳以下の子を意味する。
 積弩 は淮南子に出る。昔の楚の武器として。
 隋との国交以前は、呉音が主だった。推古朝以降に、北方の漢音が入って来た。
 難[くる]しむ。
 「多少」にすくない意味はない。おおい。

▼野口定雄tr.『史記』 平凡社 中国古典文学大系 S41
 周本紀に、千夫長、百夫長、戈、干[たて]、の名が見える。
 武器をさかしまにして、とは、案ずるに、長柄の方を手前にして、「合」のまねごとをしてみせ、7合くらいでひきさがる、出来試合をしたのだろう。両軍とも隊伍の保持がしっかりしていたなら、それで猛追を受けて殺戮されることにもならない。

 簡公の6年にはじめて官吏に帯剣させた。

 孝武本紀。神事を語るあやしげな方士は、燕や齊の海浜国に多い。
 尚書は、西周以前の史録で、日付けがない。
 春秋は、日付けがある。
 詩経は、殷・周の世のことを述べている。書経は、唐・虞の頃のこと。

 史官の董孤が正史を守った話。それを孔子が褒める(429)。
 舟の中が、斬り払った指だらけになる(p.430)。
 景公16年、晋の教官が呉に戦車戦闘法を教えた。対楚用に(p.431)。

 呉にとって越こそは腹中の疾病。それにくらべれば、齊は、いわば皮膚病のようなもの。
 越軍は呉を3年も包囲した。

 財をバラ撒かせる工作の役を、苦労人に命じてやらせると、失敗する(p.470)。
 趙は、指揮官がすぐれていたのではなく、兵卒の素質がすぐれていた。

 田単列伝。車軸を金属でつつんでオフロードに強くした。
 ※この列伝への太史公評言はまったく孫子のコピー。

 秦はただ敵の首を斬ることのみをたっとぶ国です。
 策 には「馬のむち」の意味もある。

 刺客列伝。頭蓋に漆を塗って酒器にしたのは晋のころの趙の卿。※これはスキタイの文化だ。
 【广に臾】で「ゆ」と読み、野天のこめぐら の意味である。

 背水の策を成功させるために、いったん、旗を捨てていつわり逃げた。
 匈奴列伝によると、月の満ちかけに応じて、攻めるか退くかを決めた。

 天子が去病に、孫子・呉子の兵法を教えようとしたが、彼はそれを辞退し、無用と言った。
 元狩4年には、鉄の甲冑の武装兵隊あり。

 平津侯・主父列伝。司馬法の名が出る。「兵法」として孫子の用間篇が出る。甲冑にシラミがわく。
 東越列伝。力のかぎり戦い、勝てなければ、海上に逃亡すればよい。

 徐福のエピソード。頬髯を剃り落とすのもれっきとした刑罰であった。
 酷吏列伝。東群の彌僕が鋸で人の首をひいたり……。

 大宛列伝。匈奴が頭骨を飲酒器にすること。シリア、ローマ、インド経由で四川の品を入手した話。葡萄とうまごやしの輸入。大宛遠征軍の兵卒・軍夫は、ほとんど犯罪人。

▼Hans Rothfels著、新庄定雅tr.『クラウゼヴィッツ論』1982
 初稿は1918、初版は1920という。
 Politik und Krieg を論じている。
 1801秋、ベルリン一般士官学校に入学したが、授業についていけなかった。
 ルイ14世じだいのルーボワが、略奪補給を、推進補給に改めた。

 18世紀の戦略目的は、隣接した州県をちょっと併合しようかというぐらいに自粛。
 防禦が有利になるとする思想は、人道主義観念と一致し、歓迎された。

 ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューローは、Operations line, Operations basis =策源(とうじは要塞と糧秣部隊のこと)という術語と、敵の居場所で90度以上の角度で交叉する挟撃だけが正しいという理論を広めた(創ったのではない)。

 シャルンホルスト。けっして集中した陣形をとるな。しかし打撃を加えるときは常に集中せよ。
 クラウゼヴィッツのいう「精神的」とは、moralischen のこと。
 ビューローは、敗者の意気阻喪を無視しようとした。

 クラウゼヴィッツは、無目的に闘争し続けたように思われていた三十年戦争に、初期著作の題材を求めた。
 ※なぜ長引いたかについて定論がなかった。キッシンジャーはその修士論文で、ドイツを舞台に長期戦になるようにしむけたのは当時のフランスの名宰相の策略で、あえてカトリックにも同情をしないで、徹底的にドイツが荒廃してしまうように誘導し、それによってフランスの地位がドイツから脅かされる未来を先延ばしさせたのだと示唆する。米大統領も、人道主義など棄てて、有力敵国に対してはそのようにふるまわなければならない、というわけ。

 「摩擦」は初期には、司令部内の人間関係の軋轢を念頭している(p.105)。
 ロシア語を解しないがゆえに、クラウゼヴィッツは傍観者としてロシアの戦争指導を眺めることになった。
 クラウゼヴィッツは、士官学校の校長になったが、教務には一切、関わることができなかった。
 ローマの支配に言論統制はなかった。ナポレオンはそれをやった。

 弱者は……じぶんたちの弱点に限って、それを認めない。それによって暴政の手伝いをするのだ。

▼オットー・ヒンツェ、他著『クラウゼヴィッツ研究論文選』
 ケッセルいわく。クラウゼヴィッツは、あるときは「政治」を国家全体の意味で用いる。しかし次には、ある時点のある状況における具体的な政治的目的として用いる。

 1806年中にクラウゼヴィッツは摩擦 Fliktion に言及していない。
 「絶対戦争」観念の萌芽は1804年。それは摩擦のあるところでは成立せぬ、と。

 「限定された目的を最初から最大可能の軍事力動員をもって追求し、可能な限り迅速に戦争を片付けてしまうことが望ましくかつ合目的」(p.188)。 

 訳注。ロートフェルスの解釈。限定された戦争とは、占領対象土地と撃滅対象部隊のみの限定。時間はぎゃくに無制限にして、敵を疲弊させたがよい。
 クラウゼヴィッツは、絶対戦争でなぜ敵部隊の撃滅が必要としたか。土地をぜんぶ占領しても、戦闘が終わらぬから。

 訳注。ドイツ理想主義哲学は、単一至上概念しか許さないが、クラウゼヴィッツは現実を見てそれから脱し理想戦術と現実戦術とを併記した。

▼『近藤記念海事財団講演第二輯』大14
 加茂正雄による欧米視察談。
 本年春、ハワイで米国海軍の大演習がある。
 米国人は、日本人の感情に対して現在、きのどくなほど、気がねをしている。

 山崎馨一・総領事による、布哇事情。
 ホノルルに3年いるが、夏は東京よりすごしやすい。
 富士山より高い山が2つあり、一年中雪がある。
 人口30万のうち12万5000人が日系である。
 1907紳士協定で、労働者は行けなくなった。昨年の移民法で、写真結婚の妻もいけなくなった。

 太平洋の大圏コースは冬の気象が大変で、難破と隣り合わせである。だからホノルルの価値がある。破損した商船は、ここに寄るしかないのだ。ホノルルで、石炭、食糧、水の供給も受けられる。
 日本から南米へ行く場合も、必ずホノルルに寄港する。バンクーバーから豪州へ向かう船でも、同様。

 ハワイには排日はない。土地に関する制限もない。日本人でも自由に土地を買うことができる。

▼松岡正男『赤裸々に視た琉球の現状』大阪毎日新聞社 大15
 壮丁の体格は沖縄県が最も劣等。栄養が悪いのだ。青年からそのまま老人になる。壮年がない。
 かつて那覇港は、南洋の商品を日本、朝鮮、支那に分与する中継点だった。
 いま、鹿児島からは3日に1便、大阪からは月5便の直通定期船が来る。

▼工業会ed.『明治工業史 土木篇』S4
 那覇港は、狭隘な水道を経て、面積五十余万坪の鹹湖に通じている。その水道部がそのまま港。その面積はわずかに4万坪。
 付近に珊瑚礁が点在するため、航海も困難。
 北西風は40mに達することあり、これが危険。

 M40~大8の修築第一期工事では、150トンの船を碇繋できるように、暗礁を除去し、浚渫し、長さ125間の片桟橋を架設し、護岸をほどこした。
 浚渫面積4万坪。港内全部において、干潮時の推進を20~22尺とした。

 大8からの第二期工事。那覇港に明治初年から投じたカネは2448000円。比較すると、高雄には27517000円、大連には28950900円、横浜には27408300円(復旧費を除く)。

 明治政府は、陸上の築城に関しては、例外的に、外国人に頼らなかった(pp.846-8)。
 横須賀が軍港に選ばれたのは、ツーロンに似ていたから。
 M4完成の「第一船渠」は、わがくに最初のドライドック。

 M36に廃止された港湾調査会が、M39-6月に復活。
 国において経営すべき第一種重要港湾として、横浜、神戸、関門海峡、敦賀がえらばれた。
 関係地方が修築するが国庫から補助する第二種港湾として、東京港、大阪港、塩釜港、四日市港、鹿児島港、長崎港、境港、新潟港、船川港、青森港を指定。
 爾余はすべて地方の独立経営に委ねることに。